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力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』 - Kyoto University Research
Title Author(s) Citation Issue Date URL <論文>力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』にお ける意味理論 須藤, 英幸 キリスト教学研究室紀要 = The Annual Report on Christian Studies (2015), 3: 19-34 2015-03 https://doi.org/10.14989/197488 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 キリスト教学研究室紀要 第 3 号 2015 年 3 月 19~34 頁 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 ( Po we rle ss W ord s: Th e Th eor y of Me an ing i n Aug us ti ne ’ s De Magistro ) 須藤 英幸(Hideyuki Sudo) はじめに 『 問 答 法 』 De dialectica ( 386 年 ) か ら 『 教 師 論 』 De magistro ( 以 降 DM と 略 す 、 389/ 39 0 年 ) を 経 由 し た 約 10 年 間 、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス に お け る 言 .... 語 の 議 論 は 主 に 記 号 理 論 か ら ア プ ロ ー チ さ れ 、『 キ リ ス ト 教 の 教 え 』 De doctrina christiana ( 396/ 397 年 ) に お け る 聖 書 の 比 喩 的 解 釈 で そ の 特 徴 が 最 大 限 に 発 揮 さ れ た と い え る 。 こ れ に 対 し 、 390 年 中 頃 か ら 使 用 さ れ 始 め .... た「心の内なる言葉」という概念から把握される言語理論が、アウグスティ ヌ ス の 言 語 に 関 す る 議 論 に お い て 次 第 に 重 要 視 さ れ る よ う に な り 、 400 年 前 後 か ら 執 筆 さ れ 始 め た 『 三 位 一 体 論 』 De trinitate で は 「 内 的 言 葉 」 と し て 本 格 的 に 吟 味 さ れ る よ う に な る 。こ の 発 展 過 程 に お い て 、 『キリスト教の教え』 は彼のいわば成熟した記号理論と萌芽的な言語理論とが交差する場であり、 この要素が『キリスト教の教え』の特異性の一つを形成する。 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 言 語 に 関 す る 議 論 を 理 解 す る た め に は 、『 キ リ ス ト 教 の教え』にその背景を与えている『教師論』の議論、特に文章理解に対する 言 葉 の 役 割 が 論 ぜ ら れ る 意 味 理 論 1を 捉 え る 必 要 が あ る 。こ こ で と り わ け 問 題 となるのは、 『 教 師 論 』で 展 開 さ れ る 主 題( 意 味 理 論 を 含 む )の 理 解 の 難 し さ である。研究者の様々な主張はこの明瞭な把握の難しさを立証するものであ るが、近年の研究者の立場を次の二つに大別したとしても間違いではあるま い。すなわち、コミュニケーションにおける言語の役割を積極的に認める立 場と、神の照明へ導く機能のみにそれを限定する立場である。この問題を念 頭 に『 教 師 論 』の テ キ ス ト を 再 調 査 す る こ と に よ っ て 、 『 教 師 論 』で 展 開 さ れ る言葉のもつ効力の特性把握が期待される。 そ こ で 、 本 論 文 で は 、 1975 年 以 降 に 発 表 さ れ た 『 教 師 論 』 の 主 題 に 関 す る 19 京都大学キリスト教学研究室紀要 研究者の諸見解を検討した後、 『 教 師 論 』に 含 ま れ る 言 葉 の 文 法 的 機 能 と 指 示 的 機 能 と の 二 重 性 、お よ び 、そ の 意 味 理 論 の 考 察 を 通 し て 、 『 教 師 論 』に お け る言語の効力性に関する部分的な解決を与えたい。 一、 『教師論』における主題と構成に関する諸見解 研究者によってこれまでに提出された『教師論』の主題と構成に関する意 見 は 様 々 で あ る 。 197 5 年 に 執 筆 さ れ た 論 文 で 、 G・ マ デ ッ ク 2は 、 F・ J・ ト ナ ー ル 3に 従 っ て 、二 分 割 構 造( 1〜 37 節[ DM 1.1〜 11.37]の 言 語 に 関 す る 議 論 / 38〜 46 節 [ 11.38〜 14.46] の 真 の 教 師 に 関 す る 議 論 ) を 主 張 し 、 B・ R・ ヴ ォ ス 4が 提 唱 す る 三 分 割 に 反 対 す る 5。マ デ ッ ク に よ れ ば 、第 二 部 で 展 開 さ れ る 内 的 教 師 に 関 す る 教 え が「[『 教 師 論 』]の 本 来 の 目 的 」l’obje t pro pre du livre で あ り 6、第 一 部 は「 記 号 な し で は 何 も 教 え ら れ な い 」rien ne s’e nseigne sans les signes と 「 記 号 に よ っ て は 何 も 教 え ら れ な い 」 rien ne s’ enseigne par les signes と か ら な る パ ラ ド ッ ク ス で 構 成 さ れ 、そ の 目 的 は 内 的 教 師 の 主 題 を 理 解 す る た め の 条 件 を 提 供 す る こ と で あ る 7。ま た 、前 半 の 議 論 の 一 部 を 構 成 す る 「 記 号 の 学 習 」 l’étude des signe s は 単 な る 遊 び と し て 捉 え ら れ ず 、 「 霊 的 光 の 輝 き に 対 す る 精 神 的 順 応 の 訓 練 exercice」8と 考 え ら れ 、 『教師論』 の「 対 話 部 分 」Dialogue に お け る 目 的 は「 記 号 が 意 味 論 的 な 役 割 を 有 し な い 」 les signes n ’ont pas de fonction sémantique こ と の 主 張 に あ る の で は な く 、「 戦 略 上 の パ ラ ド ッ ク ス 」 un paradoxe tactique の 構 築 に あ る と 考 え ら れ て い る 9。 1980 年 論 文 で 、M・ D・ ジ ョ ー ダ ン 10は 要 約 的 に『 教 師 論 』に 触 れ 、そ の 意 味 理 論 的 な パ ラ ド ッ ク ス 、 す な わ ち 、「 記 号 に よ る 以 外 は 何 も 教 え ら れ な い 」 .. nothing could be tau ght except by sig ns と 「 記 号 で は 何 も 教 え ら れ な い 」 nothing can be taug ht with signs と い う 矛 盾 を 認 め る 11。 ジ ョ ー ダ ン に よ れ ば 、プ ラ ト ン『 メ ノ ン 』に お け る ソ ク ラ テ ス の 論 法 と 同 様 に 、 『 教 師 論 』で は 、「 記 号 は 教 え る た め に 使 用 さ れ な け れ ば な ら な い 」 signs m ust be used ... to teach と い う 考 え が そ の 反 立 に よ っ て 否 定 さ れ る 12。 結 果 と し て 、 内 的 教 . .. .. .. 師に対して言葉が果たす機能は、想起に対してソクラテスの砂図が果たす機 能と類似するものであり、言葉の機能は聞き手を内的真理へ方向づけること に 限 定 さ れ 、他 方 で 、理 解 可 能 性 は 神 に 基 礎 づ け ら れ る こ と と 見 な さ れ る 13。 1982 年 論 文 で 、 L・ H・ マ ッ ケ イ 14は 、 一 方 で 、「 記 号 な し で は 何 も 教 え ら れ 20 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 な い 」 nothing is ta ught without signs と 、 他 方 で 、「 記 号 に よ っ て は 何 も 学 ば れ な い 」 nothi ng is learned by means of signs と い う 『 教 師 論 』 の パ ラ ド ッ ク ス を 考 え る 15。マ ッ ケ イ に よ れ ば 、こ の パ ラ ド ッ ク ス の 原 因 は 記 号 と リ ア リ テ ィ ー と の 間 に 介 在 す る 存 在 論 的 で 認 識 論 的 な 距 離 で あ り 16、 そ の 解 決 に は 唯 一 の 内 的 教 師 で あ る キ リ ス ト に 訴 え る 必 要 が あ る 17。 記 号 は 超 越 的 リ ア リ テ ィ ー を 伝 達 で き な い た め 18 、 す な わ ち 、 人 間 は 「 超 越 的 言 語 」 t he ...... transcendent Wor d を 入 手 で き な い た め 19、言 語 へ の 懐 疑 が 生 ぜ ざ る を 得 な い 。 したがって、記号/言葉とリアリティーとが橋渡しされるためには、事柄の .... 知識が強化されるための魂の教化が必要となるだけでなく、懐疑が克服され . る た め の 記 号 に 対 す る 信 も ま た 必 要 に な る 20。こ の こ と か ら 、パ ラ ド ッ ク ス は 、 一方で、 「 照 明 な し で は 、人 間 的 記 号 に お い て 神 的 リ ア リ テ ィ ー は 知 ら れ ず 」、 他方で、 「 信 な し で は 、人 間 的 指 示 者 を 通 し て 神 的 指 示 対 象 に は 達 し 得 な い 」 と い う 構 図 と し て 成 り 立 つ こ と に な る 21。 結 果 と し て 、『 教 師 論 』 に お け る パ . .. ラ ド ッ ク ス は 、信 と 照 明 と の 弁 証 法 的 な 相 互 依 存 性 と し て 表 現 さ れ る 22。そ し て 、「 受 肉 の 言 葉 」 th e incarnate Word は − −−絶 対 確 実 な 方 法 で 信 仰 の 真 理 を 与 え る わ け で は な い が −−−堕 落 し た 心 に 接 近 可 能 な 形 態 に お い て 、「 真 実 性 の 基 準 」 the norm o f ve rity を 人 々 に 与 え つ つ 、 真 理 が 獲 得 可 能 で あ る と い う ..... 言 葉 に 対 す る 信 そ の も の の 可 能 性 を 開 く こ と が で き る 、 と 主 張 さ れ る 23。 1987 年 論 文 で 、 M・ F・ バ ー ニ ア ッ ト 24は 、『 教 師 論 』 を 「 全 て の 教 え は 言 葉 な い し 記 号 を 通 し て 効 力 を 持 つ 」 all tea ching is effected t hrough words or ... signs( 1.5〜 10.31) と す る 第 一 の 議 論 と 「 教 え る こ と は 言 葉 な い し 記 号 を 通 し て 効 力 を 持 た な い 」 no teach i ng is effected thro ugh words or signs( 10.32〜 10.35 )と す る 第 二 の 議 論 と に 分 割 し 、更 に 、第 二 の 議 論 が そ の 後( 11.36〜 1 4.46)に 展 開 さ れ る と 考 え る 25。バ ー ニ ア ッ ト に よ れ ば 、第 一 の議論は知的伝達の道具としての言葉/記号を扱い、第二の議論はその反論 と 考 え ら れ 26、以 前 に 知 ら れ な か っ た 内 容 が 言 葉 に よ っ て 教 え ら れ る 、と い う 常 識 的 信 条 が 否 定 さ れ る こ と に な る 27。 何 事 も 言 葉 や 記 号 な し に は 教 え ら れ な い と い う ア デ オ ダ ト ゥ ス の 暫 定 的 結 論( 10.31)に 対 す る ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 反 駁 が 、記 号 な し に 教 え る こ と の 可 能 性 が 暗 示 さ れ る 鳥 刺 の 挿 話( 10.31) .... に お い て 見 出 さ れ る 28。一 方 で 、こ の 鳥 刺 の 実 例 は 話 す こ と に 関 す る 第 一 の 議 .... 論から示すことに関する第二の議論へ展開させ得ることになる。しかし、他 方で、鳥刺の実例そのものが教え得るとする第二議論と何者も他者に教え得 ないとする最終的結論との間に矛盾を生じさせる可能性があることになる 21 京都大学キリスト教学研究室紀要 が、これは鳥刺が学ぶ機会を見物人に与えるにすぎないと考えることによっ て 解 消 さ れ 得 る こ と と さ れ る 29。結 果 と し て 、バ ー ニ ア ッ ト に よ る『 教 師 論 』 の 主 題 は 、何 者 も 他 者 に「 知 識 」scie nti a を 教 え る こ と が で き な い と い う こ と に な る 30。 ........ ... 1989 年 論 文 で 、 F ・ J・ ク ロ ッ ソ ン 31は 、 全 体 を 記 号 に 関 す る 議 論 と 事 柄 に ..... 関 す る 議 論 と に 分 け 、更 に 、後 者 を 二 分 割 す る こ と に よ っ て 、 『 教 師 論 』の 三 分 割 構 造 を 主 張 す る 32。す な わ ち 、第 一 の 議 論 は 記 号 に よ っ て 記 号 が 示 さ れ る 場 合( 4.7〜 8. 21)で あ り 、第 二 の 議 論 は 問 わ れ た 直 後 に 行 動 す る こ と に よ っ て 事 柄 が 示 さ れ る 場 合( 8.22〜 10. 32)で あ り 、第 三 の 議 論 は 記 号 を 与 え る こ と に よ っ て 事 柄 が 示 さ れ る 場 合( 10.33〜 1 4.46)で あ る 33。ク ロ ッ ソ ン に よ れ ば、人間は人間的行為を、また、神や自然は自然的事柄を、記号なしに指示 することができるとする第二の議論に関する解釈において、マデックは過ち を 犯 し て い る 34。三 分 割 構 造 を 採 用 し て 論 じ る ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 主 張 は 、記 ..... 号が事柄を決して指示できないということではなく、記号の記号が他の記号 ..... を指示することと同じ程度には、事柄の記号は事柄を指示できないというも の で あ る 35。さ ら に 、記 号 の 探 求 の 目 標 が 神 と 考 え ら れ て い る こ と か ら も 推 測 さ れ る よ う に ( 8.2 2)、 事 柄 に 関 す る 「 普 遍 的 本 質 的 関 係 の 真 理 」 the truth of the universal ess ential relations を「 理 解 す る こ と 」inte lligere は 、 人 間 的 行 為 や 自 然 に よ っ て は 示 さ れ な い 36。第 三 の 議 論 で は 、事 柄 に 注 意 が 向 けられるところの、記号を与えることを通して教えるという可能性が論じら れ、この可能性が各々の議論で結論づけられた各論的教えの可能性を凌駕す る も の と 主 張 さ れ る 37。 1997 年 論 文 で 、 J・ P・ ド ラ ッ カ ー 38は 、『 教 師 論 』 に お け る 記 号 に 関 す る 前 半 の 長 い 議 論 が 言 語 の 無 能 力 性 を 例 証 す る と 考 え る C・ ア ン ド ー 39に 反 対 し 、 . 『教師論』におけるアウグスティヌスの主張は、記号と言葉によって何も教 ..... ..... え ら れ な い こ と に あ る の で は な く 、何 も 学 ば れ な い こ と に あ る と 捉 え る 40。ド ラッカーによれば、アウグスティヌスが否定することは、言葉そのものが知 ..... 識を伝えるという単純な考えであり、従って、言葉は意味伝達において構成 的な力ではないものの、聞き手を促して照明による学びへと向かわせる機能 .... を 有 し て お り 41、こ の 意 味 で 、学 ぶ こ と は 直 接 的 に 教 え る こ と を 通 し て は 生 じ 得ないが、他方で、教えることは促すこと、方向づけること、差し示すこと と し て 回 復 さ れ て い る 42。 換 言 す れ ば 、「 人 は 記 号 の 媒 介 な し に 学 ん だ り 理 解 したりすることができるが、教えることそのものは記号なしには成就され得 22 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 な い 」 43と 考 え ら れ て い る 。同 時 に 、教 え る こ と は 、通 常 、言 葉 を 通 し て 可 能 となるが、鳥刺の例では、言葉なしに教えることの可能性が示されており、 教 え る こ と は 話 す こ と だ け に 還 元 さ れ て い る わ け で は な い 44。 ド ラ ッ カ ー の 結論によれば、全ての言語使用は究極的に真理を開示する内的教師を指し示 すためであるが、 『 教 師 論 』の 誠 実 な 読 解 に よ っ て 、そ の パ ラ ド ッ ク ス 、す な わ ち 、一 方 で「 記 号 な し で は 何 も 教 え ら れ な い 」、他 方 で「 記 号 に よ っ て は 何 も 学 ば れ な い 」 と い う 逆 説 が 確 認 さ れ る こ と に な る 45。 二 、『 教 師 論 』 に お け る 言 葉 の 二 重 性 : 文 法 的 機 能 と 指 示 的 機 能 以上の諸見解を具体的に検討する前に、 『 教 師 論 』に お け る 言 葉 が 有 す る 特 性を考える必要があろう。議論の初めに、アウグスティヌスは「言葉は記号 ..... で あ る 」 uerba signa esse と 述 べ 、 言 葉 の 指 示 的 機 能 に 注 目 し つ つ 、 ヴ ェ ル ギ リ ウ ス 『 ア エ ネ ー イ ス 』 の 一 節 “ Si ni hil ex tanta superis placet urbe relinqui” の う ち 、指 示 内 容 に 関 し て 、最 初 の 三 つ の 単 語 を 吟 味 す る( DM 2.3)。 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス 「 私 は 、あ な た が こ の 一 節 を 理 解 す る inte lle gere と 信 じ る 。」 ア デ オ ダ ト ゥ ス 「 十 分 に [ 理 解 し て い る と ] 思 い ま す 。」 アウグスティヌス 「 各 々 の 言 葉 が 何 を 指 示 す る sign ificar e の か 、 私 に 言 っ て み な さ い 。」 46 ここで、言葉の指示内容が具体的に吟味される直前に、アウグスティヌスが アデオダトゥスに確かめている詩文の理解とは何だろうか。それは、一般的 な文章の理解概念、すなわち、言葉の文法的機能と辞書的語義とに、あるい ......... は、それに加えて文脈とに基づく文章全体の意味理解であると思われる。そ ..... うであれば、言葉の指示機能の分析は、言葉の文法的機能に基づく文章全体 の意味理解が暗黙のうちに前提されていることになる。 ... ... .. ... . 言葉の二重性に関する問題は、言葉の文法的(品詞的)機能と指示的(名 .. .. 詞 的 ) 機 能 と の 関 係 性 に 置 き 換 え る こ と が で き る 。「[ ‘ si’ と ‘ ex’ ] は 言 ..... 葉 uerba で あ る が 、 名 詞 nomina で は な い 」( 4.9) 47と い う 言 葉 の 品 詞 的 機 能 23 京都大学キリスト教学研究室紀要 に基づくアデオダトゥスの常識的見解に対して、アウグスティヌスは言葉の ..... 指 示 的 機 能 に 基 づ い て 、全 て の 言 葉( 品 詞 )は 名 詞 で あ り( 6.18 )48、 「言葉」 と「 名 詞 」と は 使 用 方 法 こ そ 異 な れ( 5.12)、そ れ ら の 意 味 内 容 は 同 等 で あ る こ と を 主 張 す る( 7.2 0)。し た が っ て 、ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス に よ れ ば 、言 葉 は 文 章 に お い て 「 八 つ の 品 詞 」 octo par tes or ationis( 6.17 ) の い ず れ か に 属 す ると同時に、指示される事柄との関係性から「名詞」とも呼ばれ得るのであ る。 さ ら に 、広 義 の 言 葉 が「 知 覚 さ れ る た め に 耳 を 打 つ こ と uerb era re」と「 認 識 さ れ る nosci た め に 記 憶 に 託 さ れ る こ と 」 と に 分 類 さ れ 、 狭 義 の 「 言 葉 」 uerba が 前 者 に 、「 名 詞 」 nomina が 後 者 に 関 連 づ け ら れ る ( 5 .1 2)。 同 様 に 、 「 言 葉 」 uerbu m が 「 あ る 指 示 内 容 signif icatum を 伴 う 分 節 化 さ れ た 声 に よ って言及されるもの」 ( 4.8)49と 定 義 さ れ 、 「 声 」uox が 強 調 さ れ る の に 対 し 、 「 名 詞 」 nomen は 「 そ れ に よ っ て 事 柄 res が 名 づ け ら れ る も の 」( 5.14) 50と 定 義 さ れ 、「 事 柄 」 re s と の 直 接 的 関 係 性 に 強 調 点 が 移 さ れ る 。 し た が っ て 、 狭 義 の「 言 葉 」は 音 声 的 側 面 や 文 法 的( 品 詞 的 )立 場 か ら そ う 呼 ば れ 、 「名詞」 は 事 柄 と の 関 係 性 や 記 号 理 論 的 立 場 か ら そ う 呼 ば れ る こ と に な る 。『 ア エ ネ .... ー イ ス 』の 一 節 に 戻 れ ば( 2.3)、‘ si ’は 文 法 的 に は「 条 件 」 を 意 味 す る 「 接 続 語 」で あ る が 、記 号 理 論 的 に は 、 「 精 神 」a nimus に お け る「 疑 い 」dubitatio .... を 指 示 す る 「 名 詞 」 と し て 働 く こ と に な る 51。 『教師論』において実際に取り上げられる例文を参照に、言葉の二重性を 検 証 し た い 。言 葉 の 名 詞 的 機 能 に 関 し て 、 “ Non erat in Christ o est et non, sed est in illo era t”( II コ リ ン ト 1 : 1 9) が 取 り 上 げ ら れ る ( 5.14)。 後 半 の ‘ est in ill o er at ’ が 完 全 な 文 章 に な る た め に は 、「 es t が 彼 の 内 に あ っ た 」 か 「 erat が 彼 の 内 に あ る 」 と 読 ま れ な け れ ば な ら な い 。 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス が 何 の 断 り も な し に 前 者 を 選 択 す る の は 、 前 半 の ‘ N on er at in Christo est et non’ を 「 era t が キ リ ス ト の 内 に あ る の で は な く 、 ま た 、 non が [ あ る の で も な い ]」 と 強 引 に 解 す れ ば 、 全 体 の 文 章 が 「 erat が キ リ ス ト の 内 に あ る の で は な く 、ま た 、non が[ あ る の で も な い ]。し か し 、er a t が 彼 の 内 に あ る 」と な り 、 ‘ erat ’を 主 語 と し て 考 え る と 文 章 全 体 の 合 理 的 理 解 が 得 ら れ な い か ら で あ る 。 し た が っ て 、‘ es t’ を 主 語 に し て 、「 est と non が キ リ ス ト の 内 に あ っ た の で は な く 、 est が 彼 の 内 に あ っ た の で あ る 」 と 読 ま れ た の で あ る 。こ の 前 提 の 上 で 、 ‘ est ’が「 キ リ ス ト の 内 に あ っ た 」こ と 、す な わ ち 、 「 こ れ ら の 三 文 字 に よ っ て 指 示 さ れ る こ と 」 と 捉 え ら れ 、‘ es t’ が 名 詞 と し 24 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 て解されている。 別 の 箇 所 で は 、 未 知 の 言 葉 に 関 し て 、“ et sarabarae eor um non sunt commutatae” ( ダ ニ エ ル 3: 94[ Vu lgate]= 3: 27[ Sep tuagint ])が 取 り 上 げ ら れ る( 10.3 3)。‘ e t ’ が 接 続 詞 で あ り 、‘ eorum’ が「 彼 ら の 」を 意 味 す る 属 格 複 数 代 名 詞 、‘ n on’ が 否 定 を 意 味 す る 副 詞 、 ‘ sunt com mut atae ’が「 変 化 さ れ な か っ た( 変 わ ら な か っ た )」を 意 味 す る 複 数 女 性 完 了 受 動 動 詞 で あ る と い う 文 法 的 知 識 を 基 に 、未 知 の 言 葉 で あ る‘ sarabar ae’が 単 数 女 性 与 格 名 詞 か 複 数 女 性 主 格 名 詞 と 推 定 さ れ 、前 者 の 場 合「 ま た 、彼 ら の sarabara に 対 し て 、そ れ ら( 女 性 代 名 詞 )は 変 わ ら な か っ た 」と な り 、後 者 の 場 合「 ま た 、 彼 ら の sarabarae は 変 わ ら な か っ た 」 と 解 さ れ る 。 前 者 は 「 そ れ ら 」 の 指 示 内容だけでなく文意も曖昧なので、後者がより相応しい文意であると判断さ れるわけである。この前提の上で、未知の言葉によって事柄そのものが開示 されるのか否かが吟味されている。 以上から、文章中の単語が問題となる場合、言葉の文法的機能ないし品詞 的機能を基にした文章の意味把握が前提とされる。それゆえ、単語単位が問 題とされるアウグスティヌスの記号理論は、文法的構造と語彙の辞書的語義 とを基礎とした文章の意味理論的な把握をその前提に要請する。したがって、 アウグスティヌスの記号理論において前提されることは、記号から構成され ..... .... る文章の意味は各記号の辞書的語義が十分に明らかな場合、把握可能である ..... ということである。換言すれば、言葉の指示的機能が問題とされる場合、す ... なわち、文脈全体から判断される真正な言葉の指示的意味は、言葉の文法的 .. 機能から把握される文章の文法的な字義的意味が前提とされるのである。 三 、『 教 師 論 』 に お け る 意 味 理 論 文意が把握可能であるとすれば、コミュニケーションにおける問題は次の 二つに絞られるように思われる。第一の問題は、文意そのものが話し手の意 志や思考と見なされ得るのか否かであり、第二の問題は、話し手が発する文 章の意味を把握する行為がそのまま教えられる行為と見なされ得るのか否 か で あ る 。第 一 の 問 題 に 関 し て 、 『 教 師 論 』の 後 半 部 分 で 話 し 手 の 言 葉 と 思 考 cogitatio と の ギ ャ ッ プ と い う 事 例 が 論 じ ら れ る が ( 13.42 -4 3)、 こ こ で は 、 思考を言葉に忠実に表現しようとする誠実な人間の十分に適切な発言のみ を考えたい。 25 京都大学キリスト教学研究室紀要 まず、 『 教 師 論 』の 主 題 を 確 認 し て お き た い 。ク ロ ッ ソ ン の 三 分 割 構 造 に よ る第三部の初めで、アウグスティヌスは次のように述べる。 し か し 、も し 我 々 が よ り 一 層 注 意 深 く 調 べ る な ら ば 、お そ ら く 、あ な た は そ の 記 号 を 通 し て 学 ば れ る di sci こ と は 何 も な い こ と を 発 見 す る だ ろ う 52。( 10.33) 『教師論』の主題は、マデックやジョーダンが述べるような「記号によって ...... は何も教えられない」ことではなく、マッケイやドラッカーが述べるように ..... 「 記 号 に よ っ て は 何 も 学 ば れ な い 」こ と で あ ろ う 53。研 究 者 に よ る 諸 見 解 か ら も推測されるように、 『 教 師 論 』の 議 論 で は「 教 え る こ と 」docer e と「 学 ぶ こ と 」 discere と が 幾 分 錯 綜 し て い る 。『 教 師 論 』 の 議 論 を 置 き 換 え て 、「 話 し 手が教えるために口述した内容を、聞き手はいかにして学ぶのか」と考える と 理 解 し や す い 。冒 頭 部 分 で 、 「 話 す こ と 」loqui は「 教 え る こ と 」docere に 他 な ら な い こ と が 同 意 さ れ る の で あ る が ( 1.1)、 吟 味 さ れ る ほ と ん ど の 引 用 ..... 文章で問題となっていることは、口述としての教える方法ではなく、解釈と .... しての学ぶ方法なのである。したがって、第二の問題は、話し手によって口 .... 述された文章に対する聞き手の意味把握がそのまま学ぶ行為と見なされ得 るのか否か、という問いに置き換えることができる。 構造的視点からは、 (話すことを例外に) 「記号なしでは何も教えられない」 と い う ア デ オ ダ ト ゥ ス の 見 解( 10. 29)が 否 定 さ れ る と こ ろ の 、ア ウ グ ス テ ィ ヌスが導入する鳥刺の例証が、すなわち、竿と鳥もちとを用いて小鳥を捕獲 する行程に関する例証が重要である。この点で、マデックが主張する二分割 構造は、 『 教 師 論 』の パ ラ ド ッ ク ス に 強 調 点 が 置 か れ 、鳥 刺 の 例 証 に 関 す る ア ウグスティヌスの目的が合理的に説明され得ないため、クロッソンが指摘す る 通 り 54、受 け 入 れ る こ と が で き な い 。鳥 刺 の 例 証 に お け る ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 主 張 点 に 関 し て は 、一 方 で 、バ ー ニ ア ッ ト が 述 べ る よ う に 55、鳥 刺 の 行 為 者 ........ が記号なしに教えることの可能性が例証導入の目的であったが、他方で、ド .......... ラ ッ カ ー が 暗 示 す る よ う に 56、 鳥 刺 の 観 察 者 が 事 柄 そ の も の か ら 学 ぶ こ と の 可能性に重点が移されているとも理解される。だとすれば、鳥刺の例証にお ける「事柄そのものから学ぶ」ことと結論部の「記号によっては何も学ばれ な い 」こ と と の 間 に は 、バ ー ニ ア ッ ト 57が 解 釈 す る よ う な 矛 盾 は な く 、鳥 刺 の 例 証 は「 理 解 す る 」in tellegere こ と が「 神 の 照 明 」に 依 存 す る と い う ア ウ グ 26 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 ス テ ィ ヌ ス の 主 張( 1 1.38-12.39)へ の 合 理 的 な 導 入 部 で あ る 、と 捉 え る こ と ができる。結果として、クロッソンが主張する三分割構造がより好ましいこ と に な ろ う 58。 先 程 、 話 し 手 に よ っ て 口 述 さ れ る 文 章 が 話 し 手 の 「 思 考 」 c ogitatio を 忠 実に反映するものと仮定したが、そのような状況の下で与えられた文章の意 味把握がそのまま学ぶ行為と見なされ得るのか否か、がここで問題とされる。 これに関して、アウグスティヌスは次のように述べる。 教 師 た ち は 、話 す こ と に よ っ て 伝 達 し よ う と 思 う と こ ろ の 自 ら の 見 解 cogitata が −−−学 問 そ の も の の 見 解 で は な く −−−( 生 徒 に よ っ て )知 覚 さ れ 保 持 さ れ る こ と で あ る と 果 た し て 公 言 す る だ ろ う か 。と い う の は 、 教 師 が 思 考 す る cogi tare 事 案 を 学 ぶ よ う に な る た め に 、 自 分 の 息 子 を 学 校 へ 送 る 者 ほ ど 、愚 か な る ほ ど に 献 身 的 な 者 と は 誰 で あ ろ う 。一 方、 [ 教 師 た ち ]が 教 え る こ と と 公 言 す る と こ ろ の か の 全 て の 学 問 、お よ び 、徳 と 知 恵 そ の も の の 学 問 を 、彼 ら が 言 葉 に よ っ て 説 明 す る と き 、 生 徒 と 呼 ば れ る 人 々 は 、 真 実 uer a が 述 べ ら れ た の か 否 か を 、 能 力 に 従 っ て か の 内 的 真 理 i nterior uerita s を 見 つ め な が ら 、 自 分 自 身 で .... 検 討 す る 。 そ れ ゆ え 、 彼 ら は そ の 時 に 学 ぶ discere の で あ る 59。( DM 14.45, 強 調 点 は 筆 者 に よ る ) 聞 き 手 が 学 ぶ の は 、話 し 手 が 言 葉 に よ っ て 説 明 す る 時 で は な く 、 「内的真理」 を見つめながら自分自身で検討する時である。だとしても、聞き手は話し手 によって口述された内容が真実であるのか否かを判断する以前に、文章の意 味把握が達成されていなければならない。聞き手による意味把握が達成され た後に、把握された意味の真実性が吟味されるわけである。アウグスティヌ スによれば、聞き手によって把握された文意が「内的真理」という基準と対 比されて、それが真実であると判断された時に、聞き手は学ぶことになる。 し た が っ て 、 与 え ら れ た 文 章 に 対 す る 聞 き 手 の 意 味 把 握 は −−− コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン で あ る に は 相 違 な い が −−−、 た と え そ れ が 話 し 手 の 思 考 cogitatio と 一致した意味把握だとしても、それがそのまま学ぶ行為とは見なされず、学 ぶ こ と は 聞 き 手 の「 内 的 真 理 」に 全 面 的 に 依 拠 す る こ と に な る 。こ の 意 味 で 、 学ぶとは、話し手によって与えられた文章の意味に対して、あるいは、十分 に信頼される話し手という仮定された状況の下では、話し手の思考内容に対 27 京都大学キリスト教学研究室紀要 ....... ............ し て 、自 発 的 に 同 意 し 、そ れ を 自 ら の 知 識 と し て 保 持 す る こ と に 他 な ら な い 。 三 分 割 構 造 の 第 一 部( 4.7〜 8.21 )に お け る ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 主 張 が「 記 号なしでは何も教えられない」ことである、と多くの研究者によって指摘さ れ る 。 こ の 主 張 は 鳥 刺 の 例 証 で 部 分 的 に 否 定 さ れ る の で あ る が ( 10.32)、 特 ....... に「徳と知恵の学問」を教えようとするには、多くの場合、記号を用いなけ れ ば 不 可 能 で あ ろ う 。し た が っ て 、 『 教 師 論 』の 所 謂 パ ラ ド ッ ク ス と は 、一 方 ...... . で、話し手側からすれば「記号なしでは何も教えられない」が、他方で、聞 ..... き手側からすれば「記号によっては何も学ばれない」と解すべきであり、聞 き手に対して話し手が与える記号作用は、聞き手の学びを促すことに限定さ れ る こ と に な る ( 1 4. 46)。 ところで、アウグスティヌスの照明説において、話し手の意志的特性は学 びにおける効力性という点ではほとんど無視される。 『 教 師 論 』の 初 め に 、 「誰 で あ れ 話 す 人 は 、分 節 化 さ れ た 音 声 を 通 し て 、自 ら の 意 志 の 記 号 uoluntatis signum を 外 部 に 与 え る 」 60と 口 述 が 説 明 さ れ ( 1.2)、 鳥 刺 の 例 証 で は 、 観 察 者の十分な知性だけでなく、行為者の教えようとする意志が前提されていた ( 10.32)。 し か し 、 結 論 部 の 照 明 説 に お い て 、 話 し 手 の 意 志 は 聞 き 手 の 学 び を促す要素として反映されているものの、学びの可能性はあくまでも「内的 教師」に依拠しており、話し手の意志という特性はせいぜい話し手の口述過 程 に 作 用 す る に す ぎ な い 。し た が っ て 、 『 教 師 論 』に お け る 話 し 手 の 意 志 の 善 性は聞き手の学びそのものには作用しないことになる。 確かに、 「 賢 者 は 愚 者 に 勝 る 」sapientes homines stultis [ sun t] meliores ( 12.40 ) の よ う な 論 理 的 命 題 に 関 す る 聞 き 手 の 真 偽 判 断 は 話 し 手 の 意 志 と は ほ と ん ど 無 関 係 に 達 成 さ れ よ う 。 し か し 、「 私 は 飛 ぶ 人 を 見 た 」 hominem uolantem [uidi]( 12. 40)の よ う な 主 張 的 命 題 61に お い て 、仮 に そ れ が 真 正 な 主 張 で あ る 場 合 、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス に よ れ ば 、「 理 解 す る こ と 」 intellegere に 達 す る た め に は 「 信 じ る こ と 」 crede r e こ と が 要 請 さ れ る ( 11.37)。 信 じ ることは、話し手が有する意志の善性を、すなわち、話し手と世界との真正 で健全な関係性を聞き手が積極的に評価した結果であるように思われる。そ うであれば、アウグスティヌスの照明説は論理的命題に対して有効であるが、 歴史性を含む主張的命題に対しては不十分であることになる。なんとなれば、 「内的真理」は信そのものを聞き手の精神内で保証することができないから である。繰り返しになるが、聞き手の学ぶ行為とは、話し手の「思考」 cogitatio を 言 葉 に よ っ て 単 に 把 握 す る こ と で は な く 、 聞 き 手 は 自 ら の 「 内 28 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 的真理」を基準として話し手の思考内容に自発的に同意しつつ、それを聞き 手自身によって発見された知識として保持することがなければ達成されな い。 し か し 、 判 断 の 基 準 が 「 真 理 」 uerit a s で あ る 理 性 主 義 的 方 法 で は 、 判 断 の対象が論理性に限定され、歴史性を含む主張に対して、聞き手は判断する ための基準を、すなわち、話し手の意志的特性を持ち得ないことになる。い ずれにせよ、信そのものは聞き手の内的世界のみの出来事ではなく、話し手 や世界に対する聞き手の関係性に多く依存するであろうが、話し手の言葉そ のものには話し手の意志の善性を保証し、自発的な同意を聞き手に与えるだ け の 開 示 能 力 が 認 め ら れ な い 、と 考 え ら れ て い る 。こ の 意 味 で 、P・ ケ リ ー が 述 べ る よ う に 、学 び の 方 法 と し て 、 『 教 師 論 』で は「 見 る こ と 」intuitus に 由 来 す る 「 直 観 的 論 証 」 intuitive reasonin g が 主 張 さ れ て お り 62、 包 括 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン に 支 え ら れ る 「 言 説 的 論 証 」 discursive rea soning は 最 終 部 で 否 定 さ れ る の で あ る 63。 おわりに 確 か に 、『 教 師 論 』 に お け る 言 語 は 、 記 号 理 論 的 な 観 点 か ら 、 記 号 を 超 越 す る リ ア リ テ ィ ー に 聞 き 手 の 関 心 を 向 け る こ と が で き る 。し か し 、意 味 理 論 的 な 観 点 か ら 、そ の 言 語 に は( 文 章 単 位 で さ え )主 張 的 命 題 に 対 す る 理解の前提となるところの話し手に対する信そのものを聞き手に生じせ しめるような媒介的な力が認められていないのである。それゆえ、聞き手 は 言 葉 を 通 し た「 教 え 」doctrina の 伝 承 と そ の 結 果 と し て の キ リ ス ト 教 共 同 体の形成という可能性から閉ざされていることになる。 .. アウグスティヌスのこの立場は、音声が「内的言葉」の受肉と捉えられる . 『キリスト教の教え』で修正されることになる。そこでは、心の内奥から生 ... まれる音声が魂を揺り動かすことのできる言葉の力として捉え直され、キリ スト教共同体の形成の可能性が内に愛を宿す言葉を媒介に開かれるのであ る 。こ の よ う に 、 『 教 師 論 』に お け る 学 び の 理 論 は 、中 期 以 降 に 展 開 さ れ る ア .. .. ウグスティヌスの受肉に基づく言語理論とは対照的に、内住のキリストに根 拠が置かれた内的照明の神学として、認識論的な基礎理論を提供している。 そして、この『教師論』における意味理論は、主張的命題に関する言語の媒 介性という観点からは無力であり、内的照明という確実性に対して、言葉は 外側から聞き手の関心を言葉が指し示す対象に向けること以上には効力を 29 京都大学キリスト教学研究室紀要 ...... 有しない。この意味で、それは力のない言葉と捉えることができよう。 1 アウグスティヌスの記号理論は言葉が「指し示す」というその記号的な働 きに注目する。これに対し、彼の言語理論は音声としての言葉だけでなく 分節化以前の心における概念的要素をも「内的言葉」としてその射程に入 れる。ここでは、分節化された記号としての言葉と文章理解との関係性に 関する議論を「意味理論」と呼ぶ。 2 Goulven Madec , “Ana lyse du De magistro ,” Revue des É tudes Augu stiniennes 21 (1975 ): 63 -71 . 3 Fran çois -Joseph Thon nard, trans., Saint Augu stin, Le Ma ître, Du libre arb itre, La musique (Oeu vres d e Sain t Augu stin 6 ), P aris, Desclée d e Brou wer, 1 952, pp . 15, 103. 4 Bernd Reine r Voss, Der Dia log in der frühch ristlichen L itera tur , München, Wilhelm Fink Verlag, 1 970, p. 272 . 5 Madec, “Ana lyse d u De magistro ,” pp. 63 -64. 6 Ib id., p. 64 . 7 Ib id., p. 65 . 8 Ib id., p. 65 : un exe rcice d’ac co mmodation de l’esprit à l’éclat de la lu mi ère spirituelle. 9 10 Ib id., p. 71 . Mark D. Jordan, “Words and Word : Incarnation and S ignification in Augustine’s De Doctrin a Christiana ,” Augustinian S tud ies 11 (1980 ): 177 -196. 11 Ib id., p. 183 . 12 Ib id., p. 183 . 13 Ib id., p. 183 . 14 Louis H. Mack e y, “Th e Mediato r Med iated : Faith and Reason in Aug ustine’s “De Magistro”,” Franc iscan S tud ies 42 (1982 ): 135 -155. Ib id., p. 136 . Mack e y は 、 パ ラ ド ッ ク ス の 後 者 を Madec や Jordan の よ う に ...... ... 「 記 号 に よ っ て は 何 も 教 え ら れ な い 」 と せ ず 、「 記 号 に よ っ て は 何 も 学 ば れ .. ない」と考える。 15 16 Ib id., p. 144 . 17 Ib id., p. 136 . 18 Ib id., p. 151 . 19 Ib id., p. 153 . 30 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 20 Ib id., pp. 14 3 -145. 21 Ib id., p. 154 : Without illu mination the d ivine reality can not be ack no wled ged in the hu man sign , bu t withou t faith we cannot reach th rough the h u man signifier to the d ivine sign ified. 22 Ib id., pp. 14 5 -146. Macke y に よ れ ば 、「 記 号 と 信 仰 と の 媒 介 」 が な け れ ば 、 人 間 は 「 真 理 の 光 」 に 対 し て 心 を 開 く こ と が で き な い ( p. 145)。 23 Ib id., 153. 24 M. F. Burn ye at, “Wittgenstein and Augustine De Magistro ,” The Aristo telian Society 61 (1987 ): 1 -24 . 25 Ib id., p. 8. 26 Ib id., p. 8. 27 Ib id., p. 9. 28 Ib id., pp. 12 -13. 29 Ib id., pp. 14 -15. 30 Ib id., p. 8. こ の 意 見 は 『 再 考 録 』 に お け る ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 発 言 と 一 致 す る ( Retractatione s 6 )。「 人 間 に 知 識 scientia を 教 え る 教 師 は 神 以 外 に な い こ と が 、 そ こ で 議 論 さ れ 、 探 求 さ れ 、 発 見 さ れ る 」( Retracta tiones 1.12 [CCSL 57, p . 36]: in qu o disputa tu r et quaeritu r et in uenitu r, mag istru m non esse qui docet h o mine m sc ie nti a m n isi deu m)。 31 Fred erick J. Cro sson, “The Structure o f the D e magistro,” Revue des Études Augustiniennes 35 1 /2 (1989): 120 -127. 32 Ib id., p. 122 . 33 Ib id., p. 122 . こ の 主 張 は 、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス 自 身 が DM 4.7 で 暗 示 す る 分 類に基づく。 34 Ib id., pp. 12 5 -126. 35 Ib id., p. 123 . 36 Ib id., p. 125 . 37 Ib id., p. 126 . 38 Jason P. Drucker, “Te aching as P oin tin g in ‘The Teacher ’,” Augustinian Stud ies 2 8 2/2 (199 7): 101 -132. 39 Cliffo rd Ando, “Augustine on Language, ” Revue des Études Augu stiniennes 40 1/2 (1994): 45 -78. 40 Ib id., p. 118. 41 Ib id., p. 118. 42 Ib id., p. 120 . 31 京都大学キリスト教学研究室紀要 43 Ib id., p. 123 : Man can lea rn o r understand withou t th e mediation o f sign s, bu t teach ing itse lf canno t b e acco mp lished without them. 44 Ib id., p. 123 . 45 Ib id., p. 128 ; c f. p . 12 1. 46 DM 2.3 (CCS L 29, p. 160): Aug. Credo te hu nc uersu m in telleg ere. Ad. Satis arbitro r. Aug. Dic mihi, q uid singu la u erba significent. 47 DM 4.9 (CCS L 29, p. 167): uerb a sun t nec tamen no mina .... 48 Cf. DM 6.18 (CCS L 2 9, p. 176 ): o mnes partes orationis et no min a p osse d i ci et uocabula, .. . ( 口 述 の 全 て の 部 分 [ 品 詞 ] は 名 詞 と も 用 語 と も 呼 ば れ る ); G. Christophe r S tead, “Augustine ’s «De Magistro »: a p hilosop her ’s view,” Sig num Pieta tis: Festgabe für Cornelius Petru s Ma yer OSA zum 60. Gebu rtstag [Cassiciacu m 40], Wü rzburg , 1989, pp. 63 -73, esp. pp . 66 -67. S tead に よ れ ば 、 常 識 的 見 解 に 対 す る 、「 全 て の 言 葉 は 名 詞 で あ る 」 all words are nouns こ と の 主 張 が 『 教 師 論 』 の 前 半 部 分 ( 4.7〜 8.21 ) の 主 題 で あ る 。 49 DM 4.8 (CCS L 29, p. 165): uerb u m sit, quo d cu m aliq uo sign ificatu articu lata uoce pro fe rtu r .. .. 50 DM 5.14 (CCS L 29, p. 172): no men esse id, q uo res aliqua no minatur . .. 51 もしアウグスティヌスが言葉の文法的機能を考慮せず、言葉が名詞であ り 、 従 っ て 、 文 章 が 名 詞 の 結 合 で あ る と 考 え た と す れ ば 、『 哲 学 的 探 求 』 で 展開されるヴィトゲンシュタインのアウグスティヌス批判は正しいことに な る ( Burn yea t, p . 9 )。 し か し 、 ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス の 言 語 理 論 は 言 葉 の 二 重 性 に 基 づ く も の で あ り 、 接 続 詞 か つ 名 詞 で あ る ‘ si (if)’ が 名 詞 か つ 名 詞 で あ る ‘ tab le’ や ‘ Soc rate s’ と 同 じ で あ る の で は な い ( Burn yeat, p. 9 )。 た と え ば 、“ if Soc rates tou ch es a tab le, ... ” と い う 文 章 に お い て 、 ‘So crates’は 主 格 と し て の 名 詞 、‘ tab le’ は 対 格 と し て の 名 詞 、‘ if’ は 接 続 詞 と し て の 名 詞 と考えることができる。 52 DM 10.33 (CCS L 29, p. 192): quod si d iligen tiu s con sid eremus, fo rtasse n ih il inuen ies, quod p er sua signa discatur. 53 最 近 で は P. Cary が こ の 立 場 を 支 持 し 、 次 の よ う に 述 べ る 。「 教 え の 前 半 は「我々は教えるために記号を用いる」と読まれるべきである。我々が記 号 を 用 い る と き は い つ も 、 何 か を 教 え よ う と し て い る 。[ 教 え の ] 後 半 で あ る「我々は記号からは何も学ばない」という『教師論』の主題は我々に次 32 力のない言葉:アウグスティヌス『教師論』における意味理論 のことを教えようとする。すなわち、教えることの達成は教師が述べる何 事かに依存するのではなく、真理そのもの、つまり、全ての永遠的言葉と 意味を越える内的現れによって教えることとして、アウグスティヌスが描 写 す る と こ ろ の よ り 内 的 な 何 事 か に 依 存 す る 」( P hillip Cary, Outward S igns: The Powerle ssne ss of E xtern al T hing s in Augu stine’s Though t , New York, Oxfo rd University P ress, 2008, p. 92 : The first h alf of the lesson, “we use sig ns to teach, ” sho uld be read: whene ver we u se sign s, we are tr ying to teach so meth ing. The second half, the O n the Teacher thesis that “we learn no thing fro m signs, ” tries to tea ch us th at th e succe ss o f teach ing d oes no t depend on an ything the teacher sa ys b ut o n so meth ing more in ward, which Augustin e dep icts as a teach ing b y Tru th itse lf, a vision beyon d all ex tern al wo rds a n d sign ification )。 54 Crosson, p p. 125 -126. 55 Burn ye at, pp. 14 -15. 56 Drucker, p. 122 . 57 Burn ye at, p. 14. 58 ク ロ ッ ソ ン の 三 分 割 構 造 は 、 M. Bettetini に よ っ て 支 持 さ れ る ( Maria Bettetini, “Agostin o d’Ippona : i segn i, il ling u aggio,” in Knowledge through Signs: Anc ien t Sem iotic Theories a nd Practices , ed. b y Gio van ni Man etti, Bologna, Brepols, 19 96 , p. 221 )。 59 DM 14.45 (CCS L 29, p. 202): Nu m h oc magistri p rofiten tu r, u t cog itata eo ru m ac non ipsa e disc iplina e, quas loqu endo se tradere pu tan t, p ercip iantur atque tenean tu r ? Nam quis ta m s tulte curiosu s est, q ui filiu m suu m mittat in sco lam, ut quid magister c ogite t d isca t ? At istas o mnes d iscip linas, qu as se docere profitentu r, ipsiusque u irtu tis a tque sapientiae cu m uerbis exp licauerint, tu m illi, qui d iscipu li uocan tu r, utru m ue ra d icta sin t, apud semetipso s con siderant interiore m scilice t illa m ueritate m p ro u iribu s in tuen tes. Tunc ergo discunt, ... . 60 DM 1.2 (CCS L 29, p. 158): Qui en im loqu itu r, suae uolun tatis signu m fo ras dat per articu la tu m sonu m, .... 61 ここでは、歴史性に関する話し手の主張を含み、論理性のみを通しては 理解され得ない命題を「主張的命題」と呼ぶ。 62『 論 理 学 』 に お い て 、 カ ン ト は 命 題 を 「 そ の 確 実 性 が 諸 概 念 の ( つ ま り 述 語の、主語である思念との)同一性に基づく」ような「分析的命題」と 「命題の真理が諸概念の同一性を根拠とするのではない」ような「総合的 命題」とに分類し、分析的命題によって、認識は形式的に増大するに過ぎ 33 京都大学キリスト教学研究室紀要 ず 、 実 質 的 な 増 大 が 見 込 め な い こ と を 主 張 す る ( カ ン ト 『 カ ン ト 全 集 17, 論 理 学 ・ 教 育 学 』, 湯 浅 正 彦 ・ 井 上 義 彦 ・ 加 藤 泰 史 訳 , 東 京 , 岩 波 書 店 , 2001 年 , 152 -153 頁 )。 カ ン ト の 議 論 に 従 え ば 、『 教 師 論 』 に お け る 認 識 過 程 はアプリオリな「直観的論証」に限定され、認識の実質的な増大は見込め ないと考えることもできる。 63 Cary, p. 100. 34