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中央大学社会科学研究所年報 第 17 号(2012)
中東地域におけるトルコの仲介政策
――シリア・イスラエルの間接協議とイランの核開発問題を事例として――
今 井 宏 平
Turkey s Mediation Policies toward the Middle East
Kohei IMAI
The aim of this paper is to explore why and how Turkey acted as a mediator toward
the Middle Eastern affairs. In the first part, it summarizes previous works. The second
part overviews the background of Turkeyʼs mediation activities from the perspective of
level of analysis(international system, bilateral relations, domestic politics, and
individual). In the third part, this article presents with the frameworks for mediation
activities, which are classified by S. Touval, W. Zartman, and J. Bercovitch. Especially, it
focuses on three roles: communication-facilitator, formulator, and manipulator. The
fourth part tries to apply the frameworks for mediation activities to Turkeyʼs mediator
roles toward the indirect talks between Israel and Syria, and Iranian nuclear
development. In sum up, it clarifies that Turkey acts as communication-facilitator and
formulator at the case of the indirect talks between Israel and Syria, and as formulator
and manipulator at the case of Iranian nuclear development. Although it did not achieve
a concrete result through mediation activities, Turkey strengthened the soft power both
in the region and the world.
はじめに
トルコの冷戦期における外交は欧米との関係が中心であり,イシューとしては特に安全保障
に焦点が当てられてきた.中東地域は東西冷戦下においてあくまで二次的な位置づけにあり,
不干渉または最小限の関与,脅威となる国の出現を防ぐ勢力均衡がトルコの主な政策であっ
た.冷戦体制崩壊直後の湾岸戦争から,トルコは中東地域への関与を深めたものの,北イラ
ク・クルド人問題,イスラエルとの軍事協定など安全保障に関する関与が中心であった.こう
した安全保障中心の外交姿勢を変化させる契機となったのは,1998 年 10 月にシリアと締結し
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たアダナ合意であった.さらに 2002 年 11 月に単独与党となった公正発展党は,2003 年初頭
から首相の外交アドバイザー,そして 2009 年から外務大臣の職に就いたアフメット・ダーヴ
トオール(Ahmet Davutoğlu)主導の外交政策(「ダーヴトオール・ドクトリン」)の下,中東
地域への関与,安全保障分野以外での協力を積極的に推し進めることになる.
この「ダーヴトオール・ドクトリン」がもたらした変化の特徴が最も如実に表れているのが
トルコの仲介政策である.トルコが中心となって,2008 年に 4 回にわたって実施されたイス
ラエルとシリアの間接協議の仲介と,主に 2006 年から 2010 年まで続いた欧米諸国とイランの
核問題における仲介は国際社会からも大きな注目を集めた.
本稿は,中東地域においてトルコが仲介政策を取り得た理由と,トルコの仲介政策の成果と
意義について検証する.まず,トルコの仲介に関する先行研究と,トルコが中東地域において
仲介政策をとることが可能となった背景について概観する.次に理論的枠組みとして仲介者の
動機と役割について整理を行う.特に情報伝達者,手続き推進者,マニピュレーターという 3
つの役割を取り上げる.その上で,イスラエルとシリアの間接協議とイランの核開発問題にお
けるトルコの仲介を事例として取り上げ,トルコがどのような仲介を展開し,どのような役割
を担ったのかを考察する.結論として,トルコの中東地域における仲介はトルコ外交の中でど
のような意味を持ち,中東地域にどのようなインパクトを与えたのかを検討したい.
1.先 行 研 究
トルコの仲介に焦点を当てた研究には,E. チュハダル(2007,2010(M. アルトゥンウシュ
クとの共著))の業績がある.2007 年の論文でチュハダルは,中東和平問題に対するトルコの
仲介者としての役割を仲介者の戦略,方法様式,活動,動機の関する理論的枠組みから考察し
ている.そして,トルコが中東和平のまとめ役として,特にパレスチナとイスラエルの間での
1)
コミュニケーション構築と会合の実現に尽力していると結論づけた .2010 年の論文では,
トルコが仲介者の役割を果たすようになった理由をより包括的に,国際システムの変化と内政
の変化から説明した.仲介の役割を,紛争の原因となっている問題に強い関心を持ち,紛争解
決の過程に資源を動員する「プリンシパル・パワー」と,紛争の原因に関心を持たず,資源も
2)
動員しない「ニュートラル・パワー」に分けて考察している .チュハダルとアルトゥンウ
シュクによると,2008 年末のイスラエルのガザ攻撃までトルコは中東和平問題においてニュー
トラル・パワーとしてまとめ役を担ってきたが,それ以降はプリンシパル・パワーとしてハ
マースへの限定的な説得とイスラエルへの批判を行った.つまり,2008 年末以降,トルコは
公平な仲介者の役割を放棄した.これはトルコの国内世論に配慮した結果であったとチュハダ
ルとアルトゥンウシュクは結論づけている.
トルコの仲介に関してはいまだに先行研究が少なく,その対象もイスラエルとパレスチナの
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中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
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中東和平問題に限られていた.しかし,トルコは中東和平問題だけではなく,シリアとイスラ
エルの関係,核開発で対立するイランと国際社会の仲介にも関与してきた.複数の事例におけ
る仲介を比較・検討することで,仲介者としてのトルコの行動パターンと意図がより一層鮮明
になるはずである.
2.仲介の背景
2006 年から 2010 年にかけて,トルコが地域における仲介を積極的に展開したのはどのよう
な背景があったからなのだろうか.ここでは,国際システムにおける主権国家間の構造,2 国
間関係,国内政治,個人という 4 つのレベルからトルコが仲介政策を展開した理由について考
えてみたい.まず,国際システムにおける主権国家間の構造についてみると,この時期は依然
として超大国であるアメリカの単極構造が続いていたものの,中国の台頭に代表されるように
3)
他の大国も影響力を強めた「一超多強」(単極と多極の入り交じった状態)といえた .単極
構造は「一国への能力の集中が進み,多極体制とも両極体制とも根本的に異なってはいるが,
4)
世界的帝国になるほど能力は集中していない状態」と定義される .単極構造下での他国の行
動パターンは,ⅰ超大国への群がり(フロッキング),ⅱ超大国との関係を強化するための積
極的な貢献(ハードワーキング),ⅲ超大国の戦略に拘束,ⅳ超大国の行動を制限するために
5)
ソフトバランシングを展開,とされる .一方,多極構造は「国際システム上に複数の大国が
存在し,能力が分散された状態」であり,そこにおける他国の行動パターンは,ⅰ各国が大国
の行動に拘束されにくい,ⅱ各国が国益を優先した行動を起こしやすい,ⅲ各国がバランスを
6)
取りにくくなる,ⅳ各国の行動を拘束するルール・制度が重要性を増す,とされる .中東地
域は,イラク戦争,イラク戦争後のアメリカの占領政策に対する反発,アメリカの中東民主化
政策の失敗でアメリカの求心力が極めて低下していた.アメリカ軍は 2010 年 8 月までイラク
に軍隊を駐留させていたが,自国の国益に直結するような問題以外は関与しにくい状況であっ
た.こうした状況下で,特に同盟国の地域秩序安定化に貢献しようとする政策は,アメリカに
とって負担の分担になり,望ましい行動であった.中東地域におけるトルコの仲介政策はまさ
にアメリカにとって負担の分担になる行動であった.
トルコとシリア,イスラエル,イランの 2 国間関係も 2000 年代後半は良好であった.トル
コとシリアは 90 年代後半までクルド人問題と水問題で対立していたが,1998 年 10 月のアダ
ナ合意,2000 年 6 月のハーフィズ・アサド大統領の死去とバッシャール・アサド(以下,ア
サド大統領と表記した場合はバッシャールを指す)の大統領就任,2002 年 11 月の公正発展党
の政権奪取により,その関係は急速に改善した.2004 年 1 月にはアサド大統領がシリア大統
領として初めてトルコを訪問した.同年 12 月 22 日に今度はレジェップ・タイイップ・エルド
アン(Recep Tayyip Erdoğan)首相がダマスカスを訪問し,両国間で自由貿易協定(FTA)
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を締結した.さらに 2009 年 9 月には両国間の渡航にヴィザが免除されること,戦略協力委員
会が立ち上げられることが決定した.
トルコとイスラエルは 2005 年 2 月にハマース幹部のハリッド・メシャルがトルコを訪問し
たことで関係が悪化した.しかし,2006 年 3 月 28 日にイスラエルで総選挙が実施され,アリ
7)
エル・シャロン率いるカディマ(Kadima)が勝利したことで関係悪化はやや終息する .な
ぜなら,選挙前に脳梗塞で倒れたシャロンに代わり首相代行となったエフード・オルメルト
が,トルコとの関係を強化したいと考えており,2006 年 7 月から 8 月にかけてのレバノン紛
争においてもトルコの仲介に前向きであったためである.
トルコとイランはクルド人問題とエネルギーで利益を共有していた.クルド人問題について
は,トルコで活動するクルディスタン労働者党(Partiye Karkeran Kürdistan:PKK)と,イラ
ンで活動するクルディスタン自由生活党(Parti Bo Jiyani Azadi la Kurdistan:PJAK)に対する
政策を協議する安全保障委員会が 2008 年 4 月 14 日から 18 日にかけて両国間で行われた.ま
た,エネルギー分野では 2007 年 7 月にイランのサウスパース・ガス田の一部をトルコ石油株
式会社(Türkiye Petrolleri A.O.:TPAO)に譲渡することが決定した.また,2008 年 6 月 30
日に,サウスパース・ガス田からイランとトルコ国境に位置するバザルガンを結ぶパイプライ
ンを建設し,最終的にトルコを経由してヨーロッパに天然ガスを供給する IGAT(Iran Gas
Trunkline)9 計画が立ち上げられるなど,関係は良好であった.
国内政治において,公正発展党は 2002 年と 2007 年の総選挙で単独過半数を獲得,さらに
2004 年と 2009 年の地方選挙でも圧勝していたため,フリーハンドで外交を展開することがで
8)
きた .
個人のレベルで,この時期に最もトルコ外交に影響を及ぼしたのはダーヴトオールである.
ダーヴトオールは,2003 年 1 月 18 日に当時のアブドゥッラー・ギュル(Abdullah Gül)首相
の外交アドバイザーに就任した.そして,2009 年 4 月まで首相の外交アドバイザーを努めた
後,同年 5 月 1 日に外務大臣に就任した.ダーヴトオールが主導する公正発展党の外交政策が
「ダーヴトオール・ドクトリン」である.「ダーヴトオール・ドクトリン」の詳細については別
9)
稿に譲るが ,2004 年から 2009 年までの外交はバージョン 1 と呼ばれ,周辺地域の安定に焦
点が当てられた.具体的な行動指針の中でも特に注目されたのが,できるだけ全ての近隣諸国
と関係を良好に保つことを目指すゼロプロブレム外交と,多様なイシューを扱い,多様なト
ラックを外交カードとして使用する外交であった
10)
.仲介政策はゼロプロブレム外交の政策
の 1 つであり,トルコは仲介のために政府間交渉以外のルートも積極的に活用した.
このように,2000 年代後半には,国際システム,2 国間関係,国内基盤,個人の 4 つのレベ
ル全てにおいて,トルコが中東地域において仲介を展開することができる背景が整っていた.
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3.仲介の枠組み
仲介者とは,「紛争の当事者ではなく,紛争の調停と平和構築に向けて努力しているアク
ター」を指す.仲介において重要なのは,仲介の目的・動機・条件,紛争がどの段階にあるの
か,仲介者がどのような役割を果たすのか,仲介がどのような成功を収め,他の仲介者にどの
ように評価されたのか,という点である.ここでは,主にトウヴァル/ザートマン,ベルコ
ヴィッチの議論に依拠し,仲介者の枠組みを提示する.
ⅰ 仲介の目的,動機,条件
トウヴァルとザートマンは国際政治における仲介の目的を,第 1 に,仲介国が仲介の対象で
ある 2 国の関係悪化によって脅威に晒されている場合,その脅威を取り除くこと,第 2 に,仲
介国となることで国際社会または地域における影響力を高めること,と定義している
11)
.ま
た,特にトルコのような国際政治上のミドルパワーは,仲介国となることで彼らの影響力と品
格(威信)を高めたいという意欲がみえる,と指摘している
12)
.
公式な仲介者の動機は,⒜明確なマンデートが存在,⒝仲介の対象とする紛争の継続が彼ら
の政治的利益に悪影響を及ぼす,⒞仲介者が紛争当事者から直接仲介の依頼を受けている,⒟
仲介者と紛争当事者が同じ同盟や地域機構に参加している場合,そうした同盟と機構の有効性
を保つ,⒠仲介者の役割によって影響力を拡大する,という 5 つに分類される
13)
.
次に仲介の条件であるが,ある国が仲介者の役割を担う条件としては,以下の諸点が考えら
れる.それらは,⒜より上位(パワーを行使できる)の仲介者の政策が行き詰まりを見せてい
る,⒝当該国家が紛争当事者たちと良好な関係にあり,信頼を得ている,⒞当該国家が仲介者
の役割に強い政治的意志を持っている,⒟国際社会が当該国家の仲裁を認めている,である.
ⅱ 紛争の段階
紛争の段階は,理念型として⒜協議,⒝分極化,⒞分離,⒟関係崩壊,に分類される
14)
.
⒜の協議とは,紛争の当事者間でコミュニケーションをとることが難しくなる段階である.し
かし,当事者間の関係は紛争という状態にまでは至っていない.この段階で仲介者がすべきこ
とは,両国のコミュニケーションを促し,交渉を前進させることである.⒝の分極化の段階に
おいては,当事者間の信頼関係が希薄となり,相手を敵とみなすようになる.仲介者は共通の
議題,共通の利益を提示するなどして,紛争当事者間の関係改善を図る.⒞の分離は,当事者
間が相手を脅威とみなす段階である.仲介者はまず両国の敵対心を緩和するよう調停し,一定
の緩和がみられた段階で協議を開始する.⒟の関係崩壊は,当事者間が暴力によって相手を攻
撃している段階である.この段階の仲介は,紛争の停止が最優先される.
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ⅲ 仲介者の役割
トウヴァルとザートマンは,仲介国が果たすべき役割を,2 国間の情報伝達者,問題解決の
手続き推進者,交渉のマニピュレーター,に区分している
15)
.情報伝達者の役割は,文字通
り紛争勃発によって交渉が途絶えた 2 国間にコミュニケーション・チャネルを提供することで
ある.ただし,基本的に情報伝達者の役割は受身である.問題解決の手続き推進者の役割は,
対立する 2 国間の会合を企画することであり,情報伝達者に比べて紛争解決への関与の度合い
が強い.マニピュレーターはその影響力,権力資源,説得によって,紛争当事国から紛争解決
に向けた同意を得ることを役割とする.マニピュレーターの役割は,基本的に大国または超大
国が担うことになる.
トウヴァルとザートマンの 3 つの役割をより詳細に検討したのがベルコヴィッチである.ベ
ルコヴィッチは情報伝達者の役割を,⒜関係者と連絡をとる,⒝関係者との信頼醸成を行う,
⒞関係者同士の相互交流を手配する,⒟問題と利益を明確化する,⒠現状を明らかにする,⒡
どちらか一方に加担することを避ける,⒢関係者同士の親密さを向上させる,⒣不足している
情報を補充する,⒤理解のための枠組みを発展させる,⒥有益なコミュニケーションを促進す
る,⒦肯定的な評価を提供する,⒧全ての関係者の利益が討議されることを許可する,と定義
している
16)
.また,手続き推進者の役割に関しては,⒜会合の場所を選択する,⒝会合のペー
スと公式性を統制する,⒞施設の提供など,物理的環境を統制する,⒟プロトコールを成立さ
せる,⒠進行を促進する,⒡共通の利益を強調する,⒢緊張を和らげる,⒣タイミングを調整
する,⒤まず単純な問題を扱う,⒥構造的な課題(を検討する),⒦参加者を会合に参加させ
続ける,⒧関係者の面目を保つ,⒨問題に取り組みつづける,と定義している
17)
.マニピュ
レーターの役割に関しては,⒜関係者の期待を変更させる,⒝譲歩の責任を請け負う,⒞現実
的な提案行う,⒟関係者に合意に達しない場合のコストを理解させる,⒠情報の提供,情報の
取捨選択を行う,⒡関係者が実現できる譲歩を提案する,⒢原則を緩め,交渉を手助けする,
⒣関係者の譲歩を賞賛する,⒤受諾可能な結果に向けた枠組み計画を手助けする,⒥関係者に
柔軟な姿勢を見せるよう催促する,⒦援助を約束したり,取消のリスクを理解させたりする,
⒧合意の遵守を検証することを伝える,と定義している
18)
.
次節では,この仲介の枠組みをトルコが中東地域において実施した 2 つの仲介政策に適用
し,その役割を検証していくこととする.
4.事例研究①――トルコのイスラエルとシリアに対する仲介
ⅰ 両国の立場と紛争の段階
1991 年 10 月のマドリード会議以降,シリアとイスラエルの交渉はアメリカが中心的な仲介
者となって行われた.96 年に交渉は一度中断するも,99 年 12 月に再開された.2000 年 3 月
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26 日に仲介役のクリントン大統領とハーフィズ・アサド大統領の会談が決裂して以降,交渉
は行われていなかった.議題となっていたのは,⒜ゴラン高原:イスラエルの「ゴラン高原か
らの部分的な撤退」という言説が第三次中東戦争前のラインまでの撤退を指すのかどうか,⒝
関係正常化:平和条約に関して,あらゆる面での正常化を求めるイスラエルと,大使の交換,
航空便の開始,観光,貿易に関する合意に留めるとするシリアとの立場の違い,⒞非武装化:
非武装化に関して,ヘルモン山の警戒基地,ゴラン高原とダマスカス間のシリア軍の削減を求
めるイスラエルと,非武装化の具体的な地域や規模を挙げていないシリアとの立場の違い,⒟
水資源:ヨルダン川水源からの水供給継続を望むイスラエルと,トルコを巻き込んだ地域的な
レベルでの解決を目指すシリアとの立場の違い,⒠レバノン:イスラエル・シリアとの交渉の
前提として,シリアのレバノンからの撤退を主張するイスラエルと,レバノン問題はイスラエ
ルのゴラン高原からの撤退問題の解決次第であるとするシリアとの立場の違い,であった
19)
.
レバノンに関しては,2005 年 4 月に駐留シリア軍がレバノンから完全撤退したが,シリア軍
20)
撤退後,レバノンの「ヒズブッラー化」 が起こり,シリアの間接的な影響力は維持された,
という変化が見られた.
イスラエルとシリアは,これまで第一次,第三次,第四次中東戦争において,直接戦火を交
えている.第四次中東戦争以降は直接的な紛争は起こっていないが,親シリアのヒズブッラー
も巻き込み,両国は相手を脅威とみなす「分離」の段階にある.そのため,仲介者に求められ
る任務は,まずは両国間のコミュニケーションを図って信頼醸成を促し,そのうえで共通の利
益に基づく議題,対立が少ない議題から交渉を始めることであった.
ⅱ 仲介の過程と役割
ⅱ- 1.仲介の第 1 局面:2004 年~2005 年
トルコがイスラエルとシリアの間の仲介を意識したきっかけは,2004 年 1 月にアサド大統
領がトルコを訪問した際,エルドアン首相にイスラエルとの間の仲介を依頼したことであっ
た.この背景には,アサド大統領がトルコを訪問する直前,それまでイスラエルとシリアの仲
介役を果たしていたアメリカが「これ以上両国の仲介を行うことはない」と宣言し,仲介の役
割を放棄したことがあった
21)
.エルドアン首相はアサド大統領との会談の直前に当時の駐ト
ルコ・イスラエル大使のピン・ハス・アヴィヴィ(Pin Has Avivi)と会談したが,その際に
「アサド大統領は中東に平和をもたらすための全ての必要なステップを実施するつもりである」
と述べ,仲介の役割に前向きな姿勢をみせた
22)
.アサド大統領との会談で,エルドアン首相
はアサド大統領からの仲介の要請を前向きに検討する一方,トルコ外務省が前駐トルコ・イス
ラエル大使のアロン・リエル(Alon Liel)をアサド大統領と同じホテルに宿泊させ,イスラエ
ルに帰国後,駐イスラエル・トルコ大使フェリドゥン・シニルオール(Feridün Siniroğlu)と
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接触するよう要請した.その後リエルはワシントン在住のシリア人ビジネスマン,イブラヒ
ム・スレイマン(Ibrahim Suleiman)を通して,シリア政府とも接触を図った.スレイマンは
ダマスカスに赴き,駐シリア・トルコ大使館と協力しつつ,アサド政権と交渉したといわれて
いる.しかし,結局この仲介のトルコ・チャンネルは目立った成果を上げられずに 2004 年 9
月に閉じられた
23)
.
ⅱ- 2.仲介の第 2 局面:2007 年~2008 年
トルコが再び仲介の役割を担うのは,2007 年 2 月にイスラエルのオルメルト首相がトルコ
を訪問してからである.オルメルト首相はトルコがシリアとの交渉で積極的な役割を果たすこ
とを期待し,シリアに囚われ死亡した元スパイでジャーナリストのエリ・コーヘンの遺留品を
イスラエルに返却するよう,トルコに要請した
24)
.結局トルコ政府はコーヘンの遺留品返却
に貢献できなかったが,オルメルト首相の要請に従い,イスラエルとシリアに接触していたと
いわれている.その後,2007 年 9 月 17 日にイスラエルがシリアで建設中だった原子炉を攻撃
したことで一時交渉は中断したが,11 月にエルドアン首相とオルメルト首相がロンドンで会
談した際,再度仲介の話しが取り上げられた.
トルコが仲介者として国際社会に認知されるようになったのは,2008 年 4 月 27 日のエルド
アン首相のシリア訪問であった.エルドアン首相は,4 月 22 日にイスラエルから「イスラエ
ルは完全な平和と引き換えにゴラン高原から撤退する用意がある」というメッセージを受け取
り,このメッセージをアサド大統領に電話で伝えていた
25)
.その際,アサド大統領はエルド
アン首相に対して,
「シリアは地域に安全と安定をもたらすためにトルコと協力する準備がで
きている」と返答した
26)
.エルドアン首相とアサド大統領の会談には,首相の外交アドバイ
ザーであるダーヴトオールとシリアのナジ・アル・オタリ首相も同行した.エルドアン首相
は,帰国後,記者団に対して「シリアとイスラエルの双方から仲介を始めるよう要求がある.
我々は最善を尽くすつもりである.この仕事は重要性の低い問題から協議を始め,もし肯定的
な反応がみられたなら,より重要性の高い問題を扱うことになるだろう」とコメントした
27)
.
そして,4 月 29 日にはダーヴトオールがイスラエルにシリアのメッセージを伝達した.
トルコの交渉チームは,エルドアン首相,アリ・ババジャン(Ali Babacan)外相
28)
,ダー
ヴトオールに加え,前駐イスラエル大使で,2008 年に外務政務次官を務めていたシニルオー
ルで編成された.イスラエルの交渉チームは,オルメルト首相に加え,ヨラム・トゥルボ
ウィッツ(Yoram Turbowicz)首相補佐官,オルメルトの政治アドバイザーであったシャロー
ム・トゥルジェマン(Shalom Turjeman)によって編成された.シリアの交渉チームは,アサ
ド大統領,ワリード・ムアリム外相とシリア外務省の法律アドバイザーであるリアド・ダオウ
ディ(Riad Daoudi)を中心に編成された(図- 1 参照).
5 月 19 日から 21 日にかけてはトルコの仲介の下で,正式に第 1 回目の間接協議が行われた.
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間接協議は,イスラエルとシリアの代表団が別々にトルコの代表とイスタンブルで会談し,そ
の内容を電話で報告し合うという形式をとった.トルコとイスラエルの交渉では,シニルオー
ルとイスラエルのトゥルボウィッツ,トゥルジェマンが会談し,一方でトルコとシリアの交渉
では,ダーヴトオールとダオウディが会談したとみられている.両国はマドリード会議の枠組
みを軸に話し合いを再開することを確認した
29)
.しかし,両国の首脳間ではゴラン高原から
のイスラエルの撤退に関して異なった見解がみられた.オルメルト首相がハーレツ紙に「ラビ
ン首相が 94 年に撤退を約束したことには言及しなかった」と述べたのに対し,ムアリム外相
は「イスラエルのゴラン高原からの撤退は目新しいことではなく,シリアはラビン首相の約束
を自明としている」と主張した
30)
.
第 2 回目の間接協議は 6 月 15 日から 16 日にかけて実施された.この協議において危惧され
たのは,オルメルト首相の贈収賄容疑が間接協議に及ぼす影響であった
31)
.トゥルヴォウィッ
図- 1 トルコの仲介による間接協議(概念図)
イスラエル
オルメルト首相
トゥルボウィッツ/トゥルジェマン
シリア
エルドアン首相
アサド大統領/ムアリム外相
ババジャン外相
イスラエルの条件
交渉チーム
トルコ
指示
交渉
シリアの条件
交渉
交渉チーム
ダオウディ
交渉チーム(両国と交渉)
伝達
トルコ代表団と交渉
トルコ代表団がシリアの意向を提示
ダーヴトオール/シニルオール
間接協議の経過を発表
伝達
トルコ代表団と交渉
トルコ代表団がイスラエルの意向を提示
(筆者作成)
表- 1 イスラエルとシリアの間接協議の日程と議題
間接交渉/日程・議題
日 程
議 題
第 1 回間接交渉
2008 年 5 月 19~21 日
マドリッド会議の枠組みの有効性・間接交渉の継続
第 2 回間接交渉
2008 年 6 月 15~16 日
間接交渉は内政に影響されないことを確認
直接交渉実現のための共通のアジェンダ構築
第 3 回間接交渉
2008 年 7 月 1 ~ 3 日
ゴラン高原に関する両国の意見交換
直接交渉実現のための共通のアジェンダ構築
地中海連合サミット
2008 年 7 月 13~14 日
間接交渉へのアメリカの参加を検討
第 4 回間接交渉
2008 年 7 月 29~30 日
ゴラン高原に関する意見交換,シリアのイラン,ハ
マース,ヒズブッラーとの関係を縮小について検討
第 5 回間接交渉
開催されず
2008 年 12 月末のガザ攻撃により,トルコとイスラ
エルの関係が悪化,間接協議は以後実施されず
(トルコの新聞各紙を参照し,筆者作成)
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ツとトゥルジェマンは「内政の混乱は間接協議に影響を及ぼさない」というメッセージをトル
コとシリアに伝え,イスラエルとシリアは直接協議に向けた共通のアジェンダの作成に向けて
話し合いを継続することを確認した
32)
.しかし,各国とも,「直接協議は時期尚早」という見
解で一致していた.ババジャン外相はメディアに対し,「交渉は成功しており,すでに両国は
詳細についても話し合いを始めている」と第 2 回目の間接協議を評価した
33)
.
第 3 回目の間接協議は 7 月 1 日から 3 日にかけて実施された.第 3 回目の協議においては,
ゴラン高原に関する意見交換が行われた.ムアリム外相は,
「両国で共通のアジェンダに関し
て合意しており,直接交渉の場所についても合意するだろう」とコメントした
34)
.一方でイ
スラエルの高官は,「イスラエルとトルコは直接交渉を望んでいるが,シリアが拒否している.
また,トルコはフランスに仲介の役割を『強奪』されることを危惧しており,間接協議を次の
レベルに引き上げたいと考えている」と述べた
35)
.
36)
7 月 13 日から 14 日にかけ,パリで開かれた「地中海のための連合」 サミットにエルドア
ン首相,オルメルト首相,アサド大統領が出席した.フランスのサルコジ大統領はこのサミッ
トでオルメルト首相とアサド大統領の直接交渉を実現させようと試みた.しかし,サルコジ大
統領と会談したアサド大統領は「イスラエルとの直接交渉はブッシュ大統領が在任中は始まら
ない」と述べ,直接交渉は行わないことを発表し,サルコジ大統領の試みは失敗に終わった.
このサミットでは,エルドアン首相も積極的な外交を展開した.まず,オルメルト首相と 30
分間会談し,間接交渉について協議した.この会談にはダーヴトオール,シニルオール,トゥ
ルボウィッツ,トゥルジェマンと交渉に関わるトルコとイスラエルの高官全員が出席した
37)
.
その直後に,エルドアン首相はアサド大統領と 45 分間会談し,そこでエルドアン首相は「こ
の機会を逃すべきではない」と説得し,「間接交渉にアメリカの代表団の出席も検討する」と
述べた
38)
.
第 4 回目の間接協議は 7 月 29 日から 30 日にかけて行われた.第 4 回目の間接協議では,シ
リアがゴラン高原の返還を求めたのに対し,イスラエルがシリアにゴラン高原で譲歩する代わ
りにイラン,ハマース,ヒズブッラーとの関係を縮小するよう要求するなど,意見の対立が見
られた
39)
.しかし,両国は間接交渉の継続を希望し,第 5 回目の間接協議が 8 月中旬,第 6
回目の間接協議を 9 月に実施することを約束した.
しかし,オルメルト首相が 7 月 30 日に 9 月に行われるカディマの党首選に立候補しないこ
とを表明し,さらに交渉メンバーであるトゥルボウィッツも辞任を発表したため,間接協議の
先行きが不透明となった.トゥルボウィッツはボランティアという立場で間接協議に参加する
と発表したが,第 5 回目の間接協議はイスラエル側から内政の事情により,延期の要請が届い
た.結局第 5 回目の間接協議は開かれなかった.オルメルト首相は 2008 年 12 月 22 日にトル
コを訪問し,エルドアン首相と間接協議の再開とシリアとの直接交渉の可能性について会談し
2012
中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
181
た.しかし,それから 5 日後の 12 月 27 日からイスラエルはガザに対する大規模空爆を開始
し,トルコとイスラエルの関係が悪化したため,間接協議はその後開かれていない.
ⅲ 評 価
イスラエルとシリアの仲介に関するトルコの動機は,主に 3 つであった.それらは,イスラ
エルとシリアの紛争がトルコの目指す地域秩序の安定に悪影響を及ぼす,イスラエルとシリア
から直接仲介の依頼を受ける,仲介者の役割を果たすことによって地域と国際社会において影
響力を拡大する,というものであった.結果的に間接協議はイスラエルとシリア間の問題を全
く解決できなかったが,国際社会からトルコの地域の安定を試みようとした行動に称賛の声が
上がった.間接協議が中断した原因もトルコの問題ではなく,イスラエルのガザ攻撃であり,
トルコの影響力を低下させるものではなかった
40)
.
次に仲介者としての役割であるが,トルコがイスラエルとシリアの間接協議で果たした役割
は,情報伝達と手続き推進者の役割であった.表- 2,3 のように,トルコはイスラエルとシ
リアの間接協議において,情報伝達者と交渉の手続き推進者としての役割は十分に果たしてい
た.しかし,ゴラン高原の問題はゼロサムゲーム的な議題であり,シリアとイラン,ハマー
表- 2 情報伝達者としてのトルコ 実施→○ 実施せず→ ×
連絡をとる
○
両国の親密さを向上させる
○
信頼醸成を行う
○
情報を補充する
○
相互交流を手配する
○
理解のための枠組みを発展させる
×
問題と利益を明確にする
○
コミュニケーションを促進する
○
現状を明らかにする
○
肯定的な評価を提供
○
一方への加担を避ける
○
全ての関係者の利益を討議する
○
(筆者作成)
表- 3 手続き推進者としてのトルコ 実施→○ 実施せず→ ×
会合の場所を選択する
○
タイミングを調整する
×
会合のペースと公式性を統制する
○
単純な問題から扱う
○
物理的環境を統制する
○
構造的な課題を検討する
×
プロトコールを成立させる
×
各国を会合に参加させ続ける
○
進行を促進する
○
関係者の免目を保つ
○
共通の利益を強調する
×
問題に取り組み続ける
○
緊張を和らげる
○
(筆者作成)
182
中央大学社会科学研究所年報
第 17 号
ス,ヒズブッラーとの関係断絶も中東地域の構造,国際システムのパワーゲームの視点からは
困難であった.そのため,トルコは共通の利益を強調できず,何らかの枠組み,またはプロト
コールを提示することができなかった.これにより,実質的な問題解決を担うマニピュレー
ターとはならなかった.また,オルメルト首相の贈収賄疑惑とカディマの支持率低下があり,
トルコが適切なタイミングで仲介を実施したかも疑問が残った.
5.事例研究②――トルコのイラン核開発に関する仲介
41)
ⅰ 核開発疑惑に対するトルコの立場
核開発協議の仲介は,イスラエルとシリアのような 2 国間対立の仲介とは異なるものであ
り,国際社会(より具体的には主に 5 大国とドイツ)とイランの間の仲介であった.なぜトル
コは核開発協議の仲介を志向したのだろうか.トルコにとって,イランは常に扱いが難しい隣
国の 1 つであったことは間違いない.なぜなら,イランはトルコと並ぶ地域大国であり,クル
ド人テロリストの対策や,天然ガスの輸入でトルコにとって関係強化が不可欠な国である.し
かし,一方でイランとの関係が良好になると,今度は欧米諸国との関係が緊張し,国際社会に
おいて問題が生じる可能性が高い.このロジックを改善するためにトルコができることは,イ
ランに核問題の解決に向けた譲歩を迫り,イランと欧米諸国の間で仲介を行うことであっ
た
42)
.隣国のイランがもし核兵器を保有すれば,トルコも核保有を望む可能性が高まり,再
び 90 年代前半までの安全保障中心の外交政策に逆戻りすることにもなりかねない.また,経
済制裁が発動された場合も,天然ガスの約 20%をイランに依存するトルコは,最も損害を被
表- 4 2002 年から 2010 年までのイランの核開発疑惑に関する年表
02 年 8 月 14 日
03 年 11 月 5 日
05 年 6 月 24 日
05 年 8 月 10 日
06 年 2 月 4 日
06 年 3 月 29 日
06 年 7 月 28 日
06 年 12 月 23 日
07 年 3 月 24 日
08 年 3 月 3 日
09 年 9 月 26 日
10 年 2 月 9 日
10 年 5 月 17 日
イランが秘密裏にナタンツにおいてウラン濃縮施設を建設していると反体制派が公表
IAEA がイランの査察協定違反を報告
イラン大統領に保守派で前テヘラン市長のアフマディネジャードが就任(2009 年 6 月に再
選)
イラン,ウラン濃縮前段階である転換作業を再開
IAEA がイラン核開発問題を国連安全保障理事会に付託
国連安保理,イランに 30 日以内のウラン濃縮活動停止を求める議長声明を採択
安保理常任理事国と独の 6 カ国がイランに対し,8 月末までに濃縮活動停止を義務
づける制裁案を提示し,31 日に決議(決議 1696)→イランは拒否
安保理でイランに対する制裁決議案(決議 1737)を採択
安保理でイランに対する追加制裁決議(決議 1747)を採択
安保理でイランに対する追加制裁決議(決議 1803)を採択
イランがコム近郊で 2 カ所目のウラン濃縮施設を建設中であることが判明
イラン,ナタンツの施設においてウランの 20%濃縮に成功
イラン,トルコへの低濃縮ウラン搬出でトルコ,ブラジルと合意
(新聞各紙を参照し,筆者作成)
2012
中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
183
る国の 1 つになる.こうした脅威認識がトルコの核開発問題の仲介の役割を後押しした.
イランは国際原子力機関(以下 IAEA)の査察や国連安保理の制裁に対立するなど,国際社
会との信頼関係が希薄であった.特に欧米諸国との間で相互不信が深まっており,両者の関係
は「分極化」の段階にあった.この段階からいかにイランに国際社会とのコミュニケーション
を促進させるか,または解決に向けた協議を行わせるかが仲介者の任務であった.
ⅱ 仲介の過程と役割
ⅱ- 1.仲介の第 1 局面:2006 年~2010 年初頭
トルコがイラン核開発問題に関して,仲介者の役割を意識し始めたのは 2006 年 2 月に
IAEA がイランの核問題を国連の安全保障理事会に付託して以降である
43)
.2006 年 6 月 25 日
に当時のギュル外相がイランを訪問し,マフムード・アフマディネジャード大統領,マヌー
44)
チェフル・モッタキ外相らと核問題について協議した
.ギュル外相は,エルドアン首相と
ブッシュ政権からのメッセージを伝え,
「G8 外相会議(2006 年サンクトペテルブルク会議)
が開催される 6 月 29 日までに少なくともイランが対話を行う用意があるという合図を示すこ
とを期待している」とイラン側に譲歩を迫ったが,結果的にさしたる成果は得られなかった.
一方で,ラリジャーニ国家高等安全保障評議長が行き詰まっているイランと欧米諸国の核交渉
に関して,トルコが「良い橋渡しになる」と発言するなど,イラン側から一定の信頼を得た
45)
.
トルコは翌 2007 年 4 月 27 日に,アンカラにおいてラリジャーニと EU のハビエル・ソラナ
EU 理事会事務総長兼共通外交・安全保障政策上級代表の核開発に関する会談を実現させた.
2009 年 9 月 26 日にコム郊外で 2 カ所目のウラン濃縮施設を建設中であることが明らかにな
り,イランへの風当たりが強まる中でも,トルコは絶えず外交による解決を訴えてきた.2009
年 11 月に IAEA はイランに対して,第三国にウランを移送し,そこでウランを保管する案を
46)
提示したが,イラン側はこの案を拒否した(図- 2 参照) .2010 年 2 月 9 日にイランがナタ
ンツの施設でウランの 20%濃縮に成功した 1 週間後にもダーヴトオール外相が急遽イランを
訪問し,モッタキ外相と会談した.ダーヴトオール外相は帰国後すぐにヒラリー・クリントン
国務長官と電話で会談した.また,エルドアン首相もオバマ大統領と電話で意見交換した.こ
のように,トルコは 2006 年から 2010 年初頭まで,主にイランと欧米諸国間の情報伝達を仲介
する役割を担った.
ⅱ- 2.仲介の第 2 局面:2010 年
2010 年 4 月以降,イラン核開発に関するトルコの仲介はより直接的なものとなった.トル
コは,ブラジルと共に 2010 年 4 月 12 - 13 日に開催された核安全保障サミットから,核開発
47)
問題の妥協案提出に積極的な行動を見せた(表- 5 参照) .安全保障理事会の 5 大国にドイ
ツを加えた 6 カ国は,イランに対する新たな制裁を加えることを検討していたが,ダーヴト
184
中央大学社会科学研究所年報
第 17 号
オール外相はあくまで「イランの核開発問題は最後まで外交による解決を目指し,関与を継続
していく必要がある」と強調した.トルコとブラジルが目指した妥協は,前年にイランが拒否
したウラニウム移送案であり,移送先をトルコとした.この交渉の参加者は,ダーヴトオール
外相,ブラジルのセルソ・アモリン外相,モッタキ外相であった.
トルコとイランは,核兵器の保有には反対,核エネルギーを平和裏に利用することには賛
成,この問題は対話によって解決しなければならない,という 3 つの原則に基づき,協議を進
めた
48)
.5 月 10 日にダーヴトオール外相は,シリアのアサド大統領とカタールのハマド・ビ
ン・ジャーシム首相兼外相とイスタンブルで会談し,両国からイランの低濃縮ウランに関し
て,トルコとブラジルの仲介への支持を取り付けた.
交渉が大きく進展したのはモッタキ外相,ダーヴトオール外相,アモリン外相の 18 時間に
表- 5 2010 年 4 月- 5 月におけるトルコのイラン核協議に関する動向
4 月 13 日
4 月 18 - 19 日
4 月 20 日
4 月 21 日
4 月 24 日
5月7日
5 月 10 - 11 日
5 月 16 - 17 日
アメリカ主催の核安全保障サミットにおいて,オバマ大統領,ルーラ大統領,エル
ドアン首相の 3 者会談が行われる
ダーヴトオール外相,ブラジルを訪問
ダーヴトオール外相,イランを訪問
ダーヴトオール外相,ブリュッセルで EU のアシュトン上級代表らとイランの核問
題について協議.その後,エストニアに飛び,クリントン国務長官と協議
ブラジルのアモリン外相がトルコを訪問
イランのモッタキ外相がトルコを訪問
イランのラリジャーニ国家高等安全保障評議長がトルコを訪問
イラン,トルコ,ブラジルの外相が会談し,妥協案を発表
(トルコの新聞各紙を参照し,筆者作成)
図- 2 トルコの移送関連図
IAEA が提示した
国外搬送案
濃度 20%へ
濃縮
フランス
成型加工
(『日本経済新聞』2010 年 5 月 18 日)
イラン
医療用
実験炉
燃料 120
キログラム
低濃縮
ウラン
1.2 トン
トルコ
ロシア
濃縮
フランス
成型加工
1年以内に実行
ロシア
医療用実験炉燃料
1.2
全体で1年
程度必要
低濃度ウラン
︵ %︶ トン
を移送
3.5
イラン
イラン,ブラジル,トルコ
が合意した搬送案
2012
中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
185
及ぶ 3 者協議によって,3 カ国間でイランの核開発に関する妥協案が調印された 5 月 16 日と
17 日であった.この妥協案は,⒜イランは 1 週間以内に IAEA にウラン搬送の用意があるこ
とを通告する,⒝アメリカ,フランス,ロシアの合意を得られれば,1 カ月以内に濃度 3.5%
のウラン 1200 キログラムをトルコに移送する,⒞ IAEA の監視下でウランを保管,濃度 20%
49)
の医療用実験炉燃料 120 キログラムと交換する,というものであった(図- 2 参照) .この
調印に際し,ダーヴトオール外相は,「もはやこれ以上イランに対して新たな制裁を行う必要
はない」と述べ,ルーラ大統領も「外交の勝利」と結論づけた.同時に,イランがこの妥協案
を1週間以内に IAEA に正式に届け出ることも発表された.
しかし,翌日の 5 月 18 日に,クリントン国務長官は「安全保障理事会の常任理事国にドイ
ツを加えた 6 カ国が,イランの核開発疑惑に対して新たな制裁を課すことに合意した」と発表
した.エルドアン首相は,5 月 20 日の深夜にオバマ大統領とロシアのプーチン首相と電話で
会談し,トルコとブラジルの妥協案を了承するように求めた
50)
.これに対してオバマ大統領
は,「イランに対して,24 日までに IAEA にこの案を正式に提出するように要求する.この問
題が外交によって解決することを期待しているが,安保理の決定を最優先する」と返答した.
イランは 5 月 24 日に正式に IAEA にこの案を提出したが,結果として 6 月 9 日に対イラン経
済制裁のための安保理決議 1929(15 カ国中 12 カ国が賛成により批准.トルコとブラジルが反
対票を投じ,レバノンが棄権)が可決され,トルコとブラジルがイランと調印した妥協案は有
効性が失われた
51)
.
ⅲ 評 価
イランと国際社会の仲介におけるトルコの動機は,明確なマンデート,紛争が政治的な悪影
響を及ぼす恐れがあること,仲介者の役割によって影響力を高めること,という 3 点であっ
た.トルコはトルコへの移送案という明確な計画を持っており,この提案をイランが受けいれ
ることで国際社会と地域の安全保障に貢献し,その影響力を高めることを狙った.また,上述
したようにトルコはイランへの経済制裁,またはイランが核を保有した場合においても最も悪
影響を受ける国であり,それを予防することも目的であった.
2010 年 4 月から 5 月にかけてのトルコの役割は,手続き推進者とマニピュレーターの役割,
つまり交渉を軌道に乗せ,新たな枠組みを提示することであった.表- 6 のようにトルコは手
続き推進者としての役割は全て達成していた.トルコへの移送案を提示した時期も安保理決議
が協議される前であり,適切な時期であった.ではマニピュレーターとしての役割はどうだっ
たのだろうか.表- 7 からわかるように,マニピュレーターとしてもトルコは多くの項目で条
件を満たしている.トルコは最も困難と思われていたイランから譲歩を引き出し,移送案に合
意させたものの,もう 1 つの交渉相手である国際社会の期待を変更させることができなかっ
186
中央大学社会科学研究所年報
第 17 号
表- 6 手続き推進者としてのトルコ 実施→○ 実施せず→ ×
会合の場所を選択する
○
タイミングを調整する
○
会合のペースと公式性を統制する
○
単純な問題から扱う
○
物理的環境を統制する
○
構造的な課題を検討する
○
プロトコールを成立させる
○
各国を会合に参加させ続ける
○
進行を促進する
○
関係者の免目を保つ
○
共通の利益を強調する
○
問題に取り組み続ける
○
緊張を和らげる
○
(筆者作成)
表- 7 マニピュレーターとしてのトルコ 実施→○ 実施せず→ ×
関係者の期待を変更させる
×
原則を緩め,交渉を手助けする
○
譲歩の責任を請け負う
○
関係者の譲歩を称賛する
○
現実的な提案を行う
○
枠組みの計画を手助けする
○
合意しない場合のリスクを説明する
×
柔軟な姿勢を見せるよう催促する
×
情報の提供,取捨選択を行う
○
援助の約束,取消のリスクを説明
×
実現可能な譲歩を提案する
○
合意の遵守を検証することを約束
○
(筆者作成)
た.エルドアン首相やダーヴトオール外相はアメリカや EU と緊密な連絡を取り合っており,
彼らの期待を変更させることに自信を持っていたと思われるが,移送案締結後の各国のコメン
トや安保理決議 1929 の可決はトルコの思惑を裏切るものであった.
おわりに
本稿は,中東地域においてトルコが仲介政策を取り得た理由と,トルコの仲介政策の成果と
意義について,イスラエルとシリアの間接協議とイランの核開発問題におけるトルコの仲介を
事例として取り上げ,検証してきた.トルコはイスラエルとシリアの仲介においては,情報伝
達者,手続き推進者として行動し,実質的な成果は得られなかったものの,地域秩序とグロー
バル秩序の安定に貢献する国家として認知された.また,イランの核開発問題の仲介では,手
続き推進者,マニピュレーターとして行動し,トルコへの移送案をブラジルと共にイランに締
結させ,地域と国際社会における影響力をさらに高めようとした.トルコへの移送案は欧米諸
国の反対と安保理決議 1929 の可決により骨抜きにされたが,トルコが国際社会に貢献する姿
勢は見て取れた.トルコの地域秩序と国際秩序に貢献することで国益を高めようとする政策
は,新興国の中では異質な外交アプローチであった.
2012
中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
187
一方,トルコの仲介が成果を上げられなかった大きな要因は,国際システムにおける主権国
家の構造の変化に求められる.イスラエルとシリアの仲介政策は,2008 年末から 2009 年初頭
のイスラエルのガザ攻撃により,トルコとイスラエルの関係が悪化,トルコが公平な仲介者の
役割を放棄したため,頓挫した.また,イランの仲介は,超大国であるアメリカからの反対に
遭い,その有効性を失った.イスラエルとシリアの仲介は,地域内のバランスが変化したこと
によってトルコとイスラエルの 2 国間関係が悪化した.イランの仲介はトルコが地域安定化に
貢献するために実施した政策が,結果的にアメリカの意向に沿わなかった.イスラエルはアメ
リカと「特別な関係」にあるが,ガザ攻撃は超大国の拘束力が弱い多極構造が招いた結果であ
り,イランに対する仲介の失敗は単極構造をトルコが軽視した結果であった.トルコは仲介政
策によって国際政治上での影響力を高めたが,仲介政策は国際システムにおける主権国家間の
構造に常に考慮する必要があり,トルコは変化する構造のバランスを読み誤ったため,実質的
な成果を得ることはできなかったといえよう.
付記:本稿は,日本国際政治学会 2012 年度研究大会(中東分科会)に提出した原稿を大幅に加筆・修
正したものである.中東分科会の司会者であった立山良司先生と,討論者であった池田明史先生
からは貴重なコメントを頂いた.
注
1) E. Çuhadar Gürkaynak, “Turkey as a third party in Israeli-Palestinian conflict: Assessment and
Reflections”, Perceptions, Vol.12, No.1(Spring 2007),pp. 89-108.
2) M. Altunışık and E. Çuhadar, “Turkeyʼs search for a third party role in Arab-Israeli conflicts: A neutral
facilitator or a principal power mediator?”, Mediterranean Politics, Vol.15, No.3(November 2010)
,
pp. 371-392.
3) 近年は米中の「2 超多強」といえる状況に変化しつつある.滝田賢治「米中を軸にした『二超多
強』のパクス・コンソルティスが基調に」『週刊東洋経済』臨時増刊,2012 年 2 月,54-57 頁.
4) 中西寛「単極構造論の諸相」『国際安全保障』第 31 巻 1-2 合併号(2003 年),3 頁.
5) H. Birthe, Unipolarity and the Middle East(Richmond: Curzon,2000),pp. 63-68.
6) ジョン・ミアシャイマー(奥山真司訳)『大国政治の悲劇:米中は必ず衝突する』五月書房,2007
年,434-442 頁.
7) トルコとイスラエルの関係に関しては,例えば今井宏平「解決の糸口が見えないトルコとイスラ
エルの関係悪化」『情況』情況出版,2010 年 11 月号,70-81 頁を参照されたい.
8) 2002 年の総選挙では得票率 34.28% で 550 議席中 367 議席,2007 年の総選挙では得票率 46.6%で
341 議席を獲得した.2004 年の地方選挙では得票率 41.7%,2009 年の地方選挙でも得票率 40.1%で
あった.
9) 「ダーヴトオール・ドクトリン」の詳細に関しては,今井宏平「『ダーヴトオール・ドクトリン』
の理論と実践」『海外事情』第 60 巻 9 号,2012 年,16-31 頁を参照されたい.
10) 他の行動指針は,自由と安全保障のバランス,中心国(地域大国)として近隣諸国への間接的な
影響力行使,リズム外交(積極的に新たな状況に適応する動的な外交)である.
11) S. Touval and W. Zartman, “Introduction: mediation in theory”, in S. Touval and W. Zartman ed.,
188
中央大学社会科学研究所年報
第 17 号
International Mediation in Theory and Practice(Boulder: Westview Press, 1985)
,pp. 8-9.
12) Ibid., p. 252.
13) J. Bercovitch, Jacob, “Mediation and Conflict Resolution” in J. Bercovitch, V. Kremenyuk and W.
Zartman ed., The SAGE Handbook of Conflict Resolution(London: Sage Publication, 2008),p. 346.
14) L. Keashy and R. Fisher, “A Contingency Perspective on Conflict Interventions: Theoretical and
Practical Considerations” in J. Bercovitch ed., Resolving International Conflicts: The Theory and
Practice of Mediation(Boulder: Lynne Rienner Publications, 1996),pp. 242-249.紛争当事者たち
は仲介に参加することによって,⒜紛争がエスカレートするのを防ぎ,紛争の解決に近づける,⒝
それぞれの当事者は,仲介者が相手国に対して説得したり,影響力を行使したりすることを期待す
るので,仲介の要請を快く受け入れる,⒞仲介に応じることは,世論に対して,自分たちが国際規
範に関与しているという印象を与える,⒟交渉が失敗したときも仲介者が責任を請け負う,⒠仲介
国が合意の監査,検証,安全保障を行う,という利益を受ける.
15) S. Touval and W. Zartman, op. cit., pp. 11-13.
16) J. Bercovitch, “Mediators and Mediation Strategies in International Relations”, Negotiation Journal,
Vol. 8, No. 3(April 1992),p. 104.
17) Ibid., pp. 104-105.
18) Ibid., p. 105.
19) 夏目高男『シリア大統領アサドの中東外交:1970-2000』明石書店,2003 年,127 頁.
20) レバノンの「ヒズブッラー化」に関しては,末近浩太「ヒズブッラーの台頭とレバノン紛争―
2006 年 7~8 月―」青山弘之・末近浩太『現代シリア・レバノンの政治構造』岩波書店,2009 年,
167-200 頁を参照されたい.
21) “United States leaving Syrian track to Israelʼs discretion”, Haaretz, 9 January, 2004.
22) Ibid.
23) A. Eldar, “Background: How the convert contacts transpired”, Haaretz, 16 January, 2007.トルコが
仲介の窓口の役割を閉じた理由は明記されていないが,イラク戦争後にイスラエル軍がイランとシ
リアへの防波堤の役割を期待し,クルド人勢力に軍事訓練などを行っていたという情報がセイモア・
ハーシュ(Saymour Hersh)によってスクープされ,2004 年 6 月 28 日発行の『ニューヨーカー』で
暴露されたことが一因と考えられる.その後,リエルとスレイマンはスイスに仲介を要請し,2005
年 8 月に最終報告が作成され,交渉自体も 2006 年夏まで継続した.この秘密交渉は当初明らかにさ
れていなかったが,2007 年 1 月 15 日にリークされた.リエルは,
「イスラエル政府は直接的に秘密
交渉に関与していないものの,交渉を黙認していた」と述べたのに対し,オルメルト首相は「秘密
交渉に政府は全く関わっていない」と述べ,首相のスポークスマンも「秘密交渉の話は初めて聞い
た」とし,リエルの見解を否定した.“Olmert: No government officials involved in secret Syria talks”,
Haaretz, 16 January, 2007.
24) “Excuted spyʼs widow: PM to ask Turkey to help return body” , Haaretz, 13 February, 2007.
25) Z. Barʼel, “Syrian leak/Taking through the press”, Haaretz, 24 April, 2008.
26) “Asad says “ready to cooperate” in Turkish Israel-Syria peace bid”, Haaretz, 26 April, 2008.
27) “Hedef Olmert-Esad zirvesi”, Radikal, 27 Nisan, 2008.
28) 公正発展党政権下において外相は,2002 年 11 月 18 日-03 年 3 月 14 日にかけてヤシャル・ヤク
シュ(Yaşar Yakış),2003 年 3 月 14 日-07 年 8 月 28 日にかけてギュル,2007 年 8 月 28 日-09 年 5
月 1 日にかけてババジャン,2009 年 5 月 2 日以降はダーヴトオールが務めている.
29) “Türkiye resmen arabulcu”, Cumhuriyet, 22 Mayıs, 2008.
30) “Olmert labels Syria talks “historic breakthrough”, Haaretz, 22 May, 2008.
2012
中東地域におけるトルコの仲介政策(今井)
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31) “Israelis see Syria talks as a diversion from Ehud Olmert”, Turkish Daily News, 23 May, 2008.
32) “Israel promises Syria: Talks to proceed despite domestic crises”, Haaretz, 16 June, 2008.
33) “Will Olmert and Asad be sitting together at the same table?”, Haaretz, 17 June, 2008.
34) “Syria says premature to talk of direct contact with Israel”, Haaretz 4 July, 2008.
35) “Turkey to Syria: Talk openly to Israel”, Haaretz 8 July, 2008.
36) 地中海連合は,サルコジ大統領が 2007 年の大統領選に向け,外交の柱として打ち出した構想で
あった.その後 EU の地中海諸国家との関係強化のための「バルセロナ・プロセス」の一環として
2008 年 7 月に 43 カ国が参加し,
「地中海のための連合」として立ち上げられた.詳細は「EU・地中
海諸国関係の活性化」JETRO ユーロトレンド,2008 年 11 月を参照されたい.
37) “Syria sources to Haaretz: Weʼll grant no goodwill gesture to weak Olmert”, Haaretz, 14 July 2008.
38) Ibid.
39) “Israel PM Olmert sends envoys to Turkey for more Syria talks”, Today’s Zaman, 30 July, 2008.
40) トルコ経済社会基金(TESEV)の調査によると,中東地域でトルコの仲介を好意的に感じている
人の割合は 75%,一方で否定的に感じている人の割合は 20%であった.M. Akgün, S. Senyücel
Gündoğar, The Perception of Turkey in the Middle East 2011(Istanbul: TESEV Publıcatıons, 2012),
p. 20.
41) トルコのイラン核開発問題に関する仲介については,今井宏平「イランの核開発問題とトルコ」
『アナトリアニュース』No.132,2012 年 4 月を加筆・修正した.
42) Ç. エルハンは,トルコがイランと欧米諸国,特にアメリカとの仲介を進めさせるための条件とし
て,⒜アメリカ政府がイランと交渉の席に就く用意があること,⒝イランが本質的に疑惑を払拭す
るための改善策を示す必要があること,⒞イスラエルの承諾を得る必要があること,⒟トルコは国
際社会からの同意を取り付けるために全方位外交を展開する必要があること,を指摘している.Ç.
Erhan, “Türkiyeʼnin Arabuluculuğuyla ABD ve İran Barışabilir mi?”, Türkiye, 22 Kasım, 2008.
43) IAEA はこれまで 2003 年 9 月,11 月,2004 年 3 月,6 月,9 月,11 月,2005 年 8 月,9 月,2006
年 2 月,2009 年 11 月,2011 年 11 月の 11 回,対イラン決議案を採択している.
44) ギュル外相は,アフマディネジャード大統領とモッタキ外相以外に,グラマリ・ハダッド・アディ
ル国会議長,アリ・ラリジャーニ国家高等安全保障評議長,ハーシェミー・ラフサンジャーニー元
大統領と会談した.“Hem tebrik hem taziye”, Hürriyet, 26 Haziran, 2006.
45) “Iran urges west to be patient on incentives package, suggests Turkey play mediator”, Khaleej times,
26 June 2006.
46) “Iranʼdan Türkiyeʼnin teklifine yeşil ışık”, Hürriyet, 21 Kasim, 2009.
47) 当時,トルコとブラジルは国連安保理の非常任理事国であった.そのため,両国は安保理におい
ても一定のイニシアティヴを握ることができた.2009 年 5 月 20-23 日のルーラ・ダ・シルヴァ大
統領のトルコ訪問が両国の協力関係発展のきっかけであった.
48) “Davutoğlu, çözüm için çok umutlu” , Zaman, 21 Nisan, 2010.
49) ダーヴトオール外相は,イラン核開発問題解決のために,7 度イランを訪問,イランの交渉相手
を 5 度トルコに招待,40 回以上の電話交渉を行ったと述べている.
50) “Erdoğan Obamaʼyla uranyum takasını konuştu”, Radikal, 20 Mayıs 2010.
51) Hürriyet Daily News, 11 Haziran 2010.これまでのイランの核開発に関する国連決議は決議 1737,
決議 1747 が全会一致で批准,決議 1803 がインドネシアの棄権による 14 カ国の賛成により批准され
た.安保理決議 1929 が締結され,イラン,トルコ,ブラジルの 3 カ国による妥協案が水泡に帰した
後も,トルコは 2011 年 1 月のイランに対する核開発協議のホスト国になるなど,この問題を外交に
よって解決する姿勢を現在も維持している.一方で,2010 年後半からトルコはこれまでと異なった
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中央大学社会科学研究所年報
第 17 号
動きも見せた.それは,2010 年 11 月 19 日と 20 日に行われた NATO のリスボン・サミットにおい
て,トルコが自国の領土内に NATO のミサイル防衛の施設を建設することを熱望したことである.
ただし,トルコはミサイル防衛施設が特定の脅威に対するものであることを議案に明記することに
は反対した.このトルコの意向は各国に受け入れられ,2011 年 9 月 2 日に,NATO の早期警報シス
テムがイランから西に 700 キロのマラティヤ県キュレジックに設置された.
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