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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博

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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
篠
原
敏
昭
はじめに
岡本太郎といえば、1970 年大阪万博のシンボルとなった《太陽の塔》の制作
者。だれもが知っている芸術家である。太郎は万博ではテーマ展示プロデュー
サーを務めたけれど、彼にはじつはぜひとも実現したい大きな夢があった。そ
の夢を実現するために万博の仕事を引き受けたと言ってもいいほどだ。いった
い彼はどんなきっかけから、どのような経緯で万博の仕事を引き受けることに
なったのか、そして、万博の実際の仕事は彼の夢の実現にとっていかなる意味
をもつに至ったのか。小論はこれらの点の考察をとおして、従来あまり注目さ
れてこなかった彼の大きな夢を明らかにしようとするものである。
太郎が万博の仕事を引き受けたいきさつについては、彼の 50 年来の秘書で、
事実上の妻でもあった岡本敏子氏が回想『岡本太郎に乾杯』(1997 年)の「太陽
の塔の季節」の章のなかで語っている。小論にはそれを補う意図もあるので、
彼女の回想を先に簡単に紹介しよう。
敏子氏によれば、太郎は万博のなかで自分が役割を果すことになるとは「夢
にも思っていなかった」という。小松左京ら関西文化人たちの「万国博を考え
る会」にも興味を示さなかったし、万博の基幹施設プロデューサーを務めてい
た丹下健三らからの打診も相手しなかったらしい。
「人類の進歩と調和」という
万博のテーマ自体にも反対だった。ところが、1967 年の夏前、万博協会事務総
長・新井真一からテーマ展示プロデューサー就任を膝詰め談判で求められる。
彼は迷って、友人たちにも相談するが、ことごとく反対される。しかし、彼は
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失敗と非難を覚悟のうえで、同年 9 月末に受諾の返事をする。敏子氏は、あえ
て危険な道を選ぶというのが彼の「基本的な人生哲学」だったと言っている 1)。
太郎がテーマ展示プロデューサーをなかなか引き受けなかったのは事実のよ
うだけれど、敏子氏の証言には、いくつかの小さな記憶違いと 1 つの大きな欠
落がある。記憶違いの 1 つは、彼が就任の返事をした日付。1967 年 9 月末で
はなくて、7 月 7 日が正しい。ほかの記憶違いについては、あとの考察でわか
るだろうから、まえもって逐一指摘はしないが、欠落については先に言ってお
かなければならない。というのも、そこに欠落しているものこそ、太郎の大き
な夢だからだ。では、どんな夢か。祭りを、それも巨大な祭りをなんとかして
実現したいという夢である。祭りの実現にたいする強い意欲が彼を万博の仕事
に向かわせたのだ。
詳しくはあとで述べるが、最初に 1 つだけ、大阪万博における太郎の発言を
引用して、祭りの実現にたいする彼の意欲を確認しておきたい。
「祭り」と題す
る 1970 年のエッセーのなかで彼は、万博のテーマ展示プロデューサーを引き
受けたときの気持ちをふり返って述べている。
日本万国博のテーマプロデューサーとして、祭りの中心を構成する仕事に
取り組む。そう決めたとき、強烈なよろこび、ファイトがわきおこった。2)
つまり、太郎がやりたかったのは万博そのものではなく、なによりも祭りだ
ったのだ。万博は彼のまえにたまたま現われた、祭りを実現するチャンスにす
ぎない。けれども、祭りと万博はやはり別ものである。いったい彼は祭りと万
博にどんなふうに折り合いをつけるのか。はたして彼は、万博のなかで自分の
考える祭りを実現できたのだろうか。
だが、先走りすぎるのはよそう。まずは、芸術家・岡本太郎にとってそもそ
も祭りとは何だったのか、なぜ祭りの実現が太郎の夢だったのか、祭りと芸術
の関係にかんする彼の基本的な考えから見ていくことにしたい。
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
1
祭りと芸術の原理論
岡本太郎の祭りについての考えは、ごく単純化して言うと、祭りとは人びと
が生きる歓びを確認する神聖な場であり、芸術が創り出される場でもある、と
いうものだ。そのさい、注意を促しておかなければならないのは、彼にとって
はなによりも未開社会の根源的な祭りが、現代社会のとり戻すべき祭り本来の
姿だった、ということである。
祭りにかんするこの考えは、その実現も含めて、太郎が 1930 年代のパリ留
学時代にマルセル・モースの民族学から大きな影響受けて以来、彼の信念にな
っていたようだ
3)。その一端は、さきほどあげたエッセー「祭り」のつぎの一
節にも現われている。
……「祭り」は根源の時代から、人間が絶対と合一し、己を超えると同時に
己自身になる、人間の存在再獲得の儀式である。きわめて神聖な、厳粛な場
でなければならない。4)
だが、太郎は民族学にもとづいた祭りの考えを、まとまった形ではほとんど
表明していない。祭りにかんする発言の大半は万博の仕事に取り組んだ時期に
集中しているけれど、断言調の短いものしか知られていなかったし、これまで
突っ込んで論じられてこなかった 5)。
ところが、このほど、太郎が未開社会の祭りと芸術について民族学の知識を
用いて語った、かなりの分量の文章が見つかった。タイトルは「デザインと芸
術」というちょっと意外なもの
6)。末尾に脱稿日と思われる「昭和四二年七月
三日」という日付が記されている。これは、万博テーマ展示プロデューサー就
任を受諾した 4 日前にあたるが、文章のもとは、その年の 4 月、万博協会から
就任の打診があった頃に、「YMCA 現代デザイン講座」でおこなった講演のよ
うだ。ただし、この文章に万博の話はまったく出てこない。
「デザインと芸術」講演は、全体としては太郎自身の芸術の立場からデザイ
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ンのあり方について述べたものだが、彼は 400 字で 70 枚ほどの文章のほぼ半
分を割いて、未開社会の祭りを論じ、それによって自分の芸術の立場を基礎づ
けている。もっとも、そこに大規模な祭り実現の夢が語られているわけではな
いし、講演の祭りの議論も従来知られているところをとくに超えるものではな
い。それでも、ほかの発言に比べれば、民族学の知識をふまえたかなり詳しい
議論であり、祭りと芸術にかんするいわば彼の原理論が展開されている。以下、
その概要を紹介しよう。あらかじめ断っておくけれど、ここでは未開社会にか
んする彼の知識自体の当否は問題にしない。
さて、講演によれば、未開社会の祭りは、まず第 1 に、生産と消費の過程に
おける集団独自のイメージとルールの現われとしての儀礼が集中しておこなわ
れる時期である。
そういった生産と消費という過程のなかに、集団は集団の内部のルール、
きまりに従って自然と闘い、また自然と結びついて生活を営むわけです。そ
の間に、超自然との対決におけるその集団独自のイメージと、そのルールの
具体的なあらわれとして、儀礼が行なわれる。儀礼が、もっとも強烈に幅広
く行なわれる時期を「祭り」といってよい。7)
こう述べたうえで、太郎は祭りを消費の時期、それも自然の周期にもとづく
一定期間の、爆発的な消費の時期として捉える。
どんな素朴な段階でも、生産はかなり技術的に組織的に行われる。獲れた
ものを食べたり着たりする、といった日常的な消費ではなくて、一定の期間
に爆発的に消費する、それが祭りです。ある面からみれば、人びとは祭りの
ために、つまり熱狂的に消費するために、営々と働き、生産し蓄積したので
す。8)
太郎によれば、未開社会では、祭りの爆発的な消費の期間は、日常の生産の
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
時期のモラルから切り離されている。講演では話し言葉のせいか、あとで見る
ような「祭り」と「お祭り」の区別が明確ではないけれど、彼は未開社会の人
間のアクティヴィティを「合目的的」なものと、
「無目的的」なものとに分けた
うえで、後者の例としてモースの言うポトラッチ(競覇的散財)をあげながら、
未開社会の祭りについてつぎのように言う。
……ポトラッチは一例ですが、お祭りの期間は、消費と日常の道徳律とまっ
たく切り離されてしまう。いわゆるノーマルな状況から考えるとアブノーマ
ルであり、そして、つね日頃の目的的な要素や方向に対して、まったく無目
的的なエネルギーの爆発をする。9)
太郎のパリ時代以来の友人で美術評論家のパトリック・ワルドベルグは、そ
の太郎評伝のなかで、
「祭り禁止令の合図が変わると、見分けがたい混乱がヒエ
ラルキーをくつがえし、法の土台を解体するが、祭りとは、社会集団のすべて
の構成部分がそうした混乱のなかに基礎をもつ特権的期間である」10)というマ
ルセル・モースの祭りの学説を引いて、それが太郎の生き方に強い刺激を与え
たことを証言している。つぎにあげる太郎の講演の一節のなかには、このモー
スの学説と共通するものを容易に見出すことができるだろう。
祭りにはタブーを破ってもかまわない、ふだんの道徳律はひっくり返され
る。この禁じられたことができる、爆発するということで、人間の閉ざされ
た限界性、不可能による疎外感がいやされ、全宇宙的な存在として充実する
わけです。11)
太郎は、第 2 に、未開社会のこのような祭りは人間が本来の存在を回復する
場であるが、同時にそれは、人間が人間を超えた存在と結びつく神秘的な場で
もあると捉える。
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祭りをするときこそ、ほんとうに人間が人間になる。我を忘れる生き方が
できてはじめて人間が人間を超える瞬間をみいだしうる。人間は一人一人で
はなく全体であるという。どうしてそうなるか、つまり、人間が人間を超え
た世界と交通するからです。そういう宗教的な、メタフィジカルな、自然、
神、どういってもいいが、つまり世界の神秘と合流するのがお祭りの核心で
す。12)
太郎によれば、
「世界の神秘」との合流は、祭りのなかの儀礼としての側面に
属するが、この儀礼のなかで人びとの創造行為がおこなわれる。
「人間が人間を
超える」ためには「いろいろな装置=しかけ」、すなわち「自分を超えたものと
合体する」ためのさまざまな道具や扮装が必要だという 13)。
……お祭りがくるとそのときは人間はいつもの人間ではなくなる。いつもの
顔をした誰々じゃいけないわけです。そこで顔を変えたり、身体に描いたり、
異様なものを着たり、マスクをかぶったりして、ふだんの人間でなくなるの
です。お面をかぶったり、仮装するということは、ふだんの素朴な自分でな
くなることです。見えない世界の神秘的存在と交通する。そしてさらに、そ
マ
マ
れを体顕することにもなるわけです。14)
第 3 に、太郎は、未開社会の祭りには、この儀礼に必要なものを作り、祭り
の場で歌い踊るという形で、集団の全員が参加すると主張する。彼は言ってい
る。
……いろんな装飾品を身体につけて、まったく別個の存在に変身する。衣裳
を作ったりお面を作ったり、お面でも全然人間と関係のない動物や化け物み
たいなものを作る。また着るもの、履くもの、楽器を作る。それはみんなが
作る。そして歌い、それを身につけてみんなが踊る。歌い踊らない者はいな
い。15)
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未開社会の祭りは、「今日のように、分化され職能化され、歌手だけが歌い、
踊り子だけが舞う」といった「なさけないお祭り」ではない、と太郎は言う。
「見るものと演るものが区別されることは、ずっと時代が下ってかなり人間文
化が進歩(?)してからの現象」である
16)、と。未開社会の祭りは、彼によれば
つぎのようなものだという。
……見る、と同時に見られる。自分が他者であると同時に、強烈に自分自身
である。自他の境界がふっとんでしまうような状態が現出する。まことに、
祭りにはみんなが平気で創る。創造する喜びがある。それはけっして、ふだ
んのときの、鍬や弓矢を作るというような、機能を目的とした功利的な合目
的的なものの生産ではなく、その部族の、あるいは創る人の個性とイマジネ
ーションを生かしたもので、しかも無目的的な自由をうちだしたものです。17)
太郎の見方によれば、いまの引用にあるような、未開社会の祭りにおける作
り、歌い、踊るという宗教的・呪術的行為で、かつ無目的的で自由な創造行為
は、同時に芸術でもある。つまり、未開社会では「祭り全体が、芸術です」18)
ということになる。そして、彼にとっては、未開社会の祭りにおけるこうした
芸術のあり方こそ、芸術本来のあり方なのである。彼は講演のなかでつぎのよ
うに言う。
祭りには自由、日常の定めからの解放という本質がある。芸術にもそれは
通じているのです。つまり、すべての芸術は本質的に無目的的なもので、す
べてに無目的的な、そして非功利的な、非効用的な要素をもっているという
ことです。19)
以上、太郎の描きだす未開社会の祭りと芸術のあり方を紹介してきたけれど、
それは彼にとっては、現代社会がとり戻すべき祭りと芸術のあり方であり、同
時にそこには、現代の祭りと芸術のあり方にたいする批判も含まれている。そ
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の点を詳しく紹介する余裕はないが、たとえば、彼は、「〔未開社会では〕みん
なが芸術をやって、自分の全存在を回復していたわけだが、
〔現代社会では〕芸
術家や芸術屋といわれる専門家にすべてまかせてしまう」20)と言い、現代のテ
レビやプロ野球観戦では、
「全人間的に自分が参加していない、参加できない祭
りに意味があるだろうか」21)と述べるのである。
ともあれ、太郎は以上のような考えから、未開社会におけるような祭りを現
代に実現したいという強い意欲をもつことになる。その意欲は、憶測するとこ
ろ、1930 年代のパリ時代に形成されて以来、彼の内部で保持し続けられたよう
だ。ただ、そのことを証明するのはかなり難しい。祭り実現の意欲のはっきり
とした表明は、次節で見るように、1963 年まで待たなければならないからであ
る。けれども、それ以前に証拠らしきものがないわけではない。1954 年刊行の
『今日の芸術』には、
「芸術の本質である、祭りのよろこび」22)という、短いけ
れど明確な言葉が記されている。
2
「巨大な祭」の夢
本節と次節では、太郎の祭り実現の意欲を時系列でたどりながら、彼が大阪
万博のテーマ展示プロデューサーを引き受けるまでの経緯を見ていきたい。
太郎が祭りの実現への意欲を公けに示したのは、知るかぎりでは、1963 年 1
月 8 日の『朝日新聞』に寄せたエッセー「巨大な祭典」が最初のようだ。大阪
万博の開催は、当時はまだ話題にすらのぼっていない。彼がこの時期に祭りの
実現への意欲を表明した理由についてはあとでふれるが、彼はこのエッセーの
なかで、祭りの「本当の姿を奪回しなければならない」と述べて、つぎのよう
に言う。
祭こそ生きがいである。人間は本来は祭のために生きているのだ、と私は
極言したい。その猛烈な消費のために、営々と蓄積し、準備して、瞬間に生
命のよろこびを爆発させるのである。23)
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これは「芸術とデザイン」講演にも見られた太郎の持論だけれど、注目して
もらいたいのはむしろ、このあとに続く数節である。そこには、彼の他のどの
文章にも見られない「巨大な祭」の夢が語られているのだ。少し長くなるが、
引用してみよう。
私はよく、巨大な祭を夢みる。
アトリエで一人ぼっちで仕事していると、作品がワクの中で充実し、味わ
いを出す。その狭さに絶望する。そして広大な空間にエネルギーがふきおこ
り、色、形が飛びちる。それぞれが新しい生命にメタモルフォーゼして躍動
する。その中にすべてがとけこんで、自分がみんなであり、みんながそのま
ま自分である。そんな絶対的よろこび。
どこか思いきって広大な土地をきりひらき、造形的に構成する。無限に起
伏し、奇妙な塔がならび立つ。あらゆるコーナーが有機的にひびきあう。こ
の壮大な広場全体が、彫刻であり、舞台であり、また同時に見る場所でもあ
る。
あちらでもこちらでも、歓楽が行われ、即興が展開される。見ている人は
また演技者であり、演技者は見物人である。そこにはあらゆる表現がうち出
される。
しかし単なる劇でもなく、絵でも、音楽でもない。それらが渾然とした、
――つまり祭なのである。
無意味さと昂揚と。ほほ笑ましく、また残酷な。
この広場を中心として、祭は全国に徹底的に組織される。町々村々で、新
しい時代の独創的な祭が展開する。そして国じゅうが、数日間、わきかえっ
て、我を忘れるのだ。
夢みたいな話だと思われるかもしれない。だがいつか、何とかして実現さ
せたい。オリンピックにあれだけの予算を使うくらいなら、と思う。
民族のイマジネーションを極限にまでひらき、生かす。内部に充実してい
るが故に、かえって世界的に堂々と火花をちらす。そういう祭によってこそ、
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文化がねり上げられ、真にわれわれの新しい芸術の運命が創り出されると思
うのだ 24)。
奔放な夢である。祭りの広場は、すでにして大阪万博の《太陽の塔》とその
周りの光景を思わせる。宗教的・呪術的な要素こそ出てこないが、さきに見た
未開社会の祭りと同様、ここでも見る者と演る者の区別のない、人びとの喜び
に満ちた祭りが構想されている。未開社会の祭りは部族のイマジネーションの
表現だったのにたいし、夢の祭りはもっと大規模な、
「民族のイマジネーション」
の表現だとされる。そして、その祭りの先に「真にわれわれの新しい芸術の運
命」の創出を彼は見ようとする。祭りと芸術はやはり結びついているのだ。
ところで、この時期の太郎に途方もない祭りの夢を語らせたものは、いった
い何だったのか。背景をなす要因としては、彼が当時の日本の社会の祭り喪失
状態に憤慨していたという事情がある。彼は、日本の社会ではテレビや映画、
演劇、スポーツ観戦など、人びと自身が参加しない細切れの「祭のイリュージ
ョン」ばかりが氾濫して、
「強烈な、社会全体の生きるよろこび」としての本来
の祭りが失われていると見ていたのである 25)。
けれども、直接のきっかけは、太郎自身が示唆しているように、当時進行し
ていた東京オリンピック(1964 年 10 月開催)の準備だろう。彼はオリンピック
に巨額の予算がつぎこまれることが気に入らなかったのだ。なぜ気に入らなか
ったのか。オリンピックが、誰もが参加できる祭りではなくて、
「チャンピョン
達のためだけ」26)のものだったからである。
だが、太郎は東京オリンピックが終わっても、あの「巨大な祭」を実現した
いという意欲は衰えない。1965 年 1 月発表のエッセー「祭は生甲斐/お正月」
には、
「たとえばオリンピックの何十倍かの費用をつかって、この国の全体、誰
でもが参加できる祭をやったら」と、2 年前のエッセーと同様の、
「町全体、国、
民族をあげての巨大な祭」、文化や芸術も「その中にとけこみ、濃縮されてはじ
めて輝く」ような祭りの夢が語られている 27)。意外に思われるかもしれないが、
この時点での祭りの実現にたいする意欲の表明には、むしろオリンピックから
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の刺激もあったようなのだ。では、オリンピックの何が彼を刺激したのだろう
か。
「チャンピョン達」の競技ではない。あの閉会式である。
実際、東京オリンピックの閉会式は感動的だった。私事になるけれど、当時
ぼくは中学 3 年。夕刻一人でテレビを見ていて、涙があふれてきたのをいまで
も思い出す。いや、ぼくのことはどうでもいい。問題は太郎である。彼は閉会
式のなかに、あの夢の「巨大な祭」を思わせる光景が思いがけなく出現するの
を見て、心を揺さぶられたのだ。これは憶測ではない。彼自身の証言がある。
1965 年 11 月 3 日の『朝日新聞』掲載のエッセー「私の日本文化論 「万国博」
に望む」のなかに、そのときの感動が記されている。
ところで、だれでもが印象的に覚えていると思う。東京オリンピックの閉
会式に、突如展開した、あの感動的なシーンを。お役人や組織委員会側は、
大変なことになった、警官隊を呼ぼうか、と思ったという。それほど突然、
自発的にもりあがり、あふれた祭の交歓。あらゆる民族が、その姿のまま、
独自の表情で喜びを高めあった。恐らく、世界中の人種の集った広場で、史
上初めての感動的儀式だったろう。28)
太郎はこの出来事を「偶発的な事件」だとは見ていない。出来事の底に「日
本民衆の無条件な膚ざわり。あらゆる国、人種にわけ隔てない好意」が存在す
ることを指摘し、そういう「日本民族の文化的質」が「ことに伝統的な差別に
悩む黒人の心を解き放った」のだと考える 29)。日本の民衆にまだ希望がもてる
と思ったようなのだ。
3
祭りの実現に向かって
東京オリンピック閉会式の感動を記した太郎のエッセーは、「「万国博」に望
む」というサブタイトルから推測されるように、政府が 1965 年 9 月、万博の
1970 年大阪開催を決定したことを受けて書かれたものである。彼は同じエッセ
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ーのなかで、世界の祭りとしての万博の日本開催にたいする強い期待感を述べ
ている。
五年後の万国博がどんなものになるか、まだ想像できる段階ではないが、
恐らくAA諸国など、財力のない新興の国ぐにが張りきって参加するだろう。
してほしいものだ。今まで博覧会といえば、とかく近代主義の、物量、規模
を誇った。しかし日本の広場では、富める国、貧しい国をひっくるめて、そ
れぞれがその独自性をひらききる。あらゆる生き方の質、いろどりを誇らし
く輝かせて。そういう猛烈な、総合的世界の祭を期待するのである。30)
ここには、大阪万博のさいに太郎が語る、「俗にいう未開発地域の人々でも、
存在として絶対的に己をひらききり、もりあがり、輝く」31)という祭りの構想
につながるものがすでに語られている。だが、それよりも、太郎と万博の関係
を考えるさいに見逃してならないのは、3 年前のエッセー「巨大な祭典」で夢
として語られた祭りと、いまとりあげたエッセー「私の日本文化論 「万国博」
に望む」で期待された祭りとの違いである。前者は、祭りそのものとして追求
された、芸術創造に結びつく、民族全体によるいわば濃密な祭り。これにたい
して後者は、この時点の彼自身がどれくらい自覚的だったかはわからないが、
万博という場が祭りのようなものになるのを彼が期待したもので、彼が夢見た
祭りそのものでは決してない。祭りのある部分ないし側面は実現されるかもし
れないが、前者ほどの濃密さが実現するとは思えない祭りである。
けれども、太郎は後者の意味の祭りもやはり祭りには違いないと考えるのか、
希薄化する恐れのある祭りにも大いに惹かれていく。事実、そのエッセーを書
いた頃にはすでに、非公式ながら大阪万博と小さな結びつきができている。
1964 年に小松左京、梅棹忠夫ら関西在住の学者、知識人が中心になって、自発
的に「万国博を考える会」という研究会がつくられていた。太郎も会員になっ
ていたようで、1965 年 10 月に開かれた最初で最後の総会のさいのパネルディ
スカッションのなかで発言している。議事録によれば、彼はそのなかで、万博
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そのものを「日本民族の芸術作品であるというふうに猛烈な充実感をもって…
…皆がとけこんで同質的にぶつかるすばらしい希望の芸術たらしめたい」32)と
語っている。彼は万博にたいしてあの濃密な祭りの出現を期待しているのだ。
万博と太郎とのつながりは 1966 年も続く。1 月 3 日の地方紙には太郎が参
加した芦原義信、小松左京との座談会「万国博を考える」が掲載されている 33)。
また、朝日新聞社が同年 1 月に募集した「万国博への提案」の審査委員を丹下
健三や手塚治虫、万博協会事務総長の新井真一らとともに務めてもいる 34)。
1967 年に入ると、万博と太郎の関係はさらに密接になる。
『日本万国博会報』
3 月号には磯崎新、黒川紀章らシンボル・ゾーン建築担当者たちとの座談会「会
場全体を人類のお祭り広場に」が掲載されており、そのなかで彼は、オリンピ
ックのような、観客と演者が分かれてしまう祭りではなくて、
「今度の万国博は
皆が参加できるものにしてほしい」と言い、
「人種的な隔たり、文化的な隔たり
を感じさせないで思いきって遊べるフリーな場所を作ってもらいたい」35)との
要望を提出している。
太郎は『SD:スペース・デザイン』1967 年 5 月号に掲載されたエッセー「芸
術と遊び――危機の接点」のなかでも、万博のことにふれている。エッセーの
末尾にはつぎのように記されている。
あたかも数年後に万国博をひかえている。巨大なまつり。……このチャン
スに、どのような新しい遊び、驚異が出現するか、本当の意味で人類全体の
〈まつり〉とよぶことのできる、渾然一体となった共感をつくり出せるかど
うか。ぜひやるべきだ。人間文化のエポックをつくる大きな夢。期待される。
そこでこそ遊びと芸術が危機の接点で強烈にまじわるだろう 36)。
思うに、これを書いた頃は、太郎のもとにテーマ展示プロデューサー就任の
打診がなされていたのではないか。もしもそうだとすると、この一節は、彼が
自分自身を万博に向かって駆り立てているようにも読める。少なくとも「巨大
なまつり」という言葉からは、彼の頭にあの夢の「巨大な祭」がちらついてい
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たことが覗える。いや、これまでたどってきたところからでも、彼がかなり以
前から、自分の考える祭りを実現するために、大阪万博になんらかの形で関わ
りたいという願望を抱いていたと考えるほうが自然だろう。
もっとも、そうなると、なぜ太郎はテーマ展示プロデューサー就任要請を最
初あっさり断ったのかが問題になる。この点はじつはよくわからない。あえて
憶測を述べれば、そのときの彼には自分の祭りの考えやコンセプトが、万博協
会とそれをバックアップしていた政府や財界に受け入れられるとはとても考え
られなかったからではないか。
だが、万博協会事務総長から 10 億の予算付きで、しかもほとんど白紙委任
という好条件を提示されて膝づめ談判されると、太郎も簡単には断れなくなり、
返事を保留する。彼は何を迷っていたのだろうか。いくつかの事情があったよ
うだ。まず、万博の仕事は大がかりで、チームをつくらなければならないが、
一匹狼の彼にはその準備がなかった。それに、政府や官僚と一緒の仕事の経験
もなかった。相談を受けた友人たちは口をそろえて、
「ボロボロになって、傷を
負うだけ」だから、やめた方がいいと忠告したという 37)。
けれども、ぼくの見るところ、太郎をためらわせていた問題はやはり、自分
の祭りについての考えが受け入れられるかどうかだったのではないかと思う。
就任受諾の返事をする 2 週間まえの 6 月 23 日、彼は日本経済新聞社主催の万
国博教室で「万国博での私のイメージ」と題する約 2 時間の講演をおこなって
いる。そのなかで彼は、
「万国博は祭りだ」と切り出し、昔の祭りの楽しさにつ
いて語って、
「それは無償、無目的だった。さて、今日の見本市は有償で目的の
ある行為だ。そこをはっきり知ってほしい」と、「祭り-万国博」と「見本市」
の違いを強調している 38)
もう 1 つ、テーマ展示のコンセプトに関わるもっと具体的な事情がある。太
郎は態度を保留していたときに、丹下健三をプロデューサーとする基幹施設設
計グループにたいして、万博のテーマ館を、人類の過去・現在・未来に対応す
る地下・地上・空中の 3 つの独立したスペースの複合体として構成するという
プランを提起していたけれど、それが受け入れられるかどうか、しばらくの間
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
はっきりしなかったことである 39)。テーマ館は、彼のコンセプトでは「祭りの
中心」になるものだった。とりわけ地下の過去のスペースは、テーマ展示全体
を支える最も重要な部分で、この地下部分に彼は、世界各地の根源的な表情を
示す神像や仮面などの祭具などの民族資料を収集して展示する目論見をもって
いた 40)。いうなれば、未開社会の根源的な祭りをテーマ展示の根底に据えよう
としたのである。
丹下グループは太郎のこのテーマ館構想を受け入れる形で、シンボル・ゾー
ン全体を覆う巨大な大屋根構造を設計した。そのことが、もろもろの不安や懸
念にもかかわらず、太郎を最終的にテーマ展示プロデューサー就任に踏み切ら
せたのだ。彼が「基本的な人生哲学」を呼び起こしたとすれば、このときだろ
う。1971 年のエッセー「万国博に賭けたもの」のなかで彼は、大屋根の設計模
型を見に行ったときのことをふり返っている。
……まだその時まではプロデューサーを引き受ける気になっていなかったの
だが、私の提案に、建築部門がこのようにこたえてくれた以上、やらないわ
けにはいかないと覚悟をきめた 41)。
未来の展示が大屋根のなかに独立することによって、過去の展示のためのス
ペースも地下に確保することができ、
「祭りの中心」を太郎のコンセプトどおり
につくる可能性が開けたのだ。大屋根を突き抜けて立つ巨大な《太陽の塔》の
最初のイメージがひらめいたのも、このときのことだという 42)。
大屋根の模型を見に行った日がいつだったか、正確にはわからない。1967
年の 6 月末か 7 月初めではないだろうか。そして、テレビ番組取材のために中
南米へ旅立つ前日の 7 月 7 日、彼は万博協会へ就任承諾の返事をする。敏子氏
の言う 9 月末ではない。彼自身の証言が、同年 10 月 21 日の万博協会テーマ委
員会議事録に残っている 43)。
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祭りとしての万博
太郎は、万博テーマ展示プロデューサー就任にあたって、どのような形で祭
りを実現しようとしたのだろうか。小論の冒頭にあげたエッセー「祭り」のな
かで彼は、無責任なバカ騒ぎを意味する「お祭り」と神聖な「祭り」を区別し
たうえで、こう言っている。
神聖感をあらゆる意味で失ってしまった現代に、再び世界全体に対応した、
新しい「祭り」をよみがえらすことができたら。
万国博が見本市であったり、また国威宣揚のナショナル・フェアであって
は意味がない。「祭り」であるためには、そこに神聖な中核が必要なのだ。
私はテーマスペースをそのようなものとして凝集しようと思った。44)
つまり、太郎はテーマ展示を祭りの「神聖な中核」としてつくりあげ、それ
によって万博に祭りとしての形を整えようとしたようだ。そうだとすると、彼
が万博のなかで実現を試みた祭りはやはり、前節で述べたいわば薄められた祭
りだけだったのだろうか。
じつを言うと、太郎は万博のなかでも、彼本来の濃密な祭りの実現を追求し
ていたのである。といっても、あの「巨大な祭」ではない。テーマ館地下スペ
ースに予定された、ささやかな「祭りの庭」のプランである。彼がテーマ展示
プロデューサー受諾直後に書いたテーマ展示計画草案「万国博のために」のな
かに、つぎのように書かれている。
ところどころに、ふと小さな地下の広場がひらける。“祭りの庭”である。
たとえば、たった一人で笛を吹く、数人で踊る、あるいは詩を朗読する、宗
教的、呪術的な儀礼、というような、お祭り広場の壮大なスケールの中では
かき消されてしまうような、小規模の催しが随時おこなわれる。通る人は自
由に観客となり、また自分もやる側になって、祭りをもりあげ、生きるよろ
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
こびを確認する。そのような即興のコーナーでもある。45)
小規模だが、あの夢の「巨大な祭」を思わせる、さきに見た未開社会の祭り
にも通じるプランである。ここで、いまの引用にあった「お祭り広場」につい
て説明をしておく。これは、大屋根の下のシンボル・ゾーンに設けられた、世
界各国、日本各地の祭りや歌、演奏など、さまざまな大規模イベントが催され
る大きな広場のことである 46)。テーマ展示スペースとは別の空間、つまり太郎
の管轄外で、「お祭り広場」の催し物には別のプロデューサーがいた。太郎は、
「祭り」を「お祭り」から区別したように、
「祭りの庭」の小規模の催しを、
「お
祭り広場の壮大なスケール」のイベントとは別ものとして構想していたのだ。
このような「祭りの庭」のプランを太郎がもっていたことは、祭りそのもの
と、万博という、祭りそのものとは言えない祭りとの区別に、彼がすでに気づ
いていたことを覗わせる。だが、
「祭りの庭」のプランは、結局日の目を見ない
で終る。1968 年 3 月 27 日の万博テーマ委員会では太郎はまだ、
「地下に即興
的なコーナーをつくり、そこで小規模だが根元的な祭りやイベントをやってみ
たい」47)と発言しているが、地下展示が具体化されるなかで入場客の滞留が懸
念されたのだろうか、1969 年 2 月作成のテーマ館展示にかんする内部資料で
は、「祭りの庭」はすでに計画から消えている 48)。
だから、万博のテーマ展示プロデューサーとして太郎に実行可能だったのは
やはり、万博そのものを「世界を舞台とした〈祭り〉
」49)にするという、規模は
大きいが、薄まった内容の祭りの構想だけだったということになる。それでは、
彼はどのような条件が満たされれば、万博は祭りになると考えていたのだろう
か。祭りとしての万博は、彼が認めようとしなかった「見本市」とか「国威宣
揚のナショナル・フェア」としての万博と、どこがどんなふうに違うのだろう
か。
太郎は万博が祭りたりうる条件をまとまった形で提示しているわけではない。
いくつかの発言から総合して考えるしかないが、その 1 つは、1970 年 1 月の
エッセー「万国博に賭けたわがエネルギー」のなかに示されている。そのなか
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で彼は、自分はなぜいわゆる反博、反万博の態度をとらないで、万博の仕事を
引き受けたのか、という疑問にこう答えている。
私はたとえどんなきっかけで用意された場であろうと、万人に向ってひら
かれている以上、そのチャンスを捉えない法はないと思うのだ。それを全人
間的な幅で生かし、
「祭り」を本来的な意味でひらききりたい。私はこの大き
な投企にベストをつくすのだ。50)
太郎には万博の開催が祭りを実現する「チャンス」と映っていたことがよく
わかる一節だが、
ここで指摘したいのは、万博が祭りであるための条件として、
「万人に向ってひらかれている」ことがあげられている点である。けれども、
それだけで万博が祭りになるわけではなかった。テーマ展示プロデューサー就
任直後に書かれた文章に「万国博への抱負と構想」と題するものがあるが、そ
のなかにもう 1 つ、条件が語られている。彼は博覧会で重要なのは「構成・設
備」にもまして、
「そこに集まってくる人間自体」だとしながら、つぎのように
記している。
集ったというだけで、だれでもがよろこびにふくれあがるふんいき。つま
り「祭」なのだ。それが絶対の条件だ 51)。
もっとも、『日本万国博覧会公式記録 第 1 巻』のテーマ館の章には、「人間
がただ集まっても祭りにはならない。祭りには人々の精神が集中する中心が必
要である。テーマ館は、祭りの場における祭壇といえた」52)とも書かれている。
おそらく、太郎にとって、万博が祭りたりうるためには、万人に開かれている
こと、人びとの精神が集中する祭壇にあたるものが設けられていること、集ま
った人びと誰もが歓びに盛りあがる雰囲気が生まれること、という 3 つの条件
が最低限必要だったと考えられる。
太郎はエッセー「祭り」のなかで、
「富と大きな力を誇る大国だけが大きな顔
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
をして、開発途上にある新興諸国が肩身の狭い思いをしている、そんな気配が
「見
少しでも出てきたら、卑しい。
「祭り」にはならない」53)と言っているが、
本市」や「国威宣揚のナショナル・フェア」のままの万博では、まさに「そん
な気配」が生じて、彼の言う祭りとしての万博の条件の 1 つか 2 つが壊れてし
まうのである。そして、いま述べたかぎりで、祭りとしての万博という考えに
は、現実の万博の傾向に対抗する意味あいがなかったわけではないことも付け
加えておこう。ただし、微弱な対抗でしかないことも確かである。
いずれにせよ、太郎が実行できる祭りは、本来の濃密な祭りからすれば、か
なり希薄化した祭り、いわば擬似的な祭りでしかない。だが、そのさいにも、
彼が以前から実現を夢見ていた「巨大な祭」のイメージにもとづいて祭りをデ
ザインしようとしたことには、やはり注意を喚起しておきたい。大屋根を突き
抜ける 70 メートルの巨大な塔のイメージがひらめいたとき、またテーマ展示
プロデューサー就任のさいに「途方もないベラボウなことをする」54)と宣言し
たとき、彼はエッセー「巨大な祭典」のなかで描いてみせたような、
「奇妙な塔
がならびたつ」壮大な広場の夢を思い浮かべていたにちがいない。
太郎はたとえ擬似的な「巨大な祭」であろうと、その姿が万博のなかに実際
に出現するのをめざして、テーマ展示を祭りのコンセプトで一貫して作りあげ
ようとする。地下・地上・空中の 3 層からなる「祭壇」と、《太陽の塔》とい
う「ベラボーな神像」55)の制作に全力を傾ける。岡本敏子氏は言っている。
……実際、EXPO’70 のテーマ館は、地下から空中まで、そのあらゆる細部に
至るまで、岡本太郎の哲学によって有機体として構成されていた。だからあ
れだけのインパクトを与えたのだ。56)
おわりに
1970 年の大阪万博は大成功だった。そう言われている。では、岡本太郎の、
祭りとしての万博はどうだったのか。彼自身は成功と見ていたようである。
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1971 年発表のエッセー「万国博に賭けたもの」のなかで彼は、「祭りは華やか
にひらかれた。よくこんなみごとに大事業が完成したものだ」と書き出して、
つぎのように続ける。
ここに押し寄せ、集う大群衆がまた、すばらしい見ものである。若者もお
爺さんもお婆さんも、熱心に、無邪気に、一生懸命に歩きまわっている。世
界の他のどの場所で開かれたとしても、一般民衆がこれほどの熱意と好奇心
をもって、ひたむきにぶつかるなどということは想像できない。日本人の心
は若いなあ、と私などはまことに嬉しくなってしまうのである。
太陽の塔の空間は、このような人びとに捧げる祭りのシンボルとして、ま
さにぴったりだったと我ながら思う。57)
太郎は、万博に「押し寄せ、集う大群衆」がつくりだす「巨大な祭」の雰囲
気と、その祭りのために彼自身が制作した「太陽の塔の空間」に満足している
ように見える。たしかに、万博の成功には、彼が制作した《太陽の塔》とテー
マ館の貢献も大きかったかもしれない。けれども、彼の言葉には、万博自体の
成功を祭りとしての成功と思いちがいしているようなところがある。それに、
彼が実行した祭りは、万博そのものが成功すれば、ほぼ自動的に成功するよう
になっていたと言えないこともない。
「集ったというだけで、だれでもがよろこ
びにふくれあがるふんいき」さえ生まれれば、彼の言う祭りの「絶対の条件」
は満たされたことになるのだから。
もちろん、太郎に大いに達成感はあっただろう。大群衆が集い、《太陽の塔》
はベラボーな姿でそびえ立ち、
「巨大な祭」の雰囲気はたしかに現出したのであ
る。しかし、彼は、かつて夢見た、芸術の新しい運命を切り開く、あの濃密な
「巨大な祭」そのものを実現できたわけではなかった。それをごく小規模にし
た「祭りの庭」すら断念しなければならなかったのだ。彼が全力をあげて取り
組んだのは、言うなれば「巨大な祭」のコンセプトにすぎなかったのではない
のか。祭りが終ったあとで、彼自身そのことにふたたび気づかざるをえなかっ
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
たのではないだろうか。
ぼくは岡本敏子氏が太郎の万博の仕事について述べた一節を思い出す。最初
に読んだとき、その素っ気なさに反発すら覚えたけれど、それに、そこには太
郎の祭りの夢も抜け落ちているけれど、いまはそのあたりが妥当なところかな
と思う。彼女はこう言っているのだ。
もし岡本太郎に「あなたはこの万博から得たものはありますか」と問うた
ら、何と答えるだろうか。私の想像では、
……さあ、何もないね。かつてないスケールの、大きな仕事が出来たこと。
それも単体でない、テーマ館全体としての、哲学と物語をもった、有機体と
しての表現が打ち出せたこと。それは面白かったけれど。
彼自身はそんな風に言うのではないかと思う 58)。
誤解のないように言っておかなければならないが、ぼくは、岡本太郎の万博
の仕事は、
《太陽の塔》のベラボーさ以外はそれほど高く買わないけれど、祭り
についての彼の考えまで低く見るつもりはないのだ。反対に、彼がついに実現
できなかった「巨大な祭」の夢は、人間をつねにその根源から捉えようとする
このアヴァンギャルド芸術家の奔放な想像力が、美しく、また力強くほとばし
り出たものとして、むしろ高く評価したい。内容の点で比類がないだけではな
い。スケールの大きさの点でも比肩するものは少ないのではないだろうか。
岡本太郎が雑誌『総合』1957 年 6 月号に執筆した文章に「ぼくらの都市計
画」というのがある 59)。東京の品川沖に人工島で「リクリエーションの理想境」
をつくり、
「少なくとも五十万から百万の老若男女を一ぺんに収容して、思いの
ままに生の歓びを満喫させる」という、途方もないプランを図面入りで示した
ものだ。そのなかに、
「芸術家はしばしば、実現不可能と思われるような、ベラ
ボーな夢を描きだす」60)という気に入ったフレーズがある。ぼくは、この「ベ
ラボーな夢」という言葉は、むしろあの「巨大な祭」の夢にこそふさわしいと
思っている。
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注
1) 岡本敏子『岡本太郎に乾杯』(講談社、1997 年)182-185 頁。なお、岡本太郎の大阪
万博との関わりについては、大杉浩司「《太陽の塔》誕生」
、川崎市岡本太郎美術館編
『太陽の塔からのメッセージ・岡本太郎・EXPO’70』(2000 年)64-88 頁、が最も詳
しい情報を提供してくれる。
2) 岡本「祭り」
、岡本太郎・泉靖一・梅棹忠夫編『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970
年)1 頁。以下、岡本太郎自身の著書・エッセー類については著者名を岡本とのみ記
す。また、エッセー類の初出のさいのタイトル・掲載紙誌名・掲載年月日はできるか
ぎり本文中に記し、単行本等収録のものは、収録時のタイトル・収録書名等を注のな
かで示す。
3) この点については、今福龍太「すべてと無のあいだの深遠―岡本太郎の「民族学」
」、
川崎市岡本太郎美術館『多面体・岡本太郎』(1999 年)120-124 頁、を参照されたい。
今福氏はモース民族学にもとづく太郎の「意志的な思索・行動原理」を指摘している。
また、日向あき子「岡本太郎ルネッサンス 8 芸術家の祖型・現代の呪術師―民族学
と「太陽の塔」
」、
『版画芸術』第 108 号(2000 年 6 月)165 頁、も見よ。
4) 岡本「祭り」
、岡本・泉・梅棹編『世界の仮面と神像』1 頁。
5) 岡本太郎の祭りの考えについては、春原史寛「岡本太郎《太陽の塔》の研究」、『芸
叢』第 18 号(2001 年)52-54 頁、椹木野衣『黒い太陽と赤いカニ』(中央公論新社、
《太陽の塔》の下にある
2003 年)208-226 頁、などに言及がある。なお、篠原敏昭「
もの―岡本太郎のパリ時代」、石塚正英編『海越えの思想家たち』(社会評論社、1999
年)8-9 頁、でもすでに指摘しておいた。
6) 岡本「デザインと芸術」、川添登監修『デザインの思想 現代デザイン講座 1』(風土
社、1971 年)83-116 頁。
7) 岡本「デザインと芸術」、同上書、87 頁。
8) 岡本「デザインと芸術」、同上書、87 頁。
9) 岡本「デザインと芸術」、同上書、90 頁。
10) Patrick Waldberg, TARO OKAMOTO Le Baladin des Antipodes, Paris 1976, pp.98-99. パ
トリック・ワルドベルグ(針生一郎訳)「岡本太郎―対極のアクロバット」、画集『岡
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
本太郎』(平凡社、1979 年)270-271 頁。
11) 岡本「デザインと芸術」、同上書、88-89 頁。
12) 岡本「デザインと芸術」、同上書、91 頁。
13) 岡本「デザインと芸術」、同上書、91 頁。
14) 岡本「デザインと芸術」、同上書、91-92 頁。
15) 岡本「デザインと芸術」、同上書、92 頁。
16) 岡本「デザインと芸術」、同上書、92 頁。
17) 岡本「デザインと芸術」、同上書、92-93 頁。
18) 岡本「デザインと芸術」、同上書、98 頁。
19) 岡本「デザインと芸術」、同上書、98 頁。
20) 岡本「デザインと芸術」、同上書、97 頁。
21) 岡本「デザインと芸術」、同上書、97 頁。
22) 岡本『今日の芸術』(光文社文庫、1999 年)47 頁。
23) 岡本「巨大な祭典」
、岡本『私の現代芸術』(新潮社、1963 年)243 頁。
24) 岡本「巨大な祭典」
、同上書、244-245 頁。
25) 岡本「祭は生甲斐/お正月」
、岡本『岡本太郎の眼』(朝日新聞社、1966 年)19 頁。
26) 岡本「半身だけの現実/代用時代」
、同上書、257 頁。
27) 岡本「祭は生甲斐/お正月」
、同上書、18-19 頁。
28) 岡本「文化の独自性」、岡本『今日をひらく 太陽との対話』(講談社、1967 年)203
頁。
29) 岡本「文化の独自性」
、同上書、203 頁。
30) 岡本「私の日本文化論 「万国博」に望む」
、
『朝日新聞(夕刊)』1965 年 11 月 3 日。
31) 岡本「祭り」
、岡本・泉・梅棹編『世界の仮面と神像』2 頁。
32) 万国博を考える会『万国博を考える会総会議事録』[1965 年]、2 頁
33) 芦原義信・岡本太郎・小松左京(座談会)「万国博を考える」
、
『神奈川新聞』1966 年 1
月 3 日。
34) 『朝日新聞』1966 年 1 月 15 日、および同年 5 月 5 日。
35) 磯崎新・菊竹清訓・黒川紀章・岡本太郎・秀島乾(座談会)「会場全体を人類のお祭り
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広場に」
、『日本万国博会報』1967 年 3 月、20-21 頁。
36) 岡本「芸術と遊び――危機の接点」
、岡本『原色の呪文』(文藝春秋、1968 年)145-
146 頁。
37) 岡本敏子『岡本太郎に乾杯』182-184 頁。
38) 『日本経済新聞』1967 年 6 月 24 日。
39) 岡本「万国博に賭けたもの」
、丹下健三・岡本太郎監修『日本万国博 建築・造形』(恒
文社、1971 年)241-242 頁。
40) 篠原「《太陽の塔》の下にあるもの」
、石塚編『海越えの思想家たち』9-11 頁、を参
照されたい。
41) 岡本「万国博に賭けたもの」
、丹下・岡本監修『日本万国博 建築・造形』242 頁。
42) 岡本「万国博に賭けたもの」
、同上書、242 頁。
43) 日本万国博覧会協会『日本万国博覧会公式記録 資料集別冊 D-1 専門委員会会議録 1
テーマ委員会会議録』〔1972 年〕191-192 頁。
44) 岡本「祭り」
、岡本・泉・梅棹編『世界の仮面と神像』1 頁。
45) 岡本「万国博のために」、
『ユリイカ』1999 年 10 月、43 頁。
46) 日本万国博覧会協会『日本万国博覧会 公式ガイド』(1970 年)32 頁、を参照せよ。
47) 日本万国博覧会協会『テーマ委員会会議録』197 頁。
48) 日本万国博覧会協会『テーマ館の展示設計説明書』(1969 年 2 月)3-13 頁。
49) 岡本「テーマ展示・基本構想より」
、『藝術新潮』1968 年 8 月、14 頁。
50) 岡本「万国博に賭けたわがエネルギー」、
『潮』1970 年 1 月、225 頁。
51) 岡本「万国博への抱負と構想」、
『朝日新聞(夕刊)』1967 年 8 月 5 日。
52) 日本万国博覧会記念協会編『日本万国博覧会公式記録 第 1 巻』(1972 年)477 頁。
53) 岡本「祭り」
、岡本・泉・梅棹編『世界の仮面と神像』2 頁。
54) 「時の人」欄、
『読売新聞』1967 年 7 月 8 日。
55) 岡本「万国博に賭けたもの」
、丹下・岡本監修『日本万国博 建築・造形』242 頁。
56) 岡本敏子『岡本太郎に乾杯』(講談社、1997 年)193 頁。
57) 岡本「万国博に賭けたもの」
、丹下・岡本監修『日本万国博 建築・造形』240 頁。
58) 岡本敏子『岡本太郎に乾杯』(講談社、1997 年)197 頁。
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ベラボーな夢――岡本太郎における祭りと万博
59) 岡本「ぼくらの都市計画」
、
『総合』1957 年 6 月、[165-172 頁]。ここには太郎の
プランをめぐる、勅使河原蒼風・丹下健三・糸川英夫・石川充・安部公房および岡本
太郎による座談会も載っている。
60) 岡本「ぼくらの都市計画」
、同上誌、
[165 頁]。
〔付記:川崎市岡本太郎美術館には貴重な資料閲覧の便宜を図っていただいた。記して
感謝したい。〕
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