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靑山學院女子短期大學 紀要 第 65 輯(2011)
青山壁画プロジェクト
― 実施報告およびパブリックアートの観点からの考察 ―
趙 慶姫
〔キーワード〕落書き,壁画,プロジェクト,パブリックアート
はじめに
青山学院の敷地に隣接する六本木通り擁壁の落書きは長く放置されていた。粗大ゴミの不法
投棄も後を絶たず,通行者や近隣の住民にとって快適とはいえない環境であった。擁壁は学院
敷地下に道路を通すために掘り下げた部分であり,東京都の管理下にあるが,学院の塀と繋が
り,擁壁上部の高等部や中等部,高速道路上のテニスコートとそれに続く初等部など,学院の
敷地・施設と一体化した景観を呈しているため,落書きはキャンパスの外観を損ねるものであっ
た。
2007 年に東京都側からこの落書き消去を持ちかけられたことをきっかっけに,2010 年度,
青山学院女子短期大学開学 60 周年を記念して「青山壁画プロジェクト」が企画され,2011 年 3
月,学生部主催の課外活動として,学生ボランティアによる落書きの消去・壁画制作が行われた。
本稿はこのプロジェクトについての実施報告および考察である。完成した壁画は環境アート
として周辺の景観の重要な要素となっているが,単に公共空間にあるというだけでなく,プロ
ジェクト実施の経緯からもパブリックアートとして位置づけられることから,その観点からの
考察を試みる。
1.プロジェクトの背景
1)六本木通りと青山トンネル
六本木通り(東京都道 412 号霞ヶ関渋谷線)と,並行する首都高速 3 号渋谷線は,1964 年に
開催された東京オリンピックを前に整備された道路で,女子短期大学と高等部のテニスコート
の下を通過する青山トンネルを含め,道路北側(高等部・中等部側)約 240m と南側(初等部
側)約 160m が青山学院の敷地と接している。本学と接するもう 1 本の主要道路・青山通り(国
道 246 号)は,渋谷から表参道交差点の間に文化施設やファッションビルが立ち並び,学院正
門を利用する学生達も含め,歩行者が多い。一方,六本木通りは並行している地下鉄がないた
め,バスや車の通行量が多い。高架の高速道路は渋谷からの土地の隆起に伴って地下に潜り,
青山学院附近で一般道路と同じ高さに並ぶため,この一帯は空に向かって開放的な景観になっ
ているが,道幅の広さと,高速で通過する車の流れによって,両側の歩道を歩く人の流れは分
断されている。
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趙 慶姫
青山トンネルは北側の長さが約 110m,南側は 90m で,トンネル内の歩道は昼間でも暗い。
歩道は車道より高く設けられその分,天井が低い。幅が狭いため,車がすぐ脇を通過するよう
な感覚を覚える。閉塞感,車の騒音や排気ガス,歩道を走り抜ける自転車によって,
歩行者にとっ
て不快な空間である。1964 年はまさに日本のモータリゼーションが始まった時代であったが,
当時の道路整備がいかに車主体であったかを思いおこさせる歩道である。
2)落書き
このトンネル内壁,およびトンネル外部の擁壁は全面に落書きされていた。いわゆる「タグ
(tag)
」と呼ばれるスプレーペンキなどで描かれた文字列やマークである。トンネルを通り抜
け,明るくなってほっとした歩行者の目に飛び込んで来る歩道脇の壁一面の落書きは,不快感
を一層強めるものであった。
この「タグ」は,1960 年代末のニューヨークで,貧困層の若者達による存在証明であるス
トリートアートとして発祥した「グラフィティ(graffiti)
」と呼ばれる落書きの一種で,グラ
フィティの中で最も簡易的なものであり,暴力的な行為をするグループの縄張りの誇示や,暗
号としても用いられた。グラフィティの中にはしだいに表現のレベルが高まり,アートとして
評価,支持されるものも現れ,ライターの中から前衛芸術家やイラストレーターを生み出した。
一方,犯罪としての側面が問題視され,警備の強化,落書きを消す技術の発達,グラフィティ
を描くスプレー缶の販売規制などによりニューヨークでは下火になるが,1980 年代にはアメ
リカ全土,世界中へと広がった。ヒップホップ文化の重要な要素とされている。
日本では 1980 年代に暴走族による落書きが多発していたが,90 年代からはヒップホップ文
化への憧れからグラフィティが増えていった。しかしその多くはタグである。もちろん違法行
為であるから短時間ですますために手の込んだ描写ができないという理由からであるが,特に
日本においては、グラフィティが発祥したアメリカの社会背景などには関心がない,単なる流
行の便乗,ストレス発散のための落書きにすぎない,信念や意欲を伴う表現行為に至っていな
いものが多いことが,タグが多い主な理由であると考えられている1)。
落書きの中にもアートといえるものがあるかどうかは別の議論として,少なくとも無許可の
落書きは犯罪である。落書きそのものは犯罪として重いものではないが,一つの落書きが汚
すことに対する心理的抵抗を小さくし,また刺激を与えることから他の落書きを誘発する。
さらに,あきらめによる落書きの放置は,その地域の住民や利用者が環境に関心を持たなく
なっていることのサインとなり,他の反社会的な行動や犯罪を引き起こしやすい状況をつく
る。「もしある建物の一つの窓が割られ『修理されないまま放置されれば』残りの窓は全部す
ぐに割られてしまうだろう。割れたまま放置された一枚の窓は,誰もケアしていないこと,
窓を割ることになんのコストも伴わないことの象徴である。
」という有名な「割れ窓(Broken
Windows)
」論文は,軽微な犯罪の放置が犯罪の連鎖を起こすという理論であるが,落書きも
治安を悪化する要因とみなされて,各国で取り締まられている2)。
日本においては他者の所有物や公共物に対する落書きは,以前は軽犯罪法,建造物損壊罪や
器物損壊罪が適用されていた。その後,落書き防止条例が,都道府県レベルでは 2001 年に奈
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良県が,政令指定都市では 2002 年に仙台市が初めて制定し,現在多くの自治体で制定されて
いる1)。
3)落書き消去支援活動
落書きを防止する対策として前述のような法律・条例が強化されたが,適用することは困難
な場合が多い。そこで落書きを消去する活動が行政の取り組みとして,また自治会や商店街な
どの町単位でも行われている。
東京都では 2004 年から東京都青少年・治安対策本部が落書き消去事業を行っている。都内
の刑法犯認知件数はピークの 2002 年以降,減少しているが,都民生活に関する世論調査の「都
政への要望」では「治安対策」が 2010 年現在 6 年連続で 1 位となっており、体感治安の改善が
都政に求められている。落書き消去活動は地域が一体となって取り組むことで,参加者の連帯
が強まり,地域の防犯力の向上・犯罪減少につながることから治安対策の一環として取り組ま
れている。
事業を始めた 2004 年から 2007 年まで,東京都が主体となった 9 件の落書き消去モデルを紹
介するキャンペーンを展開している。2008 年からは,区市町村や警察署等が主体となり,地
域住民等のボランティアが取り組む落書き消去活動に対して 2 年間で 32 件の支援を行ってお
り,落書き消去マニュアルの作成とホームページでの公開,2009 年には落書き消去活動シン
ポジウムの開催など,活動の普及を図っている。
警視庁は東京都の落書き消去支援活動と一体となって活動を行ってきたが,2009 年から落
書き消去や清掃・公園の花壇づくり等を自治体,地域,ボランティア,学校等の街ぐるみで取
り組む「景観対策」を推進しており,
「犯罪を起こさせないまちづくり」の一環として警視庁
主体の落書き消去活動も始めている3)。
2.プロジェクトの実施報告
1)プロジェクトの発端
2007 年,東京都青少年・治安対策本部と東京都第二建設事務所から青山学院に対して青山
トンネルの壁画制作の依頼があった4)。青山学院管理部作成の記録『第 1 回青山トンネル壁画
打合せ』によると 12 月 18 日,両者と学院側,合わせて 8 名が出席した打合せが行われている。
「作業の概要」「留意点・問題点」が記され,最後に「学生部5),短大学生課より,実際作業が
できそうか(意思があるのか)確認してもらう。できそうであれば,……手続きを進めてもら
う」とある。
この後,各設置校に話が持ちかけられたが,セカンダリーは生徒・児童の安全・健康面から
交通量の激しい道路での作業に問題があるとして不参加を決め,大学美術部は学生の意欲はあ
るものの意見がまとまらず,女子短期大学では学生課から芸術学科に打診があり,当時非常勤
講師であった筆者の耳にも入ったが,はっきりとしないままうやむやになっていたようであっ
た。
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2010 年 4 月,女子短期大学では 2012 年改組の計画が進められていたが,学院執行部には改
組以前に芸術学科廃止という意見があったことから,学科の存在意義をアピールする必要があ
ると考えた阿久津光子教授がこの壁画の話を復活させることを思い立った。同教授の案は芸術
学科の学生作品を,環境アートを研究分野とする筆者(2008 年,芸術学科に着任)が壁画と
してアレンジし,学生ボランティアを募って制作するというものであった。改組以前の学科廃
止はスケジュール的にあり得ないであろうと思いながらも,改組により学科がなくなることは
ほぼ確実で,芸術と名のつく学科が本学に存在した教育成果を何らかの形で残すことは意義が
あると考えて,この提案に賛同し,進めることになった。
2)交渉・調整
前述の記録にある東京都青少年・防犯対策課の連絡先に壁画制作の可能性を問い合わせたと
ころ,数日後に渋谷警察署から連絡があり,その後,東京都建設局道路管理部の確認等を経て,
7 月,渋谷警察署から落書き消去と壁画制作の支援の内諾を得た6)。渋谷警察署にとって目と
鼻の先にあるこの場所の落書きは,かねてから問題だったらしく担当者に熱意が感じられた。
実施時期としては,学生参加が可能なのは長期休暇中であるが,夏の暑さは学生の健康面か
ら望ましくない一方で,春休みは行事が多く難しい点もあるとはいえ,2010 年度が女子短期
大学開学 60 周年であることから,年度中の実施により記念行事としての意味づけも生まれる
ため,2011 年 3 月を目指すこととした。学生ボランティアの参加には壁画制作を学生部主催の
課外活動として位置づけることが適していると考え,こうした内容で学長に企画を打診し,記
念行事にふさわしい短大全体の取り組みとするよう,美術系実技教員の家政学科・奥村健一教
授,子ども学科・久保制一教授を加えた 4 名でプロジェクトを立ち上げたのが 8 月の初めであっ
た。
それまで筆者が渋谷警察署との交渉を行っていたが,11 月初めに渋谷警察署の担当者が来
校し,事務部長,学生課長と面談し,事務的な交渉を学生課が行うことになった。この間に,
渋谷警察署が落書き消去および壁画制作を考えていたのは青山トンネル外の歩道壁面のみでト
ンネル内部は含まないことが判明したが,トンネル内部は作業環境が非常に悪く,むしろ周辺
環境への影響が大きくアピール度も高い外部壁面のみに限ることには異論もなく,同意した。
この後,渋谷警察署側は道路を所管する東京都第二建設事務所の許可を,青山側は学院本部
の許可を得るが,その間のやり取りの中で,警視庁に加え,東京都青少年・治安対策本部の落
書き消去支援活動からも資材の提供・技術指導を受けることが決まった。
3)企画案7)
■プロジェクトの概要
場 所:東京都渋谷区渋谷 4 丁目 六本木通り,青山トンネルの北西側擁壁 約 56m
日 程:落書き消去・下塗り /2011 年 2 月 25 日
壁画制作 /2011 年 3 月 4 日,7 日∼11 日
参加者:落書き消去・下塗り / 渋谷警察署,常磐松町内会,女子短期大学学生・教職員,青山
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青山壁画プロジェクト
学院初等部生8)
壁画制作 / 女子短期大学学生・教職員
■ボランティアで壁画を制作する意義
現在,青山キャンパス再開発が行われているが,キャンパス内部だけに限らず周辺の環境美
化に力を注ぐことは,
「地域との共生」という学院の姿勢を示す一つの方法といえる。また学
生がボランティアで公共環境美化にたずさわることの意義はもとより,芸術性のある壁画制作
への参加は,貴重な体験であり,教育的効果が高い。さらに青山トンネル歩道は西門,高等部
門側から六本木方面行きバス停へのアクセスなどに利用されるため,この空間のアメニティ,
安全性を高めることは学院の教職員,学生,生徒にとってもメリットがある。
■壁画制作のプランの特徴
こういった児童,地域住民のボランティアによる壁画制作は事例に事欠かないが,
多くはコー
ディネーターのもと,ワークショップなどで絵の内容自体を参加者全員で作り上げていく手法
がとられている。この方法では表現行為そのものに参加者が関わるため満足度が高い一方,完
成度の高い作品にするには,まとめあげるコーディネーターの力量が求められ,長い時間と手
間をかけることが必要である。
このたびの壁画制作は,3 年前に滞った反省をふまえ,従来型とは異なる手法をとることが
円滑なプロジェクト進行,クオリティと公共性の高い作品完成を可能にすると考え,3 年前は
学院全体の関わりを模索したためにまとまらなかったことから,女子短期大学単独のプロジェ
クトとし,全学生対象のボランティア活動として学生部が主催することを提案した。
壁画の図案は芸術学科 1 年生が授業で制作した作品を元に,筆者がアレンジ・構成し,壁面
全体をデザインすることを本プロジェクトの特徴とした。その理由としては,①図案作成から
学生を交えたプロジェクトとすると,上記のような難しさがあるが,芸術学科には優れた学生
作品の蓄積があり,それを活かすことができること。②「四季」という課題があり,本プロ
ジェクトのテーマに適していること(当初の打合せの留意点として,公共の場に配慮したテー
。③距離が長く歩道幅が狭く,歩きながら近
マとして「渋谷の四季」などがあがっている9))
い距離で絵を見ることになることから,小さな絵が連続するデザインが適していること。④多
くの作品を繋いでいくという案は,学生間の連帯感を生み,単なる塗装作業のボランティアで
はなく,自ら,または友人,同じ学生の作品が元であるという意識から参加意欲が高まるこ
と。⑤大きな絵の部分でなく,小さな一まとまりを共同で担当して完成させることが,責任
感,達成感を生むこと。⑥絵画というよりデザイン的な色面表現であり,描画技術の有無にか
かわらず参加が可能になること。⑦環境アートの専門家としての著者の経験により,公共性,
芸術性などに配慮した調整が可能であることなどがあげられる。
4)デザイン・下図づくり
■元になる作品の選考
筆者が着任した 2008 年度から 2010 年度までの 3 年間,芸術学科 1 年の必修実技科目「構成Ⅰ」
前期のデザイン課題作品約 400 点の中から,テーマ「四季」にふさわしい作品を各季節 2 点ず
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図 1 元になった学生作品
つ計 8 点選んだ。選考のポイントは季節感がよく表れていること,学生らしい生き生きとした
色使い,ダイナミックな構図,などである。また制作参加を見込む学生の学年構成を考慮し
て,2008 年度 1 年生が専攻科に進学していることをふまえ,各年度が入るように留意した。春
休みという時期の制作参加はやはり 2010 年度の 1 年生が多くなるであろうと予測し,この学年
の作品を最も多く選出した。
アレンジを進める途中で,壁面の長さからもう 1 点加える必要が生じ,季節を「早春」とす
ることにした。壁画の制作時期がまさに早春であることと同時に,大学生活において特別な季
節であり,デザインにストーリー性が生じて効果的であると考えた。
■構図のアレンジ
絵の部分の高さは視覚的な効果および作業の可能性から約 2.2m とし,1 点あたりの幅を 4.5m
から 5m としてプロポーションを決め,トレースした学生作品をトリミングした後,作業性を
考慮して若干のデフォルメ,簡素化を行い,構図を決めた。季節ごとのつなぎは絵の中のモ
チーフを散らすことで,面積あたりの作業量を減らし,かつ水平方向の動きを強調することを
ねらった。
■色彩のアレンジ,塗装色の選択
色彩は重要な要素であり,特に環境への配慮が求められる。塗料の提供を受けるため,色数
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青山壁画プロジェクト
をある程度絞ることにした。学生各自の配色を活かしながらも,共通させることができる色を
選び,全 19 色(下地色を加えて 20 色)を決定した。
次に塗料の色見本で実際の塗装色を決めるのだが,これが難しい作業だった。調合色であっ
ても,塗料の場合は印刷インクのような自由な発色は望めない。元の作品のイメージをなるべ
く忠実に再現できる色を選んだが,途中,渋谷警察署を通して,東京都第二建設事務所からの
要望が伝えられ,その内容が,都の広告条例に基づいて,壁画のデザインを地味なもの,心が
和むものにということであったため,色彩の彩度を少し下げた。その後,色塗料を提供する東
京都青少年・治安対策本部から既製塗料の色見本が届き,必ずしもそれを使用する必要性はな
かったのだが,なるべく負担を軽くするべきかと配慮して,結果,10 色を既製色とし,下地
色を含む 10 色を調合色とした(下地塗料は警視庁の提供)。
■下図づくり
デザインを壁面に写し取るため,原寸大の線図を作成し,裏に転写のための色シートを貼る
ことを考案した。コンピュータの描画ソフトでデザインしたものを,線図にし,プロジェクター
でロール紙に映し出し,鉛筆でラフになぞる。その後,清書して原寸大の線図を作成し,この
線の裏に転写用色シートを細く切って貼るという作業である。
本来は,これらの作業にも学生が関わることが望ましいのだが,タイトなスケジュールか
ら,時間的な効率を考慮して,制作に手慣れた教員のみで行った。
5)ボランティアの募集
本プロジェクトの最も重要なポイントである学生ボランティアは果たして集まるのか? 他
の交渉・準備はともかくとして,このことだけは企画者の思い通りにはいかないため,不安で
あった。
1 月の授業開始から学生ポータルにプロジェクトの告知を配信し,同時にポスターを掲示,
1 月 27 日に説明会を開催した。説明会では,9 点の内 1 点について原寸大の着彩見本を紙で制
作したものを披露し,壁画の大きさを実感してもらった。これは説明会のためのみでなく,実
際の現場で壁にあてて,スケール感を確認するために必要なものであった。
これらに加え,教員からの個別の勧誘も功を奏し,全学科から学生の参加申込があり,2 月
末の参加希望者数は,延べ 140 名にのぼった10)。1 学科も欠けることなく全学科から参加があっ
たことが,何よりも本プロジェクトの意義を高めることになった。
6)本制作
■落書き消去・下塗り(2 月 25 日)
落書き消去および下塗りは警視庁の落書き消去活動として渋谷警察署が主体となって行われ
た。女子短期大学からは 3 名の学生と教員 2 名が参加し,渋谷警察署員数名,地元町内会から
の 3 名の参加者が東京都塗装工業組合員の方々から指導を受け,東京都青少年・治安対策課の
担当者らが見守る中,作業を行った。途中,授業の休み時間を利用して 10 名ほどの青山学院
初等部生の参加もあり,半日ほどで下塗りが完成した。
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■壁画作業(3 月 4 日,8 日∼11 日)11)
約 1 週間の予定日は 1 日を除き天候に恵まれ,作業が予定通り進行した。下図を写し取る作
業は地味で大変だが,塗料と刷毛を手にした途端,学生が嬉しそうに作業を始める。決まった
絵を描くことに参加の意義や興味を感じるだろうかという当初の懸念は,楽しそうな,また真
剣な表情の学生を見てすぐに消え去った。これほどの大きな絵を描く機会に恵まれたこと,
真っ
白いキャンバスに徐々に絵が浮かび上がってくることの面白さが何よりも彼女達を夢中にさせ
ていたようだ。
■手直し(3 月中旬∼末)
学生ボランティアによる作業の後,教員による手直し作業を行った。
「学生による」という
プロジェクトの意義からは,本来は学生の作業をもって完成とさせるべきであろう。しかし幾
何学的なデザイン画という絵の性格を考えると,色と色の境界線,モチーフの外形線をシャー
プにすることが,アート作品としてのクオリティを高めることが明らかだった。筆者達が教育
者でありながら表現者でもあることによる作品制作のこだわりが,この作業を行わせたといえ
る。
■コーティング(3 月 29 日,4 月 6 日)
仕上げに透明なコーティング剤を塗布することにより,壁画の上に落書きをされても消去剤
で落とすことができる。壁画制作中も 2 度ほど新たに落書きされたのを色塗料で塗りつぶして
おり,一刻も早くコーティングする必要があった。手直しの進行に合わせて一部を 3 月中にコー
ティングし,残りは 4 月,新学期に入ってからの作業となった。3 月の制作に参加した学生に
加え,新たに参加した学生もいた。
図 2 作業風景:左から 落書き消去・下塗り,壁画作業,コーティング
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青山壁画プロジェクト
図 3 完成した壁画
3.パブリックアートの観点からの考察
1)日本におけるパブリックアートの展開12)
今日,パブリックアートという言葉をよく耳にするが,日本においては「公共空間に設置さ
れている芸術作品」という捉え方が一般的ではないだろうか。
日本のパブリックアートは「彫刻のあるまちづくり」という名の自治体の彫刻設置事業とし
て始まったとされる。野外彫刻展を開催して入賞作品を買い取り,設置するというスタイルは,
1961 年に宇部市から始まり,1968 年に始めた神戸市とビエンナーレ形式で展開された。その後,
既製作品を購入する,オーダーメイドで設置する,彫刻シンポジウムを開催するなど,様々な
方法で 80 年代にかけて全国の都市で展開され,さらに 80 年代後半からブームになる「町おこ
し」「村おこし」により彫刻設置事業は町村までに広がった。その目的も,60 年代は高度経済
成長に伴う公害や無秩序な市街地開発により破壊された都市環境を修景する“都市環境整備”,
70 年代は文化行政ブームのもとでの“文化振興・芸術の普及啓蒙”
,そして過度の中央集権化
が生んだ地方の問題に対する“地域社会の活性化”へと変化していった。89 年をピークに,
バブル経済破綻の中で 90 年代半ば以降,設置事業は急激に激変するが,それまでの日本のパ
ブリックアートとは,自治体における公共事業として野外の公共空間に設置された彫刻であっ
た。しかし,当時これらの作品は「野外彫刻」として認識されており,
「パブリックアート」
と称されていたのではなかった。
彫刻設置事業の彫刻は必ずしも設置場所をふまえて制作されるとは限らず,むしろ初期の作
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趙 慶姫
品発表の機会が乏しかった当時,アーティストは「社会から自律した」作品の発表を目的と
し,都市整備を目的とする事業者との間には思惑のズレが内在していたという。また加速度的
に拡大した設置事業によって,作品の数や設置場所,作品表現の適切性などに対する批判から
「彫刻公害」という言葉も生まれていた。
この彫刻設置事業に代わって 90 年代後半に登場したのが都市開発と一体となった作品設置
である。ニューヨークのバッテリーパークシティにおけるアート導入の成功など,アメリカに
おけるパブリックアートの展開の影響を受け,都市の付加価値向上を目的として展開されたこ
の種のプロジェクトでは,都市空間と物理的に融合する新しいアートのあり方が求められた。
事業を総合的に把握し,目的にあったアーティストを選び,彼らを建築家や造園家とコラボレー
トさせるという,新しい役割を担うアートディレクターの登場によりこれらのアートプロジェ
クトは実現された。首都圏だけでもファーレ立川(94 年)
,新宿アイランド(95 年)
,東京国
際フォーラム(97 年),さいたま新都心(00 年),六本木ヒルズ(03 年),東京ミッドタウン(07
年)と,次々と大規模なプロジェクトが展開され,パブリックアートという言葉が一般化され
るとともに,社会的にも高い評価を受けている。
彫刻設置事業から生じた彫刻公害批判をふまえ,この都市開発型アート事業では,アートに
関する市民の嗜好の多様性に対して,①作品のスタイルに多様性を持たせる,②何らかの都市
機能を与える(照明,車止め,ベンチ,換気塔など),③建築や都市空間と一体化する,といっ
た手法をとっている。設置された作品の中にはすでに「物」として存在しない,建築や造園の
中に埋没させるものも現れている。
2)もの・空間からひとへ
前述の,都市開発型アートプロジェクトの例の中には,事業主体が国や自治体,住宅・都市
整備公団(現・都市再生機構)だけではなく,民間企業も含まれる。あらためていうまでもな
いが,「公共空間」は人びとが自由に利用できる空間であり,私有でも公共空間の場合もあれ
ば,公有でも自由に利用できない空間は公共空間とはいわない。
「公共性」の主要な意味は,①国家に関係する公的な(official)なもの,②特定の誰かでは
なく,すべての人びとに関係する共通するもの(common)
,③誰にでも開かれている(open)
もの,の三つに大別できる13)が,パブリックアートにもこれらの定義があてはまる。
「パブリックアートの『パブリック』が示すものは,物理的な『公共空間』を意味するのに
留まり,ひとびとの日常的な関心とは乖離してしまい,ひとびとの意である『パブリック』は
「創刊にあたって」の中で,
空洞化しています」。これは『パブリックアートマガジン』創刊号14),
日本社会でのパブリックアートという言葉の受容についての文脈で書かれている一文である。
前項冒頭で述べたように,日本においてパブリックアートの「パブリック」を「公共空間」
と捉えがちなのは,作品という「物」を「空間」に置くという,自治体主体の彫刻設置事業を
原型とする,日本特有のパブリックアートの進展ゆえである。これはいわゆる「箱物行政」と
批判される公共事業とある面で共通する。施設建設や設備整備といった目に見える,形として
残るもの,ハードには公金を投入するが,運営のためのシステムづくりや人材育成といったソ
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青山壁画プロジェクト
フトが不充分で相伴わないため,立派な施設が活かされず,維持管理の負担だけがツケとなっ
て残る。ここには「ひと」に対するまなざしが欠如しているといえるのではないだろうか。
『パブリックアートマガジン』の発行者の一人である工藤安代は,パブリックアートはヨー
ロッパおよびアメリカ合衆国を中心として世界の国々で,行政の文化政策として進展を遂げて
きているとし,パブリックアートの公益性について①都市開発や再生事業など都市政策と強い
つながりを持つ文化政策であること,②一般市民の芸術享受の機会を増やす芸術教育策である
こと,③アーティストの作品制作と発表のための芸術支援策であることをあげ,この公益性に
よって行政が公金を充てて実施する公共政策として位置づけられてきたと述べている15)。
パブリックアート超大国であるアメリカ合衆国におけるパブリックアート政策の始まりが,
1930 年代の世界大恐慌下のニューディール時代に,職を失ったアーティストの支援,都市部
のみならず農村地区の一般市民に本物の美術作品を鑑賞する機会を与えるためといった公共的
目的としてであった16)という歴史は,アーティストや市民という「ひと」の存在を第一に考慮
したアート政策であったことを語っている。
パブリックアートにおける「ひと」のもう一つの重要性は,市民がアートを享受するだけで
なく,参加することにある。「日本においてパブリックアートの社会的意義は最近になってやっ
と評価されるようになったが,市民の参加がパブリックアートの必須要素であると認識される
までには時間がかかってきた。このパブリックアートの本質に対する認識の遅れは両国(日本
とイギリス)のもう一つの相違だといえる17)」。この「参加」は,実際の作品制作に関わる場
合もあるが,
「計画段階で住民の意見を聞くことが,すべての局面についてではないとしても,
広く認められている」ことにより,「一緒に創りあげる」という意味である。「日本でも最近
コミュニティを巻き込んだ地域再生プロジェクトがみられるようになってきている」例として
越後妻有などがあげられているように,日本においてもようやくパブリックアートの主役がも
の・空間からひとへ代わってきているといえる。
3)パブリックアートとしての壁画プロジェクト
これらのパブリックアートについての観点から,本プロジェクトについて考察する。
場所が公共空間であることや,材料・道具の大部分を含め様々な支援を公的機関から受けて
いること,作品が道路利用者や周辺住民に快適な環境を提供する公益性,落書きによって破壊
された都市環境の修景が目的の一つであることなどにより,パブリックアートとして位置づけ
られるのはもちろんであるが,本プロジェクトならではの特徴をいくつかあげる。
まず,作品の発生そのものが場の公共性に由来するという点がある。落書き行為者の心理は
「個人の所有財産の損壊は憚られるが公共物に対しては構わない」といったものではないかと
考えられる。というのも,本プロジェクトの対象とした青山トンネル北西側擁壁が手の届く範
囲以上、かなりの高さまで全面に落書きされていたのと同様に,トンネルを抜けた北東側の擁
壁も落書きされているのだが,道路の傾斜に伴って擁壁が徐々に低く狭くなって,代わりに擁
壁上部にある学院の塀が手の届く高さになり,東に向かって約 50m 続く部分には落書きされ
た形跡がなく,落書きの行為者によって,「擁壁」と「青山学院の塀」が明らかに区別されて
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趙 慶姫
いると思われるからである。反社会的な行為の対象がはっきりと明らかで,かつ力を持つ「私
人」青山学院ではなく,「公共」という特定されない,漠然とした,顔が見えない相手である
ことが,罪の意識を軽くして,不満・ストレスの発散としての落書きを安易に行わせているの
であろう18)。この落書きによって発生することになった壁画は,公共性のネガティブな面が生
んだものといえるが,それをポジティブに変換するのがアートであると考える。
次に,このように初めに「場」ありきのアートは,「その場に強い関係性を持っていくこと
を前提とした芸術(サイト・スペシフィックアート)
」であり,「
“場に関わりを持つ”事は,
作品の表現内容のみならず、プロジェクト実現までに様々な社会的背景を持った人々との現
実的な関わりを持つことでもある19)」
。「作品がその場に適切な表現であること,すなわち作品
の“サイト・スペシフィック”なあり方」は,近年,パブリックアートにおいて重視されてい
る20)。本作品は,既存の学生作品を用いながらも,その選定とアレンジにおいて,
「場」の意味,
社会性を十分に考慮しており,サイト・スペシフィックであるといえる。
さらに,プロジェクト参加者について考えてみよう。制作の場こそ公共空間であるが,制作
している間は,プロジェクトという,共通の目的を持つ共同体のメンバーとして,閉じられた
人間関係の中で,等質な価値観のもとに行う共同作業はある意味,公共性とは対極にある行為
といえる。しかし作品が完成してプロジェクトが終了すると同時に,作品は制作者の手から離
れて自律する存在となり,公共性を持つパブリックアートになる。制作者の思惑とは無関係に,
誰もが作品に自由に近付き,勝手に理解し,無視し,時には傷つけるのである。作品を作るこ
と,特にパブリックアートの制作に関わることにより,アーティストであるかどうかは関係な
く,誰もが自分自身と社会の関わりに目を向けることになる。参加者がこのようなパブリック
アートに関わる経験をしたこと自体が,本プロジェクトの最大の成果だったといえるのではな
いだろうか。
もう一つ,制作の公開性ということをつけ加えておきたい。狭い歩道の半分を使った作業
で,歩行者がほとんど触れるような距離で通り過ぎる。予想以上の通行量で,通行の妨げにな
らないように気を配った。中には邪魔に感じる歩行者もあっただろうが,多くの方から励ま
し,感嘆,喜びの声をかけられた。それがプロジェクト参加者の励みになったことはいうまで
もない。
おわりに
「青山壁画プロジェクト」という名称に落ち着いたのは,参加者募集の告知を始めた 2011 年
に入ってからだったか,それまでは 「(仮称)」 と括弧付きの別の名称を掲げていた。何か気の
きいたネーミングをと考えながら結局この名称になったのは,まさに「プロジェクト」という
のにふさわしく,企画の段階が重要だったからである。
本稿の目的は「青山壁画プロジェクト」の記録とそれをパブリックアートという観点から考
察することであった。もう一つの記録の方法として,2011 年 6 月と 7 月に短大ギャラリーで「青
山壁画プロジェクト 紹介展」を開催した。ファインアートの作品であれば言葉による記録は
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青山壁画プロジェクト
必要ないだろう。しかし,パブリックアートのようにプロセスが重要なアートには必要である
と考え,プロジェクトの発案当初から何らかの形で文章にまとめるつもりでいた。本稿を書き
上げて,ようやくプロジェクトを完了したといえる。
しかし,プロジェクトは終わっても作品は残っている。そしてその公共性ゆえ,すでに何度
も落書きをされ,その都度消すということを繰り返している。自然な経年変化であっても,メ
ンテナンスをどうしていくかはパブリックアートにとって非常に重要な問題であるが,本作品
についてはプロジェクトのそもそもの目的から,落書きを放置するわけにはいかない。消去作
業を行うとき,不満のはけ口であろう落書きから伝わってくる,今日の日本社会の閉塞感がか
かえる問題に目を向けざるを得ない。そういう意味からも,本プロジェクトは筆者自身にとっ
てパブリックなアートの実践といえるだろう。
注
1)落書き,グラフィティに関する記述は以下の文献を参考,引用した。
小林茂雄 / 東京都市大学小林研究室編著『街に描く』(理工図書,2009 年)
小林茂雄「落書きはアートなのか」(東京都市大学建築学科小林研究室 HP 掲載 REPORTS)
能勢理子『ニューヨーク・グラフィティ』(グラフィック社,2000 年)
2)
「割れ窓」論文についての引用:G. L. ケリング,C. M. コールズ著,小宮信夫監訳『割れ窓理論による犯
罪防止―コミュニティの安全をどう確保するか』(文化書房博文社,2004 年)
3)落書き消去支援活動に関する記述の参考,引用:東京都,警視庁『落書き消去活動事例集』(東京都青少年・
治安対策本部 総合対策部治安対策課,2010 年)
4)青山学院管理部作成の記録「第 1 回青山トンネル壁画打合せ」
(2007 年 12 月)に「絵を描く作業を青山学
院へ依頼したい」という表現がある。この点について 2011 年 2 月,東京都青少年・治安対策本部から,「当
時の担当者に確認したところ,依頼したのは落書き消去であって壁画制作ではない」という返答があった
が,学院側は壁画制作の依頼を受けたという認識であったことからこのように記述した。
5)学院大学学生部。
6)この時点で筆者達は理解していなかったが,東京都青少年・治安対策本部は本プロジェクトの進行を把握
していなく,警視庁独自の落書き消去活動として話が進められていた。その後,東京都の落書き消去支援
活動も本プロジェクトを支援することになった。
7)本項は,拙稿「青山トンネル壁画制作の提案」
(学内提案のための企画書,2010 年 11 月)を元に書き直した。
企画書のタイトルは,この時点ではトンネル内部も対象としていたため。
8)落書き消去と下塗りは渋谷警察署が主体となって計画され,地元町内会と青山学初等部生の参加は渋谷警
察署の要請によるもの。
9)青山学院管理部作成の記録「第 1 回青山トンネル壁画打合せ」(2007 年 12 月)より。
10)雨天中止が 1 日あったことから,また当初の申込に含まれない 4 月のコーティング作業を合わせて,実際
の参加者数は延べ約 130 名。
11)3 月 7 日(月)は雨天のため作業中止
12)本項は以下を参考,引用した。
八木健太郎,竹田直樹「日本におけるパブリックアートの変化に関する考察」
『環境芸術 No. 9』
(環境芸
術学会,2010 年)
竹田「地域とアートのコラボレーション」
『地域とアートのコラボレーション事例研究』
(環境芸術学会,
2007 年)
13)齋藤純一『公共性』(岩波書店,2000 年)はじめに viii∼xi
14)アート&ソサイエティ(現・NPO 法人アート&ソサイエティ研究センター)発行,2007 年
15)工藤安代「現代都市におけるパブリックアートの実践」『パブリックアート再考』
(社団法人日本建築美術
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趙 慶姫
工芸協会,2009 年)
16)工藤・前掲
17)エリザベス・ノーマン「パブリックアート ―日本と英国の場合―」
『パブリックアートマガジン』創刊号,
( )は筆者による補足
18)ストリートアートとしてのグラフィティには対象を公共施設,公共交通機関などとし,個人の住宅や商店
などに描いては行けないという暗黙の規則があるとされていた(ウィキペディアから引用)。グラフィティ
の発祥が貧困層=社会的弱者による社会批判であり,1960 年代後半から 70 年代前半にアメリカの若者の
間に起きた反体制ムーブメントの中に位置づけられることから,公的な権威に対する行為であり,またアー
ティストとしての自覚が一定のモラルを保っていたからといえるだろう。しかし近年の,ストレスの発散
にすぎないような単なる落書きにおいてはそれが守られなくなっており,深夜に人目のつきにくい場所で
あれば所構わずといった状況で,商店街の店舗のシャッターなどの被害が多い。このことから,この場合
の区別はグラフィティの暗黙の規則によるものではないと考える。
19)工藤・趙慶姫「いずみ霊園アートワーク」『環境芸術 No. 3』
(環境芸術学会,2003 年)
20)工藤『パブリックアート政策 ―芸術の公共性とアメリカ文化政策の変遷―』(勁草書房,2008 年)
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青山壁画プロジェクト
Aoyama Mural Project
―Implementation Report and Examination from the
Perspective of Public Art
CHO Kyong Hee
The retaining wall along Roppongi Street adjacent to the Aoyama Gakuin campus
had been left graffiti-covered and spoiled the appearance of the area for a long time.
The “Aoyama Mural Project” to clean graffiti off the wall and decorate it with murals
was implemented by student volunteers of Aoyama Gakuin Women’s Junior College in
commemoration of the college’s 60th anniversary in 2010. Here I make an implementation
report of this project and examine it.
The murals were designed under the theme of “four seasons” based on students’
works. The project was run by the Department of Student Affairs, and the total number
of volunteer students who participated in the project reached 140. For implementation of
this project, the support service of graffiti cleanup by the Metropolitan Government Office
for Youth Affairs and Public Safety and the Metropolitan Police Department supplied the
materials and technical advice to us.
The completed murals now play an important role for the surrounding landscape as
environmental art. As they are considered as public art not only because they are in
the public space, but also because of the process of implementation of this project, I will
examine this project from the perspective of public art.
Keywords: graffiti, mural, project, public art
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