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6.ヴェリコ・タルノヴォ(ВеликоТърново)

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6.ヴェリコ・タルノヴォ(ВеликоТърново)
はなく、ましてや正教には全く縁がないから、祈りを
捧げるような気持ちにはならないけれど、「この場
所を大切にする人々の意識」には、幾分共感でき
るのだろう。
いつもより若干長く堂宇内にとどまったものの、
それでも10分強が限界で、聖アナスタシオス教会
を出る。
ぶらぶら歩いても10分ほどで宿へ戻り着いた。
部屋に入ってみると、ベッドの上におかしなものが
置いてある。バスタオルを折りたたんで作った犬だ。
目玉を表現するのに、サングラスを掛けさせている。
これは私のもので、出かけるとき曇りだったか
らケースに入れてサイドテーブルの上に置い
といたものだが、それを持ち出して犬を完成
バスタオルで折った犬。
させている。
カメラアングルを替えながら、この犬を10枚撮影し、これで満足して犬をばらしてしまった。
後で、「折り方の手順を、ばらしながら撮影して置けば良かった。」と思ったが、後悔先に立た
ずだ。
6.ヴェリコ・タルノヴォ(ВеликоТърново)
部屋に備え付けのパー
コレーター。コーヒー粉
はどうするのだろうか?
ヴェリコ・タルノヴォ行き列車
11月8日も、曇り空の朝を迎えた。昨日同様、一階のカフェで朝食を済ませ、9時半にチェック
アウトする。二泊で120Lv(6,590円)を、クレジットカードで支払った。
今回の旅で、移動経路に関する大雑把な構想は、まず東端まで一気に行き、それから興味を
惹かれたところを訪ねながら、徐々に西へ戻ろうというものだ。ほぼ東端の三箇所、ブルガス、ネセ
バル、ヴァルナが終わり、若干西へ戻ったヴェリコ・タルノヴォが今日の目的地となっている。
この街への移動手段としては鉄道以外に、英ガイドによれば長距離バスも利用可能だ。所要時
間はどちらも4時間程度。
徒歩10分足らずで駅に着き、Veliko Târnovo と記しておいたメモを見せて切符を買う。料金差
は大してないはずなので、一等車にしてみた。料金は16Lv(879円)、渡された切符は3枚だ。PC
から印刷された三枚続きは、それぞれの意味を推測すれば、一枚目が目的地まで363キロの乗車
券で12.5Lv(686円)、二枚目が一等券で
3Lv(165円)、三枚目が座席指定券らしく
手 書 き で A 8 6 と の 記 載 が あ り 0 . 5 Lv
(27円)。
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比較的短距離を走る通勤列車的車両らしい。
プラットフォームに出ると、11時発の列
車は既に入線し、乗車も可能になっていた。
一等車は一両だけの連結だ。ともかく居場
所を確認し、荷物を落ち着かせるために乗
車した。
指定席のA86は簡単に見付かり、先客
がいなかったので撮影を済ませる。車輌は
他の二等車同様に年期の入ったもので、
ソフィア行き列車の一等コンパートメント。
シートの擦り切れ具合も似たようなものだ。
違いはあちらがコンパートメント一室に8人(8座席)であ
ることに対し、こちらは6人で、座席幅がそれだけ広いこ
とぐらいだろう。
しかし一等の追加料金が僅か3Lvで、乗車料金の
24%程度、日本のように50%ほど取るわけではないの
で違いが少ないのも当然と納得する。
発車時刻が迫り、70歳前後の夫婦が乗り込んできた。
会釈を交わす。それからは乗り込んでくる人もないまま
ほぼ定刻に発車した。走り出して車体が振動すると、窓
の上部が下がりだし、風が吹き込んでくる。老夫婦は代
窓枠上部のピクトグラム。「瓶投げ捨て禁止」はともかく、「窓から
の乗降禁止」には思わず笑ってしまった。戦後の混乱期はもちろ
ん、四十数年前でも、ゴールデンウィークの行楽地へ向かう列車
で、私自身が乗降したことを思い出したのだ。
わる代わる窓が閉まった状態で安定させるべくあれこれ
試みるが、どれも上手く行かなかった。
肌寒い日だったから、これでは二等車以下の状態だ。しばらくして車掌が通りがかり、夫の方が
これを呼び止めて、(多分)「窓を何とかしてくれ。」と頼んだ。車掌は窓ロック用の専用レバーを
使ったりしてしばらく奮闘したものの、結局どうにもならず、「コンパートメントを替わるしかない。」が
結論となってしまった。裏目に出た一等乗車だけれど、3Lvの料金ならば諦めも簡単につく。
ヴァルナを出発したときは薄曇りだったが、次第に青空が広がって行く。見渡す限りの大平原は、
牧草地であったり、トラクターで耕した広大な畑、そして放置され枯れ草で覆われたところなどが交
互に現れる。
プロヴァディヤを過ぎると丘陵地帯へと分け
入った。定刻の2時17分に乗換駅のゴルナ・オ
リャホヴィツァに到着。
キリル文字が読めないので、時刻から推測し
て間違いないと思いつつも、ヴェリコ・タルノヴォ
への乗換駅なのかを、同じコンパートメントの乗客
に確認した。さらにプラットフォームで駅員に乗り
換えるべき番線を訊く。
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車窓風景。見渡す限りの大平原。
この駅は交通の要衝で、ソフィアとヴァルナを
東西に繋ぐ線と、北へ向かって国境の街ルセ、そ
の先はルーマニアのブカレストまで至る線、この線
の反対方向はヴェリコ・タルノヴォを経由し、スタ
ラ・ザゴラに至り、此処でソフィアからブルガスへ
川の蛇行は珍しくもないが、ツァレヴェツの丘
を回るヤントラ川ほどのものは世界中でも稀だ
ろう。濠として人工的に造られたかと思うほど
だ。それに加えて川から丘への斜面は急峻な
ため、天然の要害を利用して第二ブルガリア
帝国の首都が築かれた。
行くのに利用した(東西)線と交差する。
そして到着した2時半頃は列車が集中し、2時28分発が(ヴァルナから
乗ってきた)ソフィア行き、32分発がスタラ・ザラゴとルセ行き、47分発が
ヴァルナ行きで、駅には合計4本の列車が停車していた。間違えないように
慎重に乗り換える。
異国を旅して乗り継ぐ際、神経質になるのは毎度のことだけれど、それ
プロヴァディヤ駅。女性駅長だった。
でも今回は若干気楽だった。間違えて予定外の場所へ運ば
れてしまっても、タクシー代として1キロ50円をみておけば何と
かなると思うからだ。
閑話休題、ともかく無事にヴェリコ・タルノヴォへ辿り着くこと
ができた。しかし駅は街の中心部から3キロほども離れた位置
で、カフェが一軒辛うじてあるような辺鄙な場所だ。
ちなみに鉄道は(このページ上部の地図に示されるように)
平面的にみれば街の中心部を横断する。しかし川の水位に近
いような標高に設けられた線路は、市街地からすると20メート
ヴェリコ・タルノヴォ駅前バス停。
ルも低く、また川岸付近に平地はほとんどないために、駅を建
設することは不可能に近い。
下車したのは20人くらいだが、旅行者風は私だけだった。駅前広場でタクシーが数台客待ちを
している。低料金なのは判っているが、ぼられることも多そうで利用を躊躇する。英ガイドによれば
10、12、14、70、110番のバスで市街中心部に行けるはずだ。それらしい人々の後について行く
と、50メートルほど行ったところにバス停があった。
ここまでは順調だったものの、次々来るバスに当該番号はなく、一方バスを待つ人間は一人も
いなくなってしまった。まだ時刻が早く、宿は昨日シティマークのフロントに頼んで確保できていた
ので、気長に待ってみた。しかし半時間が経過し、英ガイド情報が間違っているとしか思えなくなる。
タクシーで行こうと、駅前広場に引き返す。きわどいタイミングだった。最後の一台が、客も来ないで
あろうと見切りを付けて発車しようとしている。慌てて手を振り、
何とかこれに乗り込むことができた。
日本でいえば軽自動車クラスの小型だが、一人で乗る分
には全く問題ない。英ガイドの Hotel Studio を示すと、すぐに
理解してくれて走り出す。後ろから見ているとタクシーメーター
は間断なく上がるが、0.01Lv(55銭)単位なので金額としては
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タクシーの車内。中心部の白くて四角い装置がメーター。
取 る に 足 り ない 。4 キ ロ 弱 走 って 料 金 は
3.1Lv(170円)。チップ込みで4Lv(220円)
渡した。降りるときのどさくさでデイパックの
ポケットに突っ込んでおいた電動歯ブラシ
が飛び出してしまったけれど、運転手が目
敏く気づき、拾ってくれてことなきをえる。
ブルガリア料理サチ(САЧ)
ホテルスタジオで泊まった部屋。正面にツァレヴェツの丘が見える。
英ガイドが特に推奨するホテルスタジオは、市街の東端にあり、
「趣味の良い内装と眺めの良さ」が主たる推奨ポイントだった。半
信半疑でロビーに入ると30代で長身快活な男性が笑顔で迎えて
くれた。
予約はすぐ確認でき、泊まる部屋を下見させて貰う。彼はもち
ろんと答え、ガラスの玄関ドアに施錠すると先に立って階段を登っ
ていった。エレベーターはないらしい。
各階は階段を中心にコの字型に5部屋あるこぢんまりした構成
だ。最上階が4階で、東側の部屋が提供されたものだ。一部が屋根
で削られているが、狭さを感じることはなく、ましてや屋根裏部屋の
うらぶれた感じはない。正面にツァレヴェツの丘が見えるのはなんと
いっても魅力的だった。浴室も点検し、満足である旨を伝える。
部屋に落ち着き、時計をみると4時10分前だ。朝食後は移動
に集中していたので、何も食べていない。食事時刻としては中途
半端だが、この後夕食を取らないから気にすることもない。英ガイ
ドを開き、近場でかつ「特に推奨」のシュタラストリヴェツァ(幸運食
市街中心部の景観。
堂)に目星を付けた。
ホテルの近くに聖母教会が由緒ありげなドームを聳えさせている。しかしこの街には二、三泊す
るつもりなので、後刻ゆっくり
見物すればよい。振り返れば
ツァレヴェツの丘、右手を見お
ろせばヤントラ川や先ほど通
過した鉄道がある。5分も歩く
と、今度は左手に視界が拡
がった。坂の多い街はどこも、
ほぼ間違いなく変化があり魅
力的な景観を眺めることがで
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きる。ヴェリコ・タルノヴォも例外では
なかった。
此処の人口は7万5千だが同程
度の日本都市(私の知るところでは
中津川、大館など)に比べ、活気が
あるように感じられる。ビルは少な
いものの商店や飲食店が軒を並べ、
車道の両側に設けられた幅4メート
ルほどの歩道を行き交う人が絶え
上左:テラ・タングラのティーティーレッド。
下左:ミックス焼き肉(サチ)
上右:グリーンサラダ。
下右:素焼きピザ?
ない。
そんな街並みを見物しながら、
宿から15分ほどで目指すシュタラストリヴェツァに辿り着いた。半端な時刻ゆえか店内は閑散として
いる。どこでも良いといわれ、テラス席越しの歩道が眺められるガラス壁際のテーブルを選んだ。
ウェイターが分厚いお品書きを持ってくる。
老眼鏡を掛けてお品書きに目を通してみたが、英文が併記されていてもあまりに多い品揃えに、
頭がくらくらしてくる。すぐに諦め、ワイン、サラダ、メイン(肉)ごとに、ウェイターのお奨めを訊き、お
品書きに記されている値段と重量(サラダ350㌘、焼き肉(半量)400㌘)だけチェックして、問題な
かったのでそれにする。
すぐ運ばれてきた赤ワインは癖もなく、それでいてワインらしい感じが好ましかった。調べてみる
と日本でも通信販売により千円台後半で入手できる。
サラダは胡瓜、赤カブ、サニーレタス、ネギ、オリーブの実などが盛られていた。しかし塩、胡椒、
酢、オリーブオイルは自分で掛けるから、あまり店の特徴といったものは出ない。不満もなかったけ
れど感心もしなかった。
ミックス焼き肉は興味深い料理だった。数種類(多分、牛、豚、鶏など)の肉と、ベーコン、タマネ
ギ、茸などを陶磁器の皿に盛り、ソースをかけてオーブンで焼いたようだ。ウェイターは、「熱いから
気をつけて。」の注意と共に皿をテーブルに運んできた。この類の、皿に載せ、ソースを掛け、オー
ブンで焼いた料理をサチ(САЧ)と呼ぶらしい。今回食べたものの正式名称は
ДРУСАН КЕБАП ОТ МЕШАНО МЕСО НА САЧ。ピザ生地に(多
分)同じソースをかけて焼いたものが付け合わせになっていた。
焼き肉の味付けは濃いめだったが、濃厚な味わいはワインを引き立てる。合
間に口にしたサラダや素焼きピザも全体として上手く調和した。食事が遅くなり、
空腹状態がかなり強かったこともあり、時間はかけたものの気持ち良く完食する。
最後はいつものミルクコーヒー。
勘定は、ワイン18.9Lv(1,038円)、サラダ3.9Lv(214円)、焼き肉(半量)
13.9Lv(763円)、ミルクコーヒー(珍しく1項目)1.5Lv(82円)。
宿への道すがらウォッカ(FLIT 1㍑)12.2Lv(670円)を購入。
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食事を終え表へ出ると、月が出ていた。
5時18分。
ツァレヴェツの丘
夜中にトイレへ行き、若干肌寒いような気がした。持参の温度計をみると17℃だ。問題になるよ
うな低温ではないけれど、エアコンを操作して、これ以上室温を上げられないことに引っかかった。
ソフィアでは三種類も暖房方法がありながら、有効だったのは電熱対流式で、それも能力的には不
足気味だった。ブルガスでの不調は既に記したし、ネセバル、ヴァルナの双方でも室温が18℃以
上にならなかったことを思い出す。まだ11月でこのような状態だと、厳冬期にはどうなるのか思いや
られる。
早寝の結果として、かなり早い時
刻に目を覚ましたものの、ぐずぐずと
ベッドの中で過ごした。7時15分前
になり、レースのカーテン越しに表
がかなり明るくなっているのが判る。
明け行くツァレヴェツの丘を撮影す
るために起床した。
取り敢えずフランス窓のそばへ
行き、カーテンを掻き分けて表を見
る。丘の麓が薄い霧に覆われ、予想
以上の景観となっていた。身支度を
整え、カメラをバッグから取り出し改
めて窓のところへ。
扉を左右に開き、手摺りの上に
左遠景はツァレヴェツの丘のキリスト昇天教会。
持参のポリ袋に入れた油粘土を置
き、これを支点としてカメラを構える。気温は7℃だからコートなしだと寒いけれど、風がなかったこと
と寒気に曝されるのは比較的短時間なので我慢した。
撮影結果をモニターで確認しながら、色温度設定を変更したり、レンズの焦点距離や構図も変
える。途中二度ほど小休止しながらも約10分の間に40枚ほど撮影した。7時になり、「日昇風景」
の雰囲気もなくなり撮影を完了。
8時になり朝食を摂るために階下へ降りる。ホテルが経営するレストランで供されるが、内部的に
は通路がなく、一旦表へ出て地下へ通じる階段を降りる。入り口付近にバーカウンターがあり、フロ
アには4人掛けテーブルが八つほどあった。
奥のテーブルに品数こそ少ない
ものの、ビュッフェスタイルでパンや
ハム、ソーセージ、チーズなどが並
ぶ。先客もスタッフもいない。声をか
けると奥からウェイトレスが現れた。
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品数は少ないが一応ビュッフェスタイル。
暖かいものが注文できるとのことで、ハ
ムエッグ、そして飲み物としてミルクコー
ヒーを頼んだ。
20分ほどで、簡素だけれど充分な朝食
を取り終える。この間に誰も訪れることがな
朝食のハムエッグとソーセージ、チーズ。
かった。泊まり客が少ないのだろう。
ちなみに此処は英ガイドのお奨めレストラン
に入っている。しかし訊いてみると、朝食の提供
のみで、レストランとしてはシーズンオフ休業中ら
しい。
泊まったところの外観。中央部、HOTEL文字の下がその部屋。大きい方
がフランス窓で、小さい方は浴室の窓。
ツァレヴェツの丘
第一ブルガリア王国が滅んだ後、ヴェリコ・タルノヴォも約170年の間、ビ
ザンチン支配下となっていた。しかし税の軽減要求をきっかけに、ビザンチン
に対する反乱が勃発した。1187年に至って独立が認められ、第二ブルガリ
ア王国が成立する。
首都となったのがヴェリコ・タルノヴォで、天然の要害であるツァレヴェツの
丘に城塞と王宮が築かれた。この地が王宮となったのは地形的に防衛が容
易だったためだろうが、丘の上には平坦地が広がっていたので、王族や貴族
の住居だけではなく、500軒もの一般住宅や工房もあった。そして数多くの
住民を対象とした、21もの教会が存在したそうだ。
第二ブルガリア王国はイヴァン・アセン2世(在位:1218年 - 1241年)の頃
に最盛期を迎え、黒海、エーゲ海、アドリア海にまで版図が及んだ。しかし小
アジアから次第に勢力を拡大したオスマントルコにより圧迫され、1393年に
は滅ぼされる。
ツァレヴェツの丘は滅亡まで王国の首都であり、オスマントルコに引き渡
すとき、最後の国王イヴァン・シシュマンは戦火で焼け焦げた木を教会の庭
に植え、「これに花咲くとき、ブルガリアは再び独立する。」と述べたと伝えら
れている。
10時近くなっていよいよツァレヴェツの丘へ
向かう。晴天にくわえ風もなく、絶好のハイキング
日和だ。宿から僅か100メートルのところが、
ツァール・アセン広場で、ツァレヴェツの丘への
入場ゲートがある。料金は6Lv(330円)。
ここでアルバナシなど北方の村落へ繋がるミト
ロポルスカ通りと分岐し、城塞の正門へと通じる
石畳の道が始まる。かつて第二ブ
入場ゲート付近。左の車道がミトロポルスカ通り。
ルガリア王国が繁栄を誇っていた頃
の状態を復元したものらしい。
緩い上り坂を行くと、石造りの門があり、その手前に木製の跳ね橋だ。往時を再現し
ようとしたのか、手斧で仕上げたような角材は不揃いで、隙間から10メートルくらい下が
見える。数センチしかない隙間だから、危険など何もないのだが、加齢と共に高所恐怖
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跳ね橋をミトロポルスカ通りから
見上げる。
症の度合いが強まり、この程度でも生理的にゾクッとなる。
跳ね橋を渡り、三つの石造り門をくぐると城塞敷地内に入る。
掲示されている案内図からすれば、軒を連ねて多くの建物が
あったらしいが、今はどれも瓦礫となっている。
遊歩道は枝分かれし、特に順路といったものはないらしい。
ともかく一番小高いところにある、キリスト昇天教会を目指して
登っていった。教会間近まで辿り着いたとき、物売りなのか公
園係員か見分けが付かなかったが、オバサンが頬笑みながら
ドブロウートロ(おはよう)と声をかけてきた。こちらもようやく身に
ついてきたところなので、引っかかりながらもドブロウートロと返
す。しかしそれ以上言葉を交わすことはできなかった。
キリスト昇天教会は無人だったが、正面の扉は施錠されて
い な か っ た 。一 応 内 部 を見 た も の の つ ま ら な い と こ ろ だ 。
ツァレヴェツ要塞遺跡への道。手前の石造り門がメイン
ゲートで、その手前に跳ね橋がある。丘の上にキリスト昇
天教会。
1186年から1394年までブルガリア総主
教座が置かれていた場所だが、その頃の
痕跡はかけらもなく、今ある建物は社会主
義時代に建設されたものだ。壁画などが
あるけれど趣味が悪い。
この教会の良さは内部にはなく、丘の
上にすっくと聳えた立ち姿の良さと、教会
前からの眺望だろう。市街方面を眺めると、
宿の裏手にある聖母教会の青銅色ドーム
がはっきり見える。それならばと単眼鏡を
取り出し、教会の手前を探すと、泊まって
いる部屋のフランス窓まで確認できた。
北方に視線を転じると、由緒ありげな
教会がある。レンズを望遠系ズームに交
換して撮影。2時間後に教会のそば(門は
閉ざされていたので塀まで)で確認したと
ころ、聖ディミタル教会だった。
教 会 の周 りを景 観 を眺 めながら廻 っ
ていると、60歳位の米国人風カップルが
丘を登ってきた。さっきのオバサンと何事
か話していたから、ブルガリア語ができる
らしい。
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いずれもキリスト昇天教会前から。上:西方を望む。ヴェリコ・タルノヴォ市街。泊
まっている宿も小さく写っている。下:北方を望む。真ん中に聖ディミタル教会。
教会から北方へ下って行くと、復
元された王宮がある。日ガイドによ
れば、「外観からは想像できないくら
い立派で、タイル、レンガ石細工、
壁画で飾られていた。儀式を執り行
う戴冠ホールはとりわけ華やかで、
エジプト産の緑の蛇紋岩や桃色大
理石、色彩豊かなモザイクで装飾さ
れていた。」なので、話半分にしても
復元された王宮。閉ざされていたので内部は見ることができなかったが、王宮前の紅葉と
青空のコントラストが印象に残る。
それなりの期待があった。しかし
シーズンオフのせいか無情にも閉ざ
されている。
王宮からさらに北へ、基礎部分のみが残る遺跡の間を進む。
次第に左右の城壁が狭まり、岬のようになった部分が城塞の最北
端だ。此処にある、「世捨て岩」と呼ばれる切り立った岩は、反逆
者の処刑場所であったとされる。
遊歩道とは柵で仕切りがされているものの、低い柵なので容易
に乗り越えることができる。もちろん高所恐怖症だからそんな真似
はしない。それどころか離れた場所から撮影していても、落ち着か
ない気分になってしまうのだった。
東側の城壁に平行して南へ向かう遊歩道があった。城壁云々
は地図から判ることで、実際に見ることはできない。幅2メートルほ
どの小径は急な坂もなく、これぞ「小春日和」の天候に恵まれ、林
間の道をのんびり辿るのは至極寛いだ気分になれる。時たま遠く
の方から話し声が風に乗って流れてきたりするものの、人と行き交
うこともなかった。
世捨て岩。反逆者を突き落として死刑に処したという。
未舗装の歩道は、ぬかるんでさえいな
ければ感触が柔らかく、歩いていると心地
良い。やがて道は緩い下りに変わり、樹林
が疎らになってキリスト昇天教会の鐘楼が
垣間見えたりする。
さらに視界が開けると、城壁の一部に
設けられた四角い監視塔が見えた。ボー
ドワン・タワーと呼ばれているものだ。
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世捨て岩からボードワン・タワーへ繋がる遊歩道。
この塔の名前は、(コンスタンチノープ
ルに十字軍が建国した)ラテン帝国の初代
皇帝ボードワン一世に由来する。1205年
にブルガリア皇帝カロヤンがラテン帝国を
侵略してボードワンを捕虜とし、この塔に
幽閉したそうだ。
塔は監視しやすいから、歴史的に監獄
替わりに使われたことは多々ある。有名な
ボードワン・タワー。背後に見える水面はヤントラ川。
例ならばロンドン塔だろうか。しかしボード
ワン・タワーはいかにも貧弱で、一国の皇帝を虜囚としておく
には不足なように思われた。当時の軍事的力関係から、そん
な不安などなかったのだろうか。
二階建ての塔は、胸壁狭間により囲われた屋上に、外階
段を使って登ることができる。石段は幅が60センチほどで、
鉄棒の手摺りもある。しかしこの手摺りは外側ではなく壁に取
り付けられ、つまりしっかり掴まっていれば落ちる心配はない
が、それ自体が墜落を防止してくれるわけではない。
高度的に大したことはないものの、跳ね橋のところでも書
いたように高所恐怖症の傾向が強まっているだけに、おっか
なびっくりの階段昇降だった。訪れる人もなく、みっともない
格好を見られずに済ん
だのは幸いだった。
ボードワン・タワーを
降りると、南側城壁に沿っ
た遊歩道を行き、先ほど
正面ゲートから辿った道
と交差する。この付近は
南側城壁付近から見上げるキリスト昇天教会鐘楼。
観光客が一番多く通過す
るところだが、今は通行人も少なくカフェは閉まっていた。
腹具合に若干の不安があり、トイレを探す。何とか見つけた
ものの、洋式便器の便座がないものだった。ヨーロッパの公衆
トイレではしばしば見かけるけれど、余程切羽詰まっていない
と利用する気になれない。このときは宿まで戻っても10分足ら
ずだったので、小の方だけ用足ししトイレを出る。
西側城壁に平行する遊歩道を行くと、住居跡や教会跡の
遺跡が多数あるが、見て面白いものはなかった。
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上:正面ゲート第三門からの聖母教会。下:西側城壁監視
塔と聖母教会遠望。
世捨て岩付近まで行き、ツァレヴェツの丘城塞遺跡は一通り見たこ
とになる。明日もこの街に滞在することだし、入場料は安いから再訪も
ありと、取り敢えず遺跡を去ることにした。
入場ゲートまで戻ると、車道の向こうにカフェがあり、テラス席も用
意されているのが見えた。一旦店内に入り、ビールが飲めることを確認
してテラス席へ運んで貰う。その場で即清算。控えがなく不正確だが、
500cc一壜が3Lv(165円)程度だったと思う。
ビールを一口飲んでから、此処のトイレで用を足すことにした。開
店直後ということもあるだろうが、明るいトイレは掃除も行き届き、気持
入場ゲート付近のカフェ。テラス席でビールを一杯。
ち良く使うことができた。ところがトイレからテラス席に戻ってみると、隣
のテーブルに若いカップルがいる。
それはよいのだが、風上で二人揃っ
てタバコを吸うのだ。今さら店内に逃
げ込む気もせず、残ったビールを一
気に飲んで、そそくさと退散する。
カフェ前の車道を下る。ツァレ
ヴェツの丘の麓に沿い、左手にはヤ
ントラ川が流れ、川面が次第に近付
いてきた辺りに聖40人の殉教者教
会がある。これは地図で簡単に確認
できたものの、1230年創建の教会と
は思えない外観の新しさに戸惑う。
おまけに入り口がどこなのか見当が
付かない。
しばらく辺りをうろうろして、ようや
上左:聖40人の殉教者教会。上右、下左右:古い壁画が剥ぎ取られ移植されている。
く仕組みが判る。下ってきた街道は
左に曲がり教会の裏手を通ってヤントラ川に架かる石橋で対岸に通じている。この道路の向こう側
に、宝くじの販売ボックスのごとき切符売り場があり、此処で入場券を買って石橋をくぐる(戻ってく
る)と教会外周の塀に入場門があった。
入場料は5Lv(275円)で、別途撮影料が5Lv(275円)だった。明るい感じの教会前庭を通り抜け
教会内に入る。しかし内部を巡回しても、私に取って興味深いものは見当たらなかった。創建は旧
い建物だけれど、オスマン時代にモスクに転用されたりしたためか、辛うじて古い柱などはそのまま
残っているものの、構造の大部分は随分新しいものに見える。
移植された壁画などが展示されているが、具眼の士ならばいざ知らず、節穴同然の眼では、損
傷の著しいことばかりが意識されるのだった。
ブルガリアのカロヤン王(在位1197年~1207年)、イワン・アセン2世(1218年~1241年)、聖サ
-62-
ヴァ・スラブスキー(1175年~1235年)、王妃アン
ナ・マリヤ(1204生~1237年)やイリナ・コムニノス
が埋葬されているとのことだから、ブルガリア人な
らばこのことに感銘を受けるのかもしれない。
10分強で聖40人の殉教者教会見物を終え、
此処まで来たついでなので300メートルほど先に
ある、聖ペテロ・パウロ教会まで足を延ばす。こぢ
んまりして瀟洒な教会を見ることができたものの、
外周の鉄格子作に設けられた門は施錠されてい
た。格子の間から撮影し、踵を返す。
殉教者教会までの中間ぐらいに橋があり、ヤ
ントラ川の左岸へ渡った。今は歩行者専用らしい
この橋は、桁までを鉄骨で組み、床版は木造に
なっている。老朽化したためか板の間に隙間が
できているところがあり、川の流れが見える。だか
らといって足を踏み外すような恐れは皆無だけれ
ど、やはり生理的にゾクゾクさせられた。
橋を渡ったのは150メートルほど下流にある、
聖ディミタル教会を訪ねるためだ。この教会の歴
上:聖ペテロ・パウロ教会。下:聖ディミタル教会。
史は、第二ブルガリア帝国と深く結びついている。
帝国を興したアセンとペタルが、ビザンチンに対して蜂起(1185年)する際、戦いをここで宣誓した。
帝国成立後はこの教会でペタル王(在位1185~1186年)、アセン王(在位1186~1196年)、カロヤ
ン王(在位1197~1207年)の即位式が行われたそうだ。
しかし此処も教会周囲の石塀に設けられた木製の門は閉ざされていた。鉄格子より撮影できな
い分面白くない。仕方なく塀越しに見た教会の外観は、様式的には古いものだろうが、状態は良い。
近年に修復作業が行われたのだろう。
時計を見ると12時半だ。時分どきでもあるし、明晩もこの街にとどまるつもりなので、あまり急い
であれこれ見る気分にはならなかった。店は昨日と同じ幸運食堂を目指し、途中で食指が動けば
変更しよう。そんなことで来た道をほぼ忠実に戻り、宿のそばを過ぎてしばらく行き、途中で大通りと
平行するチャルシャ通りを歩いてみた。
この通りはかつて職人街だったらしい。今でも革製
品、木彫り、金銀細工などの工房を見かけるが、それ以
上に土産物屋と飲食店が目に着く。車は原則的に入れ
ないので、歩いて見物するには良いところだが、ちょっ
とばかり観光客相手の雰囲気が強すぎて、あまり寛いだ
気分にはなれない。
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チャルシャ通り.。
店や工房を覗いていれば、いくらでも時間がかかりそうだけ
れど、再訪する可能性もあるので、この時はほぼ素通りし、5分
もかからないうちに大通りと合流する。
結局合流点から3分ほどで、幸運食堂に着いてしまった。1
時を廻ったばかりだが、昨日坐った辺りには先客が一人だけ。
しかし地下の席では眼下にヤントラ川、そしてアセン王記念碑
などのパノラマが見られるはずだ。入り口にいたマネージャー
風に訊くと、「どうぞ。」ということで階段を降りる。確かに期待し
た通りの景観だったから、その分だけ人気も高いようでほぼ満
席だ。気後れして結局昨日と同じテーブルに着いた。
今日こそ分厚いお品書きと格闘しようかと思っていたが、数
分で諦める。サラダはブルガリアならば定番のショプスカサラ
ダにする。やはり一番支持されているだけのことはあり、どこの
店でも安心して食べられる。メイ
上:ショプスカサラダ。下:ラムの炒めものとニンジン。
ンはウェイターに訊いて、ラム肉
の ト ラ キ ア 風 を 正 体 不 明 の ま ま 頼 ん だ 。 ワ イ ン は 赤 で 1 5 . 8 Lv
(868円)を指差して注文。
ショプスカサラダはいかにもそれらしいものが供され、満足という
か不満はなかった。ラム肉の方は何やら不思議なものを食べさせら
れた感がある。不味くはなかったのだけれど。
天井からつり下げられた液晶モニターでTVが放映されていた。女
子重量挙げの世界選手権らしい。日本ではあまり見かけないような気
がするプログラムだが、こちらでは人気があるのか、あるいは一般放
送ではなくスポーツなどに特化細分した有線放送の類なのだろうか。
不思議に感じたのは音声が一切流されないことだ。どうせブルガ
リア語は皆目判らないし、重量挙げだから説明なしでも起こっている
ことは理解できる。しかし仮にも客に見せようとしているならば、プロ
巨大壁画。建物は教会ではなかった。
グラムの選択理由、そしてなんのために無音なのかが判らなかった。
1時間弱で全てを平らげ、ミルクコーヒーで終わりにする。勘定は、サラダ
3.9Lv(214円)、ラム13.2Lv(725円)、コーヒー1.5Lv(82円)、そしてなぜかミルク
ピッチャー(каничка мляко)も0Lv(円)で印字されていた。
食後に観光案内所を訪ね、市街平面図などを入手してから、宿へ戻りつつ街
を見物する。宿から至近の聖母教会にも寄ったけれどつまらない。街一番の教会
でありながら、歴史の重厚さや豪華な装飾などはない。ヴェリコ・タルノヴォに限っ
たことではないが、結局長い間オスマントルコ支配下に置かれ、その後も豊とは云
えないこの国の状況を反映しているのだろう。
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気立ての良い犬。飼い犬か?
宿へ戻って午睡と読書で夕刻を迎えた。ベッ
ドに寝たままフランス窓ごしに見えるツァレヴェツ
の丘に視線を送ると、いつの間にかキリスト昇天
教会の右上に満月がかかっていた。
英ガイドのお奨めポイントとしては屋上からの
景観が挙げられていたが、位置的にほとんど同じ
この部屋に泊まり、宜なるかなと思いながら、「こ
ちらの方が数段勝る。」と独りごちた。今の時期に
屋上はいささか寒いし、例えば月と教会の位置関
係がベストになるタイミングなどを、部屋ならば読
書や飲酒の合間に、時々視線を投げてやればよ
いのだから。
4時47分に撮影を開始した。モニターで画像
を確認して設定を変更したりしながら、光線の変
化を待って断続的に撮影を繰り返す。最後の
ショットを終えると5時40分になっていた。
辺りもとっぷり暮れたことだし、すぐにも晩酌開
始したいところだがその前に外出した。
昼間見たドネルケバブを買うためだ。元々トル
上:4時52分。キリスト昇天教会と満月(実際には月齢13.3)。下:5時
40分。城壁と教会がライトアップされている。
コ料理だが、オスマントルコ支配下で文化的な同
化もかなり進んだようだから、ブルガリア郷土料理の一品と考えても良いかもしれない。この辺りの
詮索はさておき、この料理は、「屋台料理」に近いもので、そし
てかねがね愛好しているものなのだ。
徒歩5分のところにあるドネルケバブ屋は、店内に立ち食
いスタンドもある、ブルガリア流ファーストフード店だ。店員に
英語は通じないものの、他にメニューは基本的にこれだけだ
から、注文は簡単にできた。
店のアンチャンが回転しながら焙られている肉塊から、長
い専用のナイフを使い焼けた部分を削ぎ落とす。目の前でこ
の課程を見せられれば、一段と食欲が刺激される。ピタ(ピザ
のドウだけを焼いたような平べったいパン。ピザの原型だという
説もある)にレタスの刻んだものやフライドポテトと一緒に包み
込み、さらに藁半紙のような紙でくるみ手渡してくれた。
これ一個が2Lv(110円)だった。即座に熱々の状態で食べ
るのが一番美味そうだけれど、晩酌のツマミなので我慢する。
宿への帰路を急ぎ戻った。
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上:持ち帰ったドネルケバブ。下:撮影のため中身を披露。
削ぎ落とした焼き肉に、レタスの他フライドポテトなども一
緒に包まれていた。撮影後に巻直して食べる。
洗濯屋
11月10日も高曇りで地表近くは
薄い霧に覆われた朝を迎えた。前
日と大差ない画像になるだろうと思
いつつも、ツァレヴェツの丘とキリス
ト昇天教会が朝日を浴びて徐々に
その姿を浮かび上がらせるのを目
の当たりにすると撮影せずにはいら
れない。
6時44分。お気に入りのショット。
何しろ身支度もほとんど必要なく、
窓を開けるだけで良いのだし、撮影
コストは只に等しい。これでひょっとすればより良い成果が得られるかもしれないのだから。さすが
に時間にして2分間、8枚だけだったが、期待は半ば当たり意に染むショットがあった。
8時に朝食を済ませた後も、部屋で読書などに時を費やす。ヴェリコ・タルノヴォ出発は明日だ
が、それまでにとりわけ見たいものや訪ねたい場所はなかった。それでももう一泊するのはこの宿の
居心地良さ、街の佇まい、そしてブルガリア全土を見渡して、魅力的に感じられるところが限られて
いて行き場所が少ないことなどの複合的結果だ。
9時半になって読書にも疲れ、散歩がてら街へ出かける。取り敢えずの目的はカッターシャツの
洗濯だ。10日ほど着ているのでそろそろ限界だが、浴室での手洗いでは不充分だし脱水も大変
だ。街の洗濯屋に頼みたいと思っていた。英ガイドには Ladybird が一軒だけ紹介されている。
数回通って既にお馴染みと感じるニコラ・ピコロ通りからステファン・スタンボロフ通りを行き、英
ガイドの地図から市街平面図に転記しておいたのを頼りに脇道に入る。ところが探す街路名はあり、
当該番地まで行き着くことができたものの、肝心の洗濯屋がない。
番地を誤植した可能性も考えてこの街路を虱潰しに見て歩き、さらには途中にあったホテルの
フロントで訊いてみるが、「洗濯屋などこの界隈にない。」とつれない返事だ。
幸い観光案内所までは数分の距離だ。立ち寄って洗濯屋の紹介を頼むと(こんな質問は少な
そうなのに)即答して、こちらの差し出した市街平面図にマークを付けてくれた。昼飯を二回食べた
幸運食堂のすぐそばだ。
今度は簡単に見付けることができた。ちなみ
に店が入居しているビルの前には立て看板が出
されていて、先ほどこれの脇を通過したはずだけ
れど、意識には全く残っていない。日本語(漢
字)ならば視野の隅でも反応したかもしれないが、
キリル文字と控えめな英語ではまるっきりだった。
洗濯屋は地下にあった。ドラム式洗濯機が並
ぶ片隅にカウンターがあり、無人だったがしばら
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歩道に置かれた洗濯屋の立て看板。
く待つとオバサンが階段を降りてきた。飲み物を買いに
行ってたらしい。英語はほとんど通じないが、デイパック
から取り出したシャツを見せれば意図は明白に通じる。
ポイントは今日中に受け取れることで、その点は慎重
に確認した。正午に受け取る段取りとなる。預かり証の裏
00
に12
と書いてくれた。料金は3.64Lv(200円)で、受け
取り時に支払えば良いらしい。
聖ペテロ・パウロ教会
洗濯問題が解消すると、他にするべきこともなくなり、
洗濯屋の預かり証(実寸大)。Прах柔軟剤の類かと想定され
る。手書きされたApuenが製品名?
ともかく街を漠然と見て廻る。昨日チャル
シャ通りの雰囲気が良かったのでそちらへ
足を向けた。のんびり歩いていれば新たな
発見もある。路地とは石壁で隔てられ、幅
1メートルほどの入り口から垣間見える中
庭は椅子テーブルが置かれ飲食ができる
らしい。
中に入って掃除をしていたオバサンに、
飲み物が摂れるか訊くと、隣接する建物に
入りウェイトレスを呼んでくれた。エスプレッ
ソにも飽きていたので、オレンジジュース
があるか尋ねたら、壜詰めと絞りたての二
種類があるとのことだ。迷わず絞りたてを
注文する。
ハッジ・ニコリの中庭。
テーブルに置かれたこの場所に関する
説明カードによると、元々は1858年に造られた旅籠でХаджи Николи(ハッジ・ニコリ)という名
称だった。現在はレストラン、ワインバー、結婚披露宴会場、博物館、画廊などの複合施設と
なっているらしい。
ともかくこの中庭は石積みの建物に囲まれた佇まいが良いし、比較的喧噪に満ちたチャル
シャ通りから、一歩踏み込んだだけとは思えない静けさだ。すっかり気に入って昼飯は此処で摂る
ことにした。しかしまだ10時半だ。フレッシュ・オレンジジュースの一杯に満足し勘定3.9Lv(214円)
を支払う。
天候にはまずまず恵まれたので、昼飯までともかく歩き廻ることにした。それではどこへ行くか?
地図を拡げてみても旧市街の西に広がる新市街はつまらなそうだし、旧市街もチャルシャ通り界隈
をもう少し歩くにしても狭いところなので高がしれている。ツァレヴェツの丘を再訪する気にもならず、
自ずと足が向いたのは三つの教会があるアセン地区だった。
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ツァレヴェツの丘麓沿いの坂道を下り、真すぐに聖ペテロ・
パウロ教会を訪ねた。しかし辺りに人気はなく、境界柵の門扉
も閉ざされたままだ。さほど未練はなかったものの、わざわざ
来たのだし暇潰しも兼ねて辺りのあれこれを細かく見て廻る。
本来ならば入場券などを販売するらしい窓口は、カーテン
聖ペテロ・パウロ教会入場券売場に貼られた掲示。
を閉ざしていたが、ブルガリア語と英語の掲示がある。日本語
と異なり、一瞥でその大意を掴むことなどできないけれど、落ち着いて読めば英語表示の示すとこ
ろは簡単だ。指示された番号に電話すれば30分で対応してくれるらしい。
辺りに公衆電話はないけれど、携帯電話は持参している。しかしそこまでして見たいほどの気持
ちはなく、そして英語で電話することへの気後れは強かった。
川面が透けて見える歩行者用橋を渡り、日英どちらのガイドブックでも対岸にあると地図に表示
しているのに、昨日はとうとう見付からなかった聖ゲオルギ教
会をもう一度探す。
これも暇潰しの傾向が強かった。ともかく左岸を虱潰しに見
ながら下流へと進み、聖ディミタル教会も再訪する。扉が閉ざ
されていたのは昨日同様だが、「電話をすれば30分後. . . .」
の掲示が此処にもあることを発見した。
聖ゲオルギ教会探索は結局空振りで、そろそろ宿へ帰ろう
かと歩行者用橋を右岸へ渡っているとき、前方を聖ペテロ・パ
ウロ教会へ向かう10名以上の男女高校生風の姿が見えた。
閃くものがあり、彼等のあとを追う。予想通り先ほどまで閉じら
れていた門扉が観音開きになっていて、引率者らしいオバサ
ンを先頭に高校生達は教会の玄関へゾロゾロと進んで行く。
彼等は団体としてそれなりのルートを通じ、予約やら料金
の支払いをしているものと察する。その連中に紛れて只見をす
るつもりは毛頭なかったけれど、それでは誰に許可を求めれ
ばよいのだろうか。
引率とは別のオバサンが玄関のところで待っていて、ドアを
鍵で開けると来訪者を招き入れた。すると彼女が管理者側の
一員と考えられる。しかし許可を得るいとまもなく、すぐに教会
の壁に13世紀から17世紀にかけて描かれた絵画の(多分)説
明が始まってしまった。
ブルガリア語だから聞いてもさっぱり判らないし、そもそも此
処にいることが許されるのかも判らないまま落ち着かない思い
で壁画を眺め、それでも一瞬の間を見付けて撮影の可不可を
尋ねた。既に信仰の場ではなくなっているためかOKだった。
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教会の壁画とそれを鑑賞する高校生達。
13世紀に創建された聖ペテロ・パウロ教会は、建物
としてごくこぢんまりしたものだけれど、オスマントルコ支
配時代(15世紀から19世紀)には主教座が置かれてい
た。オスマントルコが住民の宗教に関して比較的寛容
だったためだが、ともかく他の正教会と異なりほとんど破
壊を免れることができた。壁画の質も高いように思われ
るが、主教座であったことを考慮すればこれも当然なの
かもしれない。
ともかく今となっては貴重・稀少な中世美術品なのに、
引率の女性なども含めて気軽に壁画を手で撫でたりし
ている。ここら辺の意識的低さは困ったものだと思うもの
の、おこぼれで拝観している立場としてはとやかく云うこ
ともできなかった。
壁画などこの教会に関する一通りの説明が終わった
教会の壁画。
ようで、高校生達は退出していった。そんなタイミングで
なぜか管理者らしいもう一人のオバサンが姿を現す。ようやく入場料に関する話ができた。訊くと払
わなくても良いという。しかしそれではあまりに申し訳ない。好意を無にするのも気が咎めため、教会
に対する寄付だと言い訳しながら10Lv(549円)をテーブルに置いた。ちなみに英ガイドによれば大
人4Lv(220円)だったが、撮影料をプラスすれば多過ぎ
ることはないはずだ。それに日本人の感覚からすれば少
なくとも500円程度は支払わないと申し訳ない。
マイクロバスで移動するらしい高校生達とは自然に
別れ、先ほど来た道をツァール・アセン広場まで戻る。
時刻は12時で、洗濯物はできあがっているはずだ。店
まで1キロほどだが、路線バスで行くことにした。余裕が
あるときに乗り方を確かめ(取材し)ておきたい。
前日入手した市街平面図にはバス路線が赤線で記
入され、併記された赤数字で路線番号が判る。バスはこ
の番号をフロントグラス内側に置いているので、キリル
文字が読めない外国人でも不自由しない。日本より
ずっと親切だ。3路線が広場と洗濯屋前を結び、頻繁に
運行されているので、ほとんど待たされずに乗ることが
できた。
車掌が乗車しているのはブルガスから利用したときと
同様だ。降車は日本のワンマンバスと同類の押しボタン
でする。沿道風景は既に頭に入っているから、このシス
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上:路線バス。前面に路線番号。下:路線バス車内。
テムで問題ないものの、切符0.7Lv(38円)を買うときに、車掌に市街平面図を見せて指差し、「此
処で降りる。」といささか過剰ながら慎重を期した。
昼の暇な時間帯だったせいもあったか、車掌のみならず周りにいた乗客も面白がり、降車地点
が近付くと皆でワイワイ教えてくれた。路線バスに乗る日本人も珍しいのかもしれない。ともかく和気
藹々の雰囲気になったのは気持ち良かった。
洗濯屋で料金の3.64Lv(200円)を支払い、黒いレジ袋に入った洗濯物を受け取る。ちなみに
後ほど部屋へ戻ってから取り出すと生乾きの状態だった。乾燥時間が足りなかったのか、ブルガリ
ア人は生乾きを気にしないのか。部屋の暖房がスチームだったので、その上に一晩乗せれば済む
ことではあったが。
奥歯が割れた(その1)
ハッジ・ニコリの中庭も魅力的な場所だけれど、ちょっと肌寒いような気
もして、食事は室内で摂ることにした。大部屋一つと小部屋二つがあり、ど
こでも良いとのことだったので、無人だった10畳くらいの小部屋に席を定
める。
英文併記のお品書きから、マッシュルームスープとラムのローストに、付
け合わせはクスクス(小麦粉から作る粒状の粉食。発祥地の北アフリカから
中東、ヨーロッパ、およびブラジルなど世界の広い地域で食されている)、飲
み物は店の名前を冠したメル
ロー種(赤)のワインをグラス
(170cc)で頼んだ。ハーフボトル
では物足りないし、フルボトルで
ハッジ・ニコリの食堂部分。実際に食事した
のはよく似ている隣の部屋。他に客がいた
ので遠慮した。
は多すぎるような気がしたためだ。
サラダはちょっと飽きが来たので
今回はパスする。
スープを飲んでいると、男女6人のグループが隣の
テーブルに着く。父親が二十歳前後の娘や息子、そし
てその仲間を引き連れて食事に来たような雰囲気だ。
ウェイターとの会話は英語で、全員が不自由しないよう
だ。しかし身内での会話になると、明らかに英語ではな
く、ドイツ語でもラテン系でもないようだ。どこからの旅人
なのだろう。
ラムのローストも間もなく登場。特別印象に残るような
味わいではないが、美味いしワインとの相性も良かった
ようだ。そんなことでグラスワインを追加し、結局フルボト
ル分飲んでしまう。
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上:マッシュルームスープ。下:ラムのローストとクスクス。
ラムローストを半分くらい食べたところで、歯にコチンと当
たる異物があった。取り出してみると白っぽいもので、大して
考えることもなく、「骨の下処理に手抜かりがあったか。」と思
い込み、皿の縁に置いて食事を続けた。
今回もミルクコーヒーで食事を終える。勘定はワイン4杯
18Lv(989円)、マッシュルームスープ1.7Lv(93円)、ラム
ロースト17Lv(934円)、コーヒー1.5Lv(82円)、ミルクピッ
チャー0.6Lv(33円)。レシートにミルクピッチャー(каничка
мляко)と印字されているものの、実際にそんなものは見当
たらず、カップに混合済みのミルクコーヒーが供された。
店を出るタイミングが、隣テーブルの一団とほぼ一緒だっ
た。ドア付近で立ち止まっていたので、父親らしき紳士にどこ
から来たのか訊いてみた。ギリシャとのことだ。なるほどギリ
チャルシャ通りの古道具屋。じっくり見れば掘り出し物がある
かもしれないが、そこまでの根性はなかった。
シャならば隣国だし、例えばテッサロニキからヴェリコ・タ
ルノヴォへは、車ならば7、8時間で来ることができる。
ギリシャ人達と別れチャルシャ通りを抜け、ぶらぶらと
しかし寄り道もせずに宿へ戻る。途中でミネラルウォー
ター1.5㍑0.75Lv(41円)、ミルク1.5㍑1.7Lv(93円)を購
入した。
部屋へ帰って歯磨きをして気がついたのは、なんと
奥歯の一部が欠けていたのだ。左上の奥から二番目は
かねてより歯科医から、「この歯はヒビが入っているかもし
れない。」と云われていたから、驚くこともなかったけれど、
痛みや衝撃が全くなかったことは意外だった。
この日は以後外出せずに快適な部屋で過ごす。天
候は下り坂で、夕方には雨が降り出し、日が暮れる頃に
帰国して抜歯した奥歯の画像。赤点線で囲んだ部分が欠けた
箇所。
本降りになった。ブルガリアに入国してから11日
目にして、ようやくの雨天だ。気象統計からもう少
し頻繁に降ると思っていた。しかし旅行者にとっ
ては有り難いことだ。
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宿のシャワーバス金具。ネセバルでも感じたが、ブルガリア人はこの類の
器具に贅沢をするのが好きらしい。右側に見える棒はシャワーバー。
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