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インド 夫婦道中記 インド 夫婦道中記
2013 けんぽんちゃくしょくあみださんぞんらいこうず ●インド ド タ バ タ 夫婦道中記 ●総本山誓願寺だより ●何でも〝お寺探偵団〟 應聲山 即現院 阿弥陀寺 9 ◆ 絹本著色阿弥陀三尊来迎図 伝恵心僧都筆 総本山誓願寺蔵 ◆ 回﹀ ●新春を迎えて ●慈光︿第 ●お釈迦さまのご生涯 ●賢問子行状記⑥ Vol. 34 22 ◆ 目次 ◆ VOL. 136 正月号 浄土宗西山深草派宗務所 総本山 誓 願 寺 井 ノ口 泰淳 浄土宗西山深草派管長 総本山誓願寺 法主 新春を迎えて (2) 第136号 謹賀新年 皆様には、それぞれ御機 うるわ 嫌宜しゅう新年をお迎えの のと念願致して居ります。 無 事 円 成 致 し ま す よ う 御支 持の程、何卒よろしくお願 い申し上げます。 こ と と お 喜 び 申 し 上 げ ま す 。 ま た 、 本 年 度 末 に は 、 私 こと三期十五年の永い期間 そつじゅ 私こと卒寿を迎えましたが 大過なく大役を勤め得ます ご 何分老齢の事とて心身共に か こと、佛祖の御加護と皆様 ご 衰えを自覚しつつも、日々 しょうれい の法務に精励致して居ます。 方の御支持のおかげと感謝 致して居ります。新年の御 そ かい 本年十月十二日より十六 挨拶に添えて一言素懐を申 まん だ 日にかけての五日間、総本 そうじょう え しょ し上げます。 でんぽう 平成二十五年 元旦 山誓願寺を会所として曼荼 ら 羅伝法の相承が予定されて でん とう し おります。私も傳燈師とし 第百二世 て の 大 役 を 果 た す べ く 、 心 総本山誓願寺 彰空泰淳 識 ※井 ノ口法主御染筆の色紙を抽選で1名 の方に差し上げます。詳しくは7ペー ジをご覧下さい。 身 の 準 備 を 整 え て 居 り ま す 。 曼荼羅相承は数年毎に西山 こ 三派の本山交互に修行され た る大法儀であります。此の む しょう げ 度 も 無 障 礙 に 円 成 し 度 いも 第136号 (3) 22 慈光 「慈光 「 「慈光」。万物を育成し世に恵みを与える光。大慈悲の光明。阿弥陀さまの分け隔てのない暖かい優しい光。 慈光」。 」。万物を育 万物を育成し 成し世に恵みを与える光。 世に恵みを与える光。大慈悲の光明 大慈悲の光明。阿 。阿弥陀 弥陀さま さまの分け隔てのない暖かい優 の分け隔てのない暖かい優しい光。 しい光。 私た 私たちはこの ちはこの光を頂き 光を頂き、生 、生かさせていただいてお かさせていただいておりま ります。 す。慈光に照 慈光に照らさ らされた私た れた私たちの ちの生活を今一度考え 生活を今一度考えては ては 私たちはこの光を頂き、生かさせていただいております。慈光に照らされた私たちの生活を今一度考えては どうでし どう でしょうか? ょうか?タイ タイトル トルの『 の『慈光 慈光』は 』は、鈴 、鈴木晧道先生のお寺本宿 木晧道先生のお寺本宿町「 町「慈光院」 慈光院」より より拝し 拝しまし ました。 た。 どうでしょうか?タイトルの『慈光』は、鈴木晧道先生のお寺本宿町「慈光院」より拝しました。 ゆ ︻逝き人の供養を︼ 化炭素により二五〇名を超 れてしまいました。﹂ なく、当時としては致し方 える方がこの留置所で亡く 誰が悪いと言うことでは 昭和三十年七月二十八日、 なりました。三十六名の方 か こう が 身 元 の 引 き 取 り 手 が 無 く 、 なかったのです。 あ のう がわ 三重県安濃川の河口で水泳 人骨は安濃川河口の海岸に この出来事は、逝き人の 丁寧な供養がされなかった のちょうどその日に、子ど ゆ ため ほとけ ねん ぶつ え 逝き人の為に念佛廻 こう たま どんな形、如何なる時、 します。 布教講習所 所長 慈光院 住職 鈴木 晧道 が追善の心を表して止筆致 人々に細やかではあります この事故で逝った多くの 持ち合わせて下さい。 ささやかでも、供養の心を ます。 分自身の心の浄化でもあり ります。供養と同時に、自 とお経さまに説かれてあ を照らし給う て 向すれば、佛はその人 と思います。 供養の大切さを教えている 中の中学生、先生の四十九 うち三十六人が帰らぬ人と ことでしょう。 てい ねい 人に水難事故がありました。 埋められました。おそらく なりました。 数年後、この地方をお そった台風によって、人骨 五十年余り前の出来事です。 年配の方は思い出してくだ が現れました。身よりの無 さかのぼ さい。 い方たちのものです。その 骨を拾い集め、あろう事か この事故には、さらに らねばならない因縁がある すぐ傍の海へ捨ててしまっ たのです。 そば のです。 昭和二十年七月二十四日 家々は米軍の空襲によって もたちに災難がふりかかり 二十八日の両日、津の町の そして、空襲から十年後 焼かれました。 話によると ました。救助された生徒の には、ここなら焼夷弾もあ ﹁戦争時代の服を着た人が、 しょうい だん 津の警察署の地下留置所 たらないだろうと多くの方 海の底から私の足を引っ張 り ま し た 。 そ う 思 う う ちに が逃げ込みました。 し か し 、 火 災 に よ る 一酸 お釈迦さまのご生涯 涯涯 理法をどうか世の中の方にお説き 下さい。そうすれば皆が救われる 道となるでしょう﹂ お釈 さまは梵天の願いを聞き 入れ、世の中の人々の為に自らが 文・釈尊法話 会 絵・豆 田 織奈 覚った縁起の理法を説くことを決 めたのです。縁起の理法をまず誰 に説いたら良いかを考えました。 ぼん てん かんじょう ﹁そうだ、アーラーラ・カーラー 梵天勧請 マとウッダカ・ラーマプッタに縁 起の理法を説こう。あの方々なら えん ぎ り ほう 直ぐにご理解下さるはずだ﹂ 縁起の理法を覚ったゴータマ じんずうりき ブッダ ︵ お 釈 さ ま ︶ は 仏 陀 ︵ 仏 さ ま 、 お釈 さまは神通力でアーラー げ だつ ラ・カーラーマとウッダカ・ラー 目覚めた人︶となられ、解脱の喜 きょうじゅ マプッタの居る所を探しました。 びを享受していました。 すで ね はん しかし既にアーラーラ・カーラー ﹁このまま涅槃に入れば私は幸せ マは七日前に亡くなり、ウッダ だろう。何も言うことはない﹂ カ・ラーマプッタは昨日亡くなり、 と考え、食事も取らず、口に水を ぼ この世に居ないことを知りました。 含ませることもなく、ただただ菩 だいじゅ ﹁アーラーラ・カーラーマもウッ 提樹の下で瞑想をしていました。 ダカ・ラーマプッタもこの世に居 その様子を見たのが神々の王で ぼんてん ない。最初に縁起の理法を誰に説 ある梵天です。 いたらよいのか⋮﹂ ﹁このままお釈 さまが涅槃にお とお釈 さまはお考えになられま 入りになられると、世の中の人々 した。 が救われる道が閉ざされる。何と くぎょうりん ﹁そうだ。苦行林で共に修行をし かしないと⋮﹂ と た五人に縁起の理法を説こう。彼 そう考えた梵天は、すぐさまお 釈 さまの元に現れ、言いました。 ら な ら 必 ず 理 解 し て く れ る は ず だ﹂ ﹁貴方がお覚りになられた縁起の お釈迦さまにお願いをする梵天 (4) 第136号 9 前のような者が子として生れ、母を悲 しませるのか﹂と、倒れ込みました。 子も母を見て涙ぐみました。その姿を 見て、柳営女の悲しさは一層増しまし た。﹁我が子よ、よく聞け。病を治し てくださいと拝むんだよ。今日が最後 の参詣なんだよ﹂と手を合わせ泣き悲 第四話 今も宮中にあると聞き﹁六年前、日本 名号を、もう一度﹂と言うと子は﹁南 ﹁唐にて賢問子の子が出生﹂ ︵前編︶ りゅうえいにょ 賢問子が唐に残してきた妻・柳営女 て く だ さ い ﹂ と 役 所 に 願 い 出 ま し た 。 無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏﹂と大声で ふ びん 皇帝も不憫に思いお許しになりました。 唱えました。柳営女は手を合せ﹁御仏 ﹁他に何の願いもありません。この子 はっきり言葉を出しました。 子は喜び﹁母様早う、うちへ帰ろ﹂と の御利益、一生忘れません﹂と言うと、 複雑な思いがありました。﹁子どもが の病を治し、人と話が出来るようにお 理 だ ろ う と 思い、仏法を守護する神々 ません。このような事は薬の力 で も 無 たが、五歳になっても一言もしゃべり 男の子はますます美しく成長しまし のだよ﹂と話しました。 の父が造った霊仏。手を合わせて拝む よく聞いておくれ。この仏さまはお前 子の手を引き﹁お前が幼いといっても 問われた時、何と答えよう﹂。 この前代未聞の不思議な出来事は世 願いします﹂と祈りました。 んでいる。大きくなって﹃父は?﹄と 朝 早 く か ら 、 そ の 日 の 夕 暮 れ ま で 、 間に広まりました。︵つづく︶ かわいそうでならない。父は日本に住 産しました。しかし母には喜びの中に 柳営女は喜び宮中へ一週間足を運び は無事、玉のような美しい男の子を出 父が造った仏さまへ一週間、参詣させ 仏﹂と称えるではありませんか。 へ帰った賢問子の子が生まれて五歳に な り ま す が 、 一 言 も 物 を 言 い ま せ ん 。 柳 営 女 は 初 め て の 声 に 喜 び ﹁ 六 字 の しょう。子は手を合わせ﹁南無阿弥陀 願い出て造ったという阿弥陀さまが、 しみました。するとどうしたことで 小 島 英 裕 6 が 言 う こ と も 聞 こ え な い 。 ど う し てお 見て、柳営女は声をあらげ﹁お前は母 に﹁一度、この子に言葉を出させてく けれど何の返事もない我が子の顔を ださい﹂と祈りました。 柳 営 女 は 以 前 、 夫 ・ 賢 問 子 が 皇 帝に 『総本山誓願寺名号額 遊行上人筆』 第136号 (5) 横にある山道を登って行き、 は、僕たちのトラブルに気が とし こ 利子には上から内部を見下ろ 一カ所にゆっくりと・・・ つき、呼び止めた。僕たちは させ、僕が説明をした。 事の次第を話したところ、窓 二 月 二 十 四 日 朝 九 時 十 分 、 口の男に掛け合ってくれ、簡 昼食後、外の木陰でくつろ エローラ行きの一日ツアー・ いでいると、バナナ売りのお 単にドルでいい事になり、四 バスは、途中でダウラター ばさんが寄って来て、五本で ドルを払い中に進むことがで とりであと バード砦跡と、この辺りでは 一〇ルピー ︵約二五円︶だと言 きた。だが窓口の男の気分次 有名らしきヒンドゥー教寺院 うので買って食べたところ、 第なのか、何を基準に判断し にも寄った。 予想以上の美味しさに僕たち ているのか、納得がいかない 八九年にエローラで、最後 は少し満足した。 ままだった。 せっくつ じ いん のジャイナ教の石窟寺院を見 十一時過ぎにエローラ石窟 ジャイナ教寺院群を見学し、 ながら、帰りはどうしようか 帰りには二カ所ほど見学し、 寺院群に着き、南の端にある と心配していたら、イギリス アウランガーバードのバス・ 仏教寺院群の前に集まってガ くついん 人の老夫婦が雇った車に運良 スタンドに帰ったのは夕方五 イドの説明を聞いた後、窟院 く乗せてもらえ、帰りに立ち 時半だった。 の中を見学した。 寄ったのがこの二カ所だった。 窟院は三十四窟あり、南か 改めて僕は、型にはめられ 今では砦跡も有料になった。 ら一∼十二窟が仏教、十三∼ たバスツアーより、安くてノ 一〇〇ルピー又は二ドルと書 ンビリとした路線バスに乗り、 二十九窟がヒンドゥー教、少 いてあり、ドルの方が若干安 目的地を絞って自由にじっく し離れて北の端の三十∼三十 やますそ いので二人分の四ドルを窓口 りとその場に居るのが、より 四窟がジャイナ教で山裾に掘 に差し出した。ところが、窓 性分に合っているのだろうと られている。 口 の 男 は 、 ド ル は 駄 目 だ と 仏教寺院群を見た後集合し、 思った。 言って受け付けない。理不尽 他を圧倒する中央の第十六窟、 な扱いをされ、お金を払って ヒンドゥー教のカイラーサ まで入る程の場所でもないと ナータ寺院へと歩いた。唯一 思い、バスの所に引き返そう この寺院だけは入場料を取っ とした。 ていた。僕たちは入らずに、 すると僕たちの前に並んで この寺院だけは中央部から空 いたアメリカの若い黒人夫婦 が見える造りなので、寺院の 高さ60mの戦勝記念塔 チャーンド・ミナール (ダウラターバード砦跡) 30 インド 夫婦道中記 (6) 第136号 岩瀬 賢良 東龍寺 住職 しゃ り でん ﹁ 舎 利 殿 ﹂ の ご 案 内 六阿弥陀功徳日 ︵日︶ ∼二十三日︵土︶ ●十七日 六阿弥陀功徳日 善導忌 ︵木︶ ●十四 三月 涅槃会 ︵金︶ ●十五日 六阿弥陀功徳日 ︵金︶ ●八日 節分会 ︵日︶ ●三日 二月 法然上人追慕念仏行脚 回向をさせて頂いております。舎利殿 参り下さい。 しになられた際は是非﹁舎利殿﹂へお 礼申し上げます。皆様、誓願寺へお越 て頂きました。この場をお借りして御 の皆様からのご寄付によって揃えさせ ︵木︶ ●二十四 ︵火︶ ●十五日 修正会 一日︵火︶ ● 一月 お も な 行 事 予 定 の仏具は当派各教区内寺院様・檀信徒 毎日この舎利殿でお勤めし、ご精霊の する施設﹁舎利殿﹂が完成致しました。 総本山誓願寺に納骨のご精霊を回向 え こう 総 本 山 誓 願 寺 だ よ り 春彼岸 クイズコーナー ︻問題︼ 行き 今回の﹃インドドタバタ夫婦道中記﹄で、お二 人は、どこ行きの一日ツアーバスに乗ったので しょう?カタカナ四文字でお答え下さい。 ○ ○ ○ ○ 寺︶、感想や質問を必ず書いて送ってください。その中より紙面 官製はがきに、答えと郵便番号、住所、氏名、菩提寺︵だんな に採用させて頂くことがあります。掲載時には、ハガキにてご本 人にご連絡致します。名前の掲載の困る方は、その時にご返事下 さい。今回は管長猊下御染筆の色紙を一名、阿弥陀寺さまより特 製お守りと干支根付を五名、本山謹製線香を五名の方に、合計十 一名の方に抽選にて差し上げます。ご応募お待ちしております。 ︻宛先︼ 〒四四四 三五二三 岡崎市藤川町字中町南十五 稱名寺 内 ちかい編集係 答 え ○ ○○ ○ 郵便番号 住所 ︻締切︼一月三十日 ︵消印有効︶ 第 号 京都市中京区新京極桜之町四五三番地 電 話︵〇七五 ︶ 二二一 〇九五八 総本山誓願寺 浄土宗西山深草派 平成二十五年一月一日 ちかい 氏名 菩提寺︵だんな寺︶ 問 感想 ・質 等 発行日 発行 所 136 URL http://www.fukakusa.or.jp FAX︵〇七五 ︶ 二二一 二〇一九 E-mail [email protected] − − 第136号 (7) (8) 第136号 あ み だ じ 阿弥陀寺 何でも Vol.34 お ぐり こう じん 小 栗 好 人 師(阿弥陀寺 第35世)昭和34年 (1959年)生まれ 高校卒業後、会社勤務を経て、先代住職の体調不良を機にお寺に戻り、平成17年晋山。平成24年11月晋山式を挙行。 おう 今回は岡崎市桜形町の「應 しょうさん そくげんいん 定されました。 あみだじ Q3 「ちかい」読者に一言 お願いします。 聲山 即現院 阿弥陀寺」を訪ね 背 後 の 山 は 弘 法 山と 称し、 ました。 32世仁空天裕上人が八十八体 小 学 生の頃、体 育 館に「報 の弘 法様を安置し、近隣 檀信 恩」という額が掛かっていまし 徒の信仰をあつめています。 た 。当 時 はその 意 味 がよくわ Q1 お寺の由来を 教えて下さい。 天平9年(737)行基菩薩が 諸国行脚の折に、当所に一宇を かっていませんでしたが、大人 Q2 お寺の宝物は 何ですか? になり、住職となり、私は檀家 さんを始め、地域の方々とたく 建立し、大金谷山西福院と号し、 当寺には約600年にわたる 過去帳(霊簿)があります。完 観音様を安置しました。応永元 さんの人に支えられていると 年(1394)開山教空龍芸上人 全に保管されていることは、貴 かえ、少しでも皆さんに恩返し の弟子となった至空誠讃上人 が住し、天台宗を改め浄土宗と 重な文化財と言えると思います。 が出来るように日々の法務に勤 また、嘉吉元年(1441)8月10 めていきたいと思っています。 なり、應聲山即現院阿弥陀寺と 日、誠讃上人が願主となった岡 改めました。明治19年(1886) 崎市指定文化財の当麻曼荼羅 特旨をもって永代斑金襴寺格を や、江戸時代作の涅槃図などが 受け、次いで大正7年(1918) あります。 本 堂 ▲ ▲ 市指定文化財﹁当麻曼荼羅﹂ ▲600年分の過去帳 (霊簿) 開山龍藝上人坐像 ▲ 【主な行事】 【お問い合わせ】 阿弥陀寺 〒444−3435 愛知県岡崎市桜形町前田13 TEL 0564-84-2034 「ちかい」読者に 何か頂けませんか? の根付を5名様に差し上げます。 【交通】 名鉄本線東岡崎駅下車 名鉄バス東岡崎駅発桜形線 「麻生」バス停下車徒歩6分 2月 第2日曜日 彼岸中の 日曜日 4月 第2日曜日 7月 第1日曜日 彼岸中の 日曜日 11月 第3日曜日 Q4 阿弥陀寺特製お守りと干支 特旨をもって准檀林格地に認 御忌会 春彼岸会 涅槃会、弘法会 盆施餓鬼会 秋彼岸会 月並会 日々感じています。晋山式をむ