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時間選好 ~なぜ計画を実行できないのか

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時間選好 ~なぜ計画を実行できないのか
時間選好
~なぜ計画を実行できないのか~
玉田康成研究会 13 期
行動経済学パート
池田 悠樹
秋山 司
秋山 楓
大内 あすみ
伊藤 詩音
石山 澪
Marius Harnischfeger
2
目次
はじめに
p5
1 章 標準理論経済学と行動経済学
p7-11
1.1 標準理論経済学
1.2 ホモ・エコノミカス
1.3 行動経済学
1.4 標準理論経済学と行動経済学で異なる結果が得られる例
1.5
時間的非整合性
p12-16
2章 割引効用モデル
2.1 割引効用モデル以前
2.1.1 John Rea と蓄財の欲求
2.1.2 異なる2つのアプローチ
2.1.3 Böhm-Bawerk とトレードオフ
2.1.4
2.2
Irving Fisher と無差別曲線の分析
Samuelson と割引効用モデル
3 章 割引効用モデルの特徴
p17-20
3.1 新たな計画と既存の計画の統合
3.2 効用の独立性
3.3 消費の独立性
3.4 瞬間的効用の不変
3.5 固定割引
3.6 一定割引
3.7 消費と割引の独立
3.8 限界効用の低減と時間選好
4 章 現実社会の心理的効果
p21-25
4.1 マグニチュード効果
4.2 心理会計
4.3 符号効果
4.4 フレーミング効果
3
4.5 改善を好む傾向
p26-35
5章 双曲割引
5.1
双曲割引とそのほかの関数の比較
5.2
時間的非整合性のメカニズム
5.3 なぜ双曲割引が起こるのか
5.4 双曲割引が意味すること
5.5 先延ばしの原理
5.6 モデルを用いた分析
p36-37
6章 アンケートを用いた考察
6.1 アンケートの内容と意図
6.2 アンケートの結果
p38-46
7章 時間選好を利用したマーケティング
7.1
コミットメント
7.2
選択アーキテクト
7.3
意志力を問わない金融商品
7.3.1
フィリピンの貯蓄戦略
7.3.2
貯蓄を自動化する
7.3.3
強制的選択と簡素化
7.4
代替報酬による販売戦略
おわりに
p47
参考文献
p48
4
はじめに
あなたは小学生や中学生の時、夏休みの宿題をちゃんと計画をもって終わらせることが
できていただろうか。夏休みの終わりになって初めて焦りながら宿題に手をつけた経験の
ある人も多いのではないだろうか。また、ダイエットの宣言をしたきりで、具体的にダイ
エットに取り掛からず目の前の食べ物をつい食べてしまい、なかなか痩せられない経験を
したことのある人も少なくないのではないか。このような行動は誰にでもあるもので、当
初立てた計画を実行できないことの一例にすぎない。このように、人間の行動はその時々
の社会的、心理的状況によって変化してしまい、それが過去の自分の行動と矛盾してしま
うことも珍しくない。
しかしこの現象は、標準理論の経済学世界では起こりえない。というより、説明できな
いのである。従来の経済学では、人間は合理的かつ整合的であることを前提としているた
め、初めに立てた計画は自分にとって最適なものであるはずなのである。それを放棄する
ことは、理論経済学の大原則である効用最大化の放棄と言い換えることができ、このよう
な不合理な行動はそもそも考えられていない。
だがしかし、私たちの生活の中ではこのような計画の放棄、延期は多々行われており、
夏休みの課題をぎりぎりに焦って終わらせる人や、一向に痩せない人がいるのが現状であ
る。このような現状を分析したうえで、これらの計画の放棄や延期を回避するようななん
らかの工夫や解決策を与えることができるなら、初めに立てた計画を心にゆとりをもって
実行し、その人にとって最善である計画を完遂し、理想の結果をもたらすことができるは
ずだ。
そこで人間の心理的な要素を取り入れた行動経済学を用いて、なぜ計画を完遂すること
ができず、過去と現在とで自己矛盾的な行動に陥るのかというメカニズムを検証すること
によって、まず計画を実行出来なくなってしまう心理的、社会的原因を突き止め、そのよ
うな原因に干渉しいい方向に修正できるような仕組みを整えることで、自己矛盾的な行動
を減らすことができるのではないかと私たちは考え、この論文を書くに至った。
本文の流れとしては、まず標準理論経済学と行動経済学の違いについておおまかに触れ
たあと、割引効用モデルという考え方が生まれてくるまでの歴史を紹介してその特徴につ
いて議論する。しかし、割引効用モデルでは説明のつかない多くのアノマリーが存在する
ため、これらを説明するために双曲割引の概念を導入しアンケートを用いて実際の人間の
選好とどれだけ近似しているのか検証していく。最後にこの論文のメインである、人間の
5
持つ双曲割引的性質を利用したコミットメントについて、現在実際に行われている例を紹
介しながら議論していきたいと思う。
6
1. 標準理論経済学と行動経済学
1.1 標準理論経済学
行動経済学での分析を始める前に、まず伝統的な標準理論経済学について説明したいと
思う。簡潔にいうと、理論経済学とは政府や企業、消費者といった各経済主体の行動を、
需要や供給等の側面から数式を用いて分析していく学問であり、主に企業の利潤最大化や
消費者の効用最大化を目的とする。その際、経済主体の心理的要素を考慮することはなく、
理論経済学では次に説明するホモ・エコノミカス(経済人)が前提となっている。
具体的な例を挙げてみようと思う。
第 1 財の価格が 200 円、第 2 財の価格が 150 円とする。消費者 A が第 1 財を𝑥1 単
1
1
位、第 2 財を𝑥2 単位消費したときの効用関数は𝑢𝐴 = 𝑥1𝐴 2 𝑥2𝐴 2 であり、消費者 B が同
1
1
様に消費した場合の効用関数は𝑢𝐵 = 𝑥1𝐵 3 𝑥2𝐵 3 である。消費者 A、B の所得が各 2000
円であるとき、2 人の消費者の効用を最大化するような消費量をそれぞれ求めよ。
これはミクロ経済学の基本的な問題の一つである。この問題を考えるとき消費者の心理
的な要因は考慮されておらず、消費者 A、B は常に問題に示された効用関数を最大化するよ
うな合理的な消費を行う。
1.2 ホモ・エコノミカス
ホモ・エコノミカスとは利己的、合理的に自身の効用を最大化することを目的とする人
間像であり、
『超合理的』
、
『超利己的』
、『超整合的』という大きく3つの特徴をもとに行動
する主体である。
超合理的とは利用可能な情報を駆使して、自らの効用を最大化するような行動を選択す
ることであり、超利己的とは行動を決定する際に自分の利得のみを考えるということであ
る。この2つの特徴は、実際の人間の場合においてもしばしば当てはまることである。それ
にたいして、超整合的は一度決めた行動を将来においても覆さないことを意味し、これは、
日々直面する状況に影響されながら選択をする人間とは大きく異なる点である。
7
1.3 行動経済学
前述のように伝統的な理論経済学はホモ・エコノミカスを前提としているが、現実の世
界ではホモ・エコノミカスと言える人はまずいないであろう。今までに経済学を学んだこ
とのある人は、計算して得られた結果と、現実に起こっている現象との間に大きな乖離を
感じたことがある人も少なくないはずである。これは、理論経済学がホモ・エコノミクス
を前提としていることから生じている。
もちろん、簡易的なモデルを使って分析することは様々な要因が複雑に影響を及ぼしあ
っている現実の社会経済を分析するのに非常に役に立つため、理論経済学は重要なもので
あるが、本論文では、より現実に即した結果を得ることが出来るように人間が持つ心理的
な要因を取り入れた行動経済学を扱いたいと思う。
行動経済学とは、2002 年ダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞して以来注目
を浴びている比較的新しい学問である。また、従来の理論経済学のようなホモ・エコノミ
カスを前提とするのではなく心理的、社会的要因に影響を受ける人間を前提とした経済学
である。実際の人間による実験やその観察を重視し、人間がどのように選択・行動し、そ
の結果どのような結果が得られるかを究明するのが目的である。
1.4 標準理論経済学と行動経済学で異なる結果が得られる例
≪独裁者ゲーム≫
M 円の分配に関する 2 人 1 段階ゲームを考える。プレイヤー1 は M 円のうち X 円をプレ
イヤー2 に与える。この時、プレイヤー2 はプレイヤー1 の提案に対する拒否権はない。プ
レイヤー1 の利得は M-X 円、2 の利得は X 円である。
このゲームの部分ゲーム完全均衡は、プレイヤー1 がプレイヤー2 に一切現金を分配しな
いことになり、このゲームにおいても、ホモ・エコノミカスの場合は、この部分ゲーム完
全均衡と一致するような結果が生じる。実際の人間の場合では、統計上、プレイヤー1の
提案が M 円の約 50%になることがしられていて、これはプレイヤー2 への同情もしくは多
くもらうことへの罪悪感からくるものだろう。
X 円提案
プレイヤー1
M円
8
(M-X,X)
≪最後通牒ゲーム≫
M 円の分配に関する 2 人 2 段階ゲーム。まず、 プレイヤー1 は M 円のうち X 円をプレ
イヤー2 に与えることを提案する。 次に、プレイヤー2 はプレイヤー1 の提案を受諾するか
否かを選ぶ。 受諾したとき、1 の利得は M-X 円、2 の利得は X 円である。拒否したとき、
2 人の利得はともに 0 円である。
このゲームの部分ゲーム完全均衡では、プレイヤー1 が 0 円 (または, ほぼ 0 に近い金額)
をプレイヤー2 に与えることを提案し、プレイヤー2 がその提案を受諾する.エコノの場合は、
部分ゲーム完全均衡と一致するような結果を生むが、ヒューマンの場合、統計上、1 の提案
が M 円の 30%以下なら、2 は拒否する可能性が高いということがわかっている。
承認
(M-X,X)
拒否
(0,0)
プレイヤー2
プレイヤー1
M円
X 円提案
≪寄付・ボランティア≫
超利己的な性質を持つホモ・エコノミカスは、財の獲得手段である貨幣を無償で寄付し
たり、ボランティアを行ったりすることはない。なぜなら、貨幣を寄付することは理論経
済学上効用を生むことはなく、寄付にあてた貨幣を財・サービスの購入にあてた方が自身
の効用を増加させることができるためである。またボランティアにおいても、これは悪く
言えばタダ働きであり、ボランティアをするより正規の労働に時間を費やすことで収入を
得ることが効用の最大化に繋がる。
しかし実際には東日本大震災発生時には 75%の人が寄付をした事実があり、2012 年の段
階で推計億円にも及ぶ。これは被災した人々への同情や、あるいは寄付しないことに対す
る周囲の反感の懸念など様々な心理的要因の影響だろう。
9
出所:日本経済新聞 2012 年 10 月 25 日
1.5 時間的非整合性
行動経済学の知見については後々必要に応じてその都度紹介していこうと思うが、ここ
では本論文のテーマである時間的非整合性の概念を紹介し、問題意識を明確にしていこう
と思う。
私たちは日々様々な選択をしているが、常にその選択が一貫しているとは限らない。例
えば、あなたはダイエットをしようと決意し、食事制限を行うとする。決意した当初は“○
か月後までに△kg 痩せる”といった目標のためにデザートやおやつ等の誘惑に負けまいと
思っている。しかし、いざ家の外へ出てみると、パンケーキ屋さんから漂う匂いに誘われ
てつい食べてしまったことがある人もいるだろう。これは、ダイエットをするという選択
とパンケーキを食べるという選択に矛盾が生じており、人間の一貫性が保たれていない選
択の好例となる。夏休みの宿題が当初の計画通りに進まず、結局最終日に泣きながら延々
と宿題に取り組んだ私たちの思い出もこれに当てはまる。
これらの例のように時間の経過によって人々の選好に変化が起こってしまうことを時
間的非整合性という。
基本的には時間という概念を経済学に導入した場合、それはマクロ経済学となる。マク
ロ経済学をはじめとする標準理論経済学では相対所得仮説、恒常所得仮説、ライフサイク
ル仮説などを用いて消費と貯蓄の決定理論や経済成長理論を発展させ、これらの通時的な
問題を考えるうえで中心的な役割を果たしてきたのが後に紹介する Samuelson の割引効用
モデルであった。しかしこのモデルでは時間によって選好が変化しないことが前提となっ
ている。よって、上記のような選好が変化するという現象を説明することができない。で
はなぜこのような現象が起きてしまうのか、またそれについてどのような解決策があるの
10
かについて考え、それを提示していくのが私たちの課題である。
以下では、この現象が発生するメカニズムについて説明するために“双曲割引”という
概念を紹介していくが、その前に双曲割引に至るまでの歴史的経緯と、割引効用モデルが
現実的妥当性をもっていないことについて説明していこうと思う。
11
2.割引効用モデルの起源
2.1 割引効用モデル以前
割引効用モデルの起源を議論することから始めなければならない理由は、最近の行動経
済学の研究の多くは心理的要因や社会的要因を取り入れ、伝統的な標準的経済学を修正し
たものだからである。
異時点間の選択は、異なった期間に発生する費用と利益のトレードオフの選択と関係し
ている。たとえば、道路、学校、病院に投資すること、新しい工場を建てること、新しい
製品を作ること、新しい車を買うこと、休暇を過ごすこと、運動クラブに入ることなど、
政府、企業、そして個人は日々こうした選択に直面している。異時点間の選択の重要性に
ついて議論した最初の経済学者 Adam Smith であるが、異時点間の選択に心理的要因を本
質的に持ち込んだのは John Rea であった。
2.1.1 John Rea と蓄財の欲求
19 世紀初期、Rea は“蓄財への欲求”は貯蓄や投資といった社会的決定の重要な心理的
要因であると特定した。Rea はこの欲求を促進もしくは阻害する 4 つの心理的要因を発見
し、この要因の影響力の大きさは社会によって様々であるとした。2 つの促進要因は下記の
とおりである。
1.遺贈への意欲
子孫のために財産をためること。
2.自己抑制作用の傾向
これは、その決定がなされたときに起こりうる結果を予見する知的能力や、短期の
利益より長期の利益を優先する自制力が関わってくる。
そして 2 つの阻害要因は下記の通りである。
1.人生の不確実性
これは、残りの人生が長くないと思った場合、貯蓄をしたとしてもそれを使う前に
自分が死んでしまう可能性があるので、貯蓄をすることは無意味であるということ
を述べている。Rea はこれをこのようにまとめている。
『人は不健康で危険な職業に就くときや、人間にとって有害である気候に住んでいるとき
に比べ、安全な職業や健康な国にすむときの方がより倹約的になる。
』
12
2.今すぐ消費できる可能性によって増幅する即座に満足したい衝動
Rea はこれも次のようにうまく表現している。
『欲しいものが自分の目の前に現れた時、それは五感を刺激し、それを今消費したときに
得られる喜びを非常に鮮明に想像することができる。』
私たちが頭の中でイタリアンを食べたいと考える場合より、イタリアンレストランの前
でディスプレイあるいは匂いで視覚や嗅覚を刺激された場合の方がそれを食べたくなるこ
とは当然のことだろう。
2.1.2 異なる 2 つのアプローチ
その後、経済理論家たちは Rea の功績をもとに、時間選好に対して 2 つの異なるアプロ
ーチを発展させた。
1 つ目のアプローチは、Senior によって 1836 年に提唱されたものであり、怠慢というの
は、現在と将来の効用を同じように評価するが、満足を遅らせる苦痛が人々に将来の結果
より現在の結果を重視させるというものである。
2 つ目は、William Jevons と Herbert Jevons によって 19 世紀末に提唱された。このア
プローチでは、人々は一般的にその場の効用のみを考えているが、将来の効用は時に将来
に至るまでの苦痛を十二分に相殺し、満足を遅らせた方が、効用が高くなる場合もあると
し、1 つめとは反対のアプローチとなっている。
どちらのアプローチも現在の感情を重視し、異なった習慣を持つ人々の間の時間選好の
多様性を説明している。最初のアプローチによると、人々は満足を遅らせることによる苦
痛の大きさに違いがあるとし、第 2 のアプローチによると、時間選好の多様性は将来を予
測する能力に違いがあるため、生じているとしている。
2.1.3 Böhm-Bawerk とトレードオフ
Böhm-Bawerk は 1889 年に、
異時点間の選択についての議論を大きく発展させた。
彼と、
そして将来の欲望を低く見積もるという考えを導入した Pigou(1920)は、将来よりも現在を
重視するという時間選好の存在を強調した。この考えは将来の結果を割り引くことではな
く、代わりに、将来の結果の効用を低く見積もるのである。これは後の章でくわしく説明
する重要な特徴である。
Böhm-Bawerk はさらに、異時点間の選択に関する重要な概念を導入した。異時点間の選
択は、異なる時期の自身への資源の再分配と認識でき、これは現在様々ある財の中でどの
財にどれほどの財産を割り当てるかを考える場合と同じように考えることが出来る。
2.1.4 Irving Fisher と無差別曲線の分析
Irving Fisher は 1930 年に割引効用モデルの導入以前の議論について最後の発展をもた
らした。彼はこれまでの経済理論家の功績を体系立て、無差別曲線を使い Böhm-Bawerk
13
の理論を拡大させた。現在の消費量を縦軸にプロットし、将来(大抵は翌年)の消費量を
横軸にプロットした。現在と将来の消費量の間の限界代替率という概念も同様に用いられ
た。
Fisher は時間選好に影響を与える心理的要因についても詳細に議論した。彼は将来の効
用とリスクだけでなく、Rea によって記述された4つの要因や、将来の欲望を低く見積も
るという Böhm-Bawerk の考えについても考慮した。
ここで、異時点間の選択に関する理論の割引効用モデル以前の発展が、異なる心理的要
因を個別に考慮していたということを強調する必要がある。その理由は、これから議論す
る割引効用モデルがこれらの心理的要因を 1 つのパラメーターとしてまとめ、細かい考察
を排除しているためである。この捉え方の変化はこの章の残りで、詳細に議論する。
2.2 Samuelson と割引効用モデル
Samuelson は 1937 年に“効用の測定に関するノート”と名付けた短い記事で割引効用モデ
ルを導入した。このモデルによって、二期間の比較が限界であった Fisher の無差別曲線の
分析を多様な期間の比較にまで拡張した。しかし、上に書いたようにこれは時間選好に関
わるすべての心理的要因を割引率という一つのパラメーターに凝縮している。
モデルの性質は数学的にうまく記述できる。期間tから始まり期間Tまでつづくとしt期で
の消費量(𝑐𝑡 , 𝑐𝑡+1 , 𝑐𝑡+2 , ….)の異時点間の効用関数を𝑈 𝑡 (𝑐𝑡 , … … , 𝑐𝑇 )と記述する。このモデル
は、完備性、推移性、独立性を備えた標準理論経済の一般原理をふまえたものである。人々
の異時点間での効用関数は下記の関数の形で表すことが出来る。
𝑇−𝑡
𝑈 𝑡 (𝑐𝑡 , … … , 𝑐𝑇 )
𝐷(𝑘) = (1⁄1 + 𝜌)𝑘
= ∑ 𝐷(𝑘)𝑢(𝑐𝑡+𝑘 )
(1)
𝑘=0
u(𝑐𝑡+𝑘 )はその場での効用関数と解釈でき、t + k期に得られる幸福を意味する。D(k)は割
引率を表し、予期される将来の効用の割引の割合を意味している。よってρは、以前議論し
た時間選好に関わる様々な心理的要因を凝縮したものとなる。
ここで、後の三年にわたっての消費量が(20,20,20)である場合を考えてみる。参照
点や習慣形成といった行動経済学的な要因と矛盾するが、単純化のため同量の消費量から
は同等の効用が得られると仮定する。
このモデルは不連続で、効用はその期の間に継続的に得るのではなく、すべて各期のお
わりに得られると仮定する。これは非現実的かもしれないが、同じ期間における時間の経
過とそれによる割り引きを無視できるのでこのモデルの分析が容易になる。また、効用関
数は次数が負の指数関数の積分となるので、もし消費者が年に 10%将来の効用を割引く(つ
14
まり心理的要因ρ = 0.1)なら消費による現在の効用と効用の量は下記のように計算される。
𝑈 𝑡 (20,20,20) =
20
20
20
+
+
= 49.74
2
(1
(1
1 + 0.1
+ 0.1)
+ 0.1)3
(2)
この計算は割引効用モデルの重要な特徴を示している。人間は将来を割り引いて評価する。
例えば、今の1万円と1年後の1万円とでは、誰でも今の1万円の方が価値は高いと考えるだ
ろう。それでは、今の1万円と1年後の1万1000円ではどうだろうか。もしこの一つ一つに対
して同じ評価をするならば、この人は1年後を10%の割引率で評価している。実際、割引率
をrとすると、
10000 =
1
× 11000
1+𝑟
が成立するような割引率は r=0.1 であることから確認できる。割引率はその人の我慢強さ、
逆に読めばせっかちさを評価する指標である。例えば、r=0.3 の人は今の 1 万円と 1 年後
の 1 万 3000 円を等価値と評価するわけだから、r=0.1 の人よりも現在を評価する傾向が強
い、つまりせっかちと言えるだろう。従来の経済学は外部環境に変化が起きない限りは、
割引率がその人の中でずっと変化しないと想定してきた。すると、1 年後の 1 万円は
1
1
1
1+𝑟
×一
)2 ×1 万円、三年後一万円は( )3 ×1 万円と評価さ
1+𝑟
1+𝑟
1
れる。そしてt年後についてはは( )𝑡 ×1 万円となる。このような、指数的な計算によっ
1+𝑟
万円と評価され、二年後の一万円は(
て導かれる将来の割引を経済学では指数割引と呼んでおり、合理的経済人の描写の一つと
されている。
よって指数割引である割引効用モデルでは選好の逆転は説明できない。なぜなら、
𝑢(𝑥0 ) +
𝑢(𝑥1 )
𝑢(𝑥2 )
𝑢(𝑥14 )
𝑢(𝑥15 )
𝑢(𝑥16 )
𝑢(𝑥17 )
+
+⋯+
+
+
+
+⋯
2
14
15
16
1 + 𝑟 (1 + 𝑟)
(1 + 𝑟)
(1 + 𝑟)
(1 + 𝑟)
(1 + 𝑟)17
= 𝑢(𝑥0 ) +
𝑢(𝑥1 )
𝑢(𝑥2 )
𝑢(𝑥14 )
+
+ ⋯+
2
1 + 𝑟 (1 + 𝑟)
(1 + 𝑟)14
+
1
𝑢(𝑥16 )
𝑢(𝑥17 )
[𝑢(𝑥15 ) +
+
+ ⋯]
15
(1 + 𝑟)
1 + 𝑟 (1 + 𝑟)2
という関係が成立するので、現在の自分と 15 年後の自分を同一視することができるか
らである。そして、15 年過ぎたのちに現在の自分と同じ自分がいることを認識できる
ので、時間的な非整合性は起きない。
現在からの評価も、5 年後からの評価も、10 年後からの評価もすべて矛盾はなく、いま
最適と考えた計画はこれからもずっと最適であり続けることになる。よって挫折や後悔を
味わうこともない。つまり、最初の計画は時間を通じても整合的なものとなる。指数割引
のもとでは時間整合的な将来プランを立てることができるので、いざ実行という段階にな
って失敗することはない。
15
ここまで、割引効用モデルに至るまでの歴史を見てきたが、このモデルのもとでは人々
は時間整合的な選択や行動をするため、挫折や後悔を味わうことはない。しかし、現実の
人々はそのような経験を味わうことは多々あり、このモデルでは分析できない面が多い。
そこで次の章では、この割引効用モデルにおけるどういった特徴または前提が、現実との
違いを生み出しているのかを説明していこうと思う。
16
3 割引効用モデルの特徴と現実の乖離
ここからは割引効用モデルの特徴を一つ一つ述べたうえで、その特徴が現実的でない
ことを説明していこうと思う。
3.1 新たな計画と既存の計画の統合
人々が既存の計画に新たな計画を結びつけることで、新たな計画を評価するということ
は、標準理論経済学での多くの選択や決定において一般的な仮定である。
ある人が A(3年後の 15000 ドル得るために今 10000 ドル投資する)を試みた場合、こ
の計画がその人のすべての消費量に与える効果を考察しなければならない。もし今その人
物が(𝑐𝑡 , … … , 𝑐𝑇 )という消費量を持っていたとして、A を試みるならば、例えば(𝑐 ′ 𝑡 , … … , 𝑐 ′ 𝑇 )
のような新たな消費量を見積もらなければならない。𝑈 𝑡 (𝑐 ′ 𝑡 , … … , 𝑐 ′ 𝑇 ) > 𝑈 𝑡 (𝑐𝑡 , … … , 𝑐𝑇 )とな
るならば A は実行されるだろう。これは、幸福を最大にするために新しい計画を既存の計
画に統合するべきだという意味で、標準的な視点から見れば論理的に見えるかもしれない。
しかし私たちはすでに、行動経済学は人々の心理的要因に依存すると述べてきた。よっ
て人々は将来を見通した消費計画を実行しないかもしれず、新しい計画に直面したその都
度、それに変更することは出来ないかもしれないし、したがらないかもしれない。
3.2 効用の独立性
割引効用モデルでは、異時点間の選択に関わるのは、例えば等式(2)の値の 49.74 のよう
にすべての割り引かれた効用の単純な合計であるとした。
しかしこれは時間全体における効用の配分が異時点間の選択の関係している可能性を無
視している。例えば、人々は消費量を減らしていくより常に一定の消費量を保つ、もしく
は消費量を増加させていく方を好むかもしれないし、もしくは集中した消費より規則的に
分散した消費の方を好むかもしれない。
3.3 消費の独立性
割引効用モデルでは全ての期間の消費は、どの期間の消費からも独立していると仮定さ
れる。Frederick、Loewenstein そして O’Donoghue は次のように主張している。
消費の独立性は、たとえば“ある人の今晩におけるイタリア料理とタイ料理の間の選好は、
昨夜イタリア料理を食べたかどうかや、明日イタリア料理を食べる予定があるかどうかに
依存しない”ということを意味している。
17
しかし実際には連日同じものを食べることに関して嫌悪感を抱く人も少なくないだろう。
3.4 瞬間的効用の不変
一般的に割引効用モデルは時間を通じて瞬間的効用は一定であると仮定している。つま
り、同じ行動からは将来においても今と同じ効用を得るということである。例えば、行動 A
は三年後に 20 を得られそうだとすると、A の現在の効用(𝑢0 (𝐴)と表記する)は約 15 に割
り引かれる。
(10%の割引率)
しかし、
三年後の行動 A による効用𝑢3 (𝐴)は 20 のままである。
これは、人々の好みは時間を通して変化しないことを意味し、明らかに非現実的である。
人々は将来の好みを現在の好みと同じような程度にまで誇張しがちであるという事実は
Loewenstein,O’Donoghue,Rabin の3人によって 2003 年に projection bias と名付けられた。
よって、人々は今何かの音楽が好きならば、20 年後もそれが好きであると予測するかもし
れない。しかし、20 年後もはや彼らはその音楽を聞くにたえないと気づく場合もある。
3.5 固定割引
割引効用モデルでは人々は人生を通じて同じ割引率を用いると仮定している。しかし実
際は、割引率は年齢に応じて多様である。Mischel と Metzner(1962)は年齢とともに満足を
延期することの苦痛は減少する、つまり年を取っている人ほど割引率が低いということを
主張した。
しかし、割引と年齢の関係は複雑なもののように思われる。2004 年の Read and Read に
よる 19 歳から 89 歳までの反応を見る経験的な実験では、年を取った人、若い人、中年の
人の順により多く割り引いた。
(2004)同様な結果が Harison,Lau そして Williams によっ
て 2002 年に発見された。
3.6 一定割引
割引効用モデルはどの期間においても将来のすべての期間に同じ割引率を用いると仮定
している。これは数式としては、t期における割引関数が下記のように与えられることを意
味する。
D(k) = (1⁄1 + 𝜌)𝑘
期間あたりの一定の割引率ρは将来のすべての期間に適応される。この条件は時間に関して
一貫した選好を保証する。標準理論経済では一貫した時間選好は合理的とみなされ、一貫
していない時間選好はたいてい非合理的とみなされる。よって、割引効用モデルのこの特
徴はしばしば妥当とされる。
18
しかし、割引率は時間を通して一定ではなく、むしろ低下していくとする多くの経験的
根拠が存在する。一貫しない時間選好は広く観測されてきた。これについては次章で議論
する。
ここで一定の割引率は一貫した時間選好が存在することの十分条件ではないことにもふ
れておく。固定割引も必要になってくる。もし割引率が固定ではなかったら、t + 1期にはρと
は異なるが一定である割引関数
𝐷𝑡+𝑘 (𝑘) = (1⁄1 + 𝜌′ )
𝑘
(ρ ≠ 𝜌′ )
が観測される。例えば、上記で述べた Read and Read の研究で、人間は中年に突入すると
𝜌′ < 𝜌 となるとされている。
この条件では t 期にも t+1 期にも割引は一定となっているが、
時間の経過とともに割引率は変化している。
3.7 消費と割引の独立
割引効用モデルの別の仮定はすべての財やサービスは同じ割合で割り引かれるというこ
とである。この仮定なしでは割引率を一つのパラメーターへ減らすこと、もしくは一定の
時間選好をもつことができない。もしこの仮定がなければ “バナナ時間選好”や“休暇時間選
好”などのように消費の延期される財に応じて時間選好に名前付けをする必要があるだろう。
しかし実際のところ、異なった財やサービスは異なった割引率を持ち、財やサービスの
性質は異なって割り引かれる。例えば、Soman は 2004 年に認知される努力と認知される
価格は異なって割り引かれることを発見した。日曜大工製品は消費の際努力が必要であり、
将来のいつかに購入を計画している段階では消費の際の努力を考慮しないため、より魅力
的にうつるが、いざ購入が間近になると努力を現実的に考慮するためその魅力が薄れる。
3.8 限界効用逓減と現在を重視する時間選好
これらの特徴は割引効用モデルに不可欠なものではないが、実際ほとんどの異時点間の
選択の分析は両方の条件を前提としていて、実際、Fisher は彼の無差別曲線における分析
アプローチで両者の重要性を強調している。無差別曲線は一般的に限界効用の逓減もしく
は凸性を前提としている。この意味は、人々に後の時期まで消費を遅らせる場合があると
いうことである。例えば、わたしたちにたくさんの食べ物が分け与えられたとき、それを
消費するにしたがって限界効用は逓減してしまうので、その食事を一度に無理矢理食べる
より、いくらかを翌日に取っておく方がトータルの効用は大きくなるかもしれない。よっ
て、限界効用逓減の効果は現在を重視する時間選好の効果とは反対に作用する。
19
これらの特徴に共通するのは、割引効用モデルが現実的妥当性を持っていないというこ
とである。冒頭でも書いた通り、人間はホモ・エコノミカスと異なりさまざまな心理的要
因の影響を受け、行動や選択が変化する。そこで次の章では、どのような効果により人々
の選好が変化してしまうかを説明し、指数割引的な時間選好への批判を行おうと思う。
20
4 現実社会の心理的効果
行動経済学の研究が徐々に進むにつれて、単純な指数割引は実際にはうまく機能せず、現
実の人々の異時点間選択を説明できないことが分かってきた。特に、各個人が固有に持っ
ているとされてきた時間割引率が、選択の条件によって様々に変わることが経済実験やア
ンケートで観察されている。選択対象の価値の大きさや、価値が発生するまでの時間的な
長さといった選択の条件によって、時間割引率に偏りが生じている。その偏りは、単純な
指数割引では説明できないさまざまなバイアスを異時点間選択に与える。
以下では、そのようなバイアスを与える現実社会の心理的効果を見ていく。
4.1 マグニチュード効果
マグニチュード効果とは、選択対象の価値の大きさと時間割引率の関係における性質であ
る。多くの場合、金額が大きいほど時間割引率は低く少額なほど高くなることがアンケー
トや経済実験により明らかである。
例えば、2005 年に行った筆者たちのアンケート調査では一年後の1万円が平均 6.7%で割
り引かれるのに対し、100 万円の場合には平均 1.16%の時間割引率が観察されている。同
じように、カゴ大学の Richard H. Thaler がオレゴン大学の学生に対して今日受け取る
予定の金額が、15 ドル、250 ドル、3000 ドルであった場合にそれを一年待つように頼まれ
たときに請求する金利を尋ねたところ、各金額に応じて中央値でそれぞれ、139%、34%、
29%という時間割引率が報告されている。また、イスラエルの大学生 282 人を対象に行っ
た Uri Bentsuion らのアンケートでも、たとえば、40 ドルに対して 39.3%、5000 ドルに
対しては 20.3%の割引率が推定されている。
つまり、人々は将来の価値が小さければそれを待つのにせっかちになり大きな価値ほど忍
耐強くそれを待てる傾向があるといえる。少額であるほど高い時間割引で割り引かれると
いうこの傾向は「金額効果」などと呼ばれるが、お金以外の場合にも同様の効果がみられ
るので、マグニチュード効果という。
確かに、私たちの日常生活を振り返ってみればこうした現象がみられることがある。少額
のお金を借りるのに気前よく高い金利を約束する傾向は、クレジットカードのキャッシン
グや消費者の金融の現場でよくみられる。ちょっとした「借り」ができたときに、昼ご飯
をごちそうするなどの過分の「お返し」をするのもその例である。
21
4.2 心理会計
行動経済学で「心理会計」と呼んでいるアイデアが存在する。Harsh shefrin と Richard
Thaler が提案するこの仮説では私たちがお金を買ったり蓄えたりする場合お金の額や源泉
によって、処理する心理的な勘定項目が異なっていて、その勘定項目に応じた行動をとる
と考える。マグニチュード効果に関連させるならば、小銭などの小さなお金の心理手金は
当座勘定に計上され大きな額になると金利のつく貯蓄勘定に蓄えられると考える。その結
果、現在予定している受け取りを将来まで延長した場合に失われる利益は金額の大小によ
って違ってくる。当座勘定で管理される少額の場合、そもそもそれは消費に充てることを
前提にしているためそれがもらえない場合に失う利益は、それによって行っただろう消費
からの満足感ということになる。これに対して額が大きくなれば貯蓄口座の勘定になるた
め、貯蓄金利がその機会費用になる。そして、小銭を使うことで可能になるちょっとした
ような消費が魅力的でその金額あたりの満足が、心理的な貯蓄勘定のおそらく大変低い金
利よりも高ければ人々は少額であるほど高い金利を要求しマグニチュード効果が発生する
ことになる。
このように私たちは財やサービスの金額の大小によって割引率を変化させている。これは 3
章で述べた割引効用モデルの特徴とは矛盾し、従ってバナナ選好や休暇選好までとは言わ
ないが、金額ごとに異なる時間選好を持っている可能性があるといえる。
4.3 符号効果
私たちのせっかちさの度合いは利益や満足を持つ場合と損失や不満感を持つ場合でも異な
ってくる。利益の割り引く際の「受取時間割引率」が、受け取りを待つのに要求する金利
として観察されるのに対して、損失を割り引く「支払割引率」はいわば損失を猶予しても
らうことを許容できる金利として測られる。例えば、1 か月後の 100 万円の受け取りを一年
間延期してほしいと頼まれた場合に表明する「受取割引時間率」は平均して 1.16%だが、
支払い額を一年間待ってもらうために支払ってもよいと思う金利「支払割引率」は 0.22%
にすぎなかった。
このように、私たちには受取時間割引率が支払時間割引率よりも高くなる傾向が強くみら
れる。この傾向は「符号効果」と呼ばれる。符号効果は各国のさまざまな調査で非常に安
定的に観察される。時間割引率という言葉で説明されるとわかりにくいかもしれないが、
要するに符号効果とは、将来の損失が利益の場合ほど割り引かれない現象を指している。
受け取りや利益と違い、支払いや損失の場合はそれが将来の事であろうとなかろうとあた
かも現在の事のように現実味を持って評価されるわけだ。私たちの日常を振り返っても苦
22
痛や損失を伴うことを先に済ませてしまって後回しにしたくないと考えることが多いこと
を思い起こせば、こうした傾向にも頷ける。
この効果を裏付ける理由として人間が持つ損失回避性が挙げられるかもしれない。損失回
避性とは人々が持つ、得られる物よりも失う恐怖の方が大きいという性質である。
例えば、あなたが夜眠っているときに急に電話が鳴って叩き起こされ次のような事を言わ
れたとすると、この時にどのような感情になるだろうか。「おめでとうございます。一ヶ月
前に応募して頂いた懸賞ですが、見事一等の車が当選しました。これから手続きをします
ので、深夜ではありますが営業所に来てください。
」多分、ほとんどの人は、車が当選した
とはいえ人を起こしてまで真夜中に電話をかけてくるのは非常識だと考えるのが妥当であ
ろう。それでは、次の場合はどうであろうか。「今すぐ起きてください。あなたの車が車上
荒らしにあっています」このケースであると、一気に目が覚めて飛び出していき、そして
電話をかけてくれた人に「よく知らせてくれた」と感謝するであろう。このように、人は
得られる物よりも失う恐怖の方が大きいのである。
符号効果より、人々は損失をどの時間軸においても現実的に感じているということが分か
り、このことは人々が常に損失に敏感であるこということを示している。
(損失回避性)
効用
4.4 フレーミング効果
ある選択を評価するときに、その文脈の中で比較の対象として決まってくる基準のことを
行動経済学では「参照点」というが、その参照点からの変化や乖離を対象に評価し選択を
行う傾向が私たちにはある。その結果、実質的に同じ選択肢であっても文脈や選択の枠組
みが違えば評価や選択が異なることになる。
例えば、一週間後にもらえるレコードの商品券がさらに三週間遅れるコストを計算する場
合、単純に一週間後の商品券の現在価値と四週間後の現在価値を直接比べるのではなく一
23
週間後にもらえるという状態を参照点として、そこから受け取りが三週間遅れることのコ
ストと利益を考える。
この場合、二つの理由から一週間後の損失の方が四週間後の利益よりも大きく感じ、その
差が、商品券が遅れることによる純損失である。
第一に、損失は利益よりも三週間早く発生するので、割り引かれない分大きなマイナスと
して評価される。第二に、損失回避性の影響から、同じ1ドルでも損失の方が主観的に大
きなマイナスとして感得される。二つの効果はともに損失の大きさを相対的に大きくする
方向に動くため、非常に大きな保証がなければ遅れを許容できないことになる。
これに対し、当初四週間後だったレコードの商品券の受け取りが一週間後まで早まる場合
元の予定を参照点として一週間後に利益が、四週間後に損失が発生する。損失は利益より
も先に発生する分、余計に割り引かれるため私たちにプラスの利益をもたらし、それが純
利益をもたらし、その一方で四週間後の損失は損失回避性によって強く評価されるために、
その純利益はそれほど大きくない。つまり、割引と損失回避性という2つの効果が相殺し
合う結果、純利益は純損失に比べてかなり小さなものになる。これが先送りと前倒しの非
対称性である。
符号効果やフレーミング効果を見る限り、時間選好を考えるうえで人々の選好が財やサ
ービスの性質のみならず損失回避性やそれに伴う先送りと前倒しの非対称性による影響を
受けていることも考慮してモデルを再構築しなければならない。
4.5 改善を選ぶ傾向
総量が少々小さくても、その時々の満足の大きさが徐々に増えていくような選択をする傾
向が私たちにはある。時間割引率がプラスであれば、満足の程度が最も高い最初の基準か
ら徐々に悪化していくような選択がなされるはずなので改善する選択を好む傾向は時間割
引率がマイナスの値を取っていることを意味している。これは割引効用モデルでは説明で
きない。
例えば、George Loewenstein と Nachum sicherman がシカゴ科の学産業博物館を訪れた
一般の成人80名に対して行った有名なアンケート調査がある。徐々に増えていく年収パ
ターンと、徐々に減っていく年収パターンを選ばすと、実に 83%の回答者が増加する年収
パターンを選択した。
改善列が選ばれるこうした傾向は、年功賃金制のような実際に広く行われている昇給形態
を理解する上で重要である。年功賃金制では、その人の労働生産性が上昇する、しないに
関わらず年を重ねて勤続年数が長くなるにつれて賃金が上がっていくことが約束されてい
る。
もちろん、人々に改善を好む傾向があるという理由の他に年功賃金制を説明する別の可能
24
性も考えられる。例えば、年功賃金によって同じ企業に長く勤務するインセンティブを労
働者に与えることで、その企業にいて初めて発揮できるような特殊な生産、経営能力を訓
練によって彼らに習得させようとしているのかもしれない。なぜその企業だけで発揮でき
る特殊な能力でなければならないかといえば、他の企業に移っても変わりなく発揮できる
ような一般的な能力の場合その習得にかかる訓練費用を負担するインセンティブは労働者
自身に強くあるので、企業がわざわざ年功賃金という手段で労働者の離職を防ぐ必要はな
いからである。他の企業に持って行っても利用できないような特殊な能力の場合にはじめ
て、労働者自身よりも企業の方にその訓練費用を負担するというインセンティブが働き、
それと同時のその投資費用を回収できるような十分に長い期間、労働者にとどまってもら
う必要が出てくる。そしてそのために年功賃金を用いるという仮説がある。
それでは、なぜ改善列が好まれるのかというと、まず考えられるのは、満足度の高いイベ
ントを後に持ってくることで期待からの快楽を味わい不安感を回避しようとしているので
はないかということだ。つまり、将来満足感を高めるようなことであれば、れを将来に取
っておくことでゆっくりと想像して味わうことができる。夏休みに旅行を計画する場合、
夏休みが始まってすぐというよりも、少し先の日程を考える人が多いはずである。楽しみ
を後に取っておいて、まだ行かぬ大きな楽しみに思いをはせて楽しんでいると考えられる。
反対に、苦痛や不満足といった負の価値の場合は、それを早いうちに済ませてしまうこと
で、不安を最初に取り除こうとする。夏休みの計画を立てるときに、歯の治療を休みの最
初に持ってくる人が少なくないのもそれが理由である。
John Rea から Samuelson に至るまで多くの経済学者が心理的要因を取り込んだモデルを
提案してきたが、その結果生み出された割引効用モデルでも上記のような現実の選好をう
まく表現することはできず、指数割引的な時間選好は現実に即していないことが分かった。
そこで、次の章からは双曲割引を導入し、このような時間選好が現実的妥当性を持ってい
ることを説明していこうと思う。
25
5 双曲割引
これまでの章では、割引効用モデルが考察された際どの時点においても割引率が一定で
あることが仮定となっていた。この仮定のもとでは人々は、時間によって「変化しない選
好」をもっていると言える。しかし実際は、人々は時間によって「変化する選好」をもつ
ことが一般的であると多くの研究や実験調査によって証明された。例えば、今晩行くレス
トランにおいて自分自身の健康によくないという理由から、デザートを食べる誘惑に負け
ないと食べる前から心に決めていても、いざレストランに行ってそのデザートのトレイが
まわってくるのを目にすると誘惑に負けてしまい、結果的にデザートを食べてしまうこと
がある。このような自己矛盾が起きうることは誰しもが想像できるであろう。
また、より詳細な方法を用いた実験調査によって時間の差異で変化する選好が容易に観
察できるという現象が明らかにされた。例えば、Ainslie と Haslam が 1992 年に行った実
験によると、多くの被験者は、2 年後にしか貰えない 200 ドルと直ちに貰う 100 ドルどち
らを好むかという質問に対して、直ちに貰う 100 ドルを好むと答えるが、同じ被験者は、6
年後にしか貰えない 100 ドルと 8 年後にしか貰えない 200 ドルどちらを好むかという質問
に対して、8 年後にしか貰えない 200 ドルを好むと答えたことが分かった。追加的に二年待
つことで 100 ドル多くもらうことが出来るという事実は変わらないが、前者では 100 ドル、
後者では 200 ドルが選択されるという時間的非整合性が発生していることがわかる。
選好の逆転(=時間的非整合性)の特徴は次のようにまとめられる。
(i)
将来の自分の欲求を大きく割り引き、無理な(せっかちな)計画を立てる。
(ii)
将来の自分は忍耐強いと想定している。
(iii)
計画に成功した時の将来の自分の利益を大きく割り引き、せっかちな行動
を行うことでその計画を破綻させている。
つまり、短期的にはせっかちに、長期的には忍耐強くという特徴が浮かび上がり、
これが選好を逆転させている。
このような特徴を描写するモデルが双曲割引モデルであり、行動経済学的なアイデア
として提示された。具体的なことは後に扱うが、このモデルにより選好の逆転が説明で
きる。つまり、短期的な利益は前倒しされ、長期的な利益は後回しになる。
このことは、被験者による割引率が将来におけるものより、現在における割引率の方が
高いということを意味している。Thaler、Benzin、Rapoport、Yagil によってマッチング
タスクによってこのような結論を導いた研究がなされてきた。被験者に、すぐに貰えるy ド
ルとt期間に貰えるxドルが無差別となるような金額 xドルを述べてもらうことで、異なる期
間における割引率の計算が可能となり、割引率がtに関する減少関数であることを実際に何
26
度も確認することができた。
5.1 双曲割引とそのほかの関数の比較
5 章の冒頭では双曲割引の特徴について触れたが、ここではこのようなモデルが提唱され
るまでの経緯と、双曲割引が他の関数と比較してどのような形状をしているのかを見てい
く。
割引率に関して、割引率が一定であるとする割引効用モデルに代わるものを論じた最初
の経済学者は Strotz(1995)であった。彼は、時間によって選好が変化するということが
存在しているという観点から、これまでの割引率は一定だという仮定なくすことを重要視
していた。彼はその代わりとして明確な割引関数の形を一切提示しなかったが、割引率が
現在から将来にかけて減少しているというケースに注目をしていた。
次に双曲割引を他の関数と比較する前に、様々なモデルの数学的な理解を容易にするた
めに割引率に関する用語を明確にし、割引率、割引因子、期間ごとの割引因子、割引関数
のそれぞれの用語の区別から説明する。
まず、割引効用モデルにおける伝統的な割引モデルにおいて、割引率ρは一定で、これは
将来の効用が割引される地点の利子率に一致する。割引因子は、現在の効用の価値を計算
するためにそれぞれの期間の効用に掛ける割合のことである。割引率が一定であるモデル
では、割引因子は 1/(1 + ρ)tにより与えられる。期間ごとの割引因子δは、次の期間の割引
因子を計算するためにそれぞれの期間の割引因子に掛ける割合のことである。割引効用モ
デルにおいてもまた一定であり、1/(1+ρ)によって与えられる。割引関数とは、割引因子と
時間の間の関係を説明しているものであり、全ての期間にわたる、全体の割引効果を示し
ていて、それゆえ割引効用モデルにおいての割引関数は、D(t) = δt として表現でき、これ
は指数割引関数として言及される。よって、ある一人の人間の効用関数 u(x0, x1 , x2 , … , xt )で
ある時、0,1,2,…,t 期間における効用は1, δ, δ2 , … , δt により割り引かれる。
これらの概念は例やグラフによって分かりやすく説明できる。割引効用モデルにおいて、
割引率ρ=0.1と仮定したとすると、割引因子δは 0.9091 となる。すると、10 期間後の割引
因子は0.909110 = 0.3856 の価値をもつと言える。つまり、100 の効用は 10 年後には、現
在で言うところの 38.56 の効用に割り引かれていることになる。この割引関数のグラフは
6.1 の図に示されている。
27
6.1 割引関数
1
0.9
0.8
0.7
割
0.6
引
関 0.5
数 0.4
値
0.3
指数割引
準双曲割引
双曲割引
0.2
0.1
0
1
2
3
4
5
年
6
7
8
9
10
1967 年に Chung や Herrnstein によって導入された最初の双曲割引関数は、動物との実
験研究に基づいていて、D(t) = 1/t という形をとっていた。Herrnstein はまた、1981 年に
もうひとつの特別な割引関数 D(t) = (1 + αt)−1というケースを展開し、1968 年に Phelps
と Pollak は、この関数を修正した準双曲関数を用いた。これは以下のように記述できる。
D(t) = 1 if t = 0
βδt
if t > 0
一般的に、β < 1であり、現在と次の期間の間の割引因子がその後の期間の割引因子よりも
低いということを示している。
(β=1というような限定的なケースにおいては、準双曲関数
は割引効用モデルの指数関数とみなせる。)
よって、割引効用モデルと比較すると、0,1,2,…,t 期間における効用は 1,βδ, βδ2 , … , βδtに
よって割り引かれる。このモデルの利点は次の通りである。
①,準双曲関数は実験上の結果によくあてはまり、双曲割引関数の性質に似ている。この
ことは、双曲、準双曲、指数を比べた 6.1 の図にみることができる。準双曲関数が有効であ
る理由は、現在と次の期間の間の割引率が高いが、それ以降の割引率は一定であるという
仮定のもとにあり、具体的には、現在と次の期間の割引率は(1−βδ)/βδであるのに対し、一
方将来間の割引率は常に、(1−δ)/δ と一定である。
②,準双曲関数は、指数関数の分析的な扱いやすさをほぼ保つことができる。準双曲関数
もまた、不連続な関数であり 1 期後の期間ごとの割引因子がδ であることは指数関数と同
28
じである。6.1 の図ではβ=0.7,δ = 0.98としている。
Phelps と Pollak はもともと、世代間の利他主義を研究するためにこの関数形を導入し、
1979 年の Elster によって初めてこの関数が個人の意思決定に適用された。
純粋に一般化された双曲関数は元来 1986 年に Harvey によって導入され、1989 年に
Prelec、1992 年に Loewenstein によってさらに進展し、またさきほど言及した Ainslie や
Laibson によるさまざまな助力で双曲関数が議論されてきている。この関数は不連続ではな
く D(t)=(1 + αt)−β/αという連続的な形をとっている。係数αは一定の割引から、どれくら
いこの関数がそれているかを表している。
(限定的な(α が 0 に近づく)ケースにおいては、
D(t) = e−βt という連続的な指数関数である。
)6.1 の図では、α = 100000, β = 3500として
いる。
5.2 時間的非整合性のメカニズム
ここで、時間的非整合性という問題を具体的に取り上げてみる。この問題において重要
なことは、このような行動を示す人々は双曲割引を用いて物事を割り引いているために、
選好が将来にわたって一貫していないということだ。では、なぜ双曲割引を用いて物事を
割り引くと、時間的非整合性という問題に直面するのかについて詳しく説明していく。
双曲割引とはこれまでの議論からまとめると、近い将来の選択に用いられる時間割引率
が遠い将来の選択に用いられる時間割引率よりも高くなるという概念であり、言い換える
と、誘惑に関して遠い将来なら待てるが、近い将来ならば待てないと思ってしまう人間の
傾向である。つまり、このような傾向の人々は、周到に立てたはずの計画であっても、時
間がたっていざ実行に移す直前になると時間割引率が跳ね上がって我慢がきかなくなり、
長期的視点に立って積み上げていこうとする面倒な計画は後回しにして、小さくともすぐ
に得られる満足が前倒しにされてしまう。
冒頭の質問を例に出して考えてみると、2 回目の質問がなされた時、被験者は 8 年待って
多額の金(200 ドル)を貰うことを好むとしたが、いざ実際に 6 年経つと彼らの選好は、でき
るだけ早く少額(100 ドル)でも貰うことへと変化してしまう。
このように、将来にも今と変わらぬ、近い誘惑ならば待てない自分がいるはずなのに無
謀な計画を立てて失敗してしまい、スリムな体型を永遠に手に入れられなかったり、衝動
買いを繰り返してローン地獄に陥ったり、今なすべき仕事を先送りして後で慌てふためく
ことになる。どれも後悔するという点では同じである。そして重要な点は、現実の人間が
時間的に非整合的な行動を繰り返していることからも、双曲割引が現実的妥当性を持って
29
いるということである。
事前の想定
一定時間経過後
効
用
効
用
時間
長期的な計画
時間
誘惑
長期的な計画
誘惑
誘惑から効用を得る事前の段階では、時間割引率が小さく、誘惑から得られる効用より
長期的な計画を達成することによる効用の方が大きいと感じられる。しかし、一定時間が
経過し誘惑が直前に迫ると、時間割引率が増加し誘惑から得られる効用の方が大きく感じ
られてしまう。
5.3 なぜ双曲割引が起こるのか
これについてもいくつかのアイデアがある。
1つは、心理的な時間の流れは一定ではないということで、具体的には時間が短期的に
はゆっくりと、長期的には早く流れているというものだ。よって、短期的な利益は大きく、
長期的な利益は小さく割り引くことになる。
2つ目のアイデアは,不確実性だ。将来は不確実だからこそ、現在と同じように評価は
できない。確実な利益に不確実性が混じると割引いてしまうという、プロスペクト理論の
確実性効果が適用できる。
最後に、脳科学の発展が双曲割引について興味深い知見を与えてくれる。脳科学者の
McLure が経済学者と共同で行い、サイエンス誌で報告された研究によれば、「早く受け取
る小さな金額」と「遅く受け取る大きな金額」の選択に直面させ、fMRI(機能的磁気共鳴
画像)を用いて脳の活動を観察すると、直近の選択については大脳辺縁系(古い脳)が活
発に活動し、ドーパミンの影響を受け間近の利益に強く反応する。けれども、直近の選択
から遠い将来の選択まで、高度な認知判断と合理的な選択については、前頭葉と頭頂葉の
外側部(新しい脳)が活発に活動し、プラニングや利益の評価など抽象的な思考を司って
いることが分かった。そして、
「早く受け取る小さな金額」を選んだ際には古い脳が相対的
30
に活発で、
「遅く受け取る大きな金額」を選んだ際には新しい脳が想定的に活発であること
が分かった。分かりやすく言い換えると、古い脳は刹那的な欲望を促す黒い悪魔で、新し
い脳は計画的・合理的な判断を促す白い天使ともいえる。脳科学の進展は分裂する自己を
明らかにした。
5.4 双曲割引が意味すること
自らの選好について一貫性のない状態は、自分たちの選好が時間を通して変化している
かについてどれだけ気付いているのかという、被験者の自己認識の度合いによって行動に
変化が起こるために生じる。これについて 2 つの極端な事例を挙げておく。
1 つ目は、自分たちの選好が将来においても変わらないと信じている“単純”な人々の場合
であり、これは人々が、選好が変化するという過去の経験から何も学んでいないというこ
とを表している。このような人々は、将来において一定の割引率を用いている(つまり選
好が不変である)と思っているが、実際には双曲的に物事を割り引いている。もし、自分
自身のβの値をbだとみなすなら、その時β < b = 1となっている。詳しく説明すると、この
ような人々は正しい自己認識ができていないため、自分は双曲的に割り引いていないと思
っていても(b = 1)実際には物事を双曲的に割り引いている(β < b)ということである。
2 つ目は、自分たちの選好が時間によって変化することを実際に予測することができる完
全に“賢明“な人々の場合であり、このケースでは、β=b < 1である。このような人々は自己
認識に長けていて、自らが物事を双曲的に割り引く(b < 1)ということに気づいていて、
かつそれが実際に割り引く値と同じである(β=b)ということになる。しかし、実際はほ
とんどの人間がβ < 𝑏 < 1というような範囲のどこかに存在していて、完全に単純な人や完
全に賢明な人は極めて稀であるということが出来るだろう。
ここで、さらに具体的な例を見てみようと思う。Ho,Lim と Camerer は、ポテトチップ
スを購入し消費する状況を想定して指数割引者の行動と、単純または賢明な双曲割引者の
行動の違いをうまく説明した。彼らは下記の 3 期間モデルを用いた。
①,購入決断;1 人前の小さい一袋か、数量割引を伴う 2 人前の大きい一袋を買うかの選択。
②,消費決断;1 人前もしくは 2 人前のどちらを消費するかの選択をする。さらにその消費
に伴う瞬時の効用を得る。もし、第 1 期間で小さい袋が購入されたら、1 人前のみが消費可
能であるが、大きい袋が購入された場合、1 人前を消費して残りは次の期間に消費するか、
一度に 2 人前を消費するかの選択をとらなければならない。
③,健康状態;ポテトチップスは身体に有害であるが、2 人前は 1 人前よりもさらに健康に
悪い。
31
このような状況のもとで、彼らはそれぞれの割引者のグループが違った行動をし得るこ
とを結論付けた。
①,指数割引者;彼らは数量割引から利益を得るために大きい袋を買うが、第 2 期では健康
結果が悪くなることを避けるために、1 人前しか消費しなかった。
②,単純な双曲割引者;彼らは指数割引者のように大きい袋を買って第 2 期では 1 人前しか
消費しないということを信じているが、実際彼らは第 2 期で双曲的に割り引いて、高い割
引因子を第 3 期における有害な健康結果に用いてしまい、結局は 2 人前を第 2 期に消費し
てしまう。
③,賢明な双曲割引者;彼らは、次の期間において自らが大きい袋を買った際に訪れる 2 人
前食べることへの誘惑に抵抗できないことを知っているので、自制もしくはコミットメン
トの手段として小さい袋を選ぶ。
もし、実際の行動によるその後の効用が第 1 期の地点で推測されたとしても、指数割引
者は結局この例のように行動してしまう。なぜなら、彼らは数量割引によって利益を得る
からである。また、単純な双曲割引者は結局誘惑に負けてしまう。それは、第 2 期に到達
したときに健康への悪影響を大きく割り引いてしまうためである。しかし、私たちは賢明
な双曲割引者が常に単純な双曲割引者よりもよい結果となると結論付けるべきではない。
なぜなら、賢明な双曲割引者が将来、誘惑に屈すると予期し、そのもとで自らの最適な行
動を決定したとしても、単純な双曲割引者のように誘惑に負けて行動したときに得られる
効用のほうが大きい場合があるかもしれないからである。
伝統的な心理学における“誘惑”や“自制力”などの用語は時間的非整合性や時間選好を考
える時にはよく使われている。しかし、もし選好が一貫しているならば、このような概念
は心理学的要素を含まない。なぜなら割引効用モデルなどの、割引率が一定である状況を
考える場合、人間はいかなる時もデザートを欲するか欲しないかの二択であり、そこには
自制力を行使する余地がないからである。よって、もしデザートを食べることによる利益
を割り引いたものが割り引いた費用を上回るならデザートを食べるし、上回らないならば
食べないという選択と取ることになる。
これを一般化すると、割引率が一定のモデルに関しては、長期と短期の間による抗争は
存在せず、いかなる時でも一方の行動が好ましいということになる。ここでもっとも強調
したいのは、割引効用モデルにおいては誘惑や自制力という概念は存在しないということ
である。
それに対して、双曲割引においては、人間は健康に悪いデザートを思いのままに消費す
32
るというような行動が魅力的である場合、その期間おいて割引された利益は、割引された
費用よりも大きいということを意味している。一般的に消費者は、自分の過去における選
好と現在における選好が異なった時それを覚えているだろう。消費者が充分に自己を認識
しているとすると、将来の地点では割引された費用は利益よりも大きいため、もし思いの
ままに消費してしまったら自分たちの行動を後悔することになることも認識しているので
葛藤が生じる。
5.5 先延ばしの原理
人々が、日々の生活の中で先延ばしという行為を行う理由も、この双曲割引で説明する
ことができる。
先延ばしの現象を説明するためにデザインされたモデルは、主に O’Donoghue や Rabin
が導入したものだ。このモデルでは、人間は自らが将来、自制問題に直面することに気付
いているが、その問題の大きさを低く見積もってしまうということに重きを置いている。
彼らは、人間が将来の異なる時間における費用と利益を踏まえた選択肢から選ぶとき、今
は即座の行動や比較的小さい利益を伴う選択を控えて、長期的により大きい利益と行動を
伴う選択を好むが、後に、人間は後者の選択を見捨てて、さらなる将来においてのより大
きな利益と行動を伴う他の選択を好むようになるかもしれないと述べている。このように、
選好は常に変化し、行動が先延ばしにされていくのである。例えば、来月車庫を改装する
予定だから、今週は車庫を整頓しないと決断するとする。しかし来月になって車庫を改装
することが庭に囲いをするほど大事ではないと決断するかもしれない。
5.6 モデルを用いた分析
実際に双曲割引関するモデルを導入して、人々の一貫しない選好を、数式を用いて分析
していこうと思う。
以下では双曲割引に直面する人々のジムの料金制度について考える。これには次の 3 ス
テップを仮定する。
①ジムは顧客にメンバーシップ料金 F と使用毎にかかる料金 p を提示する。顧客はこれ
を承認するか拒否するか選ぶ。
②顧客が承認すると会員となった彼は F を払い、Exercise(E)するか Not(N)しないか
を選ぶ。
E を選ぶと彼は個人のエクササイズの努力度によって c というコストがかかる。また使
用料 p がかかる。N を選べばかかるコストは 0 とする。
33
③E を選べばエクササイズによって健康的な利益 b を得る。
N を選べば b は得られない。
ジム側は固定費用として①の段階で顧客が承認しても拒否しても K がかかり、顧客が
E を選べばさらに a というコストがかかる。また、顧客は β、δ という双曲割引のパラ
メーターをもっている。これは簡単にいえばジムは割引因子 δ が一定であると仮定して
いる。
単純な双曲割引においてエクササイズを選ぶ過程は以下のように変化する。
①会員になった直後、やる気に満ち溢れている消費者は、E によって得られる効用を以
下のように計算する。
βδ(δb-p-c)
これは将来にかかる使用料やエクササイズの努力が割り引かれて少ないものだと考
えている。このとき消費者は c≤δb-p のときに E を選びエクササイズをしようと思う
気持ちが大きい。
②会員になって少したち、エクササイズをしようと思う消費は E によって得られる効用
を以下のように計算する。
βδb-p-c
これはいざエクササイズをしようとしたときに使用料やエクササイズ時の努力が割り
引かれず、使用料が高いと感じたり、努力をするのが面倒くさいと感じてしまったりす
る。このとき消費者は c≤βδb-p のときに E を選びエクササイズをしようとする気持ち
が①のときよりも小さくなっている。
彼の未来の割引の過程を間違って推測してしまうことで、実際はいざエクササイズを
やろうとすると②の効用しか得られないが、①の効用が得られると考えてしまう。つま
り、メンバーシップ料金を買った時の E による全体の効用を高く見積もりすぎてしまう
ということである。ホモ・エコノミカスの顧客であれば自らのエクササイズをする傾向
を予測し E を選ぶことを正しく予想するはずである。
利益を最大化することを考えると時間割引率一定(β=1)の顧客を予想すれば単純に
使用毎にかかる費用 p を限界費用の a に等しく設定するだろう。しかし、双曲割引的な
顧客を予想するときは、p は a よりも小さい値を付けメンバーシップ費 F を一定の顧客
に対する最適な料金よりも高く設定する。この理由は2つある。
34
第一の理由は、合理的な消費者はエクササイズの見込みが増すために通う機能をはた
す使用料が安いのを好むからである。よって、彼らは使用料が安くない限りジムに行く
誘惑はされないだろう。第二の理由は高いメンバーシップの料金はジムに単純な消費者
が過剰に信頼してしまうことを利用することを許すからである。よって、彼らは足しげ
くジムに通い、その成果も高いと過信するので喜んで高いメンバーシップ料を払うだろ
う。
実際に健康クラブ産業では高いメンバーシップ料と低い(時には 0)使用料をとって
いる。より明確なのはメンバーシップ費用の平均は年に 300 ドルである。ほとんどのジ
ムはメンバーシップ費がかからないが、代わりに使用料が高い(一回 15 ドル)という
プランを設けている。研究でジムのメンバーはあまりジムに通わないので一回の使用料
に換算すると実質 19 ドルくらいなのであると分かった。このような消費者はメンバー
シップ費を払わずに使用料だけを払えばよかったのである。
このように未来を見据えることをミスしてしまうと多くの消費者は単純な双曲割引
の消費者のようにふるまってしまうことになる。
このような未来を見据えることについてのミスは、ジムの例に限らず普段生活する中で
幾度となく直面していることである。このような状況を少しでも改善していくために、7 章
では現在行われている改善策の分析や新たな改善策の提案を行っていく。その前に 6 章で
は実際に現実社会の人々がどのくらいの割合で双曲割引を用いて選択し、実際に非合理的
な行動をとっているのかということを、アンケートを参照して見ていこうと思う。
35
6.アンケートを用いた考察
ここまで双曲割引の概念やモデルを説明してきたが、そもそも、双曲割引で物事を割り
引いている人がどのほどいるのかについては議論していない。そこで 6 章では、実際には
いったいどれ程の人々が双曲割引的に物事を割り引いてしまうのかを私たちが実際におこ
なったアンケートを用いて確認していこうと思う。その理由は、もし双曲割引を持つ人が
実際には多くなかった場合、それは次の章で提案していく改善策によって行動が改善され
る人が少ないことを意味し、その提案が大した意味を持たなくなってしまうためである。
最初に、実施したアンケートの内容を紹介したいと思う。
6.1 アンケートの内容と意図
1、 あなたはお金をもらえることになりました。今日 10 万円もらうか 1 年後に 11 万円も
らうとしたら、どちらを選びますか?
2、 あなたは将来お金をもらえることになりました。10 年後 10 万円もらうか 11 年後に 11
万円もらうとしたら、どちらを選びますか?
3、 学生時代、試験勉強をする際におおよそいつ頃から試験に向けての勉強を始めること
が多かったですか?
4、 学生時代の試験勉強の計画として試験勉強をいつ頃やるつもりでいましたか?
5、 あなたはダイエットや筋トレによる肉体改造を計画したにも関わらず失敗したことが
ありますか?
次にこれらの質問の意図について説明しようと思う。
1 および 2 の質問は 5 章の冒頭で上げた質問を感覚的に答えやすいよう単位を円に換えて
問うたものである。これは双曲割引を持つかどうかの一番基本的な質問になると私たちは
考えた。1 の質問で今日の 10 万円を選択したにも関わらず、2 の質問で 11 年後の 11 万円
を選択した場合、これはその人が双曲的に物事を割り引いていることを示している。
ここで、双曲割引を持つ人のうち計画的に試験に臨むことができた人の割合もしくはダ
イエットに失敗した割合を、双曲割引を持たない人のうちの割合と比べることで、異なっ
た状況下でも、自己矛盾的な行動を起こしてしまうことに関して相関があるかどうかを調
べることができると思い 4 と 5 の質問をした。
36
6.2 アンケート結果
実際に双曲割引を示した人(今日の 10 万円を選択したにも関わらず、2の質問で 11 年
後の 11 万円を選択した人)は、被験者の約 50%を占めていた。また、双曲割引を示した人
のうち、約 84%が試験勉強に計画的に臨むことが出来なかったり、ダイエットや肉体改造
に失敗していたりという経験を持っていることがわかった。これは双曲割引を示さない人
のうち試験勉強やダイエットを計画的にこなせなかった人の割合である約 35%よりも誤差
とは言えない程度に大きい。このことから、7 章で分析、提案していく改善策により双曲割
引を持つ人々の行動を修正できれば、これは大きな効果をもたらす可能性があることがわ
かる。さらに、こういった自己矛盾的な行動にはある程度の相関関係があることもわかる。
37
7. 時間選好を利用したマーケティング
自己認識において議論する際に最も強調したいことは、人間が短期的な利益を優先する
ような行動を後に取ることを避ける有効な手段として、自らに規制を設けることがあるこ
とである。一般的に、これをコミットメントと呼ぶ。この章ではコミットメントを用いて
消費者に長期的利益を優先させることに成功した例を見ていく。
7.1 コミットメント
まずはコミットメントの簡単な例をいくつか紹介する。
さきほど、大きい袋よりも小さい袋を買うというポテトチップスの例を確認したことから
もわかるように、昔から双曲割引、時間による選好の不一致、自己認識へのコミットメン
トの例は多く見受けられる。古代ギリシアの詩人ホメロスが書いた『オデュッセイア』で
は、オデュッセウスが自分自身を船のマストにくくりつけるように同じ船の船員に頼んだ
場面があるが、これは自分が魅力的な美女の歌を聞いて魅了され、難破しないようにする
ためである。
Burnham de Ferran はいくつか面白い例をあげている。それは、おなかが空いてない状
態でブラウニーが飛行機での昼食に出された時、あえてマヨネーズを塗ることでそれを食
べたくなった時の自分を戒めることができるし、インターネットケーブルを郵送すること
で、その期間はインターネットにつなぐことができないと状態にすることができる。この
行動は、後に自分の選好が変わってしまった時に自身が思いのままに行動するのを防ぐた
めに計画されたものであるが、明らかにある程度自己認識が存在している時のみ効果的で
ある。その他のありふれたコミットメントの形として、外出する際に家にクレジットカー
ドを置いて来たり、払戻金や取り消し選択がない健康クラブの会員費一年間分を払ってし
まったり、流動性の低い預金口座や、終身保険を契約したりすることなどがある。
さらに、賢明な被験者によるコミットメントの良い例として挙げられる実験がある。こ
の実験では、
ある特定の授業において 1 学期中に 3 つの論文を書かなければならないとし、
あるグループには、3 つの論文それぞれ 1 学期を等間隔にした締め切りを設けたのに対し、
もう一方のグループには、自分たちで締め切りを選ぶことを許可させた。締め切りを過ぎ
た論文に対する罰はどちらのグループも同じである。2 つ目のグループは 1 学期の終盤に全
ての論文の締め切りをもってくることができるが、実験では実際多くの被験者が締め切り
を等間隔に配置していた。等間隔に締め切りを配置した人々は、外的内的どちらの義務で
あれ、等間隔に配置しなかった人々よりも、締め切りをよく守っていた。したがって 自制
問題を見越して、より洗練された被験者は等間隔に締め切りを配置するようなコミットメ
38
ントをとることで、結果的に自分自身の幸福を向上させることができることがわかる。
また Hirshleifer(1987)や frank(1988)が、ゲーム理論を基に初めてコミットメントとして
の感情の正式な理論を発展させた経済学者である。それ以来、政治学者や心理学者、神経
科学者を含めてさまざまな分野から多大な情報提供がなされてきている。彼らのの研究が
なされるまでは、怒りや嫉妬や憎しみのような感情の有効性に関して困惑させるものが沢
山あった。なぜならその多くの感情が、愛や喜びや誇りのような前向きな感情に対して、
通常否定的なものとして捉えられていたからである。否定的な感情によって人間は自滅的
な行動をしばしばとりがちである。しかし、彼らがもっとも貢献した点は、そのような感
情が信頼のあるコミットメントとして役に立ち、他人が私たちを利用するのを防ぐという
ような理論を提案したことだ。したがって、そのような感情は短期的に害を生むかもしれ
ないが、たいていの個人において、我々の長期的な幸福を促進するために役に立つのであ
る。
これを、具体的にゲーム理論を用いて解説しようと思う。
プレイヤー1とプレイヤー2がある共同作業を行う。プレイヤー1,2は、それぞれ怒
りやすいタイプAか怒りにくいタイプNであるとして、どのタイプの組み合わせが最善な
のかを利得表を用いて考える。短期的な利得のみを考慮した場合の利得表は下記のように
なる。
2
1
A
N
A
5,5
20,15
N
15,20
20,20
両者がタイプAであった場合、互いにイライラしてしまい非協力的になってしまう結果、
生産性は非常に小さい。タイプAとタイプNがいる場合、タイプNが気を遣いタイプAを
怒らせないように協力するので生産性は高い。しかしタイプNはタイプAへの気遣いによ
る非効用でタイプAより利得はタイプNのほうが小さくなっている。両者がタイプNの場
合は何のストレスもなく協力的に作業が進むので両者ともに効用が高くなる。このことか
らこのゲームのナッシュ均衡はNE(1,2)=(N,N)となり、これはタカハトゲーム
と同じ構造を持っていることがわかる。
次に長期的な利得について考える。この作業では長期的なノルマが課せられていて、こ
のノルマを達成できないとペナルティーが発生するとする。この条件下での利得表は下記
のようになる。
39
2
1
A
N
A
-5,-5
20,15
N
15,20
10,10
ここで注目しなければならないのは両者がタイプNのときである。両者がタイプNだと
ノルマがあるにも関わらず怠けてしまう可能性が高く、その結果ノルマを達成できずにペ
ナルティーが発生してしまう。しかし、一方がタイプAある場合、タイプNは作業を怠慢
するとタイプAを怒らせてしまうためタイプNが怠慢することはなく、よってペナルティ
ーも発生しない。これより、このゲームのナッシュ均衡はNE(1,2)=(A,N)、
(N,
A)となる。タイプAがいることによりタイプNは怠慢を働かなくなり、結果として長期
的に自身の利得も増加させることができたことになる。
最後に、割引効用モデルや割引率が一定であるような場合、感情はコミットメントの手
段として必要ではないということに触れておく。なぜなら割引効用モデルにおいて、もし
誰かが怒りをぶつけてきても、合理的な計算によって私たちは、その人を非難するかどう
か判断するが、このとき将来と現在の割引率は一定であり、選好が変わらず行動が一貫し
ているので、短期と長期の間の抗争は全くないからである。
7.2 選択アーキテクト
5、6 章では非合理的行動を説明する概念として双曲割引を説明した。ここでは、双曲割
引による高い時間割引率を持った消費者たちの非合理的行動を回避するための、
「選択アー
キテクト」たちによるマーケティングについて紹介する。
まず「選択アーキテクト」とは選択肢の設計者のことであり、この設計者は人々が意思決
定する文脈を体系化して整理する責任を負う。例えば有権者がどの候補者に投票するかを
選ぶ際に使う投票用紙をデザインする人は選択アーキテクトである。このような選択アー
キテクトたちは、人々の行動を予測可能な形で変化させ行動するよう“ナッジ”する。ナッジ
は命令ではなく、相手によりよい選択判断のためのアーキテクチャーを構築するものであ
る。
まずは時間選好を利用した販売戦略を紹介するために、そのナッジの基本的な種類につ
いて述べようと思う。
1. デフォルト
デフォルトとは欠席・怠慢・不履行・棄権・初期値・規定値などという意味を持つ英単
語であるが、この行動経済のナッジにおけるデフォルトの意味は人々が最も抵抗の少ない
経路を歩くような標準仕様のことである。人間は与えられた選択にデフォルト・オプショ
40
ンがあると、それが自分にとっていいかどうかに関係なくその選択肢を選ぶ。ここで最善
の選択をデフォルト・オプションに設定することによって消費者が労力を使わずに選択を
しても合理的な行動に導くことができる。例えば、臓器提供者の意思表示カードの登録者
を国毎に集計してみたところ、登録者数が非常に多い国々と、少ない国々を見つけ、比較
した所、一つのポイントを見つけた。それは、文化の違いなどではなく、カードの書 式(デ
フォルト)の違いであり、多い国では臓器提供に参加したくない人はチェックしてくださ
いという記載のオプトアウト方式を採用し、少ない国では臓器提供に参加したい人はチェ
ックしてくださいという記載のオプトイン方式を採用していた。どちらも結局チェックを
しない訳だが、意味合いが全然違ってくるのである。
2. エラーを予期する
人間はミスをするものである。これを予期してあらかじめ人間の行動しうるミスを防止
することで不合理な行動を回避する。例えば自動車は年々運転手に優しい乗り物になって
きている。シートベルトを閉め忘れればブザーが鳴り、ガソリンがなくなりそうになると
警告サインがでる。医療の現場においては「服薬コンプライアンス」と呼ばれる大きな問
題がある。多くの患者、とりわけ高齢者の患者は決められた回数、用量を守って薬を飲ま
なければならない。この問題での薬における良い選択アーキテクチャーは、一日一回朝に
飲むことが最優良とされる。一日の服用回数が増えれば増えるほど飲み忘れてしまう可能
性が高くなるのは明らかだが、重要なのは回数だけではなく服用の間隔もポイントと なる。
一日一回の服用は一日おきの服用よりも、「毎朝起きたら薬を飲む」という自動システムを
教育できる点において適切だと考えられる。等間隔で薬を飲むことが習慣になることで薬
の効果を最大限に引き出すことに成功している例だといえる。
3. フィードバックを与える
人間のパフォーマンスを向上させる最善の方法はフィードバックを与えることである。
効果的にデザインされているシステムは、操作がうまくできているか、ミスをしていない
かを人間に知らせるように作られている。デジタルカメラでは一般にフィルムカメラより
も良いフィードバックをユーザーに与える。つまり、写真を一枚撮るたびに撮影したばか
りの画像をすぐに確認することができ、その結果レンズのキャップをとりわすれることや
被写体がはみ出ているなどのフィルム時代には当たり前だったエラーがすべて解消される。
また、重要なフィードバックは、操作が間違っていること、間違いが起こりつつあること
を警告するタイプのフィードバックである。私たちのパソコンにはバッテリー残量 がほと
んどなくなると、コンセントにつなぐかシャットダウンするように警告が表示される。し
かし、警告システムは警告を頻発し過ぎた結果ユーザーに無視されるという問題が生じな
いようにしなければならない。メールにおいて本当にその添付ファイルを開きたいかどう
か何度もしつこく確認されると、なにも考えずに「はい」をクリックするようになり、こ
のような警告システムは無意味となってしまう。
41
4. マッピングを理解する
人々の選択と幸福度の対応関係を理解することである。消費してみないとその効用がわ
からない経験財の購入の際には、商品を買ったときの幸福度がどのくらいなのかがわから
ない。そこで購入前に消費者に試食やお試しをさせることで商品を買うのが合理的かどう
か判断する材料となる。
5. 複雑な選択を単純化する
選択肢の数が非常に据えて複雑さが増すと選択アーキテクトが考えなくてはならないこ
とや、すべきことが増えるので選択に影響を与える可能性が高まる。
一つの方法として協調フィルタリングが挙げられる。これは同じような思考を持つ他人の
判断を利用し自分の嗜好に合うものを選ぶ可能性を高めるものである。自分に似た人が好
むものがわかれば自分に似た人がそれを気に入る傾向にあるという理由から知らない商品
でも安心して選べるようになる。この例として、アマゾンのサイトによく出てくる、
「この
商品を買った人はこんな商品も買っています」とか「よく一緒に購入されている商品」と
いう項目がそうである。
このような 5 つの種類を持つナッジによるヒューマンに対する有効的な販売戦略を以下よ
り紹介していく。
7.3 意志力を問わない金融商品
世界の数多くの先進国では、人々が十分な老後の生活資金を確保できるように政府が年
金プランを提供している。しかし、その多くは高齢化と少子化という二つの人口動態の変
化によって脅かされている。各国のほとんどの年金プランの場合、現役労働者が支払う税
金が退職した労働者の年金に充てられるが、現役労働者の退職者に対する比率が下がれば、
増税か年金給付の引き下げのいずれかを迫られる。もし将来の自分に対する年金給付が減
らされると現役労働者が知れば、その差額分を現在の労働による貯蓄によって埋めなけれ
ばならない。労働者はいくら貯蓄し、どのように適切に投資するかを自分で判断する必要
性が高まっている。この困難な課題に対処する用意ができない人が少なからずいる のは事
実であろう。このような自制心の少ない消費者が目前の利益に囚われないようナッジする
フィリピンの金融商品を例として紹介する。
7.3.1 フィリピンの貯蓄戦略
フィリピンは 2012 年の実質 GDP 成長率は前年比 6.6%と、アジア主要国のなかでは中
国に次ぐ高成長を達成している国であるが、その一方でフィリピンの投資比率は 20%程度
42
で横ばいであり、これはアジア主要国を大きく下回っている。この投資比率が低い背景の
一つに家計の貯蓄率の低さがある。フィリピンの貯蓄率はアジア主要国の中で最も低く、
中長期的なフィリピンの経済成長力を滞らせる要因とみられている。貯蓄率の低さについ
ては、まず平均的家庭における収入の低さが大きな原因とも考えられるが、その経済力の
みならずフィリピンの人々の陽気で楽観的な民族柄にも要因がある。フィリピンでは「バ
ハラナ」という“明日は明日の風が吹く”、なんとかなるだろう、という人生観が人々の精神
に基づいており、まさに時間割引率が高く今現在の利益を最大化して考える傾向にある。
そこで、フィリピンの銀行は貯蓄をしたいがつい手元の所持金を使ってしまう「その日暮
らし」となりやすい労働者階級の人々のための金融商品を販売した。まず、顧客は貯金箱
のような小型金庫を購入する。金額は少額ではあるが、顧客は“購入”という行動によってそ
の金庫を大切にしようとする心理が働く。そしてその金庫の鍵は銀行が保管し、預金者は
一定額になるまで預金を引き出せないという契約書を作成する。預金者は小型金庫を時々
銀行に持っていき、銀行は取り出した金を口座に入金する。この金融商品は手元にお金が
あればつい使ってしまうという人々に非常に効果的であり、12 ヵ月後に預金額が 337%も
増大したという事例がある。
このフィリピンの銀行による選択アーキテクチャーの構築は双曲割引に基づく不合理的行
動をとるフィリピンの人々により良い選択を与えることができる貯蓄戦略である。
7.3.2 貯蓄を自動化する
退職貯蓄プランの例を考えてみる。現時点での退職貯蓄プランのデフォルトは「未加入」
であり、このプランに加入するためには、必要な手続きがある。労働者が加入資格を取得
すると(雇用された時点で直ちに資格を得るときもある)、大抵の場合書類を渡され、プラン
に加入したい従業員は給与からいくら天引きするか、プラン内で提供されているファンド
にどう配分するかを決めなければならない。これが悩みの種になる場合があり、結局多く
の従業員はこの手間を面倒くさがり放棄してしまう。将来に向け計画的に貯金をするメリ
ットを大きく割り引いてしまう一方で、プランに加入するための手続きの努力費用を割り
引かずに評価してしまうため、このようなことが起きてしまう。
そこで、デフォルトを自動加入に変更することが有効な手段となる。従業員がオプト・ア
ウトする書類を能動的に提出しない限り(規定の拠出率と資産配分で)プランに加入するこ
とを通知する書類を受け取る。自動加入方式はアメリカの確定拠出型年金プランへの加入
を増やすのに極めて有効な手段であることが証明されている。Brigitte Madrian、Dennis
Shea の初期の論文で調査されたあるプランでは、加入することを選択するオプト・イン方
式の場合、雇用開始から三か月後の加入率はわずかに 20%だったが、その後、加入率は徐々
に上がって、三か月後には 65%になった。しかし、自動加入方式が採用されると、新規雇
用者の雇用直後時点の加入率は 90%に跳ね上がり、3 年後には 98%を超えた。このように
自動加入方式には二つの効果がある。加入時期が早くなることと、最終的に加入者が多く
43
なることだ。
自動加入方式は、放っておけばお金を使うほうを選好する人を、どうにか貯蓄するように
誘導しているのではなく、労働者に惰性を克服させ、自分たちが本来なら選好するだろう
選択を手助けするものなのである。説得力のある証拠として、自動加入方式の場合はいっ
たん加入すると脱退する従業員がほとんどいないことが明らかになっている。自動加入方
式を採用した四社を調査したところ、年金プランの加入者のうち一年目に脱退した人の割
合は、自動加入方式導入以前に比べて 0.3~0.6%高くなるにとどまった。脱退率が低いの
は惰性による部分があることも考慮しなければならないが、脱退する人がほとんどいない
という事実は、労働者は自分が望んでいるように計画的に貯蓄できていることを理解 し、
満足しているためである。
7.3.3 強制的選択と簡素化
自動加入の代替案は、従業員一人一人にプラン加入するかどうかについて能動的な意思
決定を求めることである。労働者が最初に雇用された時点で加入資格があれば、年金プラ
ンに「加入する」か「加入しない」かのどちらかの欄にチェックを入れないと給与が支払
われない場合がその例である。強制的選択がとられている場合には、従業員は自分の選考
を示さなければならず、デフォルト・オプションはない。通常のオプト・イン方式と比べ
て加入率は高くなるはずである。ある企業はオプト・イン方式から能動的に意思決定する
方式に切り替えたところ、加入率が約 25%上昇した。
これに関連する戦略は、加入手続きを簡単にすることである。加入書類を簡素化して分析
することによって、この考え方をテストした研究がある。新しく雇用された従業員にオリ
エンテーション期間中に加入カードが渡された。加入カードには拠出率 2%、規定の資産分
配でプランに「加入する」という欄があった。従業員は時間をかけて拠出率と資産分配を
選択する必要がない。
「加入する」欄にチェックをするだけでよいのである。その結果、新
規雇用後の四か月間の加入率は 9%から 34%に急上昇した。人々は、本当は年金プランに
加入したいと思っており、一見何でもないような障害をとり除く道筋をつけてあげると、
非常に劇的な成果が生まれることがある。
自動加入や簡素化を採用すれば、退職貯蓄プランの加入プロセスは大きな問題ではなくな
り、長期的なメリットに目を向けた行動をとらせることができる。
7.4 代替報酬による販売戦略
ここでは、代替報酬による販売戦略を紹介する。代替報酬とは長期的メリットを短期的
メリットに置き換えるというものである。これをわかりやすくするために一つ具体例を挙
げたいと思う。
ある肝炎にかかった患者が、試薬品による新しい治療法の臨床試験に参加した。肝硬変の
44
リスクへの考慮からの参加であったが、その試薬品の副作用はかなり重く強烈な不快感を
与えるものであった。注射をする度に患者は一晩中体の不具合に悩まされ、嘔吐や頭痛、
体の震えに苦しんだ。ここで患者は毎日帰宅するごとに注射をして苦しい一夜を過ごすか、
注射をせずに快適な一夜を過ごすかという判断に迫られる。当然注射をしなければ将来的
に肝硬変になる確率は高まり、これは患者自身の自己コントロール力を試される極端な例
として考えられるだろう。まさに目の前の利益である快適な一夜をとるか、長期的な利益
である肝硬変の脅威に怯えない健康な未来をとるかという問題である。
この患者はこの問題を代替報酬による自己コントロールで克服した。この患者の場合は自
分の趣味である映画を利用した。週3回必要な注射の日に必ずレンタルビデオ店にいき自
分の見たい映画を借りて一日それを持ち歩いて心待ちにする。そして帰宅後にビデオの準
備をしてから注射をし、注射を終えたらビデオを見ることを習慣とした。決して「肝硬変
を治す」という長期的メリットではなく、「好きな映画を見る」という短期的メリットを意
識することでこの患者は欠かすことなく一年半の投薬生活を成功させた。
このように人の遠い未来の大きな利益よりも近い今の小さな利益を価値が高いと評価して
しまう人間的性質をうまく利用し非合理的行動を回避するのが代替報酬である。上に挙げ
た強制的選択のケースは、将来に向け貯蓄できるという長期的なメリットを給料を得るこ
とができるという短期的なメリットにすり替えることで、プランへの加入率を高め、それ
が結果的に長期的なメリットにつながったと捉えることもできる。
この代替報酬を利用した商品として挙げられるのが歯磨き粉である。歯磨き粉の効果は虫
歯予防や歯周病予防・口内の清掃効果の向上などがあるが、実は私たちが日々の生活で歯
磨き粉に期待している効果は歯の健康ではない。人々が歯磨き粉を通して得たいと思って
いることは将来的な健康な歯ではなく今すぐ味わえる爽やかなミント味である。歯磨き粉
は歯磨きという行動の大きな代替効果になり、もし歯磨き粉が存在していなければ歯ブラ
シを使った歯磨きは今ほど習慣化してなかったとさえ言われている。このように短期的な
メリットを提示することで、双曲割引によって目先の利益を評価する人々に対して非常に
効果的な影響を与えることができる。
代替報酬による販売戦略の提案として、双曲割引を持ったヒューマンなダイエッターに対
するエステサロンのマーケティングをあげる。サロンの利用者の大多数が双曲割引を持っ
ていると仮定し、ダイエットしたいがついつい間食をしてしまうような双曲割引を持って
いる利用者を対象とする。
エステサロンではサロンの会員登録と同時に消費カロリーなどを測るダイエットアプリを
インストールすることをデフォルトとする。このアプリとの連動には、サロンから帰宅し
た後の暴食や運動不足などの堕落を防ぐという目的がある。このインストールをデフォル
トにすることでほとんどの加入者に対しサロンだけでなく家でのダイエットをナッジする
ことができる。
登録後、目標消費カロリーや目標体重をサロンとダイエッターの相談のうえ決める。しか
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し計画を立てただけでは強制力がなく、ダイエッターがその計画から逸脱してしまう可能
性が高いので、計画を立てた時点で高額なサロンの入会費を先払いするなどのコミットメ
ントを行うことで逸脱のインセンティブを減らす。
利用者は帰宅後も目標量の運動を行い、アプリがその運動量を測り、運動量に応じてポイ
ント化する。アプリ内で貯めたポイントはサロンで使用でき、ポイント数に応じたサービ
スを受けられる。ダイエットによる減量という長期の報酬を、ポイントを貯めることによ
るサービスという短期の報酬に置き換えることができる。この代替報酬によりダイエッタ
ーはお菓子などを食べてしまうインセンティブから自分をコントロールすることができ、
ダイエットを続けられる可能性が高くなる。
このように、双曲割引による高い時間割引率を持った消費者たちの非合理的行動を回避す
るための手段は様々あるが、これらを一般化すると大きく二つに分類できることになる。
一つは、誘惑に直面した時、強制的に誘惑に打ち勝つ環境を事前に作り上げてしまうコミ
ットメントである。ホモ・エコノミカスとは異なり人間は近い誘惑を優先してしまい当初
の計画を放棄してしまうことはここまで繰り返し述べてきた。そしてこの現象が多くなる
のは誘惑が目の前に現れて私たちの五感に強く働きかけてくるときであることを John Lee
も述べていた。そのため、誘惑が自分に訴えかけてくる前に自身の行動を制限するコミッ
トメントは有効な手段である。
二つ目は誘惑に直面したとき、その誘惑よりも優先することができるメリットを準備する
ことである。その時、長期的利益を人間はどうしても割り引いて考えて評価してしまうの
で目の前の誘惑よりも優先されるような長期的利益を用意するのは困難になってくる。そ
こで、割り引かれることのない短期的利益を設定してしまうような代替報酬を用いて誘惑
に打ち勝つことは一つの手段となりえる。
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おわりに
事前のコミットメントと計画実行中の代替報酬の両者を心理的、社会的要因に応じてう
まく組み合わせて用いることで計画の放棄を克服することができる根拠をこの論文で示す
ことができたのではないか、そして、従来の合理的な面だけではなく人間の弱い面につい
ても経済学が切り込むことで、経済学はより豊かなものへと発展しつつあると私たちは思
っている。
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参考文献
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