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トルコ共和国滞在の一年

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トルコ共和国滞在の一年
て自由で、実り多い滞在生活を送れたと思っている。本
研究や生活そのものには何等の変化もなく、一年を通じ
在外研究者という形ではあったが、前半と後半を比べて
は日本学術振興会による派遣研究者、後半は私費による
究﹂というテーマで研究をおこなった。滞在一年の前半
とになった。
スタンブルへ向かうまで四〇日間アンカラに滞在するこ
館より連絡を受けるということで、結局五月一一日にイ
許可が、文化省←内務省←外務省の順で下り次第、大使
に関する情報を収集し、研究許可およびそれに伴う滞在
た筆者は翌日から在トルコ日本大使館を通じて研究許可
-
ストとの比較・検討に手間取ったため、翻訳は来年度の
本誌に掲載予定とし、イスタンブルでの筆者の生活の紹
介を中心としてトルコ共和国滞在の一年を報告したい。
一、イスタンブルでの生活∼私の見たトルコ∼
稿では、初め一昨年まで本誌に掲載していたペルシア語
アンカラでは大国民議会に近い、市中心部のホテルに
-
﹃研究ノート﹄
トルコ共和国滞在の一年
めに必要な研究許可がまだドりていなかったために︵在
日本を出発する前に、トルコ国内で研究活動をするた
で、その時点では戦争が長引けば渡航を延期または、場合に
井 谷 鋼 造
筆者は、一九九一年四月二日から一九九二年三月二九
よっては断念せねばならないとも考えていたのである︶、一九
日トルコ大使館への申請は一月末−これは例の湾岸戦争のせい
日までトルコ共和国に滞在し、イスタンブルを中心に
の地理書Nuzhat al-Qulubのアゼルバイジャンに関す
逗留したが、研究活動としてはアンカラ大学の言語・歴
九一年四月二日にトルコ共和国の首都アンカラに到着し
る部分を翻訳する予定でいたが、昨年イスタンブルで実
史・地理学部︵略称しHのごとトルコ歴史協会︵略称
﹁トルコ共和国内に所蔵されるアラビア文字手写本の研
見・精査したこの著作の写本と従来刊行されていたテク
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コミュニケーションの場となっていて、いつも活気が
ちや大学院生たちを始め、必ず来客かおり、情報交換と
心で、様々な便宜をはかってくれた。研究室には学生た
彼らはいずれも筆者より年少ではあったが、学問には熱
マンとイルハンとあれやこれやの話題でおしゃべりした。
学の研究室を訪れ、セヴィム教授の二人の助手スユレイ
る。図書館が昼休みになると、毎日隣接するアンカラ大
部中世史部門の主任、アリー・セヴィム教授の好意によ
た歴史資料を閲読した。これは、アンカラ大学の上記学
ヨーロッパで刊行され、日本では観ることのできなかっ
HHろを訪れ、特に後者では毎日その図書館に通い、
去の文明の跡を偲ばせてくれる。
多数放置されていて、現在のこの国の住民とは無縁の過
墓碑名が刻まれた墓碑やかつての建築物の柱頭、柱礎が
れる。ローマ浴場跡にはビザンツ帝国時代のギリシャ語
ており、この国の歴史的、文化的な厚みを感じさせてく
のボアズカレ︶出土の遺物や粘上板文書が多数展示され
アで栄えたヒッタイト王国の首都ハ。トゥーシャ ︵現在
る。アナドル諸文明博物館には前二〇〇〇年紀アナトリ
テュルクの墓廟アヌトーカビル、ローマ浴場跡などかお
物館、トルコ共和国建国の父ムスタフアーケマルーアタ
アンカラの旧城塞に近いアナドル諸文明博物館、民俗博
の二日間大学や図書館が閉まると︵トルコの公的機関は、
ルに比べると歴史的遺産の蓄積ははるかに少ない。上目
なってからの歴史は浅く︵一九二三年以降︶、イスタンブ
〇〇万人を超えるトルコ第二の大都会であるが、首都と
アンカラは現在トルコ共和国の首都であり、人口は三
によく似ているなと思ったものである。
身が卒業し、かつて助手を務めていた京都大学の研究室
も疎らになり、街に出てもほとんどの店は閉まり、食事
だった。筆者の逗留するアンカラのホテルでは泊まり客
は季節や天候の点でもちょうど日本の正月のような感じ
暇は一一日ずつ早くなっていくのであるが、昨年の場合
数が太陽暦よりも約一一日短く、太陽暦では年々この休
が始まった。イスラーム暦は太陰暦なので、一年間の日
の後三日間の休暇︵トルコ語でシェケルーバイラムという︶
と新月の出現を以て断食の月ラマダーン月が終わり、そ
イスラーム暦によれば、一九九一年四月一五日の日没
軍隊も含めて完全週休二日制︶いつも時間をどう過ごそう
をとれるレストランを探すことさえ困難になった。この
あった。助手たちが始終忙しそうであったのは、筆者自
か思案しなければならなかった。よく行った所としては、
-
87
-
ディーやチョコレート等甘いものを贈り合う。この国の
の意味であり、この休暇期間中、人々は互いにキャン
である。シェケルはトルコ語で﹁砂糖、キャンディー﹂
る店の他はほとんどが休暇を取って、閉店してしまうの
ために店を開けているキャンディーやチョコレートを売
ような帰省客や休暇の期間友人や親類を訪問する人々の
て断食明けの休暇を楽しむのが通例であり、街ではその
町に流入している地方出身の人々はその出身地へ帰省し
にかかったが、幸いにイスタンブル在住の日本人留学生
の時点からイスタンブル生活が始まった。まずは家探し
アジア側の鉄道発着駅ハイダルパシヤ駅に降り立ち、こ
こうして五月一一日午後六時、筆者はイスタンブルの
外のトルコ国内旅行ではいつもバスに乗っていたのだが。
も含めて鉄道を利用した。アンカラーイスタンブル間以
気に入り、これ以後もアンカラーイスタンブル間は夜行
ら見える風景や速くはないが、ゆったりした乗り心地が
り、一般には余り人気はないけれども、筆者は、車窓か
はイスタンブルのアジア側、カドゥキョイ ︵かつてはカ
-
人々にとっては甘く、楽しい断食開けの休暇も、筆者に
ルケドンと呼ばれていた︶ の船着き場から徒歩で約一五分
たちが親身に骨を折ってくれ、一七日には住まいを定め
五月二日に大使館からの連絡かおり、アンカラでの仕
とっては時には断食を伴う、かなり苦痛の期間で、休暇
事を片づけて一一日にイスタンブルへ向かった。アンカ
の所にある閑静な住宅街の三階建てアパートの一階で、
ることが出来た。その後一〇ヶ月以上を過ごした吾が家
ラーイスタンブル間は毎日、大小多数の会社が運行する
家賃は一ヶ月二〇〇万トルコーリラ︵略称Hごだった。
明けが待ち遠しかった。
バスを利用するのが普通なのだが、この時筆者はトルコ
だったりするのだが、家賃の二〇〇万Hrは昨年五月の
現在のトルコで庶民はひどいインフレに悩まされており、
てはおらず︵アンカラーイスタンブル問のかなりの区間が単
時点で日本の七万円弱であったものが、帰国直前の今年
例えば一年物の銀行の定期預金の利息が最高で七五%
線である︶、アンカラ発イスタンブル行きの、日中の列車
三月にはその価値が四万円強にまで下がっていた。筆者
レスに乗車した。トルコの鉄道は日本のように整備され
は僅かに三本しかない。︵夜行列車も三本、イスタンブル発
は米ドルの現金と日本円及びドイツーマルクのトラヴェ
共和国国鉄︵略称Hのりり︶の列車フフアイフーエクスプ
アンカラ行きも同じ本数︶所要時間もバスよりは長くかか
-
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ラーズーチェックをTLに換金して生活費に当てていた
イスタンブルにおける筆者の生活は実に単純なもので、
た。
-
が、外貨の価値は下がらないので、滞在の終わり頃には
月曜日から上曜日までは図書館に通って、特に午後は閉
-
随分得をした気分になった。ちなみにトルコ人の平均月
の研究テーマに挙げておいたように、アラビア文字で書
るというのが基本パターンだった。筆者の勉強は、上述
成されている訳ではないので、職業によって大幅に異なること
かれた、具体的にはアラビア語、ペルシア語、トルコ
館まで集中的に勉強し、毎晩それを復習して明日に備え
が当然の、平均収入などという考え方そのものが極めて曖昧な
た。イスタンブルにはスユレイマニイエ、ヌールーオス
語による歴史資料の手写本を実見・調査することであっ
収はインフレにつれてどんどん増加はしているが︵トル
のであるが︶昨年平均では二〇〇万Hr程であり、筆者
コでは貧富の隔差が大きく、またいわゆる中産階級が明確に形
の住んでいたアパートの家賃が現地のトルコ人にとって
マーニイエ、キョプリュリュ、ミッレト、トプカプ宮殿
集中的に存在しており、これらの図書館は西アジア・中
は破格に高額であったことが分かろう。ここで断ってお
東、イスラームに関する歴史文献資料の研究者にとって
博物館等の世界でも有数の写本資料を所蔵する図書館が
てないということである。確かに家賃は現地の人々に
遊離した高級で、豪華な生活を楽しんでいたのでは決し
正に資料の宝庫である。中でも筆者は、質量ともに写本
かなければならないのは、筆者が現地の人々の暮らしと
とっては高いものであったが、外国人は多少高額でも賃
資料の所蔵状況において間違いなく、世界でも最高の水
なかった、西暦一三、一四世紀に現在のトルコの地︵当
借できる場所を見つけること自体が難しいのであり、折
時はルームと呼ばれていた︶で書かれたペルシア語史料の
では見ることの出来なかった、或いはその存在すら知ら
のアパートが決して高級だとか豪華だとかは思えなかっ
写本を毎日ノートに筆写していた。スユレイマニイエ図
準にあるスユレイマニイエ図書館に集中的に通い、日本
た。家探しにおいて、筆者が重視したのは、生活の快適
書館はイスタンブルでも最も有名なオスマン朝期のイス
りからのインフレ高騰の経済情勢、交通や買い物の便を
さ︵外国人としてなるべくトラブルに巻き込まれないこと︶
考えると、閑静な環境にある、ごく普通の家具付きのそ
と勉強のための静かな環境を確保するということであっ
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︵ジャーミとはいわゆるモスクのこと、正しくはアラビア語で
冬季の海上は寒風吹きすさび、波も荒く、甲板には乗客
チ︶やマルマラ海からの風に吹かれるのも心地よいが、
ふれる。夏季は甲板に出てボスフォラス海峡︵ボアズィ
-
マスジドージャーミウ︶に隣接しており︵元来このジャーミ
用客が多いので船室は満員になり、甲板にまで乗客があ
の付属施設として建設された︶夏の暑い日中などは筆写の
も疎らである。︵船室内は禁煙なので、喫煙者は甲板に出て
ラーム建築の一つであるスユレイマニイェージャーミ
手を休めてジャーミの中庭を吹き渡る、乾いた、心地よ
吸う。︶カドゥキョイからヨーロッパ側の船着さ場の一
べて乗客の関心を惹こうとする。特に毎回必ず乗り込ん
い風に暫しの涼をとったものである。イスタンブルで過
でいるのは宝くじ︵ピヤンゴ︶売りで、結構よく買われ
つであるエミノニュまではヴ。プルで約二〇分の船旅で
さて、図書館が休日の日曜日には︵他のイスラーム諸国、
ている。一般にトルコでは人件費が安いせいか、都市で
ごした春夏秋冬を通じて、筆者に図書館における勉強の
例えば、イラン、エジプトでは、休日はイスラーム暦に合わせ
は物売りの数がとても多い。ヨーロッパ側の船着岩場工
ある。ヴァプルではチャイ︵トルコ茶︶やスィミト︵ドー
て金曜日であるが、世俗化政策を採り続けてきたトルコでは
ミノニュ近辺では衣服・下着・靴・アクセサリーから果
楽しさを教えてくれたのはこのスユレイマニイェ図書館
ヨーロッパ諸国と同じく日曜日︶町中の大概の店が閉まっ
物・菓子・煙草・子供のおもちゃ・日曜大工道具・錠前
ナツ型の胡麻付き固焼きパン︶売りが回ってきて軽く空腹
てしまうので、外出はせず、休息とノートの整理などに
にいたるまで色々な商品が立ち売りされており、日曜日
における写本研究の時間に他ならず、他の場所、特に日
当てていた。
も活気かおり、高級なものはないが、生活に必要な商品
を癒すこともできるし、船室では日用雑貨を中心に様々
筆者の住んでいたアジア側にあるカドゥキョイから図
は大抵が揃うのである。そのほかに筆者の住んでいたカ
本では決して味わうことのできない貴重な経験を持つこ
書館かおるヨーロッパ側のイスタンブル旧市街の中心部
な商品の売り手が次々とやってきては、能書き口上を並
までは、カドゥキョイの船着き場︵トルコ語でイスケレ︶
ドゥキョイでは、吾が家から歩いてI〇分程の所にイス
とができた。
から汽船のフェリー︵ヴ″プル︶を利用する。朝夕は利
-
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クンプルで最大といわれる定期市が火曜日と金曜日に立
して、トルコではイスラームがその社会に大きな影響力
︵昨年は三月一七日から四月一五日まで、今年は三月五日から
を持っており、筆者がトルコ共和国で暮らすに当たって
ケットができており、それはそれで便利なのであるが、
四月三日まで︶はイスラーム教徒の守るべき断食の月で
ち、特に火曜日のそれは、人れば身動きも困難な位の大
売り手と買い手の交渉次第、状況次第で値段の決まる定
あるが、この月の間はイスラーム教徒ではない筆者も日
も常に念頭にあったのは、ここがイスラームの国である
期市︵トルコ語でパザルーペルシア語のバーザールのトルコ
中は外で食事をとることがためらわれた。実際、街の食
変な賑わいである。イスタンブルでも新興の住宅街には
式発音︶での買い物がやはり、楽しい。
堂の中には昼間開店休業のような所もあった。開いてい
という意識である。イスラーム暦第九月のラマダーン月
現在のトルコ共和国は、上でも述べたように、特にイ
る店の中は外国人の観光客ばかりという所もあった。共
ヨーロッパや日本と同じスタイルの大型スーパーマー
ンフレが昂進しており、通貨Hrの価値下落に伴い対外
和国建国 二九二三年︶以来他の中東諸国に先駆けて世
俗化政策を推進してきたトルコでもイスラーム信仰の根
債務返済の問題などが山積し、経済状況は良くないが、
一般庶民の購買意欲は旺盛で、消費物資も豊富に出回っ
強さは一般のトルコ人の生活の随所に認められる。
会というだけでは今後のトルコの将来像は語り尽くせな
は違った文化の伝統や生活の形態かおり、一ロに消費社
信奉する国民としての、ヨーロッパやアメリカ、日本と
る図書館へ写本を調査に行ったことまでイラン、スペイ
ことに始まり、今年三月ヨーロッパ側のエディルネにあ
在中に日帰りでボアズカレ︵ヒッタイトの遺跡︶を訪ねた
トルコ滞在中の旅行としては、昨年四月のアンカラ滞
二、トルコ滞在中の旅行∼私の歩いたトルコ∼
ている。TVのコマーシャルーフィルムでは自動車・電
気製品が盛んに宣伝され、トルコも欧米・日本型の消費
社会に近づいてきたことを感じずにはいられない。にも
い。一日に五回メスジド︵社拝堂︶の光塔︵ミナーレ︶か
ン、エジプト等の外国旅行を含めて、可能な限りイス
かかわらずトルコにはトルコの、大多数がイスラームを
ら流されるエザーン︵礼拝への誘い︶の声をその象徴と
91 −
ラーム文化とその歴史に関連する遺跡を訪ねることに努
きなプラタナスの樹がそびえる中庭はがっての繁栄を偲
売する一種のショッピングセンターになっているが、大
-
めた。それらを逐一ここに報告する余裕はないので、訪
ばせてくれる。ブルサの町の西部にはチェキルゲの温泉
さんある。町の背後には標高二五〇〇m余の深々とした
場かおり、有名なチェリキーパラスを始めホテルもたく
ねた場所のみ列挙し、簡単な紹介を付けておこう。
︿イスタンブルに近いところ﹀
森林に覆われたウルダー︵ダーはトルコ語で山の意、がっ
イズニクIznikかつてギリシヤ語でニカイアと呼ば
ヤロヴァ、ブルサ、イズエク、エディルネ
れていた町で、イズユク湖の東端にある。現在はのどか
てのオリンポス山︶が聳え、テレフェリクと呼ばれるロー
ような安宿もあり、北海道の温泉場に来たような錯覚に
な田舎町で、ブルサ、ヤロヴアからミニバスでそれぞれ
ヤロヴァ ベ巴O回イスタンブルからデュズーオト
とらわれる。一帯は森林に囲まれて空気も良く、イスタ
約一時間。この町にはかつてビザンツ帝国の一時的な首
プウェイでかなりの高度まで登ることができる。ウル
ンブルの雑踏や喧噪を離れて休養に来るには絶好の場所
都︵一二〇四−六一年︶となった町の規模を窺わせるよう
ダーでは冬季スキー場が開かれるが、ブルサの町はこの
である。
に、昔の城壁が相当に残っており、町の北、南、東に城
ビュスと呼ばれる高速艇で約一時間で到着する港町で、
ブルサ 圃目回ヤロヴ。からバスで約一時間、かつて
門かおる。この町はオスマン朝時代華麓な色付き陶器タ
ここからミニバスで約二〇分山側に入った所に温泉︵テ
オスマン朝が最初に都を置いた町で、オスマン朝初期の
イルの生産地として有名であったが、現在は廃れ、陶磁
山のおかげて飲料水の水質がよいことでもよく知られて
歴史的建造物が多い。この町は絹織物の産地としても有
器やタイルの生産は内陸部の牛ユタヒヤがその中心地と
ルマル︶かおる。温泉にはバーやディスコを備えたホテ
名で、町の中心にあるコザーハン︵コザは繭の意︶と呼
なっている。
いる。
ばれる建造物はかつて絹織物を扱う商人達が投宿してい
ルもあるが、近くに安く泊まれる、日本でいうと民宿の
た隊商宿︵ハン︶であった。現在は絹製品を専門的に販
-
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たもので、その天井ドームの規模はイスタンブルのア
最大の建築家ミーマールースィナーンによって建設され
はイスタンブルのスユレイマニイエと同じ、オスマン朝
ジャーミが聳え、観光名所となっている。このジャーミ
都市。町の中心にはセリミーイエと呼ばれる壮大な
ア、ギリシャ両国への国境に程近いトラキヤ地方の中心
していた。イスタンブルからバスで約四時間、ブルガリ
れていた町で、オスマン朝がイスタンブル征服前首都と
エディルネ Ediヨeかつてアドリアノープルと呼ば
のところにエーゲ海地域では最大の規模を持つエフェス
の博物館に保管・展示されている。町の西南方向約二にm
に多数の乳房を持つ特異なアルテミス女神像削は現在町
と豊穣の女神アルテミスを祭っていた神殿跡がある。胸
城塞と聖ヨハネ教会跡があり、その南側には古代の多産
小さな田舎町である。この町の郊外には西側の丘陵上に
セルチュク Selcukイズミルからバスで約一時間、
海地域に点在する諸遺跡への出発点となっている。
陸部にまで広がっている。歴史的な遺物はなく、エーゲ
れたように、現在も重要な産業都市で、各種の工場が内
九大円形劇場やケルソス図書館跡のほか列柱道路沿いに
-
ヤーソフヤ︵ビザンツ帝国時代のハギアーソフィア教会︶を
︵エフェソス︶の遺跡かおり、多くの観光客の訪ねる場所
︿エーゲ海地域﹀
多数の石造建築物の遺構が見られ、往時の規模と繁栄の
筆者は、学生時代以来一貫してアナトリア︵トルコ語
-
凌ぐ傑作として特に有名である。
イズミル、セルチュク
様を偲ばせてくれる。
である。遺跡にはローマ、ビザンツ帝国時代に建造され
イズミル F
コ第三の都会で、人口は二〇〇万人以上、エーゲ海地域
の中心都市。イスタンブルからブルサ経由バスで約八時
空機でも行ける。かつてはスミルナと呼ばれた港町で、
でアナドルー歴史的な呼び名としてはルームの地、現在のトル
コンヤ、スィヴァス、カイセリ、エルズルム
︿アナトリア中央部と東部﹀
ヨーロッパナイスされた開放的な雰囲気かおる。一八五
コの大部分を占めるアジア側の地域︶に興起したセルジュ
間以上かかるが、鉄道︵一日一便︶、船︵二日に一便︶、航
六年トルコにおける最初の鉄道がこの町を起点に建設さ
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ナー廟に詣でた者は﹁ヤルムーハッジ﹂すなわちイス
ム神秘主義者︶ であり、メヴレヴィー教団の創立者マウ
三世紀の偉大なペルシア語詩人、スーフィー︵イスラー
おいては特別の地位を占めている。それは、この町に一
ラームの歴史が近隣の中東諸国に比べて新しいトルコに
スルターン︵支配者︶たちの墓廟が遣る。この町はイス
の名はイコニオン、がってのセルジュク朝の国都であり、
て開催されているが、セマー自体はメヴラーナーが生き
は博物館ではなく、市内の体育館で一種の観光行事とし
週間前からセマー︵旋舞︶の行事が執り行われる。現在
七三年没︶であるので、それを紀念して毎年この日の一
築物である。こ一月一七日はメヴラーナーの命日︵こ一
物自体がセルジュク朝期︵一三世紀後半︶の代表的な建
した高等教育機関︶等の博物館かおり、特にこの二つは建
ドラサ、イスラーム世界における主として法学、神学を中心と
-
ク朝︵西暦一一∼一四世紀︶の歴史を研究してきたので、
ラーム教徒にとって行うべき義務の一つとされている
はこの丘の東方にある。現在は博物館となっており、緑
トルコ滞在中にアナトリア各地は出来る限り、多くの町
色の、円筒の上に円錐を頂いた形の特徴あるドームの下
バッジ、つまりメッカ巡礼を半分まで成し遂げた者とさ
どに激化し、これらの地域には戒厳令も発布されて旅行
にメヴラーナーの眠る棺が安置され、メヴラーナーの最
を見ておきたいと思っていた。ところが、今回は例の湾
も困難になった。そのため残念ながら、今回はトルコの
も著名な作品であるペルシア語の詩集﹃マスナヴィー﹄
れるともいう。町はがってのセルジュク朝時代に城塞の
東南部への旅行を取りやめ、アナトリア中央部のセル
あった低い丘陵を中心に広がっており、メヴラーナー廟
ジュク朝支配期に重要な役割を果たした比較的大きな町
等の写本が展示されている。市内にはこの他セルジュク
はタルト系の人々による反政府武装闘争がかつてないほ
のみを訪ねることで満足しなければならなかった。
朝期の遺品を展示したインジェミナーレリーメドレセや
岸戦争後、北イラークと国境を接するトルコの東南部で
コンヤ Z呂回イスタンブルからバスで約一〇時間、
ラーナー ︵アラビア語で、我らの主人の意味、トルコ語では
ていたこ二世紀より連綿と受け継がれてきた伝統ある
ブユユクカラタイーメドレセ︵メドレセはアラビア語でマ
メヴラーナーと発音︶ジャラールッディーンールーミーの
アンカラに次ぐ内陸部の主要な都市。ビザンツ帝国時代
墓廟かおるためである。トルコではこの町のメヴラー
94
-
ク朝と呼ばれている。本来トルコ語ではこのように発音されて
常に重要な町であった。町の中心にはいくつかの遺跡が
時代の名はセバステイア、この町もセルジュク朝時代非
ナトリア中央よりやや東よりに位置する。ビザンツ帝国
スィヴァス Sivasアンカラからバスで約六時間、ア
現しようとしているかのような思いにとらわれてくる。
ナー︶というスーフィーたちの究極の目標が今まさに実
する踊り手たちの表情を見ていると、神との合一 ︵フ″
スーフィーの修行方法の一つである。恍惚となって旋舞
の表面に残る、青いタイルの筋がその命名の由来なので
これはこのメドレセの正面入り口に屹立する二本の光塔
の建築物かおる。ギョクはトルコ語で青の意味であるが、
南にギョクーメドレセと呼ばれる有名なセルジュク朝期
丘の上にがっての城塞跡︵造物は何もない︶があり、その
建築装飾を代表するものである。公園の南側には小高い
ディーンージュヴァイニーと言われる︶のセルジュク朝期の
ンゴル支配時代︵建設者はイルハン国の宰相シャムスッ
の正面入り口に残る、石彫の精巧な装飾は実に見事でモ
ておらず、建物の本体は失われてしまった。しかし、こ
ある。この建物はかなりの修復がなされているとはいえ、
集中するセルチュク︵現在セルジュク朝はトルコでセルチュ
いたのかもしれないが、日本を含めて欧米の学界では王朝が存
ク朝期の建築物の一つである。
その全体が残っており、スィヴ。スを代表するセルジュ
セルジュクとしてきた。筆者もそれに倣っている訳である。上
在していた当時の発音が不明なため、アラビア文字の表記通り
記のエーゲ海地域の地名セルチュクも当然これにちなむのであ
スィヴァスからは約五時間、コンヤの東北、スィヴァス
の西南にある。ビザンツ帝国時代の名はカイサレイアす
カイセリ Kayseriアンカラからバスで約四時間、
だない︶パルクという公園が設定されている。公園には
なわちカエサル ︵ローマ皇帝︶ の町。かつてセルジュク
るが、歴史的にセルチュクの町はセルジュク朝と何の関連も持
フテミナーレリーメドレセ、シファーイーイエーメドレ
現在博物館となっているブルージーイエーメドレセ、チ
それらを繋ぐ交通路上をも含めて、セルジュク朝朗の歴
の三大都市であったのだが、そのためにこの三都市には
朝時代コンヤ、カイセリ、スィヴァスは内陸アナトリア
本の光塔のあるメドレセは同名のものがエルズルムにも
史的遺物がとりわけ多い。カイセリはコンヤとスィヴ。
セ等かおる。チフテミナーレリーメドレセ、つまり、二
あるが、スィヴァスのものは正面の入り口付近しか残っ
-
95
-
っての城壁の一部が復元されているが、城内は商店が配
かげて飲料水の水質に恵まれている。町の中心部にはが
されることで有名であるが、カイセリの町もこの山のお
イェスはブルサのウルダーと同じく冬季スキー場が開設
標高三九〇〇m余の休火山エルジイェスである。エルジ
とを慣例にしていた。カイセリの象徴はその南に聳える
ジュク朝のスルターンたちは特にこの町で夏を過ごすこ
要都市であった。その上、夏季の気候が爽涼なためセル
スのほぼ中間に位置するので、特に軍事的な意味での重
はテオドスィオポリス、セルジュク朝時代はアルザヌッ
つてのアルメニアの都市カリン、ビザンツ帝国時代の名
エルズルム 甲zuruヨトルコ共和国東部の要衝、か
残されている。
ジャーミもメドレセもなく、墓廟だけがひっそりと取り
あるが、ドユネルーキュンベトの場合は現在、周りに
築複合体︵コムプレクス︶を形成する場合もあったので
財産︶によって運営され、中にはかなりの規模を持つ建
心にジャーミやメドレセ等が付置されてヴァクフ︵寄進
広く見られるものである。かつてはこのような墓廟を中
方、バスで約七時開︵この途中に一九九二年三月号百夕刻
ルーム︵ルームのアルザン︶と呼ばれた。スィヴァスの東
置された商業地区となってしまい、がっての面影は何一
つ残っていない。カイセリにもセルジュク朝期の建築物
の地震で大きな被害を受けたエルズィンジャンの町かおる。エ
が町のそこここに点在しているが、最も有名なものは町
の中心部をやや外れたところにあるドユネルーキュンベ
時間、ここから東へ約六時間さらにバスで行けばイラン
ルズィンジャンもセルジュク朝期には重要な町であったが、
との国境の町ドウベヤズィトである。筆者は一九九一年
トと呼ばれる墓廟である。ドユネルーキュンベトとはト
残しているこのドームの外形は円筒状の本体に円錐型の
九月三〇日朝七時イランーアゼルバイジャンの中心都市
も残っていない︶、イスタンブルからの直通バスで約二〇
屋根を載せたもので、円筒の周囲には精巧な石彫の装飾
タブリーズを出発し、昼国境を越えて、夜八時にエルズ
度々今回のような大地震に見舞われたため、歴史的な造物は何
が施されており、このような形式の墓廟はセルジュク朝
ルコ語で回転するドームの意味であるが、この命名の由
期のものだけでなく、オスマン朝以前のベイリク︵小侯
ルムに着いた。奇しくも二年前の同じ日に逆コースでド
来は不明である。典型的なセルジュク朝期の墓廟の形を
国︶分立時代のものを含めて東部・東南部アナトリアに
-
96
-
わらず厳重である。エルズルムは町自体の標高が二〇〇
ーエルズルム間約六〇〇㎞、イラン側の国境検問は相変
ウベヤズィトからタブリーズに入っている。タブリーズ
れら二都市の中間に位置しているのである。
建築物は残っていない。しかも、エルズルムはまさにこ
しい地震の頻発のせいもあってエルズルムのような古い
思われる。上記のエルズィンジャンやタブリーズでは激
サムスン 汐ヨ呂コ黒海沿岸の貿易港、産業都市で、
をつなぐ交通の要衝に当たっているので、東西に興起し
建築である。エルズルムは今も昔もアナトリアとイラン
のメドレセはいずれもモンゴル支配時代のセルジュク朝
かセルジュク朝はこの町を支配していない。上記の二つ
ンゴル軍の攻撃を受けて陥落したため実質一〇年余りし
土となったのは二ご二〇年のことで、二I四二年にはモ
北部の岬の根元にあり、町の北側は黒海の外洋側、南側
ンからバスで約三時間。黒海に突き出したアナトリア最
スィノプ bmopサムスン西方の港町、漁港。サムス
ズーマユス︶大学という。
れを紀念してこの町にある大学は五月一九日︵オンドク
救うためこの町に上陸し、祖国解放戦争を開始した。こ
ムスタファーケマルは第一次大戦後解体に瀕した祖国を
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〇m近くもあるので冬季の最低気温は零下三〇度以下に
なることも珍しくないトルコ国内では最も寒冷な場所に
旧ソ連邦諸国からの貨物船がよく入港する。アンカラか
サムスン、スィノプ、アマスヤ
のチフテミナーレリーメドレセ及び、ヤークーティー
らバスで約六時間、鉄道、船の便もある。市街地は新し
︿黒海沿岸とその内陸部﹀
イエーメドレセが特に有名である。両メドレセ共に墓廟
く、一八六九年の大火災により過去の建築物は全て失わ
ある。この町にもセルジュク朝期の建築物がいくつか
にメドレセが付属したもので、スィヴ。スやカイセリの
残っており、市の中心部にあるスィヴァスのものと同名
ものと同様正面入り口を飾る石彫の装飾が特徴である。
た様々な勢力が入り乱れてこの地を往返したのであるが、
はその内海側に面し、その問はI〇〇m程しかない。外
れてしまった。一九一九年五月一九日トルコ建国の父、
そのような歴史の激流の中で七〇〇年以上の時間を経過
洋側にはジェノヴァ人が築いた城壁が海に迫り、堅固な
エルズルムの町がコンヤを首都とするセルジュク朝の領
してきたこれらの建築物の存在そのものが奇跡のように
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クの町を占領したこともある。
この港を出発したセルジュク朝軍がクリミア半島のスダ
り、黒海進出への根拠地とした。一二三〇年代半ばには
港町をジェノヴァ人と同盟するビザンツ帝国から奪い取
要塞を構えていたことで知られる。セルジュク朝はこの
所に凝縮したような場所である。
てきたのであるが、アマスヤの町はそれらの歴史を一箇
帝国そしてオスマン帝国︶がこの地の歴史とも深く関わっ
マ帝国、ビザンツ︵東ローマ︶帝国、セルジュク朝、モンゴル
勢力︵アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王、口I
トを始めとして、中東、地中海世界を支配した東西の大
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アマスヤ yヨ回罵サムスンからバスで約三時間、
黒海沿岸から内陸に入った、イェシルーウルマク︵トル
コ語で緑の河の意︶の畔にある中規模の都市。ビザンツ帝
国時代の名はアマセイア、町の南北は屏風のようにそそ
り立つ山に遮られており、北側の山の頂上には城塞の跡
かおり、その山腹には古く紀元前三世紀のポントス王国
時代の石窟墓が刻み込まれている。セルジュク朝、オス
マン朝時代の建築物もいくつかおり、セルジュク朝のも
のとしてはギョクーメドレセとダールッシファーが有名
である。前者はスィヴァスのものと同名であるが、形状
は異なり、後者は病院としてモンゴル支配時代に建設さ
れたことが知られている。この町の博物館にはモンゴル
人の支配者の遺骸のミイラが展示されている。展示の説
の創始者フラグーハンの七代目の子孫であるという。ア
明によればその人物の名はチュムダルというイルハン国
ナトリアの歴史は古く、紀元前二〇〇〇年紀のヒッタイ
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