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宗教学校への政府の関与形態 ―イスラム教系公営学校を中心に―

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宗教学校への政府の関与形態 ―イスラム教系公営学校を中心に―
宗教学校への政府の関与形態
―イスラム教系公営学校を中心に―
東北大学大学院教育学研究科
博士課程前期 1 年
教育政策科学研究コース
A5PM1203
白旗
悠
指導教員
宮腰 英一
教授
副指導教員
小川 佳万 助教授
目
次
序章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
第 1 章 イスラム教系公営学校の成立と現状 ・・・・・・・・・・・・・・4
第 1 節 ムスリムの教育的ニーズと公費援助の開始
・・・・・・・・・4
第 2 節 実例に見る宗教学校の諸課題 ・・・・・・・・・・・・・・・6
第 2 章 他宗教学校との比較に見るイスラム教系公営学校 ・・・・・・・・9
第 1 節 宗教教育の規程とエスニック・マイノリティの弊害 ・・・・・9
第 2 節 公営宗教学校の格差と歴史的背景 ・・・・・・・・・・・・・10
第 3 章 公費援助認可に関する政府の姿勢と政策的方向性 ・・・・・・・・15
第 1 節 言い分としての多文化主義 ・・・・・・・・・・・・・・・・15
第 2 節 新労働党政権の宗教学校公営化への消極的姿勢 ・・・・・・・16
第 3 節 公営学校政策の動向の変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・17
終章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
参考文献・資料一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
1
序章
多民族社会イギリスにおける最大のエスニック・マイノリティはイスラム教徒(以下ム
スリム)である。彼らの学校教育におけるニーズは、マジョリティである WASP の一般的
なそれとは大きく異なり、例えば母国語を含めたバイリンガル教育、イスラム教義に基づ
く教育、イスラム教の宗教教育など、独特の教育的ニーズが発生する。1 国内のムスリム
はこれらの教育的ニーズを満たすべく、1980 年代より彼らのコミュニティ内にイスラム教
系の独立学校(Independent School)を設立するようになった。しかし彼らの雇用水準、
賃金水準は低く2、独立学校への入学を希望しても高額の教育費が障害となり、それが叶わ
ない家庭が出てくる。授業料を支払うことができないムスリムの家庭は多く、授業料の無
償化、イスラム教系宗教学校の公営化は課題の一つであった。
彼らの意向は近年政権交代を果たした労働党政権によって反映され、1998 年にはイスラ
ム教系の初等学校が 2 校、公費維持学校(maintained-school, 以下公営学校)として認可
されている。3 イギリスはこれまでイスラム教、ヒンドゥー教などのエスニック・マイノ
リティが属する宗教の学校を設立することを認めていなかったが、この時期にイスラム教
系学校、シーク教系学校に公営の地位を与えたのである。イギリスで元来、宗教教育とし
て推奨されてきたのはキリスト教であったが、現状は多様な宗教を容認するという方向へ
移行しているように窺える。
しかしながら労働党政府がイスラム教系宗教学校に公費援助を与えたことは、必ずしも
エスニック・マイノリティへの配慮や寛容を表すものではない。現状までに宗教学校の公
営化政策は一進一退、紆余曲折を経て今日に至ってきており、現状までの経緯を見る限り
政府の関与のスタンスを全て肯定的に捉えることは出来ない。本研究は、1998 年以降公営
の地位を獲得したイスラム教系の学校の実態を踏まえてムスリムの教育的ニーズに対応で
きていない現状を明確にし、2000 年以降のイスラム教系宗教学校公営化政策に関する動向
が事実上停滞状況にあったこと、同政策に対する労働党政府の姿勢が保守党政権の時期と
同じように消極的なものであったことを論及する。
イギリスのエスニック・マイノリティの教育研究については、佐久間孝正の研究が代表
的である。佐久間は特に 1990 年代より、エスニック・マイノリティの教育問題、社会問題
に関する議論を詳細にまとめている。また佐藤千津はムスリムの学校の公営化を画期的な
出来事と捉え、教育水準を引き上げて多くの人々の社会参加を目標とする労働党政権の教
2
育政策の一環として評価している。その他、佐々木毅は近年のイギリスの宗教学校重点化
政策の動向を報告し、宗教学校増設政策の背景に別個の社会集団の表面的利害の一致があ
ったことを明らかにしている。
当地イギリスで代表的な研究には Geoffrey Walford が挙げられる。Walford は著書
British Private Schools において、ムスリムの学校について文化的背景を踏まえ、その特徴、
問題点、動向を詳細にまとめている。他に Chris Hewer はムスリムの公営学校設置の特徴
と意義について、イスラム教系公営学校のケース・スタディを基に詳細にまとめている。
また Marie Parker-Jenkins もイスラム教系学校の公営化について論じており、労働党によ
る同政策が多信仰国イギリスにおいて教育の機会均等をもたらした斬新な決定であったと
主張した。
これらの研究によって断片的にイスラム教系宗教学校の公営化の動向を確認することは
可能であるが、イスラム教系の宗教学校の現状、他宗教学校の公営化の過程等を踏まえて
論じたものはほとんど見られない。また政策に関する評価も、長年の公営化への努力が報
われたことでムスリムのニーズに応え、WASP と同等の扱われ方になるなどの肯定的評価
が多い。これらの評価が現状をどれほど踏まえたものであるかは大いに議論の余地がある。
本論は次の 3 章で構成されている。第 1 章ではイスラム教系宗教学校の成立過程とその
現状を、ムスリムの教育的ニーズに関する議論を踏まえて整理する。第 2 章では他宗教の
宗教学校、特にキリスト教系・ユダヤ教系の学校の成立過程とイスラム教系宗教学校の現
状と成立過程を比較し、格差の存在とその要因についての検証を試みている。第 3 章では
教育政策上の宗教学校公営化の特徴を踏まえ、その中に置いてエスニック・マイノリティ
の学校の公営化政策の位置付け、動向について政策文書を参考に明らかとした。
本論においては便宜上、ムスリムによって構成される公営学校を「イスラム教系公営学
校」と称する。またスコットランド、ウェールズ、北アイルランドには公営のイスラム教
系学校が設立されていないため、対象地域はイングランドとする。
<序章脚注>
1
2
3
佐久間孝正(1993)『イギリスの多文化・多民族教育 ―アジア系外国人労働者の生活・
文化・宗教―』国土社に詳しい。
Strategy Unit, Ethnic Minorities and the Labour Market Final Report, Mar 2003.
‘Muslims gain equarity of funding’, The Times Educational Supplement,16 Jan 1998.
3
第1章
イスラム教系公営学校の成立と現状
本章においてはイギリス国内におけるムスリムの文化的背景を整理し、国内のイスラム
教系宗教学校の現状と評価について確認する。さらに、同宗教学校の具体的事例として数
校を取り上げ、検証しながら問題点を整理する。
第1節
ムスリムの教育的ニーズと公費援助の開始
昨今において発生したイスラム教原理主義者によるテロ行為が記憶に新しい現在、イス
ラム文化圏の人々は、世界的な注目を浴びている民族の一つだ。中東圏を中心としてムス
リムは世界中に点在している。本稿に取り上げるイギリス連合王国もまた、イスラム教徒
(スンニ派)を多く抱えており、その数は 2001 年の段階でおよそ 160 万人に達している。
連合王国の全人口がおよそ 5900 万であるから、その割合はおよそ 2.7%となり、 30 人に
1 人という、比較的高い割合でムスリムがイギリスに居住していることになる。4 ムスリ
ムは大都市に集住しており、うちおよそ 60 万人が首都ロンドンに居住する。
イギリスにおいてムスリムはエスニック・マイノリティであり、WASP と比較すると生
活水準は低く、人種差別などの社会問題も存在する。第二次世界大戦後、イギリスにはム
スリムの移民がパキスタン、バングラデシュ、インドなどアジア諸国から移住してきてお
り、現在はその二世、三世(2nd, 3rd Generation)が台頭してきている時勢である。そし
て多くのムスリムにとって問題となるのが、彼らの子どもに対するイスラム教的文化・原
理を根底においた教育についてである。
イギリスの宗教教育の考え方は、「キリスト教義を根底に置いた教育」であった。イギリ
スは政教分離を実践しておらず、学校教育の場で特にキリスト教の教授を推進してきた。
1944 年教育法(Education Act 1944, 1944, c.31)には、公営学校における宗教教育を必修
とする条項が記されている。5 同法は信教の自由も保障しているが、これはイギリス国教
会以外のキリスト教宗派、もしくはユダヤ教に限られていた。 6
1988 年教育改革法
(Education Reform Act, 1988. c.40)の制定に伴ってナショナル・カリキュラムが策定さ
れた際にも、宗教教育は基幹科目として位置付けられている。7
キリスト教教育を強制される地方教育当局管理下の公営学校では、ムスリム特有の教育
4
的ニーズへの対応は期待できなかった。従ってエスニック・マイノリティは、コミュニテ
ィの中に独自の「宗教学校(Religious School)
」を設立してきた。8 これらは地方教育当
局の管理下に属さない独立学校として、民族の教育的ニーズを反映した教育を行ってきた
のである。当該民族の親は普通、子どもをそこへ通わせたいと考える。9
しかし独立学校である故に高額の授業料などが障害となり、収入の水準が低い家庭では
子どもをそこへ通わせることが困難であった。特にエスニック・マイノリティの場合には
WASP と同等の家庭収入が期待できず、生活環境が比較的劣悪なものとなりやすい。子供
にイスラム文化の教授を望みながらも、学費調達が困難である家庭では他の公営学校での
通学、ホームスクールなどの手段を取らざるを得なくなる。10 これら多くの問題を背景に、
宗教学校の授業料無償化、学校の公営化は常々彼らのニーズとして求められていた。
1983 年にイスラム系学校協会(Association of Muslim Schools)が教育大臣に彼らの学
校への公費維持について問い合わせ、イスラム教系宗教学校の公営化運動が始まることと
なった。15 年後の 1998 年、ブランケット(David Blanket)教育大臣により、イスラミア
初等学校(Islamia Primary School)、アル・ファーカン初等学校(Al-Furqan Primary
School)の 2 校が国庫補助学校(grant-maintained school)として認可された。11 ここ
にイギリス初のイスラム教系公営学校が誕生することになったのである。12 さらに 2001
年にはフィーヴァーシャムカレッジ(Feversham College)がイスラム教系の中等学校とし
て初めて公営の地位を得13 、さらにバーミンガムのアル・ヒジュラ中等学校(Al-Hijrah
School)がそれに続いた。14 エスニック・マイノリティの公営宗教学校の意義は、宗教的
教育を望みながらも家庭の経済事情などでそれが叶わなかった人々へ門戸を開くなど、教
育の機会均等が推進された点で意義がある。
次の表 1 では現在のイスラム教系公営学校とその設立年度をまとめた。2005 年の時点で
は、公費維持(maintained)部門へ加入したイスラム教系の学校は 6 校である。しかし 2001
年からの設立はこの 2 校の増加にとどまっている。15 現在イギリスにムスリムの学校は
100 校あまり存在するが、その 1 割にも達していない。Hewer はムスリムの親の要望が公
営学校の設置増加につながったことを指摘しているが16、その数が尻上がりに上昇すること
は無く、数年おきにわずかずつ増えるのみにとどまっている。
5
[表 1]2005 年までに公営となったイスラム教系宗教学校
イスラム教系公営学校
イスラム教系公営学校
公営化年度
体系別
別学・共学
Islamia Primary School
1998
初等
共学
Al-Furqan Primary School
1998
初等
女子校
Feversham College
2000
中等
女子校
Al-Hijrah School
2001
初等・中等
共学
Balham Preparatory School
2004
初等
共学
Leicester Islamic Academy
2005
幼・初等・中等
共学
※
実際には共学校においても男女別にクラスを編成するなどの措置が採られている。
第2節
実例に見る宗教学校の諸課題
ここでイスラム教系公営学校の実態を確認するため、イスラミア初等学校(Islamia
Primary School)について概観しておきたい。17 同校はイスラミア・スクール・トラスト
(Islamia Schools’ Trust)の出資により、有志団体立学校(Voluntary School)としてロ
ンドン北東部ブレントに開校された。開校以後、同校は公費援助を受けるための申請を幾
度も行ってきた。1998 年、晴れて国庫補助学校として認可されたイスラミア初等学校は現
在、有志団体立補助学校(Voluntary-aided school)として公営学校の地位を有している。
18
これにより、同校はムスリムの生徒に対し、無償で教育を実践することとなる。この点
で、キリスト教など他の宗教学校との同等の教育を保証するというムスリムの親たちの教
育的ニーズへの対応は部分的に達成されたと言える。もっとも最初の申請から公費援助を
勝ち取るまでには、実に 15 年という歳月が費やされた。
現在同校で大きな問題となっているのが定員の問題である。イスラミア初等学校に限ら
ず、公営のイスラム教系学校には入学申し込みが殺到し、全ての希望者を入学させること
ができない状況にある。そのため同校では一定の入学基準を設け、入学者を選考している。
入学試験(questionnaire のスコアが高い者を採用)を課しているほか、特に孤児、身体障
害、難民など特殊なニーズを持つ子どもに関しては優遇する制度を採っている。また同校
6
は選考に漏れた子どものウェイティング・リストを作成し、仮に空きができた場合に補充
するという体制をとっている。しかし学校の総児童数が 200 人前後であるのに対し、現在
ウェイティング状態の子ども達が 2,500 人にも上っている。19
また 2000 年に認可されたブラッドフォード(Bradford)のフィヴァーシャムカレッジに
ついても概観しておこう。フィヴァーシャムカレッジは女子校であり、ムスリムの女性教
育を実践する学校として 1984 年、Muslin Association of Bradford(MAB)によって設立
された。イスラム教の信仰上、男女が同じ環境下で学ぶことは互いの教育・発達上悪影響
があると考えられており、フィーヴァーシャムカレッジはその意向を汲み取った形で別学
校として開校した。しかしながらイギリスで本来推奨されているのは男女共学であり、そ
の観点から男女を区別する学校に公費援助を与えることについての反対意見も根強い。
イスラム教系の公営学校に関する概観はこれまで述べたとおりであるが、宗教学校が公
営化されても、そのキャパシティがムスリムのニーズに未だ対応できていない部分も存在
する。イスラム教独特の宗教観や文化が存在する故、他の公営学校とは非常に異なる特徴
も備わっており、問題点も多い。次章においては、他宗教学校の公営化の動きをイスラム
教系学校のそれと比較しながら整理することとする。
<第 1 章脚注>
Office for National Statistics, Census 2001.
4
5
Education Act 1944, Section 26(1). in Halsbury’s Statutes of England and Wales
Fourth Edition, Vol.15, London: Butterworth, 1994.
木原直美「イギリスにおける宗教教育の葛藤と多文化共生」
、江原武一(2003)『世界の
公教育と宗教』東信堂、120-121 頁。
7 National Curriculum の Religious Education の項目に詳しい。
8 宗教学校(Religious School)は、信仰学校(Faith School)と同義である。
9 Geoffrey Walford, “Muslim Schools in Britain” in G. Walford, British Private Schools:
Research on Policy and Practice, London: Woburn Press, 2003, p.164, p.171.
6
10
ibid.
Chris Hewer, “Schools for Muslims” in Oxford Review of Education, Vol.27, No.4, Dec
2001, p.519.
12 ‘Muslims gain equarity of funding’, The Times Educational Supplement,16 Jan 1998.
13 ‘Feversham College Muslim Girls School’, The Times Educational Supplement, 13
Oct 2000.
14 ‘Second Muslim school approved’ The Times Educational Supplement, 13 Apr 2001.
15 ‘Muslim academy wins state funding’, The Times Educational Supplement, 12 Sep
2005.
‘State backs Muslim Prep’, Times Educational Supplement, 3 Sep 2004.
16 C. Hewer, op. cit , p.525.
11
7
詳細は佐藤千津「イギリスの外国人学校と国際学校 ―イスラム系公営学校の設立をめ
ぐって―」
、江原(2003)前掲書、112-118 頁に譲る。
18 Education Act 1998 の改正に伴う公費維持学校の校種再編による。
19 Islamia Primary School, General Information
(http://www.islamia-pri.brent.sch.uk/admissions.html)
17
8
第2章
他宗教学校との比較に見るイスラム教系公営学校
本章はイスラム教の宗教学校が他のそれと比べて公費維持の地位を取得する時期が遅れ
た要因を分析する。まずイギリスの公営宗教学校の成立史を踏まえ、他宗教学校の公営ス
テータス取得の動向を整理する。国内の他宗教との比較により、イスラム教系学校立は不
利な立場にあることを明らかにすることが狙いである。
第1節
宗教教育の規程とエスニック・マイノリティの弊害
イギリスの宗教教育の実態は、多文化・多民族社会化の進行によってより複雑な様相を
見せてきた。同国がキリスト教を国教とする故に、エスニック・マイノリティは異文化故
の弊害に悩まされる。
20 世紀以降のイギリスの教育政策上、宗教教育に関する事項として、1944 年教育法
(Education Act, 1944, 1944, c.31)と 1988 年教育改革法(Education Reform Act 1988,
1988, c.40)の制定が挙げられる。この二つの法律が近代イギリスの宗教教育の根幹として
重要な意味を持つ。イギリスの宗教教育の概念について、この二法を基軸に整理しておこ
う。
まず 1944 年教育法は、公営学校において宗教教育を必修科目として位置付けた。20 し
かし宗教教育を希望しない場合には退出する権利なども記されており、つまり信教の自由
を保障する規程も記されていた。21 法律上、1944 年の時点では多様な宗教的ニーズに対
応することが可能となっていた。しかしここで改めて宗教的な配慮がなされたのは、イギ
リス国教会以外のキリスト教宗派、もしくはユダヤ教についてであったとされる。22 ここ
での信教の自由とは、上記の宗教に制限されていたのである。
もう一つの宗教教育の大きな転換期となるのは 1988 年教育改革法の制定である。同法に
よって策定されたナショナル・カリキュラムはイギリスの学校教育内容を初めて統一・体
系化した。そして公営学校における宗教教育は基礎科目となり、国家の伝統であるキリス
ト教を中心とした内容を教授することが明記されている。23
イギリスの学校教育の大きな基盤となった 2 法は、宗教教育に関してキリスト教優先的
であったことは事実である。特に 1988 年教育改革法策定の時点で多民族社会化が顕著とな
9
っていたにも関わらず、そのスタンスは 1944 年教育法のそれと大きく変わらなかった。清
田夏代も、保守党政権が奨励した宗教教育とは多元化社会に逆行した、キリスト教への同
化政策的な性格を持つものであったと指摘している。24
エスニック・マイノリティの宗教教育に関する障害は、法文上、カリキュラム上の規程
だけではない。宗教教育に関して、1988 年教育改革法にはキリスト教だけでなく他宗教の
存在も考慮することが明記されているが25、実際にそれを実現することは難しい。特に複数
の民族児童を抱える学校では、当該宗教を教授できる教員が学校にいない、もしくはキリ
スト教の礼拝が行われる時間にエスニック・マイノリティの子ども達は退席せざるを得な
いなどの弊害が発生することになる。26 彼らの教育的ニーズを反映した宗教教育を学校教
育の場で実践することは困難であった。
イギリスの宗教教育はまさにキリスト教を基幹としたものであったことがわかる。エス
ニック・マイノリティの宗教学校公営化運動で、認可までに多くの年月が費やされたこと
は、当時の宗教教育に関する概念も大きく影響していたと言えよう。
第2節
公営宗教学校の格差と歴史的背景
次に、公営宗教学校の設立過程の違いを宗教毎に比較し、考察する。ここでははキリス
ト教系、ユダヤ教系の学校を比較対象とする。これらの宗教がエスニック・マイノリティ
の宗教に比べ、優位なステータスにあることは先に述べた。その傾向は公営学校の現状に
も鮮明に見て取れる。次の表 2 はエスニック・グループの人口と公営宗教学校数の割合を
比較したものである。27 なお 2001 年国勢調査のデータと適合させるため、宗教学校のデ
ータは 2001 年のものを採用している。
10
[表 2]エスニック・グループ人口、公営宗教学校数対応表(イングランド、2001 年)
人口
人口割合
公営宗教学校数
学校の割合
イングランド総数
49,138,831
キリスト教
35,251,244
71.74
71.74%
6,731
96.53%
96.53%
ユダヤ教
257,671
0.52
0.52%
32
0.46%
0.46%
イスラム教
1,524,887
3.10
3.10%
4
0.06
0.06%
06%
シーク教
327,343
0.07%
2
0.03%
その他
6,973
複数データをまとめたため算出せず。
※キリスト教はイギリス国教会、ローマ・カトリック、正教の 3 派を適用。
その他の項目には無宗教、仏教、安息日再臨派等を含む。
連合王国内のムスリムは 160 万人近くにのぼり、その大部分がイングランドに居住して
いる。その中で学齢期の子供の人数は 40 万人程となる。しかし 2001 年の段階でイングラ
ンドに存在するイスラム教系公営学校はわずか 4 校に過ぎなかった。一方、民族人口の総
数ではムスリムの 6 分の 1 程度であるユダヤ教系の宗教学校は、学校数がムスリムのそれ
の 8 倍、32 校も存在している。現状ではイスラム教系公営学校の校数が圧倒的に不足して
いることは明白な事実である。ムスリムは国内エスニック・マイノリティの中で最大の人
口を持つにも関わらず、それに見合うだけの公営学校の数が確保できていない。
公営学校の地位を得るには、設置基準を満たした上で教育技能省へ申請し、認可を受け
なければならない。28 現在認可されているイスラム教系学校は、教育水準の高さなど一定
の功績が認められた上で設置基準を満たし、公費維持の地位を獲得し得た。しかし、現在
100 校前後存在するムスリムの学校にはそれぞれ格差も存在するため、全ての学校に同様の
水準を求めることは不可能である。他宗教の公営学校設置状況と比べて大きな格差が存在
するにも関わらず、設置基準が障害となり、ムスリムの公営学校を大幅に増加させること
は叶わなかった。
これらの格差が生み出されたのは各民族の歴史的背景によるところが大きいと考えられ
る。マジョリティである WASP が国内では最も古くから入植しており、ユダヤ民族、ムス
11
リムなどはイギリスにおける歴史が浅い。各民族が入植した時代の差異は、公営学校の成
立史にも大きな影響を与えていると考えられる。
19世紀より、イギリスの公教育制度の整備拡充は大きく進展した。諸宗教学校もその動
向に従って公営学校としての地位を獲得していく。以下でキリスト教、ユダヤ教、イスラ
ム教の諸学校公営化の過程を整理しておこう。
(1)キリスト教系学校
イギリス連合王国はイギリス国教会を中心に、キリスト教を国教として位置付けている。
そのため、教会などが独自にキリスト教系の宗教学校を開設するなど、いわゆる有志団体
によって宗教学校は設立されてきた。1839年、政府の教育諮問委員会(Committee of
Council for Education, CCE)は、当該学校における宗教教育上のカリキュラムなどが基準
を充たしていれば、公費による維持を認めることを決定した。29 キリスト教系の学校はこ
の段階で公営化を果たしている。
キリスト教の場合には、教会という国内でも一定の宗教的権威を持った団体が中心とな
って学校設置などの活動も行ってきた。そのためキリスト教系の宗教学校には、London
Oratory Schoolなど権威ある有名校が多く存在している。
2001年の段階ではイングランドにおける初等・中等の公営宗教学校は6,973校存在し、そ
の中においてキリスト教系初等・中等学校の数はイギリス国教会4,716校、カトリック2,018
校が存在している。30 公営宗教学校のうち、キリスト教の割合だけでも96.6%という数値
になり、連合王国においてキリスト教の地位が如何に優位であるかを物語っている。
(2)ユダヤ教系学校
ユダヤ教徒はその総数(約 257,700 人、2001 年)からは明らかにエスニック・マイノリ
ティの一構成民族と言える。31 一般的に「ユダヤ民族は優秀である」というイメージが強
いが、実際にイギリス国内で彼らの社会的ステータスは高い次元にあり、その理由として
はシナゴグ(ユダヤ教会)を中心とする独特の教育訓練が彼らの能力を高めているなどの
要素が考えられている。32 現状ではムスリムよりもはるかに人口が少ないが、宗教教育に
関してはキリスト教と同様に優遇されてきた。ユダヤ教系学校への公費援助が初めて認可
された事例としては、1853 年のマンチェスターユダヤ学校(Manchester Jew’s School)が
最初であった。33 1839 年にキリスト教系宗教学校への公費投入が始まって以来、当初は
12
保留とされていたものの34、ユダヤ教系学校も 19 世紀という非常に早い段階から公営化を
果たしている。この歴史的経緯からも、ユダヤ民族はエスニック・マイノリティでありな
がら教育政策上、WASP と極端に差別化、分化されることなく扱われてきたと言える。2001
年現在、イングランドにユダヤ教系公営学校は 32 校設立されている。
(3)イスラム教系学校
イギリスのムスリムは移民を中心に 1960 年代より増加の一途を辿り、現在は総数 160 万
人に迫ろうという連合王国内最大のエスニック・マイノリティである。彼らのコミュニテ
ィの中にイスラム教系の独立学校が設置され始めたのは 1980 年代からであり、これらの設
置者はトラスト、モスクなどであった。その中でも最初に公費援助に向けて動きを見せた
のが、第 1 章に見たロンドン・ブレントのイスラミア初等学校である。イスラミア初等学
校は当初、有志団体立補助学校の法的地位を獲得すべく正式な申請を 1986 年に行ったが、
教育大臣は基準に満たずとして受理しなかった。その背景としては 1980 年代の多文化教育
の高揚という流れが挙げられる。宗教別の学校は民族的分離を生じさせるとして、ブレン
ト地方議会が設置に消極的な態度を示していたのである。35 1985 年の報告書 Education
for all : the report of the Committee of Inquiry into the Education of Children from
Ethnic Minority Groups(スワン・レポート)に宗教毎の分離が多文化主義的な教育を妨
げると報告されたことも、その考え方に影響している。
1990 年代になると、イスラミア初等学校の他にフィーヴァーシャムカレッジ、アル・フ
ァーカン初等学校といった有力なムスリム諸学校が公費援助の申請を行うようになるが、
保守党政権の下ではこれらの申請が 1 校たりと受理されることはなかった。36 保守党政権
では拒否の理由として施設の不備などを掲げ、受理を先送りにし続けたが、同時期 97 年に
ユダヤ教系学校が 2 校公費援助申請を行っており、皮肉にもこちらは選挙前に認可された
のである。37 このような紆余曲折を経て、1998 年労働党政権の下、ブランケット教育大
臣がイスラミア初等学校、アル・ファーカン初等学校の公費援助申請を認可するに至り、
そして 2005 年現在、イスラム教系公営学校の総数は 6 校となった。
イギリスにおけるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の成立史と特徴を整理、比較して
みると、国内のムスリムとイスラム教の歴史が浅いことが大きなディスアドバンテージと
なって降りかかっていることがわかる。キリスト教、ユダヤ教系の学校は 19 世紀半ばより
13
公費維持学校の地位を獲得していた。ところがイスラム教系を始め、シーク教、ギリシャ
正教などの宗教学校が公費援助を受けるのは 20 世紀の終盤まで先延ばしとなった。
宗教学校の公営化動向を見ると、ユダヤ民族は WASP と同様のステータスを有している
と考えられ、その点に関して言えばエスニック・マジョリティと同様なのである。宗教学
校公営化の立ち後れに悩まされていたのは、ムスリムを始め 20 世紀になってから入植して
きたエスニック・マイノリティであった。民族の国内における歴史の深浅が、公営化の格
差に大きな影響を及ぼしている。
<第 2 章脚注>
20
Education Act 1944, Section 26(1). in Halsbury’s Statutes of England and Wales
Fourth Edition, Vol.15, London: Butterworth, 1994.
木原前掲論文、江原(2003)前掲書、118-112 頁。
柴沼晶子・新井浅浩編(1982)
『現代英国の宗教教育と人格教育(PSE)』東信堂、19 頁。
23 Education Reform Act 1988, Section 2(1)(a), Section8(2),(3), in Halsbury’s Statutes of
England and Wales Fourth Edition, Vol.15, London: Butterworth, 1994.
24 清田夏代「英国における新たな価値教育の導入についての一考察
―新しい社会統合原
理としての「シティズンシップ教育」―」国立教育政策研究所 国際研究・協力部(2005)
『イギリスの中等教育改革に関する調査研究―総合制学校と多様化政策―中間報告書
(2)』、31 頁。
25 Education Reform Act 1988, Section 2(1)(a), Section8(2),(3), op. cit.
26 佐久間孝正(1998)
『変貌する多民族国家イギリス ―「多文化」と「多分化」にゆれる
教育―』明石書店、520-532 頁。
27 人口データ:Office for National Statistics, Census 2001.
宗教学校数:’Facts about Faith Schools’, The Guardian, 14 Nov 2001.
28 G. Walford, op. cit., p.167-168
29 Helena Miller, “Meeting the Challenge: the Jewish schooling phenomenon in the UK”
in Oxford Review of Education, Vol.27, No.4, Dec. 2001, p.508
30 佐々木毅「中等教育改革における信仰学校―faith schools の問題―」国立教育政策研究
所 国際研究・協力部、前掲書 17 頁より。スコットランド、ウェールズ、北アイルラン
ドは除く。
31 Office for National Statistics, Census 2001.
32 佐久間(1993)前掲書、81 頁。
33 H. Miller, op. cit., p.502
34 ibid,, p.508.
35 Dwyer, Clair & Meyer, Astrid (1996) “The Establishment of Islamic Schools in Three
European Countries”, in W.A.R. Shadid & P.S. van Koningsveld(eds.) Muslims in the
Margin? Political responses to the presence of Islam in Western Europe, Kok Pharos:
Kamken, the Netherlands, pp.218-242.
36 ‘Muslims back state funding’ The Times Educational Supplement, 23 May 1997.
37 佐藤前掲論文、江原(2003)前掲書、116 頁。
21
22
14
第三章 公費援助認可に関する政府の姿勢と政策的方向性
本章ではムスリムの公営学校設立に関する政府の動向や関与形態について、現状を踏ま
えて考察したい。最大のエスニック・マイノリティであるムスリムに対し、WASP 並びに
ユダヤ民族の優遇とも思える政策の動向が窺えることは否めない。それらは教育技能省
(Department for Education and Skills, DfES)の政策文書の中にも窺うことができた。
第1節
言い分としての多文化主義
1980 年代より起こったイスラム教系学校の公営化運動は、結局保守党政権から受理され
なかった。Parker-Jenkins によれば、政府の言い分は 2 点に集約される。それはアジア系
の学校に援助を行うことへの不安、学校の分離による民族の社会的分離へ繋がることへの
懸念であった。しかし、かねてから宗教教育の実践においてキリスト教優先というスタン
スがあったことは明らかで、保守党のスタンスは異民族にとってより分離的な教育を望む
状況を作り出していたとも言える。結局異民族の学校への公費援助は滞り、1997 年の政権
交代までムスリムに公費援助への門戸が開かれることはなかった。
WASP とムスリムの「文化的差異(cultural diversity)
」は宗教学校の公営化にも少なか
らず影響してきた。例えばムスリムは男女共学を好まず、特に思春期の子供に関して親は
敏感であり、異性との接触を避けさせたいと考えている。38 2001 年に公費維持の地位を
獲得したフィーヴァーシャムカレッジは女子校であるし、アル・ヒジュラ校では男子と女
子を別々の階層に配置しており、さらに同姓の教師が教育を担当することになっている。39
イスラム教の教義に基づく男女を区分した教育実践に、学校は神経を使っている。しかし
イギリスは学校での男女共学を推奨しているので、この点で彼らの教育的ニーズと合致し
ていない。堂々と男女別学を行うことに公費を投入することは問題であると世論も反発を
見せた。他にも性教育に関する概念、芸術系教科への内容制限要望など、ムスリムの教育
的ニーズは独特である。40
保守党政権の時勢においても、公営校でのカリキュラムに関して許容範囲を広げるなど
の措置は採られてきていた。しかし 80 年代より多元主義的気運が高まったことで、
「民族
の社会的分離」を引き起こすと危惧される宗教学校に公費援助を行うことは最後までなか
15
った。イスラミア初等学校が 1980 年代に公費維持申請を拒否され続けたのは、ブレントの
地方議会が多文化教育の実践を進めようとしていた動向に逆行するものと認識されていた
からである。41 民族の統合を推進する多文化主義は、エスニック・マイノリティの教育的
ニーズを反映しようとしない消極的な政府の姿勢の「言い分」として機能していた。
第2節
新労働党政権の宗教学校公営化への消極的姿勢
イスラム教系宗教学校公営化の経緯・詳細は第 1 章、2 章に既に述べた。多文化主義を根
拠に、保守党政権は民族による分離した学校を最後まで公費援助の対象として認めなかっ
たが、1997 年政権交代後の労働党政権はそれを認可した。それでも学校数の比較で見る限
りでは、キリスト教、ユダヤ教系公営学校との格差は全く解消されていない。その要因と
しては、労働党政権のキリスト教教育への積極性と、エスニック・マイノリティの教育政
策への消極性という 2 点を挙げることが出来る。
労働党政権が政権交代後にエスニック・マイノリティ宗教学校への公費維持申請を認め
たことは一見積極的な姿勢と見ることもできるが、近年までの政策的動向を踏まえて考え
るとその認識は必ずしも正しくない。佐々木毅によれば、宗教学校の存在に関して肯定的
な評価を与えた政策文書は 2001 年の教育緑書『学校:成功の増設』Schools: Building on
Success であるとされている。42 同緑書の 4 章において、イギリス国教会を始めとする宗
教学校は高い教育力を持つと指摘されており、一層の充実が期待されている。宗教的教義
に基づく教育の重要性、その水準の高さに新労働党政府は着目しているのだ。宗教学校が
独自の教義に基づいて教育を行うことで結果的に高い達成度が引き出されるという認識に
より、宗教学校へ大きな期待がかけられている。
しかし緑書の内容は、公営の宗教学校を増設するという議論には繋がっていない。同書
が言及しているのは宗教団体、コミュニティ、ボランタリーセクター等による学校の増設
についてであり、増設後に公費援助を与えるか否かについての言及はされていない。この
時点ではエスニック・マイノリティの教育的ニーズに対応する姿勢が窺えないのだ。
Walford が指摘するようにイスラム教系独立学校の全てが公営化を望むわけではないが、公
費援助を望みながらも設置基準を充たさなかったことで公営の地位を獲得できなかった学
校もあった。43 事実、2001 年より数年間イスラム教系宗教学校の公営化の動きは停滞し、
16
教育政策上も公費援助を増やすという積極的な姿勢は見られなかったのである。
もう 1 つ注目しておきたい政策動向として、キリスト教系学校の増設について触れなけ
ればならない。2005 年 4 月 13 日付の BBC ニュースは、
「宗教学校の成長」として宗教学
校の増設動向について報じた。44 それによれば 2001 年 6 月にイギリス国教会が、その時
点で 204 校存在した国教会系公営中等学校をさらに 100 校増設するプロジェクトに乗り出
している。その流れを踏まえ、2004 年には 43 校の中等学校を「獲得」し、さらに 36 校が
計画の最中にあったとされている。45 近年の宗教学校の人気も手伝い、公営宗教学校のほ
ぼ全体を占めるキリスト教系の学校はさらにその校数を増加させている。
これらの政策動向には、エスニック・マイノリティへの配慮どころかマジョリティ優先
の気運が窺える。緑書には宗教学校の一層の普及が唱えられたが、それはマジョリティの
ニーズを優先したキリスト教学校の増設を一層促す結果となっていたのである。
第3節
公営学校政策の動向の変化
2005 年現在イスラム教系公営学校は 6 校存在する。しかしこれはイギリスにおよそ 40
万人存在するムスリム学齢児童の教育的ニーズに完全に対応できている数値ではない。教
育政策も公営学校の設立に関して、特に 2002 年からはムスリムよりもキリスト教の学校設
置優先の方向へ動いていた。6 校のイスラム教系公営学校に対し、約 7000 校の公営キリス
ト教学校が存在するにも関わらず、である。
しかし 2005 年に関して言えば、教育技能省の宗教学校に対する意識は、わずかながら変
化していることが読み取れる。2005 年 10 月の教育白書 Higher Standards, Better Schools
for All: More choice for Parents and Pupils には、独立学校をより一層公営部門へ参入させ、
それによって親の学校選択や良質の公営学校が拡大するとの内容が明記されている。そし
て実際にこの年の 6 月、DfES は公営部門への参入を促すプロジェクトの一環としてムスリ
ム学校協会(Association of Muslim Schools)に対し、£100,000 の資金援助を行っている。
46
2005 年 9 月にリースター・イスラミック・アカデミー(Leicester Islamic Academy)
が公営の地位を勝ち取ったことは、これらの政策の成果である。47 この事実から、教育技
能省のイスラム教系学校とその公営化に対する認識・評価は肯定的なものへと変化したと
考えられる。さらに教育技能省のスポークスマンは、設置基準に満たなかった学校にも現
17
状のままに公営の地位を与え、一定期間内にその水準を達成させるというオプションを残
す可能性にも言及している。48 この方式が確立されればこれまで公営部門への参入を認め
られなかった独立学校にも可能性が開かれる。2001 年から数年間の空白期間を経て、政府
は宗教学校の公営化にいよいよ本腰を入れはじめている。
2005 年の白書はエスニック・マイノリティの公営宗教学校の増設に関して、政府の積極
性を示した初めての文書と言える。しかし The Guardian 紙の記者 Curtis は、最大のエス
ニック・マイノリティであるムスリムの学校よりも、キリスト教を始めとした他の宗教・民
族の学校がより多く参入してくる可能性に言及している。2 節にも述べたように、公営宗教
学校に関して 2004 年度まで重点が置かれていたのは主にキリスト教系の学校で、その数は
今後も大きく増加する見通しとなっている。
さらにエスニック・マイノリティの宗教学校への公費援助には、世論の反応も冷ややかで
ある。2005 年の調査では、国民の約 3 分の 2 が反対している現状が明らかになった。49 政
府の学校監察官長 David Bell も、イスラム教系宗教学校の教育実態が現代イギリスのムス
リムの生活に適合する物ではないと批判を加えている。この意見は、保守党政権時代に根
強かった批判と本質的に変わらないものだ。反対意見も未だ根強い中で、今後教育技能省
がエスニック・マイノリティの学校への公費援助を継続できるか、見通しは明るくはない。
<第 3 章脚注>
佐久間(1993)前掲書、84-89 頁。
C. Hewer, op. cit., p.520
40 G. Walford, op. cit., pp.158-174.
41 Claire Dwyer & Astrid Meyer, “The Establishment of Islamic Schools in Three
European Countries”, in Shadid & P.S. van Koningsveld, Muslims in the Margin?
Political responses to the presence of Islam in Western Europe, Kok Pharos: Kamken,
the Netherlands, 1996, pp.218-242.
42 佐々木、前掲報告、国立教育政策研究所
国際研究・協力部前掲報告書(2005)、16 頁。
43 ‘Muslim schools examine state integration’, The Guardian, 8 Aug 2005.
44 ‘The growth of faith schools’, BBC NEWS, 13 Apr 2005
(http://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/1/hi/education/3791463.stm)
45 Failing School(失敗校)
を再生するため、ボランタリーセクターが学校を接収・経営し、
再生を図るという施策によるもの。
46 ‘Muslim schools examine state integration’, The Guardian, 8 Aug 2005.
47 ‘Muslim academy wins state funding’, The Times Educational Supplement, 9 Sep
2005.
48 ‘Muslim schools examine state integration’, The Guardian, 8 Aug 2005.
49 ‘Two Thirds oppose state aided faith schools’, The Guardian, 23 Aug 2005.
38
39
18
終章
本論ではイギリス国内最大のエスニック・マイノリティであるムスリムと、彼らの公営宗
教学校について言及してきた。第 1 章において現状のイスラム教系公営学校の問題点を、
実例を参考に整理し、明らかにした。ここで明確になったことは、公営学校はムスリムの
ニーズに対応しきれず過飽和状態にあることである。第 2 章において他宗教学校との比較
を踏まえてイスラム教系学校の問題点を明確にした。宗教学校の宗教毎の格差、更にそれ
が民族的な文化的背景から生じていることが原因として説明できる。さらに第 3 章では、
これらの教育政策上の動向と位置付けを確認することで、同問題に関する政府の関与につ
いて再考した。1997 年政権交代後の労働党政権がイスラム教系の宗教学校設立の要望に応
えたことはエスニック・マイノリティへの寛容・包摂の姿勢を必ずしも表してはおらず、
むしろその後の動向、政策文書から考えると、政府の彼らに対する姿勢は消極的なもので
あったことが読みとれた。
本論の結論として、次の 2 点を掲げたい。第 1 に言えることは、国内のムスリムとその
学校に対する公の援助は、キリスト教、ユダヤ教のそれとの間に大きな格差が存在してお
り、そこには民族の歴史的なディスアドバンテージ並びに文化・宗教観の違いの弊害が介
在していることである。イスラム教徒に対するイギリス社会の目は、未だ厳しいものであ
り、公費援助問題にはそれらの差異を理由に世論は大きく反対しているのが現状だ。
また第 2 に、公費援助を認可した労働党政権の姿勢は、実際には消極的なものであり、
一部の学校には公費援助を認可したものの、政権交替前の保守党政権のスタンスと大きな
違いがなかったということが指摘できる。特に 2001 年から 2004 年までの動向は、エスニ
ック・マイノリティの宗教学校公営化の「停滞期」として位置付けることができよう。保
守党の政策との折衷的政策とも言われる新労働党政権の「第 3 の道」政策だが、その動向
は教育政策にも中途半端に現れてしまい、公営学校の大幅な増設を妨げたと言えるのでは
ないか。
民族の社会的な分離を引き起こすことを危惧する人々は多い。しかし Claire Tinker はム
スリムの中にも多様性があることは多文化・多民族的なものであり、現在の反対意見はそれ
らに目を向けていないと指摘している。50
エスニック・マイノリティには民族毎のニーズ
だけでなく、その各民族の多種多様なニーズが存在する。それに対応するにはイギリスの
教育環境は未整備の点が未だ多く、宗教学校の公営化もその一環と言えるだろう。文化的
19
差異に基づく価値観の違い、異文化に公費を投入することの是非は大きな問題となり、同
政策のブレーキング要素として作用している。しかし、今やイギリス国民のおよそ 10 人に
1 人がエスニック・マイノリティで構成されていることも事実なのである。51 彼らの教育
の機会均等は未だ達成されていない。学校教育システムにおけるマジョリティとの格差、
民族的な不平等を是正するという観点から、エスニック・マイノリティの学校への公費援助
はこれからより求められる課題である。
<終章脚注>
‘Britain debates state aid for Muslim schooling’, International Herald Tribune, 31 Oct
2005.
51 Office for National Statistics, Census 2001.
50
20
[参考文献・資料一覧]
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• 佐久間孝正(1993)
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• 佐久間孝正(1998)
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• 佐貫浩(2002)『イギリスの教育改革と日本』東京:高分研
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• 柴沼晶子・新井浅浩編(1995)
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比較教育学会(1995)
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清田夏代「英国における新たな価値教育の導入についての一考察
―新しい社会
統合原理としての「シティズンシップ教育」―」前掲書 23-41(19)頁
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the UK”, op. cit, pp. 501-513(13)
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• Muslim schools, education, children and family life
(Muslim Schools, Education and Home Life:
http://www.islamfortoday.com/schools.htm)
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