...

KYUSHU UNーV- ー CR。SS。VER - Kyushu University Library

by user

on
Category: Documents
10

views

Report

Comments

Transcript

KYUSHU UNーV- ー CR。SS。VER - Kyushu University Library
○○○社会人コーナー
ら由来したものであることを証明することが難しいため、復元に
することによって自分の勘違いに気がつき理解も深まっていく。
は注意を要する。
そしてなにより、発表に対する容赦ない突っ込みや厳しい指
しかし、このような産地で、丹念に採取を継続している甲斐
導がうれしい(発表の時にはそんなふうに思う余裕はないが…)。
もあってか、重要な発見もいくつかあった。そのひとつがテリジ
博物館に閉じこもったままでは絶対に得ることができなかった
ノサウルス類の脳函(脳頭蓋)の化石である。テリジノサウルス
貴重な時間である。
類は世界的にも発見例が少なく、爆口の部分に関してはアジ
また、脊椎動物化石研究の第・人者である国立科学博物
アから3例、北米から2例が知られているだけである。この部位は、
館の冨田幸光先生に勧められて、2000年頃からアメリカの古
恐竜の脳や脳神経の構造を解明する手がかりとなるが、その
脊椎動物学会(SVP)に参加するようになったが、この学会も
情報は骨の内部にあり、外側からは十分に観察することができ
私に大きな刺激を与えてくれている。朝早くから夕方までびっ
ない。貴重な化石を壊すことはできないので、産業用X線CT
しりとつまっているシンポジウムや講演もさることながら、巡検(現
スキャナーを使用して内部構造の観察を試みている。この部
地観察・討論会)や毎晩のように開かれるレセプションも充実し
位には未知の情報がまだたくさん眠っているだけに、今後CT
ていて、時差ボケの状態でとにかく疲れるが、楽しい、,せっかく
装置を用いた研究がますます有効になると考えられる。
太平洋を渡るのだからと、できるだけ巡検にも参加するようにし
このように、化石からできるだけ多くの情報を得る努力をおこ
ている。広大な荒野に露出する美しい地層や、足下にある恐
なっているが、恐竜を理解するためには、ほかにも知らなけれ
竜化石の産状を実際に見ると、日本での小さな窓から覗くよう
ばならないことがある。例えば、大陸の分布や気候変動、適応・
な調査や化石の探索は、いったい何なのだろうと思ってしまう。
放散のタイミングとメカニズム、生息環境などである。このような
へたな英語は開き直ることにして、何度か参加しているうちに
問題を解くためには、恐竜化石を産出する地層や他の化石か
いろいろな人と知り合いになることもできた。彼らは研究に対
ら得られる様々な情報が必要である。
する意見をくれたり、出版前の論文の原稿を見せてくれたり、
特に地層の年代は、恐竜の進化や地理的分布などを時間
研究用のレプリカを譲ってくれたりして助けてくれる。時には、「論
軸の中で理解する際に重要である。一・般的に地層の順序は
文はまだか?」と急かされることもあるが、これも励みになっている。
海成層を基準として組み立てられているが、恐竜化石を産出
する陸成層は海成層と対比することが難しい。特にアジア大
陸の中央部は自亜紀をとおして海が進駐してきておらず、海
成層が形成されていないため、年代の目盛りを入れることがほ
とんどできていない。中国やモンゴルは恐竜研究をおこなう上
で重要な地域であるが、地層の年代に関してはかなり曖昧な
部分を残している。それに対して、日本の自亜紀の地層は、し
ばしば海成層に陸成層が挟まれるため、アジアの白亜紀陸成
層の年代決定に重要な役割を果たす可能性が指摘されている。
このように研究としてやるべきこともたくさんあるが、博物館
ではその他の雑多な仕事が多く、使える時間も細切れで、仕
事は遅々として進まない。博物館の仕事だけでも十分に忙し
2005年アメリカの古脊椎動物学会でのポスター発表
(アリゾナ州メサにて)
いのに、我ながら、よく二足の草冠を履こうと思ったものだと怨う。
現在おこなっている仕事は、御船層群の恐竜化石に関する
しかし、「学芸員の自己研讃がなければ博物館の発展はない」
パイオニアワークである。それは将来、アジアにおける恐竜たち
という思いがそうさせた。
の進化の棚倉を明らかにするために必要な一歩であるに違い
キャンパスへは週1日のべースで通っているが、ゼミは要約・
ない。そう信じて、今後も大学院での研究と小さな博物館での
議論・発表の訓練の場としてたいへん有意義だと感じている。
活動に全力で取り組んでいきたい。
発表を聞いて新しい知識を得ることができるだけでなく、議論
一 20 一
海外レポート ○○○
(地域構造講座)
2005年3月29日から1司年9月14日までの約5ヶ月半、従来の
前に入館したときには、すでに面接室に50人目らいが溢れて
在外研究が廃止になって代わりにスタートした海外先進教育
いた。15分たっても終わらないケース、何度も呼びtilされるケ
研究実践プログラムの補助をいただき、アメリカ合衆国のアリゾ
ース等、確かに労働ビザや移民ビザは厳しそうだった。私を含
ナ大学で教育研究に専念する機会をいただきました。まず、比
むJl関係の数名は順番を繰り上げての面接だった。蓋を開
文内外の改革やさまざまな問題処理で大変なときに、こうした
けてみれば、流暢な日本語を話す係官と研究内容に関する問
碍難い機会をいただいたことに、心より感謝申し上げます。
答が数分、問題の書類には一言も言及されず、こちらが不安に
今回は、アリゾナ大学社会学部があるツーソン(Tucson)に
なるくらいあつさりと終わった。面接側としては、簡単なケースで
滞在し、自分の麗麗論文を仕上げることが主目的だったので、
数をこなしながら、間にやっかいなケースをじっくり、という戦略
研究室にこもりがちでした。そのため、社会勉強を通したルポ
だろう。後回しにされた人たちがその後どれくらい拘留されたか
ルタージュ的な読み物は書けそうにありません。印象を越えな
はわからない。
い断片的な雑感の羅列になりますが、何かのご参考までに、
■Desert 事前準備を行うつもりだった2∼3月、しかし実に
少しおつきあいください。
いろいろなことが起こった。身内の交通事故に他界、さまざまな
手続きに奔走する毎日。その中でオランダでの国際会議の主催、
学会雑誌と科研報告書の刊行、妻子宅の引っ越し、とどめが
地震である。事前調整はままならず、先方の住居のあてもない
まま、ほとんど手ぶらで成田を発った。ツーソンに関しても、メキ
シコ国境に近いdesertのオアシス都市という程度の知識だった。
とりあえずダウンタウン近くのモーテルに転がり込み、IJ「oドルで
二二のマウンテンバイクを買い込んで、大学まで片道2kmを彼
復する生活がスタートした。間もなく私のdesertのイメージは一・
変した。ノッポの巨人のようなスワロ・サボテン(Suguaro)がキ
夕陽で柿色に染まるツーソン山。この山を堺にスワロ国立公園が
ャンパスや町中の至る所に陣取っている。そこに各種のサボテ
広がる。自転車での決死の山越えを前にして。
ンが入り交じり、サボテンに首座を渡すまいと言わんばかりにさ
■VISA 「面接予約だけで数ヶ月」、「書類のちょっとした不
まざまな草木が原色の花や実をつけて自己主張する。Desert
備で再面接」、「英語で蹴られて」…。合衆国の入国手続きが
というにはあまりに緑深く、カラフルな景観。それでも「一番何も
厳しくなった9,11以降、そういう類のうわさや体験談が巷にあ
ない時に来たね」と言われる。冬はさぞや美しいのだろう。
ふれていた。Jlビザの準備を始めた2004年秋頃のこと。さす
6∼7月の日中気温は摂氏45度を越えるが、日が暮れると20
がに3年を経過してネット上の事務処理は格段にスムースにな
度くらいまで下がる。年間よりも昼夜の気温差が激しい。湿度
っていたが、領事館での面接の厳しさは実際に行ってみなけ
は20パーセント以下なので、空は文字通り雲一・つない紺碧、
ればわからない。万全を期したつもりだったが、書類が1枚欠
手を伸ばせば宇宙に突き抜けそうだ。その分日射は容赦なく、
けていた。気づいたのは面接当日、まさに大阪領事館に向かう
照り返しも強い。熱風の中、自転車通学で真っ黒に日焼けする
直前である。ホテルのフロントで当該書類をダウンロード印刷し
までに半月で十分だった。日本の夏をサウナに例えるなら、ツー
てもらい、わかる箇所だけを書き込んで(中高学校の校艮の名
ソンはトースターだろう。生態系では標高の影響が強くなる。1
前など覚えていようか)一か八か面接に臨んだ。予定時間より
万フィートを越える郊外のレモン山頂付近は針葉樹林、冬はス
一 21
○○○海外レポート
キーができる。オアシス都市といっても、市内を流れるセントクル
等を追加してくれたので、ついつい9月まで居座ってしまった。
ーズ川とリリト一因には8月のモンスーン期を除いて水はない。
元来の面倒くさがり屋もあるが、準備不足の分、できるだけ利
しかしモンスーンの雷風雨は激しく、川はあっという間に濁流に
便さを優先して教育研究に専念したかった。
なり、道路も川に・変ずる。道路のあちこちに立つ「鉄砲水注意」
モーテルに長く居ると、いろいろな事がある。雇われマネージ
の看板をなめていると、大変な目にあう。何事もはっきりとした
ャーが横領で逮捕されたり、犯罪者が逃げ込んで捕り物があっ
土地柄である。
たり。一方で、いろいろな人との出会いも楽しい。その中で次
町を出たときにdesertを実感するのは、何より耕作地がない
第に意識し始めたのが「シカゴ」である。滞在客はシカゴやニ
ことだろう。正確には、見えない。アリゾナには広大なネイティブ
ューヨークからの来訪が多かった。新しいマネージャーはシカゴ
アメリカン居留地がひしめいている。軍事施設も多い。道路沿
からの移住者、町中の店で店員と話していると必ずといってよ
いに延々と続く鉄線柵から見える範囲しか、中の様子はわから
いほど「以前はシカゴにいて」という話になる。そういえば、TV
ない。そして、見える範囲に家屋や耕作地があることは希である。
の野球中継もダイヤモンドバックスはそっちのけで、バグズやホ
ただし、山野を埋め尽くすサボテンも重要な作物である。とくに
ワイトソックスばかり。受け入れでお世話になった教授にこの話
スワロの実からできるジャムやソースはアリゾナのお土産品として、
をすると、市人口のかなりの部分は東北部からの移住者だろう
ネイティブアメリカンの収入源になっている。スワロは寿命70年
と言う。からりとした気候のもとでのwi且d life、それを求めたりゾ
クラスだと4mに届く。そのてっぺんの実を長い棒で掻き落とす
ート移住が主流らしい。東北部の夏の蒸し暑さを思えばうなず
地道な収穫作業である。
けるが、なぜシカゴ・コネンクションがそこまで強くなったのかは
今後の調査課題である。
リゾート移往者は自ずと郊外の高級住宅地に展開し、メキシ
コ系の多いダウンタウン旧市街と階層的な対照を形づくる。エ
スニック=階層ラインによる住み分けがはっきりした町だ。官庁
と大学以外に目立った産業がない町なので、階層ラインは消
費側面でよく表れる。端的に言えば店の品格であり、それに応
じた客層の分化である。そして、それらが地域的に混在するこ
とはない。しかし、人びとは全般に親切・丁寧である。メキシコ
系が持ち込む宗教的敬慶さと、リゾート移住者が求める古き良
きアメリカのせいかもしれない。店員や事務官は’‘would you”
“sorry”“apologize”を普通に口にする。94年頃に滞在した
ロスでは考えられないことだ。これは、経済向上にともなうアメリ
カ全体の変化かもしれない。24時間営業のガス・スタンドやコ
赤レンガで統一された美しいキャンパスには観光客が絶えない。
その中で異色を放つStudent Union。
ンビニの出現を含め、勝手に「サービス経済の日本化」仮説と
称している。これも今後の調査課題である。
戦艦アリゾナをモチーフにした、キャンパス生活の拠点である。
■Town and People 転がり込んだモーテルには思わず
長居することになった。大学の宿泊施設は学部学生優先で、
大学院生や訪問研究員に供給する余裕はない。その代わり
大学の周囲には学生向けの民間アパートや借家が数多くあり、
アパートなら月500ドル前後、一軒家でも1000ドルくらいから借
りることができた。件のモーテルは月単位の契約で約1000ドル、
バス・トイレ付きの1部屋で、キッチンはない。しかし、無料のダイ
ヤルアップ回線、プール、毎日の朝食とハウス・キーピングが捨
てがたく、交渉のたびに冷蔵庫、電子レンジ、コーヒーメーカー
一 22 一
旅先で出会った強面のオジサンライダーたち(中央が筆者)。
海外レポート○○○
■Beer and Study 社会学部では、学期中の定例的なイ
学生の自宅に集まって食事や映画鑑賞をしたりするパターン
ベントが2つあった。毎週金曜のBrown Bag、そして、同日夕
である。よく一緒に飲み歩いた4人の学生は、いずれも前述し
方のHappy Timeである。いくつかのクラスへの参加の他は、
た「白人支配」構造から何らかの形で距離があった。自然と、
論文執筆のために研究室にこもりがちだった私にとって、これ
その支配構造を批判する議論になり、論点はブッシュ政権、ク
らのイベントから得られる刺激はありがたかった。Brown Bagは、
リスチャニティ、リゾート気分の腰掛け教授、はたまたアメリカ社
休暇や出張でツーソンを訪問している研究者を講師に招いて
会学会の理事体制にまで及んだ。深夜になって帰ろうとする
議論する研究会である。ランチタイムの1時間15分、スタッフ・学
私を自転車ごと車で送ってくれるのは、いつも中国人の留学
生40名くらいが集まる。名称はランチを持ち寄ってアットホーム
生だった。彼らの批判精神と親切には大いに学んだ。
にという趣旨だが、実際にランチを持参する者は少なく、ほどよ
これらのイベントを軸に、大所帯の割に学部のまとまりは良い。
い緊張感がある。私も二度、この貴重な時間を割いていただき、
学生が主催する研究発表会や、博士課程の学生が担当する
貴電なコメントをいただいた。
学部入門講義も参考になった。こうしたパフォーマンスが、学生
Happy Timeは要するにビアパーティ。時折教授連も顔を出
にとって良い訓練の場となり、期末の受賞式においてベスト発
すが、だいたい学生ばかりで5時頃から三々五々、大学通りの
表賞やベスト講義賞のような形でエンカレッジされる。ちなみに、
決まった店に集まって飲み出す。この店、大ジョッキ2.5ドルの
これらのイベントは無料のランチパーティ付きで、これが良い交
地ビールがすこぶるうまい。学生たちが好んで飲むAmberも
流の場となっている。副賞やパーティの費用は教員が鋤資し
いけるが、私はTucson Blondという淡色ビールが好きだった。
てまかなっている。共同性はやはり食が基本かもしれない。
つまみなしには閉口したが、ここで2∼3杯やってから、また三々
回文の状況は如何に。
五々、レストランや朝までやっているライブハウスに場所を変えたり、
・.蜘1・1加II.
いわゆる砂漠に出会うのはむしろカリフォルニアである。
写真は州境に広がるAlgodones Dunes。
車が砂にめり込んで立ち往生した苦い思い出がある。
どこからともなく4WD車で救出に駆けつけてくれた親切な青年に、この場を借りて感謝したい。
一 23 一
e
’
:{e
○○○海外レポート
(地域資料情報講座)
今でこそやや熱の冷めた感があるが、相変わらずベトナム観
後7回の現地調査を実施してわかったことは、この時点で少な
光は活気がある。成田や関西からはほぼ毎日、福岡・名古屋
い情報をもとに調査を実施しなくて良かったと言うことである。
からも週3便程度の直行便があり、発展するベトナム経済にも
もちろんシドニーのバスからは残念至極である旨、連絡が相次
呼応して、多数のH本人がハノイ、ホーチミン、フエ、ダナンなど
いだ。
の大都市やハロン湾、ダラットなどの有名観光地を訪れている。
1999年秋,広島国際会議場で、 sl(南アジアの資源開発に
近年は2週間以内の人国であればビザ(査証)も不要となり、
関する国際会議が開催された。ベトナム地質の第・人者であ
気軽にベトナム旅行が楽しめるようになった。このような状況下
るチャンバンチー(Tran Van Tri)教授がこの会議に参加し
であれ、我々が目指す研究対象地域への立ち入りには未だ膨
ているとの情報を得た私は、満を持して出向き、長時間にわた
大な制約があり、複雑な手続きを経て多量の許可書を得たう
って研究の重要性と現地調査の希望を訴えた。これにより、研
えで、初めて調査を開始できる。我々の日本一ベトナム共同研
究構想を練り始めてから約8年後の2000年、ついに最初の
究(JVJGR)チームは不断の努力を続け、フランス、イギリス、
調査がJVJGRとして実施されることになった。メンバーは」一1
台湾などの研究チームと競合しながら、ベトナム中部のコンツム
本側4名、ベトナム側2名である。このときバス教授は、すでに
地域および北部のソンマ地域について、過去6年間で7回の
重い病の床にあった。
現地地質調査を実施した。ここでは、調査中に起こった愉快・
痛快・奇々怪々の出来事を思いつくまま記述し、あわせてベト
ナムを調査するに至った研究の背景と将来展望を述べたいと
雲爾省。三江地域
思う。
励
中 国
ベトナム激動の背最
勃︾
INs:
ミャンマー
illll{lih・,
ス
1992∼1993年、私はシドニーのニューサウスウェールズ大
学理学部で実験室にこもって、岩石の高温・高圧溶融実験を
文献検索のため中央図書館に足繁く通ううち、あるコーナーで
SG
N
、タ イ
N
ミ.4,
はアジア関連の雑誌・文献が閲覧可能であることに気が付き、
K
日本国内では目にしたこともない東南アジア関連の地質情報
・、カンボジア
を多量に入手・熟読した。ある日のティータイムに、バスとこの話
N
\ 嘱サ
題で話が盛り上がるうち、バスもベトナム中部・コンツム地域に
’ 詳
分布するとされる太占代∼原生代(25億年よりも占い)の地
N
睡臥握翫−←よ
行っていた。ボスはバスヘンセン(B.J. Hensen)教授である。
NN
ノ
質に強い関心があることがわかり、将来は共同で調査を行うこ
t
t
とを即決で約束した。
帰国後の1995年および1998年の2回、インドおよび中国で
の調査の帰途、ベトナムでの予備調査を企画し入国ビザまで
取得していたが、様々な事情で実現には至らなかった。最大
の問題点は、現地対応機関となるべき研究所から我々の受人
について、何ら連絡を得られなかったことである。しかし、その
一 24 一
一衙突境界
一一一
f層・戯晶帯
◎1衝突型変成岩分布域
O 500km
マレーシア
①紅河B断帯
②ソンマ縫合帯
③チュオンソン縫含帯
④コンツム地塊
東南アジアの大陸衝突帯概路
海外レポート○○○
ベトナム地質調査あれこれ
文することもしばしばである。
某月某日:ハノイの地質研究所における議論のA間に、調査
最終日には1トンを越えるであろう岩石試料の日本への輸送に
ついて、日本の通運会社現地支店で打合せを行う。ベトナム
諮に不慣れな我々は、調査予定地などを説明する際、トラボン
やらトゥラボン(Tra Bon)、トラミーやらトゥラマイ(Tra My)などと
地名を発音するが、なかなか博があかない。「ひょっとして知ら
ないの?」、という感じで現地駐在の方が教えてくれたのは、ベ
トナム語で頻繁に表記される「Tr」は英語の「Ch」と考えた方
が良いとのこと。すなわち、チャボンであり、チャミーと発音する
のである。赤面の至りであった。
調査出発前、フォーで朝食
某月某日:大量の、しかも無尽蔵に湧き出してくるようなバイ
某月某日:今Hも歩いて朝食に向かう。多くの町の人々も同
クと自転車の合間を縫って、我々の4WDはハノイ市内を抜け
じ店に向かうところをみると、どうやら評判の店らしい。店の前
南下を開始した。これから3日間・約1100kmの旅を経て、目的
には「ホンダ」(バイクのこと)が多数止まっている。「フォー」は
のベトナム中部・コンツム地域に到着予定である。ひたすら続く
全国どこでも食べられるが、フエ市以南のコンツム地域では、「プ
田園風景を見飽きた頃、ベンハイ川を渡る。ここはかっての南・
ン」という丸細麺が好まれる。プン麺を器に人れて、生のハー
北ベトナムの国境であり、中継地である古都フエ市も近い。フ
ブと姉でた肉片を添え煮えたぎるスープを加える。1分もかから
エ市を出発すると、ほどなくベトナム国内における南北の気候
ない迅速な調理である。ほとんどの人は席について茶を飲み、
の違いを生じさせるほどの地形的障壁となっているハイヴァン
待つほどもなく出されるフォーガーやブンボーをたいらげて、足
峠にさしかかり、いよいよ関連の調査も開始となる。荷物を満
早に店を出て行く。しかし、中にはネクタイ・スーツ姿で、早朝か
載した大型トラックは、時速10kmも出ているであろうか。頻繁
ら古びたペットボトル回りの現地醸造酒(ジオウ)を飲み続ける
な交通渋滞を避けるため、日本の共同企業体によって、この峠
輩がいる。不思議な光景である。我々は近くのカフェに席を移し、
に長大なトンネル掘削が行われており、我々は特別の許可を
高さが30cmにも満たない小さな椅子に座って行き交う人々を
得てトンネル内2kmほど先の切り羽で試料採取を行った。一
眺めながら、コンツム名物のフランス式コーヒーを楽しんだ後、
般の露頭(岩石の露出)では考えられない新鮮な岩石を採取し、
調査‘二Tt可力・う。
東南アジア地域における大陸衝突帯の現場を直接観察する
某月某日:同行の中野伸彦君(本学府D3)が懸命に岩石と
ことができ、満面の笑みでコンツム地域へ向けて南.ドした。こ
格闘しているが、なかなか試料採取に至らない。ハンマーの打
のトンネルも、2006年中には開通予定である。
撃音が聞こえ始めてから20分も過ぎたであろうか。かくいう私
某月某日:ベトナムの朝は早い。ラオスとの国境に近い辺鄙
は野外地質調査の鉄則通り、現地(木陰)で今までの調査結
な町とはいえ、鶏の鳴き声に混じってすでに街の喧曝が始まっ
果を頭の中で整理して、大陸衝突帯のイメージを作り上げよう
ている。7時に宿泊所の玄関に集合した我々は、朝の散歩よろ
としているが構想がまとまらない。それもそのはず、猛烈な湿度
しく、数百メートル離れた朝食屋に向かう。ハノイやフエなどの
に加え本日の外気温は44℃を越えている。露頭に座って考え
人:都市を除き、調査地での我々の宿泊所には食事の施設が
ようと移動するが、岩石の表面が日射で思せられ、熱くて30秒
備わっていない。もちろん注文するのは、ベトナム名物「フt一
も座っていられない。バコォーンという音とともに、中野君が歓
(麺)」である。調査を開始した頃は、単純に(日本的に)「フォー」
声を上げた。やっと試料採取に成功したらしい。間もなく、お手
と発費して店の主人に首を傾げられ、同行ベトナム人が注文を
玉をするように「熱々」の岩石試料を手に中野君が戻ってきた。
繰り返していた。最近になって「ファー」に近い発音だと良く理
それを受け取りルーペで観察しようにも、熱すぎて手に持って
解されることに気がつき、ほぼ不自由なく注文できるようになった。
いられない。試料番号をインクペンで岩石表面に記入するが、
この朝食麺料理には、必ず何らかの肉と野菜(葉っぱ)が添え
瞬時に揮発するようで、これもうまくいかない。ザックに人れた
られる。私が好むのは牛肉の「フォーポー」と鶏肉の「フォーガー」
飲料水は、お湯になっている。これでは調査続行不可能である。
であるが、同行ベトナム人は何やら怪しい内蔵系のフォーを注
数km離れた炎天下で待っている我々の4WDドライバー氏は
一 25 一
○○○海外レポート
どうしているだろう。この日は這々の体で、クーラーの無い宿泊
無く、重さ40kgほど(中野沼は60kgもあったであろうか、若い
所へ帰途についた。
力はすごいものである)の岩石試料を背負っての帰路は、本
当に辛いものであった。
r
理
恥一へ摩蜘一一
ジ
“
』δ
eTl“”
ig.一Lr・ 一i
、一
達
{r
なロ
.”∼二疋’急こ
;ご・ 輪
“一:・一
・1: T.認臨凶’。1
ある日のJVJGR
某月某日:早朝5時、親しくなったフォー屋で前夜に予約して
コンツム地塊最高峰・ンゴックリン山(2598m)
おいた朝食分と昼食分の弁当(フランスパン風のパインミーと
肉野菜妙め・キュウリ・チリソース付)を受け取り、40kmほど奥
某月某日:本日から新たな地域で調査を行う。ベトナムにおけ
地の集落へ向かう。ここから先は川幅200mほどの橋が決壊し
る調査では、日本国内でのビザ取得段階から現地での調査時
ているため、徒歩で約20km先の目的地をめざす。この日の調
に至るまで、多種多様・論人な量の許可書が必要となる。この
査は、これまでにない集落から遠く離れた.奥地で、ベトナムの
日も地域の都市にある地区委員会から許可書を発行してもらう
先駆的調査によってその分布が知られている、もっとも高温(1
ため、調査に先立って役所に赴いた。毎回のことであるが、時
000℃以上)の変成作用を受けた岩石を採取しようとするもの
候の挨拶に始まり、メンバーの紹介、調査目的、調査地域など
である。このような奥地でも少数民族の人家が散在するため、
を説明し、しばし雑談することになる。この間、英語での説明に
バイクや馬車が通行可能な「道」は続いている。途中、腰以上
ベトナム語への通訳が加わるため、あっという問に2時間ほど
の深さの川を3回渡渉し、5時間ほど歩いてとりあえずの目的
が過ぎていく。しかし、この程度で許可書が発行されるのなら
地に到着した。手持ちの最後の食料(昼食)を食べ、周辺をま
問題はない。あるときは、この地区委員会からの許可書取得に、
んべんなく調査するが、目的の岩石は見出せない。多少意気
説明と待機を繰り返し3日間費やしたこともある。調査・立人許
消沈しつつ、時刻も午後2時頃過ぎたので同じ「道」を使って2
可と監視のための同行者を得た我々は、次に調査地城近隣
0km先をめざし帰途についた。う一む、残念である…。7一”8km
の集落で警察と自治体長に挨拶と説明を行う。奥地の調査では、
も戻った頃であろうか、同行のベトナム人研究者、ファムビン
地質と無関係の監視同行者も数日間にわたって我々と行動を
(Pham Binh)氏が思い出したように別の水系へ行ってみよう
共にすることがあり、深い信頼と友好を得ることができる。こん
と言い出す。時刻はすでに3時30分を過ぎているが、こんな堤
な辺鄙な奥地で、現地の親密な友人を得ることはうれしいこと
所へは2度と来たくないとの思いと、どうしても試料採取したい
である。
との思いから、沢沿いの獣道を使って奥地へ踏み込んだ。途中、
某月某日:ベトナム戦争当時の物資補給路として名高いホ
ベトナム戦争時代を彷彿とさせる数々のトラップの残骸を目撃
ーチミンルートに沿って、国道建設が進んでいる。我々の4WD
しながら調査を行い、徽蒼とした沢沿いの茂みに日が差し込ま
でも立ち往生する断崖に沿った深い泥淳路を、荷物を満載し
なくなった午後5時過ぎ、ついに目的の岩石を発見した。歓声
たインド製大型トラックが進んでいく。付近には地質調査に最
をあげつつ同行4人で懸命の試料採取を行い、アジアでは熊
適な古い採石場が点在するが、希に爆弾の破片や不発弾を
本県の肥後変成帯に次いで2回目となるサフィリンーコランダム
目にすることになる。中野君たちのような若い世代は、ベトナム
グラニュライト採取に成功した。一同意気揚々と「道」に戻った
戦争に関する感覚は希薄である。同行のベトナム人研究者も
頃は、月が紛々と輝いていた。月明かりを頼りに3度の渡渉を
交えてこの戦争に関する話をし、平和な状況下でホーチミンル
繰り返し、15時間ほども待機してもらった我々の4WDにたどり
ート上において調査を行っている現実に、しばし感慨を覚える。
着いたのは午後10時近くであった。昼食後、口にする食料は
一一一
@26 一
海外レポート○○○
HT・UHP変成岩類が南中国およびインドシナ小大陸の衝突
によって形成されたことが明らかになり、約2億5千万年前の「小
大陸衝突・集合」がアジア大陸全:体の形成に関わる重要な事
件(地質現象)とみなすことを強く指示するようになった。
東アジア地域を代表する大河、サルウィーン川、メコン川、楊
子江の源流は、中国雲南省西部で幅約60kmの間で南北系
の流路をもって集中し、世界自然遺産の・つでもある秘境・三
江地域を形成する。5000・一6000m級の山岳と深い渓谷から
なるこの地域は、約2億5千万年蔚に小大陸衝突によって形
ある日の円蓋風景
成された一一古”アジア大陸が、約5千万年前のインド亜大陸衝
アジア大陸形成史を考える
突によって最終的なアジア大陸に成長する際、大規模な地殻
過去6年間で7回、通算6ヶ月におよぶベトナムでの地質調
の変形を受けた地域と見なすことができ、様々な小大陸の衝
査を経て、我々JVJGRチームは東南アジアからは世界初とな
突境界が集中する地域でもある。我々の研究チームは、ベトナ
る超高温(UHT)変成岩やダイアモンドを含む超高圧(UHP)
ムでの研究成果を発展させるため、2005年度からこの三江地
変成轡を発見し、多くの衝h二二断帯(断層帯)を見出した。
域の調査も開始した。
これらは、プレート運動に伴う小大陸の衝突現象の重要な証
拠となる。また現時燕においてさえ、世界各国の研究者から25
億年よりも占い地質体とみなされているコンツム地塊について、
最新の分析手法を駆使して多元素同位体(マルチアイソトープ)
による年代測定を実施し、構成岩石が約2億5千万年前(古生
代一中生代境界)に形成されたことを明らかにした。また、これ
らの地質体は国境を越えて、ラオスにも分布が広がることも確
認した。
アジア大陸は、約2億5千万年前の地球大変動期に多くの
小大陸片が衝突・集合して形成されたとする考えが提唱され
雲南省・三江地域の怒江沿いに調査する
ている。この考えを支持する最大の根拠は、中国中央部のチ
我々の研究チームは、九州大学において、インド亜大陸の衝
ンリン・ダービー山地域に分布する2.5億年前の超高圧(UHP)
突にともなうヒマラヤ山脈の形成とアジアの環境変動を研究す
変成岩が、北中国および南中国小大陸の衝突によって形成さ
る酒井治孝教授らのグループと共に、より古い時代に起こった
れたとみなすことにあるが、アジア大陸全体の形成過程を考察
アジア大陸の形成過程を明らかにするため、今後もアジアの奥
する.ヒでは小さな証拠にすぎなかった。しかし、JVJGRの成
地に調査を展開する。若い大学院生諸氏の参加を大いに期
果として、ベトナム・ラオスに広域的に分布する2.5億年前のU
待する。
一 27 一
○○○国内レポート
(地域構造講座)
2005年11月12∼14日を会期とし、九州大学六本松地区の
で開催された大会である。大会は、これまで主に関西地区の
新1号館を会場として、2005年人文地理学会大会(以下大
大学で開催されており、関西地区以外で開催された大会とし
会と略)が開催された(写真1)。人文地理学会は1948年3月
ては、2002年大会(お茶の水女子大学)以来2回目の大会で
に発足し、京都市の近畿地方発明センターに事務局をおく地
あり、九州では初めて開催された。九州大学での開催に関し
理学関係の全国学会である。外国人会員を含む現在の会員
ては、2002一一2004rPの集会委員長であり、1997年まで本学
数は約1,500名であり、人文地理学関係では国内外で最大
に在職された小林茂先生のご依頼に負うところが大きい。一方、
規模の学会である。
長年にわたり学会の評議員を務められ、通常1期2年である会
計監査を2期4年にわたり務められてきた宮川泰夫先生のこ
退官との関連もあった。また教養部の設置以来、六本松地区
に多くの地理学関係者が在職していたにもかかわらず、地理
学関係の全国学会が六本松地区で開催されなかったことも遠
因として作用したといえるg
新制大学以降の六本松地区における地理学研究・教育は、
1950年に岡崎高等師範学校(画名甲屋大学)教授であった
三上正利先生(ロシア・ソ連地域地理学)が教養部助教授と
して着任されたことを噛矢とする。三上先生は1963年に教授
に昇任され、1978年3月に退官された。三上先生の着任後は、
1964年に名古屋大学文学部助手であった小野菊雄先生(ロ
シア・ソ連地域地理学)が教養部講師として着任され、1966
期間中本館前に設置された大会の立看板
年に助教授、1977年に教授へ昇任された後、教養部の改組
学会の活動は多岐にわたるが、学会の創設とともに、査読
の際文学部へ異動され、1998年に退官された。一方、三上先
論文である機関誌「人文地理」を発行し、現在は年6回刊行し
生の後任として、東京都立大学理学部助手の小林茂先生(文
ている。毎年、人文地理の第3号に掲載される「学界展望」は、
化地理学)が教養部講師として1979年に着任され、1980年
各分野での専門家が前年度における人文地理学の動向を展
に助教授、1991年に教授に昇任され、教養部の改組後も大
望した論文集となっている。この学界展望を基礎として、人文
学院比較社会文化研究科(以下日文と略)に在職され、199
地理学会は、1945−1951年の研究成果を対象とした「地理
7年に大阪大学へ転出された。
学文献目録第1集」を1953年に刊行した。これ以降、1997−
1994年の比文創設以降に着任された地理学関係の教員は、
2001年の地理学関連文献を編纂した第11集を2004年に刊
愛知教育大学大学院教授より文学部・比文教授として異動さ
行するに至っている。現在これらの文献目録は、国立情報学
れた宮川泰夫先生(工業地理学)である。その後、1995年に
研究所の学術研究データベース・リポジトリの1つとして公開さ
ルンド大学・筑波大学大学院から筆者(都市環境地理学・GIS)
れており、その厳選された文献と強力なデータベース機能により、
が助手に採用され、1997年に長崎大学に転出したが、研究院
地理学分野における広範かつ最新の動向を網羅した二次資
に改組された2000年に助教授として着任した。1997年には
料としての学術的な価値に加えて、データベースの公開による
林秀司先生(農業地理学)が助手として着任され、2000年に
社会的な貢献も高く評価されている。
島根県立大学へ講師(現助教授)として転出された。加えて2
このような学会の活動のうち最大の事業が今回、九州大学
000年には、小林先生の後任として、京都大学総合博物館助
一 28 一
国内レポート○○○
手の佐藤廉也先生(文化地理学)が助教授として着任されて
真2)。その後、総会を経て、会場をベルクラシック福岡大濠に
いる。これ以外にも研究科・学府では、高文創立当初から経済
移し、懇親会が行われた。
構造講座の山崎朗先生(経済地理学・国土計画論、現中央
懇親会では、大会準備委員長の野間晴雄教授(関西大学)、
大学教授)や産業資料情報講座の外川健一先生(産業地理学、
千田稔会長(国際日本文化研究センター教授)、会場校責任
現熊本大学教授)に、また1997年から2003年まで地域構造
者の宮川泰夫教授のご挨拶の後、梶山千里九州大学総長の
講座と国連地域開発センターの連携講座で、3名の博上号取
代理である九州大学理事・副学長の柴田洋三郎先生に来賓
得者を輩出した地域社会環境開発講座の余語トシヒロ、谷口
のご挨拶を賜り、九州大学経営協議会委員である石原進・九
仁士、小川雄二郎の客員教授、鐘ヶ江秀彦、田中奈美、アシュ
州旅客鉄道株式会社代表取締役社長に乾杯のこ発声を賜
ラフ・ホセインの客員助教授にも、教育・研究の両面でご協力
った(写真3)。これらの諸先生方以外にも、九州大学名誉教
いただいた。
授の小野菊雄先生や野澤秀樹先生、北九州市立大学学長・
今回の大会は、比文の3名の教員ならびに日本社会文化専
九州大学名誉教授の矢田俊文先生には、ご多忙中にかかわ
攻(地域構造講座)の院生と、人文科学研究院に所属する地
らず懇親会に参加いただいた。
理学関係の高木彰彦教授(政治地理学)、遠城明雄助教授(都
市社会地理学)、梶田真助教授(地方財政地理学)、阿部康
ゆし
一》
携を軸として、福岡教育大学の石丸哲史・黒木貴一先生、熊
本大学の外川健一・横山智先生、比文で学位を取得し、その
︻制じ
久助茎(中国地域地理学)ならびに人文科学府の院生との連
1
後滋賀県立大学に着任された塚本礼仁先生等のご協力のもと、
2005年1月間ら準備を進め、上記の会期・会場で実施した。
関西地区以外での開催であるため、開催前には参加者の減
v
少が懸念されたが、3日間での会期中に多数の会員・一・般参
加者が参加され、12日の夕方に企画された懇親会も予定人員
を大幅に越え、大盛況であった。
懇親会で歓談される柴田理事(写真右)、
石原経営協議会委員(写真中央)、宮川教授(写真左)
第2日は新1号館の5会場で一般研究発表が実施され、ポス
ターセッションを含めて90の発表があり、都市地理、社会地理、
政治地理、文化地理、環境地理、経済地理、工業地理、人口
地理、歴史地理等の分野での研究成果が報告されるとともに、
白熱した議論が戦わされた。第3日は遠城先生を中心として「城
下町柳川と太宰府市の新国立博物館」と題する巡検が実施
され、午前中は、柳川市の県立柳川占文書館や柳川城下で
の川下りを見学し、午後は、太宰府市の九州国立博物館や大
宰府政庁・水城跡を視察した。大会準備委員ならびに、比文
小田宏信先生による特別研究発表
学府、文学部・人文科学府、福岡教育大学教育学部等からの
関西地区外での大会であったが、実施に際しては、これまで
アルバイト院生・学生のご尽力により、3日間の大会を成功裡に
の形式を踏襲した。すなわち第1日の午前中に新1号館の4会
終了することができた。改めて各位に厚く御礼申し上げます。
場で、歴史地理、地理思想、都市圏、地理教育の4つの研究
本稿を締めくくるにあたり、六本松地区事務部工営係、教務係、
部会による研究発表と討議が行われ、午後に同じく新1号館
学生サービス係の事務諸氏には、教室・機器の借用等でご高
の2会場で、工業地理、都市地理、政治地理の3分野の専門
配を賜りました。皆様のご支援により、無事大会を終了するこ
家による特別研究が発表され、活発な議論が交わされた(写
とができました。この場をお借りして、御礼申し上げます。
一 29 一
○○○新しい出発
(文化構造講座)
2005年4月、佐賀県の神埼郡にある西九州大学に憲法の
法関係施設、老人福祉法関係施設や医療法関係施設などに
講師として赴任いたしました。
おける相談・援助業務を行う専門的知識及び技術を持った者
西九州大学は、昭和43年創設以来、健康と幅祉を最大の
を指し、身体ヒもしくは精神ヒの障害や環境hの理由により
テーマとして特色ある教育研究を推進し、佐賀県内唯・の私
日常生活を営むのに支障がある者の相談に応じ、助言、指導
立大学として発展してきた大学です。また、卒業生の就職率も
その他の援助業務を行う者とされています。
毎年ほぼ100%の実績を重ね、管理栄養上や社会福祉上、
ソーシャルワーカーの資格としては、社会福祉止の国家資格
精神保健福祉士などの国家資格試験にも多数の合格者を蘇
があります。この資格は、医師や弁護士のような「業務独占」
出している大学です。
資格ではなく、「名称独占」資格です。
大学の規模としては、総勢1600人程度と、決して大きいも
「名称独占」とは、資格をもたない者が、「社会福祉1:」とい
のではありませんが、福祉の専門家を育てる大学としては、九
う名称を勝手に使用してはならないということで、社会福祉士
州でもっとも歴史の深い大学です。
資格をもっていなければ、上記の業務に就けないということで
周囲は、吉野ヶ里公園や日の隈公園など歴史と自然に囲ま
はありません。ソーシャルワーカーを日指す者にとって、社会福
れた、まさに人間教育にふさわしい環境です。
祉士爵の資格を持っていることは、専門職としての水準の高
さを表すものとなるので、本学でも学生のほとんどが社会福祉
d
士の資格取得のために頑張っています。
私の所属する社会福祉学科では、多くの学生が社会福祉
士の資格取得を目標に日々勉学に勤しんでいるのですが、ソ
ーシャルワーカーの職場に入ることを前提とすれば(このことは、
就職すること全般において言えることかもしれませんが)、当然
のことながら、単なる知識を身につけておくだけでは不十分と
なります。
西九州大学6号館屋上にて
私の所属する社会福祉学科には、主にソーシャルワーカー
の養成を目的とする社会福祉コース・精神保健福祉コース・介
護福祉コース・臨床心理コースの4コースが設けられており、い
ずれのコースも、在学中の国家資格取得を前提とする専門教
育を行っています。
ソーシャルワーカーとは、「国際ソーシャルワーカー連盟による
ソーシャルワークの定義」によると、人間の福利(well−being)
の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問
西九州大学の介護棟入浴実習室
題解決を図り、人びとのエンパワーメントと解放を促し、その環
ソーシャルワーカーは、日常生活を営むのに支障がある者の
境と相互に影響し合う接点に介入する専門家を指します。
相談に応じ多様な援助を行うわけですから、人間を対象とす
日本では、特に、児童福祉法関係施設や身体障害者福祉
る具体的な援助枝術を養わなければなりませんし、学んだ技
一 30 一
新しい出発○○○
術が絵に描いた餅で終わってはなりませんので、実際に施設
ても、法律系の三日は、一番縁遠いところにある科日のようです。
へ訪問し、援助技術を実践の中で学習する必要があります。
日々の講義を進める中で、つくづく、思いますのは、自分は
そのため現場実習が必修科目とされており、3・4年生は夏休
比較社会文化学府で研究できて良かったということです。とい
みの期間を利用して現場実習へと行きます。私も、実習先へ
いますのも、比較社会文化学府には、多様な分野の先生方が
の訪問指導という形で、多くの施設を訪問するなかで、実習生
多角的に指導してくださる総合ゼミがあります。総合ゼミでは、
ともに指導を頂く機会を得たのですが、福祉大国と謳われる日
単に自分の研究手法として選択する分野にのみ通用する報
本の福祉施設の現状には、直:ちに拡充を実現しなければなら
告では、なかなか評価を得られません。自らの選択する研究手
ない現実があり、理想と現実の落差を目の当たりにする中に、
法をきめ細かく解説し、他分野における問題意識・問題関心と
教科書だけでは知りえない二二な事柄を改めて認識し、経験
いうものにも引き付けた語り口というものを求められていたと思
によって得られる知識によって物事に対する取り組み方が大
います。単純な言い回しですが、誰が聞いても自分のいいた
きく変化するということを実感いたしました。
い内容が伝わる謡ができなければ、独りよがりで終わってしま
うということを、日々実感させられる環境にあったと思います。
西九州大学の介護棟介護実習室
西九州大学大講義室にて
実習教育の意義を体感する中に、ソーシャルワーカーを目指
す者には、単に、知識を得るだけといった、受身の学習だけで
この経験は、大学での私に直接反映されています。すでに
はなく、みずからが得た専門知識に基づき積極的に援助する
申しましたが、多くの学生にとって、法律系の科目は、直ちに興
ことができるより直接的な学習が期待されているということをつ
昧を引くものではありません。学生に対して日本国憲法や法学
くづく感じさせられました。
を語る際、専門用語を駆使し知識を披露したとしても、学生に
新天地において、今まで体験したこのなかった事柄に刺激
とってみれば、どこか知らない星の言葉を喋る得体の知れな
を受けながら、健康と二二を最大のテーマに、ソーシャルワーカ
い異星人としてしか映りません。分かりやすい言葉で、噛み砕
ー養成を山山に教育研究を推進している本学において、私の
いて説明することができない限り、情報を伝達することは出来
掴当している科目はというと、日本国憲法・法学・法律学概論・
ません。この感覚は、総合ゼミにおいて常に意識していたこと
社会福祉法制論1・皿・社会保障論1・皿の法律系科目の全
に通じるもので、誰にでもわかる言葉で説明できないということは、
般です。そのほか、健康福祉基礎演習・社会福祉演習など、1・
自分自身が理解できていない証拠だと、ご指導いただいてい
2年生を対象とするゼミ形式の演習も損旧しております。
た日々を思い起こします。
担当科目のほとんどは、社会福祉士国家試験の受験資格
まだまだ、社会人としての第一・歩を踏み出したばかりですが、
を取得する際に、必修科目として定められているもので、毎回2
比較社会文化学府において培った経験を生かして、憲法学を
00人程の学生を対象に講義を行っています。共通教養科目
足場とし、様々な視角から総合的なアプローチのとれる講義を
を受講する学生のほとんどは、1年生で、年齢的にも法と向き
目指し、研究教育に貢献できるよう、今後も一層努力して参り
合う機会も少なく、ソーシャルワーカーを目指す学生の興味とし
たいと存じます。
一 31
○○○博士論文を書き終えて
(社会構造講座)
2005年9月、博十論文「日本製糸業iにおける雇用関係とそ
雇用し統けた一つの経営に焦点をあて、雇用関係とそれを規
の纂盤」を提出し、10月21日付けで学位〔博士(比較社会文化)
定した諸要因を明らかにするという本研究の目的は一応達成
(比文博肝腫89号)〕を取得することになった。審査を担当し
された。とはいえ、達成感はほとんどなく、むしろ残された課題
ていただいたのは、院生時代に一方ならぬお11よ話になった有
の大きさに身の引き締まる思いである。同時に、今後の研究指
馬学先生、荻野喜弘先生、三輪宗弘先生と、現在東京大学で
針を得て、遅ればせながら、ようやく自身が研究者として胎動
の受入教員として指導を仰ぐ武田晴人先生、中村尚史先生
しつつあることを実感する日々である。
である。主査の有馬先生をはじめ各審査者に感謝するとともに、
論文を書き終えた今、あえて言うならば、もっと早く害けてい
論文執筆を終えた実感をここに記しておきたい。
たはずであったし、書いておくべきであった。自身の反省をこめて、
この論文のもとには院生時代を通して発表してきた研究が
ここに至る個人的な経験を振り返っておこう。
ある。その媒体は院生紀要である比較社会文化研究のほか、
学位取得が当たり前の時代になったと言われて久しい。し
学会誌である経営史学、女性史学、日本歴史、九州史学、社
かし現実には、多くの院生と同様、在学中に学位論文をまとめ
会経済史学や食文化研究、大原社会問題研究所雑誌の多
るなど何のリアリティもなかった。2003年4月に日本学術振興会
岐にわたる。いずれも製糸経営の史料を利用した歴史研究で
特別研究員に採用され、単位取得退学するまでは。白動的に、
あるとはいえ、様々なテーマに関心を寄せていたために、学位
3年以内に学位を取得しなければならなくなった時でさえ、まだ
への道は迂遠に思われた。院生時代には、他大学の先生から、
3年あると思っていた。実際、1年目は研究場所を東京に移し
もっとテーマを絞るようにとの忠告を受けたこともある。ただし、
たこともあり、新入生の気分で院生に混じって5つのゼミに参
指導教員である有馬先生はこの点について驚くほど寛大であり、
加させてもらい、研究会や読書会にもできる隈り出席していた。
ある意味放任主義であったから、自由に研究し続けた結果がこ
加えて、その後の飲み会にも。知的刺激に満ちた1年間が瞬く
れらの業績となっていた。
間に過ぎた頃、このままでは学位論文をまとめることはできない
とようやく気がついた。2年臥学位論文の執筆を理由に研究
一「四「 ==℃秩。閣闘圏闘■■暉國■
室で「引きこもり」を開始し、そこで22時頃まで過ごす日々が続
いた。
II
論文執筆は大変な作業であると経験者の誰もが言う。した
がって、執筆を宣言してから実際に書き終えるまでの期間は苦
行に耐える覚悟であった。しかし、書くことより読むことの方が
好きな性分は変えられず、研究室にこもっている時間の大半
は読書にあてていた様な気がする。もっと読むべき本があるだ
ろうに、いきおい机の片隅には小説や研究に関係のなさそうな
本が並ぶことになる。それでも研究室での「引きこもり」は、私
博論会(於東京大学)の模様。中央が筆者。
にとって苦にならないばかりか快適ですらあったために、ずる
したがって、博士論文を執筆するに当っては、何よりもまとま
ずると長引いていった。
りのある議論を展開することに意を注いだ。自ずと足りない部
院生では当たり前の生活も、「配偶者のいる女性」の生活と
分が浮き彫りになり、これまでの研究を再編成するとともに若
しては奇異に映るらしく、「家庭は大丈夫なのか」「夕食の準
干の作業を追加した。結果的にいくつかの論点を捨象するこ
備はしなくてよいのか」と多くの方々に心配された。夫に負掴
とにもなってしまったが、戦前期を通して多くの女子労働者を
を強いているのかもしれないと一瞬頭をよぎったが、幸いなこと
一 32 一
博士論文を書き終えて○○○
にあまり気にならなかった。同じ大学構内にいた夫も同じ時間
安心したかったのかもしれない。自信の無さゆえの習性は未だ
まで研究室に残り、一緒に帰宅することが多かったからである。
克服できていないが、いずれにせよ、信頼できる研究者に原
また、数年前に学位論文をまとめた夫は、提出間際の追い込
稿を見てもらえた点は、何よりの励みになった。
み時、もっとひどい生活を送っていた(関心のある方は「CRO
また、同じく学位取得を目指す若手研究者の集まりに参加し、
SSOVER」NO.13、15頁参照)。博士論文をまとめるというこ
第1回目の報告者となった点も大いに励みになった。「博論会」
とはそういうことなのだという共通理解があったように思う。こ
と称するその研究会は、日本を対象として歴史研究を行うとい
の点は、理解ある家族に支えられたと言うべきかもしれない。
う共通点はあるものの、参加者の扱う時代もテーマも相当に異
しかし、家族の理解や支えがあったとしても、論文を書くこと
なっていた。学位で言えば、文学と経済学そして比較社会文
は通常、孤独な作業である。とりわけ、博論ともなると全体の構
化となる。そのため、報告者は事前に関係する既発表論文と
想を練り上げていく過程で、絶えず不安にさいなまれ、投げ出
先行研究を上げ、参加者はそのすべてに目を通した上で博論
したくなることもある。最終的に、何とか論文をまとめることがで
構想に臨む。当然ながら、極めて当たりの厳しい会になるが、
きたのにはいくつかの理由がある。
内容に踏み込んで議論できる場として貴重な研究会であった。
まず、現在の受入教員である武田晴人先生には多大なるご
すでに、この会から私を含む2名が学位を取得し、他の参加者
指導を賜った。多忙なスケジュールにもかかわらず、少しでもま
も着実に論文をまとめている(写真参照)。
とまったら持って来るようにとのお言葉に甘え、章がまとまる度
振り返ってみれば、恵まれた研究環境で論文の執筆に専
に不完全な原稿をお渡ししてしまった。思えば、院生時代には
念できたことは、幸せであった。確かに、論文執筆は大変な作
有馬先生に何度も原稿を提出し、コメントを頂戴してきた。九
業であるが、それ以上に得るものは大きい。何よりもこんなに充
州を離れる頃になって、なぜ何度も原稿を持って来たのかと
実した楽しい作業を先延ばしにするのはもったいない。博士
逆に払われたほどであったが、正直に言えば、ほとんど無意識
課程在籍中の皆さんには、一刻も早く、論文をまとめるべきで
にそのような行動を取っていたために理由は定かでない。ただ、
ある!と強く言いたい。ぜひ頑張ってください。
論旨に矛盾が無いか、どこで面白がってくれるかを確認して、
一 33 一
も現れています。平成12年に臼帝社から公刊された『漫画学
のススメ』は社会的にも大きな話題となり、それを基にした先生
の講義は新聞に取り上げられるまでになりました。
このような学問と教育の両面の業績から先生は平成12年
に教授に昇任され、教務・学生委員会の委員長にも就かれま
した。いつもお元気で、大きな声でお話される先生のお姿は私
たちにはっきりと残されていますが、とりわけ教務・学生委員長
として大勢の新入生を前にしてお話をされている声、また教授
会で発言されていた声は、今でもすぐにまた聞こえて来そうで
あります。
謹んで、九州大学大学院比較社会文化研究院教授 故日
中国の戯曲と文学、さらに漫画学から見えてくる現代文化
下みどり先生の御霊前に、同大学院を代表し、先生のご功績
批評と、教授昇任後の先生は、脂が乗り切った活躍を開始し、
をしのびつつ、哀悼の言葉を申し上げます。
多くの学生も先生を慕って集まってきていました。
先生は、昭和42年、神戸市外国語大学外国語学部中国学
先生が病に倒れられたのはそのような時期でした。多くの
科をご卒業後、同大学の大学院修士課程に進まれ、そこを修
学生の指導と、ご自分の学問の更なる完成へと遇進され始めた、
了されたあと、東京都立大学大学院の博士課程に入学されま
まさにそのような時にそれを中断せざるを得ない事態となり、そ
した。博士課程修了の後には、関西大学、立命館大学、同志
のお気持ちはいかばかりのものであったか、察してあまりあるも
社大子等で講師を務められ、平成5年に九州大学言語文化
のがあります。そして今日、最早帰らざるひととなっています。
部に助教授として就任されました。その翌年には、大学院比較
世の習わしはいざ知らず、学問の道においては、あまりにも
社会文化研究科の創設に伴い、請われて、国際社会文化専
若すぎる死と悼まざるを得ません。
攻アジア社会講座に移られました。この間、またその後も一貫
先生の多くの功績に対しまして、大学改革のさなかにあると
して中国の戯曲と文学とりわけr金瓶梅』の研究に専念され、
はいえ、私たちの大学院が何ら報いることも出来ないまま、今日
それらのご研究が、平成7年には研文出版から公刊された『中
を迎えてしまったことをお許しください。先生のご功績は、先生
国戯曲小説研究」として、また平成8年には中央公論社から公
の薫陶を受けた二二が、残された足跡を引き継ぎ発展させるこ
刊された「金瓶梅天下第一の奇甫」として結実しました。これ
とによって、報いることになることを期待しています。
らの業績によりまして、先生には平成8年に九州大学より博士
ここに謹んで、私どもの深い感謝と限りない惜別の意を表し、
の学位が授与されています。千年を優に越える中国文学の研
先生のご冥福をお祈りいたします。
究の歴史の中でも、雑劇や奇書に手を染める人は数少ないこ
とでしょうが、このような新たな領域に大胆に切り込んでいく先
平成17年9月11日
生の、剛毅で繊細な手法は大きな驚きであったかと思われます。
九州大学大学院比較社会文化研究院長
先生のこのようなご性格と手法は、博士号取得以後の展開に
根井 豊
一 34 一
九州大学 六本松地区
Kyushu University Ropponmatsu Campus Map
0鵜
o一胆
(IS) , ’r.’.r・,’・.:’ ;一L,t・f,;”.J’,
〇二脂
〇三開
f
1
0圏号鐘
〇五鴨
o噺→鹸
;断凶号鱈
ノし
0大鵜臓
⑳21世紀交滋7ラザ
①朋ロ騙六零艦頒
⑫熊8勲ンター六職頒
①Φ㊦
㊤酬矯鰍簡鍛
体胃0既●
⇔入口
掌生会鑓
囚飽
雰生鶏会麟停々創
函夷a
学盤…謬生センター
画 多目的トイ噛レ
零生生酒・㎜
⑲倒腿
日脚闘
乱車嘱入口
凹】鰯出口
⑳プラウ労クルーム
⑳ヲニスコート
8 ’{ス停
@看闘
乙垂尋
㊥フール
⑳鰻の麟
六零松地区
比鮫社会文化学府・比絵祉会文化観究騰
広報委員会では、本号から教育・研究グループや委員会毎にテーマを決めて、
特集を組むことにしました。初回は言文の中でも最も留学生の多い、日本語教育グ
ループにスポットライトをあて、特集「日本語教育の留学生」を組んでみました。また
新しく「社会人コーナー」、r留学生コーナー」を設けました。「是非うちの研究グル
ープあるいは講座の活動やその成果を紹介したい」とか、各種委員会のアンケート
結果などの掲載希望がありましたら、お近くの広報委員までご連絡下さい。また読
者の皆様からの感想やご意見をお待ちしています。
師走の忙しい時期に原稿と写真を準備して頂いた執筆者の皆様、そして原稿
のとりまとめをして頂いた先生方に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
広報委員長
t ■ v 。・謳
SCS(エス・シー・エス)は、九州大学大学院比較社会文化学府の英文名称Graduate School of Social and Cultural Studiesの略称
です。ロゴはSCSを図案化したものです。考案者は「二羽の鴨に見える」と主張していますが、「一羽にしか見えない」と言う人もいます。しかし家
鴨ではないという点では、私たちの意見は一致しています。裏庭の囲いのなかで餌をもらって外の世界を知らずにいる家鴨ではなく、越境する渡
り鳥である鴨こそが、私たちのめざす新しい学府にふさわしいと考えているからです。
一 35 一
Fly UP