...

Page 1 Page 2 「河陽花」 の故事を踏まえるものではなく、 また 『懐風藻

by user

on
Category: Documents
106

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 Page 2 「河陽花」 の故事を踏まえるものではなく、 また 『懐風藻
河陽 文学の 初発
﹃凌雲集﹂ 河陽関連作品の考察
初発の河陽文学
井
実
充
史
が吉野川上流を﹃遊仙窟﹂に描かれた仙境や黄河上流の龍門になぞら
えたのと同様、平安人も中国の河陽を淀川の北にある山崎に比定して
新たな文学境を誕生させた、という。この指摘は勅撰三集時代全体を
ハ レ
貫く特徴として見る限り当たっていよう。たとえば、﹁文華秀麗集﹂
パ ロ
所載の﹁三春二月河陽県 河陽従来富二於花一﹂︵華・九六、嵯峨天皇
桂川・宇治川・木津川が合流し淀川と名を変えて流れ始めるあたり
の北岸を山崎と言うが、かつてそこは﹁河陽﹂とも呼ばれていた。淀
河陽旧来花作レ県 一県併是落花時 落花甑麗映二江辺一﹂︵坂田永河
における﹁河陽﹂の初見が弘仁十年二月一二日条︵﹃類聚国史﹄﹁天皇
の文学境を描く。また、﹁幸頼陪二天覧一 還同二塁渚査一﹂︵華・五、
﹁奉和聖製河上落花詞﹂︶は、いずれも﹁河陽花﹂の故事をふまえて花
﹁河陽十詠河陽花﹂︶や、﹃雑言奉和﹄所載の﹁天子乗レ春幸二河陽一
川の北岸に位置するゆえ、そう呼ばれたのである。﹁河陽﹂という地名
パまレ
については、それが山崎に現に存在したとも言われる。しかし、史書
以降﹃文華秀麗集﹂、﹃経国集﹄、﹃雑言奉和﹂に多数散見することから
遊猟﹂︶であるのに対し、弘仁五年成立の﹃凌雲集﹄にはすでに見え、
併是花﹂︵同﹁春賦﹂︶など で中国文学史上有名な地名であった。
成句としては﹁即是河陽一県花﹂︵北周・庚信﹁枯樹賦﹂︶、﹁河陽一県
れるようになったのであろう。そもそも﹁河陽﹂とは、かの播岳が県
パ ロ
令として赴任した際に桃李の花で県中を埋め尽くしたという故事
あったと考えるべきであろう。やがてそれが現実化して史書にも記さ
作品においては、確かに﹁文学境﹂としての﹁河陽﹂は成立していた
吉野宮応詔﹂︶などを想起させる。このように﹁文華秀麗集﹄以降の
野﹂︶、﹁欲レ尋二張憲跡一 幸逐二河源風一﹂︵懐・四七、大伴王﹁従駕
詩句﹁霊仙駕レ鶴去 星客乗レ査逡﹂︵懐・三二、藤原不比等﹁遊吉
え、磋に乗り黄河の水源を尋ねて天上までたどり着いた張篶の故事を
天﹂︵華・九七、嵯峨天皇﹁河陽十詠江上船﹂︶は、淀川を黄河に喩
仲雄王﹁奉和春日江亭閑望﹂︶や﹁風帆遠没虚無裡 疑是仙査欲レ上レ
そして、勅撰三集の時代、日本の﹁河陽﹂においては多数の漢詩文が
すれば、﹁河陽﹂は元来漢詩文の世界から生まれた雅語としての地名で
制作され、いわゆる﹁河陽文学﹂が生み出されたのである。その名付
うであろうか。
と考えられるのである。しかし、それ以前の﹃凌雲集﹄においてはど
黶j
﹁凌雲集﹄所載の河陽関連作品は八首あるが、それらは必ずしも
ふまえるが、吉野川上流を黄河上流にあち天上世界に喩えた奈良人の
け親である小島憲之は、播岳﹁河陽一県花﹂の故事に基づく﹁河陽﹂
という語感の中には、必ず花を想起すべき﹁文学境﹂があり、奈良人
(一
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
72
71
井実充史:河陽文学の初発
﹁河陽花﹂の故事を踏まえるものではなく、また﹃懐風藻﹄吉野詩の
江亭暁興
O江亭暁興詩群
河陽駅経宿有懐京邑
淳和東宮
嵯峨天皇
嵯峨天皇
ような神仙的気分を漂わせているわけでもない。しかしその一方で、
奉和江亭暁興呈左神策衛藤将軍
浪中明 静如レ練而雲間発 光与レ水而共清清 山風入二於戸棺一
遊覧未レ已 日落二西渓一 夜在二江亭一 高レ枕臥突 江上月
奉和春日遊猟日暮宿江頭亭子応製
春日遊猟日暮宿江頭亭子
O江頭亭子詩群
奉和江亭暁興詩応製
淳和東宮
嵯峨天皇
小野答守
レ
河陽文学の集大成たる嵯峨天皇﹁春江賦﹂︵経・一︶に見られる
情一
分聴二麗麗乎松声一帰雁欲下辞二汀洲一去上 飢猿暁動二覇旅
小野答守
嵯峨天皇
奉和春日遊猟日暮宿江頭亭子御製
和左大将軍藤冬嗣河陽作
O冬嗣作追和詩
︶
嵯峨天皇が河陽すなわち山崎に宿泊したのは、二月に行われた交野・
のような、春の旅先において月下に松声や猿声を聞きつつ旅情を抱く
河陽駅経宿有レ懐二京邑一 嵯峨天皇
それを指し、﹃凌雲集﹄河陽関連作品はすべてその遊猟期間に制作さ
水生野遊猟の際であった。江頭亭子詩群の詩題にある﹁春日遊猟﹂は
といった内容が、
河陽亭子経二数宿一 月夜松風悩二旅人一 雛レ聴二山猿助レ客
などにすでに詠まれている。以上のことからすれば、﹃凌雲集﹄にお
品のすべてが春に詠まれていることから、制作時期の候補からはずれ
われている。そのうち、弘仁二年閏十二月は、﹃凌雲集﹄河陽関連作
位以降﹃凌雲集﹂成立の弘仁五年以前には交野・水生野遊猟が四回行
る。三年二月は、十四日に水生野遊猟、翌十五日に交野遊猟が行われ
いないが、それに繋がっていく詩境を築きつつある段階の作品群と見
ることができよう。本稿では、こうした離陸期にある河陽文学、初発
ている︵ただし、山崎停泊及びその後の記事を欠く︶。四年二月は、
こに留まって翌々日の十八日には水生野に入り、その夕べに帰京して
十六日に都城から直接交野に向かい、夜は山崎駅を行宮とし、翌日そ
と思われる。そして、翌十七日の交野遊猟後は山崎離宮で一泊し、翌
いる。五年二月は、十六日に交野に入り、例年通り山崎駅に宿泊した
﹁凌雲集﹄河陽関連作品の詩題及び作者を内容別に掲げれば次のよ
これらの記事をまとめると次のようになる。
終了後から帰京までは、おそらく山崎離宮で過ごしていたであろう。
十八日は水生野遊猟に出かけ、十一日目に帰京している。水生野遊猟
O有懐京邑詩
うになる。
二 制作時期の推定
の河陽文学として、﹃凌雲集﹄河陽関連作品を位置づけようと思う。
ける河陽文学は、いまだ﹁文学境﹂としての﹁河陽﹂を確立し得ては
れたと考えられる。﹃類聚国史﹄天皇遊猟項によれば、嵯峨天皇の即
叫一 誰能不レ憶二帝京春一︵凌・十一︶
(一
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
70
年 月
初 日
交野遊猟
第二日
山崎離宮泊
交野遊猟
︵山崎駅泊︶
山崎駅泊︶
︵帰京又は
水生野遊猟
交野行幸
山崎駅泊
交野遊猟
︵山崎駅泊︶
三年二月
四年二月
五年二月
︵山崎駅泊︶
*︵ ︶内は推定
第三日
付 記
初日、山崎駅を
したがって、遊猟前日に交野入りした弘仁五年はまず除かれる。また、
れる。なぜなら、﹁左神策衛藤将軍﹂は左近衛大将藤原冬嗣のことで
令製題に﹁呈二左神策衛藤将軍一﹂とあることから弘仁三年も除外さ
あるが、冬嗣が左近衛大将を兼任したのは同年十二月のことであり、
それ以前の二月に作られる可能性はないからである。したがって、江
るように、当夜の詩会は夜明け近くまで続いたらしいが、同年の遊猟
水生野遊猟
行宮とする
は次の水生野遊猟までに一日余裕が設けられていたので、日程的には
到着の翌日、つまり第二日の朝に詠まれたと考えられる。ただし、
﹁我后巡レ方春日晩 廻饗駐レ躍次三江亭一﹂︵令製句︶によれば、山崎
ヤ ヤ ヤ ヤ ペ ペ
の翌朝に詠ぜられたことを示すが、﹁今宵旅宿江村駅﹂︵御製句︶や
ヤ ヤ ヤ や
次に江亭暁興詩群について見てみよう。詩題はこの詩群が山崎宿泊
二月十六日の作との推測はほぼ間違いあるまい。
当日の夜更かしも許されたであろう。以上の点からすれば、弘仁四年
﹁明月孤懸欲レ暁空﹂︵御製句︶、﹁鶏潮暁落波瀾急﹂︵答守詩句︶とあ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
帰京
日目に帰京
交野行幸後十一
頭亭子詩群は弘仁四年二月十六日︵初日︶に制作されたと推測される。
水生野遊猟
︵その間は山崎
離宮に宿泊︶
ヤ ヤ ヤ
とあるように山崎離宮に数日間滞在する中で作られている。弘仁五年
まずは有懐京邑詩から見ていこう。この詩は﹁河陽亭子経二数宿一﹂
とにより、このような長期滞在が可能になったと考えられる。
れたのであろう。弘仁五年二月は、駅に離宮としての設備が整ったこ
そ、山崎離宮︵弘仁十年以降は河陽宮と呼ばれる︶の整備が必要とさ
逆に言えば、山崎駅が天皇の長期滞在所として不十分であったからこ
その時の遊猟が三日間で切り上げられているのもそのためであろう。
それゆえに天皇の長期滞在には適していなかったのではなかろうか。
してそこを行宮としたとあるように、駅はあくまでも仮宮に過ぎず、
も数日間そこに滞在した可能性は残るが、弘仁四年の山崎駅宿泊に際
詠まれたと推測される。もちろん、後日の記事を欠く弘仁三年の遊猟
野遊猟に出かける直前に詩席が設けられたと推測する。
えるべきであろう。したがって、五年二月十七日︵第二日︶の朝、交
たく触れていないことからすれば、やはり直接山崎駅に入った時を考
三首とも都城を出発して山崎駅に着くまでを詠む際に遊猟に関してまっ
製句︶、﹁本期二旅客千里到一 不レ慮饗輿九天臨﹂︵答守詩句︶の如く、
響三夜亭﹂︵御製句︶、﹁我后巡レ方春日晩 廻饗駐レ次一一江亭]﹂︵令
た翌朝に詠んだかということになるが、﹁今宵旅宿江村駅 漁浦漁歌
そこで、水生野遊猟を終えた翌朝に詠んだか、ただ交野に行幸してき
年の第二日は除外され、弘仁三年もしくは五年の第二日が候補となる。
る。したがって、夜明けごろ近くまで詩会があったと推定した弘仁四
雨﹂︵令製句︶とあることから、前夜はきちんと就寝したことがわか
﹁水気眠中来湿レ枕松声覚後暗催レ聴﹂︵御製句︶や﹁岸上松声眼裏
ヤ ヤ ヤ ヤ
論述の都合上、先に江頭亭子詩群を見ておきたい。この詩群は、令
の遊猟後は長く山崎に滞在しているので、おそらくこの時の滞在中に
製に﹁二月平皐春草浅 千乗犯レ暁出二城中一﹂とあることから、早
最後に冬嗣作追和詩であるが、先述の如く冬嗣が左近衛大将を兼任
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
朝に京を出発し、狩猟を終えたその日に山崎に入ったことがわかる。
︵二二︶
69
井実充史:河陽文学の初発
春に詠まれているので、弘仁四年もしくは五年の二月に行われた交野・
したのが弘仁三年十二月であり、また﹁節序風光全就レ暖﹂のように
文王の如く狩りによって太公望のような賢人に出会いたいのだ。
と懸かっている。私は夏太康の如く狩りに耽っているのではない。周
ると天まで連なる長い川へ消え入り、明月だけが明け行く空にぽつん
を承けて輝き、鳥を追った鷹はそよ風を払って飛ぶ。旅船は日が暮れ
l︶
水生野遊猟時における作であることは確かである。現段階ではそれ以
小島注は第七句中の﹁夏王﹂を夏の暴君桀のこととするが、ここは
ヤ ヤ べ
上は未詳と言わざるを得ない。
冬嗣作追和詩−
江亭暁興詩群−
江頭亭子詩群:
−弘仁四又は五年二月の交野・水生野遊猟時
:弘仁五年二月十七日
−弘仁四年二月十六日
尾聯は、小島注も指摘するように、唐太宗﹁冬狩﹂の﹁心非二洛油
は君主の徳を失った太康を指すと解釈するべきである。
ちが歌を以て戒めたという﹁尚書﹂五子之歌に基づく表現で、﹁夏王﹂
ヤ ヤ
楽﹂は次にあげる五子之歌を典拠としている。
望の故事を典拠とする。一方、﹁心非二洛酒逸一﹂及び﹁禽荒非レ所レ
認められ、そのうちの﹁意在二清浜游一﹂は嵯峨御製句と同じく太公
逸一 意在二清浜游一 禽荒非レ所レ楽 撫レ轡更招レ憂﹂に学んだと
有懐京邑詩::
以下、右に推定した制作順序にしたがって、
検討していこう。
三 江頭亭子詩群
ヤ ヤ
太康尸位、以二逸予一滅二厭徳一。黎民威二。乃盤遊無レ度。政一一
ヤ
干有洛之表一十旬弗反。⋮⋮厭弟五人、御三其母一以従、僕二干洛
之納一五子威怨、述二大禺之戒一以作レ歌。⋮⋮其二日、訓有レ之、
内作二色荒一外作二禽荒一甘レ酒嗜レ音、峻レ字彫レ摘。有レニ[干
ペ ヤ
三春出二猟重城外一 四一一望江山一勢転雄 逐レ兎馬蹄承二落
春日遊猟日暮宿二江頭亭子一 嵯峨天皇
荒み、酒や音楽に溺れ、宮殿を飾り立てれば、必ず国は滅びるであろ
ち、皇祖禺の戒めを述べて歌を作った。⋮⋮︵その二︶女色や狩猟に
も帰らなかった。⋮⋮そこで彼の五人の弟たちは洛水の隈に太康を待
その大意は﹁夏王啓の子太康は遊楽に耽り、洛水の狩に出かけて百日
此一未レ或レ不レ亡。
日一 追レ禽鷹翻払一一軽風一 征船暮入二連レ天水 明月孤
︵凌・十三 ︶
最初に通釈をしておこう。宮都を離れて春の狩りに出かけ、四方を
望めば山川は次々と雄大な風景が展開する。兎を逐った馬の蹄は夕日
た史書等の影響に拠るとの指摘もある。おそらく太宗文学は模範的な
レ
た嵯峨・淳和朝を支配した経国的文章観が太宗朝貞観年間に撰進され
う﹂とまとめられる。嵯峨天皇は諸事唐太宗を範とし、嵯峨天皇の頻
パヌロ
繁なる狩猟も、終生狩猟を愛好した太宗への傾倒の一つと言われ、ま
懸一一欲レ暁空一 不レ学三夏王荒二此事一 為レ思三周卜遇二非熊 ものである。まずは御製から見ていこう。
日︶の夜、山崎駅の行宮に設けられた遊猟後の酒宴において詠まれた
先に推定した如く、本詩群は、弘仁四年二月の交野遊猟初日︵十六
それぞれの表現を詳しく
−弘仁五年二月十八∼二十七日
洛水の狩りに耽って政治を怠った夏王太康に対して、その五人の弟た
ロ
以上をまとめれば次のようになる。
(一
的に見れば両詩の内容にはかなりの相違も見られる。太宗御製の全文
太宗御製句が太公望の故事だけなく五子之歌も典拠としていることを
ヨロ
理解したうえで、その両典拠を対句に仕立てたのである。だが、全体
帝王文学として嵯峨朝詩壇に享受されていたであろう。嵯峨御製句は、
見えるが、それ以外は未見であり、群盗という特殊な題材を詠んだ答
頸聯中の﹁征船﹂は、小島注もあげる答参﹁阻戎濾間群盗﹂に一例
峨御製は、こうした中国的伝統とは異質の要素を含んでいると言わざ
これは旅宿先の行宮から見えた実際の夜景であろう を描く嵯
ヤ
は、﹁連レ天漢水広 孤客鄙城帰﹂︵王維﹁送友人南帰﹂︶、﹁漢口夕陽
ここはこれら旅に関わる詩語を応用したと見てよかろう。﹁連レ天水﹂
ヤ
参詩を参照したとも思えない。一方、それと類似する﹁征樟﹂﹁征帆﹂
パロレ
の詩語は送別詩を中心に拾うことができ、特に﹁征帆﹂は多出する。
るを得ない。
を掲げよう。
冬狩 太宗皇帝
烈烈寒風起 惨惨飛雲浮 霜濃凝二広限一泳厚結二清流一金鞍
移二上苑一 玉勒駒二平疇] 旌旗四望合 買羅一面求 楚賠争兇
磧 秦亡角鹿愁 獣忙投三密樹一 鴻驚起工礫洲] 騎敏原塵静
中丞﹂︶とあるように水面の長大さ広大さを表す語である。とくに劉
斜渡レ鳥 洞庭秋水遠連レ天﹂︵劉長卿﹁自夏日至鸚鵡洲夕望岳陽寄源
乱ツ苗鄭判官帰江西﹂︶、﹁憐君異域朝・周遠 積水連・天何処通﹂
ヤ ヤ ヤ
長卿が送別詩によく用いた表現で、﹁江城寒背レ日 温水暮連レ天﹂
ヤ ヤ ヤ
戎廻嶺日牧 心非二洛納逸一 意在二清渓游一 禽荒非レ所レ楽
撫レ轡更招レ憂
寒々とした冬の光景を導入とし︵第一∼四句︶、継いで出猟から終
猟までの要所が描かれ︵第五∼十四句︶、最後に、夏太康の如く洛水
の狩りに耽るのではなく、周文王のように賢人太公望と出会うことが
ッ崔載華贈日本聰使﹂︶、﹁江潮森森連レ天望 施旛悠悠上レ嶺翻﹂
ヤ ヤ
¥王相公出牧括州﹂︶などの例がある。﹁明月孤懸﹂は、小島注もあ
ヤ ヤ ヤ ヤ
ったと見てよかろう。これもまた異郷で見る情景を詠む。とくに﹁孤
げる初唐・盧照郡﹁関山月﹂の﹁相思在一一万里一 明月正孤懸﹂に拠
中国における狩猟を描いた文学は、勇ましい狩猟を描いた後に奢侈を
以上のように、本詩が持つ中国狩猟文学との異質性は、そこに漂う
ている。
に収められた諸賦は、程度の違いこそあれ、いずれも狩猟の盛況さを
なぜこうした異質性を抱え込んでいるのであろうか。日本古代におけ
旅立ちの雰囲気や他郷感覚、要するに旅情性にあると言えよう。では、
懸﹂は﹁万里﹂の距離感と相俟って旅人の孤独感を象徴する語となっ
て諷喩性を添えている。政猟賦を代表する司馬相如﹁上林賦﹂はその
狩猟と文学との関係、特に平安朝前期のそれはどうであったのだろう
典型で、華々しい狩猟が終わった後の酒宴では、天子が目己の奢侈的
いると言え、それと同様の結末を持つという点で、確かに嵯峨御製も
行為を反省し仁政に努めるという結末を持つ。狩猟の様子を力強く描
ぼロ
写した後で奢侈の狩猟を戒める太宗御製も、こうした伝統を継承して
さまざまな︿野﹀で頻繁に遊猟を行ったが、遊猟後は時に臣下の別業
ワ︶
を訪れることがあった。なかでも、延暦十七年八月十三日の北野遊猟
か。﹃類聚国史﹂天皇遊猟項によれば、桓武天皇は交野を始めとする
る王権と狩猟との関係について、歴史学のほうでは概ね狩猟が王権の
ぼロ
伸張に重要な役割を果たしたという方向で捉えているようであるが、
華々しく描くことに文芸的眼目を置く一方で、最後にその奢侈を戒め
戒める諷喩的内容を付加する作品が多い。たとえば、﹁文選﹂政猟部
冬狩開催の本意であることを表明する︵第十五∼十八句︶。そもそも
(「
(「
(「
狩猟文学の伝統はふまえている。しかし、狩猟中ならぬ狩猟後の状況
ばかりを描写し、さらに本来なら狩猟とはまったく無縁の征船や明月
(一
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
68
67
井実充史=河陽文学の初発
Z︶
に値する。その時の御製が残されているので掲げよう。
臣が歌を夜更けまで唱和しあっており、本詩群の制作状況に近く注目
時には、伊予親王の山荘を訪れて酒宴を行い、鹿の鳴き声を聞いて君
旅情性を内包するかたちで始まったのも、嵯峨朝においては相応の必
と密接に関わる行事から生まれた河陽文学が、中国的伝統から逸脱し
出遊はまさに旅として実感されたに違いない。遊猟という王権の伸張
然性があったと考えられる。
たとえ夜が更けても夜明けごろに鳴く鹿の声を聞くまでは帰るまいと
尽還疑二月影空一 合レ暗征船唯見レ火 連レ雷浦樹山豆分レ紅
二月平皐春草浅 千乗犯レ暁出二城中一鶉驚遥似二星光落一
奉三和春日遊猟日暮宿二江頭亭子一応製 淳和東宮
続いて奉和詩の検討に移る。まずは令製から。
歌うその主意は、夜通しこの風流な遊びを楽しもうというもので、お
朝聖想期二何得一 不レ異二周王猟レ清風一︵凌.二七︶
今朝の朝げ鳴くちふ鹿のその声を聞かずは行かじ夜は更けぬとも
よそ狩猟に対する諷喩性とは無縁の享楽的内容である。林陸朗は、桓
パほロ
武天皇の遊猟が帝王としての独占的な特権・示威的行動であり、専制
るばかり、空に連なるまで続く浦の花樹も闇に紛れてその紅さを分け
のようである。夜の闇と合わさって真っ暗な船にはただ赤い火が見え
二月の平沢に春草は浅く、天子は暁を突いて都城を出る。鶉が驚い
君主の気侭な奢侈的傾向を持つと述べるが、平安朝の狩猟は当初から
と記され、表記においてすでに享楽的要素が含まれている。そこで詠
持つことができない。今朝の狩りで天子は何を得ようと期待したかと
て飛び立つ様子は遥か遠くに鶉火と呼ばれる星の光が落ちるようであ
まれた文学も、中国的な狩猟文学とは異質の遊猟文学とでも呼ぶべき
遊楽への志向性が強かったのである。奢侈の戒めを結びとする中国の
ものなのであろう。ただし、それが嵯峨朝においてなぜ旅情性を持つ
言えば、滑水のほとりで周文王が太公望を得たことに他ならない。
り、兎が獲り尽くされると兎の住むという月の光もむなしく消えるか
ようになったのかについては検討を要する。なぜなら、日帰りですま
に首・尾聯に詠まれている内容は御製の焼き直しである。一方、頷・
まず、内容・構成ともに御製を襲っていることは明かであろう。特
でに用意されていたと言えよう。そもそも桓武朝以降の狩猟は﹁遊猟﹂
すこともあった山崎への行幸は、距離的にみてけっして行旅と言うほ
になっていったと述べる。実際、桑子の変では宇治・山崎・淀に派兵
承和の変・文徳天皇没時に宇治・山崎・淀・大原・大枝などが警固さ
は山崎への出遊を旅と見なしたのであろう。仁藤智子は、薬子の変.
る。その地を京外、すなわち他郷と認識していたからこそ、嵯峨朝人
させたものは、実際の距離ではなく当時の空間認識であったと思われ
檀に﹁不レ狩不レ猟胡澹二爾庭有ワ県レ鶉分﹂とあり、また﹃文選﹄
のを鶉狩りとして具体化する。鶉狩りについては、﹃毛詩﹄国風−伐
﹁鶉驚遥似二星光落正は御製で﹁追禽﹂と一般的に表現されたも
いてさらに詳しく見てみよう。
して、本詩は夜景に焦点を絞ることで趣向を変えている。その点につ
頸聯は、御製が日暮れから夜明けまで時間を追って情景を描くのに対
として強く意識していたことがわかる。その一線を越えたとき、その
があり、当事者であった嵯峨天皇自身がそれらの地を平安京の防衛線
鵠の六禽を宗廟に献じた︵﹁升三献六禽一﹂︶とあるので、古代中国で
所載の張平子﹁東京賦﹂にも、上林苑の狩猟で順、鶉、鵠、雅、鳩、
ハぬロ
れていることから、それらの地が平安京周辺の境界と考えられるよう
パれ レ
ペ ヤ ヤ や
どの遠出ではなかったからである。おそらく、山崎を旅先の地と意識
伝統的な狩猟文学とは異質の何かが入り込む余地は、嵯峨朝以前にす
今兎
(一
例は拾いがたい。それに対して錐狩りの用例は容易に見い出せ、また、
も行われていたはずであるが、盛唐以前の詩においてそれが詠まれた
乏している者がはたして今いるであろうか。これを見ても天子が賢人
の吐く気は朝あたりを浸して塩土がわずかに見える。在野にあって窮
パめ マ
これと対をなす﹁兎尽還疑二月影空﹂の免も、獲物としてよりは月
火という星名もあるように鶉が星と縁のある鳥であったからであろう。
の状態を潮流の如くまた辰虫気楼の如く奇異なる自然現象として壮大に
まったく無縁に君主を称揚する表現である。頸聯は淀川の流れと空気
本詩もまた首・尾の枠組みは御製に対応している。では頷・頸聯は
どうであろうか。まず頷聯は臨時の皇宮を賛美したもので、狩猟とは
を任用し御車に載せて帰っているということがきっとわかるだろう。
との由縁に着目した表現である。ここの対句は、狩りの穫物を誇るた
描いたもので、御製の旅情性や令製の賞美性とは少しく性質を異にす
よかったはずである。それにもかかわらずあえて鶉を選んだのは、鶉
パロロ
山崎付近では鶉だけでなく堆もよく獲れたらしいので、ここは維でも
めというよりは、むしろ即物の夜景である星や月を詠み込むことに重
る。これは次の賂賓王詩に拠っていよう。
春レ蒙分二四漬一 習レ炊葵二三荊一 徒レ帝留二余地一 封レ王表二
早発二准口﹃望二旺胎一 賂賓王
点があり、それと縁を有する獲物として鶉と免が選ばれたと思われる。
御製においては狩りの成功を言祝ぐ獲物として描かれていた免・禽も、
ここでは夜空の天象を描くための小道具に過ぎず、狩猟文学のもつ荒々
しさは消え賞美的な傾向を示していると言えよう。その傾向は頸聯
積二溜明﹃ 一朝従レ捧レ傲千里倦レ懸レ族背レ流桐柏遠 逗レ
旧城一 岸昏洒三厩虫気 潮満応二難声一 洲週連二沙静一 川虚
は本来旅船を意味するが、ここは漁り火を灯す漁船であろう。一句は
浦木蘭軽 小山迷二隠路一 大塊切二労生一 唯有二貞心在一 独
﹁合レ暗征船唯見レ火 連レ香浦樹山豆分レ紅﹂にも続いていく。﹁征船﹂
漁り火以外のすべての光と色を消し去ることで、暗影たる闇夜の情景
映二寒潭清一
を継ぐと、邪魔になった懐王を殺害し自ら王となって彰城に都を定め
定めさせた土地で、項梁の死後は彰城に遷都したが、項羽が項梁の後
詩題中の﹁肝胎﹂は項梁が楚懐王の孫の心を立てて懐王と仰ぎ都を
を浮き彫りにする。紅の灯火のみ点滅する闇夜の風景は陰影に富んだ
情景描写と言え、さらに賞美性に傾斜した表現となっている。
では、もう一つの奉和詩はどうであろうか。
奉下和春日遊猟日暮宿二江頭亭子一御製上 小野答守
たと言う。﹁徒レ帝留二余地皿 封レ王表二旧城一﹂はこの故事に基づき、
ぼロ
続く﹁岸昏酒二唇気一 潮満応二難声一﹂でその舞台となった准水下流
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
客舘作二重閨一 鶏潮暁落波瀾急 唇気朝酒鴻歯微 空二乏草沢﹁
の光景をある種の畏敬の念を持って壮大に描く。さらに、旅路を愁い
君王猟罷日云暮 江上郵亭駐二線輿一 鏡石山流汲二御井一 郡□
今在否 応レ知天子同載帰︵凌・六三︶
我が君の狩りは終って日も暮れ、川辺の宿駅に美しく飾った御車を
らも︵﹁小山迷二隠路一大塊切二労生一﹂︶、いまだ薄れぬ自己の貞節
齟ゥ従レ捧レ激 千里倦レ懸レ族﹂︶苦労多い不遇の人生を嘆きなが
お止めになる。岩に穴をあけるほどに勢いよく流れ落ちる山の水を天
が左遷され臨海丞にあったときの作であろうが、答守が詩人の抒情と
オ︶
は無縁にたんに気の利いた情景描写として取り込んだとも思えない。
心を吐露する︵﹁唯有二貞心在一 独映二寒潭清己︶。おそらく酪賓王
鳴に応じて起こる潮も夜明けごろには退いて波浪が急いを増し、大蛤
子の御井として汲み、郡□の旅館に幾重にも重なった門を設ける。鶏
(「
(一
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
66
65
井実充史:河陽文学の初発
度重なる上疏諌言が禍して臨海︵浙江省︶の丞に左遷され、他郷での
清く澄み、戸外の朝の山は屏風のようにそびえ立つ。霧や朝焼けのた
を傾けるように促す。大空の果てにかかるる明け方の月は鏡のように
ェ︶
生活を強いられた賂賓王の不遇の人生は、賂賓王集の編者である初唐・
ある。
とができた。まして、川岸の春草が青々と茂っているのでなおさらで
浸透していたであろう。頸聯の情景は、忠臣を自負ながらも左遷され
詩題の﹁暁興﹂は明け方のおもしろみの意であるが、盛唐以前にこ
パ ロ
の詩語の用例を見い出すことは困難で、﹁暁興﹂という詩題は独自の
ちこめる春のおもしろみが満ち足りたものであることをここに記すこ
て他郷にある賂賓王の目が捉えた壮大な自然を想起させ、そのような
ものと言えよう。さらに詳細に見ていこう。まず首聯では、﹁江村﹂
たはずである。当然、客愁の詩人駒賓王という印象は嵯峨朝詩壇にも
不遇の賢臣を一人も見過ごさない嵯峨天皇の明君さを讃える尾聯と微
暗征船唯見レ火﹂の先例があり、これに触発されたものであろう。た
詩語が選ばれている。このうち漁船への着目は前年の令製句に﹁合レ
﹁漁浦﹂﹁漁歌﹂など、宿泊先が漁村であることを強くイメージさせる
る流離の悲哀感が籠もる酪賓王詩に学んだのは、御製の旅情性に触発
だし、令製句が暗闇の水上を動く火の光を微かに捉えた美的情景であ
るのに対し、こちらは闇夜に聴覚を働かせ、それが都では聞き慣れな
前句﹁水気眠中来湿・枕﹂は、川の湿気に襲われるという宮中では経
い﹁漁歌﹂であると明示することで異郷情緒を醸し出している。頷聯
弘仁五年二月春の遊猟はそれまでと異なり、初日は猟を行うことな
験できない異常な体験を詠じて他郷感をよく表現し得ている。後句
﹁松声覚後暗催レ聴﹂も松風に目を覚ますという旅ならではの体験を
六朝詩・唐詩にも頻出する陳腐な譬喩であるが、川の流れ行く果てに
日遊猟日暮宿江頭亭子﹂でも淀川の流れを﹁連レ天水﹂と表現してい
ハハロ
た。月を鏡に喩えることはすでに﹃懐風藻﹂に﹁月鏡﹂の語が見え、
淀川が遠く大空と一つになるその果てに懸かる月のことで、先の﹁春
江亭暁興 嵯峨天皇
懸かる月は宮中では見られない眺めであったろう。﹁朝山﹂及び山を
詠ずる。頷聯の近景に対して頸聯は遠景を描写する。﹁天辺暁月﹂は
今宵旅宿江村駅 漁浦漁歌響三夜亭一 水気眼中来湿レ枕 松声
屏風に喩えた用例は小島注も述べる如くなかなか検出し得ないが、や
ての情趣が詠まれている。
覚後暗催・聴 天辺暁月看如・鏡 戸外朝山望似・屏 記得煙霞
今夜川沿いの村の駅家に泊まると、漁をする入江で歌う漁夫の声が
普通は記憶する、思い出すという意味である。しかし、令製に﹁煙霞
から、思い出したとの解釈はここでは当たらない。小島注は﹁心の中
ヤ ヤ ヤ ヤ や
欲レ曙鶏潮落﹂と詠まれているように、﹁煙霞﹂は現実の風景である
湿らせ、岸の松を吹く風の音が目を覚ますと聞こえてきてひそかに耳
夜の宿駅に響いてくる。川の湿気が眠っている最中にやってきて枕を
はり郊外ならではの眺めとして描いたのであろう。尾聯の﹁記得﹂は
ヤ ヤ
春興足 況乎河畔草青青︵凌・十二︶
臣唱和はその初日翌朝の詠であって、山崎到着の夜から明け方にかけ
日の山崎滞在を経て帰京するという日程であった。﹁江亭暁興﹂の君
く山崎駅に入り、第二、三日と続けて交野・水生野遊猟を行い、十余
四 江亭暁興詩群と冬嗣作追和詩
されてのことと見てよかろう。
た、君主称揚に通ずる情景描写と見てよかろう。もちろん、左遷によ
妙に響きあっている。これもまた、狩猟とは無縁のところがら生まれ
邪雲卿の附した序文にも記されおり、当時においてもよく知られてい
(一
とをさとったと解釈するが、これまでの叙景によって河陽の春景色の
にしるす、さとる﹂として、この暁の景によって春興が十分であるこ
る。なぜこうした逸脱を犯してまで﹁春興﹂を詠んだかについては一
なっている。つまり、﹁春興足﹂は﹃首の主題からずれているのであ
おもしろみをすべて記し得た、と文字通り解釈することもできよう。
う。
考の余地があるが、この点は後述するとして、先に奉和詩を見ておこ
ヤ ヤ ヤ や
いずれにせよ誤用であるが、ここで描かれた風景が春興を満たすもの
選﹄﹁古詩十九首﹂の第二首冒頭に見える﹁青青河畔草 欝欝園中柳﹂
景色として河畔に青々と生える草が描き添えられる。この句は、﹁文
多奇造化形 岸上松声眠裏雨 舟中火色望前星 煙霞欲レ曙鶏潮
我后巡レ方春日晩 廻蜜駐レ躍次二江亭一 水流長製天然帯 山勢
奉三和江亭暁興﹁呈一一左神策衛藤将軍一 淳和東宮
と認識されていることは確かであろう。そして、さらに満足させる春
に拠るが、そこでは旅に出て帰らぬ夫を待って独り寝をかこつ若妻の
落 帰雁群鳴起二迫汀一︵凌・二八︶
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
嘆きが詠われており、この春草は妻の悲哀を暗示する。類句として
たる春草は旅にまつわる悲しみの心象風景として描かれるというのが
道﹂が挙げられるが、こちらの青草も旅愁を暗示する。要するに青青
るすぐれた形をしている。岸辺の松風の音はまるで旅寝に聞く雨音の
駅に泊まる。川は天然の帯となって遠く流れ行き、山は造化の神が作
我が君主は四方を巡行して春の日は暮れ、御車を止めて川沿いの宿
﹃文選﹄﹁楽府三首﹂古辞﹁飲馬長城窟行﹂の﹁青青河辺草 綿綿思遠
ヤ ヤ ヤ ヤ
六朝.唐詩の通例である。たとえば﹁春草青青万里余 辺城落日見二
出す効果のみを期してこの句を引用したのであろう。こうした未熟な
の用典は未熟と言わざるを得ないが、嵯峨天皇としては旅情性を醸し
郷愁の心象風景となっている。こうした大陸の用例を見る限り、本詩
郷関何処是 煙波江上使二人愁一﹂とあって、やはり﹁春草青青﹂は
歴歴漢陽樹 春草青青鸚鵡洲﹂︵崔顯﹁題黄鶴楼﹂︶も、直後に﹁日暮
用した一例で、小島注がたんなる春景を描いた用例として引く﹁晴川
離居﹂︵盛唐・張旭﹁春草﹂︶はこの句の持つ悲哀感の暗示効果を利
その説明は後に譲って、まずは表現を分析しよう。
して、冬嗣がなんらかのかたちで話題に登ったに違いない。しかし、
ためとするが、それだけではあるまい。この君臣唱和がなされるに際
由について、小島注は当日の河陽離宮行幸に冬嗣が供奉できなかった
御製に奉和し藤原冬嗣に見せた詩である。わざわざ冬嗣に見せた理
北へ帰っていく雁は群れ鳴いて広々としたみぎわを飛び立っていく。
たちこめる朝がようやく明けようとして鶏鳴に応じて起こる潮も退き、
ようで、漁船の漁り火は目の前に星を望むかようのだ。畿や朝焼けの
ヤ ヤ ヤ ヤ
点は残すものの、一首の中心は旅情性にあり、狩猟に関わる要素はまっ
頷聯は河陽の山水を﹁天然﹂﹁造化﹂のなせる業として最大級に賛
ヤ ヤ ヤ ヤ
たく詠まれていない。狩猟行事において詠まれた作品ではあるが、も
美する。こうした自然賛美の仕方は﹃凌雲集﹄に類例がある。まず
嵯峨天皇﹁神泉苑花宴賦落花篇﹂︶が見え、﹁天然﹂は他の唯一の例と
﹁造化﹂については﹁見取花光林表出 造化寧仮二丹青筆こ︵凌・三、
ヤ ヤ
はや狩猟文学とはまったく無縁の作品になっていると言えよう。
ところで、この尾聯前句の意図するところは今ひとつはっきりしな
い。なぜなら、﹁春興﹂を満たす景色とされる尾聯以前の叙景︵景物
して﹁青黄赤白天然染 南北東西非有情﹂︵凌・五六、小野答守﹁雑
ヤ や
言於神泉苑侍講賦落花篇応製﹂︶がある。嵯峨天皇﹁落花篇﹂の﹁造
では﹁松声﹂﹁暁月﹂︶は、けっして春を思わせるものではないからで
ある。むしろ、叙述の中心は郊外の川沿いに旅宿して迎える明け方の
化寧仮二丹青筆一﹂は、盛唐・答参﹁劉相公中書江山画障﹂の﹁始知二
縺j
情趣にあり、それはまた﹁江亭暁興﹂という題意にも符合する内容と
(一
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
64
63
井実充史:河陽文学の初発
伝舎前長枕三江側一 滔滔流水日夜深
本期二旅客千里到一
︵二〇︶
漂歌半雑二上都音一
を重視する傾向がうかがえる。頸聯前句﹁岸上松声眼裏雨﹂は、御製
取り入れたのであろう。江頭亭子詩群の場合と同様、ここにも賞美性
歌詞はまったく鄙びているが、洗濯歌には半ば都の音調が混じってい
が、思いがけなくも御車が天の彼方からやって来られた。船漕ぎ歌の
である。もともと遠くから訪れる旅人のために設けられた駅舎である
駅舎の前は長々と川べりに臨み、酒々と流れる水は日夜水量が豊か
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
も賞美的傾向が強く出ていると言えよう。尾聯前句﹁煙霞欲レ曙鶏潮
による造語であろう。他郷感覚に中心をおいた御製の頷・頸聯句より
て描いたものと述べるが、むしろ山崎で歌われる歌謡の土俗性を根拠
う。小島注は、昼間から夜間を経て夜明けごろの情景を時間軸に沿っ
夜亭一﹂にヒントを得たのであろうが、御製と異なり昼間の情景を詠
たことを述べる。土俗の歌謡に言及する頸聯は御製句﹁漁浦漁歌響二
ヤ
落﹂は御製尾聯の﹁記得煙霞春興足﹂に応じ、さらに江頭亭子詩群の
ものであろう。ただし、御製句の醸し出す孤独感や答守句に見られた
叫び声をあげて旅愁を助長し、天下を我が家の如く治めねばならぬ天
て異郷の地山崎を印象づけるのである。尾聯では、﹁暁猿﹂が断腸の
に当地の鄙ぶりを主張する観念的情景と見るべきであろう。それによっ
旅愁に萎えた天子の心をもり立てようとする忠臣らしい心遣いが読み
自然に対する畏敬の念は消し去られ、単純な美景表現となっている。
とれよう。
子の志を挫けさせてしまうので、猿よ鳴くことなかれと訴えかける。
ろう。
ところで、本詩の主意は猿声に助長される天子の旅愁を慰めるとこ
ようとしたのに対して、春の風物である帰雁でもって応じたものであ
要するに本詩の特徴は、前年に制作された江頭亭子詩群の表現や、
ろにあるが、原詩の御製にそのような旅愁はまったく詠まれていなかっ
た。それにもかかわらず、わざわざ天皇の旅愁を慰める詩で以て応じ
でに洗練させてきた美の粋を貪欲に取り込みながらより高い賞美性を
追求したところにあると言えよう。
ではなかったか。
発せられたと考えざるを得ない。それは﹁和左大将軍藤冬嗣河陽作﹂
たのには、やはり旅愁を感じさせる文句が何らかの形で天皇の口から
奉二和江亭暁興詩一応製 小野答守
もう一つの奉和詩について見てみよう。
さらには﹁落花篇﹂などで試みられた表現など、嵯峨朝詩壇がそれま
後句﹁帰雁群鳴起二遡汀一﹂は御製が青草によって春の情趣を表現し
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ ヤ
御製句﹁明月孤懸欲レ暁空﹂や答守詩句﹁鶏潮暁落波瀾急﹂に学んだ
暁・
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
丹青筆一 能奪二造化功乙に学び、花林の美を人事の及ばぬ﹁造化
慮二饗輿九天臨一 樟唱全聞二辺俗語一
の頷聯﹁水気眼中来湿レ枕 松声覚後暗催レ聴﹂を一句に圧縮し、さ
る。夜明けごろに鳴く猿よ、どうか腸が断ち切れるような悲しい叫び
︵凌・六二︶
らに松風の音を雨音に喩えて美化したもの。後句﹁舟中火色望前星﹂
声はあげないでくれ。天下を我が家として統治するのが天子の御心な
猿莫レ作二断腸叫一 四海為レ家帝者心
の功﹂として最上級に賛美したものである。この嵯峨御製に唱和した
答守詩も、花の色彩美を同じく人事を超越した﹁天然の染み﹂として
は江頭亭子詩群の自作句﹁鶉驚遥似二星光落し及び﹁合レ暗征船唯
のだから。
賛美する。本句はこれら﹁落花篇﹂詩群で生まれた自然賛美の手法を
見レ火﹂を掛け合わせたような句で、その時は鶉の斑点を星に見立て
首・頷聯は本来旅人の宿泊施設に過ぎない駅舎に天皇の行幸があっ
ヤ ヤ ヤ や
は白居易まで見えないが、大火は星の名前の一つであるので、その縁
たが、今度は漁り火を星に見立てている。なお、詩語﹁火色﹂の用例
不
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
62
長江入レ海寛 暁猿悲吟誰断得 朝花巧笑山豆堪レ看 非三唯物色
和二左大将軍藤冬嗣河陽作一 嵯峨天皇
今度は両者の相違点が参考となろう。それは、冬嗣作追和詩が首聯で
とは間違いあるまい。では、どちらが先行作品であったかというと、
とっているのである。この点から見て、両詩間に影響関係があったこ
春の到来に言及しているのに対して、﹁江亭暁興﹂は春らしい情景に
節序風光全就レ暖 河陽雨気更生レ寒 千峰積翠籠レ山暗 万里
催二春興一 別有三泉声落三雲端一︵凌.十四︶
られるにふさわしい情景が詠まれているのは明らかに冬嗣作追和詩の
触れるところが一切ないという点である。﹁春興﹂という語でまとめ
方である。先に述べたように、﹁江亭暁興﹂は明け方の情趣を描くこ
趣向を変えて﹁暁興﹂を詠む際に同じ手法をそそまま転用したため、
が寒さを生みだす。峰々の緑が山を閉じこめて暗く、万里と続く長い
あたりはすべて暖かくなりつつあるが、この河陽では雨模様の大気
後者にずれが生じたと考えれば説明がつくであろう。先に自作で不正
とを主題とし、﹁春興﹂はそこからずれていた。この現象については、
ど可憐だ。ただあたりの景色だけが春の面白味をかきたてるのではな
確な使用を行い、それをわざわざ他作に追和する段で妥当なものに改
大川は海にまで通じてゆったりと流れる。夜明けに鳴く猿の悲しい声
い。なかでも雲の中から落ちてくる滝の音は特別だ。
正したということは考えがたい。
﹁春興﹂の使用に妥当性のある冬嗣作追和詩が先行し、﹁江亭暁興﹂で
右詩第五句に問題の﹁暁猿﹂という語が含まれる。可憐な朝の花と
さて、以上のように考えた場合、失われた冬嗣﹁河陽作﹂の果たし
を断ち切ることはできず、朝咲く花の愛らしい笑みも堪えられないほ
対になっているように必ずしも旅愁を全面に出してはいないが、﹁悲
と思われる。おそらく﹁江亭暁興﹂と共に冬嗣作追和御製も示され、
守が冬嗣作追和御製に学んで﹁暁猿﹂の詩語を使用した可能性は高い
う。しかも﹃凌雲集﹄の用例もこの二例に限られるのであるから、答
体でも六例を拾うに過ぎず、唐詩以前の用例は極めて少ないと言えよ
欲絶﹂︵答参﹁下外江舟懐終南旧居﹂︶が最も早い例で、﹃全唐詩﹄全
ヤ ヤ
過客遅﹂︵李白﹁窟夜郎於烏江留別宗十六環﹂︶、﹁杉冷暁猿悲 楚客心
存分に描くものだったのであろう。それに刺激を受けた嵯峨天皇がま
が、おそらく冬嗣作は﹁春興﹂という語のもとに河陽の春の面白味を
嗣﹁河陽作﹂ではなかったか。原作が残らないので想像するしかない
てくる。嵯峨天皇のこうした﹁春興﹂への探求心に火を付けたのが冬
興﹂をかきたてる情景をあれこれと探しているかのような口吻が伝わっ
を促す風景としてさらに青草を付け加えるが、ここからはまるで﹁春
風景だけでなく滝の音にもあることを主張し、﹁江亭暁興﹂は﹁春興﹂
た役割が浮かび上がってこよう。冬嗣作追和御製は﹁春興﹂が周囲の
答守は後者から感じ取られる旅愁的気分に触発されて天子の旅愁を慰
ず追和の作品を詠じ、さらに﹁春興﹂から﹁暁興﹂へと趣向を変えて
初唐に見られず、盛唐になって使用され始める。﹁白帝暁猿断 黄牛
吟﹂という語に旅の悲哀感は感じ取れよう。この詩語﹁暁猿﹂は六朝・
ヤ ヤ
めようとしたのであろう。
﹁興﹂という語が鍵語となっている。いわば﹁興﹂の文学とでもいう、
狩猟とは無縁の文学が、狩猟行事の合間に詠まれるようになったので
君臣唱和を試みたのであろう。﹁江亭暁興﹂詩群と冬嗣作追和詩では
の構成に類似性が認められる。いずれも、首・頷・頸聯で河陽周辺の
ある。こうした狩猟文学離れを決定づける契機となったのが冬嗣﹁河
そうであれば、臣下に対して同時に提示された﹁江亭暁興﹂と冬嗣
明け方の情景を描き、尾聯前句でそれを﹁春興﹂としてまとめ、後句
陽作﹂であったと推測する。
作追和の両御製間の関係が次に問題となろう。実は、この両御製はそ
でその面白味をさらに増すものとして別の風景を添えるという構成を
︵二一︶
61
井実充史:河陽文学の初発
︵二二︶
︵既成の作で、当日冬嗣は不在︶とその追和御製が詩会に提示され、
ついてまとめれば、まず、河陽の﹁春興﹂を詠んだ冬嗣﹁河陽作﹂
ことは、ある意味必然であったと思われる。そこには意識的な選択が
しつつあるなかで、客愁を詠った賂賓王の詩句を襲う作品が詠まれた
浸透していたことはすでに述べたが、河陽文学における旅情性が確立
な﹁帝京篇﹂を想起させる。客愁の詩人酪賓王の印象が嵯峨朝詩壇に
であろう。さらに﹁帝京﹂という詩語の選択も同集の冒頭を飾る著名
ハオロ
それをふまえて新たに﹁暁興﹂の詩題が課され君臣唱和する、といっ
あったと見るべきであろう。もちろん、天皇である嵯峨が駆賓王のよ
以上、冬嗣﹁河陽作﹂への追和御製及び江亭暁興詩群の制作状況に
にあろう。
た状況が推測されるのである。東宮が自作を冬嗣に見せた理由もそこ
うな左遷の憂き目を述懐するはずもなく、そうした政治的不遇感を除
さて、賂賓王詩句を襲って詠われた旅愁の実際は、旅先の景物とし
去したうえで気分として賂賓正風の旅愁を取り込んだに過ぎないが。
て月・松・猿を配置しながら都の春に思いを馳せるというものである
五 有懐京邑詩
河陽駅経宿有レ懐一一京邑一 嵯峨天皇
が、はたして月・松・猿は故郷の春を思い起こさせる風景となりうる
ヤ ヤ や
河陽亭子経二数宿一 月夜松風悩二旅人一 雛・聴二山猿助・客
のであろうか。月夜の松風は﹁明月的的寒潭中 青松幽幽吟勁風﹂
︵初唐・宋之問﹁冬宵引贈司馬承禎﹂︶など必ずしも春に限定されたも
ヤ ヤ
のではない。また、暁の猿声が春特有の景物でないことは、﹁帝子蒼
叫一 誰能不レ憶二帝京春一︵凌・十一︶
河陽の宿駅に泊まって数日を過ごしたが、月夜に松を吹く風が旅人
梧不二復帰一 洞庭葉下荊雲飛 巴人夜唱二竹枝一後 腸断暁猿声漸稀﹂
ヤ ペ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
である私を悩ませる。旅の興を促す山猿の鳴き声は聞こえてはくるが、
旅先の景物として月・松・猿を配置しながら都の春に思いを馳せる
す情景としてとして一定の表現的蓄積がなされ、河陽の春の景物とし
見てきたように、月・松・猿は先行の河陽文学において﹁春興﹂を促
︵中唐・顧況﹁竹枝曲﹂︶によっても明かである。しかし、これまでに
というその内容は、一見左遷された文人の郷愁を思わせる。その詩題
てイメージ的に定着しつつあった。本詩はそれを踏まえて詠まれたも
それでも都の春を思わぬ者は誰もいない。
﹁河陽駅経宿有懐京邑﹂について、小島注は酪賓王の詩題﹁晩度天山
有懐京邑﹂﹁久戌辺城有懐京邑﹂をあげて、当時伝来していた﹃酪賓
確立したとみてよかろう。
を聞きつつ旅情を抱くという河陽文学の一つの詩境が、ここに至って
のであり、第一節で述べたような春の旅先において月下に松声や猿声
ヤ ヤ ヤ ペ ヤ ヤ ヤ ヤ
王集﹂に拠るかと推測する。﹁有懐京邑﹂は賂賓王にしか見られない
侍御充使湖南﹂︶の二例をあげるが、唐以前の詩にこの二例以外の類
る。それらはすべて弘仁四または五年春二月の交野・水生野遊猟時に、
﹃凌雲集﹂の河陽関連作品は初発期の河陽文学として位置づけられ
六 ま と め
特殊な詩題であり、小島注の推測は首肯すべきであろう。﹁雛レ聴二山
猿助レ客叫一﹂もまた賂賓王詩に拠っていると考えられる。この類句
として小島注は﹁不レ見猿声助レ客哺 唯聞旅思将レ花発﹂︵酪賓王
ヤ ヤ ヤ ヤ や
ヤ ペ ペ ヤ ヤ
句が見いだせないこと、皇甫曾詩句より賂賓王詩句のほうが類似性が
山崎駅︵離宮︶に宿泊して詠まれたものである。詳述すれば、江頭亭
﹁疇昔篇﹂︶、﹁白簡労一一王事一 清猿助二客愁一﹂︵盛唐.皇甫曾﹁送元
高いことを考慮すれば、やはりこれも﹁酪賓王集﹂に拠るとするべき
2001年12月
福島大学教育学部論集第71号
60
在期間中に詠まれたと推測される。
年二月十七日に、有懐京邑詩が同月十八日から二十七日までの長期滞
子詩群が弘仁四年二月十六日に、冬嗣作追和詩及び江亭暁興詩群が五
学の到達点を示している。
えたうえでの一つの詩境を確立しており、﹃凌雲集﹄における河陽文
というその内容は、先行作品において培われた河陽の春景表現を踏ま
遊猟と関わって生まれた河陽文学は、当然のことながら中国狩猟文
学の影響下に出発した。しかし、その当初から狩猟文学とは異質の旅
情性がすでに現れている。江頭亭子詩群中の御製にはとくにその傾向
が強いが、これは薬子の変の当事者であった嵯峨天皇自身が、山崎と
いう地を平安京周辺の防衛線と見なして他郷と意識していたからであ
る。そうした旅情性を承けて、淳和東宮は他郷の風景をさらに賞美的
に描き、答守は客愁の詩人賂賓王の詩句を応用し、客寓する不遇の賢
︵1︶後藤昭雄﹁嵯峨朝詩人の表現 文学空間の創造 ﹂︵﹁平安朝漢
文学論考﹂、初出一九八○・三︶
︵2︶﹃白氏六帖事類集﹂巻二十一﹁県令﹂に﹁播岳為二河陽令一、樹一一桃
李花一、人号日二河陽一県花﹂とある。
応制奉和の詩賦をめぐって ﹂︵﹁国語国文﹂三四−九、 一九六五・
︵3︶小島憲之﹁弘仁期文学より承和期文学へ 嵯峨天皇を中心とする
翌年の冬嗣作追和詩及び江亭暁興詩群はもはや狩猟文学から完全に
九︶
︵4︶﹁懐﹂は、﹃懐風藻﹂、﹁凌﹂は﹁凌雲集﹂、﹁華﹂は﹁文華秀麓集﹂、
︵5︶嵯峨朝の皇太弟大伴親王を便宜上このように記す。
﹁経﹂は﹁経国集﹂を示す。
︵6︶小島憲之﹁凌雲集詩注﹂︵﹁国風暗黒時代の文学﹂中㈲、 一九七九・
一︶
︵7︶渡辺三男﹁嵯峨天皇の唐風謳歌﹂︵﹁日中語文交渉史論叢﹂、一九七九・
四︶
︵8︶半谷芳文﹁勅撰三漢詩集考 序文と初唐の文章観 ﹂︵﹁中古文
をも承けて、詩作に旅愁を滲ませた天子を慰め励ます。
の﹁江亭暁興﹂御製だけでなくそれと共に提示された冬嗣作追和御製
た美的表現を貪欲に取り込んで河陽の風景を美化する。答守詩は原詩
非熊一﹂︵盛唐・王維﹁和僕射晋公扈従温湯﹂︶など唐以降には散見す
倉一﹂︵初唐・魏知古﹁従猟清川献詩﹂︶、﹁出遊逢二牧馬一罷レ猟見一一
非熊載二宝軒一﹂︵初唐・李嶢﹁車﹂︶、﹁非熊従二清水] 瑞雀想二陳
︵9︶詩語としての﹁非熊﹂は六朝以前には見えないが、﹁丹鳳棲二金轄一
学論孜﹂二、一九八一二一︶
有懐京邑詩は、それまでの河陽文学が醸してきた旅情性を主題に置
る。なかでも、﹁嘗聞夏太康 五弟訓一一禽荒一﹂と﹁五子之歌﹂の故事
ヤ ヤ
ヤ ヤ ヤ ヤ
いて詠んだ作品で、客愁の詩人驕賓王の詩風を取り入れて旅愁を正面
で始まる魏知古詩などは、故事の理解等のために参照された可能性が
︵二三︶
から歌いあげる。また、旅先で見聞きする月・松・猿に都の春を思う
走るが、御製に応じるだけでなく、嵯峨朝詩壇がそれまでに洗練させ
旅情性を強引に出そうとする。令製は前年の作と同じく賞美的傾向に
外ならではの情緒を詠じ、さらに旅愁を暗示する典拠を誤用してまで
去され旅情性がその中心を占める。まず、御製は宮中では味わえぬ郊
との乖離は決定的となって、江亭暁興詩群では狩猟の痕跡が完全に消
て﹁暁興﹂を題とする君臣唱和を試みたと思われる。ここに狩猟文学
れて新たな河陽の﹁春興﹂を求める追和詩を成し、さらに趣向を変え
ていたと推測される。嵯峨天皇はこの臣下による既成の作品に触発さ
嗣の﹁河陽作﹂︵散逸︶で、そこでは河陽の﹁春興﹂が主に詠ぜられ
離脱する。その契機となったのがそれ以前の遊猟時に詠まれた藤原冬
人を見過ごさぬ聖帝として嵯峨天皇を賛美する。
注
59
井実充史:河陽文学の初発
ある。ただし、対句でもって夏太康を否定し周文王を範として一首を
結ぶ趣向そのものは、やはり太宗御製に直接学んだと見るべきであろ
︵10︶六朝時代の例としては、梁・劉孝威﹁行行且遊猟篇﹂が、狩猟を描
う。
写した後に﹁日暮勾陳転 風清鏡吹麗 帰来宴二平楽一 寧肯滞二禽
荒一﹂と結んで奢侈の狩りを否定する。
ヤ ヤ
︵11︶﹁望レ別非二新館一 開レ舟即旧湾 浦喧征樟発 亭空送客選 路塵猶
ヤ ヤ ヤ
ヤ ヤ ヤ ヤ
向レ水征帆独背レ関﹂︵北周・庚信﹁慮令詩﹂︶、﹁別莚鋪二柳岸一 征
ヤ
樟碕二盧洲﹂︵盛唐・張九齢﹁饅王司馬入計同用洲字﹂︶、﹁別路穿・林
尽 征帆際レ海帰﹂︵同﹁送楊府李功曹﹂︶、﹁駅使乗レ雲去 征帆沿レ溜
︵12︶森田喜久男﹁日本古代の王権と狩猟﹂︵﹁日本歴史﹂四八五、 一九八
下﹂︵盛唐・孟浩然﹁江上別流人﹂︶など。
八・十︶
︵13︶林陸朗﹁桓武天皇と遊猟﹂︵﹁栃木史学﹂一、一九八七・三︶
︵14︶淳和天皇天長八年二月十八日条、仁明天皇承和十二年二十五日条な
ど。
︵15︶仁藤智子﹁平安初期の王権と官僚制﹂︵二〇〇〇・九︶一三〇頁以降。
︵16︶中唐・元種﹁代曲江老人百韻﹂に﹁翻レ身迎二過雁一 壁レ肘取三廻
ヤ
︵17︶﹁類聚国史﹂天皇遊猟の淳和天皇天長八年二月条に、﹁皇帝幸二水成
鶉一﹂が見える。
ヤ ヤ ヤ ヤ
野一、申時樹雨、俄頃而晴、多獲二鶉雑一、酉時御二河陽宮﹂とある。
︵18︶故事の出典は﹃史記﹂項羽本紀。
︵19︶小島注指摘の元季川﹁山中暁興﹂は中唐詩人の作。その全文は﹁河
漢降二玄霜一 昨来節物殊 悦レ無二神仙姿 山豆有二陰陽倶] 霊鳥望
不レ見 慨然悲二高梧一 華葉隠レ風揚 珍條雑レ榛蕪 為レ君寒谷吟
歎息知何如﹂であるが、御製との間に類似性はない。
︵20︶藤原不比等﹁七夕﹂︵懐・三三︶
︵21︶両唐詩句とも猿声が旅愁を助長するという意味で﹁助﹂を用いるが、
本句は旅人の興を促すという意味に誤用している。
︵二四︶
Fly UP