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陰謀」 から 「夢想」 へ: ルソーの 『夢想』 の冒頭を

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陰謀」 から 「夢想」 へ: ルソーの 『夢想』 の冒頭を
Kobe University Repository : Kernel
Title
「陰謀」から「夢想」へ : ルソーの『夢想』の冒頭を
めぐって
Author(s)
宮ヶ谷, 徳三
Citation
近代,59:1*-31*
Issue date
1983-01
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81001385
Create Date: 2017-03-29
「
陰謀」か ら 「
夢想」へ
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夢 想 』 の 冒 頭 を め ぐっ て -
宮 ヶ 谷
徳
ル ソーC
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晩年最後0
)著 述 『孤独な散歩者の夢想』 は、その冒頭の書 き出 しか
ら多 くの謎をひめてい る。 「それゆえ私 は地上でひと りき りにな った・
・
・
」 とい
う 「それゆえ」 とはなにゆえか、 これに先 だっ状況説明は一 切ない。ただ少 し
後に二 ケ月前 に起 った 「ある思 いが けない悲 しい出来事」が述べ られて い るが、
それが現実 に何を指すかは全然陳述 されて いない。 リカ ッ トが言 うよ うに 「わ
ざと隠 して い る」 よ うにさえみえ る。あ るいは、あ る種 の神経症患者 にみ られ
(1)
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)かOあ るいは最初 の下書 きで書 いていた
る「
故意の言い落 し」 r
部分を切 り捨てて しまったのか。 これは現代の読者 に今 なお戸惑いを与えて い
る。
この 「
思 いが けない悲 しい出来事」 について は多 くの解釈、論争があ ったが、
1
965年)
∫ ・ファーブル 、R ・オスモンの 「コンチ公 の急死」 を指す とい う説 (
によって一応の解決をみた。 これ にともな って今更のよ うに 「自由と独立」を
逼歌 していたル ソ-が、その深層 において 「保護者」 の 占めて いた比重 の大 き
さに驚か され るであろ う。
われわれは この 「コンテ公の急死」説をふ まえた上で、 『夢想』 冒頭のテキ
f
]か らル ソ-の 保護者像 の持つ 深層心理 的な 諸 問題、
ス トに現 われた表現 の L
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侶 こ先 だっ晩午
す るテ-マとの 関 連を考察 してみたいと思 う。 とりわけ 『夢想亡
- 1-
のル ソーを F
.
-しめた 「
陰謀 」 compl
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L
d析 し、複合 したル ソーの
心 的状態を示す重要 だが、なかなか掴え難 いテーマとな ってい る。 これを病理
的事 象 と して片付 けるのはむ しろ容易であろ う.
。だが様 々のテキス トを、精神
cons
ci
ence をたどることによって、あ る程度
分析的観点か ら、その前意識 pr6-
の輪郭を浮 び上 らせ ることもで きるのではないかっわれわれは、あえて この難
問にアプ ロー チ し、一つの揖明、で きうれば一つの解釈を試みてみ ようと患 う。
Ⅰ.保護者喪失の哀歌
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しか しなが ら、私は 今街路で迷 っていま
それゆえ私は壁土:
eひとりにな ったO も
担 兄弟 も、身近かな人 も、友人
すO,
鮒 辛し、病弱で、助 けも、財産 も、祖
も、交際仲間 もいな く円分f
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些な ?_
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国 もな く、知人か ら 400里 も離れたところ
人間の うちで阜 っtも人つ き斜 、
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よ く、
で、大使殿か ら給金を払 って頂 けなか った
阜_
?とも腰 _
L_
り革 を!
みんなか ら全員一致で
追い出され たのである。彼 らは憎 しみを磨
雌
き、私の感 じやすい魂にどんな責苦が もっ
く、その才能 とて雇 って くれ る人の不正か
う旦 坦
ため、やむな くした借金を背負い、揖 _
皇
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型を 何の手 だ て もな
とも残酷かを考え、私を彼 らに結 びつけて
ら守 られ ることもあ りません。 このような
いた梓をすべて乱暴 に絶 ちり」った.彼 らが
状態で、大使殿が二度 と持てない垣 土も
どうであれ、私は人間を愛 した こ と だ ろ
熱心で、 もっとも忠実な召使 いにな された
う。彼 らは人間であ ることを止めることに
残酷な扱 いに対 して、保護をお原頁いす る次
よって しか、私 の愛着か ら離れ ることはな
第です。私にはいかなる裁判所へ も、 この
か った。だか らもう彼 らは私 にとって異邦
I
E当な訴えを持 ってゆ くことが で き ま せ
人、大知の人、要するに何でもないものに
ん.裁 きを倣 い出れ るのは国王陛下 の玉座
な った。それ も彼 らがそ う望んだか らであ
の下 においてだけであ ります。
る。それに して も彼 らか ら、すべてか ら離
れて しまったこの私 とは-・
休何 者 で あ ろ
テキス ト-3
うO これが私に残 された探究すべ き事柄で
私がアヌシーを L
H発 した 翌 日、 私の父
ある。不本意なが らこの研究に先立 って、
は、友人、同 じ時計職人で才人であ った リ
- 31
私の置かれている立場を一瞥 してお く必要
ヴァル氏 と私を迫ってそこに勘かナつけた。
がある。これは彼 らから私にいたるため、
・
-この人々はヴァランス夫人に会い、彼女
どうしても通過 しなければならぬ一つの観
と私の運命に涙することで満足 し、私の後
念なのであるから。
を追い、 私をつかまえよ うとはしな かっ
〔--・
〕
た。彼 らは馬に乗っていて、私は徒歩だっ
ああ、旦分を壁旦i旦三七二
1=
運 命をどう
して私に予見することができただろうか。
たか ら、そうすることはやさしいことだっ
ただろう。同じことは叔父のベルナールに
そこに身を委ねられている今 日なお、どう
もあった。彼はコンフイニオンまで来て、
して私にそれを見きわめることができるだ
そこで私がアヌシ-にいることを知って、
ろうか。かって と同 じ人間である私、今 も
ジュネーヴに帰 ってしまったC私の近親者
なお同 じであるこの私が、いつの日か何の
たちは、旦生萱草互型 担 二
左遷金 些私を
疑念もな く、一個の怪物、毒殺者、殺人者
委ねるため、私の星と些鎧立て吐鼻と思わ
れた。
と見なされるだろうと、常識で想定 してみ
ることができただろうか。
まず この三 つの テキ ス トを見 て いただ きた い 。 Te
xt
e-1 は 『孤 独な散歩者
の夢想』 冒頭0
)第- 及 び第三 パ ラグ ラフで あ るoTe
xt
e-2 は 1
7
44年 、 ル ソー
(2)
が ヴ ェネ チ ァの フ ランス国王大使 の秘霞 と して イタ リアに滞在 中、大使 モンテ
ギ ュ氏 の激怒 にふ れ 、突 如解 雇 を 申 し渡 され 、邸を出て いかねは窓か ら放 り出
す と脅 か され 、給 金 の清 算 も しな い まま、文字通 り街路 に放 り出 された時 、当
時 外 務 省 の大 臣代理 を務 めて いた デ ュ ・チ ェル氏 に宛てて書 いた嘆願 の手紙 の
一 節 で あ るoTc
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・
自』 第二 巻 、彫 金 師の 粗方 の下 で徒弗生活 を して
(3)
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6歳 のル ソ-が 、 ジ ュネ- ヴを脱 走 して カ トリック世 界 に身を投 げよ うと
した時 、父親 や近親 者 の対応 を語 る一節 で あ るo
(
4)
7
76年秋 ごろ と されてい るが、 デ ュ ・チ ェル氏 への
『夢想』 の書 き出 しは 1
『手 紙』 は1
74
4年 8月 に書 かれ た もので 、『夢 想』 よ り32年前 に 書 かれた もの
で あ るO『告 白』 の この部分 は 1
766-67年 ごろ少年期の回想 の中で執筆 された
もので、 『夢 想』 に先立 つ ことは ぽ1
0
年 で あ る。 この各 々異 った時 期、異 った
情 況 の中 で、各 々異 った 内容 を語 るテキ ス トの 中に,い くつか共通 した用3
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、
表現 、要 す るにル ソー特 有 の d
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丘 がみ られ ることに注 目 して頂 きたい。
まず Te
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e2 の文 体 的類 似性 を見てみ よ う〕
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erな表現 だが、 ル ソーは 自己の存在状
の文部 によ くみ られ るきわめて f
況が突然大 き く変化 した時、好んで この表現 を使 って い る。例え ば、 トリノで
改宗 して従僕 を務め、放浪 した後再 び ヴ ァランス 夫人 の許 に 身 を落 ちつ けた
時、
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(そんなわけで、私 は彼 女の'
髭 に落ちつ くこととな った) また、晩年英 国に
渡 った時 の手紙 では,
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ヴ ェネチ ァでは、大使公邸か ら突然生意気 な召使 い と して主人 モンテギ ュ伯
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上にただひと り」s
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e突然 と り残 され た とい う自己の状 況変化を
示 して い るっつ ま りこの直前 に何 か重大 な事 態が生 じ、突然 自分 が強 い孤 独感
に襲われた、 と解 され る。つ ま りヴ ェネ チ ァで主人 か ら棄て られ、街路 に迷 っ
て いた時 と類似 した事態が想定 され なければな らないだ ろ う。
さらにこの [
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」己存在 の明示 に続 (情 況説明 も同 じ構造 を もって い る。
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った とい うふ うに人間的通が りの喪失 、 I
1分以外 にもはや頼れ るものがな くな
った とい う陳述であ る。
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ここでは両 テキス トとも、 自己の もつ メ リッ トを最上級 の讃辞 で飾 り、「
人
間の中で もっとも人づ き合 いが よ く、 もっとも優 しい者」「もっとも熱心で、
もっとも忠実な召使」が、各 々人 々の 「
憎 しみ に磨 きをかけた責 ,
f
i
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.
=
」 「姓酷な
処置」を受 けて い るとい う不条理が 告発 されて い る。 この もっとも善良な、賞
讃すべ き人 間が、人 に理解 されず、残酷 な仕打 ちを受 けてい るとい う自己認識
は、晩年 を通 して迫害 にたち向か う時、 くり返 され る常 とう文句であ るが、 こ
れがすで に3
0年前 の若 き 日の 自己弁護 に使 われて いたのは興味深 い,
)そ して こ
の不条理、対丑 の関係 は当事者 を超えた権威者、理解者 に調停 または裁 きを求
め る構造 、つ ま り一種 の三角関係が成 りたつ ことにな るっ このデ ュ ・チ ェル氏
- の手紙 の場合 、「国王陛下 の玉座」 が調停者の相 違にあ る。 これはル ソーが
初期 に作 ったオペ ラ 『村 の占師』 で、 コランとコレッ トの変 の もつれが 占帥 に
よ って調停 されて い る し、『新 エ ロイー ズ』 において、 サンニプ ル- とジュ リ
-の関係 も、良識豊かな夫、 ヴ ォル マール氏 の調停的役割で均衡が保たれてい
るのが想起 され るだろ う。晩年 のル ソーが 『対話』 の草 稿を ノー トルダム 寺院
の祭壇 に供託 しよ うと した 目的が 、国王の 目にとまるよ うにす ることた ったと
言 うの も、高等法院の迫害 に対 して国王の調 停を求 めた行動であ ったとみ られ
る。では この 『夢想Rの場合 は誰 に調停、 あるいは押解 を求 めてい るのか,こ
うした コルネ イユ的三角形 を想定す ると次 のよ うに岡が描 けるだろ う∩
-
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『村 の ,
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根
『
デュ・チェル氏への手紙』
差
.
I
.J
ノ
こ、
、
、
、
、
、
、
、
、
(
解雇 ) モ ンテ ギュ氏
コレット
撒信1
』 をめ ぐ:
二
,(
'
」
動
ノ
J.J
i
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\
て
(
別離 )
コラン
『
夢且
Ll
の場合
7公(?
;
(
追1
.
i
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:
)
ノ
、
、
、
、
\
、
、
、
、
、
人問たち
,
J
.J
(
迫害 )
(
迫 密書)
『夢想』の場合 、三角形 の頂点 にはだれが位置す るか。 これは後述す るよ う
に、「
思いが けない悲 しい出来事」 が保護者 コンチ公 の 急死 を指す とすれ ば、
この頂点 には コソチ公が位置 して いた と想定 され る。だが この保護者 の死 によ
って、 自分 と迫害者 たちとの緊張 し、対立 して いた関係 は切断 され、三角形 は
崩れて しまうっそ して 自己と他者 の問 に厚 い壁 をめ ぐらし, 「
彼 ら」 は 「
異邦
人、未知の人 々、要す るに何で もない」存在へ と変 ってゆ くO
t
on)をよ く問題 にす る。つ ま りだれ に向 って
ル ソーは文章を書 く時、調 子 (
書 くか、が常 に強 く意識 されていて、相手 によ り、 また内容 によ り調子を変え
るのであ る。友人、女性 、保護者 などに手紙 を書 く時各 々違 った調子 にな って
いるし、また公衆 に真実を訴え る著作で も、各 々の課題 によ って異 った響 きを
与えてい るっでは このデ 31・チ ェ ル氏への 『手紙』 に似 た 『夢想』 の書 きI
I
L
lL
は、一休誰に向 って書 かれてい るのだろ うか。作者 は 「自分 自身だけのため」
と言 ってい る。 これを文字通 り受 け とるとすれば、保護者 の死 によ って深 い孤
- 7-
紬 に陥 った老人 の L
I
i己治療 的行為 と して U
jEc
r
i
t
ur
e とい う仮説 を ここに当て
はめて考え ることもで きるであろ うO この点 については別 に論ず るとして、 こ
こではあま り触れないでお こう。
さて、デ ュ ・チ ェル氏へ の 『手紙』 は横柄で乱暴 な主人 によって、突如街路
に投 げ出 された哀れな召使 いの政府要人への嘆願であ るが、 ここに突然保護者
を失 った不安 と 悲惨が詩的な散文で 歌い上 げられてい る。 これ と ほぼ同 じ調
子 、 リズムで、類似 の構文、類似 の表現 が3
2
年 を経て 『夢想』 の冒頭 に表われ
てい るのはなぜ だろ うか 。『
夢想』 を書 き始め るとき、 ヴ ェネ チ ァでの悲惨が
思 い返 されていたのだろ うかo明確 に思 い起 こされていない まで も、あの時の
不安 な感情や リズムが心 の奥底で無意識的によみがえ って来 た、 とは乱し
定でき
るだろ うoそれは後 に述べ る 「
思 いが けない悲 しい出来 ごと」が
、n分 の保護
者 と してかすかな希望を託 し続 けて きた コンチ公 の死 を指す とすれば、 この両
テキ ス トの類似性 は偶然 ではな く、 ともに保護者を失 った者の不安 と悲 しみ、
a
me
nt
o とみ ることができるので
自己の悲惨 を歌い上 げた保護者喪失の哀歌 l
あ る。
Ⅱ.「思 いが けない悲 しい出来 ごと」
『第- の散歩』 の第 7パ ラグ ラフには、 これを書 き出 した動機が次のような
謎 めいた文章 で語 られて い る。
「
私 の心 の中に完全 な平和が確:
l
l
r
.
してか ら、まだ二 ケ月 に もな らない.ず っ
と以前 か ら私 は もう何 も怖 れな くな っていたが、それで もなお希望はいだい
て いたっ〔…〕 あ る思 いがけない悲 しい出来事 un占
V6
ne
me
ntaus
s
it
r
i
s
t
e
qu'
i
mpr
占
vu が遂 に私 の心 か らこのかすかな 希望 の光 を消 し去 り、 私 の運命
が この冊 で永久 に、後戻 りす ることな く問定 されて しまった ことを知 らされ
た。
」
- 8-
この 「
思 いがけない悲 しい出来事」が何 を指 すのか、作者は何 らの説明 もせ
ず、問題 の鍵は隠 されたままであ るO この 「出来事」が、冒頭の 「それゆえ」
do
ncと連が ってい ることは明 らかであ り、 それは 自己の存存 に関わ る重大な
事態で もあ った筈であ る。 この一節をめ ぐって、 これ まで様 々な推定 、仮説が
試み られて きた。
7
7
6年 2月2
4日の 痛 ま しい 午後 に当てて考えたo この
か ってデ ュクロは、1
日、 ル ソ-は 自筆 の 『対話 -
ル ソー、ジ ャン-ジ ャックを裁 く』を ノー トル
-ダム寺院 の祭壇 に供託 しようと持参す るが、その時 、祭壇は鉄柵 によって固
く閉 ざされていて、この試みは果せ なか ったっその後夜中までル ソ-は絶望感
をいだきなが らパ リの町中を歩 き廻 っていたOだが、 この後、 自筆原稿は コピ
ー されて友人の コソデヤ ック価、英国人 ボースビイに託 されてい ることか ら、
この時点ではまだ 「
希望」を持 ち続 けていた と考 え られ る。 さらに 『今なおl
TA
義 と真実を 愛す るすべての フランス人へ』 と 題す るパ ンフ レッ トを 自筆 で作
り,町を行 く人 々に手渡 してい る し、一方 『対話』 に続 く 『前 の著述の物語』
(
1
7
7
6
年 7月)では、なお 『対話』の コピーを作 って親 しい人 々に渡 そうとす
る決意が語 られている。 こうしたル ソーの執物で孤独な闘いは 「かすかな希望
の光を消 し去 った」後の行動 とは考え難いだろうo
7
7
6
年 5月の クレキ夫人 との絶交をあげてい るが、 これ も
ソシュール夫人は1
『物語』 よ り前の出来 ごとであ り、-貴婦人 との絶交がそれ ほどの大事件 とは
考えられない。ジ ャン ・マサンはオ ラ トワ-ル会士 の陰謀 をあげてい るが、 こ
れ も修道会 の行動 はル ソ- にとって大 きな問題ではなか ったであろう。そ して
もっとも有力視 されて きたのが 『第二 の散歩』で語 られてい るメニールモンク
ンでの事故,馬車に繋がれたデンマー ク犬 と衝突 して大怪我を し、意識不明に
7
7
6
年1
0
月2
4日の 「ある思 いがけない事故」(
una
c
c
i
de
nti
mpr
6
vu) と
陥 った1
考える立場で、 J.スピン ク、 J.ゲ- ノ、M.フラン ソン、H.ロデ イ工とい っ
た人 々が これを支持 していたO事実 この事故 で 、 ル ソ-が死んだ とい う噂 がパ
リ中に拡が り、『アヴイニオン通信』 とい う新 聞には 「犬 に踏みつぶ された」
ル ソーを悼む皮 肉な記事 も出た し、ル ソ-はそ こに 自分が
- 9-
「
生 きたまま埋葬 さ
れ る」 とい う 「生 き埋め恐怖」の不安を語 って もい る。
R.リか ノトは、1
9
60年、 この 「事故」が 「F壬
l
J
J
白』 の続 きを貴 くという計 画
の後 に起 った」 とル ソ-が書 いてい ることか ら、「事故」を 「出来事」 と同一視
す ることの論理的矛盾を指摘、『第- の散歩』は問題の 「出来事」 の後、 「
事
故」 よ り前 に位置づけ られ るべ きだと従来 の説に疑問を投 げかけた。
ジ ャン ・フ ァーブル とロベール ・オスモンは、 この 「思 いがけない悲 しい出
来事」を1
77
6年 8月 2日の コンチ公の急死 と仮定 して調査、研究を行な ったO
フ ァーブルは 、 ル ソーが コンチ公 の 「家来 」v
as
s
a
lであったのではないか、と
い う問題提起か ら出発 し.「十八世紀の個人主義者 」
「変 り者」 と辞 された この
人貴族の人物像を調べ、ル ソーとの近親性を立証 しようとす る∩
(7)
Loui
s
Fr
an9
0i
sdeBour
bon (
1
71
7-1
7
76) はブルボン王家の分家 コンチ公
Pr
inc
edeCont
iの家柄 に生れた。 父 Loui
s
-Ar
manddeBour
bon は放蕩者
i
s
abet
hdeCondさは移 り気な女であ り、実の父 は家 によ く出入 して
で、母 El
r
qui
sdeFar
e だ とい う噂 があ った,
J祖父 Fr
an9
0i
s
Loui
sdeBour
・
いた Ma
bonは ポ- ラン ド国王に選挙 されなが ら国王になれなか ったO曽祖父 Ar
ma
nd
deBour
bon (
1
6
29-1
6
6
8) は初期モ リェールの保護者 として知 られてお り、
a
ndCond丘で
その兄は フロン ドの乱の中心人物 として知 られ る コ1
/デ大公 Gr
i
nc
e 家には フロン ドの伝統、つ まり絶対王政の下で、高等法
あ り、 この両 Pr
4歳で塙政の娘
院を足場 に王権 に対抗す る気風があった 。 ル イ-フランソアは1
Loui
s
e
Di
aned'
Or
1
6
ans と政略結婚す るが、 当時の大貴族 の常 として 数多 く
の愛人があ った し、 また様 々な政治的策謀 のや りとりがあ った。とりわけ王権
,
i
t
oy
en 「弁護士」avoc
a
tと称し
と高等法院の争いの中で、彼は 自ら 「
市民 」c
て活躍 し、ジュネーヴの 「
市民」 ル ソーと特別 な友情 関係 にあった ことが うか
がえ るoそ してル ソーは 自分 に向けられた有罪判決の取消 しの希望をつないで
いたのであ り、『第- の散歩』が 「
九月の終 りか、 遅 くとも 卜月初め」 に書か
れた と仮定す ると、その二 ケ月前 に 「ル ソーに個人的に関心をひ く事柄は1
7
7
6
年 8月 2日の コンチ公の死以外 に何 も見つか らない」 と断定す る。
ロベール ・オスモンは これ と対昭的に、ル ソーの主体の側か ら、精神分析的
(8)
- 1
0-
視野を通 して コンテ公 との関係をみてい る。そ して この 「出来事」が コンチ公
の死 と仮定 した上 で、一体なぜ この死がル ソーの希望 の消滅を意味 したかを究
明す るOまず高等法院議長 エル ノーの回想録 には、 コンチ公の活躍ぶ りが描か
れている。
「
高等法院の集会で、彼 (コンチ公)が諸 々の見解の権威者であ ると見られ
ていた。見解を書 きとどめねばな らぬ時は筆 を と り、1
5
0人 もの人 々の中で も
自分の書斎 にい る時 と同 じ平静 さであ った し、われわれ に要約を朗読 し、それ
は全員一致で採択 されていた。 彼 はまた高等法院 の情熱で もあ った…O
」 こう
した資料か ら、1
7
7
0年 6月2
6日の高等法院会議か ら1
7
71
年 1月1
8日の メンバー
の大量解任 までの問, コンテ公は国王、モーブ ゥに対す る司法官たちと連帯 し
て行動 していた ことが分 る し、ル イ十六世下で高等法院の メンバーが再任 され
た時 も、 この権利擁護者 に対す る高等法院の尊敬 は大 きい ものであ った。
「
1
76
2
年のル ソ-に対す る判決の修J
T.
を、高等法院か ら得 ることので きる者 が この世
にいたとす るな ら、その人 とは コソチ公であ った」 とオスモンは断言す る。
確かにル ソー 白身は判決の修 T
l
:
.
は期待 していないと 『対 話』で言 ってい る.
だが この時期 、 ル ソ-の闘争は終 るどころか、 ノー トルダム寺院-の 『対話 』
の持参 ,1
7
7
6年春 には遺ゆ く人 々にビ ラを配 った りしてい る。 この 『対話』を
祭壇 に献ず る行動 に出たのはl
甘王の 目にとまるのを期待 していた とル ソーは言
っているが、オスモンは 「この行動が コンチ公 の注意 をひ くことも可能であ っ
た」 とみ る。
1
7
7
0年ル ソーがパ リに来て以来, コンチ公 と会 っていない し、 これは絶交 と
見 られているが、決定的な絶交ではなか った 。 ル ソ-が コソチ公 にあ る疑 いを
いだいていた と して も、その敬意 は失 っていなか った。ル ソーの コソチ公 に対
す る複雑な反応は、む しろル ソー の内的な問題であ り、 その 「
強迫観念」「闘
争心Jに関わる一 つの反応 r
6
a
c
t
i
on であ った と見 られ る。 また、 パ リに戻 っ
てか らル ソーは きわめて社交的 に人 々とつ き合 ってい るが、ダ ランベールは こ
の模様を次のようにヴ ォルテ-ルに書 き送 ってい るO
「
一 ケ月前か ら彼 (ル ソー)は逮捕令があ るのにパ リ中を面を上 げて堂 々と
- ll -
歩 いてい るのは驚 くべ きだと思 いませんか。 こんな ことは彼 に しか起 りえない
で しょう。そ して、 これ もどの程度 まで彼が保護 されてい るかを証 しているの
です。
」
つ ま りル ソ-が コソチ公 に保護 されていた ことは誰 の 目に も明 らかな事実で
あ ったわけであるo そ して最後 にオスモンはベルナルダン ・ド・サン-ピエルの回想 をひいてい るoサン-ピエ-ルが、 コンチ公が遺言であなたに年金を
残 して くれただろ うと問いかけ ると、ル ソーは次 のよ うに答 えてい る。
「
私 は人 の死を享受す るよ うな ことがない よ う神 に折 っています。
」--「
間
違 っていた ら許 して下 さい。なぜ彼 は生前 あなたにいい ことを しなか ったの
で しょ う。
」-
「あれはいっ も約束 しておいて、いつ も 守 らない 大公で し
たD彼 は私 に心酔 してい ま した。彼 は激 しい悲 しみ devi
ol
ent
sc
hagr
i
nsを
私 にひき起 こ しま した。 もし何 か人 に頼み こん だ ことで後悔す ることがある
とすれば、それは大貴族 たちに頼み こん た ことで しょ う。
」
この一旬は必ず しも決定的な解答 とは言 えないか も知れない O だがオスモン
は次 のよ うに結論 してい る。「それ に も拘わ らず、 一点 については われわれの
仮説を確証 してい る。つ ま りル ソ-の秘かな希望 とは、 コンチ公の人格の中に
託 されていた。苦 々 しい失望 に もかかわ らず、 この希望 は公 の死 までひき延 さ
れていたのであ る。
」
このオスモンの研究 は晩年 のル ソ-の再的 「
H
」
題 に照準を合 わせ、保護者 に対
丁 ンビケT ランス
す るル ソーの両価的感情 を洞察 してい る し、前の フ ァーブル教授の 「
実証的」
仮説 よ りは るかに説得性 を もっていて、 この 「出来事」論争 に終止符 を うつも
の と言 え るだろ う。そ して この立場 は、先 にわれわれが見 たよ うに、『夢赴1
』の
書 き出 しが、「
保 護者喪失の哀歌」であ るとす る見方を補完す るもので もある。
Ⅱ.「陰謀」 の構 図
再 び 『夢想』 のテキス トに戻 ろ う。 この 『思 いがけない悲 しい出来事』 によ
- 1
2-
って闘いを放棄 し、人間たちとの対j
:
T
.
関係は消え、ル ソ-は暗 い 自閉の中で、
このよ うI
i
:
自己の探究を始 め る。そ して過 ぎ去 った1
5年間が今なお 「夢 」r
E
:
ve
のように思 え るとい う0第 3パ ラグ ラフでは 自己の数奇な運命 、常 に 「自分 を
待ち うけていた運命」を予知で きなか った悔み、人 々の迫害を受 けた苦 しみが
回想 され るO「
怪物,毒殺者 、殺人者」 とみな された とい うの も、 いずれ も陰
謀の想念 と結 びついてい る。 この逃亡生活 の中で起 った 「陰謀」、 たえず その
疑いに確信を もちなが ら、実体が掴めずル ソーを苦 しませ た、 この 「
陰謀」 と
は何であ ったのかO「自分を待 ち うけていた運命」 によ って 自分が 「
陰謀 」 の
犠牲 にな った とい う 「解釈」は一体 どのよ うな現実、あるいは事情 と結 びつい
てい るのだろ うかリ まず、 この想念 の現れ方 をみてみよ う。
1
7
7
6
年 1月 4E
l
、ル ソーは ヒューム の招待 を得て英国へ 向 って パ リを発つ
が、その第一枚、 ロワの宿屋で寝てい る問、夜 中に ヒュ-ムが 「ジ ャン-ジ ャ
ック ・ ル ソーを手 に入れた」 とフランス譜で幾度 とな く叫ぶのを聞いた。それ
は単純 な ヒュ-ムの寝言だ ったのか、あ るいは不安 な旅 の途上 にあ ったル ソー
の錯覚 だ ったのか、確認の しよ うはないOだが この時か らル ソーは ヒュ-ムに
疑念を持 ち始め、英 国 に渡 ってか らヒューム宅 に仇敵 トロンシ ャンの息子が友
人 として滞在 してい るのを知 って驚 き、 ヒュームが迫害者たちの手先であ り、
自分が英 国に連れて こられたの も陰謀 のなせ る結果 と確信す るにいた る。「
一瞬
に して、一条の光が射 し、私 に対す る英国公衆の驚 くべ き変化の秘かな原 因を
服 らし出 し、 ロン ドンで行 われてい る陰謀 の本拠がパ リにあ ることが分 った」
(9)
のであ った。
自分に対す る 「
陰謀」 c
ompl
ot の語 が公然 と使 われ たのは、 これが初めて
で、 この時期 に 「
陰謀」 とい う 「妄想」が始 まった とみ られ る。ル ソーが スイ
スを迫害 によって追放 されたのは、ジュネーヴの当局者 たちがパ リの指示 に従
ったためであ り、 この 「
陰謀」 の首謀者 は フ ランス王国の外務大臣 シ ョワズー
ルであ るとル ソーは考えていた。 この人はか ってル ソーに親切であ ったのに、
英国行 きの旅券を もらう頃か ら急 に手紙 の調子が冷淡 にな ったか らであ り、当
初歓迎 して くれた イギ リス国民 も、急 に冷た くな ったか らであ った。またジ ュ
-1
3-
ネ-ヴで発行 された 『市民た ちの意見』 に、か ってパ リの ご く親 しい友人 に し
か打 明けていなか った捨て子 の秘密が スキ ャンダ ラスに暴露 されてお り、 この
作者 が ヴ ォル テールであ ることを知 らなか ったル ソ-は、 これをパ リか ら0
)指
示 と見 たのであ った。
1年 4ケ月 の イギ リス滞在 の後 、 フランスに決 り、 コンチ公の保護下で公の
トリーの城館 に滞在す るが、 ここの召使 いた ちも陰謀 の手先 とみたル ソーは苦
しい迫害意識 に悩 まされ る。やがて ここを抜 け出 して リオン、 グル ノ-ブル、
ブール ゴワンと旅 をす るが、 この時 ド- フ イヌの国境近 くで囚人が通行 され る
のを見て 「
陰謀」の想念 は更 に飛躍す る「
〕彼 は次のよ うに書いてい る。
「
1
7
6
8
年 の秋 、 イギ リスに戻 ろ うと決心 した後 、 自分 にまとわ りついた無用
の厄介物 と して残 った書類 をで きるだけ焼 き捨て るつ も りで点検 していた。そ
の作業 を書簡の束 について始 めた時 、機械的にページをめ くりなが ら、偶然あ
る欠如 に気づいたのであ るO その時 まであ ま り気 に もと めてい なか ったのだ
が、特別 の事情 か らその重大 さを思 い起 した。そ してその作者たちは、私が生
皆 とな るべ き恐 ろ しい陰謀 とい う観念 をは じめて私 に知 らせて くれたのであっ
た。その時以来 、その書 簡の束を焼 き捨 て る計画はやめ、逆 にこれを大切 に し
ま ってお こうと決心 した。….
.
.
シ ョワズール氏 の旅券 を持 っていたのに王国を
出 る計 画を捨て、私 に対 して画策 された一連 の陰謀 に対 し、ただ 自分の潔 白だ
けを武器 と して 自分 の 身を さらけ出そ うと 決意 したの もこの時であ った。
」
)
(
10
ここで言 う 「
欠落」 とは1
7
6
2
年 、『ェ ミール』 出版 とともに パ リ高等法院か
ら逮捕令が出され、急拠 モンモ ランシーを脱 出 した時 、隣の リュクサンブール
7
5
6
年1
0月か
元 帥宅 に 自分 の書類 を保管 して もらったが、後 に返却 された時 、1
7
5
7年 3月 までの半年間の書簡が紛失 していた事実を指 し、 これは元 帥夫人
ら1
か、元 帥 と親交 のあ った ダ ランベ-ルが持 ち去 ったのではないか とル ソーは疑
っていたO 「別 の事情」 とは1
7
5
7年 1月 5日に起 ったダ ミアンのルイ 1
5世暗殺
未逐事件 と関連す る。ル ソーが見 た囚人 とは、 この国王暗殺 の共犯者 として捕
え られた者で、その男 はル ソーの滞在 したブール ゴワンの方 か ら来 た と、意味
あ りげに噂 されてい るのを聞いたか らであ る)ここで突如悩 め るル ソーの脳裡
-1
4-
の中で この二つの事柄が結 びつ く,
Jつ ま り、専制君主反対論者 の 自分が、 この
国王暗殺事件 と関連 あ りと疑われてい る、 とい うものである。 「あの欠 落はま
さしく今 Lがた通 り過 ぎて行 った囚人が思 い起 して くれた時期 に一致す ること
に気付 いた0.
.
.
私はそ こに F
l
分 を とりま くすべての謎の鍵を見つ けた」 のであ
(
l
l
)
った
。
こうしてル ソーは この 「陰謀 」 に公然 と闘 うことを決意 し、サン-ジ ェル マ
ン氏への長文の手紙 (
1
770年 2月2
6口付) を書 き、 ここには レル ミタージュで
デ イ ドロを中心 とした友人たちとの不和、絶交事件が、グ リム、 ドルバ ック一
派の陰謀 と目され、彼 らの策動でダ ランベールが コンテ公のグループと結 び、
公の愛人 ブフレール夫人を通 して彼 を ヒュ-ムにひき合 わせ 、スイス追い出 し
に成功す ると、彼 を ヒュ-ムとともに英 国に連れ 出 した。そ して これ らの策動
の中心人物は外務大臣 シ ヨワズールであ ると断定 し、陰謀 の構 図が示 されてい
る。こうして同年 6月にはパ リに戻 り、公然 と人 々とつ き合 い、社交的な場 に
出入 りす る。「
パ ンを才
'
Jるため」楽譜写 しをす る一方 で 『'
告白』第二部 を完 成、
。
『
H
f
.
白』最終章 第 12巻 は次の こと
次 々と 「
陰謀」 に対す る園 丁Ⅰ
・
を進 めてゆ く
ばで始 ってい る。
「ここに暗闇の作業が始 まる′
、8年来私 は このL
恒こ包み こまれ、 どんなや り
方を してみて も、 この恐 ろ しい闇を見 きわめ ることはで きなか った。不幸の深
淵 に うち沈み
、l'
」分 に 向けられた打撃 を感 じ、 その直接的な 道具 は見 え る0
)
に、それを操 る手 も、その手が動か してい る手段 も私 には見 えない。屈辱 と不
幸が、まるでひと りでにや って来 るように、 しか もそ うとは見えない ままで私
に降 りかか って くる。私 の引き裂カ
1た心が坤 き声を もらす時 、私 は何 の根拠 も
な く嘆いてい る人間のようにな る。私 の破滅の張本人たちは、公衆を 自分 たち
の陰謀 に加担 させ るのに目に見 えぬ技術 を見つ け出 し、 しか も公衆は それを疑
ってみ ることもな く、その結果 に気づ くこともない.
‥」
(
12
)
この第 1
2巻は、62年 6月 スイスに到着 してか らモチエでの投石事件でサ ンピエール紬 こ逃れ、そ こか らまた追い出 され るまでの スイス滞在三年半 の出来
事が述べ られてお り、『空 白』 の もっとも悲痛 な、苦悩 に満 ちた文章で、陰謀、
- 1
5-
迫害が中心 的テーマと して語 られ るOここでい う打撃 c
oups とは当局の弾圧、
新 聞 ga
s
e
t
t
e
sやパ ンフ レッ トに書 かれたル ソー個人- の中傷、 攻撃、 民衆の
投石 な ど直接 的攻撃 の他 に、公衆 の冷淡 な反応、人 々の 自分を見 る眼差、語調
の変化 、 不可解 な ことば使いな ども指 してい る。 更 に この 「陰謀」 の なせ る
「暗闇」 は、『対話j
l
jでは 「深 く、 広人な沈黙。 それがおおい隠 してい る秘密
と同様不可解 な沈黙 。1
5年来私 には どんな性質の ものか も分 らないよ うな配慮
で隠 し続 けられてい る秘密。 このぞ っとす るよ うな恐ろ しい沈黙は、 この奇妙
な状況 について解 明で きるいかな る観念 も与えて くれなか った」 とい う風 に変
(
1
3
)
ってゆ く。 この 「暗闇の作業」 1
'
αuvr
edet
占n
色br
e
s 「ぞ っとす るような闇」
1
'
e
丘r
a
yant
e obs
c
ur
i
t
6 を恐怖す ることか ら 「深 く広大な沈黙 」l
es
i
l
e
nc
epr
o・
f
ond,
uni
ve
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el「ぞ っとす るよ うな、恐 ろ しい沈黙 」 c
es
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l
e
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ee
f
f
r
a
yante
t
t
er
r
i
bl
e へ と微妙 な変化を見せてい るO この深 く広大な沈黙 に恐怖す るとい う
パ ス カルを思 わせ る不安 の状況は、実存の不安 に怖れを抱 く痛 ま しい思想家の
と- の不信 、手紙 を出 して も返事がない とい う意味での沈黙、 仁
1
分 に対 して示
され る冷淡 な無 関心 、常 々とパ リのu
J
Jを,
歩 いてい るのに敵が攻撃 して こない こ
と-の不満、要す るにマゾシス ト的要素 を もつ、痛 的色あいの洗い心的状態を
表明 した もの とも解 され る、
⊃
事実、 この 「陰謀」 を語 る時 のル ソーは随所 にあ る精神的発作を思 わせ る混
乱がみ られ る し、ジャ ック ・ボ レル博士 の 「純粋妄想、つ ま り迫害 とい う唯一
のテーマに多少 とも体系化 された病的な確信 の全体」 とい う診断をは じめ,臨
床専間家 の注 目を ひ く状態であ る。文学批評家の側か らも、ジャン ・ゲー ノは
(
1
4
)
『対話』 の分析か ら、 「彼 の悔恨 だけが陰謀 を構築 してい ることが分 る。 彼の
妓初 に して唯一本 当の誤 ち、すなわち捨て子 か らすべては生 じてい るのだ」 と
(
1
5
)
指摘、そ こに悔恨が作 り出 した 幻影 を解釈 してい る し、 ロベ-ル ・オスモン
は、 この陰謀 の想念 の 中に広場恐怖 a
gor
a
phobi
e を認めてい る。 スタロビン
(
1
6
)
スキ-はル ソ-を分裂病気質 の人間 と解 した上 で、「もっとも古典 的 タイプ の
迫害妄想のパ ラノイヤ」 と見てい る。 この 「古典的」 とは必ず しも明確ではな
く
1
7
)
-1
6-
いが、か って フロイ ドが 「シュ レーベル議長 」の妄想 にその定義を与えたよ う
な意味でのパ ラノイヤ、つ ま り妄想が人格 の崩壊 にまではいた らず、なお 自己
同一性を保持 してい る人 の もつ妄想 と理離 してお こうOル ソ- 白身、 自分 の狂
気 f
ol
i
e,f
r
e
i
ne
s
i
e にはある 程度 o
j口先があ り、 時 には これを 自己の特異性 と
してユ-モ ラスに吹聴 してい るよ うに も見 えるか らであるD
だが、 この 「陰謀」 を単た る病 的現象 と して片付 けて しま うな ら、晩年 のル
ソ-の悲痛な行動 の もつ深 く豊かな意味、文学 的生産性 、またル ソーの著作 の
もっ イデオ ロギー的意味 とその時代 の反応な ど、そこに垣 間見 られ る多 くの問
題を見落す ことにな るだろ う。オスモンが言 うよ うに 「陰謀 の強迫観念は内的
生の躍動を止め ることはなか った」 のであ った。パ リに出て来て七年間 に一万
二千ページの、 あの丹念な職人芸 とも言え る楽譜写 しを してい る し、 『告 白』
第 2部、ベルチエ夫人 、マルゼルブな どに長文の手紙 を書 き、長時間 にわた る
『告 白』朗読会を警察から禁止 され るまで、 少 くと も四回や り、 『ポー ラン ド
』
]を書 き、 かつ この コピーを 自ら作 って友人 に配 るな ど、 老 ル
統治論 『対話」
ソーの精力的で多産 な活動は、一般的な分裂病患者 には見 らj
lないだろ うし、
同時代の作表たちに も例がない はど超人 的な活動であ った ことに注視すべ きで
あろうO
そこでルソーの王墓な g・
作 の中で、 この 「陰謀」c
ompl
otとい う語 の現れ方
r
s
e
c
ut
i
on,pe
r
s
6
c
ut
e
ur
,pe
r
s
6
c
ut
e
r とい う語 とともに、 ミシェ
を 「迫害」 pe
ル ・ローネを 中心 にわれわれの グループ の共同作業で作 られた I
nde
x,Con・
c
or
danc
e を手がか りに 調べてみ ると、 1
762年以 前に書かれた 『学問芸術論』
(
1
8
)
『不平等論』『エ ミール』 『社会契約論』 に この c
ompl
ot の語は殆ん ど使われ
ていない L pe
r
s
占
c
ut
i
on に関わ る譜 も、歴史上 の宗教 的迫害 とい った意味以外
には使われていない ことが分 る。1
762年以後 、手紙 の中で pe
r
s
6c
ut
i
on,pe
r
s
i-
c
ut
e
r.
.
.とい った;
1
.
,
L
はよ く使われてい るが 、c
ompl
ot に閑 しては 『山か らの手
紙』でジュネーブの階級対 立の歴史を語 る時 、権力者 の 「
陰謀」が語 られてい
(
1
9
)
る程度で、 「自分 に向けられた陰謀」 とい う意味での使 い方 は、前述 の英 国滞
在 中からと思 われ る〕
-1
7-
そ して英 国ウ ッ トンで書 き始め られた 『告 白』 において も c
ompl
ot とい う
語が使われたのは 8例で、 うち 2例は註の吋で後 につ け加えられた もののよう
7
70年パ リに戻 って完成 した とみ られ る節 9巻で レル ミタ∼ジ
で あるoそれ も1
ュの不和、絶交事件 に快ル てデ イ ドロ、 グ リム、 ドルバ ックの仕組んだ陰謀 と
い う場合 と、第1
2巻 に述へ られてい るスイスでの迫害 に関す るものに限 られて
ompl
otの語は4
9
い る。そ して 『空 自』 完成後書 かれた 『対話p
l において 、c
例 、p
e
r
s
占
c
ut
e
ur に関す るものは2
9例、最後の 『夢想』では c
ompl
otの語は
わずか に 3例 、pe
r
s
占
c
ut
e
rに閑す るものが1
5例 と減少 している
1
(
2
0
)
この ことか ら、「陰謀」 の想念 が現 われたのは ヒューム との不和を契機 に し
てはい るが、特 にスイスで受 けた迫害、なかんず くモチ ェの牧石事件、サンピェル島を追い立て られた ことが、根底 にな ってお り、 この後 これ らの事件を
思 い返 し、再構成す る過程 で生 じて きた 一つ の解釈 、 妄想であ ったと み られ
る。
I
V.「わが恩知 らずの祖 国」 との闘い
1
762年 4月 に 『社会契約論』がオ ランダで出版 され 、 5月 に 『エ ミール』が
パ リで出 るや、 この危険な書物 に対す る当局 の反応は パ リ において も 早かっ
た。 6月 3日に警察は 『エ ミール』 を差押 え、 7t
=
1に ソルボンヌの断罪が出、
9口にはパ 1
)高等法院 の焚書 、著者 の逮捕 とい う判決が出され る。ジュネ-ヴ
では11[
]に 『社会契約論』 と 『ェ ミール』が小評議会 によって差押えられ 、1
9
日には両書 の焼却 とル ソー- の逮捕令が 出され る。23日にはオ ランダで 『ェ ミ
ール』発売禁止 とな る。
このパ リ高等法院 の逮捕令の執行 を前 に駆 けつ けたプフ レ-ル夫人のイギ リ
ス行 の推 め も拒 わ り、 また他 の逃亡地 の申 し出 も拒 わ り、ル ソ-はモンモ ラン
シーを脱 出 して スイス-行 く決心 をす る。 この時 ジ ュネーヴに対 して抱いてい
た複雑な感情 は 『告 白』では次 のよ うに語 られてい る。
「私 の最初の気持 の動 きでは ジュネーヴに隠遁す ることであ った。だが少 し
-1
8-
評議会で私 に対す る憎 しみをか き立てていた し、それがは っき り表明 されなか
ったがゆえに一層危険な ものだ とい うことも分 っていた。それ に 『新 エ ロイー
ズ』が出た時 、医師 トロンシ ャンの請雌で急いで禁止 しよ うと したが、パ リで
さえ、だれ もそれを真似す る者がいないのを見て この軽率を恥 じ、禁止を引込
めた ことも知 っていた。.
翫 義会は ここで よい機会 とみて、 これを利用せん と計
ることは疑 っていなか ったo表面的にはよ く装 ってい るが、ジュネ∼ヴ人 の心
には私 に対す るひそかな嫉妬心があ って、 これを満足 させ る機会 をひたす ら待
ってい ることも分 っていた。それ に も拘わ らず祖国愛 は私を呼 び戻 した。
」
(
21
)
だか らジュネーヴへ行 って も、すんな り受入れ られ るとは思 っていなか った
し、危険 も十分予想 されていた ことにな る。それ にも拘 らず友人たちの反対 を
'
amourdel
a
押 して スイスへ向 ったの何故であ ったのか。 その 「祖 国愛 」 1
pat
r
i
e とは何だ ったのか
。
この時点でル ソーは 自分 の二大 著作 『エ ミール』 と 『社会契約論』 の もつ革
命的性格が 、時 の権力者たちにいか に深刻な危機感を抱かせたか、怖れ させ た
かを十分認識 していなか った よ うであ る。高等法院 の処置 も 「この団体が私を
憎んでい るわけで も、己の不 当性が分 らぬわけで もな く…そ うす ることが この
団体に好都合 だったか らです」 とい う風 に理解 していた。つ ま り一 方 で イユズ
(
22
)
ス会を解散 させ るとい う迫害を した手前 、 『エ ミール』 の信仰告 白も断罪せ ざ
るを得なか った0
)だ、とい うわけであ る。だか らスイス- 向 う馬車の中で も、
「高等法院 も、 ポンパ ドール夫人 も、シ ョワズ ー ル氏 も、 グ リム もダ ランベー
ル も、彼 らの陰謀 も共犯者 たち も、 これ まで起 ったすべては 完全 に忘れて」、
最近眠れぬ夜 に読んでいた旧約聖書 の中の 『ェプ ライムの レヴ ィ人』 のテーマ
をゲスナーの牧 歌風 に散文詩を綴 って楽 しむ だけの余裕 を もっていた。 ここに
迫害のテーマは扱われてい るが、それ も自己の運命を ロマネ ス クに飾 った殉教
的な物語 になってい る。そ してベル ヌ蝕 に入 るや、馬車 を降 りて大地 に接吻す
るし、 この時 リュクサンブール元帥に宛てた短信 では 「ついに私 は正義 と 自由
の地に足を踏み入れ ま した」 と書 き送 ってい る。
(
2
3
)
6月1
4日旧友 ダニエル ・ロガンの家 に落 ちつき、ジ ュネ- ヴ当局 の出方 を う
ー1
9-
』『社会契約論』 はすでに差押 え られ 、 5E]後 には小評議会
かが う.『エ ミ-ル
の二著書 に対す る焚書 とル ソー- の逮捕令 とな って現 われ た.止義 と自由の地
にあ る小 さな 「
祖 国」 の下 した判決は、パ リよ りもは るか に厳 しく、残忍な も
のであ った。それは 「余 りに信 じ難い不条理」 のため、信 じるのを拒 ったとい
うほど、 この時ル ソーが受 けた衝撃 は大 きい ものであ った。 この頃ル ソーに心
酔 し、保護を 申出たモア リ領主 ヴ ィク トル ・ド・ジ ャンジ ャンは、ベル ヌのあ
る元老 に宛て た手紙で、「
彼 (
ル ソー)の生 き方 は隠者 の よ うであ り、彼の健康
は害 されてい ます。彼 は教会で祈 ってい ます。私 は彼 が平穏 に死 ね るよ うに し
てや りたい と恩 ってい ます…彼の書物 については御随意 に して下 さい。で も彼
の身柄は平穏 に しておかれ るよ うお願い します」 と書 いてい る.ル ソーの受 け
(
2
4)
た衝撃 と動揺 は第三者 の 目に、すで に死 にゆ く人 と映 っていたはど深刻な もの
であ った ことが察せ られ る。
事実 ジ ュネ- ヴの支配者 たちはル ソーの死 を願 っていたOか ってル ソー とも
知 り合 い、ヴ ォルテール の親友であ る医師 トロンシ ャンは、 「要す るに彼は多
くの害 (
bi
e
ndemal
) をな した こと、 人類を抱擁 しなが ら 短刀を突 きつけて
得意 にな ってい ることで しょう。私は この不幸 な男が死 ねばいい、む しろ死ん
でいた方がず っとよか ったと思 っていますOなぜ な ら最近 の二 つの著作は多 く
の害 を もたらす だろ うか らです。
」 また当局が この 二著書 を差押 えた 6月1
1日
(
2
5
)
の小評議会 の議事録 には 「この二 つの著作 は宗教 に関 して も、政府 に関 して も
危険 な原理 de
sma
xi
me
sdange
r
e
us
esを含んでい る」 として、あらゆ る書店
か ら押収 して封印 す るよ う指示 されていた。 つ ま り ジ ュネ-ヴ の支配者 たち
は 、 ル ソーの予想 した以上 に、ル ソ-を危険な人物、 自分 たちに 「短刀をつき
つ ける」poi
gnar
de
r敵 と怖れていたのであ った。
9年前 、『学 問芸術論』で有名人 にな ってか ら、友人や ジ ュネーヴ 当局の特
別 な計 らいで、か って逃 げ出 した祖 国に帰 ることが許 され、 もとの宗教 に回帰
し、正式 に市 民権 も得 ることがで きた。ル ソーはその返礼 として第二論文 『不
平等起源論』が出版 され た時 、献辞 をつ けて ジ ュネ- ヴ評議会 に捧 げた。だが
この 『不平等起源論』 自体、 ジ ュネ- ヴの支配者 たちを不快 にさせ るに十分危
-2
0-
険な著述であ った し、その献辞 も体制 に対す る挑戦的な内容を もつ ものであ っ
たOたとえば同書第二篇 には次のよ うな一節があ る。
「政治的/
T=
'
_
別は必然的にI
F
]
一
民間の差別を もたらす。人民 とその首 長たちの間
に不平等が増大 し、やがて諸個人 に感 じられ ると、情念 、才能、偶然の事態な
どによって様 々に変形 され る。為政者は権力の一部を与え ざるを得 ないよ うな
人 々を作 り出す ことによって しか、その不適法な権 力の鷹取 をす ることはで き
t
oye
nsがJ
王制を 受 け入 れ るのは、 盲 目的野心 に ひか
ないO他方 市民 たち ci
れ
、n
分 より上 よ りも、下 の方をよ く見 る時 、支配は独立 よ りも一層親 しい も
のとな り、次 には 【
′
L
分 たちが他 に 鎖 を与 え る ことがで きると い うこと のため
、Fl分 に鎖を着用す るのである。
」
)
に
(
2
6
これはまさ しくジュネーヴ共和国の もっ矛盾、その不平等な政治構造を言い
5人か らな る小評議会 pe
t
i
tcons
e
i
lがあ り、
当ててい るっこの共和国は まず 2
r
i
c
i
a
tと 呼ばれ る少数 の貴族的な名門家族か ら選ばれ、 この階級 は
これは pat
事実上政府 、 胡 去、行政 、教会 を独 占していたo これ とは別 に二百人評議会 、
別名、総評議会 c
ons
ei
lg6n6
r
alがあ り、 これは市民 c
i
t
oye
ns
,町人 bour
geoi
s
の二階級か ら構成 され るとい う、一 見二院制のよ うな形の共和政であ ったO こ
の下 に更に多数 の出!
l
.
民 nat
i
f
s
,住居民 habi
t
ant
s
,移住者 るmi
gr
占S
,城外の農民
とい う下層階級があ り、彼 らは全 く参政権を持 たず、特 に他か ら移入 して きた
住居民、移住者は高い税 を負 わされていた。市民は これ ら両評議会 の選挙権、
被選挙権を もっていたが、町人 は投票椎 だけで、被選挙権 はなか ったっそれ に
これ ら各階級 によって職 業的地位 に も差別があ り、パ トリシアは多 く財政上 の
特権を享受 し、職人 たちの問で も親方は上流市民 によって r
lめ られ るとい う厳
格な階級的区別を もった身分制社会 であ った∩前世紀 よ り小評議会 の寡頭政治
(
27
)
が続 き、総評議会は選挙以外 に事実上開かれ たことはな く、小 評議会 と中間屑
73
7年 の内乱 も隣国の調停で表面的には収 った
箱民、町人 との対立 は根深 く、1
ものの、その階級的対 屯は伝統的 に くすぶ り続 けていたOル ソ-の父親 イザ ッ
クは 市民 とは言え、 サン-ジ ェルヴ ェに 仕事場を もつ 下級の時計職人であ っ
た。その息子 、 しか も徒弟半ばで逃 げ出 し,異教 に改宗 したジ ャン-ジ ャック
- 21-
は 『学 問芸術論』で名声を得 たとはいえ、小評議会 のお倖 ら方 4
ことってほ、た
こせが れ
かだか貧 乏市民 の中枠 にす ぎなか った。その小粋 が 「熱烈 な市艮」 と称 して共
和 国の体制 も含めた現代諸国家の不 平等の起源を、何 らの正統性 もない不正 と
して告発 した 『不平等起源論』 に特別 な献辞をつけて献 上され たことは、小評
議会 の 目には、 まさに当面す る階級的対立 に火をつけ、煽動 しよ うとす る挑戦
的行動 と受 けとられた、 と して も不思議ではない。医師 トロンシ ャンだけでな
く、 ジ ュネーヴの支配者 たちはル ソ-が F
7
分 たちに 「短刀をつ きつけ る」危険
な人物であ ることは、 その時 よ り共通 に 認識 されていたと 考えられ るO だか
』『エ ミール』 に対す る素早 い反応 も、当然予定 さ々1た処置だ
ら、『社会契約論
ったわけであ るo
このい きさつを ジ ュネーヴ国境近 くの フエル ネで見ていたヴォルテールは次
の よ うに評 してい る。 「このデ ィオゲネスの犬の私当三
児 (ル ソ-のこと)は不
幸なのだか ら、彼 を許 してや らねばな らない〔だが彼が ジ:
Lネーヴに来 るとし
たら、パ リ近 くの村 にい るよ りも、無謀で愚かな ことだろ う。あれは共和国に
も、王 国に も、社会 に も適 さない人 間であ る。 トロンシ ャン (
検事総長)は彼
を追い出 さねはな らぬ し、 カバニスは彼 に服を作 ってや らねばl
i
:
らぬDだが一
休誰が彼 を矯正す るので しょ う…」つ ま り、ル ソ-が ジュネ-ヴヘ来れば追い
(
2
8
)
出 され ることは、ヴ ォルテール には前 もって分 っていた当然 の処置だ ったので
あ る。
ル ソーに こうした事情 が本 当に分 っていなか ったのだろ うか。そ うは考え難
い。それでは何故 スイスへ来 たのか。「祖 国愛」 とは単 な る感傷ではない。「
正
義 と自由の土地」 とい う時、正義 j
us
t
i
c
e とは裁判、J
l
i
I
L
・
発の意味 も含む ことに
_
の銘旬 に した "
vi
t
am i
r
npe
nde
r
e
は注意 しよ うO ル ソ-の この時 の行動 には終生:
真実 に生涯を捧 げ る)使徒 と して、 あ る種 の決意があ ったのは 確かで
ver
o" (
あ る。
さて、ベル ヌ当局 も 7月 1日にはル ソーの追放を決め、 7月1
0日、プ ロシア
国王管轄下 にあ った ヌ- シャテル州のモチエニ トラヴ ェールに移 り仕む ことに
な る。 ここでは プ リ- ドリッヒの家臣であ るス コッ トラン ド人 キース元帥卿の
- 22-
保護を受 け、テ レー ズを迎えて一年間は比較的平穏 に過すが、 この ヌ- シャテ
ル州で永住市民権が与え られ ると、ル ソ-は これ までの慎蚕 さを捨て、祖国 ジ
ュネーヴへの公然 とした闘いを挑 む ことにな るoその第一弾は 9年 前に回復 し
たジ ュネーヴ苗●
民権を公然 と放棄す ることを宣言す る行動であ った。 この事情
は 『告 白』で次のように語 られてい る。
「ジュネ-ヴでは牧師団休、あ るいは少 な くとも市民 と町人が私 に対 して出
された逮捕令の法令違反 に抗議す るだろ うと長い間信 じてい た……違法 な処 置
に対 してだれかが抗議す るのを一年以上むな しく待 った後 、ついに私 は立場 を
決めた。同園人 たちに見捨て られてい るのを見て、私はわ_
重言
昼知を里の
ji
n
_
国を
棄て る決心を したO私はそ こで一皮 も生活 した ことがな く、 そこか ら何 の恩恵
も、奉仕 も受 けた ことがな く、私が 与えよ うと努めた名誉の代償 と して全員一
致で、か くも不 当に扱われ たのを見 たか らであ る。.
‥私 は正式 に住民の権利 を
放棄す るとい う手紙を二
書いたO」
(
2
9
)
この市長宛の手紙 の コピ-は ジ ュネー ヴ市内に住む市民 、町人 の問に回覧 さ
れ、やがて ド・)
)ユツクを先頭 とす る抗議行動が起 こされ るOだが小 評議会 は
これを拒否、ジュネー ヴの世論は この抗議をす る 「意見派」 と小評議会 を支持
する 「拒否派」 に二分 され、伝統的な階級対立 、実権を握 る小評議会 と、名 目
的に参政権を持 ちなが ら、常 に無視 され続 けた中間層の市民、町人 との対立、
抗争へ と発展 してゆ く。検事総長 トロンシャンが 書いた 『野か らの手紙』 と題
するパ ンフ レッ トが流布 され ると、ル ソーは
『
山か らの手紙』を書 き、オ ラン
ダで印刷 させ、秘密祖 にジュネ-ヴに持込んで対抗す る。 このあた りの 「意見
派」の闘争は、総評議会を開催 させてル ソーに対す る処分取消を させ、同時 に
I
T
人階級の権利回復 を求 めよ うとす る、事実上戦術豪ル
抑圧 され続 けた市民 、R
山か らの手紙』の 目頭には次の
ソ-の指揮す る階級闘争の観を呈 してい る。『
闘争宣言が 書かれている。
「もしこれが私だけの問題だ ったら、 私 は これ らの 手紙を全 く公表 し ない
か、あるいはむ しろ全然書 かなか った ことで しょ う。だが私の祖国は市民 たち
が抑圧 されてい るのを 静 かに見て おれ るほど、 私 に とって 異 国ではあ りませ
- 23-
ん。 と りわけ彼 らは私の大義を弁護 した ことによって、 n分 たちの椎利を危 う
くしてい る時 には、なお さらです.
"私の主題は小 さ くとも、私 の 目的は大 き く、
あ らゆ る誠実 な人 の注意を ひ くにふ さわ しい ものであ ります。 ジュネーヴはそ
の場 に 、 ル ソ-ほその失意の中に放 っておきま しょ う。だが宗教は、 自由は、
正義は !あなたが何者であれ、 これは とるに足 らない ことではあ りません。
」
(
3
0
)
この 『社会契約論』 の著者 によ る現実 の ジュネーヴ共和国の実体を暴 いた論
争 の書は、大 きな反響 をまき起 したが、ル ソーが期待 したノ
/向へは結実 しなか
ったO この手紙 のす ぐ後 ,6
4年末 に 『市民 たちの意見』 と題す るヴォルテ-ル
の書 いた匿名のパ ンフ レッ トが出廻 り、そ こにはパ リで ごく一 部の友人に しか
打 明けなか ったル ソ-の捨子 の秘密がスキャンダ ラスに暴露 されていた。翌6
5
年 1月 にはオ ランダ当局の命で 『山か らの手紙』が焼かれ るし、こ
V
l
初ル ソ-に
5
年 9月の村人に
好意的だ ったモチエの牧師 モンモ ラン も態度を変え、やがて6
よる投石事件へ と発展す る0 9月 1
2E
j、 ル ソーは ビエンヌ湖のサン-ピエール
島に逃れ るが、 ここもベル ヌ当局 の指示で1
0月2
5日退 去 しなければl
i
:
らな くな
るo「正義 と r
jL
I
白の地」滞在は三年半で終 ることにな る。
スイスに隠棲 したい と言 いなが ら、一方 で この激 しい、執捌な祖国ジュネー
ヴへ の闘いは、民衆 によ る投石 とい う痛 ま しい、悲惨 な結未 をみて挫折 した。
先 に引用 した、
この闘いの執劫 さは精神分析 的な観点で見 る必要があ るだろ う。
この 「わが恩知 らず の祖国、そ こで一皮 も生活 した ことがな く、そこか ら何の
恩恵 も奉仕 も受 けた ことがな く、私が与えよ うと した名誉の代償 と して全員一
致でか くも不 当に扱 われた.
‥」 とい う表現 に江 口しよ う。ル ソーは この祖国で
生 を受 け、1
6歳 までの幼少期を過 したはずであ る。だが それは幸せな時代であ
っただろ うか。『告 白』第 1巷 にはむ しろ不幸 が数多 く語 られているし、徒弟半
ばで逃 げ出 さなければな らなか った事情力用詩々と語 られてい る。祖国 pa
t
ieと
r
は父 な る国、父親 たちの支配す る空間、 しか もそれは厳格 な カルヴ ィニスムの
t
r
i
c
i
ansと呼 ばれ る建国の父 た る上流貢朕の支配す る国であ り、 〔
】
分
戒律 で pa
の父を追 い出 し、 自分 も脱走 しなければな らなか った横暴な親方たちの砦であ
るO ル ソーは 自分 の父親からも、親類 か らも、 また このL
購 )父親たちか らも、
-2
4-
要す るに祖国 pat
r
i
e の属性 であ り、同 じ語源の pかe,par
ent
s
,pat
r
on,pat
‥ . か ら何の恩恵 も奉仕 も受 けなか った と断言で きたわけであ る。そ し
r
i
c
i
e
ns
て、 この 「恩知 らず」 i
ngr
a
tとい う語は、 まさ しくル ソー t
t
l身が祖国を脱走
格 印」の ことばだ ったの
して以来、父祖や祖国の父たちか ら投 げつけられた 「
731
年、 ヴアランス 夫人の 保護下 にあ って、 スイス を放浪 して いた
であ る。1
時、困窮の中で父親 イザ ックに書 いた手紙 に次のよ うな詩的な一節があ る。
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(その幸せや慰めにな ることもで きたのに、父親か ら捨て られ るとい う悲
しい運命。 さらにまた 自分が丞遷 坦 塾麹旦_
空、かつ不幸であ ることを余儀
な くされているF
7
分を見つめ、 [
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分 の悲惨 と悔恨 を どこまで も引 きず って
行かねばならぬ とは、 また何 と悲 しい運命で しょう.
‥)
(
31
)
つま り、 この若いジ ュネーヴ の脱走者は 「父親 に捨 て られ」 「永遠 に恩知 ら
ず」の格印を押 され、一切の援助が拒 わられて いたのであった。ル ソ-の青年
期は父親や祖国か らたえず投 げつけられ る、 この 「
恩知 らず」の罵声を背に受
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i と して暗い運命をひきず っていた ことが察せ られ るだろ
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75
4年、許 されて ジュネーヴに帰 り、回宗 して 市民権 を得 、前述の 『不 平
等起源論』を捧 げたことで 、 ル ソ-は恩 を返 した、それ も輝か しいジュネ-ヴ
共和国の名誉を世界 に示す ことで報恩以上の贈物 を したと 自負 していたのだろ
うか。「わが恩知 らずの祖国」 とい う激 しい怒 りの表現は、 このよ うなル ソ-
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の屈折 した内心 の最深郡か ら表出 したことば、精神分析でい う投射 pr
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己に与えられ た非難 、苦悩 を軽蔑すべ き柏手 に投 げ返 す行為 と理解す
ることができる。従 って この 「恩知 らずの祖国」 に対す る闘争は、単な る不正
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由のための闘争であ った以上 に、 ル ソーに とっては 自
の告発、市民の椎利 と〔
己の運命に対す る闘い、「恩知 らず」 の汚名を返上 し、 若 き 日に背負 わされ た
呪いを解 き放つための闘い、父親憎悪に根 ざ した父権への闘いとい う、 自己の
-2
5-
ア イデンテティをかけた闘争で もあ った。
だか らこの闘争の挫折、 しか もそれが民衆の投石 とい う予想を超えた、残忍
で衝撃 的な結末 をみた ことは 、 ル ソーの主体 に大 きな狂 い と混乱を もたら し、
この苦 しい闘いを思 い返す 中で 「陰謀」 とい う妄想が生 じた と考 え るのは、む
しろ容易であろ う。問題はその妄想がなぜ 「陰謀」 とい う形をとったか、 とい
う点であろ う。 これは単 な る分裂病気質 に見 られ る被害妄想 とは片付 けられな
い側面を含んでい るか らであ る。
Ⅴ.「陰謀」の起源
8年 に及ぶ逃亡生活 の後、パ リに帰 り、 5年 あま り 「陰謀」 に対す る闘争を
続 けなが ら、 コンチ公 の死 によ って突如 これを放棄 し、心 に平和を確立 しよ う
と、なお心 の中に陰謀 の余韻を残 しなが ら 『孤独な散歩者の夢想』を書 き綴 る。
そ して 自分 の不幸 な生涯、悲惨 な運命を回想 しなが ら、 ル ソーはその起源がす
で に幼少期 にあ った ことを さ ぐり当てて い るO『第六 の散歩』には、「私 の運命
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e はすでに子供時代 に最初 の毘 pi
とge を しかけ、 それ以後長い間
他 の民 にかか りやすいよ うに していたと思 われ る」 と書 いてい る。 この巌初の
(
3
2
)
民が何 を指すか明示 されてはいない。だが 『告 白』第 2巻 の冒頭 にこの 「
民」
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(まだ子供であ りなが ら、私 の国、親類、支持者、生活手段を捨てて…逮
く-悪事、誤 ち、塁、奴隷や死を求 め ること.
.
.
)
(
3
3
)
この ことか ら、 「
最初の毘」 とは徒弟半ばでジ ュネーヴを脱走 し、カ トリック
教会の手 中に落 ちた こと、それ も腹 を空か していた徒弟 にとって 「ボンベ-ル
氏 のおい しい食事 はは るかに大 きな効果を もっていた」 とい う事情を指 してい
ると解 して よいだろ う。
だが この時 、 口喧 しく反 カ トリック教育を していたはずの親 たちは、 この毘
- 2
6-
に陥 った子供を救 っては くれなか った。冒頭 に引いた Te
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況を語 る文章であ る。.
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兄.
と基遡 していたよ うに思 われ るO)
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陰 謀を企 む) の間 に さして意味
の隔 りはない し、ル ソーは同義語 と して使 ってい るOつ ま りル ソーには この時
(
3
4
)
か ら父親や ジ;
lネ-ヴの近親者か ら共謀 して見捨 て られ、不幸 な人生を歩む宿
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覚 されていた。 この 「
私 の近親者 たちは私 の星 と共謀
して.
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」 とい う一旬は、か って1
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封こそ う自覚 されていて、 『告 白』 を書
く時無意識の うちに建 ったのか、 たまたま 『告 白』 を書 く時 期 に、 その よ うに
整現 されて筆先 に現れたに過 ぎないのか、確証 はないOだが先 に引用 した父親
宛の手紙 に r
l己の運命を嘆いて い る点か らみれ ば、や は りそ うした被害意識 は
青年期に同着 していたと考えられ るだろ うoいずれ にせ よ、 この一節 は、ル ソ
ーの運命が子供の時か ら父親や近粗者か ら共課 して見捨て られ,以後人 々の陰
謀の犠牲 にな るべ く運命づ けられていたとい う、 〔
1
分 の宿 命の再発見を語 るも
のであ る。
幼少の時か ら抱 き続 けて いた父葉
鋸こ対 す る両極的感情、あ るいは憎悪は、父
親の背後 にあ った祖国ジュネ-ヴに対す る無意識的1
封曽恵 に転移 されて いた,
そ して稚不尽な祖t
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、
】
に闘争を挑み、再 び手痛 い打撃を受 けて祖 国の地を追 われ
た時、若 き口の父や近 親者 に見捨て られ、 「恩知 らず」の 格 印をお され た時 の
悲愁が無意識下 に拍i
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され るoか って親 し
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分 に親切だ ったポンパ ドール夫人 、 シ ョワズール、 ヴ ォル
テール、 トロンシャン.
.
….
そ うい う 人 々が一致 し、 共謀 して 「
1
分を 「
悪人」
「
恩知 らず」 (デイ ドロに もそ う言われ た) と 攻撃を しか けて くるとい う 妄想
は、あの少年期の近親者 に見捨て られ、のの しられ た苦悩の拡大 し、肥大 した
-2
7-
幻影、要す るに 自己の運命の暗い姿だったのであ る。
最後の保護者 コンチ公 の死 によって闘争を諦めた時 、初めて心 に平和が回復
され始め る. この陰謀の余韻を残す 『第- の散歩』の初めに、『告 白』 で想起
された少年時代 の親 たちの共謀 と 「自分を待ち うけていた運命」が再 び想起 さ
れて、今 なおその運命か ら脱 しきれないでい る自分を語 っていることは、少年
期の悲愁 と、「
陰謀」の想念が一本の 線 によって連が ってい るこ とを さ ぐり当
ててい る左証であろう。
「第七 の散歩」では、か って スイスの山中で植物採集を しなが ら、ふ と谷間
に靴下工場をみつけ、「陰謀」の 妄想に襲われた時の ことが語 られてい る。だ
が 「
私は この悲 しい観念を急いで振 り払い、 自分の子供 っぽい虚栄心 mav
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e と、 そのために罰せ られた滑稽な仕草を E
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(
3
5
)
と記 してい る。 陰謀の想念は、 もはや恐 ろ しい暗闇ではな く、 「
子供 っぽい虚
栄心」 とい う、 自己の幼なさの反応 と して、笑いとともに回想 されてい るので
あ る。
『夢想』の冒頭のテキス トか ら出発 して 、1
7
6
2
年の迫害から晩年 にいたるル
ソ-の精神的起伏の一面を 「陰謀」の想念を中心にたどってみた.ル ソ-の主
要著作 『エ ミ- ル」
】と 『社会契約論』は、 時 の権力者たちに怖れられ、 焼か
れ、作者は逮捕令 によって逃亡を余儀 な くされた。ル ソーが 「
真実」を語 った
思想のゆえに迫害を受 けたのは、まざれ もない事実であ る。そ して 「
陰謀」は
ル ソーが想定 したような形では存在 しなか ったに して も,ル ソーに対す る攻撃
が、 ヨー ロッパ各地の権力者や 、 ル ソ-を嫌悪す る人 々時の体制 に順応 していた人 々-
多かれ少なかれ、
か ら一致 して示 されたのは事実であるし、 リ
-の編集す る 『書簡集』が示 してい るように、そうしたルソ-の敵たちが、互
いに意見や情報を交換 しつつ対応 していたの も事実であ る。ル ソーの 「
陰謀」
の想念は、 こうした現実、 時の イデオ ロギ-状況 と 無 関係ではなか った。 だ
が、 こうした 「
宗教 と政府 に危険」 と目された、まさしくイデオ ロギー的問題
を 、 ル ソ-は 『市民 たちの意見』を契機に、 F
l己の遺徳的、人間的問題 と受け
- 2
8-
とめたために、被害妄想、あ るいは強迫観念 のよ うな病 的な 「
陰 謀」の想念へ
と後退 してい った。そ こで少年期か ら未解決 のまま心 の片隅に残 されていた父
親憎悪の問題 と結 びつ き,悲惨 な苦 しい奈落 の中に落 ち こんでい ったD
『夢想』の書 き出 しは、 こうした悲惨か ら脱 出 し、心 に平和を もたらそ うと
す る自己治療的な努力を ェ ク リチ ュールの中に実現 しようとす る文学 的試み と
して読む ことがで きるであろ う。
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手紙の引用は, この書簡集による)
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点については,拙論 「
臨床 と批評」
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「
近代」5
8号)参照。
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) 『山か らの手紙』第九の手紙 には次
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4.
の用例が見 られ る,
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