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十四・五世紀フランスにおける国王信仰とその政治思想史的意義 Author 矢

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十四・五世紀フランスにおける国王信仰とその政治思想史的意義 Author 矢
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Rex christianissimus : 十四・五世紀フランスにおける国王信仰とその政治思想史的意義
矢吹, 久(Yabuki, Hisashi)
慶應義塾大学法学研究会
法學研究 : 法律・政治・社会 (Journal of law, politics, and sociology). Vol.71, No.9 (1998. 9) ,p.75106
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-19980928
-0075
Rex christianissimus
久
菊①図oげユ雪寅巳ω巴目自ω
吹
1十四・五世紀フランスにおける国王信仰とその政治思想史的意義1
一、序
①前史
二、力窪 3 岳 賦 雪 誘 冒 臣 1 そ の 歴 史 的 用 語 法
②フィリップ・ル・ベルの時代
③シャルル五世の時代
三、フランスの自立ー﹁世俗化﹂の時代と王の神秘化
五、王の絶対性
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四、フランスの統一−王権の起源と聖なる家系
六、幻粟9膏岳塁誘ぎ島とガリカニスムー結びに代えて
矢
法学研究71巻9号(798:9)
一、序
ヤ
フランスの中世史家ベルナール・グネは、かつて、﹁中世末期フランスの政治思想史は、国家卑讐の歴史に
とって不可欠なものであるが、しかし、ほとんど手付かずの状態である。﹂と述べた。確かに、一般的な歴史の
︵1︶
叙述においては、十四・五世紀フランスは思想的に不毛であるとみなされ、パドヴァのマルシリウス寓醇巴言ω
α”℃帥αo毒︵ρ旨o。O山ω畠\。
G ︶やオッカムのウィリアム≦目壁ヨ90畠げ蝉ヨ︵9るO?お\8︶、さらにはマキャヴ
ェッリZ88δ竃霧三薯o田︵に①O−嵩曽︶に匹敵するフランス人思想家は存在せず、政治思想の領域で注目に値
︵2︶
するのは、より時代の下ったジャン・ボダン富きωoαぎ︵一認?3≧︶を待たなければならないと評されるのが
常であった。
確かに、普遍的な政治理念の展開を主題とする政治思想史研究において、中世末期のフランスが大きな関心を
集めることはこれまでなかったし、その時期のフランスに政治思想史を飾るような大思想家の名前を見いだすこ
とは不可能であろう。しかし、当然ではあるが、一定の歴史状況の中で何らかの政治的課題の解決をめざして知
的営みを行った人間たちはやはり存在したのであり、まして、国王権力の伸展、教会権力との抗争、教会大分裂
︵シスマωo霞ω目曽︶、百年戦争といった全ヨーロッパ的激動のさなかにあって、その中心に位置したフランスの
政論家たちがその知的営為を停止していたはずはないのである。
近年のフランス史研究における成果は、そういった状況を明らかにしつつある。即位式、塗油、入市式、葬儀
といった一連の王の儀礼に対する関心の高まりはこの時期の国王権力の正体を提示してきたが、それと同時に行
︵3︶
われている国王周辺の思想家たちの著作の刊行やそれに基づく総合的な研究の進展は、前述したような、従来あ
︵4︶
まり注目されることのなかった中世末期フランスの政治思想をより明らかにするであろう。それらをふまえた上
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Rex christianissimus
で、総論的なことを言ってしまえば、中世末期フランスの思想家たちは、普遍的な政治理念を提示することをせ
ず、国王権力の伸展を可能にするための、より実際的な政治的課題に従事していたのである。そして、体系化さ
れ後代に影響を与えるような政治思想として結実したわけではないけれども、それらもまた、中世末期フランス
の特殊な政治状況を思想的に論証しようとする知的営為であったのである。
本稿は、そういったこの時代の﹁特殊フランス的﹂政治思想を明らかにする主題として、勾①×oぼ馨冨且隆−
目島︵一角o算みω9鼻おコ︶という概念のもった意味を論証するものである。この﹁いともキリスト教的国王﹂と
いう言葉は、歴史上のフランス王の称号としてよく知られたものである。研究史的にも、最近まで全く関心の対
︵5︶
しても、ヴァロワ客く巴9ωやパンジュ脳、留勺き鴨による研究がある。しかし、こういった先行研究があっ
象にならなかった主題というものではない。周知のように、フランス王の持つ神秘的・宗教的能力に関するマル
︵6︶
ク・ブロックの名著﹃奇跡を行う国王﹄はこの間題に関する先駆的業績であるし、オットー・ブルンナーもそれ
︵7︶
を近代初期の王権神授説の根拠として位置付けている。また、国①×魯誘鉱m巳隆目5という語句そのものに関
︵8︶
たにもかかわらずその主題の持つ政治的意味が探く認識され多くの関心を集めるようになったのは最近のことな
のである。
本稿は、以上のような業績とりわけ近年の諸研究に基づいて、このイデオロギーの政治的意味内容を検討し、
中世末期から近代初期のフランスの政治思想史上の特質の一片を論証するものである。
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法学研究71巻9号(’98:9)
① 前 史
二、因震魯鼠ω賦餌旨霧一ヨ島1その歴史的用語法
初めに、勾o×oぼ一の江き奮一量おという表現が歴史的にどのように用いられ中世末期にどういった変質を見せ
るに至ったかを概略することにする。
ぎ≦&塗ヨ垢︵最強の︶、巴oユ8奮一目島︵栄光に満ちた︶などと同等の最上級形容詞の一つとして日常的にキ
リスト教徒の皇帝に与えられていた9冨瓜き奮一B臣という表現は、全く同じように、六世紀に、ガリアの地
でキリスト教信仰を告白したフランクの王たちに対しても用いられた。すなわち、その語は、教皇をはじめとす
る聖職者が政治権力者を称え歓心を買おうとする際に用いる、数ある称賛の表現の一つであったのである。従っ
て、それは純粋に儀礼的なものであり、しかも、フランク人︵宰雪9の権力者だけに適用されたものではない。
︵9V
それは、ビザンティンの皇帝やイスパニアの西ゴート族の王たちにも与えられる表現であった。
八世紀になると、ピピン︵在位七五一ー七六八年︶、シャルルマーニュ︵在位七六八−八一四年︶といった有力な
カロリング朝諸王が登場し、ピピンによる教皇領の寄進、シャルルマーニュによる西ローマ帝国の復活など、ロ
ーマ教皇庁との結び付きが強まるにつれ、﹁いともキリスト教的国王﹂の称号は常に彼らのものとなり、あたか
もそれがフランク人の王に固有のものであるかのようになった。しかし、それでもなお、称号はその王家に与え
︵10︶
られたのではなく、あくまでも個人的な称賛の表現であり、教会あるいは信仰の擁護者として大きな功績を残し
た王に対して個々に与えられる称号であったのである。従って、その後のカロリング家の歴代の王が皆その称号
を与えられたわけではないし、そもそも、ピピンやシャルルマーニュの在位中でさえ、ローマ教会は東方の皇帝
にその称号を与えるのをやめてはいないのである。
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Rex christianissimus
ところが、十一世紀末になると、フランク人は他の人間たちよりもその信仰ゆえに優れている、と主張され始
める。信仰は、言うまでもなく、当時の第一の徳目であったが、十字軍に関連する文書の中で、フランク人たち
のその卓越性が言及される。例えば、ノジャンの修道院長ギベール09冨洋号Zo鴨ヌ︵一。紹−。ヒ曽Vはその
第四回十字軍に関する著作﹃フランク人を通じての神の御業U蝕O窃蜜もR宰き8ω﹄で、次のように述べてい
る。すなわち、フランク人鴨拐宰き8ε目は、教皇に従順で、神の手により﹁聖なる民び$蜜鴨嵩﹂となっ
たが、当初から、彼らの信仰は堅固で、その王たちはしばしば教皇を助けかくまった。神の計画では、その民に
独自の役割が課せられている。彼らの間からは、多くの殉教者、信仰告白者が現れ、十字軍兵士たちは聖地を解
放したが、それは、彼らが﹁神によって選ばれた民であり、国土の快適さのみならず、信仰への熱意と教会への
oぼ禦冨三隆B島 は、王や王国ではなく、フランクの人民に対して用いられる表現であり、サンuドニの修道
︵n︶
献身によって他の民族から区別されているからである﹂、と。ただし、このような十一世紀末のテクストでは、
︵12︶
院長シュジェールω⊆晦R︵。﹂Oo。一−目望︶が、ルイ六世︵在位一一〇八i三七年︶、ルイ七世︵在位一二二七−八O
年︶の信仰心、すなわち彼らがいかにキリスト教を擁護し、教会、貧民、孤児を保護したかを描写する際には、
その表現を用いたりはしなかった。
︵13︶
しかし、十二・三世紀になると、oぼ邑壁三隆日島の語は、フランス人民のみならず、フランス王にも、そし
て領域的に安定を得ていたフランス王国にも適用され始める。フランス王はすべての王の中で最もキリスト教的
︵14︶
王であり、従って、最もすぐれた王であるとされ、さらには、神慮によるこの世の王の中の王と表現された。教
︵15︶
皇庁もそれを認め、聖王ルイ九世︵在位二一二六−七〇年︶に﹁いともキリスト教的国王、いとも敬度なる人民
るが、その第一はフランスであり、フランス人は純粋なカトリックである﹂と述べ、さらに、フランス王の公式
の長﹂の名を与えている。また、ジャック・ド・ヴィトリー鼠8仁①。。号≦δ曼は﹁キリスト教徒の民は多くい
︵16︶
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の歴史である﹃フランス大年代記9碧α80ぼ9昼発ω号男﹃き8﹄には、フランスの教会の数が多く充実し
ていること、貴重な聖遺物や宝物があることなどに加えて、信仰の古さ、熱心さ、正しさといった同時代によく
︵17︶
知られた表現を用いて、フランスが﹁いともキリスト教的﹂であると記された。
②フィリップ・ル・ベルの時代
しかし、﹁いともキリスト教的国王﹂の称号がフランス王の専有になるためにはもう少し時間がかかった。そ
して、そのために大きな役割を果たしたのが、国王フィリップ・ル・ベル︵四世︶︵在位一二八五ー二三四年︶
︵18︶
とその周辺の人間たちである。聖王ルイの記憶が残存しキリスト教的国王に対する忠誠心が高まっていたこの時
期に、ルイの孫であるこの王は、3誘ユ彗一塗ヨ臣の語を、明確な政治的プロパガンダのために用いた。一二九
六年から始まる教皇ボニファティウス八世との対立抗争の中で、それは遺憾なく発揮された。すなわち、自らと
王国の防衛を﹁いともキリスト教的国王﹂の権利請求と重ねたのである。フィリップ・ル・ベルは、家臣たちに
︵19︶
自らを﹁いともキリスト教的国王﹂と呼ばせた最初の王であったが、それによって王の家系がいかにキリスト教
世界に寄与してきたか、いかに信仰と教会の擁護者であったか、を思い起こさせ、しかもそれがシャルルマーニ
ュからクローヴィスにまでさかのぼる古来の伝統であることを知らしめた。そして、それによって、フランス王
は死すべき存在ではなく、神の代理人であることを宣言したのである。かくして、異端と戦い、そしてボニファ
ティウスの手から教会を救い出すことはフィリップ・ル・ベルの義務となった。神はフランス王と共にあり、そ
れによって真理と正義がフランス王家の中にあることになったのである。フィリップ・ル・ベルによる反ローマ
︵20︶
的政策は、このようにして、反キリスト教的ではなく、逆に、﹁超キリスト教的﹂な様相を帯びることになる。
すなわち、もはやローマ教会との結び付きよりも神との直接の連帯を強調するフランス王はこの世に上位者を持
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たない存在となり、治癒力を初めとするその秀でた能力と多くの特権を神から与えられている。また、その王国
︵21︶
並びに人民は神によって﹁選ばれ﹂た、﹁いともキリスト教的﹂な、キリスト教世界の主要部分とみなされるに
至ったのである。
③ シャルル五世の時代
フィリップ・ル・ベルによるプロパガンダで明白にされた﹁いともキリスト教的﹂フランス王という理念は、
その後も繰り返され流布される。そして、その過程で、十四・五世紀になると、その称号はフランス王の専有物
となる。それは、周知のように、ローマ教会が分裂し、教皇庁がローマと南仏のアヴィニョンに並立していた時
代である。従って、フランス王の影響下にあった歴代のアヴィニョン教皇たちがフランス王に対してその称号を
乱用したであろうと想像することは難くない。しかし、事実はそうではない。なぜなら、クレメンス六世︵在位
二二四二−五二年︶やグレゴリウス十一世︵在位一三七〇1七八年︶といったアヴィニョンの教皇たちは、その称
︵22︶
号をフランス以外の君主たちに与え続けていたからである。
変化が決定的なものとなるのは、賢王シャルル五世︵在位一三六四−八O年︶の時代においてであり、その周
辺の人間たちの活動によってである。王の威信を高めることを願ったそれらの人物によって、一時的名誉にすぎ
ず少なからず教皇庁の裁量下にあったその称号は、排他的かつ恒久的にカペー朝フランス王家が獲得した﹁古来
の特権﹂へと大きくその性質を変えることになる。すなわち、その称号はもはや単なる儀礼上のものではなく、
フランス王家によって独占されることによって、フランス王国の教皇権あるいは皇帝権からの独立を論証し得る
ものになったのであった。
︵23﹀
この時代にしばしば言及された﹁聖なるフランス王国﹂の論拠は、次のようなものであった。まず第一に、数
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多くの聖遺物がフランス国内にあること、第二に、大司教区、司教区、大修道院、大聖堂などの数が多いこと、
第三に、多くの聖人、殉教者、十字軍兵士を生んだほど宗教的に熱心であり、異端がその地に存在したことがな
いことである。広く流布されたそれらの言説を背景に、百年戦争と教会大分裂に象徴される危機的状況の中で、
︵別︶
︵25︶
フランス国王に対する信仰は急速に高められていくのである。
三、フランスの自立ー﹁世俗化﹂の時代と王の神秘化
それでは、閑o図昌計一壁三のω一B島の称号がフランス王家によって独占されその固有の財産となるに至った十
四・五世紀にはいかなる政治的主題が論じられたのであろうか。
︵26︶
中世末期は、いわゆる﹁世俗化﹂の時代であった。ローマ教会が分裂し複数の教皇が同時に存在した事実は、
ヨーロッパにおけるロUマ教会の権威の低下を招き、キリスト教世界における教皇の地位の低下をもたらしたが、
それにもまして、民衆の中に信仰に対する不満を喚起せざるをえなかった。また、教会が独自に事態を収拾でき
なかったために、世俗権力がその間題に介入し、教会の統一のために開催されたコンスタンツ公会議︵一四一五
−三〇年︶は、政治的利害に左右される国際会議の様相を呈した。さらには、思想の領域においても、パドヴァ
のマルシリウスやオッカムのウィリアムは世俗権力の固有の意義を論証し、ダンテUき話≧凝匡R一︵嵩臼−
一ω曽︶は﹃俗語論U①<三窓ユ巴8諾艮冨﹄によってラテン語支配からの離脱を宣言した。そして、ルネッサン
スが始まる。
しかし、前述したように、このような諸価値の世俗化がフランス王権にまで及びその神秘性をぬぐい去ること
はなく、むしろ逆に、フランス王とその王国は﹁超﹂キリスト教化されていく。すなわち、﹁世俗精神の誕生﹂
82
Rex christianissimus
︵27︶
の時代に、王権の制度そのものが以前にはなかったほど神聖化されていくのである。
︵28︶
その顕著な事例が﹁塗油一①の”R①﹂.9&9﹂をめぐるこの時代の議論に見いだせる。塗油によって権力の基
盤が確立される事象をめぐる間題はマルク・ブロックが指摘しているように、王権にとってやっかいな事態を引
き起こしかねない間題でもあった。すなわち、それは王を高め聖なるものにしたけれども、同時に、王の能力を
塗油を授ける聖職者に結び付けることにもなったからである。換言すれば、王の権力の神聖化を図ろうとすると、
それは直ちに権力授与における聖職者の役割を重視せざるを得ないということになるのである。
ローマ教会の優位を説くそういった主張に対しては、十四世紀の初めに明白な反対意見が出されており、例え
ば、ドミニコ会士でパリ大学教授であったジャン・ドゥ・パリ器き号勺霞グ︵9ミ?一ω8︶は、その主著﹃王
と教皇の権力についてU①8冨ω富冨お㎎冨魯9唱巴一﹄︵一三〇二年︶において、王の権力が神及び人民の選択と
同意に由来すること、スペイン王がそうであるように王の即位に際して塗油は不可欠ではないこと、従って、塗
油から国王権力に対する教会権力の優位が結論できるわけではないこと、を論証している力 基本的にはその主
, ︵燗︶、
張に沿いながら、十四・五世紀の王権支持者たちは、それをより精緻なものとし、しかも、王権の、世俗化では
なく、神聖化に努めたのである。
一三七八年に、国王シャルル五世の周辺で、﹃果樹園丁の夢ωo轟①身<R讐R︵8ヨ巳=B<竃&旨︶﹄という
文書が著された。夢の中に騎士︵国王権力の具現︶と司祭︵教会権力の具現︶が現れて討論を行い、最終的には騎
士が議論に打ち勝つという粗筋を持つこの文書は、数多くの資料を援用して当時の政治的課題を論じたという点
で、二つの権力をめぐる中世の長い論争を集大成するものと考えられるが、その中に塗油についての長い言及が
ある。塗油されていない異教徒の王がいるように王の権力は塗油から生じたりそれによって何らかの変更が加え
られたりはしないこと、旧約聖書に例があるように塗油はローマ教会の人間以外によってもなされうること、聖
83
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職者の塗油は神が定めた秘蹟であるが王のそれは人的制度であることを指摘した上で、著者は次のように述べる。
塗油は俗事に関してのいかなる権力も王に与えないが、それには別の効用があることを私は知っている。第一に、油を
注がれた王は民衆のより大きな称賛と尊敬に迎えられる。そして、普通は、王の即位に対して大きな喜びとともに盛大
国を恐れさせるためにこそ挙行されるのである。それは、旧約聖書のエステル記第一章に描かれる︵ペルシア王アハシ
な儀式が遂行され、王は臣民からより一層愛される。すなわち、王の即位と塗油は、王の偉大さを示し民衆もしくは隣
ュエロスが貴族や民衆を大きな宴に招いてその巨大な権力と富そしてその王国の栄光を見せつけた︶のと同じなのであ
る。
︵30V
勺ユヨ一R①ヨΦ三一8み巴.o目詠oP一①菊o矯①ω暮雪⊆睾巳仁ω讐”三﹃o器二﹃9おく震窪8αoωo昌冨仁巳998pヨ仁諾・
9ユ霧。津82。。一一。諾αo言窪g琶ロ。︿①冨巳讐。ヨ8邑ま堕①一一窪窪一冨ω<。暑ωΦけ。︷寅ω。
ヨ。導き8目o器ヨ①旨身国o≦.窪筐け讐き二〇。魯讐程ωωo一。ヨ喜まω⋮卑きωω=・即畠窪①ωε一仁部ヨぴωΩ①ω⑦ω
ω仁豆ひ碧魯窪のω二〇8目o昌oヨ①艮①二、o昌9δロα⊆勾o嘱紹O琶窪巴お鋒冒ρ冨5鳴餌旨ヨ蝉讐一略8窪8α⊆勾o<ωo淳ヨo甲
ω幕ρ①ε藷=窪ωo淳〇一まR巴耳α①ω①Nω信幕ω①孟Φ甕<o蚤口98日幕一忠畠>器ま歪ω旨け琶嬢き梓8昌を
α①のo貫器霞ω卑α①O仁8一〇ロ2円ヨo冨qR鐙霞①ω磯声旨℃9のωき8︶9ω①N贋磐ω匡魯①8ωも二餌巴o≦⑦α①ωo昌8竿
餌信ヨρ8昌ヨ①昌[8二①ωoユ冥肉。。弊ミb篭ミoら§魯ミ9
﹃果樹園丁の夢﹄の著者は、塗油式が王をつくるのではなく塗油によって王権に付加されるものは何もないこ
とを丁寧に論証した。また、塗油そのものの意義は認めてもそこに教会が介入する必然性はないことを述べ、そ
れを任意の制度のようにみなすことによって教会の役割をそこから排除しようとした。それは、フランス王の権
84
Rex christianissimus
力をローマ教会から自立させる試みであった。そして、かくも塗油式・戴冠式を反教会的に描写した後で、その
儀礼としての意義を積極的に認める。すなわち、その儀礼的価値のみをこの著者は承認したのである。その結果、
塗油は、王に威光を与えるものではなく、王の威光を民衆に見せつけるものとみなされるようになったのである。
本来、宗教的な意味合いの強い、それゆえにローマ教会の影響から逃れることが困難であった﹁塗油﹂は、かく
してきわめて﹁世俗的﹂に解釈されうるものとなった。
しかし、塗油から教会の役割を排除しその儀礼的性格が強調されることは、ただちにその﹁世俗化﹂をもたら
しはしなかった。それどころか、奇妙なことであるが、逆に、塗油式の宗教的・神秘的性格は強調されることに
なる。
しかし、他の諸王が何と言われようと、フランス王が聖なる塗油によって聖霊から特別な恩寵を受けていることは疑い
得ない。なぜなら、その塗油が他のいかなる王よりも神々しく力強いものであるから、他の者より以上に、フランス王
れた聖油容れから油を注がれるのであるが、それによってフランス王は、人間の法のみならず、父と子と聖霊の定めに
がこの力強い塗油によって聖霊の賜物と恩寵を受けていると考えられるのである。フランス王は天使によってもたらさ
よって油を注がれ聖別され戴冠されることは明らかなのである。そのことは、フランス王が今もなお所持する武器が最
初に見いだされた際のとても驚くべき方法からもわれわれには明白である。すなわち、色々な年代記作家が述べている
ように、フランス王は、かつて、キリスト教に回心する前は、その武具に三匹のカエルを徴していたが、驚くべきこと
︵31︶
にそれは、奇跡によって、三枚のユリの花に、すなわち、三位一体を称え思い起こすものへと変えられたのである。
ζ①N2畠2①目島臼o房号N四巳賃8閃o惨﹂一器ヨ巨Φρロo量一器ユ9①α霊耳R2Φ一①δく号甲壁8器質巴早
鵬幕①呂①o一巴鳴四8α仁ω巴旨国8三什も巽ωmω巴蓉辞①⊆目二〇pOmぴ巴霧ω凶ρ器鵠①ωけ巳ロωヨR<o竃窪ωΦヨ①算o﹃具Φ辞
85
法学研究71巻9号(798:9)
巳ロω8づ①含巴目o旨ρ信①コ自一”三賃①勾oざo.oωけoプo紹く醤器餌Bび一ρび一①ρロρα①<”日8葺”三霞o﹂一お8<①O震8昌o仁昌o−
D蝕耳国8凶ユeO胃自①卑o矯旨α①冨ω巴目け①>ヨOo三ρ一曽ρ仁o一一①旨ωけ①旨<o団①①づ畦
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一、>昌讐oα仁Ω①一”づoξρ信o賓=曽づ鳳oほρ仁o一①N﹃o蕩α①問轟昌8昌①ωo具O器oく屋の①三①ヨ①昇O貰o﹃ユo昌”昌8げ年
ヨ帥冒ρ目①Nのo旨o旨のも9ω①Rぴω98彗o旨ぴωB二、o巳窪碧8身℃Rρ身霊一N92ω巴旨国8三け霊ρ諾一一①
o﹃oωoロo直ω”O豆oほo一R①目o再Ooロ﹃一帥賃oωヨoミ①一一一〇=のoヨ四三R①α①賃o仁<R℃ユヨ一Ro日①旨一〇N碧ヨoω一〇Nρg①=①ω
一〇N3窃αO男蜀昌8づO旨o筥ρ仁ゆ三m︶お器三旧o碧”ぎ器一〇〇昌ヨo薗仁o仁昌oω03昌矯ρ仁oの蜀ooロ8旨︶一〇Nδ窃血o
写き88一〇一。三す象ωもく碧ε仁巴一N注ω①三。g<。三9①三①弩ω窪ヨ①ωoo器二3﹃ωR昌窪き一。N2。一×h弩①艮冨﹃巨−
βo一⑦窪賃o窃略ロ]o日qo一一9窪一、o器ξ卑おヨ”ヨぼ碧8α①一〇暮①一帥↓賊gま︶ヨR<①≡窪の①ヨo旨8口<①益9
王の塗油・即位から教会の役割を排除しその儀礼的意義のみを認めることは、フランス王の権力が教皇に由来
するものではないことを明言することでもあった。であるとすれば、その正当性はどこからくるのであろうか。
しかも、教会から離れると同時に教会を越えるものでなければならないとすれば、それは、神との直接のつなが
りを強調する以外には方法がない。かくして、フランス王をめぐる議論は、教会の影響を排除して王権の世俗化
に向かうのではなく、逆に、自らのより一層の神秘化へと進むのである。そして、そこで持ち出される議論は
﹁いともキリスト教的国王﹂を論証する際にしばしば持ち出されるものであった。
そして、最も権力あるフランス王が神によって命じられ立てられたことを一体だれが疑うことができるであろうか。な
ぜなら、第一に、神がいかに驚くべき手法でフランス王に自らの武器を授けたか。第二に、神が遣わした天使によって
もたらされた聖油容れでいまやすべてのフランス王が聖別されていること。第三に、偉大な聖人たちがフランス王家か
ら輩出していること。第四に、フランスの王たちが、ただ触るだけで﹁療痙①のR20一一8﹂と呼ばれる病気に苦しむす
86
Rex christianissimus
べての患者を癒したこと。第五に、神がサント・シャペルに保管されているその貴き宝物の保護者としてフランス王を
お定めになったこと。これらのことを考えれば、そして、他のすべての王でなく、フランス王だけに神がお与えになっ
たその他いくつかの好意と奇跡とを考えれば、われわれははっきりとこう言うことができる。すなわち、神はフランス
︵32︶
王をこの世、つまり、最も気高く強力なフランス王国における代理人にお定めになったのである、と。
蝉ρ葺窪隆㍉8①一一薗窪αo昌什①2巴①富の讐誇き=畠α。零き8器ωo津o瓦①泳g①ω鼠び一三①U一①蔦9きω一
ぎ場8房こ酔o房一肩一ヨ一R①ヨ窪計8昌ヨ①旨U一①きロ胃貫8ヨ①廼o≡①島①Bき一RP窪<o冨9。一﹄8賓α①宰き8ωg
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︵認︶
中世政治思想史研究者ジャック・クリネンは、ここに君主政原理の転換点があると指摘する。それによれば、
従来の著作家たちは、王権を擁護するために、様々な文脈で、聖書からの引用を多用していた。それは、例えば、
﹁わたしによって、主たる者は世を治め、君たる者は正しい定めをたてる。︵箴言第八章十五節︶﹂、﹁すべての人は、
上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神
によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。︵ローマ
87
法学研究71巻9号(’98:9)
人への手紙第十三章一ー二節︶﹂、﹁あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者とし
ての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろう
と、これに従いなさい⋮⋮神をおそれ、王を尊びなさい。︵ペテロの第︸の手紙第二章士二−十七節︶﹂などである。
キリスト教が世俗の政治権力と接触して以来、神政政治的な文脈でしばしば持ち出されてきたこれらの聖書の言
葉は、確かに国王権力を高めることもあったであろう。しかし、それは国王以外の他の権力者によっても引用さ
れうるものであり、フランス王権を支えるものではなく、とりわけその皇帝権力からの自立を基礎づけるもので
︵34︶
はなかった。それに対して、﹃果樹園丁の夢﹄で明示された原理によって、フランス王権は、自らを正当化する
際に聖書にのみ依存しないことが可能になった。すなわち、﹁いともキリスト教的国王﹂となったフランス王は、
神に選ばれ愛された者なのであり、﹁反キリスト教的な﹂教皇に従うのではなく、むしろそれを正すことが義務
となったのであった。かくして、フランス王は、その神的な性格を強調することによって、教皇あるいは皇帝の
影響力を排除しうる論拠を獲得したのである。
四、フランスの統]1王権の起源と聖なる家系
勾o×oぼ一ω叶置三ω巴ヨ臣という称号は、国王を超キリスト教化することによってローマ教会の干渉を排除する
という対外的効果をもたらしたが、それは国内においてはどのような政治的問題を提示することになるのであろ
うか。すなわち、王がかくも神聖で、神との直接の結び付きが強調されるとき、人民はいかなる地位を与えられ
るのであろうか。とりわけ、政治権力の起源に関して王と人民はどのような関係に立つことになるのであろうか。
周知のように、中世の政治理論は政治権力の起源に関する議論に多くの時間を費やした。例えば、トマス・アク
88
Rex christianissimus
イナス↓ぎヨ器>e営錺は、すべての権力は神に由来するが、神は人民を媒介として君主にそれを与えた、と
述べた。しかし、この説明は間題を十分に解決するものではないし、トマス自身明白な結論に到達していたとは
思えない。人民が媒介となることが認められるとしても、人民はどのような形でそれに関わるのか。共同体の意
志はどのような形で表明されるのか。また、権力を王に授与するとき、それは根源的権力の放棄なのか。契約な
のか。人民になんらかの権利は保留されるのか。こういった間題に対する解答をそこに見いだすことはできない。
しかし、﹁いともキリスト教的国王﹂という新たなイデオロギーを獲得したフランス王の周辺の理論家たちに
とって、それは論争に値しない問題であった。なぜなら、その世襲王政の出発点において人民の意志が確認され
るにせよ、その系譜には神の意志がはっきりと見いだせるからである。したがって、王の権力に対して人民が介
入する余地はもはや残されていないことになる。
世襲王政の起源について、﹃果樹園丁の夢﹄では次のように論じている。
アリストテレスが﹃政治学﹄第三巻一四章で述べているように、王政にはいろいろな形があるのであるが⋮⋮しかし、
すべての王政は神の法と人の定めに基づくものである。それは﹃列王記﹄に十分に描かれている。そこで神は、サムエ
ルを通して王政を定め、いかなる義務が王の法であるかを示された。また、人の定めについて言えば、新旧約聖書にお
けるいくつかの歴史の中で、いかに多くの王が人々の意志によるものであるかがわかる。
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世襲によって王位に就いた者は、より妥当でより公共の福祉と共同体全体にふさわしいものを守らなければならない。
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世襲によって王位に就いた者は、教会人の手によるものであろうとなかろうと、戴冠式から俗事に関するいかなる権力
も獲得したりはしない。⋮⋮それは人民の意志と命令によるものである。王や皇帝に服するそれぞれの人民は、万民法
によって王を選びつくったのである。⋮⋮人民の意志によって王が立てられた場合、⋮⋮世襲によって王が誕生すると
王が戴冠式で俗事に関する権力を得るとすれば、それは戴冠式によるのではなく、契約と王国を最初に定め立てた者の
定められると、先王が死ねば戴冠式や他の儀式なしに、その者は王位を継承し王国の全領域を継承するのである。・・
命令によるのである。したがって、王は、彼に冠を授けた者からは、それが聖職者であれ俗人であれ、いかなる権力も
︵お︶
得るわけではなく、ただ最初に王国を定め立てた者からのみ権力を得るのである。
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90
Rex christianissimus
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ここでは、政治権力の起源が論じられる。確かに、人民の意志による政治権力の創設についての言及があり、
政治権力はそれを定めた人民によって王に与えられると述べられている。したがって、一見したところ、それは
︵36︶
人民主権論のようであり、その権力授与がどの程度のものであっても、人民に保留される権利に関する議論が今
後展開されることを予想させるものである。しかし、本文中の随所に表れているように、これらの文章は、王の
権力が戴冠式から生じたものではないこと、すなわち、王の権力は戴冠式をつかさどる聖職者によって王に授与
されるものでは決してないことを論証したものである。それは、後に続く文章からも明らかである。すなわち、
この後では、前章で述べたような、戴冠式は王が﹁恐れられ称えられ愛される自ωo津巳葛R巴耳︶ぎ3誌9
mヨひために挙行される、という現実的認識が示され、さらには、女性が戴冠して女王になっても俗事に関する
権力をなにも受け取らないことをあげて、権力の授与が戴冠式の本質でないことを論証してこの章を閉じるので
ある。
そして、人民の意志によってフランス王権が立てられたことを前提とする議論が続きながらも、著者の力点は
フランス王の正当性、すなわち、﹁いともキリスト教的国王﹂としての卓越性へと移行していく。
﹃果樹園丁の夢﹄第八十八章では、いくつかの王国の歴史とフランスの比較がなされる。そこでは、シャルル
マーニュ以後のフランク帝国の分裂とフランス王国の成り立ちが述べられた後、話題は聖書の記述に移り、四つ
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の帝国が論じられる。旧約聖書ダニエル書第七章に出てくる四つの獣に例えて説明される四つの帝国とは、第一
がアッシリアとカルディア︵新バビロニァ︶、第二がメディアとペルシア、第三がギリシャ︵アレクサンドロス大
王︶、第四がローマである。そして、それらはすべて力すなわち暴力によって始められた、と整理される。それ
に対して、フランス王国の初めには暴力があったことを著者は認める。ただし、その暴力はすぐに取り除かれ、
そこに人民の意志が働いていたというのである。それは、具体的には、フランク王シルデリクが人民によって罷
免され、ピピンが王に選ばれたこととして説明される。すなわち、暴力によって獲得されたフランス王国は人民
の意志に反するものであったが、ピピンから新たに始まるフランスは、神と聖書にしたがって立てられた真の王
国なのである。しかも、それは、イスラエル王国と同列に位置付けられる。イスラエル王国の最初の王サウルは
神の意志︵すなわち人民の意志︶によって選ばれたが、サウルがその欠点によって排斥されたあとは、主の命に
よって、ダヴィデが王に選ばれ、サムエルによって油を注がれ、その子供たちが後を引き継いだ。ピピン以後の
フランス王家はそれと同じであると言うのである。
人民による﹁シルデリクの罷免﹂と﹁ピピンの選出﹂は歴史的事実とは言いがたい。したがって、より重要な
のは後に続く以下の文章である。
る人々も、天使によって空からもたらされた聖なる香油容れから油をそそがれたフランスの王である。だとすれば、こ
ピピンは人民によって選ばれ、その欠点ゆえに排斥・罷免されることはなかった。また、その子孫として今日にまで至
れ以上何がいえるであろうか。この恵まれた家系の神聖さについて考えてみよう。第一に、フランス王聖シャルルマー
ニュ、聖王ルイ、および、聖ルイ・ド・マルセイユ、前ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワといった、この家系から
輩出した幾多の聖人たちの行状と奇跡。また、神が今日国を治めておられる国王シャルル五世に対して与えられた徳と
92
Rex christianissimus
︵37︶
奇跡。かくして、 次のようにはっきりと結論づけることができる。すなわち、今日のフランス王国は、 暴力も力づくも、
専制支配もない、 神の意志によって立てられた真正かつ純粋の王国なのである。
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聖書の記述、すなわち、ダヴィデ王の即位の際の説話にならい、フランス王権がその初期に人民の意志によっ
て立てられたものであることは繰り返し触れられる。それによって、フランスはイスラエルに比され、フランス
人はイスラエルの民と同様に神によって選ばれたものとなった。そして、その聖なる王国を治めるのが﹁いとも
キリスト教的﹂なフランス王なのである。しかし、その権力の根拠に人民の意志が持ち出されることがあったと
しても、それは政治権力に対して人民が介入する何らかの権利を保留していることを意味するものではない。そ
れは世襲王権を正当化するための二義的な根拠であり、より重要な根拠は、﹁ピピン以後﹂という限定をつけな
がらも、その家系が﹁いともキリスト教的﹂であることであった。そして、権力者がかくも多くの賜物を神から
︵38︶
93
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与えられたとき、人民にはもはや服従することだけしか残されてはいなかった。﹁いともキリスト教的国王﹂と
いう主題は、王国から契約の理念、すなわち、中世ヨーロッパに比較的広く知られていた君主と人民との間でな
された国家契約という理念を除去する効果を有していたのであり、さらには、王権を熱狂的に崇拝するフランス
︵39︶
知識人たちから、代表制議会の役割を考察する機会を奪ったのであった。
五、王の絶対性
即o×oぼ巨冨三霧凶ヨ霧の表現がフランス王の固有のものとなったのは、前述したように、シャルル五世の時
代であったが、それは、フランスにとっての大いなる危機の時代の始まりを告げるものであった。すなわち、フ
ィリップ・ル・ベル以来順調に権力を伸展させてきた王権が、大きな困難に直面せざるをえなくなったのである。
その困難とは、一つはイングランドとの百年戦争であり、もう一つは教会の大分裂である。前者は、フランス国
内の分裂とアングロ旺ブルギニョン派よる北フランス占領という事態をもたらすことによって真の意味で王権の
危機であったし、後者は複数の教皇が同時に存在する事態に政治勢力の対立が重なった上に、分裂を収拾するた
めに提示された公会議主義の主な理論家たちがパリ大学の人間であったことで、フランス王権にとっても無関心
ではいられない全ヨーロッパ的危機であった。王権をとりまくこのような困難の中にあって、王の神聖さはどの
ような政治的意味をもち、特に、王権の動揺に際して臣民はいかなる立場に立つのであろうか。
まず、百年戦争においては、﹁いともキリスト教的国王﹂の主題は、王位継承に関する論争を優位に導くもの
として作用した。イングランド王エドワード三世は聖ルイの男系の子孫ではないのであるから、その祖先には天
からもたらされた聖油容れから油を注がれた者はなく、奇跡と結び付くフランスの武具をまとった者もいない。
94
Rex christianissimus
したがって、その神聖さにおいて、イングランド王はフランス王の比ではないとされた。また、ジャンヌ・ダル
︵40︶
クの出現は、クリスチ書ヌ・ド・ピザンOげ膏江莞号霊の雪のような詩人の手によって、フランス王国への神
の配慮として描かれる。
︵41︶
これに対して、シスマとフランス王権をめぐる議論の関係はやや複雑である。教会の分裂に際して提示された
﹁公会議主義﹂とは、教会内における教皇の首位性を否定し公会議を信仰に関する最高かつ最終的な決定機関と
しようとする思想及び運動であり、教皇の絶対的な権力行使に対抗する教会内の制度改革であった。そこでは、
教皇の権限が制限され、異端あるいは暴君蔓轟目霧となった教皇はその地位を罷免されることが強く主張され
た。
︵42︶
しかし、このおなじ論証がフランス王権に対して用いられることはなかった。すなわち、ジェルソンのような
フランス人公会議主義者は、教会において提唱した議論を世俗政治の領域に持ち込み、王権の絶対的性格を危う
くすることをしなかったのである。
一四〇五年に、ジェルソンが、国王シャルル六世を迎えてパリ大学で行った演説がある。
<ぞ讐冨箆 国王万歳。この願いを抱かない者がいるであろうか。また、王権が他の統治形態に変わったり、破壊され、
不幸にも滅びることを望む者がいるだろうか。私はあえて言いたいのだが、そのような人間は聖なる教会の忠実なる子
ρ島8冨ω9低お駐鼻噂U巴o包ぎ魯一〇器︵国oヨ。図一ε聖パウロが言われるように、すべての権威は神によるのであり、
供、王の良き臣民ではないし、さらに悪いことに、神とその定めに反逆する者なのである。Oヨ三の8話馨器蝉U①ρ9
権威に逆らう者は、神の定めにそむく者なのである。他のどこよりも、とりわけフランス王の権力においては、そう言
うことができる。その理由は何か。なぜなら、神のゆえに、フランス王の権力は神によって他の何者よりも認められ称
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法学研究71巻9号(’98:9)
えられているからである。では、それはどうやってなされるか。聖レミがクローヴィスを最初のキリスト教徒の王にし
たとき、彼は奇跡によってもたらされた聖なる油容れでクローヴィスに塗油し、王の権威と神聖なる教皇の威厳のしる
しとして、彼を清めたのである。それゆえに、王の最も忠実な娘である私のこの嘆願と誇りにみちた叫びに同調しない
︵43︶
ものは、神の奇跡に反逆し、教会分裂者、扇動者としてふるまう者なのである。≦︿緯話箆 国王万歳! 国王万歳!
≦<9お屡く貯①一㊦δざO仁凶巴器凶壼一①ρ三〇は魯α①ω一おo信ρロ一<〇三母o津鴇8驚巴oωo貫器a一①①ω#①B幕①①窪
窪一#Φづo一一80一﹄①ω賃①8ωω8己oωけヨ凶900仁ヨ窪く巴ω①B①旨α首一2①﹂①ヨgωq①9實o旨g82①邑器器ヨo亭
ω霞①O霧①ω賃①一〇賓巴旨Nα①ω巴琴80ひq一一紹9げo昌ω仁豆09α信8ざ9ρ仁①宮ωoω二一お巴ω8卑U一窪魯四ωo昌o琶o・
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ほぼ同じ一四〇〇年頃に、パリ大学総長が、ローマ教皇に対して用いたのと同じ権力制限論をフランス王に対
して用いることをしなかったことは注目に値する。前述のような激しい国王信仰が、世俗の領域にまで﹁公会議
96
Rex christianissimus
主義﹂を広げることを妨げたのである。すなわち、シスマによってゆがめられた教会には、複数の教皇が同時に
存在するという異常な事態を是正するための構造的な改革の気運が満ちあふれていたけれども、フランス国内に
目を転じれば、国王の絶対的な性格を危うくする主張を提示する者などだれもいなかった。ジェルソンのような
フランスの知識人の言論には王の神秘性、卓越性を称える言葉で満ちており、﹃果樹園丁の夢﹄に見られたよう
な、王権の起源を人民の同意に求める議論があったにせよ、その理論が十分に展開されたり実際的な意味を持っ
たりすることはなく、言説は直ちに、聖なる香油入れや国王旗オリフラムの記述、あるいは、フランス王家の優
れた家系の礼賛に達してしまうのである。
この文脈で中世末期に大きな関心を集めた暴君及び暴君殺害の間題を論じる場合、フランスの知識人たちは固
有の議論を展開せざるを得なかった。すなわち、﹁いともキリスト教的国王﹂の前で暴君論をどのように処理す
るかという問題に な る か ら で あ る 。
この時代の暴君に関する議論は、まず何よりも教会内の間題であった。シスマに終止符を打つための手段とし
て公会議が教皇を罷免するという方策が唱えられた。フランス人の公会議主義者であるピエール・ダイイ
︵空震おα.>一ξ︶は、それを、世俗の問題と同等視しながら、次のように論じている。
暴君の特質とは、臣下の共通善ではなく、 君主の利益を追求することである。そして、主の羊たちでなく自らを養う司
︵44︶
牧たちも同様に暴君である。
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教会を国8一①の一器勾詔ロ仁β℃o犀冨O冒一畏雪Fお8⊆包一83ユ答餌冒る8一8貯雪一88浮置といった語句で
表現したことからもうかがえるように、ダイイは教会統治の間題を世俗国家におけるそれと同質のものと認識し
ていた。したがって、聖俗を問わず正しく秩序づけられた組織はすべて自らの分裂あるいは破滅を阻止しうるも
のでなければならず、教会にそのような体制的危機をもたらす教皇、すなわち﹁暴君﹂は公会議によって罷免さ
れうると論じられるのであった。
同時代のもう一つの暴君論として有名なものは、ジャン・プティ魯彗頴簿︵9ω8−一ま直︶のそれである。彼
︵45︶
の著作﹃ブルゴーニュ公の弁明q島け匡8菖oロα仁U琴8ω霊鑛畠器﹄は、一四〇七年十一月二十三日に起き
たオルレアン公の暗殺事件をとりあげ、暴君殺害の正当性を大胆に認めたものであるが、それによれば、王権を
纂奪する者な轟旨に対しては、臣民は真の王権を守るために立ち上がる義務があるとされた。したがって、そ
れはフランス王を念頭においた議論ではなく、王権を脅かす人間としてのオルレアン公の殺害を正当化した、王
︵46︶
に対する忠誠の主張にほかならないのである。すなわち、そこでの貯胃即艮とは、﹁即位後に法を破った王︵暴
︵47︶
君︶﹂ではなく、﹁正当な資格なしに王位に就いた者、王権の纂奪者︵僧主︶﹂の意味なのであった。ジェルソン
はこの主張の広がりを恐れてそれを批判したが、しかし、ジャン・プティの﹃正当化﹄をめぐる同時代の論争に
は、奇妙なほど、フランス王に関する言及はない。その理由は明らかである。すなわち、数々の奇跡を神から直
接与えられ、神秘的治癒力をもち、神の計画の中で特別に位置付けられたフランス王が道を誤りその臣民によっ
て打倒されるなどということがどうして考えられるであろうか。﹁いともキリスト教的国王﹂が﹁暴君﹂になる
ことなど思いもよらないことなのである。政治的倫理的教訓を示すために、理想君主の完全なアンチテーゼであ
る暴君とその統治の諸悪が頻繁に言及されたとしても、それが現実にフランス王と結び付けられることは、閑o図
︵48︶
98
Rex christianissimus
9蔚鼠巳隆ヨ5のイデオロギーの前ではあり得ないことであった。かくして、暴君殺害の議論は、約一〇〇年後
のユグノー戦争の中でより深刻な議論として登場するまで、フランスにとっての切実な間題ではなくなるのである。
六、国震魯ユω江帥艮ω匹ヨ霧とガリカニスムー結びに代えて
中世のかなり早い時期から形成された﹁いともキリスト教的国王﹂の信仰は、中世末期においてその政治的意
味を十分に発揮しうることになった。しかし、それは中世固有の論証を提示しただけではなく、むしろ後代のフ
ランスの政治的方向を定めるとさえ思えるものであった。本稿では、最後にこの主題のその後の展開に言及し、
結語としたい。
ルイ十一世︵在位一四六一−八三年︶は、﹁いともキリスト教的国王﹂という神秘的な称号のもつ歴史的意味、
政治的利点を十分に理解していた。クローヴィスとシャルルマーニュを尊敬するよう臣下たちに奨励し、また、
たびたび病人に手をかざしたというこの王は、その同じ信仰を一層つよく身にまとうことによって、近代フラン
スを導くことになる。そして、その顕著な事例がいわゆる﹁王のガリカニスム﹂の確立であった。
コンスタンツ公会議でシスマを終結させたローマ教会は、いったん教皇の首位性が回復すると、教会内部の統
治権をめぐって公会議主義と対決することになった。そして、バーゼル、フェラーラと公会議を経る中でしだい
にその体勢を整え、教会の統一に成功しつつあった。そのような中で王位に就いたルイ十一世にとって、教皇の
権威は、かつてフィリップ・ル・ベルにとってそうであったように、フランス国内の統一を図る上でやはり大き
な脅威であったことは想像に難くない。しかし、フィリップ・ル・ベルとは異なり、今や﹁いともキリスト教的
国王﹂のイデオロギーは十分にその効力を発揮しうるものとなっていた。したがって、われわれの関心は、フラ
99
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ンス王に対する強い信仰が確固たるローマ教皇の権威と衝突するという事態はあったのか、あるいは、いったん
は教皇の権威をも斥けえたフランス王のイデオロギーは、新たな状況の中で用いられることによっていかなる事
態をフランスにもたらすことになったのか、という問題である。
︵49︶
この点で、ルイ十一世は、約二〇〇年前にフィリップ・ル・ベルとその周辺の人間たちが行った主張をほぼ再
現するだけで十分であった。すなわち、かつて教皇ボニファチウス八世に対して述べたてられた政治的理念1
﹁異端﹂的教皇が現れた時にはフランス王に固有の責任が課せられていること、フランス王の﹁いともキリスト
教的﹂過去がフランスの自立を正当化し教会から暴君となった教皇を排除しようとする王の行為を正当化する根
拠となることーが、今また同時代の教皇パウルスニ世︵在位一四六四−七一年︶とシクストゥス四世︵在位一四
七一−八四年︶に対して主張されたのである。そこでは明らかに以下のことが指摘できる。第一に、それは、﹁い
ともキリスト教的国王﹂という理念が、単なる公的アピールを越えて、フランス王の政策の本質的道具となって
いることを示している。第二に、フィリップ・ル・ベルの周辺が教皇に対して示したほどの激しい言葉使いはそ
こには見られない。それは、フィリップ・ル・ベルの時代にはあった緊急の事態は過ぎ去っており、フランス王
に対する信仰の高まりは既に往時の比ではない教皇の権威を見下しているかのようである。すなわち、その堂々
たる主張はこうである。フランス王は、信仰と聖なるローマ教会を保護するために神によって立てられたのであ
り、教皇が異教徒に攻撃されたり、聖ペテロの座から追われる度に、フランス王が自ら敵と戦った。そして、神
の助けによって勝利を得ると、王は教皇を聖ペテロの座に戻したので、フランス王は﹁いともキリスト教的国
王﹂の称号を与えられた。したがって、フランス王は、キリスト教世界の仲裁者として、教皇の権威をも凌ぐ存
在にまで高められたのである。かくして、フランス王が教会を支援することには疑う余地はないが、文脈次第で
は教皇をひざまずかせるためにその称号が示されることも有り得るのであった。こういったフランス王の主張は、
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Rex christianissimus
公会議主義の思想と本質的に親和性を有しており、コンスタンツ及びバーゼル公会議で認められなかったその精
神を、よりフランス的に継承するものでもあった。それが、﹁ガリカン教会の自由﹂への言及であり、一四三八
年に公布された﹃ブールジュの国事詔書牢譜目簿8ω窪&oξである。これら、いわゆるガリカニスムの展開
を王国の大部分の人間たちは支持し歓迎した。フランス国内の聖職者や大学人たちは、あらゆる機会をとらえて
は、自分たちの王が﹁いともキリスト教的国王﹂であることを示し誇ったのである。
しかし、ガリカニスムには本質的に二つの意味があった。一つは、フランス教会の教皇及び国王からの独立で
あり︵一Φ淫≡8三のB①①8一①ω一器旨巴︶、もう一つは、教皇の権威を抑えるための教会と国王の協調である︵一①鴇年
︵50︶
8巳ωヨ①8<巴①\ヨ9胃3δき︶。そして、フランス人聖職者たちがフランス国内の聖職者の諸権利の保護を求め
てその国王を支持したとき、それは明らかに後者の意味であった。すなわち、フランス王は、﹁いともキリスト
教的国王﹂の称号を多様することによって、ローマ教皇に対しては、フランス王のキリスト教世界における固有
の地位を確認させる一方でフランス国内への教皇の干渉を排除することを得、また、国内の聖職者・知識人に対
しては、自らの神秘性を高め、教皇からフランス人聖職者を保護する役割を演じながら、結果的には、フランス
の教会に対して深く介入することに成功したのであった。かくして、フランス王は、国内における無制限の権威
を獲得し、﹁いともキリスト教的国王﹂から絶対君主へと変貌したのである。
勾霞oぼ一ω鉱き奮一聲あーいともキリスト教的国王1というイデオロギーは、以上で論証したように、中世
のある時期から明確に形を成し、十四・五世紀にフランス王に特有な政治的主張として王権と王国の自立に大き
く寄与した。そして、それによって同時に、やがて来るフランス絶対王政の基盤を確立するものであった。した
がって、この時代のフランスをめぐる政治的課題−王権の伸展、教会権力の排除、教会大分裂と公会議主義、
ガリカニスム、王権神授説などーを論じる際の中心的主題として、本稿で扱った主題とその周辺の著作家たち
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の政治思想はより一層の関心が向けられるべき間題であると言えるであろう。
ヤ ︵1︶ O信窪ぴρ切‘い.窯のεヰ①α①一.卑象8男β昌8餅一四︷ぎα仁蜜畠窪︾磯①<器O”二〇ω霞ω8ユ9ω略β月巴ωα8且ω
ヤ ラ
8暮帥昌9肉ミミ恥︾詠、ミ避ミ恥る認﹂O竃︸P鍵刈.
︵2︶囚員莞昌しこO①激ω。α巴.卑碧。9一の8幕α。ω一泳。ω8蒙282牢雪8餅一曽旨身三〇矯窪>のρOミ、ミ偽
蕊幾ぎ&讐恥§義簿鷺穂物恥魯、肉肺ミミo魯§魯肉oミ“一〇〇〇90戸ooO㎝−畠N●
ヤ
︵3︶ 罰9窃①ざ刃>﹂8寄9︸ψ=碧8ざr霞﹂W曼帥導らの研究を参照されたい。
ヤ
献補遺を参照されたい。
︵4︶ Oロ窪oρωこト、O象賞恥ミ§逸図国寄魁図§。。福“舞卜塁肉牒ミ勲℃曽量お㌍の第五版︵一九九三年︶における文
︵5︶ 王の宗教的性格並びに儀礼の象徴機能に関する研究としては、フレイザー﹃金枝篇﹄︵一九一一年︶やホカート
権力﹄︵一九三九年︶、ジュヴネル﹃権力﹄︵]九四五年︶、ケルツァー﹃儀式・政治・権力﹄︵]九八八年︶などがあ
﹃王権﹄︵一九二七年︶、ギアーツ﹃ヌガラ﹄︵一九七七年︶などがあるし、政治学の文脈においても、メリアム﹃政治
る。
ヤ
ミ、隷ミミ恥ミ恥醤、ミ§恥恥、恥醤﹄ミ緊黛ミミ矯ωq器びoロお篇O謹.
︵6︶国8F蜜こト器肉霧、ぎミミミミ蔭轟肉ミ魯。リミ誉らミミ匙ミ。。ミミミミ衷ミミ曽慧勧騨ミ嘗§亀、ミミ馬もミ畿−
︵8︶ <巴o一ρZこト恥こ軌、惹。。き鳳誉きト亀肉ミ§恥壁野息鳳、帖§ミ§誤、.ミ。。&勘“8。置.ωき象置弩“℃曽ユω堕
︵7︶ オットー・ブルンナー︵石井他訳︶﹃ヨーロッパーその歴史と精神﹄︵岩波書店、一九七四年︶、二五二−三頁。
一〇〇〇
o置−ω曽“℃曽躍①し●αρ卜恥淘黛↓適。。さ鳳畿§”℃薗冨﹂Oお。
〇 ㎝もPo
認9
︵9︶寄旨9しこト、§亀ミ§\象﹄無翁蕊貸ミ§§ミ§Qミ恥§ミ§&図箋腎N隷絶魯℃勺畳9一。。ωも。
︵10︶ ω窪¢昌ρOこ≧蕊恥器醤驚魯ミ醤ミ軌§肉ミミ驚︸℃胃一ρ一〇〇〇㎝り℃﹄Ooo。
︵11︶ 09び①昌αoZo鴨具糟b織鎖題ミbミ、ミミら8蕊亀ミQ喬ミ這防譜慧題堕○06口ωoぼ凶ω江四⇒o﹃ロヨもo耳ぎ仁9一〇B①&器・
<巴一ω一曽>一8凶低oロR一賦ρ=oO畦勾.切■O●=仁矯篶昌9一890hω①窪昌ρOこo箏亀針PNOoo・
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︵12︶例えば、十字軍に参加した西欧人すべてが牢き9と呼ばれるほどその信仰心は称えられるが、それに対して、
閏声昌o①“浮①=oξい餌口ρ些①O﹃oω①昌勺oo巳o曽昌α夢o一≦oω酔Oげユの臨四昌国ぎ堕ぎ﹄輿融§亀§駄Oもミ箋ら織o§き肉亀、な
フランクの王で十字軍に参加したのは、ルイ七世︵在位一一三七−八O年︶が初めてであった。無oo賃塁①﹃しこ
ミ◎駄ミ醤肉ミ、選魯肉恥旨毬蝋醤ミ恥ミミ疑o、向蚕。爵\豊。りoきり界勾曽ぴぴ曽昌α﹃。国。ωo眞9①αこ勺﹃営88P一8PロP
︵B︶ ωロ鴨ぴミ恥魯卜◎ミ恥ミト恥ON8ふ山・9耳帥α’づ費=.≦曽ρ仁①計℃碧一ω鴇一⑩貧。
も○−嵩●
︵14︶ 十三世紀には、宰壁o冨がフランス王国全体を示す概念として用いられるようになる。江川温﹁中世フランスの
王とかフランク族の王と称してきた君主は、フィリップ・オーギュスト︵在位二八Oi二一二三年︶以降フランス
民族意識−十−十三世紀﹂﹃国家i理念と制度﹄︵京大人文研、一九八九年︶、一−四〇頁。また、﹁アングル族の
王となる﹂といわれる。J・M・アポストリデス︵矢橋訳︶﹃犠牲に供された君主ールイ十四世治下の演劇と政治﹄
︵15︶ ω$仁昌ρOこ§・亀鎖PNOO。
︵平凡社、一九九七年︶、一四頁。
聲日、.鼻冨鋤益P]≦●ζこ曇州。り融帖ミ魯㍉ミ獣敬蔓貸§ミ蝋尽℃貰一ωレ漣Oo︶P一零●
︵16︶ 、、Oげユωユ鋤昌o歪日ωロ艮磯o具oω①二口く巽猷ωω8貫ω9<一ω器ρ⊆o毎日震凶ヨ一ω仁旨閃声昌q⋮①二ωユO⊆おO餌30=島
。。
︵17︶ 卜霧Oミ蕊魯恥O魯こ這9翁魯肉ミ§“8・笥。≦貰貸ω=コ一〇<o一こ℃mユω﹂80山3Go“炉OP㎝−①﹄いω霞塁①ン﹄←
も旨。亀登P①。
︵18︶評く醇しこ冨ω一猪一ω奮①二①のo瑳①旨Φヨ窪孟①写ま暑①一。︼W①一﹄。ミミミ魯霧ミ黛ミ鉾一。$も戸8−一。。
︵19︶ フィリップ・ル・ベルと教皇ボニファチウス八世との間の論争は、以下のものに集成されている。望も仁ざ℃こ
鼠碧奮首霧に類する表現が用いられている箇所は、E。ま︵菊突O貸幹冨三器冒塁︶る島︵7一膏8仁のOぼ韓冨巳裟・
募き㌣q猟ミ箋隷ミ§織織、“ミミ誉b亀b恥穿蔦誉鳴ミ自災、誉慧bも塁紺山戴Nミ駄恥笥ミ蕊6馬︸℃帥ユ9お観’そこで肉o図oげユω−
仰のために戦う者、教会の擁護者自畠言仁覧9国8一①ω一器α98ω自﹂や﹁真理の管理者、教会の援助者<①葺毘ω象
旨島︶るまあ鵠︵Oぼ一ωけ冨三ω巴巨写き8歪ヨ菊①磯霧︶などである。また、同じ理念を表す別の語句としては、﹁信
お9ユ図鍔①8一①ω一①窪図ま葺ユx﹂がある。U仁℃仁ざ℃こき§噛℃戸一8、88q。ω霞塁震し。肉こo㌻亀計マO。
︵20︶ ωo”⊆昌ρOこ§巴9罰P曽O●
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1︶ それは同時に、神聖ローマ帝国に対するフランスの優越を誇示するものでもあった。修道会士ギョーム・ド・ソ
︵2
クヴィルによれば、フランスは天の王国︵お題仁ヨ8一〇歪ヨ︶でフランス王はキリストと同様にダヴィデの子
︵旨言ωU薯置︶であり、牢窪8は牢きo冨紹︵不可侵権、すなわち自由︶に由来する語であるのに対して、
oヨ官お︵帝国︶は2巳8︵悪︶を意味する語であった。したがって、帝国と戦うことは悪を滅ぼすことであるとさ
鍔旨窪一凶.冨9F図く目■国卑凶ω富一ぎo訴器昌oコω仁び①ω紹一ヨ℃①ユo■OR8一雷く巴α①目薗鵬⇒四一〇ρ⊆oロqoαo一日ロ①ユo
れた。、、蜀冨旨o壁α窪oヨ冒簿賃号︷声目﹃窃①1げ9こ8ρ仁冨げRo血8国﹃”糞8ロo昌ω三〇冒昌言﹃一日づ①ユo.口げ①ユ
鴇葺畠o巨①一凝。1βg葺①区o一8三号冒o①ぎ冒冨曇9ωる8一〇29α①一.①目旨①蝉一、①目旨①語瑳糟
2一螢ぢωΦ8π①図ω巷Roヨまの旨oωω8臼旺①1一〇び﹂臣員o震一。ω仁旨α巴、。ヨ鳳おρ三苺9日睾づ冨、.O景
一、①ヨ筥お昌窪<ρ三8自①ヨb一お①けρ98自一〇ξω窪鳳同φU<昏o一島①ω“2一房αoヨ冒o霊げ霊旨o目昌①ωヨ巴一︶
一冨仁ヨ①α①ω窪ρ仁①<≡ρO器ロ昌餌旨一〇U零一9冒=●民餌ヨ覧堕こミミbミξ詠ミミ織織皆題蹄、薗廃§偽ミ§織奪娠§“塁
>‘[卑脇o﹃ヨ三①、.一①8一①ωけ①ヨ需8自2ωo昌﹃oく窪ヨ①..Ψωo昌①ヨ巳o一”q図く①ω識o一①α①奉算一①℃碧一〇ヨo旨α①
肉ミミ銭鴇。。魯恥ミ≧§畿oミミ簿ミ§無。6職謹ミミ嵩唱9富ぢ旦堕一89P=ドOいω賃曽巻ぴ§。9登P置。また、劇oω霊象︶
︵22︶ 民蔓旨①P﹄‘卜、鳴ミ息ミ織ミき鮎Poo&,
勺”ユω︶肉ミミミ。。妹ミ避ミ魯辱o騨蔓亀§ミ詠衷腎ミミ晦ミ、一〇〇一堕OPω譲−ωoo一。
︵23︶ ω8仁ロρOこ§。氣登ロPN一一−曽坤囚胡昌①P﹄‘卜、鳴§驚ミ織ミミ斜bPGoま−oo“oo。
︵24︶ ω①四⊆昌ρOこ§.織貸もPN旨幽置●
︵25︶ 国王信仰とそれに伴う﹁フランス人意識﹂の形成に関しては、拙稿﹁十四・五世紀フランスにおける王の権威と
五ー八六頁。また、℃o嵩︶Zこ即8曽鴇ロ留9紹旨一ヨ①旨昌碧一8巴需ロα”旨ざみ鵬昌①号Oげ貰一8く炉肉ミ§量
エトニー意識ーネイション概念の政治思想史的再検討の試みー﹂、﹃法学政治学論究﹄第十九号、一九九三年、五
く目捌一〇〇〇ρロP園刈1一翫、
<o一。
︵26︶い曽鴇益ρO﹂ρ導≧鼠題§題魯N、塁ミミ轟§撫q§§ミミ§﹄窒ω”葺もき一角邑の・O鼠奮鉾一。ω合㎝
︵27︶ カントロヴィッチは、﹁この時期の全ての統治者は宗教的シンボルやスローガンを政治的領域に移行させるよう
な政治神学を展開させようとしていた﹂のであり、特にフランスは最も早く、一五世紀までにはそれを完成させてい
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一〇㎝刈唱もO.Nω刈ーNG
O。
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た、と述べている。内き88且oF国こ映鳶哨げSミも山ミ暗勉﹄的ミ魯きミ恥魯ミミ、ミミらミS鳶ミ轟8汐ぎ88P
︵28︶ この主題に関する研究は多いが、以下のものが有益である。鼠畠8P界︾こ︽ミ蝕ミミ彰∼鳶鐘竃ミ魯G。G。§ミ⇔
蕊偽ミ博§ミミ恥ミG。§肉ミミ鴨︵鑓漣よ9。婚替℃畳ωしOo。倉卜馬oo貸らミ魯恥こ凝︵﹄無塁&らミ﹄ミミ帖ミ亀§蕊帖§ミ
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︵圏︶ ﹄OげPO曲℃帥噌凶ω︶Oミ肉O史麟N亀§亀b貸b亀N、Oミ恥、︶6円。帥Pα一P6︻こ﹄。>●≦餌6戸↓﹃Oコ60︶一〇刈一︸O℃。一〇QOI一〇一’
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︵30︶導的§題§寄\賢ミ曽8,言ω。ぎR亨[一ぴ≦ρO①艮おZ呂o目三①一鋤沁①9R。冨oD。凶①呂言器㌔畳ω︶一。。。ρ
︵31︶ きミも﹂器.ギョーム・ド・ナンジO邑訂qヨ①審Zき讐ωによれば、ユリの花は王の神聖さとフランスの卓越
、、ZmヨΦ図εoUΦ仁ω魯Uo昌目ω8馨R器曽ω6ぼ一ωε珠箆ρ緯三Φ日富簿昌一一酔富8g巨ビのρ琶ヨ8①冨轟お讐m
性のシンボルであり、三枚の花びらは、信仰・学識・武力を表すもので、フランスはその三つにおいて秀でている。
εヨ鼠ぎ︷o一一〇8ヨ8旨震㊦︶ρ轟巴象8お筥8菖ヨロコαo”油α①ρの8凶①艮冨卑巨一一鼠①實o玄什器呂仁区き二島
<O一⊆一け同O磯昌⊆旨日閃吋四旨O一”①一一一qω辞﹃餌肘O︶OO昌ωq①<①毎口け目①磯Oω一もω一哨同四冨O一”①一口ωq一ωゆ毒一ωO併<①図一一謡ω︷一〇円①ヨ一一一臨OO℃凶O−
ρ‘曽日吋①磐ゆのO”①け①﹃一ωω仁昌什﹃①魑O昌Oの貯﹃O︼︾①一〇同Oく一α①昌け一勉①け騎国四鉱餌ω①目<一Φ昌貯①ω㌧曽O仁自一四仁ヨOαOZ四口騎一の一〇評\Oミ撃
心竃魯O&§裳ミ騰魯≧§職。。讐魯。。鵠8ミ帖ミミ軸ミ。。w8。寓。O曾窪9ωo。凶ひ織α巴.三ω8一8αΦ宰讐8るく〇一こ
勺帥冨しOO98ヨΦ一も﹂o。Nらhωq塁Rし。因こ§。ミこP①.
︵肥︶ 卜恥砺◎§晦鳴織ミ 寄、領蝋驚、曽O・㎝一’
︵お︶ 国同賓昌O口博筒こト、qミb凡\恥駄貸Nもト唱。QQU]﹃■
4︶ パコー︵坂口・鷲見訳︶﹃テオクラシーー中世の教会と権力 ﹄︵創文社、一九八五年︶及び、ω彗㌔ゴこ勺o亭
<o一=畠巴98目ヨ窪§おω号冨田亘①︵一一9−る8ン﹄§ミ題肉のDおo。OもP8緊目ω●
︵3
︵35︶ 卜鳴的O§肉鴨織ミ §誌賊恥、︶もO。一﹃N刈ー一NO。
●刈1一①㎝。
織、も軌妹b、も吻唱偽q妹軌瓢一〇〇〇︶Oも■一Q
︵%︶ い①〇四w>こ い四ωOq<①﹃◎一口①辞ひ αq OO=℃一① αm昌ω 甑甑い① ωOコ鵬O α信 <O﹃閃一〇同.、噛肉鳴鯉貸肉 凱魅 ﹄亀\鳴ら誉馬、ら誉軸⇔域ミ\蝋蚤闘心ミ鴨
︵37︶ごqo§題§ぎ薦軌ミもP一㎝ω山㎝鳶●
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︵38︶いo&9>.薫こト恥吻亀醤吋Nミミト亀蔚ミ駄ミミ博駄畿§ミ亀﹄雨ミト肉ミ§鴨図等図国寄籔評壁勺費す一〇〇〇①.
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︵39︶図曼昌O員㍉こト、鳴ミ旨受魅織貸さ斜PQQ①O●
︵40︶℃o昌の燭Z‘ピ帥質oロ譜蝉昌O①α①讐①躍oヰ”月巴紹麩帥耳一、碧O醇三〇旨αo﹄S昌器α.>﹃ρ﹄ミ§ミ魯恥鶏ミミ願
四︿ユ〒冒凶P一〇Qo“一℃P一〇一IN一“。
ト、鳴ミb騨恥織ミ憶黛唱Oワω8山刈N●
︵
1
4︶Oげユω江莞αo頃器Pb騨隷魯∼§亀醤ミ織S貰>。﹄●民①昌昌巴<9界く薗昌ざ8こO鳳〇三レOミ﹄い囚q器P臼こ
︵姐︶ 拙稿﹁ピエール・ダイイの統治論!公会議主義政治理論に関する考察i﹂﹃法学研究﹄第六〇巻六号、一九
八七年、七一ー一〇四頁。
日O昌ω9α一ωOO仁円ω︸P一一直O・
︵娼︶﹄①ρ昌ORのoP禽ミミ塁sミb慰鷺鉾ぴα・づ曽目一≦讐O一〇ユ①=き勺蝉ユω一一〇①Qo堕<o一。<目㈹一、○ざ≦①閃轟口O巴鴇︶のR−
一qO9℃●O包.
︵44︶ 空①霞①α、>旨ざ国鳳誓轟”血﹄o”昌旨①ヨ図図一目︶営﹄o”昌O①おo戸e魅、亀○ミ鳶や炉国U=且P①αこ>旨薫①6鰯
︵45︶Oo≦一一ρ>こ∼ミ§、蕊費卜亀Qミ恥絵融ミ賊ミ愚ミ§蔦9魯亀ミ8§ミ§8ミ恥ミ織ミ図§恥糠亀♪℃四ユω一一〇ω蝉O¢①泳ρ
ωこ¢昌目窪母ρ⋮。の8捧ひ・一.ゆ器麟脇冒讐身身。α.Oま窪ω8ぎ詣ヨ夏巴き刈㌔畳ω﹂。貫
卜、恥§息還織ミき鮎Pω①一。
︵46︶ ﹁それは、暴君が実際に現れる可能性を、この時代がいかに忘れていたかをよく示している。﹂因蔓9戸脂●
Qρロ℃。O一−目ド
国寅昌oρ↓ミ醤肋§畿o§。。o、ミq肉ミミ蚕蹄、ミ魯ミの09偽童859︿o一.GQ鱒一〇Q
︵47︶ ﹄o昌⑦9一≦‘ωoコゆお8昌ω魯げo昌ω国声昌Oo矯ω︶90衝昌讐”ひq①曽昌α日①”三昌ひqo︷q①器o昌ぎ一緯①ヨoα一①<巴
ノ
O魯“ミ塁噛Oり一〇ωPロPN認IN巽’
︵48︶ω”ヨ”轟戸O﹃こOげ餌旨①日ω曽ヨび三帥具の9寓oロ帥曽づα①づo一三ρ口①ωo口ωい09ω図ン窪ミ&き8ミ魯、肉ミ融魯
︵50︶冒薗旨一戸くこト塁O試幡き題亀ミO“NN苛貸§詠ミ︸勺”ユ9一80・
︵姐︶内q昌OP﹄‘卜、鮎ミ旨篤ミ織黛ミ斜℃Pωまーω認●
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