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Instructions for use Title ロイド・ジョージとヨーロッパの再建
Title Author(s) Citation Issue Date ロイド・ジョージとヨーロッパの再建(4・完) 吉川, 宏 北大法学論集, 14(2): 1-32 1963-12-15 DOI Doc URL http://hdl.handle.net/2115/16029 Right Type bulletin Additional Information File Information 14(2)_p1-32.pdf Instructions for use Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 同ロ はしがき 第一節和陸の諸前提 第四章ヨーロッパの安定とロシア 第二節保障条約(以上本誌第一三巻第三・四合併号) 第一節﹁カルタゴ式講和﹂との対立 第三章国家的インセキュリティの極小佑 第二節軍縮案の基本目標 第一節国際連盟と現実政策 第二章現実主義的平和構想 第三節﹁実際問題﹂の解決(以上本誌第一三巻第二号) 第二節人民的統制の諸様相 第一節象徴の遺産 第一章ロイド・ジョージ外交の条件と課題 次 第二節人民外交と干渉政策 J I I 怠 ー . 瓦 (四) 士 口 北法 1 4 ( 2・1 ) 2 0 3 加) ロイド・ジョージとヨーロッバの再建 (完) 説 論 第 一 節 ム l ド対政策 第五章賠償問題をめぐる世論と外交 ﹁政治のプロテウス﹂ 賠償問題をめぐる世論と外交 第二節﹁戦費﹂対﹁損害賠償金﹂(以上前号) 第三節﹁政治のプロテウス﹂(以下本号) むすび 第五章 第三節 平和会議に提出する賠償案作成の段階で既に、﹁専門家達﹂の賠償総額についての算定額は大きなひらきのある ものであったし、また彼らの意見の相違はそのまま平和会議に持ち込まれたのであった。前節で考察したように、賠 償についてのロイド・ジョージの方針は、 ケインズの案とサムナ 1Hカ ン リ フ の 案 と を 振 幅 の 極 と し て 揺 れ 動 い た の で あった。彼は、基本的な考えで本質的に対立している二つの案のどちらにも完全にかかわろうとせず、彼を取り巻い e o q 色白-。。甘何回目)をとっていたといえるかもしれ たその時々の状況に影響されながら、時には一方へ傾き、時には他方へと傾いて、彼の方針に首尾一貫性を欠いてい た 。 彼 は 、 彼 の 専 門 家 達 の 間 で 、 ベ イ カ 1 のいう﹁超然政策﹂ なぺ。最終的には、彼は、主として英仏の議会や世論の状態を理由に、平和条約には賠償総額を記載しないことを求 オポテュユズム め、そのように取り決めることに成功したのであった。彼が乙の方針を採ったことについての評価には著しい相違が みられる。 ロイド・ジョージの機会主義を批判する者は、彼の採った方針に、平和会議における具体的審議の中で選挙 北法 1 4 ( 2・ 2 ) 2 0 4 の公約履行の不可能なる乙とをみてとり、しかも選挙民に真実を語る勇気を欠いた彼の責任逃れの遣り口をみる。他 ζの衝突を回避するため、 賠償総額を平和条約に記載し ニコルスンは、巨額な償金要求の政治的問題を、﹁当面の大衆的要求﹂と﹁究 方、戦後の状況の特異性を重視し、 そとに問題解決の困難を見出だす者は、彼の機会主義を批判するよりも、むしろ 右の解決方法に彼の天分の発揮をみる。 ハ4M 極の国民的利益﹂との衝突 K見出し、 ロイド・ジョージは、 ないという﹁巧妙な案﹂を発展させた、と指摘している。 ζとは明らかであろう。賠償問題 κ ついては、特K、 右の調整の失敗から、問題 本稿におけるとれまでの考察からも、ロイド・ジョージの外交政策上の課題が、諸々の問題で、﹁当面の大衆的要求﹂ と﹁国民的利益﹂との調整にあった ζの 賠 償 問 題 で 、 本 当 に 会 議 の 審 議 に 介 入 し た の で あ ろ う か 。 わ れ わ れ は 、 既 に 、 彼 の不合理な解決が余儀なくされたと指摘されてきた。 それでは、世論が平和会議に侵入したといわれる一九一九年の 講和において、大衆的要求は、 の政策が ﹁大衆の世論﹂ に強くとらわれていたという場合、外交への大衆の世論の介入は、会議で押し進めようとす る政策化対する、園内的統制についての一定の認識に立った、指導者の側における世論の受け止め方に強く関連した 他方い 問題であるととを指摘してきた。(耕一一一間一一)そとで、問題の圏内からの要求という乙とを、賠償問題の実質的審議の なされた段階で、 イギリスにおけるいかなる政治状況が実際にロイド・ジョージの重大関心事司となっており、 一九一八年末から翌年春にかけ ζとは、総選挙の時の状況を特 かなる諸力が実際化賠償問題の審議に国内から働きかけていたかについて検討してみる乙ととする。 一九一八年一二月の総選挙後の政治状況について、まず第一に指摘されねばならぬ 徴づけていた排外主義的ム1ドが、社会の底辺においては、稀薄化したととである。 て、イギリス社会の最大関心事は労働問題であった。労働者大多数の関心は彼らの日常的な利益に向けられていたの 北法 1 4 ( 2 3 ) 2 0 5 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 民 間 ロイド・ジョージは、 一九一九年二月、労働不安収拾 である。彼らの関心は、あらためて、強く﹁改造﹂ に向けられていた。 そ し て 、 労 働 不 安 に 揺 れ 動 く 国 内 の と の 状 況 乙そ、 パりにいたイギリス政府指導者の重大関心事であった。 のため急速帰国しなければならなかったのであり、 そして下院で、﹁私は乙の︹労働不安の︺問題ほど当院にとって認 知するに重要ないかなる問題も思い浮かばない﹂と述べている。彼は、との演説の中で、労働不安の原因として、戦時 中の特殊な労働条件が労働者階級の精神的平衡を破壊し、このことによって彼らの不満や不平が増大するようになっ たことを指摘している。戦後のヨーロッパ諸国における革命運動の拡大とイギリスにおける労働運動の高揚とは、旧 来の秩序全体の動揺を彼に感知させずにはおかなかった。彼はリツデルに、﹁これからの五年間は世界にとって試錬の 時だろう。現在あるような形の文明はひどく緊張させられるであろう﹂と語っている。 このように、労働不安に直面 田 0- っ か り 同月中旬、 ロ dera-ジョ l できるなら私はパリに留まるつもりだ。平和会議は労働者階級に反作用を及ぼすだろ その際、彼は、﹁講和の仕事をなしとげるのが最 月初旬パリへ戻った後、 して、労働者階級の不平・不満を取り除くととが当面の重大課題であった以上、政府指導者は、 乙の課題にかかわり し、?と るtと ζとを内閣から要請された。 ながら講和の政治を指導してゆかねばならなかったのである。 てと ジは、労働不安収拾のため再度帰国する 語な つこ この問題の次に、 ロイド・ジョージを不安にしたのは、 一九一九年に入ってか かる情勢を気にせざるをえなかった。 四 月 初 旬 に 行 な わ れ た ハ ル 選 挙 区 で の 連 立 派 の 敗 北 は 、 タ イ ム ズ に よ っ て 、 連 ら行なわれた補欠選挙等における連立派の不振であった。パリで講和の仕事に没頭しながら、彼は園内から伝わるか 払わずにはおられなかったのである。 以上の考察から明らかなように、パリにいた政府指導者は、園内の政治状況のうち、労働不安に最も大きな関心を うも 」大 と事 説 " " 北法 1 4 ( 2・ 4 ) 2 0 6 立派から野党への投票移動として大きく取り上げられた。 四月一一目、 パリで、 ロイド・ジョージは、当時圏内情勢 検討のためパリへ来ていたボナ・ロ 1等 と 乙 の 敗 北 に つ い て 話 し 令 っ た 。 後 者 が ζの敗北を投票の移動として重要視 したのに対し、前者は一応、敗北の原因を保守党候補個人の問題に帰せしめたが、 し か し 前 者 と 共 に 、 政 府 が 勢 力 を ﹁不安と不満の時期﹂が 失なったことを認めざるをえなかった。 この会話の中で、 ロイド・ジョージは、 乙の勢力後退を不可避のものと述べ、 補欠選挙での敗北は休戦直後に総選挙を行なったことの賢明さを一示すものであると述べた。 一般の人心は静まって、 もっと理性的な態度をとるようになるだろう。﹂ 彼の心を捉えていたのは、石炭業の このような彼の発言は、政治情勢の 戦争後には生ぜざるをえないが、﹁しかし講和が達成されてしまった時、国民がわれわれは事を成し遂げつつあると知 る時、 ボナ・ロ lは悲観的であった。 複雑さと政府指導者の困惑を伝えるものである。 固有化とその民主的管理に対する労働者の要求であり、予算の問題であった。 ロイド・ジョージは述べている。﹁民衆 は社会改良 K熱 中 し て い る │ │ 私 は と の こ と を 確 信 し て い る ﹂ と 。 政 府 指 導 者 達 は 社 会 改 良 に 対 す る 民 衆 の 要 求 を と そ問題にしていたのであり、他方労働諸組織の講和に対する要求は、 ウィルソンの諸原則の実現に向けられていた。 四月三日、労働党と労働組合会議 (TUC) の臨時大会は、閏際連盟案を彼らの理念と合致したものとすべく、一一三 項目にわたる修正条項を採択したのであった。賠償問題の基本原則が取り決められようとしていたこの時期に、賠償 κはみられなかったのである。 に対する大衆的要求といったものは、実際 連署してロイド・ジョージの選挙公約実現を要求 彼らは、﹁選挙民が常に期待してきたしllaまたなお期待している﹂と 四月八日、 賠 償 に つ い て の 総 選 挙 の 公 約 の 実 現 を こ の 時 期 に 強 く 要 求 し た の は 、 下 院 の 保 守 党 議 員 と ノ l スクリップの新聞で Q あった。下院の保守党議員の大多数である二三三名は、 した電報をパりのロイド・ジョージに送った 北法 1 4 ( 2・ 5 ) 2 0 7 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 説 いう乙とで、 戦費を含めた損害に対する完全な明細書を平和会議に提出することを求めたのである。 H ロ イ -﹁ -JυJ ロイド・ジョ 1 ジを不安にさせたのはこの ﹁議会の叛乱﹂ であった。先に引用した四月一一日のボナ・ロ I等との会話で、 ョl ジは、彼らの要求に対し、必要とあれば総選挙を行なうつもりだと返信したと語っている。 し か も 彼 は 、 総 選 挙 を行なったら、労働党が、絶対多数を得ることがないにしても大いに進出するだろうというリッデルの見解に同意し たのであった。彼らの間でこのような見解がとられていたということは、先述した当時の政治状況、労働党の政策等 から考えて、 パ リ に い た 指 導 者 が 、 巨 額 の 償 金 が 大 衆 の 要 求 で あ る よ り 保 守 党 議 員 の 要 求 で あ っ た の を 認 め て い た こ とを示唆するものであろう。実際、彼が会議で、賠償総額について国内からの要求を云々した時、彼は主として議会 の要求を問題としたのであり、民衆を満足させる案という乙とが問題にされたのは、賠償項目に思給や扶助料を加え ょうとした時であった。賠償支払総額を低く押えた案が受け容れられえなかったことの政治的理由は、大衆が、二四 二月初旬、 その編集長をド 1 ソン 一九一九年の議会は、近世英国議会史上、最も愚鈍 (0250P0・)からスティ 1 ドに代えた。 タ イ ム ズ は 、 新 編 集 長 の 下 で 、 三 月 下 旬 ロイド・ジョージ攻撃はクーポン選挙後も継続していた。彼は、 タイムズのロイド・ジョージ攻撃は手ぬるいとして、 申 し 渡 し 、 彼 ら を 憤 激 さ せ 、 あ る い は 不 安 に さ せ た の は 、 主 と し て ノ l スクリップ系紙であった。 ノ1 スクリップの の 進 行 状 況 を 国 民 に 伝 え 、 人 工 的 熱 狂 の 持 続 に 努 め 、 そ し て イ ギ リ ス の ﹁世論﹂ を パ リ に い る イ ギ リ ス 政 府 指 導 者 に さて、次に、圏内からの圧力という乙とで、最も重要な役割を果たした新聞について検討せねばならない。平和会議 で、最も民意を代表すること少ないものの一つであった。 求としてそのように打ち出したととにあったのである。 しかも、 O億ポンドより少ない額、例えば三O億 ポ ン ド は 取 る に 足 ら ぬ と 叫 ん だ こ と に で は な く 、 保 守 党 議 員 達 が 選 挙 民 の 要 論 北 法 14( 2・ 6)208 から四月中旬にかけて、 スティ 1 ド自身のパリにおける個人的活躍もあって、 ロイド・ジョージにかなりの心理的圧 力をかけている。 四月に、 スティ l ドはタイムズの ﹁方針に関する覚書﹂を書いて、 フランスに静養中だったノ 1 ス クリップに送った。 その中で、彼は、タイムズの最も基本的な方針として政府からの独立をあげ、﹁この独立は、われ われが国民的利益と考えることについて、政府あるいは大臣がそれを促進しているか、なまぬるいか、疎かにしてい るかに応じて、友好的、中立的あるいは敵対的となるでありましょう。いかなる乙とがあろうと、どのような個人的支 スティ 1 ドは、 ロイド・ジョージあるいは彼の政府が 持の保証も国民的利益との関係をさておいて与えらるべきではありません﹂と、書いている。一二月から四月にかけて のタイムズの立場は、政府に友好的でも中立的でもなかった。 ロイド・ジョージの公約と宣伝し、公約の履行を求めたのであった。 四月一一日のタイムズは、 ・ 円 o ロ Jr 国民的利益を疎かにしているとみていたといえるであろう。 タイムズは、 ド イ ツ に 連 合 国 の 戦 費 全 額 の 支 払 を 義 務 づ けることを、 ロイド・ジョージが、 ドイツに対する連合国の戦費支払要求の権利について演説したことを取り上げて、 ジ ョ ー ジ の 帰 国 が 予 定 さ れ た ζとを報じ、また ﹁償金﹂と題する論説を載せている。 こ の 論 説 は 、 総 選 挙 の 際 に ブ リ ストルで、 次のように主張している。﹁われわれの関心はロイド・ジョージ氏に反対して乙の問題を前以って判断することではな ζの 賠 償 問 題 の 進 行 状 況 に つ い て の 説 明 は す べ て 最 も 不 満 一 般 人 心 の 希 望 を か き た て た 事 例 で 、 彼 が 履 行 し な か っ た も の の あ る 乙 と を 示 す 乙 と に あ る 。 乙れは平和会議の ニュースが明らかにされてきた方法の欠陥かもしれぬが、 足なものであった。﹂ ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ が 帰 国 し た ら 、 賠 償 要 求 の 総 額 が 条 約 に 明 記 さ れ ぬ 理 由 や 、 平 和 条 約 に よ る 賠 償 委 員 会 が そ の 任 期 を 三 十 年 を 限 度 に 設 立 さ れ る 理 由 が 、 説 明 さ れ る だ ろ う と 。 翌 一 二 日 の タ イ ム ズ は 、 ハル選挙区 での与党候補の敗北を大きく取り上げ、平和会議の審議に対し大衆はまずまず我慢できなくなっていると報じた。 北法 1 4 ( 2・ 7 ) 2 0 9 く 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 タイムズの政府批判は、下院の保守党議員に大きな影響力を揮ったといえる。例えは、償金取り立て公約の履行を 追った、保守下院議員大多数による電報発信事件について、 スティ 1 ド は 、 彼 見 身 は 右 の 電 報 が 発 信 さ れ る ま で の 内 情 に 関 知 し な か っ た が 、 彼 の 情 報 が ノ 1 ス ク リ ッ プ を 通 じ て イ ギ リ ス の 議 員 達 に 伝 え ら れ 、 ま た ノ 1 スクリップは、 公約履行を迫るため彼らの署名を集めてロイド・ジョージに電報で送るようヶ、不ディ・ジヨ I ンズに勧めたであろう、 と 書 い て い る 。 ノ 1 スクリップ Hケ、不ディ・ジョ 1 ン ズ に よ る 働 き か け は 、 下 院 保 守 党 議 員 を 動 か し 、 彼 ら の ﹁叛乱﹂ へと導いた。 ことで、﹁戦争で旨い汁を吸ったかのごとく見える人相の悪い﹂議員達と排外主義宣伝の中枢機関たる新 聞は堅く提携したのである。 三月末から四月初めにかけての、 タイムズの運動は、 バ リ に い た 政 府 指 導 者 に い か な る 衝 撃 を 与 え て い た で あ ろ う ﹁今週は批判と警報の一週間だった。 四 人 会 議 が そ の 審 議 を き わ め て 秘 密 に 行 な っ て 乙の時期に、 ロイド・ジョージは新聞からの批判にきわめて顕著な反応を示している。 三月二五 一般国民や新聞は知りたがりかつ批判的となった。 ノI ス ク リ ッ プ 紙 と フ ラ ン ス の 新 聞 は 殊 に そ う で あ っ か。四月五日に、 リッデルは、 きたので、 (nv た﹂と書いている。 クロ・ lド・ラウヂ I の覚書が ラウザ 1 の 提 案 を ﹁ 勿 体 振 っ た 愚 か な 提 案 ﹂ と 軍事公債の没収を提案した、 二八日にリッデルとの会話の中で、 日のタイムズに、戦費全額のドイツによる負担を要求し、 載ったが、 ロイド・ジョージは、 批評し、﹁乙の提案は殆どのひとびとがいかにわれわれの直面している困難を理解していないかを示している、われわ れの方は進捗している。われわれは漸次接近しつつある。新聞に現われたこれらの攻撃は最も有害である﹂と語って いる。また四月五日、ノ 1 スクリップの新聞が彼を﹁ドイツびいき﹂と書いたのは彼に対する中傷であるとして、 イド・ジョージは、 ノl スクリップに対する公の反撃開始をリッデルに告げ、﹁私は彼︹ノ l スクリップ︺に、﹁貴方は ロ 説 百 命 ゴ ヒ 法 14(2・ 8 ) 2 1 0 私を誰に代わらせたいのか。 ノI ス ク リ ッ プ が 平 和 会 議 の 審 議 の 遅 滞 や そ の 沈 黙 を 批 判 す る ボナ・ロ lとパルフォアは共に私と同意見なのだから、 彼らも等しく好ましくないのだ リッデルは、 ろうね﹂と質問してみたいものだ﹂と語っている。 ロイド・ジョージの乙れらの言葉に、 資格のあること、新聞により多くの情報を提供すべきことを説き、また秘密主義は不利な批判を招くであろうと再三 にわたり強調している。リッデルの助言の背後には人民外交の直面していた特異な状況がみられる。既に考察したよ うに(耕一一一騨一一一)、平和会議の当初から、ロイド・ジョージは﹁世論の雑音﹂による講和を回避しようとしていた。彼の 考えは、四人会議の成立をもって、その究極点に透したのである。四人会議の秘密主義は、審議内容の漏洩を防ぎ、 会 議 の 審 議 が 外 か ら の 雑 音 で 撹 乱 さ れ る の を 排 す る 点 で 、 四人会議における折衝に有効に働いたといえるであろう。 しかし、秘密主義はそれをとっている指導者に対する追随者の信頼を根底にしていない限り、追随者の不満を増大さ せるだけであった。秘密主義が強化された時は、また保守党員の不満が表面化してきた時期であった。かくて、秘密 ,,ノ !'ツ戸レ i-Fd 主 義 は ﹁ 雑 音 ﹂ を 阻 止 す る よ り 、 会 議 の 外 で の ﹁雑音﹂をますます激しくさせただけであった。 四月九日、 彼の日記 ﹁彼がより専制的となり、批判に対してはより不寛容となり、また秘密主義に固執するよ ・﹄ ﹁平和会議中のロイド・ジョージの精神と行動を分析しようと努める乙とは興味ある乙とだ﹂として、 斗。、 に次のどとく記している。 彼の行動や精神状態は自己の政 うになったのを否定するのは無益である。 い か な る 君 主 や 皇 帝 と い え ど 乙 れ 以 上 に 専 制 的 や り 方 で 会 議 を 進 め え た 乙 とはなかった﹂と。 ロイド・ジョージがこのように国民の前に専制君主に似た姿で立ち現われた場合、 -策に対する確信でみたされていたであろうか。全く逆であった。会議の中での彼の方針が揺れ動いたように、新聞向 北法 1 4 ( 2・ 9 ) 2 1 1 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 -けの発言や態度も、情勢の変化につれて変わっている。コ一月三O 目 、 彼 は 議 会 や 国 民 の 動 き を 気 に し な が ら 次 の よ う 一般国民も に語っている。﹁もし一般国民と議会が事実を知ったら、彼らはこの会議の政策を支持するだろうと私は信じている。 私は議会をよく知っているし、私の立場を説明する演説をしたら、議会は会議の政策を支持するだろう。 同様だと思う。 この種のことには条理がなければならない﹂と。当時、彼は恩給と扶助料を賠償に含めることで、 イルソンと争っていた。英仏代表との論戦に疲れて、四月初め、ウィルソンは病床にふしてしまった。するとロイド・ 一九一八年一月の ﹁平和宣言﹂と矛盾しないような講和 ジョージは、 四月四日に突然、 フランスの新聞において彼を批判していた三名の主たる批判者を食事に招き、 その際 彼は大原則の使徒であるかのごとく彼らに語り、また彼は、 彼が、 ドイツは一銭一一庄の果てまで でなければ、彼は決して条約に調印しないだろうと彼らに確言したといわれる。他方、 リッデルは、 四月九日の日記 に、償金について語るロイド・ジョージの調子が非常に変わったようだと記し、 竺5リ て ア ッ ノ レ は ロイド・ジョージの態度の変化が、 償金問題で強硬になってきた園内の感情のせいかもしれ 支払わねばならぬと言ったり、義務の履行を拒んだ場合には、経済封鎖によってドイツを強制しうると述べた、と書 し いている。 と ζとに反するとして、 アメリカ案の採択を拒んだのであった。 このことは 償委員会による債券の追加発行の可能性を示唆した。この時、ラモントは、この方策を支持するに当たり、ウィルソン 議で、 ア メ リ カ 代 表 ラ モ ン ト は 、 最 初 の 発 行 額 を 最 小 限 の も の に 抑 え る べ き こ と を 提 案 し 、 条 約 に よ り 設 置 さ れ る 賠 問題の解決を﹁政治的解決﹂ へ向わせる大きな要因となった。例えば、債券発行額を審議した四月一 O 日の専門家会 イギリスの議会や一般国民の要求している このような彼の態度は、賠償問題における決定作成に大きく作用したのであった。彼は、その決定作成に当たって、 ぬ 説 論 ウ 北法 1 4 ( 2・ 1 0 ) 2 1 2 によって考えられていた一つの点は、政治的なものであったと述べている。ラモントの観察では、もしも最初の債券 発行があまり高額のものであれば、 そ れ は 損 害 賠 償 の 全 額 を 示 す も の だ と い う 印 象 が 一 般 化 す る で あ ろ う し 、 他 方 そ れが新聞であげられてきた額よりも低ければ、勿論それは全額を表わすものと受け取られる。ラモントは、この政治 問題が、英仏に関係するものであって、合衆国に関するものではないと述べた。問題の政治的解決という点で、ラモ ラモント等アメリカ代 ドイツの支払能力に関する選挙前の推定額は誤っていたと思 選挙民の意向を読み違えていると考えていた。 議会で演説して、 ントは、 ロイド・ジョージやクレマンソーが、 表は、 ロイド・ジョージが帰国して、 彼の回顧録で強調されているように、彼が賠償 ζの 時 点 で 彼 が な す べ き で あ っ た 乙 と は 、 目 標 を 明 確 に 設 定 し 、 平 和 会 ロイド・ジョージは﹁議会の叛乱﹂を収拾すべく帰国した。 い切って明らかにしたら、彼は圧倒的な支持を獲得するだろうと断言までしたという。 実際、 問題の合理的解決を真に望んでいたのなら、 議で語られている意見を明らかにして、議員達の理性を喚起し、あるいは合理的解決を求める集団の中に彼の政策へ の支持の基盤を発見し、大衆が真に求めていることに応じた解決策を提示することであったといえよう。だが、帰国 それは選挙の公約を糊塗 四月一六日、 下院での演説で、 ロイド・ジョージは主としてロシア問題と賠償の問題につ して彼が行なったことは﹁議会﹂ の 状 態 に 機 会 主 義 的 な 適 応 を み せ る こ と で し か な か っ た することでしかなかった。 いて論じた。 乙れら二つの問題は、保守党員の説得という面から無関係なものではなかった。 ボ ル シ エ グ イ キ の 脅 威 圧政策緩和のためにとられた方法の一つであった。彼は、 乙 の 時 の 演 説 で 、 ま ず ロ シ ア 問 題 に つ い て 論 じ 、 次 い で 賠 1 4 ( 2・ 1 1 )2 1 3 と対独抑圧政策のもたらすものとを結びつけ、 ド イ ツ に 対 す る 融 和 政 策 を 説 く 乙 と は 、 彼 に よ っ て フ ラ ン ス の 対 独 抑 償問題を論じたのであった。 北法 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 説 論 ロイド・ジョージは、賠償問題を、彼の ﹁平和宣言﹂ で 明 ら か に さ れ た 条 件 が 園 内 各 層 の 同 意 を 得 た も の で あ っ た ζと を 指 摘 す る こ と か ら 説 明 し た 。 総 選 挙 の 公 約 に つ い て は 、 彼 や 彼 の 同 僚 が 、 今 や 恥 と し ま た 逃 げ 出 そ う と し て い る宣言へ突き進んだという考えが現われているが、彼自身は少しもそれから逃れようとはしていないと述べた。総選 挙の際の公約は、あらゆる政治指導者の公約であった乙と、履行しえぬことを公約したのではない乙と、そしてあら ゆる公約が連合国によって提出される諸要求の中に具体化されていること等を、彼は説いた。公約は実現されようと しているから、議会はあまり平和会議の審議に介入してくれるなというのが、彼の望んだことであった。間違った報 ﹁信ずべ 一九一八年一一月、彼の考え ζのような点を指摘したのに続けて、彼は、保守党議員が問題にするところの 道から誤解が生じ、 そ れ を 否 定 し た り 説 明 す る 乙 と の た め に 平 和 会 議 を 留 守 に せ ね ば な ら ぬ 状 態 の 中 で 、 外 交 折 衝 を行なうことなどできない。 き筋﹂ の報道が、 いかに信ずるに足らぬものであるかを強調した。 ノ1 スクリップは、 る講和の条件を公表したが、償金や戦費について一言も触れなかった。賠償の語はその一言葉のもつ最も厳密でまた最 も狭い意味で使われ、失われた人命や破壊された家屋に対する補償の語は見出されない。また、平和会議の初めには ウ ィ ル ソ ン 支 持 を 訴 え て い た 。 こ の ﹁信ずべき筋﹂は人々になってウィルソンの偉大な考えをヒステリックに攻撃して いる。 この﹁信ずべき筋﹂は、﹁今日乙こにいるかと思えば、明日はあそこに跳び、次の日にはあそこにいる。私はむ ヨーロッパ大陸ではタイムズがなお政府の半官的機関と考えられていて、 それがデ 1リ l ・メールの しろバッタの方を信頼する。﹂ 彼はこのように述べて、 彼の変節を攻撃するノ 1 スクリップ自身の変節を指摘し、 れに続けて、 ラモントなどが求めたような、 彼 自 身 の 誤 り を 議 員 の 前 に 明 ら か に す る と い う こ ペンス版にすぎぬ乙とが知られていないと述べて、 タイムズを痛罵したのである。 ロイド・ジョージのとの演説は、 こ ゴ ヒ 法 14(2・ 1 2 ) 2 1 4 ζと か ら 始 ま っ て 、 作 ととは丁度逆であった。彼は、選挙の公約が条約の中に具体化されようとしていることをこそ強調したのであった。 彼の演説は、彼の ﹁平和宣一一一一口﹂が園内のあらゆる層から支持されたものであることを指摘する ζれ ら の 遺 産 の 聞 の 本 質 的 な 矛 盾 は 彼 の 心 に 重 成中の平和条約に総選挙の公約が具体化されようとしている乙との説明に終っている。彼の説く限りにおいて、戦争 目的政治の遺産と総選挙の遺産とは矛盾してないのであった。 だが、 くのしかかっていたといえるであろう。彼における原則の歪曲や意見の変更は、矛盾するものを調和させようとする 彼は講和の基礎となっている原則について説明して、 ﹁われわれは公正ではあ 彼 の 指 導 の 所 産 で あ っ た 。 下 院 で の 演 説 の 中 の 次 の 一 節 は 、 彼 の 便 宜 主 義 が 直 面 し て い た 状 況 と 、 それからの脱却で 志向されていた方向を暗示している。 H V E n m )を欲している。なぜなら時がそ るが、報復的ではないような講和を欲している。われわれは厳格な講和(由昨日E れを要求しているからである。罪がそれを要求しているのだ。しかしその厳しさは復讐心を満足させるためにではな 講和の政治のとの時点で、 ロイド・ジョージは、 A報復的でない く、正義を立証するような構想にまとめられねばなら門的﹂と、述べている。戦争目的政治の主題が復讐の否定であり、 選挙の主題が厳しい講和の条件であったのに対し、 ロイド・ジョージは、 厳しい条件が報復的なものと受け取られることに激しい 厳しさ︾を講和の目標にしていたといえるであろう。 と こ ろ で 、 条 件 の 厳 し さ が 報 復 的 と 受 け 取 ら れ ぬ 保 証 は 存 し な かった。平和条約作成の最終段階で、 不安を抱くことになるのであった。 さて、対独平和条約作成の最終段階で、 ド イ ツ 代 表 託 手 交 さ れ た 条 約 案 に 対 す る 世 論 の 反 響 が 、 連 合 国 代 表 逮 最も顕著かつ重要な効果は、 ロイド・ジョージに与えた影響であった、 と指摘 、 イギリス国内での条約案批判とパリにいたアメリカ人 によってあらためて問題とされる乙とになった。 ベイカ Iは による批判のざわめきがもたらした、 北法 1 4 ( 2・ 1 3 ) 2 1 5 伊) ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 {胡︾ している。 乙の段階で、 ロイド・ジョージは、顕著に機会主義的な態度を示したのであった。 ロイド・ジョージの最大の関心事となったものは、 以下、最終段階におけ ドイツが条約を受け容れるか否かということであ る対独平和条約の審議の模様を若干検討しながら、彼の機会主義を考察してみるとととする。 ζ の段階で、 四月五目、彼はリツデルに次のように語っている。 ﹁平和条約は、 ド イ ツ が グ エ ル サ イ ユ へ 来 た った。彼は、 ドイツが条約案を拒絶することを最も恐れた。 乙 の 恐 れ は 、 ま ず 、 講 和 条 件 に つ い て の 公 開 論 争 へ の 恐 れとして現われる。 時に、彼らに手渡される。 それ以前に条約が公表されたら、 ドイツ政府の立場はとてもありえなくされるだろう。 との会議へは、 当 時 ベ ル リ ン の条約はドイツを革命に導くかもしれぬ﹂と。 乙 れ に 続 け て 、 彼 は 、 非 公 開 の 方 針 に 違 反 し た 条 約 の 発 表 に は 厳 罰 を も っ て 当 た る と 語 っ て い る 。 四 月 二 四 日 、 四人会議は条約の公表について討議した。 ロイド・ジョージが恐れていたもので から帰還した士宮の意見として、条約が公表されたら、 ド イ ツ に よ る 条 約 の 調 印 は 不 可 能 と な り 、 ま た そ の 公 表 は 過 そのような事態は、 一度、条約がドイツに手交されるや、その内容がドイツ側からもれてくるこ 激分子の力を強化するであろうということが伝えられた。 £った。 これに対し、 クレマンソーは、 とは必定であるから、 そ の 公 表 は 避 け ら れ な い と し た 。 ウ ィ ル ソ ン も 彼 と 同 様 の 見 解 で あ っ た 。 ロイド・ジョージは、 {拍} 一度あらゆるととが公式に告げられると、 そ れ が イ ギ リ ス の 大 衆 に よ っ て v ことが非常 公表によってもたらされる政治的に危険な結果について、次のように述べている。すなわち、漏洩とい つ に重大なととなのではない。問題なのは、 一度とられた立場から引っ込むことができなくなるということである、と。ウィルソンとク 条約の公表はその概略の公表であって、 原文を公表しない乙とにするという案を出して、 ロイド・ジ 決定的なものと解され、 、 レマンソ 1は ヨ1ジを納得させた。 1 4 ( 2・ 1 4 ) 2 1 6 北法 説 論 こ スポイル ζと を 批 判 し た 。 懲 罰 的 な 経 済 条 項 と 一四カ条の理想主義とドイツに対する苛酷な要求と 五月七日、条約案がドイツ代表に手交され、条約案の内容が明らかになるにつれ、 イギリスでは、平和条約批判が いよいよ盛んとなった。労働諸組織の機関紙は、連日のごとく、 の聞にみられる顕著な相違を指摘し、条約案が連合国の戦争目的に反している 実行不可能な財政条項といった批判が、民族自決の原則の違反、ドイツ植民地を獲物として扱っていること、一方的 な軍縮、国際連盟からのドイツの除外等に対する批判と共に紙面をにぎわいが。かくて、彼は園内からの批判にいよ いよ不安をつのらせていった。だが、彼は、議会の絶対多数を掌握している限り、労働諸組織からの批判を容易に耐 え続けうるのであった。彼を動揺させる衝撃は、 イギリスからではなく、 ドイツからやってきた。 ドイツによる調印 連合国代表、 殊にロイド・ジョージは会 拒否の可能性が強くなったためである。連合国は、現実には、条約の作成をドイツ政府と全く没交渉のうちに進めて いながら、 ドイツの無条件降伏を前提に講和を進めていたのではなかった。 議において屡々、ドイツによる調印拒否という事態を想定し、乙の事態を考慮の対象にしようとしていた。本質的に、 彼はその事態の到来を恐れていたが、条約案手交の段階では、ドイツが拒絶した場合、連合国はベルリン占領といっ た軍事行動に出るべき乙とを積極的に提案していた。と乙ろが、手交後、ドイツは国内で抵抗を準備しているといっ , ッ た情報が入ったり、またイギリス代表団内部から条約案に対する批判が出てくるや、彼は態度をまた変えて、 ド d に対する条件の緩和を主張しだすのであった。 条約案がドイツによって拒否された場合、連合国は、ドイツが受け容れうるように条件を緩和するか、﹁全面戦争 条約案手交の頃に、 ロイド・ジョージはむしろ後者の道の選択を主張していた。 と乙ろ 1 1全 面 勝 利 1 1全面解決﹂ の論理を一貫させるため、 ド イ ツ の 全 面 占 領 を 行 な う か の い ず れ か を 選 ば ね ば な ら な か った。既に指摘したように、 北法 1 4 ( 2・1 5 ) 2 1 7 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 で後者の道を採った場合、連合国によるドイツ進駐は、当然、動員解除の遅延あるいは再動員を必要ならしめるので あった。 そして、 そ れ ら は 早 期 動 員 解 除 を 求 め た 国 民 大 衆 や 兵 士 の 不 満 を ま す ま す 増 大 さ せ ざ る を え な い の で あ っ 五月二二日付、 ドイツが公正で正当 ロイド・ジョージ宛のスマツ た。力づくで条件を課することには、 こ の よ う な 当 面 の 政 治 的 影 響 が 考 え ら れ ね ば な ら な か っ た だ け で は な い 。 は、戦勝国の指導者達に力による平和の構想を強いるものであった。 ドイツによる条約案承認の政治的重要性について次のように説いている。﹁私は、 :::との偉大な文書の最終的裁可は人類による承認であらねばなりません﹂と。 このような勧告はロイド ることがないよう切望します。条約は、将来ドイツによって道義的に非難されるようなものであるべきではありませ な平和条約に調印すべきであるということのみならず、将来のために、彼らが銃剣をつきつけられて調印を強いられ ツの書簡は、 そ 五月二九日の四人会議で、ドイツからの反対提案(持域政明 戸時一 v 六 月 一 目 、 彼 は ﹁即席の﹂帝国内閣の会合をもった。 この れたことが報告されるや、 そ の 場 で 彼 は 直 ち に ラ イ ン 地 区 占 領 の 問 題 の 再 審 議 を 提 案 し た 。 ド イ ツ 反 対 提 案 は 、 ド・ジョージに最も激しい衝撃を与えたのであった。 AXA口 (H サ ム ナ 1と カ ン リ フ ) は な ん ら 譲 歩 す る 気 の な い これに対し、各閣僚はいくらか譲歩する乙とに賛成したのであった。 この会合で、スマツツは条約案を批判し、就中、 るか否かということと、 な ん ら か の 譲 歩 を な す 場 合 に 、 書 面 を も っ て す る か 口 頭 の 折 衝 で す る か を 各 閣 僚 に 問 う た 。 こ ム ﹂ 、 ド イ ツ 東 部 国 境 問 題 の 専 門 家 達 は 一 連 の 譲 歩 を 勧 告 し た ζと を 明 ら か に し た 。 次 い で 、 彼 は 、 譲 歩 に 賛 成 で あ の冒頭で、彼は、専門家遠の見解について、償金問題の専門家達 れ ロ イ guq目当時住鈴MHJhdH) が会議にとどけら よ顕著となり、 そ の こ と は ク レ マ ン ソ lやウィルソンを困惑させ怒らせたのであった。 ジョージをいよいよ不安にした。 そして、 ド イ ツ の 条 約 案 拒 否 は 現 実 の も の と な っ た 。 彼 の 機 会 主 義 的 行 動 は い よ い ん 説 論 北法 1 4 ( 2・ 1 6 ) 2 1 8 提案されているライン地区の軍事占領に強く反対した。彼は、﹁軍事占領と産業条項は非両立的考えであり、軍事占領 は全く不必要である﹂とし、また条約調印と同時にドイツを国際連盟の一員に加え、 これによって独露提携の可能性 で は な が 玉 、 ドイツの調印しうる条約の作成ということに全︿集中 000、 000、 000ポ ン ド と い っ た 一 定 額 に 定 め る こ と に 変 更 さ る べ き だ と 考 え 乙の会合におけるロイド・ジョージの関心は、 た号充 。分 をなくすることの必要等を説いた。賠償問題について、彼は、﹁賠償の規定は、ドイツが支払を約束する一定額、例え と恐 述ら べく ﹁もし当初に依拠してきた情報に誤りがあったら、 六月二日の四人会議で、 誤っていることを認め、また適当に ロイド・ジョージはドイツに対する譲歩の必要を説いたのであった。彼はその 人会議で折衝する権限が彼に与えられた 一 ハ。 H) び一定額に固定するという方向で賠償条項を変更すること、といった以上四項目について、 ドイツに譲歩するよう四 譲 歩 す べ き 乙 と を 主 張 し た 。 二 日 間 に わ た る 審 議 の 結 果 、 ド イ ツ の 東 部 国 境 、 軍 事 占 領 の 期 間 、 連 盟 へ の 加 入 、 およ ように便宜的解決を示唆して、彼は、 ド イ ツ の 東 部 国 境 、 殊 に シ レ ジ ア の 炭 団 地 帯 、 ザ ー ル 等 の 問 題 に 関 し ド イ ツ に 題であって、 ド イ ツ の 考 え る こ と で は な い 。 ド イ ツ に 関 す る 限 り 連 合 国 は 公 正 の 限 度 ま で 進 む 権 利 が あ る ﹂ と 。 乙 の ならない。公正という乙とはドイツが随意に提起してよい問題であるが、事の適否(品名包ぽロロ可)は連合国の考える問 条件を変えることに臨賠すべきではない。 し か し 課 せ ら れ た 条 件 が 公 正 で あ る と 同 時 に 便 宜 的 で あ る 乙 と を 知 ら ね ば て、次のように述べている。 情報が後に現実の諸条件と一致していないことが明らかになった場合に彼の意見を変えることをなんら恐れないとし 問題であった。 そ の 解 決 の た め に 既 定 の 方 針 を 改 変 す る こ と は そ れ ほ ど 問 題 で な か っ た 。 彼 は 、 当 初 に 依 拠 し て き た していた。彼にとっての問題は、 ド イ ツ に よ る 条 約 案 拒 否 と い う 事 態 の 打 開 で あ っ た 。 そ の こ と が 彼 に と っ て の 実 際 るば かくして、 北法 1 4 ( 2・ 1η219 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 理由として、 イ ギ リ ス の 世 論 は 、 本 当 に 重 大 な 理 由 な く し て は 、 戦 争 の 再 開 を 支 持 し な い で あ ろ う し 、 ま た ド イ ツ へ の譲歩が戦争再開阻止の唯一の手段であるなら、イギリス政府は、国境、賠償、軍事占領等の問題で譲歩するのもや ロイド・ジヨ むをえないという意見であるという乙とをあげた。 ウ ィ ル ソ ン も ク レ マ ン ソ ー も 、 数 カ 月 の 論 争 の 後 や っ と 同 立 に 達 した時になって、 ロイド・ジョージが方向転換するのに憤った。原則を奉じて行動する二人の政治家は、 、 フランス国民はドイツ人の本性をよく ー ジ の 機 会 主 義 的 な 行 動 に 直 ぐ に は つ い て ゆ き え な か っ た 。 クレマンソ 1は 一方、 ウィルソンは、 ドイツ ζと の 方 に よ り 大 き な 関 心 を 示 し ロイド・ジョージがベルリン占領といった事態の到来の回避を説いたのに対し、 知っているとして、 フランス国民は、 ドイツに譲歩すればするほど、 ド イ ツ 人 が ま す ま す 要 求 す る と 思 っ て い る と 述 べた。 が 調 印 す る か 否 か よ り も 、 平 和 の 取 り 決 め が ﹁確かで公正﹂ で あ る こ と を 保 証 す る 述べている。 ロイド・ジョージが主張した譲歩が、とりも て 、 ﹁ 私 は 、 ド イ ツ が 講 和 の た め に 同 意 し た 諸 原 則 を 連 合 国 が 固 守 し な か っ た と い う ζとが一不されなければ、ドイツは 調印しないだろうといった議論に心を動かされない﹂と、 なおさずウィルソンの原則への回帰を可能にするものであったにも拘らず、 この時彼は譲歩そのものを嫌忌したので あった。三巨頭の間で、再度、三月末に起ったような、むきだしの論争が開始された。ライン問題の再審議提案に憤 ロイド・ジョージは、 ﹁もしクレマンソ 1氏およびあなたの内閣が、 乙の占川 イギリスの閣僚達がフランス軍のライン地域占領にヨーロッパ 慨して、 ク レ マ ン ソ ー が 、 ﹁ ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ 氏 が 会 問 題 を 再 度 や り な お そ う と せ ぬ よ う 希 望 し た い 。 事 態 は 非 常 に 重 大である﹂と述べたのに対し、 の平和にとっての危険をみてとっている乙とを明らかにして、 また、 翌三自には、彼は五月九日の発言をひるがえして、﹁ベルリン占領が必要となるのを避けたい﹂と述べて でイギリス政府と一致しない結論に達するなら、帰国して議会に全問題を明らかにするより他に方法がない﹂と答え た 。 1 4( 2・ 1 8 ) 2 2 0 北法 説 論 モ g ロイド・ジョージの主張した ﹁譲歩﹂ の必要が 一度ドイツへの譲歩を含む修正がなされた場合、賠償問題のように原則で根本から対立していた問題が蒸し返さ マンソ l氏が、世論の現在の状態では、国民に顔向けでまる数より低いものとなろう。::::論題は数えきれなくある。平和人司会議に 今与えられるなら、それはドイツ人を安心させるよりも驚かすだろうということである。彼らを一驚かせないような総数は、私やクレ ﹁私はアメリカの専門家の見解を検討して、満足を与えようと再三再四この間題を熟考してみた。私が達した結論は、もし総数が の報告書を読み終えるや直ちに、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ は 次 の よ う に 発 言 し て 、 賠 償 額 固 定 の 不 可 能 な る こ と を 力 説 し た 。 の支払いうると信ずべき理由のある定まった額に限定さるべきである﹂という見解を明らかにした。ウィルソンがこ リカ側委員は、賠償の固定額が今度こそ示さるべきだと提案し、﹁連合国のために、ドイツの賠償義務は今こそドイツ し 、 そ の 再 審 議 を ウ ィ ル ソ ン に 働 き か け た 。 ド イ ツ 反 対 提 案 を 検 討 し て 提 出 さ れ た 賠 償 委 員 会 報 告 書 Kおいて、 れたのは当然であった。 ア メ リ カ の 専 門 家 遠 は 、 イ ギ リ ス 側 の 譲 歩 的 態 度 に ﹁固定額﹂ の 全 問 題 再 審 議 の 機 会 を 見 出 た 。 いる﹂と述べている。 乙のように世論を問題にする態度は、賠償問題の場合、 よ り 一 貫 し て と ら れ て い た の で あ っ なしたと称されている諸提案を大架裟に云々しているノ 1 スグリッフ紙は、上シレジアの人民投票は正しいと言って の人民投票を主張した際、彼は乙の問題に対するイギリスの世論について、﹁私を個人的に攻撃し、その放にまた私が イド・ジョージが最も強く主張したのは、上シレジア諸地域の帰属を人民投票一によって決するということであった。こ 、 上シレジアに関する条項等について若干の変更が加えられた。 他の二巨頭によって認められ、条約案にはザ 1 ル 三巨頭による審議はきわめて緊張した状態の下で続けられ、結局、 い 出席している者逮に、今総数を定めるのを求めることは、ナイアガラの犬渦巻の中にいる人に馬の値段を定めるのを求めるようなも 北法 1 4 ( 2・ 1 9 )2 2 1 ロ ア メ 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 V 北法 1 4 ( 2・ 2 0 ) 2 2 2 (品 のである。﹂ 乙のように、彼は依然として、園内世論の状態を理由に、賠償額の決定の不可能なることを主張したのであった。 三 月 末 あ る い は 四 月 に 決 定 さ れ た 賠 償 の 基 本 線 は 全 く 変 え ら れ な か っ た 。 そして、 ドイツに対する連合国の回答は、 ドイツ産業の再聞は連合国にも利益のあると乙ろであるから、連合国側にはドイツの通商貿易を邪魔しようとする意 志 の な い ζとを表明したり、 ド イ ツ の 反 対 が 条 約 案 の 賠 償 、 財 政 、 経 済 規 定 に つ い て の 彼 ら の 誤 解 に 基 づ い て い る こ と等を指摘すること等に終始した。 賠償問題の審議において、国内世論の状態は、最終段階に至るまで、決定の内容を規制した重大な要因であった。 ま た 、 条 約 の 成 立 そ の も の に と っ て も 、 世 論 の 動 き が 問 題 に さ れ ね ば な ら な か っ た 。 六 月 一 六 日 に 、 ドイツ側の ロイド・ジョージの場合、大いに疑問とせざる 決定、あらゆる行動が、議会や国民への影響、議会や国民からの反作用との関連で考えられねばならなかった。 このことは、 を え な い 。 賠 償 問 題 に つ い て と れ ま で 考 察 し て き た と ζろ か ら 明 ら か な よ う に 、 彼 は 議 会 や 新 聞 の 要 求 を 非 合 理 的 な し、そとに真に民主的な政治指導があったかといえば、 し に新らたな動員を必要とするのであれば、議会で重大な困難に遭遇せざるをえないと述べた。とのように、あらゆる 軍事行動に出る乙とはできないと答えたので、彼らは激しくフオツシユの責任を追求した。彼らは、軍事行動のため をみた。 乙の結論に対し、 フ オ ツ シ ユ 元 師 が 、 前 言 を ひ る が え し て 、 当 時 の 連 合 国 の 兵 力 で は 三 巨 頭 の 考 え る よ う な れ、その際三巨頭は、調印が拒否された場合には、 ベ ル リ ン 進 駐 を 合 む 強 力 な 軍 事 行 動 に 出 る べ き 乙 と に 意 見 の 一 致 聞にいかに処するかという問題が残されていた。回答手交の日に、調印拒否の際に取るべき軍事行動について論議さ 見﹂に対する連合国の回答がドイツ代表に手交されることになったが、依然としてドイツの調印拒否と軍事行動の再 所 か 説 論 最後まで、 彼はサムナ IMカンリフの束縛から脱すること ものと考えていたが、最終的決定に至るまで、遂に彼は議会に賠償問題の真の姿を明らかにしようとしなかったし、 合理的な解決のために世論を喚起しようともしなかった。 ができなかったのである。 以上において、対独平和条約の作成と関連して審議された、 ヨ ー ロ ッ パ 再 建 の 諸 問 題 に つ い て の 考 察 を 終 え r 今つ ζの ' る 。 対 独 平 和 条 約 そ れ 自 体 は ド イ ツ に よ っ て 調 印 さ れ た が 、 ヨーロッパ再建にはなお重大問題の解決が残されてい た。殊に、 ロシア問題と賠償問題については、明確な決定をしない乙とが平和会議での取り決めであった。 平和条約に対するロイド・ジョージの勧告の成功と失敗とについて次の諸点を指摘している。 まず失敗 な取り決めがなされるについては、 ロイド・ジョージの外交の性格が大きく働いていたといえるであろう。﹁パリ平和 会議史﹂は、 点として、付ロシアを国際連盟や平和会議と和解させるという考えを成就しえなかった乙と、同連盟規約調印前に一 般軍縮を達成しえず、また連盟へのドイツの早期加盟を実規しえなかった乙と、 同彼の望んでいた以上に、 ドイツと ハンガリーが領土と人口の割譲を求められ、逆に、 ト ル コ の 割 譲 は 彼 の 望 ん だ も の 以 下 で あ っ た こ と 、 回 戦 争 犯 罪 人 に対する処罰が行なわれず、保障条約が批准されなかったこと、国ドイツの経済条件の取り決めがなされず、また賠 償問題が未解決に留まったこと。成功の面としては、 ド イ ツ に よ る 条 約 調 印 に は 、 彼 が ド イ ツ に 対 す る 条 件 の 緩 和 を 主張した乙とがあずかつて大きな力となっていた乙と、 ド イ ツ 軍 縮 案 作 成 へ の 寄 与 等 が あ げ ら れ る 。 政 策 目 標 の 達 成 という観点からすれば、委任統治制の名の下に、英帝国に有利になるよう戦敗国の植民地や領土を分割した乙とも成 功の中に加えられよう。 さて、国際政治の安定という観点から、彼の構想の中核となったものは、低水準における軍事力の均衡であった。 北法 1 4 { 2・ 2 1 ) 2 2 3 料 。 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 説 論 国際連盟や保障条約は、 それに付加される補足的保障であったといえる。 ζの意味で、彼の成功はドイツの思い切っ た軍縮の達成にあった。 しかし、 ド イ ツ の 軍 縮 の 後 に 予 定 さ れ て い た 一 般 軍 縮 が 具 体 化 し な か っ た た め 、 戦 後 の 政 治 は大きな不均衡をもって始まる乙ととなったのである。 こ の こ と は 、 連 合 国 の 側 に 安 定 維 持 の た め の 重 い 責 任 を 課 す ものであった。 E-H・ ヵ Iは 、 ド イ ツ の 恒 久 的 弱 体 化 は 、 そ の 維 持 に 大 規 模 な 武 力 の 恒 久 的 適 用 を 必 要 と し た と 指 摘 している。と乙ろで、平和会議中から顕著であった、英仏の対立、 ヨ ー ロ ッ パ の 乙 れ ら 大 国 と ア メ リ カ と の 戦 後 構 想 における基本的な対立から考えて、連合国の側には、武力の恒久的適用を可能ならしめるような統一政策は存しなか った。また、安定のためという大義名分で、 旧式の勢力均衡原則と似ても似つかぬ政策を適用した以上、連合国は、 この支配体制維持のため、 ドイツを納得させる安全の基礎を創造する責任を負っていた。 し か る に 、 連 合 国 は 、 ま ず ロイド・ジョージが、 フォン-アン その出発点から、 ドイツの同意した ﹁戦後処理の原則﹂を無視することによって、 ドイツに不信の念を抱かせ、 乙の 全くの不均衡による安全の体制の正統性的根拠を自ら掘り崩していたのであった。 ブロ 1覚書で書いたように、講和の条件がいかに厳しかろうと、 そ れ を 課 せ ら れ た 国 民 が そ れ を 公 正 な も の と 受 け 取 かかる政治的弱点を含んでいた上に、国際経済不安定化の要困を字んでいた。 ロイド・ジヨ る限り、不平がささやかれることはないのであったが、現実の取り決めは丁度その逆の結果をもたらすような類いの ものであった。 一九一九年の講和は、 ロイド・ジョージの場合には 経済的知識の有無よりも、問題の扱い方により多くの政治 ージのみならず、米仏首脳も、経済・金融の問題に対する理解の欠如や認識不足を理由に批判されている。本章での 考察から明らかなように、 的問題が含まれていた。彼自身は、償金取り立てにおける過度の要求が、 か え っ て 経 済 的 に 悪 い 結 果 を も た ら す 心 配 北法 1 4 ( 2・ 2 2 ) 2 2 4 のあるととを認めていなかったわけではなかった。彼はそれを認めていたが故に、賠償額の最終的決定を平和条約に 記 載 し な い と い う 方 策 を 強 く 主 張 し た の で あ っ た 。 最 後 K、賠償問題の ﹁政治的解決﹂というととに顕著にみられる 彼の機会主義的適応のもたらしたものについて若干検討してみることとする。 回顧録の中で、ロイド・ジョージは、 E義 の 原 則 に 基 づ い て 賠 償 要 求 の 権 利 が 獲 得 さ れ た が 、 賠 償 の 取 り 立 て に 困 難 と経済的悪影響が予想される場合、﹁正義の法則﹂をど乙までその違犯者に強いるのが望ましいかは、﹁通常の英知す なわち使宜(巾凶匂色町巾ロロ可)の問題﹂ で あ る と 書 い て い る 。 ま た 、 既 に 引 用 し た よ う に 、 ド イ ツ に 課 し た 条 件 は ﹁公正で あると同時に便宜的なものであった﹂ ことを知らねばならぬ、 とも述べている。 これらの言葉から明らかなように、 彼は公然と問題の便宜主義的解決を押し進めようとしたのである。 四月一六日の下院での演説で、彼は、﹁平和宣言﹂、 休戦の際の﹁講和の条件﹂、総選挙での公約に含まれ平和条約に盛られようとしている賠償の条件は、内容的に矛盾し それらを生み出した状況はきわだって異なった様相を呈しており、 しかもロイド・ジョージの指導はそれらの ていないと述べたのであった。 しかし、右のそれぞれに含まれている条件は、 それらが出された時の状況の所産であ った。 各々に巧妙に適応していったのである。各々の危機的状況を、彼は、便宜を原則に優先させることによって乗り切っ 北法 1 4( 2・ 2 3 ) 2 2 5 てきたのであった。従って、彼が原則として提示するものも、決定作成の正当な準則であるとはかぎらないのであっ 一九一九年の講和の原則が、 ウ ィ ル ソ ン 綱 領 に あ っ た こ と は 疑 い え な い の で あ る が 、 彼 が 使 宜 に 対 置 さ せ た 正 義 取り立てようとすれば、経済的に悪い結果が予想されるから、取り決めのためには政治的便宜主義が必要だと唱えら 理の原則﹂ に対する関係においてであった。 これに対し、ロイド・ジョージの場合には、正義の規則に従って賠償金を の原則は、ウィルソン綱領と合致するものではなかった。 ケインズが、賠償条項の便宜的性格をついたのは、﹁戦後処 T こ 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 れている。何を原則とみるかにおける根本的対立から、便宜主義についての両者の見方は全く相反している。ロイド・ ジョージは、 正義の原則と現実との架橋のために便宜主義的解決の必要を強調し、 それによって実際の解決はケイン ズ の 求 め た よ う な 結 果 へ 接 近 し う る と 説 い た が 、 彼 の い う 英 知 の 必 要 は ﹁戦後処理の原則﹂ に対する彼の機会主義的 な態度から生じていたのであって、 その原則の達成のために、彼のいう便宜主義が必要となったのではなかった。 さて、当面の要求や圧力に対処する便宜主義に立つ以上、問題の処理が、﹁問題を解決するととなく、当面の対立を ZE同巾)一時的な間に合わせ﹂をもって行なわれがちであったのは当然であった。 目標を設定して、 ﹁折り合わす﹄( 一九二三年一月に至つてなお、 ロイド・ジョージは、賠償 の目標のために状況を変えてゆ乙うとすることなく、変化する状況に対する機会主義適応に終始する場合、問題の解 決は後へ後へと延ばされてゆかざるをえないのであった。 問題の﹁実際の難儀はその問題自体を解決することにではなく、それを取り巻いている世論を満足させる乙とにある﹂ と述べて守山。。また、賠償問題の公正で最終的な決定への唯一の希望の綱は、フランスが現実にイニシヤテイグを取 っていた賠償委員会に代わる賠償問題裁決機関花、 ア メ リ カ 代 表 の 出 席 を 得 る こ と だ と も 述 べ て い る 。 平 和 会 議 に お ける決定と右の言葉とを結びつけると、賠償問題についての彼の政策を一応次のように描きうるであろう。 す な わ ち、賠償問題で、世論が彼の欲する合理的解決の道を認めそうもないので、彼は、問題の最終的決定が平和条約締結 後の、世論が冷静さを取り戻した時期に、賠償委員会によってなされる乙とを期待した。賠償委員会では、アメリカ代 表が議長となり、英伊の賛同を得て、寛大な処置がなされえたであろうと。 し か る に 、 予 想 さ れ て い た と こ ろ で は あ かくて、 ロイド・ジョージは、賠償の全計画 ったが、条約締結後依然としてフランスは寛大な政策をとろうとせず、 さ ら に フ ラ ン ス を 抑 え て 公 平 な 調 停 人 の 役 を 果たすべく期待されたアメリカは、賠償委員会に代表を送らなかった。 1 4( 2・ 2 4 ) 2 2 6 北法 説 論 そ を 覆 し た の は ア メ リ カ の 背 信 行 為 で あ っ た と 主 張 し 、 またアメリカが戦債問題でイギリスを初めとする連合国に無 理解きわまる態度をとったと批判することになるのであった。 こ の よ う に 、 責 任 を ア メ リ カ や フ ラ ン ス に 押 し つ け て みた,ところで、彼の責任は消えはしない。 な ぜ な ら 、 賠 償 条 項 の 作 成 に 当 た り 、 彼 が 努 め た の は 、 戦 債 と 賠 償 と が 統 ζとであったのであるから。 一的問題であることを説くことより、巨額な賠償を獲得することであり、 し か も 、 彼 自 身 が 煽 動 に 一 役 買 っ た 世 論 の 要求を理由に﹁戦後処理の原則﹂を歪める 世論の反対を理由に、賠償総額を固定せずまた条約に記載しないようにしたことは、国内の状況に対する彼の機会 主義的適応、あるいは当面の世論の要求と彼が考えたものと究極の国民的利益との衝突を回避する﹁巧妙な﹂方策で はあったが、責任あるリーダーシップのとるべき道ではなかった。賠償総額を決定しようとせず、時が合理的な解決 をもたらすのを待つのは無責任なリーダーシップであったといわざるをえないであろう。勿論、彼のとった方策すべ てを、彼の権力維持のための無原則的な行動によるものと解することは正当でないにしても、彼の便宜主義的方策が、 ﹁民衆の政治﹂から発生した ﹁人民的統制﹂ の 負 の 状 況 に 対 処 し た 賢 明 な 方 策 で あ っ た と み る 乙 と は で き な い で あ ろ う。民衆の政治が彼の抱負であったとしても、平和会議中に、彼の目標を明確に設定して、世論の批判を求めること ﹁民主的方法の本質は、政府の審議が公開で行なわるべきであるという乙とではなく、 その結論が衆議院 は、確に困難であったかもしれない。平和会議で外交の公開ということが論議された際、彼は次のような発言をして いる。 を考えれば、 乙のような彼の考えは現実主義的なものであったといえよう。 だ が 、 賠 償 問 題 の 場 合 、 自 ら 掘 っ た 墓 穴 1 4 ( 2・ 2 5 )2 2 7 nzszs の審議や、新聞の自由で公開の討論を受けるべきであるという乙とである。﹂ 外交折衝ということ ( 宮 巳R に陥らないようにするためには、 まさに彼は世論に訴える決断と勇気を求められていたといえるであろう。 北法 制 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 凶状況の変化に対するロイド・ジョージの敏捷な対応ぶりについて、ケネディは次のように書いている。﹁外部からの影響や環境へ 。E D S同門司白ロ仏 20君"℃ - N∞N・ ロザ- E nと で あ り 、 い か な る 政 治 的 状 態 も 自 かくもたやすく順応していったひとはあるまい。彼は政治のプロテウス ( HZHMERgえ 宮 - 5EUJ 分 の も の に し う る よ う に 思 わ れ る 。 ﹂ 同2 にし、そして総選挙の公約を卒直に取り消すかわりに、彼は、自分の都合のよいように、自分のところの対立している専門家遂を 凶巨額な賠償要求が理性的に考えれば期待できぬものであることを一方で認めながら、他方でロイド・ジョージが世論の反対を口 張 り 合 わ せ て 、 自 分 の 責 任 を 回 避 し よ う と し た 、 と ベ イ カ l は 批 判 し て い る 。 ∞ 田 宮 門wFω 吋 吋 ・ な お ﹁ 超 然 政 策 ﹂ ば 、 ウ ィ ル ソ ン 7 ッカラムやニコルス roHLY日 と タ レ マ ン ソ l を 闘 わ せ 、 そ の 間 に あ っ て 自 分 の 立 場 を 有 利 に し て ゆ く 彼 の や り 方 に 、 ベ イ カ l が 名 づ け た も の 。 回@ 叶H ∞ H M M Hl 間前者の批判的な立場をとる者は、ベイカ!とケインズよってに代表される。後者の立場をとる者として、 同 ンをあげうる。宮口(い白-zp ν EWCYEC口同足手巾戸田注目νgnp 日 -ncrop(U5NDP ) ・ 品 ∞ 一z ロ ・ 匂 ZWC-zpHVE 川開 間本稿第一章第二節、本誌一三一巻二号、一 O 四 五 頁 参 照 。 ・ V U w︿己・ロN u g -ご 刷 H ︽ HZLUH}NH・ g ) の選挙で、連立派候補の得票差が五千から二千へ減少したこと、リヴア めているという考えを表明した乙と、そしてロイド・ジョージの﹁責任は最も頑強な精神をも畏縮させるに充分なものがある﹂と F mpFHdgr・4Nω ・ 注jO}FFtHHgsoEq湖 沼 ・ 巳 ・ リ ッ デ ル は 、 彼 の 日 記 の 二 月 八 日 の 項 に 、 ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ が 、 大 き な 不 安 を も っ て 将 来 を 眺 矧岡山 ︽ HrF︽凶 uu由・ 書いている。 制 叫 プールでの補欠選挙でも同様の結果が現われたこと。 N・ HEFHV・ω 間三月に行なわれた、ウエスト・レイトン(垣内田門戸再三 E q vs ・ m 吋戸同H 間叶r E m - 巴﹀閉門戸-55・ E ? 8・ 間岡山正ハ庄で印同ロ仲間同出国おり 間 仲 同 問 。B 戸z 回甲自己¥斗roEEEOC FwurEσ2Z耳2LHJ2EEM件当己ωgEE口 DBwwuk-wv ℃-Nお・もっ C口 問 50F20(い とも、乙のような国際連盟中心の平和構想に対しては、左右両翼からの批判が高まっていた。殊に、右派は、ウィルソンが彼の連 1 4( 2・ 2 6 ) 2 2 8 北法 説 論 側 難した。 ( H r広w H M N怠・) 盟を押しつけようとしており、実際の平和条約の作成が遅れ、賠償や国境の問題がなんら解決されてないとして、ウィルソンを非 ・ ZEm--ぱ同ロ巴ロ戸同席。sqw ℃℃・8lH・ 間 巴 ouLCmDapFgω ,m H F-55・ r dBguHN ﹀ 同 ︼H 色町・ o目52・︿C } H︿-E江戸円)・色白 roEESqo同件r vmdBgu 戸﹀回忌-55・ 件とした書いている。 mPOOL--,HMEE由﹃吋庄司qJPR♂ ︿ D戸 口 旬 開 u N∞品・なお、スティ l ドは、ノ i ス ク リ ッ プ か ら の 独 立 を 、 編 集 長 就 任 の た め の 条 側吋 剛剛 側吋 伊丹 N 0・ 凶 ωm 片 a3 ・nw H V・ω ・ 凶岡山岡庄町-FHロ巴口回目件。ロs qwMY -SLNL9 8・ 間同﹃正L U・ 仏 凶 HZw M・怠 四回ゲ広・ 側 同ZLw宅 人会議は、ポーランドとドイツとの国境について審議していた。乙の審議の過程で、十人会議でのロイド・ジョージの発言が外に 間以下に、四人会議成立の事情と、四人会議で取られた外交折衝の方法について簡単に述べてみることとする。三月下旬近くに十 のなら、最終会議が成立するまで意見の表明をさしひかえたいと述べて、情報を流したと思われるフランス側を非難した。明, F 漏れ、彼の考えはドイツに融和的だとして、彼は新聞によって攻撃された。彼はそこで、会議の審議内容が故意に漏されたりする 秘密を保つには不適当であるということに意見の一致をみ、四巨頭のみから構成される﹁四人会議﹂の設置に踏み切った。かくて HVR255wH︿w A H怠 怠 ・ 漏 洩 と い う 問 題 が 生 じ 、 し か も 審 議 は 最 も 困 難 な 局 面 に 達 し て い た の で 、 四 巨 頭 は 、 十 人 会 議 が 審 議 の これ以後四月中旬近くまで、またそれ以後も屡々、必要の生じた場合にのみ専門家遥を招じ入れて意見を聞くが、それ以外は通常 乙の折衝方式は、会議の構成員を極度に縮小することによって、審議内容の秘密を保ち、ある時点での個々的な決定に対して会 四巨頭のみで決定作成を行なう乙とになった。 北法 1 4 ( 2・ 2 7 ) 2 2 9 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 説 論 世 論 か ら 、 そ の 秘 密 主 義( ω 2 5 n可 ) を 批 判 さ れ ね ば な ら な か っ た 。 さ ら に 、 こ の 方 式 は 、 外 交 と い う 観 点 か ら み た 場 合 、 見 逃 し え 議の外から反響の及ぶのを遮断し、審議を早めるという利点をもった。しかし、それはまず、講和の内容に重大関心をいだく園内 }Erg-町宮停可)の危険( Q - 阿国回目白血包﹀・ωgvxEF ぬ 問 題 点 を 字 ん で い た と い え る 。 な ぜ な ら 、 乙 の 方 式 を 採 っ た 場 合 、 条 約 の 作 成 は 個 人 外 交 Q22ロ LfzgR可)の形で行なわ 出- EN・ ) が 生 ぜ ざ る を え な い の で あ っ た 。 巨 頭 聞 の 個 人 的 折 衝 の 深 ま り は 、 彼 ら の 閣 れる ζと に な る の で あ っ た 。 そ の 結 果 、 そ ζ には政策の個性化な冊目白 の協定が、決定作成後における協定批准段階での彼ら各々の指導力の継続、あるいは彼らが個人的に同意した政策の継続を前提に UE白ヨ片田三FR52-oE{河町一白tcg(H話。)二︾ ケーションの低下をもたらすことによって、右の危険をいよいよ増大させるものであった。このことはウィルソンにおいて最も顕 決定作成をなすという危険をもたらすのであった。他方、秘密主義は、情報網の狭隆化および指導者とブレーンとの聞のコミュニ RVH・5rrEEロm 著であったといえる。(リ同∞白r v 吋70-MEZZomO昨日白立。ロ♂℃匂-NEH∞ H州 E 片岡山往々回昌吉ロ色白押FEU3・M∞吋毘・ 毘 ロ 三 同 N∞ N w ℃.∞申宰坦. D 2 円ロ B巾 2 阿 r u が E α児丘 生 ︽ L 仏 ︼ 悶 巳 = で 門 丘 忌 即 町 同 ωFロ ω 5チ8 ・2了℃ ω H N H r L w匂 b・ 間見一生。-FFt自白窓口Eqゆ℃・ぉ・ 間 側 削 丹 倒∞巳円ロ巾丹 = F F 。 也 問 国 222ιω ミ52ア者 判叫ロ)昨︻︼ -・口Arno-NE 捌 司P ︿c ・ ∞ u n c N U A H由・ 印 。 ・ 側 HZFnDFN@ 刊州同寸日仏u n o N申印N・ 川州出 ω r o ア ロ WHCmw- 側 EE-wnc-ND印ω・ r広由 W E N8 倒 H ・ 幽明一F HνR555. ︿wN2. Lo--uωFtE200Equ ℃-A8・ 削 月 一ι ゴ ヒ 法 14(2・ 2 8 ) 2 3 0 SEw-勺-n-片品目)・8r 品斗。・ 独立労働党の機関はその決議文の中で次のように宣言している。﹁この条約は資本家、軍国主義者およ 町一 FFH555Ml︿wNElF 間同ゲ即応- M ぴ帝国主義者による騎着である。それは一九一四以前に存したあらゆる悪弊をますます激しくしている。それは世界平和をもたら 回国 側 ζとを述べている。(吋 UF)次 o p c B mロ河町一巳5 5 5 ∞ユ丘町﹃﹁与D E H H ν c R W F 8・ すのではなく、別のもっと悲惨な戦争への道である。﹂宮包L ・ ℃ 附句一月 LUR-ωSHPJJ 印凶叶・ ErHUHFHE・ 問l沼 町 ・ ド イ ツ 反 対 提 案 は 、 ま ず 、 ド イ ツ 代 表 団 が 休 戦 の 過 程 で ﹁ 同 意 さ れ た 諸 原 則 ﹂ に 基 づ い た 正 義 EPP丘町 55" ︿Y退 間 の講和を予慰して出席してきたのに、手交された条約案がドイツ国民にとって履行不能なものである I B ) 彼らの反論の出発点は、﹁一方における条約案と他方の同意された法的根拠敵国政治家によるそれ以前の保証、 される。(吋S に、不当な領土割譲、同意された条件を越えた賠償要求、ドイツの主権に対する甚しい制約の付加等について、細目にわたり指摘 および国際法の一般通念との矛盾﹂に求められた。かかる矛盾の指摘を、賠償問題についてみれば、反対提案は﹁補償︹賠償︺﹂の 項を設けて﹁ドイツの償金支払義務の法的根拠﹂を問うた。反対提案を出す前に、ドイツ代表は、ドイツの戦争責任の問題で、ロ S lち て ま た 反 対 提 案 で ィドジョージの﹁平和宣言﹂を引用して、賠償条項が同意された原則に反するものであると主張したし ( 山由 ) ・ 3812 た賠償義務が拡張されるのは北部フランスの地域に対してである乙とを強調し、条約案はご九一八年の崇高な声明や規約に含ま は二四カ条およびランシング通牒を盾に取って、ドイツ政府が休戦締結期に責任を認めたのはベルギー攻撃に対してのみであり、 N0 ・ 山 まれているものをはるかに越えている﹂と反論した。 口 ∞ F E -、 側 E F E S 右足-︿FHglu・ W u -∞ ( ) ・ 凸 o u L C m O H mPHU m 岡戸EPUSH削 H 間 HEpugN8・ EL48H・ 悶 同 A N・ H2w 也 ︿ H W H Ui 同町田向"可戸吋仲間 北法 1 4 ( 2・ 2 9 ) 2 3 1 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 T 「 々 、 斗 P入 ; , -1! t貯判~' -c\ヤ長ユ入+<~露経1!ば同凶日連g( r { . ! J . . v ' ロ , , : , . .・~). m -~)'1!仰ユドユ時。Ll oyd George,1 ,7 2 0 . FR,P a r i s1 9 1 9,VI,1 4 2 ;2 7 8 . I b i d .,1 5 1 5 2 . I b i d .,1 4 5 . I b i d .,1 51 . 0 5 . I b i d .,3 Burn 巴t t, p .1 3 7 . FR,P a r i s1 9 1 9,2 6 6 . I b i d .,2 6 1 6 2 . I b i d .,5 0 8 . . r HPCP,V 550-51 . o n d i t i o n so fPeace,p .1 9 3 . Carr,C L loydGeorge,1 ,4 3 8 . I b i d .,701 .1 4 穏 ' 将 司γ 1-\-l]m(~名度 QIJ 心。 Eト占耳鳴@~ミ出精 Q !f!JS~!,!4tl vþ特哩,."ト(l ..;>Q \'J~景品 0~ ベJ !W:'吋.;;包 r あ守入"r< iミ'制..v~い幣 ~Q 縦士忠君主言)ä{ミ.-,,'側二世互理耳 w!ι ト日用品,."1 J . . v ! ' !\ぱ茨 ~{.!IJ ..v主Y 草草寺ミ'草当日痘:t- . ". ; ;{.!詰穿ベJ1 !j 型 ! , ! ' l!!g j阿州jIj部ベJ~ 小「悩泥沼純〈辰 Q 住吉斜 J Q 常利\'J必 r~~ ベJQ\討判ベJ~ 時。 IJQ 吋小!,!世当医 F ド' ト入ムむさ!' . c " 入 ' 1 ' <Q由 民 監 υ時J童 話 量E宅 Eil!!g個利締主主制 (¥..;>Q. . v 謡 穿 J ド二時。 Mantoux, Th 巴 C a r t h a g i n i a nPeace,p p .1 5 7 5 9, G J .M.Robertson,Mr .L loydGeorgeand L i b e r a l i s m( 1 9 2 3 ),p .1 0 9 . ~ L loydGeorge,Wherea r ewegoing?( 1 9 2 3 ),p .1 3 6 . I b i d .,p .1 4 3 . ご L loydGeorge,1 ,5 1 3 . ~ L 10ydGeorge,TheTruthaboutR e p a r a t i o n sand War.Debts( 1 9 3 2 ),p p .1 0 2f f . ~ 冨 F, R P a r i s1 9 1 9,I I I,6 11 . SN(2・ N )ヨ 鎚 鵠 F自 由 回 一 吉 田 一 吉 田 ( 日 自 由 宮 町 由 一 司 回 一 一 同 盟 百 回 ( ト 自 由 哩 古 田 ) 芭 ﹄ 程 百回i 富 喜 す ひ 一九一九年の講和とそれに続く時期のイギリス外交政策に、国際政治の 一九二三年花、 ロイド・ジョージは、 ボルシエグイキ政権へ戦争をし 一国の当分の聞の政府に戦争をしかけるととはできぬ相談である。 そ の 人 民 か ら 、 彼 ら の 生 活 に その歪曲は便宜的解決をもってしか行なわれ難かった。 ロイド・ジョージの考えが、 積極的にあるいは制約された形 た時代の要求に応えようとするものであった。帝国主義政策の遂行は﹁原則﹂ の歪曲をもってしか可能でなく、また いる。彼の外交と外交政策は、表面的にもせよ、人民の同意や人民の福祉にかかわり合う点で、人民外交の要請され の被害を最後に憤る乙とになるのは人民である。政府は出来ては消えるが、民族は永遠に生存し続ける﹂と、述べて 不可欠な商品を奪う乙となく、その国との貿易を拒むことなぞできない。それ故、宝口を受けるのは人民なのであり、そ んずる乙となしに、 かける乙との非なる乙とを説いて、﹁一九一九年にわれわれが発見したように、土地を荒廃させたり、その人民をうと 策の抑制により根強く残される乙ととなった。 の問題は、 ア イ ル ラ ン ド 自 治 問 題 で 最 も 尖 鋭 化 し て 現 わ れ る 。 他 方 、 政 策 形 成 の 過 程 へ の そ の 遺 産 は 、 帝 国 主 義 的 政 民地・保護領の諸民族は、﹁民主主義を救うために﹂彼らが戦った乙とを忘れはしなかった。戦後になって、民族自決 継承を拒もうと努めたのであった。 しかし、象徴の遺産は広く世界的な遺産として残されていた。 インドその他の植 操作によって、彼らの要求を大衆の要求であるかのごとく擦り替えたりする乙とによって、﹁戦争目的政治﹂の遺産の 民主化に関連した多くの遺産を残すことになった。支配層は、民衆の支持を受けた諸原則を歪曲、無視したり、世論 第一次大戦中における人民外交の展開は、 む で具体化されていた諸構怨において、園内の大衆からの反響を恐れずに出された構想は殆どなかった。国際連盟の創 北法 1 4 ( 2・ 3 1 ) 2 3 3 伺 ロイド・ジョージとヨーロッパの再建 設、軍縮、対露軍事干渉への反対、賠償取り立て、 乙れらのすべては、大衆に与える政治的影響との関連で主張され ている。彼の構想は、 しかし、利他的民衆を基盤とした国際協調への信念に基礎を置いていたのではなく、 イ ギ リ ス ﹁世界の諸国家の間で断じてひけをとらぬ位置にある乙とを確保する﹂という権力政策で満たされていた。 このよ (本研究に対し、 昭和三十六年度文部省科学研究費の交付を受けたことを附記する。) (第一三巻、第二号、九五頁)ウインストン︹・チャーチル︺をウィルソンに。 筆者のノ l ト 作 成 の 際 の 過 ち か ら 、 次 の 筒 所 に 誤 り が あ っ た の で 、 お 詫 び し て 訂 正 さ せ て い た だ く 。 第 一 章 、 第 二 節 、 本 文 中 の 外務省訳の条文を引用した際には、大体、訳文通り片仮名のままそれを引用した。 ︹補選と訂正︺対独平和条約条文の訳は﹁朝陽会﹂発行の﹁同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約並議定書﹂(外務省訳)によった。 司 BRm 耳 目m cEm戸 ℃-uoN山 巴 czcg円四ptZ 際協調を維持する基礎条件の創造をなしえないのであった。 ある場合には、帝国主義的政策の非弾力性と非現実主義的性格を補正する面を持ちはしたが、 それは究極的には、国 うに、大衆を大動員したととからもたらされた種々の性格の人民的統制に対処しながら、権力政策を推進する乙とは、 カf 説 論 ゴ と 法1 4( 2・ 3 2 ) 2 3 4 THEHOKKAIDOLAWREVIEW Vol.XIVNo.2 SUMMARYOFARTICLES Ll OYDGEORGEANDTHERECONSTRUCTION OFEUROPE ( I V ) H i r o s h iYOSHIKAW A .o fP o l i t i c a lS c i e n c e A s s t .P r of H o k k a i d oG a k u g e iU n i v e r s i t y Fort h er e a s o no ft h ec o n d i t i o no fp u b l i co p i n i o n, L l oydGeorge xed sumo fr e p a r a t i o ni nt h et r e a t y . This a s s e r t e dt ow r i t e no 五 wasan “ i n g e n i o u s "p l a nt oevadet h ec o n f l i c tbetweenc h a u v i n i s t i c demands and “ t h ep r i n c i p l eo ft h es e t t l e m e n t " . This was an e x p e d i e n tp o l i c yt h a tshowedh i so p p o r t u n i s t i ca t t i t u d e . 1 nt h epeaceprogrammei nwhichh i si d e atookc o n c r e t es h a p e, t h e r ewasnop l a nbutwasconcernedaboutt h er e f l e c t i o nfromt h e m a s s e s . However ,theprogrammes didnotrelyupon altruism of t h ep e o p l e and i n t e r n a t i o n a lp u b l i co p i n i o n . His diplomacy s u c ,but h i s c e e d e di nr e c t i f y i n gi n e l a s t i c i t yo fai m p e r i a l i s t i cp o l i c y f o r e i g np o l i c yc o u l dnotc o n t r i b u t et oc r e a t i o no ft h e fundamental c o n d i t i o n st om a i n t a i ni n t e r n a t i o n a lp e a c e . Summary1 北法 1 4 ( 2・1 8 2 ) 3 8 4