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改善が進む台湾と中国の関係について~政権交代前後の両岸情勢
SCB SHINKIN CENTRAL BANK アジア業務室情報 Vol.64(21-1) (2009.4.28) 総合研究所(アジア業務室) 〒103-0028 東京都中央区八重洲 1-3-7 TEL.03-5202-7674 FAX.03-3278-7048 URL http://www.scbri.jp 改善が進む台湾と中国の関係について ~政権交代前後の両岸情勢~ 視点 2008 年 12 月 15 日、台湾の高雄港より中国の天津に向け、台湾籍の貨物船「立敏輪」が出 港した。同船は途中、香港等の第三地を経由せず直接天津に寄港した。台湾では政治的な理 由で 49 年以来、中国との「三通」(通商、通航、通郵)を制限してきた。しかし 08 年3月、 第 12 回総統選挙で国民党が政権に復帰して以降、台湾と中国との対話が急速に進展した。対 話進展を反映し 08 年 11 月「四項協議」が署名され、三通の全面開放が実現した。 本稿では、歴史的経緯から発生した台湾と中国の政治的対立、また政権交代を経て改善し た両岸の関係を、報道等の事例をもとに考察する。また併せて台湾と中国がそれぞれ「中国」 を主張した時代から、関係が大きく改善した背景を概観する。 要旨 1895 年、日清戦争に敗れた清朝は日清講和条約(下関条約)により台湾、澎湖諸島を日本に 割譲した。以降、1945 年に第2次世界大戦の終戦を迎えるまで、台湾は日本の植民地であ った。1949 年、共産党との内戦に敗れた国民党は中華民国政府を台湾に移転した。 蒋介石総統は戒厳令を敷き、台湾と中国大陸の往来を制限した。79 年に中華人民共和国が 米国と国交を回復し、台湾に対し「三通」の開放を呼びかけた。しかし、当時の台湾は不 接触、不談判、不妥協の「三不政策」を理由に、その申し出を受け入れなかった。 87 年に戒厳令が解除され、中国大陸出身者の里帰りが認められた。両岸交流に伴い発生す る諸問題を解決するため、91 年に民間団体の「海峡交流基金会(台湾)」と「海峡両岸関係 協会(中国)」が設立された。 99 年に李登輝総統が「二国論」を発表して以降、台湾と中国の政治的交流は停滞する。そ の後、中国と一定の距離を保つ民進党政権下でも交流低迷の状況は続いた。しかし 08 年に 国民党が政権に復帰後、台湾と中国の対話は活性化した。 「三通」が全面的に開放され、台湾の WHO オブザーバー参加も視野に入ってきた。政治的 な思惑が錯綜するなか、東アジアの平和維持を実現するため、台湾と中国の対話は引き続 き前向きに進められるであろう。 キーワード 三通、国民党、馬英九、総統選挙、戒厳令、中華民国、ミサイル演習 ©信金中央金庫 総合研究所 目次 はじめに 1.台湾と中国が対立した歴史的背景 (1) 中華民国の建国から台湾移転まで (2) 2つの中国が成立 (3) 「三通」の始まり (4) 「九二共識、一中各表」 2.民進党から国民党への政権交代 (1) 李登輝の対中政策 (2) 民主進歩党(民進党)の対中政策 (3) 第 12 回総統選挙の結果 (4) 対中政策融和の背景 3.対話進展による台中関係改善のポイント (1) 「三通」の全面開放 (2) 国際機関(WHO 専門部会 IHR)への参加 (3) 中国のパンダ外交 (参考) 最近の日台交流 おわりに はじめに 台湾は地域名で、国名ではない。台湾政府はパスポート等での国名を「中華民国」 としている。人口は約 23 百万人、1人あたりのGDPは約 17 千米ドルである。参考まで、 中国・上海の人口は約 19 百万人、1人あたりのGDPは約 10 千米ドルである。09 年4月 現在、台湾を国として認め外交関係を有する国は 23 か国 1 であり、中国は 150 か国を超 える。国民党政権が台湾に移転した 49 年以来、台湾は「中華民国」として、中国は「中 華人民共和国」として、それぞれが正統中国であることを主張してきた。「2つの中国」 問題は、未だ解決していない。しかし、08 年5月に台湾の与党が、民進党から国民党 に交代以降、両岸関係は極めて良好な状況を維持している。 「2つの中国」問題が発生した背景には、第二次世界大戦での日本の敗戦も関係し ている。20~30 年代、中国大陸では国民党と共産党が内戦と連携を繰り返した。49 年、 共産党との戦いに敗れた国民党は中華民国政府を台湾に移転した。国民党の移転以前、 台湾は日本の植民地だった。同時期に日本人が整備したインフラを活用し、蒋介石総統 は台湾で新たな中華民国をスタートさせた。他方、毛沢東主席は中国大陸で中華人民共 和国を建国した。 1 ツバル、ソロモン諸島、マーシャル諸島、パラオ、ナウル、キリバス共和国、バチカン、スワジランド、ブルキナファソ、ガ ンビア、サントメ・プリンシペ、セントルシア、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、パナマ、 パラグアイ、セントビンセント、ベリーズ、セントクリストファ・ネイビス、ドミニカ共和国 1 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 1.台湾と中国が対立した歴史的背景 (1) 中華民国の建国から台湾移転まで 中華民国は、1912 年に孫文を臨時大総統として南京で成立した。前代の「清朝」 最後の皇帝は、映画「ラストエンペラー」のモデルとなった愛新覚羅 溥儀である。 当時の中国大陸には、日本をはじめ欧米列強が実質的な植民地支配を目論み進出し ていた。 21 年には孫文の三民主義を掲げる国民党に対し、マルクス・レーニン主義を標 榜する中国共産党が結成された。政治思想の異なる両党は、時に「合作」(協力関 係)し、時に武力抗争を繰り広げた。また 25 年の孫文死去後、蒋介石が国民党内で 権力を握る。以降、蒋介石は次第に反共色を強め共産党との抗争を激化させていっ た。第二次世界大戦終戦後の 46 年6月、国民党と共産党の内戦が再開した。共産 党軍は撤退する日本兵から最新の武器を奪い優勢となった。北京、南京、上海など の主要都市を共産党に占拠された国民党は、行き場を失い台湾に中華民国の政府機 能を移転させた。 (2) 2 つの中国が成立 1949 年、蒋介石が台湾に中央政府機構を移転する一方、毛沢東は中国大陸で中華 人民共和国を建国した。この時から「2つの中国」問題が発生する。当初、国際社 会では中華民国が「中国」であった。これは国際連合が発足した 45 年、中国の国 名が中華民国だったことに起因する。国連の常任理事国であった中華民国は、台湾 に移転した以降も、その立場を維持した。しかし、71 年、中国大陸を実効支配して いるのは共産党政権であり、台湾に移転した国民党政権ではないと国連で決議され たため、中国が国連に加盟し台湾は国連を脱退した。 図表1:台湾と中国の対話の変遷 会 (( 台中 湾国 )) 設設 立立 対話改善期(12年) 08年 九 二 国共 民識 」 対話低迷期(38年) 中 陳 国 水 と 扁 台 総 湾 統 は そ 一 れ 辺 ぞ 一 れ 国 別 論 の 国 」 発 表 02年 台 湾 李と 登中 輝国 は 総特 統殊 な 国 二と 国国 論と の 関 係 」 」 化 中 国 戒へ 厳の 令里 解帰 除り 解 禁 99年 「 」 台 湾 米同 中胞 国に 交告 正げ 常る 書 91年 海海 峡峡 交両 流岸 基関 金係 協 会 「 、 令 台 湾施 へ行 移 転 87年 「 「 国 民 党 政戒 権厳 79年 「 49年 党 のに 政基 権づ 復く 帰対 話 再 開 対話低迷期(9年) (出所)各種報道等より作成 2 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 中国は台湾を「中華人民共和国」の一部と主張し、台湾は「中華民国」が中国の 正統政府と主張した。しかし米国、日本をはじめとした主要各国は国連に加盟した 中華人民共和国と国交を結び、中華民国とは国交を断絶した。日本は 72 年に、米 国は 79 年に中華人民共和国と外交関係を結んでいる。台湾と国交が無くなった各 国は民間団体を設置し、台湾との実質的な外交関係を継続させている。日本は 72 年に(財)交流協会を設立し、台湾在留邦人ならびに邦人旅行者の入域、滞在、子女 教育等につき、各種の便宜を提供している。日本の外務省は「日中共同声明」の中 で、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを十分理解し、尊重す ると表明している。同様に米国は「認識する」(acknowledge)、カナダは「留意す る」(take note of)という表現で中国と台湾の主張に理解を示している。 台湾に移転した蒋介石政権は、戒厳令を敷いた。戒厳令のきっかけとなった2.28 事件は、以下のとおりである。47 年2月 27 日、台北市内で煙草の闇販売をしてい た老女を外省人 2 の密売取締員が摘発した。老女は土下座して許しを懇願したが、 取締員は銃剣の柄で殴打し、商品と所持金を没収した。当時、酒、煙草、砂糖、塩 等は、日本統治時代から引継いで中華民国政府の専売品となっていた。しかし中国 大陸では煙草は自由に販売出来たため、本省人はこの措置を差別と受け止め不満を 持っていた。老女に同情して集まった多くの本省人に、取締員は発砲し無関係な本 省人を射殺した。翌 28 日、抗議のデモ隊が台北市庁舎へ大挙して押しかけた。し かし政府側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据え、非武装の デモ隊へ向けて無差別に掃射を行い多くの市民を殺害した。この事件で約3万人が 犠牲になったと言われている。その後、言論弾圧の動きが強まり 49 年5月、戒厳 令が宣布された。戒厳令は、蒋介石が亡くなった後も 87 年まで続いた。この間、 台湾経済は軽工業から重工業へと工業化が進み飛躍的に発展した反面、「言論の自 由」が制限され恐怖政治が続いた時代であったといわれている。 (3) 「三通」の始まり 「三通」とは、台湾と中国の間の「通商」「通航」「通郵」を指す。三通という 言葉が最初に登場したのは、79 年1月1日に中国全国人民代表大会常務委員会が 発表した「台湾同胞に告げる書」だと言われている。この中で中国は台湾に対し、 両岸交流を促進するため三通開放を呼びかけた。しかし、当時の台湾は、「不接触」 「不談判」「不妥協」の「三不政策」を理由に、その申し出を受け入れなかった。 79 年1月1日は、中国と米国が正式に国交を回復した日であり、同時に台湾と米 国が国交を断絶した日でもある。 2 「本省人」 :主として 16 世紀後半以降、福建、広東などから台湾に移住定着した人々で、閩南系 70%、客家系 15%が占める。 「外省人」 :国民党政府の台湾移駐とともに大陸から移ってきた人々。 3 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 「三不政策」が最初に変化したのは、87 年に戒厳令が解除され、中国大陸出身 者の里帰りを正式に解禁した時だと言われている。背景には 60~70 年代に台湾の 高成長を支えてきた労働集約型産業が技術集約型産業へと移行するにあたり、製造 業が新たな投資先を見つける必要があったこと、また経済成長により金銭的に余裕 が出来たため、禁を守らず日本等の第三国を経由して中国大陸に渡航する旅行者が 増加したこと、などが考えられる。 続く変化の契期は、91 年に民間団体の「海峡交流基金会(海基会・台湾)」と「海 峡両岸関係協会(海協会・中国)」が設立されたことである。当時、中国大陸から台 湾への密航者が急増し、送還手続き等の実務協議が必要となっていた。台湾と中国 は、政府間の接触は行なわない。そこで、民間交流に伴い発生する諸問題を解決す るため、海基会と海協会がそれぞれ政府から委託を受け、実務交渉にあたることと なった。09 年4月まで、両会により2回の「四項協議」が合意に達した。最初は 93 年にシンガポールで、2度目は 08 年 11 月に台北で署名が行われた。最初の合 意内容は、文書の定義、今後の会談の事務手続き等で、2回目は、空運、海運等「三 通」の開放にかかる合意である。(合意内容の詳細は、後述「3.(1)「三通」の全面 開放」参照) (4) 「九二共識、一中各表」 93 年、シンガポールで合意された「四項協議」に先立ち、海基会と海協会は 92 年、香港で会談を行った。同会談中、台中間で「九二共識」(92 年のコンセンサス) と呼ばれる合意が形成されたといわれている。「九二共識」は口頭での合意であり、 内容は台湾と中国大陸で解釈が異なっている。台湾が認識する「九二共識」は「一 中各表」、すなわち「一個中国、各自表述」の短縮で「中国はひとつであるが、そ の解釈は各自で表明する」と訳す。台湾にとっての中国は「中華民国」であり、中 国にとっての中国は「中華人民共和国」である。 他方、中国が認識する「九二共識」は「一中原則」、すなわち「台湾は中国の一 部」であり「中国はひとつ」と解釈している。「九二共識」は口頭合意で、正確な 内容は不明である。「九二共識」は台中双方にとって都合の良い解釈が出来るため、 結論が出ない政治的な「2 つの中国」問題を棚上げし、経済交流等を優先するため 図表2:「九二共識」に対する考え方の違い等 馬英九(台湾・国民党) 胡錦濤(中国・共産党) ・「一つの中国」の中国は ・「一つの中国」について、「中 「中華民国」を指す。しかし、 華人民共和国」とは明言せ これを中国に認めさせる発 ず。 言ではない。 ・「中華民国」は独立国家で ・「九二共識」の考え方をベー あり、領土と主権は守る。 スに台湾との対話を進める。 (出所)各種報道等より作成 陳水扁(台湾・民進党) ・「3つの不明確」(口頭での合 意であったため) ①「九二共識」の事実が存在 したかどうかは不明確 ②「九二共識」の具体的な内 容が如何なるものか不明確 ③「九二共識」をもし協議再開 の基礎とした場合、未来の発 展と起こり得る変化が不明確 ・中国と台湾は異なる国 各国の見解 ・「中華人民共和国を中国 唯一の合法政府であること について」 ・日本「理解し、尊重する」 ・米国「acknowledge」(認識 する) ・カナダ「take note of」(留意 する。) 4 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 の玉虫色の結論とも言われている 3 。しかし、08 年3月の台湾の総統選挙後に行わ れた胡錦濤・国家主席とブッシュ(子)大統領の電話会談の内容を、中国の「新華社」 通信が伝える中で、「九二共識」を「One China, but each side is entitled to give different interpretations.」と訳している。その際、胡錦濤国家主席はブッシュ 大統領に対し、「九二共識」をベースに台湾との対話を再開したいと話している。 90 年代初頭、台湾と中国が歩み寄るために用いた「九二共識」は、約 20 年の歳月 を経て再び台中関係の改善を導くキーワードとして表舞台に登場した。 2.民進党から国民党への政権交代 (1) 李登輝の対中政策 台湾と中国の関係は、87 年に台湾で戒厳令が解除された後、中国大陸出身者の 里帰り解禁、そして 92 年の「九二共識」を経て改善傾向にあった。しかし、95 年 頃から再び関係が悪化する。背景に、初の本省人総統である李登輝 (国民党)の外 交姿勢があるといわれている。95 年6月、李総統は現職の総統として訪米を初め て実現させ、滞在期間中、非公式であったが母校コーネル大学で講演を行った。そ の講演内容が台湾の国際社会への復帰などに触れた事実上の政治演説であったた め、中国は台湾が独立を志向しているとして非難し、翌月、台湾北部沖合の公海上 で台湾に向けたミサイル発射演習を行った。 96 年3月、初の直接選挙による総統選挙が行われた。それ以前、台湾の総統は、 選挙で選ばれた国民代表大会の議員により間接選挙で選出された。ただし、共産党 との内戦に備えた総動員体制 4 が敷かれていたため、同議員は長期にわたり改選さ れず、結果として蒋介石親子の長期政権を支えることとなった(中国大陸で選出さ れた同議員は 91 年まで再選されなかった。)。88 年、李登輝が総統に就任して以 降、数次にわたる憲法改正が行われ、国民代表大会は形骸化し、台湾の総統は有権 者による直接選挙で選ばれることとなった。民主化を進める台湾に対し中国は、独 立を模索する動きとして警戒感を強めていった。 初の直接選挙による総統選挙を控えて、台湾海峡に向けた中国のミサイル演習は 激しさを増した。米国は事態の収拾を図るため、空母2隻を含む機動部隊を台湾近 海に集結させた。その後、台湾と中国の関係は、99 年に李総統が「二国論」を発 表したことで最悪の事態を迎える。「二国論」の発表を機に、8年間続いた海基会 と海協会の対話は無期延期となった。「二国論」とは、李総統がドイツの放送局「ド イチェ・ウェレ」の取材に応じて語ったもので、台湾と中国の関係を「特殊な国と 国との関係」とし、「九二共識」で曖昧にしてきた「1つの中国」を否定した考え 3 08 年8月 26 日に開催された、交流協会主催の海峡交流基金会理事長・江丙坤氏の講演より。 4 48 年に動員戡乱時期臨時条款(反乱鎮定動員時期臨時条項)が成立し、91 年まで中華民国憲法が凍結された。 5 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 方である。当時の台湾の世論調査では、「二国論」に対して 73%が賛意を示して いる。李総統の訪米を機に始まった中国の台湾海峡でのミサイル演習は、台湾住民 の反中国感情を高め、台湾のナショナリズムを強めた。また 99 年は、2期8年と 定められた李総統の任期最終年でもあった。 (2) 民主進歩党(民進党)の対中政策 2000 年に行われた第 10 回総統選挙で、民進党の陳水扁氏は国民党の連戦氏らを 抑え台湾総統に初当選した。この時、中国は台湾海峡でミサイル演習を行わなかっ た。威嚇目的のミサイル演習は、台湾住民の反中国感情を高めるだけで効果が薄い と、中国当局が判断したためとみられる。陳氏は 04 年の選挙でも勝利し、計8年、 総統を務めた。陳氏が属する民進党は、戒厳令下で言論の自由が制限されていた 86 年に台北で結成された台湾初の野党である。台湾独立を志向しており、中国大 陸から渡ってきた国民党を外来政権とし、一線を画している。陳総統の就任直後は、 独立路線を棚上げして、「強本西進」(台湾(本)の地位を強化し、西(中国)との経 済交流を進める)を基本政策とし、中国との融和路線を目指した。00 年5月、陳水 扁総統の最初の就任演説では、中国が武力を行使しない限り台湾の独立を宣言しな い等の「5つのノー(四不一没有)」を表明している(図表3参照)。また、02 年に 加盟した WTO(世界貿易機関)を通じ、中国との対話再開を試みた。 図表3:5つのノー(四不一没有) 四不 ・台湾独立の宣言をしない。 ・中華民国の国号を変更しない。 ・「二国論」を憲法に盛り込まない。 ・「統一か独立か」の現状変更を問う住民投票は行わない。 一没有 ・(統一の道筋を定めた)「国家統一綱領」や 「国家統一委員会」の廃止の問題は生じない。 (出所)各種資料より作成 図表4:4つの必要、1つのノー(四要一没有) 四要 ・台湾は独立を必要とする。 ・「台湾」呼称を積極的に使用する「正名運動」を必要とする。 ・台湾の新憲法を必要とする。 ・台湾の発展を必要とする。 一没有 ・「台湾には左右路線の問題はない」、あるのは 「統一か独立か、前進か後退か」だけの問題だ。 (出所)各種資料より作成 台湾の総統は、立法院(国会)に対して、拒否権、解散権がない。陳総統就任時、 立法院における与党民進党の議席数は、3分の1を下回っており、総統が政策を実 現するには、多数派工作が必要であった。陳総統は「全民政府」という考えを打ち 出し、自ら民進党を離党し党派を問わずに人材を集める政権運営を目指した。しか し、当時の多数派であった国民党を上回る支持基盤を確保することは困難を極めた。 6 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 「全民政府」の構想を覆し、02 年7月 21 日、陳総統は民進党に復党し、さらに同 党の主席に就任した(同日、中国はナウルと国交を結んだと発表し、台湾はナウル との断交に追い込まれた。)。 台中関係が再び悪化するなか、同年8月、陳総統は台湾と中国は明確に分かれて いるとする「一辺一国」論の考えを示した。これに対し中国は、陳総統を名指し「少 数の独立分子の陰謀を台湾住民に強要している」と批判した。また国民党も「1つ の中国」への挑戦であり、両岸関係に緊張をもたらすと批判した。 台湾と中国の政治的対立が深まる一方、経済面での結びつきは強まった。WTOに 加盟したため、台湾は中国に対しても最恵国待遇 5 を与えることとなり、貿易、投 資面での規制緩和が進んだ。02 年には、それまで香港等の第三国、地域を経由し なければ認められなかった台湾から中国への投資が、直接行えるようになった。ま た金門、馬祖両島の住人にしか認めていなかった中国大陸との直接往来(小三通) を、福建省に投資している台湾の企業人にも認めた。 (3) 第 12 回総統選挙の結果 8年間続いた陳政権の対中姿勢は、就任当初の「5つのノー(四不一没有)」から 「4つの必要、1つのノー(四要一没有)」に変化した(図表4参照)。台湾が独立色 を強めることは、中国のみならず米国からも懸念視された。また、06 年には陳総 統の娘婿がインサイダー取引で逮捕、起訴され有罪となった。加えて陳夫人には太 平洋そごう商品券の不正取得疑惑、陳総統自身にも機密費不正流用疑惑が持ち上が った。06 年 10 月、台北駅前では陳総統の辞任を求める数十万人のデモが発生し、 立法院では陳総統辞任を問う住民投票の実施が討議された。中国大陸と一定の距離 を保ち、クリーンなイメージで 国民党を破った民進党の陳総 統であったが、任期後半には台 湾住民の信認を失ったようだ。 08 年3月 22 日に行われた第 12 回総統選挙で、国民党の馬英 九氏が 765 万票(有効投票数の 58%)を獲得し次期総統に当選 した。これで国民党は8年ぶり に政権へ復帰した。総統選挙に 先立って同年1月に行われた (写真出所) 中華民国総統府 HP 5 最恵国待遇(Most favored nation(MFN)treatment) : 国際通商上、いずれかの国に与える最も有利な待遇は、他のすべての国 に対して与えなければならない。 7 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 立法院選挙でも、同党は 113 議席中 81 議席を獲得し、多数派党となった。台湾の 総統選挙は投票率が高く、特定の支持政党を持たない中間層の動向が選挙結果に大 きく影響を及ぼす。立法院選挙の結果を受けて、台湾の有権者は国民党を牽制する ため、民進党の候補者を選ぶとする予想もあったが、対中融和を掲げる国民党の馬 英九氏が総統に選ばれた。総統選挙にあたり、台湾生まれではない馬英九氏は、自 転車に乗り3か月間、台湾各地の民家を泊まり歩くというパフォーマンスを演じた。 ハーバード大学博士課程を卒業したエリート政治家は、「台湾人」をひたすらアピ ールし、流暢ではない台湾語に真摯な姿勢で取り組み、国民党の過去の路線払拭に 努力した。 馬総統は、日本統治時代の八田與一氏の業績を評価している。八田氏は 24 歳で 東大を卒業後、総督府内務局土木課の技手として台湾に赴任した。彼の最も大きな 功績は、10 年の歳月を費やして完成した烏山頭ダムと 1 万 6,000 キロにおよぶ灌 漑用水路の建設である。ダムが造られた嘉南平野は台湾最大の平原であるが、河川 が少なく急流だったため水利として機能せず、サトウキビすら育たなかったといわ れている。しかしダムと灌漑用水路の完成により、嘉南平野は台湾最大の穀倉地帯 へと変貌した。国民党の歴史観では、日本統治時代の建設は日本帝国のために行わ れたものであり、評価に値しない。しかし馬総統が八田氏の業績を認めたというこ とは、日本統治もまた今日の台湾の形成に寄与しているという、台湾で生まれ育っ た人達の考え方に近づいた認識といえよう。 (4) 対中政策融和の背景 近年、台湾の対中政策が緩和した背景には、いくつかの伏線がある。05 年4月、 前年の総統選挙で敗れた連戦・国民党主席は中国を訪問し、胡錦濤・共産党総書記 (いずれも当時の肩書き)と会談した。これは日本が敗戦した 45 年に重慶で、蒋介 石と毛沢東が会談して以来、60 年ぶりの国共トップ会談となった。会談では①「九 二共識」に基づき、両岸の対話を再開する、②敵対状態を終了し、両岸の平和的枠 組みを構築する、③三通、農業分野での相互開放を推し進め、経済交流、犯罪等を 処理する仕組みを作り上げる、④台湾の外交政策ついて話し合いを深める、⑤国共 両党の定期的な連絡会を開催する、といった5項目が合意に達した。 連戦氏はその後も、国民党名誉主席として 06 年、08 年(北京オリンピック開会 式出席)に中国を公式訪問した。連戦氏訪中の背景には、与党民進党の陳総統が中 国と良好な政治的関係を築けないため、野党国民党が中国との関係強化をアピール する狙いや、台湾経済界からの要請もあったとみられる。半導体、液晶パネル等の 世界的なシェアを占める台湾の電子産業界を中心に、コスト削減のため中国大陸に 人件費のかかる作業工程を移管している企業は多い。台湾の産業界からは、政府に 対して中国との投資環境改善交渉を行って欲しい旨、要望が出ていた。 8 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 図表5:台湾の国別輸出入の推移 91年(輸入) 08年(輸入) その他 28% 日本 19% 日本 31% その他 41% 中国+香港 14% 中国+香港 0% 韓国 3% 欧州諸国 16% 韓国 5% 米国 22% 欧州諸国 10% 91年(輸出) その他 22% 米国 11% 08年(輸出) 日本 12% 日本 7% その他 27% 中国+香港 16% 中国+香港 39% 韓国 2% 欧州諸国 18% 欧州諸国 12% 米国 30% 米国 12% 韓国 (出所)財政部統計処 3% 08 年、台湾の輸出は、金額ベースで約 40%が中国向けとなっている。88 年に香 港を経由することで認められた中国との貿易取引は、毎年拡大を続けている。工場 建設等の設備資金として利用される台湾からの直接投資は、全体の 69%が中国向 け(08 年認可ベース)となっている(図表5参照)。近年、両岸の経済的関係は極め て強固なものとなっており、過去の政治的経緯から存在する弊害を取り除くことは、 台湾、中国の双方にとって暗黙の課題となっていた。中国沿海部の人件費高騰、原 油高による輸送コストの増加、また中国の輸出加工区等での優遇政策の見直しなど は、台湾企業にとって個別に解決できる問題ではない。世界的な景気悪化を背景に、 政治的対立を解消し、台中双方の経済的メリットを向上させるため、両岸政策の改 善が導かれたと考えられる。 3.対話進展による台中関係改善のポイント (1) 「三通」の全面開放 08 年5月、台湾の政権が国民党に代わり、99 年以来途絶えていた海基会(台湾) と海協会(中国)の対話が再開した。両会が最初に着手したのは、03 年から春節(中 国の旧正月)に限って運行している台中間の航空機の直接乗り入れを、毎週末に拡 大することである。「三通」が制限されていた時、台湾と中国の往来は香港等の第 9 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 三地を経由しなければならなかった。しかし、両会の合意に基づき、08 年7月よ り毎週金~月曜日に、台湾、中国大陸間を直接乗り入れるチャーター便の運行が始 まった。第1便となった中国南方航空の広州発台北行きの飛行機は、劉紹勇・中国 南方航空会長自らが操縦した。中国大陸籍の飛行機が正式に台湾に着陸したのは約 60 年ぶりの出来事である。劉兆玄・行政院長(首相)のコメントには、「本来 80 分 で行ける所に8時間も要したことは、省エネ、温暖化ガス排出量削減の理念にも反 する。」との発言もあった。 次に両会が取り組んだのは「三通」の全面開放である。08 年 11 月に海協会の陳 雲林会長が台湾を訪問した。同氏は、それまで台湾を訪れた中国要人の中では最高 位の人物である。滞在中、陳会長は海基会の江丙坤理事長らと会談を行い、「四項 協議」について合意文書に署名した。主な合意内容は以下のとおりである。①空運 に関する協定:現在、週末に限って行われている両岸間のチャーター便を平日にも 運航し、週 108 便まで拡大する、②海運に関する協定:香港、沖縄等の第三地を経 由して行われている両岸の旅客・貨物の運輸を直接運輸に切り替える、③郵便業務 に関する協定:旅客、貨物同様、第三地を経由して行われている郵便物を直接輸送 に切り替える、④食品安全管理に関する協定:中国製汚染粉ミルク事件を背景に、 食品安全問題が発生した場合の連絡・協力体制を構築する。以上の事項のうち、④ は7日後に、①~③は 40 日後に発効した。 なお陳会長の台湾入り後、野党民進党の支持者が中心となり抗議行動が続けられ た。夜には同氏が宿泊するホテル前で衝突事件が発生し、少なくとも警察官 42 人 が怪我をした。抗議活動に参加した人達は、馬英九総統就任後、急速に進む中国と の関係改善に対し、台湾の主権が損なわれるとして、以前にも増してナショナリズ ムを強めた。馬総統と陳会長の会談の中で、陳氏が馬氏を「您(あなた)」、「馬先 生(馬さん)」と呼び、「総統」という呼称を用いなかったことに対し抗議すべきと の報道もあった。「三通」の解禁は、必ずしも台湾住民すべてに望まれたものでは ないとみられる。 抗議行動は陳会長帰国後も、形を変えて続けられた。陳会長が台湾を訪れた際の 過剰な警備体制が「言論の自由」を阻害したとして、地元大学生を中心とした座り 込み運動が発生した。当初は行政院前で、その後は自由広場に移り、12 月上旬ま で続けられた。台湾では、90 年3月に発生した学生の民主化要求運動が「野百合 学運」と呼ばれていることから、今回の抗議行動を「野草莓(野いちご)学運」と呼 んでいる。学生達の要求は、以下の3点である。①馬総統と劉行政院長の公式謝罪、 ②王卓均・警政署長、蔡朝明・国家安全局長の解任、③集会の自由が定められた中 華民国憲法に違反する集会・デモ法の改正要求である。また抗議行動後半には、李 登輝元総統が学生達を激励するため自由広場を訪れている。 台湾の集会・デモ法は、戒厳令解除後の 88 年に制定された。同法は、社会秩序 10 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 維持のため、集会の開催やデモの実施に当たって、事前の許可が必要と定めている。 台湾政府は、学生達の集団による座り込み行動を重く受け止め、08 年 12 月4日、 集会・デモ法改正案を立法院に提出した。同法案が成立すれば、集会の開催等は事 前許可制でなく集会・デモ責任者が実施5日前までに管轄機関に届出書を提出する 届出制に変わることとなる。しかし学生達は「事前許可制」から「強制届出制」へ の変更を「言葉遊びに過ぎない。」と批判し、その後も座り込み行動を続けた。台 湾独立運動家なども巻き込み、地方にも規模を拡大させた野いちご学運であったが、 報道を見る限り、08 年 12 月7日に行われた 1,000 人を超す規模のデモを最後に収 束したとみられる。 (2) 国際機関(WHO 専門部会 IHR)への参加 09 年 1 月 13 日、郭・衛生署疾病管制局長は WHO(世界保健機関)事務局長室のバ ーナード・キーン氏より、台湾が IHR(国際保健規則)に参加することを認めるとす る内容の書簡を受け取った。IHR は 07 年6月から適用が始まった規則であり、SARS、 鳥インフルエンザなどの感染症や核、化学物質を使ったテロなどに関する情報を国 際間で共有する手続きが定められている。IHR への参加に伴い、以下の5項目の取 扱いが可能となる。①台湾政府が WHO との連絡窓口を指定できる、②IHR と直接連 絡が可能となる、③IHR が提供する「公衆衛生事件情報ネット」を利用できる、④ 国際公衆衛生緊急事態が発生した場合、WHO 専門家の支援を受けられる、⑤WHO、 IHR に台湾の専門家を派遣できる。 国連機関である WHO の年次総会オブザーバー参加を目指している台湾にとって、 IHR への参加はその実現に向けて大きな弾みとなった。中国の胡錦濤国家主席は 08 年 12 月に行われた「台湾同胞に告げる書」発表 30 周年記念座談会の演説の中で、 「台湾の国際組織活動への参加」に関して、「2つの中国」「1中1台」をつくら ない前提で、「両岸の実務的協議を通じ、実情に合った処理ができる」と述べてい る。台湾の外交部関係者は、IHR に参加できたことに関して「中国の意向が働いた」 と指摘しており、09 年5月に開催が予定されている WHO 年次総会への参加に意欲 を示している。他方、中国側の報道では、台湾の IHR 参加は、三通の全面開放に伴 い、台湾住民が中国大陸で発生した新型ウイルスに感染する危険性がこれまで以上 に高まったことに対応するため、と伝えている。 馬総統は3月 20 日、総統府で開催された記者会見で、次回行われる世界保健機 関(WHO)年次総会オブザーバー参加について以下のとおり考えを述べた。「WHO 年 次総会への参加の成否は、中国大陸との対話進展を測る重要なイベントである。台 湾の国際機関への復帰は、中国大陸の一部として実行されることはない。そのため 参加名義は「中華民国」が最優先である。次は「台湾」、そして「中華台北」(Chinese Taipei)まで容認できる。WHO 年次総会への参加に際し、台湾の主権が損なわれる 11 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 ことがあれば参加を見合わせる。」。一部立法院議員から、IHR の運用システムで 使用される台湾の港と中国の港との列挙表記を指摘されたことから、馬総統は総会 参加にあたり基本的な考え方を表明した。 (3) 中国のパンダ外交 台湾の旧正月にあたる 09 年1月 26 日、中国から送られたジャイアントパンダの 「團團(トアントアン)」と「圓圓(ユエンユエン)」の一般公開が開始された。 初日、2日目は小雨が降る肌寒い天気だったため、見物客数は予想を下回る1日1 万 8,000 人だった。3日目は、快晴で暖かい天気に恵まれたため、午後1時には2 万 2,000 枚の整理券が全てなくなった。公開に先立って売り出されたパンダ切手シ ートとハガキのセット商品は1時間足らずで売り切れ、消費活性化へも一役買った。 05 年3月に中国では「反国家分裂法 6 」が成立し、台中関係は悪化していた。し かし中国政府は、05 年4月に国民党の連戦名誉主席が台湾政府高官として約 60 年 ぶりに中国を訪問した返礼として同年 10 月、台湾へのパンダ贈与 7 を表明した。絶 滅危惧種であるパンダはワシントン条約によって海外への贈与が禁止されている。 このため当時の民進党政権は、パンダの贈与を受け入れると台湾が中国の一部であ ることを認めることになるとして、贈与を拒んできた。なお、今回のパンダ受入れ に関して、台湾の大陸委員会は「台湾は国連加盟国ではないため、国連機関のワシ ントン条約事務局に対しパンダの受入れを通報する必要はない。ただしジャイアン トパンダを含む絶滅の恐れのあ る野生動植物を輸入する際には、 国際ルールを尊重して同条約の ルールに従って処理している。 中国大陸が発行したパンダの輸 出証明書は、過去に台湾が中国 大陸から輸入した絶滅危惧動植 物の証書と同様に、通関手続き のための書類である。」とコメ ントを発表している。 (参考) 最近の日台交流 (写真出所) 台湾週報 ①王貞治氏の受勲について 09 年2月5日、馬総統は台湾を訪問中の王貞治氏に「二等景星勲章」を授与し 6 台湾が独立を宣言した際、台湾独立派分子に対する「非平和的手段(武力行使)」を取ることを合法化した中国の法律。 7 日本が中国から受け入れているパンダは貸与によるものであり、中国に対して賃借料が支払われている。 12 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 た。王氏は以前、台湾政府から特定の任務を持たない無任所大使に任命されていた ことから、今回の受賞につながった。王氏の父は、浙江省青田県出身で、中国が「中 華民国」であった時代に日本に移り住んだ。61 年に巨人軍が初の海外キャンプを 実施した時、外国人登録選手であった王氏は外国人登録法により「中華人民共和国」、 「中華民国」のいずれかの国籍の選択を迫られた。当時、日本と中華人民共和国は 国交がなかったことから、王氏は「中華民国」の国籍を選択し、以来現在も王氏は 「中華民国」籍となっている。64 年、本塁打日本新記録を達成した王氏は翌年、 台湾に招待され当時の蒋介石総統と面会している。中華民国が国際社会で地位を低 下させるなか、「祖国を愛する好青年、王貞治」と国威発揚に利用されたともいわ れている。65 年に結婚した日本人の夫人も「中華民国」籍に変え、息女3人も中 華民国籍となっている。台湾総統府で馬総統から直接、勲章を授与された王氏は「無 上の光栄です」と喜びを語った。王氏は早稲田実業野球部が国体の高校野球に選抜 された時、日本国籍を有していないという理由で出場を拒否された。 ②台湾映画「海角七号」について 台湾では 08 年夏に公開された台湾映画、「海角七号」が大きな話題を呼んだ。 日本統治が行われていた 40 年代、台湾最南の「高雄州恆春郡海角七番地」に住む 台湾人女性と恋に落ちた日本人教師は、敗戦によりやむなく日本に帰国する。物語 は帰国後、彼女へ7通の恋文を送ることから展開する。当初中国大陸では、台湾の 日本統治を美化するものとして、公開が見送られたとみられる。馬総統は 08 年末、 ラジオのインタビューで、「台湾は日本に 50 年間統治されたが、人と人との恋愛 感情の発生を排除することはできない。映画はフィクションだが、中国大陸の東北 地区が日本に統治されていた時期に、同様な物語があったはずだ。たとえ戦争中で あっても、評価に値するような人間関係はある。台湾と日本には数多くの恩情と恨 みが入り混じった感情があるが、それは台湾と大陸の間にも存在する。大陸と 60 年間隔てられた社会を理解するつもりで、大陸同胞にも楽しんで、包容力をもって 『海角七号』を観てもらいたい。」との考えを述べた。09 年1月、中国最大の国 営映画会社・中国電影集団の翁立氏は、09 年2月 14 日より「海角七号」を中国国 内で公開することを発表した。なお同映画の日本公開は未定である。 おわりに 台湾と中国の関係は、政治的な思惑から良好な時期と悪化の時期を繰り返してきた。 90 年代、中国は軍事力により台湾を従わせようとした。しかし中国の台湾海峡でのミ サイル演習は、台湾住民の反中国感情を高め、かえって台湾のナショナリズムを強める 結果となった。現在、半導体部品製造業を中心に台湾企業の多くは、手間のかかる作業 工程を人件費の安い中国に移転しているケースが多い。台湾の製造業は中国が支えてい 13 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28 ©信金中央金庫 総合研究所 ると言えるかもしれない。台湾では中国を「隣の怖いお兄さん」と捉えているようだ。 同じ漢民族だが、多くの台湾住民は、台湾が中国の一部と見なされることを望んではい ないものと思われる。しかし一方で、台湾は中国との良好な関係を維持すべきとも感じ ているようだ。 最近の台中関係の改善は、台湾と中国がお互いを上手く利用しようとする意図が見え 隠れする。チベット等の少数民族問題を抱える中国は、台湾との良好な関係を演出する ことで、国際社会での批判をかわそうと考えているのではないだろうか。また、多くの 台湾企業が中国進出するなか、台湾政府は中国政府に対し、政治面で恩を売り経済面で 有利な条件を引き出そうと考えているのかもしれない。現在、国民党と共産党の関係は 良好である。それは、それぞれの内政問題を背景に利害が一致しているとも考えられる。 台湾と中国の両岸関係は、新しい局面を迎えつつあるようだ。 以 上 (高橋 宏彰) 本レポートは、標記時点における情報提供を目的としています。したがって投資等についてはご自身の判断によっ てください。また、本レポート掲載資料は、当研究所が信頼できると考える各種データに基づき作成していますが、 当研究所が正確性および完全性を保証するものではありません。 なお、記述されている予測または執筆者の見解は、予告なしに変更することがありますのでご注意ください。 14 アジア業務室情報 21-1 2009.4.28