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ハルムスにおける リアルなもの
ロシア語ロシア文学研究 37(日本ロシア文学会,2005) ハルムスにおける リアルなもの 連作 出来事 を中心に 石 橋 良 生 ダニール・ハルムス(1905-42)について語られる 自の存在論へと移行しているのである。 際には常に オベリウ というグループの名がついて 以上の観点から,本稿で試みるのは,ハルムス自身 廻る。しかし,このグループが存在したのは 1927 年 の手になるいくつかの論稿を手がかりに,詩から散文 か ら 19 30 年 の 三 年 間 で あ り,連 作 へと重心を移していくハルムスの 作過程において, ( ) ( 1933-9 )や 中 篇 出来事 老 婆( ) とりわけ後期の連作 出来事 を中心に, リアルな (1939 )といった彼の代表作が書かれるのはその解散 もの がいかなる変容を るのかを明らかにすること 後のことである。 である。 その著書 ダニール・ハルムスとロシア・アヴァン 1.オベリウ ギャルドの終焉 において J.P.ジャカールは,ハル ムス作品を, 揺るぎない宗教的世界観に支えられた 哲学的完結性を特徴とした 前期の詩作品と,不条理 1−1.同一性 な様相を濃くする後期散文作品とに区別しつつも,こ オベリウ時代におけるハルムスの芸術観は, ダ の変遷にむしろ連続性を見出し, 有機的発展 過程 ニール・イヴァノヴィチ・ハルムスによって発見され として提示しているが,同時にその過程で チナリ た対象とかたち( ( ) というグループが重要な役割を果たした点 )(1927) (以下, 対 1 を強調している。 象とかたち と記す)と題された論稿に端的に示され ハルムスに加えて,オベリウの一員でもあったヴ ている。それによれば, あらゆる対象( )に ヴェジェンスキー,詩人オレイニコフ,そして二人の は四つの現働的意味と一つの本質的意味がある とさ 哲学者,ドゥルースキンとリパフスキーという中心メ れる。 現働的意味 とは,ものの輪郭を縁取る幾何 ンバーからなるチナリは,人を ったパフォーマンス 学性のほか,目的と不可 の功利性,あるいは感情的, で知られるオベリウに対し,より形而上学的探求に傾 審美的効果であるのに対し, 第五の本質的意味 斜した秘教的なサークルであったといわれる。 は 対象が存在するという事実それ自体 であって オベリウ時代の戯曲 ( エ リ ザ ヴェータ・バ ム と 人間と対象とのかかわりの外にあり,対象それ自体 )(1927)のうちに既にこの変遷の にかかわる 対象の自由意志 である。そして こ 契機を認めるジャカールは,ベケットやイヨネスコら れを他のシステムに移し変えると,人間にとって無意 西欧の実存的な不条理文学との共通性を見ているのだ 味な言葉が得られる という。 (2, 305-7) が,この変遷には彼が述べているのとは異質の変化が 対象 をありのままに感覚することを妨げる あるようにも思われる。 働的意味 を断ち切り,言語における というのも,オベリウが追求したのがリアルな 対 象・モノ( 現 無意味 とし て 対象 の存在それ自体を顕すことと要約されるそ ) であったことはその有名なマニ の試みを保証しているのは,二重否定が肯定と同値で フェストからも知られるところだが,ハルムスの芸術 あるという論理である。だが,人間とは無関係に存在 観を窺う たる諸論稿において,以後この 対象 と する 対象 が 現働的意味 とは無縁であるにせよ, いう語が消えていく傾向にあるのに対し,チナリの一 逆に 無意味 だからといってそれがリアルな 人ドゥルースキンの影響下に展開された 存在と時間, 象 だといえるだろうか。とりあえずそれは措くにし 空間について( ても,オベリウが詩的言語の革新を求めつつもなおそ 2 )(1940) という後年の論稿においては, の根底に言語の要請する論理を保持していたことは, 存在は,三という数によって記述されねばならない ( 対 そもそも彼らが希求したのが 対象 であったことに 31)と述べられているように,その探究は, オ も窺える。 ベリウ宣言 で謳われていたような詩的言語論から独 オベリウ宣言 において具体的に述べられている 85 石橋良生 ところによれば,その実践とは,例えば 大臣を演ず こ が あそこ になった いま においても同様に, る俳優が,舞台をよつんばいで歩きはじめ,しかも狼 ここ と あそこ が含まれるはずである。それゆ みたいに吠えだし たり, ロシアの農夫を演ずる役 え, いま 者が,突然ラテン語で長々と演説をしはじめ たりと になる。 は ここ にも あそこ にもあること いった 本筋とは関係ないテーマ における 意味の 衝突 によって, 対象 いまはどこにあるのか。 を 他のものとは関係を持 いまはここにある,いまはあそこにある,いまはここに, たない独立した個々の存在として浮かび上がらせる いまはこことあそこにある。 ことだという。3 首尾一貫した な部 これはあれである。 このひとつの世界 における有機的 としてあった 対象 ここはあそこである。 が,それ自体の存在を主 これ,あれ,ここ,あそこ,ある,われ,われら,神。 張する個々の 断片 となって世界から切り離される (1, 127) ことによって日常的な世界が崩壊するとき,世界感覚 が新たにされるというのだが,同時にここには,オベ 以上に 揺るぎない宗教的世界観に支えられた哲学 リウの世界観の根底にあった根強い信念も窺われる。 的完結性 4 を見出すこともできようが,問題にした すなわち,以上のようにして 一 なる世界が 々 いのは次の点である。すなわち, これ であったも に砕け散りながらもなお,個々の 断片 がそれぞれ のを あれ として見るように,世界を流動の相のも 一 なるものとしてあるならば,世界であれ,個々 とに観ずるならば,時間の推移とともに これ の 対象 であれ,それらは同一性としてあり,そこ には あれ とに 一 を基礎とする世界観を認めることができる。 と 裂してしまう 対象 という概念は意 味をなさないばかりか,そもそも 対象 という同一 性の存在する場などありえないのであって, 対象 1−2. 対象 ( の瓦解 という概念そのものが雲散霧消してしまうということ しかし,オベリウ解散前後に書かれた詩 非いま である。それは 対象 がその存在を顕すこととは異 )(1930)において転機が訪れる。 なる。なぜなら,個々の 対象 なきところにその 本質的意味 なるものなど想定しえないからだ。 これはこれである。 実際, 非いま の約二ヶ月前に書かれた ダニー あれはあれである。 ル ・ イ ヴ ァ ノ ヴ ィ チ ・ ハ ル ム ス の 11 の 確 信 これはあれではない。 これは非これではない。 (1930)(以下, 確信 と記す)には,はっきりとこ う記されているのである。 この至極自明の論理は,以下の光景を眼のあたりに してその限界に直面する。 対象は消え去った。(2, 304) これはあれのもとへと消え去ってしまった,そしてあれ だとすれば,リアルな 対象 はこれのもとに消え去った。我々は言う,神がふっと息を を求めて, 人間 と 対象 とのあいだに立ちはだかる 吹いたのだと。 現働的意味 を切断するという,オベリウの試みはもはやそれ自体 これはこれのもとへと消え去ってしまった,そしてあれ はあれのもとに消え去った,我々はどこからも出られず, が意味を失いかねない。従って,以上の世界観の変化 どこにも行けない。 は,文学テクストそのものの変化として現れることに なるはずである。そして実際, 非いま というテク はじめの一文が意味しているのは,要するに,時間 の推移とともに ストは 無意味 どころか,有意味なものとして読み これ であったものが あれ にな 解かれるべく差し出されているのであって,一種の るという,ごく当たり前のことに過ぎないのだが,ハ ザーウミからなる作品とは明らかにその様相を異にし ルムスはそこから一挙に飛躍する。 ている。つまり,オベリウ解散前後の段階において既 これ が あれ へと移り変わったのは ここ にそのマニフェストを支えていた詩的言語論とは異な においてなのだが,それは翻って ここ には こ る方法論に基づいたテクストが産出されていることが れ も あれ もあるに転ずる。 に 確認されるのである。 ここ は時間 の推移とともに あそこ になるが,とすれば, こ だとすると,当然, リアルなもの はどこに見出 86 空左 送右 り揃 調え 整る し為 て い ま す ハルムスにおける リアルなもの されるのかという疑問が生ずる。以下では,連作 出 名前が オフ(- ) で終わるというだけの理由で, 来事 あるいは スピリドノフ からその 妻 や 子供た を検討しながら,その後の リアルなもの の 展開を見ていくことにしたい。 ち , 婆さん という家族関係,そして再び名前の語 尾が共通するという非論理によって,哀れな登場人物 2.出来事 たちは次から次へと立て続けに死に,あるいは道を踏 み外していく。これら諸々の出来事に共通しているの しかしながら, 非いま において いま ここ はただ,通常の意味での理由は何もないということだ にある われ が 神 にまで拡大されたのは,たっ けであるように思われる。 た い ま , こ れ が あ れ に なった こ と か ら, いま は これ でも また ソネット( あれ でもあるという帰結 ) (1935)と題され た 作品は次のように始まる。 が導かれることによってであった。つまり, 一 な る対象から 裂した これ と あれ もまたそれぞ 驚くべき出来事が起こった。7 と 8 のどちらが先だった のかを忘れてしまったのだ。(2, 331) れ 一 なる対象とみなされることで,もとの対象と 同一平面上に共存していた。この誤 から論理が破綻 するとともに,束の間垣間見られた新たな世界は再び ここでの出来事とは忘却であるが,先のケースと同 その姿を消してしまうことになる。 非いま の翌日 に 書 か れ た ムィール( 様,いかなる理由もなく突発する。 ソネット に限 ) らずハルムスの作品において登場人物はしばしば忘却 (1930)は, 世界が崩壊するのを目撃した 際の衝撃 し,あるいは忘却されるが,現在と過去とを繫ぎとめ, を生々しく伝えているが, 見るのをやめてはじめて 自己の同一性を保証している記憶を失うということは, 世界が見えることがわかった と述べられながらも, 6 世界とのあるべき連続性を断たれることでもある。 その結末において既に 私は世界だ,しかし世界は私 この忘却は主人 のみならず隣人たちにも感染し, ではない。私は世界だ,しかし世界は私ではない 途方にくれた登場人物たちはあてどなく彷徨うことに (2, 307)とあるように,幸福な世界観は早くも危機 なるのだが,突然, 園のベンチから子供が転げ落ち に している。こうして再び, どこからも出られず, て顎を骨折することで,先の忘却そのものが忘れられ どこにも行けない 自己に閉じ込められてしまった て秩序が回帰し,各自は我に返って帰路につく。この 私 は世界から隔てられてしまう。 第二の出来事である転倒もまた連作 出来事 を通し ここに転機を見出すならば,なるほど,実存主義的 て繰り返し現れるが,それは確固たる足場を失って宙 な観点からジャカールが主張するように,連作 出来 に投げ出された身体を支えきれず,もはや しっかり 事 で描かれているのは不条理の世界そのものだとい と立っていることができない という意味で,大地と う見解も成り立ちうる。以下に全文を掲げるその名も の接点を失った宙吊り状態に他ならない。 出来事( ) (1936)と題された一編など 以上を見る限り,出来事とは不条理そのものでしか 5 その典型とみなされよう。 ないように思われる。 3.障害物 ある時オルロフは,すりつぶしたエンドウ豆を食べ過ぎ て死んだ。それを知って,クルィロフも死んだ。スピリド ノフは自ら命を絶った。スピリドノフの妻も食器棚から落 3−1.座標変換 ちて死んでしまった。スピリドノフの子供たちは池に落ち しかしながら, 対象とかたち において, 無意 た。スピリドノフの婆さんは酔っ払って旅に出た。ミハイ 味 とは, 対象 と言語という異なるシステム間で ロフは髪を切るのをやめたところ,疥癬にかかってしまっ の翻訳不可能性によるとされていたことからすれば, た。クルグロフは鞭を手にした女を描くなり発狂してし まった。ペレクレストフは電信為替で 400 ルーブルを受け 以上の無意味は,世界はもはや生に意味を与えること 取った途端,傲慢な振舞いが目立つようになり仕事をクビ のできない空虚だという否定的な認識に根ざしたもの になってしまった。 とは異なるのではなかろうか。 善人たちというのは,しっかりと立っていることができ ないものなのだ。 (2, 330) カルーギンは眠りに落ちると夢を見た。彼は茂みにうず くまっていて,そのそばを警官が通り過ぎていく。 もしそれを理由と呼べるならという条件つきでだが, カルーギンは目が覚めると,口のまわりを掻いて,また 87 空左 送右 り揃 調え 整る し為 て い ま す 石橋良生 寝入ってしまった。そして再び夢を見た。彼は茂みの傍を 以上からは, 非いま において新たにされた世界 歩いていて,茂みでは警官が身を潜めてうずくまっている。 観が一旦は破綻したにせよ,その思 は後年に至るま カルーギンは目が覚めると,枕をよだれで汚さないよう で継続していることが確認される。このように,ハル に新聞紙を頭の下に敷いた。寝入ってしまうと再び夢を見 ムスの関心が,世界の中にあることよりもむしろ,世 た。彼は茂みにうずくまっていて,その傍を警官が通り過 界の成り立ちに向けられていたことからすれば,それ ぎていく。 自体は何ものでもなく,座標空間を規定する原点に過 カルーギンは目が覚めると,新聞紙を取り替え,また横 になって寝てしまった。寝入ってしまうとまた夢を見た。 ぎなかった茂みが顕在化することによって, これ 彼は茂みの傍を歩いていて,茂みでは警官がうずくまって なる同一性として空間の内にあったカルーギンがもは いる。 や存在しえなくなるという事態において問題とされて そこでカルーギンは目が覚めたが,もう寝ないと決めた いるのは,世界から隔てられることであるよりもむし ものの,すぐに寝入って夢を見た。彼は警官の傍にうずく ろ,座標系としての世界そのものの変容という,より まっており,その傍を茂みが通り過ぎていく。 原理的な問いであったと カルーギンは叫び声をあげ,ベッドで寝返りを打ちはじ めたが,もう目を覚ますことはできなかった。(2, 337) えられる。だとすれば, 一 なるものとしての人間や対象の解体とは,世界 が 造される現場に立ち会うことでもあるだろう。 ここで取り上げた 夢( )(12)(1936)に お 3−2. 裂 いては,茂みを挟んでカルーギンと警官とが役割を 連作 出来事 からではないが,同時期の作品 替しながら隠れん坊を繰り返すうちに関係項にずれが 眠 りが人間から脱け出そうとするとき……( 生じ,茂みが歩き出すという悪夢に変わる。そしてそ の結果,四昼夜にわたって眠りに捕縛された後,再び )(1938)において微細に描か 日常世界に放り出されたカルーギンはもはや誰からも れるのも,覚醒という出来事における人間の 裂であ 認知されることなく世界から見捨てられ,二つ折りに る。 されてゴミとして捨てられる。 確かにこれも不条理な物語ではある。しかしながら 眠りが人間から脱け出そうとするとき,彼は愚かしくも ここにはそれとは異質な問題も孕まれている。注目し だらりと両足を伸ばしてベッドに横たわっているのだが, たいのは,この断絶がもたらされるのは,カルーギン ナイトテーブルの上では時計が時を刻んでいて,眠りは時 計から脱け出そうとしている。そのとき彼にはこう思われ と警官の狭間にあって互いを け隔てるばかりか,そ る,眼前には巨大な黒い窓が開かれていて,この窓に向 の役割をも規定していながら,二人にはそれと意識さ れない あいだ かって,ひょろひょろとやせて たる茂みが警官と役割を 替すると 魂が飛んでいかねばならないのだと。もはや生なき身体は いう,関係項のずれによってだという点である。 といえば,愚かしくも両足を伸ばしたままベッドに横たわ り続けるだろう。そして時計は微かな声で時を告げるだろ このようにハルムスが存在を関係として捉えていた う。 これでまた一人眠りに落ちた ことは,冒頭にも触れた 存在と時間,空間につい と。この瞬間,漆黒 の巨大な窓が音を立てて閉ざされるだろう。 7 て という後年の論稿にも窺える。 それによれば, オクノフという名の男は愚かしくも両足を伸ばしてベッ 世界は 一 なるものからなるのではない。空虚なる 一 を二つに 相な人間の姿をした彼の ドに横たわり,眠りにつこうとしていた。だが,眠りはオ ければ 三 が得られるが,この三 クノフのもとを立ち去ろうとしていた。オクノフは両目を 者,すなわち, これ( ) と あれ( ),お よ 開けて横たわっていたが,恐ろしい えがぼんやりした彼 の脳裏を叩きつけていた。(2, 130) びそれらとは存在の位相を異にし, 何ものでもない もの( 障 害 物( ) から 何ものか( ) を 造する ) が三位一体をなすことに よって世界は存在しているという。 ( ドゥルースキンの 案になるという れ という概念は 非いま 自 の魂が身体から離脱して,眼前に開かれてある 30-1) 巨大な黒い窓 に向かって飛んでいかねばならない これ と あ と感じている 彼 は, もはや生なき身体 と肉な にも見られたが,かつて き 魂 とに 裂しようとしている。一方では,眠り 一 なるものとしてあった個々の対象は 障害物 として概念化され, これ が脱け出すとともに意識の棲処と化すような,何もの や あれ とは異なる位 かが出入りする受動的な場所として,また他方では, 相において捉えられている。そして, 障害物 が, いわば 一 巨大な黒い窓 を,ということは眠りから覚醒へと なるものとして現れるとき, これ と いう過程を内在的に潜り抜ける能動性としてあるこの あれ はもはや存在しえない。 人間 は,空間性と時間性という二極に向かって純 88 ハルムスにおける リアルなもの 粋化することで己を引き裂くのだが,まさにそのとき, して落下し 々に砕け散った( )。 あらゆる欲望も対象も欠いた,ドゥルースキン言うと 別の老婆が,窓の外をうかがい,死んでしまった老婆を )8 がどこからとも 見ようとしたが,これまた並々ならぬ好奇心から,窓から ころの 裸の人間( 身を乗り出して落下し 々に砕け散った。 なく現れ,あたかも自 がそこにいないかのようにこ それから,三人目の老婆が窓から落下し,続いて四人目, の光景を眺めている。 五人目が墜落した。 この 眠りが人間から脱け出そうとするとき ,眠 六人目が落ちたとき,この光景に見飽きた私はマリツェ りはまた規則正しく時を刻む 時計 からも脱け出そ フスキー市場へ出かけたのだが,そこでは,ある盲人が編 んだショール( うとするのでもあってみれば,覚醒とは時間からの逸 )をもらったということだ。 (2, 331) 脱でもある。このとき,連続的な時間の流れが断ち切 られ世界が終わるとともに,まさにこれから新たな世 界が構成されようとしているのだが,再び 存在と時 次々に老婆たちが墜落するという不可解な出来事が 間,空間について に従えば,この 現在 という特 起きるのはまたしても窓であるが, 並々ならぬ好奇 異点は既に終わってしまった世界の内にはもはやなく, 心 の赴くまま,窓から身を乗り出した途端,老婆た かといってこれから生まれようとしている世界も未だ ちは世界との繫留点たる足場を失い,一瞬にしてそれ 訪れてはいない。それは二つの世界の間にありながら まで眼前に広がっていた空間と時間を奪われ,重力に どちらの世界からも見捨てられ宙吊りにされた瞬間で 従って落下する物体に変貌しようとする。このとき, あって,もはやそこには 長さがない 。( 因果関係の連鎖が突然断ち切られるとともに,彼女た 32) 以上からすれば,覚醒という出来事が生起する不気 味な ちは,もはや世界を持たない 裸の人間 と化す。 漆黒の巨大な窓 とは,もはや空間も時間も存 ヤンポリスキーによれば,ハルムスのテクストにお 在しない点だということになろう。 いては,連続的な空間を切断する出来事がセリーをな すと,一転してそれは秩序と化し,物語を進展させる 4.物質 9 要因になるというのだが, 実際,ここにおいても, はじめの老婆の墜落によって恐る恐る 4−1.運動 衡が破られる と,その運動は直ちに加速し,この 裸の人間 たち ところで,時間も空間も存在しないとはいかなるこ を次々と窓から引き剥がしながら,時間的・空間的に とであろうか。ハルムスが述べるところによれば,時 長していこうとするひとつの流れをなす。しかし 間も空間もそれ自体としては存在しないが,互いが他 いったん流れが形成されてしまえば,もはや墜落する 方の 老婆たちは時間・空間から独立した 裸の人間 なる 障害物 をなすことで相関的に存在していると いう。そして空間と時間の 障害物 をなすのは 物 特異性ではありえず,世界の構成要素たる個々の 存 質あるいはエネルギー (以下,ハルムスに倣い 物 在(者) ( ) に 転 じ る こ と に な る。つ ま り, 質 と記す)であるが,それが物理的な 長量に還元 出来事( ) としてあった老婆の墜落は,世界 されることで,空間と時間の存在が証明される。それ の内部に位置づけられて 自体としては非在のそれら三者が三位一体をなすこと が,それと同時に,テクストの運動は失速し, 怠に で世界は存在しているのだという。 ( -) 襲われた語り手のとぼとぼとした足取りに取って代わ だとすれば,空間と時間が消えてしまうという出来 事とは,それらの 障害物 害物 であった と化すのである られることで マリツェフスキー市場 物質 が 障 という固有名 詞に示される既知の空間と再び接続される。その結果, たることをやめて純粋なエネルギーと化し,空 無意味な出来事の連鎖として展開されたその運動は, 間的・時間的広がりをもった世界のもとに繫ぎとめら 編まれたショールという対象となって盲人の手に届け れていた個々の存在が何らかのかたちでその変容を強 られ,再び不可視のものとなってしまう。 いられる事態を意味しているだろう。 こうした 物質 の運動そのものがテクストを構成 4−2.赤毛の男 している典型的な例として以下に掲げる 墜落する老 婆たち( ) 連作 出来事 の冒頭を飾る 水色のノート (1936-7) ( を挙げることができる。 10) 10 (1937)と題された有名 な作品においても, これ なるものと し て あった 赤毛の男 は身体を消去されることでその存在を解 体される。 ある老婆は,並々ならぬ好奇心から,窓から身を乗り出 89 石橋良生 赤毛の男がいた。彼には目と耳がなかった。そして髪も 象 からなる世界と 物質 世界との転換としての なかった。だから,赤毛というのも 宜上そう呼んでいる 出来事 それ自体の主題化は,両者を同位対立に置 に過ぎない。 くような地平を開くことになるだろう。 彼は話すことができなかった。というのも口がなかった これまで度々参照してきた 存在と時間,空間につ からだ。そして鼻もなかった。 いて は次のように結ばれている。 腕や足さえなかった。そして腹や背中,背骨もなかった。 内臓も一切なかった。つまり何もなかったのだ。そんなわ 60.自身について言えば, 私は在る( らを 万象の結び目 に位置づける。( けで,何について話していたのだかわからない。 どうやらこのあたりで話を終えたほうがよさそうだ。 ),私は自 34) (2, 330) これは 赤毛の男 確信 における, 私は一であるが,流動 は消えてしまったが,他方で,そもそ 的に思 する という,やはり結びの一文と呼応して も 何もなかった のであれば,存在しないものを葬 いるように思われる。 数は 2 からはじまる という り去るわけにもいかず,死を禁じられた 赤毛の男 ピュタゴラスの思想から説き起こされる 確信 にお は,トカレフが指摘するように, あれ なる死者の いては,個々の対象を同一性のもとに捉える 一の法 10 領域へは移行しない。 だとすれば, 赤毛の男 は 則 は 偽 り で,そ れ ら 個々の 対 象 が こ れ あれ に行くことも これ に戻ることも拒まれ, あれ とに これ にも あれ にも属さない宙吊り状態に置か は 多 として捉え返されていた。 (2,304) れてあることになる。 存在と時間,空間について も概ねこの 多の法 つまり, 何もなかったのだ という言明において は, これ でも あれ と 裂し消え去ることで,かつての 一 則 の 長線上にある。とはいえ,そこで主張されて でもないということと,そ いるのは, 一の法則 からなる世界が誤りで 多の もそも何も存在しなかったということとが故意に混同 法則 から見た世界像が正しいということではない。 されるのだが, それらは絶対に同一のものであるた ,つまり動詞 めにそれだけ一層差異を含んでいる のだともいえ は 一 なる存在を意味 するとともに,自らの存在を隠すことで これ 11 と る。 というのも,この何ものでもない存在は, 何も あれ とを繫ぐ連辞作用をも併せもつことからすれ なかった のと同一である以上, これ ならぬ あ ば, 万象の結び目 とも言い換えられる 私は在る れ と し て 対 象 化 さ れ え ず,そ れ ゆ え,ひ と つ の これ と あれ ( をなして新たな これ に回収 ) とは,個々の対象よりなる それら個々の対象が これ と あれ されえないからだ。 一の法則 と, とに 裂して 消え去ってしまう 多の法則 という二つの世界観を 一方,この何ものでもない存在を抑圧すればするほ ともども内包する場を意味すると 13 えられる。 とす ど逆にその否認自体が否定しえない事実となるのだが, れば,必ずしも 多 の世界に リアル が見出され だとすれば,否認される対象が存在しなければならな ているわけではないだろう。実際, 一 が空虚であ いことになる。つまり, これ でも あれ でもな るのと同様, これ と あれ もそれ自体としては い 赤毛の男 はここで身体なきまま何ものかに転じ 存在しないのであれば, ある ものとはそれらとは ることになるのである。 別の次元に見出されるはずである。 原稿に付されていたという カントに抗って とい 無題の論稿 12 う注からすれば, このテクストにおける試みとは 数 は 秩 序 に 束 縛 さ れ な い …… ( )(1933)では,時 モノ 自体を顕すこととも えられる。だとすれば, 間と空間の作用を被らないがゆえに数こそが リアルなもの とは,意識に,あるいは世界に組み ル なのだと述べられている。 ( 込まれない,この何ものでもない何ものかとしての リア 15) リアルなも の が不変性を意味するならば,それは,出来事に際 物質 のことなのだろうか。 して立ち現れる 物質 を指すわけではあるまい。確 かに,それはテクストを衝き動かす原理であるには違 5.リアルなもの いないが,世界が変化するとともに自らも変化を被ら ざるをえない個々の要素自体が リアル であろうは しかし,1933 年から 1939 年にかけて個々に独立し ずがない。 た作品として制作された諸テクストが,改めて連作 実際のところ, リアルなもの という語は 対象 出来事 として編集されているように,個々の 対 とともにハルムスの論稿から消えていく傾向にある。 90 ハルムスにおける リアルなもの しかし,だからといって,それに相当するものが何も C 以後ハルムス作品からの引用は以下により,括弧内に巻 2 ないわけでもない。敢えて言えば,ハルムスにとって 数 と 頁 数 を 表 記 す る。 2 か ら の 引 用 に 際 し て は 巻 を “ ”と表示する。また表題末尾の括弧には制作年を記す。 の リアルなもの とは,相補的な対をなす, 一 を基礎とする世界と 二 に 裂する流動的な世界と 連作 出来事 を存在させるとともに,それらの転換に伴う世界の変 容に際してもなお不変であるような構造としての 存 在の三位一体 であり,あるいは 三 収録作品に関しては,連作中での番号も あわせて付す。 / 1 という数その もののことであったと えられるのである。 2 / おわりに 以上では,1920 年代のオベリウ期からその解散後 の 1930 年代にかけて リアルなもの が なお既訳のあるものについては以下を参 にした。 った過程 沼野充義 永遠の一駅手前 現代ロシア文学案内 作 を,断絶に着目しながら追ってきた。とはいえ,断絶 品社,1989 . を強調しすぎるのも適切ではない。オベリウ期におけ ハルムスの小品・10 編 井桁貞義,鴻英良,藤田登久, 藤盛一朗訳, あず 4 号(1990),67-78 頁. 工藤正広 ロシア・詩的言語の未来を読む 現代詩1917- る探求は,日常的な論理から洗い清められた 対象 にあったが,他方,後期の 出来事 においても,連 続的な時空間から引き剥がされた 出来事 が主題と 1991 北海道大学図書刊行会,1993. オベリウーの宣言 ,D.ハルムス 詩 貝澤哉訳,亀山 されたように,ハルムスが断絶・非連続性において 郁夫,大石雅彦編 ロシア・アヴァンギャルド 5 ポエ ジア リアルなもの を見出そうとしてきた点では一貫し 3 ている。 4 このように断絶と連続性を同時に指摘できるのも, まず 5 意味の衝突 という手法がそもそも 対象 を - 6 顕すという意図に反して,むしろ これ と あれ とに 言葉の復活 国書刊行会,1995,227-241 頁. オベリウーの宣言 ,231-232 頁. 裂させるものであったことが理由として挙げら 7 れよう。従って, 対象 という概念の棄却はその必 C この論稿は 1940 年に書かれたものだが,1934 年の日記 には既にその構想が見られる。 / 然的な結果と えられる。また,以上と関連するが, 恐らく,執拗に 一 を見てしまう視線に抗って,同 一性のなかに差異を見出し,あるいは逆に二項対立の うちにそれを規定する 一 ムスの 作や思 を見出すといった,ハル // 8 / のあり方によるものでもあろう。 本稿で試みたのは,オベリウ期から連作 出来事 9 を中心とする後期散文作品へと至る過程を,ハルムス の思 の軌跡を C 10 りなおすことで,連続性と断絶をと もに孕んだひとつの線として素描することであったが, その際取り上げることができたのは連作 出来事 中 11 のごく一部に過ぎず,全ての作品が以上に論じてきた カフカ マ イナー文学のために 宇波彰・岩田行一訳,法政大学出 版局,1978,126-127 頁. 問題系に収まるわけではないことは断っておきたい。 12 (いしばし C ジル・ドゥルーズ,フェリックス・ガタリ よしお,東京大学大学院生) 13 C 本稿での議論に直接関係するわけではないが,以下から いくつかの示唆を得たので記しておく。 注 C 1 / 91 - 石橋良生 - - 92