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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
大田洋子の原爆文学作品『半放浪』 : センセーショナルな表現「(ざ
まを見ろ)…」が意味するところ : 日独文学比較論のために
Author(s)
濱崎, 一敏
Citation
長崎大学教育学部紀要. 人文科学. vol.68, p.9-19; 2004
Issue Date
2004-03-26
URL
http://hdl.handle.net/10069/5828
Right
This document is downloaded at: 2017-03-29T00:21:53Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教育学部紀要 -人文科学 - N0.
6
8, 9-1
9(
2
0
0
4.3)
大 田洋子の原爆文学作品 『半放浪』
-.
センセーシ ョナルな表現
「
(
ざまを見ろ)・- 十が意味するところ -
(日独文学比較論のために)
溶
暗
敬
EI
NATOMBOMBENLI
TERATURWERKYON
OTAYOKO:
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)
HAMASAKIKa
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Ⅰ.大田洋子 と 『
半放浪』
Ⅱ.「(ざまを見ろ)・・・
」が意味するところ
(
1
)「
侵略戦争」および 「
原爆投下」にかかわる責任の問題
(
2)原爆文学の 「
抵抗」 という問題
Ⅲ.原爆文学の表現形式
Ⅰ
.
大田洋子 と 『半放浪』
1
9
0
3
6
3
年)は5
3
才にして短編 『
半放浪』を書 く。「
私」が主人公の 自伝その
大 田洋子 (
ものの 「
心境小説」であるこ
「
私」は芭蕉の句 「
旅 に病んで夢は枯野のかけめ ぐる」に,あるいはまた友人林芙美子
共感」をお
の言葉 「小 さ くは 自分の家をのがれたい。大 き くは地球 をのがれたい」に,「
ぼえる.そ して こうつづけている。「
林芙美子がで きれば地球 か ら逃げたい と,L
気 どった
ことを云 っておいて間 もな く急死 したあ と,水爆賓験があって,東京に死の灰 と云われる
ものがふ って来た。 (
ざまを見 ろ) と私は思 った。死の灰にまみれて,ぞ くぞ くと死んで
見 ろとよい。そうすれば人間の魂が現代の不安 にたいして, どうな らなければな らぬか,
い くらか納得で き,心はゆさぶ られるかも知れぬ。私はそ う思 っておいて,旅 にでること
」1
)
を考 えた。
1
0
波 崎 - 敏
旅先で 「
私」は 1
9
才の売春婦 「
邦ち ゃん」の死に出会 う。「
邦ち ゃん」は 「どぶ川のほ
とりを歩いていて,ひょい とたおれたまま,息をひきとった」 という。心臓麻痔だった.
「
年 とった私」は 「
女の死骸にかけ られた一枚のむ しろ と,む しろに俸わる女のか らだの
ふ くらみを眼にした とき,利郡の ようにではあったが,己の末路を妄想」する。2)事実,
大田洋子 もやがて旅先の福島,会津の温泉旅館で急死する。入浴中の心臓麻痔だった。享
である。
年 61
大 田洋子は 「(
ざまを見 ろ)・- 」 と怨念のかぎ りを表現 した後 ,5
0
才代の半ば以降ぶ
っつ りと 「
原爆」を書かな くなる。 この意味で,いわば 筆̀を折 る'のである。
原爆」によって図 らず も
大 田は本来小説家ではあったが敗戦直後の 『
屍の街』以降 ,「
新たに名をなすべ く誕生 した作家であった。 3)原民書や峠三吉,正 田篠枝,栗原貞子,長
崎の福 田須磨子や山田かん らとともに,大田は被爆作家の 「
第一世代」 と称せ られる。直
接被爆 し,被爆の体験を描 きつづけたか らである。
原民書は1
9
51
年 3月,朝鮮戦争のさなかに多量の飲酒の うえ鉄路 自殺。享年 4
6
であった。
2年後の 1
9
5
3
年 3月峠三吉 もまた左肺葉切除の手術中に死去する03
7
才の若 さであった。
1
9
5
2
年 7月)に 「
原民害が生 きていて くれて,彼の書 き方
この間,大 田は 『近代文学』 (
で書 き,峠三吉が もっと健康で充分に詩 を書 き」 と,無念の願いを表 白している。 さらに
また 「
私は私 ひ とりが書かな くてほな らないのを, どんなにつ らく思 っているか知れませ
ん。一人では書 ききれない。私一人に書かせてお くの も,日本の作家の恥だ と思 うのです。」
とまで述べている。 4) 「
広島」ない しは 「
原爆」を 「
一人で書いている」という気負い,
「
一人では書 ききれない」 という押 しつぶされそ うな抑欝感がみて とれる.
1
9
51
年)で女流文学者賞を受賞す るな ど,い くつもの作品を もの
確かに 『人間濫襖』 (
した大 田は,一般には 「原爆文学の家元 」 5) とも言えた。原民書 と峠三吉亡 き後は ことに
そ うした存在であった。 したがって,大田洋子 というひ とりの作家の軌跡を追 うのは,同
時に 日本の原爆文学が歴史的に体験 したひ とつの軌跡をた どるに等 しい。 こう言い切 った
として も許 されるはずである。
不安神経症」が もとで,大田は
この ころ,つま りは 『
半放浪』の 4年前,被爆以来の 「
4
0日間ほど東大病院の神経科に入院 している。 このいきさつは後の平和文化賞 (
文化人会
読)受賞作品 『
半人間』に詳 しい。著者大田洋子がその人である主人公は 「篤子」 という。
「
一九五二年の現在,なににあざむかれているのかわか らないが,あざむかれているとい
う意識 には,確かな手癒 えがあった。- ・篤子は死や発狂の思いを極力警戒 していなけれ
ばな らなかった」 6) とい う。「篤子」はまた 「原子爆弾の素材で作品を書 きだす と,感情
の昂ま りを抑 えるため,抗 ヒスタミンの注射をぶつつづけに した」 とも書 く。「
血のに じ
む怨恨の回顧」の故にである。 7) 「怨恨」が原子爆弾にたいするそれであるのは論 をまた
ない。事実 として,神経性疾患以外 にも作家大 田にかせ られた病名はい くつ もあった。 胃
潰癌。胆石O乳癌の手術まで している。東大病院神経科以外にも,東京女子医大病院,聖
路加病院,清和病院な どを転 々とする。被爆の体験は大田の精神 も肉体 も限界をこえるほ
どに蝕んでいた。
「(
ざまを見 ろ) と私は思 った。死の灰にまみれて,ぞ くぞ くと死んで見 るとよい」 と
9
5
4
年 3月 1日には周知のご とく焼津
大 田が吐 きだすように書いた 『
半放浪』の 2年前 ,1
を母港 とするマグロ漁船第五福竜丸が,アメ リカによる水爆実験のため南太平洋ビキニ環
聖 警 讐
讐警
堪
苧潜 ま摘
ろ)・.・
」が意味す る ところ -
11
礁 において被曝 していた。乗組員2
3
名 とも全員が火傷,下痢,めまい,吐 き気,脱毛な ど
3日には無線長久保 山愛書氏が死亡。 この間周
の急性放射線症状に苦 しむ。半年後の 9月2
辺区域の洋上 において被曝 した漁船は8
5
6
隻 にたっし,国内では 「水爆マグロ」の恐怖が
ひろがる とともに,マグロをふ くめ廃棄 された魚は457トンに もおよんだ とい う占やがて
「死の灰」は気流にのって 日本全土をおそい,イチゴ,野菜,茶, ミルクにまで放射能が
発見 された。 こうして,翌 4月東京杉並区の魚商組合に原爆 ・水爆禁止の要望,陳情請願
運動がは じま り,区議会の 「水爆禁止決議」をへて, 5月 「水爆禁止署名運動杉並協議会」
4カ国の代表を集め
が発足,やがて 「
原水爆禁止署名運動全国協議会」にいたるのでる。1
9
5
5
年 8月 6日であった。 この
た 「
第-回原水爆禁止世界大会」広島大会開催はこの年 ,1
9
6
3
年第 9回にいたって分裂するまで継続 して開催 されるのである。
「
原水禁世界大会」は 1
第五福竜丸」以後 "
原爆許すま じ"の歌声 とともに,原水禁運動が急速 に
要するに,「
9
5
6
年当時,すなわち 「
原爆」がや っと国民的 レベルでお
発足 ・進展 し,高揚期 にあった1
ざまを見 ろ)- ・
」の表現,
お きな関心を呼ぶにいたったその時期 に,大 田洋子はあの 「(
誰 しもを驚樗 させずにはおかない表現 を,用いざるをえなかったのだ。
Ⅱ.「(
ざまを見ろ)
-
・
」が意味するところ
日本で唯一 『
原爆文学史』を著わ した長岡弘芳は,大 田の こうした `
うらみ' とも言え
る活字を読んで 「どうしたんだ,大 田さん」と声をあげそ うになった,と述べている。が,
こうした 「
怨念 ・呪い」は 「
放置 されつづけた被爆者の うちにあ りがちな こと」だ とも言
う。被爆者の手記,記録,小説 を多 々検証 して きた長岡の言である。だが,「被爆者たち
を故郷 してきた 日本 ・日本人」にたい して,そ してまた大 田自身にこれほどまでの孤立感
を抱かせた 「日本文壇」にたい して,その責を問 うこともな く 「自らを傷つけてゆ く,ゆ
かざるを得ない」大 田が 「
痛 ましい」 とも長岡は述べている。 8)
長岡はさらに,大 田がここにいたったいきさつを可能なかぎ り分析 しようとしている0
<原爆の レポー トも,悲惨を説 く段階は一応すぎた。- ・原爆の直接体験だけでは もう足
'
5
6
年),<「
原爆小説」は もうた くさんだ とい う感 じが,
りない>という平林たい子発言 (
'
5
9
年)
今のジャナ リスティックな文学的雰囲気の中に存在する>という佐多稲子の言葉 (
そ してまた <出版界で 「
原爆 ものは鬼門だ」 といわれている事実 >といった谷川雁の証言
(
'
5
9
年)等 々を引 き合いにだ し,当時の こうした出版界の状況が 「大 田の変貌 ・退潮 と
無縁であった とは思われない」 としているものの,結局の ところ長岡は大 田の変わ りよう
を 「
不可解な変貌」だ と特徴づけざるをえなかった。 9)長岡弘芳を して も 「どうしたんだ,
大田さん」 というつよい自問の声に答 えることはで きなかったのである。
ただ し,作家の心理の奥底 にかかわるこうした疑問を,余す ところな く解明するという
のは容易ではないにして も,解明の一助 とすべ く,作家大田洋子を身近に とりまいていた
状況を,以下の ように整理 しなおす ことは可能であ り,それは 日本の原爆文学の歴史的な
位置づけ と理解に とって も意義あることだ と思われる。
(1) 「侵略戦争」および 「
原爆投下」.
にかかわる責任の問題
大田洋子の作品において 「
侵略戦争」および 「
原爆投下」の責任の問題が鮮銃に概念化
された形跡はない。 ましてや ・
「
責任追及」にはいたってはいない。それは しか し,大 田洋
1
2
浜 崎 - 敏
子ひ とりが責め られるべ き問題ではあ りえない。それは,概 して述べれば,敗戦期か ら今
日にいたるまで 「
原爆文学」 と呼ばれる作品群のほぼすべてにかかわる問題である。責め
られるべ きであるとするな らば,それを逃れ られる作品はほぼ皆無 に等 しい と言わなけれ
ばな らない。
「
原爆」の悲惨を描 き,そ してこれを世界に訴えようと津身の力を振 り絞 った,あるい
は振 り絞 ろうとしている有名 ・無名の作家 ・詩人たちのいずれ もが戦争および原爆投下の
「
責任」の明確な意識化,思想化にいたってはいない, という問題 こそが大問題ではない
のか。
日本の 「原爆文学研究」は末だ緒 についたばか りだ と聞 く。原民喜 『夏の花』 (『三 田
9
4
7
年)や峠三吉の詩,井伏鱒二の 『
黒い雨』(
『
新潮』,1
9
6
5
年)な どが公教育の
文学』,1
教科書に採用 されてい く過程 と,かつまた上述の長岡弘芳による 『原爆文学史』の発刊等
9
6
0
をふまえて,そ もそ も 「
原爆文学」 というジャンルが一般に認知 されるのが ようや く1
年代の後半か ら1
9
7
0
年代前半だ とも言われる。さらにまた,未だに 「
原爆文学」の定義 も,
したがってジャンル も定かではない, とい う論議 さえもあるとも聞 く。
こうした状況であれば,論議の深ま りと撤密で包括的な分析は,今後 に期待すべ きであ
9
8
2
年 6月には ドイツ連邦共和国の当時の首都
るのは当然である。が,峠三吉のあの詩 ,1
ボン ・市役所前広場 において,反核 ・平和のために結集 した世界の作家,詩人,文学研究
者たち3
0
0
名の前で も, ドイツ人の朗読家によって よまれた とい うあの詩 「ちちをかえせ
ははをかえせ」は誰 にむかって叫ばれているのか, とい う疑問 と批判。あるいはまた,永
井隆の 「原子爆弾は決 して天罰ではな く,何か深いも くろみを持つ御摂理のあ らわれにち
がいない と思 った」 10) といった叙述か ら名づけて呼ばれるところの 「
摂理説」,ひいては
「
播祭説」な どは,原子爆弾投下の肯定に通 じかねない, もしくは明 らかに通 じてい く。
しかもこうした永井博士の言説は,侵略戦争および原爆投下の二重の 「
責任免除」だ とす
る痛烈な批判。
可能な らば,こうした位相をこえでる試み こそが,今後の 「原爆文学研究」の課題であ
るように思える.本来の問題の所在を見失わないためにである。 自明の ことだが,文学は
思想その もの,論理性その ものではない, といった常時含んでお くべ き問題 もここにはあ
る。
政治思想史学者丸山英男の 「天皇制 における無責任の体系」(
「現代 日本の思想」『日本
9
5
7
年)や,あるいはまた同著者の 「
軍
の思想』,岩波講座 『現代思想』第十一巻所収 ,1
「
第一部
国支配者の精神形態 」(
現代 日本政治の精神状況」『
増補版
現代政治の思想 と
9
6
4
年),竹 内好の 『
近代の超克』 (
筑摩書房 ,1
9
8
3
年, ことに8
6
8
9
ペー
行動』,未来社 ,1
ジ)そ してまた吉本隆明 ・武井昭夫 『
文学者の戦争責任』 (
淡路書房 ,1
9
5
6
年)な どな ど
か ら,詳細な引用を多 々引 き合いにだすまで もない。わが国の侵略戦争は無責任体制の も
とで遂行 された。 しかも国民の 「自発的な総力戦」であって 「
抵抗の思想」は事実上 も論
理的 に もあ りえなか った。敗戦後 も,誰 に も明 らかな とお り,連合軍 に よる東京裁判
(
1
9
4
6
4
8
年)をのぞ き,その 「責任」が追及 された歴史的な形跡 もない。一般刑法典の殺
人罪を適用 し,1
9
6
5
年 ,6
9
年 ,7
9
年の3
度にわたるおおきな国家的努力をへて,殺人罪の
時効を とりは らい今 日にいたるまで, 自らの手で,ナチズムの戦犯を追及弾劾 している ド
イツ連邦共和国 とはこの大事な一点において もおおきな相違がある。
*
_W普 ヲ讐
讐警 傍 題
苧潜 まを見ろ)‥ .
」が意味するところ _
1
3
ま してや,1
9
3
3
年2
月築地署の特高課員 に拷問虐殺 された小林多喜二 らわずかひ とにぎ
りを除 き, 日本の作家 ・詩人たちに 「
抵抗」を試みた ものたちがあったか。 日本には,紘
抵抗の文学」 も 「
亡命の文学」 も成立 しなかった。初代文化部長が岸 田
じて述べれば,「
国士であった 「
大政翼賛会」の発足 (
1
9
4
0
年1
0
月),「日本文学報国会」(
1
9
4
2
年5
月発足)
の こ と,あ るいはまた 1
9
38
年8
月文壇の大御所菊池寛 が内閣情報部 と結託 して結成 した
「ペソ部隊」 (
従軍作家部隊)について詳述するまで もない。 日本国民のほぼすべて と同
総力戦」を自発的に戦 ったのである。1
1
)
敗戦
様 日本の作家 ・詩人たち もまたほ とん どが,「
後手の裏を反 した ように急激 に覚醒が生 じて 「
侵略戦争責任」の論理化,追及が実現する
はず もない。その状況は戦後半世紀以上をへた今.
日であって も変わ りがない。 この国の こ
うした歴史的事実の認識 と自覚 こそが,まずは必要であるように思われる。
原爆 をあびた敗戦直後 の秋 ,大 田洋子 は 『屍 の街』 を書 き終 えてはいたが, 占領軍
GHQの報道規制 プ レス ・コー ドのため公刊で きたのはや っと1
9
48
年の ことだ った。「無
慾顔貌」の一節を自主的に削除の うえ,中央公論社か ら出したのである.、
無削除公刊は冬
芽書房か ら,1
9
5
0
年の ことだった。
自主的に削除 された一節には こうある。「
侵略戦争の嘆 きは,それが勝利 して も,敗北
して も,ほ とんど同じことなのだ。
.戦争をは じめなければな らなかった ことこそは,無知
と堕落の結果であった。- ・原子爆弾をわれわれの頭上に落 したのは,アメ リカである と
同時に, 日本の軍閥政治その ものによって落 されたのだ」 12) と。「侵略戦争」をは じめた
のは 「
無知 と堕落の結果」であった。原爆投下の責任は 「アメ リカ」 と 「日本の軍 閥政治」
にある, という指摘である。はばおか しくはない正当な論議であると思われるのだが,漢
定的な不足は, 日本国家の侵略戦争責任 ひいては天皇の侵略戦争責任 13)に この叙述がお
よんでいない という点である。 もちろんアメ リカの 「
投下」責任追及にも鋭利な具体性が
み られない。そ こまでおよんでは しかった, という無垢その もので素直な願望をあえて述
べるとすればそ うである。
こうした叙述は他にもあるO終戦の翌 日五郎- という中年すぎの男性が 「なんた ら馬鹿
くさい戦争を した もん じゃ。天皇陛下がばか じゃけえよ」 と言 うのに,大 田は 「
天皇 こそ
はその人権をもっとも深 く踏みにじられてい る存在だ と思 うところか ら,気の毒」だ と述
べるのである。14) ここには 「天皇の侵略戦争責任」に思いがおよぶ意識のかけ らさえない。
だが,作家大 田洋子の この点を今 日なお誰が一体責め られるか。
いかなる 「
責」も自己の外部 に向かって問 うことがない。大 田は 「自らを傷つけてゆ く,
ゆかざるを得ない」
。大田洋子の 「
痛 ましい」だけの姿がここにあるのだ。
(2) 原爆文学の 「抵抗」 という問題
大 田洋子の作品だけではない。「
侵略戦争」 と 「
原爆投下」の責任 を徹底 して問 うてい
1
91
0ないのは他の原爆文学作家 ・詩人たちにして も同様である。広島の詩人正 田篠枝 (
6
5
年)の比較的批判的な詩に以下のようなのがある。15)
はがゆい
天皇 さまも 皇后 さまも 皇太子様 も
皇太子妃 さまも ス
1
4
波 崎 - 敏
モウや
テニスや
野球をごらんになるばか りではな く 原水
爆製造禁止の運動 に力をお入れにな り
し
生命を大切にすることの
だされば
よいのになあ
世界中へ平和を愛
日本の信念の宣言をして く
とはがゆ ぅてはがゆ ぅてな りま
せん。
(
『耳鳴 り』一九六二年一一月)
文字 どお り 「はがゆさ」を表現 した ものだが,天皇 ・皇后 ・皇太子 ・皇太子妃 らは 日本
のお上の頂点に鎮座する存在 として意識 されている。 こめ られた皮肉が文学的な力を発揮
して読む者の心を くす ぐりつつ打つ。だが,あか らさま,強烈な 「
批判」にはいたっては
ざまを見ろ)・- 」
いない。ましてや 「
責任追及」な どとは言 えない。こうして大田洋子の 「(
の心理的境涯を正 田篠枝 もまた同 じくしてい くのである。彼女の次の詩にそれが表われて
いる。詳細に解釈を試みて多弁を労する必要 もない。 このばあい も文字 どお り 「みんな死
ねばいいんだ」 と恨み言を述べつつ 「自らを傷つけてゆ く,ゆかざるを得ない」大田洋子
と同じ 「
痛 ましい」だけの姿がある。
みんな死ねばいいんだ
強い国の 核実験を
なさる 偉い首相に 核実験を
停止 して
ください
と 頼んだんだけ ど
闘い入れ
られず
かわゆい
ひ とり娘を 学徒動員で
亡 くした
ひ とに 手記を 書いて ください
なんにも な りません
で した
それにまた 夫を
と
頼みに 行 きました
「なにを書いて も つまらないよ 大 きな流れには
ながされて
したいだけ
はん ものを
ドカソ ドカソ
世界中の
ば
人間が
みんな
させれば
いい よ
と お としゃあげて
まっ黒 こげになって死ね
いいよ」と
いい放 って
うつろな
まなこで 一点を
みつめた
まなうらか らは 止処な く 涙が 流れて
いました
(
『
耳鳴 り』一九六二年一一月)
次に,長崎の詩人福 田須磨子 (
1
9
2
2-7
4
年)の詩は こうである。二つの詩をみてみる。
大田洋子の原爆文学作品 『
半放浪』
- センセーシ ョナルな表現 「(
ざまを見ろ)- ・
」が意味するところ -
1
5
ひ とりご と
何 も彼 も いやにな りました
原子野に吃立する巨大な平和像
それはいい
それはいいけ ど
そのお金で 何 とかな らなかったかしら
"
石の像は食 えぬ し腹の足 しにな らぬ"
さもしい といって下 さいますな,
原爆後十年 をぎ りぎ りに生 きる
被災者の偽 らぬ心境です。
ああ 今年の私には気力がないのです
平和 .
/ 平和 .
/ もうききあきました
い くらどなって叫んだ とて
深い空に消えて しまう様な頼 りなさ,
何等の反応す ら見出せぬ焦燥に
すっか り疲れて しまいました
(
『
原子野』一九五八年三月)
入 浴
誰 も見ない様 に
片すみで後を向いて
シ ャボンの泡を とば し
そ して
誰 も入っていないのを
確かめてか ら
まるで悪い事で もする様 に
コソコソと
人 目をはばかって入浴する
別に人に伝染 る様な
そんな皮膚病 じ与ないけれ ど
奇妙な悲 しい くせが
何時の間にかついて しまった。
(
『
原子野』一九五八年三月)
「ひ とりご と」には被爆者の生 き様の疲弊 しきった姿が素直に表現 されている。被爆者
を故郷 してかえ りみない 「日本 ・日本人」にたい してその 「
責」を問いつめた りするので
は もちろんない。「恨み言」のひ とつ もつぶやいてみた くなる, といったぎ りぎ りの した
1
6
浜 崎 - 敏
たかさも,やがて間 もな くここか らはすべて失われてい くはずであ る。「
平和 .
/平和 /」
には,だか らことにあ きあ きして,疲れはててい くばか りの様子が 自然な流れで表現 され
ている。 もはや ここでは,心の深みか らじわ じわ とにじみ出て きて,やがてはおお きな叫
抵抗」はすっか りともぎ取 られている。そ うな らざ
び声 に変わるはずの人間の 「主張」「
るをえなかったのだ。
「入浴」では,戦後の貧 しい共同浴場 に被爆者の身ひ とつの孤独だけがそこにある。孤
独の中でコソコソ と,ケロイ ドのわが身を哀れんでいる。それ以外には心の向かいようも
ない。
大 田洋子か ら正田篠枝をへて福 田須磨子へ,被爆者の意識はだんだん と内向の道をた ど
ってい く。アンガジュマンの姿勢は喪失 して,己の内面 と裸体の傷をみつめるばか りにな
る。「ひ とりご と」の愚痴を こぼ し, こんなふ うに 「入浴」 しつつ衆 目を気 にしているの
は, しか し,敗戦後半世紀余の今 日を生 きている 「わた し」の姿に重なってみえて くる。
「わた し」「きみ」「われわれ」の姿なのだ, と思えて くるのだ。
1
9
7
3
年 に出た 『
原爆文学史』 において,そ してそれ以後の 『
原爆文献 を読む』 (
三一書
9
8
2
年)な どにおいて も,それか らまた 1
9
8
3
年の 『日本の原爆文学』1
5
巻 に込め られ
戻 ,1
た解説で も長岡弘芳は絶 えず一貫 して 「日本の原爆文学は絶対的に数が少ない, もし くは
きわ め て貧 しい」 こ とを強 調 して い る。 井伏 鱒 二 ,井 上 光 晴 ,堀 田善 衛 ,小 田実
『
HI
ROSHI
MA』 (
1
9
81
年)ら著名だ と言われ る作家たち ・作品が輩 出 したそれ以後 にお
いて も,その主張に何等変わるところはなかった。朝鮮人被爆者,胎内被爆児な どな どを
ふ くむ被爆者の 「
苦悩 と真正面か ら向き合 った小説作品一つ,今 もわた したちは持 ってい
ない」 16) と深 ぐ既嘆 しつつ言 う。決定的であるのは彼の次の ような言葉である0「日本 と
いう国家,アメ リカ という国家を,原爆投下,その後の責任回避,さらに続 く無暫な責任
放棄 という観点か ら,殺 され切 り捨て られた人民の側に身を置 き真 っ向か ら追求 した作品
」1
7)は らわたの底のほうか ら傾聴すべ きではないか, と
も,私たちはまず持 っていない。
9
8
9
年 ,5
7
才をもって 自ら命をたった。
思われて くる。長岡はこれを書いた 6年後の 1
『
生ましめんかな』『ヒロシマ というとき』で著名な広島の詩人栗原貞子 (
1
9
1
3
- )も
また 1
9
6
0
年 3月 『中国新聞』 に示唆的で,い くぶん挑発的な言葉 を載せている。「ヨーロ
ッパの戦後文学がアウシ ュビッツに対 して向きあ うことが出来たのは,フランスの文化の
伝統,わけて,第二次大戦中のユマニテによる抵抗運動が存在 したことによるものであろ
う。・
花鳥風月的文人意識の 日本文化の伝統の中にはユマニテは存在せず, したがって抵抗
文学の育つような土壌 もな く, したがって 日本の戦後文学の主流が依然 として 日常茶飯的
私小説で占め,原爆文学 を ・- の陰惨 さ として とらえるような歴史的感覚の欠如 しか見
」1
8
)
られないのは仕方のないことか も知れない。
日本には 「花鳥風月的文人意識」の土壌の もと,「日常茶飯的私小説 」が文学の主流を
占め, したがって抵抗文学や原爆文学が容易に育つはずがない, と言 うのである。
Ⅲ. 原爆文学の表現形式
菊池寛の創案により,1
9
3
5
年文蛮春秋社が設立 したのが芥川賞 ・直木賞であった。 これ
らの賞が戦時期をはさみ4
0
年 という比較的長い歴史をへた後,つま り1
9
7
5
年 にいたって,
長崎市生まれの被爆作家林京子が,作品 『
祭 りの場』 により第 7
3
回芥川賞を獲得 したのだ
大田洋子の原爆文学作品 『
半放浪』
- センセーシ ョナルな表現 「
(
ざまを見ろ)- ・
」が意味するところ -
1
7
った。 日本においてはこの賞の評価は きわめて高い, というの も周知の事実である。
『
祭 りの場』を一読の後,表現形式の特徴を簡潔に挙げるとすれば,「
私小説的」「記録
的」である。そして これ らは 日本の原爆文学一般の二大特徴だ とも言 えよう。以下にその
例をみてみる。
「昭和二〇年八月九 日
長崎市 に投下 された原子爆弾の爆圧な どを観測す る,観測ゾンデの中に,東大嵯峨板教授
名あての降伏勧告書が入っていた。嵯峨根教授が米国留学時代の,三人の科学者仲間が送
」1
9
)というのが,この作品の書 き出し冒頭部分。
った勧告書である。
「一一時二分,松山町四九〇米上空で白い落下傘に吊した原爆は作裂 した。
私たちが学徒動員 した三菱兵器工場は,爆心地か ら一 ・四キロ離れた地点にある。工場
敷地内で も職場は最 も北になるが,この地域での死亡率は四五 ・五%。当時兵器には動員
学徒,工員を合わせて七五〇〇名が働いていた。うち行方不明が六二〇〇名にな っている。
・
殆ん ど
昭和二〇年九月二四 日以後の調べである。六二〇〇名は死亡確認が出来ない者で,
死亡 とみて よい。計算 された四五 ・五%をはるかに上回る死者の数になる。三菱兵器大橋
」2
0)
工場は昭和二〇年一一月一五 日に閉鎖された。
「原爆搭載機 は爆音 を消 し滑空 に よって飛行 し,長崎 に潜入 した。 一〇時五八分 で
る。・突然急降下か急上昇か,大空をかきむ しる爆音が した。空襲 .
/女が叫んだ。物音を聞い
たのはそれだけである。文字にすれば原爆投下の一瞬はたったこれだけで終 る. ピカも ド
ン もない。秒速三六〇米の爆風 も知 らない。気づいた ら倒壊家屋の下にいた。
爆心地付近の被爆者は原爆作製音を殆ん ど聞いていない。急上昇の爆音は聞いている。
9「ボ ックスカー」は慌てて急上昇 した。∵
彼ら
原爆投下直後,逃げる態勢を とるため B2
は人並みに死にた くなかった らしい。
」 21
)
中野孝次は 「解説」を書 きこの 『祭 りの場』は 「小説 とい うより報告 」22)だ とし,「原
爆被災 とい う重い事実 と,魂 とをつな ぐ作業は,多 くの力価ある作家の力業にもかかわ ら
ず,必ず しもまだ成功 した とはいえない。それはことの本質が,人間がつ くりだ した もの
によって人間を破滅 させるという,あま りにも重すぎる事実のためである」23)としている。
林京子の この作品は 「
報告」であ り,つま り 「小説」にはな りえていないのであって 「
成
功 した とはいえない」 という具合に,中野の 「
解説」を読み込む ことは不可能だろうか。
実際に,上記の ように,長 々と引用 したい くつかの箇所のみに触れた読者であって も,こ
の作品を凄みのあ る魅力的な "
小説"だ と絶賛する者はいないのではないか。全体を通読
してみるとなおさら明確だが,構成 も決 して卓抜な手腕 とは言 えない。包み隠 しな く率直
に言 って しまえば,芥川賞受賞 というのが不思議なほどの作品である。逆 に言えば, 日本
の芥川賞 というのは,その一般的な名声にもかかわ らず,こんな ものか とも思えて くる。
9
4
7
年 に出た原民書の 『夏の花』 も,そのひ とつ
原爆文学の一番の代表作品 といえば,1
である。冒頭の一部 にはこうある。
「
私は凧 にゐたため一命を拾 った.八月六 日の朝,私は八時頃床を離れた。前の晩二回
も空襲警報が出,何事 もなかったので,夜明前には服を全部脱いで,久振 りに寝巻 きに着
香へて睡った。それで,起 き出した時 もパンツ一つであった。妹はこの姿をみると,朝寝
した ことをぷつぷつ難 じ七ゐたが,私は黙って便所へ這入った。
1
8
波 崎 - 敏
それか ら何秒後の ことかはっきりしないが,突然,私の頭上 に一撃が加へ られ
眼の前
に暗闇がすべ り墜ちた。私は思はず うわあ と喚 き,頭に手をやって立上った。嵐のや うな
」2
2
)
ものの墜落する音のほかは真晴でなにもわか らない。
『夏の花』は もっとも初期の原爆文学作品の部類にはいる。大田洋子の諸作品 とな らび
これ ら当初か ら, 日本の原爆文学は作家 自身の 「
個人的な体験」を 「
記録的」に描 くこと
に専念 した。つま り壮大なフイクシ ョナルな文学 となっては,魅力的な力を,今 日にいた
るまで発揮できないでいるのだ。そこには栗原貞子の言の とお り, 日本の 「
文人意識」お
よび 「
文学」の歴史的な土壌が,根底においてはおおき く作用 しているには違いがない。
が,史上は じめての原子爆弾投下 による大規模な破局的被爆の体験,それだけにいっそ う
悲惨な被爆作家たちにかせ られた個別的な体験,これ らを措 くという営為の困難 さがそこ
にはある。
9
5
0
年 に出 した無削除版 ,『
屍の衝』の序 において,被爆作家がお としめ ら
大 田洋子は 1
れた生命不安の窮迫 した意識状況,および 「
死の街」広島において展開された 「
地獄図」
を描写することの途方 もない困難 さについて次 ぎの ように懸命に書 き記 している。
「日本の無条件降伏によって戦争が終結 した八月十五 日以後,二十 日すぎか ら突如 とし
て,八月六 日の当時生 き残 った人 々の上 に,原子爆弾症 とい う驚博 にみちた病的現象が現
れは じめ,人 々は累 々と死んで行 った。
私は 「
屍の街」を書 くことを急いだ。人 々のあ とか ら私 も死ななければな らない とすれば,
書 くことも急がな くてはな らなかった。
その場合私は 「
屍の街」を小説的作品 として構成する時間を持たなかった。- ・その よ
うな時間 も気持の余裕 もなかった。
しかし,なん と広島の,原子爆弾投下に依 る死の街 こそは小説 に書 きに くい素材であろ
う。それを書 くために必要な,新 しい描写や表現方法は,容易に一人の既成作家の中に見
つか らない。
小説を書 く者の文字の既成概念をもっては,描 くことの不可能な,その驚博や恐怖や,
鬼気迫 る惨状や,遭難死体の量や原子爆弾症の傑然たる有様な ど,ペソによって人に伝 え
ることは困難に思えた。
」2
3
)
作家の 日常を支配 した 「
生命危機」の不安,そ して 「
表現の限界意識」は他の多 くの被
爆作家たち,あるいは 「
書 き残 しておきたい」 と念 じた, もしくは念 じている市井の被爆
者たちすべてに,おそ らくは共通の体験であろうと思われる。原爆文学が文学本来の質を
高 々と保持で きてはいない という問題は, 日本の近代文学が置かれた歴史的土壌の考察 ・
分析だけか らは説明が十分な ものにはな らない, というの も事実なのである。
注
1)大 田洋子 『半放浪』雑誌 『新潮』5
3
巻2
号 ,1
9
5
6
年 ,1
4
4
11
4
5
ページ
2)同上 ,1
4
7
ページ
3)佐 々木基-「
『
屍の街』 (
河出市民文庫)解説 」 『日本の原爆文学』②大 田洋子,ほるぷ出版 ,1
9
8
3
年,
大 田洋子の原爆文学作品 『半放 浪』
(
ざまを見 ろ)・- 」 が意味 す る ところ - センセー シ ョナル な表現 「
1
9
3
2
7
ページ参照
4)大田洋子 「(大田洋子 ・江口換論争)作家の態度 (アンケー ト)」『日本の原爆文学』⑮評論/エ ッセイ,
4
4
ページ参照
<同上 >,2
5)江 口換 「く大 田洋子 ・江 口換論争)大田洋子に答える」『日本の原爆文学』 <同上 >,2
4
6
ページ
6)大田洋子 『半人間』雑誌 『世界』1
9
5
4
年 3月 ,2
2
3
ページ
2
5
ページ
7)同上 ,2
8)長岡弘芳 『原爆文学史』風媒社 ,1
9
7
3
年 ,3
8
3
9
ページ参照
9)同上 ,4
1
4
2
ページ参照
1
0
)永井隆 『この子を残 して』サンパウロ,1
9
9
5
年 ,2
9
ページ
ll
)筆者演崎-敏 には次の ようなそれぞれにつき一考の試みがある。特別寄稿 『
戦時下の 日本文学』,長崎
7
号 ,1
9
9
7
年。『日本における戦時下の文学者たち (日独
県高教祖長崎支部教文専門委員会編 『根』第 2
8
巻
ファシズム文学比較論のために)
』,長崎大学教養部紀要 (
人文科学篇)第 3
第 1号 ,1
9
9
7
年。)
EI
N BERI
CHT UBER DI
E FASCHI
STI
SCHE LI
TERATUR I
NJ
APAN ((
『日本のフ ァシズム
文学 に関 す る一報 告』),長 崎大学 教育学部紀要
人文科学
2号 ,2
0
01
年。 お よび) FRUHE
第6
『日本の初期原爆文学』),長崎大学教育学部紀要
J
APANI
SCHEATOMBOMBENLI
TERATUR ((
人文科学 第6
7
号 ,2
0
0
3
年。
1
2
)大田洋子 『屍の街』 『日本の原爆文学』 <前掲,注 3)>,2
7
ページ
1
3
)ちなみに,大 日本帝園憲法には周知の とお り以下の条文がある。 ここに再確認 してお く。第四傑 天皇
ハ園 ノ元首ニシテ統治権 ヲ練磨シ此 ノ憲法 ノ候規二拠 り之 ヲ行7,第十一候
第十三傑
天皇ハ陸海軍 ヲ統帥ス,
天皇ハ戦 ヲ宣シ和 ヲ講シ及諸般 ノ候約 ヲ締結ス
1
4
)大田洋子 「(大田洋子 ・江口換論争)作家の態度 (アンケー ト)」 『日本の原爆文学』 <前掲,注 4)>,
2
4
2
2
4
3
ページ参照
1
5
)以下引用するい くつかの詩作品はいずれ も 『日本の原爆文学』⑬詩歌, <前掲,注 3)>所収
1
6
)長岡弘芳 「解説 一 現代の人間の 「原罪」 としての負荷を負い続けて」 『日本の原爆文学』⑲短編 Ⅰ,
>,4
2
1
ページ
<前掲,注 3)
1
7)同上 ,4
2
3
ページ
1
8
)栗原貞子 「く第二次広島原爆文学論争 (
抄))広島の文学 をめ ぐって - アウシ ュビ ッツ とヒロシマ」
>,2
6
1
ページ.「 .
」の部分には 「ライ文学」 という不適切な表
『日本の原爆文学』 <前掲,注 4)
-
現があるので削除 した。
1
9
)林京子 『祭 りの場』『日本の原爆文学』(
9林京子, <前掲,注 3)
>,2
9
ページ
2
0
)同上 ,3
0
3
1
ページ
21)同上 ,3
8
3
9
ページ
2
2
)同上 ,4
0
8
ページ
2
3
)同上 ,4
1
3
ページ
2
2
)原民菩 『夏の花』『日本の原爆文学』① 原民喜, <前掲,注 3)>,1
2
1
3
ページ
2
3
)大田洋子 「屍の街 序 (
冬芽書房版)」『日本の原爆文学』 <前掲,注 3)
>,1
2
1
3
ページ
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