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ありがとう、 そしてさようなら六本松!
KYUSH 山 I V .I C R O S S O V E R 特集 さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 000 ありがとう、 そしてさようなら六本松! 金 明美 金 明 美 (静岡大学情報学部社会情報学科) (静岡大学'情報学部社会情報学科) 比文の修士課程に入学したのは、1996年目4月だ。今から 比文の 11多士諜f!1~, f こ入学したのは、 1 9 9 6年の 4) Jだ。今から 感、不安感を募らせていった。漠然とした焦燥感が募れば募 弘 ! 、不安感を非らせてい った。! i 免然、 とした 1 t燥感が募れば非 もう13年近くも前のことになる。現在の職場に就職したのが もう 13 :f1~近くも !日J のことになる 。 JJLir の i殿場 に就職したのが るほど、「ディシプリン」を求める気持ちが強くなり、「イン るほど、「デイシプ リン」を求める気持ちが強くなり 、「イン 2005年10月なので、その間の留学ll寺期を除けば8年近く法 2 5 f : 1 : , 1 0凡なので、その I I Jの間学時 W Jを除け ば 8: 1 1 : , 近く比 文にお世話になったことになる。しかし、博士2年に上がる 文 ーにお 山訴にな ったことになる。 しカ、し 、N l ァ : e 2f : nこJ::カミる 年に、その半年後のイギリス留学に備え実家のある東京に居 ' : 1 " に、その半年後のイギ リス印字:に官i i i え実家のある1RJit 、 に居 ターディシプリン」の議論を追うこと自体が何らかの権威を ターデイシプ リ ン」の議論を追う こ と I~I 体が何 ら かの 椛械 を また、一方で、当時は福岡市内の在日コリアンの集住地で J で、当 1寺はねl ' ; i ( 1 T l i I 付の在 1コリアンの北、 住地で また 、- ) を移し、留学後は関東で非常勤職を得たため、ゼミや個人指 を移し、留 学技は |品J J-Uでゴ|三'iiI 助l阪を fll‘ たため 、 ゼミや 11~1 人指 行なわれている子供会活動にほぼ毎週参加し、子供のアイ ; 1し、子供の アイ 行なわれている子供会活動 にほぼ初. 週参 1 導を受ける日に六本松に飛行機等で通っていた。だから、六 導を受ける LI に六 4斗公に飛 ü +r~ミ7・でj且 っ ていた 。 だから 、 六 デンティティ形成に関するフィールドワークも同時並行的に テンテイティ形成に|刻 するフィ ー j レド ワークも 同 11むHdï" I'i'~に ∞ 求める旅と化していた◎ 求め る旅と 化 していた。 本松で過ごしたのは、実質的に約3年忌であったといえる。 本紙で過ごしたのは、尖質的に約 3,:r 11 ¥J で 、 あ ったといえる 。 行っていたが、そこでは「民族」を研究対象とすることの行 行 っていたが、そこでは 「 以払Jを研究対 象とすることのわ 白鼠の中でWメジャーとして文化人類学と韓国語教授法 ! ' I分の, "で Wメジャ ーとして文化人類学と斡国語教授法 き(息)詰まりも感じていた。 き ( 息)詰まりも!長じていた。 を専攻すると決め(もちろん形式上の専攻は国際社会文化)、 i l l 攻すると決め (もちろん形式上の専攻は同│ 際社会文化)、 を 修論はどうにか書き上げたが、その後一時精神的に病んだ。 1的に病んだ。 修論はどうにか書き上げたが、その後一 H叫}竹1 期待に胸膨らませ六本松校舎の門をくぐった入学当初。箱lhbl W W i :にJ J 旬膨らませ/〈本松校令の“ │l をくぐった入学当初。箱I I . r f その過程で学校に「期待」をなくしていったが、それがかえっ その過程で学校に f JU J待Jをなくしてい ったが、それがかえ っ の授業(朝鮮史と教育人類学)を受けるために箱崎と六本松 の授業 ( i i リ J . ( ' 平山と数行人類学)を受けるために桁i I r . f と六本松 てよかった。「期待」こそが自らの自律性を阻んでいたことに f J Um: ' Jこそが r ' Iらの自律性 を1 ! lんでいたことに てよかった。 を往復した日々。そしてその後味わった挫折感や焦燥感。留 を往復した 11 々 。 そ してその後味わ っ た ~~qJr!惑や f.r.~燥 感。 留 気づいたときは、すでに六本松で2年半が経っていた。でも、 気づいたときは 、すでに六本松で 2年半が経っていた。でも 、 学を決意し、共同研究室の荷物を段ボールにまとめ、後門か 守 ・を決意し 、共 l i J l i J f究室の荷物を段ボーjレにまとめ 、後門か 学び直すしかないと留学を決意した。「カルスタ」発生の地と t ff 芋を J i げぶした。「カルスタ J発生の j 也 と 午 : び直すしかないと f ら去った日。私にとって、六本松の:一:年間は自信、学校への ら 去 っ た1:1 。 私にと っ て 、 六本松の主 :,r rlJJ は I~I 信 、 学校への されるイギリスであえて社会人類学を専攻した。 されるイギ リ スで、あえて社会人 ~ti学を W: ~えした 。 「期待」をなくしていった傷つき体験として記憶されてきた。 f WJ符」をなくしてい った似つき イ み験として記憶されてきた。 留学してみて改めて気づいたのは、六本松にいるときに、 留学してみて改めて気づいたのは 、六本松にいるときに 、 しかし、今改めて思うのは、この三年間は決して無駄であっ J は決して無駄であ っ しかし 、今改めて思うのは 、 この竺年r :I その文脈の理解はさておき、学問的な知識、いや情報を詰め J J J Rの} l l l W I'はさておき 、学 I I J的な知識、いや情報を 5 7 1 め その文 たのではなく、私自身が次の過程に進むのに重要な期間でも たのではなく、私 n 身 が次の ìt\科に進む のに lli~~ な WJIMJ でも 込んでおいてよかったなということであった。それらが授業 込んで、 おいてよかったなということであ った。それらが授業 あったことである(ただ、当時精神的に余裕のない教員から あったことである ( ただ、当1 ; 1 中 : 7i ' キ I I I I Y ;に余紛のない数日から を理解するのに役立ったからである。結果的に、私にとり六 を理解するのに役立 ったからである 。キ 占拠的に 、私にとり六 受けた「無駄」なストレスも少なくなかったことはここにあえ 受 けた f~1flf:!汰J なストレスも少なくなか っ たことはここにあえ 本松で過ごした日々は、イギリスでの修士課程を難なくこな 本松で過ごした日々は、イギリスての修士融不I~ を !;jW なくこな て記しておきたい。なぜなら、そのために学校を去った学友 て記しておきたし、。なぜなら 、そのために学校を去 った学友 すための準備課程となった(元々六本松は教養部だった1?)。 すための準備課桂とな った(;乙々六本松は救接古 1 ¥ だった!?)。 たちがいたのは事実だから)。大学で教育と研究に従事する たちがいたのはb j [ .尖だから ) 。大字で教育と 研究に従ヰ j,する 結局、金銭や家族の問題で、修士号取得後は日本に戻り、 1 児科後は L I本に J : kり、 結局、金銭や家族の 問 │題で、修士サ1 ことになった現在、この間の経験は生かされていると思う。 ことにな っ た 3JI{I~ ,こ の I IIJ の tì':,~責は ~t かされ て い ると 思う 。 再び比文に籍を置いた。そして、自活と経歴づくりのため非 :flJ ぴ、比 文に新を 'l;~;: " 、た 。 そして 、 1~li{i と経!た づくりのため手 1 : 入学した年は、日本でカルチュラル・スタディーズ旋風が 入学した年は 、 1本でカルチュラ J レ・スタデイーズ腕風が 常勤をしながら、博士論文を作成することとなった。次なる 1t~.剖j をし ながら 、 |専てL:fii命文を 作成す ることとな っ た 。 次なる 起り始めた頃であったが、それが「インターディシプリン」の の 起り始めた頃で、 あったが、それが「 インター デイシプ リンJ フィールドは韓国の済州島と静岡県だったので、六本松に フィール ドは韓国の済州向 と静 l i I J i 県だったので、六本松に 最先端を行く議論かの如く、田文にも「カルスタ」熱は少な M :先端を行く議論かの 虫1 1 :く、比文にも「カルスタ J 熱は少な はフィールド間を何度も往復する途上でしばしば立ち寄った r l J J を何度も 往復する途上で、 しばしば立ち寄 った はフィールド からずあった。授業でも、ポストモダニズムやポスト構造主 からずあ った。授業で も、ポストモダ ニズムやポスト梢造主 が、もはや六本松は行く道の途上でしがなかった。 が、もはや六本松は行く道の途上で 、 し かなか った。 義などポスト∼の言葉が溢れる英語のテキストが購読対象に 義などポス ト の言・ : 京が溢れる英諮のテ キストが! J 持説対象に フィールドワークでは、形式的な場での会話よりも、何気 フィー ルドワ ークでは、形式的なJ ; ) j で、の会話 よりも、何気 なっていた。これらの議論に消化不良を起こしつつも、つい なっていた。これらの議論に消化不良を起こしつつも 、つい ない状況での言葉の取り交わし、或いはほんの一瞬の関わり 1j(り交わし 、或いはほんのー│ 瞬 の│ 刻わり ない状況での言葉の ていくこと自体が六本松にいることの証のようでもあった。 て いく こと 自体が六本松にい ることの証のよう で もあ った。 合いが重要な場合が少なくない。それに似て、六本松に立ち 合いが重裂な場合が少なくない。それに似て、六本松に立ち 時代状況や新設大学院ということなどが重なっていたので │時代状況や新設大学院とい つこと などが重な っていたので 寄った際、話せる教員や学友との束の間のやり取り、ちょっ 寄った際、話せる教員や学:友との束の 間のやり取り、 ちょ っ あろうが、当時の学生の多くはいい意味でも悪い意味でも放 あろうが、 当 H守の~:庄の多く はいい 2 1 床でも患い意味でも放 とした指摘からヒントも随分得たが、もうそれで十分だった。 とした指摘か らヒン トも随分得たが、もう それで十-分だ‘った。 置されていたように思う。このような六本松の「自由」な雰 i uされていたように思う 。 このような六オ斗公の「自由 Jな雰 おかげ様で、2007年2月に比文から学位をもらい、この おかげ様 で、2 7 年 2月に比文か ら学位をも らい 、この 囲気は、刺激的ではあった。つまみ食いではあれ、興味関心 囲気は 、刺激的ではあった。つまみ食いではあれ、興味関心 3月には博士論文が出版されることになった。六本松で三年 3 月には同士論文が出版されることにな った。六本松で三五 F ' ,r間いろんな意味で学び、それなりに苦しんだことが、陰に陽 l l いろんな意味で学び、それなりに背しんだことが、│ 徐に │ 場 の異なる教員・学生たちの話を聞いたり、時には意見を交わ の~',~なる教員 ・ 学生たちの訴を IlfJ い たり 、 H寺には意見を交わ ∞ せることはそれなりに面白かった。 せることはそれなりに而白かった。 に生きているものを書き上げることが出来たのではないかと に生きているものを 書き上 げ るこ とが I~ ', 来たのではないかと しかし、学部で教養に毛が生えた程度、学問の右も左もわ しかし、学部で救護に毛が生えた程度、学問の右も左もわ 思っている。いよいよ六本松がなくなるときに、このような 思 っている 。いよいよ六本松がなくなるときに、このような からないまま、このような六本松の「学際的」な世界に飛び Jな世界に飛び からないまま、このような六本松の「学際的 本を出版できて感慨深い。「ディシプリン」の本当の意味に気 本を 出版できて感慨深い。「デイシプ リンjの本当の立│ 床に気 込んだ私は、そのつけが回ってきたかのごとく、次第に焦燥 込んだ私 は、 そのつけ が回 っ てきたかのごとく、次~に焦燥 づかせてくれた六本松ありがとう、そしてさようなら! づかせてくれた六本松ありがとう 、そしてさようなら! 一一 31一 一 一31 一 KYUSHUUNIV. I l t U ] 則 VER ○○○特集 さよなら六本松 000 特集:さよなら六本松 六本松から伊都ヘ 佳 美 福永 (文化表象講座) (文化表象講座) 初めて六本松キャンパスを訪れた時、真っ先に私の目に 初めて六本松キャンパスを訪れた│時 、真っ先に私の Hに 飛び込んできたのは正門入ってすぐの背の高い3本のヤシ P ' J入ってすぐの背の市j、 t ¥ 3本のヤシ 飛び込んで、きたのは:if り合いになることができましたし、気の合う仲間にも恵ま 1 1 ] 1にも恵ま り合いになることができましたし 、気の合う { ' 1' れました。ですから、今回のことは単なる移転という問題 j J.なる移 [ 1 ほという 問題 れました。 ですから、今│ 凶のことは.L の木でした。これだけの高さを保ちながら、これまでよく の木でした。 これだけの高さを保ちながら 、こ れまでよく だけではなく、時間をかけてようやく見つけた自分の居場 1 ] 1をかけてようやく比つけた自分の居場 だけではなく 、" 奇1 ぞ風雨を凌いで立っていられたものだと感心したことを覚 ぞ風間を凌いで、 立っ ていられたものだと感心 したことを覚 所がなくなってしまうような寂しさを感じます。 所 カfなくな ってしまうような寂しさを感じます。 えています。あれからもう7年の時が経ちました。まさか 時が経ちました。 まさか えています。 あれからもう 7年の l 六本松キャンパスがなくなることでもうひとつ残念なこ ハ本4 立とキャンパスがなくなることでもうひとつ残念なこ 自分がまだ六本目に足しげく通っているとは、ましてその 1 ' 1 分がまだ六本松に J Lしげく通 っているとは、ましてその とがあります。それはここに生きるさまざまな植物たちを とがあります。 それはここに l . l "きるさ まざまな刷物たちを 六本松の思い出を語ることになろうとは思ってもみません J よ い 、1 ',' を祈ることになろうとは思 ってもみません 六本松の 失ってしまうことです。春になるといっせいに咲き誇る桜 失 ってしまうことです。府になるとい っせいに│咲き誇る桜 でした。 でした。 は言うまでもありませんが、それ以外にも芳しい香りを放 は言 うまでもありませんが、それ以外にも芳しい香りを放 私は中国・元朝を代表する戯劇作家・関漢卿の創作した 私は ' 1 1 " <1・元 l : U Jを代表する戯劇作 家 ・ │ 共 J i 英 国! l Iの創作した ' 旦本について研究を行っています。最初に私に元受の魅力 E本について研究を行 っています。 M f ) Jに夜、に元副│の魅力 つ金木犀や銀木犀、寒い季節がよく似合う真っ赤な椿は、 つ金 本! 平 . やi f H ド オl 弘之にい不節がよく似令う J lっ赤な枠は 、 を教えてくださったのが、今は亡き日下翠教授です。先生 を教えてくださ った のが、今は亡き日下翠教授です。先生 以外にも刺々しい針を全身に張り巡らせるタラの芽、台風 以外にも刺々しい金 │ を 全身に張り巡らせるタラの芽、台風 との元曲講読の授業を通じて、元代の人々の逞しさや強か との冗 11 講読の授業を通じて 、元代の人々の匙しさや強か にもめげずたわわに実るビワやスモモやヤマモモ、手が届 にもめげずたわわに尖るビワやスモモやヤ マモ モ、手が!吊 さを目の当たりにし、元曲をテーマとすることに決めました。 さを目の当たりにし、元 U II をテーマとすることに決めました。 かないほど高い場所に実をつける渋柿や色鮮やかなグミ、 、場所に尖をつけるたけiIiや色 ! Mやかなグミ 、 かないほど その後、自分の考えを形にすることの難しさに心が折れそ その後 、 !こ| 分の考えを 11~ にする ことの現在しさに心が折れそ 丸々と太った八朔などなど。授業や研究の合開に、友人と などなど。J 受業や l i J f究の f ? -I I J に、友人と 丸々と太 った八切l うになりながら、東英寿教授の熱心なご指導のもと研究を うになりながら、某L 英芳教授の熱心なご指導のもと研究を キャンパス内を散策するそのひととき、植物たちがどれだ キャンパス 付 │ をi 政策するそのひととき 、才 l 立物たちがどれだ 進めてきました。また、その間ティーチングアシスタントと 進めてきました。 また 、その間ティーチングアシスタン トと け私の心を和ませてくれたか分かりません。 け私の心を手 1 1 ませてくれたか分かりません。 して多くの先生方の中国語の授業に出席し、教授法につい して多くの先生 ) j .の中凶間の授業に 出席し 、教授法につい 振り返ってみると、北京に留学していた期間を除いてそ 'N'芋していた W J I Jを除いてそ 振り返 ってみ る と、北 ょ , ;( にf て学びました。現在、九大で中国語の非常勤講師をするこ て学びました。現在、 J L大で J i1J;lil ~f,.の非常勤講 師をするこ の大半を私は六本松キャンパスで過ごしました。それが来 の大半を私は六本松キャンパス で過ごしました。 それが来 とができるのも、このときの経験があればこそだと思って とができるのも、このときの経験があればこそだと思って 年度からは伊都キャンパスへと通うことになります。六本 年度からは伊都キャンパスへと通うことになります。六本 います。何もわからず、柔いてばかりいる私に、さまざま います。何もわからず、世い、てばかりいる私に 、 さまざま 松を通り過ぎるとき、伊都へと向かうバスの中で私はどん J I かうパスの J i 松を通り過ぎるとき 、伊都へと I ' で私はどん な機会を与えてくださった先生方に本当に感謝しています。 な機会を与・えてくださ った先生ブJに本当に感謝しています。 な気持ちになるのでしょう。しばらくは六本松を懐かしみ な気持ちになるのでしょう 。 しばらくは六本松を懐かしみ 授業以外の時間は大学院棟にある研究室にこもりました。 J 受業以外の H 守 I I J rは大ザ:院榔にある l i J f究室にこもりました。 ながら、伊都の楽しみ方を模索してみたいと思います。 jを模京してみたいと思います。 ながら 、伊都の楽しみ ) 私にとって学校に来る楽しみのひとつでした。また、それ 夜 、にと って学校に米る楽しみのひとつでした。 また、それ μ r 早立は国籍も専攻分野も興味関心も異なる人たちが集うと 院械は |五1 ~1i も専攻分野も興味 |刻 心 も異なる人たちが集うと ころなのですが、そこは同じ目標を持つもの同士ですから、 ころなのですが、そこは いl じ1棋を持つもの 同士ですから、 一・ 盾ノ食事をしたり、話をしたり、日本語を教えたり、外 一緒に食引をしたり 、討をしたり、卜│ 本語を教えたり 、外 国語を教わったりしながら、和気あいあいと過ごしました。 を救わ ったりしながら 、キl ほ <( あいあいと過ごしました。 同 市l とくに思い出に残っているのが、真夏の夜の散歩です。作 とくに立川、 I Uに残 って いるのが、兵哀の夜のi i 交渉です。作 業に行き詰まると、月明かりの下、中国人の先輩と無駄話 業に行き 3 1まると 、)JI YJ かりの下、中 │ 玉│ 人の先那と無駄話 をしながら校庭を裸足で歯周も歩きました。ひんやりとし J えを限}Eで何問も歩きました。 ひんやりとし をしながら校 た砂が心地よく、良い息抜きになったのを思い出します。 た砂が心地よく、良い息抜きにな ったのを思い 出 します。 私はアルバイト先もこの六本松地区図書館でした。まず 私はアルバイト先もこの六本松地区図古: 館でした。 まず 資料整理のバイトとして入り、それからILLやカウンター L Lやカウンター 資料誰辿! のバイトとして入り 、それから I の業務に就くようになりました。この仕事を通して、資料 の業務に就くようになりました。 この仕事を通して 、資料 の探し方や入手方法について詳しくなれましたし、図書館 の傑し方や入手ブ j f tにつ いて 詳しくなれましたし 、図書館 の方々とも仲良くなれました。 q JJ 主くなれました。 の方々とも'f 私は六本松キャンパスの良いところは、アットホームな 夜、は六本松キャンパスの良いところは 、 アットホームな 雰囲気だと思います。ここで多くの先生や事務の方々と知 話囲気だと,思います。 ここで多くの先生や事務の方々と知 一 一 3 2一 一 一 32 一 2004年の入学式後、六本松の21世紀交流プラザにて 2 004年の入学式後、六本総の 21 世紀交流プラザにて KYUSH 刊 N肌 肌 u . 1 1 t H ) ' " I 1 000 特集:さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 白濁の湯一六本松温泉 市中 上栗 (筑波大学生命環境科学研究科) (筑波大学生命環境科学研究科) 天から舞い落ちる雪を私はほとんど見たことがなかった。 天からがい、落ちる 当 を私はほとんど見たことがなかった。 いないせいか、水中に顔を没している時間は母鳥よりも長 いないせいか、水 1 : 1 "に顔を没している H 守聞は悶鳥よりも長 それまで見た雪と言えば公園の一角で製雪機からゴーッと それまで見た雪と 言 えば公園の 一角で製雪機からゴーッと いようである。母鳥は長い月Elをかけて効率よく餌を捕る 号, 1 , 誌は長い月日をかけて効率 よく 加 をt mる いようである 。l いうけたたましい音を立てながら吹き出る雪である。雪と いうけたたましい昔を立てながら │ 吹き 出る雪である 。雪 と 技を身に付けていくに違いない。このような芸当を身に付 技を身に付 けていくに違いない。 このような芸当を身に付 いうよりカキ氷のようなものだ。私は南国宮崎生まれで、 いうよりカキ氷のようなものだ。私は南国宮 I i 府主 │ ニまれで、 け南下してきた母カモにとっては福岡の冬の寒さなどたい け南下してきた母カモにと っては福岡の冬の来さなどたい 大学時代を沖縄で過ごし、平成12年に比較社会文化学府に 大学 H奇代を j付lli で過ごし 、 平成 12 (,1~ に比較社会文化学府に したことはないだろう。O したことはないだろう 入学した。福岡では年に数回は天から雪が落ちてきて、朝 入学した。福 岡では王1 . ' :に数回は天から 雪が落ちてきて、朝 南国育ちの私は、この福岡の冬を「白濁の湯」で乗り越 南国育ちの私は、この福 岡 の冬を I I~I 濁の湯」で釆り越 起きると地面が真っ白になっている。そんな私にとって六 起きると地面が真っ │ 土 │ にな って いる 。そんな私にとって六 えた。「白濁の湯」とインターネットで検索してみると、鹿 えた 。 l á?~\lの渇 J とインターネッ ト で検索してみると、鹿 本松の思い出はと聞かれれば、「冬景色」と答える。だから 本松の思い 出はと聞かれれば、「冬景色 Jと答える 。 だから 児島県の霧島温泉、長野県の乗鞍高原温泉、福島県の高湯 児島県の霧島温泉、長野県の釆鞍高原町 l泉、桐島県の高渇 ここでは冬の六本松をほんの少しだけ書いてみようと思う。 。 ここでは冬の六本松をほんの少しだけ書いてみようと思う 温泉などがヒットするが、ここで言う「白濁の湯」は六本松 淵泉などがヒッ ト するが 、 ここで 言 う「白 ?~J の場J は 六 本松 六本松キャンパスの象徴である学生像も冬になると天女 六本松キャンパスの象徴である 学生像 も冬になると 天女 温泉と私が名付けた湯である。私は樋井川沿いの学生宿舎 市 i 泉と私が名付けた湯で、ある 。在、は他井川 沿いの学生宿舎 の羽衣を着ているように真っ白になる。この像の足元にある じにある の羽衣を着ているように真っ白になる 。この ( 象の足7 1 で大学院時代の五年間を過ごした。ここのお風呂が白濁の で大学 院時代の五 年 間 を過ごした。 ここのお J ! U l 1 弓が白濁の 小さな池にはいつの頃からか金魚が放たれてあったが、冬 小 さな 池にはいつの頃からか金魚が放たれてあ った が、冬 湯である。夕方お風呂に入るときには無色透明であるが朝 微である 。夕方お風呂に入るときには w i色透明であるが制 の寒さにもめげずに元気に泳いでいた。液体窒素でコチコ の ~lf さにもめげずに元気に泳いでいた 。 液体 窒素でコ チコ 方入ろうとしたときには白濁になっている。これは硫黄温 力・入ろうとしたときには白濁になっている 。 これは硫黄 i l ¥ . チに冷やされても暖めれば復活する金魚にしてみれば、た チに冷やされても │ 暖めれば復活する金魚にしてみれば、た 泉でもなく誰かがこっそり温泉の素を入れたわけでもない。 泉でもなく誰かがこっそり温泉の素を入れたわけでもない。 かが0度ではないかと思っているかもしれない。しかしここ かが O度ではないかと思っているかもし~'Lなし、 。 しカ、しここ 学生の汗とアカが結晶になって一晩でお風呂の湯が真っ白 学 : : 1 1 : の(J 二とアカが結品にな って ー│ 犯で、お風呂の湯が真っ 白 の金魚にも一大事が起きた。あるElから日を追って数が減 の金魚にも 一大事が起きた。ある │ 二 │ から日を追 って数が減 1をg に変化するのである。日中を部活やアルバイトで一生懸命 1 : :I S 前やアルバイ トで一生懸命 に変化するのである 。日 1 ' 少していったのである。私はてっきり子供たちによって網で 少してい った のであ る。夜、はて っきり子供たちによ って網で 過ごした学生のパワーはすごいものだな∼と思わせる光景 過ごした学生のパワーはすごいものだな と忠わせる光景 すくわれ水槽の主になったのだろうと思っていた。しかし犯 すくわれ水柑の主にな ったのだろうと思 っていた。 しかし犯 の一つであった。冬になると六本松は外だけではなく屋内 の一つであった。冬になると六本松は外だ‘けで、はなく屋内 人は別にいたのである。その犯人は雪のように真っ白い体 のように真っ白い体 人は別にいたのであ る。その犯人は 主i にも銀世界が広がるのである。こうして宿舎で毎日を過ご にも銀世界が広がるのである 。 こうして宿舎で毎日を過ご と長い2本の箸のようなクチバシを持った鷺であった。鷺は 2本の箸のようなクチパシを持った鷺であった。!得は と長い しているときには、大学院を卒業後、まさか銀世界の本場 しているときには、大学院を 卒業後、まさか J H. I H界の本場 クチバシで器用に逃げ回る金魚をくわえ、ゴクリと胃袋へ クチパシで器用に逃げ回る金 f:~I,をくわえ、ゴク リ と 胃袋 へ である北海道に行くことになるとは夢にも思わなかった。 である 北海道に行くことにな ると は夢にも 思 わなかった。 押し込めた。なんと小さな池の主は、水槽ではなく胃袋の 押 し込めた。 なんと小さな 池の主は、水槽ではなく 胃袋 の この北海道での思い出は「ただいま六本松」という特集が この北海 道で、の J E lい出は「ただいま 六本松j という特集が 主になってしまっていたのである。さよなら六本松の金魚た 主になってしまって いたのである 。 さよなら六本松の金魚、た あったときに書くことにしよう。 あったときに書 く ことにしよう 。 ち。この鷺はキャンパス近くの樋井川からやってきたと思わ ち。 この鴬はキャ ンパス 近くの樋;11 サ1からやってきたと思わ れる。夕方になると校舎の上で人通りがなくなるのをじっと れる。夕方になると校舎の上で、人通りがなくなるのをじっと ド ロコ 待っていた。鷺にとっては格好の餌場である。 1 3にと っては格好の自1場である 。 待っていた。 ・・ 秋から冬にかけて樋井川にはカモがやってくる。緑光し 秋から冬にかけて樋井川にはカモがやってくる 。緑光し 腕 鴇 一罹1 囎’ゴ ●} た首を持つ雄と茶色の羽を持つ雌が数羽。カモの夫婦はお た首を持つ1ift と茶色の羽を持つ ~t!fが数羽 。 カモの夫婦はお しどりのようにいつも互いに数十センチの間隔を保って泳 しどりのようにい つ も互いに数十センチの間隔を保 って泳 いでいる。これに春になると艀化した雛がついてくる。母 l s f 化 した蹴がついてくる 。母 いでいる 。 これに 春 になるとj 鳥は逆立ちをしてしっぽを天に向け川底をつついて餌を探 鳥は逆立ちをしてしっぽを天に向け川底をつついて朗を探 している。この様子はなかなか愛嬌があるものである。雛 している 。 この様子はなかなか愛婦があるものである 。雛 はと言えば、せわしなく水中にもぐっては川底をつついて は と 言 えば、せわしなく水中にもぐ っては 川底をつついて いる。雛はこうして全身でもぐらないと川底に達しないか mはこうして全身でもぐらないと 川底に達しないか い る 。お らこうした行動をとるのであろうが、餌を探すのに慣れて らこうした行動をとるのであろうが、餌を探すのに慣れて 同級生である加藤さんを見送る、校舎の屋上で(桑原先生撮影) 同級生である加藤さんを見送る 、校舎の屋上で(桑原先生撮影) 一 一 3 3一一 一 33 一 K 刊i~i'W IItn~\1Iw;R ○○○特集 さよなら六本松 000 特集:さよなら六本松 六本松キャンパスの思い出 子 吉 小 小俵 (欧米社会講座) (欧米社会講座) 大学入試の緊張で不安を覚えながら、初めて六本松キャ 大ザ:入試の緊張で不安を党えながら、 1 1 J めて六本松キャ の進学ということになります。 の進学 ということになります。 ンパスに足を踏み入れた時のことは、今でもよく覚えてい ンパスに起を踏み入れた時のことは 、今でもよく覚えてい 現在私は、修士課程で国際政治学を専攻し、安全保障の 現在私は、修士課税で、 │ 主│ 際政治学 を専攻し、安全保障の ます。それまでは箱崎キャンパスしか訪れたことがなかっ l i l l 奇キャンパスしか訪れたことがなか っ ます。 それまでは*i' 理論について研究しています。「人間の安全保障」を中心に、 潤!論について研究しています。「 人1 ] :の安全保町」を1 ' 心に 、 たため、まだ高校生だった私は戸惑いを覚えながら、本 たため 、 まだ日校生だ った 私 は 戸 惑 い を 党 え な が ら、本 近代の安全保障概念の変遷を追おうと努力しているところ 近代の安全保│ 埠概念の変遷を迫おうと努力しているところ 館前の大学案内図の周りを数分近くうろうろしました。箱 町 i lìíj の人:~/:案内閣の周りを数分近くうろうろしました 。 京~i です。修士課程入学に際し、大学時代から興味を持ちつつ です。修上税校入学に際し、大学 1 ; けにか ら興味を持ちつつ 崎キャンパスに比べて圧倒的に狭く驚きましたが、それで 111~f キャンパスに 比 べて圧倒的に狭く鷲きましたが、それで 触れることのなかった国際政治学に専攻を変更しました。 } . J 交を変児しました。 触れることのなか った国際政治学に,JI も高校の校舎とはまた異なる知的な雰囲気に満ちた六本松 も山校の校舎とはまた異なる J J I ' J ( I J な詳iJll 気に iï~l:j ちた六本松 二度目の六本松生活は、一度目ほど順風満帆というわけに 一 度 目 の六本松生活は、 一 度 目 ほど)llrIJ!nl 制 II~L というわけに キャンパスの風情に、「この大学で学べたらいいな。」と思 キャンパスの風情に、「この大学 : で学べたらいいな。」と思 はいきませんが、修士1年の後期に入ってやっと、少しず はいきませんが、修士 1i l : cの後 W J に人 ってや っ と、少しず いを強くしたものです。幸運なことに、あれから5年近く いを強くしたものです。幸 :illiなことに 、あれから 5年近く つやるべきことが見えてきたような、そんな小さな手ごた つやるべきことが見えてきたような、 そんな小さな手ごた が経った今なお、私は比較社会文化学府の修士課程一年生 が経 った今なお、夜、は比較相会文化学的. の修士諜程一年生 えを感じているところです。ある意味、私にとって六本松は、 えを!感じているところです。 ある ~:I~之 、 私にと っ て六本松は、 として、六本松キャンパスで学んでいます。 として 、六本松キャンパスでザ・んで、 います。 学問への好奇心の原点なのかもしれません。 学 I IiJへの好? な心の原点なのかもしれません。 2004年の春、私は念願かなって21世紀プログラムに入学 24 1 ドの春、在、は念願かな って 2 11 1 : / 紀 プログラムに入学 思い入れの強い六本松の地で修士の2年目を送ることが 1 :の 2ゴ1 ' 11 を送 ることが 思い入れの強いプ、本松の地で‘ 修サ することができました。21世紀プログラムはリベラルアー fで きました。 2 1 世1 : 示 己 プログラムはリベラルアー することカ できないことは、私にとってやや寂しい、残念なことです。 できないことは 、在、にと ってやや寂しい、残念なことです。 ∞ ツ型の教育課程で、九州大学のほとんどの学部の授業を自 ツl C lの救 T 71 県松で 、九州大学 のほとんどの年:音 1 5 の授業を自 大学1年生の時に講義の一環で、同期の友人数人と九大の 大学 l 年 ~I: の 11寺に講義の 一 関 で 、 l , iJ JUJ のふ;人数人と九大の 分の関心のままに履修することができます。入学するなり、 分の │ 刻心のままに服修することができます。入学 するなり、 移転に関する劇を制作したことがあります。私に与えられ 移 i l 廷に │ 弘j する威J Iを制作 したことがあります。官、に与えられ 私は文学や心理学、文化人類学などの科目を幅広く履修し }I!学、文 化 人類学などの科 1を1 1 1 日広く)霞修し 私は文学: や心 J た役柄は、伊都キャンパスさんでした。六本松さんや箱崎 ¥ キャンパスさんでした。六本松さんや計i , h 奇 た役柄は 、伊者 1 ました。たいていの学生は六本松で開講されるコア科目や ました 。 たいていの学生は六本松で 1~IJ 講されるコア利 H や さんと仲良くやってきた九大君を遠く離れた所へ連れ去る、 さんと 仲良くや ってきた九大君を泣く1!J W れた所へ連れ去 る、 個別教養科目などの一般教養の授業を敬遠する傾向にあり 制別教養科 1などの一般教義の授業を敬述する傾向にあり あまり印象の良くない役柄でした。当1時はまさか、数年後 " in . ¥ " : はま さか、数年後 あまり印象の良くない役柄で、した 。- ますが、私は好きでした。4年生の際、私は「精神医療・ f .6、は好きでした。 4年生の│祭、私は「桁干1 1 1 医療 ますが、 1 にはその伊都へ自分自身が通うことになろうとは、想像も 1 " 1 分自身が通うことになろうとは、:t.I , ( . 象 も にはその伊都へ i J 福祉支援の在り方」に関する研究を卒業論文テーマとして 1 J I: 文援の在りプ に閲する研究を不業論文テ ーマとして 柄 していませんでした。 していませんでした。 選択しましたが、それは一年号の前期に履修した「医療と 選択しましたが、それは一年 生のi'Ji j J U J に!記修した 「医療と 六本松キャンパスは長い歴史に支えられた、独特の荘厳 六本松キャンパスは長い歴史に支 えら れた、独特の荘厳 社会」という個別教養科目に関心を抱いたことによります。 社会 J という↑|占| 別教養手I- I~I に関心を抱いたことによります 。 な停まいを感じさせる趣を持っています。高校生の頃の私 J i校生の頃の在、 な件まいを!惑じさせる趣を持 っていま す。 J 何の粋なしに履修してみた授業が、これから勉強してみた 何の気なしに隠修してみた J 受設 が、これから勉強してみた が魅かれたその趣こそ、大学の凸’味t一のような気がします。 が魅かれたその趣こそ 、大学の'"味"のような 気がします。 い学問へと拡がっていく感覚を、純粋に楽しむことのでき い '判I¥J へと 1 1 : が っていく感党を、純粋に楽しむことのでき 六本松キャンパスがなくなってしまうことは寂しい限りです 六本松キャンパスがなくな ってしまうことは恥しい限りです た時期でした。勉強以外にもアルバイトやイベント企画な H 制 。l でした。勉強以外にもアルバイ トやイベン 卜企画な た が、伊都キャンパスがこれからどんな趣をもつキャンパス が 、イ]時 1 ¥ キャンパスがこれからとー んな J也をもっキャンパス どで活発に動き回り、今振り返ってみても、六本松キャン と ご で出発に動き │ 百│り、今振り返 ってみても、六本松キャン へ成長していくのか、楽しみにしつつ研究に励む毎日です。 へ成長していくのか、楽しみにしつつ研究に励む何: 日です。 パス時代は充実した、楽しいものとして思い起こされます。 パス"寺代は充実した 、楽しいものとして思い起こされます。 卒業間際に進路で悩んだ時、最終的に平文への進学を決意 1 1 ] 11 燃に進路で悩んだ時、最終的に比文への進学 を決意 卒業 したのは、このことが一番大きかったように思います。 したのは 、このことが一番大きか ったように j t l います。 大学3年生になり、箱崎キャンパスに移ってからの大学 大 学 3jl~生になり 、 箱 崎 11崎 h~ld崎 t奇f キヤンパスに移 つ てカか、らの大持 生活は、逆に苦悩の連続でした。幅広く学び、様々な学問 主 生 1 : 三 : 的は、逆に苦悩の連続でした。幅広く学び、i 様々な学問 に手を出した結果、研究においても将来の進路においても、 に手を 出 した結来、研究においても将来の進路においても、 本当は何がやってみたいのか、自分でも把握できなくなっ 本当は何がや ってみたいのか 、 自分でも 把揮できなくな っ てしまったのです。もう少し大学に残って自分の適性を見 てしま ったのです。 もう少し大学 に残 って向分の適性を F 極めたいという思いと、早く社会に出て働きたいという思 板めたいという思いと、 l j !く社会に I ' Uて働きたいという思 いがせめぎ合い、あれこれと逡巡する毎日でした。悩みあ いがせめぎ令い、あれこれと遼巡する毎 日でした。悩みあ ぐねた末の結論が、六本松へ“戻ること”、つまり比文へ ぐねた末の結論が、六本松へ "民・ること 、つまり比文へ H 一一 34一一 一 34 一 2004年の入学式後、六本松の21世紀交流プラザにて 2 004年の入学式後、六本松の 21世紀交流プラザにて (二段目右から4番目が筆者) (二段目右から 4番目が 者) m KMl i 1 I l I . m 肌 E 仁R O S S O V E .. 000 特集 さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 ありがとう、六本松! 挑 艶 玲 (東海大学) (東海大学) 初めて九大六本松地区を訪れたのは10年前の秋だった。 0年前の秋だ った。 初めて九大六本松地 区を訪れたのは 1 かな空間と時間を作ってくれていた。本と緑に囲まれたこ 1 M ]と時間を作ってくれていた。本と緑に閉まれたこ かな空 博多駅前で六本松経由のバスに乗って、「六本松四丁目を通 I~j(多駅前で六本松経由のパスに来 っ て、「 六 本松凹丁目を通 の場所で、研究に専念することができた。手で触れたあの の場所で、 研究に専念することができた。手で触れたあの りますか。」と聞いたら、「六本松四丁目はない。六本松で りますか。 j と' 1 1 J ' 1いたら、「六本松四丁目はない。六本松で 本だちは仲間として自分の研究の歩みを応援してくれてい 本たちはイ中 間として自分の研究の歩みを応援してくれてい 降りてください。」と言われた。降りたら、校舎前が工事現 │ 降りてください。」と 言われた。│ 係りたら、校舎前が工事現 たと思う。。 たと思う 場となっていて、地下鉄七隈線建設の最中だった。 場とな っ ていて、地下鉄七 I~誠建設の最 I:IJ だった 。 六本松キャンパスにはさらに私にとっていつまでも忘れ 六本松キャンパスにはさらに私にと ってい つ までも忘れ 想像したのと程遠い、すこし古い本館に入って、止ま 想像したのと程遠い、すこし古い本館に入 って、止ま られない人がいる。恩師の板橋義三先生(板橋先生は現在 J H E られない人がいる 。恩師の板橋義三先生(板橋先生は J る階だけランプのつく今では珍しいほどのエレベーターに る階だけラン プのつく 今では珍しいほどのエレベーターに 大橋キャンパスのご勤務である)と松村瑞子先生である。 大橋キャンパスのご勤務である ) と松村瑞子先生で、ある 。 乗った。そこから私の日本での留学生活が始まった。そし T l i t 学生活が始ま った。そし 来った。そこから私の日本での 先生方には研究から生活の面まで大変お世話になった。ゼ 先生方には研究から生活の面まで大変お世話にな った。ゼ て7年間という自分でも思わなかったほど長い月日をこの 7年間という 自分でも思わなか ったほと長い月日をこの て ミの発表やコメントのやり方さえ知らなかった私を研究者 1 [らなかった私を研究者 ミの発表やコメントのやり方さえま 六本松で送った。 六オ 斗公で、送 った。 の道へと導いてくださったのである。修士論文から博士論 の道へと導いてくださ ったのである 。修士論文から │ 専士論 この春、伊都キャンパスへの移転に伴って、六本松地区 ¥ キャンパスへの移転に伴 って 、 六本松地 区 . この春、伊者1 文までのご指導は言うまでもなく、研究と育児の両立が大 文までのご指導は言 うまでもなく、 間究と育児の阿立が大 は消え去る。しかし私にとっては六本松への思いがいつに は消え 去‘ る 。 しかし私にとっては六本松への思いがいつに 変なときに、掛けてくださった暖かいお言葉はどれほど励 i ll 、けてくださった │ 暖かいお 言葉はどれほど励 変なときに 、4 なっても心の中に残っている。 な っても心、の中にタ支 っている 。 ましになったことか、今もその温もりが心に沁みている。 ましにな ったことか、 今 もその温もりが心に必みてい る。 六本松キャンパスには私がいくら眺めても飽きない風景 六本松キャンパスには私がいくら眺めても飽きない風景 私が今日少しでも喜んでいただけるような成果をあげるこ 私が今日少しでも喜んでいただけるような成果をあげるこ がある。本館の裏庭にある、あの根っこを地面に張り巡ら がある 。本館の裏庭にある、あの恨っこを地面に張り巡ら とができたのは先生方のおかげである。先生方が私の大空 とができたのは先生方のおかげである 。先生方が私の大空 した古い桜の木である。満開の頃は、四方八方へ伸びた枝 o i t l J : 開の頃は、四方八方へ伸びた枚 した古い桜の木である へ羽ばたく翼に力を付けてくださったのである。 へ羽ばたく翼に力を付けてくださ ったのである 。 にピンクの花びらが静かに一斉に綻び、散る頃は、ひらひ にピンクの花びらが静かに一斉に綻び、散る頃は、ひらひ いよいよ六本松に「さようなら」と言わねばならない時が 告が いよいよ六本松に 「さようなら Jと言わねばならない H らと舞い降りてくる花びらで辺り一面が花の絨毯に覆われ らと舞い │ 燦りてくる花び らで辺り 一面が花の械監に覆われ 来る。私はこの、大切な人と場所と物と、大切な留学生活 来る 。私はこの、大 切な人と場所と物と、大切な留学生活 る。裏庭を通る度に、必ずこの木の下に立ち止まって、そ る。裏庭を通る肢に 、必ずこの木の下 に立 ち止ま って、そ を過ごしたところに、大きな「ありがとう1」を言いたい。 Jを言いたい。 を過ごしたところに、大きな「ありがとう! の葉っぱを見上げ、その息吹を感じた。息抜きと安らぎを の葉 つばを見上げ、その息吹を!惑じた。息抜きと安らぎを 六本松の形は消え去るが、その息づかいと温もりはいつま 六 本松の JI~ はがi え去るが、その息づかいと温もりはいつま 覚える一時だった。そして、満開の花を咲かせたこの桜の -I f 守 だ 、 った。そして、出j聞の花を咲かせたこの桜の 覚える でも心に残る。感謝と期待を胸いっぱいにしつつ、明日へ でも 心 に残る 。感謝と則待を胸いっぱいにしつつ、明日へ 木の下で修士課程の修了式を迎えたのだった。証書を持っ 木の下で修士謀程の修了式を 迎 えたのだ った。証書 を持 っ 向かって、さあ行こう1 j かつて、さあ行こう │ │ 行 て胸を張って一緒に花を記念写真に収めたそのll寺、桜の木 寺、桜の木 て胸を張 って一緒に花を記念写真 に収めたその H 鱒 は私たちの成長と新たな旅立ちを見守っていると思った。 は私たちの成長 と新たな旅立ちを見守っていると思った。 .、・・ 六本松キャンパスにはまた私にとっていくら時間が経っ 六本松キャンパスにはまた私にとっていくら 1寺問が経 つ Z謎鍮’ てもそこに居たいと思える場所がある。まわりの建物の色 でもそこに居たいと思える場所がある 。 まわりの建物の色 とはひと味違う茶色の図書館である。ここで初めてパソコ とはひと │ 味違う茶色の図書館である O ここで初めてパソコ ンを使った蔵書の検索方法を知り、初めて書庫の調べ方を ンを使 った成書:の検索方法を知り、初めて書庫の W Mべ方を 却∼Lレ泳 がらゆっくりと巡り歩いたときは、こんなにたくさんの本 がらゆ っ くりと巡り歩いたときは、こんなにたくさんの本 堅臼プ 覚えた。ずらりと並んだ書庫の本棚の間を、文献を探しな 覚えた。す、らりと並んだ書庫の本棚の │ 聞を、文献を探 しな と間近で触れ合えるとは、なんと幸せなことだろうと思っ と間近で触れ合えるとは、なんと 幸せなことだろう と思 っ た。1階の院生部屋と2階の閲覧室へはよく行っていた。 l階の院生音1 ¥ 屋と 2階の閲覧室へはよく行 っていた。 た。 どの窓からも木々の緑が見え、大通りに面していながら静 どの窓からも木々の緑が見え 、大通りに而していながら静 一 一 3 5一一 一 35 一 東海大学で 東海大学で ヤ − ■﹁ .﹂﹁ へ舶 , KYUSHUUNIV.I CROSSOVER 一■I J :i :ra 恥罧:一!一・ ○○○特集 さよなら六本松 0 0 0特集:さよなら六本松 六本松キャンパスの思い出、比文の思い出 藤田 理子 (太宰府市市史資料室) ( 太宰府市市史資料室) 「藤田さん、構造主義って、何?」 「藤田さん、構造主義って 、何 7J ていなかったが、院生が企画した研究会や、日常的に研究 町内に研究 ていなかったが、│ 淀 生が:II':阿した 研究会や 、 1 11 私が修士課程2年のころ、比文の院生たちがたむろする 私が修士課程 2年のころ、比文の│民生たちがたむろする 室で繰り広げられていた議論は大きな魅力で、傍らで眺め 室で繰り広げられていた議論は大きな魅力で、傍 らで│眺め 場所の一つであった、通称“修士部屋”に入るなり投げ 場所の 一つであった 、通称“修士部屋 " に入るなり投げ るだけにとどまることもままあったが、刺激の多い日々を過 るだけにとどまることもままあ った が、~i11 激の多い FI 々を過 かけられた、某先輩(1期生)による質問である。私の研 c l期生)による質問である 。私の問 かけられた、某先輩 ごした。そして議論の多くは、途中からお酒が入った。も ごした。そして議論の多くは、 j 金' l ' からお桝が入 った。 も 究分野は日本近現代史、当時はゼミでも国民国家論が盛り 先分町'は日本近現代史、当時はゼミでも │ 剖民 │ 芸│ 家論が雌り ちろん、お酒の場で議論がはじまることもしばしば。何度か、 ちろん 、 お泊の場で議論がはじまることもしばしば。何度か、 上がっていた時期。「解らないわけないよね」という、先輩 l 時期。「解らないわけないよね」という、先輩 上がっていた お店がどこも閉まるまで議論し(飲んで)、それでも足りず l i Eがどこも閉まるまで議論し ( 飲んで)、それでも足りず お のありがたい鞭である。答えられずへどもどしていると、 のありがたい鞭である 。 答えられずへどもどしていると、 にキャンパス内に座り込んで議論した(飲んだ、いや歌って にキャンパス内に座り込んで、 議論 した(飲んだ、いや歌って 「じゃ、君は?」うっかり居合わせた後輩に矛先が向く。そ Jうっかり居合わせた後輩に矛先が向く 。そ 「じゃ、君は? いたかもしれない)。いつぞやは、住居が遠いので帰れなく J J ‘が速いので帰れなく 百 いたかもしれない) 。いつぞやは、 1 こに通りかかった日本語教育畑の先輩が、変わりに鮮やか n の先輩が、変わりに鮮やか こに通りかかった日本語教育対 なった先輩方を、寒いからどうぞと言って、開いていたサー なった先輩方を、来いからどうぞと 言っ て、1Jf.Jいていたサー に説明し、唖然とする私たちを後に軽やかに去っていった。 に説明し、 │ 脱然とする私たちを後に軽やかに去っていった。 クル棟の窓から突っ込んで帰ったこともあったか…。 ク J レ棟の窓から突 っ込んで何}ったこともあ ったか ・ .. 。 六本松キャンパスがついに移転。そんな節目に、六本松 六本松キャンパスがついに移転。そんな節目に、六本松 最後に、美しい思い出を。有馬学先生が研究科長の時代 毎年:先生が研究科長の H 寺代 最後に 、美 しい思い出を 。有l の思い出を語る機会を与えていただいたことに感謝します。 の思い出を語る機会を与えていただいたことに感謝します。 に、大学院掛(当時)の方々が手配された剛材とドラム缶コ 1 ; :コ に、大学院掛(当時)の方々が手配された食材とドラム千 1992年教養学部に入学、翌年箱崎の文学部に進学し、97年 1 9 9 2年教養学部に入学、翌年箱 奇の文学部に進学し 、9 7年 ンロで、比文バーベキューパーティが開かれたことがあっ ンロで、比文バーベキューパーティが聞かれたことがあっ 1 1 中比文4期生として六本松キャンパスに舞い戻ってからは 4期生として六本松キャンパスに舞い戻ってからは に比文 た。六本松キャンパスの一角で、確か2回ほど開催された jで、保 か 2 1 百│ ほ ど 1 J f . 1 1 Hiされた た。六本松キャンパスの一戸 11年間、六本松に居座った。この年月の重みについては、 1 1年間 、六本松に居座った。 この年月の重みについては、 と記憶しているが、普段はほとんど交流のなかった理系の と記憶しているが、普段はほとんど交流のなかった盟系の 先生はもちろんのこと、お世話になった大学職員の方々や 隊員の方々や 先生はもちろんのこと 、お世話になった大学 l 人たちも加わって、大いに盛り上がった。院生は存分に楽 ) 1 1わって、大いに盛り上が った。│ 能生は存分に楽 人たちも 諸先輩方、そして両親に対してはただただ陵海の思いです。 諸先輩方、そして両親に対してはただただ倣怖の思いです。 しんだのだが、後で聞いた話では、大学院掛の方々は、天 しんだのだが、 後で 111-1 いた請では 、 大学院 ~ilil・の方々は 、 天 が、どうかこの場だけお許しいただいて、私の思い出の中 が、どうかこの場だけお許しいただいて 、私の思い 出の中 候と冷蔵庫のお肉の期限とを睨んで開催日の設定に大変苦 候と冷蔵庫のお肉の J Y1 限とを l 阻んで開催日の設定に大変背 の六本松、そして比文をふり返らせていただこう。。 の六本松、そして比文をふり返らせていただこう 慮されたということである。六本松キャンパスの傍らで、 i 語、されたということである 。六本松キャンパスの傍らで、 六本松での長い生活でとりわけ印象強いのは、箱崎から ノ、本松で、の長い生活で、とりわけ印象強 u、のは、箱 11奇から 竹を切って作ったとっくりとおちよこでいただいた、U氏 竹を切 って作 ったとっくりとおちょこでいただいた 、 U氏 戻ったばかりの時期、修士課程のころである。今思うと、 戻ったばかりの │ 時期、修士諜粧のころである 。今思うと 、 差し入れの新潟の銘酒・越乃寒梅の味が忘れられない。また、 床が忘れられない。また、 返 し入れの新潟の銘酒・越乃架線の l 当時のプレッシャーはとりあえず修士論文の執筆のみ、そ 当時のプレッシャーはとりあえず修士論文の執筆のみ、そ その酒瓶をうれしそうに握り締めていたN氏(現在E氏)の j 酎阪をうれしそうに撮り締めていた N氏 ( 現在 E氏)の その して’一越境”を掲げた比文の空気は新鮮だった。ゼミ構成 ( f ; f .だ、った。ゼミ構成 し て 越境"を掲げた比文の空気は新' 笑顔が忘れられない。後は、先生も院生もそのまま修士部 笑顔が忘れられない。後は 、先生も │ 民生もそのまま修士郎 員も研究分野が違うだけでなく、国籍や年齢も様々、よっ 員も研究分野が違うだけでなく、国籍や年齢も様々 、よ っ 屋になだれ込んで2次会がはじまったように覚えている。 2次会がはじまったように覚えている 。 毘になだれ込んで、 て通ってきた道も様々な人たちであふれており、大いに新 て通ってきた道も様々な人たちであふれでおり 、大いに新 なにやらお酒の話になってしまったが、足掛け13年間を ll 、 け 13年 1 1 : 1を なにやらお淵の話にな ってしま ったが、 J ; L1i しい刺激をあたえられた。確か修士1年の後半だったが、 l年の後半だったが、 しい刺激をあたえられた。確か修士 過ごした六本松キャンパスの思い出はつきない。中でも、 はっきない。 I.IJでも 、 過ごした六本松キ ャンパスの 思いけ i 修士課程研究室一修士部屋があらたに設けられ、そこで 修士課程研究室一一修士部屋があらたに設けられ、そこで 狭い部屋ではあったが様々な人たちが出入りし、時には異 1 ' 1 : ¥ 入りし 、l 時には典 狭い部屋ではあったが機々な人たちが 今では懐かしい思い出となった冒頭の一コマも展開された 今では懐かしい思い出となった冒頭のーコマも展開された 種格闘技戦が繰り広げられ、ゼミ以上に盛り上がることも i 院が繰り広げられ、ゼミ以上に雌り上がることも 麗絡闘技 わけである。当時は背中で拳を握ることもあったが、修論 わ けで、ある 。 当時は背中で拳を握ることもあったが、修論 あった研究室での濃密な時間は忘れられない。これから新 U、 。 これから新 あった研究室での濃密な時間は忘れられな M 生に対する、先輩からの比文ならではの愛の殴打であった 生に対する 、先輩からの比文ならではの愛の殴打であった しいひらけたキャンパスで、もしかしたら六本松キャンパ しいひらけたキャンパスで 、 もしかしたら六本松キャンパ と思う。。 と思う スの修士部屋のような空間が作られることは難しいのかも o iHしいのかも スの修士部屋のような空間が作られることは とにかく、当時はよく議論し、よく飲んだ。(今でもよく とにかく、 当時はよく議論し、よく飲んだ‘。 (今で もよく しれない。(ましてや夜中、キャンパスで車座になって飲む しれない。 (ましてや夜 中、キャンパスで車座になって飲む 飲んでいますよ、と言われそうだが)正確には、よく議論の 飲んでいますよ、と 言われそうだが)正確には、よく議論の などとは不可能なご時世と思われるが)どうか、比文の院 H 寺│ 止と思われるが)どうか、比文の│抗 などとは不可能なご 場に参加し、よく飲み会に参加した、と言うべきか。他分 坊に参加 し、 よく飲み会に参加 した、と 言 うべきか。他分 生の皆さんが六本松時代以上に充実した時を過ごされるこ 時を過ごされるこ 生の皆さんが六本松│ 時代以上に充実した l 野の院生と対等に議論を交わす力量などとても持ち合わせ 野の院生と対 等 に議論を交わす力量などとても持ち合わせ とを願ってやみません。 とを願 ってやみ ません。 一 一 3 6一 一 一 36 一 i/i.,一’r,i・i’ 黶f P T一 t(e e K~lIlial.lm肌 E 仁RO岱OVER i.,一’1.r 1一 特集 さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 000 九大六本松キャンパスで学んだ事とアフリカ・ケニアでの活動を振り返って 九 大六本松キャンパスで学んだ事とアフリカーケニアで、 の活動を振り返って 近藤(辻) 祥 子 (京都大学生態学研究センター) ( 京都大学生態学研究センター) この度、九大六本松キャンパスが移転するにあたって、 この度、九大 六 本 松 キ ャ ン パ ス が 移 転 す る に あ た っ て 、 た。これらの樹種の乾燥耐性を理解するために、樹木の生 l f 9 I ! oするために 、樹 木 の 生 た。 これらの樹種の乾燥耐性を型l 六本松キャンパスで過ごした日々を改めて思い出す機会と 六本松キャンパスで過ごした日々を 改 め て 思 い 出 す 機会と 長(樹高と胸高直径)と枯れ下がりの頻度と程度、枝の道管 J 旬高直径)と枯れ下がりの頻度と程度、校の道官: 長(樹高と ) なった。私は、修士課程の2001(H13)年4月から2003(H なった。彩 、は 、修士課程の 2 ∞ 1( H1 3 )年 4月か ら2 ∞ 3( H 径と枝の通水性の測定をおこなった。半乾燥熱帯では、乾 筏 と 校 の 通 水 性 の 測 定 を お こ な っ た。半 乾 燥 熱 帯 で は 、乾 15)年3月までの2年間を九州大学比較社会文化学府(元文) 1 5 )年 3月までの 2年間を九州大 学比 較 社会 文化学Jf r ( 比 文) 期にしばしば樹木の最上部から下方向への枯れである「枯 期 に し ば し ば 樹 木 の 最上部から下ブi l i ' i J への枯れで、ある「枯 の学生として過ごした。主なキャンパスライフは箱崎キャ 1 奇キャ の学生として過ごした。主 なキャンパスライフは箱1 れ下がり」が見られる。結果は、枯れ下がりが見られる種 Jが見られる 。結 果 は 、 枯 れ 下 が り が 見 られる醜 れ下がり ンパスの熱帯農学研究センターで机をかまえていたが、六 ンパスの熱情農学 : i l ) f究センターで机をかまえていたが、六 伽ヨε伽θヨ)と、全く見られない種(ル色幽volkensti’)が ( Se n J 7 asiam四 ) と 、 全く見られない粧 ωl/e!I~7 v o / k e n s l i ) "が 本松キャンパスには比文の多くの先生がおられ、ゼミや事 本松キャンパスには比文の 多 く の 先 生 が お ら れ、七ゼ‘ミや司事; あり、樹高生長と通水性、道管径の大きさの問には正の あり、樹高 ~I:. 長と通水性 、道官符の大 きさの IIJJ には jI の 務局での手続き等で六本松キャンパスに通う事は多かった。 務局での手統き等で 相関があり、枯れ下がり抵抗性との間には負の相関があっ キ 1 ' 11 均カ fあり、枯れ下がり J 氏 打L 性との聞には1:' 1 のキ11 刻カ fあ っ 特に、比文の受験、入学式、卒業式は六本松キャンパスに 料に 、比文の受験、入学式、卒業式は六本松キャンパスに た、つまり、樹木の生長と乾燥耐性のトレードオフ関係が た、つまり 、 樹 木 の 生 長 と 乾 燥 耐 性 の ト レ ー ドオ フ│ 品 l 係が て行われ、修士号取得に関する大きな節目の場所となって て行われ、 修士号 JI~特に|刻する大きな節 '=1 の j詰 ï9i"となって 示された。また、湿潤条件下での早い生長は乾燥耐性を低 示された 。 また 、 混 ìl~J 条例下で、の 1,"- い ~I三 長は i:!l: J品i< ïflj;]七1:. を低 いた。また、多くの比文の学生達と研究室の飲み会等に参 いた。 また 、多くの比文の学生述と l i JI 究室の飲み会等に参 くすることが示されたが、「乾期の落葉性」によって高い くすることが示されたが、「乾 J U J の 落 葉 tU によ って 高 い 加しディスカッションを深めた場所でもある。比文には、 加 し デ イスカッションを訪日めた場所でもある 。 J ; ヒ 文には、 生長率にも関わらず枯れ下がりを全く起こさない種(〃四国 生長ギにも I~ わらず枯れ下がりを全く起こ さな し、村 む'll/eù注 文系から理系までを網羅したあらゆる専門分野の研究室が .I.~ 系から llM 系までを綱縦したあらゆる車川分町・ の研究室が vol/cei7sth’)があり、乾期の落葉によって葉部分の水消費を抑 v o / k e n s I i ) があり、乾!UJの落葉によ って業部分の水 r i ' i y J (をが 1 混在している。そのため、ゼミ発表会等で紹介される各研 混在している 。 そのため 、 ゼ ミ発表会等で紹介される各 l i ) f えることで、枯れ下がりをあらかじめ回避していると考察 えることで 、村 1れ下がりをあ らかじめ 回避 していると考察 究室の特徴は、日本国内にとどまらず世界中に広がる調査 究室 の特徴は 、 日本 1 ] <1内にとどまらずー │ぜ界'-1-'に広が る調 3 1 し、アフリカ・ケニアの研究成果として修士論文、投稿論 し、アフ リカ・ ケニアの 研究成*と して修 論 文、 投 杭論 地をはじめ、研究対象物、テーマ等、実に多様で興味深い 地をはじめ 、研究対 象物 、テーマ等、尖に多様で、興味深い 文としてまとめた。 文としてまとめた。 研究科であった。私の所属は自然科学系生物学専攻で、熱 研究科 であった。荘、の所属は t l 然科学:系生物学専攻で、熱 私にとってアフリカ・ケニアでの活動は、研究の而で世 で世 在、にと ってアフ リカ ・ケニ アでの活動は 、 研 究のHli 帯樹木に関する研究について、アフリカ・ケニアを調査地 ; m :倒木に│刻する研究について、アフリカ .ケニアを制翌斉f 日 i 地 也 界的視野を広める良い経験できた事はもちろん、それに加 界i'l0 祝町・を ].L~ める良い経験できた ミjJはも ちろん 、 それに 加 として専門分野林学の矢幡久教授のもとで修士論文をまと として l 専 L ! 与 l ! μ 川 引 川 l 引 ド!l えて精神面でも大きな影響をうけた。日本の研究室で実験 えて梢ヰ 1 1直l でも大きな i 話料をうけた。 │ 二 l 本 のl i ) f先 住で、笑験 めた。今回、ここでは当時の調査を通してのアフリカ・ケ めた。今 川 1 川 H 1 リ l 1 、, ここでは当│附時時時.の制査を i 通且してのアフリカ .ケ していると忘れがちだが、現地では屋内の実験室でも断水 │j の笑験室でも │析水 していると忘れがちだが、現地で は 屋人 s r : ニアでの活動の様子を振り返ってご紹介したい。 ニ アて、の i 市 I 丹 月 叩 動》の主様 L 干 子 . をJ 辰り 返 j丞つてご紹介した い。 や停電が多い環境のため、水(水道水や蒸留水等)をはじめ やや;~:', G:が多い環境の ため、 J 水 y ' ((水辺水や燕f 仰 1 l 討 1 1 / 水 k等)を はじめ アフリカ・ケニアでは2001年、2002年両年の7月、8月 アフ リ カ - ケニアでは 2∞l1I~ , 2 ∞ 2年同年の 7月、 Sr J とする実験の必需品から電気等まで常に節約し、実験装置 とする実験の必需 J而~' 11)、 ら屯気等まででで.刊,7常 J の2ヶ月間(乾期)を現地で過ごし、樹木のサンプル採集を の 2ヶrJI I J( 乾JljJ)を現地で過ごし 、樹木のサンプル採集を 等にも工夫をこらすことを覚えた。この経験は、その後の 等 に も 工 夫 を こ ら す こ と を 党 え た。 この経験は、その後の はじめ、以下に説明するような熱帯樹木の乾燥ストレスに はじめ、以ドに ~}l. llj J するような熱佑;樹木の乾燥ス トレ スに 国内外の研究の際、物理的な環境の制約を受けやすい野外 国 内 外の研究の|際、物 ~ll\ 的な:;Jf~:境の flilJ;ý(.J を 受 けやすい出T外 対する適応戦略の多様性に関する研究をおこなった。植物 j i 史11各の多様性に l 見 l する 研究をおこな った。植 物 対する適応 調査等でも根気強く調査を続ける糧となった。また、造林 調 査等 でも根気強く調査を続ける組とな った。 また、造林 は、生存に不可欠な水の確保のため多様な戦略を持つこと は 、 生存に不可欠な水の lí'(li1公のため多 t'{~ な !j知的を持つこと 試験地で働く多くのワーカーさん達との交流を通して、ア jく多くのワーカーさん達との交流を通して、ア 試験地で仰 が知られている。私は、これら樹木の水環境への適応形質 がま11 られている 。 私は、これら樹木の水環境への適応 JI~ 質 フリカ文化に触れることも出来た。造林試験地以外の場所 フリカ文化 に触れることも出来た。;造林試験地以 外の場所 の中でも、樹木の水環境に対する戦略と密接に関わりがあ の '11でも 、倒木:の水環境に対する ij 災111告と密接に │ 刻わりがあ で樹木の視察や調査等をしていると現地の村のこども達が で 樹木の視察や調査等をしていると現地の村のこども迷が ると予想される水輸送器官である、葉や道管の形態や生理 ると予知される水輸送部官である 、業や道官:の形態や生迎 たくさん集まってくることもしばしばあった。こども達の た く さ ん 集 ま っ て く る こ と も し ば し ば あ った。 こども迷の 的特徴に着目して研究をすすめてきた。乾期の乾燥ストレ ' I ( I J 特徴に活 n してliJf先をすすめてきた。乾期の乾燥ス トレ 好奇心旺盛な大きな瞳と屈託の無い笑顔は非常に印象深い。 好そ奇 心、旺盛な大きな l瞳と屈託の~!\~い笑顔は非常に 印象深い 。 スが極めて大きいアフリカ・ケニアにおいて、樹木の葉や スが極めて大きいアフリカ-ケニアにおいて、樹木の葉や これら、私の人生観を大きく変える貴重な研究の機会を与 これら 、私の人生観を大きく変える貴重な研 究 の 機会を与 道管の形態的・機能的特徴の種問比較をおこなうことで、 r l 句 ・ 機能1' 1 0 特徴の毛r l . fm比較をおこなうことで、 道也:の形態 えてくれた九州大学と諸先生、先鴛方に心から感謝している。 えてくれた九州大学と部先生、 先抜方に心 から感謝している 。 ケニア半乾燥熱帯における乾燥耐性について議論し、乾燥 ケニア半乾燥熱帯における乾燥耐 性について議 論 し 、乾 燥 六本松キャンパスで学んだ研究に対する初心を思い返し、六 ! 4 1い返し、六 六本松キャンパスで学んだ研究に対する初心を 熱帯におけるアグロフォレストリーに重要な有用樹種の選 熱情におけるアグロフォレス トリ ーに重要な有用樹種の選 本松キャンパスのゼミで得た知識や研究仲間と深めた議論を 1 識 や研 究イ I ¥q l j iと深めた議論を 本松キャンパスのゼミで得たま1 : 定に有益な基礎研究データを提供出来た。 定に有採な恭礎fIJl 先データを 11f1~~ 山 来た 。 今後の研究や私生活でも役立てていきたい。六本松キャンパ 今後の研究や私生活でも役立てていきたい。六本松キャンパ 具体的には、調査地アフリカ・ケニア・キッイ造林試験 具体的には 、制 f t地アフ リカ ・ケニア・キツイ造林試験 スがなくなることは名残惜しい思いでいっぱいだが、同時に スがなくなることは名残惜しい思いでい っぱいだが、同 時に 地において、ケニア造林樹種の5種について研究をおこなっ j 也において 、ケニア i 主林樹舵の 5磁について研 究 をおこなっ 九大新キャンパスのさらなる飛躍に大いに期待している。 V J侍してい る。 九大新キャンパスのさ らなる飛躍に大いに J 一一 37一一 一 37 一 │ K Y U S H UUNIV.I 仁R O S S O V E R ○○○特集:さよなら六本松 0 0 0特集:さよなら六本松 、 、. 、 燭. ら ・「 o 爆, 駆 .・蝋‘『》 簸瓢編諏・欝蒐蝋槻夢 造林試験地におけるショベルカーを使った調査木(Sθnn∂Siemθ∂) 造林試験 l 也におけるショベルカーを使った調査木 ( S e n n aS i a m θ' a ) の根系調査の様子(著者:写真右と現地ワーカーさん達) の線系調査の依子(若者 :写真右と現地ワー力ーさん違) 試験地近隣の村における生育木(バオバブの木:乾燥に非常に強い巨 試験地近隣の村における生育木(J c : ; 1 パブの木乾嫁に非常に強い巨 木)の根系調査(根が非常に深く広範囲に分布)の様子(林野庁KEFRl E子(林野庁 1 くE F R I 木)の根系調査(根が非常に深く広ぬ図に分布)のも プロジェクトリーダー:写真右と現地ワーカーさん達) プロジェクトリーダー 写真右と現地ワーカーさん迂) 一一 3 8一 一 一 38 一 . , m脳 [ t l ! s u . K f i . t ihliij~i 000 特集:さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 六本松からはじまった 寺園 直子 (文化動態講座) (文化動態講座) 水色のシャツにグレーのスーツを着て出席した、あの緊 木色のシャツにグレーのスーツを若て 出席し た、あの緊 い」と思ったのが始まりだ。だが、その頃友人の家族はス い Jと思 ったのが始まりだ。 だが、その頃友人の家族はス 張の入学式からもうすぐ10年が過ぎようとしている。修士 張の入学式からもうすぐ 1 0年が過ぎようとしている 。修士 ペインに住んでいたから、スペインでしか習えないと思っ ペインに住んで、いたから 、スペインでしか押えないと思 っ 課程に入ったものの、初めは大学院って何をするのかも分 佐って何をするのかも分 課桂に入 ったものの、初jめは大学・│ ていた。欧米ならどこでも手製本を習えること、日本にも ていた。 l 孜米ならどこでも手製本を習えること、日本にも かっていなかった。六本松の大学院には、修士論文を書き かっていなか った。六本松の大学院には 、修士 論文-を書き 製本家がいることなどを知ったのは、ずいぶんと後のこと 製本家がいることなどを女]] ったのは 、ずいぶんと後のこと 終えるまでの3年間在籍して、その間の1年はドイツに留 終えるまでの 3i l : . I M J在籍して、その問の 1: ' 1 二はドイツに留 だった。 だった。 学もした。研究は私に向かないな、と別の進路を探りなが 学 :もした。研究は私に向かないな 、 と別の進路を探りなが 製本への思いがつのり「大学院やめて、製本家になろう」 製本への思いがつのり 「 大学院やめて 、製本家になろう J らの、実に不真面でちぐはぐな院生生活だったから、恥ず ら の 、実に不${而でちぐはぐな │ 民生生活だったから 、恥ず と一度は決意したけれど、本について勉強してみたら、と と一肢は決意したけれど、本について勉強してみたら、と かしいことが多かった。なんとか論文を凹き上げて修士課 かしいことが多か った。 なんとか論文を告き上げて修士詞l いうアドバイスをある先生に頂いたことで、本のことを調べ いうアドバイスをある先生に l 買いたことで 、本のことを調べ 程を終え、その後の紆余曲折も経て、今は本を作る仕事を w を終 え、その後の約ー 余1 11 析も経て、今は本を作る仕事を るようになった。ドイツ語で「コベルト装本」という、豪華 るようにな った。 ド イ ツ認で「コ ベルト装本j という 、涙 i l ! : 本とは対極にあるような、薄い表紙の、学生達が自分で綴 本とは対極にあるような 、i 市い表紙の 、学λ L 述が自分で綴 している。。 している 「本を作る」といっても小説を書くとか、出版社や製本会 「 本を作 るJとい っても小説を i H くとか、 U .l版制や製本会 じ付けたような小さくて軽い本の作りに興味を覚えて、ド じ付けたような 小 さくて j l 圧い本の { ノ 1 ;りに興 1 , *を1 1えて 、 ド 社で働く、というのではなく、実際に両手を使って、1か 主 J : で、 働く 、というのではなく 、実│ 祭に│山l 手を使 って、 Iか イツの図書館を回って調べたりした。1㎜年以上も前に作 イツの図告白むを回 って訓べたりした。 1 0' : 1 ミ 以上も前に作 ら10まで自分で本という形を作っていく仕事だ。仮綴じや ら 10 まで |士| 分で本という ~I~ を作 っ て U 、く仕事だ。似綴じゃ られた質素なコベルト装本を沢山見ることがlll来た経験は、 ,よ 1 1 . ることが 1 ' , 米た経験は 、 られた質素なコペル 卜装本を沢 11 未綴じの本文紙を、一枚一枚明かりにかざして折り直すこ 未綴じの本文紙を 、一枚一枚│ り l かりにかざして折り l 立すこ 私の大切な宝物で、コベルト装本をテーマに論文を書いた。 私の大切な宝物で 、コベルト装本をテ ーマに論文を書いた。 とから始まって、およそ60工程の複雑な過程をへて、1冊 とから始ま って、およそ 6 0工松の抜維な過程をへて 、 日 1 大学院を出てからは、東京にあるルリュール工房に通い、 大学院を出てからは、バ! J ; { 'にあるルリユ ー Jレ工房に辿い、 ∞ の本ができる。背の丸みはハンマーでたたいて作り、花切 の本ができ る。背のメしみはハンマーでたたいて ケ イ り、花切 製本の勉強をした。ベルギーやフランスの学校を出た先生 製本の勉強をした。ベルギ ーやフランスの年:校を 1 : ' 1 , た先生 れもハープの弦に絹糸を巻き付けて編んでいくし、革も革: 糸を巻き付けて編んでいくし 、1 , j : も2 1 2 れもハー プの弦に制 i 達に、製本技術の中でも最も洗練された、高度な技術を学 i : . j } 立な技術を 4 7 ・ 迷に 、製本技術の lドでも最も洗練された 、' 包丁で漉いて、表紙の革や布を両手で貼る。見返しは色や 包 7 で漉いて 、 表紙の 11~ ゃ ;(]j を阿手で、 W i る 。 見返しは色や んだ。O.1ミリのずれも許されない緻密な作業を続けること 0 . 1ミリのずれも日午されない鰍密なれゴ 業を続けること んだ。 模様を付けたマーブル紙などを自分で作って、正麩糊で貼 模様を付けたマーブル紙などを I~I 分で刊凶っ て、 .lE 挫柑l で、 Wi で、感覚も磨かれていく。三年でようやくルリュール工房 で、感覚も l 脅かれていく 。三年でようやくル リユール工房 り付ける。手製本にも様々な方法があるが、洋本を作るこ り付ける 。 手製本にも微々な方法があるが、 ì:!~ 本を作るこ のプログラムを修了し、結婚をきっかけに、丁年の秋福岡 のプログラムを 11華了し 、 村i~\~ をき っ かけに 、 111':'1三 の秋布i lì1iJ のような技術はヨーロッパに伝わる工芸の一つのジャンル のような技術はヨーロッパに伝わる工芸の一つのジャンル に帰ってきた。パートナーは六本松キャンパスに居た頃出 に帰 ってきた。パー トナーは六本松キャンパスに間た頃 山 で、フランス語で「ルリュール」という。「ルリュール」と で、フランス諾で「ル リユ ) レ Jという 。「 ル リユ ーJ レJと 会った人で、当時、彼が将来の伴侶になるなんて思いもよ 会 っ た人で 、 当 時、彼が将来の 1~1:: 制に なるなんて思いもよ いうのは「製本」という意味だが、日本では「手製本」とい Jという立味だが、日本では「手製本」とい いうのは「製本 らなかったが、人生って何があるか予測できないものだ。 らなか ったが、人生 って何があるか予 i J ! l J できないものだ。 う意味で使われている。。 う意味で悦われている 福岡に戻ってからは、ブックオカという福岡発の本の祭 縮問に戻 っ てからは 、 ブックオカとし 、 う t~'; 阿発の本の祭 ヨーロッパには、中世からの手製本の長い歴史がある。 ヨーロ ッパには、 r J l世か らの手製本の長い歴史がある 。 典に参加してルリュールを展示し、手製本のワークショッ 典に参加してル リユールを展示し、手製本のワークショッ 王侯貴族からの注文で作られていた豪華本の時代から近代 王侯貴族からの注文で作られていた豪華本の i 時代から近代 プもさせてもらった。九州にも製本に魅せられた人たちが プもさせてもらった。九 州 、│ にも製本に魅せられた人たちが にかけて、最も洗練された形に到達したといわれるルリュー にかけて、最も i先制i された ~I~ に到達したといわれるル リ ユー 沢山いる。ワークショップが盛況だうたことは、地元帰り 沢山いる 。 ワークショッフ。 が盛況だ‘ったことは、地元帰り ルは、伝統工芸と呼ぶにふさわしい繊細で複雑な仕事だ。 ルは 、伝統工芸と 1 1 子ぶにふさわしい繊細│ で複雑な仕事だ。 を歓迎されたようでとても嬉しかった。 を歓迎されたようでとても嬉しか った。 現在もフランスでは愛書家たちが仮綴じの本を手に入れ、 現在もフランスでは愛告一家たちが仮綴じの本を手に入れ、 製本作業の傍ら、2007年から双子の妹とッヴィリンゲ(ド 製本作業の傍ら、 2 7 年から双子の妹とツヴイ リンゲ (ド 製本家に上製本を発注する伝統が受け継がれている。 。 製本家に上製本を発注する伝統が受け継がれている イツ語で「双子」の意、www.zwi皿ngejp)というユニット イツ語で「双子」の意、w ww.zwilling e . j p) というユニ ッ ト 日本の場合には、国内に洋式製本の技術が入ってきた時 日本の場合には 、囲内に洋式製本の技術が入ってきた時 を組み、活動を始めた。ツヴィリンゲでは、染め紙作りと、 を組み 、活動を始めた。 ツヴイ リンゲでは、染め紙作りと 、 には、すでにヨーロッパでは機械化された版元製本が主流 には、すでにヨーロッパで、は機械化 された版元製本が主流 ステーショナリーの作成をしている。1月に発売された雑 ステーショナ リーの作成をしてい る。 1月に発売された純 であったため、手製本の伝統が伝わらなかった。手製本が であ ったため 、手製本の伝統が伝わらなかった。手製本が 誌「Pen」にも紹介され、秋には都内のギャラリーで展示会 誌 r P e n Jにも紹介され、秋には都内のギ ャラ リーで展示会 ∞ 多くの人に認知されるようになったのは、およそ30年前に 多くの人に認知されるようになったのは 、およそ 3 0年前に も予定している。目下ツヴィリンゲの仕事ばかりに追われ も予定している 。 目下ツヴイ リンゲの仕事ばかりに追われ 栃折久美子さんが『モロッコ革の本』を書いたことがきっか 栃折久美子さんが 『 モロッコ革の本』を昔:いたことがきっか ているが、本作りの方が本業であることを忘れているわけ ているが、本作りの方が本業であることを忘れているわけ けだ。 けだ。 ではない。一人前になるまで10年はかかると言われるルリ ではない。一人前になるまで 1 0年はかかると 言 われるルリ 私自身が手製本に出会ったのは中学生の時だった。友人 私自身が手製本に出会ったのは中学生の H 寺だった。友人 ュール。「始めたら、未来は暗いわよ」と敬愛する師に言わ ユール。「始めたら 、未来はH 音いわよ」と敬愛する n mに言わ の日記帳が母親お手製で、「本って作れるのか。作ってみた の日記 l 阪が旬:*Jilお手製で、「 本 って作れるのか。作 ってみた れたけれど、二足のわらじでどこまでいけるだろう。。 れたけれど、二足のわらじでどこまでいけるだろう 一 一 3 9一一 一 39 一 KYUSHUUNIV. l I: o } ; . ¥ 1 . w i R ○○○特集 さよなら六本松 000 特集:さよなら六本松 海洋保全と九州大学留学 マテウス H.八 リ ム (インドネシアWWF) (インドネシア WWF) 私が、九州大学において、福岡で勉学の機会を得たこと 彩、が、九州大学において、福岡で勉学の機会を得たこと 福岡にきて、1年目は日本語がとても難しくて苦労しま 千百岡にきて 、 l 年目は日本語がとても品II~ しくて持労しま は幸運であり、こころから感謝をしたいと思います。特に は幸運であり、こころから感謝をしたいと思います。特に した。毎年夏にはインドネシアに帰国してタイマイの研究 した。毎 年夏には イ ン ドネシアに帰住│ してタイマイの 研究 小池裕子教授や博士論文の指導をして下さった連携講座の 小 池 裕子 教 授 や 時士 論 文 の指 導をして下さった連携誹座の データを集めました。第3年目には学位論文をまとめるた データを集めました。 第 3il~ 日には 学位論文をまとめるた (財)自然環境研究センターの米田政明客員教授に感謝した ( l防)f ' 1 然、開境研究センターの米国政明客員数授に感謝した め、東京の連携講座の(財)自然環境研究センターに滞在し め 、東京の辿携誹出の 材)1 然環 : J : ;Jf究センターに滞在 し いと思います。私は九州大学比較社会文化研究院博士課程 いと思います。 私は九州大学比較社会文化研究│旋博士課税 ました。その時には米田先生・石井先生に大変お世話にな ました。 その時には米川先生・石井先生に大変お世話にな に1998年から2001年まで在籍し、博士(理学)を修得しま に 1998:'1ミから 2∞ 1 11-'- まで在籍し 、 t~,よて1-: ( 現I ! 学 )を 修得 しま りました。 りました。 o mi した。専門は海洋野生生物管理、特に衛星テレメトリーを した 。 WI"J は海 洋 tl!l ~I:_~t 物管理、特に衛星テ レ メ トリ ーを 当時の自然保全研究室には、留学生としてキューバから 1 7 1 ' ア : λ . 1 : としてキューパから 当時の │ 当然保全研究室には 、1 川いたタイマイの産卵後の回遊について研究しました。博 J I Jいたタイマイの J m1 J 1後の 回遊に ついて 研 究 しました。 │ 専 ロヘリオさん、スリランカからプリヤンタさん、モンゴル ロヘリオ さん 、 ス リランカからフ リヤンタさん、モンゴル 士論文のタイトルは、“Ecological Study of the Hawksbill 1 ; : 1 命文のタイ トルは、 " E c o l o g i c alS t u d yo ft h eH a w k s b i l l からソドーさんがきていて、とてもにぎやかで楽しかった からソドーさんがきていて、とてもにぎやかで楽しか った Turtle (Eretmaclie/ys i)nbribate) in lndoneshia 一Breedings, e tm o c h 吋fSJ i 7 7 b r i c a t e)i nl n d o n e sh ia-Br e e d i n g s . T u r t l e伍J です。 です。 growth. feeding、 habitats, migration, and conservation一イン g r o w L h .' 1 e e d i ng. h a b i t a t s . m i g r a t i o n .a n dc o n s er v at i o n ーイ ン 現在、カリマンタン時代のWWF−TNC事務所に勤務して 現在、カリマンタン11'.¥ = 代の ¥ NWF TNC事務所に勤務して ドネシアにおけるタイマイの生態学研究一騎化、成長、田 究 一 緋化、成 長 、抑 ドネシアにおけるタイマイの生態学研 いたHandoko Adi Susantoさんが、私と同じ九州大学比較 いた Ha n d o k oA d iS u s a n t oさんが、 A ; [ , と│ 日 lじh州大 学比 t阪 田、生息地回遊および保全管理一です。 制、 ~ I ιu山 1III i些および‘保全特 fl[J ーです 。 杜会文化学府の自然保全研究室で博士課程学生として、カ 社 会 文化学府 の口然保 全 l J i f 究常で同 │ ・税不! l ヴ:生として 、 カ 私が九州大学に留学することになったのは、ジャカルタ { i 、が九州大ヴ-に f l it Zする ことにな ったのは 、 ジャ カルタ リマンタンサンゴ礁の保全の研究をしています。私の希望 リマンタンサンゴ慌の保全の l i J f先をしています。 1 ' 1 、の希望 r l の森林省に勤務していたころ、私の自宅はボコールにあり、 の森林作 に勤務していたころ 、夜、の 宅はボコールにあり 、 としては、九州大学が今後も留学生を受け入れ、研究の機 としては 、 九州大学 が今後も fW!~tl l :. を受け入れ 、 liJf究の機 JICAのボゴール事務所に米田先生やたくさんのFl本人専 ] ICAの ボ ゴ ー ル 事務 所 に 米 日│先生 や た く さ ん の 1 1 本人 1 1 会を与えてくれることを切望しています。 会を与ーえてくれることを 切明 しています。 門家がおり、またLIPI(インドネシア生物研究所)内にも 川家がおり 、 また L I P I (イン ドネシア 件. 物I i J f究所 )1 人 !にも 私は、約30年頃わたりインドネシア森林省森林保護・自 夜、は、約 30'.1 ーにわたりインドネシア森林作森林保護 ・ I~I ] ICAが l没i ; t i : した DNA研究室 に 比 文 1 1 1 J上; l U l f ¥ i1J U J ~I :. の |前JIII JICAが設概したDNA研究室に比文博士課程1期生の岡山 然保全局に勤務し、インドネシアの海洋保全にかかわって 然保 全局に勤務し 、 イン ドネシアの海洋保令にかかわって 俊直さんが赴任していました。タイマイのDNA研究のため、 俊 i i'(さんが赴任していました。タイマイの DN Al i Jf 先のため 、 きました。ベラウ地区のサガラキ自然観光公園やサママ野 ました 。 ベラウ j也|ヌーのサガラキ n 然制光 公困やサママ ~!1' 小池先生もボゴールを訪れ、DNA実習をしたり、タイマイ ドゴー l レを訪れ 、DNA尖稗をしたり 、 タイマイ 小 池光'-1:.も 7 生生物保全区(1200,000ha)など数か所の海洋保全地域を設 ~17_ llê 物保 全 |文 0 .2∞,∞Oha) など数 かj 貯の ìfJhf似全地域を設 稚亀養殖場を視察したこともあって、インドネシアとト1本 羽UIω制II'lJ~)j を悦察したこともあって 、イ ン ド ネシアと 11 本 定しました。最終的にはインドネシア森林省森林保護・自 定しました。 M終的にはインドネ シア 森林省森林保護・ のタイマイ協同研究として、九大留学の希望が実現するこ のタイマイ協 │ 日J l i J f究として、九大 f i l l 手・の希望が実却するこ 然保全局の局長を務め、最後の職はコモド国立公園の公園 然 保 全! 司 の同長を務め 、以 後の!般はコモド同立公匝! の公同 とになりました。 とになりました。 長 で し た。 森 林 / ( j 且 i :l 除後、2 5イ │二6J Jから WWF( Wo r l d 長でした。森林省退職後、2005年6月号らWWF(World n ∞ Wildlife Fund:世界野生生物基金)インドネシアに就職し、 W i l d l i f eF u n d:-W: 伴野生生物 )k~"') イ ン ド ネシアに就職し 、 海洋WWF−TNC(The Nature Conservancy、自然保全)の 海洋 WWF-TNC( TheN a t u r eC o n s e r v a n c y、 I L I 然保全)の .一蹴.胃壁 合同調査責任者としてカリマンタン・ベラウに着任しました。 合同調査責任者としてカ リマンタン ・ ベラウに若任しました。 その後も 、カリ マンタン ・ベラウ WWF支所には、小池 その後も、カリマンタン・ベラウWWF支所には、小池 先生や米田先生のほか、掌文の院生が幾人か研究に訪れて 先生や米田先生のほか 、 比 文の I~'~ ~: が1:\t人か liJI 究に訪れて 1爾. くれました。アオウミガメの浜端朋子さん・ジュゴンの池 くれました。 アオウミガメの浜川i l J J J Jfさん ・ジュゴンの 池 田和子さん、カブトガニの西川伸さん、アオウミガメのボ 子ーさん、カ ブ トガニのjJ4 川仰さん、アオウミガメのボ 田 平1 ウ心良さん・梅野知子さんなどです。DNA分析や保全に関 ウ│ 挑良 さん ・物好知子 さんなどです。 DNf¥分析や保全に │ 共l する交流に役立っていると思います。 する交流に役立 っていると j よ川、ます。 ∞ 2 81 ' 1 三6月以降は、 ジ ャ カ ル タ の WWFイ ンドネシア 2008年6月以降は、ジャカルタのWWFインドネシア 事務所に移り、WWF・のCTNI(Coral Triangle Network 事 務 所 に 移 り 、WWF ー の CT Nl( C o r alT r i a n g leN e t w o r k Initiative:サンゴ礁三角地帯ネットワークセンター)に参画 I n i t i a t i v e:サ ンゴI ' H i ; 三f i j地仏:ネ ッ トワークセンター)に参同 2 006年インドネシア 力リマンタン-ベラウのWWF TNC事務所 2006年インドネシア・カリマンタン・ベラウのWWF−TNC事務所 の前で しウミガメ・混獲対策リーダーになりました。この仕事は しウミガメ ・混挫対' 策 リーダーになりました。 この仕' j 1 は パプアニューギニア・ソロモン諸島・フィリピン・マレー 1'\ プアニュー ギ.ニア ・ ソロモン~.~.1 . ; 0 . フィ リピン ・マ レー 一 一 40一一 一 40 一 , , K' I f t=ujij~1 .11tol'\1111;~ 000 特集:さよなら六本松○○○ 特集:さよなら六本松 シア・チモールレステ・インドネシアを含むサンゴ礁トラ シア・チモールレステ ・イ ンドネシアを合むサンコ、 Ii(!~ トラ 後ともインドネシア海洋生物の協同研究を進めていきたい イアングル諸国をまとめ、WWFの世界的なネットワーク イアングル諸凶をまとめ 、 WWFの 1 1 : 界的 なネッ トワーク と思います。 と !よい、ます。 を通してウミガメの保護を推進しようとするものです。今 を過してウミガメの保謎を推進しようとするものです。 今 九州大学万歳、インドネシアから心からの挨拶をこめて。 九州大学万歳 、イ ンドネシアから 心 か らの挨拶をこめて。 .﹂■9■璽 麟 2007年インドネシア・カリマンタン・力力バン保護地区のゲート 2 007年インドネシア ーカリマンタン カカバン保護地区のゲート 2007年インドネシア・カリマンタン・サガラキ島のアオウミガメ 2 007年インドネシア ーカリマンタン サガラキ阜のアオウミガメ にて 艀化場にて 術化場にて 一一 41一 一 一41 一 K'*l'li1I,I.m肌 E 仁[[1~~1ImR ○○○平成21年度 学年暦 0 0 0平成 21年 度 学 年 暦 平成21年度 比較社会文化学府学年暦 平 成2 1年 度 比 較 社 会 文 化 学 府 学 年暦 名 f r 行 事 名 前学期開始 春季休業 学生定期健康診断 学生定期健康診断 学府入学式及びオリエンテーション 学府入学式及びオリエンテーション ※前学期授業開始 ※首 i j 学J U J授業開始 希望指導教員七六及び 希望指導教員団届及び O学期履修科目届提出締切 前学期履修科目届提出締切 ※本学記念日 研究実施計画書提出締切 研究実施計画書提出締切 期 日 [ 1 J 羽 4月1日(水) 4 月 1日(水) 4月1日(水)∼10日(金) 4 月 1日(水)~ 1 0日(金) 4月7日(火)午前 4 月 7日(火)午前 4月16日(木)午後 4 月1 6日(木)午後 4月9日(木) 4 月 9日( 木) 4月13日(月) 4 -J ' J 1 3日(月) 修士1年生 修士 1年生 4月22日(水) 4 月2 2日(水) 修士1年生…希望指導教員団届 1年生・・・希望指導教員団届 修士 試m1年生…指導教員団(世話人教員)届 博士 1年生 ・ 指導教員団(世話人教員)届 5月11日(月) 5 月1 1日(月) 6月5日(金) 6 月 5日(金) 九州大学大学院通則第8条第1項による休業日 8条第 1項による休業 日 九州大学大学院通則第 修士2年半、博士1年生・2年生・3年生 修士 2年生、博士 1年生・ 2年生 .3年生 九州大学大学院通則第8条第1項による休業日 九州大学大学院通則第 8条第 l項によ る休業 日 修士1年生、博士1年生 1年生、博士 1年生 修士 6月18日(木)∼19日(金) 6 月1 8日(木)~ 1 9日(金) 修士2年生 2年生 修士 y修士(比較社会文化)の学位取得を希望する者】 { 修士(比較社会文化) の学位取得を希望する者] 9月28日(月) 9 月2 8日( 月) 修士2年生 2年生 修士 y修士(理学)の学位取得を希望する者】 [ 修士(理学)の学位取得を希望する者] 修士論文中間発表会 修士論文中開発表会 6月19日(金) 6 月1 9日(金) 6月26日(金) 6 月2 6日(金) ●博士後期(秋入学)入学試験 -博士後期(秋入学)入学試験 7月30日(木) 7月 3 0日(木) 8月1日(土)∼9月30日(水) 夏季休業 8 月 1日(土)~ 9 月 30 日 ( 水 ) 8月21日(金) 前学期授業成績提出締切 前学期授業成績提出締切 8 月2 1日(金) ●修士課程(秋季)入学試験 9月24日(木)∼25日(金) .修士課程(秋季)入学試験 9 月 24 日 (木)~ 2 5日(金) 9月30日(水) 前学期終了 前学期終了 9月3 0日(水) 9月28日(月) ※後学期授業開始 ※後学 WJ : t 受業 I . r J 始 9 J J 2 8[ 1 ( 月) 10月1日(木) 後学期開始 1 0月 1日(木) 10月16日(金) 後学期履修科目届提出締切 後学期履修科目届提出締切 1 0月 1 6日(金) 10月13日(火) ※体育祭 f i z祭 ※休 1 0J J 1 3日(火) 11月19日(木)∼23日(月) ※九大祭 ※九 k祭 l l J J 1 9円( 木)- 2 3n(月) 12月10日(木) 修士論文計画書提出締切 修士論文計画書提出締切 1 2月 1 0日(木) 12月24日(木) ●修士課程個別選考試験 1 2月 2 4日(木) -修士課程個別選考試験 12月26日(土)∼1月7日(木) 冬季休業 1 2月 2 6日( 土)~ 1月 7日(木) 1月8日(金) 後学期授業再開 1 月 8日(金) 1月12日(火) 修士論文提出締切 修士論文提出締切 1 月1 2日(火) 1月16日(土)∼17日(日) ※大学入試センター試験 ※大学入試センタ一試験 1F J 1 6日( 土)-1 n1( 1 1 ) ●修士課程(春季)入学試験 11月21日(木)∼22日(金) 月 21 日(木) ~ 2 2日(金) -修士課程(春季)入学試験 1月29日(金) 後学期授業成績提出締切 後学期授業成績提出締切 1 月2 9日(金) 2月3日(水)∼4日(木) 2 月 3 日 ( 水)~ 4日(木) 修士論文審査・最終試験 修士論文審査・最終試験 2月5日(金) 2 月 5日(金) 2月12日(金) 後学期授業成績提出締切 後学期授業成績提出締切 2 月1 2日(金) 2月15日(月)∼16日(火) ●博士後期課程入学試験 2 月 15 日(月) ~ 1 6日( 火) -博士後期課程入学試験 ※入学者選抜個別学力試験(前期日程) 2月25日(木)∼26日(金)予定 ※入学者選抜個別学 力試験( 前期 日殺) 2 月2 5日( 木)-2 6日(金)予定 ※入学者選抜個別学力試験(後期日程) 3月12日(金)予定 ※入学者選抜個別学 プJ 試験( 後期 日程) 3 月1 2日( 金) 予定 3月25日(木) 学府修了式 3 月2 5日(木) 3月31日(水) 後学期終了 3 月3 1日(水) 後学期終了 指導教員団(世話人教員)届 指導教員団(世話人教員) 届 l 考 備 考 (注)※印は、九州大学全学行事関係日程 ( i l : )※向lは、九州大学全学行事関係 日程 ●印は、比較社会文化学府入試関係日程 .印は、比較社会文化学府入試関係日程 無印は、比較社会文化学府教務関係日程 無印は、比較社会文化学府教務関係日程 一 -4 2一一 一 42 一 修士1年生 1年生 修士 ※月曜日の授業を行う ※月曜日の授業を行う 九州大学大学院通則第8条第1項による休業日 九州大学大学院通則第 8条第 1項による休業日 九州大学大学院通則第8条第2項による休業日 8条第 2l J ' i によ る休業 n 九州大学大学院通則約 九州大学大学院通則第8条第2項による休業日 九州大学大学院通 W Jt i i8条第 2項による 休業 J I 修士1年生 1年生 修士 九州大学大学院通則第8条第1項目よる休業日 8条第 1項による休業日 九州大学大学院通則第 締切時間 16時00分 締 切日寺間 1 6時00 分 修士2年生、博士3年生分 2年生、博士 3年生分 修士 修了・進学希望者 ※月曜日の授業を行う 修士1年生、博士1・2年生分 修士 1年生、博士 1・2年生分 KYUSHUUN肌 E 仁UIIJ:J.1.m~ 上 院 修 一 J 品 問 、 一吻 W 吻1爵 比文’<言文研究教育棟(伊都) 比文・言文研究教育棟(伊都) 九州大学 編集後記 2月になりました。比文教員の移転は2月後半に行われます。各教員の移転H 2) Jになりました。比文教貝の移転は 2月後半 に行われます。各教 員の移似 1 程も発表され、元岡の下見も終わり、廊下にはダンボール箱が並び始めるなど、 租も党去 さ れ、元|品j の 1;" 見も終わり、廊下にはダンボール箱が並ひ:- ~tì めるなど、 いよいよ引っ越し間近な光景となりました。今回の特集は「さよなら六本松」です。 いよいよリ │ っ越し間近な光対となりま した 。今回の特集は 「さよなら六本松」です。 通常の企lllliは頁数も少なめになっています。1994年にスタートした比文は、16年 illl 常の ~lllli は l':,t数も少なめにな っ ています。 1994 1 1二 にスタートした比えーは、 16 61' 目を迎えるにあたり、新天地に移ることになりました。六本松を考えることは、 L Iを迎 えるにあたり、新天地に移ることになりました 。 六本訟を考えることは、 比文のこしかた・ありかたを考えることでもあります。この号が出る頃にはわた 比文のこしかた・ありかたを考えることでもあります。 この号が出るほi にはわた したちは新しい研究室にて整理にいそしんでいるように思われます。新しい環境 し た ちは 車r Iしい研究常にて終 J II[にいそしんでいるように思われます。新しい環境 で新しい学問が展開されていく。そんな期待を感じます。 1 ] 1が桜 I J Hされていく 。そんな J Y W J ' を!岳じます。 で 新しい/'(1 なおこの号の編集は編集委員・狩野彰宏先生が担当されました(服部英雄)。 ~'.j: 型f彰宏先生がれい1i されました ()J服部英刈 ) 。 なおこのりの編集は編集委 u. w 修論、博論、そしてキャンパス移転が重なる中、編集を担当させていただきま 修論、 W ,i命、そしてキャンパス移転が重 なる I J I、制 を担 当 させていただきま した。咋年4月に赴任してきた私にとって、これが比文教員としての初仕事になっ ) ]に赴 1 1 : してきた私にと って、これが比文教 μとしての初イ1 : 引にな っ した。昨年 4 たと思います。今回の特集記事は、皆様の六本松キャンパスへの思いが綴られた たと J41 います 。 今 阿の特': Uâ~lJi は、皆様の六本松キャン パ スへの思いが綴られた 力作揃いになりました。私にとっての六本松ライフは、短いながらも、温かな構 )J れ揃 いになりました 。 私にと っ ての六本松ライフは、知. いなが ら も、 ì :"b~、 な椛 成員の皆様のおかげで充実した時間でした。六本松居酒渥群落から離れるのは正 成員のを f l 線のおかげて充実したI I . ¥ ' I I Jでした。六本必 J ; t 1i r 4 h U 昨務から離れるのは i f 直寂しい。しかし、今後は文系と理系が融合した漫文の長所を生かして、新たな I I ' (; J 災しい。 しかし、 今後は文系と耳目系が融合した比文の h : 1 9 i を生かして、新たな 伝統を築いていこうと思います(狩野彰宏)。 伝統を築いていこうと思います(狩野t~~ 宏) 。 Ol−」(t)Bnv;・ SCS(エス・シー・エス)は、九州大学大学院比較社会文化学府の英文名称Graduate School of Social and Cultural Studies SCS(工ス・シー ・ 工ス)は、九州大学大学院比較社会文化学府の英文名称 Graduat e Schoo l of Socialand Cu l t u ralSt u d ies の略称です。ロゴはSCSを図案化したものです。考案者は「二羽の鴨に見える」と主張していますが、「一羽にしか見えない」と言う人も と主張 していますが、「一羽にしか見えない」 と言う人も の略称です。口ゴは SCSを図案化 したものです。考案者は 「二羽の鴨に見える J います。しかし家鴨ではないという点では、私たちの意見は一致しています。裏庭の囲いのなかで餌をもらって外の世界を知らずにいる います。し か し家鴨ではないという点では、私たちの意見は一致 しています。裏庭の固いの芯かで飼をもらって外の世界を知らすにいる 家鴨ではなく、越境する渡り鳥である鴨こそが、私たちのめざす新しい学府にふさわしいと考えているからです。 家鴨では芯く、越境する渡り鳥である鴨こそが、私たちのめざす新 しい学府にふさわ しいと考えているからです。 広報情報化委員会 クロスオーバー編集担当 服部英雄、狩野彰宏 広報情報化委員会 クロスオーバー編集担当 .服部英雄、狩野彰宏 一 一 4 3一 一 一 43 一