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ヴェストプロイセンにおけるネーデルラント系メンノー派コロニーの形成と
Title Author(s) Citation Issue Date ヴェストプロイセンにおけるネーデルラント系メンノー 派コロニーの形成とその経済活動(1525-1772)(3) 石坂, 昭雄 經濟學研究 = ECONOMIC STUDIES, 35(2): 28-57 1985-09 DOI Doc URL http://hdl.handle.net/2115/31691 Right Type bulletin Additional Information File Information 35(2)_P28-57.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP 経済学芸誇究 北海送大学 35-2 1 9 8 5 .9 ヴェストプロイセンにおけるネーデルラント系 メンノ}派コロニ}の形成とその経済活動 ( 1 5 2 5-1 7 7 2 ) ( 3 ) 石坂昭誰 分かれていたが町一ーこそは, 1 6 t 詮舵末から 1 8 世 自 次 相末までの 2世紀の開に,最も多くのメンノ一 序 世紀末には, 派コロニーな育て, 18 E ネーデノレラントにおける宗教改築運動と再洗礼 ぢ fぉストヅ ロイセンの全メンノ…派の約 3分の 2がここに 派 V I I 1 表入以下, として定住していた ( 雌 1 6 t 詰;紀初頭のヴェストプロイセン ここでは,それぞれの地域ごとに, (以上第 3 4 宅 会 第 4号) メンノ一派 の入植の状況を追鉢してみよう。 N ブロイセ γ公闘におけるネーデルラント人の移 1 5 2 71 5 6 3 ) 住とその挫折 ( V 〆ンツィヒ・品ノレピング潟市のメンノ…派 V I !/ンツィヒ市領差是村におけるメンノー派の入樋 (1)ヱルピング市銀農村 16 世純には,政治 的にも経済的にもダンツィヒと覇を競っていた 〈以上 第3 5 著書第 1努 〕 エルピングも,すでに 1246 年 , ドイツ らかなりの市鎖農村合獲得して いたが, 1457 年 i VII ヱ J(..ピング千台領農村・ティーゲンホ にポーランド王への頴践の代僚として,ユング ーフ王線管震・マリーヱンブルク御 ブェノレ J ungfer,l 日ノーガット I 可A lt-Nogat以 料地におけるメンノ一派の入植 南の{岳地,そして市の東の高地を賦参され, らに 1579 年にはトノレケミ ヴ 4 スワ本読およびエノレピンブデ…・ヴァイク γ さ ト王畿管区 S t a r o s“ t e iTolkemitをも手に入れた判。 セル流域のダンツィヒ市鎮の南には,ノーガッ のようなエノレピング市領の東半分は高地で ト・ティーゲ・エL ノレピングなどの河口地帯の海 あり, またダンツィヒとは奨なり有害ど脅かす 額以下の器地と,これに接してドラウゼン湖に 洪水の危険もさし当り感ぜられなかったから, 面したニt ノレピング低地が展開し,その奥には, メンノ一派の入綴 z 定 住 も ダ ン ツ ィ ヒ や オ ス ドイツ騎士関領時代に築かれた大堤障に護られ て,二つのヴ品ノレダ…,大?リーよじンブルガー G r . 剖 arienburger Werder, 小マザーエンブルガー. ' 7 ' : r .ノレダー Kl .Mari enburgerWerderの農かな穀作地が誌がって • < ' f: r .Jレダー 剛 いた o 本主震で援うこの地域一一行政上比エノレ ビング市領,ティーゲンホーフ主髄管区,ベー アグアルト王領管区,そして, ヴェストプ P イ センにおける最大の櫛料地マリ…エンブノレクに トブ持イセンにかなり遅れて始められ, ] : た , 燐のティーゲン n スープやダンツィヒと比べても 小規模でトあった。ぷL ノレピングにおけるメンノ 派農民主在住の返りは, 1 561年のことで, メ}ス 8 1 ) エノレビング市銀幾村については, C a r s t e n n,a .a . 0 . ,T a f e l36z u rS .3 4 8および 1 三B a h r , " D i e 官t eK o n i g l i c h-Pr 告u s e n s V e r w a l t u n g s g e b i 1 4 5 41 7 7 2, " Z e i t s c h r i f td e sw e s t t r e u βi s c h e n G e s c h i c h t s v e r e i n s ,LXXIV( 1 9 3 8 ),1 1 2 1 5合 参照。 2 9( 2 0 5 ) ヴェストプロイセンにおけるネーデルラント系メンノ一派 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 1 9 8 5 .9 表VII-1 1 7 7 2 年当時のヴェストプロイセンのメンノ一派の地域的分布 │農民「主土配プ予防│話可三「 1 2 3 4 5 6 7 ティーゲ γ ホ ー フ 王 領 管 区 ベーアグアノレデ王領管区 エ レ ノ ビング市領農村 大マリ}エンプノレガー・ヴェノレダー J I 、マリーエンプノレガー・ヴ a ノレダー ヴ そ ス イ 谷 他1) 河 ワ 3 1 4 46 3 2 6 2 2 6 3 2 5 4 3 7 3 6 の 6 2 5 4 5 3 6 2 5 6 9 1 4 6 4 2 9 2 3 4 3 6 4 3 6 吾一日 ふ- I,1710I 256I 277I ツ ヒ 8 ダ イ 郊 外 レ ノ ン ピ グ 9 エ 市 1 0 マ リ }エンブノレグ市 計2 ) 1, 7 1 0 ン レ ノ ツ イ γ 市 ヒ 低 3 2 4 4 5 5 3 4 6 3 2 9 6 3 8 9 5 5 1 5 6 1 0I2,253 1 3 3 3 3 2 5 γ 1 1 〆 1 2 ト 5 領 地 2, 4 4 4 ( 2 0 0 ) ( 3 4 ) 1 )L i c h t f e l d,B r o d s e n d,Powunden,B a u m g a r t h , C z a t k a u,Gi 1d e n f e l d,R o t e b u d e,K a t z n a a s e . 2 )1 7 7 2年プロイセン王国編入地。 Moskenbergで , こ こ の 荒 地 を 市 から賃借した市長ヤーコプ・リーヶ J a c o b Riekeの 一 族 が , そ の 一 部 を メ ン ノ 一 派 に 又 貸 ケンベルク している。そして,同じ年,エルピング市領農 村で最も重要なメンノ一派の拠点となったエラ ーヴアルト E l l e r w a l d の入植が始っている。 エノレピング市のすぐ西側の,堤防に護られたエ T r i f t,合計 146.5 市当局は旧市 A l t s t a d t の住民 L u d w i g,a .a .0 .,s .166-268 より作成。 ノーガット堤防に挟まれた, ノーガト川のデル i n l a g e. , ノーガタウ タ地帯 (アインラーゲ E Nogathau,ホッベナウ Hoppenau,ボノレヴエ ollwerk, ブルーメンオルト Blumenルグ B o r t,ローゼ、ンオルト R o s e n o r t ) のポノレダーに 年以降の 展開して行った。これに対して, 1650 入植地は,ノーカットルデルタ地帯のいくつか ラ ー ヴ ア ル ト 地 区 の 5つ の 牧 のボルダーに限られ(ノイシュテッターヴァノレ フーフェを, u s t a d t e r w a l d e,ゴールトベルク G o l d デ Ne berg , ラーケンドノレフ L akendorf, ヴァノレド ルフ W a l l d o r f, フ ィ ッ シ ャ ー カ ン プ F i s c h e r kamp,フュルステナウワーヴァイデ Furstena・ uerweide, 小 マ ウ ス ド ル フ ァ ー ヴ ァ イ デ Kl . Mausdorferweide,ノイドルフ Neudorf,ノイ u l a n g h o r s t e r ラ ン グ ホ ル ス タ ー ヴ ァ イ デ Ne weide,シュトゥットホーフ S t u t t h o f ), む し 435名に下付したが, 彼等はこれをメンノ一派 に永借地として貸出している。さらに, 17 世紀 前半までに, メンノ一派の入植は,新しく獲得 した南部低湿地帯の廃村や放牧地(アッシュブ schbuden,ケルプスホノレスト Kerbsーデン A h o r s t, ケ ル プ ス ヴ ァ ル デ Kerbswalde,ロー osgarten,シュラムザッグ S c h スガルテン R lamsack, シュヴァルツダム Schwarzdam, 大 ヴ ィ ッ ケ ラ ウ Gr .Wickerau,小ヴィッケラ ウ , K l . Wickerau) と , ヴェルダー主堤防と ろ , 市 領 の 最 西 端 の や L高 地 に あ る 旧 い ク ル ム Furstenau, 大 マ ウ ス r . Mausdorf, 小 マ ウ ス ド ル フ Kl . ドルフ G 村落, フュルステナウ 3 0( 2 0 6 ) 35-2 経 済 学 研 究 表 VII-2 エルピ γ グ市領農村メンノ一派入植地 Mausdolf , ク レ ー プ ス フ ェ ル デ Krebsfelde ( 1 7 7 2 年 〉 で,土地を購入する傾向が認められるm 。 (絃!護J ーフェ I~ ご;;装* 1772 年の第一次ポーランド分割に当ってプロ 域 日 可 イセン王国が作成した租税台張によると,エノレ ピ ン グ 市 領 農 村46ヶ 村 中 メ ン ノ 一 派 の 居 住 地 は 35ケ 村 で , 計 261フ ー フ ェ に 及 ん で い る が , そ の 6割 を 占 め る の が 1650 年以前に誕生した入植 地である。しかし,そのうちで,穀作地の面積 が全経営面積の 3分 の l以 下 の 低 湿 地 , ア ッ シ ュフーテン,ホッベナウ,カイトラウ,ウンタ ーケルプスウやアルデ, メースケンベルクからは 8 7 9 メンノー派入植地 ( 1 6 5 0年以前) メンノー派入植地 ' ( 1 6 5 0年以後) タノレム法村落│ 1 5 8 / 1 6 . 5 メンノ一派入植地計│ 261/7.5 4 8 5 4 / 2 1 *凡例 4 67/20=467 フーフェ 2 0モルゲン Ludwig,a .a .0 . .S .8 9 9 8 より作成。 表VII-3 エルピング市領農村におけるメンノ一派農民の経営規模 !経営規模(フーフェ) 種1) 村 落 名 3 . 0 年 類 B 1umenort K r e b s f e l d e Klein-Mausdorf .Mausdorferweide Kl Rosenort W a l l d o r f 経営 . 9 1 .0 0 3 . 9 2 . 9 1 . 9 O .1 1 2 4 1 2 1 6 2 5 3 6 5 3 5 8 8 2 2 4 6 4 7 2 4 9 7 4 7 6 8 7 2 7 1 5 . 1 1 1 1 7 7 2 9 . 5 1 7 2 7 3 1 . 5 I I I . 1 1 7 7 2 1 8 . 5 1 V . 3 1727 28.5 1 V . 3 1727 2 0 .1 I I I .2 1 7 2 7 4 .1 1 7 2 7 1 8 . 5 I I I . 1 1 7 7 2 1 1 . 7 I I I .2 1 7 7 2 1 3 . 3 I I I . E i n l a g e 2 . 0 7 - 7:;r. E 穀作地% E 穀作地 y s I V 全穀作地 1 1 6 0 0年以前入植長期借地 2 1 6 0 0年以後入植長期借地 3 ! l} レム法 1 2 1 O 2 総数 1 5 1 2 1 5 1 2 2 4 1 9 6 1 0 1 2 1 5 1 ) 1全牧草地 殆ど撤退しており,代りに, 旧クルム法村落な ど農業条件の良い地域に移って行く傾向が窺わ 8 2 ) Ludwig,a .a .0 .,S .5 2 5 4,6 1 6 2,8 9 1 0 5 ; Nordmann,a .a .0 .,K a r t e . ケノレプスホルス 7 5 9 年までの トとケルプスヴァノレテ、については, 1 各フーフェごとの借地人氏名および借地規模・地 代をたどることができる。 Vg , . lB .K o s i t z ,D ie H u f e n b e s i t z e rv o n Kerbswalde nach den J a h r e s r e c h n u n g e nd e rE l b i n g e rL a n d r i c h t e r v o n1596 b i s1759( Q u e l l e n b l a t t e rausdem ,Nr .1 0,1 9 3 8 ) ;d e r s ., Die S t a d t a r c h i vElbing H u f e n b e s i t z e rv o nK e r b s h o r s tnachdenJ a h r e s r e c h n u n g e nd e rE l b i n g e rL a n d r i c h t e rv o n H .Penner,Ansiedlung ,S .7 1 6 より作成。 れる 83)0 ( V I I 2表参照) こ れ ら メ ン ノ 一 派 農 民の経営規模については, 1727 年 の 6ケ村, 1772 年の 4ケ村の数字がえられるのみであり, しか 1638 b i s 1759 ( Q u e l l e n b l a t t e r aus dem ,Nr .1 1,1 9 3 8 ) .ただし,こ S t a d t a r c h i vElbing れは市と契約した借地人のリストであり,その中 に多くの市参事会員が含まれることからわかるよ うに,その大部分は再小作に出されたものと考え 7 世紀中葉以降には, メンノー派 られる。ただし 1 に特有のネーデルラント系の名前が登場し,直接 エルピング市から借地するものも現れている。 8 3 ) ただしエルピング ) 1 1から東の,海抜30m以上のエ ルピング高地の村落には全く入っていない。 ヴェストプロイセ γにおけるネーデノレラント系メンノー派 1 5 2 51 7 7 2 )(3) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 9 8 5 .9 3 1( 2 0 7 ) も,穀作地の比重の高い比較的好条件の村落に ロイツ家が他の村落に害を及ぼすような排水路 限られており,決してエルピング市領の代表例 を掘削することを禁じているところから,すで たりえないが ( V I I 3表 ) , 2~ 3フーフェ台の 中経営がかなり健在であることが認められる。 にこの頃から低湿地の干拓事業が着手されてい 5 6 2年,オ たものと考えられる。最初の入植は 1 しかし,ダンツィヒ市領や,隣接のティーゲン r l o f f e r f e l d で行われた ルロファーフェルト O ホーフ,マリーエンブルク両御料地の経営規模 が , 分布と比較すると,富農経営の展開が劣り,ま る最も古いものは, 8 世紀後半以降,全体としての経営面積も減 た1 2グルデン)の借地契約である。しか プェ当り 5 少を辿っていたように思われる。 し 1 5 8 1年ロイツ家は倒産し, この抵当地はそ rnstWeyher の女婿エルンスト・ヴァイアー E (2) ティーゲンホーフとベーアヴァルデ王領 管区 ダンツィヒ市領シャルパウのすぐ南隣に 位置するティーゲンホーフ王領管区 S t a r o s t e i Tiegenhof は , この時の契約書は伝わっておらず,現存す 1 5 7 8 年から 3 0年間c1フー の手に移った。このため,再度2 0 年の契約が交 された。また, 1 6 0 1 年その未亡人アンナ・フォ ン・モルタンゲン AnnavonMortangen と ダ、ンツィヒやエノレピングに次 6人のネーデルラント人代表者との聞で,プラ いで早くからメンノ一派の入植を進めた地域で ーテンホープ P l a t e n h o f1 1フーフェの4 θ年の あり, 2 2ケ村の, しかも殆どが海面下 海抜 2 長期借地契約が結ぼれた。しかし,何と いって ι m以下という小所領ながら, 1 7 7 2年のプロイセ も最も大規模な入植が行われたのは, ン王国編入当時, していたクノレム法村落ティーゲンハーゲン ヴェストプロイセンのメンノ 廃村と化 家経営を擁して,その一つの中核をなしていた Tiegenhagen ( 5 0フープェ 4モルゲン)で, 1 6 4 1年から 4 0 年の長期借地によって, 3 0 戸が入 のであった。 植している。その後,管区長(シュタロスト) 一派の約 6分の 1の人口と,比較的大規模な農 O r l o, 妊 ラー 6 5 4 年からはゲンビツ のヴァイア一家,そして 1 デコップ L adekopp,ティーゲ Tiege3キナは, キー G embicki 家は,ぺーテルスへーゲ?ナー この王領地のうち, オルロフ 1 4 7 5 / 6年にダンツィヒの市参事会員, ノレドノレフ Rudolf F e l d s t e d tの 抵当所有に帰し,その子ラインホルト R einhol dの代に,ライマースヴァルデ Reimerswalde, iegenhagen,シェーン ティーゲンハーケ、ン T ・フェルトシュテット ベルク S chonbergが加わった。ラインホルト ・フェルトシュテットは,その二人の娘を, シ ュテッティンの市長で『北方のフヅガーJl D ie Fugger d e s Nordens とさえ称せられた豪商 ハンス・ロイツ Hans L o i t z の二人の息子で あるミハエル M ichael とジーモン Simon ~.こ 嫁がすに当って, えた 84)。そして, 1 5 2 9年これを持参金として与 1 5 5 4年には,ポーランド王が, 8 4 ) ロイツ家, とりわけその北ヨーロッパの塩貿易独 .P a p r i t z “ ,D a sH a n d e l s 占の企てについては, J h a u sd e rL o i t zz uS t e t t i n, D a n z i g und Lun巴b u r g ",B a l t i s c h eS t u d i e n,N F .,XLlV ( 1 9 5 7 )7 5 9 4を参照。ロイツは, 最初ドイツの フェルト Petershagenerfeld,ハーベルスホ abershorst,ライマースヴァルデ R e i ルト H merswalde,プレッツエンドルフ P l e t z e n d o r f, i e t z k e n d o r f, シュトゥー ピーツケンドノレフ P ベンドノレフ S tubendorf などで, 長期借地で ネーデルラント人を入植させ,また,旧ドイツ 騎士団時代からのグルム法村落であるマリーナ ウ M arienau,ティーゲ Tiege, シェーンベ chonberg, ラーデ「コップ Ladekopp, ノ レ グ S シェーンゼー S chonsee にもメンノ一派農民 の保有地が誕生した。こうして,第 2次スウェ 6 5 0 年当時, ーデン戦争後の 1 村 メンノ一派は 1 2ケ ( 1 7 7フープェ)を全て保有していたほか, グルム法村落の農地の一部も購入し, その合計 再洗礼派の入植を試みて失敗し, ダンツィヒ市領 i eC h r o 農村の成功に倣ったものと思われる。 D n i kd e rGem 巴i n d eOr 1o 妊e r f e l d,z i t .i nM a n n h a r d t,D i eW e h r f r e i h e i t,S .7 3 4 . 3 2( 2 0 8 ) 35-2 経 済 学 研 究 表VII-4 ティーゲンホーフ壬領管区のメンノ一派保有地 1 6 6 4年 落 村 P 1 a t e n h o f Tiegenhagen Tiegerweide Reimerswa1de 0r 1o f f e r f e 1 d P 1 e t z e n d o r f Petershagenerfe1d Siebenhuben Habershorst Stubendorf A 1 t e n d o r f d o r f Habb巴n 1 1 . 7 1 1 .7 1 1 .7 5 0 .1 5 0 .1 5 5 . 0 4 .1 1 1 4 .1 1 4 . 6 1 4 . 7 1 4 .7 1 7 . 3 2 3 . 7 2 3 . 7 2 3 . 6 8 . 9 8 . 9 . 3 6 . 3 6 . 0 7 7 . 0 7 . 4 . 9 5 . 9 5 5 . 8 1 5 . 8 1 3 . 2 1 3 . 2 1 1 3 . 5 1 3 . 5 1 3 . 5 1 7 7 2 年 1 6 6 4 年 1 7 7 2年 総フー│メンノ メ〉〆/ フェ ー派 一派 村 落 総フー│メンノ メンノ フェ ー派 一派 Petershagen 1o f f Or Lad巴kopp Schonsee Reichenau Marienau Schonberg Tiege Neudorf Neunhuben Ruckenau 3 4 . 5 2 0 . 0 7 0 . 5 6 0 . 0 2 9 . 5 7 3 . 5 6 0 . 0 .0 61 2 . 4 3 . 5 2 . 0 3 4 . 0 .0 * 3 . 2 61 5 . 3 5 8 . 7 * 5 7 . 3 1 3 . 1 * 3 0 . 0 * 1 7 2 7年 1 6 6 4年は, Packowski,( e d . ),0 ρi sK r o l e w s z c z y z n ,p p .3 9 3 4 0 6 ;Szper ,a .w .,p .1 1 0 . I-5 に同じ。 1 7 7 2年 は 表 V 表VII-5 ティーゲンホーフモ領管区メンノー派農民の経営規模 経営規模(ブ}フ",) 7 - 7:;r. 村 落 年 総 Lad巴kopp Marienau Neunhuben 1o f f Or O r 1 0妊巴 r f e 1 d e Petershagen Pieskendorf Ruckenau Tiege Tiegenhagen Tiegerweide Siebenhuben Reimerswa1de Vierzehnhuben* 1 7 2 7 1 7 2 7 1 7 2 7 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 7 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 7 1 7 7 2 1 7 2 8 1 7 2 7 1 7 2 7 1 7 7 2 *ベ}アヴァノレデ王領管区 数 6 1 . 0 5 8 . 7 1 3 . 1 2 4 . 5 2 0 . 0 3 5 . 0 2 3 . 6 5 1 . 6 3 3 . 5 1 4 . 7 3 0 . 0 2 9 . 0 6 2 . 0 5 7 . 3 7 6 . 0 5 5 . 0 1 4 . 6 7 . 4 1 7 . 3 1 5 . 0 経営 lI 3/ 0 l20110l011 5 i I4 I / I / I / I0 3 . 9 I2 . 9 I1 . 9 I0 . 9 1 1 1 1 1 1 1 4 2 2 1 1 4 2 l 9 6 1 2 3 4 3 1 1 1 6 5 7 7 9 2 6 2 3 1 1 6 1 2 3 4 6 1 0 9 5 1 3 2 9 5 1 7 1 1 7 1 1 1 1 8 5 4 4 3 1 6 1 4 2 3 8 8 6 2 7 2 3 3 1 0 9 1 3 9 1 6 8 8 2 1 2 2 2 1 3 1 1 総数 3 2 2 4 1 0 1 2 1 3 2 1 2 2 3 8 3 1 1 8 1 0 1 5 2 8 2 6 5 6 4 5 9 5 1 4 1 1 H.Penner ,A n s i e d l u n g ,S .7 7 9 より作成。 ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノー派 コロニーの形成とその経済活動(1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 1 9 8 5 .9 は , 2 1 8フーフェ, この王領地の農地合計6 1 0フ 3分の 1強に及んでいた。そして, 1 8 ープェの 世紀に入ってからも, メンノ一派はクルム法村 3 3( 2 0 9 ) 川堤防の維持に参加する義務が負わされた問。) このティーゲンホーフ王領管区の住民の大部 分が, ドイツ人のノレター派なししメンノ一派で 1 7 2 7 年当時主要 1 3ケ 村のみで 4 6 5 . 9フーフェに達し,多くの村で 3 位に基いて,ルタ一派も含めて全住民から教会 ~5 フーフェの大経営が数多く見られた。 (VII 税を徴収して1いた。 落でその保有地を拡大し, 4 表 , V I I 5 表参照)85)。 なお, ては, あったが,カトリック教会は国教会としての地 このティーゲンホーフ王領管区では,入植者 これらのメンノ一派の長期借地にあっ 領主としての国王への賦役は免除され, に対して, 自家用のビーノレ醸造やノ 4 ン製造のみ ならず,穀物その他の商品の販売や木材・塩を クルム法村落でもほど全面的に代金納に切換え はじめとする必需品購入も一一一都市の市場特権 られていた問。しかし大マリーエンブルガー に反して一一ー全く自由であり,剰つさえ, , .ヴェルダー堤防組合 Dammkommunitatは ツ家が築いたティーゲンホーフ城の城下は, ヴェルダー内の全村落が, ロイ こ ヴィスワ・ノーガト の地域の中心的市場町となって,火酒やジン 両川の大堤防の維持・補修の賦役を提供する義 Machandel の蒸留をはじめメンノ一派が西か 務があることを主張して譲らず,結局国王の らもたらした色々の手工業も営まれ,域内に設 1 6 4 4 年の裁定により, これらメンノ一派の入植 1 8フープェについては, ヴェルダー内に多 地2 けられた火酒蒸留所もメンノ一派が代々これを 数の堤防や排水路を自費で築いたことを理由 に堤防賦役は免除されることになった。(ただ し,グルム法村落は引続きこの賦役を課せら れ,また,ティーゲンハーゲンには, ティーゲ 8 5 ) Penner ,A n s i e d l u n g,S .4 3 5 8 ;S zper,a .ω ., p p .9 6 1 1 2 ;Packowski,( e dふ O p i sK r o l e w s z c z y z n ,p p .3 9 3 4 0 6 ;H .Wiebe, “ Dien i e d e r l a n d i s c h e n (mennonitischen) Ansiedlungen e i e n der i n Pommerellen a u f den Land巴r p o l n i s c h e nKroneim1 7 .JahrhundertヘM en. n o n i t i s c h e Bla t t e r 8 6 .J r g .( 1 9 3 9 ),Nr .6 , 4 7, Nr.7/8,5 3 .また, Habbendorfの 1 6 2 3 年の 契約更新(同じく 3 0年間〉に対する国王の追認 (原文ポーランド語〕は,そのオランダ語訳が Szper,a .w .,BijlageV に収録されている。な 0フーフェ 4モルゲ、ン お Tiegenhagen の入植地5 ( 1 6 3 9 年〉のうち H e i n r i c hKrekerに属する 3 フーフェ 1モノレケ、ンは無償とされていたが ( P a c . p .c i t .,p .4 0 3 ), これは恐らく彼の父 kowski,o がネーデルラント人入植を援けその報酬として認 められたので、あろう。 8 6 ) ただし, R巴i c h e n a u の2 6フーフェ Marienau 6 2 . 5フープェ, O r l o f fの1 4Hufeは , T i e g e . nhof の城に木材を運搬し, また必要あるとき風 車の建築材料を届ける賦役を,また Schonberg の4 0フーフェと Tiege の5 0フーフェは木材運 搬賦役義務を負っていた。 Wiebe,a . α.0 .,S . 5 4 . 請負っていた問。 ティーゲンホーフ王領管区の西隣のベーアヴ アルデ王領管区 StarosteiBarwaldeは , 1 5 6 9 年にダンツィヒの都市貴族ラインホルト・クラ カウ Reinhold Krakau が 1 3 ,0 0 0ドゥカート ( 2 2,8 8 0クソレデン)で国王から抵当所有を許さ れ,ついで、 1 5 9 0年同じくダンツィヒの都市貴族 ジーモン・バール SimonBahr が こ れ を 引 継 いだ。パールは, 1 6 0 0 年にベーアヴァルデの共 同地 Feldmark に2 0フープェの新村バーレン トホーフ Barenthof を設けてメンノ一派を入 植させ, 1 6 6 4 年当時木造の倉庫で礼拝が許され た。さらにフィーアツェーンフーベン Vierze- ( 1 4フーフェ, 1 6 1 2 年), フォークタ 7 2 7 イ Vogtei にもメンノ一派の入植が進み, 1 年当時,メンノ一派の人口は 5 0%に 達 し て い hnhuben 8 7 )1 6 5 0 年の堤防賦役免除の特許状のオランダ語訳 は , S zper,a .w .,B i j l a g e VII.これによると, ネーデノレラント系入植者たちは, 1 8の排水風車を 設置していた。なお, 1766年からオノl~ ロップァー ブェノレデは, 大ヴェノレダー堤防組合にフープェ当 り3グルデン納入と,堤防補強用の木材やわらの .a .0 .,S .51 . 提供を義務づけられた。 Penner,a ,a .a .0 .,S .4 7 ;Packowski,0 ρi s ,p . 8 8 ) Penner 3 9 2 .プラーテンホーフとリュッケナウには,穀物 倉庫すら建てられていた。 34( 2 1 0 ) 後 雲 寺 た89JO 当 然 喜 寿 35-2 党 れた!日来からの村落に対する地代引上げは一一 通費の減癌に見合う分でさえも一一裂しい抵拭 (3) マ り … エ ン ブ ル ク 御 料 地 す で に ド イ ツ に遭い容易に進まなかったのである。そのゆえ 繍士由領時代から 64(7)グノレム法村議と 8つ の 直 にこそ,麟王の代営でもある粧司が, 営 地 Vorwerk を擁してグ z ストヅ P イ必ン 仰には敢えて尽をっぷり,ダンヅィヒ・ニr..)レピ で 最 大 の 規 模 を 誇 っ た こ の 御 料 地 比 ま た 16 役 ング両市緩やティーゲンホープ王領管区の成功 紀末 ~18設記者ピ混じて最大のメンノ…深入植地 に倣ってメンノー派のネ…デルラント人告さ入織 となったのである。この調料地は,ノ…ガトJ!l させて地代の増収さと計ったのであった。とりわ を護に,それぞれ大緩防に幾られた二つのヴェ 年 け,小ヴ品ノレダ…東部の低混地帯では, 1550 ノレダー, 間の大マり一部ンブ、ノレフゲー・ヴェ/しダ、 頃から, . . .G r .MarienburgerWerder と東の小マリ 場鈴の建設が言語始され,底地のボルダー北が計 ーエンヅノレガ…・ヴェノレダー Kl .Mari釘 lbuト 調 dれたが, 1584 年,カンペナウの農地および ger Werder に 分 れ 日 ド イ ツ 騎 士 関 簡 家 の 放 牧 地 bonan ostraseu pascuaの46アーフ 本拠'7~一応ンブノレグ撲と隣接した都市が行政 の中心をなしていた問。前者はほ公務抜 2 m以 上の, 自然排水が可能な議まれた穀作地であっ 27モ ル グ ン が , ア ノ レ ベ ル ト ・ プ ー レ ン ツ Albert Arentz およびコルネりウス・プラン ト たのに対して,後者, とりわけその東部はエル ピング市領から続く, ドラウゼン識に連なる低 湿地で穀作には適さず, と に ドラウゼン湖 Drauseusee 開 岸 の 大 Cornelius Brandt を代表と るメンノー 派コドーダルラント人に, 30年期,年地1"¥';2, 400マ ドイツ騎士密当時のこと 木立農業技衡をもってしてはその干拓は爵難で ルクで長期借地に出されたのを皮切に, ごじ vシ 正ンホ/レスト Eschenhorst( 1590 年 , 1,050マ /レグ〉など, 1649年までに 17ヶ村 323ブーブ品 あった。壌に,験ごと団が建設したカンペナウ Campenau 0337年,海抜-1I及)をはじめ, Baalau, シ 品 パ ッ ラ ウ Sparrau, パ…ラウ 量判、マヲ…エンブノレガー・ヴェ 君 愛V II-6 1626 ノレダーにおけるメンノ…派保守道総 マルクスホーフ Marcushof , シュヴァンスド ckelsdorf,アルト・口一ゼンカソレト Alt-Rosengartなどの村々は, 15世紀の洪水で廃村と イとし,農地も関沢地に変じてしまった。 ところで, この自大な翻料地の経営安田王か , 16 i:!t紀後半から ら請負った義司 Okonom は 17世紀前半の貨幣師値の大幅な下落に抗しなが ら地代増設に努めたが, グノレム法の特擦に護ら 8 9 )P enner ,a .a .0 .,S .58-9。これら 3ヶ村の長期 借地は, 1 7 5 7 年に3 6, 0 0 0グルデンで, タルム法然 、街地に切換えられた。 告 。 > )E .Bahr ,a .a .0 .,S .1 0 7 9 . この二つのヴ品ノレ ダーは, それぞれ堤防総合 Dammkommunit 語t 〈その長が堤防霊長緩官 D e i c h g r a fで , 独自のr:t; 廷 D ammgericl 誌を持つ)を組織し, 大ヴェノレ ダーは,堤防長三 D ammbezirkを兼ねる 5r 綴区 l W i n k e lf ; こ分かれ,それぞれ援紡組合立与役 D e i c h g e s c h w o r e抗告宣言ど置いた。 命 A l t …R o s e n g a r t B a a l a u E s c h e n h o r s t Hohenwalde Kamp 悲n a u Kuckuck 長 ! l a r k u s h o i R e i c h h o r s t R o s e n o r t o r f Schwan話d S t r e m e l T h i e n s d o r f e l n W忠良g 2の ん0 7 5 6 4 *P0 62 4 司ム句。 噌i 内 品 。L d 生 O / レ ブ Schwansdorf , ブィツケノレスドノレフ V i - 9 1 9 2 7 6 〔タルム総事長手言葉主 6 0 7 , 19 8 0 2 7 1 5 1 5 2 5 君 。 。 2, 430 2, 250 3 0 0 4, 3 3 7 . 5 4 0 0 5, 5 4 0 , 10 8 0 1 5 0 3, 3 7 . 5 8 1 0 , 17 1 0 2 5 49 2 2 2 受 4, 1 8 8 ) K .R .Bohme,Dieschwedische Besatzungdes Wurzburg, 1 9 6 3 ),S . W e i c h s e l d e l t a s1626-1636 ( 28 …3 0 1 9 8 5 .9 ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラシト系メ γ ノー派 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 ( 3 5( 2 1 1 ) が , 長期借地の『オランダ人フーフェ~ H o l l anderhufe として数えられるにいたった。そ 6 0プー の中でも,最大の村はマルクスホーフ ( フェ)で, ここは 1 5 9 0年,ダンツィヒの都市貴 0 年契約で、貸出されてい 族ジーモン・パーノレに 3 , 入植地(アウグストヴァイデ Augustweide たが, 1 6 2 0年からメンノ一派の 3 0年の長期借地 テーリヒトホーフ T orichthof,ザントホーフ に切換えられた。 ( V I I 6表参照) この他, くとも貨幣価値の下落=名目物価騰貴に見合う 地代収入は確保し続けたことがわかる 900 ところで, 1 7世紀後半以降は,小ヴエルグー では,わずか 4つの, しかも比較的小規模な新 ヴェルダー内のグルム法村落ヶーニヒスドルフ Sandhof, シュヴァンスドルファーへーフヘン Schwannsdorferhofchen) が付加ったのみで、 P r . Konigsdorf とシュタレ S t a l l e で計 6フ あり,また, 1 8い入植地におけるメンノ一派住 ーフェがメンノ一派の手に帰した。 民の比重は, 1 8 世紀に入って減少し,代りにル 小 一方,大ヴェルダーにはこのような低湿地が タ一派がその跡を埋める傾向にあった。(最大の ないため,メンノ一派の居住地は主としてマリ メンノ一派入植地カンベナウ,マルクスホーフ ーエンブノレグ市内あるいは域内,それに市領農 では, 村 S t a d t f e l d に限られていたが,それでも, 率は 50%台まで低下している。)そして,代りに 1 7 7 2 年当時,メンノ一派のフーフェ占有 マリーエンブノレグのすぐ北隣に広がる大放牧地 メンノ一派は,条件の悪い低湿地を棄てて, ホイブーデン Heu buden ( 1 5 5 4年以降),へレ ルム法農村に土地を購入する傾向にあった。し 1 6 7 6 年)や, ンハーゲン Herrenhagen( かも,旧い入植地に接する小ヴェルダーでは, 新し ク いクルム法村コチェリツヶ K o c z e l i t z k e( 15 6 5 隣接の 8ケ村の範囲に止まり,低湿地とノーガ 年)などに入植していた。 9ヶ村には全く入り込まなかったの ト川の中間 1 こうしたメンノ一派による低湿地や荒地の開 0ヶ村に に対し,大ヴェルダーでは殆ど全域の 3 拓の成果は,御料地の地代収入の上に美事に反 映していた。 1 5 9 0年には, ~放牧地~ Weideland 3 2 2フーフェ(全クルム法保有地の 31.6%)がメ 7 7 2年 ンノ一派の所有に帰していた。こうして, 1 の地代収入は, 9 , 036マルクで, には,マリーエンブルグ御料地内でのメンノ一 うち 7 ,8 9 5マル クは,誕生して聞もない 4 つの『オランダ人村~, カンベナウ,マルクスホーフ,エヅ、ンェンホル 0 6フープェで,うち 4 6 2(5割強) 派の保有地は 9 がクノレム法による保有であった(表 V II-7)。 スト,アルト・ローゼンガノレトが支払っており, それは, 3 0マルクは,大ヴェノレダーの様々の放牧 残り1, 4 地で, 地一ーその一部はメンノ一派の長期借地一ーの 上りであった。これに対して,クルム法村落は, 7ケ村が 9 , 4 4 3マルク(農地4,9 9 4 小ヴェルダー 2 マルク,森林8 4 9マルク,賦役代納金2,6 0 0マル 3,5 9 0マルク, ク), 大ヴェルダ -44ケ村が 1 計 2 3,0 3 3マルクに止まった。そして 1 6 4 9年には, クノレム法村落は 2 5,7 3 7マルクと徴増に止まった 4 , 4 3 9マルク(うち のに対して, ~放牧地』は, 2 小ヴェルダー 1 9,1 7 9マルク)とほ X これに追っ ℃いた。さらに, ~放牧地』の地代収入は 1690年 には, 3 3,8 9 7マルク(うち小ヴェルダー 2 7,1 0 2, ,7 9 5 ) と大幅な伸びを示し, 大ヴェルダー 6 少 とりわけ大ヴェルダーが恵まれた穀作 しかもダンツィヒという大輸出港にも近 9 1 )Ludwig,a .a .0 .,S .5 4 5 9 .1 6 1 2 年のカンベナ ウの長期借地契約更新 ( 2 0年〉を承認する国王ズ .T o e p p e n,B e i ィグムント三世の特許状は M t r a g ez u rG e s c h i c h t ed e s W e i c h s e l l a n d e s ( D a n z i g,1 8 9 4 ),S .9 6( U r k u n d e2 6 )に収録さ 6 3 4 年の小ヴェノレダーの大堤防賦 れている。また 1 役免除を定めた国王ヴワディスワフ二世の特許状 はS z p e r,a .W.,B i j l a g eXII .1 6 4 9 年当時, 小 2 3フー ヴェノレダーのメンノ一派保有フープェは, 3 3モノレゲン, 1 6 7 6年には3 2 1フーフェ 2 0モ ノ レ プェ 2 ゲンで、あった。 e b e n d a,S .6 6 6 7 . なお, 16~18 世紀の通貨は,プロイセン・マルク P r e u s i s c h Mark=20グロッシェン, 1ポーランド・グルデ、ン P o l n i s c h G u l d e n( fl .) =30グロッシェンを単位 6 世紀初頭からげ世紀中葉まで, としていたが, 1 2頁表 V I I I その購買力は大きく低下している。 4 3を参照。 3 6( 2 1 2 ) 35-2 経 済 学 研 究 表 VII-7 7 リーエンブルク御料地におけるメンノ一派の保有地 ( 1 7 7 2年 〉 土地保有区分 小ヴェノレダー ク 大ヴェノレダー 長期借 1 4 3 / 1 7 3 2 / 2 9 . 5 8 4 / 2 1 1 7 4 8 7 6 / 2 5 84/8 1, 0 8 8 / 1 2 4 9 / 1 0 1 2 / 1 4 3 2 2 / 2 0 . 5 2 3 3 0 地 地 ク 8 0 /5 2 2 5 /5 1 6 5 0年以前 1 . 1 1 6 5 0年以後 レ ノ ム 法 長期借 (~ケ村 土 1 ,0 0 0フープェ ) ( j ? A J 1 -フェ) │村落 7 - 7"'~* I メ γ ノー派*~ I 村落数 │保有フーフェ数│ 「 レ ノ 7 0 0年以前 1 7 0 0年以後 ム 法 Ludwig,a .a .0 .,S .9 8 1 1 8 . 0モノレゲン。 *3 2 5 / 1 0=325フーフェ 1 表 VII-8 大マリーエンフ‘ルガー・ヴェルダー・メンノ一派農民の経営規模 フーフェ 村 種類。 落 年 日 G i 1 : 何? ? ? o f │ o . o 総 数 以上 3 .912 .911 .91 9 l V .3 1 7 7 2 1 4 . 0 H a l b s t a d t 7 2 7 Herrenhagen l V .11 1 7 7 2 Heubuden 7 2 7 i l l .11 1 7 7 2 K o z e l i c k e Mierau Tralau Schonhorst S t a d t f e l d e Pordenau l V .3 1 7 7 2 7 7 2 l V .3 1 l V .3 1 7 7 2 l V .3 1 7 7 2 1 11 7 2 7 1 7 7 3 l V .3 1 2 . 0 1 2 . 0 5 5 . 5 6 1 . 2 3 6 . 0 2 2 . 3 2 7 . 6 21 .0 5 .1 2 0 . 4 1 3 1 3 2 2 * 1 4 1 3 4 3 2 2 5 3 2 5 1 2 2 0 8 9 8 2 5 5 9 2 5 2 1 3 1 1 8 3 3 1 │経営 総数 1 9 1 0 7 4 1 4 5 1 1 1 8 4 8 9 1 2 9 フープェ 1,6 フープェ 1 1 )m 牧草地%穀{乍地% W 穀作地 水 1 . 16~7 世紀入縮長期借地 2 . 1 8世 紀 入 植 長 期 借 地 3 . !Jノレム法村落 Penner, Ansiedlung ,S .7 1 8 6 . かった反面,地代負担は一一賦役代納金や,堤 農業経営の規模については,大ヴェルダーの 防維持費の負担を加えても一著しく軽微であ 9ヶ村(うち 5ヶ 村 は ク ル ム 法 村 ) の 資 料 に 限 ら 8 世紀前 ったためで、ある。それだけに,地価は1 れ,その大部分が1 7 7 2年 の も の で あ る か ら , 低 湿 半には 1フープェ 2 ,0 0 0グ ル デ ン に も 達 し て いたが, メンノ一派の農民は営々と貯え続けて きた自己資金,ある いは同じメンノ一派同志の 1 借入れだけでなく, カトリック教会や修道院, 御料地の役人の資金をも一一メンノ一派ほど信 用のおける借り手はいなかった一一一活用するこ と が で き た 92)。 9 2 ) クルム法保有地の 1フーフェの地価は, 1 7 2 3年以 前に制定された大マリーエンブノレガー・ヴヱノレダ ーの村法 W i l k i e r zd l azlawMarborskichに よると, 村民相互の売買 z wischen Freunden では最高1, O O O . ? ' ' 'ノレテ、ンと定められているが (Ku ・ t r z e b ae tMa白kowski,e d s .,P o l s k i e Ustawy p .2 3 4 ),実際の売買価格は遥かに高価であったも のと思われる。例えば, 1 7 4 5 年のノインフーベン Neunhubenで、は 2 , 0 0 0グルデンで,これに対し, 0グルデンであった。 Vgl . , Wiebe , 乳牛 1頭は 3 DasS i e d l u n g s w e r k ,S .1 0 0 . このようなメンノ 一派のクルム法保有地質収に対しては, ルター派 農民の側からの反感はとくにはなかった。 ヴェストプロイセ γ におけるネーデノレラ γ ト系メンノー派 1 5 2 5 1 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 9 8 5 .9 地帯あるいは他地域との比較は難しいが, トラ 入植した判。しかし, 3 7( 2 1 3 ) これらスイス=南ドイツ ーラウ,コチェリツケ,ポルデナウなどには, 系再洗礼派の来住は散発的なものに終り,彼等 3~5 フーフェ台のかなりの大経営が展開して 5 6 7年,サンスカウ思貸地で始まったネー は , 1 いたことがはっきりと認められる。(表 V I I 8 ) デルラント系メンノ一派の入植の波に呑み込ま このように,マリーエンフ事ルク御料地のメン れ,その教団に吸収されていった。以下, ここ ノ一派の農業経営は,穀作に比重を移すことに では,主要地域別にネーデノレラント系メンノ一 より, 1 8世紀後半には,他の地域に比して恵ま 派の定住の痕を辿ることにしたい。 れた地位にあったが,それを支えた一つの条件 は,都市ないし領主の流通規制や禁制からの自 (1)ザルトヴィッツ二ノイエンプルク低地 由で、あり,その生産物の販売と必要な商品の購 DieSartowitzer-NeuenburgerNiederung 入の自由, ヴィスワ河谷地区で最も有力なメンノ一派コロ 自家のビール醸造=パン製造も,こ の時期を通じて保証されていた問。 ニーを擁していたのが,左岸の中部地区である この低地帯で,第 2次世界大戦までこの地域の VIII ヴィスワ河谷におけるメンノ一派コロ 中 心 モ ン タ ウ = グ ル ッ ペ の 教 団 Gemeinde Montau-Gruppe は絶えることなく活動し続 ヴィスワ=ノーガト両河の分岐点, ヴァイセ 会領の中で,最も早くからメンノ一派の入植事 けたのであった。この地域の各王領・貴族=教 3 0 k m, トル ンベノレグ Weisenbergから湖って 1 8世紀末までなお最も有力な 業を手がけ,かつ 1 ンにいたるグィスワ河谷は,正陵に挟まれ,度 拠点であり続けたのが,サンスカウ思貸地であ 々の洪水, 5 6 2年に った。この王領地の世襲管区長職は, 1 とりわけ融雪期の氾濫で荒れ果て, 湿地のまま放置されたり,放牧地として利用さ ヴェストプロイセン土着の貴族,ハンス・ドヮ れたに止まった土地が点々と連っていた。とこ ノレスキー Hans D u l s k i ~,こ授与されたが, ろで, この河谷は, は , 1 5 6 4 年,モンタウと小サンスカウ Kl .S a n - トノレンやクルムの両市がか 彼 なり広い市領農村を擁していたほかは,大部分 skau の荒廃した 5 0フーフェに 1 8人のメンノ一 , ノイエンヴルク が王領地(メーヴェ Mewe 1 2年契約,年 1 4 0 0マルク), 派農民を入植させ ( Neuenburg,シュヴェッツ Schwetz, グラウ デンツ Graudenz , シュトゥーム Stuhm , ngelsberg の王領管区と エンゲルスペルク E anskau に分れ サンスカウ恩貸地 Tenute S る)で,そのところどころに,貴族領,教会・ 修道院領が点在しでいた。従って, メンノ一派 の入植も,それぞれの管区長や領主,都市の手 で独自に進められたのである。 この地域に最初に定住を試みた再洗礼派系宗 教亡命者の集団は,スイス=南ドイツ系のスイ chweizerischeBruder で , ス兄弟団 S ~43年に, 1 5 4 0 シュヴェッツ管区のプシェホフケン Przechowken( W i n t e r s d o r f )に,次"、で 1 5 5 3 年に,グルム市領のシェーンゼー S chonseeに 9 3 )Ludwig,a .a .0 .,S .8 1 . その後, 管区長職は, ハイデンシュタイン家 H e i d e n s t e i n( 1 5 9 0 1 6 7 3 ),ポトツキ一家 P o t o c k i ~こ代ったものの,契約は更新されて行き, 1 7 5 9年当時, 2 6 経営が4 5 . 8フープェの全村を保 有しでもいたし,恐らく 1 7 7 2年にも, 3 3 家族(麻 織工 5,労働者 7を含む)がなお村落内の殆ど の農地を保有して品、たので、あろう。なお,大サ 9 4 )M e n n o n i t i s c h e sL e x i k o n,1 8 .L i e f e r u n g( 19 .1 2 8 . シェーンゼ一入植者の代表者の 1人 2 8 ),S ベーター・ブ場ークト P e t e rV o g tは , スイス のベルン州からここに亡命したので、あり, 同じく o h a n nv o nL a u ヨーハン・フォン・ラウベン J 5 1 佃のラウベン L a u p e n出 b e nもベルン市の西1 i e b e,DasS i e d l u n g s w e r k ,S . 2 9 身であろう o W は , プシェコフケンの入植者をオランダのフロニ ゲン出身としているが,通説では, スイス=南ド イツ系 ( M e n n o n i t i s c h e sL e x i k o n ,S c h w e i z e r i s c h eB r u d e r ) とさ hてL、 る 。 3 8( 2 1 4 ) 35-2 経 済 学 研 究 落 村 年 l i z l 5 ! ? [ j i f f y b u│ ; O Montau Gros-Lubin Klein-Lubin Dragas Neunhuben W i n t e r s d o r f K l e i n s e e Gros-Westphalen Schonsee 11 7 4 511 1 . 01 11 7 7 211 1 . 61 11 7 7 211 7 . 01 1 1 7 7 211 3 . 0L 1 7 5 011 9 .31 立~I 1 7 . 4I 1 7 7 211 0 . 01 1 7 7 212 . 31 立里山 2 3 .8I 71 7 31 1 21 41 1 9 1 1 71 1 1 7 51 51 1 0 31 81 41 1 1 5 3I 5I 3I I 11 41 91 1 1 3 11 21 3 1I 1 6I 3I I 20 -一一一一一一一一 Jamerau Horst Gros-Lunau Klein-Lunau Dorposch Rudnerweide Schweingrube 立立 I~主~I~I~I一一_1_ 11_1丘|一一土L一一 _ I~ 1 7 2 711 0 .71 1 7 7 211 4 . 81 1 7 7 2 1 5 . 91 1 7 7 211 4 .71 1 7 7 211 3 . 91 1 . 61 91 1 51 21 31 1 41 1 71 1 1 41 1 1 8ドげ門' * E 51 61 一 一 一 一一 一一一←一一 i l 2 0 1 6 1 4 2 3 1 1 目立二時│三二│ユ│三(井仁川 Wiebe,DasS i e d l u u n g s w e r k,S .7 6 8 6 より作成。 *大部分が麻織工 * * E i n l i e g e r (村落外居住者) ンスカウ Gr. Sanskau は , グノレム法村落で, ートヴィン Bratwin, ポルニッシュ (グロー Polnish (Groβ)- 20 名のルタ一派農民が 40フーフェを保有してい ス)・ヴェストファーレン 世紀前半にはメンノ一派が優勢となリ, たが, 17 Westphalen,ノインフーベン Neunhubenな 1624 年には, 18人のメンノ一派が 30.5フーフェ どの村落がメンノ一派の長期借地に出されてい た 95)。 を長期借地で保有していた。(ただし その後 は減少の一途を辿り, 1 7 7 2 年には 4家族の農民 と樵夫 1名を数えるのみであった。) また, この地区!では,ノイエンブルク王領管 区のトロイル Treul (1620 年より ェ ) , 15フーフ グラウデンツ王領管区の大ノレーピン Gr. . Lubin, ドラガース Lubin, 小ノレービン Kl ν Dragas, コンメラウ Kommerau,小ジプサ ウ Kl . Sibsau, シュヴェッツ王領管区のブラ 9 5 )Wiebe,DasS i e d l u n g s w e r k ,S .1 8 2 8 ;S z p e r, a .W.,p p .1 3 3 1 4 5 ; Packowski, ( e d . ),0 ρi s p .8 0 8 2, 9 0, 9 6; H .Maercker, K r o l e w s z c z y z n,p “Einep o l n i s c h eS t a r o s t e iunde i np r e u s i s c h . e rL a n d k r e i s .G e s c h i c h t ed e s Schwetzer K r e i s e s1 4 6 6 1 8 7 3ヘZ e i t s c h r i f td e sw e s t ρr e u βi s c h e nG e s c h i c h t s v e r e i n s,XVIII ( 1 8 8 7 ),1 5 1 f f ,XIX ( 1 8 8 8 ),3 1 4,4 1 4 ,4 2 5 . ノイ γ フーベン 7 4 5 年ヤン・ブロック JanB lock ら 7人 で 、 は , 1 の農民が, ゴッテン=トイエル G ottenTauer ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノー派 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 1 9 8 5 .9 一方, この地区には,知事や王領管区長を勤 めるコナノレスキ- K onarski, ザ ビ ン ス キ ー 3 9( 2 1 5 ) W i n t e r s d o r f ) には,先に触れたように,すで 5 4 0年にスイス=南ドイツ系再洗礼派の定住 に1 Z a b i n s k i,ポトツキー伯 P o t o c k i などのポー が見られたが,確認できる最初の入植契約は ランド人大貴族の私領が分布しており,彼等も 1 6 4 2年 ( 1 0フーフェ)で,以後 1 7 7 2 年まで,絶 王領地に倣って, メンノ一派を荒地に入植させ えず更新され,最も厳格な教義を護り続けた 6 0 4年,フエリ 地代増収を企てた。たとえば, 1 フロニゲン系古フランドル派教団 Oude V l a - ックス・コナノレスキーは,グルッベ Gruppeの 地で貸出したが,その際穀物の販売の自由,下 mingen t e Groningen がここを本拠にして 0フープェ中 5フーフェは砂地 いた。しかし, 1 で農業に適さず, 1 2 家族が残り 5フーフェで麻 級裁判権の村民への賦与,信仰の自由,兵士の 織工として暮しを立てていた。この他,隣接し 強制宿泊 E inquartierung の免除 ,エーレンタール てグルゴフケン Glugowken 荒地(面積不明)をメンノ一派に 5 0年の長期借 2シェッ フェルまでの自家用ビール醸造の自由,建築用 ・燃料用の木材,煉瓦・瓦の無償供与などの好 条件を認めている。(ただし, 契約からは, 1694~1734年の ビール醸造と製粉については領主 の禁制が施行された。) これにならって, ンスキー (オーバー・グルッベ), ザピ ポトツキー lt-Marsau,ノイ・マル (アルト・マノレザウ A , ミヘラウ M i c h e l a u )両 ザウ Neu-Marsau Ehrental などの小さな入植地が見られた。 6 5 0年から, コソ 一方,貴族領「では,すでに 1 ヴォ Kossowo , クリストフェルデ C h r i s t f e l 7 7 2 de のニつの村にメンノ一派が入ったが, 1 年には, コソヴォで 1 9経営中 5, クリストフェ ルデでは4 2経営中 2経営にすぎなかった。さら に1 7 2 7年 , ヴィベチンスキ一家の所領,イェジ e z i o r k e n( K l e i n s e e ) にもメンノ一 オノレケン J 家も 1 7世 紀 中 葉 か ら 小 規 模 な が ら メ ン ノ 一 派 派が入植したが,領主が入植特許状に反して賦 を入植させていた。 役を課し,またカトリック教会の圧迫も強かっ これに対して, たため,彼等はフリードリッヒ大王の保護を求 ヴウォツワヴェック(レース ラウ)司教領であった小コモルスク Kl .Kom- め , 1 7 6 5年2 8家族がプロイセン王国のノイマル 6 3 8年 , 6 8年 , 8 8年 , 1 7 0 9年と morsk では, 1 クに退去した。その後,領主側は 1 7 6 7 年,賦役 メンノ一派の入植契約が更新されて来たが,ポ を年 2日の手賦役に限定して新しい入植者を募 ーランド人カトリ γ ク教徒の激しい非難の前 , り 1 7 農家が各 1フーフェを保有した。この他, 7 2 2年に契約を破棄し,ネー に,司教も遂に, 1 コノパート D eutschιKonopathでも 1 7 2 0年か デルラント系メンノ一派に補償のうえ立ち退か 0年間 1 8フーフェが貸出されていた 97)。 ら4 5人のポーランド人農 せ,代りに 44フープェに 2 家を移住させた町。 (2) シ ュ ヴ ェ ッ ツ 低 地 Die S chwetzer Niederung シュヴェッツ王領管区内のプシェ rzechowken (ヴインタースドルフ ホフケン P 家の領主農場1 1フープェ(馬2 0 頭,乳牛 5 0 頭を含 め〉を 3 0, 9 8 0グルデン(土地評価は 1フープェ 2, 0 0 0グルデン〉で購入し,均分した。 W i e b e,Das Siedlungswerk,S .100 ( A n h a n g8 ) . i e b e,a .a .0 .,S .26-8;M a e r k e r,a .a .0 ., 9 6 )W XVIII,2 0 4 5, XIX,2 2 9,3 7 0 .1 6 0 4 年のグルッベ i e b e .a .a .0 .,S .92-4( A n h . の借地契約は, W a n g5) に収録。 (3) クルム都市領 Das Territorium der 2 5 1年 , ドイツ騎士 S t a d tKulm グルム市は 1 2 0フーフェ相当の広い市領農村を授与 団から 4 され, 1 5世紀ま!でに 9つの新村が誕生したが, 9 7 )W i e b e,a .a .0 .,S .29-31; M a e r c k e r,XVIII, 1 7 5 6,XIX ,2 3 5,3 7 0 ;S z p e r,a .W.,p p . 141, 1 4 6 ;P a c k o w s k i,( e dふ o ρi sK r o l e w s z c z y z n, p .8 1.イェジオルケを退去したネーデルラント系 メンノ一派は, フリードリッヒ大王の保護の下 に B r巴n c k e n h o 任s w a l d e ,F r a n z t h a l,NeuD e s s a uの三つのコロニーを建設したが,後, 1833 年大部分がロシアに再移住した。 W i e b e,a .a . 0 .,S . 3 6 . 4 0( 2 1 6 ) その後 H3 年戦争』ですっかり荒廃し,わずか 表 VIII-3 グルテ。ンの購買力 ( 1 9 1 2 年のマルクに換算) に 3ヶ村を残すのみであった。そして,市民の 窮境に乗じて近隣の貴族・領主が市内の土地家 屋を手に入れ, これを理由に市領農村の用益権 をも主張し始めていた。市当局が,市に接した 市領農村の南半分を市民(家屋所有者)に弘 弘フーフェ単位で貸与しその収益で市内の家屋 を維持することを義務づけたのも,このような 事態への対策であったが,残りの北半分 13ケ村 は市の財務部 Kammerei が直接管理し, とり わけメンノ一派のネーデルラント人を誘致して 地代増収を計ったの である。最初の入植地はシ l 年に南ド ェ ー ン ゼ -Schonseeで,すでに 1554 イツ z 35-2 経 済 学 研 究 スイス系の再洗礼派がここに定住し,ポ ーランド王の特許状もえたが,市当局の契約文 1 5 2 8 3 0 1 5 4 0 1 5 4 5 1 5 4 8 4 9 1 5 5 0 1 5 5 1 5 4 1 5 6 8 1 5 8 4 1 5 9 3 9 8 1 6 0 8 1 6 0 9 1 6 1 6 1 6 1 9 1 6 2 1 2 4 . 5 2 4 2 3 .1 21 .5 2 2 2 3 1 6 . 5 1 4 . 5 1 0 9 8 . 5 7 . 5 7 6 1 6 2 2 1 6 2 3 1 6 2 9 3 7 1 6 8 5 1 7 0 0 1 7 0 1 5 5 1 7 5 6 5 9 1 7 5 9 8 0 1 7 8 1 9 3 5 4 . 5 4 3 . 5 3 2 . 5 2 1 .5 F o l t z ,a .a .0 .,S .1 2 7 8 . 書が残されているのは,第 2回目 1595年から 30 シュヴァインヴィーゼン Schweinwiesenの 6 年間の長期借地からである。また同じくヤーメ ケ村にも部分的に入植してドる。さらに市民に ラウ Jamerauは1587 年から 40年の,大ルーナ 貸与された割当村 Elokationsdorf の 下 ア ウ 年から 30年 ( 2 0フーフェ) ウ Gr.Lunauは1604 . スマース Nieder-Ausmas, 小ルーナウ Kl I I I 2 )。そして の長期借地に出された。(表 V Lunau,ヴェネディア Venedia もメンノ一派 この 3村を中心に, に貸出された。 ホルスト Horst, ドルポ ッシュ Dorposch,シェーナイヒ Schδneich, ロースガルテン Rosgarten, ケルン Koln, これらクルム市当局(および市民)による長 期借地契約には,他に見られぬ~"、くつかの特徴 が見られた。まず,各村は 4種 4人の手工業者 表 VIII-2 クノレム市領農村におけるメン (麻織工,パン屋,仕立屋,鍛冶屋)のみを許 ノ一派長期借地契約 数 フA フ 泊u yJ u a r e m l ず1 T l B己 jA 1 5 9 7 1 6 2 7 1 6 2 7 1 6 5 7 9H 8M 1 6 6 2 1 6 9 2 (+1.5H砂地〉 1 6 9 2 1 7 2 2 1 7 2 2 1 7 5 2 1 7 5 2 1 7 8 2I 1 0Hufe 品 Milchspeise (バター,チーズ,凝乳チーズ Zwerg),穀物,野菜,果物を先ずクルム市の 3 5 0 3 5 9 2, 5 0 0 6 0 0 3, 0 0 0 6 6 0 6, 0 0 0 6 0 0 1 , 14 0 0 3 7 . 4 4 3 . 4 7 3 . 7 .4 81 8 1 . 6 Schons巴e 19H 2M 1 5 9 4 1 6 2 4I され,他の農民は手工業従事を禁ぜ、られた。他 方,入植者は,その最も重要な商高である乳製 1 .3 j j j j i i l : ; : ; }1 4 : i j j j l ; : j j j ! ? ? : ; 地 H=フ ー フ ェ M =モノレゲン f l .=グノレデ γ Wiebe,DasS iedlungswerk S .9 4 6 市場に持参し,売残ったもののみ他へ販売で、き た。(ただし, 家畜は自由に販売することを許 されていた。) また, 居酒屋は, クルム市産の ビールのみを売ることを義務づけられた向。 9 8 ) Wiebe,a ,a .0 .,S .3 3 3 8 .1 5 9 5 年の Schonsee および1 6 0 4 年の Gr .Lunau の借地契約は,e b e nda ,S .8 7 9 1,9 2 9 4に収録され,また, ヤーメ ラウ,シェーンゼー,大ノレーナウ他, 各村の毎回 .9 4 9 8を参照。なお大ルーナ の契約の要点は S ウで、許可された手工業者は, 麻織工の他, 桶屋, o l l a n 粗鍛冶屋 Grodschmied,オランダ靴屋 h と シェーンゼーと若干 d i s c h e rS c h u s t e r各 1, 異なる。 ヴェストプロイセ γ におけるネーデノレラント系メンノー派 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 9 8 5 .9 (4) トルン低地 DieThornerNiederung 4 1( 2 1 7 ) Niszewka (オーベノレネッサウ Obe 子N essau), ヴェストプロイセンの最南端には,ダンツィヒ, ドヮリニエヴォ Duliniewo, コ ス ト バ ー ル エルピングと並ぶ三大都市トルンが広い市領農 Kostbar (コツィボール Kozibor), シュトロ 村を擁し,その周囲にはズウォトリー Ztotory , ディーブフ Dybow の二つの王領管区が広が ってレた。しかしヴィスワ河沿いの丘陵に挟 まれた低湿地帯は, H3 年戦争』による荒廃に ンスク Stronsk の村々にメンノ一派が定住し て,オーベルネッサウを中心にフリースラント 6 6 1年の主領地巡検 Lust派教団を形成した。 1 r a t i o nによると, 1 6 0 3 年の国王ズィグムント三 加えて,洪水・疫病により人口は大幅に減少し 2フープェ 4モ 世の特許により,両ネッサウの 6 多くの耕地は放棄されていた。まず, ルゲン 1 0ノレーテが 1フーフェ当り年 3 0グルデン トルン市 1 5 7 4年,市領農村のアルト・トルン AltThorn に , メンノ一派を中心とする『オラン は , ダ人村~ Hollanderdorf を建設した。 しかし 4 0 年聞か)貸し出され, で ( これに対して入植 者は役畜賦役・軍役の免除,家屋建築用の木材 の無償切り出し, ビールの自由な醸造ないし移 1 5 9 4 年 ,2 0年の長期借地期間の更新期に当って, 入などの特権を保証された。その後,地代はフ 市当局が『再洗礼派を農村でも許容できぬので, 8グルデンまで引上げられたが,第 ーフェ当り 4 彼等は村長 Verwalter の同意の下に示談に応 2次スウェーデン戦争で、荒廃したのちは, 3 2グ じ,その用益 Nutzung (土地,家屋・樹木な ルデンに引下げられた。なお, ヴィスワ川の中 ど一一引用者)を隣人(ルタ一派の同村民)に 6 9 3 洲コジェニエツ Korzeniec7フーフェは, 1 譲渡し』退去した。トルン市当局が,市内のル 年に始まり, 1 7 8 4年に年フーフェ当り 3 0グルデ タ一派やカトリッグ教会の強い圧力の下にメン 0 年の契約が取結ぼれている。これらトノレ ンで4 ノ一派を締め出したーーダンツィヒやエノレピン ン低地のメンノ一派入植地は,戦争と洪水によ グとは逆に一ーのはなぜであったかは明らかで り度々打撃を受けながらも生き存え, 1 7 9 5年の はないが,一つの理由は, メンノ一派の退去後 9 5人を数え,そ プロイセン王国への併合当時 1 の農聞やその後次々に建設されて行った『オラ の後第 2次大戦までなお続いた向。 ンダ人村』にノレター派ドイツ人の農民を十分に 9 9 ) トルン低地のメンノ一派入植については 確保しえたことにあろう。 これに対し, ヴィスワ河右岸, トルン市領に R . Heuer,“DieH o l l a n d e r d o r f e ri nd e rW e i c h " Mitteilungen des s e l n i e d e r u n gumThorn, ρ ernicus-1ereins fur Wissenschaft und Co 境を接するズウオートリー管区のシュリンゲン 1 9 3 4 ),1 2 2 5 5 ;A. Kunst z u Thorn,XLII ( Schlingen (Schi l 1no,Si 1no) には 1 5 6 2 年に最 G o e r t z “ ,M ennoniteni ndenThornerN i e d e rungen ヘ Westρ reuβ en~ahrbuch, 1 9 6 3 ,1 2 3 2 8 ;G .S c h u l t h e i s, “D i eN a c h b a r s c h a f t e n i nd e rP o s e n e rH a u l a n d e r e i e n nach ihrem e s c h i ZusammenhangヘArchivfur Kulturg c h t e,VI ( 1 9 0 8 ),1 3 7 91.この他, S c h l i n g e n ( 1 5 6 2 ), Gurske ( 16 0 5 ), Kozibor ( 1 7 1 9 ), G r a b o w i t z ( 1 7 2 9 ) などの村法 Wi 1 1k ur が K u t r z e b ae tMa 白k o w s k i,( e d s . ),P o l s k i eU s - 初の『オランダ人村』が設立され, ヴェストプ l 1kur を制 ロイセンで、現存する最古の村法 Wi 定し,その後4 0年毎に契約を更新していたと思 われる。またグラヴォーヴィッツ Grabowitz の誕生の詳細は不明であるが, 1 7 2 9年には,シ ュリンゲンとほど同じ内容の村法を定めてい た。 ところで, トルン市領を逐われたメンノ一派 を迎え入れたのは,対岸のディーブフ王領管区 (イノヴラツワフ県 Woywotstwo Inowrac- taw) で , 大 ネ ッ サ ウ G r .Nessau (大ニシ ェフカ W. Niszewka), 小ニシェフカ M. t a ωyす仁収録されている。 トルン市領内には, そ の後もノレター派の長期借地 「オランダ人村J ,ア ルト・トルン, グノレスケ G urske, シャノレナウ S c h a r n a u,ベーゼンドルフ B δ s e n d o r f ,ベンザ ゥ P ensau などが誕生しているが,その村法は, メンノー派=ソッツィーニ派などの教派(セクト〉 の居住を禁止し,また,軍役義務を規定している。 ま た , 1 6 7 8年のグルスケ,アルト・トルンの村法 は , クルムの場合と同様の,乳製品・野菜・穀物 4 2( 2 1 8 ) ( 5 ) その他 35-2 経 済 学 研 究 このほか, ヴィスワ河谷のメン このうち,比較的重要なメンノ一派コロニー ノ一派の入植地としては,右岸のグラウデンツ となったのが, 盆 地 Graudenzer Becken100)(グラウデンツ, 南のマリーエンヴェルダー低地で,後述するよ エ ン ゲ ル ス ペ ル ク 両 王 領 管 区 ), グ ル ム 管 区 低 うに,オストプロイセン(プロイセン王国)の 101 ),下流のファ マリーエンフツレク御料地のすぐ 地 Kulmer Amtsniederung 年,大 入植地を追放されたメンノ一派が, 1724 ル ケ ナ ウ = マ リ ー エ ン ヴ ェ ノ レ ダ ー 低 地 Fal- マリーエンブ、ノレガー・ヴェルダー堤防組合の所 メ ckenauer-Marienwerder.er Niederung ( 有地, ーヴェ王領管区,シュトゥーム王領管区別))が ,2 0 0グルデンで購入し, merweide の%を, 2 挙げられる。 ま た シ ュ ト ヮ ー ム の 王 領 管 区 長 Starost von の先買権, トノレン製ビールの居酒屋で、の使用を定 めている。 Heuer ,a .a .0 .,S .1 3 6 9 . また,小 ネッサウなどのトノレンの対岸地区では, 居酒屋は 領主のビールや火酒のみを販売する義務を負わさ れていた。 1 0 0 ) グラウデンツ盆地では, ヴィスワ右岸のグラウデ t a r o s t e iGraudenz の大・小ヴ ンツ王領管区 S r .u .Kl .Wolz ,パルスケン P arsken, ォ ノ レ ツ G , クンターシュタイ γKuntトゥッシュ Tusch e r s t e i nがあり,そのうち大ヴォルツは, 1 6 0 4 年 , 3 9フーフェ ( 4 0 年〉が借地に出されたが,その後 , . l ヴィスワ河の氾濫で, 殆どが退去した。 Vg Wiebe,a .a .0 .,S .3 1 3 ;S z p e r,a .W.,p p . 1 3 5 8 .この他,エンゲルスベノレク王領管区 S t a r o s t e iEngelsbergのウ*ァンゲラウ Wangerau, atsch にメンノーが入植していた。 カッチュ K Wiebea .a .0 .,S .3 2 ;Maercker,a .a .0 .,XVI lI , 1 8 3 ; Packowski,( e dふ O p i sK r 6 l e w s z c z y z n, p p .8 1 3 . 1 0 1 ) グルム市領上流のクノレム管区低地 KulmerAmtsniederung では, メンノー派がアルトハウゼン Althausen,シャノレネーゼ Scharnese に1 7 世紀 c h l o n s k,デムボ に入植した他,シュロンスク S , ボルケン Borken に ーヴィッツ Dembowitz も見られるが, 1 8 世紀には, カトリッグ教会の不 寛容のため殆ど逐われてしまった。 1 0 2 )メーヴェ王領管区 S t a r o s t e iMew巴で、は Borowno ( K r e i sS t a r g a r d ;S z p e r,a .ω .,p .1 5 0 ) .ま た , プツグ 〔プッツィヒ) Puck ( P u t z i g )王 領管区では, 管区長ハンス・ヴァイア Hans , 1 5 9 9 年 , カルヴェンプールッフ K a r Weyher が wenbruch およびクニーエンブツレーフ K n i e n b 5 5フープェ 2 0モルゲン 3フー ruch の低湿地 ( 8モルゲン〉にメンノ一派を入植させてい フェ 2 る 。 ( H . Wiebe,“Die H o l l a n d e r s i e d l u n g e n Karwenbruch und Knienbruch b e iP u t z i g e s t p r e u und i h r e Beziehung巴n zu den w i t t e i l u n g e n. .Eρρs i s c h e nMennonitenヘM Kauenhowen-Zimmermann,J ahrgang 1 9 4 1, 1 3 0 . ) メーヴィッシュフェルト Mewischfeld,グ utsch,メースラント Mosland, ファ ッチュ G alkenau,アルト・メースラント A l t ルケナウ F ト ラ ー ク ハ イ マ ー ヴ ァ イ デ Traghei- Stuhm からノレートナーヴァイデ Rudnerweide14フーフェを借地している。そしてその後, 1740 シ ュ ヴ ァ イ ン グ ル ー ベ Schweingrube ( 年 , 15フープェ), 大シャルダウ Gr . Schar- .Schardau(1744年頃, dau,小シャルダウ Kl 18お よ び 1 1フーフェ)などが付加わっている。 なお,メーヴェ王領管区のシュールヴィーゼ Schulwieseは,これより先, 1708 年にはメン ノー派の居住地となっていた。しかし, このマ リーエンヴェルダー低地は,耕地に乏しく,シ ユヴァイングルーベと大シャノレダウを除くと, 住 民 の 大 部 分 が 1フーフェ未満の零細農ヤであり, 殆どの農民一ーとりわけシュールヴィーゼ, ト ヲーグハイマーヴァイデーーは,麻織工として 生計を立てていた。この地区の教団は, スラント派で, フリー トヲークハイマーヴァイずがそ の 中 心 で あ っ た 103)。 IX 18世 紀 に お け る オ ス ト プ ロ イ セ ン へ の 移 住 このように, 16~7 世紀を通じてヴィスワ下 流 一 帯 に 大 小 合 せ て 300余 り の 入 植 地 を 築 き 上 世紀に入ると, げたメンノ一派ではあったが, 18 人口増の圧力が加ってきたにもかかわらず, こ れまでのような比較的条件の良い入植地を取得 することはますます困難となり,多くの村落, Mosland, シュトゥーム王領管区 S t a r o s t e i Stuhmのラーゼ Laase,ベーンホーフ Bonhof , n s e l Kuche などは, ヴィスワ河のクーへ島 I Packowski,e d .,O p i s ,p p .3 8 ,4 2 ;Wiebe ,a . a .0 .,S .4 0 . 1 0 3 ) その他,メンノ一派の入植地としては, 小ヴェノレ ダーに隣接した B rodsend,L i c h t f e l d e,PowunBaumgarth( S t a r o s t e iC h r i s t b u r g ) . den, 1 9 8 5 .9 ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノー派 1 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 0525- 4 3( 2 1 9 ) とりわけヴィスワ河谷地域では,土地を持たず 実際の入植は行われなかった 105)。 このため, に麻織エ,あるいは農業労働者として生計を立 周年,隣邦のヴェストプロイセンで、入植者を募 てねばならぬものが次第に堆積していった。そ った。その際,信仰の自由と強制徴兵=宿営の れゆえ, 免除 であればメンノ一派の入植者を募ることも決し Gewissens-, Werbungs-und E i n . quartierungsfreh e i t が認められたことによ て困難ではなくなっていた。 り106九 人口過密なモンタウやシェーンゼーか ヴェストプロイセン外でも有利な条件 こうしたなかで,先ず彼等に門戸を開いて, ら希望者が集まり, 1713 年,新王の承認の下に オストプロイセのリタウエン,メーメル川下 ギルゲ川低地 G ilgerniederungの新・旧スケ 流の低湿地帯を提供したのが,隣邦のプロイセ lt-und Neu-Skdpen とノイソゃルゲ ーベン A ン王国であった。かつて, 1 559年を最後に,頑 および付属賦役村落 Neusorge n ebst dazu にメンノ一派を締め出し続けてきたこの国が 1 gehdrigenScharwerksdδrfer に42家 族 200 世紀半後に大きく方針を転換した背景には次の 人,リンクーネン管区のカルヴェン直営地 ような事情があった。まず, 1709~ 1O年に東欧 Vorwerk Ca l 1wen に 18家族が入植した。そ 一帯を襲った疫病により,オストプロイセンの 724年には 105家族が 87フーフェ 18モル して, 1 みで 1 5 .5~20万(人口の弘~弘)もの死者を出 ゲン 208ルーテを経営していた。これらメンノ しまた多くの家畜が弊死したこと:である。この 一派農民は人格的自由を保証され, 30 年間の長 ことは,国家財政に御料地の地代収入が大きな mphyteusis により 期借地 E 1フーフェに 比重を占めていたプロイセン王国にあっては, つき 40ターラー 国庫収入への大きな打撃を意味した。それゆ inkauf. 支払い,満期の際は 2年分の権利金 E え,軍事強国の樹立を志す『兵隊王~ S o l d a t e n - kdnig フ リ ー ド リ ッ ヒ = ヴ ィ ル ヘ ル ム 一 世 F r i e d r i c h Wilhelm 1 も , そのプロイセン 王国全体の『復興事業~ R etablissement の 中で,人口減少の甚しかったリタウエンの開墾 geld の納入により,同額の地代でさらに 30年 間契約を更新しうることになっていた。また, これらの割当地の配分は入植者の相談に任さ れ,各農家の割当地の交換や譲渡も自由であっ た。入植者は村長の選出権を認められ,また一 切の賦役・駅逓・地租・人頭=フーフェ割税 ・入植をとりわけ重視していた 104)。すでにフ リードリッヒ一世の晩年の 1 710年に, ( 1 2 0グノレテ、ン) を連帯責任で 当時迫害 の続いていたスイス・ベルン州のメンノー=再 Scharwerk, Postfuhr,C o n t r i b u t i o n und Kopf-und Hufenschos を免除された。さら Jedwi l 1e i t e n (リングーネン管区 Amt L inkuhnen), 15フ にパン焼と, ーフェ 1 6モルゲンに定住させようと試みたが, Niederl a g s r e c ht に抵触せぬ限り) をも保証 洗礼派をイェートヴィライテン 自家用のピールの醸造,商品の自 由な販売(ただしヶーニヒスベルクの集荷権 されている。 1 0 4 )R a n d t,a .a .0 .,S .7 . フリードリッヒ=ヴィノレ ヘルム一世の『復興事業』については, G .S chm ・ o l l e r, “D i eV e r w a l t u n gO s t p r e u s e n su n t e r "Hi s t o r i s c h eZ e i t s c h r i f t , F r i e d r i c hW i l h e l m1, XXX( 1 8 7 3 ),4 0 7 1 ;A .S k a l w e i t, Dieo s t ρr e u . ρi s c h e Domanenverwaltung u n t e rF r i e d r i c h Wilhelm1undd a sR e t a b l i s s e m e n tL i t h a u e n s ( L e i p z i g,1 9 0 6 ) ;F r i t zT r e v e n, “D a sR e t a b . n l i s s e m e n tK o n i gF r i e d r i c hW i l h e l m s 1i P r e u s i s c h L it h a u e nv o n1 7 1 4 1 7 4 0, "Z e i t s c h r i f t fur Osげo r s c h u n g ,IV ( 1 9 5 4 ),5 0 1 1 5を 参照。 司 このように,入植者たちは,ほ Xヴェストプ ロイセンと同様の条件を認められたとはいえ, 地代のフーフェ当り 120グ、ノレテ。ンはヴェストプ ロイセンに比して著しく高く,また他のリタウ 1 0 5 )M a n n h a r d t,a .a .0 .,S .1 1 5は , スイスの再洗 礼派がハンプノレク経由でプロイセンに渡ったもの としているが,恐らく,その入植は単独ではなく, ポーランド領からの移住者に混って行われたので あろう。 1 0 6 )M a n n h a r d t ,a .a .0 .,S .1 1 7 . 44( 2 2 0 ) られることのなかった低湿地を 1 0年足らずのう 表IX-l ! lーヵーネーゼ御料地局管内メ ンノ一派入植地 村落名町二 3 2 代 地 主 同i Z ぷU-!23!叶 m Ki l 1u g k e n 計 1 _ 1 ちに優良な牧草地に変え, 集約的な酪農経営を 成功させた。その成果は, ケーニヒスペルクに 搬入された『メンノ一派チーズ~ Mennonisten -Kase の推移からも明らか/で, これ支でヴェ ストプロイセンから輸入されて L、たこの特産の I4I4-15 チーズが, A l t B o g d a h n e n l1 6I 1 2 N e u s o r g e I1 0I1 0 -2 N e u S k o p e n I8I7-11 A l t S k o p e n I1 0I 1 1 2 6 総~sche 35-2 経 済 学 研 究 これらのオストプロイセン製品によ ってほど代替されたのみならず,新しい需要も 掘り起されたほどであった。このような実績の ゆえに御料地経営を担当する官庁, 軍事=御料 riegs-undDomanenkammer もメン 地局 K 1 9 2 5 -7 ド 1… 司 ご うI f z ノ一派に好意的であった 107)。 一方,ケーニヒスペルク三市も漸くメンノ一 6 R a n d t,a .a .0 .2 .,S 6 . 派の定住を認めるようになった。先ず 1 , 7 1 6年 ティーゲンホーフの火酒蒸留業者、ンュフ。ルンク 表IX-2 ケーニヒスベルグへの『メンノー 派チーズ』移入 年 単位 S t e i n 竺入│国 L 3, 2 2 2 3 8 6 2, 3 1 1 1, 0 5 7 3, 2 8 2 1, 2, 2 4 0 1 7 1 8 1 7 1 9 1 7 2 0 1 7 2 1 1 7 2 2 1 7 2 3 1 7 2 4 3月 末 ま で 7 7 3 3, 5, 2 0 1 8 3 7 6, 8, 4 7 2 9, 1 3 1 9, 2 4 1 3 0 , 17 R a n d t,a .a .0 .2 .,S 8 . Johann P e t e r Sprunk がクナイプホーフ市 当局から定住と営業を認められた。しかし 年にハインリヅヒ・ファン・へーフェン 翌1 7 HeinrichvanHofenは,同じ業種であるにも かかわらず,ルタ一派教会の圧力を受けた市か らその営業を許可されず無許可のまム営業を始 u めた。結局,消費税収入を重視する政府の仲介 で,彼も,原料となる穀物蒸留酒を当市のギル ド所属の商人より購入すること, また他宗派の ものをメンノ一派に引き入れぬことを条件に, ieger として定住することを認められ 居留民 L エン入植者の場合の約 2傍であった。しかも, た。その後,ケーニヒスペルク地区の少数のメ 彼等は入植に際して国の援助を受けることな ) は,市郊外トラーグハイ ンノ一派(男 6女 9 年間の地代免除さえ許されなかったことを忘れ ム内,シュタインダム馬市場 Steindammsche Pferdemarkt にある香料商人フロース Flos の家で集会を聞いていたが, 1 7 2 0年に,家族の てはならなし、。恐らくこの高額の地代は,賦役 みの礼拝を除き信徒の会合が禁止された。この =兵役免除の代償の意味iで あ っ た と 考 え ら れ ため信徒は儀式を執り行うためには,ダンツィ く , 自費を投じて必要な施設を建設したにもか かわらず,他の入植者には認められた最初の 6 る。また割当地も,他の入植者が平均 1フーフ ヒかエルピングに出向かねばならなくなった。 ェ 6モルゲ、ンであり, メンノ一派は,国主に『極めて静穏な会合』 しばしば 2~3 フーフェ に及んだのに対して, メンノ一派にはせいぜ、い Versammlungi l l e rS na t i l l e を黙認するよ . 8 3フーフェに過ぎなか 1フーフェ,平均して 0 う請願した結果, 国主は 1 7 2 1年 1 2月4日 , 移住 った。それにもかかわらず, メンノ一派の農民 inladungspat 勧誘公開状 E e ntにより,私宅で l t G i l g e 川やメーメル Memel は旧ギノレゲ A の静粛な礼拝の自由と,市民権, 川に堤防を築き排水路を開削し, これまで顧み ツンフト加入 a n d t,a .a .0 1 0 7 )R 0 9 . .7-12,2 .,S 1 9 8 5 .9 ヴェストプロイセ γ におけるネーデノレラント系メンノー派 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動(15 権を約束し,ダンツィヒ,エルピングやオラン 4 5( 2 21 ) 蒸留業者シュプルンクは,兵役免除の代償に一 ダから移住者を募った。そしてこれに応じて, enerald ir e k 定額の献金を約束し,総監理府 G これらの諸地域から,少数ながら(主として火 torium も,地代収入の喪失のみならず退去に 酒蒸留業者)ケーニヒスペルクに移って来るも のが現れた 108)。 際して必要な莫大な補償金支出を考慮して,退 しかし,こうしたメンノ一派に対する寛容も, わずか 10年で, ~兵隊王』フリードリ γ ヒ=ヴ ィルヘルム一世の徴兵強化と相容れなくなり, 去命令の撒回を進言したものの,国王はとれを 聴入れなかった。メンノ一派の農民は,その 10 年余の汗の結晶たる農地・家屋・家畜を,国の 定めた低い価格で手放すことを強九、られ,あま 農村のメンノ一派は追い立てられるように退去 りの不当な安値に憤慨した農民たちは,愛しみ せざるをえなかった。すでに,これらメンノ一派 育ててきた樹木を自らの手i で切倒したといわれ がヴェストプロイセンから帯同してきたノレター る109)。こうして, 派ドイツ人の作男がメンノ一派に改宗し, 6 0 0人余のメンノ一派農民は さら 殆ど無一物で、ヴェストプロイセンに引揚げ,両 に当時オストプロイセンで盛り上りつつあった マリーエンブルガー・ヴェルダーやモンタウに 敬度派より帰依するものが現れたことが,ルタ 分散した。この悲惨な同胞に対しては,ダンツ 一派教会の怒を招いただけでなく,政府からは ィヒのみならず,ハンブ、ルク=アノレトナ,オラ , 徴兵忌避の疑をかけられた。そのため, 1722年 ンダ(アムステルダム,ロッテルダム,ハーグ) ルタ一派の住民がメンノ一派に加わることが厳 , 9 4 0グルデンの義損金が送られ, の教団から 8 年に勃発したのが,メン 禁された。その直後 1723 120人の引揚者に貸付けられた。そして, ノ一派青年の強制徴兵事件である。即ち,同年 秋 , フォン・ヴーテナウ中将 G e n e r a l l e u t - こ a の資金をもとに,ザロモン・ベッヒャ-S lomon Becherとヤーコプ・ヤンツェン Jakob nant von VVuthenau 揮下の龍騎兵連隊の募 Jantzen を指導者とするフリースラント派の 兵係の兵士が勝手にメン/一派の家々に押入っ 一団は, 2, 200クソレデンで,トラーグハイマーヴ て , 5人の最も長身で力強い青年を捕えて,かの ァイデ Tragheimerweideの%(後 1752年450 iesengarde の要員とし 有名な巨人近衛連隊 R グルデンで 6フープェ追加)を,またシュトゥ てポツダムに送った。驚いたメンノ一派入植者 ーム王領管区長からルートナーヴァイデ Rud- 2人の代表を首都に派遣して釈放を国 4フープェを買取ってここに落着 nerweide の1 王に請願した結果, これらのメンノ一派の若者 いT こほか,小マリーエンブルガー・ヴェルダー は帰宅を許されたものの,国王はこの無法自体 の直営地 Vorwerk (テーリヒトホーフ T o r i - は何等塁手めることはなかった。それゆえ, c h t h o f ) の20フーフェ 15モルゲンに 12家族が入 たちは この ような特許状侵犯がたびたび繰返えされること 植し を懸念したメンノ一派の入植者たちは,徴兵免 Montau やカーミンケ Kaminke v こ部分的に 除が確実に保証されぬ場合には,契約を破棄し 入っていた 110)。 退去せざるをえない旨を国主に申し入れ,逆に また,大ヴェルダーの小モンタウ Kl . この 1723~24年の事件は, メーメノレ低地の御 7 2 4 年 国王の態度を硬化させることになった。 1 10月 8日,予期せぬ契約打切りと退去命令を受 けたメンノ一派は,その取消を懇願した。他方 でケーニヒスペルグのメンノ一派の有力な火酒 1 0 8 )R a n d t,a .a .0 .,S .13-19; シュプルンク家は, ティーゲンホープ放の火酒蒸留所の経営を請負っ ていた。 P e n n e r,Ansiedlung ,S .4 7 . 1 0 9 )R a n d t,a .a .0 .,S .30-36;Mannhardt,a .a . .1 1 8 9 . 0 .,S e n n e r,Dieost-und westpreuβi s c h e nMenn1 1 0 )P o n i t e n,S .407 (Anhang3 );W iebe, DasS i e d l u n g s w e r k ,S .4 3 . ベッヒャー ( A n d r e su . S a l o m o nB e c h e r )は多分エノレザスからの移住者 で , 1 7 1 2 年のルイ 1 4 世による再洗礼派追放によっ てプロイセンに渡ったのであろう。 4 6( 2 2 2 ) 35-2 経済学研究 料地の借地契約破棄にのみ関わるもので,ケー 執り成しを試みたものの全く聴き入れられず, ニヒスペルクを含む全土のメンノ一派を追放す これらメンノ一派農民は再度オストプロイセン るものではなかった。そして,ケーニヒスベル を逐われたが, ク?では,その後,縁飾り,火酒蒸留など様々の ランダ・メンノ一派の手で,故国オランダに迎 9家族 110人は,オ うち約半数, 2 ヴァノレヘレン島 W alcheren (ゼーラ 分野で,多くの企業家が一一市民権賦与は依然 えられ, 拒否され,居留民としてーーそのマニュブア へ ント州)やワーへニンゲン Wageningen ( クチャーないし問屋制家内工業を展開してい ルダーラントリ['1)に農民として定住した。しか た 111)。 また, ヴアルトブルク伯 G raf Tru- し,オランダを離れてから数世代を経て,言語, chses zu Waldburg も,その所領ラウテン フゃルク Rautenburgに , 全く無一物の 4 0 家族 件も異なるオランダ町、生活することは著しく困 を呼び戻し,先に入っていた 2家族を含めて 4 7 7 3 6 年にダンツィヒに舞戻っ 難で,結局彼等は 1 家族がダンネンベルグ教団 Gemeinde Dan- た 114)。一方,ケーニヒスペルクには, 1 7 家族の nenberg を形成していた 112)。 風俗もすっかり変ってしまった彼等が,農業条 メンノ一派がおり,その多くが,有力な火酒蒸 しかるに,国王は 1 7 3 2年 2月2 2日,再度, し 留,縁飾,硫毛毛織物などのマニュファクチャ かも全土の一切のメンノ一派の追放を命ずる勅 ー主ないし問屋商人で、あった。これら企業家の 令P atentを発布した。国王が突如この挙に出た 一部は,資産を売却してダンツィヒへ引揚げる 7 2 6年に一般徴兵制 理由は明らかではないが, 1 準備を始めたが,ケーニヒスベルクの軍事=御 Enrollierungssytem が導入されていたこと, 料地局は, そして丁度ザルツブ、ルク司教領を逐われたノレタ 職人の主主計の途が閉されるのみならず,国王の ー派を大量にオストプロイセンに誘致する計画 意図した『復興事業』とりわけ新産業移植のう が実行に移されつ L あったことがその最大の原 この追放により,多くの賃労働者や えで大きな支障が生ずることを懸念して国王に 因であったと思われる。即ち,これらザルツブ 訴えた。さらにオランダのメンノ一派の働きか ノレグからの亡命者達がメンノ一派の先例に倣っ けによって,ベルリシ駐在のオランダ大使もプ て兵役免除を求めるならば,一般徴兵制自体に ロイセン王に執り成した結果,一定数の職人を 重大な特例を認めざるをえないからである もちろん, 。 113) ヴアルトブ、ルク伯は,国王に懸命の 雇用する企業家については,居留民として残留 することを許された 11九 その後 1 7 4 0年に, フリードリッヒ二世の即位 1 1 1 ) たとえば,さきの火酒蒸留業者の他,硫毛毛織物製 造業のハインリッヒ・ファ γ ・デューレン H e i n r i c hv a nD u h r e n (織機 7台,職人1 2 名,紡績 工70名),小間物商 K ramerのベーレント・クラ ーセン・ファン・デイク B e r e n dC l a a s e nv a n 0台 , あらゆる種類のリボンとモー Dyck (織機1 a c o bS c h r o d e r (火酒蒸留業縁 ル,縁飾製造), J 飾製造, 織機 4台 ) , D i r kC o n w e n t (イギリ ス風皮革), K r a u s e (残害りなどが挙げられる o R a n d t ,a .a .0 .,S .5 7 8 . 1 1 2 ) このヴアルトブ、ノレグ伯は, オストプロイセン復興 a r lH e i n r i c h( 1 6 8 6 事業で国王を補佐した K 1 7 2 1 )の弟でその遺産相続人であった。退去命令 は M a n n h a r d t ,a .a .0 .,P r i v i l i g i e nu n d . Urkunden6 1 1 3 ) これらザルツブルグ司教領からの亡命者は, 1.1~ 1 .3万に及び,大部分がリタウエンに入植した。 S k a l w e i t,a .a .0 .,S .2 7 2,Anm ,1 . とともに,メンノ一派追放令も廃止されたが, もはや大規模な入植は試みられなかった。それ abinauerNiederung でも,ラーピナウ低地 L のフリードリッヒスグラーベン管区 AmtF r i edrichsgraben の荒れたま L放 置 さ れ て い た ecken直営地 Vorwerk (ゼッケンフ守ルク S burg,ボーレンツホーフ Polenzhof, ギンケ ルスミッテル G i n c k e l s m i t t e l ),計44フープェ 2 1モルゲン 2 0 7ルーテに,エルピング地区から 1 1 4 )J .S .P o s t m a ,Dien i e d e r i a n d i s c h e Erbe d e r p r e u βi s c h r u βl a n d i s c h e n M e n n o n i t e n i n Euro ρa ,A s i e nund Amerika (Th巴01 .D is s . ,1958),S .133-5. Marburg 1 1 5 )R a n d t ,a .a .0 .,S .6 1f f . ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノ一派 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 1 9 8 5 .9 4 7( 2 2 3 ) wメンノ一派ダ 村で次々に新しい農地をうることができたこと ム j JMennonitendamm と名付けられた堤防を は,その経済活動の重心を大き農業に傾けるこ 遣しでいるが,度々の洪水でこの開拓は失敗に 年のプロイセン王 とになった。こうして, 1772 終って 1747 年には他からの農民がこれに代っ 国への編入当時, メンノ一派の人口の約 3分の た 116)。 その後 1758 年に, 2が農民であった。以下,本章では, これまで 60家 族 ( 約 300人)が入植し グムピンネン軍事= 御料地局管内プラウシュヴァーレン直営地 取り上げてきた様々の入植地全体を通して,彼 Vorwerk Plauschwaren (Amt Ballgaar- 等の農業経営の特徴を浮彫りにして見ることに したい 118)。 den) の1 1フーフェ 12モルゲン 27ノレーテに,主 としてクルム, グラウデンツ地区から 12家族が 40年契約(年フーフェ当り 42ターラー)で入植 すでに明らかにされたように, メンノ一派が 入植を許された土地とは, 16世紀まで、に洪水な し た 。 さ ら に 入 植 地 は ク ッ カ ー ネ ー ゼ Ku- どにより廃村と化した│日ドイツ騎士団領村落, ckerneese, ノミウプレン Baublen, ヴィンゲ あるいはこれまで全く利用されず放置されて Winge, ハ イ ン リ ヒ ス ヴ ァ ル デ Heinrichs- いた低湿地, walde にも広がり, 海面下の低地 Depression,それに一部の放牧 1768年には 32家族, 1776 年には, 45家族 ( 2 2 1人)に成長した。また, とりわけ人工の排水を必要とする 地などであった。これらの沖積地は,干拓に成 かつて, 18世紀初頭に入植したリンクーネン管 功すれば肥沃な牧草地や耕地に生れ変りうるも 家族 ( 1 5 1人),さらにその他の入植 区にも 27 のとはいえ,そのためには莫大な資金と労働力 1 5人)を合せると 86家族 ( 3 8 7人)に 地 4家族 ( を投下する必要があり,また,優れた技術なし ケーニヒスベルク 143人,その他の都市 には到底実現の見込みがなかったので、ある。即 達し, 40人を大きく凌いで,オストプロイセン内のメ ンノ一派の中核をなした 117)。 X ネーデルラント系メンノ一派の農業経営 世紀を すでに繰り返し述べてきたように, 16 通して絶えずヴェストプロイセンに亡命してき たネーデノレラント人メンノ一派の多くは,都市 の手工業者な いし商人,それに農村工業地帯の 2 生産者たちで、あったから,先ず何よりも,ダン ツィヒやエルピングのような都市への定住を望 んだことは云うまでもない。しかし都市の手 工業ツンフトやルタ一派教会の激しい抵抗に遭 って,都市湾、の商工業営業は殆ど不可能となり, また,市領外の市場町,たとえばアルト・ショ ットラントやティーゲンホーフも,彼等の商工 業の根拠地として大きく成長することはできな 醸の少い農 かった。他方で,彼等が,比較的車L 1 1 6 ) Randt,a .a .0 .,S .8 8妊.地代は. 30~33 ター ラー (6年間免除〕で, 近隣 10~6% ターラー より明らかに高かった。 1 1 7 ) Randt ,a .a .0 .,S .9 4 1 0 0 ;M e n n o n i t i s c h e s 6 1 2( L it h a u e n ) . L e x i k o n,U,6 ち,大堤防 Hauptdamm で護られたヴェルダ ーでさえ一一ーその外側の海岸はいうに及ばず 一一新入植地単位に小堤防をもって周りを囲 い,各農圃ごとに排水路を聞き,風車 119, 〉 ある 1 1 8 ) デルタ地帯の堤防・排水路の状況は Bertram および Nordmann (本稿(1J, 4 6 頁,注2 4 )所 収の地図ならびに,写真を参照。メンノ一派の農 .D r i e g er . “ Farmingamong 業経営の概観は, J t h e Mennonites i nWestandE a s tP r u s s i a 1 5 3 4 1 9 4 5, " Mennonite Q u a r t e r l y Review , XXXI( 1 9 5 7 ) .p p .1 6 2 0 ;Penn巴r , Dieo s t u n d w e s t p r e u βi s c h e n Mennoniten ,K a p .1 5 .のほ か,すでに引用した, Penner ,Wiebe,Ludwig などのモノグラフィーから断片的な資料をえられ るのみで,農業経営に関する詳しいデータはまだ えられていない。 1 1 9 ) 風車は,北ネーテ、ルラントでは,製粉・搾油には 4 世紀には利用されており, プロイセンに すでに 1 おいても, この形では各地で利用されていたもの と思われるが,確認できる最も古い排水風車は, 1 4 0 8 年(アルタマール〕で, 1 5 世紀の間に,ホラ ントやゼーラント各地に普及したものと思われ .A l b e r t senH.P .H.J a n s e n,W e l v a a r t る 。 J i nw o r d i n g .S o c i a a l e c o n o m i s c h eG e s c h i e d e n i s o e g s t et i j d e nt o t van Nederland vand e 世r ' s G r a v e h e te i n d e van d eMiddeleeuwen( nhage,1 9 6 4 ),b l z .1 1 9 . 48(224) 35-2 経 済 学 研 究 いは馬による排水ポンプで水を絶えず外に送り (平均30~40年)の長期借地 Emphyteusis に 出さねばならなかった。このような大小の堤防 よっていた。借地に当つては, 借地の諸条件を の建設や排水路の掘削は一一この地域は石材や 定めた契約書 K ontraktが,市当局あるいは市 木材に乏しく,外から輸入せざるをえなかった だけになおのこと一一ー巨額の創業投資を必要と 領主, 王領地の管区長 S t a r o s t や御料地荘司 Okonom と入植者集団の代表者との間で交さ したし,また,酪農業に不可欠の乳牛もオラン れ,王領地の場合には, 国王が特許状でこれを ダから輸入せざるをえなかった。この資金を入 追認した。借地期限の満了後は, 植者たちがどのようにして調達したかは,残念 し , 地代額を改訂 また一時金 E i n k a u f g e l d, Laudemium ながら明らかでないが,すでに述べたように, Kirchenpfennig (通常地代の 初期の入植に当っては,少数の請負人や発起人 支払うことにより,再び 3~40年間更新された。 が私財を投じてこの費用を調達している例が見 もし契約が更新されずに入植者が退去する場 出されるし,また,恐らくはホラントやフリー 合 , スラントからの亡命者の一部, 補償する義務を負うていた。そして, とりわけ農民た 4~5 年分)を 領主側は入植者が造成し残して行く資産を これらメ ちは,故国の財産を処分し,営農資金をある程 ンノ一派に代る入植者を見付けることは困難で 度は準備していたものと考えられる。そして, あったから入植者側が希望する限りは借地契 1 6 世紀末からの第 2世代以降の新村建設,分家 に当っては,母村からの様々の援助を受けるこ 約が次々に更新され,借地権はほど永借地 E r b p a c h t に近付L、ていた。他方で入植者の側は, とができたしまた,都市や農村の同じメンノ この借地形態によって, 一派の資金を借入れることができた。そして, 属から完全に自由となり,移動の自由を確保し, メンノ一派は,最も信用のおける債務者として 条件の悪い土地を棄ててもっと好条件の土地へ 信頼を博したから,カトリッグ教徒のポーラン 移る自由を確保した。入植者たちは,各種の領 ド人の聖職者,官吏すら,喜んでその資金を土 主への賦役一一領主直営地の賦役のみならず, 地抵当信用に提供したほどであった。 領主に対する人格的隷 道路・橋などの公的設施の維持・補修も含めて ところで, これら干拓地の泥土は肥沃ではあ ーーを忌避し,入植契約にその免除を明記させ ったが,肥料分が過多で、当分の聞は穀作に適さ た い 堤 防 維 持 の 賦 役 Dammscharwerk ,流 ず,菜種や蕪などを連作して土壌を改良しなけ 氷への張番 E iswacht すら免除を願い出てそ ればならなかった。また葦もこれを取除くのが れを認められ,止むえぬ場合には代金納でこれ 難しく,何年か家畜を放牧してこれを喰ベ尽す を済ませていた。このような種々の有利な条件 のを待たねばならなかった。この間,入植者は を認められたのは他の旧ドイツ騎士団領村落に 防風林や果樹を植え, 1O ~15年を経て本格的な 比して著しく高水準の地代の故であった。即ち, 農地が誕生するのであった。それでも,低湿地 1 7 世紀後半のマリーエンブ、ノレク御料地のクルム の多くは冬穀の小麦やライ麦の作付が困難で, 1 6 . 8 法による保有地の地代負担は 1フーフェ ( せいぜ、い飼料用の大麦や燕麦などの夏穀に用い h a )当り 1 4グルデン程度 であり,これに賦役・ 0グルデン程度 堤防費などを加えてもせいぜ'い 3 られたに過ぎなかった 120)。 ところ句,土地保有形態は,ダンツィヒ市領 t であったのに対して,長期借地の方は, もちろ 農村を別にすれば,その多くは村落団体 Nach ん,入植地の条件によって差呉はあるものの, b a r( G e m e i n s c h a f t )が一括かつ連帯責任を負 う ( e i n e rf u ra l l e,a l l ef u re i n e n .omnes p r o uno,unum p r o omnibus), 15~50年 一時金まで加算すると 50~60 グルデン, 1 2 0 )P e n n e r ,a .a .0 .,S .1 3 0 . にも近ーい最も恵まれた穀作地であったことを考 司 1 8 世紀 には 60~80 グ‘ルデンに上っている。しかも,マ リーエンブルク御料地のクルム法村落は,市場 ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メシノー派 1 5 2 5 1 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 9 8 5 .9 慮すれば, これら長期借地の地代水準が格段に 高いものであったことが理解できょう 。 4 9( 2 2 5 ) 判権に関するもの 1であるが,その他,保有地の 売買についても重要な規定が含まれていた。例 121) これらメンノ一派の集団長期借地一一『オラ えば,有名な 1562 年のシュリノ Schlino (トル ンダ、人村 H Hollanderdorf ,Hollanderei, .ol~ ン市郊外) およびそれを継承したコストバール dry-. -の場合には, Kostbar (1719年 ) , 個々の農民への土地配分 は入植者集団の自治に委ねられ,領主側も保有 グラボーヴィッツ Gra- bowitz (1729年)の村法は,保有地の売却ない 2週間の期限で, 先 ず 村 地の分割禁止についての特別の努力を払わなか し貸出しに際しては った。従って,村落の農民経営規模は,当初は 民 Nachbar に優先権(とくに隣接地の保有者 ほど均等であったとしても,相続による分割・ や同居者に最優先権)を認め,その聞に買手(な 譲渡・購入により,次第に格差を生じて行くこ いし借手)がつかぬ場合に初めて外部の人間に とは避けられなかった 122)。 売る(貸す)ことを許した。その場合,買手(借 領主(都市および国王を含む)と農民との関 地人)は, ~正直で、評判の良い人間 II e in ehrli - 係を規定する入植契約書 Kontrakt ないし特 chen Mann und gutt Beweiss hat である 許 状 Patent に対し,村落内の農民相互の関係 のみならず,~オランダ語を知り使用しているド を規制するものが村法 Willkur(Nachbarsch- aftsordnung) であった。すでに述べたように, 新しいネーデルラント人の入植地では,村民に , 助 役 Ratmann, 参審員 よる村長 Schulz Schoffen など村役人の選出が認められ, 除く下級裁判権が村落自治体に与えられてい この村法の規定の多くは, sch weis und gebrauch helt でなければな らず,ポーランド人への売却は, 1 0グルデンの 罰金をもって禁じていた。このような,保有地 売却への制限は,先に述べた地代の連帯責任制 刑事 =重罪事件 Criminal- und Halsgericht を た。従って, イ ツ 人I e in Teutscher,welcher hollandi- 下級裁 1 2 1 )r ポーランド領」時代のヴ z ストプロイセンのメ ンノ一派の入植契約またはその確認特許状のう ち S t u t t h o f ( 1 6 6 5 ), Habbendorf ( 1 6 2 3 ), Tiegenhagen ( 1 7 6 6 ),Wi 1 1emsbruch ( 1 7 5 0 ), Schwansdorf( 17 2 4 ),Marcushof( 1 6 8 3,1 7 2 3 ) がS zper,a .W.,B i j 1 a g eに , Kampenau( 1 6 1 2 ) が Toeppen ,a .a .0 .,S .9 6 ;W a l l d o r f( 1 7 1 5 ) が Ludwig ,a .a .0 .,AnhangI I Iに , Schons巴巴 ( 1 5 9 5 ),G .Lunau ( 1 6 0 4 ),Gruppe ( 1 6 0 4 )が Wiebe,a .a .0 .,Anhang,Rosenort ( 1 6 8 3 ), Weishof ( 1 7 0 9 ),G r a b o w i t z ( 1 7 6 1 )がK.C i e s i巴l s k a, “ Osadnictwo 0 1 号n d e r s k i ewP r u 1e sachKro1ewskichina Kujawachw swiet t u d i aiMateriaJy kontraktowo s a d n i c z y c h ",S d oDziejowW i e l o p o l s k iiPomorza , IV( 1 9 5 3 ) に印刷され, また, 未刊行の入植契約について i e s i巴l s k a の論文が,現グダニスク・トルニ も ,C 両国立文書館の史料番号を挙げている。なお,長 8 5 0 年 3月 2日に最終的に廃止され, 期借地は, 1 .a .0 .,S .7 . 完全な私有地となった。 Wiebe,a 1 2 2 ) メンノ一派農民の保有地規模分化は, 表 VI-2 ( ( 2 ),3 1 頁).表 VII3, 5 , 8 ,(本稿3 0,3 2,3 6頁 〕 I I I 1( 同3 8 頁〉を参照。 表V の下で,支払能力のない農民が加わることを防 止する方策であったといえよう。この他,重要 な規定としては,家畜が他人の放牧地や耕地に 入らぬよう,各人の保有地を柵や石垣で囲込む 義務,排水を円滑にするため各人の保有地内の 水路を絶えず清掃する義務などが設けられてい た 123)。 ところで, メンノ一派農民の経営規模につい ては,すでに掲げたように,いくつかの村落に ついて,その分布を明らかにしうる。しかし, 穀作地と牧草地,あるいは穀作経営と酪農経営 とでは,単位面積当りの収益が大きく異なり, 司 経営面積のみで単純に比較することはできな い。これを補う経営資料や遺産目録も殆ど入手 1 2 3 ) Kutrzeba e t Mankowski, 巴 (d sふ P o l s k i e U s t a w y . . .は,この他 Reichenberg( 1 5 4 7 ), K 1 e i n 1 6 7 6 Lubin ( 1 6 5 0 ),Marienburger Werder ( および 1 7 2 3 年以前の村法)を収録している O この 他,エノレビング市領のエラーヴァノレトの村法は, C .K .Lemann,P r o v i n z i a l r e c h td e rP r o v i n z n ,3B d e .( L e i p z i g,1 8 3 0 ),I I I 2, Westpreuβe Urkunde Nr .1 3 に印刷されているが今回は参 照しえなかった。 50(226) 表X-1 ハインリッヒ・パルツの遺産 7 4 4年) (コソグォ 1 L 経営商積 2 . 家 畜 2フーフェ 2 9モルゲ γ139ノ レーテ a馬 1 6 (牝馬 4 牡馬 7 仔 馬 5 ) 8 (乳牛 1 7 牡牛 2 仔牛 9 ) b牛2 c豚3 3 d羊 11(うち仔羊 4) e鶏,家鴨,驚烏 3 . 穀物収穫(予定) 1 .大 麦 1 5 7 シェッフェノレ 2,燕 麦 3 9 2 . 5 3 . ライ麦 3 4 . コノレモノレ麦 1 2 . 5 5 . トノレコ燕麦 2 4 . 資 産 7, 464 グノレデン 1 2 グロッシェン 5 . 負 債 3, 2 3 8 グルデン 0 1 グロッシェン 6 . 遺 35-2 経 済 学 研 究 産 4, 1 2 6 グノレデン 1 1 グ戸ッシ z ン H.島 ' I aercker,G e s c h i c h t ed e rS c h w e t z e rK r e i s e s , XV,S .5 6 5 9 . しえないので, これら農民の経営内容を正確に 年のハイン 把握することは困難であるが, 1744 返済しまた次代の営農資金を準備で、きたものと 思われる。これらメンノ一派の農家経営の上層 弘には, 4~5 フープェ, 時には 6フーフェもの 大経営が見られたとはいえ, メンノ一派の資金 は,個別経営の拡大よりも,絶えず新しい農地 の獲得,子弟の新しい農家の独立に向けられ た 12430 メンノ一派の入植地は,その多くが低湿地で あったことから,その村落や住居の形態も旧来 のドイツ騎士団領村落とは異った独特の景観を 生んだのである。即ち,騎士団村落は多くが街 村であり,各農民の保有地は混在地制をとる地 条の形で村落の四方に広がっていたのに対し, メンノ一派の f オランダ人村~ Hollanderdorf は,堤防沿いに住居が並びその後方にそれぞれ の農家の保有地が一纏めに置かれている,いわ ゆる堤防フーフェ村落 Deichhufendorf であ り,ダンツ、4 ガ ー ・ ヴ ェ ル ダ ー や , 海 岸 の ハ フ・カンペンには散居制をとるところも珍しく Heinrich Bartz (コソヴォ なかった。しかも,低湿地であり洪水の危険に Kossowo) の遺産目録から,ある程度までメン 絶えず晒されていたゆえに,家屋の建設に当つ ノ一派農家の経営を推測することは可能であ ては十分に一一時には 1~2m も一一土盛をす リッヒ・パルツ る。即ち, この農家は 2フーフェ 2 9モルゲン 1 3 9ルーテ日 ( 5 0 . 3 ha) を保有し, うち約%の る必要があった。これらの入植地で,あの特徴 あ る 「 曲 り 家J Winkelhof (一部 T 字 家 屋 2 6 . 9モノレゲンが大麦・燕麦などの飼料作物の栽 Kreuzhof),即ち,一つの建物に住居・畜舎・ 培に充てられ,残り約 2フーフェは草地であっ 納屋を纏める構造が一般化したのは,冬季の作 たが,バルツの所有する家畜は,乳牛 17頭,牡 業の便よりも, 牛 2,仔牛 9,馬 1 6頭,羊 7頭に及んでいる。 従って,パルツは,酪農経営のみで,少くとも 0 0クゃルデンの粗収入をうることができた筈 年6 で , さらにこれに家畜の売上げが追加される。 これに対して,穀作地の場合 1フーフェの粗 2 7 0クツレデ、ンといわれ, もし経営費・生 収入は 計費をその半分と見積るならば, この経営は, フーフェ当り 60~80 クゃルデンの地代を支払った 後になおかなりの資金を残すことができたと考 えられる。このような 3フーフェ台の経営は, 上層に属するものであり,大多数の農家は 1~ 2フープェ台であったが,乳製品の市場に恵ま れる限りは,高額の地代を負担しつ L借入金を 最小の敷地に必要な建物を余さ 1 2 4 ) フリースラント(オランダ〉のほ足、似たような経 営規模の RienckHemmemaの会計記録〔乳牛 1 7 頭,牧草地 17ha,耕地 8 . 5ha) の1 5 6 9 7 3 年 2グルデンを, 1 7 4 0年代のヴ の乳製品売上年平均 9 ェストプロイセンの貨幣価値に換算した場合,そ 4 0 . 1f l.となる。しかし,経営費の方 の数字は 6 は,労賃支出が全く不明なので正確に算出するこ 、c f .R H.SlichervanBath,Een とができな L。 F r i e s c hL a n d b o u w b e d r i j fi ndet w e e d eHe f l t d e r 16de Eeuw (Agronomisch-Historische 9 5 8 ),b l z .1 2 4 . Bijdragen,IV;Wageningen,1 ノレートヴィッヒは 1フープェの穀物の収穫高を 2 7 0 シェッブェノレとし, 価格を 1グルテンと計算 している。ただし,もし,完全な三園制であれば, 8 0 ; 7"ルテンであるから, フーフェ当りの粗収入は 1 50~60 グルテンの地代は過重と思われる。 wig,a .a .0 .,S .8 1 . Lud ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノー派 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 1 9 8 5 .9 51 ( 2 2 7 ) 図 X-1 1"曲り家」および T字型農家見取図 T字型 曲り家 がl 屋 T 住 居 L B .Bertram W.LaBaumeundO .K l o e p p e l,DasW e i c h s e l Nogat-Delta ,S .1 7 0 . ず収容する狙いに他ならなかったので、ある。他 ーエンフツレガー・ヴェルダーのクルム法保有地 方でこのような曲り家だ、は,火災によって,一 を次々に買収し, 6 2 2年 か 切が全焼する危険が大きく,そのため1 2フ ー フ ェ を 大 き く 越 え る 富 裕 な ク ル ム 法 農 民 ら , メンノ一派農民を中心にヴェルダ一地区の 火 災 保 険 組 合 が 組 織 さ れ た 12九 このように,苦難を乗越えて低湿地帯の干拓 に成功したメンノ一派農民は,すで、に述べたよ うに,小マリーエンブルガー・ヴェノレダー,エ ルピング低地,ダンツィガー・ヴェルダーなど の条件の悪い入植地を放棄し,蓄積した資金や 借入金を投じて,最も恵まれた穀作地,大マリ 1 2 5 ) Vg , . lO .K l o e p p e l, “D ie b a u e r l i c h e Haus-, Hof- und S i e d l u n g s a n l a g e im WeichselNogat-Delta" i nBertram,La Baume und DasW e i c h s e l N o g a t D e l t a , 1 0 7 2 0 5 . K l o e p p e l, この「曲り家Jの住居が, ホラントやフリースラ ントの低湿地帯にも広く見られたかどうかは,確 認しえかった。これら農家は,洪水・浸水後乾燥 の速い木製を好んでいた。なお,火災保険組合 l i,Penner,a .a .0 .,S .1 1 2 ,4 0 1 6 . が 多 数 誕 生 し た 1町 中には,その標準経営規模の 127)。 1 2 6 ) クノレム法農民(ケノレマー〉は, 隣のオストプロイ センでは,グーツヘルと世襲隷民の中間にあり, その娘に 4~6, 000tl" ルデ、ンの婚資を与え, 息子を 大学に出していた。 Preu βe n sU r a l t e グ u ndj e t z t i g e r Zustand (Gumbinnen 1 7 4 8 ),S .5 2 7, z i t .Randt,a .a .0 .,S .2 9,Anm.3 . 1 2 7 ) このようなメンノ一派の高額の地代支払能力は, 何よりもその生産物(乳製品・家畜・穀物〉の売 上げにかかっていたから, グルム市領の場合を除 き,その自由な販売や購入が保証されていた。た だし,道路事情の悪いヴェルダーで、は,冬季はも ちろん,秋でさえ,市場までの搬送は難渋を極め ていた。メンノ一派の農民は, 穀物のみならず, 薪などの木材や塩,池,練等の必需品を市場で入 手せねばならず, そのため, どの村にも雑貨屋 Hakenbudeが設けられ, その多くはメンノ一派 ,a .a .0 ., の経営にかかるものであった。 Penner S . 1 9 4 . 52( 2 2 8 ) X I 35-2 経 済 学 研 究 メンノー派の宗教生活とポーランド国家 てさらに 1 0 0 0クソレデンを取り立てたま L約束を 履行しなかった。しかし,このハッグスペルク (1)メンノ一派とポーランド国家 すでに繰返し述べてきたように,幼児洗礼を 拒否して信仰洗礼を受けたものの教派として, 地域共同態を離脱し, また飽くまでも新約聖書 の暴状の前に,当時マリーエンブ、ノレクで開催中 のプロイセン等族議会がその越権と不当利得を 責め,遂に国王も 1 2月2 2日の有名な特許状によ り , メンノ一派のマリーエンブルガー・ヴェル の教えに忠実に従って兵役を拒否し,官職に就 ダーやティーゲンホーフの開拓の功績を嘉し かず,宣誓をも認めぬメンノ一派は,正にその て , ゆえに国教会=カトリック教会あるいはダンツ れまで施行されて来た,全体・個別 L、ずれもの この 8万クゃルデ、ンの金額と引換えに, ィヒやエルピングなど都市のルタ一派にとって 権利・特権・自由・慣行を例外なく是認し, 恐るべき異端に他ならなかった。それにもかか 該住民は例外なく保護せんと欲す』 わらず彼等が,都市領農村・王領地や一部貴族 ~こ 当 “o mnia の経済的・政治的繁栄期が過ぎ去った 1 7 世紀後 r i v i 1 ig i a, immunitates, e ts i n g u l aj u r a, p l i b e r t a t e s q u ea cconsuetudines, quibush u cusque u s i sunt ,n u l l i sp e n i t u se x c e p t i s a u te x c l u s i s approbanda ac c i r c a eadem d i c t o si n c o l a si n t e g r econservandose tmanutenendos e s s eduximus" ることを約束し た 129)。しかし早くも 8年後,マリーエンブノレク 半以降,反宗教改革=カトリックによる異端取 御料地,ティーゲンホーフ=ベーアヴァルデで, 締りが強化されていく中で,メンノ一派は,度々 ova c i t a t i o n e ad 国王補佐官法廷の新法廷 n judicium Nostrum A s s e s s o r i a l e ~こより, 各 フ ー フ ェ が 2ハンガリー・グルデン ( 6グ、ルデ 領への定住を許されたのは,偏に彼等の低湿地 を開墾し高い地代を支払う能力のお蔭であり, 彼等は決して他の宗派と対等の地位を認められ たわけではなかったし,信仰の自由を保証され たわけではなかった 128)。とりわけ,ポーランド 財産没収=追放の危機を迎えることになる。 その始まりは, 1 6 4 2 年に国王ヴワディスワフ 4t!tの侍従長 K o n i g l i c h e r Kammerherr の ハックスペルク W i l l i b a l d von Haxberg の 策謀であった。彼は, ヴェルダー王領地の事情 ン)の支払いを命ぜられ,国王は再度特許状を 発行してこれを免除せねばならなかった 130)。 しかるに, ポーランド全土を戦禍に捲込み経 に疎い国王からメンノ一派の財産を没収してこ 済的に大きな打撃となった第 2次 ス ウ ェ ー デ ン れを下賜する旨の布告を手に入れた。ハックス 戦争 ( 1 6 5 8 6 0年)後,反宗教改革の動きは一段 ペルクはこれを挺子にメンノ一派から不法に金 と強まった。とりわけ, を捲き上げる積りであったが, を中心にポーランド各地で教団を築いてきたソ メンノ一派は入 これまで貴族・知識人 植契約や特許状を示し飽くまでも支払いを拒ん ッツィーニ派(ポーランド兄弟団)にその鉾先 だ。そこでハックスペルクは軍隊を送って,マ が向けられ, リーエンフソレク御料地, ティーゲンホーフ,ベ その余波は同じく教派であるメンノ一派にも及 ーアヴァルデ両王領管区内のメンノ一派に対 び,ティーゲンホーフで, し , 0ターラー フープェ当り 3 ( 1 5 0クゃルデン), 同派は厳しい迫害に晒されたが, ソッツィーニ派迫害 の名を籍りた様々の圧迫が加えられた。そこで 6 5 8 年 , ソッツィーニ派を禁圧する 1 5 9 計 8万グソレデ‘ンを課し,剰つさえ, メンノ一派 国王は, の旧来の特権を国王に再確認させる代償と称し 年の立法は,貴族と市民身分を対象とするもの であり『農民にして,学芸に長ぜ、ず,その礼拝 1 2 8 ) 宗教的寛容の保証は,入植契約に明記されている 場合(例えばグルム市領のシェーンゼーやヤーメ ラウ〉の他,特別の保護状が発行されることもあ i e b e,a .a .0 .,S .5 5 .A nm.20,21 . った。 W 1 2 9 )M a n n h a r d t,a・ a .0 .,S . 79-82,P r ・ i v i l i g i e n u n dU r k u n d e n1 . 1 3 0 )e b e n d a,S .82-3,P r i v i l i g i e nu n dU r k u n d e n2 . 1 9 8 5 .9 ヴェストプロイセンにおけるネーデルラント系メンノー派 コロニーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 5 3( 2 2 9 ) は公けにではなく,聖職者の寛容と注意の下に hann Isebrand がメンノ一派に新しい借地を 営まれているに過ぎなし、』メンノ一派は怖るに 提供するのを承認し,さらに 1694 年に,これま 足りぬとして,国王の意に反して秘かに行われ でのメンノ一派の権利を確認する特許状を公布 た圧迫を一切無効と宣した 131)。 している。この間,プロイセン等族議会で, このメンノ一派迫害の動きは一応の終止符を ソ ッツィーニ派に対する異端取締法のメンノ一派 打たれたかに見えたが, 1674 年,新国王ヤン三 への適用を求める要求が繰返えされるが, 世ソピエスキーの登位とともに再び本格的とな や取上げられることなく, もは 18世紀に入ってから った。新王はメンノ一派への寛容の停止を志し, は,メンノ一派の地位は安定したものとなった。 その意を請けたポメレレン知事が, 1676 年のプ とりわけ 1 7 3 2年の国王アウグスト二世の特許状 ロイセン等族議会にメンノ一派の追放を提案し により, マリーエシブルガー・ヴェルダーのメ た。貴族達はこれに賛成したが,マリーエンブ ンノ一派は,私宅での礼拝の自由 liberumeo・ ノレグ御料地荘司のキトノフスキー Kitonowski rum r e l i g i o n i s exertium i np r i v a t i s do・ およびマリーエンブノレク代表のヴワディスワフ minibus と洗礼・結婚・葬儀などの執行,自派 ・ウォス Wladislaw ~os がメンノ一派の功 の学校教師による教育などの自由を確認され, 績を強調し,ダンツィヒなどの大都市代表も追 1750年には, 放に反対したため,この提案は可決されること ラウデンツ・シュトューム・ノイエンブむルクな ヴィスワ河谷のシュヴェッツ・グ なく終った。それでも知事はこれを断念せず, どの王領管区にも拡延された 132)。しかし現実に 直後に聞かれた国会で、再度これを提議した。こ は , れに対し, ラウエンブルクの地方裁判所判事 都市領を除く全土で一一大ルービンのごと く特許状に明記されていた場合は別として一一 Landrichter,プレベン夕、、ウ Prebendauがこ 国教会たるカトリック教会の教区強制 Pfarr- れに反対し,メンノ一派追放がマリーエンブ、ノレ erzwang は厳存し, ク御料地にどれだけの損害をもたらすかを国王 年改めて彼等を に説いた結果,国王も遂に 1678 保護する勅書 r escriptio を発布し, また, ィーゲンホーフ王領管区長イーゼブラント テ J o - 1 3 1 ) ソッツィーニ派 S o z z i n i a n e rは , イタリアの宗 e l i oS o z z i n i 教改革者レリオ・ソッツィーニ L ( 1 5 2 5 6 2 ) とその甥ファウスト FaustoS o z z i n i n i t a r . ( 1 5 3 9 1 6 0 4 )を始祖とする反三位一体論 U 5 7 9 年にファウストがポー i a n i s m u sの教派で, 1 ランドに移ってから,各地の領主や貴族の保護の 0 0の教団を結成し, ポーランド兄弟団 下に, 約3 f r a t e r polonorum と呼ばれた。(また,カトリ rianer とい ッグ側からは,異端のアリウス派 A 6 5 8 年の禁止令により, うレッテルを貼られた。) 1 その大部分は, ハンガリー(トランシルヴァニ ア ) , シュレージェ、ノ, イギリス, オランダなど e n n o n i t eE n c y c l o . ρe d i a,I V . に亡命した。 c f .M 5 6 5 9 .プロイセンにおけるメンノ一派との関連に 4 注1 3 5。 この宗教的不寛容は, ついては, 後出 5 ポーランドにおける寛容の担い手であった小領主 シュラフタの没落と大貴族やイェズイット派の進 出,そして, ロシアやスウェーデンとの戦争の影 響であった。J.T azbir,o p .c i t .,c h a p .I X . メンノ一派からも十分の ー 税 decem , 供 物 calenda,結婚・葬儀の司 祭への謝礼などが徴収されていたし,ダンツィ ヒやエルピングなと、ルタ一派の諸都市の市領で は,ルタ一派の教区の教会税を負担せねばなら なかった。そして,第 2次スウェーデン戦争の 間,スウェ{デン軍は,マリーエンブルガー・ ヴェノレダーの王領地のノレター派を支援してその 教会税をメンノ一派にも課した結果,彼等はカ トリック・ルタ一派の双方から不当な負担を強 いられたので、あった 1向。 ( 2 ) メンノー派の教団組織 すでに述べた通り,メンノー・シモンズが献 1 3 2 ) Mannhardt,a .a .0 .,S . 8 8 9 5,P r i v i l i g i e nund Urkunden3 5 . .a .0 .,1 8 1 ' 2 ;なお,小ヴェルダーの 1 3 3 ) Penner,a マノレタスホーフおよびヴェンゲルンのメンノ一派 は,その雇用している農業労働者のために, テ ィ ーンスド、ルフのノレター派教会の教会税を負担させ 1 6 5 2, 1 6 6 0 ) 0 Toeppen,a .a .0 .,S . られた ( 1 0 9 1 0 . 5 4( 2 3 0 ) 35-2 経 済 学 研 究 1 5 8 6 年), オ ル ロ ッ プ ァ ー 身的布教と苦闘の末潰滅に瀕した再洗礼派の再 ヒ (ノイガルテン, 組織に成功した直後から,今度はその厳格な信 フェルデ(ティーゲンホーフ);ティーンスドル 徒指導と教義をめぐって分裂が始まった。とり フ(小マリーエンフールガー・ヴェルダー)の他, 5 6 6年のフランド、ル派とフリースラント派 わけ1 ヴィスワ河谷のモンタウ,シェーンゼー,オー の分裂は,すぐさまヴェストプロイセンに波及 バーネッサウ, した。しかし,ディルク・フィリップスを長老 聞を擁しており,クルムやモンタウでは,南ド と仰ぐダンツィヒ教団はフランドル派につき, イツ=スイス系再洗礼派を吸収し,モラヴィア その後もヴェストプロイセンのメンノ一派の大 からヴェストプロイセンに存亡命してきたフッ トラークハイマーヴァイデの教 部分は,厳格な教義を保持しつつこの派に止ま タ一派の一部もフリースラント派に加った。全 った。その中心はいうまでもなくダンツィヒ(ア 体として,フリースラント派の方が一一ネーデ ルト・ショットラント)とエルピングの両市の ルラントからの影響をも受けてーーヲランドル 教団であり,大マ/リーエンブルガー・ヴェルダ 派ほど厳格ではなく,南ネーデルラント系でも ーなど農村に散在する信徒への司牧活動もダン 富 裕 な 商 人 = 企 業 家 の フ ル メ ー レ ン Ambrosi- ツィヒの教団に委ねられていた。しかし,農村 ウ usVermeulen,ノミウルス AdrianPaulus,や への入植が進むとともに新しい教団が巣分れ ィ ラ - Peter Willer, ファン・デン・ブロッ 6 3 8年に大マリーエンフ守ルガー・ヴェルダ し , 1 ク Van. den Block, フ ァ ン ・ オ ッ ベ ル ゲ ン - (ティーゲンハーゲン)教団が独立した。し Anthony van Obbergen, ヨースト かし信徒が広い地域に分散しているため 4つ の 分 団 Quartier (ローゼンオルト=エルピン Abra- ham Joost な ど 著 名 な 画 家 ・ 建 築 家 が こ ち ら に 属 し て い た 135)。 グ低地,ティーゲンハーゲン,オルロフ,ベー アヴァルデ)が設けられ,またエルピング、から は,農村のエラーヴァルデ、が分離独立した。さ らにヴィスワ河谷で、は, ジオルケン, プシェコフケン,イェ ドイツチュ・コノパートの他,少 数派ながらシェーンゼー (グルム市領), オー パ ー ネ γ サ ウ ( ト ル ン 低 地 ) に フ ラ ン ド、ル派の p 教 団 が 存 続 し て い た 134)。 これに対し, スラント派は全体としては少数派で, フワー ダンツィ 1 3 4 ) Penner,a .a .0 .,S .6 1 8 0,1 6 9 9 0 .フランドノレ 派の中で、最も厳格な教義を護っていた,オーヴェ ルエイセル=フロニゲン系古フランドル派 S o c i e t e i td e rOudeVlamingent eGroningenは , シュヴェッツ=グノレム地区の教団と深い繋りを維 持し,その長老ヒュノレスホップ HendrikB 巴r e n t s Hulsho 任 が1 7 1 9 年にここを訪れて, 説教や聖餐 や洗足 v oetwassing の儀式を執り行っている。 c f .H.C h .H u l s h o f f “ , BezoekreisvanHendrik Berent vanH u l s h o f faand eDoopsgezinden GemeentenderOudeVlamingeni nPruisen enPolenin1719ヘ B ijdragen e nM e d e d e l i n g e nv a nh e tHi s t o r i s c hG e n o o t s c h a p,LIX ( 1 9 3 8 , ) 3 2 8 2 . この古フランドル派には,フッタ 一派やその影響を受けた南ドイツ=スイス系の一 部が加った。 1 3 5 ) フリースラント派とフランドル派とはもちろん対 外的には協力し合ったとはいえ,その教義や儀式 については譲らず,教団加入に当っては,洗礼の やり直しを求めたほどであった。 なお, モラヴィアのフッター派 H utererの一 部も,次第に厳しくなった弾圧を逃れて新しい移 住地を求めて, 1 6 0 4 年にエルピングに到着した。 しかし,手工業者たちは彼等の定住に激しく反対 r u d e r し(フッタ一派は,共産制の共同生活団 B h o fで,主として手工業により生計を立てていた から),彼等は結局 1 6 0 5 年小ヴェルダーのヴェン ゲルン Wengelnに 9フープェを借地して定住し た。しかし,フッタ一派の共産制は,ネーデ、ルラ ント系メ γ ノ一派には全くといってよいほど影響 を与えず,結局は,それに吸収されたものと思わ れる。なお, 1 6 2 2 年,フッタ一派が最終的にモラ ヴィアから追放されると,その一部はヴェストプ ロイセンに逃れたが, もはや独自の教団を形成せ ずに, メンノ一派ーーとりわけフリースラント派 一ーに加入した。 Penner ,a .a .0 . ,S .7 3 7 6 .な お,フッター派の全体としての歴史は,榊原厳教 授の『殉教と亡命ーフッタライトの 4 5 0年Jl ( 平 9 6 7 年〉と L、う貴重な労作を参照。 凡社, 1 なお,ソッツィーニ派は, 1 7 世紀初頭からダン 6 1 0 年からメンノ一派との ツィヒに教団を持ち, 1 合同を働きかけ, また神学上の論争を持ちかけた が , メンノ一派は,恐らくはオランダの信徒の応 援をえてこれを拒否し続けた。そして,後ソッツ ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラ γ ト系メンノー派 5 2 5 1 7 7 2 )( 3 ) 石坂 コロニーの形成とその経済活動(1 1 9 8 5 .9 5 5( 2 31 ) 長老 A l t e s t e ( そ 590年にエルピングの教団が普通の民家 かし, 1 の頭が指導長老 d erregierendeA l t e s t e )と を買入れてこれを集会所に転用したし,ダンツ ehrer (Vermahner) を自分達の聞 説教師 L ィヒでもフランドル派 ( 1 6 4 8年), フリースラ メンノ一派の各教団は, から選出し, また助教師Diakon を置いて, ント派 ( 1 6 3 8年)両派がそれぞれの集会所を建 とりわけ他 て,またヴィスワ河谷のシェーンゼーやプシェ の教団員の苦難への援助など福祉活動に携って コフケンが独自の集会所を持っていたし,小ウ、 いた。 ェノレダーでも, カトリックの司教の禁止にもか 孤児や老人の養護や貧窮者の救援, ところで、, ヴェストプロイセンへのネーデル かわらず, このような集会所は公然の秘密とな ヲント系メンノ一派の流入は,ほぼ 1 600年をも っていた。そして大ヴェノレダー各地の教団も って途絶え,他方現地のノレター派やカトリック 1768年にその集会所建設に踏み切った 136)。 の住民を改宗させ自らの信仰に引入れることは メンノ一派教団にあっては,学校教育はその 厳しく禁止されていたから,南ドイツ=スイス 信仰と文化を護り育てて行く上に欠かすことの 系の少数の再洗礼派が合流したのを除くと,も できぬ要素であり,それゆえに入植特許状にも っぱら初期の亡命者の子孫がその人口の大部分 しばしば教師の任命権が明記されていた。こう を占めていた。それゆえ聖書や『殉教の書』 して各入植地は,大きな村は一村で,小さな入 Martyrerbuch,讃美歌などは, 18世紀までオ 植地は共同で学校を建て,主として冬の農閑期 ランダ(一部ダンツィヒ)で印刷されたオラン に,読み書きや計算,それに讃美歌などを教え ダ語のものが使用され,説教も一一日常生活に ていた。そして, ドイツ系住民の少い村では, は,現地の低地ドイツ語方言プロイセン語や文 しばしばルタ一派の住民と共同で教師を雇って 章語・標準ドイツ語として高地ドイツ語が次第 L、 た 137)。 に浸透しつつあったが一ーダンツィヒでさえ 17 メンノ一派は,その教義の柱の一つである官 62年まで,マリーエンブルガー・ヴェノレダーで 職就任拒否を貫き,国家に対して距離を保ち続 7 7 1年まで,オランダ語で行われていた。た は1 けた。そして,事実,初期のダンツィヒ市領農 だし南ドイツ=スイス系,あるいはフリースラ 村では,彼等は村長・助役・参審員などの村落 ント人などの非ネーデノレラント系を含むモンタ 自治体の役職への就任をも拒否していたから, ウのフリースラント派教団では 1 630年には村落 1628年市参事会は罰金をもって就任拒否を禁じ の記録が高地ドイツ語によって書かれていた。 た。しかし,村役人への就任拒否は,村落自治 メンノ一派は,元来特別の教会の建物を持と 自体を崩壊させるものであったから,メンノ一 うとせず(Je d e sHause i nG o t t e sHaus! ) , 派も次第に態度を変え, 1 720年には,マリーエ また自派の集会所 A ndachtshaus, Bethaus ンブノレク御料地役所に対し,村長選任に当って, を公然と設けることも禁ぜ、られていた。それゆ メンノ一派を差別することのないよう求めるよ え礼拝は私人の家一一納屋や厩舎を改造したり うになった。ただし,メンノ一派は,数ケ村に 廃屋を用いてーーで行っていたに過ぎなし、。し またがる堤防・水利組合 D eichkommunitat ィーニ派が追放されると,その中から, J o s tv a n S t e e n( v a nS t e i n ),D a n i e lZ w i c k a u(ダンツ ィヒの限科医), H ansM a r t i nなど,フッタ一派 を経由して,メンノ←派に加わり,有力なメンバ ーとなるものも現れた。 なお,メンノ一派が, フ。ロイセンでカトリック ないしルタ一派を自派に引入れることは厳禁され ており,そのような信徒は,一旦オランダに移っ て,そこでメン/一派?と加入した。 の役職への就任は拒否し,止むをえぬ場合には その地域の教団の長老がその職務を代行した。 1 3 6 )Kuhn,a .a .0 .,S .9 0 ;P e n n e r,a .a .0 .,S . 1 7 9 8 0 .オランダの教団は, 戦苦L や洪水, 迫害に 苦しむヴェストデロイセンにしばしば援助を送っ た 。 1 3 7 )W i e b e,a .a .0 .,S .7 1 2 . 学校教師はしばしば 手工業者(仕立屋など〉を兼ねていた。 5 6( 2 3 2 ) 35-2 経 済 学 研 究 ところで, これら村落自治体は,下級裁判権を に対しては,ポーランド領時代の特許状や契約 与えられていたものの,メンノ一派は,様々の を尊重し,その信仰の自由を認め,市民権取得 違反,あるいは紛争をも,教団内で解決する方 を選んでいた 138)。 などにおける差別を撤廃したり,カトリックの 教区強制を廃止した。そして,農村における兵 役義務に関しても,年 5 , 0 0 0ターレルを, XII 結び ク ノ レ ムに新設された陸箪幼年学校 Kadettenschule に寄付することを条件にこれを免除した。こう こうして, ヴェストプロイセンに亡命したネ メンノ一派の兵役免除は, 1 8 6 7 年(北ド して, ーテ‘ルラント系メンノ一派たちJ 土,当初望んで、 イツ連邦の成立)まで認められては行くが,軍 いた,ダンツィヒやエルピングなど商工業の中 当局の圧力によりフリードリヅヒ大王の死後, 心地への定住を許されず,またこれに代る農村 1 7 8 9年以降,メシノ一派による兵役義務農民の 工業の中心地を築上げることもできなかった 農地購入が禁ぜ、られた。こうして,すでに過剰 が,その優れた農業技術と高額の地代支払能力 人口を抱えたメンノ一派コロニーは,その子弟 のゆえに,ルタ一派の諸都市の市領農村のみな を農民として独立させる途を断たれたのであっ らず, カトリックのポーランド王の王領地の農 た 1叫。 丁度この時に当ってメンノ一派に新し 村に入植を許された。こうして彼等は,殆ど利 い土地を提供したのがロシア帝国であった。 用されていなかったヴィスワ=ノーガト川一帯 1 7 8 7 年,エカテリーナ二世は,漸くトルコの勢 の低湿地を干拓して緑の牧草地に変え,絶えざ 力を逐ってその支配の下に組入れた南ロシアの る信仰への圧迫や様々の訴求,度重なる戦禍や ドニエフ。ル河沿岸の低湿地帯に,兵役免除とー 洪水の苦難をも乗越えて,営々とその農業経営 農家当り 4フーフェの農地を提供するという好 を護り拡張し, 1 8世紀には約 3 0 0の村落に 1 2,0 0 0人余りが 1 5 万モルゲン ( 8 . 4 万 ha) を主とし 年 ,1 5 2家族がドニエプル河畔のホルティッツア て長期借地ないしクルム法により保有するほど Xopmua ~こ移住したのを皮切りに, の成長を遂げた。このように, r 貴族共和制」下 条件でメンノ一派を勧誘した。こうして, 1 7 8 8 にアゾフ海に近いモロチュナ 1 8 0 3年 MOJIO可Ha に で,カトリック固ながら比較的寛容の伝統を残 8 5 0年代から穀作農業 も入植が行なわれ,漸く 1 したポーランド, とりわけ地方等族議会がなお として繁栄の途を歩み, またヴォノレガ中流のサ 強力な発言力を保持し,ダンツィヒを核にドイ ラトフ ( 1 8 5 3 年),サマラ ( 1 8 6 1年)などロシ ツ語=文化を培ってきたヴェストプロイセンこ ア各地に次々と娘村を生み落していった。この そメンノ一派のまたとない避難港となったので 間 , あり,彼等は終始, 1 6 世紀以来の厳格な教義一一 古フランドル派や古フリースラント派の一一ーを ロシアやアメリカへの移住,都市での世俗化や 護り続けたのであった。 このようなヴェストプロイセン・メンノ一派 は,この地域が 1 7 7 2 年の第 1次ポーランド分割 7 9 1年)によって, (ダンツィヒ・トルン両市は 1 絶対主義国家プロイセン王国に編入されたこと で大きな転機を迎えることになった。もちろん 啓蒙専制君主フリードリッヒ大王は,すでにオ ストプロイセンで実施したように,メンノ一派 1 3 8 )Penner,Ansiedlung ,S .1 7 ;d e r s .,D ie o s t s c h e nM e n n o n i t e n,S .1 6 7 8 . undw e s t p r e uβi ヴェストプロイセンのメンノ一派人口は, 他宗派との結婚によって脱落者を出し 1万 3 千人台の当初の数字を辛じて保っていた間に, ロシアの諸コロニーは,第 1次世界大戦まで繁 0 万を数えて母国を凌ぐ最も有 栄を続け,人口 1 力な中心地となった 140)。 1 3 9 ) Mannhardt,a .a .0 .,S .1 2 0 1 4 3 . n 1 4 0 ) さし当り, A. Ehrt,Das Mennonitentum i βl a n dl 1 0 ns e i n e r Einwanderungb i sz u r Ru B e r l i n L e i p z i g ,1 9 3 2 )および, H. G e g e n w a r t( Penner, W e l t w e i t eB r u d e r s c h a f t ,2 . Auf. 1 ( K a r l s r u h e,1 9 6 0 ),さらには Mennonite E犯・ 1 9 8 5 .9 こうして, ヴェストプロイセンにおけるネーデノレラント系メンノ}派 コロユーの形成とその経済活動 ( 1 5 2 51 7 7 2 )( 3 ) 石坂 5 7( 2 3 3 ) ヴェストプロイセンでは,様々の とは異り一一著しく個人主義的であり,また,禁 状況に規定されて,メンノ一派の大多数が農民 欲的であると同時に農業経営の合理化を極力追 化したのであったが,メンノ一派の教義自体に, 求した。しかし, これらメンノ一派の農業経営 商工業の営利活動よりも農業に向わせる要因が の世俗内禁欲・経営の合理化により絶えず利潤 存したのであろうか。この点は, メンノ一派の が蓄積され,また彼等の道徳的高さは,他宗派 指導者たちの教説や信徒指導の詳細な分析,あ の人々からさえ信用を博していたから,資金調 るいは他の再洗礼派系諸派一一スイス=南ドイ 達も容易であったにもかかわらず,彼等は,そ ツ系再洗礼派, フヅタ一派からクエーカーにい れを活用して農業経営拡大,あるいはそれを農 たるまでの一ーとの十分な対比に侠たねばなら 業外に投じて商工業経営を輿し,利潤の追求に ぬので, ここでは幾つかの重要な論点を指摘す 向うことなく,常にその子弟の独立のための新 るのに止めたい。そもそも,ネーデルラント系, しい農場ないし土地獲得に支出されていったの ある L、はドイツ・ライン地方のメンノ一派は, である。そして, メンノ一派の教義が,徹底し 都市の手工業者・商人,あるいは農村工業の生 た現世拒否一一非暴力主義=武装拒否 Wehr- 産者を中核にしており,スイス=南ドイツ系再 l o s i g k e i t, 宣誓拒否, 洗礼派に見られるような,伝統主義的な,生計 何よりも幼児洗礼の拒否ーーにより,国家や社 Nahrung の原理に立つ農民とは異質であった 会に対して距離を置こうとし,けがれなき再生 官職就任拒否, そして から,独立後のオランダ、はもちろん,西ドイツ 者の信仰共同態を目指せば目指すほど,他宗教 のクレーフェルトやアルトナ,ノイヴィートな 蝶は避けられない。その点,農村 や国家との車L どで多数の富裕な企業家を生み出し,利潤を獲 に,しかも自派を主体に集団入植しえたこと ながらその信仰をも堅持しえたことは今さら繰 は,最も摩擦の小さな比較的安全な避難港を与 返すまでもないし,ダンツィヒやケーニヒスベ えられることになった。こうして, ヴェストプ ルクでさえ,あの厳しい差別をくぐって,少数 ロイセン・メンノ一派は,農村でその厳格な教 ながら有力な商人,マニュファクチャー経営者 義を護持しつムますます農業的性格を強め,都 を析出していたほどである。そして, ヴェスト 市=商工業から遠ざかったのであり, この性格 プロイセンのメンノ一派の殆どが農村に定住を は,その後の再移住地である南ロシアやアメリ 余儀なくされたのちも,彼等は一一フッタ一派 カ , カナダにも引継がれていったのである。 c y c l o ρedia の Russiaをはじめ,各入植地に関 する項を参照。