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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治二十九年)に ついての考察(その二) 廣瀬, 緑 五浦論叢 : 茨城大学五浦美術文化研究所紀要(16): 75-97 2009-09-30 http://hdl.handle.net/10109/1075 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html ︻資 料 紹 介︼ 瀬 緑 岡倉天心による﹁泰西美術史﹂講義 ︵明治二十九年︶についての考察︵その二︶ 廣 五 浦 論 叢 第 16 号 西美術史﹄講義︵明治二十九年︶についての考察︵その一︶﹂の続き 本論文は﹁五浦論叢﹂第十五号、︵二〇〇九年︶ ﹁岡倉天心による﹃泰 建築ハ粗雑ナル柱ヲ用イ彫刻ノ如キハ後世ノ発達アルニ係ラズ一 甲武器ノ如キハ多クハ亜細亜亜非利加ナドヨリ輸入セルガ如ク其 年代ホーマーノ詩ニテ考フレバ未ダ完全ナル発達ナク貴重セル楯 モ見エルコトナシ﹂ である。 前回の論文においては﹁泰西美術史﹂のうち、序文、埃及、メソポ ギリシャは泰西美術の根源であるが、ホーマー Homerus の詩によ ると初期のギリシャ美術は完全でなく、粗雑なものであったため貴重 タミア、 印度についての講義内容を見てきた。今回はそれに続く希臘、 羅馬、中世史、ゴシック時代を見ていき、最後にこの﹁泰西美術史﹂ な 武 器 類 の 多 く は ア ジ ア、 ア フ リ カ な ど か ら も た ら さ れ て い た と 述 の Lübke 工芸についての解説となっているが、天心がギリシャ彫刻と陶器を高 ていたかがよくわかる内容となっている。前半は彫刻、後半は絵画、 埃及ニ較フレバ其跡ナキニ係ハラズ建築ニ於テハ線ヲ適セリ又其 リ入リシト云ヒ一説ニハ亜西利亜ヨリスト雖モ其彫刻ヲ執テ之ヲ ﹁其後オリンピアノ初歩ノ美術ハ何レヨリ来リシカ一説ニ埃及ヨ ﹁西洋美術史﹂︾にも同様のことが記されている。 History of Art く評価していることが授業の内容から読み取れる。この章では平凡社 建築ヲ以テ之ヲ亜西利亜ニ比スレバ全ク其線ヲ断チ寧ロ彫刻ニ於 ︽ で あ る。 こ れ は 天 心 が 参 照 し た と 考 え ら れ て い る リ ュ プ ケ べ て い る。 泰 西 美 術 の 源 は 結 局 ア ジ ア や ア フ リ カ に あ る と い う 内 容 講義全体の考察を試みたいと思う。 二 五 ― 希臘 この項は香田ノートの中で最もページ数の多い部分で、天心がいか 版、菅ノートと共通する内容が多いが、菅ノートでは建築から始まり、 テ其跡ヲ連ヌ之ニヨリテ之ヲ見レバ建築ハ埃及ニ取リ彫刻ハ亜西 にギリシャ美術について強い関心を持ち、学生に多くを教えようとし 平凡社版では﹁ギリシャは小国だが西洋文化の源であって、美術とい 利亜ヨリ入リシナラン⋮﹂ こ こ で も 再 び 泰 西 美 術 の 源 は 確 か に ギ リ シ ャ で あ る が、 そ の 根 本 うものは国の大小に関係ないので日本も小国だからといって悲観しな くてもよい﹂という内容で始まっている。また、ギリシャの陶器につ いての解説は香田ノートのみに見られる内容である。香田ノートは次 を た ど っ て い く と 建 築 は エ ジ プ ト、 彫 刻 は ア ッ シ リ ア に 源 が あ る と に 衣 と か つ ら を 被 せ た だ け の も の で あ っ た こ と、 そ れ を ダ イ ダ ロ ス のようにギリシャ美術の起源から始まっている。 ﹁希臘技術ハ実ニ泰西美術ノ発スル根元︵源︶ニシテ此史ノ攻究 が 道 具 を 発 明 し て 彫 刻 を 進 歩 さ せ、 次 第 に 象 牙、 琥 珀 な ど Daedalus 述べている。続く内容は、ギリシャの彫刻は最初、簡単な木彫の神像 又従テ必要ナリ其史前事詳カニ考フヘカラズ紀元前ノ千七百七十 77 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) 職工が作るのではなく、使う者が自分で作っていたということが述べ によって装飾も加えるようになったこと、また当時は楯などの武具は いたことを何度も強調する内容となっている。 れら全ての発展がアジア、アフリカの技術や材料によって支えられて られている。この内容は平凡社版にはなく、菅ノートに同じような内 ﹁五世紀ノ始メ六世紀ノ終リヨリ希臘美術大ニ興起セリペルシヤ 術ノ色ヲ現ハセシ如シ五百八十年頃ヨリソーロン出デ盛ンニ工業 容が少し記録されている。続いて、 ﹁紀元前六百年頃一大発明アリ及チサモス島ニテセオドラス︵マ ヲ起シ発達亦著シカリシ︵略︶⋮此盛事ノ起リシハ全クペルシヤ ノ侵入セシハ紀元前四百七十年頃ナリ此ヨリ以前五百年頃ヨリ美 マ︶カ鋳造之レナリ或ル説ニハ埃及ヨリ輸入セルヲ元来自負心深 ノ凱陣ニ基キタルモノナリ就中尤モ盛ンナルハ亜ゼンスニシテ次 ︶ ギ リ シ ャ 美 術 は 紀 元 前 五 世 紀 の 初 め か ら 発 展 し、 政 治 家 の ソ ロ ン ラスマイロンナドノ名工輩出セリ⋮﹂ スヨリ空前絶後ノ偉士ヲ出スフェダスト云フ其他カラミスピサゴ ニイジーナナドナリ亜テアルゴスヨリモ大家ヲ出セリ就中亜ゼン キヨリシカ云ヒシナラン﹂ ︵ こ の 部 分 は 菅 ノ ー ト で は セ オ ド ロ ス Theodoros の代わりにグータ デスあるいは一説にはサモス島のリヨコスが鋳造の技術を発明したと なっている。紀元前六百年頃に鋳造の技術が発明されたということだ が、別の説によるとその技術はエジプトから来たと述べられており、 ギリシャ文明の起源はアフリカ、アジアにあることがここでも再び繰 が工業を推進したためさらに進歩した。特にアゼンス︵アテネ︶ Solon 、 イ ジ ー ナ︵ ア イ ジ ナ 島 ︶ Aegina 、 ア ル ゴ ス Argos から彫刻 Athens 理石を切り出して彫刻するようになったこと、パロス島の大理石は非 ンネソスのことか︶がメロス︵ミロス島のことか︶、パロス島より大 どは平凡社版と同じ内容となっている。香田ノートではさらに彫刻家 楯に彫刻した名士勇将の中に自分の姿を入れたため投獄されたことな の大家が出て、アゼンスからはフェダス︵フェイディアス︶ Phiduas が輩出したとある。 フェイディアスが人の恨みを買って苦労したこと、 り返して述べられている。 常に良質であること、日本においても大理石は採れるが質的には班紋 この続きの内容は紀元前七世紀、六世紀頃にはホンパロス︵ペロポ が多いこと、またギリシャ特有の金牙彫刻というものが発明されたこ の カ ラ ミ ス Kalamis は 馬 の 彫 刻 に 優 れ、 ピ サ ゴ ラ ス Pythagoras はオ リンピアで開かれたスポーツ大会の勝利を表した躍動的な作品がある こ と が 述 べ ら れ て い る。 マ イ ロ ン︵ ミ ュ ロ ン ︶ Myrôn 作のラダス像 については平凡社版にも記されているが、香田ノートでは打ち倒れた とが述べられている。この金牙彫刻は木彫に金や象牙の断片を被せる とである。以上の三つの発明、つまり鋳造、大理石の使用、金牙彫刻 ところを表現しただけではなく、 ﹁悉ク呼吸スルモノナリト其近ニ写 ようにして用いるもので、象牙はアフリカから輸入していたというこ によってギリシャの彫刻は大いに発展したと述べている。しかし、こ 78 1 五 浦 論 叢 第 16 号 シタルコト知ルベシ﹂と動きの表現とともにその写実性の優れている 争アリ︵略︶⋮之等ノ彫刻ハ大理石ナレトモ彩色ノ跡今ニ残リテ ハ東ノ破風ナリ西ノ破風ニハ﹁ポセードン﹂ト﹁アセニー﹂トノ にパルテノン神殿のアテナ・パルテノス立像は有名であること、パウ 神殿の大工事を行う。それを指揮監督したのはフェイディアスで、特 ら生まれた天女である伎藝天に例えて﹁大自在天ノ頭ヨリ伎藝天ノ出 が争っている西側の破風について述べているが、アテナがゼウスの頭 ここではアテナ誕生の破風と、アテナとポセイドン︵ネプチューン︶ 多ク半肉彫ナリ⋮﹂ ことについても触れている。 次に続く部分もほとんど平凡社版と同じで、まとめると次のように サニアス Pausanias の記録によると、アテナ・パルテノス立像は金と 象牙で作られ、頭のヘルメットの中央にはスフィンクス、左右にはグ シト云フ﹂と表現している。この部分は平凡社版では﹁この破風には なる。ペルシアとの戦争に勝ったギリシャは、それを記念するために リフォンが配置され、胸には魔物のメドゥーサの頭が付けられている パラスの此の世に生るゝや恰も我が技藝天の如く﹂となっている。 ︵ ︶ れている。また、オリンピアのゼウス像についてはフェイディアスが る。この作品は明治二十一年から東京美術学校に雇われ、二十四年か 現在、東京藝術大学には﹁伎芸天立像 ﹂という作品が所蔵されてい 非常に苦心して作り、天意を問うため神に訴えたところ雷雨が起きた ら教授となっていた竹内久一が制作したもので、香田ノートの筆記さ ︶ こと、この像には金と象牙が用いられ、台座も金、銀、象牙、黒壇が れ た 年 の 三 年 前 に 当 た る 明 治 二 十 六 年︵ 一 八 九 三 年 ︶ 、 シ カ ゴ・ コ ロ ︵ から誕生する様子については、大自在天王︵シバ神︶の髪の生え際か こと、手には楯と槍を持ち、その楯の側には蛇がいることなどが記さ 用いられていることなどが記されている。菅ノートにはアテネの誕生 ンブス世界博覧会に出品された。竹内は日本の伝統的木彫を世界に見 ︶ し記されているが、香田ノートではパルテノン神殿の破風についても せるために、特に諸芸の祈願を納めるという伎芸天女を題材にしたと ︵伎︶藝天ノ出シト云フノト同一ナリ破風ハ破裂弾ヲ蒙リ尤モ大 カ生レ来リテ今出ント云フ所ヲ示シタリ恰モ大自在天ノ頭ヨリ枝 タ リ 而 レ ト モ 此 ノ 如 キ 所 ハ 彫 刻 ニ 顕︵ 表 ︶ シ 難 キ ヲ 以 テ 只 ニ 神 アリ此神ハ智ノカミニシテ﹁チュース﹂ ︵ゼウス︶ノ頭裂ケテ出 ﹁⋮此破風尤モ要用ニシテ正面ニハ﹁パラスアセニー﹂ノ生ル所 味深く、智と武の西洋、芸術の日本のメタフォーともとらえられない テナ﹂と日本の芸術の神﹁技芸天﹂の対比としてとらえている点は興 る。香田ノートの序文には﹁欧州ニ於テ art ト云フハ技藝ヲ云フ﹂と いう一文があったことは拙論︵その一︶で述べた。西洋の智の神﹁ア ここにも身近な例を引き合いに出した天心の教育的な配慮が感じられ の誕生の仕方が非常に共通しているという前提があってのことだが、 あるテーマであったことであろう。もちろん、﹁伎芸天﹂と﹁アテナ﹂ 言われている。したがって﹁伎芸天﹂は学生たちにとっても馴染みの ︵ とネプチューンとの戦いについて、また平凡社版にも同様のことが少 3 ニシテ非常ニ破レタリ故ニ首ナキ像ニシテ形ノ尤モ壊レ多ク之レ 79 4 以下のように詳細に記されている。 2 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) だろうか。 続いてはギリシャ彫刻の中の宗教心について次のように述べてい る。 記ニヨレバ此中ノ変リシ物ハ此人ノ作ナリト云フ此当時ハ写生的 ニヤ衣カ風ニ飛ブ[様]ヲ作レリ此外ニ此人ノ作ナリト云フハパ リス︵パリ︶ノ﹁ルーブル﹂博物館ニアル﹁ショーリ﹂ノ像ナリ 大理石ニシテ大ナル物ナリ⋮﹂ スコパスによる作品は未だに明確ではないが、伝記によるとカリア ﹁此レガ希臘彫刻ノ尤モ極点ニシテ此時ノ物ハ凡テ宗教心ヨリ出 シモノニシテ己レノ造レル物ハ技術ヲ顕サンヨリ寧ロ神ト見エル ︶ 国の首都ハリカルナッソス︵現在のトルコ共和国ボドルム︶に建設さ ︵ コトヲ好メリ此ノ如キ気ガ希臘ヲ引キ立テ此ノ如キ物ヲ造レリ れたマウソロス霊廟の彫刻を作ったと述べている。このマウソロス霊 ︶ ︵略︶⋮其次期ハ古へノ如ク宗教心ニ非ズシテ専ラ感情的彫刻ト 廟は一四〇〇年代に聖ヨハネ騎士団によって城壁を作るための材料と ︵ ナレリ︵略︶⋮スコーパスプラクシテルスハ主ナル人ナリ⋮﹂ は﹁気﹂という言葉が使われている︶がギリシャ彫刻を格調高いもの 見えることが制作上重要な目的であって、そのような精神︵ノートで め技術的に優れているということよりも、神として威厳があるように この時代のギリシャ彫刻の精神性について、宗教心が基本にあるた とを指すものなのか分からない。この他にも議論はあるものの、彼の 作者不明とされているショーリ︵勝利︶の女神サモトラケのニケのこ る﹁ショーリの像﹂がスコパスの作であると記されているが、これは 生的であったことが説明されている。他にパリのルーブル美術館にあ スコパスの作風は﹁衣カ風ニ飛ブ様ヲ作レリ﹂とあるように極めて写 して壊され、 彫刻も壁の中に塗り込まれてしまったと伝えられている。 にしているとうまくまとめている。しかし、これに続く時代は宗教心 ︶﹂もあげており、スコパスは極めて感情的な Niobe and her Children 作品を作った彫刻家であると述べている。 このことは平凡社版、菅ノー The group of 作 品 と し て﹁ ニ オ ベ と そ の 死 に 瀕 す る 子 供 た ち の 像︵ ︶ の名をあげて Praxiteles ︵ よりも感情的なものが重要になっていったと述べている。その主な彫 刻家としてスコパス 、プラクシテレス Scopas ト共に記されている。 次に、プラクシテレスについて記されているが、これもほぼ平凡社 ﹁ 殊 ニ 優 美 ナ ル コ ト ヲ 好 メ リ︵ 略 ︶ ⋮ 女 ニ 関 ス ル 彫 刻 物 ハ 此 人 ヨ 版、菅ノートと同じ内容である。プラクシテレスの作風は 破損セルヲ千四百年代ニ此処ヲ破リテ城壁ニ使用セルヨリ遂ニ壁 リ始マレリ之ニヨリ欧州中美ノ標準トスル愛ノ神︵ビイナス︶ノ 80 7 6 中ニ塗リ込メラレタリ此廟ヲ此人ノ作リシニハ伝記アリ大廟ノ伝 リカルマツサスノ廟ヲ作レリ此レヨリ後ニハ変遷シテ其彫刻物ハ リ三百五十一年位ニ当レリ此人ノ造レル物ハ未ダ不明ナレトモハ ﹁スコーパスノ死セシ時ハ不明ナレトモ其盛時ハ三百九十五年ヨ いる。 5 五 浦 論 叢 第 16 号 サンドル同時ノ人ニシテ又王ノ好メル人ナリ肖像ハ此人ノ殊意ニ 裸体の美人像は以後これが基準となったと述べている。また、プラク と あ る よ う に プ ラ ク シ テ レ ス に よ っ て ビ ー ナ ス 像 が 初 め て 作 ら れ、 テヘラピリース︵ヘラクレス︶ノ像ナリアレキサンドルノ像ハア 使用シテ作レリト云フ殊ニ大ナルガ流行シテ肉ノ大ナルナドアリ ス︶ハ石膏細工ヲ発セリ石膏細工ハ之迄ハナシ即チ人間ヲ其マゝ 像ヲ作リ⋮﹂ シ テ レ ス の 他 の 作 品 と し て は﹁ 幼 児 デ ィ オ ニ ュ ソ ス を 抱 く ヘ ル メ ス レトモ残存セルハ少ナシ又集合像ヲ多ク作レリ馬上ノ戦ヲ顕ハシ シテ此時肖像ハ尤モ盛ンナリリシストラッタス︵リュシストラト ︶﹂とルーブルの﹁ミロのビー Hermes Carrying the Infant Dionysus キハ其作大ニシテローマ人ガ分取セントシテ持ツ能ハザリシト云 ︵ ナ ス︵ Aphrodite of Milos ︶﹂ を あ げ て い る。﹁ 幼 児 デ ィ オ ニ ュ ソ ス を 抱くヘルメス﹂はオリンピアで発掘され現在アテネ考古博物館にある フ又世界七不思議ナルローコズ︵ローデス︶ノコロデストソ︵コ テ二十五人ノ集合像ヲ作レリ此時ノチュース︵ゼウス︶ノ像ノ如 も の を 指 し て い る と 考 え ら れ る が、 菅 ノ ー ト で は ブ リ テ ィ ッ シ ュ ︶ ロッソス︶像アリ之レハ本彫ニシテ銅ヲ貼リタリ即チ仏国ヨリ米 ︵ からローマが二分する時代、紀元前二九二年から一四六年の時に至っ これに続く内容も平凡社版とほぼ同じで、アレクサンダー大王時代 きた人間の顔を石膏でかたどり、それに蝋を流し込んで原形を制作す し、多くの肖像を作ったことで知られている。リュシストラトスは生 アレクサンダー大王に好まれた彫刻家リュシッポスは肖像を得意と 国ニ贈リタル自由ノ女神モ同様ナリ⋮﹂ ミュージアムのヘルメスとなっている。﹁ミロのビーナス﹂について は、この人の作ともこの人の流派の作とも言われているが、ヘルメス て ギ リ シ ャ 彫 刻 は 衰 え 始 め る。 そ れ は ギ リ シ ャ が ア レ ク サ ン ダ ー 大 る手法を生み出したと伝えられている。これが﹁石膏細工﹂と呼ばれ よりは劣ると述べている。 王 に 併 合 さ れ た た め、 国 の 特 色 を 失 っ た た め だ と し て い る。 こ の 時 るものである。筋肉隆々とした大型の像が流行してヘラクレス像が作 ︵ ︶ Colossal monument representing the king ︶ 造れり、後に此を羅馬に移せしに破壊したり ﹂となっている。ローマ ︵ ﹂と考えられる 。この部分は菅ノートで in the battle on the Granicus は﹁アレキサンドルを取り巻く二十四︵ママ︶人の騎馬武者の群像を ニ コ ス の 戦 い の 戦 没 者 像︵ 作 レ リ ﹂ と あ る の は、 リ ュ シ ス ト ラ ト ス の 作 と し て 知られる﹁グラ 現存︶を指すものと考えられる。﹁馬上ノ戦ヲ顕ハシテ集合像ヲ多ク ら れ た と あ る が、 こ れ は リ ュ シ ッ ポ ス 作 の ヘ ラ ク レ ス 像︵ コ ピ ー が 代の彫刻はまだ残っており、有名なものとしてローマのカピトリーヌ 美術館所蔵﹁瀕死のゴール人︵ Dying Gaul ︶﹂をあげている。この時 代の他の彫刻家としてはリュシッポス Lysippos とリュシストラトス について述べている。リュシッポスについては菅ノートに Lysistratos も類似した内容の記述がある。香田ノートでは以下のように記されて いる。 ﹁⋮又有名ナルハリシップス︵リュシッポス︶ナリ之レハアレキ 9 10 81 8 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) Colossal Zeus at に運ぶことができなかった巨大な﹁ゼウスの巨像﹂についてはリュシッ ︶ ポ ス 作 と 考 え ら れ て い る﹁ タ ラ ス の ゼ ウ ス 巨 像︵ ︵ 丁度スコーパス時代ニ至リテ写生物ガ盛ントナレリ即チ此時ハ実 物ヲ基トナシテ画ケリ此人ガ葡萄ヲ画ケバ鳥ガ来リテツイバムナ ローデス島の巨像﹁コロッソス﹂についても記されているが、これは これを天心は﹁変体﹂と述べているが、ギリシャの絵画様式における ここにあるように、ギリシャで陰影による絵画表現が発達したのは リト⋮﹂ 現在ではリュシッポスの弟子カレス Chares の作とされている。この 点については菅ノートはより正確でロードス島にはリュシッポスの流 ﹁変化﹂である。陰影法を最初に用いたとされるアガルサルパスは事 ︶﹂ を 指 す も の な の か あ る い は 他 の ゼ ウ ス 像 な の か 香 田 Tarentum ノートの記録だけでは分からない。さらに世界七不思議の一つである 派のものが残っているとなっている。彫刻についてはここで終わって 実から、また綴りから判断してもアガタルコス 4 はアポロドロス Apollodros のことを指している。﹁此人ガ葡萄ヲ画ケ バ﹂とあるのでアレクサンダー大王時代の画家がスコーパスとなって 4 ﹁画ハ書物ニアレトモ不幸ニシテ残物ハ彫刻ノ如ク僅少ナリ之レ いるのは、ゼウクセス 、その弟子 Agatarcos 演劇が盛んになり、その舞台装飾のために必要になったからである。 おり、続いて絵画の解説に入っている。 絵画ハ亡ビ安キ故ナリ絵画ニハ壷貨幣ナドノ上ニ画ケル陶器画ア ︵ ︶ にも同様の内容が記されている。 ︶ た画材については次のような説明がある。 ﹁⋮此頃ノ画ノカキ方ニ何ヲ用ヒシヤハ分明ナラズ油画ハ後世ナ レバ之レハ粘着力ノ物ヲ用ヒテ水彩画ノ種類ナラン古クハ玉子ノ アリタリアレキサンドル頃ニハアペレーアリ此人ハ有名ニシテ或 白味無花実︵ママ︶ノシルヲ白葡萄酒ニ和シテ用ヒタリ又ロー画 ﹁⋮此頃、此人ヨリ式一可年モスギテ変体アリギリシヤハ演藝ヲ ル処ニ家臣ノ像ヲ画キテ果シテ家臣ヲ探ラシメタリト云フ尚巨勢 好ミテ之ヲナス為ニ書キ割ヲナセリ此ヲ画クニ線ノミニテハ遠近 金岡ト同様ノ話アリ此人ハ線ヲ尤モ学ビタリ自カラ曰ク画ヲ為ス 4 ナキ故ニ工風シテアガルサルパスト云フ人ガ陰影ヲ初メタリ此人 貴ビテ実物ト同様ニナルヲ務メタリ之レヨリ下リテ歴山王ノ時分 者ハ一日モ良線ナカル可カラス⋮﹂ 4 の誤りであろう。ゼウクセスの﹁葡萄 Zeuxis リト云フノトポンペーヨリ発掘シタル壁画ノミナリ⋮﹂ ︶ の 図 ﹂ と パ ラ シ ウ ス Parrhasios の﹁ 幕 の 図 ﹂ に よ る 写 生 の 腕 比 べ の 話は菅ノートにも詳細に記されているからである。また、使われてい ︵ ︵ はほとんど残っていないということであるが、これに続く部分ではギ この部分は菅ノートにも同様の内容が記されている。ギリシャ絵画 12 リシャ絵画における変化について述べており、菅ノート及び平凡社版 13 ノ弟子アポロードラスガ此法ヲ用ヒテ人物ヲ画ケリ此ヨリ此法ヲ 14 82 11 五 浦 論 叢 第 16 号 ノートでは単にフレスコ、及び蝋画となっている。アペレーとあるの 使っていたとある。また蝋画もあったと記されている。この部分は菅 古くは玉子の白味とイチジクの汁を白ワインに混ぜて作ったものを この時代、顔料として何を用いていたのかはっきりと分からないが、 シハ亜丁ナリ⋮﹂ ノ及ビシ伊太利小亜細亜ナドヨリ出デタリ而レトモ尤モ盛ンナリ ク見ヘタリ此瓶ハ﹁ギリシャ﹂ノ本土ニ出来タレトモ此国ノ勢力 フ今日ニテハ﹁エトラスカ﹂ノ瓶ト云フコトナシ而シ古書ニハ多 ここではギリシャ陶器の用途を実用と供物用の二つに分けている。 供物用は日本でいうところの祝瓶、つまり須恵器や中国の宋朝に見ら はアペレース Apelles のことで、線の表現に優れた画家として知られ ている。香田ノートでも菅ノート同様、アペレースとプロトジェネス の線の表現の腕比べについて記されているが、菅ノートでは﹁此の如 ︶ れる黒釉と同じようなものと述べている。これはギリシャ初期の単純 ︵ き物語の何処の国もあることの不思議さよ﹂となっているものが、香 田ノートでは日本の例を引き合いに出して、﹁巨勢金岡ト同様ノ話ア のに与える賞としての壷もあった。これらの壷はエトラスカ︵現在の な素焼の陶器を指している。また、スポーツの大会などで優勝したも リ﹂と具体的に示している。これは巨勢金岡が熊野権現化身の童子と ︶ イタリア︶から発掘されるが、主にギリシャ本土で作られたと述べて ︵ 絵の描き比べをして敗れ、絵筆を投げ捨てた話しを指している。これ いる。エトラスカについては平凡社版にも記載されているが、その内 に続く部分は菅ノートと大体同じで、ギリシャの絵画はアペレースと 容はエトラスカ人のことが少し述べられている程度で、美術について は全く触れられていない。それに対して香田ノートでは、ギリシャ陶 器との関連において述べられている。ギリシャ陶器の種類については テ此時ニ勝者ニ之ヲ与ヘシ物ナリ其中ニハ頗ル精巧ナルモノアリ ナ ラ ザ ル モ ノ ア リ 之 レ 又﹁ ギ リ シ ャ﹂ ニ ハ 文 ト 武 ノ 技 藝 会 ア リ 宋廟[朝]ノ器物ト同ジキモノアリ或ル壷ハ壷ノ形ナレトモ中空 実用ニ使用セシモアリ又ハ神ニ供フルモノニシテ祝瓶又ハ支那ノ ﹁器物ト云ヘドモ殊ニ焼物ニシテ素焼ノ壷瓶ノ類アリ之等ノ物ハ デタリ凡テ記念ニ作レシ瓶ナドハ此形ナリ此レハ尤モ空穴ナリ凡 テ 主 ニ □ □ 形 ハ 尤 モ 之 如 シ ア ム ホ ラ︵ ア ン フ ォ ラ ︶ amphora 形 ハ西洋ニテ尤モ重キヲ置ク形状ニシテ円キ形体ハ凡テ此レヨリ出 赤キ下ノ地ヲ出シタルモアリテ今戸焼ニ似タリ形ハ中々精工ニシ ﹁⋮此レハ幾通リモアリテ赤地ニ黒模様アルナリ又黒地ニ焼キテ 次のように述べられている。 ︵略︶ ⋮﹁ギリシャ﹂ノ美術史ノ開クルニ及ビテ伊太利ノ北部[ママ] テ装飾用ニ使用セシヲ知ルレキサス︵レキュトス︶ Lekythos 形ト 云フハ多ク香油ナドヲ入レシ物ニシテ此国ノ人民ハ裸体ナリシ故 の部分は、平凡社版及び菅ノートには全くない内容となっている。 この後は内容が変わり、ギリシャ陶器について解説されている。こ プロトジェネスの後、大家は輩出していないというものである。 16 ﹁エトラスカ﹂ヨリ瓶出タリ之ヲ﹁エトラスカ﹂ノ︵カナ︶ト云 83 15 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) トモ雅致アリ﹂という表現から今戸焼のように素朴で古土佐派のよう は今戸焼に似ているとも述べている。今戸焼は東京都台東区浅草今戸 来について述べている。また、日本の陶器と比較して、ギリシャ陶器 態についてはアンフォラが重要であること、香油瓶のレキュトスの由 ここでは、ギリシャ陶器は赤絵式と黒絵式の二種類があること、形 対比とともに天心がギリシャ陶器を好意的な視点から見ていることも 絵を彷彿とさせるものである。特に﹁雅致﹂という表現からは東西の どを取り扱ったものが多いが、それらはまるで古土佐派の絵巻や屏風 う。壷絵にはギリシャ兵士の闘いの場面、神話、日常生活の一コマな 土佐派はその表現法のみならず主題においても共通点があると言えよ ニ砂ヲ捕フ為ニ身体ニ塗抹セシ香油ナリ﹂ で産出する土器で、天正頃︵一五四〇年頃︶に下総千葉家の一族の配 読み取れる。 な雅やかさを備えたものととらえている。また、ギリシャの壷絵と古 下の者が武蔵の浅草辺で土器や瓦を造りだしたことに始まると伝えら れている。確かにその素朴な手作りの風合いはギリシャ陶器と共通す 続いては、ポンペイのことが記されているが、これは平凡社版では 土佐画ノ如シ此ノ形ノ物石硬︵膏︶ニテ学校ノ文庫ニアリ大畧画 ヲ用ヒタリ金ハ凡テ箔ヲ置キタリ極ク簡単ナレトモ雅致アリテ古 後ニハ金ヲ使ヒ彩色ニテ朱ノ所ハ尤モ強キ朱青キ所ハ尤モ強キ青 ﹁⋮大畧赤地ニ黒キ画ノアルハ古ク黒地ニ赤キ画ハ後世ナリ稍ヤ る。以下のように水の引き方にも触れながらギリシャの項全体をまと ローマ時代のことであるがここで話しておくと前置きをして述べてい 社版と同様の内容が記されている。香田ノートでは、ポンペイの話は わかるようになったこと、噴火で化石となったローマ兵の話など平凡 ど前から、本格的にポンペイが発掘調査され当時のギリシャの生活が るものがある。 ハ貴夫人ノ死ノ側ニ侍女ガ化粧道具ヲ出シテ慰メツツアル物トカ めてこの項を終了している。 ローマの項で述べられている。この泰西美術史講義の行われた百年ほ 羽アル人ガ死人ヲ誘ヒテ埋ムル所ノ如キ目出度カラザルモノナリ た赤絵式と呼ばれるものが後に作られた。日本との比較においてはギ で描かれた黒絵式が最初に作られ、地が黒で模様などが赤色で描かれ ギリシャ陶器の歴史的発展については、地が赤で人物などの姿が黒 夫ナリ画ク事柄ハ大畧︵ナド∼ナル︶ノコトニシテ失ズ 残存物 クト云フ油画ナラズシックイノ固マルニ従ヒテ水ニテ沈フモ大丈 ト云フ之レハ新シク画クト云フ意ニシテシックイヲ塗リナガラ画 残レルナリ画ハツマラナキ物ナレトモ壁ニアリ之レヲフレスコー ⋮﹂ リシャの壷絵が金地に色鮮やかな彩色を施した作風で知られる古土佐 ハ此ノ如シギリシャノ画ハ彫刻程立派ナラザルハ遺憾ナリ﹂ ﹁⋮水ノ引キ方等モ又精工ナリ之レヲ保存セルガ故ニ画ガ今日ニ 派のようであると述べている。 ﹁金ハ凡テ箔ヲ置キタリ極ク簡単ナレ 84 五 浦 論 叢 第 16 号 このようにギリシャの絵画は彫刻ほど優れていないとして結論付け ている。これは菅ノートにも﹁希臘は何処までも彫刻が本位を占め、 ︵ ︶ 絵画は其れに次ぐものなれとも⋮ ﹂の内容と一致している。 く部分はほとんど平凡社版と同じ内容であるが、ローマ人が芸術的で はないという内容が強調されている。 ﹁性質上ニ於テハ卑シ何トナレバ羅馬人ハ元来理想ニ乏シク長ス 4 4 ル□□□軍事ニアリ因テ哲学家文学家ナシ皆希臘ノ焼直シニシテ ており、香田ノートでは以下のようにローマ美術全体の特徴について ローマの項は平凡社版と重なる部分が多いが冒頭の部分は少し違っ レリ︵略︶⋮益々壮大ナラサレバ意ニ含マサルニ至ル東洋ノ美ニ 自トノ権力富貴ヲ第一ニ現ハセルナリ故ニ非常ニ大ナルモノヲ造 大ナルニアリ︵ローマ︶人ハ物ヲ作ルニ面白キ観念ヲ以テセズ只 国民ニ大変化ナシ⋮羅馬美術トシテ今日異ナッテ見ユルハ規模ノ 述べている。また、ギリシャ美術の内容と比べると量的にも少なく、 於ケル如ク趣ノ深ク細キモノナシ故ニ建築術ハ其尤モ見ルヘキモ 二 六 ― 羅馬 内容的にも天心がローマ美術をそれほど好意的にとらえていなかった テ大関係ハナシ其第一期ニハ頗ルエトラスカ風アリト云フヲ以テ ハレタリ併シエトラスカハ美術ハ只羅馬初期ニ影響セルノミニシ ルモノナリ歴史的ニ云ハ︵バ︶エトラスカノ文明美術ハ其間ニ顕 ﹁希臘ノ次ニ起リシハ羅馬ノ文明ナリ即チ希臘ノ意ヲ継キテナレ 化﹂についての記述はエジプト、インドの項にもあった言葉で、美術 モノナシ﹂とかなり手厳しくまとめている。ここで使われている﹁変 念ヲ以テセズ﹂と述べ、最後に﹁東洋ノ美ニ於ケル如ク趣ノ深ク細キ 想ニ乏シク﹂、﹁皆希臘ノ焼直シニシテ国民ニ大変化ナシ﹂、﹁面白キ観 この部分にもローマ人の特徴として、﹁性質上ニ於テハ卑シ﹂、 ﹁理 ノナリ﹂ □レリトセン即太古ヨリヤソ紀元前二百八十年頃迄ヲ見ルニロー 史において﹁変化﹂を重要なものとして捉えていることがよくわかる。 ことがよくわかる。 マノ美術ハ殆ンドエトラスカナリ羅馬人ハ初メヨリ武ヲ以テ立チ ローマの美術は﹁変化﹂がない代わりに、﹁非常ニ大ナルモノヲ造レリ﹂ とあり、これはエジプトにおいても変化がなく非常に大きなピラミッ 凡テ工藝ニ長セズ専ラ伊北ノエトラスカ人ヲ使役セリ故ニ第一期 ハ羅馬人ノモノナシ⋮﹂ この後はローマの建築についてで、内容は平凡社版に書かれてある ドが作られたという内容と共通の法則に基づいた分析となっている。 る。﹁羅馬人ハ初メヨリ武ヲ以テ立チ凡テ工藝ニ長セズ﹂とあるよう ギリシャ建築の内容を踏まえたものとなっている。菅ノートにもロー この部分には天心のローマ人に対する考えがはっきりと表れてい に、ローマ人は芸術にすぐれた人種ではないと述べている。以下に続 85 17 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) ︶ オニック、コリンシャンの各様式がローマの建築にどのように表れて が挙げられている。これに対して、香田ノートではドーリック、アイ マの建築についてはかなり詳細に記されており、各時代ごとの様式例 ンシャンコンポジットもあったという内容になって少し異なってい 式が主に採用され、アイオニック・コリンシャン混合様式であるコリ 社版では変遷ではなく傾向として、ローマにおいてはコリンシャン様 アイオニック・コリンシャン全ての混合建築もあるとしている 。平凡 ︵ いるかその変遷を簡単に説明したものとなっている。 築ノドリック、アイヲニック、コリンスァンノ三式ヲ合シテ華美 あるが、香田ノートでも同様にローマの彫刻は自慢心から作られてい 続いては、彫刻についてである。これは平凡社版とほぼ同じ内容で る。 ヲ鼓セリ穹窿ヲ知リシヨリ大建築ヲ容易ニス第一期二期ハドリッ るとして批判的に記されている。 ﹁希臘ノ建築ハ未ダ穹窿ヲ造ルヲ知ラズ羅馬之ヲ知ル且ツ希臘建 ク、アイヲニック式ニシテ第三期ノ 純然タル羅馬ニハコリ ンス スパルタノ式ナリ頑固ナリ之アイヲニック式ナリアセンスノトキ ハ肖像彫刻トス是レ自慢心ヨリ自身ノ像ヲ世ニ伝ヘ残サン為作レ ﹁⋮彫刻ニ於テモ深意細密ナルモノハ見ルベカラス尤モ発達セル 要スルニ建築ノ式ハ柱ヨリ出ツ之ドリック式ニシテドリアン人即 主ニ用ヒラル巻梢式ト云フ之コリンスァン式ナリコリンス盟主時 ルニヨル東洋トハ大ニ異ナル処ナリ︵略︶⋮理想的ノモノハ減ニ ﹁理想的ノモノハ減ジ暁星ノミ或地ニテハ必ズ王ト皇后ノ像ヲ造ル 代コリンス地狡ヨリ起レル式ナリ第一期ハドリック主ニ用ヒラレ 菅ノートでは構造的に似ている﹁アーチ﹂について記されているの 処アリ﹂という部分の﹁暁星ノミ﹂という﹁ノミ﹂の表現からは否定 暁星ノミ或地ニテハ必ズ王ト皇后ノ像ヲ造ル処アリ︵略︶⋮理想 に対して、香田ノートでは﹁穹窿﹂という言葉が使われており﹁ドー 的な意味で用いられていることがわかる。したがって﹁暁星ノミ或ル 第二期ハドリックアイヲニック共ニ用ヒラル中ドリックハ尤モ品 ム﹂の建築について書かれている。このドームがギリシャ時代にはな 地﹂の意味を夜が明ける前にわずかに輝く金星のように消えかかって 的神的ノ念モアリシカ高尚ナラズ只傲慢ノ気性ハ希臘人ヲ督促シ かったローマ建築の新しい発明で、これによって大建築が可能になっ いる土地、つまり変化や発展のない土地と解釈するとすれば、そうい ヨク見ユレトモ羅馬人ノ特性トシテ富ヲ現ハスニハコリンスァン た。様式の変遷については、第一期、第二期ドーリック式、ドーリッ う所では王や皇后の像を作る傾向があるという一定の法則として述べ テ作レルモノモ此類ナリ⋮﹂ ク・アイオニック混合様式、第三期はコリンシャン様式という風にま ていると考えられる。したがって、ローマだけではなくエジプトの項 式ヲヨシトシ第三期ニ専ラ用ヒラレタリ⋮﹂ とめられている。菅ノートでもこの順序は同じであるが、 ドーリック・ 86 18 五 浦 論 叢 第 16 号 ︾の分類に対応している。平凡社版では、分類は西暦でも表され Art ている。また、平凡社版では﹁古代キリスト美術﹂の代わりに﹁ビザ でも述べられていたように巨大なピラミッドに多くの王家のミイラ像 を納めたエジプト美術もこの範疇に入るものと言える。平凡社版では ︶ ンチン﹂となっており、森田氏が指摘しているように﹁初期キリスト が、菅ノートでは第一期を﹁古代キリスト美術﹂と分類し、その中に ︵ この部分は﹁又一定の格以上の家にては必ず帝王の肖像を作る等のこ この後は、建築の装飾彫刻には面白いものがあって、それは凱旋門 ﹁ヤソ教美術﹂、﹁ビザンチン﹂を含めるなど中世初期のローマからキ ︶ 教 美 術 ﹂ と﹁ ビ ザ ン チ ン ﹂ の 区 別 が あ い ま い に な っ て い る 。ところ ︵ とありて⋮﹂となっているのみである。 が作られたことであると述べている。これは平凡社版、菅ノート共に リスト教への移行の時期については二つに区分している。それが香田 記されている内容である。そして、締めくくりとして次のように記さ ノートの時点になると﹁ビザンチン﹂という語は建築の様式として﹁耶 ﹁⋮驕奢ヲ極メタル時ナレバ食器品ニハ高価ノモノアリ又甲冑ニ 分に置かれている。 続くロマネスクについても香田ノートでは内容の要点がかなり違う部 メタルニアリ之ガ分離スルモ其統一セル余勢ハ残レリ殊ニ羅馬教 成レルモノナリ而シテ華麗ニ規模大ナリ︵是ヨリ中世ニ移ル︶﹂ 以上のようにローマの項はギリシャの項に比べると量的にかなり短 ガ精神上ニ統括セリ耶蘇教入リテ羅馬倒ルルモ其余勢ハ一時ニ絶 ﹁羅馬ガ世界歴史ニ於ケル功ハ全世界ヲ統一シテ一般ノ開時ヲ廣 く、ローマ美術は全てギリシャの焼直しで理想に乏しいと考えていた エルモノナラズ今日ニ至リテ終ニ各相合セリ ︶ ことが分かる。平凡社版でも﹁一朝富を得れば、先づ其の肖像を作ら ︵ History of 第二期 ローマネスクト云フシヤアルマン︵シャルルマーニュ︶ 刺激シ来レル時迄ヲ云フ 第一期 西洋学者ハ之ヲ古代ク[キ]リスト美術ト称ス即チ羅馬 ガアラビヤノ侵入ニテ瓦解セルヨリアラビア風ガ欧州ヲ ラス之ヲ述ルニハ三期ニ分ツヘシ クヲ値ス中世末ノ運動ハ只歴史人物ニ面白キノミニテ美術ニハ然 其間ニ於ケル美術ノ有様モ□ニ錯雑シテ別ニ中世ノ美術トシテ説 飾リヲ付ケ又腕輪指輪ナドニモ施セリ要スルニ希臘美術ヲ借リテ 蘇初期ノ美術﹂の最後の部分で用語の説明として出てくるのみである。 れてローマの項は終わっている。 21 しむ。自己を愛し傲慢なる人種こそ此の考へは起るものか﹂と同様の という三つの時代に分けられている。これはリュプケの ︽ スト美術﹂あるいは﹁耶蘇初期ノ美術﹂、﹁ロマネスク﹂、﹁ゴシック﹂ この部分は、時代区分については平凡社版と大体同じで﹁古代キリ 二 七 ― 中世史 対する考えは変わっていない。 見方が示され、香田ノートの筆記された時点でも天心のローマ美術に 20 87 19 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) ガムール︵ムーア︶人ヲ西班牙ニ追ヒ西方ニテ一国ヲナ クヲトルヘシト説クニ至レリ﹂ ムヲ□ナセトモ近︵ゴ︶ロノ学者ラスキンゲーテノ如キハゴシッ この部分からは天心が中世よりむしろルネッサンスを重要ととら シ所謂独逸的彩羅馬ヲナセル時ナリ 第三期 ゴシックト云フ之伊太利北方ノ人民一時自由的ノ念ヲ起 シタルトキ即チ十二世紀末ヨリ十三十四世紀ヲ中心トセ これは森田氏が指摘しているように平凡社版が量的にも内容的にも え、ラファエルやミケランジェロを高く評価していることがわかる。 十四世紀末ヨリ十五十六世紀ニ至リテ東︵ローマ︶帝国 ﹁特にイタリアルネッサンスに重点が置かれ﹂ているのと一致してい ル処ナリ中世ノ極点ニ達シタル時代ナリ 破レ希臘ノ学者伊太利ニ□茲ニ文学ヲ訳シ又亜米利加発 る。しかし、﹁近︵ゴ︶ロノ学者ラスキンゲーテノ如キハゴシックヲ 錯雑しているので改めて別に解説が必要であると考えている。﹁中世 有様モ□ニ錯雑シテ別ニ中世ノ美術トシテ説クヲ値ス﹂とあるように、 あるという解釈をしている。ただし、中世の扱いについては﹁美術ノ ヲ忌ム故ニ彫刻絵画発達セズ只十字形魚羊ナドヲ描ケルノミ然レ ⋮ヤソノ初メハ偶像ヲ排斥スルヲ以テ主眼ノ一トセルニヨリ造像 リ九百年頃迄ノ時代ヲ云フ要スルニ耶蘇初期ノ美術ト云フ︵略︶ ﹁⋮第一期ハ羅馬帝国ガ東西ニ分レタル即ヤソ紀元前三百年頃ヨ 考えられる。 ド・クラフツ﹂運動が当時広がりつつあったことを知っていたものと から広がった﹁ゴシックリバイバル﹂や十九世紀末の﹁アーツ・アン ︶ 見活版術発明ナドアリ世ハ大変動ヲ来シ以テ今日ニ至レ トルヘシト説クニ至レリ﹂という部分から、十八世紀後半のイギリス ︵ リ﹂ ローマ美術を高く評価していない天心も世界歴史においてはローマ が全世界を統一した功績を認めている。ローマが崩壊した後も世界統 末ノ運動ハ只歴史人物ニ面白キノミニテ美術ニハ然ラス﹂という点や トモ宗教ハ一ノ美術ヲ有セサルヘカラズ近時独逸哲人曰ク宗教ヨ 一の余勢が続いたのは、精神面においてキリスト教が広がったためで ﹁亜米利加発見活版術発明ナドアリ﹂という部分からも、コロンブス リ美術ノ分子ヲ除ケハ殆ント空ナリト故ニ漸々ニ神体ヲ作ルニ至 是始メヤソ紀元四五百年頃ハ大ニ議論アリテアイコノクラッテ ス︵イコノクラスム︶破像論盛ンニ起リ一時ハ寺堂ノ神像ヲ焚ケ のアメリカ大陸発見や活版印刷術の発明者グーテンベルグなど歴史的 ﹁因ニ云フ伊太利ニ逃レタル学者ガ文学ヲ復興セサリシナラバゴ リ其主旨ハヤソハ神聖ナルモノニシテ如此モノニ表ハシ得ルモノ レリ シック高尚ナルハ発達セシナルベシ今日ノ欧州眼ヲ以テ評セバ ナラストニアリ﹂ 人物の活躍があるものの、 ﹁美術ニハ然ラス﹂としている。 十六世紀ノラファエルアンジェロニヨリテ将来ノ美術ヲ発達セシ 88 22 五 浦 論 叢 第 16 号 ︵ ︶ イク︵象眼︶ノ発達ナリ石或ハ硝子ノ断片ヲ継ギ合シテ壁ニ塗リ するに当たってこの点はさらに研究の必要がある 。 ﹁魚﹂はギリシャでイクトゥース︵ i ︶と書き、最初の2文字 はイエスキリストを表すことからキリストの象徴として、﹁羊﹂は神 込ミ異色ヲ表ハス術ナリ之レ始メテ発明スルモノニハアラズ已ニ 耶蘇初期ノ美術に表れている﹁十字形﹂はキリストを磔た十字架、 である羊飼いに率いられるキリスト教信者の象徴として知られてい 羅馬ニ於テ床ニ用ヒラレシコトアリ是ヲ耶蘇カ會堂寺院ノ壁ニ応 ﹁当時画彫刻ニ表スモノハ柮ナリ只初期美術ノ稍見ルヘキハモザ る。これらの十字架、魚、羊については菅ノートにも記されているが、 ︶ 用セルナリ百合花或ハゴッドノ像ナドヲ作ル未ダニ出来ル然レト ︵ 偶像排斥と関連付けて述べられてはおらず、ただ﹁実に粗悪にして﹂ モ小片ヲ以テスルモノナレハ精工ノ仕事ナラズ只大堂牢ノ高ク暗 と述べられている。平凡社版でも古代キリスト教美術については﹁至 ︶ キ所ニ用ヒ当時ノ宗教家ヨリ見レバ神聖ナリ画ノ上ヨリ見レバ誠 ︵ 天心は初期キリスト教美術を﹁柮ナリ﹂としている。この時代には ニ柮シ﹂ て幼稚を免れざる所なり﹂とあるのみでむしろ内容的には双方とも ローマによる初期キリスト教の迫害について述べられている。しかし、 について記されている。西暦七三〇年、東ローマ皇帝となったレオン モザイクが発達したがこれも﹁精工ノ仕事ナラズ﹂と述べており、モ 香田ノートにおいては初めてこの﹁イコノクラスム︵聖像破壊運動︶﹂ 三世によって﹁聖像禁止令﹂が出され偶像を拝むことが禁止されるが、 ︶ ザイクを繊細な芸術とはとらえていない。菅ノートにおいても﹁模細 ︵ これはギリシャの神が偶像化されていたそれまでのギリシャ・ローマ ︶ 凡社版でも ﹁絵画は麁末なるモザイクにして見るべきものなく﹂となっ ︵ また﹁近時独逸哲人曰ク宗教ヨリ美術ノ分子ヲ除ケハ殆ント空ナリ ている。文字の読めない人への﹁絵解き﹂として作られたモザイクは 工即石象眼にて造りありて、随分見苦しき方もあらんが﹂とあり、平 ト﹂という部分はまさしくヘーゲル学派の弁証法を思わせる一文であ 確 か に 単 純 で 素 朴 な 芸 術 で あ り 天 心 の 繊 細、 雅 を 好 む 趣 味 に 合 わ な ことはすでに指摘されており、フェノロサが東京大学でヘーゲルの哲 はめることができないだろうか。天心にヘーゲル的思想の影響がある ま﹁生み出したもの︵宗教︶﹂と﹁生み出されたもの︵美術︶﹂にあて 築盛[ン]ナリシガ当時ハ只之ノミ之モ幼稚ナルモノナラ何トナ ノナシ只伝道ニ必要ナル會堂ノ建築ナドハ発達セリ中世ハ大体建 羅馬希臘ノ神ヲヤキ直セル耶蘇ノ像トス当時ハ画彫刻見ルヘキモ ﹁彫刻ハ当時ノ主義ニ反対スルヲ以テ発達セズ其見ルヘキハ反テ る。 ﹁独逸哲人﹂とあるのみで推測の域を出ないが、﹁生み出したもの﹂ かったことは理解できる。 学を天心に教えたことはよく知られている。天心の思想の基盤を理解 て互いに結びついている︵相互媒介︶とするヘーゲルの考えはそのま と﹁生み出されたもの﹂は互いに対立しあうが、同時にその対立によっ 27 の伝統と反発することもあってしだいに下火になっていく。 26 89 25 23 24 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) レバ蛮人ノ為︵ローマ︶荒サレタル後ナレハナリ﹂ ︶ ﹁羅馬希臘ノ神ヲヤキ直セル耶蘇ノ像トス﹂の部分は菅ノートにも ︵ 同じことが記されている。具体的な作品を示していないが、現在ロー ている。内容は少し違うものとなっている。 ラレタル人種ヲ生セリ其等ノモノガ初メハ古堂ヲ用イテ 第二期 ロマネスクト称ス其時ハ伊太利スペインナドノ南欧ニ移 住セル蛮民漸々古ノ羅馬ヲ継キ時ノ移ルニ従ヒ羅馬化セ マにある、キリスト教の説話を彫刻したこの時代の石棺などには顔の 造レルガ自ラ営ムノ念生スル之発達ノ第一原因ナリ⋮此 表情や肉体の表現においてギリシャ的な様相を持ったものが多数あ 時アラビヤ人ノ攻撃アリ﹁マホメット﹂ヲ唱ヘテスパル 結果欧州ニアラビア的ノ考ヲ注入ス只シ羅馬其物ヲ応用 る。 ﹁耶蘇教ノ興ルニ従ツテ古ヘノ神ハ祭ラレズ古寺牢ハ空シ乃チ之 シテ趣ヲナスノミナラズ新ラシキアラビヤ風入レリ之ヲ タシゝリヲ取リ欧州ニ入ル之ニ対抗シテ十字軍ヲ起ス其 ヲトリ去テヤソ寺ヲ立ツルガ故不思議ノモノアリ例ヘハ柱ノ一本 第二原因トス︵略︶⋮ ここではロマネスク時代誕生の原因を三つあげている。ローマに スク時代ト云フ﹂ 第三期 ⋮宗教上ニテモ建前ハ只人心支配ノ為ノ公會堂モ大ニ手 厚ク作ル之ヲ第三原因トス以上ノ三原因ノ結果ヲロマネ ハコリンシアン他ハアイオニックナル如シ︵略︶⋮﹁バシリカ﹂ ノ會堂始メテ︵ママ︶作ラル十字形ニセルハ稍後ナリ正面ニモザ イクヲ施ス東西両帝国ハ同ジヤソ的ナレトモ趣ヲ異ニセリ西ニテ ハ北方人ノ考ニ制セラレテ荒シ東ハビザンチンニヨレルヲ以テ希 臘波斯寺ノ古風ヲ雑シテ華美ナリ之ヲ﹁ビザンチーン﹂建築ト称 ス⋮﹂ に至ったが、彼らはキリスト教の聖堂を造るに当たって古堂を用いな 侵入してきた北方の蛮族がローマ風に変化してラテン民族が誕生する キリスト教の伝道のための建築に関しては、既にあった寺院を利用 ︶ がらも独自のもの︵ノートでは﹁自ラ営ムノ念﹂と表現されている︶ ︵ して最初はバシリカを用いていた。それが次第にギリシャ風建築に古 る。この聖堂は中央に高いドームがある典型的なビザンチン建築であ 表的な例としてイスタンブールにあるセントソフィア聖堂をあげてい 代キリスト教的要素を加えたものになっていった。平凡社版では、代 めに造られた公会堂の建築を手厚く造ったことにあるとしている。こ 二の原因であるとしている。第三の原因は、建前として人心支配のた 征によって、ヨーロッパにアラビヤ的思考、文化が伝わったことが第 を目指した。これが第一の原因であるとしている。そして十字軍の遠 る。菅ノートでは、この後すぐアラビヤ美術の内容が続くが、香田ノー の部分はあまり明確ではないが、この時代におけるキリスト教の重要 90 28 トでは平凡社版と同様、次のように第二期のロマネスクの解説となっ 29 五 浦 論 叢 第 16 号 性を指しているのか、 ﹁手厚ク作ル﹂というところに信仰の深まりを 見たのか、それ以上の説明がされていない。しかしキリスト教の精神 をロマネスク誕生の原動力の一つとしてとらえていることは間違いな い。これらの原因は菅ノートではむしろロマネスクの三つの﹁性質﹂ として述べられている。それによると、一つはドイツ風の中にイタリ ア風が入って行き、宗教を土台にして精神的にも統一が生まれ始めた としている。これは香田ノートにある第一原因とほぼ同じ事柄を述べ ている。第二の性質として宗教による統一をあげているが、修道院の 僧の役割の重要性についても述べている。これは第一の性質と関連し ている。第三の性質は武士道にあるという。これは香田ノートでは次 に見るゴシックの特徴とされており、内容が前後している。平凡社版 リ是迄希臘羅馬ノ柱ノ式ハ定マレルガ前期末ニ混合シ其結果羅馬 建築術ナドニ力ヲ用ヒシカ只柱ハ一種ノロマネスクニ直スニ至レ メタリ然トモ尚幼稚ナリ 悪シキトノ念ハ□ラキタル為仏教ニ於ケル羅漢的ノ像ヲ彫刻シ始 ﹁彫刻絵画ハ未ダ多ク発達セズ只前時代ニ比スレバ神像ヲ造リテ 部に過ぎないと解説されている。菅ノートでは﹁而して彫刻は建築に い。この部分は平凡社版、菅ノートともに彫刻の発達はなく建築の一 を支えるという意味から聖人等の人物像が彫刻されていることが多 ている。特にロマネスクの教会建築によく見られる柱頭彫刻には教会 の教会にはキリスト、マリア像以外にもさまざまな聖人の像が祭られ うになったとある。これは聖人の像のことを指している。ヨーロッパ 91 では原因という言葉は使われていないが、内容の流れは香田ノートと ネスク時代ノ面白キ観念ヲ生スルニ至ル就テ建築ノコトヲ述ベシ 従ふものとして常に建築の為めに頭を圧せられしを以て、其時彫刻と ほぼ一致している。 穹窿形ハロマネスク時代ヨリ変セリ以前ハ一図ノ如クナリシガ此 して造りしものは只々僧の用ゆる器のみなり ﹂と記されている。この ︶ 時ヨリ第二図ヲ用ユ之ハアラビアヨリ来レルナリアラビヤハ古ク 時代の彫刻は建築の一部である柱頭に表れているに過ぎないとなって ︵ ヨリ馬蹄形ヲ用ユ三図ノ如シ此ノ上ヲスコシ変セルナリ次ノゴ いるものが、香田ノートの表現では全くないという否定的な書き方に キリスト教においても、仏教における羅漢のような像が作られるよ 図 1 ∼ 4 「ドームの形状の変化」 シック時代ニ至リ四図ノ如クナル之著シキ変化ナリ﹂ 30 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) に見られるように基本形のアーチ形︵ローマンアーチ︶をしていたも 建築については、ドームの形状の変化について述べている。第一図 ローマ的なものと違っていると述べている。 はなっていない。むしろ、そのような柱こそがそれまでのギリシャ・ が﹁近ロ中世画家ノ生活ニ付テ伊太利古寺ヨリ面白キモノ発見セリ﹂ の調合に関する秘伝も授けられたということだが、それを示した資料 ︵ 1240-1302 ︶ の 名 が あ げ ら れ て い る。 香 田 ノ ー ト で は 手 工 Cimabue 業ギルドについても述べられている。ギルドに入ることによって絵具 家 は ニ コ ラ・ ピ サ ノ ︶、 画 家 は チ マ ブ ー エ 1220-1278 のが、第二図のように先端の部分がとがった擬宝珠︵尖頭アーチ︶形 とあり、 そのような資料をどうやって天心が知っていたのか興味深い。 ︵ Nicola Pisano になり、アラビヤの影響が見られるようになっていく。第三図は馬蹄 中世史は以上の内容で終わっている。 以下のゴシック時代の部分は量的に非常に短い。菅ノートはほぼ同 二 八 ― ゴシック時代 形︵馬蹄アーチ︶をしており、スペインにあるイスラム建築によく見 られる形である。第四図は縦に細長い尖頭アーチでゴシック建築特有 の形である。パリにあるノートルダム寺院などがこの形の代表的なも のである。 制度アルニ係ラス寛ナリ又美術品売買ニ制限アリ各国各自ノモノ 得タルモノハ欧州ノ何処ニ行クモ食ニ苦ムコトナシ故ニ中世封建 テ年明ヲ終ズシテ他都府ニ往来スルヲ許サズ年終リテ其証明書ヲ 合アリ皆年期ヲ入ル組合会員ハ一家ヲ持ツモノナリ組合規則アリ 名不明ナリ又美術家ノ尊トフレタルナリ職工視セレラ︵ママ︶組 コト盛ニナレリ耶蘇ノ母マリアヲ祭レリ野蛮ノゴシックナレバ剛 チュートン人︵北方及中央︶ガ女尊ノ風ト結合シ婦徳ヲ尊称スル 著シノ云ハサルヲ得ス同教中ニモ優美ナル考ヲ有セルナリ殊ニ 術ヲ起シ中世的ノ精神ヲ表ハシタルモノナリ之即ヤソ教ノ影響 ヘリ希臘ノ古キ文明ヲ忘レタル羅馬人カ自己ノ考ヨリ発明セル美 ﹁此時代ハ伊太利ニテハ二百年程ニテ絶エ独逸ハ三百五十年迄伝 じ、平凡社版とはかなり違った内容となっている。 ナラザレバ許サズ 壮ノモノナラサルヘカラサルニカク優美ヲ出セルハ宗教ニ影響セ ﹁要スルニ美術上ヨリ当時ヲ云ハバ暗黒時代ナリ彫刻画建築家ノ 近ロ中世画家ノ生活ニ付テ伊太利古寺ヨリ面白キモノ発見セリ今 ルモノナリ﹂ モノナリ﹂とまとめている。そして、﹁耶蘇教ノ影響著シノ云ハサル ル羅馬人カ自己ノ考ヨリ発明セル美術ヲ起シ中世ノ精神ヲ表ハシタル 香田ノートでは、ゴシック美術について﹁希臘ノ古キ文明ヲ忘レタ 日ノ如ク絵具ナキ故各秘伝ヲ発明シタリ独逸ハビールヲ混シ仏蘭 西ハブドウ酒ヲ合セリ発見セシ古書ニハ即酒ノ量アリ之レ組合ニ 入ラサレバ伝ヘザル処ナリ次ハゴシック時代ナリ﹂ ﹁ 彫 刻 画 建 築 家 ノ 名 前 不 明 ナ リ ﹂ と あ る が、 菅 ノ ー ト に は 彫 刻 92 五 浦 論 叢 第 16 号 クについての解説は短く﹁之︵十字軍の派遣のこと︶即ちゴシック美 神が入ったことで優美さが出ているとしている。平凡社版では、 ゴシッ ローマ人に由来しているものと考えられるが、そこにキリスト教の精 なものとしているのは、ローマの項で天心が何度も述べているように、 美ヲ出セルハ宗教ニ影響セル﹂という部分について、ゴシックを野蛮 る。 ﹁野蛮ノゴシックナレバ剛壮ノモノナラサルヘカラサルニカク優 ﹁⋮女を愛し、マリヤの如く尊崇するに至りしなり ﹂と述べられてい ではすでにロマネスクのところで述べられていた﹁武士道﹂に加えて シ婦徳ヲ尊称スルコト盛ニナレリ﹂という部分についても、菅ノート えている。この内容は菅ノートとも一致している。﹁女尊ノ風ト結合 ヲ得ス﹂と続いていることからキリスト教の影響を重要なものととら ている。ヨーロッパ各地の教会にはそのようなマリア像をしばしば見 ク彫像の表情の中に優美さを見出している点はその精神をよくとらえ 粗像ナレトモ面貌ニ優美ナルガアリ﹂と述べて、粗末な作りのゴシッ じるものがあるととらえているのは興味深い。特に﹁彫刻ナドハ減ニ 禅と似ているとは言わなくても、その質素さ、優美さ、清さは禅に通 行為によって清められた魂は世の終末アポカリプス︵ Apocalypse ︶が 訪れた際にも天国へ行くことができると信じられた。この考えが全く 行為をすることによって自らを浄化できると考えられた。また、この 架に貼り付けられる直前に鞭打ちの刑にされたことから、それと同じ ラ シ オ ン Self-flagellation と 呼 ば れ、 中 世 ヨ ー ロ ッ パ の 僧 侶 に よ っ て 行われ、現在に至っても一部の宗派で行われている。キリストが十字 ここで示されている自らの肉体を傷つける行為はセルフ・フラジェ ︶ 術の起る基にして、全くローマネスクと亜拉比亜風の相混じたるもの 出すことができるが、この優美さこそが次の近世、ルネサンスに続く いう語は北方蛮人の一種を指すが実際にはそれにとどまらず、地域的 ︵ なり﹂となっており、十字軍によってアラビヤの文化がもたらされた 精神だと考えられる。 ﹁当時僧侶ハ種々ノ説ヲナシ□ナドヲ尊ビ肉体ヲ苦シメタリ王ト には西はスペイン、東はオーストリアに至るものであるとし、以下の ことに重きが置かれている。 雖トモズックノ衣ヲ着ケ跌只ニテ寺ヲ回リ或時ハ市中ニテ肩ヲヌ ように述べている。 続いては、﹁ゴシック﹂の語について不適であると述べて、ゴスと ギ鞭ウタシメテ喜ヒ粗食ヲナセリ此考ハ禅宗的トハ異ナレトモハ デナラス優美ニシテ清キ点ヲネラヘハ禅宗ト同シ点ヲ見出シ得サ ﹁ゴシック式ノ源ハ専ラ仏蘭西北部ノチュートン人ニ起レリ之レ ライン河ヨリ独逸ニ伝ワリ延テ伊太利ニ影響セルモノニシテ近世 ルコトナシ故ニ当時ノ彫刻ナドハ減ニ粗造ナレトモ面貌ニ優美ナ ル処アリ ニ密接スロマネスクハ剛壮ナリシカ之ニ一種ノ優美ノ趣加ハリゴ シックトナリシ﹂ ゴシックハ中世終リナレトモ近世ノ趣ヲ胚胎セリ之ヲ近世ト分チ 難シ︵略︶⋮﹂ 93 31 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) ゲルマンとローマの文化はやがて融合しキリスト教がゲルマン民族に 頃にはその勢力はライン川下流地方に達し、 それがイタリアにも伸び、 いる。チュートン人はこの西ゲルマン人に含まれる。紀元前五〇〇年 住していたケルト人を征服、吸収しながら広がっていったと言われて 西ゲルマン人は紀元前一〇〇〇年頃、中央及び西部ヨーロッパに先 は十分に分かった。おそらく、それがこの授業の重要な目的の一つで に多く存在することをこの授業において熱心に学生に示していたこと と述べているように、西洋のものと類似した美術が日本、東洋に非常 社 会 的 慣 行 の ほ と ん ど あ ら ゆ る 変 形 が 見 出 さ れ る と い う こ と で あ る﹂ すべて人類の進歩は基本的に同じもので、 東洋歴史の巨大な範囲には、 憶されねばならないのは、東洋と西洋の一見した差異にもかかわらず、 ︶ も広がっていった。ゲルマン民族の移動によって結果的に四七六年に あったと思われる。そして、このことは結局、泰西美術史ばかりか日 ︵ 西ローマは滅亡したが、豪壮なロマネスク文化はキリスト教の影響を 本美術史をより深く理解するためにも不可欠な作業であったと天心は この﹁泰西美術史﹂の授業を理解するにおいて、いくつかのキーワー 考えていたと思われる。 受け優美になり、ゴシック美術が誕生したとまとめている。 以上で岡倉天心の﹁泰西美術史・上﹂は終わり、森鴎外の﹁泰西美 術史・下﹂に続いている。 ドがあるが、その一つは﹁変化﹂と﹁不易﹂である。天心はこれを泰 るいは東西美術史の授業であるのかと思うほど、いたるところに日本 最初に思うことは、これがいったい西洋美術史の授業であるのか、あ 香田麟吉が持っていた﹁泰西美術史・上﹂の講義ノートを通覧して 用語であることからもわかる。天心が生きた明治時代も﹁変化﹂その るのは、﹁変化﹂や﹁不易﹂といった言葉が老荘思想における重要な この法則が単なる現象ではなく、東洋思想に基づいていると考えられ で、 歴史を通史として見た場合に法則があることを示している。また、 西美術史だけではなく歴史一般の理解において重要と考えていたよう や中国の例が引き合いに出されていることである。学生たちに全く見 おわりに たことのない西洋美術を想像させ理解させるために、日本の身近な例 ものであったわけであるが、︽ ﹁日本の覚 The Awakening of The East ︵ ︶ 醒﹂︾の中でも明治期の変動について﹁実に荘厳なるは変化である ﹂ に驚かされる。この点は森田義之氏が指摘しているように、日本美術 代に、東西の美術を同時に理解させながら教えたその講義技術の高さ 整理して教えることはそう簡単ではない。今と比べて情報の少ない時 ばしば使われているが、これらの言葉はむしろ仏教思想に基づいてい ク時代の誕生のところに出てくる﹁原因﹂ 、﹁性質﹂といった言葉もし また、別のキーワードとしてはインドの項にある﹁因果﹂、ロマネス と述べており、 時代の変化は再生のために必要なものととらえていた。 を与え理解を促そうとしたのだろうが、うまく対応する例を見つけ、 史と西洋美術史を対比においてとらえようとしていたこと、日本と西 今回、初めてこの﹁香田ノート﹂によって確認することができたイ ると考えられる。 ﹁日本の覚醒﹂︾の中で﹁記 The Awakening of The East 洋の美術史をパラレルに見渡そうとしていた何よりの証拠である。 後の著書 ︽ 94 32 33 五 浦 論 叢 第 16 号 インドが﹁宝庫﹂であるとか、 ﹁一種の異国﹂、﹁不思議なる国﹂とい 違っており、特に美術史のとらえ方は天心独自のものとなっている。 ン ド に つ い て の 内 容 は、 リ ュ プ ケ の︽ History of Art ︾に対応して中 央アジアの後に分類されているが、それと比較すると内容はずいぶん たことになる。 年頃までの岡倉天心による﹁泰西美術史﹂講義の概要が明らかになっ 料の﹁香田ノート﹂を合わせて、年代的には明治二十四年から二十九 ひとまず、今まで発見されたノートと今回二十年振りに出てきた新資 今後も新しい﹁泰西美術史﹂ノートが発見されるかもしれないが、 う言葉が使われていることから天心がいかにインドに魅了され、この ころから強い興味を持っていたかがよく分かる。天心はリュプケのよ 時代の精神を多くの作品を通じてまとめようとすることに重きを置い たが、俗字、略字は通常の字体に改め、﹁ ﹂はこと、﹁朮﹂はなどに改め、 引用部分の登載にあたっては、できるだけ筆記されたままを掲載し ︵凡例︶ ている。それは直感に基づいたような泰西美術史の解釈であり、そこ 文字の誤用については[ ]を付して訂正し、あるいは︵ママ︶を付 うに作品を一つ一つ丹念に分析するというよりも、全体を通した特徴、 にリュプケとは違う天心らしさがよく表れている。時代区分や方法論 した。 本稿を仕上げるにあたっては茨城県天心記念五浦美術館、茨城大学 ︵謝辞︶ るいは解読不明の文字には□を以て示した。 また、原文の不要な傍線、括弧等は便宜省き、欠字のある箇所、あ においてはリュプケやヘーゲルに倣ったのかもしれないが、実際には 彼独自の解釈、老荘思想、仏教思想が根底に流れたものであるため、 結果的に東洋を強く意識した﹁泰西美術史﹂になっている。そういう 意味では、この﹁泰西美術史﹂の授業は、単に東京美術学校で教えら れていた西洋美術史の授業であったというだけではなく、世界的な視 点から見ても明治期東西美術思想におけるグローバリゼーションの成 へは起るものか﹂などとあるのは、過去のローマ人への批判だけでは にローマの項に見られるように﹁自己を愛し傲慢なる人種こそ此の考 また、泰西美術への批判も何か所かに見られるのも特徴である。特 は心より御礼を申し上げたい。 芸術研究助成財団及びフランス国立東洋言語文明学院︵ だいた。これらの機関に、 また研究助成をしていただいた文化財保護・ 鶴子氏︶ 、同大学付属図書館、同大学美術館に資料を閲覧させていた 五浦美術文化研究所、東京藝術大学美術学部教育資料編纂室︵吉田千 なく当時のヨーロッパ人への批判も含んでいるとみなすことができる。 註 果として重要な位置にあるものと言える。 これらの批判は後に ︽ The Awakening of The East ﹁日本の覚醒﹂︾の 中でも述べられており、この授業においてはそれらの下地といえる内 ︵1︶森田義之、吉田千鶴子﹁菅紀一郎筆記﹃岡倉覚三泰西美術史講 ︶に INALCO 容が数多く含まれている。 95 岡倉天心による「泰西美術史」講義(明治29年)についての考察(その 2 ) 頁、一九八九年。 義﹄上﹂、茨城大学五浦美術文化研究所報、第十二号、五十八 ︵ ︶全長六十フィート、︵約十八・三メートル︶。 ︵ ︶前掲書1、六十三頁。 ネプチューンとなっているが、ギリシャ語のポセイドンと同じ ︵2︶同上、森田・吉田、六十∼六十一頁。菅ノートではラテン語の ︵ ︶前掲書3、二百十一頁。 ︵ ︶前掲書1、六十五頁。 ︵ ︶前掲書1、六十四頁。 から、その松は﹁筆捨松﹂と呼ばれるようになった。童子は熊 は悔しさのあまり持っていた筆を松の根本に投げ捨てた。それ し、金岡のウグイスは金岡が呼んでも戻ってこなかった。金岡 ぶとどこからかカラスが飛んできて絵の中におさまった。しか ら抜け出して飛んでいった。そこで今度は、童子がカラスを呼 スを、手を打って追いはらう格好をした。すると二羽とも絵か 甲乙つけがたかった。そこで二人は、描かれたウグイスとカラ をする。金岡は松にウグイスを、 童子は松にカラスを描いたが、 ︵ ︶巨勢金岡は熊野詣の途中、藤白坂で童子と出会い絵の描き比べ ︵ ︶前掲書1、六十七頁。 ことである。 ︵3︶﹁岡倉天心全集・第四巻︵泰西美術史︶﹂二百六頁、一九八〇年、 平凡社。 ︵4︶︵ぎげいてんりつぞう︶木、彩色、像高二一四・五センチ。 Wilhelm Lübke : The intenser, more emotional ︾ caracter of the time must, of necessity, be reflected in its work. ︽ Outlines of The History of Art, ︵5︶これはリュプケも同様のことを述べている。 p.218, 1937. ︵6︶マウソロス︵ Maussollos ︶霊廟は、紀元前三五〇年頃マウソロ スとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟 である。ギリシア人建築家のピティオスとサティロスによって ︵ ︶前掲書1、六十四頁。 野権現の化身であったといわれている。 四人の彫刻家によって装飾が施された。 世界の七不思議の一つ。 ︵ ︶前掲書1、七十八頁。 設計され、スコパス、レオカル、ブリアクシス、チモフェイら ︵7︶キリスト教徒巡礼の護衛、救護を目的とする奉仕団体として発 を持っていた。特にイスラム世界との境界の最前線に常駐する 足し、十字軍運動の盛上りにつれて独立した修道会として特権 ︵ ︶森田義之、﹁岡倉天心の﹃泰西美術史﹄講義の検討﹂、茨城大学 ︵ ︶前掲書3、二百十四頁。 ︵ ︶前掲書3、二百十四頁。 ︵ ︶同上、森田、百十二頁。 五浦美術文化研究所報、第九号、百十一頁、一九八二年。 十字軍の主戦力を形成していた。 ︵8︶前掲書1、六十三頁。 Lübke, p.227. ︵9︶前掲書5によると、二十五人の騎馬隊と九人の歩兵を表すもの とあるので内容と一致する。 ︵ ︶森田義之、吉田千鶴子﹁菅紀一郎筆記﹃岡倉覚三泰西美術史講 96 16 15 14 13 12 11 10 21 20 19 18 17 23 22 五 浦 論 叢 第 16 号 、六十一頁。 ﹁全体耶蘇殊有の美術なくして其の羅馬 、六十九頁。 ら派生したキリスト教の教会堂建築をも指す。 ︶前掲書 ︵ ︶前掲書 ︵ 、七十一頁。これに関連した内容は後、明冶三十七年 に出版された︽ The Awakening of The East ︵日本の覚醒︶ ︾の 中でも次のように述べられている。﹁婦人に對する西洋人の深 い 尊 敬 の 態 度 は 教 養 の 美 し い 一 面 を 示 し て ゐ て、 我 々 が 切 に 見 習 ひ た い 所 で あ る。 こ れ は 基 督 教 が 與 へ た 最 も 尚 い 教 の 一 で あ る ﹂ 岡 倉 覚 三 著、 村 岡 博 訳﹁ 日 本 の 目 覚 め ﹂、 八 十 七 頁、 一九九三年、岩波文庫、岩波書店。 ︵ ︶岡倉天心﹁東洋の理想﹂他、佐伯他訳、二百七十頁、東洋文庫 ︵ ︵四二二︶ 、一九八三年、平凡社。 ︶ 岡 倉 覚 三 著 、 村 岡 博 訳﹁ 日 本 の 目 覚 め ﹂ 、 四 十 五 頁、 一 九 九 三 ︹ひろせ みどり/パリ・ドゥニ・ディドロ︵第七︶大学准教授︺ 年、岩波文庫、岩波書店。 33 義﹄下﹂、茨城大学五浦美術文化研究所報、第十三号、六十一 頁、一九九一年。 ︵ ︶前掲書3、二百二十頁。 ︵ ︶神林恒道﹁近代日本﹃美学﹄の誕生﹂︵二十九頁、二〇〇六年、 講談社︶において、 ﹁岡倉の師であるアーネスト・フランシス・ フェノロサは東京大学でヘーゲルの哲学を講義したといわれる が、日本美術を世界文明の一環として総合的な視野から捉えよ うとしたその姿勢に、ヘーゲル的思想の影響を認めることがで 、六十二頁。 きるかも知れない﹂と述べている。 ︵ ︶前掲書 ︶前掲書 の衰頽せしものによりて之耶蘇風に改めしのみ﹂ ︵ ︶バシリカは古代ローマで使用された集会施設を指すが、そこか ︵ ︵ ︶前掲書3、二百二十頁。 23 23 23 23 97 25 24 28 27 26 29 31 30 32