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第5章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDPの同時決定
77 第5章 5.1 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 マクロ経済の均衡:3 つの市場の「同時」均衡 これまでの各章では,外国為替市場の均衡,資産市場の均衡,製品・サービス市場の 均衡のように,特定の市場の均衡状態を単独で分析してきました.すなわち,他の市場 との相互作用はないものと仮定して話をすすめてきました.たとえば,外国為替市場に おける為替レートの決定を考察するとき,私達は「利子率は外から与えられている(し たがって利子率から為替レートへのフィードバックはない)」と仮定したのです. しかし,すでに見たとおり,為替レートの変化は均衡 GDP に影響を与え(第 4 章), GDP の変化は均衡利子率に影響を与えます(第 3 章).そして,均衡利子率の変化は再 び為替レートを変化させるでしょう.すなわち,為替レートは利子率に影響を与えてし まい,それによって為替レート自身がさらに影響されてしまうという,3 つの変数間の相 互作用が存在するのです. 本章では,3 つの市場間に存在するこうした相互作用を考慮した上で,為替レート・利 子率・GDP がどのような水準に決定されるかを考えていきます.相互作用を考慮するな らば,私達は 3 つの市場の同時均衡を分析しなければなりません.なぜなら,いずれか ひとつでも均衡していない市場があれば,他の市場が均衡していてもそれは一時的なも のにすぎないためです.次のような例を考えてみましょう.今,円=ドル・レートが 100 円,利子率が 0.03,GDP が 700 兆円で,外国為替市場と貨幣市場が均衡していたとしま しょう.一方で,製品・サービス市場は需要が供給を上回っていたとします.製品・サー ビス市場では企業が在庫の急減にみまわれますから,当然生産(GDP)を増やしていき ます.ところで,GDP の拡大は貨幣需要を増加させる(貨幣需要曲線を外側にシフトさ せる)ので,貨幣市場では需要が供給を上回り,利子率が上昇しはじめます.利子率の 上昇によって円建債券の収益率がドル建債券のそれを上回るため,外国為替市場で大量 の円買い・ドル売りが発生し,為替レートが低下しはじめます(円高・ドル安).そし て,この為替レートの低下が輸出を減少させ輸入を増加させるので,製品・サービス市 場で総需要の変化をもたらすことになります.このように,ひとつでも均衡していない 市場があれば,そこで生じる変化が次から次へと他の市場に伝播し,当初均衡していた 市場まで動き出してしまうのです(図 5.1).したがって,3 つの市場全てが同時に均衡 状態になければ,もはや「均衡」とは言えないのです.すなわち,先の「円=ドル・レー トが 100 円,利子率が 0.03,GDP が 700 兆円」という数値も,3 つの市場が均衡してい ない以上は最終的な値ではなく,過渡的な(=いずれ変わってしまう)ものにすぎない のです. 逆に言えば,3 つの市場が同時に均衡していれば,そのときの為替レート(E0 ) ・利子 率(i) ・GDP(Y )は外から力が加わらない限りもはや変化することはなく,いわば「最 終的な値」と呼んでよいことになります.その意味で,私達は 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 78 図 5.1: 3 つの市場の相互作用 為替レート(E0 ) ・利子率(i) ・GDP(Y )は 3 つの市場が同時に均衡するよう な水準に決まる と言うことができます.そして,以後はこれらを「均衡為替レート」「均衡利子率」「均 衡 GDP」と呼ぶことにしましょう. 以下,本章では,3 つの市場を同時に均衡させるような為替レート(E0 ) ・利子率(i) ・ GDP(Y )の水準をいかに見つけるか,どのようにしてそれらが達成されるのかを最初 に考察します.その次に,それら均衡為替レート・均衡利子率・均衡 GDP がどのような 「事件」によって変化するのかを考察します. 5.2 外国為替市場・資産市場を均衡させる為替レートと GDP の 組み合わせ:AA 曲線 ここからは,3 つの市場の同時均衡を実現する為替レート・利子率・GDP の組み合わ せを見つける作業に入っていきます.しかし,このままでは 3 つの変数(E0 , i , Y )を同 時に分析することとなり,3 次元のグラフ(つまり立体)が必要となります.そこで,な んとか 2 次元のグラフ(平面)に落とすために次のようなトリックを用います.すなわ ち,貨幣市場およびそこで決定される利子率を舞台裏に隠してしまうわけです.そうす ると,私達のつくりあげたマクロ経済は図 5.2 のように見えるようになります.こうする ことで,あたかも外国為替市場と製品・サービス市場という 2 つの市場が,円・ドル= レートと GDP という 2 つの変数を通じてつながっているように考えることができるの です.したがって,見かけ上は 2 つの市場を同時に均衡させる 2 つの変数の組み合わせ を探す作業になります.具体的には,以下の手順で探していきます. 5.2. 外国為替市場・資産市場を均衡させる為替レートと GDP の組み合わせ:AA 曲線79 図 5.2: 3 つの市場の相互作用 (2) マクロ経済均衡を探す手順 1. 外国為替市場(と資産市場)を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組 み合わせ(A)を探す. 2. 製品・サービス市場を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組み合わせ (D)を探す. 3. A と D に共通する円=ドル・レートと GDP の組み合わせが,外国為替市 場(と資産市場)と製品・サービス市場を同時に均衡させる組み合わせで ある. では,最初に外国為替市場(と資産市場)を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組 み合わせを探してみましょう. AA 曲線 最初に確認したいのは,外国為替市場を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組み合 わせはただひとつではない,ということです.たとえば,今,円=ドル・レート 100 円と GDP700 兆円の下で外国為替市場が均衡しているとしましょう.ここで,何らかの理由 で GDP が 600 へと減少したとします(図 5.3(a)). 図 5.4 は資産市場と外為市場の均衡を表しています.今,GDP700 と 1 ドル 100 円で 資産市場と外為市場が均衡しているとします(図 5.3 の P 点に対応).ここで,GDP が 700 から 600 へと減少すると,貨幣需要曲線が L0 から L1 へと内側にシフトして円建債 券の利子率が 0.05 から 0.03 へと低下します.これは,円建債券の利子率がドル建債券の 期待収益率を下回ることを意味するので,円建債券からドル建債券への乗り換えによる 大量のドル需要が生じます.再び外国為替市場が均衡するためには,ドルが 102 円へと 増価してドル建債券の期待収益率が低下する必要があります.すなわち,外為市場(と資 産市場)を再び均衡させるには,GDP が 600 へと低下するのに伴って(図 5.3(a)),ド ルが 102 円へと増価(図 5.3(b))すればよいのです.こうして,外為市場を均衡させる 組み合わせがもうひとつ(Y = 600, E0 = 102,図 5.3 の Q 点)見つかりました. GDP がさらに低下するとき(すなわち利子率がさらに低下するとき),ドルがさらに 増価すれば(たとえば 1 ドル 104 円)外為市場は均衡するでしょう.このように,外為市 場を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組み合わせは無数にあり, 「より小さい GDP 80 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 図 5.3: AA 曲線 にはより高い円=ドル・レートが必要」という関係になっています.したがって,外為 市場を均衡させる円=ドル・レートと GDP の組み合わせを図示すると,図 5.3 のように 右下がりの曲線になります.この曲線を「AA 曲線」と呼びます. 図 5.4: AA 曲線の導出 5.3 製品・サービス市場を均衡させる為替レートと GDP の組み 合わせ:DD 曲線 次に,製品・サービス市場を均衡させるような円=ドル・レートと GDP の組み合わせ を探していきましょう.前節と同様,今,円=ドル・レート 100 円と GDP700 兆円の下 で製品・サービス市場が均衡しているとします.ここで,何らかの理由で円=ドル・レー トが 102 円へと上昇した(=円安になった)とします(図 5.5(a)). 図はこのときの製品・サービス市場の均衡を表しています.今,円=ドル・レートが 102 円へと上昇すると,日本製品が米国製品に比較して相対的に安価になるため,経常収 5.3. 製品・サービス市場を均衡させる為替レートと GDP の組み合わせ:DD 曲線 81 支が改善し,日本製品への総需要が増加します.これは,総需要曲線が D0 から D1 へと シフトすることを意味しますので,GDP700 では需要が供給を上回ってしまいます.し かし,ここで GDP(=総供給)が 700 から 800 へと増加すれば,増えた分の需要をカ バーして需給の均衡を回復することができます.こうして,製品市場を均衡させる組み 合わせがもうひとつ(Y = 800, E0 = 102,図 5.5 の S 点)見つかりました. 図 5.5: DD 曲線 同様に,円=ドル・レートがさらに 104 円まで上昇すると,総需要が再び総供給を上 回りますので,製品市場を均衡させるには 800 より大きな GDP が必要になります.こ れをたとえば 850 としましょう.これで,3 つ目の組み合わせ (Y = 850, E0 = 104) が見 つかりました.外為市場と同様に,製品市場を均衡させる組み合わせも無数にあります. そして,製品市場の場合は外為市場と反対に, 「より高い円=ドル・レートにはより大き な GDP が必要」という関係になっています.したがって,この組み合わせを図示すると 図 5.5 のように右上がりの曲線になります.この曲線を「DD 曲線」と呼びます. 図 5.6: DD 曲線の導出 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 82 5.4 3 つの市場の同時均衡 ここまで,2 つの曲線を導出しました. AA 曲線 DD 曲線 外国為替市場(と資産市場)を均衡させる GDP と為替レートの組み合わせ 製品・サービス市場を均衡させる GDP と為替レートの組み合わせ 2 つの曲線を同一平面に描いたものが,図 5.7 です.2 つの曲線の交点 F0 で表される Y と E0 の組み合わせは,一方で AA 曲線上にあり(=外為市場と資産市場を均衡させる), 他方で DD 曲線上にもある(=製品・サービス市場を均衡させる)ので,まさに 3 つの 市場を同時に均衡させる円=ドル・レートと GDP の組み合わせを表しています.すなわ ち,F0 点こそが(特定の市場のみでなく)マクロ経済を均衡させる円=ドル・レートと GDP であり,最終的な意味での「均衡円=ドル・レート」「均衡 GDP」なのです. 図 5.7: 開放マクロ経済の均衡 なお,F0 点が「均衡」であることはすぐに理解できるでしょう.なぜなら,外為市場・ 資産市場・製品市場全てが均衡しているので,いずれの市場においても行動を変える誘因 を持つ人はなく,したがって何も動かないためです.問題は,為替レートや GDP が F0 点から外れた値(たとえば図中 I 点や J 点)をとっているとき,F0 点に向かっていくメ カニズムが存在するかどうかです.次にこの点を確認してみましょう. まず,経済が F0 以外の点にいるとき,外為市場および製品・サービス市場における需 要と供給がどうなっているかを確認しましょう. 最初に,経済が AA 曲線から外れている時,外国為替市場がどのような状況にある かを図 5.8 左側を用いて考えてみます.F0 では外為市場は均衡していますが,K 点の ように GDP はそのままで為替レートがこれより円安だったらどうなるでしょう.re ≡ i⋆ + (E1e − E0 ) /E0 から,ドル建債券の期待収益率が下がってしまうことがわかります. したがって,人々は (1) ドル建債券を売却してドルを得て,(2) そのドルを売って円を購 入し,(3) その円で円建債券に乗り換えようとしますから,大量のドル供給が発生するこ とになります.すなわち,経済が AA 曲線より上方にあるとき,外為市場では円=ドル・ レートが低下していくことがわかります.反対に,経済が AA 曲線より下方にあるとき には,外為市場では大量のドル需要が発生し,円=ドル・レートが上昇していくことに なります. 5.4. 3 つの市場の同時均衡 83 図 5.8: 次に,図 5.8 の右側を用いて,製品・サービス市場を確認しましょう.F0 では製品・ サービス市場は均衡していますが,M 点のように GDP はそのままで為替レートがこれ より円安だったらどうなるでしょう.GDP は同じ 700 のままですので生産(=総供給) は変化しませんが,円安によって経常収支が改善するため,総需要は増加しています.し たがって,経済が DD 曲線より上方にあるとき,製品・サービス市場では需要が供給を上 回っており,GDP が増加していくことになります.反対に,経済が DD 曲線より下方に あるときには,製品・サービスの供給が需要を上回っており,GDP は減少していきます. 以上の結果を先の図 5.7 に重ね合わせると,経済が均衡点 F0 から外れているとき,経 済全体にどのような力が加わるか推測することができます(図 5.9). 図 5.9: 図からわかるとおり,経済が均衡から外れたところにあるとき,外為市場を均衡させ るよう為替レートを調整しようとする「垂直方向の力」と,製品・サービス市場を均衡 させるよう GDP を調整しようとする「水平方向の力」とが同時に作用します.垂直方向 の力と水平方向の力が同時に加わるため,経済は斜めに動いていくのかというと,そう ではありません.実際は,外為市場の調整が先に完了し,経済は瞬時に垂直方向に AA 曲線上へと移動します(つまり,外為市場の均衡は瞬時に回復されます.図 5.10 の矢印 84 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 (a)).次に,やがて製品・サービス市場の調整が始まり,水平方向に動き始めますが,そ の大きさは限定的で,一気に DD 曲線上まで持っていかれるようなことはありません.わ ずかに GDP が増加して経済は右側に移動しますが(図 5.10 の矢印 (b)),ここは外為市 場が均衡していないので,再び瞬時に AA 曲線に引き戻されます(矢印 (c)).こうして ほぼ AA 曲線上をなぞるようにして,やがて経済は均衡点 F0 へと到達します.ここでよ うやく DD 曲線にも乗り,外為市場と製品・サービス市場とが同時に均衡することにな ります. 図 5.10: 均衡への調整過程 外為市場では瞬時に不均衡の調整がなされる一方で,製品・サービス市場では調整に 時間がかかるという非対称性はどこから来るのでしょうか.それは,それぞれの市場で 需給の調整の担い手が異なることに起因します.すなわち,外為市場では需給の不一致 は「価格」 (具体的にはドルの価格,すなわち円=ドル・レート)によって調整されます. 一方,製品・サービス市場では需給の不一致は「数量」 (具体的には製品・サービスの生 産量)によって調整されます.価格は瞬時に動くことが可能ですが,生産量のほうは足 りないからといってすぐに増やすことはできませんし,余っているからといって大幅に 減らすことも容易ではありません.したがって,製品・サービス市場においては,需給 の調整は徐々に進むことになるのです. 以上で,一国のマクロ経済は 3 つの市場が同時均衡するような状態へと向かうことが 確認できました.これで,私達は,外国との取引を行うマクロ経済の短期的な変動を記 述する「モデル」を完成させたことになります.そこで,次にすべきことは,このモデ ルに様々なショックを与えて,均衡 GDP や均衡為替レート(や均衡利子率)がどのよう に変化するかを思考実験することです.すなわち,モデルを動かしてみることが次の作 業になります. 5.5 為替レート・GDP を変化させる要因 これまでの各章と同様に,まずはグラフの上で,AA 曲線や DD 曲線のシフトがマク ロ経済均衡を変化させることを確認しましょう.図 5.11 の左側からは,AA 曲線の右シ フトが均衡円=ドル・レートを上昇させ,均衡 GDP を拡大することがわかります.反対 に,AA 曲線の左シフトは均衡円=ドル・レートを低下させ,均衡 GDP を縮小させます. 5.5. 為替レート・GDP を変化させる要因 85 同様に,図 5.11 の右側からは,DD 曲線の右シフトが均衡円=ドル・レートを低下さ せ,均衡 GDP を拡大することがわかります.一方で,左シフトは均衡円=ドル・レート を上昇させ,均衡 GDP を縮小させます. 図 5.11: マクロ経済均衡の変化 問題は,こうした AA 曲線・DD 曲線のシフトがどのような要因によってもたらされ るかです. 5.5.1 AA 曲線をシフトさせる要因 図 5.3 の AA 曲線は,ドル建資産の利子率が 0.05,期待円=ドル・レートが 100 円, 日本の実質貨幣供給量が 500 であるとき,外為市場と資産市場を均衡させる GDP と為 替レートの組み合わせを表したものでした.したがって,この AA を描くときに前提と したドル建資産の利子率,期待円=ドル・レート,日本の実質貨幣供給量が変化すれば, 再び AA 曲線を描きなおさなければならない,すなわち AA 曲線がシフトすることにな ります.以下,それぞれの変化が AA 曲線をどう変化させるかを見ていきましょう. ドル建債券の利子率の変化 まず,ドル建債券の利子率の変化の影響を見ましょう.図 5.12 の Q01 点を取り出して 考えてみます.今,ドル建債券の利子率が 0.07 に上昇したとしましょう. 図 5.13 を見てください.i⋆ = 0.05, E1e = 100, M P = 500 の下では,GDP700 および 1 ドル 100 円のレートで資産市場・外為市場が均衡していたわけですが,ドル建債券の利 子率が 0.07 へと上昇すると,ドル建資産の期待収益率曲線が上方にシフトしてしまい, もはや GDP700 および 1 ドル 100 円のレートではドルの需給は均衡しなくなります.図 から明らかなように,同じ 700 という GDP でも 1 ドル 102 円というよりドル高なレー トでなければ均衡しなくなるのです.これは,図 5.12 でいえば,Q01 点が Q11 点へと上方 に移動することを意味します. 同様に,Q2 点や Q3 点でもより高い円=ドル・レートが必要になります.したがって,ド ル建債券の利子率上昇によって,AA 曲線は上方にシフトすることになります. ドル建債券の利子率が低下する場合は,反対に AA 曲線は下方にシフトします.なぜ そうなるのか,自分で考えてみるとよいでしょう. 86 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 図 5.12: AA 曲線のシフト(ドル建債券の利子率の上昇) 図 5.13: ドル建債券の利子率の上昇の効果 円=ドル・レートに関する予想の変化 将来の円=ドル・レートに関する人々の予想が変化する場合も,AA 曲線がシフトし ます.先ほどと同じ図 5.12 および 5.13 を用いて,Q01 点を例にとって考えてみましょう. 今,人々が将来の期待レートを 102 円へと上方修正したとします.これによって,図 5.13 においてドル建資産の期待収益率曲線が上方シフトしますので,もはや 1 ドル 100 円で はドルの需給は均衡しません(金利平価は成立しません).同じ GDP(=同じ利子率) のもとで外為市場を再び均衡させるには,今日の円=ドル・レートがより高くなる(102 円)必要があります.これは,Q01 点が Q11 点へと上方に移動することを意味します.Q2 点や Q3 点についても同様に,より高い円=ドル・レートが対応するようになります.し たがって,円=ドル・レートの将来予想の上方修正は,AA 曲線を上方にシフトさせるこ とになります. 将来の期待円=ドル・レートが下方修正される場合は,AA 曲線は下方にシフトします. 5.5. 為替レート・GDP を変化させる要因 87 中央銀行による貨幣供給量の変化 AA 曲線の上方シフトは,中央銀行が貨幣供給量を拡大することによっても起こりま す.ここは,図 5.12 および 5.14 を用いて,Q01 点を例にとりましょう.日本の実質貨幣 供給量の増加によって円建資産の利子率が 0.03 へと低下するため,円建債券の収益率は ドル建債券のそれを下回ることになります.これが大量のドル建債券需要を誘発し,ド ルの超過需要を発生させます.同じ GDP のもとで再び外為市場が均衡するためには,よ り高い円=ドル・レート(102 円)が対応する必要があります(なぜなら,そうすればド ルの期待増価率が縮小してドル建債券の期待収益率が低下し,再び円建債券の収益率に 等しくなるからです).Q02 点や Q03 点についても同様に,より高い円=ドル・レートが対 応するようになります.したがって,中央銀行による貨幣供給量の拡大は,AA 曲線を上 方にシフトさせることになります. 図 5.14: 貨幣供給量拡大の効果 貨幣供給量が縮小される場合は,AA 曲線は下方にシフトします. 物価水準の変化 すでに 3.7.2 節で見たとおり,物価水準の下落は実質貨幣供給量を拡大します.した がって,AA 曲線に対しては,上で説明した貨幣供給量の拡大と完全に同じ効果を持ち ます.すなわち,AA 曲線を上方にシフトさせます.一方,物価水準の下落は実質貨幣供 給量の縮小を引き起こし,AA 曲線を下方にシフトさせます. 5.5.2 DD 曲線をシフトさせる要因 図 5.5 の DD 曲線は,企業の投資需要が 100,政府の需要が 50 であるとき,外為市場 と資産市場を均衡させる GDP と為替レートの組み合わせを表したものでした.したがっ て,この DD を描くときに前提とした企業の投資需要や政府の需要が変化すれば,再び DD 曲線を描きなおさなければならない,すなわち DD 曲線がシフトすることになりま す.以下,それぞれの変化が DD 曲線をどう変化させるかを見ていきましょう. 88 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 投資需要の変化(← 企業家の将来予想の変化) 総需要を分析する際,投資需要が一定とされていることを強調しました.したがって, 企業家の将来予想が変化して投資需要が拡大/縮小すれば,DD 曲線も変化することが予 想できるでしょう.図 5.15 および 5.16 を用いて,投資需要が増加する場合の効果を確認 してみましょう. S10 点を例にとります.投資需要が増加すると,もはや S10 の組み合わせでは製品・サー ビス市場は均衡しません.なぜなら,図 5.16 からわかるように,投資需要が増加した分 だけ総需要曲線が上方にシフトし,700 の GDP および 100 円の円=ドル・レートのもと では供給を上回ってしまうからです.同じ円=ドル・レートのもとで再び需給を一致さ せるには,増大した総需要を満たすようにより高い GDP(800)が対応する必要があり ます.S20 点についても同様に,102 円という円=ドル・レートに対して,需給を一致さ せるにはより高い GDP が必要になりますので,結果として DD 曲線は右方にシフトす ることになります. 反対に,企業家の将来予想が悪化して投資需要が縮小する場合には,DD 曲線は左方 にシフトします. 図 5.15: DD 曲線のシフト(投資需要の増加) 図 5.16: 投資需要増加の効果 5.5. 為替レート・GDP を変化させる要因 89 政府支出の変化(← 政策判断の変化) 政府が政策判断を変更して政府支出を増加するような場合も,DD 曲線は右方にシフ トします.ロジックは投資需要の場合とほぼ同じです.すなわち,政府支出の増加によっ て総需要曲線が上昇してしまうため,もとの GDP と円=ドル・レートの組み合わせでは 供給が不足してしまいます.再び需給を均衡させるためには,同じ円=ドル・レートに対 してより高い GDP が対応し,増えた分の総需要を満たさなければなりません.したがっ て,政府支出の増加によって DD 曲線は右方にシフトするのです.むろん,政府が支出 を縮小させる場合は,DD 曲線は左方にシフトします. アメリカの GDP の変化 アメリカの GDP の変化は,アメリカの日本製品への需要(=日本の輸出)の変化を 通じて DD 曲線に影響を与えます.すなわち,アメリカの GDP の増加は日本の輸出を 増加させ,日本製品への総需要を増加させます.再び均衡を取り戻すためには,同じ円= ドル・レートにより高い GDP が対応し,米国によって増えた総需要を補う必要がありま す.したがって,DD 曲線は右方にシフトすることになります.他方,アメリカの GDP が縮小する場合には,DD 曲線は左方にシフトします. 以上の考察は以下の表のようにまとめられます. AA 曲線 DD 曲線 円=ドル・レート GDP ドル建債券の 利子率の上昇 上方シフト 不変 上昇(円安) 拡大 予想円=ドル・レートの 上方修正 上方シフト 不変 上昇(円安) 拡大 貨幣供給量の拡大 上方シフト 不変 上昇(円安) 拡大 物価水準の上昇 下方シフト 不変 低下(円高) 縮小 投資需要の拡大 不変 右方シフト 低下(円高) 拡大 政府支出の拡大 不変 右方シフト 低下(円高) 拡大 アメリカ GDP の拡大 不変 右方シフト 低下(円高) 拡大 5.5.3 背後で何が起こっているのか ここまで,ドル建債券の利子率の上昇や企業の投資需要の拡大が均衡円=ドル・レー トや均衡 GDP にどのような影響を与えるのかを,グラフの上で確認してきました.最 後に,ドル建て債券の利子率や投資需要の拡大が,どのようなメカニズムを経て所期の 結果をもたらすのかを確認しておきましょう. ドル建債券の利子率が上昇すると,ドル建債券の予想収益率が円建債券のそれを上回 るため,人々は円建債券を売ってドル建債券を買おうとします.これに伴って大量の円 売り・ドル買いが発生するため,円=ドル・レートは上昇します(円安).ところで,円 安によって米国人にとって日本製品が割安になり,日本人にとって米国製品が割高にな るため,日本製品への需要が拡大します.これによって総需要が生産を上回るため,企 業の在庫が減少し,企業は次期から生産を増やすことになります.こうして,ドル利子 率の上昇は円=ドル・レートの上昇(円安・ドル高)と GDP の拡大をもたらすのです. 90 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 ドル建債券の利子率の上昇 ⇒ ドル建債券の予想収益率 > 円建債券の収益率 ⇒ ドル買い・円売り ⇒ 円=ドル・レートの上昇(円安・ドル高) ⇒ 輸出増・輸出減 総需要の増加 ⇒ 企業の在庫減 生産の増加(GDP の増加) 中央銀行が貨幣供給量を増加させると,人々は余分な貨幣を減らそうと債券を購入し ようとするため,円建債券の価格が上昇し利子率が低下します.円建債券の利子率の低 下によって,ドル建債券の予想収益率が円建のそれを上回るようになり,外為市場で円売 り・ドル買いが生じます.これによって円=ドル・レートが上昇します.円=ドル・レー トの上昇は日本製品を相対的に割安にするため,日本製品への総需要を拡大します.需 要増によって在庫減に直面する企業は,次期以降生産を増やすことになります.こうし て,貨幣供給量の増加は円=ドル・レートの上昇(円安)と GDP の拡大を引き起こすの です. 企業家の将来予想が好転し,投資需要が増加すると,その分製品・サービスの生産が不 足します.今期は在庫を放出することで対応した企業も,時期以降は在庫を減らすこと のないよう生産(GDP)を増加させます.生産の増加は貨幣市場において貨幣の需要を 増加させるため,人々は不足分の貨幣を入手すべく手持ちの債券を売却しようとし,債 券価格が低下し利子率は上昇します.円建債券の利子率上昇によって,ドル建債券の予 想収益率は円建債券のそれを下回ることことなり,外為市場で大量のドル売り・円買い が生じます.そうして,円=ドル・レートは低下します.こうして,投資需要の増加は円 =ドル・レートの低下(円高)と GDP の拡大を招くのです. 5.6 完全雇用と財政・金融政策 前節では,外国為替市場・資産市場・製品市場が相互作用する状況で,最終的にどの ような GDP および為替レートが実現されるかを見ました.そこでの議論から明らかな ように,2 つの変数は,(1) ドル(および円)の需給,(2) 貨幣(と債券)の需給,そして (3) 製品・サービスの需給を一致させるような水準へと誘導されていきます.このことを 裏側から見れば, 「マクロ経済の均衡では,ドル,貨幣,製品・サービスの需給は一致し ている」ということになります.すなわち,いずれも人々は持ちたいだけ持つことがで きており,必要以上に持たされたり,足りなかったりすることはないのです. しかし,以上の話を裏返せば,これまで考えてきたような短期的視野から経済をみた とき,これ以外の市場における需給が一致している保証はないことになります.上記 3 つ以外で重要な市場に,労働市場があります.そこでは労働サービスが取引されており, 働きたいという人(労働の供給者)と雇いたいという人(労働の需要者)が雇用契約を 結んでいます.短期のマクロ経済均衡において労働市場の均衡が保証されていないとい うことは,働きたいのに職がない人が存在したり(=需要が供給を上回る),労働者が不 足している企業が存在する(=供給が需要を上回る)可能性があるということです.図 5.17 を見てください.今,もろもろの条件から日本の均衡 GDP が 700 兆円,均衡円= ドル・レートが 100 円であるとしましょう.一方で,今,働くことを希望する人が 5000 万人おり,この 5000 万人を全て雇うと 800 兆円の生産が可能となるとします.しかし, 5.6. 完全雇用と財政・金融政策 91 この経済では 700 兆円しか生産しませんから,5000 万人全員を雇う必要はありません. 仮に一時的に全員雇って無理やり 800 兆円生産したとしても,すでに見たとおりやがて 700 兆円に向かって生産は減少し,その過程で過剰な分の労働者は解雇されるでしょう. したがって,結局 GDP で見て 100 兆円分の労働者は,働きたいにもかかわらず職を得 られないことになります. 図 5.17: マクロ経済均衡と完全雇用 GDP マクロ経済均衡を見つけるこれまでのプロセスを思い返せばわかるように,ドル(と 円),貨幣(と債券),製品・サービスの需給を一致させる GDP が,5000 万人の労働者 全てを雇用するのに十分なもの,すなわち完全雇用 GDP(あるいは潜在 GDP)に一 致する必然性はありません.したがって,マクロ経済均衡が完全雇用 GDP に偶然一致 していれば皆が職を得ることができますが,そうでなければ失業者が発生したり,人手 不足で残業を強いられたりすることが常態化することになります.そこで,政府は何ら かの対策を打つことができないかと考えるわけです. ここで,前節で,諸々の条件が変化すればマクロ経済均衡(均衡 GDP および均衡円= ドル・レート)も変化し得ることを確認したことを思い出してください.すなわち,期 待円=ドル・レートや貨幣供給量が変化すれば,マクロ経済の均衡自体が変化し得るの です.そこで,たとえば図 5.17 のような状況下であっても,均衡 GDP が拡大するよう なショックを人為的に発生させることができれば,失業を緩和することが可能となりま す.図 5.18 の左側のように,AA 曲線を右側に動かすことができれば,この経済の均衡 自体を完全雇用に近づけることができます.あるいは,右側の図のように DD 曲線を動 かすことによっても,経済の均衡と完全雇用とを近づけることができます. 問題は,このような変化を政府がコントロールできるかどうかです.ここで,AA 曲 線・DD 曲線を右側にシフトさせる要因を思い出してみましょう. AA1 AA2 AA3 AA4 DD1 DD2 DD3 ドル利子率の上昇 予想円=ドル・レートの上昇 貨幣供給量の増加 物価水準の低下 投資需要の増加 政府支出の増加 アメリカの GDP の増加 この中で,たとえば日本政府が米国の利子率を操作したり,人々の予想をコントロー 92 第 5 章 マクロ経済の均衡:為替レートと GDP の同時決定 図 5.18: 均衡の変化と完全雇用 GDP ルしたりすることは考えにくいです.また,同様に企業家の将来予想をコントロールし て投資需要に影響を与えるようなことも難しいでしょう.したがって,政府が直接操作 可能なものは AA3 と DD2,すなわち貨幣供給量と政府支出ということになります.す なわち,政府・中央銀行は貨幣供給量や政府支出を変化させることによって,経済の均 衡 GDP を完全雇用水準に近づけることができるのです.政府支出を変化させることを 「財政政策」,貨幣供給量を変化させることを「金融政策」と言います.