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戦後西 ドイ ツ年金保険の展開と 第二調整期の財政問題

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戦後西 ドイ ツ年金保険の展開と 第二調整期の財政問題
戦後西ドイツ年金保険の展開と
第二調整期の財政問題
下和 田 功
(山口大学助教痩)
目 次
1.はじめに 日一一一--I---I-----‥一一一・一--一 一72
2.就業構造の変化I一一一-一一一‥ ‥一一一 一-‥-一76
3.年金保険制度の構造 日一一‥-----‥一一一‥一一一‥‥ -‥‥-78
3 -1 年金保険の種類 一 一1-1-‥一 一‥‥-・78
3 - 2 年金保険の被保険者と年金受給者 一一一一一一一・81
3-3 「年金の山」 一 一------一一・一一一一一 84
3-4 年金保険給付と公費負担1-------・一一‥-1---・88
3 - 5 年金保険の運営機関 -‥一一‥一一一・一一一一一一 91
・l 蝣一蝣V.;'--;i二おける年Miトキ蝣蝣Kl閏 一一 一一‥・--I 98
4-1 戦後再建期 -J一一一一‥ ・ -一一一一一一‥一一94
4-2 第一次年金改革期 一一---‥一 一‥‥・一一一ll‥一一1---95
4 I 3 第-調整期 -一・一一一一‥---一一‥一一一1--------‥---一一・一102
4 14 第二次年金改革期 一一・一一一一一‥‥・一一一一 106
5.年金保険の財政論議 -一一一一一一・一 一一一一・‥一一一一‥-I 108
6ー 年金保険の財政予測 一一11------‥ ‥ 一一-一 一115
7.財政危機に対する諸提案 --‥-I---‥ ‥-I--- 118
7-1 収入面での諸対策 一一‥一一 一一日一一一一一 ‥119
-71-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
7 - 2 支出面での諸対算----一一 一一一1・一一‥一一一一一 一一128
7-3 その他の諸対策 ---・‥-‥--‥-‥-・---‥一一・一一一125
7 - 4 財政改善効果の予測 ----‥‥‥一一--‥一一一一一 126
8.選挙前後の動向 -I---------I-一一‥-‥ -I-I-I-1---129
8 - 1 選挙前の局面 一一一一一一・---一 一--I-‥‥一一一一・一一129
8 - 2 選挙後の新局面 一一一一一一一一一・一一一一‥-‥一一1‥一一一一一一一一一181
9.連立協定交渉と新内閣の発足 --‥一 一一一 一一‥-132
10.おわりに ---‥-一一一1----‥一一一一一一一‥-1-------- 135
1.は じ め に
第二次大戦後、ドイツは分裂国家としての道を歩くこととなった。すな
わち、各占領国間の意思がまとまらないために、西側の英、米、仏三カ
国の管理する地区は、ドイツ連邦共和国( Bundesrepublik Deutschland )
いわゆる西ドイツとして、ソ連占領地区はドイツ民主共和国(Deutsche
De汀的kratische Republik) 、いわゆる東ドイツとして発足し、それぞれ
独自の憲法を1949年に制定して、今日に至っていることは周知のとおり
でyjtx
本稿で対象とする西ドイツは、 1949年5月8日にドイツ連邦共和国基
本法を制定したO ここで「憲法」 (Verfassung )とせずに、 「基本法」
(Grundgesetz )と名づけられたのは、占領下に作られた暫定的立法の
意味を表わそうとしたためであるといわれているO
新たに発足した西ドイツでは、 CDU ( Christlich-Demokratische
Union Deutschlands -キリスト教民主同盟)を終戦直後に創設・したア
デナウアー(KOnrad Adenauer )党首が、 1949年より1963年迄の15年
にわたり首相の座にあり、その後1966年迄の約3年は、同じくCDUの
エア-ルト(Ludwig Erhard )が首相とな、つている1966年末より19
-72-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政閉場
69年迄はCDUとS PD (Sozialdemokratische Partei Deutschニ
lands -ドイツ社会民主党)の大連立内閣が組織され、 CDUのキー
ジン才一(Kurt G. Kiesinger )が首相をつとめている1969年
から1974年迄は、 SPD が小党のFDP (Freie Demokratische
Partei - 自由民主党)と連立して、 SPDのプラント(Willy
Brandt)が首相となっている。そして、 1974年より現在迄は、同じく
SPDとFDPが連立して、 SPDのシュミット(Helmut Schmidtノ)
が連続二期首相の地位にある。
CDU/CSU (Christlich-Soziale Union -キリスト教社会
同盟)が政権を維持していた時期はもちろんのこと、 SPDが政権を
担当するようになってからも、 SPDが1959年「バート・ゴーデスベ
ルク綱領」 ( Bad-Godesberg Program甲)によりマルクス主義を
放棄して、階級政党より国民政党へ脱皮し、 t混合経済を受け入れたこ
とにより、戦後西ドイツの経済政策は、一貫性を保持してきたといえ
るOすなわち、ミュラー・アルマック(Alfred M丘Iler-Armack] 、
リュストウ(Alexander R迂stow) 、レプケ(Wilhelm R5pke )等
によって展開され、エア-ルトにまって実践に移され、さらにS PD
の著名な経済理論家シラー(Karl Schiller )によって現代的な経済
学的内容を付与された社会的市場経済( soziale Marktwirtschaft )
の原理が、経済政策の基調となっている。
社会的市場経済の概念は、
(1)フライブルク学派(新自由主義《Ne0- 0der Ordoliberalismus》
学派)および「ケインズ」学派
(2)自由主義的社会政治理論、
(3)ドイツ・カトリ?クの社会教義、
(4)地方自治の伝統
-73-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
の四つの主要な思想的根源を持つものであるといわれミ)必ずしも
統一的に定義された明確な概念ではなく、人により、時代により多少
異なった意味を与えられる、幅のある概念である。したがって、エア
-ルトとSPD、かれとシラーの間にはもちろん、シラーとSPDの
間にも、いくらかの見解の相異は認められよう。 しかし、エア-ル
トとシラーの見解を「社会的市場経済」という共通の言葉で一括する
ことができる.Z) その意味で、戦後西ドイツの経済政策は、少なく
とも1972年迄は、一貫して、社会的市場経済の原理を基調としてきた、
といえるのである。そのことが、しばしば「奇蹟的」といわれる戦後
の同国の急速な経済復興とその後の経済的繁栄の推進力となったのだ、
とv>われている。
社会的市場経済の名づけ親であるミュラー・アルマックによると、
社会的市場経済とは「市場における自由の原理を社会的な調整とむす
ぴつけ、自由主勘干渉主義とのあらたな綜合をめざすJ3)もめであ
る。かかる経済政策の下で、西ドイツの社会保障は、展開されてきた
のであり、その結果、戦後は再び轟団的自助を特質とする社会保険が
社会保障の中核的存在となり、また、社会保険では保険原則が重視さ
れることとなった。以下に検討する第一次年金改革や第二次年金改革
の中にも、社会的市場経済原理は、具体的な形で反映されている。
津1) Cf. GrahamHallett, The Social Economy of West Germany,
London and Basingstoke 1973, pp.17-24.
2) Cf. Hallett, op. cit., pp. 17-18.
3)大陽寺順一「西ドイツ-新自由主義下の社会保障改革」 r講座・社
会保障 第2巷 日本経済と社会保障』至誠堂,昭和35年、 263ペ
-ン′。
-74-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二銅盤期の財政問題
戦後急速な_経済復興を成し遂げ、 1950年代、 1960年代の好況期に、
経済の繁栄で底力をつけた西ドイツ経済は、 1960年代後半の不況期を
無事に乗り越えていった1956/57年の画期的な第一次年金改革から
丁度10年目の財政再計算期に不況とぶつかり、いくつかの調整策が実
施されたが、不況からの回復は意外に早かった。その影響が年金財政
の面にも現われ、 1969年、 70年に連続して1パーセント・ポイントづ
つの保険料率の引き上げを行なったこととあいまって、 1970年には再
び年金保険財政には、剰余金がではじめた。 1973年からは1パーセン
ト・ポイントの保険料率の引き上げが予定されていたので、放置する
と、剰余金はさらにふえることになる。これが重要な契機となり、第
二次年金改革が1972年に実施された。
この第二次年金改革は、 1972年秋の連邦議会選挙前に断行されたの
であるが、当時の予測では、剰余金は1986年には 2,000億マ/i:ク
(Deutsche Mark)にも達する筈であった04)これは年金保険支出e?ほ
ぼ12ヵ月の支出額に相当するものである1969年の第三次年金保険改
正法により、年金保険機関は少なくとも3カ月の支出額に相当する積立
金を保持すればよいことになったが、この予測額はそれを大きく上回
るものである。連邦議会は、この期待はされるが、まだ存在しない幻
の剰余金をあてに、 1972年の選挙前に、気前よく椀飯振舞をしてしま
am
しかし、皮肉なことに、その直後にオイル・ショックがおこり、経
済環境は大きく変った。ゼロ成長ないしマイナス成長が問題となり、
4) vgl. Hasso Harlen, Die zweite Sanierung der gesetzlichen
Rentenversicherung und die dritte Rentenreform ,
in : Versicherungswirtschaft, Heft 12, 1977, S. 788.
-75-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
従来のような社会生産の高成長は、もはやほとんど望めなくなり、低
成長経済ないし減速・安定経済が世界経済の基調となってきている。
世界経済の中にあって、経済大国の一つとしての地位を保持し、安
定した物価とバランスのとれた貿易の収支等にみられるように、他の
諸画に比べれば、はるかに健全で安定した経済運営を誇る西ドイツで
はあるか、オイル・ショック以後の世界的不況の影響は当然に同国に
も波及し、さまざまな間者が派生している。
社会保障の分野でも、経済環境の変化は、大きな影響を及ぼしてお
り、制度全体の再検討の必要が論議されるようになった。とりわけ、
年金保険部Plでは、現在の年金制度の大枠を決定づけた1957年の午金
改革が、生産性年金(Produktivitutsrente )ないし動的年金( dyr二
mische Rente )の導入にみられるように、成長経済を前提としてい
たのであるが、さらに前述の第二次年金改革が1972年に実施されたこ
ととあいまって、その将来の財政危機が問題となり、この二、三年来
活発な論議が行なわれるようになった。そのピークは、 1976年10月3
日の連邦議会選挙前後の時期であり、さらにSPD, FDP両党が連
立政権の政策協定を結ぶ際に、めまぐるしい動きを示した、第二次シ
ュミット内閣発足前後の同年12月であった、といえよう.
本稿では、西ドイツの社会保険としての年金保険制度を考察の主対
象として、貴近の就業構造の変化に簡単に触れたのち、西ドイツ年金
保険の構造と戦後の発展について概説し、第二次年金改革以後から19
76年12月迄の時期の年金保険の財政問題をめぐる論争の経過を検討し
てみたい。
2.就業構造の変化
1972年についてみると、西ドイツの全人口6,170万人のうちの2,650
-76-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間者
万人(男子1,720万人、女子930万人)が就業者であり、その比率で
ある就菓率(Erwerbsquote )は42.9%であったU5)当時の失業者
数は、現在の約五分の-の20万人であった。就業者の内訳は、産業部
門別には、
(1)農 林 業 190万人(そのうちの被用者数 30万人)
(2)製 造 業 1,280 ′/ ( ノダ 1,200 タグ)
(3)商業および交通業 490 〟 ( 〝 450 〝 )
(4)その他の部門 620ガト 〝 550 // )
となっており、車分比では、農林業ー7.4%、製造業49.6%、商業・交通業
19%、その他24%であった。農林業就業者数は、 1950年に比べると、
約半分に激減しており、引き続き減少する傾向にある。
就業者2,650万人のうち、自営業者(家族従業者を含む)は410万
人、被用者2,230万人となっており、前者は15.6%、後者は84.4%を
占めている。自営業者数は年々減少しており、 1950年で640万人、1960
年で590万人、 1970年で440万人であったが、 1977年には360万人に
減少するものと予測されている。したがって、それに対応して、被用
者数は年々増加している。その就業者聴数に占める割合は、 1950年
寧・5%、 1960年7ク.5%、 1970年83.4%と急上昇しており、 1977年には
86.3%に達するものと予想される。
被用者の内訳は、 1972年で官吏(Beamte ) 200万人、職鼻(Angestellte -主として事務職貞) 830万人、 労働者(Arbeiter )
1,210万人となっており、就業者全体に占める割合は、それぞれ7.4
5) Vgl. Bundesminister fur Arbeit und Sozialordnung , Ubersicht
liber die soziale Sicherung, 9.Aufl., Stand : Juni 1974, Bonn
1975, SS. 37-41.
-77-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
%、 31.3%、 45.7%で奉るo注目すべきことは、職員数が絶対的にも
(1960年580万人、 1970年780万人、 1977年予測で910万人)、相対的
にも(1960年で就業者総数の22.2%、 1970年29.2%、 1977年34.3%)
急速に増えているのに対し、労働者数は1960年の1,300万人(就業者
総数の49.5%)から、 1970年1,250万人(46.9%) 、 1977年予測で
1,180万人(44.5% と減少してきている、という点である。労働者
と職月の割合は、 1950年で1000 : 324であったのが、 1972年では1000
: 771と大きく変っており、この階層移動過程は、社会保障制度に永
続的な影響を及ぼしている。
農業以外の産業部門の就業者数に女性の占める割合は、 1971年では
約36%となっておノり、労働者全体の28%、職員の49%が女性であった。
既婚者で就業′している女性の数は、年々増加している。
^蝣^^^^^^^^Iff l^l眉制度
311 年会保険の種類
第二次大戦後、東ドイツが社会保険を一本の制度に統合したのに対
し、西ドイツでは、伝統的な多元方式の社会保険が現在迄受け継がれ
てきている。したがって、現行の法定年金保険制度も多元的制度構成
をとっており、各制度の改革の積み重ねと新制度の創設によって形成
されてきたものである。老齢・廃疾・遺族保障のための制度としては、
現在以下の各制度があげられる。
(1)労働者年金保険(Rentenversicherung der Arbeiter )、
(2)職員年金保険( Rentenversicherung der Angestellten )
(3)鉱業従業員年金保険( knappschaftliche Rentenversicherung)、
(4)手工業者年金保険( Rentenversicherung der Handwerker ) 、
-78-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間罵
(5)農民老齢保障(Alterssicherung fur Landwirte )<
(1ト(3)は、主として被用者グループを対象とする年金保険であり、
(4) -(5)は、自営業者のための制度である。その他の自営業者ならび
に自由業者については、医師、薬剤師、弁護士等職業別に、州段階で
年金保険が設置されている場合がある60)これらの他に、主要な制度と
して、公務員保障(Versorgung der Beamten )がある07)
(1)の労働者年金保険は、 1889年成立、 1891年実施の「廃疾および老齢
保険に関する法律」 ( Gesetz betreffend die Invaliditats-und
Altersversicherung)により、社会保険としての世界最初の法定年
金保険( gesetzliche Rentenversicherung )として施行されてから
存続する、最も古い制度である。ただし、 1934年の「社会保険構成法」
Gesetz iiber den Aufbau der Sozialversicherung )により、
現在の「労働者年金保険」とよばれるようになったもので、それ以前
は、単に廃疾保険Invalidenversicherung )として法律には規定
されていた。
(2)の職員年金保険(または単に職員保険ともよばれる)は、 1899年
改正の「廃疾保険法」 ( Invalidenversicherungsgesetz )により、
職員の一部も強制適用被保険者となっていたものを、 1911年制定の
「職員のための保険法」 Versicherungsgesetz fur Angestellte )
により別制度として設けられて以来、独立の制度として存続している
ものである。
また、 (3)の鉱業従業月年金保険は、第一次大戦後のインフレーショ
ン終娘を契機に、年金保険制度の再建整備がはかられた際、かねてか
6) Vgl. dazu Ubersicht iiber die soziale Sicherung, 9.Aufl.,
S S. 117-124.
7) Vgl. dazu ditto, SS. 125-131.
9」S
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間蔦
ら鉱業労働者労働組合等から強い要求のあった、鉱業労働者のみを対
象とする独立の制度で、疾嫡・老齢・廃疾のための総会的社会保険制
度が1923年「ドイツ帝国鉱業従業員共済組合法」 ( Reichsknapp.schaftsgesetz )により実施されたことにはじまる。同年に、前述の
「職員のための腺険法」が、条文整理を加えられて、 「職貞保険法」
(Angestelltenversicherun申gesetz )として制定公布されたこと
とあいまって、この時期に、現在の年金制度の中核をなす被用者のた
めの三制度の確立がはかられ、労働者は労働者年金保険(準拠法:ド
イツ帝国保険条例《Reichsversicherungsordnung 》 第4絹) 、職
員は職員年金保険(同・.職員保険法) 、鉱業従業員は鉱業従業員年金
保険(同.・鉱業従業男共済組合法)により保障される、という年金制
度3本建の原則が立てられ、今日に至っている。
(4)の手工業者年金保険は、従来「ドイツ手工業老齢保障法」 (Gesetz廿ber die Altersversorgung fiir das Deutsche Handwerk )
により実施されていたものが、 1960年制定の 「手工業者保険法」
( Handwerkerversicherungsg鴨etz )により、労働者年金保険の中の特
殊な義務保険として、 1962年より労働者年金保険に包括されるように
なって、再発足したことにはじまる。
(5)の農民老齢保障は、 1957年制定の「農民老齢扶助法」 (Gesetz
uber die Altershilfe f玩r Landwirte )に基づき実施されたもの
で、同法は、農民の老齢時の生活保障という社会政策的目的と農業経
営合理化・後継者維持という農業政策的目的とをあわせもつものであ
る。他の年金保険制度と異なり、この制度は、均一拠出・均一給付で
あり、年金のみで一定の生活保障を行なうことを目的としていないた
め、 「保険」 (Versicherung )の名称を用いていないが、その実感
は、他の年金保険制度と多くの共通点を有し、したがっーて、農業年金
-80-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
保険( landwirtschaftliche Rentenversicherung )ともよばれて
いる。8)
3 -2 年会保険の被保検者と年金受給者
1975年についてみると、就業者約2,650万人のうち、労働者および
職員が2,040万人、公務員・210万人、自営業者370万人となっている.9)
したがって、就業者全体の四分の三以上の人々が、労働者年金保険か
職員年金保険(両保険部門の被保険者数については後掲第3表を参照
されたい)、ないしは少数ではあるが、鉱業従業員年金保険の強制加入
被保険者となっているo また、就業者総数の約14%にあたる自営業者
のうち、その約半数は、強制加入被保険者として、手工業者年金保険、
農業年金保険またはその他の自由業老齢保障制度に加入している。輯
制加入義務のない、残り50%の自営業者の多くは、 1972年の第二次年
金改革により、法定年金保険へ任意に加入する道が蘭かれたので、そ
れを利用している。
上述の5種類の法定年金保険の給付が社会保障給付費全体に占める
割合は、第1表にみられるごとく、 1965年から1975年迄の貴近i_0年間
では、 30%前後を占め、横ばいの状態にあるが、年金保険給付額は、
この間に317億マルクから1,033億マルクと、 3倍以上にも増えてい
る。この急増の有力な原因の一つは、この10年間における既裁定年金
件数の増大である。すなわち、法定年金保険受給者総数は、第2表か
ら明らかなごとく、約900万人から、約1,200万人と 300万人も増加
8) Vgl. hersicht iiber die s。ziale Sicherung, 9. Aufl., S.110.
9) Vgl. Wirtschaft und Statistik 1976, H.4,S. 234.就業構
造については、本稿第2節で言及しておいた。
-81-
第1表 年会保険給付額とその社会保障給付責全体に占めも割合
保 険部 門.
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1万マ′
け
% 百万刊 ク
1971
1972
1973
1974
197 5
顔
(ili-?ルナ
%
百万マルク %
百TlT 'l' %
百万マル
%
%
了所 ルク
%
ll
% 了
Tfr ?'レク
%
W r? >レク
%
印テマ′
レク
%
1*
功
労働者年金
17,798
15 .8
19,712
5 .8
22,328 16.7
24 ,525
7 .3 27,278 17 .8 30 ,084
17.2
33 ,295 16.8 38 ,759 17 .8
44 ,530 17.6
51,738 18.0
59 ,018 17 .6
.7才
.ゝ、
牒険
ヾ
-ft
磯貝年金保険
9,4 12
8 .4
10,520
8 .4
鉱業従業員
年金保険
3 ,955
3 .5
4 ,378
3 .5
ll,925 8 .9
4,842
3.6
13 ,0 19
9.2
14,525
9 .5
16 ,107
9.2
17 ,777
8 .9
20,790
9 .3
23 ,907
9.5
28 ,378
9,9
32 ,802
9.8
5 ,268
3 .7
5 ,680
3 .7
5,971
3.4
6 ,402
3 .2
7 ,111
3 .2
7 ,761
3.1
1,662
3.0
3 ,544
2,9
妙
蘇
*
Sl
細
密
rY
農民老齢扶助
4紳
0 .4
658
0 .5
701 0 .5
723
0.5
836
0 .5
909
0、
5
967
0 .5
1,108
0 .5
1 ,468 0 .6
1,658 0 .6
1 ,935
0 .6
*
1
年金保冷合計 31,653 28 .1
35,263
8′
3 39 ,796
g<8
43,㍊5
0′7 48,3 19 31 .5 53 ,071
30.4
58 ,441 29 .4 67 ,768 30 .3
77 ,666 30 .7
90 ,436 31.4
103 ,299 30 .9
3
横
道
a)
tvj
社会保障給付 112,879
秤 合
計
100
124,551 100 133 ,376
100
141,8 13 100 153 ,587 100
74 ,736
100
198 ,786 100 223,960
サ
100
262,634 100 288 ,069
(出所) Institut Finanzen und Steuern ", Zur Lage der Rentenversicherung, Bonn 1976, S. 7.
00 ㍊ 1,732
100
亘呂
m
第2表 既裁定年金件数
(単位:千件)
保 険 部 門
労 働 者 年 金 保 険 1)
職 員 年 金保 険 1)
1965
19 6 6
1967
1 9 68
19 6 9
19 7 0
19 7 1
1 97 2
19 7 3
19 7 4
19 7 5
5 ,8 0 2
5 ,95 1
6 , 13 6
6 ,3 6 5
6 ,54 0
6 ,7 3 7
6 ,92 2
7 ,0 9 3
7 ,3 2 7
7 ,59 4
7 ,7 4 0
2 ,17 3
2 ,2 6 1
2 ,3 6 1
2 ,4 6 2
2 ,6 0 0
2 ,7 4 3
2 ,8 79
a
S
璃
`TJ
上.
ヾ
蝣91
1 ,8 8 0
1 ,9 4 9
2 ,00 9
2 ,09 6
209
202
203
206
19 6
185
17 5
16 7
15 1
14 1
181
718
732
718
722
728
7 37
742
724
726
730
731
罪
3
細
遜
3ー
470
潔
紗
an
手 工 業 者年 金保 険 り
鉱 業 従 業 員年金 保 遥)
農 民 老 齢扶 助
384
4 14
437
445
451
4 56
459
46 1
467
3)
岳:, 4 70
約
lヽ・
IL
合
計
8 ,9 9 3
9 ,24 8
9 ,50 3
9 ,8 3 4
1 0 ,0 8 8
1 0 ,3 7 6
10 ,65 9
10 ,90 7
l l ,27 1
(注) 1.年金件数は1972年迄は各年度の1月現在、 197S年以降は各年度の7月現在のものである。
2.年金件数は前年12月末現在のものである。
^Hii田T
(出所) Institut,, Finanzen und Steuern " , a.a.0.,S. 10.
l l ,6 78
l l ,9 5 1
fe
牌
盗
3
Si
サ
召
IS
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
している。年金受給者急増の理由としては、主として
(1)受給開始年齢である満65歳に達して、老齢年金を受給する人達
が増加したこと、
(2)後述する第二次年金改革による老齢年金受給開始年齢の弾力化
の導入.
(3)鹿業不能年金( Erwerbsunfahigkeitsrente ) の増大
があげられる1972年の年金改革によって導入された(2)の措置による
申込件数は、 1975年で約42万件であり、 1973年、 1974年の増加率が前
年度迄より高いのは、この(2)の措置に起因するものと考えられる。
3-3 年金の山」
年金保険の将来が、老齢者数ないし年金受給者数の増減に大きく左
右されることは当然である。被保険者数は、出生率、就業率等によっ
て規定されるが、その時々の被保険者数と年金受給者数の割合がどの
様に変化するかは、年金保険財政に大きな影響を与える。第3表は、
この点を労働者年金保険と職員年金保険について明らかにしているが、
1958年には、この両保険を合計してみると、年金受給者の対被保険者
比率(負担率)は34.7%となっており、被保険者3人に対し、年金受
給者1人の割合であった。その後、年金受給者の割合は年々増加して
おり、そのことは、相対的に保険料収入は減少するのに、年金支給件
10)これは、被保険者が疾病または身体的精神的障害等により、無期限
に所得活動を規則的に行なうことがほとんどできなくなり、または
所得活動によってきわめてわずかの収入しかあげられなくなった場
合に支給される年金であり、これに対し、職務不能年金 Berufsun一
括higkeitsrente は、同様な理由により、被保険者の所得能力が、
教育・能力等被保険者と似た条件の身体的肉体的に健康な者の半分
以下になった場合に支給されるものである。
-84-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二詞盤期の財政開場
第3表 労働者年金保険および職員年金保険における
年金受給者と被保険者の都合
(単位:千人、 %)
労 働 者 年金 保 険
年 度
被保険
年金受
者数
給者数
(A )
B / A
(B )
職 月 年 金 保 険
被保 険
年 金受
者教
給者数
(A )
B / A
会
被保 険
年金受
# サ
給者数
(A )
(B )
計
B / A
(B )
19 58
16 ,6 16
5,3 34
3 4 .7
196 0
17 ,52 2
6 ,5 55
3 7 .4
196 5
1 8 ,46 9
7 ,569
4 1 .0
197 0
12 ー09 6
6,7 37
55 .7
7 ,1 18
2 ,26 1
3 1 .7
19 ,2 14
8 ,9 98
46 .8
197 3
12 ,16 2
7,3 28
60 .3
8 ,44 5
2 ,75 1
3 2 .6
2 0 ,60 7
10 ,0 79
4 8 .9
l
s
1 1 57 4
6 9 51
60 .1
7 ,49 6
2 ,4 57
3 2 .7
19 ,07 0
9 .4 07
4 9 .3
6 ,9 22
60 .1
8 , 07 4
2 ,6 16
3 2 .4
1 9 ,58 8
9 .5 38
4 8 .7
1
1 98 5
l l,5 14
l l,45 7
6 ,6 22
57 .8
8 67 1
2 ,6 5 9
3 0 .7
2 0 ,12 8
9 ,2 8 1
4 6 .1
w
198
(注) 1.予測値。
(出所) Der Bundesminister fur Arbeit und Sozialordnung , Ubersicht葡ber die
soziale Sicherung , 9. Auflage , Bonn 1975, S. 51.
数、支給額は相対的にも絶対的にも増加してゆくことを意味しており、
年金財政からみれば、悪化がみられた1973年では、この比率は48.9
%に上昇しており、ほぼ2人の被保険者が1人の年金受給者を扶養す
ll) 日本では、厚生省人口問題研究所r日本の将来人口新推計J昭和
51年11月、の中位推計値によると、 1975年で純生産年齢人口と老齢人
口(65歳以上)の比率は6.6 : 1であるが、 50年後の2025年には、
これが2.7: 1に変り、人口の老齢化が進むと予測されている。ま
た市川洋「年金財政の予測モデル」 r季刊現代経済J第19号、 1975
年秋季号、 145ページ、によると、 1975年では、被保険者と年金受給
者の割合は厚生年金保険で15.4 : 1 、国民年金で17.5 : 1であった
が、 30年後の2005年には._ 厚生年金保険で2.1 : 1、国民年金で
2.9 : 1になると予測されてい_る。
-85-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間額
る形になっている?)
1975年までは年金受給者の割令は増え続け、1975年から1980年にかけ
て、いわゆる「年金の山」 (Rentenberg )となり、 1980年以後は再
び減少するものと予測されている。この推移を図示したのが、第1図
raxa
この図および第3表から、労働者年金保険における年金受給者の対
被保険者比率は、職月年金保険の場合よりも約2倍も高く、前者が被
保険者10人で約6人の年金受給者を扶養しているのに対し、後者は被
保険者10人で約3人の年金受給者の年金を負担している割合になって
いる(ただし、第4節第3項で後述するように、 1969年の第3次年金
改正法により、両保険部Plは財政調整を行なうことになっており、た
とえば1974年には、労働者年金保険の財政不足を補嘱するために、職
員年金保険より21.5億マルクが労働者年金保険に支払われている)。こ
のような負担率の差異は、第2節でみたような、戦後の就業構造の変
動から生じたものと考えられる。
年金の山が1970年代後半に訪れることには、過去二回にわたる世界
大戦の影響、第二次大戦後の平均寿命の延長と出生率の低下、その他
の諸原因が考えられる。とりわけ、両大戦における男子死亡数の増加、
両大戦中および1930年前後の経済危機における出生数不足、さらに戦
後の出生率の急激な減少が、この70年代後半にピークの訪れる主要な原
因となっている。 70年代も、ピルの普及等により、引き続き出生率は
低下しているが、予測によると、この出生率低下によって、 1975-80
年の年金の山ほどの大きな財政的負担が年金保険に発生することは、
2000年迄はないといわれている。
第1図によれば、労働者、職月の両年金保険では、 1975年から1979
年迄、年金受給者の被保険者に占める割合が49%台をこえて、年金の
-86-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
第1図 「年金の山」
労働者年金保険および職員年金保険にお
ける被保険者100人に対する年金受給者
の人数(負担率)
負担率紬
; 〟" ■■
■m ;
r
労働者年金保険
60
3=:
56
′
W
54
52
50
l」 !
m
r^fl
46
IK l
12 1
働者および職員年金 莱険
m
rr. i
42
rr>.
38
36
34
32
30
2 1
′
J
磯貝年金保険
「「
0
1968697071 72737475 7677 78798081 82838485 年度
(出所)
Ubersicht uber die soziale Sicherung, 9.Aufl., S. 50.
-87-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
山のピークにあり、 1980年にはほぼ1973年の水準に戻り、 1984年で
1970年の46%合となる予定である・。したがって、年金の山とそれに
続く数年をいかに乗り抱えるか、この点からも、経済環境の変化とあ
わせて、西ドイツの年金保険制度は、現在試練期にあるといえよう。
3-4 年会保換給付と公費貴捜
1968年以来ほぼ毎年連邦労働・社会秩序省( Bundes町Imsterium
fir Arbeit und Sozialordnung )から出されているr社会報告J
( Sozialbericht )によれば、社会保障給付費の社会稔生産に占める割
合、すなわち、社会給付率( Sozialleistungsquote )ないし社会保
障給付率はこの数年来著しく上昇している1965年で24.5%そあった
ものが、 1974年には28.9%に上昇し、さらに1975年には、社会総生産
は景気停滞のために名目でわずか4.5%しか増加しなかったのに対し、
社会保障給付費は15.6%も伸びたために、社会保障給付率は32.-3%
にはね上がった12)すなわち、ノ1975年度では、社会稔生産の約三分
の一が、社会予算の対象となる社会保障、社会扶助、各種援護等の社
会保障給付のために充当されていることになる。
その社会保障給付の中で、最大の比重を占めているのが、年金保険部門
である.第1表によれば、法定年金保険の稔給付額は、社会保障給付
全体の約三分の一に相当する30%前後を占めている。年金保険給付が
社会保障給付全体に占める割合は、景近の10年間は28ないし32%で、
ほl剖黄ばいの状態にあるが、年金給付額は、 1965年め約317億マルク
堤) Vgl. Der Bundesminister fむArbeit und Sozialordnung,
Sojzialbericht 1976, Bonn 1976, SS.92-93.
-88-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
から1975年の1,033億マルクと、この間に3倍以上にも増加している。
各法定年金保険の社会保障給付全体に占める比重もこの10年あまり
変っていないが、 1975年では、労働者年金保険は約18%で、 10年前よ
りも約2パーセント・ポイント、職月年金保険は約10%で、約1.5パ
ーセント・ポイント増加している。
労働者年金保険の法定年金保険全体に占める割合は、この10年で56
勉から57%へ、同じく職員年金保険では30%から32%へと上昇し、し
たがって、この二つの年金保険の占率は、会計して86%から89%へと
3パーセント・ポイント上昇している。これらの数字から、この両年
金保険制度が、被保険者数ではもちろん、給付面でも西ドイツ年金保
障の、また西ドイツ社会保障体系の中核的存在となっていることがわ
かる。
西ドイツの年金保険制皮は、労使で折半負担される保険料を主たる
財源として運営され、原則として公費負担は行なわないことになって
いる。しかし、実際には、連邦、州、市町村レベルの政府補助金が投
入されており、なかでも大量の連邦政府補助金が支出されている13)
第4表によれば、政府補助金は金額的には1965年の89億マルクから、
1975年の205億マルクと2倍以上に増えているが、年金保険財政に政
府補助金の占める割合は、逆に1965年の28%から、 1975年の20%と明
らかに低下している。
公費負担の割合は、年金制度ごとに非常に異なっている。農民老齢
保障では、年金給付の約五分の四が、鉱業従業月年金保険では半分以
上が、政府補助金によってまかなわれてきた。これに対し、労働者年
金保険では、年金給付の五分の-以下が、さらに職月年金保障では割
13) Vgl. dazu Sozialbericht 1976, S.S 244-248.
-89-
」*I^L^KrJ^^^^Km 3悶旧ij腰at * &・*ォ. t * <*>*&*&#腰間ESJ呂
保険 部 門
1965
1966
ルク
%
f Tn -'t '
19 6 7
%
1 9 68
官庁マルク
19 6 9
1970
%
%
百万?ルク
%
百万マルク
労働 者年金 保険
4,982
28.0
5 ,352
27.2
5 ,633
5.2
6,073
24 .8
6 ,252
22 .9
6 ,390
21.2
職 員年金保 険
1,224
13.0
1 ,360
12.9
1,378
ll.6
834
6.4
878
6 .0
916
5.7
鉱 業従 業 月年 金 保険
2,疎
59.0
2 ,68 1
61.3
3 ,114
64 .3
3 ,187
60 .5
3 ,297
3 ,411
57.1
58 .
n ?
1971
%
耶 わルク
19 7 2
%
19 7 3
%
ルク
1,015
20 .7
8 ,905
20.0
9,948
19 .2
10 ,966 18 .6
1 ,085
6.1
1,879
9 .0
2,093
8.8
2,364
8 .3
3,649 57.0
4.125
58 .0
4 ,384
56.5
4 ,865
56 .2
5 ,38 6 56 .4
・
2.9
832
75Ⅰ1
1,147
78 .
1,304
78.7
1 ,526 78.9
ルク
%
1975
6ー
762 20.3
ルタ
%
1 97 4
ルク
2 ,575
%
7 .9
1
農民老齢扶 助
363
74.4
493
74 .9
馳1
71.5
525
72 .6
622
74 .4
645
71.0
年金保 険合 計
1,925
28.2
9,886
28 .0
10 ,626
26 .7
10,619
24.2
ll ,049
22.9
ll,362
2 1.4
12,201 20 .9
14 ,851
21.9
16 ,529
21.
18 ,481
20.4
20,453 19.8
48 ,718
43.2
53 ,641
43.0
56 ,073
42 .0
57,㌘ 8
40.4
59 ,3 14
38 .6
64,870
37.1
72,761 36 .6
80 ,854
36.1
87 ,253
34 .
96 ,942
3 3.7
121,01
全社会保 障給 付
費への 公費 負担
(出所) Institut,, Finanzen und Steuern , a.a.0., S. 8.
705
36 .2
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財画窟
合がさがって十分の-以下が政府補助金によってまかなわれている。
この点で、同じく年金保険といっても、労働者・職月の両年金保険と
鉱業従業員年金保険、そして農民老齢保障では、重大な本質的相違が
存在するといってよい。
このような公費負担割合の相違は、次の点から生じる。すなわち、
農民老齢保障および鉱業従業月年金保険では、それぞれの根拠法に、
毎年の総費用が保険料および利子収入を上回る場合は.、その不足額を
政府が補填するように規定されているのに対`し、労働者および職員午
金保険では、収支不足が生じる場合の政府保証は規定されているが、
それが毎年の定期的支弁として予想されていない、ということである0
換言すれば、前二者では、公費負担(そのほとんど全額が国庫負担、
すなわち連邦政府の負担である)の導入が、農業あるいは鉱業といっ
た特殊な産業部Flに対する産業政策上ないし産業構造政策上の理由に
より、当初から公認され、予定されているのに対し、後二者では、原
則として公費負担は行なわず、労使の負担する保険料によって財源を
確保する建て前になっている、ということであろう。したがって、後
述するよう′に、財政問題が論議されるのは、もっぱら労働者および職
月年金保険においてである。
3 - 5 年金保験の運営機関
年金保険の運営格闘(以下、保険者《Versieherungstr云ger 》と
よぶ)を監督する行政機関は、連邦労働・社会秩序省と各州の労働省
(Arbeitsbeh石rde des Landes )であり、保険者が二州以上にわ
たって活動する場合は連邦が、保険者が-州内で活動する場合は当該
州が監督することになる。
(1)労働者年金保険の保険者は、おおむね各州の地域を単位に設置さ
-91-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
れている18の州保険事務所( Landesversicherungsanstalt ) 、連邦
鉄道保険事務所( Bundesbahn^Versicherungsanstalt )および船
月金庫(Seekasse )の20保険者である。
(2)職具年金保険の保険者は、連邦職月保険事務所( Bundesversicherungsanstalt 行r Angestellte )である。ただし、船具である職
月は、職月年金保険を通用されるが、船具金庫に所喝する。
(3)鉱業従業月年金保険の保険者は、疾病保険も担当する連邦鉱業従
業月共済組合(Bundesknappschaft )である。
(4)手工業者年金保険は、労働者年金保険の保険者によって管理運営
されている。
これら(1ト(4)の保険者はドイツ年金保険者連合会(Verband deutscher Rentenversicherungstrager )と称する団体を結成してお
り、同連会会はrドイツ年金保険j ( Deutsche Rentenversicherung)
という機関誌を隔月に出版し、法定年金保険に関する各種論文の掲載
を通じて、年金問題の分析あるいは啓蒙に資している。
(5)農業年金保険の保険者は、地域別に設置された19の農業老齢金庫
( landwirtschaftliche Alterskasse )であって、 農業同業組合
( landwirtschaftliche Berufsgenossenschaft )に付設されるO こ
れらの金庫は農業老齢金庫総連合会( Gesamtverband der. landwirtschaftlichen Alterskasse )を姐織して、国庫負担の配分、金庫
間の財政調整等、共通の仕事を担当しているo
年金保険の保険者はすべて公法人であり、政府の監督下にある。ま
た、各保険者とも、自治団体( Selbstverwaltungskorperschaft')で
ある。自主管理のための機関として、各保険者は、理事会( Vorstand )と代議月会( Vertreteivefsammlung)を設置_Lている。理事会
は代議月会により、代議月は六年ごとの選挙により選出母体から、そ
-921
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
れぞれ選ばれる。
この両機関は、労働者および職員年金保険では、被保険者および
使用者の代表が同数選出されて構成されているが、鉱業従業員年金
保険の場合には、被保険者代表三分の二、使用者代表三分の一で構
成されている。農業年金保険では、理事会・代議員会の機関は、農
業同業組合の機関によって兼務され、被保険者代表は参加せず、理
事会は代議員会により選出された4一人の理事によって構成されてい】
る。
4.戦後における年金保険の展開
西ドイツ年金保険の戦後の歴史を振り返ってみると、改革期と調
整期とが、交互に繰り返されているのが、特徴的である。すなわち、
まず1945年の敗戦から1950年代前半までの約10年は、戦後処理と制
度の再建、さらに戦後の変化した経済・社会状態への調整の時期で
あっfc. 1956年からの約10年は、 1956/57年の年金改革とその実施
の時期であり、 1966年からの約5年は、 1966/67年の不況期に起因
する1956/57年の年金改革の調整期であった。また1972年からの約
5年は、第二次年金改革とその実施の時期であった。そして、終戦
直後の調整期を特味な時期として除いて、 1966/67年から1972年迄
の時期を第一調整期とよぶとすれば、 1976年12月第二次シュミット
内閣発足後の現在は第二調整期ないし第二試練期といえよう。この
第二試練期を乗り趨えて、大幅な改革がもしも将来行なわれるとす
れば、それは1957年と1972年に次ぐ第三次年金改革とよぶことがで
きるであろう。以下、簡単に戦後30年の年金保険の歴史を振り返っ
てみる。
-98-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間塔
4-1戦後再建期
第二次大戦直後の西ドイツは、米英仏の分割占領を受けたが、各軍
政部は社会保険の存続を認めた。しかし、その方針が占領地区によっ
て異なっていたために、社会保険制度の地域的な不統一が顕著になっ
てきた1948年に英米占領地区に経済評議会が設置され、西ドイツ側
に統一立法権が付与されるとともに、年金保険制度の統一的改善が実
施されていった1949年5月に西ドイツ憲法ともいうべきドイツ連邦
共和国基本法が公布されたが、その翌月には、米英仏占領地区統合経
済評議会により「社会保険調整法」(Sozialversicherungs-Anpassungsgesetz)が制意され、労働者および職具年金保険について、
新しい賃金水準や物価水準に調整するために年金給付を引き上げるこ
と、東低保障額の引き上げ、廃疾基準の統一等が行なわれ、鉱業従業
月年金保険についても、別の法律で同様の改正措置が講じられた。そ
の後はほとんど毎年、年金給付の改善と受給資格の緩和がはかられ、
戦後の変化せる経済・社会状態に年金保険を調整する対策があいつい
でとられた。たとえば、1951年8月には労働者、職員、鉱業従業員の
各年金保険の給付頻を平均25%引き上げること等を規定した「年金加
給法」(Rentenzulagengesetz)が制定されているO
また、年金保険その他の社会保険の当事者による自主管理権を復活
させる「社会保険の領域における自治の復活およびその他の改正に関
する法律14)
j(Gesetz云berdieWiederherstellungderSelbst-
14) 簡単に社会保険自治復活法とよばれる1934年にナチス政権下で発
布された「社会保険構成法」 (Gesetz恥er den Aufbau der S。zialversicherung )により、社会保険の創設以来認められてきた社会保
険自治が否定された。
-94-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間屠
verwaltung und iiber Anderungen von Vorschriften auf dem
Gebiete der Sozialversicherung )が1951年2月に、さらに、社
会保険、失業保険、戦争犠牲者援護等に関して行なわれる訴訟事件を
専門に取り扱う独立の行政裁判所の設置を規定した「社会裁判所法」
Sozialgerichtegesetz )が、 1953年3月に公布されている。
4-2 第一次年金改革期
1948年に通貨改革を断行し、社会的市場経済のもと、西ドイツは負
速に経済復興を成し遂げた。それに伴い、就業者の所得および生活水
準は著しく向上していった。しかし、年金受給者の生活は、戦後あい
ついで実施された年金給付の引き上げにもかかわらず、きわめて低い
ものであった。古い歴史をもつ西ドイツ年金保険では、すでに多数の
年金受給者が存在しており、 1955年では捻世帯数1,610万に対し、何ら
かの年金受給世帯は765万、年金に完全に依存する世帯はそのうちの
293万といわれていた。こうした多数の受給者層の相対的窮乏化は、
社会的に放置しえない間堪となってきた15)また、人口構成の老齢化
は今後さらに進むものと予想されていたo さらに、年金保険の資産の
相当部分は、国公債に投資されていたため、敗戦によって莫大な損害
をこうむっていた。こうした理由から、一時的改善策ではなく、恒久
的抜本的な年金改革(Rentenreform )が必要となっていた。
連邦政府は、 1952年連邦労働省に社会保障改革( Sozialreform )
のための諮問委員会を設け、同委員会は主として年金保険に重点をお
いて審議を行なった1955年には、アデナウアー首相の主宰する社会
15) 厚生省年金局企画課r主要各国の年金制度J昭和38年、 112-113
ページを参照のこと。
-95-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
保障閣僚会議が設置され、前記諮Pl委只会もこの閣僚会議を補佐して、
改革案の調査、企画を行なった。翌1956年2月に閣僚会議は改革案の
大綱を決定したが、それは社会保障全体を含む改革ではなく、まず年
金改革から着手するというものであった。
1956年4月野党のS P Dより年金保険改正法案が連邦譲合に提出さ
れたので、政府側も急速翌5月に改正案を提出した。法案の審議が難
行したため、翌年に成立が持ち逸され、 1957年2月に労働者年金保険
改正法( ArbeiterrentenversicherungsTNeuregelungsgesetz )お
よび職月年金保険改正法が成立し、同年1月1日にさかのぼって通用
された。また、 1957年5月には、鉱業従業員年金保険改正法が公布さ
れ、同年7月には、農民老齢扶助法(Gesetzもber eine Altershilfe far Landwirte )が新たに制定されて、戦後はじめての抜本
的な年金保険改革は、実施に移されることとなった。以下では、年金
制皮の中核となっている労働者年金保険および職具年金保険を中心に、
年金保険改革の概要を述べる。
改革の趣旨は、新たに導入された年金額の計算方式に具体化されて
いる。新計算方式は、
R-PXBxJ X St
で示され、四つの要素から構成されている。 Rは年金の年額(マルク・).
pは個人的年金算定基礎、 Bは-般算定基礎、 Jは算入可邸な被虎険
者期間の年数、 Stは年数加貨車である。
改革の第一点は、伝統的な年金基本額を廃止して、貴低保障を考慮
せずに、賃金と拠出期間に比例して年金額を決定する方式をとったこ
とである。改正前の年金給付額は、定額制の基本額と払込保険料に応
じで定まる報酬比例部分とからなっていたO改正法では、新計算方式
にみられるように、基本額が皇く廃止されており、あくまでも、個々
-96-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
の年金受給者の過去の労働給付と生産性に応じて、年金額が算定され
ることになった。
Pは、年金受給者個人が被保険者として拠出してい.る期間(保険料
納付期間)の各年の賃金年額と、同期間における被保険者全体の各年
の平均賃金年額との比率(パーセント)を計算し、それらの平均値を
とった比率である16)これは、年金受給者の全生涯にわたる生産性を
示す指数であるといわれ、退職後も、年金受給者はその過去における
労働給付と生産性に比例して年金を受け取ることとなるoこうした意
味で、新しい年金は生産性年金(Produktivit迂tsrente)ともよばれ
るが、この点が第二に認められる改革のポイントであり、それは、
「労働の能率と生産性への刺激、生活保障のための各個人の競争原理、
などを指導原理とする社会的市場経済の労働力政策の反映である17)
J
といわれている。
改革の第三の主眼点はBと関連する。Bは保険事故発生の前々年か
らさかのぼって、3年間(毎年年央)の全被保険者の平均賃金で、そ
の額は毎年連邦政府によって決定される。たとえば、1974年度のBは、
1970、1971、1972年の年央を基準として1973年中に決定されることに
なる。1970年の13,343マルク、1971年の14,931マルク、1972年の
16,335マルクという数字から、1974年のBは14,870マルクであった。
このBにより、年金は、実質的価値をもった現在の賃金水準と連結さ
れることとなり、生産活動から離脱した年金受給者層が経済成長から
16) P=- - J (JL+t+-:;:ア酎 嘱されるOただし,
n
nは保険料納付期間であり、 Inはそのn年度の当該被保険者の賃金
年額、 L"はn年度の被保険者全体の平均賃金年額である。
17) 大陽寺・前掲論文、 270ページ。
-97-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間窟
取り残されて、就労者との所得格差が拡大することがこれにより防
止され、年金の実賓価値が確保されることとなる。したがって、
1年金は今や貸金機能の代替的な役割をもつこと」となり、 「年金
問題は一般的な賃金政策と購買力附与政策の一環として、経済政策
的な舞台に登場することになったlej
それゆえ、改革の第三点としては、年金が貸金水準とリンクして
変動する動的年金( dynamische Re'hte )となり、経済発展に対応
した年金が確保されるようになったことがあげられる。しかし、一
般算定基礎の増額は新規裁定の年金には,自動的に通用されるが、そ
れが法制上ただちに既裁定年金に適用されて、自動的に年金額が改
訂されることになっていない点は注意すべきである。すなわち、 S
PDの提案した、賃金変動に対する年金の自動的調奮( alljahrliche au'tomatische Anpassung )方式車は、通貨の安定性、資本
形成等に悪影響を与えることを考慮して、新年金法では、賃金以外
の経済力と生産性の発展、被保険者以外のものを含む全就業者-人
当りの国民所得の変動等を総合的に考慮して年金額を調整する、い
わゆる「同調的調整」 ( synchronisierte Anpassung )方式がと
られていることである。連邦政府は、国会に対して毎年9月末まで
に、被保険者代表4人、使用者代表4人、社会学・経済学界代表3
人、ドイツ連邦銀行代表1人の会計12人で構成され、連邦労働・社
会秩序省に設置され.串社会保障審議会( Sozialbeirat )が毎
年具体的判定を下して'作成す右勧告を嘆録した年金調撃報告
( Rentenanpassungsbericht)を社会報告-(岳ozialbericht )とともに
提出し、同審議会の勧告に基づき年金額調整のためにとるべき措置
18) 大隠寺・前掲論文、 270ページ。
-98-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
を提案することを義務ずけられている。すなわち、年金の調整は、
法律(年金調整法《Rentenanpassungsgesetz′ 》 )によって実施
されるが、第2区=こ示すとおり、 195畠年に一度年金の調整を見送っ
たのちの1959年1月以降は毎年、既裁定のすべての年金について、
賃金の増加に対応した年金額の調整が完全実施されている19)
改革の第四点は、年金支給条件を緩和し、給付の額と種類をふや
すことによって、包括的保障を布なうことであった。 j-の算入可能
な被保険者期間にね、保険料納付期間(Beitragszeiten )のほか
に、代替期間(Ersatzzeiten )や脱落期間(Ausfallzeiten ) 、
加算期間(Zurechnungszeiten )も含められることになって、戦
争や失業、職業訓練、修学、育児、早期廃疾等のため、従来は受給
資格期間を満たしえなかった者も支給を受けられることとなり、支
給額にも反映されるごととなった。 Stの年数加算率は、保険事故
ごとに異なる年数の加算率であって、職務不能年金の場合は1 %、
就業不能年金または老齢年金の場合は1.5%である。また廃疾につ
いては、年金支給を第一とせずに、所得能力の維持・改善・復帰の
措置を重視し、通常給付としている点が重視される。すなわち、
障害を受けた者に対するリ-ビリテ-ションのための諸給付を年金
保険の新たな保障形式に加えることにより、包括的保障を行ない、
あわせて社会的市場経済における労働力の維持・調達政策の一環を
19) 1972年6月迄は毎年1月1日付で年金の引き上げが行なわれた
が、後述するように、 1972年年金改正法で年金調整期の半年繰り
上げが実施され、 1972年7月1日からは毎年7月1日付で年金の
調整が行なわれている(したがって、 1972年は1月1日と7月1
日の2回引き上げが実施されたわけである)0
- 99-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
第2回 賃金上昇率と年会引上串 (単佐:%)
(注) 1975年、 1976年の賃金上昇率は暫定値であるo
(出所) Der Bundesminister fur Arbeit und Sozialordnung, Sozialbericht 1976, Bonn 1976, S. 31.
-100-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
担うこととなった点である。
五番目にあげられる改革は、年金保険の財政方式の転換である。す
なわち、ビスマルク以来の伝統をもつ、従来の保険料積立式(Kapitaldeckungsverfahren )ないし期待額充足式 Anwartschaftsdeckungsverfahren )がほぼ完全に放棄され、期間充足式( Abschnittsdeckungsverfahren )とよばれる修正賦課方式が採用されfc。期間充足式は、
10年の期間を単位として、その期間中の保険料収入・利子その他の敬
入で、期間中支出すべき年金その他の必要経費をまかない、かつ最終
年度の費用相当額(すなわち12や月分の費用相当額)が期末に積立金
として残るように保険料率を算定するものである。この方式は、 loヰ
間を単位として、その間に年金受給者層が消費するものは、かれらに
よって蓄積された国富の恩恵と経済成長の結果を享受している現在就
業している被保険者層の費用で負担し、今日の被保険者も将来同様に
次の世代によって保障される、という世代間連帯契約( Solidarver二
trag zwischen den Generationen )ないし就業者と非萄筆者間の連帯
という思想20)に基づくものである。しかも、皐速な生産性向上、物価
および生活水準の上昇を伴う戦後の西ドイツ成長経済の下では、年金
の実質価値を維持するためには、年金保険の財源を過去の積立金にで
はなく、その時々の経済力に求めざるをえなくなった、という切実な
現実認識があった。この財政方式の切り替えなしには、生産性年金な
いし動的年金の導入は不可能であったといわれている。
食後にあげておきたい点は、改正後も各年金保険制度はその根拠法
を異にするが、今回の改革により、各年金制度が統一的に構成される
ことになり、法体系の整備が行なわれたことである。ことに労働者お
20) Vgl. Wilfrid Schreiber , Zum System Sozialer Sicherung,
Koln 1971, SS. 30, 114.
-101-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
よび職月の年金保険法上における地位が同一のものとなり、受給資格
や給付については、労働者年金保険と職月年金保険では全く同じ扱い
がされることになった。
4-3 第一調整期
1956/57年の年金改革は、保険数理的にはかなりの冒険であり、保
険学者、アクチュアリー等の専門家からの批判も強かったが、 1950年
代後半から60年代前半にかけての空前の高度経済成長のお陰で、ラッ
キーにも財政的破綻をひき嘩すことなく、また1957年に決められた
賃金の14% (労使7%ずつの折半負担)という保険料率を引き上げる
ことなく、予定された年金額の調整が、賃金の上昇に応じて毎年完全
実施されてきた。しかし、 1970年代後半に訪れる年金の山に到達す、る
前の、 1966-1969年の経済不況期に、貴初の試廟が新しい年金
保険制度を襲った。すなわち、不況の影響を受けて、支出の増加率が
収入増加率を著しく上回っできた。第5表に示されているように、労
働者年金保険と職月年金保険を会計すると、 1966年度までは総収入が
稔支出を上回っていたが、ついに1967年には、収入340億マルク、支
出362億マルクとなり、 22億マルタもの赤字が発生した。このまま何
の対策もとられないならば、 1968年以後は赤字額はさらに増大してゆ
くことになる。
政治的には、戦後の約20年間政権を担当していたCDU/CSU
は、 1966年からは野党第一党のSPDと大連立内閣を組み、かろうじ
て政権を維持したが、 1969年には、 CDU/C SUはついに政権から
去り、 SPD/FDPが政権をとるという変動があった。
1957年の年金改革はC D U/C S U政権の下で実施されたのである
が、 1966/67年は、たまたま当初予定されていた10年目の財政再計算
-102-
第5表 労働着および職員年金保良の収支の推移
(単位:億マルク)
収
入 (A )
支
出 (B )
収 支残 高
年度
保 険料
国 庫 負担
刺子お.
よぴ投
資畔益
そ の他
合
計
年
金
牛車受給
者疾病保
t検分甚分
事務 費
その他
合
計
a - b ;
19 65
225
6 2
13
6
306
225
2 2
7
33
28 7
1 9
19 66
19 67
243
247
6 7
7 0
15
15
7
8
332
340
2 53
285
2 5
3 1
7
8
33
38
3 18
36 2
1 4
19 68
19 69
291
345
6 9
7 1
14
13
8
10
383
4 39
316
3 53
3 3
3 6
8
9
40
4 2
39 8
44 0
- 2 2
I 1 5
ー
1
19 70
424
7 3
15
8
520
384
4 6
ll
4 1
48 3
3 7
19 71
19 72
487
549
7 8
9 9
17
20
10
ll
592
679
4 15
4 72
6 0
8 1
ll
13
4 7
5 3
53 4
6 21
5 8
19 73
65 1
84
29
10
774
83
16
6 0
7 11
5 8
6 3
11997746
72 1
76 1
1 22
1 35
3 1
34
32
118
906
1,0 4 8
5 53
6 43
10 0
125
20
21
8 9
18 7
8 52
1 ,0 6 1
- 1 2
7 28
(注) 1. 1975年1月10日現在。一部は推定値。
(出所) Institut Finanzen und Steuern , a.a. 0., S.30.
5 4
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間等
期にあたっていた。この不況と国家財政の硬直化によって、 「財政特
別措置法」が1967年に施行され、年金保険に対する国庫補助が1971年
まで一部削減されるという措置がとられた2、1)こととあわせて、年金
保険は財政的危機に見舞われた。これを乗り切るために、 1967年から
年金保険の財政建て直しが始められ、 1969年7月の「第三次年金保険
改正法」 (Drittes Rentenversicherungs-Anderungsgesetz)で一
応の落着をみた。
給付をできるだけ犠牲にすることなく、この財政危機を克服するた
めに、まず保険料率を段階的に引き上げる措置がとられた。すなわち、
1968年よりとりあえず保険料率を1パーセント・ポイント引き上げて、
15%にすること、さらに1969年には16%、 1970年には17%に引き上げ、
そして最終的に1973年からは18%にすることが決議され、長期的な財
政対策の確立がはかられた。
また、実質的には給付切り下げにつながる、次の二措置が実施され
たo すなわち、第一は、年金給付額の2% を年金受給者疾病保険
(Krankenversicherung der Rentner)の保険料として差し引くこと
(1968年と1969年に実施されたが、 2年後再び廃止され、しかもこの
両年の徴収分も1972年に年金受給者に払い戻された) 、第二は、新規
裁定年金について保険事故発生の月の年金は支給せず、その翌月分か
ら支給すること、である。
第三に、 1968年より、保険加入義務が、職月全部に拡大され、新た
に保険料を支払う者が増大した。この措置は、一時的な収入増大には
なるが、これら新規加入の高額所得者である職月が年金受給者となる
21) 第4表でも明らかをように、 1967年以後1971年迄は、公費負担の
割合は、特に労働者および職員年金保険では毎年減少している。
-104-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間膚
将来には、年金制度にとってより大きな負担となる可能性をもつ。
さらに、労働者年金保険と職員年金保険の両保険機関相互で、財政
調整を行なう措置がとられた。すなわち、一方の保険部Plの資産が・2
カ月分の支出相当額以下となり、もう一方の保険部門ではなお4ヵ月
分以上の支出額に相当する資産を保有している場合には、二部門閏で
財政調整が行なわれることとなり、両保険の財政的統一がはかられる
ことになった。この措置が実際に通用されたのは1974年がはじめてで、
職員年金保険から労働者年金保険へ21. 5億マルクが財政調整のために
支払われた。
最後に、財政方式が賦課方式(Umlageverfahren )に切り替えら
れた。すなわち、 1957年の改革で導入された、 10年を期間とし、期末
に最低12ヵ月分の支出額に相当する資産の積立を義務づけていた期間
充足式は廃棄された。純賦課方式だと、年度ごとに収支Ilの均衡がとれ
るように計算されるので、理論的には、後の年度のための積立金を設
ける必要はないが、 1969年8I月から導入された賦課方式では、就業者
数の増減等による収入の変動を考慮して、労働者および職員年金保険
の積立金を合算して、前年度の平均3ヵ月の支出額に相当する積立金
を少なくとも保有することが、法律22)で義務づけられている。そし
て、この最低積立金が今後3年で確保できない場合には、保険料率を
改訂しなければならないことになっている。
このような一連の措置を通じて、 1957年の改革で導入された動的年
金の諸基本原則を変えることなく、第一調整期の財政危機は回避され
たのであった。
22.) Reichsversicherungsordnung § 隻 1383 ff., Angestelltenversicherungsgesetz llOa.
- 105-
戦後西ドイツ年金腐険の展開と第二調整期の財政問題
414 篤二次年会改革期
第一調整期に実施された財政対策と、経済不況からの回復が意外に
早かったこととが、年金財政に好影響を及ぼし、第5表にみられるよ
うに、早くも1970年には、労働者および職員年金保険の収入は再び支
出を上回り、 37億マルクの泉字が計上された。特に1968年から3年連続
して実施された1パーセント・ポイントずつの保険料率引き上げの効
果は著しく、 1973年からは保険料率がさらに18%に引き上げられるこ
とになっでいたことから、両年金保険部門の剰余金は、放置すれば、
さらにふえlるはずであった。当時の予測では、 1986年には剰余金は、
3ヵ月分の巌低積立金をはるかに上回る2,000億マルクに達するをの
と見積られ七いたO このような保険財政の好転が契機となり、第二回
目の年金改革が、 SPD/FDP連立政権のもとで、連邦議会選挙直前
の1972年1dl月に断行され、 73年1月から実施されたO
第二次年金改革の第-点は、弾力的年齢制限( flexible Altersニ
gr.enz, )の導入である。老齢年金の受給開始年齢は、従来は65歳と固
定的であったが、それを弾力的にして、一定の条件を満たす場合には
滞65歳以前でも年金受給資格が発生するものとした。たとえば、 35年
以上の算入可能保険期間があり、そのうち15年の保険料納付期間と代
替醜聞のある被保険者はすべて、 63歳に達した時点で、本人の選択に
より、 63歳から65歳迄の間で、いつから受給を開始するかを決められ
ることになった。また、一定の条件を満たせば、女性は60歳から、失
業者も同じく60歳から、重度障害者、職務不能者および就業不能者は
62歳から受給できることになった。
次に、最低所得による年金(Rente nach Mindesteinkoirmen )の
導入である。これは、 25年以上加入している被保険者の1972年以前の
賃金が平均賃金の75%に達.しない場合は、保険料が平均賃金の75%を
-106-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
基準にして支払われたものとみなして年金額を計算するもので、過
去における、とりわけ女性に対する賃金差別により、年金が不当に低
くなるのを防ぐための措置であり、一種の最低年金 L 保障である
第三に、年金調整時期の半年繰り上げである。 1959年以来、毎年1
月1日付で年金が賃金水準の上昇に対応して引き上げられてきた。一
般算定基礎が、既述のごとく、保険事故発生の前々年からさかのぼっ
て3年間の全被保険者の平均賃金から算出されることから、年金が賃
金水準の変動に約3年半遅れて調整されるといわれていた。このタイ
ム・ラッグを短縮し、年金の増額をはかるために、半年繰り上げて、
毎年7月1日付で年金が調整されることとなった。タイム・ラッグは、
したがって、約半年短縮され、 3年となった。
四番削こ、いずれの年金保険にも加入していない主婦や自営業者等
も、労働者年金保険か職員年金保険に任意加入することができること
となった。したがって、この任意加入制度を利用すれば、 16歳以上の
西ドイツ国民は全て、社会保険としてのいずれかの年金保険に渡別と
して加入できることとなった。
第五に、保険料遡及払(Beitragsentrichtung の承認である。
これは四番目の任意加入制度の拡大と関連するが、新たに任意加入し
た者で、一定条件を満たす人々に対し、非常に有利な条件で、 1973年
以前の1956年にまでさかのぼって、保険料を払い込むことが認められ
た。
最後に、いわゆる年金水準確保条項( Rentenniveausicherungs klausel)_が規定されたことに触れておく。年金水準は、平均貸金を
得て40年間の加入期間をもつ標準的年金受給者の老齢年金額と、被煤
険者全員の現在の平均賃金(ここでいう賃金は純賃金ではなく、総賃
金である)との比率で示されるが、それが約50%を下回らないように、
-107-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間者
年金額の毎年の調整を行ない、安定した年金水準を確保しようとい
うものである。
5.年金保験の財政由譲
このように、戦後の西ドイツの年金保険制度は、主として二回にわ
たる大改革により、拡充されてきた。とりわけ、 1957年の年金改革は
画期的なものであり、それは生産性年金ないし動的年金の導入、世代
間連帯契約の思想に基づく財政方式の転換等、現行の年金制度の基本
的性格を決定づけたものであった。
ところで、動的年金の導入を可能にした財政方式の切り替え、すな
わち、期間充足式の採用については、 1956年当時から多くの批判があ
った。この方式は、充足期間が10年とかなり長期ではあるが、やはり
賦課方式の一種であり、蹴課方式に伴う欠点、すなわち保険料率が不
安定となる欠点をまぬかれない。本方式で予定されている、 12皐月の
最低積立金も十分なものではなく、人口の老齢化が進んでゆく状況で
は、今後西ドイツ経済が順調に発展していっても、保険料率の引き上
げのみによって年金保険の財源を調達することがついには不可能とな
り、国家資金によって保険収支全体の赤字を補填することが不可避と
なるであろう。
しかし、こうした問題点の指摘に対し、政治家達は全く耳をかさず、
連邦議会選挙前に改革が断行されたのであったo幸運にも、貴初の1_0
年はうまくいったが、しかし、既に次の10年の充足期間の始まる1967
年には、この期間充足式によっても保険収支の不均衡が生じることが
明らかになり、、保険料率を1968年より3年連続引き上げるとともに、
1969年の第三次年金保険改正法により財政方式をさらに3ヵ月の最低
積立金を保有するだけですむ放課方式に切り替える措置がとられたの
であった。
-108-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
喉元すぎれば熱さを忘れる./不況からの回復が早まり、年金保険財
政が好転しはじめて、l剰余金が年々ふえると予測されるや、連邦議会
選挙前の1972年10月に、第二次年金改革が決議され、いまだ存在しな
い将来の積立金の増大をあてに、楓飯振舞がなされたのであった。そ
れも、 12ヵ月分ではなく、 3ヵ月の最低積立金を保持するように、 19
69年に改正されたからこそ、気前よく選挙民に約束できたのであった。
第二次年金改革については、第一次年金改革以上に、多くの批判が
浴びせられた1986年迄に約2,000億マルクもの積立金が蓄積される
という予測は、 1960年代ないし1970年代初頭の高成長が今後も続くと
いう楽観的予測に基づき、コンビュ-タ一によってはじきだされた不
確実なものにすぎなかったが、かかる大金が年金財政に生じるという
幻想に励まされ、与野党は目前に迫った選挙戦に備えて双方の要求を
最大限に取り入れた改革を実施した。既に年金改革法発布前の1972年
1月、′ドイツ年金保険者連合会は、今回の改革により将来どのように
年金財政が悪化するかを示し、警告を発していた23)
第二次年金改革の実施直後、オイル・ショックをきっかけに、戦後
最大の経済不況がはじまり、経済環境は一変し、低成長経済が世界経
済の基調となった。甘い幻想は早くも打ち砕かれ、将来は剰余金がふ
えるどころか、 1975年には早くも収支のバランスがくずれ、年々赤字
が増大してゆき、現行法通りでゆくと、早くも1980年頃には、労働者
・職員年金保険の積立金は零とをり、その後は加速度的に赤字が累積
されてゆくものと予想されている。
23) Vgl. Harry Rohweか申hlmann ,.Die Rentenversicherung
am Scheidewege , in : Zeitschrift fur Sozialreform, 22.Jg.
Heft 10, Oktober 1976- S. 593.
- 109-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間者
西ドイツ使用者団体連盟( Bundesvereinigung der Deutschen
ArbeitgeberverbSnde )は、 1975年7月r経蹟条件の変化と社会
保障j ( Soziale Sicherung unter veranderten w,irtschaftlichen
Bedingungen )と題する小冊子を公表したが,その中で,社会保険の
各即弓の現状を分析し、経済環境の変化に対応して、社会保障制度を
長期的に建て直すのに必要な、総括的な諸提言を明らかにしている。
1970年以降、とりわけこの一、二年来社会保障の全分野に生じている
財政的窮状の原因として特に
(1)景気停滞により収入は伸び悩んでいるのに対し、社会保障制度
の存続が完全雇用時と同じ高度経済成長を前提としているため、
支出は引き続き急増していること、
(2)長期的な財政的結果や被保険者ないし企業の負担能力を十分考
慮しないで、立法者が給付拡大を決議したことが、支出急増の最
大の原因であること、たとえば、将来15年間で約2,000億マルク
の給付支払義務を課する1972年の年金硬革法は、連邦議会第六会
期貴終日に決議されたが、政府も野党も、新給付がおそらく選挙
に及ぼすであろう勃果のみを考慮して、給付拡大を競いあい、選
挙前に大急ぎで可決したこと、
(3)社会保障政策が次第/にあらゆる危険に対して、できるだけ完全
かつ包括的な保障を提供する方向へ移行してきたこと、しかし、
かかる政策は国民に対する過度な負担を要求し、限られた財政資
金の効率的配分を阻止し、国民の自己責任に基づく卑卓的な自己
保障-の意欲を麻輝させる危険性を内包していること、
(4)ー 社会保障の各酎1に構造的欠陥が存在すること
の四点があげられている。そして、社会保障の将来を検討する場合に、
-110-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
(1)長期的にみて、 1960年代の高度成長の再来は今後は望みえず、
したがって、過去の高成長を前提として構築されている現在の社
会保障政策は、低成長経済という新しい現実に合致したものに修
正せざるをえないこと、
(2)社会保障給付率、すなわち社会腺障費の社会総生産に占める比
率は、年々上昇を続け、 1978年には29.1%になるものと予測され
るが、こうした社会保障支出のバランスを失した拡大は他の部門
の占率を縮小させることになるので、今後は社会保障の発展が社
会全体の需要構造における優先順位の変動と一致するかたえず検
討されねばならないこと、
の二つの側面が無視されてはならず、こうした認識にたって、社会保
障の全ての給付の効率を高め、その欠陥を除去し、費用の急増を抑制
するために、関係者全ての努力を同連盟は要請している。とりわけ、
政府および議会が、現在の窮塀を打破し∴経済条件が変化しても、社
会保障の財政基礎が動揺することのないような措置を早急に立法化す
ることを求めている0
1975年9月末、社会保障審議会は、 r1976年度年金調整報告Jに収
録されている勧告書24)の中で、 197時の一般算定基礎を11.0%引き上
げて法定年金保険の既裁定年金を1976年7月1日に調整するように勧
告したが、それが前年迄の様に全会一致ではなかったこと、否わずか
一葉差の多数決で決定されたものであり、同審議会のほぼ半数を占め
る委員の意見は、次回の年金引き上げを11%とするが、実施時期を半
年延期して、 1972年までと同様1月1日とし、したがって1977年1月
24) Vgl. Deutscher Bundestag (Hrsg. ) , RentenanpassungsT:
bericht 1976, Drucksac串e 7/4250, SS. 106-119.
-Ill-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間蔦
1日から実施するというものであったが、少数意見として否決された
ことを特に付記している。しかも、多数決を支持する委員も、経済
環境の変化、とりわけ法定年金保険財政の将来見通しを苦慮している
のである。そこで、状況の変化に照らして、審議会でも、年金調整の
方法_を修正する、次のような具体的なプランが検討された。
(1)年金の調整を現行の総労働報酬ではなく、純報酬を基準に行な
う。そうすれば、年金には実際に全く課税されないe)に対し、就
業者は社会保険料や税金を負担している現実が考慮されることに
なる。
(2)調整率を現行の被保険者金具の3年間の賃金上昇率の平均では
な上前年度だけの上昇率によって決定する、_といった方法で一般
算定基礎を現実に即応させる(いわゆる現実化《Aktualisierung 》
とよばれている)ようにする。この方式だと、年金保険財政の収
入と支出がほぼ平行して変動することになり、純賦課方式により
合致したものとなろう。
(3) 1976年7月1日の調整は、前年度の物価上昇率を基準に行なう。
その結果、年金の実質購買力犠牲持されることになるo
Lかし、同審議会は、こうした年金調整方法の変更が1957年の年金改
革法の諸原則に触れ、したがって、内容的に法律き修正することにな
り、審議会の権限をこえるものであるとして、これら調整方法の変更
は勧告しなかった。ただ、同勧告で行なわれた長期予測(後述する)
で、 1980年ないし81年より巨額の赤字が累積されてゆくごとが明らか
なことから、同審議会は、政肝および議会がただちに根本申な対策を
講ずるように要請したのである。
年金保険を直接担当する機関が集まって結成されているドイツ年金
保険者連合会は、新開その他のマスコミを利用して、あるいはその桟
-112-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政開題
関誌である『ドイツ年金保険』 (Deutsche Rentenversicherung)
を通じて、たえず年金財政のかかえる諸問題を明らかにして、関係者
や一般国民の年金保険の危機的状況に対する理解を深めることに努め
てきた。とりわけ、 1976年はその機関誌に毎号、年金保険財政に関連
する論文を再三掲載し、たえず最新の資料を提供して、問題の所在を
具体的に指摘してきた。
同連合会は、 1976年1月27, 28日の両日、記者会見を行なっている
が、その中で既述の『1976年度年金調整報告J に収録されている、連
邦政府が15種類のモデル計算によって明らかにしている長期財政予刺
を強く批判し、これらの,モデル計算が、現状とはかけ離れたもので、
多くの点で非常に楽観的な諸仮定が用いられており、年金財政の強い
負担となっているいくつかの要因が無視されていることを指摘してい
る。そして、現行給付体系を変更しないとするならば、今後毎年10%
以上もの賃金上昇率が続かない限り、労働者および職員年金保険の保
険料率のここ数年内の引き上げが不可避であることを示唆し、年金保
険担当機関の立場から、現在の年金保険の財政状態の分析を通じて、
収入面か、支出面すなわち給付か、あるいはこの双方を組み合わせた
修正が必要不可欠なものとなっているとして、とりあえず給付面での
三つの修正がどのような財政効果をあらわすかを明らかにした25)
また、 1976年4月29日に行なわれた同連合会の総会での報告でも、
年金財政の危機が取り上げられた。賦課方式(期間充足式を含めて)
の導入以後、年金保険の財政状態が景気に非常に左右されるようにな
25) Vgl. Herbert Waldmann , Rentenversicherung -wohin ? , in :
Zeitschrift fur Sozialreform , 22. Jg. Heft 10, Ok阜ober
1976, SSβ29 -640.
- 118、-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間屠
り、不況期には支出が収入を大幅に上回ることが、既に1966-69年の
不況期にも実証された。年金は賃金の動向に3年半ないし3年遅れて
調整されるが、その結果、好景気時には、保険料収入は急増するのに
対し、年金支出は比較的少ししか増えないが、逆に不況期には、保険
料収入はあまり増えずに、年金支出は相対的に高い割合で増加する。
したがって、年金保険では、好況時に蓄積された剰余金は完全に支出
しないで、不況時に備えて保有しなければならない。ところが、 1972
年には、そのことは実行されず、逆に、紙の上ではじき出された将来
の剰余金を完全に、しかも長期的に使いつくす給付拡大が計画された0
総会報告では、このように分析し、年金保険の内包するビルトイン・
スタビライザー(自動安定装置)機能が立法者の措置により破壊され
てしまったことを指摘している26)
さらに、同連合会は1976年7月に、労働者および職貞年金保険につ
いて1976年度と1977年度の短期財政予測を発表し、両保険の積立金
は、 1975年度未の430億マルク 7.4年月分の支出額に相当する)か
ら1976年度未には343億マルク( 5.1ヵ月分の支出相当額)へ減少し、
1976/77年賃金上昇率を 7.5%とすれば、さらに1977年末には、 181
億マルクに激減し、法律に定められた3ヵ月支出相当額を下回る 2.4
27)
ヵ月分となることを明らかにした。
26) Vgl. Bericht des Vorsitzenden des Vorstandes Dr. W
Doetsch in der Mitgliederversammlung des Verbandes Deutscher
Rentenversicherungstr鞄:er , in : Zeitschrift ftか Sozialreform
22.Jg. Heft ll, Novemもer 1976, SS. 672-689.
27) Vgl. VDR-Informationen Nr. 188 August 1976, in : Zeitschrift fnr Sozialreform, 22.Jg. Heft ll, November 1976,
SS. 690-694.
ノ
-114-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
こうした差′し迫った年金危機に対し、政府および議会は、何ら積徳
的対策をとらず、単に1976年7月未に、連邦労働社会秩序省で、財政
方式を、現行の賦課方式から、さらに安易な、いわゆる「赤字補填方
式」 ( Defizitdeckungsverfahren )に切り替える試案,が検討された
程度であった28)この方式は、積立金の形成を放棄して、将来は単
に50億マルク程度の少額の資金を保有するだけにし、不景気や年金の
山から発生する赤字分は、政府の一般財源か、または保険料引き上げ
で補填しようというものである。
6.年会保険の財政予測
年金財政の堅実性を判断する基準となる、年金保険の積立資産の将
来の発展に関して、多くの予測が既に1975年後半から1976年にかけて
発表されてきた。前掲『1976年度年金調整報告Jには、連邦政府によ
り試みられた、賃金上昇率と失業率を異にするモデル計算が15例と、
社会保障審議会による6種類のモデル計算例が載せられている。また、
ドイツ経済研究所は、楽観的予測と悲観的なもの、および中間的なも
のといった、.三嘩類のモデルを明らかにしている2P-ドイツ年金保
険者連合会も、 1976年1月の記者会見で、積立資産の将来予測を明ら
かにした。
ここでは、財政租税研究所の資料30)に依拠しながら、上記四機関
の長期予測から、将来予想される労働者および職月年金保険の財政危
28) Vgl. Spiegel vom 33/1976, S. 40., und Versicherungswirtr
schaft , 31. Jg. Heft 21, 1. ll. 1976, SS. 1226-1230.
29) Vgl. Institut der deutschen Wirtschaft, Alternative!! der
Rentenanpassung, I W-Trend 1976, Heft 1, S. 36 ff.
30) Institut Finanzen und Steuern ", Zur Lage der Rentenversicherung , Bonn , August 1976.
-115-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間塔
機について述べてみたい。
連邦政府のモデルでは、被保険者の平均報酬が6,7,8,9ないし10%
のいずれかの数字で毎年上昇し、失業率は毎年一定で、 1.5%、 2%
ないし2.5%であると仮定して、この雨因子を組み合わせた15のケー
スを考えて、 15年間の長期予測が行なわれている。政府の見解では、
過去20年間の経験値から、これらの数字がモデルに採り入られたとの
ことであるが、将来もこのような高成長が実現できるかどうかは非常
に疑問である。平均失業率2.5%という、政肝モデルで貴も悲観的な
数字でも、なお楽観的すぎるものであり、政府自身、 1979年迄の中細
財政計画では年平均失業率を2.5ないし3%と償定しているのである。
政舟の予測のうちで比較的現実的と思われる、平均醸酬上昇率7 %、
年間失業率2.5%の場合の予測数値が第6表第1欄に示されているが、
現行法通りで何の対策もとられないならば、この場合でも、既に1978
年には、 3ヵ月支出相当分の最低積立金、という法律に規定された残
高となり、 1981年には積立金は元金に使いつくされて奉郭と転じ、
1989年には約1,040億マルクの赤字が累積されることになる。
社会保障審議会は、政府予測に利用された計算の前提となっている
仮定の数値を少し変えて、平均報酬上昇率を6 -11%、失業率を1.5
.・・ ・
-4.8%と幅広く仮定し、より現実的とするために、予測期間内でこ
の2要因が変動するものとして、六つのモデルを示している。これら
の予測が発表されたのは1975年秋であるが、 1976年8月段階で貴も現
実的と思われる第6表第2欄に示されているモデルでは、何の再建策
もとられない場合には、既に1978年に積立金は3ヵ月分を下回り、 19
80年には年金保険収茸残高はマイナスになり、 1989年には約1,520億
マルクもの赤字が累積.されるものと予測されている。
ドイヅ経済研究所の三つのモデルで仮定されている数値の幅は、同
-116-
J第6表 現行法に基づく労偽者および職員年金保険積立資産の将来見通し
年 畢
連
邦
政
府
1 )
社 会 保 障 審 議 会
カ月分
!7 'l '
億マ ル ク
2 )
ド イ ツ 経 済 研 究 所 3)
カ月分
憶マ ル ク
ド イ ツ 年 金 保 険 者 連 合 会
カ月分
Ifi v a
197 5
43 1
7 .4
409
7 .0
4 29
7 .4
4 20
1976
38 7
5 .8
348
5 .1
384
5 .7
30 0
1977
3 26
4 .5
274
3 .8
3 16
4 .3
2 20
1978
24 0
3 .1
182
2 .3
237
2. 9
1979
14 4
1 .7
80
0 .9
15 5
1 .7
1 10
ー
0 .4
-
34
-
0 .4
76
0 .8
-
4 1
-
0 .4
-
133
-
1 .4
26
0 .2
-
2 22
1982
-
151
ー
1 .5
ー
2 72
-
2 .7
T
43
-
0 .3
ー
3 52
1983
二
268
389
ー
2 .4
-
4 26
-
3 .9
-
107
ー
0 .8
-
5 00
1984
-
3 .2
-
59 0
-
5 .0
-
170
-
1 .2
-
6 50
198 5
-
508
-
4 .0
-
75 6
-
6 .0
244
ー
1 .6
-
8 10
198 6
-
633
4 .6
-
93 2
-
7 .0
-
328
一
2.1
198 7
-
756
5 .2
-
1 ,110
-
7 .9
-
42 2
-
2 .5
198 8
-
890
-
5 .7
-
1 ,3 0 5
-
8 .8
-
53 7
2 .9
198 9
-4 ,0 3 8
-
6 .2
- ▼1 , 5 1 9
-
9 .6
-
68 2
3.5
4 0
199 0
199 1
-
87 2
-
4.1
1 ,1 1 8
-
4 .9
1 30
(注) 1.仮定:被保険者の平均報酬の年間上昇率7% ;毎年の失業率2.5%
2.仮定:被保険者の平均報酬上昇率1975年-8.5%、 1976年- 5%、 1977-1979年- 7%、 1980-1989年-6% ;
失業率1975年-4.8%、 1976年-4%、 1977年- 3%、 1978-1989年-2%
3.仮定:被保険者の平均報酬上昇率1975年 7.5%、 1976年-7%、 1977-1991年-8% ;失業率1975年- 4.8%
1976年- 4.5%、 1977年- 3.5%、 1978年-2.5%、 1979-1991年- 2%
4.仮定:破保険者の平均報酬上昇率1975および1976年=6.5%、 1977-1985年- 1% ;就業者数の増加率
1976-1978年- 1 %、 1979-1985年-0.4% (1978年の失業率は3%となる)
(出所) Institut Finanzen und Steuern , a.a.0., S.42.
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璃
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-ゝヽ
ヾ
10
198 1
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3
義
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
研究所の長期経済予測を用いているので、政府予測の場合よりも2要
因の変動幅が狭いが、第6表第3欄の中間的な数値を用いた予測によ
れば、 1978年に法定貴低積立金を少し下回り、 1982年に赤字に転じ、
1991年迄に約1,120億マルクの赤字が累積されることになる。
最後のドイツ年金保険者連合会の予測は、これまでのモデルと異な
り、失業率のかわりに雇用者増加率が利用されているが、このケース
では、既に1977年には、 3ヵ月分の法定最低積立金以下となり、 2年
後の1979年には赤字となり、 1985年迄に赤字が810億マルクに増える
ものと予測されている(本予測は第3図1)にグラフ化されている)0
以上の各予測では、全て1974年を出発点としているが、最初の予測
年度である1975年以下については、将来の経済発展に関する見解が多
少異なるために、失業率と賃金上昇率の仮定値も少しずつ異なってい
る。しかしながら、どのモデルでも、現行法のままで、何らの対策も
とられない場合には、労働者および職月年金保険は1970年代未に財政
的に苦境に陥いる、と予測している点では共通している。将来の経済
の動きがこれらの予測モデルのデータと多少食い違うとしても、長期
的観点からはもちろん、今後5年といった中期的観点からも、保険料
ないし給付の修正は、もはや不可避となっており、これらの予測の行
なわれた時点で、年金保険の抜本的改正が早急に着手されなければな
らなかったことは明らかである。
L Ei改印*(=**?サttfIX
かりに年金保険の積立金が零となり、将来多額の赤字が発生したと
しても、法律31)により国家保証(Bundesgarantie )が規定されて
31) Reichsversicherungsordnungァ1384 und Angestelltenversicherungsgesetz S 111.
-118-
戦後西ドイツ年金の展開と第二調整期の財政間問題
いるので、年金の支払いは保証されるであろう。しかし、国家保証は
最悪の状況でのみ考慮すべきものであろう。有効に機能している、拠
出制で、所得比例給付の現行年金保険制度を維持しようとすれば、む
しろ現在でも'かなりの審削こ達している国庫負担の縮小こそが要求され
ているといえよう三2)また、そうすることによってのみ、国家財政そのも
のの硬直化回避ないし健全化もはじめて可能となろう。
政府および議会は、年金危機の貴終的解決方法をこの国家保証に求
めて、問題を放置したのではないであろうが、与野党とも、この年金
保険の財政対策については深入りすることを避けてきた。彼らは、社
会保障審議会その他の各種団体や研究者等の財政危痴こ対する警告や
財政危機に対する諸提案、年金保険再建のための関係法規の早急な改
正要求等を故意に無視し、 1976年10月の連邦議会選挙に臨んだのであ
った。
選挙前に既に研究者等により論議されていた、年金保険財政建て直
しのための諸提案のうちから、主要なものを以下で検討する。
7-1 収入面での諸対策
労働者および職員年金保険財政の再建は、収入面と支出面から考察
KM
まず、収入面での改善策としては、
(A)保険料率の引き上げ、
(B)国庫負担の増額、
(q 年金受給者疾病保険の保険料を年金受給者から徴収すること、
32)ドイツ連邦共和国基本法第115条には、国家債琴の引受東商限度が
規定されており、この点からも、連邦政府は年金保険に対する国庫
補助による追加的負担を回避するよう要請されている。
-119-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
(D)年金-の課税
が取り上げられようO
(A)労働者および職員年金保険の保験料率は、 1973年以後18%となっ
ており、被保険者と企業により折半負担されている。前掲の連邦政府
の長期予測では、被保険者の賃金上昇率が6ないし8.%で、失業率が
1.5ないし2.5%であり、現行の給付体系が改正されない場合には、
1978年から1980年迄に保険料率を0.7ないし2.2%引き上げる必要の
あることが示唆されている。
これに対し、ドイツ年金保険者連合会は、給付体系および3ヵ月分
の最低積立金を規定した条項を改正しないとすれば、保険料率を早く
も1977年1月1日から、現在の18%から19.6%に引き上げねばならな
い、と予測している。
第-調整期に行なわれたように、給付を引き下げずに、保険料率を
引き上げて、増収をはかることができるとすれば、貴も安易な解決法
であるが、この潮率引き上げについては、被保険者の租税および社会
保険料の平均負担率が、 1976年で既にその総報酬の28%にもなってお
り.331それは負担を要求しうる限界と考えられているので、被保険
者および企業はもちろんのこと社会保障審議会、連邦銀行等もノ反対を
表明している。また、保険料引き上げがインフレーションを促進する
効果をもち、さらに中流以下の所得階層の負担軽減が検討されている
現在の所得税改革の方向に反することも`、反対の理由とLしてあげられ
ているO反対論者の中には、給付面での改革を優先すべきであって、
その点で十分な改革が行なわれれば、料率引き上げは避けられるし、
避けるべきである、と主張する論者もある。料率引き上げは、将来検
33) 従来の平均負担率の変遷については、第7表を参頬のこと。
- 120-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
第7表 総報酬と捜除額
年 度
総 賃金
お よび
稔俸 給
顔
控
除
額
社 会保 険へ の
被 用 者 拠 出額
所 得 税
百万マ′
レク fp jv L !
00い 百万マル ク
純 貸金 お よび
合
計
% lI 百万マル ク %
19 5 0
19 5 1
19 5 2
19 5 3
19 5 4
39
48
54
59
65
90 0
4 70
00 0
48 0
10 0
1 820
2 950
3 690
3 710
3\
8 30
4
6
6
6
6
.6
.1
.8
.2
.0
3
3
4
4
5
16 0
77 0
14 0
7 10
090
7 .9
7 .8
7 .7
7 .9
7 .8
6
7
8
9
19 5 5
19 5 6
19 5 7
19 5 8
19 5 9
74
83
89
96
104
1 10
06 0
92 0
98 0
13 0
4
5
4
5
5
6
6
5
5
5
.3
.7
.2
.6
.3
5
6
7
9
77 0
430
830
050
7 .8
7 .7
8 .7
9 .3
10
11
12
14
9 780
9 .4
15 290
19 6 0
117 000
7 4 70
6 .4 1 1 0 2 0
9 .4
19 6 0
19 6 1
19 6 2
19 6 3
124
140
155
166
7 9 10
1 0 18 0
6 .4 1 1 7 3 0
7 .2 1 2 8 4 0
19 6 4
1 83 8 10
1 1 8 30
1 3 3 10
15 680
7 .6 14 3 5 0
8 .0 1 5 3 8 0
8 .5 16 7 8 0
19 6 5
1966
1967
1968
1969
203
217
217
232
261
15
18
19
21
26
1970
1971
1972
1973 "
1 9 74 * '
306 400
36 520
345 000
3 7 6 2 40
46
48
63
74
54 0
440
54 0
90 0
13 0
960
890
750
10 0
4 23 8 0 0
4 63 6 0 0
1 9 7 5 2 ) 4 79 6 0 0
6 50
5 30
6 80
4 20
5 10
880
790
1 10
850
930
220
770
350
16 0
7
8
8
9
10
.8
.6
.8
.4
.3
18
20
21
23
720
690
150
630
27 550
1 1 .9 3 2
1 3 .4 3 6
1 3 .0 4 1
1 4 .9 4 8
1 6 .0 5 3
730
590
420
970
650
純 俸 給
額
1, 百万7 1 1
い
12.5
1 3 .9
14 . 5
14 .2
1 3 .9
34
41
46
51
56
9 20
7 50
1 70
0 60
08 0
87.5
86.1
85.5
85.8
86.1
4 2 0 14 . 1
9 6 0 - 14 .4
5 1 0 13 .9
4 7 0 14 .9
63
71
77
82
69 0
10 0
4 10
5 10
85.9
85.6
86.1
85.1
14 .7
8 8 84 0
8 5 .3
18 4 9 0
1 5 .8
9 8 5 10
84 .2
9 .4
9 .1
19 6 4 0
23 0 2 0
1 5 .8
16 .4
1 0 4 90 0
1 1 7 42 0
84 .2
8 3 .6
9 .2
9 .2
9 .1
26 1 8 0
28 6 9 0
32 460
16 .8
17 .2
17 .7
1 2 9 36 0
1 3 8 2 10
1 5 1 35 0
8 3 .2
8 2 .8
8 2 .3
34
39
40
45
17
18
18
19
1 68
178
177
187
9
9
9
10
.2
.5
.7
.2
10 .6
720
830
420
020
60 0
480
260
480
54 480
10 .7
69
10 .6
82
1 1 .0 ′ 9 0
1 1 .6
11 2
11 .6
12 7
250
810
19 0
3 20
8 10
.0
.1
.5
.5
53 0 83 .0
4 8 0 8 1 .9
63 0 8 1 .5
2 7 0 8 0 .5
2 0 .9
20 6 6 2 0 7 9 . 1
22
24
24
26
27
23 7
2 62
28 6
3 11
335
.6
.0
.0
.5
.6
15 0
19 0
050
480
7 90
77
76
76
73
72
.4
.0
.0
.5
.4
72 590
15.1 58 810
12 .3
13 1 40 0
2 7 .4
3 4 8 2 0 0 7 2 .6
1 9 79 3) 68 2 2 0 0 13 1 0 0 0
1 9 .2 9 1 60 0
13 . 4
2 2 2 60 0
3 2 .6
4 5 9 6 00
67.4
(注) 1. は稔報酬の占率で示されている。
2.暫定値。
3.予測値。
4.' 1950-1960年は、ザ-Jlレラント州と西ベルリン市の数値は含まれ
rtgMiT
(出所) Sozialb占richt 1976, S.198.
-121-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間借
討されることはありえても、少なくとも1976年前後の時点では、実施
される可能性のほとんどない改善案といえようO
(B)前掲第4表に示したように、労働者および職員年金保険では、国
庫負担率は1970年迄逓減L:て、その後は横ばいであるが、 1975年では
約135億マルクの巨額に達している。国庫負担の増額は、本節冒頭に
述べた理由からの反対があり、連邦政府も、これまでの政府の態度か
ら追加的負担増を国選しようとしていることは明らかである。社会保
障支出の増大が連邦政府の財政硬直化の原因の一つとなってい」34)が、
社会保障審議会も、国家財政の現状に熊らして、国庫負担引き上げを
検討することを放棄している。
(qこの提案は、年金給付額の2ないし3 %を年金受給者疾病保険の
保険料として差し引こうというもので、既述のごとく、 1968年と1969
年に実施されただけで廃止され、この徴収分も1972年に払い戻された、
といういわくつきのものである。
(Dl年金への課税は、年金財政充当のための目的税として課税されな
い場会には、年金財政の増収に直接つながらないであろうO年金へ課
税する根拠として、年金保険の保険料は課税対象から控除されて無税
となっており、したがって、総所得によって決定される年金に課税す
るのは論理的であり、その課税が累進税率によるものであれば、年金
受給者間の年金格差が緩和されることがあげられている。この案は、
現行の年金計算方式でとられている総所得主義(Bruttoprinzip )の
維持を条件としており、本提案の目的は、むしろ後述する純所得主義
(Nettoprinzip )によって吉り効果的に、より迅速に達成されると
34) 社会保障に対する国庫負担額が連邦政府予算に占める割合は、 19
76年で37.5%となっている。後述注48)を参鼎のこと。
-122-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
いわれている。
712 支出面での帯対策
収入面での決定的な対策がなく、とりわけ保険料率引′き上げが当面
問題外であるとすれば、支出面での対策が考慮され、給付節減措置が
とられねばならないこととなる。そのJ魂会の主要な対策としては、
(a)年金調整の半年繰り下げ、
(b)一般算定基礎の現実化、
(c)純所得による年金調整
の三案が検討されている。
(a 1972年の年金改革により、年金調整時期が半年繰り.上げられて、
毎年7月1日に実施されることになった。この措置が、現在の年金保
険財政を悪化させた有力な原因の一つであるといわれているが、それ
を再び半年繰り下げて、毎年1月1日に年金調整を行なおうというも
のである1975年秋の社会保障審議会勧告に従って1976年段階では、
既に1976年7月1日の実施は確定されていた。したがって、本案を実
施できるのは1977年以降ということになり、 1977年7月1 E=こ予定さ
れている年金調整時期を半年繰り下げ、 1978年1月1日に実施するこ
とが可能なわけである1979年以後も毎年1月l E=こ調整が行なわれ
るとすると、ドイツ経済研究所は1977年から1985年までの支出節減効
果を700億マルク、 1991年迄だと約1,730億マルクと見積っており、
90年代初頭までは、この措置だけで、法定最低積立金( 3.ヵ月支出相
当額)を確保できるものと推定しているoこ坤こ対し、ドイツ年金保
険者連合会は、 1985年迄の節減効果を 570億マルクと見積り 、この措
置だけでは1982年以後には年金財政は早くも赤字に転ずると予測して
いる。
- 128-
'戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
この対策は、現行の動的年金方式の変更を何ら必要としないので、
原則的問題が全く生じない、という利点をもっている。しかし、この
措雇は、需要抑制策の必要な景気過熱期にとられるべきものであって、
現在の非常に不安定な経済情勢の時期には望ましい対策ではない。
いずれにしろ、本提案は最も早く実施されて1978年後半から効果を
あらわし、短期的には年金保険の財政状態を改善するのに役立つであ
ろうが、年金財政の中期ないし長期的な再建は、この対策だけでは達
成できない。
(b)既述のごとく、 1957年の年金改革による.動的年金の実施以来、一
般算定基礎は、保険事故発生の前々年からさかのぼって、 3年間の全
被保険者の平均賃金を基準に決定されている。その結果、年金は、賃
金水準の変動と3年ないし3年半のタイム・ラッグをもって調整され
ることになる。その結果、第2図からも明らかな様に、好景気直後の、
賞金上昇率の低下する不況期には、年金引上率が賃金上昇率を上回る
といった現象がみられる1965年から1968年迄の不況期にも、そして、
1975年からのこの数年にも、同一現象が現われている。これは保険料
収入の増加率以上に年金給付支出が増大することを意味する。そこで、
b案は、このタイム・ラッグをなくし、年金を保険事故発生の前年度
の賃金上昇率のみを基準に開整するか、賃金上昇率の極端に高い年を
除外して調整するかして、現実の賃金水準の変動と歩調を合わせて年
金を引き上げようとするものである。
本対策は、年金財政の赤字増に1982年迄多少ブレーキをかけること
ができるだけで、中・長期の再建策とはなりえない。しかも、現行の
一般算定基礎の計算方式による年金引上率が貸金上昇率よりも高い時
期にのみ、すなわち好景気の直後にのみ、本対策導入による年金調整
の現実化は、節減効果をもつものであるので、この対策実施の有利な
-124-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
時期を既に逸してしまっている、とする論者もある35)
(Cト般算定基礎の計算基礎となる、 3年間の被保険者の平均賃金は、
総賃金の平均である。したがって、総賃金の変動率が現行の年金調整の
基準となっているわけであるが、これを税金および社会保険料36)を差
し引いた純賃金を基準に年金調整を行なおう、とするのが、この対策の
内容である。第7表にあるとおり、就業者の所得税その他の社会公課
の負担率は毎年増大しており、しかも累進税制がその傾向をさらに強
化している。その結果、純賃金の上昇率は、総賃金のそれよりも低く
なる傾向にあるo これに対し、年金は無税となっており、したを三旦て、
顧筆者の受取る碗貸金の上昇率は年金受給者の受取る年金の引上率よ
りも相対的に低下することとなり、この点を考慮しようというわけで
ある。
対策Cは、社会保障審議会等により論議されたが、年金財政の長期
的再建策として有効なものと考えられている。ドイツ経済研究所の予
測によれば、 ,モデル計算で仮走されたデータ通り西ドイツ経済が今後
運営されるならばこ この対策だけが実施されるだけで、 1991年迄で
3,580億マルクの支出節減効果があり、 1979年から1983年迄の5年間
積立金が法走貴低積立金を下回るだけで、 1984年には積立金は再t/3
ヵ月分を上臥り、それ以後昼年々増大してゆ くものと考えられてレ;る。
山一EKIZMEEEESEa
以上の提案の他に、次に示すごとき対策も論議された。
35) N. N.,王st das Defizitdeckungsverfahren " eine Konsolidie二
rungsmaβnahme fur. unser Rentenversicherungssystem? in : Versicherungswirtschaft , 31.Jg. Heft 21, 1. November 1976, S. 1227.
36) 年金保険料は当然に総賃金を基準としており、その一定パーセント
(現在18%)が年金保険料として徴収されている。
-.125 -
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間鷺
(1)失業者は失業給付受給中は年金保険料を支払う義務はなく、こ
の脱落期間 ( Ausfallzeit も将来 の年金算出の保険期間に算
入されることになっているが、この給付のための財源を失業保険
機関に負担させ、年金保険機関に納入させること。
(2)労働者および職員年金保険の保険者は、年金受給者数と疾病金
庫の被保険者の平均基本賃金とに応じて算出される年金受給者疾
病保険の分担金を疾病保険の保険者に拠出するよう義務づけられ
ているが、この金額が急増しており、 1965年の22億マルク(労働
者および職員年金保険の稔支出の1.1% から1975年には約6倍
も増え125億マルク(絶支出の11.8%)になっている。この分担
金を年金保険総支出の一定割合以下(たとえば11%)に抑えるこ
と三7)
(3)連邦政府が年金保険から借用している債務の早期返済。
7-4 財政改善効果の予測
以上述べた収支両面にわたる-諸提案は、個別に実施されることも考
えられるし、いくつかの提案を組み合わすことも可能であろう。たと
えば、財政租税研究所は、年金引上率が総賃金上昇率を上回る期間は
tb)の一般算定基礎の現実化を実施し、逆に賃金上昇率が年金引上率を
上回る場合には(c),の純賃金主義へ移行する案を勧めている38)
ドイツ年金保険者達各会は、 1976年1月の記者会見で、労働者およ
び職員年金保険の今後10年間の積立資産の推移を予測した結果を発秦
37) Vgl. Versicherungswirtschaft , 21/1976, S. 1227.
38) Vgl. Institut Finanzen und Steuern ", a.a. 0.,S. 71.
- 126-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政開罵
した≡9、その中で、
(1)法律に定められた東低積立金(3ヵ月支出相当分)の推移、
(2)現行法通りで、何らの改正が行なわれない場合の積立金の推移、
(3)現行法通りだが、 1977年7月1日の年金調整期を半年繰り下げ
て1978年1月1日とし、以後毎年1月1日に年金の調整を.行なう
場合の積立金の推移、
(4) 1977年1月1日以降、 一般算定基礎の現実化を レ-ヴェ案
( Vorschlag Loゎe )( -一般算定基礎を毎年の平均賃金上昇率と
同じ増加率で算定し、タイム・ラッグを除去する方式)により実
施した場合の積立金の推移、
(5)年金調整期の半年繰り下げ((3)案tJ同じ)と一般算定基礎の現
実化((4)案と同じ)を組み合わせて実施した場合の積立金の推移
についてグラフ化したもの,を発表しているが、それが第3図である。
この予測では、年間平均報酬上昇率を
1975年から1976年まで + 6.5%,
1977年以降 + 7.0%
と仮定し、就業者数の年間増加率を
1975年から1977年まで + 1.0%、
1978年以降 + 0.4%
と仮定40)している。
(2)の場合、グラフから明らかなように、 1979年に積立金はマイナス
となり、 1985年度未には,、約810億マルクの赤字が累積されると予
測されている。保険料引き上げによって1985年度未にもなお(1)の3ヵ
39) Vgl. Waldmann,. Rentenversicherung-wohin?, SS. 636-639.
40) この仮定では、 1978年度失業率は3%となる。
-127-
第3個 労働者および職員年金保牧の積立資産将来見通し
詞
瑚
つ7
・ゝ
ヾ
3
fY
蛋
(注) 1.現行法通りで、何らの改正が行なわれない場合・の穣立会の推移(基本計算) (本文(2)のケース).
2.前書己1.と同じで、 1977年7月1日の年金調整時期を半年繰り下げ、以後毎年1月1日に年金を調整した
場合の横立金の推移(本文(3)のケ-ス)0
3- 1977年1月1日以降レーヴェ実によりタイムラグを除去した場合の穣立金の輝移(本文(4)のケース)0
4.前書己2.と3.を組み合わせて実施した場合の積立金の推移(本文(5)のケース).
5・前記4.の場合の法律で定められた載低積立金(3ヵ月支出相当分)の推轟。
(出所) Waldmann Rentenversicherung-wohin? S. 638.
義
初
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
ヽ
月支出相当分の稗立金を確保しようとすれば、現行の18%を1977年1
月1日から19.6%に引き上げねばならないであろう。
(3)の場合、積立金は1982年でマイナスに転じ、 108辱年度末には赤字
は240億マルクに達する(2)の場合同様に、法宥最低積立金を1985年
度未に確保しようとすれば、保険料率は1977年1月1日以後18.8%に
引き上げる必要がある。
(4)のケースでは、積立金は(3)の場合とほぼ同じような経過をたどっ
て減少してゆく。
(5)の場合は、法定最低積立金を少し下回る積立金が確保されるので、
保険料率を引き上げなくとも、ほぼ年金保険の財源は1985年まで確保
できることになる。
F) 選挙MBffla.vTd
8-1 選挙前の局面
連邦議会選挙は、 1976年10月3日に実施されたが、選挙中の与・野
党の対決は、議席差が接近しており、場合によっては政権交代の可能
性もあると予測されていただけに、相当白熱したものであった。しか
し、年金制度の財政問題については、与・野党共に深入りすることを
避けてきた。既に選挙前に、研究者その他の関係者によって、年金保
険財政が数年中に危機的状況を迎えること、危機回避のための何らか
の早急な立法措置が必要不可欠であることが、明確に指摘され、その
ための各種の対策が非常に具体的な形で論議されてし1たにもかかわら
ず、各政党は、これらの警告を故意に無視し、いたずらに過去の年令
改革を自賛し、被保険者および年金受給者の双方を喜ばす甘い選挙公
約を乱発し、選挙戦で碗位に立つことに席心してきた。
1976年4月のシュピーゲル誌との会見で、シュミット首相は、年金
-129-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
保険の積立金が現在ほど多い年はビスマルク時代以来かってないこと
であり、年金危機は全ぐ存在しない、旨を早々に言明していたo SP
Dの選挙ビラでも、首相の顔写真を配して、 「あなたの老齢保障が絶
対大丈夫なことを、私は保証します。年金は今後も経済発展に応じて
動的に引き上げられます とりわけ社会保障と社会平和に関しては、
SPDを信頼するように、お年寄りの方々にお伝え下さい」と首相の
署名入りで、選挙民によびかけているき1)労働大臣アレント(Waiter Arendt )も選挙遊説中、年金保険財政の健全性を再三主張し、
まだ間喝にもなっていない年金支払不能について、年金受給者がそう
した心配をする必要のないことを約束する始末であった。首相も投裏
目直前まで、年金財政に全く問題のないことを繰り返すのみであった0
CDU/C SUは、同党の過去における年金改革への貢献を列挙し、
将来も年金の改善を望むなら、同党に投要してほしい旨のビラを配布
している42)
FDPは、さらに年金保険の保険料を引き上げないことを選挙中に
確約している。
こうして、政治家達は、国民に年金保険の財政危機を明らかにし、
1972年の年金改革で自分達がおかした間違いを修正する必然性を国民
に訴え、理解させる好機をみずから放棄し、逆に国民に「甘いワイン」
を飲ませ、各政党は年金を1977年7月1日に約10%で引き上げること
を繰り返し確約したのであるo
かくて、国民の眼には、年金保険の財政問題は、 1977年7月1日に
10%で年金調整を行なうことができるかどうか、換言すれば、調整時
41) Vgl. Spiegel 51/1976, S.3.
42) Vgl. Spiege1 33/1976, S.32.
-180-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
期を半年繰-)下げねばならないのかどうか、引上率を10%以下に切り
下げねばならないのかどうかの問題に還元されるものと映り、これら
の点について各政党が選挙公約している以上、年金の財政危機は解決
済みか、容易に解決できる問題である、という印象を国民の多くはも
ったのであった。
8-2 選挙後の新局面
年金保険の財政問題は、選挙後も引き続き専門家達によって論じら
れている。 たとえば、ドイツ年金保険者連合会のヴァルトマンは,、
『ドイツ年金保険』誌にあいついで、最新の資料に基づく年金保険財痩
予測を発表し、その予測に基づき、もはや各種の年金調整方式の修正
のみでは、年金保険財政の長期的再建は達成できず、年金保険の収支
が再び均衡を回復するための立法措置が無条件に必要である、と,して
いる43)
経済発展専門家委員会( Sachverstandigenrat zur Begutachtung
der gesamtwirtschaftlichen Entwicklung )は、 1976年11月24日
発表の勧告書の中で、年金の引き上げが1977年7月1日に約10%で実
施されることを弁護し、同時に
(1)将来は年金の引き上げを1月1日に繰り下げること、
(2) 1977年7月1日以後は、支給される年金の5%を年金受給者疾
病保険の保険料として控除すること、
43) Vgl. Herbert Waldmann, Die Finanzlage der gesetzlichen
Rentenversicherungen , in : Deutsche Rentenversicherung, Heft 5,
1976, SS. 275-280 und derselbe Moglichkeiten zur Konsolidierung der gesetzlichen Rentenversicherung, in : Deutsche
Rentenversicherung, Heft 6, 1976, SS. 333-338.
-181-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
(3)年金調整を現実化すること、
(4)年金にも課税すること
を提案した44)
マスコミでも、選挙後は、年金保険および疾病保険の財政開局が真
剣に論議され、この間題が、国民がこれまで受け取っていた以上に切
迫した重大なものであることが、明らかにされるようになってきた。
E= 連日 転St*rrtl39<?>」」
1976年12月上旬、 SPDとFDPの連立協定交渉がはじまり、年金
問題も決定的な段階に入った。この交渉経過は公表されないことにな
っていたが、多くの矛盾する情報が次々にマスコミに報道された。た
とえば、年金は従来通り1977年も7月に引き上げられるが、支給時期
が数カ月ないし半年遅れるとか、年金受給者は再び疾病保険料を負担
するようになるとか、保険料が引き上げられる、といったニュースで
ある。年金財政危機を明らかにしているこれらの報道は、選挙前の政
府当局および各政党の態度とは真う向から矛盾するもので、国民の政
府および政治家に対する信頼は大きく揺らいだのであった。
1976年12月9日の各新聞に、 SPDとFDPの両首脳が8日の夜の
会談で以下の諸点について同意した旨の記事が掲載された。すなわち、
(1)次回の年金引上時期は半年延長して1978年1月1日とすること、
(2)疾病保険の保険料算定上限を三分の一引き上げ、月3,400マルク
までとすること、
〈3)年金受給者疾病保険の年金保険者による分担分を従来の年金支
44) Vgl. Harry Rohwer一軍ahlmann, Die Rentenversicherung am
Scheidewege, in : Zeitschrift fiir Sozialreform, 23. Jg. Heft
l,
Januar 1977, S. ll.
-182-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
出の17%から11%に限定し、年金保険者の負担を軽減すること、
(4)初診料を現行の2.50マルクから3.50マルタに値上げすること
といった内容である。
特に第一点は、年金を1977年7月に引き上げることを約束し、選挙
戦の大きな目玉としてきたSPD、 FDPの選挙公約に違反するもの
で、この決定が報道されるや、マスコミ、年金受給者そして野党からは
もちろんのこと、 SPD、 FDP内部からも猛烈な突き上げが起こっ
た SPDでは、 12月9日有志により急速会合が開かれ、満場一致で、
前夜の両党首月削こよる決定を批判し、そのため前夜の決定はわずか1
日車扱回されることになった SPD内に新たに作業グループがつくら
れ、同グループは12月10日新しい連立協定を用意した SPDとFDP
の連立協定交渉委月会は、同日年金保険再建に関し、新しい提案で話
をまとめ、この決議は12月13,日両党により承認された。
妥協は12項目に及んでいるが、年金保険に関連する項目を取り上げ
ると、次の通りである。
(1)新規裁定年金は、従来通り捻賃金を基準に算定される。年金保
険料は引き上げない。年金受給者疾病保険の保険料は徴収しない0
(2)年金保険の年金受給者疾病保険に対する支出は、 1977年7月1
日以降は11%に制限する。
(3)既裁定年金は、 1977年7月1日に9.9%引き上げる。
(4)その後の調整は、 1979年1月1日、 1980年1月1日といった順
・序で、毎年1月に実施する。
(5)年金保険積立金は、 3ヵ月分から1ヵ月分に引き下げる。
(6) U-ビリテ-ションおよび外国年金に関する規定は改正される。
(7) 1980年迄に発生する年金保険の赤字は、以下や方法で補充され
-188-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調盤期の財政間堵
る。すなわち、既裁定年金の調矧ま、従来のように、被用者の絵
所得を基準とした実際の指数によって行なわずに、 1979年1月1
日以降は、租税と社会保険料を控除した後の現彼被用者の純所得
を基準に引き上げられ、可能な場合にはそれ以上の率で引き上げ
られる45)
この新たな決議も激しい批判にあい、シュミット-ゲンシャ-体制
は、新内閣発足前に既に破産してしまっている、といわれたほど、年
金間者は政府、与党を揺るがした。 12月15日の首班選出で、第二次シ
ュミット内閣は曲がりなりにも発足したが、首相の「独断的なやり方」
に対する党内の不満は、年金間葛をきっかけに一挙に表面化し、首相
の威信はかなり傷ついたのであった。首相も今回の出来事を「1974年
第一次シュミット内閣発足以来の最大のショック」とよび、 12月16日
の施政方針演説でも「こんなに強い反対があるとは予想していなかっ
た」と誤りを認める異例の演説をしたほどであった。その直後、アレ
ントは労働大臣を辞任し、新しくエーレンベルク( Herbert Ehrenberg)が就任して、 「田舎劇」はとりあえず幕をおろすこととなった。
この新決議は、本質的には貴初の決議とあまり変らな、いものである。
ただ、体裁を取り繕うために、選挙公約通り、年金が1977年7月1日
に引き上げられることになって射、るが、それ以後は第4項にある通
りで、要するに半年繰り下げが、一年間引き延ばされたにすぎない。
そして、年金保険の真の財政状態は、トリックによって取り繕われて
しまっている。
45) Vgl. Rohwer-Kahlmann, a.a. 0. (ZSR Januar 1977)
SS. 15-16.
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戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
10. おわ り に
戦後の西ドイツ年金保険の歴史を振り返ってみると、年金保険財政
との関連で、以下の諸点が印象的である。
(1)第一次年金改革によって、画期的な生産性年金ないし動的年金
方式が導入された。
(2)それを可能にするために、期待額充足式から期間充足式へ財政
方式が切り替えられたが、その結果、年金保険財政が景気の影響
を大きく受けるようになった。
(3)期間充足式-の切り替えが契機となり、 1969年には、さらに積
立金が少なくてすむ純賦課式-移行する道が開かれ、 1976年には、
赤字補填方式が検討されるに至り、第二次シュミット内閣発足に
あたり、積立金をさらに1ヵ月分に引き下げる決議がなされた。
(4)財政方式の積立式から賦課式への移行、動的年金の導入等は、
保険料率の引き上げを不可避なものとしたが、年金保険料率は段
階的に引き上げられて、現在は被保険者の総所得の18% 労使折
半負担)とレtう高率になっている。その他の社会保険料や所得税
を合計すると、被保険者の総所得の約30%もの高負担率となり、
その負担率は今後さらに増大するものと思われる。
(5)第一次年金改革で採用された年金算定方式は「晴天型計算式」
(Schbnwetterformel )であり、賃金上昇率がインフレ的に上
がる場合にのみ機能するものであ.1た46)低成長経済、とりわ
け好景気直後の不況期には、この算定方式は実施できないか、で
きても多くの問題を派生させる。
46) Vgl. H.M., Seit 1956 falsche Zahlen, in : Arbeit und
Sozialpolitik, 2/1977, S. 44.
-185-
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調を期の財政問題
(6)財政的裏付けが不十分で、保険数理を無視した、保険技術的に
みて不公平な給付の引き上げや給付条件の緩和、被保険者範岡の
拡大等が行なわれることが稀ではなかったが、それは年金保険の
中に非本釆的な任務がもちこまれ、被保険者層の負担で社会扶助
的ないし公的扶助的なものが運営される一面のあることを意味す
るものと考えることができよう。第二次年金改革はこうした点で
も多くの問橿点をもち、その後の年金財政に大きな負担をもたら
し、好景気が続いたとしても年金収支のバランスをうることは雅
・しかったであろうと;いわれている。とりわけ、自営業者や主婦等
に労働者および職身年金保険を開放する際に、 1956年にまでさか
のぼって保険料を瑚いこむことを認めた点は、その意義は別とし
て、特別の国庫負担等がない限り、結局既に加入している被保険
者層に大なり`小なり犠牲を強いるものであり、負担の公平、自助
原則、保険原則の絶特等の面から、多くの間堰を含んだ措置であ
ったといえよう。
(7)長期的性格をもち、生活保障の中核となる年金保険は、とりわ
け堅固な基礎の上に構築されねばならず、安易な切り下げは認
めがたく、給付は下方硬直的である1960年代後半の不況期には、
給付をできるだけ犠牲にしない方向で財政再建が模索されたが、
今回の1970年代後半の、しかも長びくと予想される不況期には、
給付の実質的切り下げは、避けられないかもしれない0
1957年の第一次年金改革で感立された新しい年金保険像は、第二汰
年金改革でもほぼ維持されて、今日に至っている。その特色は、保険
原則を重視し、保険料によって財源をまかない、賃金と保険期間に比
例した動的年金給付を行なうところにある。その基本目標は、
(1)被保険者が就業時に達成していた生活水準ないし社会的地位を
-186-.,
戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
退職後も維持する手とJ
(2)壷退職者の基本保障を行なうところの、租税を財源とする国民
扶助ないし国民年金七は逆に、拠出制年金は、将来の年金受給者
が就業期間中にその所得により算定される保険料を拠出すること
によって'、その老齢保障をみずから行なう、という自助原則に基
づくものである。したがって、その自助を確保すること、
(3)集団的老齢保障制度内部の垂直的分配
の三点にある、といわれているぎ)ァ
1975年から1976年にかけて行なわれた年金保険の財政危機をめぐる
論議では、こうした西ドイツ年金保険の性格なり、特色を全く変えて
国民(年金)保険(Volksrenten, Volksversicherung )なり、国
民扶助 Staatsborgerversorgung oder Staatsb迂rgerhilfe )なり
に制度を変更せよといった主張は全くなく、むしろ、現行年金保険制
度を維持するために、現在および将来の財政危輝をどういう対策で乗
り切るか、といった技癖的な次元での問題提起がほとんどであったo
理念なき論議といわれるゆえんである。
1976年12月に連立協定交渉で示された経過は、政府および政党の年
金保険に関する′理念のなさ、無定見ぶりを天下に明らかにし、いたず
らに国民の政府ないし議会制民主主義に対する不信を増幅させたにす
ぎなかった。与党や野党も、財政危機の解決を先にのばそうとし∴論
じられることといえば、技術的次元での、つぎはぎだらけの対策にす
ぎず、これらの対策を通じて達成されるべき年金保険の目標ないし理
想像といったものは、どの政党によっても、これまで全く提示されな
かったのである。
しかし、こうした財政的ないし技術的な次元での対策によって、年
47) Vgl. In岳titut,, Finanzen und Steuern ", a.a. (X, SS.13-15.
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戦後西ドイツ年金保険の展開と第二討整期の財政間膚
金保険の本質ないし基本的性格がなしくずLに変えられる可能性ない
し危険性があることに十分留意する必要がある。 とりわけ、政府、
与党側の態度は、その危険怪の強いものである、といえようO
労働省の専門家によって、 1976年7月未、赤字補墳方式が検討され
たことは既に述べたが、当時この方式にシュミット首相は「ナイン」
(杏)の返事をしている。しかし、同年12月13日の連立協定交渉,の準
議では、この方式とほとんど変わらない、積立金を3ヵ月分から1
ヵ月分に引き下げる案がとりいれられているのである。
1957年の改革で期待額充足式から期間充足式に切り替えられ、積立
金は担保準備金(Sicherungsreserve )の性格をもつ12ヵ月支出相
当分でよいことになった。さらに1969年の純賦課方式への移行によって、
最低3ヵ月分の積立金を年金保険は保有すればよいことになったが、
これは、給付支払のための準備金、いわゆる痛算準備金( Liquidit迂tsreserve )、 、ないし、経済変動による就業者数の増減等に基づく収
入の変動に備える変動準備金( Schwankungsreserve )の性格をもつ
ものである。
政府・与党の意図している赤字禰項式ないしそれに類似の財政方式
への移行が実現すると、わずかの経済変動が生じても、財政問題が発
生するであろう。また、支払期日の迫っている年金の支払いにも支障
をきたすこともおこりうる。あるいは、資本市場を不安定なものとし、
、非常に不利な条件で、保有している債券等を売却しなければならない
場合も考えられる。そして、被保険者の負担の限界が論議されている
現状では、保険料の引き上げは簡単には行なえないので、結局年金保
険の赤字は、国家保証により、主として租税によって補填されること
となる。それは国家の賂政・景気政策全体に不必要に大きな負担を永
続的に負わせることになろう。積立金の放棄ないし縮小は、国民にと
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戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政間腐
っても心理的に重要な役割を演じていた緩衝装置のなくなることをも
意味する。
国庫負担の増大を不可避とする赤字補填方式の類が導入されると、午
金保険は国家の財政状態により本質的に左右されることになり、その
結果は国家の影響力の増大となって現われ、極端な場合には、国家か
らの恵み′として、大蔵大臣の意向によって年金給付の内容が決定され.
支給されることになろう。今でさえ後退しがちな自主管理は全く形骸
化されるか、廃止され、官僚主義にとってかわられることになろう。
また、世代間契約も不必要に放棄されることになる。こうして、国庫
負担の増大は年金保険における保険性の喪失に導びき、年金水準は平
等化されてゆき、現行の拠出制の所得比例年金制度は、均一保障を提
供する国民保険なり国民扶助へと変質してゆくことになろう。しかしさ
このことは、年金制度のみならず、社会的市場経済原理を指導理念と
する西ドイツ経済体制にとっても、重大な問題を投げかけることとな
ろう48)
年金保険から国民保険ないし国民扶助への道を歩くかどうかは、 19
76年12月にはじまり、今後数年を要するであろう第二調整期の事態の
推移によって決定されることであり、その意味で、西ドイツ年金保険
制度は、現在確かに岐路に立たされているといえよう。
48) 西ドイツ経済に国家支出の占める割合、すなわち国家占率(Staatsr
quote )は1976年で約4プ%に達しており、これは社会的市場経済
原理をとる西ドイツ経済体制にとって既に高すぎる数値であるとし
て集中的批判の対象となっている.国家占率上昇の庫因として、景
気停滞による国家支出の増大と社会保障に対する国庫負担の急増が
あげられている。国庫負担r)連邦政府予算に占める割合は1965年で
約28%であったが、 1976年には37.5%に上昇している。(Vgl. Versicherungswirtschaft , 21/1976, S. 1230. )
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戦後西ドイツ年金保険の展開と第二調整期の財政問題
(追記1975年8月より1977年B月まで筆者は西ドイツに滞在し、同国の
保険学、生命保険、社会保障等の動向を直接見関することができた。棉
会を与えられた生命保険協会および生命保険文化センターに対し、本読
上を借りて、深甚の謝意を表明したい。 )
1977. 12. 30)
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