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講演 競馬の魅力

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講演 競馬の魅力
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復刻
講演
競馬の魅力
菊池寛
於大阪中央公会堂 昭和十年四月四日
※漢字と仮名遣いは当時の表記のままにしています。
僕の題は「競馬の魅力」といふ題でありますが、しかし皆様方に競馬の魅力を説くなん
か全く釈迦に説法をするやうなもので、また僕も競馬の魅力よりも、なんかもつと妖力と
でもいふやうな大変なものに摑まへられてをるやうな気持がいたします、私なんかもこの
競馬がなくなると、なんだかボンヤリしてしまつて、急に憂鬱になるやうな気持がいたし
ます。ですから、一月から三月末までは競馬がないもんですから、どうして暮さうかと考
へてをります。だから一月の初めに催眠剤でも呑んで寝てしまつて、三月の末になつたら
眼が覚めるやうな催眠剤はないか知らんと思つてゐます。
皆様方の方は、僕よりももつと其感が強いだらうとお察ししてをるのであります。さう
いふ訳で、競馬の魅力を説く必要はチツトもないと思ひます。私も、大阪に来るのは他に
なんにもないんですが、たゞ此競馬の講演にツイ、フラフラと出て来たのであります。で、
出来るだけまア馬券買について、私の経験をお話ししようと思ふ。
きつと
此中には屹度私よりも玄人の方がいらつしやつて、菊池寛なんかはあまいもんだ、と軽
蔑していらつしやるかも知れませぬが、さう考へると私は講演が出来ませぬから、ここに
いらつしやる方々は私よりも素人だと思つてお話をいたします。
まだ日本の中には、競馬を賭博だといふ風に考へてをる人がある。競馬は決して賭博ぢ
やない、しかしこれが例へば賭博であつても構はないと思ふんですが。賭博といふことを
非常に日本人は悪いことのやうに思つてをるが、あれは少しどうかしてゐるんぢやないか
と私は思ふ。男と男とが金を賭けて、チヤンと承知の上で、いづれかに決するのですから、
此位男性的なことはないのだらうと思ふ。
もつと
英国なんかは決して賭博などについて、なんとも言はない。尤も英国人位賭事の好きな
かつ
国民はない。面白い例は曾て英国人が嘘のつきつこをなした。其中で誰が一番勝つたかと
いふと「俺は一生涯賭事をした事がない」といふことを言つた人が一等だつた。ですから
英国人が一生賭事をせぬ、といふことは、一番大きな嘘になるんです。
此間も軍縮会議から帰つた山本五十六といふ海軍中将があります。其人の話では、曾て
英国の軍令部長であるチャッタフヰルドといふ人のところへ遊びに行つた。ところがチャ
ッタフヰルド氏は其のお嬢さんとトランプをやつて、親娘の間でありながら、チヤンと金
を払つて居たと云ふ。英国ではさういふ賭事はいかなる身分のものであらうが、当然とな
されてをるのでありまして、此点からしても其一斑はお判りになるだらうと思ひます。
日本でも昔は此の賭事は非常にはやつたんです。貴族社会でも賭事は盛んであつた。そ
れから戦国時代兵隊が戦争をやつて暇な時は、みんな賭博をやつた。ところが此明治にな
ばくち
つて賭博が非常に厭やがられる、これは徳川時代に賭博うちといふ職業的な連中がでて、
賭博だけをやつたために悪く思はれたんでせう。われわれのやうに正業をもつてをる人が、
さしつかへ
遊びにやるのは私は結構差支ないだらうと思ひます。
しかし只今賭博の弁護をしたが残念ながら競馬は賭博ではない。競馬はすなはち、六頭
馬がをれば、其一から六までの馬が賽ころの目のやうに、おなじチャンスに出るかと言ふ
と、決しておなじチャンスに出ない。競馬は強い馬が勝つに定つてゐる。決して賭博ぢや
ない。それを賭博だと思つてゐる人は、競馬の判らない人だ。賭博だと思つて馬券を買ふ
人は、決して得をしない。屹度私は損をなさる方だと思ひます。
これから馬券買についての私の考へたことを話しますが、此競馬はかならず強い馬が勝
※1
つんです。強い馬が勝つことは非常にハツキリしてをる。二百円がでると、非常になにか
弱い馬が勝つたやうに思ひますが、それは今まで実力が知れない馬が、初めて其実力を出
した時が二百円になつたんですから、別に不思議でもなんでもない。ですから皆様方は二、
三年前の成績を御覧になるが一番よい。さうすると実に強い馬が勝つてをることが分る。
どうしてこんな馬が二百円になつたんだらうと、不思議に思ふ程強い馬は、みんな二百円
になつてをる。
※1:当時、払戻金額は券面金額の十倍を超えてはならないと制限されていたため、最高でも二百円までであった。
さういふ訳ですから、其実力を発揮せぬ前に此馬の実力を知ることは二百円を取る一番
はやみち
なかなか
捷径だらうと思ひますが、サテこれは却々難しいことだと思ひます。それにはですね、矢
張実力を知るにはいろいろ方法がありますが、一番に馬の血統といふことを御研究になつ
た方がよいと思ふ。
例へば競馬でよくいふサラブレッドといふことが、どういふ意味かお考へになつてゐな
も
い方がある。英語にありますが、サラといふのはこれは純粋といふ言葉、若しくは完全、
ブレッドは育成、サラブレッドは純粋に育成されたといふことで、決して意味の判らない
言葉ではない。完全に育成されたといふ言葉である。競馬に関係の深い人でもアラブ、サ
ラブといふ人がありますがサラブなどと云ふ読み方はない。サラと云つて貰ひたい。皆様
アラブ、サラブと仰しやらないでアラブ、サラと仰しやつて頂きたいと思ひます。
サラブレッドは英国から来た馬であります、それから一般に濠洋、濠洲産洋種といふ馬
の中には購入当時その血統が詳細でないため、実際は濠洲から来たサラブレッドが多数混
つてゐます。それから此血統といふことです、御研究になるとおなじサラブレッドでも北
あたり
海道辺のサラブレッドは余り強い馬はゐない。矢張小岩井、下総牧場のサラブレッドは強
い血統の馬がゐる。さういふことを一寸御注意になればよく判るだらうと思ひます。此血
統をよく知つてをれば皆様方も馬券をお買ひになるとき自信がつきます。其血統に対して
信用をもつてをれば、確信が従つてもてることになります。
それからもう一つは過去の成績、去年の春の成績、秋の成績をよくお調べになつて置け
ば、屹度私は二百円の穴が一つ位は取れるだらうと思ふ。それから競馬が始まりまして、
五日目位に前の四日目位の成績を根よく調べられると、屹度二百円が一つ位取れるんぢや
ないかと私は思ふ。
ちやうど
それからもう一つは馬格、馬の気合。私は競馬をやり出してから恰度十年です。此馬の
恰好なんかは誰も知つてをるが、馬の恰好だけでは判らない。馬の気合といふものが分ら
ない。僕も時間潰しに、時々、曳き馬を見て判つたやうな顔をしてをるが、本当は判らな
い。これはどうしても馬の気合を知るためには三年間位修業しないと判らない。私はもう
これから三年修業して、やり直すのはいやですから、馬は判らないでお終ひにしたいと思
ふが、皆様もうまく馬券をお買ひになるなら、今からどうか三年だけ馬を見る修業をして
頂きたい、さうすれば馬券を買つても、負けないやうになるんぢやないかと思ひます。
それから馬の持主ですが私も馬を幾らかもつてゐますが今日はどうだと聴かれるが、馬
主も判つてゐない。皆様が判つてゐないように、馬主も勝つ勝たないといふことは決して
判つてゐない。私も聴かれても、自分が走るならハツキリ言はれますが、走るのは自分で
はないんですから、また馬といふものが口をきかないもんですからさういふ点で、馬主と
いふものは馬が其日に勝てるか、勝てないか、ハツキリ分るもんぢやない。
騎手といふものもゐるが、これも判らない。私も騎手も、判らないといふのが本当だと
思ふ。騎手が本当に此の勝敗が判るといふことは、自分だけ乗る一頭だけで走るなら判り
ますが、人が扱つて、そして十頭も走つてをる馬が勝つか、勝たないかなんといふことは、
却々判らない。また騎手の中でも強気の騎手、弱気の騎手があります。これは皆様も厩舎
で予想をお聴きになる時能く御注意にならないといけない。
東京で言ひますれば佐々木安、稲葉秀男、かういふ人は自分は屹度勝つ勝つといふ。さ
ういふ人の説を聴いて、馬券を買つたら金が幾らあつても足りない。それから田中和一郎
といふ騎手、此人は弱気で、決して勝てると言つたことがない。ですから此田中が屹度勝
まけ
つと言つた時は屹度負る。で去年の秋田中厩舎にゐたハクセツが中山で百六十三円といふ
配当をつけた。其の時私は田中に訊いた。田中はハクセツは此間からテンデ動きませぬと
いふのでハクセツを買はないで他の馬を買つた。所がハクセツが堂々百六十三円をつけた。
ですから騎手も決して自分の馬が勝つ、勝たないといふことが判る訳がないと思ひます。
さうして此の騎手は恰度船頭や猟師とおなじくあの山に雲が出て日がさす、だから明日
は天気だといふやうに、自分の住んでをる海岸や、其の附近の雲なんかで天気を予想する、
それとおなじもんぢやないか、自分の住んでゐる海岸の雲がどういふ風になつてゐるかと
いふことを知つてゐるが、他所の海岸のことはどうなつてゐるかテンデ考へないで天気を
予想する、騎手も自分の馬が勝てるだらうかといふやうな予想はするが、恰度船頭や猟師
が天気予報をするのとおなじやうだと私は思ふのです。馬主といひ騎手といふも本当の勝
敗の秘訣なんかは握つてをらない。
それから馬主も試験的に馬を出すなどは、なかなかやれるものでない。一度馬はレース
をすると、それが故障になるといふチャンスが私は十回に一回は必ずあると思ふ。脚が少
しをかしい、肩がをかしいといふことが一度レースをやれば、十分の一位は出来る。だか
ら、出走した以上、全力を尽すものと考へて頂きたい。
それから馬券の買方に本命ばかり買ふ人、穴ばかりを狙ふ人とがあります。本命ばかり
買ふ人も、これはどの馬に一番馬券が売れるかといふことを見てから、馬券を買ふのが本
式ではないかと思ふ。馬券は勝馬を当てるといふのが本義ぢやない。他人が間違つて鑑定
をしてゐるのに対して自分の正しさを馬券によつて立証する、これが馬券の興味ぢやない
かと思ふ。
またそれに対抗して穴ばかり買ふ人がある。私なんかも其方で、後悔することが非常に
多い。本命も邪道であるが穴々といふ、これも邪道でありまして、殊に本命には非常に確
な本命と怪しい本命がある。私なんかは十年かゝつて怪しい本命と、確な本命とは判るや
うになりましたが、本命でも確な本命と怪しい本命と、これをハツキリ覚えるといふこと
が非常に大切なことではないかと思ふ。それから穴といふことですが、穴も皆んなが穴だ
と考へたらもう穴でない。既に人気だ。
それから此馬券を買ふことは、どうしても人に聴いちや面白くない。人に聴いて馬券を買
ふならそれは競馬場へ行つて金を拾ひに行くとおなじことでありまして余り褒めた話では
ありませぬ。矢張り御自身の研究で、御自身で買はなければ、私は本当の面白味はないと思
ひます。殊に自分が買はうと思つてゐる馬ですね、何か人から聴き込んで、他の馬を買つた
時に、自分が最初に買はうと思つた馬が当たつた時の口惜しさは全く永久に忘れられない。
私が昔京都へ行つた時、「ナノハナ」を買はうと思ひ一寸便所へ行きました。便所から
ここ
出ましたところ厩舎の前で或人が「もしもし奥さん、茲はタマフネですよ」と、これが耳
たちま
に入つたもんですから忽ち「ナノハナ」をやめた。ところが皆様、「ナノハナ」がその時
二百円出した。其の怨みは今日でも忘れませぬ。ですから皆様も最初御決心になつたら、
かふ
かへつ
其馬を買といふことが、一番私はよいんぢやないか、人の説を聴いて、さうして却て取ら
れるといふことは一番いやな気持ぢやないかと思ふのであります。
それから競馬に負けないといふ方法を考へましたが、一番堅い方法は其日に持つて行く
金を定めて置くこと、皆様方の小遣の範囲、五十円の方は五十円、百円の方は百円といふ
風に定めて行かれるのが一番よい。これは或厩舎関係の男ですが、其男は競馬へ行く時に、
お神さんが十円しか呉れない、十円しか呉れないから其の十円を持つて行つて其十円を元
金として儲ければ儲ける程、だんだん大きくして一日に四百円位勝つことがある。最初に
十円取られると其日は帰つて来る。
ですから、かういふ制度でやつて八日間全部負けても八十円ですむ。しかし十円で一日
だけ
丈でも四百円になれば優に三百二十円の勝になる。かういふことをやつてゐますが、此十
円負けたら帰つて来るといふことは、非常に克己の心、此位の自制の心がなければ馬券と
いふものは駄目だ。世の中の商売でも、自制心、自分にかつといふことがなければ私は儲
けるといふことは難しいと思ふ。
私の知つてをる範囲で儲けた人は余りないが、たゞ東京の芸者で一人知つてゐる。其芸
こしら
者は旦那と別れたために、馬券で儲けてお座敷着を拵へるといふ考へで競馬を始めた。此
芸者は最初の目的通り、チヤンと儲けてお座敷着を買つた。最初から計画的に馬券で儲け
てお座敷着を買ふといふことにチヤンと成功した。私の知る限りで女では此人一人である。
で其人はどういふやり方かといふと、決して自分が確信をもたなければ誰が何と言つて
も買はない。自分が確信のない時は馬券は決して買はない。矢張本当に損をしないといふ
ためには、さういふ克己心といふものがなければ駄目ではないかと思ひます。
ですから皆様方のお小遣の範囲でやるといふことが、此競馬ファンとして、何時までも
競馬を楽しむ方法で、競馬場へ持つて行く金を工面するやうなれば、私は駄目だと思ふ。
皆様方は月五十円の小遣の方は五十円、月百円のお小遣の方は百円でやるといふことが、
私は競馬ファンが自分の身を保つ唯一の方法だと思ふ。皆様方の中には金が沢山ある方が
あつて、競馬で損をしても平気だと仰しやる方があるかも知れませぬが、金のない方は小
遣の範囲でやることは、永い間楽しめるところの一つの方法ではないかと思ふんでありま
す。
馬券で得をするかといふと、非常に無理なことでありまして、昨年なんかは馬券の売高
が九千万円近い、此九千万円の一割五分は政府へとられる。これは皆様が一千四五百万円
政府へとられることになる。日本人の競馬ファンが一万人ゐるとすれば、一年に千四、五
百円の税金を払つてをり、二万人をれば、皆様方が七百円位の税金を払つてをることにな
る。此七百円の税金を払つて、そして尚残さうといふのは却々難しいと思ふ。
さういふ点からしても、私は小遣以上に出るなと、いふことは本当ぢやないか、また皆
様方がどんなに御研究をなさつても競馬ファンの人が、みんなが儲かるかといふに、何時
が来ても、みんなは儲からない。損をする人がなければ儲かる人はない。皆様、これはど
んなに御研究になつても、丁度入学試験とおなじやうな、みんなが幾ら勉強しても入学す
る人間の数はふえない。それとおなじで競馬ファンが損をする率も決して変らないと思ひ
ますが、熱心に御研究になります方は、だんだん損をすることが少くなる。
私も競馬を始めた頃は春に四千円、秋に四五千円、ザツと一万円位の損でしたが、此頃
は儲かつてゐるかといふに儲かつてはゐない。此頃の損は春に千円、秋に千円、やつと四
分の一に少くなつただけで、まだ一度もシーズンを通じて儲けたことはないんです、私の
理想としては、そんなに儲けなくてもよいからいつか一度だけ第一競馬から第十一競馬ま
でみんなとつてみたいと思ひますが、却々とれさうもないんであります。
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