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2016.04.10

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2016.04.10
「第 6 回 コーラスフェスティバル in 和 光 」に出 演 する
標 記 演 奏 会 が、2016 年 4 月 10 日 (日 )、16 団 体 が参 加 して、和 光 市 サンアゼリア大 ホールで開 催
された。 (女 声 ;10 団 体 、男 声 ;3 団 体 、混 声 ;3 団 体 、詳 細 は、別 添 プログラム参 照 )
志 木 グリークラブは、 7 番 目 に出 演 し、矢 澤 千 宜 先 生 の指 揮 で、『 Annie Laurie』と組 曲 「あの
日 たち」より『またある夜 に』の 2 曲 を演 奏 した。
1 曲 目 の『Annie Laurie』は、代 表 的 な スコットランド民 謡 と して知 られ ている楽 曲 である。 歌 詞
は、1700 年 頃 、フ ィンランドのウィリアム・ダグラス (1672? ~1748) の詩 をもとに作 られ 、曲 は、スコッ トラン
ドの女 流 音 楽 家 ジョン・ダグラス・スコット 夫 人 が 1838 年 に作 曲 した。
歌 の由 来 は、マクスウエル トン卿 サー・ロバート・ロ ーリーの末 娘 であったアニー・ローリーは、 1682 年 12
月 16 日 、父 親 の館 であるマクスウエルトン・ハウスで生 まれた。
詩 を作 ったウィリアム・ダグラスは、彼 女 に結 婚 を申 し込 んだが、歳 の差 、アニー・ローリーがまだ若 す
ぎること、氏 族 間 の対 立 な どの理 由 で マクスウエル トン卿 に反 対 され た 。恋 の痛 手 から立 ち 直 っ た頃
にダグラスは、エイザベス・クラークという女 性 と出 会 い駆 け落 ちをしたとのこと。
一 方 、アニー・ローリーは、 1710 年 にクレイグダーロックの領 主 アレクサンダー・ファーガソンに嫁 ぎ、33 年
間 そこで暮 らした。1761 年 に亡 くなり、クレイグダーロックに埋 葬 されたと言 い伝 えられており、マクスウ
エルトン・ハウスには今 も彼 女 の肖 像 が残 されている。
ウィリアム・ダグラスの詩 は、何 度 か手 直 しされており、1854 年 のクリミヤ戦 争 で、未 亡 人 や孤 児 とな
った人 たちへの慈 善 活 動 のために出 された歌 集 にこの詩 が載 せられたことから、やがて軍 楽 隊 も
演 奏 するようになり、広 く知 られるようになった。
( 一 部 「 ウ ィ キヘ ゚テ ゙ ィア 」 よ り )
歌詞
1
Maxwellton’s
braes are bonnie,
マクスウエルトンの家 の丘 は美 しく
Where early fa‘s the dew
朝 露 に濡 れる
And it's there that Annie Laurie
あの丘 でアニー・ローリーは、
Gave me her promise true
私 に真 実 の愛 をくれた
Gave me her promise true
Which ne‘er forgot will be
この愛 を忘 れることはできない
And for bonnie Annie Laurie
愛 しいアニー・ローリーおためなら
I‘d lay me doon and dee
私 の愛 を捧 げる 死 ぬことすらもいとはない
2
3
Her brow is like the snowdrift
Her throat is like the swan
Her face is the fairest
That e‘er the sun shone on
That e‘er the sun shone on
And dark blue is her e‘e
And for bonnie Annie Laurie
I‘d lay me doon and dee
彼 女 の顔 は行 のようで
彼 女 の首 は白 鳥 のようだ
彼 女 はもっとも美 しく
陽 の光 に満 ちている
彼 女 の瞳 は深 い青 色
愛 しいアニー・ローリーのためなら
私 の愛 を捧 げる 死 ぬことすらもいとはない
Like dew on the gowan lying
ひな菊 の上 の露 のように
Is the fa‘ o‘her fairy feet
夏 にそよぐ風 のように
And like winds in the summer sighing
Her voice is low and sweet
美 しい彼 女 の声
Her voice is low and sweet
And she‘s a’ the world to me
彼 女 が僕 の全 てだ
And for bonnie Annie Laurie
愛 しいアニー・ローリーのためなら
I‘d lay me doon and dee
私 の愛 を捧 げる 死 ぬことすらもいとはない
2 曲 目 に歌 った無 伴 奏 男 声 合 唱 組 曲 「あの日 たち」より『またある夜 に』は、作 詩 、立 原 道 造 、作
曲 、北 川 昇 である。立 原 道 造 は、1914 年 (大 正 3 年 )7 月 30 日 、現 在 の東 京 都 中 央 区 東 日 本
橋 に生 まれ、昭 和 初 期 に活 動 し、1939 年 (昭 和 14 年 )3 月 29 日 、24 歳 で結 核 に罹 り急 逝 した詩
人 であり、建 築 家 としても足 跡 を残 している。
一 方 、作 曲 をした北 川 昇 は、1983 年 、神 戸 市 に生 まれ、大 阪 音 楽 大 学 音 楽 部 作 曲 科 を卒 業 、
同 大 学 院 音 楽 研 究 科 を修 了 した、新 進 気 鋭 の 音 楽 家 である。作 曲 活 動 の傍 ら、合 唱 講 習 会 講
師 やコンクールの審 査 員 としても 活 動 している。
『またある夜 に』の詩 は
私 らはたたずむであらう 霧 のなかに
霧 は山 の沖 にながれ 月 のおもを
投 箭 のやうにかすめ 私 らをつつむであらう
灰 は帷 のやうに
私 らは別 れるであらう 知 ることもなしに
知 られることもなく あの出 会 った
雲 のやうに 私 らは忘 れるであらう
水 脈 のやうに
その道 は銀 の道 私 らは行 くであらう
ひとりはなれ・・・・
(ひとりはひとりを夕 ぐれになぜ待 つことをおぼえたか)
私 らは再 び逢 わぬであらう 昔 おもふ
月 のかがみはあのよるをうつしてゐると
私 らはただそれをくりかえすであらう
北 川 昇 は、この曲 を作 曲 した意 図 を次 のように述 べている。組 曲 「あの日 たちは」東 京 六 大 学
合 唱 連 盟 の 合 同 ステー ジの ため に 作 曲 した 。 こ の組 曲 を 作 曲 する にあ たっ て考 えた ことは、「 同 年
代 の作 曲 家 と歌 い手 だからこそ出 来 るコラボレーション」であったと。そして、「歌 い手 と ほぼ同 年 齢 で
書 かれたものを・・・」とさがしていたところ、立 原 道 造 の詩 集 「 萱 草 に寄 す」に辿 り着 いた。
立 原 道 造 が生 きていた時 代 と現 代 とでは、余 りにも違 いがあると言 っても、時 空 を超 えた「同 年 代 」
として六 連 の学 生 が何 かを感 じ取 ってくれるのではないかとの思 いがあった。
要 するにこの組 曲 は、大 学 生 が歌 うために作 られた曲 であり、立 原 道 造 もまた二 十 歳 前 後 の頃
この詩 を作 ったのであろう。
ここで、当 日 の我 々の演 奏 を録 音 で聴 いて客 観 的 に演 奏 を評 価 してみよう。
2 曲 の演 奏 を聴 いての全 体 的 な評 価 は、頑 張 りすぎて、大 声 で歌 い過 ぎている。
サンアゼリアのステージには過 去 何 度 も立 っ ているので、ホールの響 き、残 響 時 間 等 々の特 長 は大 体
分 かっている筈 だ。もう少 し、ホールの良 さを生 かした 、4 パートのバランスのとれた演 奏 が出 来 なかっ
たものか。 (志 木 グリーク ラフ ゙への期 待 度 が高 い ので)敢 えて辛 口 の評 価 をすれ ば 、「音 楽 にな っ て
いない」。
1 曲 目 の『Annie Laurie』は、3 番 まで歌 詞 があり、1 番 は Andantino で、Bass、Baritone が歌
い出 し、2 番 は Alla Marcia(行 進 曲 風 )に歌 い、3 番 は Moderato で歌 う。
今 回 は、英 語 の歌 詞 もスコットランドの方 言 の発 音 で歌 ったこともあってか、 粗 削 りで、丁 寧 に歌 って
いないように聴 こえる。歌 詞 が、ブツブツ切 れて、レガートのところが少 ない。
アニー・ローリーへの ウィリアム・ダグラス の想 いを上 手 く 表 現 できていな い。 もっ とソフ トに優 しく 歌 えれば
よかっ た。 余 り、貶 すば かりでは申 し訳 な いので、うまく 歌 えているところもある。 それは何 度 も繰 り返
し練 習 してもなかなか出 来 なかった 最 後 のハーモニーは、バッチリ決 まっていた。
次 に 2 曲 目 の『またある夜 に』は、前 述 したように、北 川 昇 が、大 学 生 向 けに作 曲 したものである。
そんな曲 を平 均 年 齢 7×歳 の我 々が歌 うのであるから、初 めからかなり無 理 があったといえる。
まず、どの位 のテンポで 歌 うかである。北 川 昇 が作 曲 した楽 譜 に表 記 された速 さは、 ♩=66(演 奏
時 間 4 分 )である。
今 回 我 々の演 奏 時 間 は、3分 10秒 であった。(やはり、曲 の持 ち味 が十 分 表 現 できていない)
(YOU Tube で複 数 の演 奏 を聴 くことができるが、演 奏 時 間 は 3 分 10 秒 から 3 分 55 秒 と幅 が
ある。聴 き比 べるとやはり楽 譜 に書 いてある ♩=66<演 奏 時 間 4 分 >で歌 っているのが、曲 の持
ち味 が出 ているように感 じる)
『またある夜 に』は、p で始 まり、mp、mf、dim、<、>、f、poco rit、a tempo、で最 後 は pp で
終 わる曲 である。この強 弱 、大 小 、緩 急 の表 現 が十 分 出 来 ていない。
4 パートのバランスが良 くなくて、本 番 になるとどうしても頑 張 りすぎて、大 声 で歌 う傾 向 が見 受 けら
れる。お互 いに他 のパートを聴 き合 って歌 う訓 練 は、練 習 の時 にやってきたつもりであるが、いざ、ス
テージにのると気 合 が入 って頑 張 る傾 向 が我 が団 には以 前 からあるような気 がする。
歌 詞 が立 原 道 造 の詩 であることから、詩 の意 味 を音 にのせて伝 えることが、難 しかったようだ。
馴 染 みのない詩 であり、曲 であるため、何 を言 っているのか聴 衆 の皆 様 に伝 わり難 かったと思 う。
作 曲 者 の 意 図 を 十 分 に 汲 み 取 り 、 表 現 す る ため に は、 曲 の で きた 背 景 、 歌 詞 の 解 釈 、 発 声 の
仕 方 等 々が総 動 員 されなければならない。これが今 後 の課 題 である。
“コーラスフェスティバル in 和 光 ”は、今 年 で 6 回 目 を迎 えたが、年 々レベルアップしている。
また、歌 っ て聴 いて皆 が楽 しむ という点 からいえば、脇 田 先 生 が指 揮 を され て複 数 の女 声 合 唱 団
が歌 ったポピュラーソング (例 えば、コーヒーサンバ、 恋 のバカンス、お嫁 サンバ等 )は、会 場 とステージ゙が
一 体 となり、大 いに盛 り上 がった。 このことは、選 曲 をする上 で参 考 になった。
今 回 、男 声 合 唱 団 は、3 団 体 が出 演 し、最 後 に 3 団 体 合 同 演 奏 で『Ständchen』を歌 ったが、
人 数 も多 く、厚 みのある重 厚 な演 奏 であった。
辛 口 の評 価 になったが、志 木 グリークラブは、 1992 年 (平 成 3 年 )暮 れに発 足 し、翌 年 から本 格
的 な活 動 を開 始 した。今 まで、上 手 下 手 はともかく、歌 った曲 数 は、 150 曲 以 上 になる。
「 継 続 は 力 な り 」 と い うが 、 今 日 ま で 演 奏 活 動 を 続 け ら れ た の は 、 団 員 同 士 を は じめ 、 家 族 、 指 導
者 等 の協 力 があったからである。感 謝 、感 謝 の気 持 ちで一 杯 である。
今 後 も、寄 る年 波 に負 けることなく、円 熟 味 のあるハーモニーを目 指 して、 ガンバッテいきたい。
(2-Tenor;和 氣 敏 夫 )
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