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「南京大虐殺事件」について

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「南京大虐殺事件」について
「南京大虐殺事件」について
(昭和 12 年 12 月 10 日からの南京城攻撃における日本軍の行動)
第 2 次大戦後、1945 年 11 月南京において設置された「南京敵人罪業調査委員会」の調査結果(翌年 2
月)を受けた裁判の判決において 1946 年 3 月「日本軍の南京入城直後、日本軍が南京市民に対して 30
万人を殺す大虐殺を行った」=『南京大虐殺事件』と認定され、その後の東京裁判においても同旨の主
張が検察側(中国国民党政府)からなされ、判決では松井司令官が有罪とされ、被害者数については「10
万人以上」と認定された。
この事件について、重慶国民政府中央情報部が 1944 年に重慶で出版した英文の「チャイナ・ハンドブ
ック 1937-1944」
(これは、当該事件にかかる重慶国民政府の公式見解といえるもの。同じ記事は 1947
年版にも収録されている。
)には、次の記載がある。
「敵の南京占領後、侵入者は外界との通信を全面的に遮断し、南京を組織的に略奪し始めた。日本人
による大量虐殺、強姦、殺人、略奪、さらに一般的な蛮行の物語は、現代史に匹敵するものを見ない」
ここには、被害者の人数については全く書かれていない。また、
「捕虜が日本軍によって殺された」と
も何ら書かれていない。
1946 年、東京国際軍事法廷で中華民国側検事の向哲濬は、次のように追及した。
「
(南京陥落後)中国軍が総ての抵抗を停止し、南京市が全く被告松井大将指揮下の日本軍の制圧下に
置かれた後、暴行と犯罪の大狂乱が始まり、これが緩むことなく 40 余日に亘って続行された」
同じく、被害者の人数や捕虜処分について、何ら言及していない。
すなわち、その時点において国民政府=中華民国は、被害者の人数や捕虜処分のことなど、全く問題
にしていなかったのである。
今日では、中国(共産党政府)によってなされた「日本軍が市民約 30 万人を虐殺した」という数字が
独り歩きしているが、中国側の主張は以下のとおり根拠がなく、国民党政府及び中国共産党政府の政治
的プロパガンダであることが、近年明らかにされている。その主な点を以下に掲げる。
詳しくは、東中野修道著「再現
南京戦」
(草思社)など氏の著作の他、
「正論」平成 24 年 2~3 月号「南京の平
穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録」、「WiLL」連載「誰が『南京大虐殺』を捏造したか」等を参照された
い。
(1)
南京在住の外国人によって「市民を保護すべく」組織された南京安全区国際委員会の活動記
録によれば、南京の人口は陥落前の 11 月 27 日、20 万人(王固磐警察長官発表)、陥落後の 12 月 17 日、
27 日の人口はいずれも 20 万人、陥落から 1 ヵ月後の人口は 25 万人とはっきり書かれている。人口は、
増えこそすれ減っていないから、
「30 万人もの市民が虐殺された」などあり得ない。
また、同委員会は南京にやってきた日本の外交官に手紙や要望書を出しているが、在南京日本大使館
領事館補として赴任した福田篤泰氏が南京に入った 12 月 14 日、早速同委員会から手紙が出された。そ
の冒頭には「謹啓
私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝し、し、
シナの市民と安全区を世話する将来の計画のために連絡します」
(「南京安全区档案」第 1 号文書)と書
かれており、日本軍非難の言葉はなかった(
『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』より)
。
1
当時の様子について、福田氏は後に、インタビューに応えて次のように述べている。
「僕は毎日のように国際委員会に出かけた。すると、シナ人の青年が次から次へと駆け込んで来て、
『今どこどこ
で日本兵が 15、6 人の女の子を輪姦している』或いは『どこどこで日本兵が集団で押し入り、物をかっぱらってい
る』と言う。その訴えをスマイス氏とかフィッチ氏がどんどんタイプしていった。私は『ちょっと待ってくれ。検
証もせずにタイプされても困る』と幾度も注意した。
時に私は彼らを連れて強姦や略奪の現場に駆けつけてみると何もない。そんな形跡もない。そんなことが幾度か
あった」
(田中正明「南京事件の総括」より)
(2) 12 月 16 日と 17 日に、A.スティール及び T.ダーディンというアメリカ人記者が、それぞれ
シカゴ・デイリー・ニューズとニューヨークタイムズに「日本軍占領開始後、数日間にわたり恐ろしい
場面を目撃し」
「何千人もの命が犠牲になった」とか「
『頻発する殺人、大規模な略奪…』が行われ」
、と
書いた。しかし、書いたダーディン自身は長くても 2 日しか南京に滞在していないうえ、その記事につ
いては根拠が全くない。
① 当時、日本軍とともに南京に入城した朝日新聞を始めとする従軍記者はもちろんのこと、南京
に数多くいたその他の外国人記者
(うち米英人は 5 人)は一切そのような報道をしていなかった。
② これらの記事は、南京国際委員会委員であったベイツ(南京大学教員、後に副学長)が 12 月
15 日にスティール記者に託した在上海アメリカ総領事宛のメモに書かれていたことを参考に書
かれたが、ベイツと行動を共にしていた同委員会の他の委員 8 人は、誰一人そういった内容の記
述を残していない。
③ スティールとダーディン記者の書いたことを確認すべく調査した J.アリソン米国領事は、南京
陥落の 4 か月後、最終判断を東京から来た米国大使館付武官 C.コーヴィル他に提示したが「略奪
と強姦」しか挙げていない。
(3) この年の 12 月 1 日から翌年の 10 月 31 日までに国民党中央宣伝部国際宣伝処は、300 回の
記者会見を開いているが(外国人記者が常時 35 人程度出席)、ただの一度も「日本軍が市民虐殺を行っ
た」とか「捕虜の不法殺害を行った」とかの対日非難を行ったことはなかった。(2003 年に東中野修道
亜細亜大学教授が台湾の国民党党史館に保管されていた、
「極機密」という印の押された「国民党中央宣
伝部国際宣伝処工作概要」を発掘した。300 回の記者会見の中には「大虐殺」について何ら記載がなく、
外国人記者からの質問も全くなかった。すなわち、蒋介石政府は、当時一度も公式に「南京虐殺」非難
を行わなかったのである)
(4) 13 年 1 月 25 日づけでベイツは、「南京大学における難民登録の結末に関する覚書」に「12
月 26、27 の両日に南京大学キャンパス内で行われた兵民分離を目的とした住民登録が行われた際(27
日)
、日本軍によって 200~300 人が連行された」と書いた(第 50 号文書。
「南京安全区档案」所収)
。
この文書の中でベイツは、
“27 日に連行されたけれど生き残って逃げ帰ってきた”男の話として「約
130 人の日本軍兵士が 500 人の捕虜の大部分を銃剣で刺し殺した」
「連行された 200~300 人の大部分が
死に、30~40 人が死を免れた」
「
(漢中門外に遺棄された殺された者たちの)死体を国際員会のクレーガ
ー氏が見に行ったが、城壁の方からは見えなかったと(私に)話した」と主張した。
2
ところが、ベイツの同僚であったスマイス(アメリカ人。キリスト教会から指名された南京大学教授)
が妻にあて、1 月 1 日に書いた手紙には「
(漢中門の城壁に登り、
)ベイツと私は、今週射殺された男たち
の死体の山があるのではないかと、歩いて(谷間を通り、全ての沼を)調べた。しかし(以前ベイツが
見たという金陵女子文理学院裏の黒こげた)一人の死体以外には何もなかった。」「我々の調査旅行の結
果、死体の山は少なかったから、とても良い結果であった。
」とある。
すなわち、死体を見に行ったのはクレーガーではなく、ベイツ自身とスマイスだったのであり、
「連行
されて殺されたとする 200~300 人の死体」など実在しなかったというべきである。
スマイスが 12 年 12 月 31 日、妻あてに書いた手紙に、難民の生活基盤が脆弱なことを心配しつつ「道
路際の小さな露天商達がうまく商売しているのは注目すべきことだ。小さなリスクで大きく儲け、毎日
商売に励んでいる」と書いており、難民の無差別大量殺害の目撃談など一件もない。
したがって、第 50 号文書の中でベイツが主張したことは作り話にすぎないと断じられる。
(5) 同年 2 月 1 日、東京から南京を訪問した本間雅晴少将が米英独の領事らを晩餐会に招待した。
中支那方面軍の武藤参謀副長や中山参謀も同席したこの会は大いに話がはずみ、出席した領事らは夜中
の 12 時になっても帰ろうとしなかったほど心境をやわらげた。
仮に「30 万人虐殺」が事実であれば、米英独の領事らは“話がはずむ”どころか、晩餐会の招待その
ものを受けなかったであろう。
(6) 同年 2 月 6 日、ベイツは、南京で国民政府が開いた軍事法廷に「(日本軍による占領後の)最
初の数週間の日本軍による被害者は市民 1 万 2 千、軍服を着ているものの非武装の男 3 万 5 千であると
確信する。そしてその大部分が最初の 3 日間(12 月 13 日から 15 日の間)に行われた」と記した意見書
を提出した。
しかし、ベイツと行動を共にしていたミルズ(アメリカ人宣教師。南京の長老派教会外国伝道員)が
13 年 1 月 24 日に妻に送った手紙には、
「安全区は(日本軍による)占領前より後の方が(中略)一般的
な略奪や盗難がなくなって、人々は以前よりも大胆に道路に出るようになった。彼らは道端に沢山の急
増した店を設け、全ての店は活発に商売をしている」と書かれていた。ベイツが意見書なるものに書い
たことは、事実とは無縁の作り話であった。
また、同じく同僚であったヴォートリン(金陵女子文理学院教員。後に学長)の理事会提出レポート
には、
「金陵女子文理学院キャンパス内において 12 月 28 日から翌月の 1 月 5 日まで、日本軍によって兵
民分離を目的とした住民登録が行われ、近郊からやってきた人たちを含め何万人という男女の登録が行
われたが、反抗的だとして日本軍に連行された者は、たった 28 人だった。
」と記載されている。
さらに、ベイツの同僚であったスマイス(アメリカ人。キリスト教会から指名された南京大学教授)
が書いた手紙には「スムーズに行われ、日本軍に連行された者はひとりもいなかった」と書かれている。
こうした点からもベイツが意見書なるものに書いたことは信用できない。
(7) 同年 2 月 2 日の国際連盟理事会で、中華民国代表顧維均が自国政府の要求によって出された
「日支紛争の解決を求める決議案」提案理由の中で、日本を非難する大演説をしたとき、
「南京・漢口に
おける日本軍の暴虐」について次のように触れた。
3
「米国人の教授と外交使節団の報告に基づくもので、1 月 28 日の『デイリーテレグラフ』紙と『モー
ニング・ポスト』紙に掲載された。それによりますと、日本兵によって虐殺されたシナ市民の数は 2 万
人と見積もられ、数千人の女性が辱めを受けた」
しかし、自国政府の主張では全くなく、他人事のような非難の仕方であった。それは、根拠も何もな
かったからである。この部分は理事会では全く相手にされなかった(決議案自体は採択された)。
本当に 2 万人もの市民が虐殺されたのであれば、こんな表現で済むはずがない。証拠を示し、もっと激越な非難
をしたはずである。
(8) 21 年(1946 年)7 月 29 日、ベイツは東京裁判の法廷で、日本軍は残虐な軍隊であったと、
数字を挙げて繰り返し強調した。
[ベイツの証言事例(東京裁判における記録から)]
・安全区とその付近で1万2千の男女及び子供が殺された。
・シナ兵の大半は南京城のすぐ外側で降伏し、武装を解除されてから 70 時間後、全員が機関銃で射
殺された。
・日本軍将校と下士官は、3 週間もの間、連日安全区に侵入し、難民の中から兵士だったと見なさ
れる者を拉致し、殺害した。
・日本兵達は毎晩強姦する相手を探して歩き回り、8 千人の女性が被害に遭った。
・かかる戦慄すべき暴行は 3 週間近く行われ、その後、6~7 週間にわたって強化された。
・占領後 6~7 週間で南京市内のあらゆる建物は兵士によって略奪された。
・日本軍による民間人の虐殺、射殺、あるいは強姦を、高級士官が見物しているところを 3~4 回見
た。
「証言」のうち、少なくとも第 2 点目で、
「シナ兵の大半は南京城のすぐ外側で降伏」とあるが、実際
は降伏という行為は一切なかった(年表 12 月 12 日の項に記載)
。
また、占領後に行われたとのこれら事例について、彼とともに当時南京にいたアメリカ人宣教師たち
は、そのようなことが行われたら書いたに違いないことを、誰ひとり手紙や報告書の中に残していない。
ベイツは殊更に日本を貶めるためにそのようなことをデッチあげたと言わざるを得ない。東京裁判法
廷ではオーストラリア人の裁判長ウェッブの指揮下、被告側に反論の機会は全く与えられておらず、立
証責任も求められていなかったから、検察側は言いたい放題の状況だった。
実は、ベイツは当時、蒋介石の顧問として「日本軍暴虐」の宣伝活動を続け、その功績で戦争中と戦
後の 2 度も蒋介石から勲章を受けていた(そのことはアメリカ国内の新聞にも紹介されており、イェー
ル大学所蔵の南京関係文書の中で東中野修道氏が発見した)
。
なお、ベイツと南京で行動を共にしていた南京国際安全委員会の中では、ジョージ・A・フィッチ(蘇
州生まれで、長老派教会外国伝道員の息子で、当時、南京 YMCA 専務理事。
)がベイツの協力者として
働き、実際に現場を取り仕切っていた。
[上記 1 の補足]
日本軍が南京に向けて進軍しているとき、蒋介石軍は焦土作戦をとって日本軍に活用されそうな建物などを大量
4
に焼き払ったから、それ恐れて南京市民の 8 割は城外に逃げ出したため、城内には約 20 万人しか残っていなかっ
た。
攻防戦に伴う市民の犠牲を懸念した南京在住の欧米の人たちが組織した南京国際委員会(委員長にはドイツ人の
シーメンス社南京支社長 J.ラーベが就任)が、城内中央部に「安全区」を設定し、その 20 万人の市民を収容した。
そのため、国民党軍が城外に逃げ出した後、13 日に日本軍兵士が入城したときの状況は「人影が見当たらず、市
内は閑散としていた」と従軍日誌に記されている。
当日の午後、日本軍の先遣隊が安全区に入った時の様子を南京国際委員会委員スマイスは家族への手紙に次のよ
うに記している。
「約百人の先遣隊が道路の南側に腰を下ろしており、その反対側では沢山のシナ人の群衆が彼らを眺めていた。
私たちは将校に対して安全区を説明し、彼の南京の地図にそれを書きいれた。かれは、日本兵を攻撃する者がいな
い限り病院は大丈夫だと言った。武装解除された兵については、彼は何も言うことができなかった。
」
入城した日本軍には民衆への敵意は全くなく、民衆もそれを感じとってごく自然に日本軍を囲んでいたことがう
かがえる。
[上記2の補足]
国際委員会が市民の苦情を書き留めたリストに、
「日本兵による殺人」が 26 件あげられている。しかし、目撃さ
れたのはたった1件で、それも「合法的な殺人」とわざわざ注釈がついている。他は全て伝聞で何の証拠も示され
ていない。一方で、同委員会の委員であるマギー、フォースター両神父やヴォートリン(金陵女子文理学院教師。
後に学長)の家族への手紙や日記においては、日本軍が難民を迫害しているとの記述は全くなかった。
(
「南京大虐殺」を告発した書籍の記述について)
(1)
1938 年 7 月、ティンパーリがニューヨークとロンドンで「戦争とは何か」を出版し、その
中で「4 万人虐殺」説を記載した。その根拠となる数字は、南京大学教授で国際委員会委員であったベイ
ツが「放置遺体」収容の任に当たった紅卍会が遺体埋葬費請求に用いられた「4 万体」という数を用いた
ものである。そして「4 万人のうち 3 割が一般市民」だとしていた。
前述のように、国民党中央宣伝部国際宣伝処は、300 回の記者会見を開いているが、ただの一度も「日本軍が市
民虐殺を行った」とか「捕虜の不法殺害を行った」とかの対日非難を行ったことはなかった(前記3参照)。その
理由は、国民党の息のかかっていない外国メディアが現地で確認取材を行うと、事件などなかったことが暴露され
てしまうことを恐れたためであると推測される。
(北村稔「
『南京事件』の探求」より)
ティンパーリは、その後の調査で、南京陥落当時①本人は日本軍による攻撃の前に脱出しており、南京にいなか
ったこと、②国民党中央宣伝部国際宣伝処の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の責任者(ティンパーリ
を含んで欧米人 3 人、シナ人 2 人。他に工作舎は 40 余人)をしており、宣伝処から月額 1,000 ドルのお金をもら
っていたことが明らかになった。事実、国民党情報部副部長の董顕光が書いた『支那と世界の新聞』において、董
はティンパーリが自分の部下であったと明言している(米コーネル大学図書館所蔵の資料から。産経新聞 H27.4「歴
史戦」第 10 部 4 による)
。
また、1988 年に台湾で出版された曾虚白(事件当時、国民党国際宣伝処長だった)自伝には次の記述がある。
「我々は、目下の国際宣伝においては、自国民は絶対に顔を出すべきではなく、国際的な友人を探して代弁者と
なってもらわねばならないと決定した。ティンパーリは理想的な人選であった。金を使ってティンパーリ本人とテ
5
ィンパーリ経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として 2 冊の本を書いてもらい、印刷し発
行することを決定した。2 冊の書物は売れ行きの良い書物となり、宣伝の目的を達した。」
つまり、ティンパーリは国民党中央宣伝部からお金をもらって、宣伝のための本を書いたのである。
なお、「戦争とは何か」の「南京日記」の部分を書いたのは、ベイツの協力者として働いていたフィッチであり、
フィッチ自身がこのことを、後に台湾で発行した『支那における我が 80 年』に既述した。フィッチは若い頃から
宋美齢と知り合いで、その関係から蒋介石に取り入り、番頭のような存在となっていた。彼は宣教師ではなく、土
地投機により金を稼ぐ人間であった。
ティンパーリはフィッチらの書いた「作文」を本にまとめ、さらに映画のフィルムを入手して編集した。その後、
イギリス経由でアメリカに渡り、プロパガンダ本を書き上げ、
「戦争とは何か」のタイトルで出版したのである。
「戦争とは何か」中国語版の序文を書いたのは郭沫若で、彼はシナ事変勃発にあわせ、亡命先の日本からシナ共
産党やコミンテルンの支援によって極秘帰国し、南京政府の中で戦時宣伝を担当した人物である。また、同著の日
本語版序文を書いた青山和夫(本名:黒田善治)は、コミンテルン工作員とともにシナで活動していた人物である。
このように、
『南京大虐殺事件』なるものの宣伝には、コミンテルン勢力が深く関わっている。
補注:紅卍会は 12 月から翌年 2 月の間、日本軍から遺体の収容・埋葬を請け負ったが、日本軍側の記録及び当の
紅卍会の処理記録によっても 1 万 2000 体~1 万 4500 体であり、2 万 5000 以上の水増しがあった。多く見ても 1
万 4500 体というその内訳はほとんどが戦死体であって、
「虐殺」に相当する死体は上記の「苦情」から推しても皆
無に近い。なお、後述のとおり、市民の中に紛れ込んだ便衣隊は戦時国際法にいう「捕虜」に当たらず、日本軍が
残敵掃討としてしても戦闘中の死者として扱われ、捕虜虐待にはあたらないというのが通説である。
「4 万体」の根拠に関してであるが、紅卍会は遺体埋葬費として 1 体につき日本軍から 30 銭をもらい(当時の中
華民国警察官の月給は月に 3 円~5 円)
、また国際委員会からも 1 日あたり 40 セントもらっていて、かなり割のいい
ビジネスだったからである。この二重どりは日本軍も国際委員会も最後まで知らなかった。
なお、紅卍会の他に崇善堂なる団体も日本軍から遺体の収容・埋葬を請け負った。しかし、崇善堂が掲げる遺体処理
記録数の真偽については、誇張が多く当てにならないとされている。
(2) シーメンス社南京支社長 J.ラーベは「ラーベ日記」の中で、日本軍が南京市民に蛮行を働い
たとし、
「日本軍による市民の殺害は 5~6 万人であった」と、国際委員会報告の数字(死者は 49 人)を
1 千倍に増やして書き、発表した。ラーベは、当時上海で活動していたゾルゲ(ソ連のスパイとして、16
年秋に日本で逮捕された)を支援していた赤軍諜報部員の友人であった。日本軍により南京が占領され
たため、支社の経営が行き詰まり、そのため彼は本国に帰り、失意の中で三国同盟締結反対運動や反日
宣伝を繰り広げた。
なお、ラーベは蒋介石の下で武器輸入に関する要不要の判断を行っていたファイルケンハウゼン(ド
イツ人軍事顧問団最後の団長)の事務所に出入りしていた御用商人でもあった。
(3) 1941 年にアメリカの作家エドガー・スノウは「アジアの戦争」において、「南京では、10 歳
から 70 歳までのすべての女が強姦された」と書いた。エドガー・スノウは、後に毛沢東を讃える「中国
の赤い星」を出版して毛沢東と極めて親しかった作家で、アメリカに対し、日本抹殺の戦争を煽るため
「アジアの戦争」を書いたが、その中で「日本人は中国人や朝鮮人より知的、肉体的に劣る」などと日
6
本憎悪の心情をもらしている。
彼は、戦後のアメリカでマッカーシー旋風(赤狩り)が吹きだしたとき、いち早くスイスに移住した。
(4) アイリス・チャンが「ザ・レイプ・オブ南京」において、「1937 年(昭和 12 年)12 月 17
日、1万人以上の難民女性を収容していた金陵女子文理学院に日本兵が侵入して逃げ惑う多数の女性を
強姦した」と書いた。しかし、同学院教師(後に学長)であったヴォートリンが同学院理事会に提出し
たレポートには、そのような大事件があったことなど何ら記載されていない。書かれていたのは、次の
ことだけであった。
「16 日、敗残兵の逃げ込みを疑った日本軍が学院内を捜索した(しかし、兵たちによる乱暴はな
かった)
。17 日深夜、日本兵を自称する一隊により、少女 6 人が連行されたが(中略)
、その 6 人は翌
朝 5 時に無傷のまま戻ってきた。
」
「
(占領された後)安全区以外の市内は無法状態で、普通の市民によ
る略奪が続いている。多くの家では戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
(中略)この間もキャン
パス内はとても平和だった。
」
本当に日本軍による大強姦事件がキャンパス内であったのなら、ヴォートリンがこのような平穏な
書き方をするはずがない。アイリス・チャンの記述は日本に対する悪質極まりない侮辱である。略奪
の犯人がシナ人なのだから、前記ベイツのメモや上記意見書には信ぴょう性は全くないと言える。
(一般市民への掠奪・強姦等について)
一部の軍が何件か、そのような行為を行ったとの言説が流布されている。
松井司令官は 13 年 2 月 7 日の上海派遣軍慰霊祭における「涙の訓示」において「(義和団事件以来、
軍規の厳しかった日本軍の伝統を損なうものとして)お前達は何ということをしてくれたのか」と嘆い
た。参謀総長載仁親王は「一人の失態も全隊の真価を左右し、一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷つくる
に至るらん」と記した。
これらはむしろ、日本軍の規律が厳しかったことを証することと解するべきであろう。
実際、東京裁判において当時の兵士による掠奪・強姦等の不祥事件数を報告した現地の憲兵隊長の証言によれば、
僅か数件でしかなかった。東京裁判においても当時の上海派遣軍法務官塚本浩次は「10 件内外」と証言した。これ
らの数字は、戦後米軍が日本を占領後に起こした暴行・強姦等不祥事の発生率(対兵員数)と比較してもはるかに
低い。
このように、中国が主張する「南京大虐殺=一般市民の被害者が 30 万人」とかの数字は論外である。
もしそれが事実ならば、終戦直後に蒋介石が 210 万人に及ぶ在支邦人、軍属民間人を無傷で送り返すこ
となど、
「甚大な被害」を受けたシナ民衆が許さなかったはずである。
加えるに、シナ民衆が受けた被害については、次の証言がある。蒋介石の軍事顧問であったアメリカ
のウェッドマイアー将軍が、その回想録『第 2 次大戦に勝者なし』において「シナの人々を苦しい目に
合わせたのは日本軍ではなくシナ兵だった」旨書いている。シナ兵は、逃亡に際して掠奪、放火、強姦
のやり放題だったのである。
このように「南京大虐殺」説は、アジアでただ一国、欧米諸国にとって目障りな存在であった日本を
貶めるために、シナ国民政府宣伝処及びその依頼を請け負ったアメリカ人ベイツやオーストラリア人テ
7
ィンパーリ及びベイツの協力者フィッチが作り上げた“根も葉もない”空前のプロパガンダであった。
なお、後の東京裁判において文官としてただ一人、死刑の判決を受けた広田弘毅は、外相として「南
京事件」を知りながら何もしなかったという不作為の「罪」に問われたものだが、
「南京事件」そのもの
が虚構であったから、知る由もなかった。
(日本軍による「
『捕虜』虐殺」について)
日本軍が行軍中に幾人かの投降兵を殺したり、南京占領後に「掃討」として便衣兵を捕らえ、そのう
ち反抗的な者を相当数(数千人)殺したことは事実であろう。
前者は、敵味方入り乱れての乱戦・激戦のなかで、保護もできなかったからである。
後者については、占領後も便衣兵は隙あらば日本軍に銃撃を加えたし、優秀な手榴弾を隠し持ってい
た可能性もあったからである。司令官が逃亡したため城内の安全区に逃げ込んだ便衣隊員は整然と降伏
したものではなく、武器を隠して市民に紛れ込んだものであったから、国際法上「捕虜」としての資格
はなく、したがって、国際法上は戦闘中の死者として扱われる。
安全区における掃討を担当した金沢 7 連隊の鹵獲品記録には次の数字が挙げられている。
小銃 960 挺
同実包 39 万発 小銃弾 5,000 発
重機関銃 45 挺
重機関弾 2,000 発
手榴弾 55,122 発 拳銃 103 挺 拳銃弾薬
防寒外套 6,220 枚
襦袢袴下 25,600 着
軍帽
261,350 発
青竜刀 2,020 振
1,200 個
夏衣袴 25,300 着
便衣服 2,300 着
これを見れば、司令官に逃亡された6千以上の国民党軍兵士が軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込み、
市民になりすましたことが明らかに見てとれる。当該記録には、敗残兵の「刺射殺数 6,670」と記載さ
れており、日本軍による掃討も限度を超えたものとはいえないであろう。
(
「百人斬り競争」報道について)
南京への進軍中に東京日日新聞(現在の毎日新聞)が 4 日間にわたり、第 16 師団に属する「向井敏
明少尉と野田毅少尉が『日本刀でシナ人 100 人を切り殺す競争』をし、わずか 10 日あまりでそれぞれ
100 人以上切り殺した」と面白おかしく報道した。
日本の敗戦後の昭和 22 年、すでに復員して郷里に帰っていた 2 人は、
「南京大虐殺」に関連する BC
級戦犯として南京軍事裁判に引き出され、たった 1 日の一方的な審理で 12 月 18 日死刑を宣告された。
両人は弁明など一切許されなかった。5 日後の 23 日、2 人は南京郊外・雨花台の刑場で処刑された。
「百人斬り競争」は、昭和 46 年朝日新聞記者・本田勝一が「中国の旅」において、向井敏明少尉と
野田毅少尉による「殺人ゲーム」として蘇らせた。
しかし、多くの人の努力によって、当該記事は“戦意高揚のため”の創作記事(筆者は浅海一男記者)
であることが明らかにされている。
両名は、浅海一男記者から勧められてそのような記事に登場することを承諾したものの、両名の戦中
日記には従軍中、シナ人を斬ったことなど全くは書かれていないし、そのような“事件”を起こしては
いないとの遺書を遺している。
浅海記者から「2人が 100 人を斬る写真を撮って欲しい」との依頼を受けて、記者とともに両名に会
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ったとき2人の写真を撮った第 16 師団従軍カメラマンの佐藤振壽氏は、その後のことなど全く耳にして
おらず、翌年1月に上海で“事件”の記事を読み「浅海記者はうそっぱちをうまく書いたな」との印象
を持ったという。
常識的にみても①向井敏明少尉は歩兵砲の指揮を執る任務を負っており、野田毅少尉は大隊長の副官として秘書
官の役割を担っていた。そのような 2 人が「どちらが先に日本刀でシナ人を 100 人斬るかの競争をする」ようなこ
とは荒唐無稽である。
②将校が腰に帯びた日本刀では、
刃こぼれなど物理的な面から 100 人も斬れるものではない。
「百人斬り競争」といった法螺話が陸軍の検閲を通過して記事にされたことも問題であるが、法螺話を記事にし
た浅海記者も責められよう。2人の命と日本国の名誉がかかっているのである。その後浅海記者は、創作記事であっ
たことを認めないまま新聞社を退社した後、中国に渡った。
残念なことに中国において「百人斬り競争」は、いまも日本軍将校の残虐性を示す「南京大虐殺」の象徴的な事
件とされており、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の目立つ場所に掲げられている。
(唐生智南京衛戍司令官の「敵前逃亡」について)
昭和 12 年 12 月 27 日付け東京朝日新聞は、国民政府中央宣伝部の「発表」に基づき「唐生智司令官
は去る 18 日軍事裁判の結果死刑を宣告され、19 日銃殺の刑に処せられた」と報じた。しかし、実際に
は唐生智は南京放棄の責任を問われておらず、生きていて、戦後の 1949 年に国民党を棄てて共産党に走
り、同党政権下でも湖南省副省長などを歴任していた。
このことは、唐生智は「敵前逃亡」という命令違反をしていなかったということであり、国民政府か
らすれば、日本軍による南京攻略の際に大きな混乱を起こさせるため、唐生智の逃亡が当初から織り込
み済みのものだったといえる。
(中国政府の主張について)
毛沢東は、30 歳台後半、シナ国民党宣伝処の機関紙編集長を務めていたが(日本軍による南京占領の
昭和 12 年 12 月は、延安の洞窟内に非難していた)
、生涯、一度も「南京大虐殺」事件に言及したことは
なかった。
1949 年、国民党政府を追い出して中国大陸に政権を打ち立てた中国(共産党)政府も、建国 30 年く
らいは日本に対してこの問題をとやかく言うことはなかった。中国政府が「南京大虐殺」を声高に叫ぶ
ようになったのは、1982 年からであり、時の宮沢首相が教科書検定に当たって「近隣諸国条項」を打ち
出した後に、この問題を外交カードとして使うようになった。
「南京大虐殺」を政治的に利用できると悟った同政府は 1985 年 8 月、南京に「侵華日軍南京大屠殺
遇難同胞紀念館」をオープンした。支那共産党から愛国主義教育基地に指定されている。その後、拡張
工事のため一時閉館していたが、2009 年 12 月に拡張して再公開した。また、その他の都市においても
同種の施設を造り、同「事件」を告発する本や映画を作り続けてきている。
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