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2010 年度南西日本プログラム 奄美調査報告書

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2010 年度南西日本プログラム 奄美調査報告書
日本古代学 第 3 号 103-157 頁、2011 年 3 月
Meiji University Ancient Studies of Japan
Vol. 3, March 2011. pp. 103-157.
【報
告】
2010 年度南西日本プログラム 奄美調査報告書
南西日本プログラム参加者有志
これは第 3 回を迎えた南西日本プログラムの奄美調査における報告書である。院生それぞれ
が自らのテーマのもと報告を行っているため、テーマに偏りがあるかもしれない。しかし、そ
れぞれが自主的にテーマ設定をして取り組むほどに、その調査は刺激的なものであったことを
ここで申し述べておきたい。2010 年 9 月 9 日から 14 日までの 5 泊 6 日の日程で行った奄美大
島、及び加計呂麻島、喜界島の調査は、全日程晴天に恵まれて、「気がついたら羽田に降りた
っていたというような怒濤の 6 日間」という現地案内人高橋一郎氏の言葉通り、大変充実した
ものだった。以下簡単にその調査の概要を記す。
第 1 日目、まず調査開始にあたって奄美の全体像をつかむべく、奄美北端の真崎から太平洋
側海岸線を眺める。この島を海から北上して眺めたならば、刻々と変わる風景は同じ島のもの
とは思えないに違いない。岬が幾重にも重なって加計呂麻島まで続くさまを目に焼き付けた。
第 2 日目、奄美大島南西部の宇検村を中心とした調査を行う。前日見た北端部の緩やかな山
の斜面と平地の織りなす風景とは異なる、切り立った岩場がそのまま海へと流れおちるような
景色を目の当たりにする。その外部を遮断する地形ゆえか、この地域にはアシャゲを中心とし
た古い集落のたたずまいが残っていた。テラヤマからアシャゲを通って浜へという聖空間は水
の道でもあって、それを中心にどのようにして集落が形成されていったかを確認した。
第 3 日目、古仁屋から加計呂麻島に渡る。奄美大島南部と同様にその険しい地理的環境はカ
ミミチ、アシャゲ、テラヤマを残してはいたものの、お年寄りがなくなって広がり始めていた
空地は、この聖空間が朽ち果てつつあることを示していた。興味深いことは、源氏の末裔を語
る集落と平家落人伝承を持つ集落が、対立するかのように存在していたことである。また、多
くの集落で耳にする平家落人伝承が何を意味するのかといえば、平家伝承は在地の豪族の滅亡
伝承に重ねられているという高橋氏の指摘もあるように、伝承というものは新しく塗り替えら
れて受け継がれていくものであり、重層化するものだということである。
第 4 日目、午前中はアラセツ前日にあたるため、浦上にて豊年の祝いとして行っていた相撲
行事を見学し、龍郷町周辺集落の調査を行う。午後からは秋名にてショチョガマとヒラセマン
カイの事前調査を行う。本来は各家で前日のユウハシにもカシキのお供えをしてアラセツを祝
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南西日本プログラム参加者有志
ったというが、今お供えをする家は数軒となってしまい、その一つのお宅を訪問しカシキの供
えを見学する。
第 5 日目、5 時過ぎに鳴り始める一番太鼓を合図に縁側に供えられたカシキを見学し、ショ
チョガマの祭りを見学する。ショヨチョガマの屋根を倒すために男たちが太鼓に合わせて右へ
と足を踏む所作は、船を漕ぐ所作に同じく「こぐ」といわれていた。それはこのショチョガマ
が「山の船」であることを示しているらしい。朝日が山の上から差し込むと同時に倒されたシ
ョチョガマが稲霊の籠る産屋であるとしたら、ここには日光感精神話の面影があるだろうか。
それは日の光が差し込むと同時にカシキが縁側から下げられることにもうかがえる。午後から
は隣の嘉渡集落を調査し、再び秋名に戻ってヒラセマンカイの祭りと八月踊りを見学する。ヒ
ラセマンカイはショチョガマとうってかわって、女性だけが行う祭りである。岩の上に乗り海
にむかって手招きをするノロの所作は、海のかなたむこうから「富(ふう)」を招きよせるた
めのものであるという。海の豊饒幻想は女性原理であることを改めて確認することとなった。
第 6 日目、喜界島に渡り、在地の郷土研究家である英啓太郎氏の案内によって、為朝伝承に
纏わる雁股の池や平家ゆかりの俊寛の墓、天女伝承が伝わる神社などを見学する。また資料館
では天女の羽衣を見学し、澄田直敏学芸員による城久遺跡に関する講義をうける。この遺跡か
ら発掘される遺物のほとんどは島外のものであり、それが人の移動をも意味するのか、モノの
移動だけを意味するのかは不明らしいが、この島が南島交易において重要な役割を担っていた
ことは明らかである。喜界島の地理的・歴史的環境について考えさせられた。
以上 6 日にわたる調査には、ノロ祭祀、為朝伝承、平家伝承、在地の豪族伝承、悲劇伝承、
風葬墓、考古遺跡、ショチョガマとヒラセマンカイの祭りといった、歴史・民俗・考古・文学
の分野にわたる様々なテーマがあった。ここから何を自分のテーマとして選び取るか、それは
院生それぞれに委ねられているだろう。
また最後に高橋一郎氏の語りについて付け加えておきたい。昨年調査した宮古島のカンカカ
リヤ(女性シャーマン)の語りが極めて情に訴えるものであるとするなら、高橋氏の語りは理知
的なものである。彼が神者でなければそこに違いがあって当然ではあるが、歴史、考古、地理
の知識を導入した民俗の語りは緻密で分析的であった。しかしそれは断片的に語られる古老の
伝承を知識で解明しようとすることではない。語られないものは語らない、想像や創造を交え
た解説はしない、という高橋氏の一貫した姿勢は、かえってトータルな伝承世界をイメージさ
せる。細部まで詳しく語られる伝承は、時にノロ祭祀にまつわる古層伝承であり、時に平家伝
承につながる豪族の滅亡伝承であり、時代も空間も超越して、確実に奄美における世界観を語
っていた。語り継がれ、語りなおされていく伝承、重層する伝承、それこそが民俗というもの
ではないか。理知的で分析的でありながらも、普遍化してはならないという高橋氏の民俗学を、
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2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
私たちはただ浴びるようにして聞けばよい。そこから何が立ち上がってくるか、醸成を待って
受け継いでいくことにしたい、今度は文学として。
(堂野前
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彰子)
南西日本プログラム参加者有志
スケジュール紹介
9 月 9 日(木)
9 月 10 日(金)
9:00
9 月 11 日(土)
10:50
奄美到着
ホテル出発
6:00
ホテル出発
11:10
11:30
節田・真崎(摩崎)
節田・阿麻弥姑神社
10:10
11:15
宇検村生涯学習センター
須古(スク)
7:20
8:10
古仁屋灯台 古仁屋発(フェリー)
12:00
13:15
奄美パーク
崎原・アヤマル崎
12:45
14:00
阿室(アムロ)
屋鈍(ヤドン)
8:30
9:20
池間着
俵(ヒョウ)
14:10
辺留・大島奉行所跡
14:40
平田(ヘタ)
9:40
嘉入(カニュウ)
14:30
15:00
アモレオナグの泉
塩田・横穴墓
15:20
16:10
佐念(サネン)
宇検村(ウケンソン)
9:50
10:30
須子茂(スコモ)
阿多地(アダチ)
15:20
15:40
屋仁・神道
蒲生神社
16:40
16:50
今里(イマサト)
志戸勘(シジョカン)
11:20
11:35
三浦(ミウラ)
武名(タゲナ)
16:30
16:50
17:45
赤木名・代官所跡
赤木名・ノロ墓
ホテル着
17:10
17:15
17:40
戸円(トエン)
嶺山公園
大和村・群倉(ボレグラ)
11:50
12:10
12:40
木慈(キジ)
瀬武(セダケ)
実久(サネク)
18:20
19:00
大和浜
ホテル着
14:05 薩川(サツカワ)
14:50 伊子茂(イコモ)
9 月 12 日(日)
9:00
9:10
11:15
11:35
12:10
13:15
13:50
14:00
於斉(オサイ)
諸鈍(ショドン)
呑野浦(ノミノウラ)
瀬相
瀬相発
18:30
20:00
古仁屋着
ホテル着
9 月 13 日(月)
9 月 14 日(火)
ホテル出発
浦上・土俵入りの見学・有盛
神社
4:00
4:45
ホテル出発
肥後サツさん宅訪問・カシキ
の見学
8:30
10:30
10:50
戸口・弁財天
戸口・行盛神社
浦・ノロ墓
瀬留(セドメ)
久場(クバ)
龍郷(タツゴウ)
5:00
6:50
ショチョガマの調査
肥後サツさん宅訪問・カシキ
の見学
田畑マスエさん宅訪問・カシ
キの見学
アガレの田畑イソさん宅訪問
11:00 御殿の鼻(金比羅宮)
11:30 小野津(オノヅ)
・雁股の泉
12:00 小野津・ムチャカナの墓
12:55 塩道・塩道長浜
13:15 蒲生・天降神社
13:40 手久津久(テクツク)
・朝戸
7:00
7:10
14:40
15:40
16:00
円(エン)
・カシキの見学
秋名(アギナ)
7:40 展望台・名瀬を一望
ショチョガマ・ヒラセマンカ 8:00 ホテル着
イの事前見学
8:00∼14:00 まで自由行動
16:30 肥後サツさん宅訪問・カシキ 14:00 ホテル出発
17:30
18:00
15:00
16:00
17:00
17:30
18:05
の供えの見学
大熊・トネヤ
ホテル着
14:45
16:00
18:00
20:00
嘉渡(カド)
ヒラセマンカイの調査
秋名公民館前にて八月踊りの
見学
ホテル着
106
ホテル出発
奄美発
喜界島着
神社
喜界町中央公民館
澄田学芸員による城久遺跡に
関する講義
15:20 城久(グスク)遺跡の見学
14:00
14:30
16:20
16:30
16:50
18:00
20:30
22:05
俊寬の墓
空港着
喜界島発
鹿児島着
鹿児島発
羽田着
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
【目次】
1
「奄美という島」
堂野前
彰子
108
2
「加計呂麻島のシマの空間」
遠藤
集子
111
3
「ショチョガマとヒラセマンカイについて 衾記録と概要衾」
山口
直美
115
4
「喜界島の地理と伝承」
田中
美幸
119
5
「猫伝説とノロ」
グリブ・ディーナ
126
6
「シャーマニズム文化と民間祭祀の比較紹介」
クルボノヴァ・グルノザ
128
7
「奄美大島、加計呂麻島のノロ祭祀文化の多様性 衾継承との関連から衾」
櫻井
智浩
134
8
「伝令の過ちによって導かれる「死」」
佐野
愛子
137
9
「奄美の平家伝承と『平家物語』」
朴
知恵
141
沙也佳
144
10 「奄美大島の弁才天信仰について」
梅原
11
「古代〜中世前期における奄美大島・喜界島 衾九州地域間の水上交通に関する一考察衾」
12
「奄美地方の調査を終えて 衾弁財天と平家伝承についての走り書き衾」
岩橋
永藤
107
直樹
147
靖
150
南西日本プログラム参加者有志
奄美という島
堂野前
彰子
奄美大島を地図で見る。その島は鹿児島と沖縄本島のちょうど中間に位置していることがわ
かるだろうか。今その島が鹿児島県であることを思えば、ヤマト文化圏に属しているといえそ
うなのだが、言語からすると明らかに琉球文化圏に属しているという。それは地図上ではわか
らない黒潮本流の流れが、薩摩半島との間の断絶をもたらしているらしい。そのような複雑な
地理的環境が、ヤマトと琉球の融合ともいえるこの島独特の文化を形成することになった。
今回の調査で強く感じたのは、そのヤマトでもなく琉球でもないこの島の文化が、時代の流
れに翻弄されながらも、その地理的環境ゆえの両義性を保ちながら、フレシキブルにしぶとく
独自の文化を形成してきたということである。そう、奄美の歴史や文化は複雑だ。
奄美が日本の歴史に登場するのは 7 世紀、『日本書紀』斉明天皇 3 年(657) 7 月条に「覩貨
あま み
邏国」の男女が筑紫に漂着した時の言葉として「臣等、初め海見嶋に漂泊せり」とあるのが文
や
く
献の初出である。その後、天武天皇 11 年(682) 7 月条に「阿麻弥人」が「多禰人」・「掖久人」
とともに禄を賜ったと記録される。『続日本紀』では文武天皇 3 年(699) 7 月条に「菴美」、和
銅 7 年(714) 12 月条に「奄美」が南島の島々とともに入朝したとある。また天平 5 年(733)
の第十回遣唐使は奄美を経由して唐へ向かっていて、この島が遣唐使派遣をしていた時代のヤ
マトにとっていかに重要であったかが理解できる。
あるいは『日本紀略』によると、長徳 3 年(997)大宰府管内へ武装した「奄美島」の者が
乱入して放火や掠奪をしたため、大宰府からの追捕命令が「貴駕島」に発せられたという。こ
の「貴駕島」は現在の喜界島にあたるとされ、城久遺跡の発掘からその遺物が大宰府の遺物に
酷似していることを根拠に、喜界島に大宰府の出先機関があったと推定されている。さらにそ
の遺物が 8 世紀後半から 12、3 世紀までのものであることから、琉球王国が発展する以前に奄
美大島および喜界島には高度な文化が形成されていたことも明らかとなった。
そうであるのになぜか、喜界島はもちろん奄美でさえ一大国を築くことなく、琉球王国に何
度も侵攻され、そのたびに抵抗しては服従させられるという憂き目を見ている。近世になって
からは薩摩藩による侵攻もあり、琉球からも薩摩からも突き上げられる狭間の島、間に入った
板挟みの島という印象が強い。在地勢力が支配した「奄美世」に続いて、琉球統治時代は「那
覇世」、薩摩統治時代は「大和世」と呼ばれ、常にいずれかの支配を受けてきた歴史がある。
さらに近年、かつて航路でしか繫がっていなかった本土が空路によっても繫がるようになっ
てからは、沖縄からの人もモノも文化も情報も、奄美の上を素通りしていくことになる。都市
108
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
近郊型の町からはかつてどの集落にもあった土俵が消え、どこへいっても同じである「のっぺ
りとした顔」をさらけ出している。かつて日本のどの地域にもあった地域性がこの島において
も失われつつあり、中央に対する地方というものが消滅しかかっている。
しかし、そのような時代の流れや地理的環境の中にあって、奄美は新しい独自の文化をしっ
かりと築いていた。ノロ祭祀が集落から姿を消している一方で、浦上の秋の祭礼は敬老の祝い
をも兼ねて有盛神社を中心に賑やかに行われていた。公民館の庭に設えられた大きな土俵には
多くの小学生があがり、真剣に相撲の勝負に取り組んでいた。祭りを中心に共同体は運営され
ている。秋名のショチョガマとヒラセマンカイにしても、それにあわせて家々で行われていた
カシキの供えが見られなくなったとはいうものの、実に多くの観光客を集めている。それは祭
り本来のあり方ではないという指摘もあるが、祭りは時代の要請に従って形を変えながら生き
続けていた。そこには消失するより存続することを選んだ決断がある。祭りとは何よりも存続
することに意義があるものなのだろう。「繫ぐ」ことに重きを置いた奄美は、長い歴史の中で
そのようにして生き続けてきたことを忘れてはなるまい。
それでは、そのような文化の柔軟性と融合を奄美にもたらしたのは一体何だろうか。それは
改めて述べるまでもなく、この島の地理的環境と風土である。この島が琉球から薩摩、ヤマト
までの海路上に位置することであり、高橋一郎氏の指摘、129 度 30 分の経線を地図上に引い
てみるとその線上に対馬、平戸、臥蛇島をかすめ奄美大島名瀬に至るという、その海上交通の
要衝であったことである。
と同時に、陸路よりは海路によって通行していたこの島の山深い地形が、一つの島といいな
がらも分断された集落ごとの文化を生み、海路によって外部へと向かった風土そのものが文化
融合と柔軟性を育んだ。奄美を訪れていつも思うことは、この島の地形が対馬のそれと非常に
似ていることである。この二島は共通して、南北を貫く一本の背骨のような尾根道から海岸の
集落に降りる細い肋骨のような道があるだけで、島を周遊するような道もなければ、集落と集
落を直接結びつけるような道もない。隣の集落に行くには一旦尾根道に戻ってまた海岸へと降
りていくしかないのである。そのような地形は陸路より海路を発展させた。人々は船をあやつ
って海岸線沿いに移動するようになり、集落は海路によって結ばれた。それはシマと呼ぶにふ
さわしい集落のあり方である。海路の発達と海上からの眺めが、奄美の集落をシマと呼ばせた
のであった。
そしてその二島に共通する山深い地形と大陸と九州・沖縄を結ぶ地理的環境は、人々を海に
生きることをも決心させた。交易を本業として海を自由に往来する人々は、土地にしがみつい
た「支配」というものを拒み続ける。高橋一郎氏がいう「国家に抗する海」は奄美のみならず
対馬にも広がっていた。海賊として悪名高き「倭寇」や「日本甲兵」が、対馬と奄美の海を縦
横無人に駆け回っていたという記録が残されているではないか。地形と地理的環境が人々の生
109
南西日本プログラム参加者有志
き方をも決定するのである。
そのような島の地形を実感するところから、今回の奄美調査ははじまった。奄美に降り立っ
たその足で向かった真崎で、まず奄美という島を俯瞰する。晴天に恵まれて、その奄美北端の
海岸から太平洋側の海岸線が遥か加計呂麻まで続いて見えた。明神崎、仲干瀬崎、市崎、崎々
の先端にはこんもりとした山があって、船に乗って移動するのならば刻々と目に飛び込んでく
るのはその山々である。それは一つの島の海岸線というよりは、流れるように見える島々であ
ったに違いない。船の速度にあわせ流れていく島々。それはまさに『おもろさうし』にうたわ
れた風景である。オモロで繰り返されるのはこの太平洋側の風景ではなく東シナ海の海岸線で
はあるが、奄美から琉球にいたるまでの航路は次のようにうたわれている。
聞こゑ押笠
/
鳴響む押笠
/
やうら
又喜界の浮き島
/
喜界の盛い島
又浮島にか仗ら
/
辺留笠利きやち
又留笠利から
/
/
金の島かち
/
せりよさにかち
又せりゆさにから
/
かゑふたにかち
又かゑふたにから
/
安須杜にかち
又安須杜から
金比屋武かち
/
又金比屋武から
使い
中瀬戸内きやち
又中瀬戸内から
又金の島から
押ちへ
/
那覇泊かち
(『おもろさうし』巻十三・868)
このオモロからは、喜界島から奄美を通って徳之島、沖永良部島、琉球へと一直線に結ぶ海
路が浮かびあがってくるだろう。それは時に「喜界
大みや
直地 成ちへ
みおやせ(『お
もろさうし』巻十三・687)」とオモロにうたわれるような、地続きのものとして捉えられてきた
交易の道でもあった。
そしてその交易の道こそ海流の別名であったことをここで改めて指摘しておきたい。福建省
から沖縄、奄美へと連なる対馬海流によって交易は行われ、文化というものはもたらされた。
その海流が奄美を琉球文化圏に所属させる。そうであるから、その文化流入は決して反対方向
にはむかわなかったのだろう。海流の流れにそって文化は南から北へと北上する。逆は不可な
り、北から南へと逆走することはあり得なかったのか。
そういえば、九州よりもはるかにに韓半島に近い対馬が日本語文化圏に所属している。済州
島より北にある対馬が「日本」で、対馬よりも九州に近い済州島が「韓国」であるということ
の背後には、南西諸島に沿って北上し韓半島にあたって中国大陸へと回っていく海流がある。
文化の伝播と海流は密接な関係にあるものなのだ。そのような意味で、この奄美が琉球文化に
属することには何の不思議もない。
110
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
ところが奄美が一筋縄ではいかないのは、琉球文化に属しながら、シマウタの音階があのレ
とラの音を抜いた独特の琉球音階ではないことである。いたるところにヤマト文化の面影があ
る。それをどのように考えたらよいのか。
それを奄美の「しぶとさ」と捉えたい。豪族伝承も平家落伝承も滅亡していく物語として語
り継ぐ奄美は、常にそれらの伝承の外側にいる。外部の侵入とは無縁のところにノロの祭祀も
共同体も存在しようとしているのである。琉球文化圏に属しながら、日本文化を継承する奄美
「境界領
は、琉球文化圏にもヤマト文化圏にも属さない。それを「ぼかし」と呼ぶ人もいる。
域のさらなる境界」ということらしい。複雑な歴史を大国の間で揺れながらしぶとく「境界」
に生き、文化を「繫いできた」奄美、それが奄美という島なのだろう。そのようなことを考え
させられた調査であった。
参考文献
高橋一郎『伝承のコスモロジー
琉球と大和の淵 衾奄美衾』三弥井書店 1994 年
高橋一郎『海原の平家伝承 衾奄美説話の現像衾』三弥井書店 1998 年
岩瀬博・高橋一郎・松浪久子編『琉球の伝承文化を歩く』三弥井書店 2006 年
池田榮史編『古代中世の境界領域 衾キカイガシマの世界衾』高志書院 2008 年
谷川健一編『日琉交易の黎明 衾ヤマトからの衝撃衾』森話社 2008 年
加計呂麻島のシマの空間
遠藤
集子
1.はじめに
2010 年 9 月 9 日から 14 日までの 6 日間、南西日本プログラム・奄美大島のフィールド調査
が行われた。調査 3 日目の 9 月 11 日の朝、我々は加計呂麻島に渡り、島に残るノロ祭祀の痕
跡を辿っていった。これはその記録である。
まず、加計呂麻島の地理環境について簡単に整理しておくことにしよう。加計呂麻島は大島
海峡を挟んで奄美大島の南岸に向いあう位置にあり、西半分にあたる旧実久村と東半分にあた
る旧鎮西村とに二分されていた。西から東へと島中をまわる中で、旧実久村と旧鎮西村の二つ
の村には、ノロ祭祀に関する大きな違いがあることが判明した。旧実久村の集落では、昭和初
期の段階までノロ祭祀が行われていた(昭和の初め頃、奄美大島の阿木名から加計呂麻島の瀬武の旧
家へ嫁入りした女性が、「まだこんなこと(ノロ祭祀)をやっているのか」と驚いたという話がある)が、
旧鎮西村の集落では、はやくにノロ祭祀が行われなくなってしまったのだという。同じ加計呂
麻島の中で、東半分のみノロ祭祀が行われなくなるという事態が生じたのには、おそらく旧鎮
111
南西日本プログラム参加者有志
西村の対岸にある奄美大島の古仁屋という町が関係している。古仁屋は軍港として発達してお
り、それ故に旧鎮西村は外の文化が流入しやすい環境にあった。近代化の流れの中で、ノロ祭
祀は古い習慣とみなされ、衰退の道をたどり、代わりに日本の神道へと切り替えられていった
のではないかと考えられる。これに対して旧実久村を中心とした集落には、アシャゲ(祭場と
なる小屋。壁がない。
)やトネヤ(祭祀を行う小屋。神棚があるものもある。)といったノロ祭祀に使
った建物が現在にいたるまで残っている場合が多い。しかし、加計呂麻島だけでなく奄美全体
を視野に入れれば、これらの建物が姿を消しつつあることは間違いない。加計呂麻島ではまだ
所々に残っているアシャゲも、奄美大島においては唯一阿室に残るのみとなってしまった。奄
美において祭祀建物が次々と姿を消していく中、加計呂麻島ではその貴重な姿を留めているの
である。
この調査報告書では、嘉入・須古茂・阿多地の三つのシマ(集落)を取り上げる。旧実久村
にあたる上記のシマにはアシャゲやトネヤが残されており、一つのシマのあり方について確認
することができる。以下、失われつつある祭祀建物の姿を記すとともに、現在シマが置かれて
いる状況についても併せて報告することを目的とする。
2.(1) 嘉入集落
調査に入った 9 月 11 日はユウハシ(アラシツの前日。アラシツは旧暦 8 月の初丙の日で、一年の
始まりとなる節目の行事。)の前日にあたり、翌 12 日のユウハシに備えて土俵の掃除などお祭り
の準備をするシマの人々の姿が見られた。
ミャー(集落内部の広場)の中にある土俵に背を向けて立つと、目に山の連なりがとびこんで
くる。その山々の中に、松の古木が数本目立つように立っている山がある。それが嘉入集落の
テラ山(カミ山)である。シマの方にこの松の木についての話を伺うことができた。テラ山は
集落の守り神で、以前は同じ場所に松の木が 13 本あったが松くい虫のために枯れてしまった。
そして現在残っている最後の一本にも松くい虫の影響が出てしまっているという。確かに山の
上に立つ数本の松の木の中で緑色をしているのは一本のみであり、残りは皆枯れてしまってい
た。松くい虫の被害状況を受けて、平成 21 年 1 月、ふるさと嘉入集落活性化推進委員会によ
ってトネヤの隣に碑が建立された。碑文には、テラ山が古くから村人に崇拝されたことや、旧
暦の 9 月 9 日には神酒を供えたことなどが記されている。(写真 1)碑はテラ山に向かって建て
られており、お年寄りがテラ山を拝めるようにこの場所に建てたということだった。
ミャーの中へと目を転じてみよう。嘉入集落のミャーには、コンクリート製のアシャゲ、土
俵、トネヤがある。現在コンクリート製になっているアシャゲも以前は木で作られており、材
料となる木材はオボツ山から切り出してきたのだとシマの人は話してくれた。ここでは、アシ
ャゲの中のナ衾柱(中心になる柱)、土俵、トネヤ、テラ山が一本の線上に並んでいることが見
112
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
てとれる。
ミャーを離れてサトミチを進むと、突き当りにグ
ジモト(男性神役)の屋敷がある。そこにもアシャ
ゲと呼ばれる小さな建物があったが既に壊れており、
嘉入に残るアシャゲは前述のコンクリート製のもの
だけとなってしまった。グジモトの屋敷とテラ山は
カミミチ(神が通る道)によってつながっていた。
写真 1
嘉入集落
テラ山に向かって建
てられた碑文(2010、撮影:遠藤集子)
(2) 須古茂集落
須古茂集落は砂丘帯に沿って民家が展開し、サトとカネクという二つの部落に分かれている。
海を背にして左側がサト、右側がカネクである。沖には須古茂離れがあり、かつてノロ達がハ
ナレウンメ(旧暦六月に行う須古茂集落だけの祭り。豊穣と海の安全を祈願する。)という祈りを捧げ
ていた。サトとカネクにはそれぞれにミャーがあり、須古茂集落全体としては二つのミャーを
持っていることが特徴的である。
はじめにサト側について見てみよう。須古茂のバス停の横の道を集落の方へと進むとサトの
ミャーがある。ミャーにはトネヤ、朱色の鉄骨のアシャゲ、土俵があり、土俵の傍にはセンダ
ンの木がシンボルのように立っている。トネヤの横にはオボツ山へとつながる道があり、これ
がカミミチにあたる。また、ミャーに向かうようにグジヌシ(男性神役)の屋敷跡がある。ヨ
ーゼフ・クライナー氏による須古茂集落の調査記録には、ミャーの近くに川があったことが記
されており、グジヌシの屋敷跡の横の道が川筋にあたるらしい。ここから、今は一つにまとま
っている須古茂集落がかつては川で分けられた二つの集落
であった可能性を想定できる。サトとカネクの二つのミャ
ーの存在も、この川によって説明できるのではないだろう
か。
次にカネク側について見てみよう。カネクにもミャーが
あり、こちらには木のアシャゲが残っている。アシャゲの
隣の空き地となっている場所にはかつてトネヤがあったが、
焼失してしまって再建されなかったため今も空き地のまま
である。カネクのミャーでは、嘉入と同じようにトネヤ、
アシャゲ、イベガナシ(拝所。この周辺から出土した人骨がこ
写真 2
こにまとめられたという。)が一つの線上に並んでいる。(写
ャー(2010、撮影:遠藤集子)手
真 2)この直線と相対するようにカネクには旧暦 9 月 9 日
にお祭りを行うゴンゲン山があり、ゴンゲン山からのびる
113
須古茂集落
カネクのミ
前からイベガナシ、アシャゲ。アシャ
ゲの後ろの空き地がかつてトネヤのあ
った場所。
南西日本プログラム参加者有志
カミミチは前述のサト側のミャーへと繫がる。
以上を整理すると、サトにはオボツ山、カネクに
はゴンゲン山があり、二つの部落それぞれにミャー
が存在している。そしてカミミチはオボツ山からサ
トのミャーへ、グジヌシの屋敷跡から家々の間を通
ってゴンゲン山へとつながる。つまり、サトとカネ
クの二つのミャーを媒介として、カミミチがオボツ
写真 3
阿多地集落のアシャゲ(2010、撮
影:遠藤集子)中にミニャクチ綱がかかって
山とゴンゲン山を結んでいるのである。
いる。
(3) 阿多地集落
須古茂側から阿多地集落のミャーに入ると、木製のアシャゲとデイゴの大木がまず目に入っ
てくる。アシャゲの背後にはトネヤがあり、トネヤとアシャゲの間には祭りの準備に使用する
石組みのカマドがある。トネヤとアシャゲでは行われる儀礼が異なっていて、アシャゲではア
ラホバナ(旧暦 6 月の初穂の祭り)などの農耕儀礼を、トネヤでは神のウムケ(旧暦 2 月に行う神
を迎える行事)やオホリ(旧暦 4 月に行う神送りの行事)という神事を行う。ウムケ、オホリの場
合は、トネヤで祭祀をした後にデイゴの大木の正面にある道を通って海岸へと向かう。このよ
うに、儀礼によって祭祀の場所が変わるのが特徴である。アシャゲの中には綱がかけてあった。
これをミニャクチ綱といい、現在ミニャクチ綱が残るのは阿多地集落だけである。(写真 3)ミ
ャーの前の道で、ノロと子供たちが綱引きをするために用いられる。
ノロたちがかつて禊をしたという泉に向かう途中、一人の老婆に出会った。明日のユウハシ
のために小豆の準備をしていた。老婆と出会った場所は、阿多地のウーブラ(ウーは上を意味す
る。ブラはブラレの略でまとまるという意味。)とシャーブラ(シャーは下を意味する。)が分かれる
境界の道・ナハミチであった。小さな居住空間であっても、ウーとシャーという二分化が見ら
れる。
3.シマの空間
以上、嘉入・須古茂・阿多地の三つの集落のミャーを中心に見てきた。最後にシマの空間の
あり方について考えてみたい。
まず、加計呂麻島だけでなく奄美全般にもいえることであるが、シマが二つないし三つの空
間に分かれていることが大きな特徴である。分かれ方は各集落の地形にもよるが、集落を山側
と海側に分けるものや、海を背にして左側と右側に分けるものなどが挙げられる。その名称も、
サト(山側)とカネク(砂浜側)、ウー(上)とシャー(下)などシマによって異なるものの、二
分化される空間が奄美のシマの特徴だといえるだろう。
114
次に、シマと山・海との関係が重要視されていることが挙げられる。嘉入集落においてカミ
山とアシャゲ・トネヤが一直線に並んでいたことや、須古茂集落で山とミャーとをつなぐカミ
ミチがあったことは、祭祀が山なしに成立しないことを明確に示している。そして上記の三集
落ではミャーから海へと通じる道があった。シマ・山・海の三者の関係を考える時、同じ加計
呂麻島の俵集落、嘉入集落、武名集落などにはしっている山々の尾根が参考になるだろう。俵
集落ではフーギン山、嘉入集落ではオボツ山と呼ばれている山々は、元は同じ山筋のものであ
る。山の尾根が集落におりていき、それが集落のカミ山になる。そしてそれらは集落の中で一
番大きく目立つ山であると同時に、海上から見ても象徴的な山であり、海からの山あてにもな
っている。シマの空間は家々だけでなく山と海とを含んで構成されており、これは奄美の世界
観をあらわしているのではないだろうか。
今回の調査中、カミ山の上に立つ松が枯れてしまっている姿を何度見たか分からない。松く
い虫の被害は奄美全体に広がっていた。シマに残存する文化に迫る危険は松くい虫だけではな
い。木慈集落では、以前あったアシャゲがなくなり、その場所は空き地になってしまっていた。
須古茂集落でトネヤが焼失したことは前述した通りであり、無くなったものが再建されるとは
限らない。阿多地集落では祭りをやめることが決まった時、三浦のユタによって神道具が沖へ
と流された。これはネリヤへと神道具を返したことを意味するのであるが、祭りをしたくても、
神道具がないためにできなくなってしまったというシマの人の嘆きもある。住民の減少や高齢
化に伴い、祭りの担い手がいなくなる問題も当然ある。シマを守るための厳しい現状が垣間見
えた。
参考文献
住谷一彦、クライナー・ヨーゼフ『南西諸島の神観念』未来社 1977 年 12 月
ショチョガマとヒラセマンカイについて
衾記録と概要衾
山口
直美
奄美群島では、旧暦 8 月最初の丙の日をアラセツ(新節)といい、ショチョガマ・ヒラセマ
ンカイはこの日に行われる。既に多くの論考が指摘するように、これらの行事は稲魂を招き、
豊作を祈願することに重点があると考えられている。2010 年 9 月 13 日、この祭を調査する機
会が得られた。詳細な記録は別表に譲り、祭の概要とその様子を中心に記しておこう。
115
南西日本プログラム参加者有志
1.ショチョガマ
現行政区分の龍郷町秋名、幾里のふたつの集落に
またがり、祭が行われている。奄美大島の北東に位
置する両集落は、東シナ海に面し、小高い山に囲ま
れた豊かな田袋(水田)の広がる土地である。もと
もとは、海側に面した金久、その南に山を背後に広
がる里、川を挟み北東の山の麓の東(アガレ)の集
ショチョガマ
落がそれぞれにショチョガマ・ヒラセマンカイを行
っていたが、現在は合同で行われている。これが現行政区分では、里と金久の一部が秋名、東
と金久の一部が幾里となるため、両集落合同で行われていることになる。
西側の小高い山の中腹に、祭の舞台であるショチョガマと呼ばれるワラで葺いた片屋根の小
屋を建てる。今年は 9 月 6 日の月曜日に、高さ 3.5 m、幅 5.5 m のショチョガマを完成させた。
以前はあらかじめ、数え年 15 歳以下の男子が山に入り材料の収集を行い、ショチョガマ作り
は祭のツカリ(前日乙の日)に行われたという。現在は祭の前の日曜日に秋名・幾里の青年団
主導で準備をすることが慣例となっている。
祭の当日、まだ夜の明ける前に金久のあるお宅を訪問し、カシキを拝見させて頂いた。カシ
キの中身は家々で異なるそうだがお膳のような形態で、現在では用意する家は数少なくなって
いる。縁側に続く戸を開けて部屋の中に準備してあるが、本来は縁側に置いていたという。
そうして、一番鶏の鳴き声より早くショチョガマに乗った男たちの太鼓(チジン)の音が響
くと、続々と村人が集まり始めた。白ジュバン、白ズボン、白いハチマキをした男たちがリズ
ミカルに太鼓をたたき、歌を歌う。これは「アラシャゲ」という歌なのだが、歌詞が違い、祭
を祝い、稲魂を招くといった豊作を祈願する意味となっている。この歌を繰り返し、東の空が
明るくなる頃、グジがやってくる。白い着物に黒の羽織を着たグジが、カシキとともにショチ
ョガマに上がり、豊作を願う祭詞が唱えられる。それが終わるといよいよ歌声が大きくなり、
男性たちでショチョガマの上が一杯になってきた。一節歌うごとに「ヨラ、メラ」と大きな掛
け声が響く。
「ヨラ」の声で曲げた右足に体重を乗せて踏み込み、
「メラ」の声で戻す。こうし
て屋根を左右に揺さぶり、これを繰り返す。また、前年のアラセツ以降に生れた男児にショチ
ョガマを踏ませると健康に育つといわれ、この様子も確認することができた。他にも子供を抱
いたままショチョガマに乗る男性の姿が見えるのはこれに関連するものだと思われる。ショチ
ョガマを揺らして 30 分ほど経つと、ミシミシという音とともにショチョガマは南側に傾いて
きた。男たちを乗せたままゆっくりと倒れ、東の山からはこれを待っていたかのように、太陽
が顔を覗かせた。日が昇る前に倒すことが良いとされ、今回はまさにそのタイミングで倒され
たわけである。そして倒れたショチョガマの上で男たちは輪になり、8 月踊りが行われた。こ
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2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
のショチョガマを揺り倒すことは、稲穂がゆらゆら垂れさがるように豊かに実る様子を想起さ
せ、今年の実りを感謝し、また来年の豊作を予祝するものだと指摘されている。
その後早朝に訪問したお宅にもう一度お邪魔したところ、カシキの片づけを行っている最中
であった。ショチョガマが倒れるとカシキを片づけるそうだ。見に行くわけではないが、足を
運ばなくても 8 月踊りの声が聞こえると、倒れたなと思いカシキを下げるという。また、東
(アガレ)のお宅を 2 か所訪問させて頂いた。最初のお宅では既にカシキを下げたところであっ
た。金久で聞いたように縁側に出していたそうだが、やはりショチョガマが倒れると部屋の戸
を閉め、下げるということであった。次のお宅では室内にカシキの用意がなされていた。縁側
ではないが、外の方角(東)へむけて供えるとのことであった。ショチョガマは、男性が主体
となり、女性が屋根に登ることはない。しかし、女性たちはこのようカシキを用意するといっ
た仕事があり、家から祭に参加しているとも考えることができるだろう。
2.ヒラセマンカイ
さて、一方のヒラセマンカイは夕刻、北の海岸で
行われる。
「ヒラセ」とは平らな岩という意味を持
つ。舞台となるのは海岸に 10 m ほど隔ててある、
ふたつのヒラセである。海を背にして左側、しめ縄
かけられた岩をカミヒラセ(神平瀬)といい、右側
の少し大きい岩をメラベヒラセ(女童平瀬)という。
15 時を回る頃になると、お重やお酒を手にした
ヒラセマンカイ
人々が続々と浜辺に集まりだしてくる。早朝に新生児にショチョガマを踏ませたように、ここ
では女児にメラベヒラセを踏ませ健康を祈願する。男児の場合は、メラベヒラセの手前の大き
な岩のインガヒラセ(男平瀬)を踏ませる。これらの様子は数回確認することができた。また、
カミヒラセの海に向かって左側の段差のところにはカシキが供えられる。赤飯のようなものを
平らなサンゴ石で挟んだ小ぶりなものである。これは新生児の家々で用意し、祭の始まる前に
供えるところが多く、子供の成長を祈願する。
浜辺が日陰に覆われる頃、先にカミギンといわれる白衣を纏った 5 人のノロたちがカミヒラ
セに上がり、白い着物のグジたちと、紺色の着物に紫の帯を前結びにしたシドワキという役の
女性たちを合わせた計 7 人がメラベヒラセに上がった。ふたつのヒラセに立ち、向かい合うと、
太鼓の音に合わせてカミヒラセから歌が始まった。メラベヒラセの神役たちは両手を左右に流
すように揺らす動作で「マンカイ」をする。「マンカイ」とは招き合いの意味だとされ、稲魂
を招き豊穣を祈る祭だと理解される由縁である。次に神役たちが歌うと、ノロたちがマンカイ
を行う。この歌はショチョガマで歌われたものと同様の歌詞も含むのだが、節はゆっくりした
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南西日本プログラム参加者有志
ものでヒラセマンカイ独特なものだという。歌が終わると、メラベヒラセの神役 7 人は、ヒラ
セの上で輪になり 8 月踊りを始める。それと同時にカミヒラセではノロたちはゆっくりとヒラ
セの上で座る。稲をもたらしてくれる「ネリヤ」に向かい、東の水平線のその先の方へ、手を
合わせ拝むのである。その後、それぞれヒラセから降り、ほかの神役たちも輪の中に入り、両
方のヒラセの間の浜辺でススダマ踊りを行った。この後 8 月踊りをいくつか行い、終わるころ
には浜辺で重箱を開いた村々の参加者たちによる宴会の場とかわっていく。その後、公民館の
前で 8 月踊りが行われて、アラセツの長い 1 日が終わりを迎えるのである。
3.祭祀調査を終えて
このふたつの行事は、稲魂を呼ぶ豊作を祈願する祭と考えられていると同時に、健康を祈る
祭でもある。これらはしばし、ショチョガマが男性原理であり、ヒラセマンカイが女性原理で
あるというように、対照的な側面が際立ちそこに目を向けられてきた。しかし今回ご指導頂い
た高橋氏は別の視点として、ショチョガマと太陽の関係にひとつの見解を提示された。ショチ
ョガマを日の出の前に倒す明確な説明はなされてきていないようだが、太陽と関係することは
間違いない。奄美における太陽の信仰や祭祀との結びつきは、例えばウムケ・オオホリといっ
たテルコ神の祭祀にもうかがえる。ここで問題となる太陽とは、そうした祭祀をしてお迎えす
る神としての太陽というより、太陽の光と輝きについてだと考える。言うまでもなく太陽は東
から姿を現す。その光は一番東の集落である東から金久、里へと広がっていく輝きである。か
つて、東、金久、里のそれぞれの集落でショチョガマが行われていたことが報告されているが、
その倒す順番が、東、金久、里の順だったと述べられている。その上で日の出の前に倒すこと
がよいとされてきた、この「日の出」は太陽そのものの姿ではなく、アラセツの太陽の光が持
つ霊力に本来の意味があったのではないかというご指摘であった。金久から東に移動している
時、太陽の光が頭上を越えていくさまは、まさに暗から明への移り変わりの体験であった。以
上、ショチョガマと太陽の光についてのご指摘をあげて、報告とさせて頂きたい。
参考文献
湧上元雄・山下欣一『沖縄・奄美の民間信仰』明玄書房 1974 年 1 月
比嘉康雄『神々の古層⑪豊年を招き寄せる〔ヒラセンカイ・奄美大島〕』ニライ社 1993 年 3 月
小野重朗「ショチョガマと平瀬マンカイ」『南日本の民俗文化 VI 南島の祭り』第一書房 1994 年 9 月
小野重朗「農耕儀礼の周辺」『南日本の民俗文化 IX
増補
農耕儀礼の研究』第一書房 1996 年 7 月
永藤 靖「奄美ショチュガマ祭祀について 衾琉球とヤマトの山岳信仰を視野に入れて衾」『風俗史学』
13 号 2000 年 10 月号
南海日日新聞 2010 年(平成 22 年) 9 月 6 日月曜日
『龍郷町誌 民俗編』鹿児島県大島郡龍郷町発行 1988 年 11 月
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2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
2010 年 9 月 13 日 ショチョガマ・ヒラセマンカイ
ショチョガマ
4:46
5:00
一番太鼓(チジン)打ち出し
5:30
ショチョガマの歌がはじまる
(アラシャゲの節)
6:00
家々の様子
ヒラセマンカイ
カシキの見学(金久)
村人が集まりはじめる
グジとカシキ、ショチョガマの上へ
右柱、左柱と祭詞を唱える
6:07
6:11
ショチョガマの歌を再開
70∼80 人の男性がショチョガマの上へ
一節歌った後、「ユラ、メラ」の掛け声で
ショチョガマを左右に揺らし、これを繰り返す
6:14
6:38
新生児(男児)にショチョガマを踏ませる
ショチョガマ倒壊(南側へ)
倒れたショチョガマの上で 8 月踊り
6:50
6:59
カシキを下げる様子
(金久)
7:02
カシキを下げた後
(東 1)
室内のカシキの様子
(東 2)
15:30
浜辺に村人が集まりはじめる
16:00
新生児にヒラセを踏ませる
・女児はメラベヒラセ(女童平瀬)
16:15
16:16
・男児はインガヒラセ(男平瀬)
カミヒラセ(神平瀬)にカシキを供
えはじめる
ノロ(5 人)がカミヒラセに乗る
神役がメラベヒラセに乗る
16:28
・グジ(男神役 3 人)
・シドワキ(女神役 4 人)
カミヒラセから歌いはじめ、歌と
同時に手を左右に振り「マンカイ」
ヒラセを降り、輪になり 8 月踊り
18:07
ススダマ踊りなど
8 月踊り(公民館前)
16:12
喜界島の地理と伝承
田中
美幸
1.はじめに
喜界島は奄美大島の東の洋上およそ 25 km に浮かぶ島で、ノロにまつわる伝承や平家伝承
などが多数ある。私たちは喜界島在住の郷土史家・英啓太郎氏と喜界町教育委員会の澄田直敏
氏にご案内いただき、喜界島を一周するかたちで調査を行った。今回は、英氏より伺った喜界
島に伝わる伝承と澄田氏による講義の内容を記録することを第一の目的とし、そこに私が実際
119
南西日本プログラム参加者有志
に見た〈現在の喜界島〉を加えて調査報告書としてまとめた。
2.調査地とその詳細
(1) 【湾】御殿の鼻(金刀比羅宮)
喜界空港のすぐそば、湾集落にある「御殿の鼻」は、由来書きの看板によれば 1466 年に琉
球王・尚徳が兵を引き連れて喜界島討伐に来た際、長嘉が指揮をとった島の軍が本陣としたと
ころであった。
目の前を走る道路から少しだけ高い所に鎮座するため、この場所からは周辺の景色がよく見
える。道路の向かい側に埋め立てられた湾港があり、神社には芝が植えられているが、昔はこ
のあたり一帯はすべて砂丘だったということである。現在ではこの場所を「ウドゥンパナ(御
殿鼻)」と呼ぶのが一般的な名称となっているが、それは間違いであり「ウドゥンハマ(御殿
浜)」が正しい。湾集落からは北東にあたる早町港の東の浜も「ウドゥンハマ」と呼ばれ、そ
ちらも砂丘であった。
湾集落の守り神である金刀比羅宮には白い鳥居が立っているが元々は石を 1 つ置くだけの場
所だった。神社ではノロを祀っており、それは琉球王朝時代に始まっている。しかし、誰か特
定のノロを祀るのではなく、島全体のノロを祀るのだという。
喜界島のノロは薩摩統治時代に鉢巻きもらい(免状もらい)は禁止されたが、一般的な民俗
行事はそのまま引き継がれてきた。明治時代以降は神官という役目ができ、それらの祭祀は男
性が受け持つことになったという。具体的には英氏の御祖父君(神官を担っていた)が残した文
書に、明治 20 年まではイワオトガメという女性が村(坂嶺)の神社の神主をしていた旨が記
されており、その頃までは女性も祭祀を司っていたことがわかっている。
ノロによる祭祀が隆盛だったころには喜界島中のノロが集まり、ススキを手に持って列を組
んで「ワアスネフサテチナエンハイ」と唱え、お祈りをした。「ワア」は我、
「スネ」は脛で人
間のもっとも大事なところ、「フサテ」は欲しくて、の意で「私の脛(神の力)がほしくてみん
な来ましたか」という意味となる(「エンハイ」はかけ声)。これは薩摩統治時代の話なので、薩
摩藩はノロを排除せずこの土地の習俗を残していたことがわかる。
(2) 【小野津】雁股の泉
雁股の泉は小野津集落にある。保元の乱で破れた源為朝が伊豆に流されたあと琉球に渡ろう
とした途中で時化にあい、喜界島の沖合に辿り着き、住民がいるかどうか確かめるために船上
から島に向かって矢を射った。島に上陸後、矢を抜いた痕から清水が湧き出しそこに溜まった
という由来譚を持っている場所である。
入ってすぐ目の前に比較的大きな池があるが、右手奥の小さな方が雁股の泉である。矢尻が
120
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
股状だったので雁股という名がつけられたという。かつては泉の背後の岩の上に神社もあった
が、現在はハミンカー山(小野津八幡)へと移されている。
その小野津八幡の前庭には小さな祠がある。かつてはそこに「五つ瓶」が置いてあって、村
人たちは梅雨が明けると瓶に溜まった水の量でその年の収穫を占ったりしていたらしい。
琉球王府時代、王に上納するための布を織っていた母が 5 人の子どもの子守をするのに 1 人
に 1 つずつ瓶を持たせて舟に乗せて遊ばせていたが、機織りに夢中になるあまり舟が岸を離れ
たことに気づかなかった。子どもたちは喜界島の小野津へと辿りつき、アダンの実などを食し
て命を繫いでいたが、ヤドカリに舌を挟まれて死んでしまう。村人は子ども達を葬り、瓶をこ
の地に祀ったという伝承を持っている。
現存する瓶は 3 つで、現在は喜界町の郷土資料室に展示されている。明治期までは 5 つすべ
て揃っていたようで、資料室に展示されていた写真で「五つ瓶」を確認することができた。近
年の鑑定により、そのうちの 1 つは国内でも類例の少ない越州窯系青磁の III 類であることが
判明している。
(3) 【小野津】ムチャカナ公園
加計呂麻島の生間にいた美しい娘(マスカナ)が
薩摩の役人に求婚されるがそれを拒否したため、ウ
ツワ舟(=ウツロ舟)に乗せられ流されてしまう。
彼女はこの小野津へ打ち上げられ、地元の青年と結
婚する。そこで生まれた子(ムチャカナ)もまた美
しく、嫉妬をされた挙げ句に殺されてしまうという
のがムチャカナ伝承である。
ムチャカナ節歌碑(ムチャカナ公園内)
公園の左手奥にある入り口から山道を少し下った
所にマスカナの墓がある。本州でもよく見かける形式の四角い墓だが、元々はその後ろの岩肌
にある風葬墓に他の先祖の遺骨と共に葬られていた。英氏がマスカナの子孫である大村氏から
聞いた話によれば、大村氏の御尊父がマスカナの墓を作るために生間に行って調査をし、さら
にユタの占いによってマスカナの遺骨を特定して墓を建てたということである。
公園の碑にはこの悲劇を歌った「ムチャカナ節」が刻まれている。
喜界(ききゃ)や
小野津(うのつ)
十柱(とばや) ムチャ加那
青さ海苔はぎに
いきょや
ムチャ加那
この歌詞の「いきょや」は「いもろや」の誤りであるという。
121
南西日本プログラム参加者有志
さらに詞中「十柱」は、通説では母が娘を捜すときに用いていた杖を地面に指し、それが大
きなガジュマルとなったが、枝があまりに大きくなりすぎて 10 本の柱で支えるほどだったと
いうことに由来する、とされているが、英氏はこれに疑問を抱いている。
ムチャカナ伝承として他に伝わっている話で、加計呂麻島から流されるときにマスカナの親
が 3 つに分けて使える家を娘に持たせたというものがある。その伝承ではマスカナは自分で持
ってきた家の柱を建てることができず、3 つに分けて坂嶺・湾・先内集落にそれぞれ売ってい
る。そのうち 1 本の柱は現在も残っているという。「十」は「大きい」を意味するため、
「十
柱」は大きな柱を持っていたマスカナの家を指し、その柱を分けて売ったものが残っているの
ではないかというのが英氏の推測である。
小野津は喜界島の北に位置し、九州方面から船で来ると最初に通る場所だった。その地理的
特徴が多数残る漂着伝承と関係するのだろう。さらにムチャカナ公園は台地にあり、小野津港
の向こうに加計呂麻島、奄美大島の古仁屋、湯湾岳を望むことができるポイントでもある。
我々の調査の折、湯湾岳は雲に隠れていたが古仁屋までの島影は見ることができた。マスカナ
の墓も故郷である加計呂麻島の方向を向いている。これらは単なる偶然ではないだろう。
(4) 【塩道】塩道長浜公園
こちらにも悲劇譚、塩道長浜伝承が伝わる。盛里(ムイサト)という男がノロであったケサ
マツに懸想し言い寄っていた。ケサマツはノロなので拒絶するが、あまりにしつこいためにと
うとう共寝をすることにした。ケサマツは盛里に「乗ってきた馬が逃げるといけないので、馬
とあなたの足を繫ぎなさい」と言い、さあ、共寝をしようというときに傘をバッと開いた。そ
の音に驚いた馬が突如走り出し、馬と足を結んでいた盛里は絶命してしまう。以来、この浜に
馬が繫がれていても絶対に乗るなと言われ、「塩道長浜節」にもそれが歌われている。
このあたりはかつて喜界馬の産地であったらしい。となりの集落の佐手久には佐手久馬とい
う品種の馬もおり、小型であったため軍馬として珍重されていた。そのため馬にまつわる伝承
が残るのだろうか。現在の塩道長浜は公園として整備され、かなりの部分が埋め立てられたた
め往年の面影はほとんどない。それ以前は、現在、塩道浜とは隔てられている早町港までずっ
と浜が続いていたということである。なお、盛里は塩道を少し北に上った長嶺という集落にあ
る家の人だという。
すぐそばには平家が潜伏していた平家森もある。平氏は 300 名を引き連れてこちらに 3 年留
まったが奄美へと移り、喜界島には 4、5 名ほどが残ったという平家伝承が伝わる。
(5) 【蒲生】蒲生神社
この神社ははじめ、集落内の栗島家が個人で拝んでいたものだった。それを昭和 3、4 年頃
122
2010 年度南西日本プログラム
奄美調査報告書
から村の人も村の神社として拝むようになって今に至る。蒲生は小さく、隣の花良治の字名に
過ぎない場所であった。両者は祭祀においても花良治が上間瀬戸(ウイマセト)、蒲生が下間瀬
戸(シムマセト)と呼ばれる関係にある。「瀬戸」とはノロの神役のことであり、男神を表す。
この地には天女伝承が伝わっている。曰く、塩道山原の石の上に降りてきた天女はあちこち
で追い回された。やがて花良治の山の麓の泉へと辿り着き水浴びをするが、そのとき花良治の
青年に羽衣を取られてしまう。天女は返してほしいと懇願し、青年に自分の嫁になったら返す
と言われる。そこで天女は青年と結婚し、7 年の歳月が過ぎた。羽衣は依然見つからなかった
が、2 人の間に生まれた子が「母の着物が蔵にある」と歌うことで天女は羽衣を取り返し、子
も置いて天に昇ったというものである。
栗島家には天女の羽衣とされるものが伝わっており、現在は郷土資料館に茶色と白の 2 着が
展示されている。資料館の説明には栗島家の位牌に記録される高里ノロが使用したものだとあ
る。茶色い着物の方の詳しい年代は不明だが、襟の付け方から桃山時代以前の貴族が使用した
もので、布は中国もしくはインド産と推測される。喜界島からは遠く離れたインド産の着物が
この地へもたらされた経路もわかってはいない。しかし、いつの頃からかノロが用いるように
なり、それが集落の伝承とつながって羽衣と称されたのだろうということである。
かつて、村には天女が辿り着いたという泉もあった。その場所は喜界島の最高地点(211 ポ
イント)から確認できる。211 ポイントから蒲生集落を望む。すると、こんもりとした木に覆
われた蒲生神社がすぐにわかるだろう。そこから海を瀬にして進み、十字路をさらに 1 つ奥に
行ったあたりに小さな木立がある、そのあたりが泉だったという。現在はすっかり埋められて
しまい畑となっている。
蒲生神社のほかにも、天女が天降りするという島の北東部の伊実久の海辺の岩がアモリと呼
ばれるなど喜界島には他にもいくつかの天女伝承がある。天女はアモリから東廻りに蒲生へ至
ったといわれ、周辺集落を辿った際の伝承が残されている。
(6) 【手久津久】朝戸神社
島の西側、手久津久には沖縄から兄妹がウツワ舟(=ウツロ舟)で流れ着きシマ建てをした
という伝承が伝わっている。その始祖伝説の墓がこの朝戸神社にある。墓石には「宝暦五年」
という刻印が確認できた。沖縄から流されてきたという伝承の裏付けのように、このあたりの
屋号には「マアランヤー」など沖縄色の強い言葉が入ってきている。マアランヤーは南方のノ
ロ系の家であった。朝戸神社の御神体は「セト」といい、ノロの神役のことである。
手久津久は集落として古く、およそ 3000 年前の縄文時代の土器なども出土している。集落
内には花尾神社という、慶応 2 年に建てられた源為朝と島津斉彬を祀る比較的新しい神社もあ
る(ただし、この神社は明治 45 年に無格社となっている)。朝戸神社は墓石の年号からもわかると
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南西日本プログラム参加者有志
おり花尾神社よりも古い。英氏によれば、喜界島で
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