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27巻 1号 (1996年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

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27巻 1号 (1996年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部
27巻 1号
平成 8年 3月
表
メ シア
紙
の
説
明
81銀 河 の近 赤 外 線 画 像
天文学教育研究 センター木 曽観測所 では天体観測用の大型近赤外線 カメラを開発 してきた。 このカメ
ラには素子数が約百万 (1040× 1040)の 2次 元赤外線検出器が用い られてい る。素子の材質 はプラチナ・
シ リサイ ド (PtSi)で 、 1ミ クロンか ら 5ミ クロンの波長範囲で使用できる。感度 は低 い もののその大
きさ、安定性、均質性 に優 れた特色 が あ り、特 に素子数では研究用 の赤外線検出器 として世界最大 の大
きさを誇 っている。低照度 の天体 を観測す るために特 に低雑音性能 が要求 され る。 そこでチ ップは自身
か らの熱雑音 を下 げるために機械式 の小型 冷凍機 で いて60Kに 冷却 され、0.lK以 下 の精度 で一定 に保
たれている。 また周 囲か らの熱放射を防 ぐために70Kに 冷却 したシール ドで覆われている。
このカメ ラは木 曽観測所 105mシ ュ ミッ ト望遠鏡の主焦点 に取 り付 けられ る。望遠鏡内部 に取 り付 け
るので コンパ ク トな構造 になってい る (下 図)。 観測視野 の大 きさは18.4分 角 X18.4分 角、 また空間分
●
解能 は 1素 子当た り1.1秒 角で、同 じ空間分解能 を持 つ赤外線 カメラ としては、世界 で最 も広 い視野 を
持 っている。 シュ ミッ ト望遠鏡 は明 るい光学系
の観測 に特 に有効 である。中心波長 が1.2、
1.6、
(回 径比 3.1)を 持 って い るので、表面輝度の低 い天体
2.1ミ クロンのフ ィル ター を内蔵 してい るので、 3色
の近赤外線画像 を得 ることができる。 その 1例 を紹介す る。写真 は波長 1.2ミ クロ ンで撮影 したメシア8
1銀 河 である。 ほぼ銀河全体 をとらえた初 めての近 赤外線写真 である。 このよ うにその広 い視野 を有効
に生か して、近傍空間 にある大 きな銀河の構造 の研究や銀河系 の星生成領域 にある若 い星の探査な どに
威力 を発揮す るもの と期待 されている。
近赤外線 カメラは木 曽観演1所 の共同利用装置 として1996年 4月 より全国の研究者 に公 開 される。
市川 隆
(天 文学教育研究 センター・ 木曽観測所 )
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COEプ ログラム「初期宇宙 の探求」 と初期宇宙研究 セ ンター
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昨年 7月 、我 々のグループの 申請 した「初期宇宙の探
求」 が、平成 7年 度 よ り文部省 が新 たに始 めた 中核的研
究拠点 プログラムの一つ として選定されました (メ ンバ ー
決定 し、暗黒物質 な ど隠れた存在 の正体 を解明 し、 ひい
てはこうした宇宙観 その ものの 当否 を確かめる作業 は、
は物理学教室 (佐藤勝彦、釜江常好、折戸周 二、牧島一
夫、須藤靖、蓑輪 員、山本智 )、 天文学教室 (野 本憲 一 )、
天文学教 育研究 セ ンター (吉 井譲 )の 9名 )。 これ は理
えるで しょう。人類 の認識 の根幹 に関わ る この重 要課題
に取 り組 み、宇 宙 の創生か ら宇宙構造の力学的進化・ 化
学進化 を経て現在 の宇宙 へ至 る統一 的な宇宙像 の構築 を
学 系研究科、東京大学の強 い支援 のた まもの と感謝 して
お ります。東京大学総長名 で文部省 に提出 して いた拠点
完成 させ るためには、必然的に現在 よりはるか昔の宇宙、
したがって極 めて遠方の宇宙 ― 初期宇宙 ― をさ ぐる必
形成支援 計画書 に基づ き、理学系研究科内 に「初期宇宙
研究 セ ンター」の設置 を 7月 の研究科教授会 において決
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定 していただ きました。すでに理学部 4号 館 1階 のピロ
テイ部分 に100平 米 た らずの計 算機室、研究員室、 セ ン
す (図 2)。 1億 光年先 の宇宙 を観演1す る ことは 1億 年
前の宇宙 を観測す る ことです。時間を遡 った過去の姿が
直接観測 で きるとい う ことは、科学の世界では極 めて特
ター長室 な どの部屋 を整備 していただ き、 また 4号 館内
にX線 実験室 としてク リー ン・ ブースを作 っていただ き
ました。平成 8年 3月 末 には富士通ベェク トルプロ ッセ ッ
ようや く発展途 上 とい える レベル に到達 した ところ とい
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ります。
宇宙 では遠 方 を観演lす ることは過去 を観測する ことで
サ、VXを 主体 とした天体画像処理 システムが設置 され
異な ことで あ り、字宙の研究 に与 えられた大 きなメ リッ
トとい う ことがで きます。
初期宇宙 の研究 はハ イテクノ ロ ジーを用 いた観測手段
ようとしてお ります。人 的 に も COE研 究員 として 日本
の急激 な進歩 により、宇宙物理学の最先端 の課題 として
学術振興会 の特別研究員 2名 、及 び外国人研究員 2名 の
枠 を与 えられてお ります。 ここではこの拠点形成 プ ログ
今世界的 に強力 に推進 されて い ます。初期宇宙研究 の推
進 において最 も本質的 な要 素 は電磁波 のあらゆる波長 に
よる観測、高 エネル ギー素粒子観測 な どを総合的有機的
ラムによって、私 たちが 5年 間 の このプログラム期間内
に どのよ うな研究 を進 めようとしているのか簡単 にご紹
介 いた します。
に進 めなければな らない ことで しょう。幸 い、東京大学
大学院理学系研究科 には電 波 か らガ ンマ線 にいたる観測
で、又素粒子観測で実績のある研究者 が集 まってい ます。
「我 々の住 む この世界 はどの ように始 まったのだろう
か ?こ の疑間 は、人類 がその歴史 の始 まった ころか ら間
い続 けてきた疑間 です。一般相対論 の枠組 みの上 に構築
また理論的研究 において も世界 に先駆 けた研究 を進 め、
多 くの業績 が あるとい えましょう。
された現代 の標準理論、 ビ ッグバ ン宇宙論や、 この十余
年、爆発的 に進 歩 した素粒子論的宇宙論 は宇宙の創生 の
図 3に 宇宙の誕生 か ら大構造形成 に到 る初期宇宙 の進
化 と基本的課題 を左側 に、 これ らに対 して我々が どのよ
うにアプ ロー チす るかの概略 を右側 に示 されています。
みな らず、初期宇宙 において宇宙構造 を形 成す る種 がい
5年 間 の研究期間中 にお よそ15億 円の科学研究費が交付
かに仕込 まれ、それがいかに進化 して今 日の豊かな構造
を持 った宇宙 が形成 されたか を予言 して い ます。「量子
され ると期待 していますが 、 これ らの研究費 によって、
重力的効果 によつて生 まれた宇宙 はインフレー ションと
呼ばれる加速度的急激 な膨張 を始め、マ クロな宇宙 になっ
た。インフレーシ ョンの終わる とき解放 される潜熱によっ
て宇宙 はあつい火の玉 となった。 そしてイ ンフレーシ ョ
ン中 に仕込 まれた密度 の揺 らぎは火の玉の膨 張・ 冷却 と
ともにしだいに成長 し宇宙 の構造 が しだ いに形成 された
(図 1)。 」 これは現在標準 となっている宇宙構造 の起 源
に関す るパ ラダイムです。 2年 前米国 の打 ち上 げた宇宙
背景放射観測衛星 COBEは 宇宙 開闘 か ら30万 年頃 の宇
宙 の地 図 を描 き出 しました。 そこに観測 された密度揺 ら
ぎはイ ンフレーション理論 の予言す るもの ときわめて良
い一致 を示 しました。 これ によ り、 この標準パ ラダイム
は大 きな指示 を受 ける こととなった といえるで しょう。
しかし、この素粒子論的モデル をも含 む広 しヽ
意味での ビッ
グバ ン宇宙論の描像 に、 よ り具体的な肉づ けを与 え、そ
こに内包 され る基本的パ ラメータ (宇 宙 の曲率 な ど)を
研究の推進 と拠 点形成 を進 めようとしてい ます。 お もな
プ ロジェク トとしては、 l X線 天文衛星搭載用硬 X線
検 出器 の開発、 2.2m専 用望遠鏡の設置 とそれに よる
クエーサの連続観測、 3 サブ ミリ波電波望遠鏡の設置
と中性炭素線 による分子雲観測、 4.気 球観測 による反
物質探査、 5.広 域銀河 3次 元分布観測 と解析 による大
構造解析、 6.低 温検 出器 による暗黒物質 の直接検 出な
どが あげられ ます。2.に ついて は現在 ハ フイ、ハ レヤカ
ワ山頂 を最適地 として、設置場所 を調査 中で、 また3.に
ついて は富 士 山山頂 に設 置すべ く調査中です。理論的研
究 にはこれ らのプ ロ ジェク トに比 べ ると大 きな研究費 は
必要ではあ りませんが、宇宙 の創生 か ら、構造形成、銀
河形成、銀河の化学進化、元素合成、超新星爆発 にいた
る宇宙進化 のシナ リオ を作 り上 げるために、 シ ミュ レー
シ ョン的研究 を重視 しなが ら進 めようとしてい ます。
わが 国 における宇宙 の研究 は、宇宙科学研究所 お よび
国立天文台 とい う 2つ の国立共同利用研究機関 により強
-4-
力 に推進 されています。 また素粒子的宇宙物理学、宇宙
線 の研究分野では高 エ ネル ギー研究所や東大宇宙線研究
所がその共 同利用研 としての役割 を担 って い ます。実際、
図 3に 示 した研究 の多 くは これ らの共同利用研 との共同
研究 ですが、言 うまで もな く、我 々のメンバ ーが 中心 に
素粒子的宇宙論 によって描 き出 された宇 宙 の誕生か ら
現在 に到 るシナ リオ。量子重力的効果 によって生 まれた
宇宙 は直ちにイ ンフレーシ ョンをお こしマクロな宇宙 と
なった。イ ンフレー ションによって仕込 まれた揺 らぎは
成長 し現在 の宇宙 の構造 がで きあがった。
なって推進 しようとして い るもので、ある意 味 では共同
利用研 と大学問 の相補的関係 として理想的な関係 で はな
いか と考 えられ ます。 また2.や 4.、 5.の プ ロジェク トの
EE離
光年
これ らを解決 しなが ら研究 を進 めるためには、理学部事
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︵
一
一
ように、国際的協力 は研究 を推進す る不可欠の条件 とい
えるで しょう。 しか し、海 外 へ の装置 の持 ち出 し、海外
での観測遂行 には今持 って多 くの困難 が残 されてい ます。
宇宙 の開闘
一
一
一
一
,
150
光年
務や本部事務局 の協力 なしには不可能 と言えるで しょう。
幸 い事務担当者 の献身的努力 により、幾1多 の困難 も解決
に向かつて い ると考 えられ ます。
/0月
クエーサー
』繁
140億 年
グレートウォー″
天 の川銀 河
この COE形 成 プ ロ グラム は平成 9年 度 までの 5年 間
ですが、 この期 間 に計卜
画中の研究 が終了す ることは、 あ
り得 ない と言 えましょう。新たに この形成 プ ログラムに
よって作成 した観測装置 はこの期間中 に稼働 を始 め、興
味深 い新たなデー タが出始 めることは間違 い ないで しょ
うが、豊富 にデータを出す ことがで きるのはむ しろプ ロ
グラム終了後 の数年 とい うべ きで しょう。我 々 は 5年 の
図2
宇宙 で は遠方 を観測す ることは過去 を観演1す ることで
ある。電磁波 による観演1で は宇宙開闘 か ら30万 年 ころの
宇宙 まで探 ることがで きる。
期間終了後 も何 らかの形で初期宇宙研究 セ ンター を数年
以上の長 さで存続 させていただ きた い とい う希望 を持 っ
て い ます。 これは、 まさに COE形 成 プ ログラムの主 旨
初期宇宙 に関す る根元的問題 と我 々のアプローチ
にそった もの と言 えるで しょう。
● 量 子 的 宇 宙 の 創 生 と原 始 密 度 ゆ ら
最後 にな りますが、研究拠点 として「初期宇宙研究 セ
ンターJ設 置 をお認 めいただ き、予 算的支援 いただ きま
ぎの 研 究 (佐 藤 )
イ ン フ レー シ ョ ン
した ことを理学系研究科各位 に深 く感謝 申 し上 げます。
● 気 球観 測 に よる反物 質 の探 索 (折 戸 )
また毎年 3億 円強の研究費処理 を新たな人員増 な しの ま
ま、 お引 き受 けいただ いた理 学部事務関係者 に心か ら感
宇宙 の晴 れ上 が り・ ゆ らぎの成長
● 超 低 温 検 出器 に よ る暗 黒 物 質 の
謝 申 し上 げます。
直 接 検 出 (蓑 輪 )
●宇宙 の構 造物 曳の数 値 シミ ュ レー
シ ョ ン (須 藤 )
クエーサー・銀河の形成
年齢 と膨張速度の矛盾
ア イ ン シ ュ タ イ ンの宇 宙 項
:
?
原始天体 はクエーサーか ?
銀河 の形 成 と進化
● クエ ーサ ー の 多 波長 同 時観 測 に よ る
宇 宙 論 バ ラ メ ー タ の 決 定 (吉 井 )
● 中 性 炭 素 原 子 ス ペ ク トル 線 の 観 測 と
星 間 分 子 雲 の 形 成 ・ 化 学 進 化 (山 本 )
●超 新星 爆発 およびニ ュー トリノ輻 射
の数値 シミュ レーション (佐 藤 )
河 団の形成
宇宙
重 元 素 の起 源
● 星・ 超 新 星 爆 発 に お け る重 元 素 合 成
と銀 河・ 銀 河 団 の 化 学 進 化 (野 本 )
X線 背 景 輻 射
●
X線
ガ ンマ線 を用 い た深 宇 宙 探 査
(釜 江・ 牧 島 )
宇宙の大構 造の形成
● 広 城 サ ーベ イ デ ー タ ベ ー ス に よ る 銀
河 3次 元 分 布 と理 論 モ デ ル との 整 合 性
宇 宙 の大 構 造 とその起 源
(須 藤 )
図 3
-5-
「野本憲一教授の学士院賞受賞によせて」
尾
崎
洋
二
(天 文学専攻)
い う新 しい分野 を切 り開 いたか らです。
野本先生 は、それ まで超新星爆 発 の理論的研究 をされ
て来 られ ましたが、大 マ ゼラン雲の超新星 が 出現 します
と、す ぐに この超新星 について理論的アタックを始 めま
した。 そして、超新星 の可視光、 X線 、 γ線、 な どの明
るさおよびスペ ク トルの時間変化 (光 度 曲線 )に ついて
理論計算 を実行 し、 この超新星の観測的特徴 を説明す る
ことに世界 に先駆 けて成功 しました。この超新星の場合、
全天で一番明 るい星 の仲間 に入 るほ ど明 る くなるだろう
当天文学教室 の野本憲 一教授 は、東大教養学部 の杉本
一
人 郎教授 とともに「星 の進化 と超新星 の理論的研究」
に対す る功績 により1995年 度の学士院賞 を受賞 され まし
た。私たち天文学教室の スタ ッフー同に とって も この上
もない喜 びであ り、心か らお祝 い 申 し上 げます。
野本先生 は、昭和 44年 東京大学理学部天文学科 を卒業、
引 く続 き大 学院 に進 学 され ました。大学院 では、 ち ょう
ど教養学部 に助教授 として着任 され た杉本大 一郎先生 の
東大 における最初 の弟子 として星 の内部構造 と進化の理
論 について研究 され、博士の学位 を得 られ ました。 その
と予想 されていたのですが、実際 には予想 に反 して最初
の10日 ほ どは4.5等 、 その後 も最大光度 で も 3等 にしか
な りませんで した。 その原 因 として、超新星 について こ
れ まで考 えられて いた赤色超 巨星が爆発す るとい うシナ
リオではな く、 この超新星の場合 には、 より半径 の小 さ
い青色超 巨星が爆発 した ものであった ことを、野本先生
は明 らかにしたので した。 こ うして、野本先生 は、青色
超 巨星の爆発 とい う新 しい超新星の理論 モ デル を作 るこ
とによって、 この超新星爆発の際 に放射性同位元素 ニ ッ
ケル56が 作 られ、放射性元素 の崩壊 で鉄 が作 られ る こと
後、茨城大学助手、東京大学教養学部助手、助教授 を経
て、平成元年理学部天文学科助教授、平成 5年 教授 に昇
を初 めて直接的 に証拠 づ ける ことに成功 したので した。
また、先生 は、 X線 観測 の分析 か ら爆発の際に星の中で
任 され ました。
大規模 な物質の混合 が起 こってい ることを指摘 され、 2
次元の数値 シ ミュ レー ションを実行 し、観演l事 実 の基 本
学士院賞受賞の功績 にあ ります ように、野本先生 は、
星 の進化、特 に超 新星爆発の理論 に関 しては世界的 に見
て も第一人 者 であ ります。今 か ら 9年 前 の1987年 2月 に、
お隣 りの銀河である大 マゼ ラン雲 に超新星 が 出現 し、世
界 の天文 の コ ミュニ テ ィーは大 フ ィーバ ー しま したが、
的特徴 を説明す ることに成功 され ました。
その後、 1993年 と1994年 に、それぞれ比較的近 くにあ
るM81、 M51と 呼 ばれ る銀河で超新星爆発 が あ り、 これ
らの超 新星の理論 で も野本先生 は世界 を リー ドす る研 究
その際の野本先生 の活躍 は目覚 ましい ものがあ りました。
超新星 は、星 の一生の最後 をかざる大爆 発 で、その爆
をなされ ました。 ここでは紙数 の関係 もあ り詳 しくは述
べ ませんが、野本先生 は、超新星の研究だ けでな く、そ
発 は約 1千 億個の星 か らなる銀河全体 に匹敵す る明 るさ
にまで到達す るほ どです。 しか し、超新星爆発 は 1つ の
れに関連 した分野である宇宙 における元素 の合成、新星
や X線 バ ース ト、中性子星 の冷却過程、銀河の化学進化
銀河 で100年 に 1回 か 2回 程度 しか起 こ りません。 さ ら
にまた、私 たちの銀河系 自身 の場合 には、銀河円盤 内の
な ど広 い範囲の分野で精力的に仕事 をされ、 それぞれの
星 と星 との間 にただ よう塵 により光 が さえぎられてしま
うので、た とえ銀河系内の遠 くの方で超新星爆発が起 こっ
た として も、見 る事がで きません。その結果、1605年 の
ケプラーの超新星以来 ここ400年 ほ どは肉眼で見 えるほ
ど近 くで超新星が 出現 す るこ とはあ りませ んで した。
1987年 に大 マゼラン雲 に出現 した超新星 は、望遠鏡 によ
分野 で優れた業績 を挙 げ られて い ます。
野本 先生 の御研究 は、 国内外 に広 く知 られ てお り、
1989年 には日本物理学会 の仁科記念賞 を大 マ ゼラン雲の
超新星 の研究 によって受賞 されてお ります。 また、野本
先生 の御活躍 の舞台 は真 に国際的 で、欧米の天文学 の コ
ミュニ テ ィーで も Ken Nomotoと い えば、知 らない人
はいないほどで あ り、世界 中 に沢山の友人、共 同研究者
る天体観測 が始 まって以 来最初 に我 々の近 くで起 こった
世紀 の大イベ ン トであり、天文学の観演l、 理論両方にとっ
を持 ってお り、たぶん 日本人天文学者 としては世界的 に
最 もよく知 られた 一ヽ ではないか と、私 は思ってお ります。
て貴重 な超 新星 だったわ けです。 また、 この超新星 は当
理学部 に とって も因縁 の深い星です。当時、理学部 の素
野本 先生が今回学 士 院賞 を受賞 された ことか ら、先生
につ いて長老の教授のイメージ を持たれ る方 もい るか と
粒子国際 センターの施設 であ りました岐阜 県神岡 にある
「カ ミオカンデJと 呼 ばれ る装置 で、 この超新星爆発 に
伴 うニ ュー トリノを観測 し、「ニ ュー トリノ天文 学」 と
思 い ますが、実 は野本先生 はまだ40代 の若 さです。野本
先生 が これか らも世界 を リー ドする研究 を続 けられ るこ
-6-
とと、私たち天文学教室 一 同期待 してお ります。
《
新任教官紹介》
私の専門分野
新
井
良
― (生 物科学専攻)
て、鑑賞魚 として も有名 な魚 です。 日本特産種 が多 い こ
とも特徴的 で ミヤ コタナ ゴ、イタセ ンパ ラの 2種 は天然
記念物 に指定 され、採集 した り売買す ることを禁 じられ
てい ます。 ミヤ コタナ ゴ と東京大学 との縁 は深 く、本種
は附属植物園の池 より採集 された 2個 体 に基づ き東大 の
田中茂穂博 士によって1909年 に発表 された種 です。
私 は日本産 タナ ゴ類 のルーツを追 って昨年 も中国へ 出
かけましたが、中国で は専門家 が少ないためか、異なる
種 に同 じ名前 が使 われて いた り、同 じ種 に異 なる名前 が
使わ れて いた り、種 の整理 もままな らない状態 です。新
昨春 4月 に東京都新宿 区 にあ る国立科学博物館 の動物
研究部か ら生物科学専攻進化多様性生物学大講座 に移動
して まい りました。現在 の私 の研 究室 は仮 の部屋 で理学
部 2号 館 の動物学大講座の名誉教授室だった ところです。
平成 8年 度中 には、本来 の研究室 に入室出来 る予定 です
が 、ここしばらくは落ち着 かない状態が続 くと思われます。
私 の専門 は系統分類学 で主 として魚類 を扱 ってお りま
す。 最近 は代表 的な淡水魚 で あるコイロ コイ科のタナ ゴ
類 を対象 として系統分類 と生物地理の関係 を日本列島、
中国大陸、朝鮮半島を舞台 に調 べ てお ります。 ふつ うタ
ナ ゴ といい ます と釣魚 として有名な海産 のタナ ゴ
(ス
ズ
キロウ ミタナゴ科魚類 )を 連想 され る方が多 い と思い ま
すが、淡水魚のタナ ゴ は全 くの別物 で、 メスが産卵管 を
使 つて卵 を生 きた淡水 の二枚貝 の鰍 に生み込む特異 な習
性 をもってお ります。 タナ ゴ類 はユー ラシア大陸温帯域
の河川や湖沼 に広 く分布す る体長 10セ ンチ以下の小型の
魚 で、春か ら夏 にかけて産卵期 になるとオスはきれい な
婚姻色 を呈 します。 コイ科の魚 としては例外的 に秋産卵
種 になると思われ るタナ ゴ も数種 い るよ うです。九州特
産 と考 えられて い るカゼ トゲタナ ゴ らしい タナ ゴが中国
に分布す ることも分かつて きました。 関東地方 の ご く限
られた地域 に生 息する ミヤ コタナ ゴの近縁種 は、従来、
日本産 タナ ゴの どれ か の種 と考 えられて い ましたが 、 こ
点 も怪 しくなってきました。タナ ゴ類 の生物多様性 をグ
ローバル な観点 か らとらえ る と、多 くの問題点が残 され
て い ることを改 めて思い知 らされた次第 です。中国旅行
の余談 にな りますが、調査地 点 のひ とつ、浙江省 の奉化
市渓口鎮 は台湾政府 の初代総統蒋介石の生 まれ故郷 です。
中国政府 のかつての政敵 として蒋介石 は現地 で は疎 ん じ
られて い ると思いきや、驚 いた ことに、渓 口鎮 は、蒋介
石 を目玉 にした観光地 になってお り、 こぎれいなホテル
で台湾 か らの観光客 を大勢見受 けました。
とにもか くに も、この 1年 は、多 い会議、雑用、講義、
手狭 な研究室 な ど、 い ろい ろな意味 で貴重 な経験 をさせ
ていただきました。赴任 当初 は分 か らないこ とだ らけで、
とまどい ましたが、周囲 の先生方や事務 の人達の御好意
の種 もい ます。種 の数 では東 アジアが大 変多 く、 日本で
で、 なん とか大学の一員 になれそ うな気が いた します。
は15種 類で 日本産 の淡水 魚 の 1割 以上 を占める、美 しく
今後 ともよろし くお願 い 申 しあげます。
-7-
分子集団遺伝学 と分子進化 学
田
嶋
文
生 (生 物科学専攻 )
然変異説、平衡淘汰説 (超 優性淘汰説 や頻度依存性淘汰
説 )、 純化淘汰説 (弱 有害突然変異説や微弱有害突然変
異説 )、 平衡転移説 な どが 提唱 されて い ます。DNA多
型 の量 を調 べ てみると、高 い変異 を維持 してい る生物集
団 とそうでない生物集団、変異の高 い遺伝子 と低 い遺伝
子、変異 の高 い DNA領 域 と低 い DNA領 域、変異 の高
い塩基部位 と低 い塩基部位 が あ ります。 この ことは、
DNA多 型 の保有機構 はひ とつではない ことを意味 して
い ます。 また、 い くつかの保有機構 が相 互 に関係 して い
る ことも考 えられ ます。
分子 レベル の集団遺伝学 (分 子集団遺伝学 )と 分子 レ
ベル の進化学 (分 子進化学 )は 切 って もきれない関係 に
集団遺伝学 (Population genetics)は 生物集団 の遺 伝
的構成 が どのような法則 の支配下 にあるかを追究す る遺
あ ります。 とい うのは、現存す る生物 集団 の DNA多 型
は、過去 に生 じた突然変異が 自然洵汰 な どのさまざまな
伝学 の一部門 で、遺伝物質 の究明 を目ざす他の部門 とな
らんで現代遺伝学 における大 きな流れの一 つ を形造 って
い る。
木村資生著 集団遺伝学概論
(昭 和35年 )よ
り
生物集 団 の遺伝 的構成 は、 い まで は、DNA配 列情報
によって知 ることがで きます。最近 の研究 によると、 ヒ
ト集団か ら無作為 に選 んだ二本 の DNA配 列 を比較す る
と、 その間 で平均 0.03∼ 0.11%の 塩基が異なって い るこ
とが知 られてい ます。このことは、同 じ DNA配 列 をもっ
て い る人が (一 卵性双生児 を除 くと)地 球上 に存在す る
可能性 はほ とん どない ことを意味 してい ます。生物集団
の遺伝的構成 が均一でない現象 を多型 といいます。 た と
えば、ABO式 血 液型 を支配す る遺伝子 は多型的 です。
DNA配 列情報 に基づ く多型 を、 と くに DNA多 型 とい
要因 の影響 をうけた結果であるか らです。 また、ある生
物種 に保有 されて い る DNA多 型がその生物種 自身 の形
成時期 よ り古 い こともまれで はあ りませ ん。 (分 子 レベ
ル の進 化機構 とDNA多 型 の保有機構 は同 じもので、
DNA多 型 は分子進化 の一 断面 にす ぎない と考 える こと
もできますが)分 子 レベル の進化 機構 を解明す ることも、
私 の研究テーマのひ とつです。
私 たちの研究室 (進 化多様性生物学大講座集団生物学
研究室 )で は、実験 は行 なってい ません。理論的研究 を
行 なって い ます。 そ して、DNA多 型 の保有機構 を解明
す るための分子集団遺伝学 お よび分子進化 学 の数学理論
を確立 した い と思 っています。 また、理論か ら予想 され
る DNA多 型 の量やパ ター ンを実験結果や検察結果 と比
較 す ることによって、DNA多 型 の保有機構 の解明 に一
歩 で も近づ きた い と思 ってい ます。
い ます。
DNA多 型の保有機構 を解明す ることは、私の研究テー
マ のひ とつで す。DNA多 型 の保有機構 として、中立突
改湯
ぎ♂ ぷ
ギ謎
ギ湯
%
改
ギ
将
°
鮮転
O■
oN°
-8-
●
●
Face-to-Face
栗
田
敬
(地球 惑星 物理 学専攻 )
さ く、例 えば大学内 の どこかで どのような ことが進行 し
ているのか、知 ることがで き、 それに対 して発言・ 関与
す る こともで きました。 また小 ささの故 に、個 々の集団
は分断・ 断片化 されておらず異 なった分野 の研究者 と様 々
な相互作用が可能 で した。学生 と教官 の間 の距離 も極 め
て近い もので した。小 ささに起 因す る教官同志、教官・
学 生 間 の Face― tO― Faceな 関係 は大学 へ の高 い帰属意
識、 一体感 を引 き起 こしてい ます (も ちろん短所 にもな
りますが)。 この小 さ い ことの快適 さは ヨロ ラ ドの小 さ
な町の快適 さに通 じて い ます。我 々が機能的 に働 ける大
学 には適正なサイズがあるのではないか と感 じます。 こ
れ と比 べ ると東京大学 は少々大 き くな り過 ぎてい るよう
以前 コロラ ド州 の小 さな町 にいた時、 その町が大変気
に入 り離れがた く思 い ました。 その町の自然や文化的環
境 もい くぶんかの理 由 で した力S、 この ように気 に入 った
最大 の原因は町 の小 ささにあ りました。人 口10万 あ まり
の大学 を中心 とした 町 はどの方向へ車 を走 らせて もlo分
です。大学 の片隅で進行 していることは我 々 にはなかな
か見 えてきません し、断片化 した学科、学部 に隔 て られ
た異な った分野 の人 間 との間 には様 々な山・ 谷 の要害 が
あるように見 えます。 したが って如何 に東京大学 が幅広
もすれ ば市境界 を超 えて砂漠、荒地 に入 り、“
我 々 が住
んでいるのはこの町だPと 実感 で きます。街 で 出会 う人 々
もこの小 さな町に一緒 に住 んで い る と思 う と何 とな く親
近感、連帯感が沸 いて きます。街路 も公園 も商店街 もコ
い分野 の研究者 を擁 して い ようとも、構成員間 の相 互作
用 は極 めて身近な ものに限定 され、 か えって 自由 さが な
ミュニ ティーの情幸反もみんな知 っている気軽 さが あ りま
つ ものの、学部 や大学 へ の帰属意識 は浅薄 です し、有機
す。一 方私 が住 んで い る日本 の町では町のはずれ とい う
的な機能集団 としての東京大学 をイメージす ることは難
しい状況 で す。
い ように見 えます。 このため に学科 にこそ帰属意識 を持
ものがな く、 どこまで行 つて も見 た ことのない 町が ず っ
とその先 まで続 いて い る、知 らない人 が行 き交 ってい る、
町 を歩 くたびに不安 な気 にさせ られ ます。 この漠然 とし
た不安 に馴れ ていた身 に とっては ヨロラ ドの小 さな町は
心休 まるすて きな場所 で、“人間 サイズの小 さな町の よ
さ"に 目を見 開 か され ました。 しか もその “
快適 さ"は
単 にこじん まりした とい う意 だ けではな く、人間 の活動
しやす いサイズ とい う裏打 ちがあった様 な気 が します。
私 は前任地 の筑 波大学 にいた時 に これ と似 た経験 をし
ました。色々 と不満 な点 もあ りましたが大学 は適度 に小
-9-
この少 々大 きくな り過 ぎた東京大学 において どのよ う
に幅広 い分野の人間 とFace― to― Faceな 関係 を作 りだ
して い くのか、 自分 の個別 の研究 テーマ とともに今後考
え続 けてゆきた い課題 です。
なお私 が興 味 をもって い る間1題 は地球や惑星 の内部 の
様 々な進化 プ ロセスですが、均質 な ものか ら分化 (局 所
化 )し た ものを作 りだす プ ロセ スに魅 かれています。今
後理学部 で よろしくお付 き合 い をお願 いいた します。
自己紹介
野 崎 久 義
鞭
(生 物科学専攻)
=轟
研究 の方は緑藻類特 にクラ ミドモ ナスやボルボ ックス
に代表 され る Volvocalesを 用 い た、分類 と進化 の研究
を18年 間致 してお ります。東京大 学理学部植物学教 室で
この様 な藻類 の分類研究 をなされた先輩 には中野治房博
士が い ます。博士 は小石川植物園内 で採集 した材料 を基
に1917年 │こ Chlamydomonas Koishikawa∝ ns とい う
新種 を記載 してい ます。 それ以来本種 の研究 または採集
記録が あ りませんので、私 は この「幻 のクラ ミドモナス」
を小石 川植物園か ら再発見 してその実体 を明 らかにして
行 きた い もの とも思 ってお ります。 また、環境研 で開始
平成 7年 4月 1日 付 けで大学院理学系研究科・ 生物 科
学専攻・ 進化多様性生物学大講座 に助教授 として赴 任 し
てまい りました。 3月 まではつ くば研究学園都市 の国立
環境研究所 に 3年 間勤務 してお りました。 つ くば研究学
した今 や「絶滅 に瀕す る車軸藻類」の自然保護的研究 も
現在引 き1続 き行 ってお ります。
新 しい大講座なので現在 は実験施設・ 空間 を整 えつ つ
園都市 で は
あるとい う状況です。東京大学 の良 き伝統 の上 に立 ち新
しい「多様性 と進化」の学問 を築 き挙 げて行 きた い もの
ち らに来 てか らは千代 田線 のラッシュアワー に閉 回す る
と思 ってお りますので御指導 0御 鞭撻の程 を宜 しくお願
い 申 し上 げます。
(自 動車 の運転 がで きなか った為 に)、 毎朝
夕 の片 道 20分 のサイク リング を楽 しんでい ましたが、 こ
毎 日であ ります。
-10-
大学 と国立研究所
茅
根
創
(地 理学専攻)
数字だ け比 べ ると、地質調査所 の研究者数・ 経常費以外
の研究費 と、理学系研究科の ス タッフ数・ 科学研究費 の
額 は大 変近 い ことが わか りました。
研究成果 の 方 は どうで し ょうか。理学 系研究科で は
1,100篇 程度 の原著論文 を生産 し、 その多 くは国際学術
]摯 遺
、
tf
誌 に公 表 された ものです (発 表論文 リス ト 1994年 )。
一 方地質調査所 にお ける原著論文 の公 表数 は150篇 程度
で、国際学術誌 はその半数程度 です (平 成 5年度 地質調
査所年報)。 一 人 当た り論文生産数 は、理学系研究科 5
昨年 4月 に地理 学教室 に転任 して まい りました、茅根
創 (か やね 。はじめ)と 申 します。研究対象 は海岸 。沿
篇 /人 に対 して地 質調査所 は0.7篇 /人 で、原著論文数
を尺度 とす る限 り理学系研究科 の生産性 は地質調査所 の
7.5倍 にな ります。
岸域 で、 とくにサ ンゴ礁 と地球環境 との関係 について、
サ ンゴ礁 に記録 された過去の環境変動 の解析 、地球規模
しか しなが ら国立研 究所 と大学 とでは、人的資源 につ
いて重大 な違 いが あ ります。学生の存在です。理学系研
の炭素 な どの循環 におけるサ ンゴ礁の役害1な どについて
研究 しています。 サ ンゴ礁 は、生物 自身 が地形 を作 りそ
究科 に在籍す る大学院学生 は修士課程 812人 、博士課程 7
47人 です (学 内広報、No1027,1995年 )。 研究費総額 が近
れによって物理環境 が変化 し、 また生物 が生 元素の循環
を駆動 し地球規模 の物質循環 に も関わ ってい るとい う、
い にも関わ らず国立研究所 の研究費 が潤沢 であるように
学際的な視点 が必要な魅力的な対象です。年間数 10日 間
は、琉球列島、 ミク ロネ シア、オ ース トラ リアのサ ンゴ
礁 に出か け、サ ンゴ礁 に穴 をあけた り、潜 って機器 を海
底 に設 置 した り、海水 の二酸化炭素濃度 を測 った りして
い ます。
それ まで は、 つ くば市 にある通産 省 工業技術院地質調
感 じるのは、大学 では とって きた研究費 で学生 を「食わ
せJな ければい けないか らではないで しょうか。理学系
研究科 の原著論文数 も、大学院学 生が筆頭、共著 の もの
を含んだ数です。一人 当た り論文生産数 は、生産性 の高
い博 士課 程 の学生 だ けを加 える と1.1篇 /人 に、修 士 課
程 の学生 も力日えると0.6篇 /人 にな ります。
以上 か ら、「大学 は、少 ない研究費 で高 い成果 をあげ
査所 という地球科学系の国立研究所 に在籍 してい ました。
一 昨年 つ くばに新居 を購入 した ところ、 マー フ ィーの法
ている」 とい うイメー ジにおいて、少ない研究費 の所 で
は学生 を (食 わせ るべ き対象 として)カ ウン トし、高 い
則 に従 って転任す ることにな りました。大学 と国立研究
所 とでは、研究の進め方や研究環境 が大 いに異 な ります。
成果 の ところではカウン トか らはず して い るのではない
か、 とい う暫定的な結論が得 られ ま した (も ちろん論文
一般 のイメージ としては、大学 は少ない研究費 と劣悪 な
環境で基礎研究の高 い成果 をあげて い るのに対 して、国
の質 や研究費 の使 われ方な ど、考察すべ きことは多 いの
ですが 、あ くまで随想 の暫定的な結論 とい う ことで ご容
赦 を)。 さらにい うな らば学生 は、研 究費 を食 いつぶ す
立研究所 は潤沢 な研究費 と最新 の研究環境 で社会的要請
の高 い (目 先の)成 果 を追 っている、といった もので しょ
うか。ハ ー ドの研究環境 の優劣 については一 目瞭然 です
ので,こ こでは研究費 と研究成果 について、私が在籍 し
た地質調査所 と理学系研究科 とを手持 ちの資料 で比較 し
て、 このイメージを比 較 してみ ます。重大 な見落 としや
もので はな く貴 重な人的資源 です。若手 の研究者 を雇用
す るのに年間300万 円必要 である として、理学系研究科
は、 1559人 分47億 円の人 的資源 があるわ けで (し か も彼
らは、逆 に授業料 を支払 つて夜 も寝 ないで研究 をして い
る !)、 これがス トックで はな くフ ローで ある とい う点
事実誤認 が あるとは思 い ますが、随想 とい うことで ご容
赦下 さい。
も重要です。 これ は国立研究所では望むべ くもない もの
です。 この計算 は数字 の比 較 のために行 なった もので、
地質調査 所 は、研究者数 が226人 です。経常研究費 は
大学 が この貴重な人的資源 を一方的に収奪 して い る とい
うのはあまりに皮相的 な言 い方 で しょう。 む しろ学部学
9億 6千 万 円 で (施 設整備費・ 運営費 を含 む)、 このほ
か、通産省、科学技術庁、環境庁 な どか ら地震 、地熱、
環境、海洋な ど目的指向の強 いテーマ について研究費 を
取 ってお り、 これが13億 7千 万円 にな ります (平 成 7年
度 地質調査所要 覧)。 一 方東京大学理学系研究科 は、教
授・ 助教授・ 助手 の総数が224人 です (平 成 7年 度理学
部便覧 )。 校費 は17億 8千 万 円で (教 授会資料 )、 科学研
究費 は14億 7千 万 で した (学 内広報、No1044,1995年 )。
生 も含 めて学生 へ の教育 を通 じて 自身 の研究活動 に得 る
ものが きわめて大 きいのではないで しょうか。 ハ ー ドで
はな くソフ トの研究環境 として大学 は、国立研究所 に圧
倒的 にまさって い ると思 い ます。
私 自身転任 にあたって、国立研究所 と大学のメ リッ ト、
デメ リッ トについてい ろい ろと考 えました。研究費 の獲
得 に伴 う行政 との対応 が、年齢 を増す ごとに増 えて い ま
―-11-―
した。社会的要請 に基づ く研究 より、基礎的体系的な研
ロ ジェク トに も大学 の研究者が様 々な形 で関わ るように
究 を落 ち ついてや りたか った こともあ ります。 しか し国
立研究所 にも、ア ドミニ ス トレー ションをスマー トに こ
なった とききます。大学人 も象牙の塔 にこもって「武 士
な し自 らの研究 テーマ と行政 の要請 を巧みにす りあわせ
て、大学 で はや りに くい大 きなプ ロ ジェク トを立案 して
い る中堅 の研 究者 が大勢 い ます。私 が大学 に転任す る際
にもっ とも期待 したのは、学生 との接触 です。 そ して学
生が興味 をもち、それを学生 自身 が具体的な問題 として
とらえ解決す る様 な教 育、指導 がで きないか と考 えて、
は食わね ど」ではす まな くな った とい うことで しょうか。
しか しなが ら大学 と国立研究所 の研究環境 とそれ を支 え
るシステムに は、 それぞれ特徴があ ります。国立研究所
では、行政側 の要請 に応 える研究 を立案、実行するため
の行政 とのす りあわせ作業 (ア ドミニ ス トレーシ ョン)
に多 くの人手 と時間を割 いてお り、大学の研究が プロジェ
ク ト化すれ ばこう した作業の必要性 は ますます増 えて行
この 1年 努力 してきました。 これ までの ところ、 こうし
た努力が裏切 られ ることはあ りませんで した。
大学 に来 て、大学 と国立研究所 の性格 が近づいている
ように感 じました。欧米 による日本 の基礎研究 ただ乗 り
論以降、行政側 も国立研究所 に対 して基礎研究 シフ トを
盛 んに説 くようにな つて い ます。一 方 で大 学 は、研究 に
ついて社会的要請 を考 えるよう求 め られて い ます (東 京
大学 現状 と課題 )。 また 科学研究費 はプ ロ ジェク ト型
研究の比率が高 くな り、科学研究費以外 の大 きな研究 プ
くで しょう。一 方大学の最 も大 きなメ リッ トは学生 とい
う人的資源 をもってい ることで、 この資源 を有効 に活用
し育 てることが もっ とも重要である と、私 は考 えます。
転任 して 2年 目の課題 は、教育 と私 自身 の研究 をどの
ように組 み合わせ るか とい う ことで す。 そのた め には、
私 が もっ ともお もしろい と思って い るサ ンゴ礁 に学生 を
連れ ていけるだ けの研究費 はとらん といかんな と思 って
い る ところです。
―-12-―
霊長類移動運動 の発達 と制御
木
村
賛
(生 物科学専攻)
サル をモ デル としての二足歩行獲得過程 の検討 がなされ
ました。最後 に運動 の制御機構 につ いての実験 お よび理
論的な論文 が きます。体 の大 きさ、体節 の物理定数、関
節運動、呼吸 な どの機械的なパ ラメータが 、運動や姿勢
にどの ように影響 してい るかが調 べ られてい ます。 そし
て ヒ ト、サ ル、一般四足獣 における神経制御 の比較検討
が試 み られ ました。運動のモ デル を考 えた上でその実験
的検討 も行われ ています。霊長類 の神経系 は一般四足哺
乳類 の ものをその ままあてはめるわけにいか ない ところ
があるよ うです。神経制御 の問題 はまだ これか らさらに
一 昨年 の夏 、文部省国際 シンポジウム開催経費 を得て
「霊 長類 移 動 運 動 の 発 達 と制 御 (Development and
Control in Primate Locomotion)Jを 開催 しました。 こ
検討 しなければな らない問題 です。 この特集 の内容 は、
総説 も含 めて、すべ て形態 、姿勢、運動 についての実験
的ないし定量的データに基 づいた検討がなされています。
の 出版原稿 の編集 が ようや 〈終わ り、出版社 に発送 した
ところです。 スイス Karger社 か ら出て い る Folia Pri―
霊長類 の移動運動 の多彩な観点 か らの研究が、 シンポジ
ウムでの討論 をふ まえて統合 の方向 にまとめ られた と思
matologicaと い う雑誌 に特集 のかたちで載 る予定です。
い ます。 今後 の霊長類移動運動、 とくにヒ トの歩行研究
一般 の陸上 四足哺予L類 と比 べ て霊長類 (サ ル とわれわ
れ ヒ トの仲間)の 移動運動 にはい ろい ろな特徴 があ りま
の発展 に役 立 つ もの と考 えて い ます。
シンポジウム も特集の編集 も、非常勤 でお願 い して い
す。 とりわけサルにみ られる前足 と後 ろ足 とが機能分化
して い るとい う特徴 には興 味 が持たれ てい ます。それは
た秘書 の方 に助 けて もらってやって きました。最後 の ま
とめの ところで東京大学 へ移 り、秘書の方な しとなって
この分化 が、 ヒ トの特徴 である直立 二足歩行 の進化過程
での獲得 に直接関係 して い ると考 えられ るか らです。霊
しまって苦労 しました。承知 のはずではあ りましたが、
秘書 もい ない技術職員 もい ない とい う日本の研究体制 の
長類 の移動運動 は近 年研究 が進んで きてはい ます。 しか
しこのイ
団体発達 の研究 はまだ遅れて い ます。現生 のサル
貧 しさを身にしみて い るところです。前 に聞 いた話 では、
事務官、技官増員 の概算要求 は絶対通 らないので、大学
本部、文部省 が受 け付 けて くれないのだそうですが本当
で移動運動 とくに二足歩行 の個体発達 を調 べ ることは、
ヒ トの系統発達 での二 足歩行獲得過程 を知 る手 がか りを
で しょうか。一 方で定員削減 によ り次 々 と人 が減 ってい
与 えて くれ ると期待 され ます。 また運動の制御、 とくに
神経制御 につ いては霊 長類 ではまだほ とん どわかってい
ます。 あ と何十年 かす ると日本中 の大学 は教員 とい う名
の雑用係だ けになるのではな いで し ょうか。大学 な ど日
ません。神経制御 の検討 は直接 に ヒ ト特有 の大 き く複雑
となった脳 の獲得過程 とつなが るものです。 このよ うに
本 の公 的研究機関 の施設設 備 の貧 しさにつ いて は最近報
道 もされ、多少関心 も持たれ るようになった ようです。
しか し研究援護、包括 を行 う人員の問題 についての認 識
霊長類 の移動運動 の研究 は ヒ トの解明 のために重 要な役
割 を持ち ます。移動運動研究 の うち、 これ らの まだ不十
分 な分野 についての最新 の研究 を討論す るためにこのシ
ンポジウム開催 したわ けです。 これ らの討論 を踏 まえて
参加者に論文を書 いて もらい、まとめることができました。
内容 について少 し紹介 します と、 まず最初 に基礎的な
筋骨格系 の機能形態学 の論文 がい くつか あ ります。筋骨
格系 の主な機能 は支持運動 を行 う ことですか ら、 この機
能形態学 とは生体力学、生体機構学 の立場か らの解析 が
主な もの とな ります。現生生物 の解析 を化石の解釈 に応
用す る検討 がなされてい ます。 また これか ら、化石 を知
ることにより運動生態の系統発達 を検討す る ことも行わ
れ ました。霊長類運 動器 の個体発達 についての知見 も増
えました。次 いで、移動運動 その ものの実験的研究論文
が い くつか あ ります。 こどもの運動 は変異 の大 きな もの
ですが、 それが どのよ うな もので、 どの ようにお となの
ものへ と収れ ん して い くかが調 べ られています。 とくに
-13-
はまだ まだのようです。数だけでな くその待遇 な ども含
めた早急な充実 な しには、今後 の研究教育 の発展 はおぼ
つかないのではないで しょうか。
東京大学 に着任 して
本目 原
博
日
召 (物 理学専攻 )
誰 もが、 もう一つの実験 グループに遅れを取 るまい と、
競争心 む き出 しで働 い ていた。 その後、約 一年経 つて、
トップ・ クォー クももはやただの素粒子 である。
バー ク レーで は、研 究所員 の義務 として、女性 を含 む
minOrityの 問題 、環境保護 や仕 事場 の安全性 (En宙 ‐
ronmental Health and Safety)な ど様 々な社会的問題
についての トレーニ ングを受 けさせ られた。私 は、 もち
ろん、いや いや、かつ、 いいカロ
減 に受 けていたわ けだが、
それで もこれ らの事 について の sensidvityは 若千高 め
られていた らしく、東大理学部 の女性 や外国人 の教官 の
大学院 2年 生 の時 に、 日米高 エネル ギー物理学協力事
業 による実験のために、 カ リフォルニ ア大学 ロー レンス
バ ークレー研究所 に送 られて以来、途 中 2年 間 を除 いて、
少なさな どには改 めて感心 した。
ず っ とバー ク レーで仕事 をして きたが 、昨年 10月 、理学
部物理教室 の一員 に加 えて頂 くこととなった。 高 エ ネル
は、給食 が うまいと言 つている… アメ リカの小学校 の
算数 は、噂 どお り、 お粗末 で あったが、チ ビの時 か ら、
ギ ー物 理学研究所 の Bフ ァク トリー を使 った実験 で、素
粒子反応 の対称性 についての研究 を進 めて行 こうと思つ
何 らかの形で意見 をまとめ、それを稚拙 なが らも文章 に
す るとい う トレー ニ ングには多 くの時間をさいていた。
ている。理学部、 そして物理教室 は、新参者 に対 して暖
か く (あ るい は、誰 に対 して も暖か い のか もしれないが
この点 は、 日本 の学校 で ももっ とや った らいい と思 う。
バ ークレーや その近 くの スタンフォー ドには、すばや く
研究室 を立 ちあげて い くのに快適 な環境 を提供 して
頂 き感謝 して い る。
ここ数年の間、バ ー ク レー とシカゴ近郊 にあるフェル
論理 を組 み立てて、 はっき りと (時 には強引 に)主 張 し
てい くタイ プの研究者が多 く、その中で自分 のや つた こ
)、
ミ国立研 とを 2週 に 1度 往復す るとい う生活 をしてきて、
frequent flyerの mileageを 稼 いで きた。高 エ ネルギ ー
物理屋 に とつて、世界最高 エ ネルギーのカロ
速器 (フ ェル
ミのテバ トロン加速器 が現在最高 )で 仕事 をす るとい う
のは、やは り楽 し く、 かつ、や りが いが ある。私の属 し
て いた実験 グループに は、約 400人 程 の研究者 がいたが、
テバ トロン加速器での物理 は未開拓 で、私 としてはい ろ
い ろ好 き勝手 な ことをさせて もらった と思つて い る。幸
いにして、 トップ 。クォークの発見 に も貢献 で きた。昨
年 3月 、公式発表の前、 シカゴにいるグルー プ リーダ ー
と連 絡 を取 りなが ら、バ ー ク レーの所長 と副所長 に事前
人
の子供達 は、始 めは、アメ リカに帰 りたがって い
たが、 やっ と日本 の学校 に も慣れ て きた らしい。上 の子
とをちゃん と評価 して もらうのは容易 で はな い。 もちろ
ん、所 によって はそれ をや り過 ぎるとしつぺ返 しを喰 う
ので、 自分の回 りの文化 に配慮す る感 受性 も鍛 える必要
があ る。無 理か…
高 エネルギー物理実験 の分野 も、日本/ア メ リカ/ヨ ー
ロ ッパ にあるファシリテ ィー (主 に加速器 )を 国籍 に関
係な く誰 もが 自由 に使 える環 境 が整 ってきた。大 きな実
験 グループ にい ると、 いろい ろな大学の学生 さんに会 う
が、東大 の学生 さんのレベルが極 めて高 いのは事実であ
る。 私 も、 どのような学生 さんが研究室 に来 るのか を楽
しみ にして (も ちろん優秀 に違 い な い)、 研究・ 教育 に
励 んでいきたい。
説明 に行 ったが、妙 な興奮 を味わ つたのを覚 えて い る。
―-14-―
着任 の ご挨拶 に代 えて
西
田
生
良5(生 物科学専攻 )
大学 に くらべ て一段 とスムーズで あった と感 じます。今
で も有 り難 かった と感謝 していることは、 い ろい ろな書
類 の締 め切 りを事務官の方々 にずいぶん大 目に見 て いた
だ いた ことです (つ ま り、大学で も少 しは大 目に見 て く
れ とい う私 のささやかなお願 い)。 外 国人研究者 が多 い
の も、岡機構 の特色 の一 つです。過去十年間 で、研究室
を訪 問 した外 国人 の総数 は100人 を下 りませ ん。外国人
研究者 の研究面、 日常生活の世話 な どは助手の仕事 に含
まれるので、ず いぶ んや っかいなケース もあ りましたが、
平成 7年 10月 1日 付 で着任 しました。同 じ日に生物科
学専攻 (進 化多様性 )に 着任 した上 島 さん とは、昔 サ ッ
カーの試合 で敵味方 に別れて戦 った ことが あ り、学部長
室での思わぬ再会 に奇遇 を感 じました。前任地 は、 岡崎
国立共 同研究機構・ 基礎 生物学研究所 です。専門 は、
“
植物脂質代謝生化学 "で すが、基礎生物学研究所在任
中 の この10年 ほ どは、“
植物 の低温耐性 にお ける生体膜
の
の重
脂質 不飽和化
要性 "に ついて分子生物学的手法 を
取 り入れて研究 して まい りました。 これか らは、従来 の
研究分野 を発 展 させ る とともに、 “
環境植物生理学 "
という新 しいア ドバ ルー ンの もとで、植物 のス トレス環
境 とのつきあい方、 ス トレス耐性 の しくみを解 き明か し
た い と考 えてお ります。着任 にあた り、なにか書 けとい
う依頼ですが、小学校以来作文 と読書感想文 は大の苦手
の私 ですので、私 の経験 した研究所 と大学 について感ず
るままを述 べ ることといた します。
岡崎国立共同研究機構 (岡 機構 )は 、愛知県岡崎市 の
中心地 に近 い小高 い丘の上 に立 つ レンガ色の建物で、分
子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所 の三研
究所 か ら構成 されて い ます。「研究所 は、 プ ロ ジェク ト
推進 のための組織 である。Jと い う考 え方があ りますが、
岡機構 は、 これを国内で最 も徹底 して行 っている研究機
国内 にいなが ら国際経験 を積 むことがで きるというメ リッ
トの方 が多 かった と思 い ます。 また、研究所 にいる数少
ない院生たちはす ぐに英会話が上達 しました。研究費 は
大学 に くらべ るとず いぶ ん潤沢 にあ りましたが、時間を
お金で買 うような無駄 な使 い方 も多かった ように思 い ま
す。短期間で研究成果 をあげるとい う性格上、時間 をか
けた教育 には全て不向きであると感 じました。
大学での活動で最 も印象に残ってい るのは、オブザバー
として はじめて参加 した大 学院 の面接試験 で した。“教
育機 関"あ るい は “
研究者育成機 関"と しての大 学院 を
選ぶ側か ら初 めて体験 したわ けですが、受験生の目的意
識、研究意欲 を尊重する選抜方法 は、研究所経験 の長 かっ
た私 に とってはとて も新鮮 に感 じられ ました。 また、そ
の後 の大学院教育 を見て も、学生 の将来 の独創性 の開花
を時間 をか けて待 つ な ど大学 (院 )で なければで きない
や り方であると思 い ます。 この ような反面、なかなか研
究 の視点 の定 まらな い学生 は、救済 され に くいので はな
いか と思 い ます。着任 してか ら5カ 月 の短 い期間で、入
学試験、講義、修 士論文審査 な ど大 学人 としてのメイ ン
メニ ューの い くつか を こなして きました。 その どれ もが
大変重要 で、骨 の折れ る仕事 であることを実感 してお り
ます。 しか し、 これで、「研究所 の先生 は雑用がな くて
関 であると思 い ます。必然的 に、組織 は コンパ ク トであ
楽 で よい (本 当 は雑用 もあ り楽で はな い のだが)」 とい
う研究仲間か らの冷 たい視線 か ら解放 されるのは私 にとつ
り機動力があ りました。教 官― 事務官 一技 官 の連 携 は、
ての小 さな喜 びです。
-15-
植物 園雑感
福
田
裕
穂 (植物園)
仕事 はまさにそのような幸福 な例だ と思い ます。そして、
このような文脈 において植物園がサイエ ンスの面 か らも、
実際 の面 か らも自然保護の中心的役割 を果 たせた ことを
誇 りに思 い ました。植物園は、 このような実践 に加 え、
教育 の面か らも、今後 とも社会 の 中での 自然保 護・ 種 の
多様性維持 へ の積極的 な貢献 をしてい く必要 があるのだ
と考 えて い ます。
植物園 は多様 な役割 を担 っています。理学部附属 の植
物園 として、学部・ 大学教育 へ の貢献、進化多様性 お よ
び形態 。発生研究 の世界的中心地 としての役割、一般 に
今春、植物園 にち ょっ といい ことが あ りました。技官
の下園文雄 さんが、長年 にわた る小笠原の絶滅植物 の保
護 の仕事 によ り、松下幸之助花 の万博記念賞 を受賞 した
のです。下園 さんを リー ダー とす る植物園のチー ム は、
小笠原固有 の植物 で絶滅 の危機 に瀕 してい るムニ ンノボ
タ ンをはじめ数種 の株 を植物園 に持ち帰 り、組織培養 を
用 いて繁殖 させ 、それを再 び小笠 原 に戻す とい う作業 を
行 って きました。 その結果、 自生 して いた親 株 が枯死す
る直前 に、植物園 で生 まれた新 しい株 を小笠 原 に根付 か
せ る ことに成功 したので した。新 たな培養法 の確立 か ら
はじめて、植物 の栽培法、小笠原 で根付 かせ るまでの努
力、 さらには、なぜ小笠原で絶滅 しようとして い るか に
ついての生態学的 な考察 まで含 んだ仕事 が高 い評価 を受
けたわ けです。その詳細 については、下園 さんにお まか
せす る ことに して、 この受賞 に触発 されて私 が植物園に
ついて考 えた ことのい くつか を記 してお きた い と思 い ま
す。
私 は昨年 10月 に着任 したばか りで、下園 さんの これ ま
での仕事 をかな り客観的 に評価 で きるよ うに思 うのです
が 、私 か らみて下 園 さんの仕事ですば らしい と思 ったの
は、その 内容 はもちろんですが、 この仕事 が、植物園、
東京都、環境庁、小笠原の多 くの人たちの協力 によって
成 し遂 げ られた とい うことです。言 うまで もない ことで
開かれた植物園 として人 々 の憩 い、社会教育の場 として
の役割、 そして、 自然保護・ 多様性維持 へ の協力。 いづ
れ もや りがいのある仕事 で、今後 ます ます、植物園 の重
要性 は増 してい くもの と思われ ます。一方で、多岐 にわ
た る植物園事業 は、近 年 その仕事量が急激 に増力日し、限
界 に達 してい ます。 その しわ寄 せ は、植物園 の事務局、
技官、教官の過労働 とい う形で現れて い ます。理学部 の
ご厚意 により、植物園 の 中 の施 設 は少 しづつは良 くなっ
て きてい ます。 しか しなが ら、昭和 38年 当時、イヽ
石川、
日光両植物園合わせて20人 いた技官 は、現在半分 の10人
で、今年退官 になる植物園 の生 き字引 とも言われ る技官
の方の後任 の補充 もあ りませ ん。 また、 日光の分園の教
官 ポス トも、教官の転 出後、補充す る許 可 が下 りず、分
園 の業務 に支 障がでつつ あ ります。植物園予算 も一――
―愚痴が限 りな く続 いて しまい そうなので、 この辺でや
めてお きますが、 いづ れにして も、理学部 の皆様 の暖 か
い ご支援が植物園事業 を行 う上で是非 とも必要であ り、
ご支援 を切 にお願 いする次第です。
原稿 を書 い て い る今、植物園 の梅 が花盛 りです。非常
に多 くの種類の梅が、青 い空 に映えて咲 き誇 ってい ます。
4月 には、小石川植物園は桜 で埋 ま ります。植物 園 は、
大 げさに言 えば、私 たち人 類 が生 き延びるための 自然 に
すが、 自然保護 の仕事 は個人ではで きず、 多 くの人 の献
対す るあ り様 を、都会の中で最 も身近 に感 じとれ る場で
あると思 い ます。皆様 も、命 の洗濯 に、植物園 にい らし
身的な協力 の下 にはじめて可能 にな ります。下園さんの
てはいかがで しょうか。
-16-―
『新 しい言葉』
深
田
吉
孝 (生 物化学専攻 )
い。拒絶反応 を起 こさせないことが、強 い感染力 の原因
の一 つのよ うだ。 この言葉 は (少 な くとも私の)研 究室
の一部 の院生 に感染 している。 セ ミナーの発表 で「…な
んですけどもォ、 …で して ェ、 … とい う訳で ェ、 …」 と
い う院生 に気 づいた。「・…です。従 って…だ と思います。」
といった断定的な表現 を避 けて結論 をぼやか し、明確 な
主張 をせずに保身 して い るのである。同 じ理由だ と思 う
が「新 しい言葉」には、文章全体 をぼやかす「 いちお う」
「 とりあえず」 といった言葉 を多用す るとい う特徴 もあ
る。「 とりあえず試 み ましたが、 い ちお うネガティブで
新任教官 の 自己紹介 とい うと、皆 さんは一体 どんな こ
とを書 いてお られるのだ ろうか。少 し気 になって、 これ
まで勤務 して いた教 養学部 の学部報 をい くつか拾 い読 ん
でみた。 そこで 目につ いたのは「○〇年ぶ りに この駒場
に帰 って きてみると…」 とい うフレーズで、本学出身者
の多 さに改 めて驚 かされた。小生 がかつて勤務 していた
教室 (京 大 。理・ 生物物理 )は 比較的新 しい教室 とい う
こともあってか、教授 の多 くは他大学出身だった。 ヘ テ
ロでない集団では充分 なガイダ ンスが得 られ ず、 よそ者
は事情がわか らず苦労する ことが ある。 3年 前、 この大
学 (教 養学部 )に 来 て悩 まされたのは教育面 での「言葉」
だった。例 えば「 シンフ リJを 知 らない私 には、単位 の
懇願 に来 た前期課程 の学生 が「 ドラは困 る」 だの「シケ
タイが悪 い」 だの呪文 を唱 えて もチ ンプンカンプンで、
早 々 にお引 きとりいただ くしか術がなかつた。 この よう
な言葉 の延長線上 には、「業界用語 (研 究室 スラング)」
がある。卒業研究 で研究室 に配属 されて「サチ る」 とい
う言葉 を知つて感動 し、これを何 とか使 ってみたいと思っ
た。「 業界 用 語」 を使 う こ とは、 その 言葉 が 通 用 す る
「業界」 の一 員 で ある ことを示す ように思 えたか らだ。
ところが、このような自分の過去 を差 し引 いてみて も、
最近使われ始 めた 「新 しい言葉 Jの 危険性 と、感染力の
強 さには寛容 でい られない6こ の言葉 の特徴 の一つは、
句点 (ま る)を 避 けて、やた らに文章 を続 けるところに
ある。「・…で ェ、 … す るしィ、 … だけ どォ…Jと い う会
話 はよ く耳 にす る。延々 と文章 が続 くので、書 くとバ レ
るが聞 いてい ると何気 な く耳 に入 って しま うのが恐 ろし
―-17-
した。」 これ らの副詞 は英文 科学論文 で は訳 しようのな
い、 つま り多 くの場合、 あ り得 ない言葉 である。 もう一
つの特徴 として、文章 の途 中で軽 く切 って疑間文 の よ う
な発音 を挿入す る語法 が ある。「・…の ク ロス トー ク ?み
・
・J抑 揚 を上 げて相手の様子 を探 るので、
た い な現象が・
聞 いて い る方 は、 その言葉 に反応す ることを強要 されて
い る錯覚 に陥 る。相手 の様子 を見 つつ、矯正 あるい は反
論 され る気配 を察知す るや 身 を翻 して逃 げよう、 という
会話用法の よ うで もある。
スペ ースの都 合 もあ るので、 この辺 りで止 め るが、
「新 しい言葉」 のエ ッセ ンスは「曖味 さ」 であ り、書 き
言葉 にす ると決 して通用 しない。 ゆえに、 この言葉 の達
人 に文章 を書 いて もらうと、小 学生の感想文の ごとき文
章 が 出来上 が る。私 は当初、 この言葉 は若手のテ レビタ
レン ト等 だけが (意 識的 に)使 う特殊 な ものだ とたかを
くくっていた。 しか し、すでに書 いた ように、 この大学
の研究室 に も若 い感染者 は多 い。 ゾッとするのは、ふ と
自分 の回か らも飛び出 して しまうのである。 自戒 を こめ
てひ とつ 自己紹 介 を。「私 の研究 はァ、外界 の光 シグナ
ルが網膜 の視細胞 ?な んかで どんなふ うに情報変換 され
るか、 という研究 なんです けどもォ、 いちお う蛋 自質 の
分子 レベルが 中心 で して ェ、最近 では、 サーカディア ン
リズム ?み た い な生物 リズムが ァ、地球の24時 間 の明暗
周期 に同調す ることを利用 しまして ェ、脳 の時計細胞 の
光 シグナル伝達過程 を調 べ る ことによって ェ、 とりあえ
ず生物時計 が発振す るメカニ ズムを調 べ たい と思 うてる
・鳴呼。
んですけどォ、」 ¨
退官者 の挨拶・ 退官者 を送 る》
《
91S1956--1996
冽
ヽ
富 永
健
(化 学専攻)
に 重 要 な 役 割 を 果 た し た が 、 私 自 身 も A.Pr
Wolf,G.R.Choppin,R.H.Herbσ 教 授 ら著 名 な学 者 を知
己に得 て今 日まで交流 は続 いて い る。因みに第 2回 の放
射化学 日米協カ セ ミナーは、私が 日本側代表者 となって
1982年 米国 で開催 された。
1977年 、教授 に昇任 し、恩師斎藤信房教授 の後 をうけ
て放射化学講座 を担任 した。斎藤研究室でのテーマであつ
たメスバ ウアー分光法 は、引 き続 き新 たな応用や測定法
私が理 学部化学 に進学 したのは1956年 (昭 和 31年 )で 、
以来 この 3月 まで40年 間の ほ とん どを本郷の理学部 でお
世話 になった ことになる。
化学科進学 の年 に御退官 の木村健 二 郎先生 の後任 とし
て無機化学、 さらに放射化学講座 を担任 された斎藤信房
の開発 によってさらに発展 させた。 また、 この後 1987年
に、山中湖畔 で第 13回 国際 ホ ッ トア トム化学 シンポジウ
ム (IHACS XⅡ I)を 組織委員長 として主宰 す る ことに
なるが 、私 の興 味 はすで にホ ッ トア トム化学か ら無機光
化学 。レーザー化学、 さらには中間子化学 へ と移 りつつ
トム
あった。
一 方、Rωvland教 授 が1974年 に指摘 した ク ロロ フル
オ ロカーボン (い わ ゆ る特定 フロン)に よるオ ゾン層破
化学 の研究 Jで あったが、核変換 に伴 う化学反応 を対象
とす るホ ッ トア トム化学 は、当時 のわが 国 の乏 しい研究
壊 の地球環境問題 としての重 要性 には早 くか ら注 目 して
いたが、当時わが 国で は大気化学 の研究者 はほ とん どい
設備 の もとで、放射化学 の分野 で 国際的 に太刀打 ちでき
る数少な い研究課題 の一つであった。大学院時代 (1959
なかった。 1978‐ 9年 に トヨタ財 団 か らの研究助成 を基
にして、オ ゾン層破壊 や温 暖化 の原因 となる大気 中微量
年 )に 、 初 来 日 し た F.S.Rowland教 授 (当 時 は
成分 ガスの精密分析 に着手 し、現在 まで17年 間 にわた り
南北両半球 のバ ックグラウ ン ド濃度の観測 を続 けて きた
先生 の研究室 に入れていただ き、 1958年か ら大学院の研
1究 生活が始 まった。私のテーマは「錯体 のホッ トア
Kanws大 )に 注 目 されたのが、 その後今 日に至 る彼 と
の長 いおつ き合 いの始 ま りである。
1963年 、博士課程修了 とともに理学部化学科 (斎 藤研
究室 )の 助手 に採用 された。発見 されて まもな くノーベ
ル物理学賞 (1961年 )が 与 えられたメスバ ウアー効果 の
化学的応用 に、東大 か らお茶水大 に移 つたばか りの佐野
博敏博士 らとともに取 組 んだのはその頃の ことで、鉄錯
体 の光 。放射線分解 へ の応用 はこの分野 の開拓的な研究
理学部 の教授会 メンバ ー としての27年 間 には、人事委
員長、会計委員長、教務委員長、企画委員な どを一度 な
らずおおせつか り、理学部 には大 してお役 に立 てなか っ
た ものの、私 自身 は これ らの委 員会 で多 くの他学科の先
生方 と接する機会 を得 て幸 いで あ った と思 って い る。 こ
の他、地殻化学実験施設 には創設以来 の運 営委員、 およ
となった。
1967年 か ら 1年 半 をカ リフォル ニ ア大アーバ イ ン校 の
Rowland教 授 の も とで博 士研 1究 員 として過 ごして帰 国
す ると、東大 で は紛争が激 しくな りつつ あった。慌ただ
しい情勢 の中で 1968年 講師 に昇任、久保学部 長 の もとに
設 けられた若手教授会 メ ンバ ーか らなる幹事会 に力日えら
れたが、 これは化学科以外 の理 学部教官 との交流 を深 め
る最初 の機会 となった。
1973年 、大磯 で第 1回 の放射化 学 日本協カ セ ミナー
(日 本側代表者
が、今 日では、われわれの分 析法 や測定値 は世界的 に最
も信頼性 の高 い もの として認 められて い る。
:木 村健 二郎名誉教授 :米 国側代表者
:
F.S.Rowland教 授 )が 開催 され、 当時助教授 で あ った
私 が Scientific Secretary として会議 のお膳立 て を
行 った。 この 日米 セ ミナー は、放射化学 のほぼ全領域 に
わた り日米の主 導的研究者 が参加 した もので、以後 の こ
の分野 における日米 の研究協力 や人的交流 を促進す るの
-18-
び施設長 として 2期 ご縁 が あった。 また、理学部放射線
管理委員長 として10年 ほどアイソ トープ・ 放射線 関係 の
お世話 をさせて いただいた。
全学の方で も、 1988年 か ら 3年 半 ほ ど東京大学放射線
安全委員会 の委員長 をつ とめたが、その間 に病院 のアイ
ソ トープ問題 が発生 し、 その対応 や安全管理体制 の抜本
的見直 しに当時 の有 馬総長 に もい ろい ろご心配 いただ く
ことになったのは苦 い経験 である。引 き続 いて1992年 か
ら東京大学 アイソ トープ総合 センター長 とい う責任 の重
い仕事 を引 き受 けて い るが 、 こち らは「無事 これ名 馬」
をモ ッ トー に 4年 間の任期 をどうや ら順調 につ とめ上 げ
られそうである。
近年、地球環境問題 へ の関心が高 まる とともに、私 ど
もは、オ ゾン層破壊関連 の研 究 の草分 けとい うことで、
第 1の専間である融射化学よりも、1第 2.0専門ともいう.
べき蝙
の方が本業と見 られるよう1に なつ為 197
環境
年卿降オプン層保護ムの国際的取組み漑
ての
れ
を求めら
と
盾ヽ適藤省警遅マ罰致rヽ の専門家 し 嘔夢書
‐
ること幾多く、中饂
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委景会 `
1歴
検討含磐次 十播 余る要県を兼業する羽日になったが、
黎
化学者としての社会的営義務でもあり、
│に 艤辞Ⅲ嚇轟誕 勢力を割く
金人登も1つ て代え難鱚
え
のもや議を髄
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19-
富永健先 生 、 あ りが と うご ざい ました
薬
袋
佳
孝
ヒ学専攻 )
富永健先生 は、昭和 52年 よ り化学教室放射化学講座 を
担任、大学院重点化 に伴 い化学専攻無機・ 分析化学講座
“
的 な所 に 目が とま りがちですが、先 生 は全体の位置付 け
に常 に注意 を払われてお り、的確 に方向を修正 され る こ
の所属 とな られた後 も放射化学研究室 を引 き続 き主宰 さ
とが しばしばで した。 もっ とも私 たち門下 生 には先生の
れ、本年停年 を迎 えられ ることとな りました。先生 のご
専門 は放射化学 。大気化学で、国内外で高 く評価 される
意図が直 ぐに理解出来 な い ことも多 く、後 になってお考
えが判 つて来 る こ ともしばしばで した。
業績 を挙 げて来 られたのは広 く知 られ る所 です。 また、
これ らの専門分野 に留 まることな く、無機化学・ 分析化
先 生 は、研究の成果 もさる ことなが ら、研究 を進 めて
行 くプ ロセ スやその中 に現れ て来 る職員・学生の人間 と
学 の広範 な領域 に研究 を展開 してお られ ます。 この一 方
で、平成 4年 か らアイソ トープ総合 セ ンター長 を務 めら
しての個性 に常 に注意 を払われ て来 た気が致 します。研
究室 にはそれぞれに個性の強 い メンバーが所属 して来 ま
れ るな ど、本学 の教育研究活動 の推進 に大 きく貢献 して
したが、 その個性 を生か しつつ、研究室 としての集団 の
来 られ ました。学外 において も、 日本化学会副会長 (平
成 6年 よ り)等 の要職 を務 め られ、我が国の化学 の発展
に大 き く寄与 してお られ ます。国際交流 にも大 きな足 跡
中での調和 を取 って来 られ ました。 これは、各人の個性
を大切 にし、潜在的 な能力 を伸 ばして行 くことを重 要 と
考 えられての ことと思 い ます。
を残 され、放射化学分野 に関す る日米 セ ミナーや第 13回
ホ ッ トア ト ム 化 学 国 際 シ ン ポ ジ ウ ム の 開 催、
研究室 の外 での ご活動 につ いては先 生 は余 りお話 しに
な りません。学会 や会議 な どで他 の先生 か らその辺のお
Radiochim.Acta誌 等 の国際誌 の編集 を初 め として、
広 く活躍 してお られ ます。 また、Rowland教 授 (カ リ
フォル ニ ア大学 )を 初 め とす る著 名 な化 学者 と個人的に
話 を伺 う ことがむ しろ多 かつた ように思います。 これは
研究室 のメンバ ーに余計 な気 を使わせぬように とのお気
も厚 い親交 を結 ばれ、放射化学・ 大気化学 とその関連分
遣 いであった と思 い ます。
このよ うに、先生 は常 に紳士 であ り、佃1に 居 る者 に品
野の国際的な発展 に大 き く寄与 してお られ ます。
この ようにご活躍 の先生 に20年 近 くご指導 を受 けるこ
位 と風格 を感 じさせ ます。外国の著名 な先生 との会食 に
同席 させていただいた ことが あ りますが、先生の洒脱 な
とが 出来 ましたのは、何 とも有 り難 い ことで あった と思
い ます。 とはい え、学生時代 はもとよ り、職員 として先
会話 は様 々な知識 に裏付 け られた多彩 な話題 に及び、な
かなかついていけない こと もしばしばで した。先生 の品
生の元で研究 を続 ける こととな りましてか らも、先生 に
は教 えていただ くことばか りの毎 日で した。 しか し、先
格 は門下生の誰 も届 ばない所 ではあ りますが、その一部
にで も近づ くことが 出来 ます様、私共 は努力 して行 か な
生 は、研究 について も他の ことについて も、細か く指示
される訳 で はあ りません。む しろ、職員 。学生 の 自主的
けれ ば と思い ます。
な判断 に委ね る ことが多 かった様 に思 い ます。 しか し、
悩 ませ 続 けた ので は と危 惧 して お ります。 しか し、 それ
全 くの放任 とい う訳 ではな く、要所 を押 さえた的確 なご
助言を重要な所 でいただいてきた気 が致 します。これは、
ぞれ に、先生 が示 され て来 た 学 問 の道 を新 しい 時代 に向
門下 生 は、私 を初 め として変 な人 間 ばか りで 、先 生 を
けて発 展 させ て行 くつ も りで す。
先生 が、大局 を見失 う ことな く、常 に全体 の方向性 を考
えてお られ るか らと思われ ます。 私 も含 めて研 究 の部分
―-20-―
先 生 、本 当 に有 り難 う ござい ま した 。
●
│
東大を去 るにあたって
三津橋
務 (化 学専攻 )
で思 い出 の質 が変 わって しまうことを身 に染み て感 じて
い る。 1年 目は研究が思わ ぬ方向 に発展 して 5つ の報文
に名 を連ね ることがで きた。風 土的特徴 と相 まって当時
の ことは何 か ら何 まで輝 いて見 え る。 2年 目は失敗 の連
続 で、何等 の結果 も出せず に終わ って しまった。業績 も
お人柄 も申 し分 のない先生 に付 いていただ けに、申し訳
ない とい う思 いは未 だに続 いて い る。
帰国 して間 もな く研究室 は解散 した。研究 は教授一代
限 りとい うアメ リカ方式が とられ、我 々の帰属 は宙 に浮
いて しまった。 あとは私の流儀で「本来研究 は個人的な
近 ごろ、 い ろい ろな会 に出 て も、人の話 を聞 くのが苦
手 になった。最近 の関心事 か ら過去の出来事 まで、様 々
な雑念 が脈絡 な く駆 けめ ぐる。特 に後者 の比重が増 して
い るのは、本郷や この化学教室界隈 の作 まい を、思 い出
と絡 めて記憶 に留 めたい とい う力が働 い てい るのか も知
れない。
東大 が どうい うところか一 度、見 てみたい とはるばる
旭川か らやって きて、す ぐに飛び出す つ もりが、 この歳
までお世話 になって しまった。汽車 と連絡船 に揺 られて
約 30時 間 の道 の りを、学生の頃、故郷が懐か しくて年 に
3度 は往復 して いたが、便利 になればなるほ ど距離感 が
狭 まって望郷 の念 は薄れてい った。
1957年 、生物化学 に惹かれていた こともあって化学科
に進 学 した。当時、生物化学 は化学科 に属 して いた。 そ
れで、五 月祭 の時 には生化のグループに加わ ったが、出
し物 は うさぎか ら ATPを 取 り出 して展示す るとい うも
のであった。実際 に ATPを 取 り出す作業 は助手 の方 が
やって くれた。驚 いた ことに、鳴かな い筈 の うさぎが鳴
もの」 と割 り切 って こつ こつや って きた。お世話 になっ
た研究室 には後輩 の教官 がいたが、それ まで と全 く変わ
らぬ態度 で先輩 として遇 していただ き、本
目談 に乗 ってい
ただ いた。 これ まで研究 を続 けられたの も、 こうした ご
支援の賜 と深 く感謝 して い る。
昨年 の 4月 か ら化学新館 5階 の北側 の部屋 にいて、工
学部 か ら逢か向 こうの建物 まで一望 におさめることがで
きた。真下で は新 1号 館 の工事 が始 まって いたが 、遅 々
として進 まない様 子 なので、 ここにいる間 は眺望 を楽 し
む ことがで きると考 えて いた。 ところが、一旦基礎 工事
が完了す と、 あれ よあれ よとい う間 に 5階 を通 り越 して
しまった。今 や、化 学新館 だけで はな く、安 田講堂 まで
が小 さな存在 になって しまった。何か戸惑 い を覚 えな く
もないが、完成後 の景 観 が楽 しみだ。
これ まで、 いろい ろな ところと共同研究 して助 けて い
ただ いた。心残 りは他学科の先生方 に相談 に乗 っていた
だ く機会が一度 もなかった ことである。 5階 エレベーター
きだ したのである。 とて も神経が もたない と悟 り、生化
を降 りて左 に曲が ると化 学 の研究室が、右 に曲が ると物
理の研究室が並んで い る。 しか しなが ら、 これ まで一度
行 きは断念 した。
大学院進学 は有機化学 の研究室 に決 めた。指導教 官 の
も物理の領域 に足 を踏 み入れた ことはない。別 に柵 があ
るわけで もな く、見張 りが い るわ けで もないのに、心理
島村修教授 の ご専門 は有機反応 の機構解析 で、活気 に満
ちた大研究室であった。 ところが修 士課程 に進学 して間
もな く先生 が 1年 間、 さらに直接指導 を受 けて いた助手
的 な壁 は厚 い ようだ。何 の予備知識 ももたな いで、 よそ
の領域 にはい るわけにはいか ないのである。時折、私が
所属 して い るとい うことで「理学部 の某先生 はご存 じで
にな りたての先輩が 3年 間、ア メ リカで研究 され るとい
う事態が発生 した。要す るに、私 を コン トロール する先
す か」 と聞 かれることがあるが 、精 々「 お名前 は存 じて
お りますが、お仕事の方 はよ くわか りませ んJと い える
生方が周 囲 に一人 もい な くなって しまったわけである。
勿論、手紙 をや りとりして研究 指導 は受 けていたが、 国
程度 で、 自分 の不勉強 を見透か されているような気 が し
てばつが悪い。先生方の研究の概要 がわか り、気軽 に情
民学校以来 の学生生活 の中で、 この時ほ ど楽 しく開放感
に満ちた時期 はなかった と思 う。 これで勢 いづいて 2年
報交換 できるシステムがあれば、 い ろいろな面で利用で
きるのではないか と常 々考 えていた。いずれ、ホームペー
で就職す る予定 を変更 して、博 士課程 に進 み、 さらに助
手 になって研究 を続 ける ことになった。
ジが浸透 して、何 時 で も都 合 のよい時 に仕事の内容や研
大学紛争 が落 ち着 いて、あ と 2年 半 で先生 が ご停年 と
い う時 に博 士研究 員 としてアメ リカに留学 した。 1年 目
はゲイ ンズビル とい う小 さな市 にあるフロ リダ大 学 で、
2年 目はハ ーバ ー ド大学で研究す ることになった。 どち
究上 の接点 について的確 な情報 を得 る こ とがで きる、 そ
うい う時代が来 るのだ ろうと思 う。
長 い間 お世話 にな りました。理学系研究科の ご発展 を
心か らお祈 り申 し上 げます。
らの生活 も満足す べ きものであったが、研究 の結果次第
-21-―
三 津橋
務先生 を送 る
岡
崎
廉
治 (化 学専攻 )
三 津橋先生 に初 めてお逢 い したのはもう30数 年 も前 の
ことですが 、 とて もそんな時間が経 った よ うな気が しま
せん。私が卒業研究 のために入 った島村研究室の 2年 先
博 士課程 を修了 してか らも引続 いて島村研究室 に残 り
ましたが 、島村先生 の退 官後 は他 の研究室 に移 り、その
後 は、 い ろいろな研究者 と共同研究 をしなが らも、 ほ と
輩 で した。当時 は島村教授 がアメ リカに一 年程 出かけて
お られた ときで、研究室 で はスタ ッフ、学生 とものびの
び と'(決 してのんび りとで はあ りませんで したが)研 究
ん ど一人で研究 して こ られた と思い ます。 トリアゼ ンの
研究 はその後、炭素 ― 炭素結合 の開裂 で三 級 カルボカ
チオ ンを発 生す るとい う新 しい反応 の発見 お よび有機化
をしてい ました。 その頃三津橋先 生 は トリアゼ ンとい う
学 反応 における溶媒効果 のユニ ー クな評価法 の開発 へ と
窒素 を含む有機化合物 の研究 をして い ました。私 が研究
発展 しました。 また、最近 は 師 in型 電子受容体 の合成
を中心 とした有機機能性物質 の研究 にも興味 をもってお
室 に入 つて二 年位経 つた頃だ った と思 い ますが、三 津橋
先生 の書 いた論文 (15Nを 用 いた反応機構 の決定 に関す
るものであつた と記憶 して い ます)が 新 しい優れた論文
を紹介す る Chemistry al■ d lndustry(こ の雑誌 は今 で
はもうあ ま り読 まれて い ませ んが、当時 は多 くの優 れた
速幸艮を掲載 して い ました)と い う雑誌 のハ イライ ト欄 に
紹介 され ました。今 で こそ この種 のハ イライ ト欄 を もつ
雑誌 もかな り増 えて い ますが、当時有機化学の分野で は
この雑誌位 しかなかった と思い ます。 その三津橋先生の
論文 が輝 いて見 え、そのような論文 を自分 も是非書 いて
みた い ものだ と思った ことをよ く覚 えて い ます。考 えて
み ます と三津橋 先 生のその後 の研究の底流 にこの トリア
ゼ ンの研究 が いつ も存在 していた ように思います。
られ、物理化学の分野 の研究者 との共同研究 もしてお ら
れます。
三津橋先生 はその飾 らぬお人柄 ゆ え学生か らも厚 い信
頼 を受 けて い ます。必ず しも恵 まれた研究環境 になかっ
た と思 うのですが、そのような状況 で も着実 に優れ た研
究 を続 けられたのはそのお人柄か らくる達観 した、 良 い
意味での個人主義が あったからで はないか と勝手 に想 像
して い ます。
退官後 も私立大学 で教鞭 を執 られ るとうかが ってお り
ます。今後 もどうぞ健康 にご留意 の うえ活躍 されます こ
とを心か らお祈 り申 し上 げます。
一
―-22-
義
思 い出す こと
鵜
澤
淑
子
(地 球惑星物理学)
ある年の宵には先生 と職員で雛祭 りをした こともありま
した。
永田武先生 は元気で気 さ くな方で時々お好 み焼 の会 を
所望 され、会費 は先生の ポケ ッ トマ ネー、職員 はお手伝
い とご相伴 とい うわけで した。 よほどお好 きだった らし
く外国 か ら催促 の手紙 が来 た と事務室の方 は苦笑 しなが
らも嬉 しそうで した。
この他 に威厳 に満ちた坪井忠二先生、 日高孝次先生、
正野重 方先生 もお られ活気 に温れた時代 で した。無知 な
私 が地球物理学教室の図書室 に勤務す ることになった
のは昭和 34年 の秋 で したが、以来一 度 も弥生の地 を離れ
ず に定年 を迎 える ことにな りました。
当時 の教室 は緑 に囲 まれた木造 三 階建 と平家 の各 一棟
で今 の大型計算 セ ンターのあた りにあ り、田合 の分教場
者 に とっては優 しい先生 あるい は近 寄 りがた い存在 な ど
としか見 えなかった方々が後 になって考 えるとそれぞれ
に世界的 な学者なので した。若 い研究者 も個 性的 な方が
多 くやや浮世離れの感 もあ りましたが研究 に専心 して い
る様子 が うかが えました。 この方 々 も立派な業績 をあげ
られ、後 に地球物理学研究の重鎮 とな られ世界 に羽 ばた
いて行 かれた方 も多 くお られ ます。
を思わせ る簡 素 な建物 で したが中 に住 んでいる方々 はみ
ん な輝 いていて元気 で暖 かい雰囲気 を持 ってお られ まし
た。
過 ぎ去 った 日々 はみななつか し く楽 しい思 い出 とな りま
図書 室 は二 階建 の方の一 室 にあ り資料 に埋 れてい る状
況 で まもな く 3号 館の 2階 に移 りました。初 めは何 をし
て良 いかわか らず不安で したが徐 々 に慣れ て何 とか仕事
4階 に移 ることにな りましたが、 ここで最初 に見たのは
した。
そ うこうす るうちに図書室 はまた資料 の増加 のために
がで きるようにな りました。 しか し今 のように図書室間
学 内紛争 による安田講堂 の攻防戦で した。窓 を開 けて見
ていると催涙 ガスで 目が痛 かった ことを思 い出 します。
の横 のつなが りもな く心細 い思 い をいた しました。やが
て教室 の職員 の方 々 とも友達 になることがで きました。
この図書室 が現在 の ものですが、今見 えるものは建設中
の新 1号 館 で安 田講堂 はすでに隠 れて見 えません。
当時 は昼休 みにフランス語 の勉強 をした り (講 師 は高野
健 三 先生)、 歴 史 の勉強 をした りして充実 した楽 しい時
を過 ごしました。
先生 もそれぞれに魅力 のある方 が多 く地震学の松 澤武
雄先生 は温顔 で慈愛 に満 ちた方で した。後任 で東北大学
この間図書館界 も機械化 が進み便利 にな りましたが仕
事 の面では忙 し くな りました。 こんな中でいた らぬ私 を
暖 か く見守 って くだ さ り、困った時 にはいつ も気持 よ く
か ら転任 して来 られた本多弘吉先生 もた いへ んお優 しい
助 けて くだ さった教 室の方々に深 く感謝 いた します。 ま
た、大 勢 の理 学部 の職員の方々 、 こ とに図書職員 の皆様
にはたいへ んお世話 にな りました。心か らお礼 を申 しあ
方 でいつ もほほえみを浮 かべ て接 して ください ました。
げた い と思 い ます。長 い問あ りが とうござい ました。
―-23-―
鵜沢淑子 さんの こ と
浜
鵜沢 さんが地球物理学教室 の図書 に来 られてか ら何年
が過 ぎたか は、実 は私 には実感 があ りません。私 が初 め
て鵜沢 さんにお会 い したのは地 球物理学科 に進 学 した昭
和 40年 ごろではないか と思い ます。当時、地球物 理 の図
書室 は理 学部 3号 館の 2階 にあ りました。 その頃 3号 館
はまだ建 て られたばか りで新 しかつたはずなのですが、
2階 は廊下 が狭 くて、汚 くて、 暗 か った 印象 があ り、30
年経 つた今 と全 く変わ って い ない感 じです。今 も時々起
こる水漏れ もあ りました。 これは本当はそんなはずがな
いので、 2階 の南側 には教授 の先生方 の居室 が並んでい
て、今 と違 って扉 がすべ て閉 め られて いたために、 そう
い う印象があるだけか もしれ ません。とにか く図書室 は、
野
洋
三 (地 球惑星物理学専攻 )
とは、 いつで もた とえ深夜 で も見 た い ときに見 た い本 が
す ぐに見 られ る ことで す。 これ は図書室 に深夜 の午前 2
時 ごろにもす ぐに入 ることがで きることが もちろん必要
ですが 、実 はそれだ けではだめで、見た い本 が盗 まれて
いた り、紛失 した り、期限を過 ぎて も誰かが借 り出 した
ままにしていて はで きない ことです。図書室 に誰 で も自
由にいつで も入れ る状況 で、 かつ図書 の管理が厳密 に行
なわれ ることが是非必要 です。 これはかな り人 ごとのよ
うな言 い草 ですが、一 方利用者か らすると本 を借 りる と
その本 が 自分 の本 のつ もりで、 いつ も自分 のそばに置 い
ておきた くな ります。特 に自由 に コ ピーが とれない ころ
この廊下 の真 ん中あた りに教授室の向かいで、た しか海
洋 の水槽実験室 の とな りにあ りました。狭 い ところに地
には、一 層 そうで した。私 も結構本 を借 り出すほうで し
て、 い まだ に一人 何冊 とい う制限 も知 らないで済 ませて
いて、鵜沢 さんか らもらう期限切れ図書の請求の リス ト
震学教室以来 の本 がぎっしりと詰 まってい て、閲覧室 が
狭 く、 コ ピー機 (ゼ ロ ックスではな くリコー の青焼 の機
には30冊 ぐらいの本 が並んで い ました。地下 にすんで い
た ころに は鵜沢 さんが 4階 か ら降 りて、催促 にこられた
械 )も 書庫 のいちばん奥 においてあ りました。鵜沢 さん
の居場所 もなかった様 な状況 であった と思い ます。その
後、 3号 館 が増築 されて、図書 は 4階 に移 りました。 こ
ことも何回 もあ ります。 それで いなが ら、見た い本 がな
い ときには鵜沢 さんにす ぐみたい とせっついていました。
の時 もあれだけの本 を移動 した後 で整理 す るのに、鵜沢
さんは苦労 された と思 い ますが、私共 は当時学 生で、た
鵜沢 さんに色々 といあわせて いただ いて その日の うちに
は大抵手 に入れてい ました。最終的 に本 が見つからなかっ
た ことは一度 もなかった と記′
隠 して い ます。 この ように
しか、図書室 にあった机 や書棚 をわれわれの地下の実験
室 にもらうことばか りを考 えて いて、 ほ とん ど手伝 つた
地球物理の図書室 は、利用者 に とって は、大変使 いやす
い便利 な図書室であった と思 い ます。 これは、われわれ
記憶 はあ りません。本当 に図書 は利用す るばか りで、鵜
沢 さん 申 し訳 あ りません。
の ような 自分勝手 な利用者が多 い状況 (少 な くとも私の
ようなのが 10人 程度 はい ました)を 考 えると、図書室 を
さて、鵜沢 さんには長 年 に渡 ってお世話 にな りました。
お世話 になった ことはいろいろあ りますが、図書室 と図
書の運営 に関 して、微妙 なバ ランスを長 年 に渡 って維持
維持す るための、鵜沢 さんの努力 は並大抵 の ものではな
かった と思います。本 当 にご苦労様 です。
して いただ き、大変使 いやすい図書室 にして いただ いた
ことが一 番 であると思 い ます。 この点 は、実 は学科 の図
に長 い間、私 を含 めて自分勝手 な利用者 の面倒 をよ く見
ていただ き、 かつ図書の管理 をよ くやって いただいて、
使 いやす い地球物理の図書室 を実現 して いただ き、ほん
書室 に対す る、私 の 自分勝手 でぜいた くな考 えであ り、
最近 の図書 の風 潮 にはそ ぐわない のですが、 こうい う機
会 に述 べ させていただ きます。図書 室 に必要 とされ るこ
-24-
か な りかってな ことをか きましたが、鵜沢 さん、本 当
とうに有 り難 うござい ました。
植物園での 3年
矢
内
敏
明 鯖 物園)
植物園での 3年 間 と言 う短 い期間ではござい ましたが、
その間 に研究温室改築、園内環境整備 な らびに分園の便
所改築等 の完成 を見 ました ことは、理 学部 。事務局 の関
係 された方々の ご尽力のおかげであると改 めて御ネL申 し
上 げます。
私 は、昭和 41年 1月 宇宙航空研究所 に採用 され、以来
農学部・ 工 学部・ 生産技術研究所 に勤務 させて いただ き
ました。 これ もひ とえにそれぞれの部局 でお世話 になっ
た先輩 。同僚 の方々の暖か いご指導 。ご支援 の賜 もの と
深 く感謝 いた してお ります。
去 るにあた りまして、お世話 にな りました理学部・ 植
3年 前 カタク リの咲 く4月 に生産技術研究所 か ら植物
園 に着任 し、緑豊 かな 自然 に近 い恵 まれた環境 の地で勤
務 させていただき、あれよあれ よと言 う間に時は経過 し、
来 た るべ きして来 た定年 を残す ところ 1ケ 月で迎 えるこ
物園 の皆様 のご健勝 と益々の ご発展 をお祈 り申 し上 げま
す。
とにな りました。
矢内敏明事務主任 を送 るにあたって
村
上
哲
明
、平
原
茂
子 (植物園
矢内敏明事務主任 は東京大学 に29年 7カ 月間在職 され、
その うち、平成 5年 4月 か ら平成 7年 3月 まで事務 主任
はもとより、小 。中学校 の学習 の場 で もあ り、 また一般
入園者の憩 い の場 ともなってい ます。植物 園 の重要な使
として植物 園で事務管理等 にあた られ ました。植物園 に
在職 され た 3年 間 だけで は、 とて も矢内事務主任の こと
を言 い尽 くす ことはで きない と思い ますが、私 たちの矢
命 の一つである一般公 開業務 の遂行 とこの ような大 きな
工事 を両立 させ るために、入園者 に対す る気配 りや ご心
内事務主任 にまつわる思 い出を述べ させていただきます。
一つ 目は、研究温室改築 に関わ る思 い出です。矢内事
労 が特 に多 かつたように思われ ました。年間約 20万 人の
入園者 でにぎわ う植物園 ですか ら、閉園 をしないで この
務主任 は、 ち ょう どその改築期間中 に着任 され ました。
そ こで工事 の後半 を前主任 よ り引 き継 がれ、着任早 々、
ような整備事業 を無事 に遂行 で きたのは、矢内事務主任
の気配 りに負 うところが大 きい と思 い ます。
植物 園 にとって いずれ も歴史 的 な大 事業 であつた研 究
関係各機関 との折衝 や連絡 に忙 しくあた られ ました。新
しい研究温室 は、研究部 と育成部 の教 官・ 技官 が長 ら く
温室の竣工 と環境整備 による植物園内の各整備 が矢内事
務主任の 3年 間 の在職期間中 に行われた ということは特
待 ち望んでいてやっと実現 した ものです。研究温室が徐 々
にで きあがって い く様子、形 として現れた建物 に寄 せ る
期待 を全ての職員 よリー 心 に受 けとめ られて い らした よ
筆すべ き ことです。 これ らを見事成 し遂 げ られた矢内事
'な
務主任の ことは、深 く教職員の心 に刻 まれ る ことに っ
うに思 い ました。
二つ 目は、矢内事務主任 の着任 の翌年 に植物園 の環境
た と思 い ます。以上の ような大事業以外 で も、た とえば、
教官がつ くった科研費 などの書類 に誤 りがないか (大 抵
・
・)い つ もていねいにみて
た くさん誤 りがあるのですが・
整備 が行われた ことで した。道路改修、池改修、休憩所
新設、藤棚新設、案内板設置、標識版設置 な ど大規模 な
整備事業 が行われ ました。約 16万 平方 メー トル とい う広
下 さい ました し、台風や大雪な ど非常事態 が発生 した時
は、常 に真 つ先 に駆 けつ けて、適切 な処置 を して下 さい
ました。 高橋事務官 が倒れ た ときに最 も献身的 に働 かれ
大 な植物園ですか ら、園内の環境整備 が約 3カ 月 の短期
間 に行われた ことは、 これ までに例 をみなかった と思 い
たの も矢内事務主任で した。矢内事務 主任 のあたたか い
気配 りには、植物園の教職員一 同、 いつ も感謝 していま
ます。 そのため、教職員 や工 事現場関係者 との折衝 を行
うだ けで も大変 な仕事 です。 しか し、 それだ けではあ り
期待 してお ります。
した。 これか らは健康 に留意 され、 ます ますのご活躍 を
ません。植物園は、東京大学の教育実習施設である こと
―-25-―
、
ζ
たつ
私 と植物園 一 想 いでし
伊
藤
義
治 (植 物園)
外国産 が多 く、自生地、栽培環境 な どにつ いて も同様 で、
それ らを知 るよすが となった ものは図書室 の書籍 であ り、
難 しい洋書 をひ もとくきっか け となったのはもちろんで
す。 また、当時の園長 (故 前川文夫教授 )は 、 1週 間 に
一度勉強会 と称 して昼休 みに話題 の植物 につ いて Bota―
nical Magazineな どの洋書の解説 をして くださった り、
古沢潔夫助教授か らはさらに細部 にわた る助 言 をいただ
いた ものです。 さらに学生 の野 外実習 に 自費参加 させて
いただいた ことな ど、 自己形 成 に大変役立 った と感謝 し
ています。
昭和 31年 10月 に植物園 に籍 をおいてか ら、すで に40年
目を迎 えた ことにな りますが、振 り返 ってみると色 々 な
収集 された膨 大 な植物資料 を如何 に役立 てるか、園内
で どのように活 かせ るものか、論議 の対象 になった もの
ことが 目に浮かんで きます。勤務 当初 の植物園はい まだ
です。初 めの頃は管理 が行 き届 かない ことと、 いた ず ら
な どによって植 えては枯 れ るの繰 り返 しであった ようで
戦後 の状態 で、台地の中 ほどか ら奥 の部分 は草 ぼ うぼ う
で、草刈 りな どの作業 を中心 にやっていたお じさん達 に
よつて、冬 になってやっ と枯 れ草刈 りが一巡す る有様 で
した。 さらに一 番奥 に位置す る針葉樹林 は根株 だ けがや
けに多 く残 って いたが、当時の話 で は、 これ らは戦後付
近住民が夜 な夜 な燃料 に切 り倒 した跡 との こと、 日当た
りが よ くなったその辺 は雑 草 が 2m以 上 にものびていた
す。昭和 54年 (古 谷雅樹園長)に 園内の植生 につ いての
検討 が始 まり、昭和 59年 7月 に示 された「植物園 にお け
る植生配置の現状 と将来計画 に関す る報告Jに その概要
が示 された ものです。 それ を受 けて、平成元年 3月 に植
物園専門委員会 に よる「植生配置実行計画 Jが 示 されて
か ら、やっ と本格 1的 に実行 に移す ことになったわけです
ものです。
が、年間わず かな予 算 を捻 出 して いただ き、育成部 (技
昭和 30年度 か ら系統保存事業 によ り、内外か ら植物の
種子交換 が はじま り、56年 の記録 によると10,000余種 の
官 )職 員 によ る手作 りで行 い、すで に 7年 を経過 したが、
全体 の構想 か らみるとほんの一部 の手直 しに とどま り今
日に至 って い ます。 この事業 は人生後半 に託 そうとした
収集が あ り、種子 をまいた鉢 が所狭 しと育成場 に広 が っ
て いた ものです。 これ らの資料 を苗床でさらに育成 しよ
ものですが、計画 のために約 10年 の期 間 を費 や した こと
は、私 に とっては返すが えす も残念 に思われ ます。 しか
し、植物 園 スタ ッフによって、今後 さらに優れた植生改
うとの ことか ら私 の出番 にな り、初期 の職務 と異 な り、
植物 との深 い繋 が りになるきっか けになった とお もわれ
ます。
戦後 10余 年荒 れ るに まかせていた場所 (約 350m2)の
雑木 を切 り倒 し、伐根 は手仕事 で行 い、某大学 か ら耕私
機 を借用 してやっ と苗床 に仕上 げて稚苗 を植 えた もので
す。 ところが 目にす る植物 は名前す らまった く知 らない
良事業 が遂行 され ることを期 待 してお ります。
最後 にな りましたが、40年 にわた る間大過 な く勤務 で
きたの も、ひ とえに学部 の沢 山の方々の ご指導、 ご鞭撻
をいただいたお陰 と深 く感謝 し、御礼 申 しあげてお別れ
のご挨拶 と致 します。
―-26-―
伊藤 さん を送 る
下
園
文
雄 (植物園)
伊藤 さんは昭和 31年 に植物園 に奉職 され、40年 間、一
貫 して樹木 の収集 と育成管理 に勤 めて こられ ました。伊
植物園 の長 い歴史 の中で大 きな災害や変遷 によって荒
らされた時期が三 回あ りました。 はじめは御薬園か ら植
藤 さんが就職 された当時 の植物園は、戦後の復興 も遅々
として進 まない荒れ果 てた状態 で した。 まず、伊藤 さん
物園 に変わ る時、次 は大正 12年 の関東大震災、昭和 の太
平洋戦争 であ ります。 その時、復興 の現場で尽 力 された
が手掛 けられたのは、切 り倒 された樹木 の根 を掘 り起 こ
人たちは、植物園の歴史上 に生 きて い ます。明治時代 が
す作業 な ど園内整備 で あったそうです。諸外 国 の植物園
内山富治郎氏 であ り、震災後 が松崎直江氏 であ りました。
戦後 は混乱期 が長 くい ろいろな人たちが復興 に向けて努
との種子交換や植物採集・ 野外調査 な どで集 めた種子や
苗木 を育 て、整備 された園内 に コツ コツ と植 え こんで こ
られ ました。それゆえ、伊藤 さんは園内 の隅々 まで熟知
していて、どの植物 が 園内 の どの場 所 に植栽 してあるか、
力 されてきましたが、一貫 して園内 の植生改良 に取 り組
んで こ られた伊藤義治 さん と云 う ことがで きます。
伊藤 さんには多 くの業績 が あ りますが、なかで も、植
全部承知 してお られ ました。我 々では、植物 は知 ってい
て も、 その種類 が植物園 の どの場所 に植栽 されてい るか
物園 に隔離保存 されて いたニ ュー トンの リンゴの木 (こ
の木 は、 ニ ュー トンが万有引力の法則 を発見す るきっか
までは、す ぐには思 い浮 かび ません。 これ までは、伊藤
さんに聞 けば良かった ものが、今後 は、植生図 と首 っぴ
けになった ものの技 を接 ぎ木 した苗木 をイギ リスより譲
り受 けたのですが、 ウィルスに感染 していた)の 無毒化
きであた らなけれ ばな らな くな ります。伊藤 さんが余人
に成功 された ことは有名 です。伊藤 さんがウィルスを除
去 して下 さったお陰 で、園内 に植 え出 して入 園者 に見 て
を持 って変 えがた い人であった ことが よ くわか ります。
昭和 59年 、東大植物園の将来計画 が発表 され、 それに
伴 い園内の植生配置検討委員会が設 けられ ました。 その
が全国の100箇 所以上 の施 設や学校 に も配布 されてい ま
中 にあって、伊藤 さんは精力的 に資料作 りを行 い、植物
園 の将来 100年 を見越 した植生配置計画 お よび植生配置
す。伊藤 さんは、 ツツジに魅 せ られ、 自 ら、 日本全国の
山々を廻 り、 また、外国か ら種子 を取 り寄 せ、 ツツジの
改良実行計画 を作 りあげられ ました。 そして、それ に基
づいて、 これ まで収集 してきた植物 を園内に植 え こんで
種類 をた くさん集 めて こ られ ました。 3年 前、植生配置
計画 に基づ き、植物園 のほぼ中央 にツツジ園が作 られ、
来 られ ました。 しか し、植物園 は予算 も少 な く人手 もな
く、植 え込み時期に追われなが らの植生改良事業 は、遅々
春 3月 ∼ 5月 には見事 な花 を咲かせて入 園者 の人 気 を集
めて い ます。伊藤 さんは多 くの業績 を残 され、植物園 に
として進 まず 、伊藤 さんにしてみれば歯痒 い思 い をされ
た ことで しょう。今後 の植生改良事業 の行方 も気掛 か り
とつて無 くてはな らない方 で あ りましたが、第 2の 人生
を千葉 県 の緑 の相談所 で活躍 され る ことが決 まってお り
の ことと思 い ます。今後 は、我 々が植生配置改良実行計
ます。今後 も時々 は植物園 に来 て叱咤激励 のほ ど宜 しく
お願 い致 します。お体 に気 を付 けてご活躍 して下 さい。
永 い問、誠 に有 り難 うござい ました。
画 に基づ き、後 を引 き継 いで い きた い と思 ってお ります
ので、退職後 もご指導のほ どよろしくお願 い致 します。
もらう ことがで きるようにな りました。 また、 その苗木
―-27-―
理学系研究科長
(理 学部長)と 理学部職員組合 との交渉
1994年 3月 25日 、4月 18日 、5月 30日 、6月 27日 、7月
25日 、9月 22日 、 10月 17日 、 11月 21日 、 12月 20日 、 1995
級昇格 が実現 し、ある程度 の改善 を見た ことに理職 は理
学部 の努力 を多 とした。理職 は、93年 (平 成 5年 )よ り
年 1月 24日 、 2月 20日 、 3月 22日 に、小林研究科長・ 三
浦事務長 と理 学部職員組合 (理 職 )と の、同 4月 17日 、
放置 されてきた技術部組織 の技術長 をはじめ班長、主任
の空 きポス トを全て埋 めて組織の再編成 を早急 に行 な う
5月 22日 、6月 19日 、7月 17日 、9月 18日 、 10月 30日 、
ことを要望 した (95年 12月 )。 事務長 は技術委員会 の承
認 を得 て行 な うつ も りだ と答 え (95年 12月 )、 2月 28日
11月 20日 、12月 18日 、 1996年 1月 22日 、2月 27日 に、益
田研究科長・ 柚原事務長 と理職 との定例研究科長交渉 が
行 なわれた。主な内容 は以下 の通 りである。
に技術委員会 を開 いて検討す ると述 べ た (96年 2月 )。
く
図書職員 〉
理職 は、図書職員 の処遇 が劣悪であることを訴 え (94
1.職 員 の 昇 級・ 昇 格 に つ い て
く
事務職員 〉
理職 は、93年 5月 に昇格基準 を満た した物理事務室主
任 1名 の 4級 昇格 を93年 7月 に取 り上 げて以来引 き続 い
て要求 し、94年 4月 1日 付 で 4級 昇格 が実現 した。 また
94年 3月 の交渉 で理職 が要求 した地 学科事務室主任 の生
物化学科事務主任昇任 も同年 4月 1日 付 で実現 した。 こ
れ らの昇任昇格実現 に理職 は理学部 の努力 を多 とした。
さらに理職 は在級年数以外の基準 を満た してい る化学科
事務主任 の 5級 昇格 を要望 し (94年 5月 )、 同年 4月 1
日付で実現 した。 この問題 に関 して理職 は、文部省 の 5
年 6、 9月 )、 職務 の専門性 を重視 した処遇 改善 を要求
した (95年 6、 12月 、 96年 1月 )。 事務長 は職員 を組織
化 して主任、掛長、専門職員定数 を要求 した い と述 べ た
理職 は、理 学部 図書館 の建設が成 った段
階 で組織化 を行 うべ きだ とい うのが理学部図書職員の総
意である と述 べ た (96年 2月 )。
(95年 10月
)。
〈
行 (二 )用 務員 の 3級 昇格 〉
理職 は、行 (二 )用 務員 の 3級 昇格実現 を94年 11月 以
降 ほぼ毎回の交渉 で訴 えた。事務長 は職務内容 に付加業
務 を加 えて上 申 した と述 べ (95年 3月 )、 努力 して い る
と答 えた (95年 9月
級昇格基準 が50才 以上 の者 は在級 10年 (50才 未満 の者 は
在級 7年 )と なって い るのは納 得 で きない として、少な
くとも50才 以上 の者 には事務主任昇任 と 5級 昇格 を同時
発令 すべ きだ と主 張、改善 を要求 した (94年 5月 )。 4
級在級期間が長 く94年 度 に55才 で 5級 昇格 した生物学科
)。
2.技 術 職 員 の 助 手 振 替 問 題
教養学部 に貸 して いた定数 が漸次助手定数 として理 学
部 に返還 され、 それに技術職員定数 を振替 えてい ること
事務主任 (95年 4月 よ り生物科学科 )の 6級 昇格 につい
て も、95年 の昇級延伸前の実現 を要求 した (94年 10、 11
について、理職 は技術職員定数 の削減 に結 びつ くため中
止 を要求 した (95年 3、 11月 )。 事務長 は、 それ は無理
だが振替後 に退職 した助手定数 は継続的に技術官業務 の
月 )。
助手 として使 うことを明文化すると約束 した (95年 11月
)。
理職 は94年 3月 以来 ほぼ毎回の交渉 において、教室系
事務職員 の 5級 昇格 改善 の方 策 として、全専攻 に掛長
(事 務主任 )ポ ス トをつ ける こと及 び専 門職員 の学科、
教室事務 へ の導入 を要望書の提出を含 め一貫 して要求 し
続 けた。特 に95年 12月 には、文部省 が人事院 に学科、教
室事務 の専門職員新設 を96年 度 の要求事項 としてあげて
い る ことを示 し、 この問題 についての積極的な取 り組 み
を要望 した。研究科長 は現状 の ままでのポス ト増 とい う
理職 の要求 に理解 を示 した (96年 2月 )。
3.中 途 採 用 者 不 利 益 解 消
理職 は、民間 か らの異動のため処遇面で著 しい不利益
を被 っている技術職員 の不利益解消 について、研究科長
に対 し総長裁定 による昇格 を求 める要望 書 を総長宛 に出
す ことを要求 した (94年 6月 )。 研究科長 は10月 に要望
書 を渡 した ことを明 らかにした (94年 11月 )が 、任期 中
に成果 のなかった ことに遺憾 の意 を表 した (95年 3月 )。
理職 は当該職員 が在級年数 を満た して しまう96年 4月 以
く
技術職員 〉
理職 は94年度の教室系技術職員 の 6級 昇格 に関 し、実
現 1名 とい うのは他部局 に上しべ て悪 い ことを指摘 し、理
前の 4級 昇格 を毎回の交渉で要求 し、研究科長 も努力す
学部 の見解 を間 うた (94年 12月 )。 事務長 は年令順 で 要
求 した ことを明 らかにし、号棒 。年令順 の昇格 が妥当だ
とい う考 えである と述 べ た (94年 12月 )。 理職 は飛 び越
4.行 日 か ら行 l―lへ の 振 替 に つ い て
ると回答 した。
理職 は、行 l―lの 業務 を行 なって いなが ら行llに 据 え置
し昇格問題 の解消 を訴 えるとともに、技術官 の業績 を明
らかにす るために、教 官 の論文 に研究協力者 として名前
かれている職員 について、行l―lへ の早急な振替 を要求 し
て きた。事務長 は、84年 以前採用者 の振替問題 が解決す
れば進展す るのではないか との見通 しを述 べ た (94年 4
を加 えて もらうよう働 きかけることを要望 した (95年 6
月)。 研究科長 は技術 官 が 関与 した研究 につ いて は謝辞
月)。 理職 は要望書 を提 出 し、年度 中 の振替 を強 く要望
した (94年 6月 )。 95年 4月 、85年 以降採用者 の振替 が
または論文の共著者 として載 せ るよう教授会で要請 した
と述 べ た (95年 7月 )。 95年 12月 、高位号俸者 3名 の 6
1名 実現 した ことか ら、理職 は問題解決 に有利 な事実 と
捉 え、早期実現 を毎回の交渉で訴 えた。 これに対 し研究
―-28-―
科長は、人事課 に働 きかける等努力 してい ると回答 した。
削減 に対 す る理学部 の方 針 を質 した (95年 7月 )。 研究
科長 は定年退職者 を定 削 にあて る方 針 で ある と答 えた
生 物 化 学 科 の職 員補 充 問 題
94年 4月 以降の理学部 における中途退職者 2名 の定数
理職 は96年 度 は定年退職者 だ けで は削減
割当 をこなせない深刻 な事態であ り、教授会 は真剣 に対
がいづれ も生物化学科 に補充 されなかった ことについて、
応策 を考 えるべ きだ と訴 え、研究科長 は理学部 の方針 に
関 して検討す ることを約束 した (95年 7月 )。
(95年 7月
5。
理職 は強 い不満 を表明 し、全力 を尽 くして早期解決す る
ことを要望 した (94年 6月 )。 これ を受 けて研究科長 は、
)。
人事委員会 と教授会で生物化学科 に定員 1名 が補充 され
ることが了承 された と述 べ (94年 9月 )、 95年 4月 1日
9.教 員 の 任 期 制 導 入 に つ い て
付 で 1名 の事務職員 が生物化学科 に配 属 された。
間報告 「組織運営部会 における審議 の概要 一 大学教員
の任期制 について 一 Jに 対 し、教員 へ の任期制導入 に
理職 は、95年 9月 18日 に文 部省大学審議会 が 出 した 中
6.教 室 系 技 術 職 員 の 専 行 職 移 行 問 題 に つ い て
理職 は専行職移行実現 を目指 し、 9大 学理学部長宛 に
反対 を表明す るとともに、理学部 の見解 を質 した (95年
12月 、96年 2月 )。 研究科長 は学部 として議論 はまだ行
早期実現 を要請する文書 を送付 した ことを伝 えた (94年
5月 )。 研究科長 は 9大 学理学部長会議 の席 で東大 に同
なって いな い と答 えた (96年 2月
調 してほ しい 旨訴 えた と述 べ た (94年 5月 )。 理職 は国
大協 か らの専行職移行問題 に関す るア ンケー トの回答 に
10.新 1号 館 建 設 問 題
理職 の意 見 を反映 させ るよう要望 し (94年 7月 )、 研究
科長 は要 求 を入れた回答 をした 旨述 べ た (94年 9月 )。
を要求 し (95年 7、 10月 )、 研究科長 は現在 の 2倍 程度
の面積 で 2部 屋分 を確保す ると約束 した (95年 10月 )。
理職 は研究科長 に全員移行、専行職 4級 定数 の多数確保、
柏 キャ ンパ スを想定 した定数の確保、の 3点 を提言 した
理職 は新 1号 館建設 に ともな う理学部図書館建設計画
について、建物、組織 の検討 はどこで行 なわれ るのか を
尋ねた (94年 7月 )。 研究科長 は図書委員会 の下部組織
「技術職員 の専行職移行 に関す る理学部職員組合 の提言」
を提 出 した (95年 9月 )。 研究科長 は同提言 に同感 の意
を示 した (95年 9月 )。 理職 は、上位級定数 を多 く取 る
ため専行職移行前 に 6級 在級者 を技術長、 5級 在級者 を
班長、 4級 在級者 を主任 に昇格 させ ることを求める要望
書 を提 出 した (95年 12月 )。 事務長 は理 学部技術委員会
に諮 って決 めると答 えた (95年 12月 )。
)。
理職 は新 1号 館建設後 の十分 な書記局 スペ ースの確保
で ある理学部図書館設立準備委員会 (平 成 4年 発足決定 )
をスター トさせそ こで検討 す ると回答 した (94年 7月 )
が、後 に図書委員会 が適 当であると述 べ た (94年 11月 )。
理職 は図書館設 立 には職員 の組織機構 が必要であ りそれ
は 概 算 要 求 事 項 で あ る こ と を指 摘 し (94年 11月 )、
処遇改善 に結 びつ く職員組織編成 を要望 した (94年 10、
11月
)。
研究科長 は努力す ると答 えた (94年 10月 )。
7.職 員 の 所 属 及 び 身 分 言正明 書 に つ い て
93年 度 に実現 しなかった職員の理学系研究科移行 につ
いて、研究科長 は94年 度、95年 度 と概算要求す ると述 べ
た (94年 4月 、95年 1月 )。 95年 4月 1日 付 で職員 の所
属 が理学部 。理学系研究 科 になった とい う辞令が総長名
で交付 されたが、事務長 はこれは運用で行 なわれた と説
明 した (95年 4月 )。 95年 5月 末 に配 られた職員 の身分
証明書 の所属 は学部 になっていたため、理職 は辞令 に一
致 させ るよう要求 し (95年 6月 )、 96年 2月 、辞令 と一
致 した身分証明書が再交付 された。
8.定 員 削 減 問 題
11.柏 キ ャ ン パ ス 計 画 に つ い て
94年 3月 か らほぼ毎 回の交渉 で、理職 は柏 キャ ンパ ス
計画 につ いて質す とともに、柏 に本郷 か ら職員 を充てる
ことと安易 なパ ー ト、 ボランティア導入 には反対である
と主 張 した (95年 3月 )。 研究科長 は本郷 の人 員 を減 ら
す ことには反対 を表明 して いると述 べた (95年 3月 )。
12.地 震 、 災 害 対 策 に つ い つ て
理職 は、阪神大震災 を契機 に理学部 の災害対 策 を早急
に整 備 す るようを要求 した (95年 2月 )。 研究科長 は整
・
備 を始 めていると答 えた (95年 2月 )。
理職 は、削減 による職員 の減少 を非常勤職員 で補 お う
とす る発想 は過去 における大規模 な定 員外職員の定員化
問題 が繰 り返 され る ことが予測 され、大学職員全体の賃
金 を低 く抑 えられ らる事態 につなが る危険性 をはらむ こ
とを指摘 した (94年 9,10月
)。
理職 は、機会 をとらえて
定員削減問題 について訴 える こと及び削減 を退 け必要人
員 の確保 へ取 り組む ことを求 めた (94年 11、 12月 、95年
13.組 合 活 動 に お け る慣 習 尊 重 に つ い て
95年 7月 7日 、理職 の恒例行事 で ある 1号 館前 の七 夕
飾 りを事務当局が撤去 した ことに対 し、理職 は強 く講義
す るとともに、組合活動 における慣習 を尊重す ること及
び問題 が生 じた場合 は必ず交渉 の場で話合 うことを求 め
た (95年
1月 )。 研究科長 は定員増 は大学問題 における最 も大 き
な合意事項 であるはずだ と答 えた (95年 12月 )。 理職 は、
昭和 40年 の第 1次 定員削減 よ り第 8次 までの30年 間で技
術職員定数 は半分 に減 っていることを指摘、第 8次 定員
―-29-―
7、
7、
9月 )。
9月 )。 研究科長 は これ を承認 した (95年
人事異動報 告
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名 誉 教 授 との 懇 談 会
去 る11月 17日 0午 後 5時 か ら、赤門脇の学士会館 にお
いて、平成 7年 度の理学部名誉教授懇談会が開かれ,名
誉教授 の125人 の うち42人 の方々が出席 され、学内か ら
は吉川総長に出席 いただ き、理学部か ら益田理学部長を
はじめ評議員等関係者が出席 した。
に始ま り、益自学部長から
懇談会 は柚原事務長 の開会‐
挨拶 と近況報告が行われた後、全員で記念撮影を行 い、
続 いて吉川総長の挨拶 、最長老の爾永昌吉名誉教授 のご
発声による乾杯で懇談 に入った。
懇談 は、各先生方のご活躍の様子や、ユーモラスな思
い出話 し、近1況報告などがあ り、終始な ごやかな1雰 囲気
に包 まれた。
また、情報科学専攻 の辻井潤一教授 による「言葉 と計
算機Jと 題 す る請演 が 0.H.Pを 使 って行われ、名誉 教
授の先生か ら活発な質疑応答があった。
最後 に益田学部長 の挨拶 が あって盛会のもとに終了 し
た。
理学部名誉教授懇談会
平成 7年 11月 17日
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東 京大 学理 学部 名誉 教1授 懇 談会
平成 7年 11月 17日 於・ 学士会分館
於・学 士会分館
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