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生玉地域におけるラブホテル街の形成過程とその 歴史的背景

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生玉地域におけるラブホテル街の形成過程とその 歴史的背景
て生國玉神社の神社社会や門前町を研究している。そ
生玉地域におけるラブホテル街の形成過程とその
こでは近世の茶屋や疑似遊廓には触れられているが、
現代のラブホテル街については言及されていない。
ラブホテル全般についての研究もそれほど多くは
歴史的背景
ない。全般的な研究としては井上章一(1999)
『愛の
京都大学地理学研究会
重永瞬
1. はじめに
一般に、神社は神聖な場所とされている。一方、性
愛の場であるラブホテルは俗的な場所と考えられて
いる。しかし、この二つは時として強い関わりを持つ。
空間』のほか、金益見(2012)『性愛空間の文化史』
などがあるが、これらの研究は、貸間産業の変遷を主
題とした文化史研究の立場によるものであり、やはり
ラブホテルの立地や形成過程については詳しく書か
れていない。
ラブホテルに関する地理的研究としては坂内良明
東京においては湯島天神の近辺に多くのラブホテル
(2006)
「ラブホテル街形成に関する歴史的研究」が
が集まり、京都においては祇園の安井金毘羅宮の周辺
ある。この論文は、
「ラブホテルの歴史を概観した後、
に多くのラブホテルが密集している。大阪市天王寺区
鶯谷、池袋西口、湯島、円山町の4つのラブホテル街
の生玉地域(生玉町、生玉寺町、生玉前町)もそのよ
の形成過程を分析して」1おり、この論文への応答論文
うな場所の一つだ。生玉の地域的中心にある生國玉神
を著した大矢正樹は、坂内の論文について「ラブホテ
社(生玉神社、生玉社とも)の周辺には、多数のラブ
ル街の形成要因を初めて考察した論文として画期的
ホテルが立ち並び、ラブホテル街とでも呼ぶべき形相
な意義を有している。
」との評価を下している。
を示している。神社をラブホテルが取り囲むこの景観
生玉ラブホテル街の成立には近世の遊廓が深く関
は、いったい“いつ”、“どのようにして”生まれたのだ
わっているのだが、本稿において対象とする生玉地域
ろうか。本稿では、生玉地域に関する史資料を検討す
は、近世大坂都市史の中でも研究が少ない。その理由
ることで、生玉におけるラブホテル街の形成史を明ら
の一つは、残存する史料が少ないことにある。生國玉
かにする。
神社は、神社を管理する僧坊が明治の神仏分離令によ
って移転したことに加え、明治 45(1912)年の大火や
2. 先行研究
戦災による社殿の焼失で多くの史料が失われており、
生玉地域のラブホテル街に関して個別に論じた研
直接生玉地域の史料を探すことは困難である。そのた
究はほぼなく、管見の限りでは竹井夏生(2013)
「差
め、本稿では一般的な遊廓史やラブホテル史、その他
別 ―トラウマ・体液・聖と穢れ」のみだと思われる。
類似の事例からの類推によって生玉ラブホテル街の
しかし、この論文は、生玉地域のラブホテル街を例に
形成史を明らかにすることを試みた。
して「聖なるもの」と「穢れたもの」が同一の源から
生まれていることを示した臨床心理学的研究であり、
ラブホテル街の形成については深く述べられていな
い。
3.生玉地域の概観
生玉ラブホテル街の形成を語る前に、まず、生玉地
域について説明をしておこう。
「生玉地域」とは、はっ
その他、生玉地域についての研究を見ると、山下聡
きりと定められているわけではないが、大阪市天王寺
一によるものが目立つ。山下は「近世大坂生玉神社に
区の西北部にある、生國玉神社を中心とした一帯を指
おける社家仲間」、「近世大坂生玉神社の境内と門前
す。生國玉神社の所在地は、近世においては西高津村
町」
、
「近世生玉神社と境内町屋」といった論考を通し
であり、門前町の一部は北平野村であった。また、現
1
~坂内論文への応答~」
大矢正樹(2009)
「ラブホテル街形成史への提案
代においては生玉町、生玉寺町、生玉前町に「生玉」
る4。歴史史料においては、『日本書紀』孝徳天皇即位
の字が見られる。
前紀に、孝徳天皇が「生玉神社の樹を斮るの類、是な
生玉地域は、その用途によっていくつかの小地域に
り」とあるのが初見であり、古代から存在していたこ
分類できる。近世の生玉を描いた「摂州東成生玉中之
とが明らかになっている。当初は上町台地の北端、現
絵図」によると、まず、生玉地域の中心となる生國玉
在の大坂城付近に建てられた。生國玉神社はこの地の
2
神社の「境内」 、神社門前にある二つの池「蓮池」、
鎮守であり、天文 15(1546)年の遷宮の際には数万人
蓮池の中や傍にある「境外摂社」生國玉神社の神官の
の見物客が訪れたという。中世には蓮如が生國魂神社
屋敷である「社家屋敷」、生國玉神社の別当である南坊
に隣接するように石山本願寺を創建したが、石山戦争
(法案寺)を筆頭とした「生玉十坊」、生國玉神社の正
によって焼失する。現在の地に移ったのは豊臣政権下
面から伸びる道のうち一の鳥居(現存せず)までの「馬
のことであり、これは大坂城築城に伴う遷座だった。
場筋」
、鳥居より西側の「馬場先」3、大坂の陣後に幕
このとき生國玉神社のそばには、生國玉神社の神宮寺
府の松平忠明によって作られた「寺町」、そして、こ
である法案寺(南坊とも)を初めとする 10 の寺院、通
れらの他に広がる人家や田畑によって生玉地域は構
称生玉十坊が建てられた。
成されていた。特に、馬場先には疑似的な遊廓となっ
ていた茶屋があり、これが後のラブホテルにつながる。
Ⅱ.生玉の盛り場化
現代になると構成は少し変わる。まず、神仏分離令
江戸時代の初め、大坂の陣によって大坂城周辺は荒
で生玉十坊が移転し、南坊があった場所は生國玉神社
廃した。その復興は松平忠明に任され、忠明によって
の境内に取り込まれる。さらに、戦中になると蓮池が
生玉地域の南北に広がる寺町が作られた。
埋め立てられて生玉公園となり、境外摂社はかつての
遷座後の生國玉神社は、江戸初期にはすでに参拝客
南坊の位置に移転する。そして、生玉十坊や馬場先、
を多く集める神社となっていた5。それを示すものとし
人家田畑のあった場所を中心としてラブホテル街が
て、井原西鶴が寛文 13(1673)年に生國玉神社の別当
形成されていき、現代の生玉が完成する。
である南坊で行った「生玉万句」がある。これは西鶴
生玉地域の住宅地図の中で手に入る最古のものは
が俳人 200 名ほどを集めて多くの歌を詠みついだもの
昭和 35(1960)年のものであるが、これには既にラ
で、その成果はのちに出版もされた。続いて西鶴は延
ブホテル街が見られるため、少なくともそれ以前には
宝 8(1680)年には同じく生國玉神社南坊で 1 日に
ラブホテル街が形成されていたことが分かる。次項で
4000 もの歌を詠むという「矢数俳諧」を行った。これ
は、生玉地域の歴史、特に茶屋や遊廓に焦点を当てて、
らの興業は生國玉神社が興業の地として人を集める
現在のラブホテル街につながる系譜を探る。
のに十分な求心力を持っていたことを示している。
さらに元禄年間(1688~1704)には、米澤彦八が生
4.生玉ラブホテル街の形成史
國玉神社で自作の笑い話を披露した。これが上方落語
Ⅰ.生國玉神社の遷座以前
の発祥と言われている。この当時の落語は道端に舞台
生國玉神社は、社伝によると、神武天皇が筑紫東征
を設け、道を往来する人々に話しかけるという形式を
の際に生島大神・足島大神を祭ったのが始まりとされ
とっており、人が集まる場所でなければ成立しなかっ
2
4
ここでは本殿などの諸堂が展開する狭義の境内を指
直木孝次郎 編(1981)『日本歴史地名大系 大阪府
し、生國玉神社が所有していたその他の広大な社地
の地名』
は含まない。
5
3
出版した『摂津名所図会』には「道頓堀より天王寺
「馬場筋」
、
「馬場先」の名は、この道において馬術
訓練や流鏑馬などが行われたことに由来する。
これについて、寛政 10(1798)年に秋里籬島らが
までの中間なれば繁花の地にして…」とある。
た。
そしてこの時期の人々の生玉地域への認識をよく
表すのが、近松門左衛門が描いた「心中物」と呼ばれ
女祭文、浮世物まね、売卜法印軒端をつらね、切艾屋、
作花店日々に新たにして、社頭の賑市店の繁昌は、み
なこれ神徳の霊験とぞしられける。」
る人形浄瑠璃である。その最も著名な作品である「曾
根崎心中」は生國玉神社で主人公の男女 2 人が偶然の
この記述より、生國玉神社は 19 世紀までには繁華
再会をする場面から始まり、「生玉心中」ではまさに
な門前茶屋街を持っていたことが分かる。そして、こ
生國玉神社が心中の場になっている。これらの浄瑠璃
れら門前茶屋の登場は、生玉を「性」の場に変えてい
はいずれも実際の物語をモデルにしたものだが、恋愛
った。
物語や心中の舞台に生國玉神社が選ばれたというこ
16 世紀に登場した茶屋は、はじめは茶湯のみを扱う
とは、すでに生玉の地が性や愛と結びついて認識され
「掛茶屋」もしくは「水茶屋」が主だった。その後、
ていたことを示すのではないだろうか。
茶屋は湯茶にとどまらず様々な営業を行うようにな
り、「煮売茶屋」や「菜飯茶屋」など、料理を扱う飲
Ⅲ.茶屋営業の始まり
食店へと発展していった。これらの茶屋では、茶立女
このように、生玉地域は江戸初期には人が多く集ま
や飯盛女と呼ばれる女給が働いていたのだが、これら
るようになった。人が集まる場所には古今を問わず、
の女給仕は実質的な性風俗業の担い手であることが
往来客を見込んだ商売が生まれる。その一つが茶屋で
少なくなかった。各茶屋は女給仕を使って疑似遊廓営
ある。茶屋は 16 世紀ごろに成立した商売形態6であり、
業を行い、それによってますます人が集まる、という
街道沿いや寺社門前に構えられた小休憩所を起源と
循環構造が生まれた。このような茶屋の一般的傾向は
する。前段で見たように、当時の生玉は人が多く集ま
生玉においても当てはまるだろう。近世の生玉に関す
る場所であり、そこには当然茶屋も営まれたと考えら
る史料にも、「一(宝暦八年(1748))二月六日夜、
れる。実際、正徳 5 年(1715)に大坂竹本座によって
生玉馬場先芸子殺シ…」や「一(天保二年(1825)十
初演が行われた、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『生玉
月)四日、生玉馬場先町丸屋抱茶立女弥生十八歳、今
心中』では生國玉神社の門前茶屋が登場している。ま
朝身投し、長堀茂左衛門町東掘角ニかゝり検使受、親
た、寛政 10(1798)年に秋里籬島らによって書かれた
方へ死骸引渡ニ相成候」7など、芸子や女給仕の存在を
『摂津名所図会』の生國玉神社の項には以下のような
示すものがあり、生玉の茶屋も疑似遊廓営業を行って
記述がある。
いたことが示唆される。
「生土広くつねに詣人多く、道頓堀より天王寺まで
Ⅳ.土地の権利関係
の中間なれば繁花の地にして、杜頭の賑西の方をはる
このように、江戸初期から中期には生國玉神社の門
かに見わたせば、市中の万戸・河口の帆ばしら、さな
前に茶屋町ができたのだが、茶屋町ができた門前の土
がら雲をつんざくに似たり。ことに社檀近年再営あり
地は、生國玉神社の社地であった。ではこれらの土地
て、壮麗にして、きねが鼓め音、鈴の音玲瓏たり。境
の関係はどのようになっていたのだろうか。山下聡一
内の田楽茶屋は手拍子に赤前垂飄り、門前の池には、
(2010)
「近世生玉神社と境内町屋」によると、生玉
夏日蓮の花紅白をまじへて咲き乱れ、池辺に眺む床几
社地は生國玉神社の別当である南坊が管理し、南坊は
には荷葉の匂芳しく、池は湯と成って涼しき蓮などと
年間銀 4 両で土地を貸していた。そして、土地を借り
興じ、馬場前の麗情、唐わたりの観物、歯磨売の居合、
た者はその土地で商売を行うか、あるいは、その土地
6
7
相賀徹夫 編(1970)
『大日本百科事典ジャポニ
カ』小学館,第 2 版,(18)p.130
船越政一郎 編(1926)『浪速叢書』浪速叢書刊行
会
に建てた家屋を使って貸家商売を行っていた。生玉社
を示している。
地は貸したされた後も南坊の強い影響を受け、家を譲
茶立女が公認されたのは元禄年間のことである。元
りかえる際には南坊に断らなければいけないほか、南
禄 7(1694)年に幕府が出した茶屋掟では、茶屋は茶
坊が土地を必要とするときは返上しなければいけな
立女を置くことを許されると共に、茶屋以外での遊女
かった。このように生玉の門前茶屋町は生國玉神社の
を取り締まる役目を負った。これは、茶屋における売
社地を賃借りして成立しており、その経営には生國玉
春を黙認し、遊所を茶屋に集中させようとする政策だ
神社の意向が影響した可能性も考えられる。
ったと考えられる8。このような対茶屋政策は、その後、
天保の改革にいたるまで続けられることとなった。
Ⅴ.茶屋の取り締まりと公認
19 世紀になると、天保の改革により、幕府の茶屋取
このように近世には生玉周辺に茶屋が並ぶように
り締まり政策は以前よりも厳しいものになる。天保 13
なったが、これらの茶屋は当初幕府非公認のものであ
(1842)年の町触では、茶屋の存在そのものが禁止さ
った。生玉の門前茶屋は最終的に安政 4(1857)年に
れ、茶屋や茶立女に対して、新町遊廓への引き移りが
公認されるのだが、そこへ至るまでの経緯を、大坂に
命じられた9。これにより、生玉の茶屋も取り締まりの
おける幕府の茶屋取り締まり政策に沿って整理しよ
対象になったはずであるが、史料がないため、その詳
う。
細は分からない。
幕府の対茶屋政策でまず基本となるのは、茶屋は幕
天保の改革によってなされた茶屋の禁令が解かれ
府がその株仲間を公認してはじめて存在が認められ
たのは、天保の改革を行った水野忠邦が失脚した後で
たということである。すなわち、幕府の公認を受けて
ある。安政 4(1857)年に出された触書10では生玉社地
いない茶屋は取り締まりの対象になった。生玉地域に
を含む 13 ヶ所(いずれも寺社地)での茶屋営業が認
おいては、はじめ茶屋の営業は認められていなかった
められ、生玉門前には再び公認の茶屋が戻ることにな
が、明和年間(18 世紀後半)以降の新地開発に伴って、
った。一度禁止された茶屋が再び公認された理由は分
茶屋営業が公認されるようになった。しかし、茶屋の
からないが、茶屋営業が社地を借りて行われていたこ
公認以前にも生玉地域の茶屋が取り締まりを受けた
とを考えると、茶屋の取り締まりによって地代収入が
事例が見られることから、公認以前にも非公認の茶屋
少なくなった南坊側の圧力もあったのではないかと
がいくつか存在したと考えられる。
考えられる。あるいは、南坊の庇護のもとに営業を続
はじめ、幕府は茶屋が茶立女を置くことを禁止して
けていた非公認の茶屋を追認するかたちで再公認さ
いた(承応 2(1653)年の茶屋掟)。この規定は、裏
れたのかもしれない。また、生玉十坊の僧が茶屋を利
を返せば、当時から茶屋には女給仕がおり、幕府が取
用していたことを示す史料11や、生國玉神社の神主屋
り締まろうと考えるような行為が行われていたこと
敷に娼妓がいたことを示す新聞記事(後述)があり、
8
はなく、旅籠屋は飯盛女を置くことも認められてい
幕府は当初、新町遊廓のみを唯一公認の遊所として
おり、この政策は公認の遊所を実質的に拡張するも
る。つまり、旅籠屋となった三か所は、天保の改革
のであったと言える。
と整合性を取るために名義を変えた、いわば黙認遊
9
廓のような存在だった。
一方で、新堀、曾根崎、道頓堀の三か所の茶屋につ
大阪市参事会編(1911-15)
『大阪市史 第 4 下
いては、茶屋ではなく「旅籠屋」との名目で実質的
10
な茶屋営業を認められた。これら二つは、茶屋が遊
巻』pp.2220-2225
興客を相手にするのに対して、旅籠屋は旅人を相手
11
にするという違いがあり、天保の改革下においても
ある、曼荼羅院住持と生玉門前茶屋で抱えられた大
旅籠屋は存在を認められていた。また、それだけで
和屋きぬとの密通事件。一件のあらましについては
大阪市史編纂所蔵「北平野町庄屋秋田家文書」に
寺社と茶屋の関係は非常に深かったと言える。
以上が大坂における茶屋取り締まり政策の変遷で
増加することが禁じられた。当時大阪市は市内の遊廓
を統合しようとしており、松島はその統合先として、
ある12。生玉地域の茶屋に関する史料はほとんどない
明治に入ってから築かれた遊廓である。同年 10 月に
が、これら大坂一般の歴史からその姿を推測すること
は「泊茶屋営業ノ禁止及移転」が出され、生玉新地を
ができる。生玉においても対茶屋政策が順当に適用さ
含む市内の諸遊廓は、1 か月以内に営業を停止するか、
れているならば、生玉地域の茶屋は以下のような変遷
松島遊廓へ移転するかのどちらかをとるよう命じら
をたどったことになる。16~17 世紀には、参拝客を見
れる。
込んで自然発生的に茶屋ができていった。その後、18
これら一連の遊廓取り締まり施策の締めとなった
世紀の後半ごろには茶屋が公認されるようになり、門
のが、明治 5(1872)年 10 月に出された「所定箇所
前茶屋の賑わいは極点を迎える。そして、天保の改革
以外ノ遊所禁止ノ件」である。これによって所定箇所
では一度茶屋営業が禁止されるが、その十数年後には
13
再び公認茶屋となった。これが近世における生玉門前
廓は再び非認可のものとなった14。
以外で遊女屋営業をすることが禁じられ、生玉の遊
茶屋の歴史である。
Ⅶ.明治の非公認遊廓
Ⅵ.明治初期の取り締まり
以上、近世の生玉地域について見てきたが、ここか
明治初期の遊廓取り締まり政策によって、生玉新地
は公式にはその存在が認められなくなった。その影響
らは近代の生玉地域について述べる。
『大阪市史』によ
があるのか、明治初期以降の生玉については、書籍、
ると、明治初年の生玉馬場先は「青楼百軒程あり、極
論文では情報が得られなかった。そのため、『(大阪)
めて繁華の地であった」。青楼とは遊女屋のことであ
朝日新聞』から、生玉地域について書かれた記事を集
り、近世から続く茶屋町が疑似遊廓化していたことが
めることで、近現代の生玉の姿を明らかにするという
分かる。この疑似遊廓は生玉新地と呼ばれており、そ
方法を取った。
の後たびたび政府の取り締まりを受けることになる。
明治 2(1869)年 8 月、大阪府は「茶屋置屋業株許
可ノ件」で茶屋を公認した。これは、江戸時代に寺社
生玉地域について書かれた記事を見ていくと、生玉
新地廃止後にも、生玉地域には茶屋や遊廓の流れを汲
んだ施設が多く存在していたことが分かった。
の所有地にあった茶屋の所在地を明確にすることで、
生玉新地廃止後の記事について述べる前に、新地廃
茶屋を課税の対象にしようとするもので、全ての土地
止以前の生玉について書かれた記事を見ておきたい。
を課税対象にする地租改正に先駆けて行われた命令
明治 13(1880)年 6 月 24 日の記事では 13 年前、
だった。しかしし、生玉新地が公認されたのも束の間
すなわち明治元年の出来事について書かれている。そ
で、その 2 年後には取り締まりを受けることになる。
の記事では北堀江六丁目の荒物商の娘お辰と、生國魂
明治 4(1870)年 3 月、
「遊所ノ制限並ニ二十分一税
表門筋北の米商人坂田宗兵衛の恋愛が語られており、
徴収ノ件」が出され、松島以外で遊女屋および遊女が
二人が生駒山へ参詣に行った帰りについて以下のよ
山下聡一(2013)
「近世大坂生玉神社の境内と門前
(1870)年には生玉十坊が大阪各所へ移転してい
町」を参考にした。
る。生玉十坊があった場所にはのちにラブホテルが
12
多く建てられた点も興味深いが、その因果関係を示
以上の対茶屋政策の歴史は、吉元加奈美(2013)
「近世大坂における遊所統制」を参考にした。
す資料は見つけることができなかった。市街地に突
13
然できた空き地は利益率が高い商売に使われると考
南地五花街、新町遊郭、堀江遊郭、松島遊郭、北
新地、新堀遊郭。
えられるので、まわりの土地と比べて優先的に貸間
14
産業が進出したのだろうか。
なお、同時期に神仏分離令が出され、明治 3
うな文が書かれている。
④ 明治 16(1883)年 6 月 30 日
「…六月十六日毎例の如く途連になり帰りは同車し
「 生國魂前字馬場先の町藝妓は櫻花の零落せしと
て生國魂の門前竹花亭といふ席貸屋へ伴い下向の精
共に零落して日々休業届を出もののみなるが爲め櫻
進揚にとて二ツ三ツの下物を命じ…」
花の頃には七八十名ありしものが次第に減じて十二
三名となりしに最早追々蓮花の時候となるに付き昨
ここで注目すべきは「竹花亭という席貸屋」である。
今營業届を出すものがボチヽ殖るといふがいづれ藝
席貸屋とは、一般には貸席と言い、宴会や待合のため
妓は花で喰ふて居るものさゑ花の爲めに増減するは
に座敷などを貸し、時間に応じて料金を取る業態であ
元より其處なるべしと或人より投書のまゝ」
る。貸席は、店内で茶立女のような(実質的)芸妓を
抱えない点で、これまで述べてきた茶屋と異なる。こ
⑤ 明治 15(1883)年 8 月 23 日
の記事におけるお辰と宗兵衛は恋愛関係にあり、「竹
連載小説「新編疎籬の蕣花」第一回
花亭」はまさにラブホテルのような場であったと考え
「…今から五十年の昔此馬場先の繁昌の時は今より一
られる。つまり、明治元年にはすでにラブホテル街の
層賑やかな事でありましたらう『イヤ最も其時分は此
萌芽が見られると言えよう。
邊は娼家青樓は売法印切切艾屋作花店軒を連ねて非
「竹花亭」の記事の数年後に生玉新地は廃止になる。 常の繁昌池は湯と成て涼しき蓮15かなといふ誰やらが
だが、その後の新聞記事にも待合(後述)や旅館、町
詠みたる藝句を見ても知られると親共の話夫なくて
芸妓や私娼などがたびたび登場する。以下にその一部
も尚此聞迄此神主邸に昔の名残の娼妓が残つてゐて
を引用する。
偶には三弦の聲も聞いたが今では寂々?16々古池や蛙
飛こむ水の音といふ憐れな景況愚老なども…」
① 明治 14(1881)年 7 月 26 日
「…大坂府下東成郡天王寺村生玉神主屋敷と稱する
⑥ 明治 17(1885)年 8 月 25 日
遊女に茶屋(今の席貸業)を營業とする吉田およしと
「●痴情のまよひ
去る二十二日の午后十二時頃南
呼ぶ者あり元は同所の娼妓なりしが何日の頃よりか
區坂町三十六番地旅人宿榎木しづ方の二階に於いて
天王寺々内の引導鐘の堂守をする僧某に落籍て遂に
西高津村十五番地(生魂國鳥居前北へ入るところ)待
茶屋をぞ初めけるが…」
合茶屋玉井幸助の長男寅市が其邊の町藝妓子米を刅
傷(にんしょう)し己も井中に身を投じて死を遂げん
② 明治 15(1882)年 4 月 21 日
としたる大略を記さんに子米は同所提灯商吉田其の
「生玉境内の櫻を見んとて昨今爰(ここ)に歩を運
娘にて本名を八重と呼び三四年以前より玉井の店を
ぶ者多いが何分茶店の剥取りには降参にて飲だ酒も
借り町藝妓を働く中寅一に深く思はれ遂には怪しき
醒る位なりと左もあらん」
中となり…」
③ 明治 15(1882)年 6 月 7 日
「 生玉鳥居前字馬場先の竜田裏に住でゐる町藝妓
これらの記事から分かるように、生玉新地が廃止と
なった後も、生玉には多くの茶屋や芸妓が存在した。
才吉(廿七年)は二三日前の夜同町内の床熊の妾宅に
これらの芸妓はやはり生國玉神社の参拝者を主な客
招かれしが其席の上客中村何とかいふ旅俳優に口説
としていたようで、④の記事には、生國玉神社に桜が
かれ…」
咲く頃には芸妓を始める者が多いが、桜が散ると休業
15
16
『摂津名所図会』の一節を引用したもの。
字が潰れていたため解読できなかった。
に入る、と書かれている。明治 21(1888)年 4 月 27
ろう19。
日の記事にも、連日の雨で花見客が減り、掛茶屋が損
以上の記事から分かることは、生玉新地廃止後も当
失を受けたことが書かれており、茶屋の営業が参拝客
地には茶屋や芸妓が非公認ながら営業を続けていた
だのみだったことが分かる。
こと、そして、貸席や待合といった、現在のラブホテ
明治のうちに廃止になった生玉新地だが、廃止後も
何度か再設が試みられている。明治 14(1881)年 3
ルにつながるような店が明治初期に既に登場してい
たことである。
月 25 日の記事には、
「馬場先の旧貸席業が花街の再開
を願い出る」との記事があり、また、明治 22(1889)
Ⅷ.大蔵信之の活躍
年 5 月 10 日にも「東成郡天王寺村・西高津村・東平
明治 10 年代頃までの『
(大阪)朝日新聞』には、生
野村の 3 町村が遊廓再設を願い出る」との記事が掲載
玉の茶屋や芸妓についての記述がある記事が、1 年に
されている。だが、どちらも却下されており、生玉新
1~3 件ほど見られる。しかし、明治 20 年代後半に入
地が復活することはなかった。
ると遊女に関連した記事はほとんど見られなくなる。
しかし、明治 22(1889)年の記事に、馬場先には
一方で、明治 20 年代の生玉についての記事には大
「只待合茶屋のあるのみ」と書かれているのは注目す
蔵信之という人物が何度も出てくる。この人物は生玉
べき点である。待合茶屋(通称、待合)とは先述の貸
にある千帆楼という施設の経営者で、明治 17(1884)
席と同じものを指し、明治に生玉新地が廃止されてか
年に地券証偽造の罪で天王寺警察署に拘留されてい
らも貸間産業が生き残ったことが分かる。
る。明治 21(1888)年には上告をし、その経過が新
興味深いのは、①と⑤の記事に、神主屋敷に娼妓が
聞にたびたび掲載されている。
いたことが書かれていることである。娼妓は芸妓と異
明治 22(1889)年、生國玉神社の南側に「浪花富
なり、売春を行っていることが明確な呼称で、①と⑤
士」と呼ばれる展望台が作られた。これは富士山を模
以外の記事では見られなかった。これは憶測だが神主
して造られた木造 18m の展望台で、場内には人工の
屋敷は生玉地域における娼妓の置屋として機能して
滝や生身の人間のように作った「生人形」などがあり、
いたのではないだろうか。一般的に関西の遊廓は、芸
開業初日には 2 万余人の観光客を集めた。しかし、予
妓や娼妓を抱える置屋と、芸娼妓が出向いて客をもて
想以上に維持費がかかったことから、1 年も経たない
なす貸席からなる17。生玉は非公認の遊廓だが、一時
うちに閉鎖された。この「浪花富士」を作ったのが、
期は公認されていたことを考えると、生玉の内部で置
先ほどの大蔵信之である。彼は当時西高津村の戸長を
屋と貸席に分かれている可能性もあるのではないか。
務めており、地券証偽造による罪は軽かったものと思
また、権力があり、
「性」というある種神聖なものを扱
われる。
えるだけの宗教的根拠も持った18神官屋敷ならば置屋
この大蔵信之は随分と革新的な人物だったようで、
の役割を担っていたとしても不自然ではない。さらに、 明治 13(1880)年 7 月 23 日の記事には「…生玉の
神官屋敷の場所と現在のラブホテル密集地が重なっ
千帆樓などに機械製の瀧を流し游客をひかんとせし
ている点も見逃せない。この仮説については、ほかの
がいづれも随分大流行」とある。千帆楼は彼が主を務
遊廓や寺社と比較して、さらなる検証を加えるべきだ
めた店であるから、おそらくこの機械製の滝も彼のア
17
加藤政洋(2005)『花街 異空間の都市史』p.62
経営している」という話がインターネット上で散見
18
娼婦の起源が巫女にあるという説は、柳田國男や
される。信頼のおけない情報源であり、あまり参考
中山太郎などの民俗学者が提唱し、広く知られてい
にはできないが、神主屋敷に娼妓がいたということ
る。
は、社寺が経営に関わっているという話もあながち
19
否定できないのではないか。
これについて、
「生玉のラブホテルは周囲の寺院が
イデアだろう。明治 14(1881)年 12 月 21 日の記
成されたのか。
事には「中の芝居は昨日千秋樂明廿二日生玉千帆樓で
戦後の生玉についても、やはり史資料が少ない。さ
當振舞」とあるが、
『大阪朝日新聞』に何度も出てくる
らに、ラブホテルに関する記述となると皆無である。
生玉の店は千帆楼のみなので、大蔵信之は明治生玉の
そのため、住宅地図や古写真を参考に生玉ラブホテル
賑わいを支えた人物と言ってよいだろう。このように、 街の形成時期を探っていく。
浪花富士や機械製の滝のような奇抜なアイデアを生
一般的に、ラブホテルとは「主にカップルの性行為
み出す人物が戸長にいたことは、生玉の地域性にいく
に適した設備を持つ部屋を、短時間(休憩)もしくは
らかの影響を与えたと考えられる。
宿泊で利用できる施設」21を指す。また同様の施設と
して連れ込み宿がある。連れ込み宿はラブホテルの登
Ⅸ.生玉の暗黒時代
大蔵信之の尽力によって生玉は賑わいを見せるが、
場以前(昭和 20 年代22)からあり、同じく情事目当て
の客を対象にした性的貸間産業である。ラブホテルと
その後、明治 20 年代後半ごろから『大阪朝日新聞』に
連れ込み宿は用途としては同じだが、一般的には洋風
生玉はほぼ取り上げられなくなる。その理由は不明だ
で、より派手な外観をしているものをラブホテルと呼
が、おそらくその頃から生玉の賑わいが無くなってい
ぶ。昭和 35(1960)年の住宅地図には、名前に「旅館」
ったのではないか。
や「ホテル」と付く建物があるが、現存しない建物に
明治 45(1912)年 1 月 16 日には、生玉は大火に見
ついてはそれがラブホテルもしくは連れ込み宿であ
舞われる。この大火は難波新地を焼き尽くし、その移
るのかどうかはっきりと確かめることができない。し
転先として飛田新地が作られるきっかけとなった大
かし、その分布が現在のラブホテルと概ね一致してい
火である。この大火によって生玉も被害を受け、生國
ることから、これらの建物は性的貸間産業であると考
玉神社の本殿が焼失した。その後政府からの支援金と
えられる。そのためここでは、性的貸間産業である可
氏子たちの協力によって大正 3(1914)年に再建され
能性が極めて高いこれらの建物をカッコ書きでそれ
るが、昭和 20(1945)年 3 月 13 日に空襲によって焼
ぞれ「連れ込み宿」
、
「ラブホテル」と表記し、それら
失する。本殿は再び再建されるのだが、これも昭和 25
をまとめるときは「性的貸間産業」と表記する。
(1950)年 9 月 1 日のジェーン台風によって倒壊する
20
。現在の社殿は昭和 31(1956)年に建てられたもの
である。
このように大正から昭和の生玉は火災や戦災によ
まず、生玉に洋風のラブホテルができ始めたのは戦
後になってからだと考えられる。その根拠として、
1960 年に刊行された岡本まさひろのエッセイ『上町台
地百年』に、以下のような記述がある。
って打撃を受けた。戦時中には火除地として神社南側
に生玉公園が開かれ、公園内には空襲に備えるための
「...戦後の風潮は上六のターミナルと南の繁華街を
都市防空壕が造られた。神社正面の蓮池が埋め立てら
ひかえて、このあたりから高津神社へかけて一面に
れたのもこの時期であり、生玉の景観は大きく変わる
毒々しい怪奇なホテルや温泉マークの旅館が一っぱ
こととなった。
いたちならんできた...」
Ⅹ.生玉ラブホテル街の形成時期
エッセイということで十分に信用はできないが、同時
ここまで生玉地域の歴史を見てきたが、ようやく本
代を生きた人物の手記として参考に足るものだろう。
題へ移ろう。生玉地域におけるラブホテル街はいつ形
また、金益見(2012)
『性愛空間の文化史』でも、ラブ
20
川端直正 編(1955)
『天王寺区史』p.320
22
21
Wikipedia
金益見(2012)『性愛空間の文化史』
ホテルは戦後に登場し 1960 年代に最盛期を迎えたと
リス」は外観も西洋の城風であり、昭和 35(1960)年
言われていることから、生玉のラブホテルも戦後に形
の住宅地図にも載っていることから、「確認できる生
成されだしたと考えられる。ラブホテルとは連れ込み
玉最古のラブホテル」と呼んで差支えないだろう。
宿と違って洋風のものであるから、
「鬼畜米英」をスロ
問題は「ホテル アリス」がいつ建てられたかだが、
ーガンにしていた戦時中には当然作られないだろう。
これについては全く不明というのが正直なところだ。
次に述べておきたいのは、生玉地域が載っている最
先述の通り、昭和初期から戦後すぐにかけての生玉の
古の住宅地図である昭和 35(1960)年の住宅地図に
史資料はほぼ無く、
「ホテル アリス」の建築時期を特
は、すでに多くの「旅館」や「ホテル」があることで
定することは不可能だった。
ある。その数は、東西南北を谷町筋、松屋町筋、源聖
だが、昭和 33(1958)年ならば、かろうじて当時の
寺坂のある通り、千日前通に囲まれた四方だけでも
ことを覚えている人物もいるかもしれない。生玉地域
「旅館」が 14、
「ホテル」が 20 という多さである。こ
の古老に話を聞けばもっと正確な年代が特定できる
れは現在の同地域のラブホテルの数よりも多く、ラブ
可能性がある。ただし、覚えている人物がいたとして
ホテルが高度経済成長期に広まった23ことを考えると、 も相当の高齢なので、一刻も早く調査をする必要があ
生玉地域は比較的ラブホテル先進地だったことが分
かる。では、生玉地域に建てられたラブホテルの中で、
最も古いものはいつのものなのだろうか。
る。
以上の考察より、生玉最古のラブホテルは第二次世
界大戦の終結から、昭和 33(1958)年までの 12 年半
生玉地域の古写真や住宅地図を調べた結果、確認で
の間にできたと考えられる。そして、昭和 30 年代前
きた中で最古の「性的貸間産業」は「関西大学大阪都
半から昭和 35(1960)年の間に「ラブホテル街」と呼
市遺産研究センター所蔵 牧村史陽氏旧蔵写真データ
べるほどの集中が生まれた。これが初めに挙げた問い
ベース」にある、昭和 29(1954)年 2 月 5 日の写真
の一つ、「生玉地域のラブホテル街はいつ生まれたの
に写りこんだ「西?旅館」という看板がある建物であ
か」に対する答えである。
る。
「?」の部分は字がつぶれてしまい解読できないが、
名前に「旅館」とある点、看板に温泉マーク24が付いて
5.まとめ ~生玉ラブホテル街の形成史~
いる点から、この建物は連れ込み宿であると考えられ
以上、生玉のラブホテル街の形成について、その歴
る。ただし、残念ながら昭和 35(1960)年の住宅地図
史的背景を追いながら見てきた。大変長くなってしま
に「西?旅館」は確認できない。
ったので、ここで整理しておこう。
「西?旅館」は確認できる最古の「連れ込み宿」だ
まず、生玉地域がひとまとまりの地域となったのは、
が、連れ込み宿は昭和 20 年代からあるため、特に先
生國玉神社が当地に遷座してからである。そして、そ
進的とは言えない。では、最古の「ラブホテル」はい
の後生國玉神社は多くの参拝客を集める神社となっ
つのものなのだろうか。確認できた中では、同じく「牧
た。それは、生國玉神社が大坂の鎮守神を祭る神社で
村史陽氏旧蔵写真」の中の昭和 33(1958)年 2 月 5 日
あったこと、市街地から四天王寺へ至る道の途中であ
の写真に写りこんだ「ホテル アリス」が最古だった。
ったこと、そして桜や蓮が美しく咲く花の名所であっ
同じ写真の中には「ヤサカホテル」の看板もあるが、
たからである。
「新築開店」との文字があり、所在地も生玉地域内か
生國玉神社が参拝客を集めるようになったことで、
どうか判断できないため、
「ホテル アリス」を確認で
神社門前には参拝客を狙った茶屋が集まるようにな
きる生玉最古の「ラブホテル」としておく。
「ホテル ア
った。そして、それらの茶屋は、同時代のその他の茶
23
金益見(2012)『性愛空間の文化史』
連れ込み宿の目印として使われていた。
(金益見
24
戦後から高度経済成長期ほどまで、温泉マークは
(2012)『性愛空間の文化史』p.48)
屋と同じく疑似的な遊廓営業を行うようになった。こ
楼の主で、浪花富士などの奇抜な計画を実行した大蔵
の疑似遊廓「生玉新地」は茶屋としては公認されたが、
信之が戸長を務めたということは、生玉の住民たちの
遊廓営業(売春行為)を行うことは許可されていなか
間には少なからず革新的な気風があったということ
った。また、これら門前茶屋は生國玉神社別当南坊の
だろう。ラブホテルはその派手な外観ゆえに、地域住
領地を中心にして広がり、神社や生玉十坊との強い結
民からの反発を受けることも多い。そんな中で、生玉
びつきの上で存在していた。
のラブホテルが受け入れられたのは、生玉に精神的土
そして明治に入ると、生玉新地は一度は公認された
壌があったからに他ならない。
が、まもなく松島遊廓へと移転を命じられる。しかし、
移転後も密かに遊廓営業は続けられ、そこには生國玉
7.おわりに
神社の神主屋敷も関わっていた。大蔵信之の活躍もあ
本稿における調査によって、生玉のラブホテル街は
って生玉は賑わいを保つが、明治末期になると、南の
近世から続く歴史の上になりたっていることが分か
大火で一帯が焼失。さらに戦時中には空襲を受け、再
った。残念ながら本研究では生玉地域しか調査するこ
び一帯が焼失。生玉の賑わいは過去のものとなった。
とができなかったため、他地域と比べた生玉の特徴や、
しかし戦後になると、それまでの茶屋や貸席を基盤
ラブホテル研究全体における生玉ラブホテル研究の
にして、連れ込み旅館やラブホテルが早くから登場。
位置を明確にすることができなかった。また、文献調
昭和 35(1960)年までにはラブホテルを形成し、現在
査にかたよって、聞き取り調査などのフィールドワー
の生玉ラブホテル街の景観が完成した。
クをなおざりにした点も反省するとともに、今後の課
以上が、初めに挙げたもう一つの問い、
「生玉地域の
ラブホテル街はどうやって生まれたのか」に対する答
えである。
題としなければいけない。
ラブホテルは、性愛の場であることから何かと奇異
の目で見られがちである。しかし、そこにはれっきと
した歴史的価値が宿っている。歴史学の役割が史資料
6.生玉ラブホテル街の特質
ここまでの考察から、生玉ラブホテル街の特質をい
くつか見出すことができる。
の分析と過去の事象の価値判断にあるならば、生玉地
域やラブホテルといった研究の蓄積が少ない対象に
焦点を当て、これまで知られていなかった生玉ラブホ
まず一つは、近世茶屋からの連続性である。生玉に
テル街の歴史的背景や価値を見出した点で、本稿には
は、江戸時代から茶屋が立ち並んでいた。生玉ラブホ
歴史学的価値があったと言えよう。その一方で、地理
テル街の歴史を探ることにより、現在生玉において見
学的な研究、すなわち生玉の茶屋やラブホテルの分布
られるラブホテル街は、それらの茶屋を基盤として生
や、生國玉神社との位置関係に関する考察は不十分だ。
まれたことが明らかになった。
この点については、生國玉神社の境内図や天王寺区の
そして次に、神社との深い結びつきである。生玉の
茶屋は、生國玉神社の参拝客無くしては存在しなかっ
都市計画図などを用いることでより深い考察ができ
るだろう。
たのはもちろん、その土地も神社から借りたものだっ
た。また、神社は、本来違法であるはずの遊廓を保護
[参考文献]
し、明治に遊廓が廃止された後には娼妓の拠点にもな
○書籍・論文
っていたと考えられる。このように、生國玉神社はラ
大阪市参事会編(1911-15)
『大阪市史 第 4 下巻』
ブホテル街の形成にとって不可欠な役割を果たした
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「ラブホテル街形成史への提案~坂
と分かった。
内論文への応答~」土木計画学研究・講演集,CD-ROM,
さらにもう一つ、新聞史料の分析からは、近代の生
玉の地域性のようなものを見出すことができた。千帆
Vol.39
岡本まさひろ(1966)
『上町台地百年』
(出版社不明)
加藤政洋(2005)
『花街 異空間の都市史』朝日新聞社,
初版
川端直正 編(1955)
『天王寺区史』天王寺区創立三十
周年記念事業委員会
金益見(2008)
『ラブホテル進化論』文藝春秋,初版
金益見(2012)『性愛空間の文化史 ―「連れ込み宿」
から「ラブホ」まで―』ミネルヴァ書房,初版
竹井夏生(2013)
「差別 ―トラウマ・体液・聖と穢れ」
神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要,
7(1):1-13
山下聡一(2008)
「近世大坂生玉神社における社家仲
間」,大阪市立大学日本史学会編「市大日本史」(11),
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山下聡一(2013)
「近世大坂生玉神社の境内と門前町」,
塚田孝・吉田伸之編『身分的周縁と地域社会』史学会
シンポジウム叢書,山川出版社
吉元加奈美(2013)
「近世大坂における遊所統制 : 町
触を素材に」大阪市立大学大学院文学研究科都市文化
研究センター「都市文化研究」(15), 13-27
○辞書類
直木孝次郎 編(1981)
『日本歴史地名大系 大阪府の
地名』平凡社
「朝日新聞記事データベース 聞蔵Ⅱビジュアル」
https://database.asahi.com/index.shtml
「関西大学大阪都市遺産研究センター所蔵 牧村史陽
氏旧蔵写真データベース」
http://haya.bitter.jp/makimura/
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