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『全体主義の起原』第3巻

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『全体主義の起原』第3巻
アーレント『全体主義の起原』第3部、第 1 章の2
モッブとエリットの一時的同盟
2004.5.15
○
米原
謙
全体主義運動が知的・芸術的エリートの支持を得た事実。ただし運動が権力を握るや否やエリー
トもモブもお役御免になった。⇒運動の組織対象は大衆、モブとエリートはそれより古い時代の
出身(Cf 大衆とモブの違いは 16 頁参照)⇒モブ出身の全体主義指導者と同調者たるエリートの
関係
○
両者はともに第一次大戦の前線世代で、respectable な社会の階級制度・国民国家制度の崩壊前
からその埒外にあった=respectable な社会の崩壊⇒アナーキックな絶望=モッブは機会到来と
捉え、その指導者(社会の落伍者)は大衆の魅力をとらえた(運動への献身、受難者との連帯、
市民社会に対する侮蔑)
○
エリート=帝国主義の世代より少しだけ若く、その冒険への切望、一切の価値への嫌悪、既成の
勢力に対する侮蔑を体験していた(⇒戦前の時代を復興しようとした帝国主義世代)。しかし前線
世代は帝国主義世代とは異なり、人為的安泰、見せかけの文化などの世界が廃墟になることを望
んだ⇒徹底的な破壊と混沌と廃墟が最高の価値となる=塹壕の経験によって respectable な世界
から分離=機械化時代の戦争は往年の戦争における勇気、名誉、男らしさとは無縁
○
第一次世界大戦=階級の瓦解と大衆化の序曲。階級的特権や偏見を放棄することへの情熱は、戦
争において満たされたが、戦後の悲惨は人間の尊厳を破壊した。
○
戦争は個人の差異を消滅させる大衆行動の経験となり、その経験の等質性によって、逆説的なが
らナショナルな感情が消滅=塹壕世代という共通性。
○
戦後ヨーロッパの雰囲気をなす差異の無さ、反人道主義、反文化的な本能 etc.は、個々の要素は
戦前から存在した(バクーニンその他の例)。⇒前線世代の新しさは文学的水準の高さと純粋な情
熱の深さ=暴力行為、権力欲、残虐が人間最高の能力であり、
「彼らは世界における住家を決定的
に失った人間であり、そして法則の持つ確実さという港に彼らを連れ戻し世界の中に再び組み込
んでしまう惧れのある理論を追い求めるには、余りに誇り高い人間だった」(47 頁)。
○
彼らのイデオロギーは 19 世紀と共通点があるが、理論蔑視で社会の悲惨と上流社会の偽善によっ
て傷ついていた。また帝国主義世代のように異郷での冒険に身をゆだねる道も残されていなかっ
た⇒悲惨と屈辱と失望と怨恨から逃れる道なし⇒暴力に対するヒステリーじみた欲求(無名性と
自己放棄へのかつての傾向に加えて)⇒行動主義=死の運命の枠組みのなかで不断に破壊活動を
続けるという戦争体験に由来(第二次大戦後の様々な行動主義に継承される)
○
全体主義運動の行動主義⇒テロリズムへの偏愛=テロルは政治行為(憎悪、怨恨)の表現
○
全体主義以前のエリートとモブの違い=モブは自己破壊を恐れずに歴史に接近(天才になるか、
天才に仕えるか)=モブは末期ブルジョア世界の天才崇拝の嗣子⇔エリートは無名性を求めた
○
エリートは犯罪人社会と上流社会が対等に交際することを認め、全体主義政権の歴史改竄に協力
=抑圧された人々を歴史から抹殺するかつての歴史は、歴史の偽造だと信じていたから。
○
モブが上流社会の respectability を剥ぎ取る⇒エリートとモブの同盟=公認の歴史記述に対し
てエリートが抱いた反感⇒大衆を組織し操作して嘘を現実に変えた=単なる捏造が歴史的行動を
鼓舞する思想の源泉として利用された
○
権力掌握前の全体主義運動がエリートに対してもった魅力=その浅薄な教義そのものではなく、
この時代の雰囲気、すなわち一切の伝統的価値や規範が有効性を喪失した思想的混沌を嘲笑する
1
=偽善と respectability に対する侮蔑⇒内容ではなく、その侮蔑の表現に惹かれた⇒残虐や非人
間性や非人道性の誇示が革命的に見える=「卑劣さに堕した世界にあっては、悪はいかに蠱惑的
に映ったことか!」(53 頁)。
○
ブレヒト『三文オペラ』=ブルジョア的偽善の暴露⇒偽善の仮面を棄ててモブの基準を公然と受
けいれる勇気を人びとに与えた。セリーヌ『虐殺に捧げる小曲』=上流階級がユダヤ人問題を扱
う時の偽善性への反感。エリートの現実感覚の欠如と歪んだ無私は、大衆の fictitious な世界
と self-interest の欠如に似通っていた=モブとエリートの抱えていた問題が大衆のメンタリテ
ィに近似
○
エリートを惹きつけたもの=モブの偽善からの自由と大衆の階級利害からの自由。全体主義運動
が高唱した「公」と「私」の分離の止揚⇒人間の全体性の回復。問題は、社会的・経済的競争と
階級利害によって公的・政治的領域が狭隘化していたこと
○
ヨーロッパの政党政治=階級政治・利益政治⇔全体主義の世界観政党⇒全体性の回復とは、ブル
ジョアジーが内心に秘めていた確信を倒錯させたもの。運動のラディカリズムがエリートを魅惑。
○
モブとエリートの共通性=国民国家の階級社会の崩壊で政治的・社会的故郷を喪失=その背後に
根無し草の大衆⇒全体主義の指導者(モブの出身)は権力を握ると、モブを代表しなかった=自
発性を排除⇒均制化された大衆が人的資源となる(ヒムラーの例)
○
私生活に引きこもり身の安全と出世のことしか考えない俗物←社会的・経済的利害に絶対的優位
を与えたブルジョアジーの堕落した産物。階級としてのブルジョアジーの解体⇒アトム化した個
人が出現=私生活の安全のためなら道徳も犠牲にする⇔知識人や芸術家のイニシアティブ
★ 平凡社百科事典から ★
チェンバレン
1855‐1927 Houston Stewart Chamberlain
イギリス生れのドイツの著作家。ドレスデンで哲学と芸術史を学び,ウィーンに住んで,民族主義的なワーグナー論を書いた。の
ちバイロイトに居を移し,ワーグナーの娘エバと再婚,1916年にはドイツに帰化した。主著《19世紀の諸基盤》2巻(1899)で一種
の人種主義的歴史哲学を展開したが,それは,J. A. de ゴビノーの学説に負いながらアーリヤ人が未来のヨーロッパを担う真
の文化創造力を持った人種だとするもので,第1次世界大戦に際してはドイツによるゲルマン民族圏の征覇を求めるパン・ゲル
マン主義の主張となった。その人種主義はナチズムの思想的基盤となった。荒川 幾男
ネチャーエフ
1847‐82 Sergei Gennadievich Nechaev
ロシアの革命家。貧しい家庭の中で独学し,教師資格を得るかたわらペテルブルグ大学の聴講生となって,1868‐69年の大学
紛争に加わり,学生運動の革命化を図ってトカチョーフとともにラディカル少数派に立った。自ら投獄のうわさを流しておいて,6
9年3月ひそかにスイスへ脱出,バクーニンやオガリョーフに接近して革命資金を入手し,前者とともに革命を訴えるいくつかの
宣伝文書を作成した。とりわけ有名なのは《革命家のカテキズム》(1869)で,その主張は〈目的のために手段を選ばぬ〉として,
後年〈革命のマキアベリズム,革命のイエズス主義〉と評された。69年9月モスクワへ戻り,架空の〈世界革命同盟 Vsemirnyire
volyutsionnyi soyuz〉ロシア代表を名のって〈人民の裁き Narodnaya rasprava〉という秘密結社を結成した。しかし極端な革命
的リゴリズムは組織内に反目と対立をもたらし,メンバーの一人でペトロフスキー農業大学(現,ティミリャーゼフ記念農業大学)
の学生イワン・イワノフを,モスクワ郊外の同大学構内で殺害した。事件は明るみに出て,およそ1ヵ月後の12月中旬,当局は関
係者の逮捕と革命組織の摘発に乗り出し,約300名が拘禁され,87名が裁判にかけられるという大がかりなものになったが,ネ
チャーエフ自身は再び国外に脱出した。同事件を契機に,ドストエフスキーが《悪霊》を執筆したことはよく知られている。再度ス
2
イスに姿を現したネチャーエフは,1870年夏までに《コロコル》《人民の裁き》誌を刊行したものの,その無原則性や挑発的で策
略的な行動はついにバクーニンらの不信を買い,絶対的孤立に陥ったあげくに逮捕され,ロシア警察に引き渡された。73年1
月,20年の懲役判決を下され政治監獄に収容されたものの,なお革命運動への強い意志を保ち続けて看守らを説得し,獄外
の革命組織〈人民の意志〉派と連絡をとることに成功した。外部から救出が計画されたが,皇帝アレクサンドル2世の暗殺を経て
革命運動は厳しく弾圧されて頓挫し,結局獄死した。 左近 毅
ブローク
1880‐1921 Aleksandr Aleksandrovich Blok
ロシアの詩人。詩は幼いころから書いていたが,1898年ころからリュボーフィ・メンデレーエワ(化学者メンデレーエフの娘)との恋
を神秘的に昇華した詩が続々と生まれるようになった。V. S. ソロビヨフの詩を知り,ベールイとの交友が始まる中で,到来した2
0世紀にこの世の刷新,変貌を期待して,メンデレーエワは,世界の変貌をもたらす神秘の女性ソフィアの像と分かちがたく一体
化した。それが詩編《うるわしの淑女》(1903)として結実し,詩人としての名声を得た。しかし,メンデレーエワとの結婚(1903)は現
実への覚醒をもたらし,閉鎖的な夢想の世界に亀裂が生じた。田舎の貧しい風景,フォークロアの要素,都市のテーマと,現実
的なモティーフ(主題),当時流行のモティーフが次々と取りこまれて,その世界はしだいに広がっていき,ついにはナロード(民
衆)と知識人をへだてる深淵,ロシアの運命が問われるようになった。芸術の自律を旗印にして出発したロシア・シンボリズム
は,ブロークにおいてここに大きく環を描いて,〈美と功利性〉の調和というロシア文学伝統の古典的な問題に戻ってきたのであ
る。詩編《カルメン》(1913)においてブロークは,自分の抒情詩のサイクルは終結したと考えていたようである。
〈恋〉を核とした抒情詩の枠内では自分のテーマは歌えないと,1910年ころから自分の家門の歴史をたどる叙事詩《報い》が
構想されるが,未完のまま1917年のロシア革命を迎えた時,そこにナロードのスピリット(精神)の発露を見て,叙事的交響詩《十
二》(1918)が書かれた。行進する12人の赤軍兵士の体現する自然力(スチヒーヤ)は,革命の浄化の風であるとともに,えたいの
知れぬ荒々しい力を秘めている。革命の大義の成就のためには自己犠牲をもうべなおうとするブロークのイデーが認められる
が,最後に現れるキリストの幻には,カオス(混沌(こんとん))からやがてコスモス(秩序と調和のある体系)のもたらされんことを願
うブロークの祈りがこめられている。
小平 武
セリーヌ 1894-1961 Louis-Ferdinant Céline
フランスの作家。本業は医師。パリの場末町に生まれ育ち,苦学して学校に通い,医師の資格を手に入れた。第1次大戦勃発
と同時に志願入隊,戦場での体験がもとで強い反戦思想を植えつけられる。復員後,国際連盟事務局に就職し,衛生事情視
察のため,各地を遍歴。作家として名を成した後も,終生医業を続けた。 1932年,実生活の体験にもとづく自伝的小説,《夜の
果ての旅》を発表。反社会的な内容と,大胆に俗語を駆使した革新的文体によって,賛否両論の大反響を巻き起こし,一躍世
界的な有名作家となる。この処女作は作者の分身バルダミュ医師の独白のかたちで展開する叙事詩的遍歴譚で,人間社会の
冷酷・不正に対して,激越な呪詛罵倒が,全編ところかまわず嘔吐のようにまき散らかされている。つづいて36年に発表された
《なしくずしの死》は,同一主人公が登場する自伝的連作である。同年,セリーヌはソビエト政府の招待に応じてロシアへ旅行し
たが,帰国後,猛烈な反コミュニズム文書《懺悔》(1936)を発表,徹底したアナーキズム的立場を明確にする。この姿勢は,警世
的な〈時事論文三部作〉の中でも受け継がれ,《虫けらどもをひねりつぶせ》(1937),《死体派》(1938),《にっちもさっちも》(1941)
において,反戦・反ユダヤ・反資本主義の立場から,フランスの現状に対して歯に衣着せぬ痛罵が浴びせられる。これらの著作
が災いして,政治には関与しなかったにもかかわらず,第2次大戦後セリーヌは戦犯の罪に問われ,ドイツ軍と行を共にしたあ
と,デンマークへ亡命,その地で逮捕,投獄。欠席裁判において,資産没収,終身禁錮の刑を宣告される。51年,特赦によって
帰国。再び作家活動を始めるが,ジャーナリズムから故意に黙殺され,貧窮と失意のうちに世を去った。戦後の代表作に,悲惨
な亡命生活を物語った三部作《城から城》(1957),《北》 (1960),《リゴドン》(1961)などがある。 生田 耕作
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