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KOJ000801 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

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KOJ000801 - 天理大学情報ライブラリーOPAC
木製立物の基礎的研究
橋爪朝子
序章はじめに
古墳時代を代表する遺物のひとつに埴輪がある。埴輪は古墳に立て並べた焼き物であるが、
近年の調査で、埴輪と河じような品目の木製品を古墳に立てていた例が相次いで確認されてい
る。これら「木の埴輪」の存在は、今まで考えられてきた古墳の様相を一変させる発見である
と評価されているし、また、同形形象埴輪の成立を考える上でも重要な手がかりとなることが
期待できる。しかしながら出土例の少なさや状態の悪さもあって不明な点が多い。
791
これらに対する呼称は未だ統ーされておらず「木製埴輪J[久野16
木製樹物 J[高野]7891
などと呼ばれることが多い。しかし本稿では、より適切な名称として、『日本書紀』垂仁天皇二
.j りて是の埴物を号けて埴輪と謂ふ。亦は立物と名く。… J とい
J
十三年の条に記載されたト{
1)
う埴輪誕生説話の一節を引用し、「木製立物」という用語を使用する( 。
以下、木製立物が埴輪と併存することについて筆者なりの解釈を行うとともに、木製立物の
重要な一品目である石見型に関する考察を行う。
いい竹山川
川一!門川川V
@理霊童戸
。~泊 4
4
ミ=ヰ下一一一一ーへ
7
‘"""
"==ー~
5
8
図 1 木製立物各種 (8=1/20)
鳥形木製立物
.5"3
.2 石見型木製立物(小立古墳)
1.笠形木製立物(今里車塚古墳)
.3( 組合わせ製品/石見遺跡 .4 丸彫り製品/四条 1 号墳 .5 板状製品/水品塚古墳) .6
.8 大刀形木製立物(小立古墳)
盾形木製立物(四条 1 号墳) .7 鞍形木製立物(小立古墳)
第 1 章木製立物について
第1節研究史
現在までに出土している木製立物は種類として、蓋を模した笠形や儀杖を表す石見型盾形(以
下、「石見型)J
をはじめ、鳥形・盾形・軟形・大万形などがある(図 1)
2(
)。これらは、形象
埴輪が形象部と円筒部によって形成されるように、木造の形象部とそれを支える木の柱から成
る。それゆえ支柱が倒れるなどして周濠内に転落することによって残存し、存在が確認された
場合が多い。本稿で「木製立物 j と呼んで取り扱う遺物は主にこうして出土した形象部である。
実は木製立物は用途不明の木製品として古くから知られていたが、研究として進展するに至
らなかった。初期の研究は笠形木製立物の笠部が「祭器の台」か「古墳に立てられた柱の笠J
かを問うといったもので[若林]7981
、近年まで前者の台説が優位となる。そうしたなかでも、
発掘により初めて笠形木製立物の出土をみた奈良県石見遺跡の調査報告では、台説がとられて
いるものの埴輪との関連性が示唆されており、古墳出土の木製品に対するこの後の認識に少な
からず影響を与えたと思われる[末永0]5391
古墳において木製立物が使用されたことを証明するのは形象部の出土のみではない。形象部
が残存しなかった場合でも、土中に埋まったままの木柱の基部や柱穴のみが発見されることに
よって木製立物の使用が伺われることがある。笠形木製立物の用途が明かされたのは、こう
いった柱穴と形象部が同時に出土した幸運な事例があったからである。
971
年に発掘された京都府今里車塚古墳では、周濠から笠形木製立物が出土し、墳丘裾に等
間隔にめぐる柱穴が検出された。こうして両者が組み合って墳丘に並んで、いた状況が判明した
こと{高橋美他]0891
を契機に、本格的な研究が始まる。高橋美久二氏は、同古墳で出土した
製品がコウヤマキ製であったことや古墳築造過程での計画的設置からこれらを恒久的な「木製
の埴輪」と考えた。氏は古墳において柱穴が発見された各地の例を紹介し、それらが木製立物
と関係するものであることをも指摘した[高橋美 1985](3)
。これに続いて高野学氏は埴輪と同
じ機能をもった木製品を「木製樹物」と総称し、木製立物と円筒埴輪の配列が密接に関わると
考えた[高野0]7891
その後、 198
年の奈良県四条 1 号墳・小墓古墳の調査で笠形・石見型・鳥
形・盾形の木製立物をはじめとする多種多様の木製品が出土したことによって、現在に残らな
い有機物を用いた祭組が見直されると共に、ごく普通の古墳でもこれらを所有していたことな
どが注目された。四条 1 号墳の木製品は西藤清秀氏・林部均氏によって機能別に 4 分類され、
古墳祭悶に使用された木製品には木製立物のように樹立痕跡があるような埴輪的に使用された
ものと、それ以外があることが示された[西藤・林部 981
、]091
。その際、今里車塚古墳でも
用いられた樹種同定や腐食菌分析などの科学的手法が当時の使用状況を復元することに効果を
上げている。
また、これらの起源を中国の享堂建築や[高橋美 ]19
0]891
陵寝制度に求める意見がある[石野
木製立物の出現については、「器財埴輪のほとんどはもとは実物が飾られ、それが形代
に替わる│祭はまず木でつくられた J [高橋美 ]891
と考え、「埴輪による仮器化が図られる以前
に、まず木製品が実物に代わる仮器として用いられた J [高野 ]7891
という見解が定着してい
る。しかしながら、決定打の出せない起源や性格に関する考察は行き詰まりの感が出ており、
2-
最近は古墳に伴う柱穴事例の集成や木製立物形象部の形態分類・編年が中心的に行われている。
形状による分類編年は出土例の比較的多い笠形木製立物について以前から行われてきたが[土
生田 891
、一瀬 ]981
、近年における資料の増加もあって鈴木裕明氏が石見型木製立物と笠形
木製立物の非常に詳細な分類編年を行っている。同氏は笠形木製立物について、出土状況をも
とに配置状態の復元を試みたり、河内勢力に成立を求めるなど、様々な方向から検討を行って
いる[鈴木 20b'20]o
以上の過程を経て、埴輪のように使用された木製品であるという木製立物のイメージがおよ
そ認められてきた今、両者を比較したあるいは併せた検討がなされるべきであろう。また、「埴
輪的な j といった言葉で陵昧にされてきたその性格についても、埴輪がどのようなものであり
それとどのような点で共通するのか、あるいは相異するのか、具体的に考えていく必要がある。
本稿ではまず、主な器種を構成する器財形を中心に古墳時代における木製立物の位置付けを
行うが、その前に管見にふれた範囲で木製立物の出土事例を紹介しておく。
第2 節出土事例
現在、国内約 34 遺跡、国外 1 遺跡で木製立物の出土を確認している。これには古墳以外の遺
構で、見つかった類例も含んでいるが、同意義のものと判断したことによる。遺物の形状は似て
いるが出土状況や遺構の性格が明確にできないものは掲載していない。また、柱穴のみの事例
は、木製立物の基部とそれ以外の性格を有すものを判断するのが困難であるため取り扱わない。
以下、各遺跡を簡単に紹介する。遺跡名に付す番号は図表の番号に一致する(表 1 ・図 2。)
憧輪/その他の木製品
円
語
司
頭7蚕
・
家
・
馬
/
し
ゃ
も
じ
形
・
元
方
形
司E材
丸
木
材
・
建
築
部
材
円
高
朝
顔
蓮
・
鞍
・
盾
・
大
刀
・
家
・
人
物
・
鶏
円
筒
家
舟
なし
円
筒
白
筒
円
3
ヨ
立
主
主
主
;
二E亙
一一一警重
E
:
jH
3
E
日
日以上 23 以上
日以上
1 1日日以上
22 以上
E
4
E
コウヤマキ
1 以上 1 1
鋒1
Jコウヤマキ
円筒朝I~ 蓋・石見殺・盾・罰・人物‘清白鹿/盟:盟主主1!i_
円 筒 制 問 怠 d四 時 叫
。
。 。
自箆:
5
ヒノキ
ヒ キ
J
2
2
4
3 以上 l
4
4
46
│
円
筒
・
鰭
付
円
筒
・
朝
顔
・
蒼
・
家
/
街
宣
尼
・
丸
太
材
円
閏
'
朝
顔
・
盾
・
家
/
駿
形
・
棒
状
・
板
状
・
杭
状
円筒'醐吾,盾州・屑/板状・部材価手拙金盟
i
円
周
・
朝
顔
蓋
・
鵡
叙
田
盾
・
家
人
物
・
鹿
鳴
・
議
湾
問
哀
ア
│
柱
状
鎚
形
濯
形
・
耳
杯
形
・
火
切
り
臼
コウヤマキ
コウヤマキ{宜1)
3
?
円
・
朝
・
見
石
コウヤマキ
コウヤマキ笠 y
モミ(盾)
10
a
コウヤマキ
::J?主主主箆l
コウヤマキ
ヨ百平子平
日
。
。
表 1 木製立物出土遺跡一覧
-3 一
国語亙宣盟
盛霊歪重f-
心
に〉
図2
ゆぶ
木製立物出土遺跡分布図
J
e木製立物出土遺跡
r
(※遺跡番号は本文・表 1 に対応する)
o
D
1.能回旭古墳(愛知県西春日井郡師勝町能田字旭)
推定約 43m
の帆立貝式古墳で、 5 世紀末から 6 世紀初頭築造。墳丘はほとんどが削平されて
いたが、間濠下層から笠形木製立物 6 点を含む木製品が出土した。笠形木製立物は円丘閥固か
ら万遍なく出土し、逆に、造出し部周濠では形象埴輪のみが確認された。笠形は残存最大径
30.8~33.9cm の製品と 17cm 内外の小型品がある。いずれもヒノキ製[森他 1989 、森他 1990]0
-4-
.2
高溝狐塚 5 号墳(滋賀県近江町高溝狐塚)
墳長30m
の帆立貝式古墳で、 6 世紀前葉築造。墳丘は既に削平されており、円丘部周濠内か
ら丸彫りの鳥形木製立物が 1 点出土している。全長約 mc3.91
で、胴部に下方から穿たれた小さ
な臓穴に材が差し込まれた状態である[宮崎 0]691
.3
服部1
9 号墳(滋賀県守山市服部町地先)
x 12.7m
12.8m
の方墳で、 6 世紀前半築造。墳丘は削平されており、周溝から多種の木製品と
形象部高 mc5.46
.4
を測る石見型木製立物 1 点が出土した[大橋他 0]5891
服部 4 号墳(滋賀県守山市服部町)
xl
5.1 m の方墳で、 6 世紀の築造。墳正は削平されていた。周濠の遺物出土状況図中に
1.0m
形象部高 65cm
程度の石見型らしき木製品が 1 点ある。埴輪は出土しておらず、木製立物のみ
を使用したとみられる[大橋他 5891
.5
、西藤 0]291
野訓!大塚山古墳(滋賀県野洲町辻町)
墳長65m
の帆立貝式古墳で、 5 世紀後半築造。円丘部周誌の造出し近くから石見型木製立物の
最下段から基部にかけてと思われる木製品が 1 点出土している[野洲町教育委員会 0]20
.6
林ノ腰古墳(滋賀県野洲町大字小篠原林ノ腰)
墳長90m
、 2 重の周濠をもっ前方後円墳。 5 世紀後半築造。墳丘は削平されており、内濠か
ら笠形木製立物 1 点と石見型木製立物 3 点が出土した。笠形は残存最大径約35cm
、石見型は
形象部をほぼ残す状態で高さ 120cmo
1 段目に 2 ヶ所、周回より劣化が激しい円形の痕跡があ
り、付属品があったらしい[福永 91
、福永 0]12
7 .安養寺狐塚 3 号墳(滋賀県栗東市安養寺)
推定32.5m
の帆立貝式古墳で、 5 世紀末から 6 世紀初頭築造。墳丘は削平されており、周濠
最下層から笠形木製立物2
4 点と鳥形木製立物 1 点が出土した。前者は全域、後者は前方部南角
付近の出土であるから、墳丘周囲に笠形、前方部に付く陸橋状遺構付近に鳥形が樹立されたと
もみられている。また、周濠中心部に直径25cm
程度の柱穴が 2 基、約1. 8m 間隔で、確認された
ほか、墳裾にも柱穴が存在した可能性が高いという。笠形は大・中・小に分かれ、上面平坦な
個体が多いことなどから、重ねて使用したと考えられている。鳥形は胴部と頚部のみの残存で
64cm
を測るが、そのうち頭部が27cm
マキ製[雨森 391
.8
と長く、渡り鳥の類との推測もある。両者ともにコウヤ
、栗東歴史民俗博物館 0]2
塚本古墳(京都府船井郡八木町神吉和田小字塚本)
一辺28m
の方墳で、 2 重の周溝をもっ o 5 世紀後半から末の築造。墳丘は削平されており、溝
内から笠形木製立物が 1 点出土した。残存最大径30cm
.9
[森下 ]191
。
保津車塚古墳(京都府亀岡市保津町案察使小字杜ノ下)
墳長36m
の前方後円墳で、 2 重の周譲をもっ。 5 世紀後半から末築造。周濠最下層から笠形木
製立物 1 点以上と石見型木製立物1
4 点が出土した。埴輪は一切使用されていない。石見型は報
告によると 2 種類の大きさが存在し、大きい個体は、基部をほぼ全部と一段目のヒレの頂部な
どを欠いた状態で高さ 88cm
.01
を測る[戸原 a20
、戸原 ]b20
。
今里車塚古墳(京都府長岡京市今里)
推定7
4 4. m の前方後円墳で 5 世紀初頭築造。墳丘は削平されており、周濠から笠形木製立物
FL
コ
4 点と盾形の一部と思われる板材が 1 点出土した。また、墳裾のテラスに約 4 m 間隔で、並ぶ柱
穴が検出されているが、後円部につく造出しゃ陸橋では使用されていないようである。これら
は葺石を葺く以前に立てられていた。笠形のうち直径 57cm
の大型品 1 点には、下端部垂直面
に蓋の壌を表現する加工が施されるほか、垂直面上部に庇を表す突出部が設けられる。小形品
は腐食のため詳細不明で鳥形との意見もある。盾形は直接置いたと思われる底部のみ残り、下
端を削り尖らせている。丸太材の数点を含む全てがコウヤマキ製。なお、同古墳では造出し付
近からヒノキ製の衝立形木製品が出土しているが、実用品であった可能性が指摘されている
{高橋美他 0891
.11
、石尾 2891
、高橋美 5891
、林 5891
、高橋美 891
、木村. 291
、原 691
0]
御墓山古墳(奈良県天理市上総町字巽前南)
推定74.3m
の前方後円墳で、 6 世紀前半築造。屑濠から笠形 3 点、石見型 2 点、鳥形 8 点
、
大刀形 3 点の木製立物が出土した。笠形は残存最大径 37.5cm
、石見型は形象部高 m
c5.371
。鳥
形は板状でレンズ状の穴をもっ体部に凸状の頭部と細長い尾が付き、片面に線刻を施すもので、
全長は最大 209cm
。頭を右に向ける個体と左に向ける個体が存在する。大刀形は万身・鞘口・
把縁・把間・把頭を輪郭と線刻で表現し、切先を上に向けて樹立する。残存部長 180.5~209.5cm。
全てコウヤマキ製である[泉 0]691
.21
水晶塚古墳(奈良県大和郡山市八条町)
推定約 50m
の帆立貝式古墳で 2 重の崩濠をもっ o 6 世紀前半築造。墳正は削平されており、
周濠から笠形 9 点以上、石見型 1 点、鳥形は板状が32 点以上、組合せ式の胴部 4 点以上と尾部
1 点、翼 2 点が出土した。笠形は突起のないタイプと、立飾りがつくと思われるタイプの 2 種
類がある。前者のうち 1 点は残存最大径53 4. cm 。後者は断面凸状で、中央孔を囲む突出部分に
上部から割られた長方形の孔が 3 ヶ所あり、ここに立飾りを装着したようである。状態のよい
個体は残存最大径42.1cm
o 5 x L4cm
の長方形孔がよく残っている。材質はコウヤマキである。
石見型は基部のほとんどを欠損し、残存高omc8.91
板状の鳥形は、下辺は直線的で、あるが上
辺は頭部と胴部を表現するため山形の曲線を描き、尾部が直線的に延び二股になる。頭部にあ
たる位置に細長い孔が穿たれ、胴部には縦に 2 条の溝がある。大きい個体は全長 76cmo
302
年度調査では、板状の鳥形 3 個体が約 4 m 間隔で出土しており、樹立状況を復原できそうであ
る。組合せ式の鳥形は、胴部と頚部を残す個体で、残存長 5.3cm
遺構の両側で 1 点ず、つ見つかった。残存最大長 132cm
ない[坂他 a
20
.31
、坂他 20b
を測る。翼形は内濠の陸橋状
で、先にあげた胴部と組み合うものでは
、坂他 0]302
平等坊・岩室遺跡(奈良県天理市岩室町)
包含層出土とされる遺物の中に、水晶塚古墳の板状鳥形木製立物と酷似する木製品がある。
出土地点は不明であるがイ近接する岩室池古墳に関係する可能性がある。岩室池古墳は 45~55
m の前方後円墳で、 6 世紀前半から中葉築造。木製品の全長は17 4. cm である[楠本他 0]5891
.41
小墓古墳(奈良県天理市柚之内町小墓)
墳長 80.5m
の前方後円墳で、 6 世紀前半築造。周濠下層から笠形木製立物 09 点、石見型木製
立物数点、盾形 1 点、大刀形、鉾形木製立物を含む大量の木製品が出土した( 4 )。また、濠底
中央付近と墳丘裾から柱据え付け掘方と打ち杭がともに 4 ヶ所で、見つかっている。笠形は法量
が報告されている個体は残存径 51cm
を測るが、おおよそ大・中・小に分類でき、支柱固定の
-6 一
構造が多様である。石見型は 1 、 2 段目右半のみの残存で 1 m 近くあり、形象部のみで 071
近くはあったと思われる。材はコウヤマキを使用[泉 a981
20cm
、泉 198b
~
。
、酒井 ]02
石見遺跡(奈良県磯城郡三宅町石見字玉子)
.51
の帆立員式古墳で、 6 世紀前半築造。墳丘は削平されており、周濠から笠形木製立
墳長35m
2 点以上、鳥形木製立物 4 点が出土した。笠形の残存径は約8.73
物2
1 2.0cm
で、翼は失うが 4 点とも胴部はほぼ完形である。全長 9.1 8 ~ l
8.0cm
~ 2
。鳥形は組合せ式
、千賀
を測る[末永 931
0]891
黒田大塚古墳(奈良県磯城郡田原本町大字黒田小字東薮)
.61
の前方後円墳で、 6 世紀前半築造。周濠から笠形木製立物 2 点、鳥形木製立物 2
墳長70m
(?)点が出土した。また、前方部の周濠中央付近で外側に向かつて打ち込まれた径
の柱が検出されている。笠形は径 46cm
さ120cm
22cm
、長
。鳥形は組合せ式の一部と思われる破片であ
、藤田 0]791
る[河上・藤田 4891
唐古・鍵 1 号墳(奈良県磯城郡田原本町大字鍵字神子田)
.71
の前方後円墳で、 6 世紀前半築造。墳丘は完全に削平され、周濃から笠形・
墳長 04 ~ 50m
石見型・鳥形木製立物が出土した{藤田 91
、鈴木 0]2
笹鉾山 2 号墳(奈良県桜井市田原本町大字八尾宇山本)
.81
復元径19.5m
の円墳で、 6 世紀前半築造。墳丘は削平されており、周濠から笠形木製立物 5 点
と石見型木製立物 1 点、組合せ式の鳥形木製立物と思われるものが 1 点出土した。墳端近くで
径0.35m~0.5m の柱穴が 2 基確認されているが、性格は不明。笠形は径35cm 程度の製品で、
石見型は形象部の縦半分をほぼ残す状態。残存高約 88cm
である[田原本町教育委員会 391
、
藤田 0]591
巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町三吉宇ス山)
.91
墳長約220m
の前方後円墳で、 4 世紀末から 5 世紀初頭築造。周濠の外堤北西偶の石列に近い
箇所で戦形木製立物が 1 点出土した。外堤からの転落が推測される。残存高160cmo
奴凧形の
較で、体部には縦 6 列、横 6 列に 63 ヶ所の長方形孔が並ぶ。基部がなく、同時に出土した部材
と組み合わせて直接地面に設置したと考えられている。材質はヒノキ[橿原考古学研究所 102
、
広陵町教育委員会 0]2
上ノ山古墳(奈良県天理市渋谷町)
.02
墳 長144m
の前方後円墳で 4 世紀後半築造。周濠内から盾形木製立物が出土した。 高さ
170cm
。長方形の板の下辺両角をカットし、下端部は削って尖らせている。材質はヒノキ[木
下 691
0]
21.纏向遺跡(奈良県桜井市)
「埴輪と木製品を含む弧状溝」として報告されている、削平された古墳である。円墳であれば
径30m
以上の填丘が想定されている。 5 世紀後半築造。 溝内から鳥形木製立物が 1 点出土した。
翼左右の長さ 68cm
。頭部は欠損している。翼を広げた立体的なタイプであるが、全体を一木
で作る。材質はコウヤマキ。また、半分を欠失した笠形木製立物と考えられるものが 1 点ある。
残存径 30cm
.22
[石野・関J11 ]6791
0
勝山東古墳(奈良県桜井市大字東田字勝山)
-7 一
墳長 21m
を測る方墳または前方後円墳。 6 世紀中葉築造。墳丘は削平されており、周濠から
石見型と盾形の木製立物が各 1 点出土した。石見型は形象部高 92cm
残存高 72cm
でコウヤマキ製。盾形は
で上辺が丸くカーブする。モミ製である[立田 0]591
池田 4 号墳(奈良県大和高田市池田字松ノ下)
.32
推定 50m
の前方後円墳で、 5 世紀後半築造。墳丘は削平されており、周濠から笠形木製立物が
I点出土した。残存最大径 20cm
で、ある[前津 ]102
。
四条 2 号墳(奈良県橿原市四条町)
.42
墳長 43m
の前方後円墳で 5 世紀後半築造。墳正は削平されており、周濠から笠形木製立物 3
点以上と石見型の破片が出土した。また、前方部の墳丘裾から規則的に並ぶ径約 0.3m
の柱穴が
5 基検出されており、木製立物樹立痕と思われる。それとは別に墳丘主軸上にも径3.0
痕が残る一辺7.0
~1.0m の柱穴があり、別の立柱儀礼が行われたと解釈されている。笠形は径
でコウヤマキ製[林部 192
2.1 6 ~ 43cm
m の柱
、泉森 195
、鈴木 ]20
0
四条 9 号墳(奈良県橿原市四条町)
.52
削平された円墳もしくは前方後円墳とみられ、円墳であれば径 30m 程度とされている。 6 世
紀前半頃築造。周濠から笠形木製立物 4 点と鳥形木製立物が出土している。笠形 1 点は支柱に
刺さった状態、鳥形は胴体に羽が装着された状態であった。笠形には、独特な支柱固定構造を
もっ個体がある。ほほ完形の 1 点は最大径 34.5cm
を測る。これら笠部と支柱は共にコウヤマ
キ製である。鳥形は組合せ式で、胴部側面から穿たれた孔に翼を差し込む。全長 86cm
大幅は 98.5cm
で、翼の最
[石井 0]2
四条 7 号墳(奈良県橿原市四条町)
.62
削平された円墳あるいは前方後円墳。円墳で、あれば周濠の外周が直径64m
に後元され、周囲
に外堤区画溝を有す。 5 世紀後半の築造。周濠から笠形木製立物が 4 点出土した。全て半分を
欠失し、残存最大径3.92
~ 3
5.2cm
を測る。コウヤマキ製[鈴木 20a
、鈴木 0]2
四条 1 号墳(奈良県橿原市四条町)
.72
一辺 29m
の造出しが付き、 2 重の周 i
豪をもっ。 5 世
の方墳で、墳丘の西側に長さ 9 m 、111 高14m
紀後半から末の築造。墳丘は削平されており、内濠から笠形 46 点、石見型 72 点、鳥形は丸彫
り2 点と組合せ式 1 点、盾形 2 点が出土した。出土状況から、鳥形は陸橋部、笠形と石見型は
全域に立てられたと考えられている。また、造出し端部中央にあたる周濠内で、杉の大木が立っ
た状態で、見つかったが、掘方は検出されず。笠形はおよそ大・中・小に分類でき、大型は径約
40cm
、小型は窪約 23cm
品が全長 37cm
。石見型のうち 1 点は形象部高 104cm
で あ る ( 5 )。鳥形は丸彫り製
。支柱固定のためか胴部中央の長方孔に向かつて尾部方向から貫通孔が穿たれる。
盾形は基部下端を欠損した状態で高さ約 120cmo
上部は丸く、表面に三角紋などを施す。製品
はいずれもコウヤマキ製 O 本古墳で、は擢形や旗竿形木製品が出土しているが、木材の劣化状況
から長期間風雨にさらされたり地面に立てられたものでないことが判明しているうえ、木製立
物とは材も異なる[西藤・林部 198
.82
、西藤・林部 190
、西藤 192
、酒井他 197
0]
小立古墳(奈良県桜井市大字山田字小立)
墳長 34.7m
の前方後円墳で、後円部の 3 段目が削平された状態で、埋没していた。 5 世紀中葉
築造。石見型が周濠全体から 31 点、居形が前方部前面と北側くぴれ部周濠から計 2 点、戦形が
-8-
前方部前面から 2 点見っかり、大万形は後円部西側から 1 点出土した。後円部の 1 段と 2 段の
聞のテラスでは円筒埴輪が 7 本 1 セットで配置され、そのセットの間 5 ヶ所で石見型基部が検
出された。石見型は形象部高 77cm
。表面に腐食が緩和された円形の痕跡があるほか、 1 点に
直弧紋に似た紋様が残る。盾形は上辺がやや短い長方形で、残存高 231 1. cmo
表面には直弧紋
ベースの紋様が線刻され、外周は段をつけて帯状に囲んでいる。石見型と同様、円形の痕跡が
箱形の矢筒部と背板部とで構成され、矢筒の上部には 5 本の鍛
残る。較形は残存高 omc7.61
。鞘に収めた状態を表し、切先側を基部とする。
が表現されている。大刀形は残存高 175.9cm
全てコウヤマキ製[村上 0]2
北花内大塚古墳(奈良県北葛城郡新庄町北花内)
.92
墳長約 90m
の前方後円墳で、 5 世紀末から 6 世紀初頭築造。周濠から笠形木製立物が 1 点出
土した。最大径 53.cm
で、支柱固定構造が特殊で、ある。コウヤマキ製{土生田 0]891
市尾墓山古墳(奈良県高市郡高取町市尾字墓山)
.03
墳長66m
の前方後円墳で、 5 世紀末から 6 世紀初頭築造。前方部コーナーとくぴれ部付近の
に復元で、きるという。コウヤマキ
周濠内から笠形木製立物の破片が計 2 点出土した。径約 40cm
製[河上 0]4891
31.つじの山古墳(奈良県五条市近江町)
一辺 57m
幅 20m
│
、
に復元できる方墳で、東に長さ 5.m
の造出しをもっ o 5 世紀後半築造。
墳丘南側にあたる周濠最下層から石見型木製立物が 1 点出土した。一段目を欠損するが残存高
、五幌市教育委員会 0]91
コウヤマキ製[久野他 6791
omc8.031
誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市誉田)
.23
墳長425m
の前方後円墳で二重の周濠をもっ o 5 世紀中葉築造。笠形木製立物 7 点のうち、
5 点、が出土地点不明、発掘調査で出土した 1 点は外堤を画する溝付近から、誉回八幡宮所蔵の
1 点、は内濠から出土したもの 残存最大径は 06 ~ 88cm 程度。下端部垂直面の上部が庇状に加
O
工されている。コウヤマキ製{土生田 891
、一瀬 981
、羽曳野市史編纂委員会 0]491
土師ニサンザイ古墳(大阪府堺市百舌烏西之町)
.33
墳長 290m
の前方後円墳で、二重の周濠をもっ o 5 世紀後葉か末葉の築造。周濠から笠形木製
立物 1 点と鳥形木製立物 3 点が出土した。笠形は残存最大径 47cm
。下端部垂直面に壌を表現
した加工がみられるほか、支柱固定構造が特殊。烏形 1 点は組合せ式で胴体と尾をほぼ残し、
41cm
を測る。他 2 点は板状で残存長 60cm
。胴部に約 19cm
の細長い孔をあけ、その上下に 2
条づっ彫り込みを施す。尾部はニ股に分かれ先端を尖らせている[北野・森村 8791
.43
、森村0]
釜塚古墳(福岡県前原市)
径 5 m の円墳で 5 世紀前半築造。陸橋東側にあたる周濠底から石見型木製品が 1 点出土した。
高さ約 2 m 、形象部高 75.cm
。石見型木製立物は通常四段のヒレで構成されるが、この製品は
三段構成である。材はコウヤマキでない針葉樹を使用[前原市教育委員会 0]2
.53
月桂洞 1 号墳(韓国光州市光山区)
約 45.3m
に復元できる前方後円形古墳である。 6 世紀前半築造。周濠から笠形木製立物と石
見型木製立物が出土した。笠形については詳細不明 O 石見型は形象部全体と基部の一部を残し、
残存高は約 80cm
である[岩本 691
。
、戸原 lb20
白
J
第 2 章木製立物の位置付け
第 1 節木製立物の受容
以上のように、木製立物は古墳時代を通じて様々なランクの古墳から出土している。これら
について時期による使用者層の相異や分布の傾向を確認すべく、出現から終息に至るまでの普
及状況を概観する。
なお、古墳に伴う柱穴の事例をあえて用いないが、墓域での立柱痕跡は山形県から熊本県と
いう全国各地において報告されており、時期も弥生時代に遡るものから古墳時代終末期に下る
ものまである。しかし先述したように、これらは主体部に関わる簡易施設や喪屋らしき構造物
に由来する柱穴、また埋葬施設内や墓道で発見される柱穴のように、明らかに木製立物とは異
なる機能をもつものを除いても、その配列・位置・規模などから想像できる施設は多様で、ある
(6 )。そのため、木製立物形象部が確認されている以前の時期について、柱穴のみを用いて論
じることには障賭があり、今回は事例増加を待つこととして言及しない。しかしながら、弥生
時代 V期の大阪府雁屋遺跡において墓域での鳥形木製品使用が確認されていることからも、鳥
形木製立物についてはその系譜を引くものと考えられる。その他の器財形器種に関しては、器
財形埴輪との出現関係を考えなくてはならないが、墓域を武器・武具によって守るという概念
がどこまで遡りうるのかも念頭に置く必要があるだろう。
今のところ木製立物形象部は 4 世紀後半の上ノ山古墳で出土している盾形が最も古く、 4 世
紀末から 5 世紀初頭には巣山古墳に較形、今里車塚古墳に笠形が存在している。また今里車塚
古墳や津堂城山古墳において鳥形とも思われる木製品が出土しているということである( 。
7)
ついで 5 世紀前半に石見型、中葉頃に大万形がみられる。以上が出揃う頃までに分布は大和・
河内・山城・筑前などに広がる。さらに当該期における政権の中心や、以降の大和・河内を中
心とした分布に鑑みて、例えば笠形木製立物であれば今里車塚古墳が初めてこれを導入したと
は考えにくく、少なくとも同時期の、より影響力の強い勢力も所有していたか、あるいはこれ
より以前から使用されていたことが想像できる。また、埴輪が焼き物であるのに対し木製立物
は有機物であるから、当然、分布や存在時期もできるだけ大きく見積もっておきたい。ただし、
この時期に事例の確認された古墳は共通して、各地域で主要な位置を占めていたであろうもの
が目立つ( 8 )。この頃の木製立物は畿内の主要古墳を中心に、重要視された周辺や遠隔地の古
墳において用いられたと考えられる。
これより時期は下るが、木製立物の使用が確認された最大の古墳として誉田御廟山古墳があ
る。同古墳の笠形木製立物は個体の法量が格段に大きいだけではなく大量に樹立されていたと
考えられており、木製立物の樹立行為が誉田御廟山古墳一代ではなく古市古墳群において継続
的に行われていたことを推測させられる。
それが正しければ 5 世紀後半から末以降の出土数の増加は、工人の拡散による急激な普及で
あろうか。古墳時代後期以降、これらは盛行を迎える。中でも目立つのが大和各地、特に奈良
盆地南部にある四条古墳群と盆地中部から東部にかけてで、大和以外では近江への波及が顕著
である。しかしながらこの傾向は有機物が残存しやすい土壌にあるかどうかに左右されている
ことも否めないため、さらに分布圏が広がることを想像しなくてはなるまい( 9 )。この頃の木
10-
製立物使用古墳は前方後円墳から小型の古墳まで様々となったが、一見して小規模古墳が多い。
また、ここに至るまでにも簡略化傾向にあった木製立物自体がより粗雑化される。その一方で
形状は多様化するようで、御墓山古墳のように特定器種の範囲でイレギュラーなものを使用す
るところもみられる。しかしながら、近畿の形象埴輪の衰退とともに、木製立物も終謁を迎え
てしまったようである。
第2 節
木製立物の意義と位置付け
木製立物が古墳時代の長きに渡って使用され続ける様子を追った。以上の流れを念頭に置き
ながら木製立物の位置付けを行うが、まずは器財形を主とする同形埴輪との相違点・共通点を
あげておきたい。
木製立物と埴輪は材質という大きな点で異なっており、それ自体がもっ表現力や耐久性など
において両者に違いがあることは言うまでもない。このことは飛刻表現の可能な鳥形木製立物
と静止状態しか表現しない水鳥形埴輪などに著しく現れ、埴輪では到底不可能な大きさの石見
型木製立物をみても理解できる。
しかしながらそれ以外では両者は多くの面で共通している。器財形埴輪が定式化していく段
階の上ノ山古墳や今里車塚古墳例では、古墳内で同形の木製立物と埴輪が使用されており、盾
形あるいは蓋形などの埴輸をもてないために同形の木製立物を代用品として使用したというよ
うな、または被葬者の格差によって材質が使い分けられたような状況は読みとれない。両者は
並立的に使用されていたと考えられる。
木製立物の使用層拡大がみられた 5 世紀後半から 6 世紀中葉にも両者の共通性が目立ってい
る。この時期、木製立物の器種を構成する器財形は形象埴輪においても既に人物や動物に主役
を奪われている。数を増やすのは蓋形埴輪や石見型埴輪であるが、器種別出土数をみてわかる
ように木製立物にあってもこの二種は数が多く、同器種の盛行に両者が同じ傾向をもつことが
表れている。また、この二器種の数が多いことは墳丘を囲践する配列にも起因するが、その配
列は木製立物と埴輪開で共通することが知られている。石見型の場合、木製立物は小立古墳、
埴輪は岩室池古墳などにおいて墳丘を困繰する同一の配列が明瞭に確認できる。また笠形木製
立物は、蓋形埴輪のなかでも立飾りをもたず笠の端部が下垂する特殊なタイプと共通するが、
モデルを同じくするこの両者は墳丘の墳裾や周溝のみで出土する点でも共通している{高橋克
0]891
同一形状のものが共通した配置をとることから、使い分けられていたというよりは、
墳丘での役割が同じであったことがわかる。
上記したことなどから、材質は異なっても両者は共通の思想を背景にもち、同一の配列もみ
られる点で、墳丘における基本的な位置付けは同じであったと考える。 4 世紀後半から 5 世紀
初頭の導入者層や誉田御廟山古墳における使用の様子から判断して、木製立物の格が埴輪より
低いとは考えられず、その使用に優劣はなかったと想像できる。
しかしながら、中期に害窯が導入され埴輪の生産体制が整って以棒、ましてや量産体制に移
る後期にあっては、両者を併用するよりも一方を、どちらかと言えば生産性の高い埴輪のみを
樹立するほうが容易である。なぜ両者は併存し続けたのか。
誉回御廟山古墳において使用された笠形木製立物が量的にどの程度であったかという検証を
-1-
かつて一瀬和夫氏が行ったが、それによると 71 ,
920
本の埴輪に対し 2,
240
から 8,
960
本の笠形
木製立物が必要であるという。氏はこれについて「遠方への集団関係、運搬力、木工技術者、
管理者といった直接的な労働経営だけでも莫大であったことは想像に難くない。」と述べている
[一瀬0]9891
この見解のとおり、木製立物はこういった要因をクリアしなければ用いること
のできないものである。よって、その動員能力を有する者のみが立てることができるという点
では、例えば遠方から運んだ石棺を使用することなどと同様に、権力や経済力の誇示という性
格がこの時点で付加されただろう。それゆえであろうか、木製立物の使用には一定の秩序がう
かがわれた。以下がその検証である。
亡=コ墳丘全長
ー③ー形象部径
10
40
90
350
80
耳
40
30
10
'
A
50
崩拭
謁立ロ
m
nunununU
t
唱
0505
墳長
つoqLηL
70
60
-FaFne nPRイーI
450
C
m
20
50
。
。
10
笹 i
家四狐石四能四池7.1<四市黒御今小林北ニ誉
鉾本条塚見条田条田品条尾田墓里墓ノ花サ田
山
9 3
1
旭 2 4
}
家 7 纂大山車
腰内ン御
2
山 塚 塚
大ザ廟
塚イ山
表2
墳丘規模と笠形木製立物の形象部径
E二コ墳丘全長
10
ーφー形象部長
250
90
80
20
墳 60
150
形象部長
70
長 50
m 40
10
30
20
50
。
10
墳丘規模と石見型木製立物の形象部高
林ノ腰
小墓
御墓山
晶
塚
つじの山
四条 1
保津車塚
勝山東
笹鉾山 2
服部 1 9
服部 4
表3
立
17く
。
c
m
qL
表 2 ・表 3 は、木製立物使用古墳の墳丘規模と、そこで使用されていた個体の法量を比較し
たグラフである。資料のうち出土数の多い笠形木製立物と石見型木製立物のみを材料とし、両
者ともに各古墳の出土品中で最も大きい個体について計測した。笠形木製立物は笠部の直径、
石見型木製立物は基部を除く形象部のみの高さを出した。なお、計測部分が破損しているが、
信用性の高い復元がなされている場合は復元値を用いた。墳丘規模は周濠を合まない墳丘の全
長を採用し、造出しがある場合はそれも計測値に含めた。また墳形は、削平古墳の部分調査が
多いゆえ未確定のものが多く、考慮に入れなかった。以上の条件でこれらをグラフ化している。
多少のばらつきはあるが、右肩上がりの棒グラフとともに折れ棋が上がっている。数点の例外
を含むが総体的に見て、笠形・石見型共に墳丘規模に応じて大きくなる傾向が現れており、特
に石見型木製立物に顕著で、あると言える。この結果から察するに、木製立物は被葬者のランク
に応じて大きさを変えていた可能性が高い。古墳の規模とそこで使用される円筒埴輸の深い関
係は古くから述べられており、実際に当てはまる例もある。例えば奈良県馬見古墳群において
は墳丘規模と墳形に応じた規格の円筒埴輪が使用されており、身分によって埴輪にも規制が働
くことが指摘されている{坂 17891
。木製立物にもこれと同様のことが言え、政治性の高いも
のであったという側面が知られる。しかしながら馬見古墳群などでこういった規制が守られる
のは、ひとつの集団という間柄にあってのことであろう。よって、盛行した後期にあっても、
継続的に使用したのは限られた地域、あるいは限られた集団であった可能性も考えておかなく
てはならない。
4 世紀末から 5 世紀前半頃を境に、木製立物に使用される材がコウヤマキにほぼ統ーされる
ことが確認できる。比較的古い時期の製品に位置付けられる上ノ山古墳・巣山古墳などの個体
にはヒノキが、釜塚古墳出土品にはコウヤマキではない硬質の針葉樹が使用されているのに対
し、その後の製品は同定しているもののほとんどがコウヤマキであった。コウヤマキという材
は、『日本書紀』で葬送に使用するように指定されていることがよく知られている。これらの事
実から看取されるのは、葬送の具として何らかの統制がとられるようになった木製立物の姿で
ある。「石の埴輪jである九州の石製表飾は、 5 世紀初頭から 6 世紀後葉、石棺製作集団に系譜
をもっ人々によって製作されたことがわかっている[小林 ]1591
から、石製表飾の継続的使用
は石工集団がすでに古墳造営のシステムの中に組み込まれていたことによると考えてきしっか
えないだろう。木製立物もこれと同様、埴輪ほどシステマチックではなかったにしろ、古墳造
営の中のー要素であったことだろう。
以上の事柄から、木製立物と埴輪の併用には、素材の性質に起因する使い分けとともに生産
や政治的な面での要因があったと考える。
第 3 章石見型に関する一考察
第 1 節石見型における二者
木製立物の中でも重要な位置を占めていた石見型木製立物であるが、この器種は未だそのモ
デルが何であるかが定説化していない。本稿の冒頭では儀杖としているがこれは研究者内に統
ーされた見解ではない。最近、三重県宝塚 1 号墳の船形埴輪や釜塚古墳の石見型木製立物の事
qtJ
例によって「三段構成の石見型」の存在が明らかになった。これらと琴柱形石製品の酷似から
図
( 3 )、この両者が同じものを模していることはそろそろ共通認識となってきたのではないか
と思う。ここでは「石見型J の名称が通常示す、四段構成のものについて検証する。
まず形態による分類を行うが、これは、石見型のモデルとなった器物とそのおおまかな変遷
を知ろうという試みである。各部の名称、は図 4 に示すとおり、四段に構成される形象部の段を
上から 1 段目・ 2 段目・くぴれ部・ 3 段目・ 4 段目と呼ぶ。
二段目上辺
「松林山型J
琴柱形石製品
(城の山古墳)
r
l
筒
部
三段構成の石見型
(宝塚 1 号墳)
o
20
Iw=土-ゴ(個)
〈石見型木製立物>
図 3 (スケ}ル不統一)
図4
<石見型植翰〉
石見型木製立物・埴輪の部分名称
曹
ベ
「恵解山型j
(恵解山
2 号墳)
「石上型J
(石上神宮)
I類の
石見型木製立物
I
I類の
石見型木製立物
(四条 1 号墳)
図 5 琴柱形石製品と石見型(スケール不統一)
(8=1/20)
A斗
ー
まず、石見型を大きく I 類・ E 類に分類した。前者には 1 段日側辺が 2 段目上辺に取り付く
部分に割込みがあり、後者は 1 段目側辺が直線的である。この二者は石見型木製立物と同形埴
輪が併存する 5 世紀中葉から 6 世紀中葉に至るまで継続してみられるもので、時期的要因から
の相違ではないようであった。それゆえ別モデルと仮定して分類したのであるが、その相違を
琴柱形石製品に求めることができた(図 5 )。すなわち I 類は、石見型の 1 段目側辺に該当する
部分に凹凸をもっ恵解山型[亀井 ]3791
と呼ばれる琴柱形石製品に酷似する。また、 E 類の石
見型は石上型と呼ばれる 1 段目側辺が宜線的な琴柱形石製品に似る。このことから、両方の石
見型が琴柱形石製品と同じ形状をもつことがわかり、「松林山型」と呼ばれるタイプの琴柱形石
製品にその系譜をたどることができる。
第2節石見型の変遷
次に、石見型の時期的変選をみていく。石見型木製立物の場合、変化が最も顕著に表れるの
は
、
1 段目上辺の形状と 2 ・3 段目の上下幅である。まず 1 段目上辺は、両端が最も高く中央
制りに向かつて傾斜する傾斜型 (A 類)と、水平を成す水平型
B
( 類)に二分できる。次に 2 ・
3 段目の上下
111固に着目すると、 1 ・4 段 目 よ り も 上 下 幅 が 狭 い 狭 型 ( a 類)と、
同じように
111百が広くなる広型
(b
1 ・4 段目と
類)が存在する。石見型木製立物の初現は釜塚古墳で出土し
た三段構成のものであるが、この製品は上辺 A類、上下1 1届a 類に属している。小立古墳・保津
車塚古墳の個体も同じ特徴を兼ね備えており、 A 類のみに該当するものとして野洲大塚山古墳
1( )0 、a 類のみに該当するものとして服部 91 号墳があげられる。上辺 A 類は 5 世紀代の製品
にのみ確認されることから、
2 ・3 段目についても、
1 段目上辺は A 類から B類へ変化したことが断定できる。また
6 世紀を境に a 類に該当する石見型の例が確認できないので、 a 類 か
ら b 類という変化が容易に推測できる。
以上を石見型埴輪についても当てはめ、両者の変遷を示したものが図 6 である )11(
。埴輪の
場合、 B 類 が A 類と同じ古い段階から見られるものの A 類はやはり 6 世紀代には消えてしま
a 類は 6 世紀中葉にも存在するものの b 類が古い段階からみられることはない。 1 'aB
宜B
a 類が中心軸として 5 世紀中葉から 6 世紀中葉頃まで継続的にみられ、前半には 1 'aA II
Aa 類が、後半には 1 Bb .II Bb 類が、それと並行するように存在する。
bB II Bb 類が出始めるのは、やはり、石見型の盛行期である 5 世紀の後
この形の崩れた 1 .
半から末である。また、 1 B
b 類の中でも、更に新しい時期に位置付けられる個体は、小墓古
うし、
墳・勝山東古墳出土品のように各段にくぴれ部を備えたかのごとき形状となる。この現象は木
製立物では宜
Bb
類に属す水晶塚古墳の個体にも起きているが、
1 Bb
類の前内池 4 号墳出土
埴輪にあっても紋様帯の様子から同じ状況が看取できる。平面形態の変化が木製立物・埴輪に
同様に起きている点は興味深い。そして、
6 世紀代にみられる形の崩れの最たるものは水晶塚
古墳例であり、ヒレの構成が五段となっている。
権威の象徴として墳丘に登場した石見型が、三段構成から四段構成への変化を経、さらに本
来の姿とかけ離れていく様子が確認できた。同時にこれらのもつ役割も変化していることが想
像でき、たとえ石見型や琴柱形石製品のモチ}フが儀杖に求められるものであっても、四段構
成の石見型にどの程度その認識が保持されていたかどうかは疑問である。
F
、
J
{三段構成}
1 、.3 宝塚 1 号墳船形繍翰
.2 釜塚古墳 .4 小立古墳
.21
.41
.5 大阪府東弓削遺跡
林ノ腰古墳 .31
小墓古境 .51
岡山県前内池 4 号墳
勝山東古墳
山
U内
川、 J tv
AQJ4H
点、
九
川
一
M 将、町
.6 愛知県水神古窯
.61
大阪府旗塚古墳 .71
大阪府鎮守山嫁古墳
.7 奈良県市尾今回 2 号境
.81
野洲大塚山古墳 .91
保津車塚古墳
8 、2 1.静岡県堂山
.02
大阪府大圏遺跡 .22
服 部 91 号 境
.32
大阪府川西 4 号墳
.52
滋賀県山津照桝土古墳 .62
2 号境
.9 大阪府軽塁 4 号演
.01
I
四段構成11
11.京都府弓因遺跡
笹鉾山 2 号墳
I
巨E11
.72
四条
.03
御墓山古墳
1 号 演 .92
24 、.82
石見遺跡
京都府菟道内ノ前古墳
大阪府野々上窯
3 1.水晶塚古境
一
、
1
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¥
Bb類 村
1
上辺水平
2 ・3 段広い
8=1/40
図6
1( 、3 を除く)
;....r
石見型の分類と変遷
一1
6-
31
終章
今後の課題ーまとめにかえて一
以上、木製立物が持つ、表現するモチーフや材の特質以外 の役割を検討した。また、その構
成器種である石見型について考察を行った。木製立物は、 出現当初には模倣する器財や鳥その
ものの力を期待したものであったが、工人の掌握など権力 を示す役割をも担うようになった。
こういった性格が付加されたきっかけは、恐らく誉田御廟 山古墳の被葬者を中心とする勢力に
よる大量樹立であっただろう。そしてこれらは形骸化しで もなお、古墳造営におけるひとつの
要素として残り、使用され続けた。そのなかでも石見型は 、琴柱形石製品に系譜をたどれるも
のであったが、その接行とともに著しく形を崩していく様 子から、本来の意味もまた失っていっ
たと考えた。
この石見型は木製立物と埴輪が未だ供伴した例がないとい う指摘があり[鈴木 ]02
、今回
はそれが首長系譜などの違いであるのかという点を検討‘ することができなかったため、木製立
物使用不使用の問題に大きな疑問を残した。このことは分 布域の問題とも関わってくるため、
検討の必要があると考える。これに加え、今回は各器種毎 の検討を行うことができなかったが、
機会があれば取り組みたいと思っている。今後の課題は多 い。
註
( 1)
埴輪j という名詞には、土で、作ったもの、との意味が含まれる。それゆえ『日本書紀J では同じもの
I
を示し、且つ、素材が限定されない「立物」という用語を引用した。この呼称は、若松良一氏などによって
既に使用されている[若松]891
青秀氏などが「木製樹物J の用語を使用する際には、古墳立
。また、西藤 j
柱なども含んだ広い範囲を指すが、本稿の「木製立物 Jの呼称は“木の形象埴輪"の一群のみに対して用いる。
(2 )笠形とした遺物の中には、高句麗壁画に描かれた「節」のように重ねて使用したと,思われるものがあ
る。よって「蓋形J という限定的な用語を避け、従来からの「笠形J を使用する。
石見型は長い間「石見型盾形」と呼称されていたように、石見遺跡で出土した特殊な埴輸を基本形とし、
盾の一種とみなされていた。近年この盾説は否定される傾向にあり、玉杖や琴柱形石製品と結びつける考え
[西藤]291
が有力で、ある。本稿では便宜上「石見型」と呼ぶ。
鳥形木製立物は丸彫り・板状・組合せの 3 種に大別できる。組合せ製品は顕から胴・尾までをー木で作る
が、下面は立体で背にあたる上面は属平となっており、この上面に板状の翼を組み合わせて胴部中央に垂直
に穿った方形孔に基部を差し込んで樹立する。丸彫り製品は胴部に穿たれた孔が小さいこと、板状の製品は
孔自体がないことから樹立方法が明確になっておらず、墳丘に直接立てたか否かの判断が難しい。しかしな
がら、前者は朝鮮半島にみられる烏竿や弥生時代における樹立例を参考に、後者は水晶塚古墳において上辺
に棋がある長さ 140cm
程度の板状木製品がこれと近接して出土した箇所があったこと[坂他 ]402
木に挟んで立てた可能性も考えられること[泉]691
、二股の
を考慮し、一応のところ樹立したものとする。
また、古墳出土木製品の中には窮形や旗竿形のものが存在し、これらを「木の埴輪J に含める考えもある
[高橋美0]891
しかし、窮形には有機物の飾りを付属するっくりがみられる点で、布の部分をも木で表す
笠7惨などと異なる。さらに、木製立物と比べ早い段階で投棄されていることや、木製立物がコウヤマキ製で
あるのに対ししばしば異なった材を使用するなどの相違点がみられる。また、四条 7 号墳の騎形木製品は、
-17
一
柄部分に「あたかも握ったかのような痕跡を示す径がやや小さく摩滅した部分が認められる」うえに、下端
を尖らせているが土中に立てたとは考えられない[鈴木]a002
ということである。実用品を持ち込んだ可
能性も否定できない。したがって、両者は意図が違うと判断し、本稿では木製立物には含めないこととする。
(3 )古墳に柱を立てる行為の発見は今里車塚古墳が初めてではなく、古くからあったが、欽明天皇没後約
05 年に后の堅塩姫を改葬する際に競って柱を立てたという『日本書紀 jの記述にあてはめて理解されること
が多かった o
r
書記集解.1
)5871(
形県漆山古墳の報告[後藤]2291
に奈良県梅山古墳の周濠から出土した柱材を紹介した河村秀根・益根、山
で初めて古墳に伴う柱列を紹介した後藤守一氏、大阪府玉手山丘陵の古墳
状遺構に伴う柱穴に注目した堅田亘氏[堅固 ]4791
なども、この
f日本書紀jの記述をとりあげている。
このうち後藤氏は漆山古墳の事例を、 f直輸のような装飾や土留めではなく主体部の木棺を保護する施設と
解釈し、その上で『日本書紀 j の柱と「意義に共通性あるを覚ゆ J と述べている。一方、金谷克己氏はこの
事例を一時的な埴輪列とみており、柱列に対して埴輪との関連性を考える意見もあったことが知られる[金
谷0]2691
しかし現在のように、形象埴輪と同形の木製品が立てられていた痕跡である可能性が指摘される
ようになったのは、今里車塚古墳の発掘以降である。
( 4)
盾形・大刀形・鉾形はコウヤマキ製で、地面に立てられていた可能性が高いものである。しかし盾形
は相 17cm
程度の品で、大刀形も含め、他の製品に比べて小型である。同古墳ではこのほかにも騎形木製品
が出土しているが、これについてはヒノキ製で、且つ、地面に接していなかったことが推測されている[酒
井01002
(5 )大きさの異なる 3 個体が近接して出土した地点が 3 ヶ所ほどあるという。
(6 )古墳に伴う柱については、小池寛氏[小池 ]191
291
、]102
、土生田純之氏[土生田]1991
、西藤清秀氏[西藤
などが性格による分類を行っている。
(7 )津堂城山古墳に鳥形木製立物が存在するということは[高橋美 191
、]1002
を参照したが、詳しい説
明はない。残念ながら筆者自身はその実物の存在を確認できていない。今里車塚古墳の個体については、報
告書の写真からは蓋か烏か、本来どちらを模したものであったか判断しがたい。
(8 )敢えて古墳に並ぶ柱穴の事例をとりあげるならば、この時期のものは、木製立物と同じく主要な古墳
で発見されていると言える。性格不明ではあるが 2 基以上が並ぶ柱穴が、京都府瓦谷古墳は世紀後半)や
蛭子山古墳( 4 世紀後半)で発見されているほか、円筒埴輪列とともに連続的に並ぶ柱穴の例が大阪府玉手
山 9 号墳 (4 世紀前半)や兵庫県五色塚古墳
(4 世紀末)にある。
(9 )このほか、福井県日笠松塚古墳の柱穴の事例は木製立物の可能性が非常に高い。同古墳では周溝内を
めぐる柱が検出されているが、その柱には断面長方形のものと断面方形に近いものの二種があり[高橋克他
]1991
、石見型と笠形あるいは鳥形が樹立されていたと判断したい。同じ福井県三方郡の美浜町に所在する
帯釈寺 4 号墳でも周 j
蒜をめぐる可能性のある柱穴が存在するという。こういったことから若狭がU
Ii6
包の木
製立物分布図に含まれていた可能性が高いと認識している。
)01(
野洲大塚山古墳出土品は、 4 段目下辺と基部の取り付き角度が鋭角を形成しており、下辺が傾斜型で
あることがわかる。 4 段構成の石見型はくぴれ部を挟んだ 1 ・2 段と 3 ・4 段が上下対象になるから、上辺
が傾斜する A 類に属すことが判断できる。
)11(
この表は、各類型の継続性やそこに属する形態を示すものであり、編年表ではない。
ー
。
。
〔附記〕
小稿を作成するにあたっては、置田雅昭先生に大変ご迷惑をかけ、お世話になった。また、水晶塚古墳発
掘調査への参加および遺物実測を許可して下さり、石見型に関する御教示を賜りました橿原考古学研究所の
坂靖氏、資料実見の便宜をはかつて頂いた天理市教育委員会の泉武氏、田原本町教育委員会の藤田三郎氏、
野洲町教育委員会の進藤武氏に、そして資料収集において協力を得ました学友と後輩に、末筆ながら深く感
謝の意を表します。
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平等坊・岩室遺跡.1
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和田晴吾他
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(立命館大学文学部学芸員課程研究報告』第 2 冊)
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鴫谷東 1 号墳第 2 次発掘調査概報 j
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立命館大学文学部
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