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34.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る (7)眉山 - So-net
34.文豪モラエスの徳島における足跡を辿る (7)眉山 著者: 林 久治 (1)前書き 最近、私(著者の林)はポルトガル人・モラエスを少々研究している。なぜなら、 彼は謎の多い人物であるからである。私はこれまでに、モラエス(1854.5.301929.7.1)に関して、次のような感想文を書いた。 第8回:新田・藤原著の「孤愁」(以後、本Ⅰと書く) 第9回:佃實夫著の「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く) 第 10 回:岡村多希子著の「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」 (以後、本Ⅲと書く) 第 11 回:モラエス著の「徳島の盆踊り」(以後、本Ⅳと書く) 第 12 回:林著の「神戸時代のモラエス」(以後、記事Ⅴと書く) 第 13-14 回:モラエス著の「おヨネとコハル」(以後、本Ⅵと書く) 第 19 回:モラエス著の「モラエスの絵葉書書簡」(以後、本Ⅶと書く) 第 21 回:岡村多希子著の「モラエス:サウダーデの旅人」(以後、本Ⅷと書く) 第 19 回から、「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」の掲載を始めた。第 19 回は「小松島」を、第 20 回は「二軒屋」を、第 21 回は「地蔵橋」を、第 22 回 は「石井」を、第 25 回は「池田」、第 26 回は「鳴門」を取り上げた。今回は、 「眉山」を取り上げる。 モラエスはポルトガル国の海軍中佐と神戸総領事との要職を辞任して、1913 年7 月1日から 1929 年7月1日まで、徳島で暮らした。彼の徳島隠棲の経緯は、第 19 回に簡単に説明したので、今回は省略する。第 19 回の記事は、次のサイトをご覧下 さい。「林久治のHP」内の記事:http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-19.pdf 私は 1942 年に徳島市で生まれ(モラエスが亡くなった 13 年後)、1960 年まで徳 島で育った。私の少年時代の日本や徳島は、現在よりモラエスの徳島時代によく似 ていた。彼の著作で、彼の徳島探訪の様子を読むと、私の少年時代の徳島が懐かし く追想される。「文豪モラエスの徳島における足跡を辿る」のシリーズを始めた理 由は、モラエスが暮らした徳島と、私が育った徳島とを比較検討するためである。 (2)徳島市に現存するモラエスの記念物 今回は、「眉山」を取り上げる。眉山は徳島市民のシンボルである。徳島市街の どこからでも眉山の優美な姿を見ることができる。徳島に隠棲したモラエスは眉山 に抱かれた伊賀町の小さな借家に住み、眉山を間近に見ながら 16 年間を暮らした。 彼が愛した福本ヨネと斉藤コハルの墓は眉山山麓の潮音寺にあった。彼は毎日のよ うに、借家から彼女らの墓に、眉山を見ながら通った。私も、いつも眉山を眺めて 成長し、眉山にしばしば遊びに行った。今回は、私の少年時代の思い出と重ねて、 モラエスの眉山における足跡を辿ってみよう。 2ページの図1に徳島駅から阿波踊り会館までの地図、図2に徳島駅と眉山の写 真、図3に阿波踊り会館と阿波踊り会館の前にあるモラエス顕彰碑の写真を示す。なお、 本文は3ページから記載する。 1 ① 眉山ロープウェイ山麓駅 は阿波踊り会館の5階に ある。徳島駅から新町橋 までの大通りが④元町通 りで、新町橋から阿波踊 り会館までの大通りが⑤ 新町橋通りである。⑥は 潮音寺で、モラエスの墓 がある。 ④ ② 図1.①JR 徳島駅から、 ②新町橋を渡り、③阿波 踊り会館までの地図(21 世紀)。 ⑦ ⑤ ⑥ ③ なお、21 世紀初頭まで、 ⑦に筆者(林)の実家が あった。 図2.左:現在の徳島駅。駅の上に、ホテル・クレメントがある。右:現在の元町通りか ら見た眉山。なお、この部分の標高は 277mであるが、眉山の最高地点は 290mである。 図3.左:眉山山麓にある阿波踊り会館。右:阿波踊り会館の前にあるモラエス顕彰碑。 2 2ページの図1に、JR徳島駅から眉山山麓にある阿波踊り会館までの地図を示 す。途中にある古川病院、元町通り、新町橋、新町橋通りなどのモラエスゆかりの 場所に関しては、次回の「城山」で紹介する予定であるので、今回は省略する。図 2右は、徳島駅から眉山を見た現在の姿である。私は 2014 年 11 月4日、カメラと 「おヨネとコハル」(本Ⅵ)を持って、徳島駅から阿波踊り会館(その5階に眉山 山麓駅がある)に向かった。駅から会館までは、歩いて約 15 分である。 徳島市に現存するモラエスの主な記念物は次ぎの通りである。Ⓐ潮音寺(図1の ⑥)にあるモラエス、福本ヨネ、斉藤コハルの墓。Ⓑ阿波踊り会館の前にあるモラ エス生誕百年記念の顕彰碑。Ⓒ眉山山頂にあるモラエス記念館と彼の銅像。Ⓓ伊賀 町3丁目のモラエス旧宅跡。Ⓔ伊賀町のモラエス通りの案内板。今回は眉山とその 山麓を歩き、これらの記念物とモラエスの足跡を辿ってみよう。これらの記念物を 辿る時、県外の方々には分かり難い場所がある。そこで、阿波踊り会館の案内所で、 徳島市の観光地図を貰い、それらの場所を教えて貰うことをお薦めする。 (3)Ⓑモラエス生誕百年記念の顕彰碑と、Ⓒモラエス記念館 1954 年(昭和 29)7月1日、当時の徳島市長・長尾新九郎はモラエス生誕百年を 記念して彼の顕彰碑を潮音寺に建設した。この碑は4度移転し、現在は阿波踊り会 館前の広場に置かれている(図2右)。その碑文は次ぎのような内容である。 ウエンセスラオ・デ・モラエスは一八五四年ポルトガルのリスボンに生まれ海軍中佐マカ オ港務副司令を経て神戸総領事となった。大正二年その職を辞して亡妻ヨネの郷里である 当市に来たりヨネの姪コハルと共に純日本的生活に浸りながら文筆に親しんだがやがて同 女とも死別の後は両人の追慕と著述に孤独の余生を送り一九二九年(昭和四年)7月一日 に逝去した。著書に「日本精神」「徳島の盆踊」「おヨネと小春」等二十冊あり「日本の 魂に取替えた人」と評される程日本を心から愛し「故国の銀河を遠く離れて燦と輝く明 星」と讃えられた。麗筆でわが国の文化や人情風俗などを広く海外に紹介した。碑の付近 一帯は翁が朝夕好んで逍遥したゆかりの地である。 昭和 29 年7月1日、徳島市長・長尾新九郎 阿波踊り会館の5階は、眉山ロープェイの山麓駅となっている。ロープェイに乗 って眉山山頂に着くと、山頂駅の中にモラエス記念館がある。ロープェイの乗車券 があれば、モラエス記念館の入場料は無料になる。私は 2013 年5月にモラエス記念 館を訪れ、第8回:新田・藤原の「孤愁」/fを書いた。そこで写真 8.2 と写真 8.3 を用いで記念館を紹介した。従って、今回はモラエス記念館の紹介を省略する。な お、眉山山頂にある「モラエス記念館」と「モラエス像」の簡単な由来を以下に記 載する。 1954 年(昭和 29)7月1日:モラエス生誕百年を記念して、彼の顕彰碑を潮音寺に建設。 1957 年(昭和 32)12 月 1 日:眉山ロープウエイ開業。 1976 年(昭和 51)6月 14 日:眉山ロープウエイ山頂駅内に「モラエス館」が完成。 1999 年(平成 11)7 月:阿波踊り会館が開館。5階に眉山ロープウエイ山麓駅を設置。 2004 年(平成 16)10 月 18 日:眉山山頂にて「モラエス像」の除幕式。 3 (4)Ⓐ潮音寺にあるモラエス、福本ヨネ、斉藤コハルの墓 阿波踊り会館の隣にある潮音寺(図1の⑥)に、モラエス、福本ヨネ、斉藤コハ ルの墓がある。場所が少し分かり難いので、会館の案内所で道順を聞くことを勧め る。三人のお墓は、第8回:新田・藤原の「孤愁」/fの写真 8.8 と、第 13 回:モラ エス著の「おヨネとコハル」/fの写真 13.3 で紹介したので、今回は図4右に小さい 写真を掲載することに留める。 図4.左:筆者(林)が少年時代に見たモラエスの墓。墓石を廻すと、斉藤コハルの名前 が正面を向く。右:潮音寺(図1の⑥)にあるモラエス(中央)、福本ヨネ(右)、 斉藤コハル(左)の墓。モラエスの墓は傷みが烈しいので、1993 年にポルトガルの 大理石で新調された。モラエスが建てた福本ヨネの墓は、当初は三段組、灯篭、玉 垣がついた立派なものであったが、移転の際に他の墓と同じ構造に調整された。 三人の関係は、第8-14 回の記事で紹介したが、ここで第 13 回の記事/fから抜 粋して紹介してみよう。 ①モラエスは 1898 年から 1913 年まで、ポルトガルの神戸領事を勤めた。この間、 彼は徳島市出身の芸者・福本ヨネ(1875-1912.8.20)を身受けして同棲していた。 ヨネは日本的な美人で、彼は彼女をこよなく愛し、彼の人生で最も幸せな時期を過 ごした。それ故、彼は公務と文筆活動に嬉々として精励することができた。私は、 次ぎのサイトで第 12 回:神戸時代のモラエス/fを詳しく紹介した。 ②ヨネは体が弱く(長年、心臓脚気を患っていた、と言われている。)、1912 年8 月 20 日に病死した。モラエスは彼女の姉の斉藤ユキに 500 円の大金を渡して徳島市 内に彼女の墓を立てることを依頼した。モラエスはヨネが病床にあった間、斉藤ユ キの長女のコハル(1894-1916.10.2)を神戸の自宅に女中として3年間雇って、ヨ ネの看病をさせた。母国の混乱に加えて最愛のヨネが亡くなったことにより、彼は 極度の神経衰弱に陥り、「自分の死期が近いのではないか」と悩むようになった。 ③59 歳のモラエスは 1913 年7月1日に徳島に隠棲し、伊賀町3丁目の借家で 19 歳 の斉藤コハルと暮らし始めた。不孝なことに、コハルは肺結核に罹り、1916 年 10 月2日に 23 歳で死亡した。彼はヨネの墓の隣にコハルの墓を作り、毎日のように両 人の墓を訪れ、追慕の余生を送った。彼は「私が死んだら、ヨネの墓に入れてくれ 4 ないか」と希望した。しかし、ヨネの親族達は異人の遺骨がヨネの墓に入ることに、 強く反対した。そこで、モラエスの遺骨はコハルの墓に埋葬された。モラエスが両 人の墓を訪れ追慕の余生を送った様子や、モラエスの納骨問題の経緯は、本Ⅵの 「潮音寺の墓地のごみため」で詳細に記載されている。 ④本Ⅵの「着物?それともお金?-着物」と「私の追慕の園で」において、モラエ スはコハルの妹の千代子から慕われていた様子を記載している。しかし、千代子は 人形やおままごとの道具にとりかこまれて、1919 年 11 月 19 日午前 11 時に 13 歳 で死んだ。やはり、結核であった。斉藤コハルの母親のユキは十人近い子供を産ん だが、若死をしなかった子供は二人きりであった。これは、斉藤家の遺伝的欠陥と 貧困な生活が原因であろう。千代子は小学校を卒業して直ぐに、近所の帽子用組紐 製造会社に働きに出された。彼女はそこで結核に感染した。 ⑤人形やおままごとの道具を千代子に買い与えたのはモラエスであった。彼はヨネ とコハルの墓の隣に、千代子の小さい墓を立てた。本Ⅵの「私の追慕の園で」にお いて、モラエスは次ぎのように書いている。私はあばらやと地続きに庭園(と言うよ りミニ庭園)を持っている。だが、私の追憶の園というのは、この庭ではない。もっと遠 くにある別の庭園のことだ。私の追慕(霊魂への追慕)の園は、その思い出が私の頭から 離れることのないあわれな日本人女性たちの遺骨が数にぎり納められた潮音寺の墓地だか らだ。まず。おヨネの墓が立った。数年後、コハルの墓が続いた。こんどは 13 歳の子供 である千代子の番だ。(中略)これらの墓のひとつに寄りかかると、近くにあとふたつの 墓が目に入る。従って、日本だけではなく他の国でもそうであるが、民衆が信じているよ うに、死者たちが夜ふけに墓地のしじまの中で互いに意思の疎通をし合うものならば、こ こに情愛の小さな三角形ができあがることになり、その内側でおヨネとコハルと千代子の 霊は完全に寄りそいあい、各々の住居から出なくとも様々なことを語りあい、こうして未 来永劫にわたって果てしない単調さの気晴らしをすることができるであろう! モラエスは、1913 年に福本ヨネの墓を、1916 年には斉藤コハルの墓を、それから 1919 年に斉藤千代子の墓を立てた。6年間に、彼は親しい女性の墓を3基も立てた ことになる。今回(2014 年 11 月)、私が潮音寺を訪れた目的は、モラエスの墓所 で千代子の墓を探すことであった。残念ながら、予想していた通りではあるが、 1993 年に新調されたモラエスの墓所(図4右)には、千代子の墓はなかった。 (5)モラエスの眉山における足跡を辿る モラエス顕彰碑にあるように、彼は眉山山麓に住み、眉山の山麓や山中を逍遥し、 亡き女性達を追慕していた。しかし、彼は山頂に登った記録を残していない。一方、 私は 1950 年台の少年時代に、友人達とよく眉山に遊びに行った。もちろん、山頂ま で何回も歩いて登った。山頂では、友人達とソ連のスプートニクを見たり(昼間で もよく見えた)、「宇宙の果てはどうなっているのだろうか?」とか「その果ての 向こうには何があるのだろうか?」などと議論をして、自分達の将来に対する夢を 膨らませた。 さて、本Ⅵに「ある散歩での感想」という章(以後、本章と書く)がある。今回 は、本章に従って、眉山の山道を歩いた。本章で(p.131)、モラエスは次ぎのよう に書いている。小春日和のある朝、私はいつものように潮音寺の墓地に行く。二人の親 しい人の墓を訪れると、「町を数時間離れたい、山や野に分け入り草や木のあらゆる野生 の自然に親しく接したい」という思いに急にかられる。こんな気持ちで、墓地から、松や 桜や樫の木々のあいだを縫う細道を通って丘をまっすぐによじ登る。やがて丘の斜面に数 年前に切り拓かれた、平坦とも言える長く幅広い道に至る。この道は、徳島市の一老人の ひとりだけの発意によるもので、彼は散歩を楽しむ同郷人のために自分の財産をおびただ しく費やしてこれを建設させた。 5 図5に、1931 年の眉山付近の鳥瞰図を示す。本章では、モラエスは天神社から眉山 頂上(図5の②)への登山道(図5の③)を利用したようだ。今回、私はモラエス もよく行った大滝山(図5の④)から登山した。図6に、戦前の大滝山の絵葉書を 示す。本Ⅶでは(p.198)、モラエスは図6と同様な絵葉書を妹に送り、「この場所 は、至る所に寺院がある美しい山で、ぼくはよくこのあたりを散歩している。見事な樹木 がある。公園のまん中、下の方に見える家で菓子を食べ、お茶を飲む。」 と書いている。 ② ④ ⑦ ⑧ ⑥ ③ ⑤ ⑧ ③ ① 図5.1931 年の眉山付近の鳥瞰図(徳島文理大学の初三郎式鳥瞰図:徳島・小松島/gより 引用)。①潮音寺、②眉山頂上、③頂上への登山道、④大滝山、その他の番号は文中で説 明する。 図6.戦前の大 滝山の絵葉書。 眉山北麓の大滝 山には御嶽神 社・聖観音堂・ 滝薬師・春日神 社などの神社仏 閣が集まってい る。戦前には大 滝山三重の塔/m や料亭があり、 桜などの観光地 として多くの市 民で賑わった。 なお、三重の塔 は戦災で焼失 し、今はない。 6 今回、私は潮音寺(図5の①)から寺町界隈(図5の⑤)/を通って春日神社(図 5の⑥)に行った。春日神社の前には、有名な湧き水(図7左:錦竜水/2)がある。 モラエスが徳島に住んでいた時代には上水道はなく、徳島市民は眉山山麓からの湧 き水を販売する「水売人」から飲料水を購入していた。本Ⅳの「時鐘、水売り」の 章で(p.90-91)、モラエスは次ぎのように書いている。徳島で変わっているもうひと つのことに飲料水がある。あちこちにある井戸水は飲むことができない。仕方なしに風呂 や洗いものなどに使う。この不都合な原因は、町が位置している沖積層の柔らかい土を通 して海水が浸透することにあるらしい。幸いにして眉山の麓の諸所に良質の泉が湧き出て いる。各戸に出入りの水売人がいる。家に水がなくなると、大きな漢字で「水」と書いた 木片を玄関先にぶら下げる。間もなく水売人がくる。三つの寺院の境内にある三つの泉が 町に水を供給する。従って、一種の講をつくってそれらの寺院につかえる水売人たちは、 不可欠の品物を徳島に供給する使命を神々から与えられた神々の代理人である。 私の少年時代の記憶によると、終戦直後の昭和 20 年台には、寺町界隈も大変荒れ ていた。錦竜水の前には、ホームレスの人々が生活していて、この名水を飲む気持 ちにはとてもなれなかった。経済成長の時代になり、寺町界隈は美化され、現在で は錦竜水を汲みにくる人々が絶えない。 ちなみに、私は春日神社の「氏子」である。私の少年時代に春日神社の周囲には、 「滝の焼餅」を売る茶屋が十数軒も軒を連ねていて、大いに賑わっていた。私は祖 母に連れられて、焼餅をよく食べに行った。当時の値段は、一皿5ケ入りで 50 円く らいであったと思う。「滝の焼餅」は錦竜水を使い、砂糖は阿波名産の「和三盆」 を使っているので、上品な甘さが特徴である。21 世紀になり、春日神社の周辺は大 変さびれてしまい、茶屋の殆どが廃業している。今回、私は三軒の茶屋(よねや、 せと久、和田の屋)しか確認できなかった。(和田の屋/lのサイトは、「滝の焼餅」 の由来や和田の屋の風景を記載している。) 図7.左:春日神社の前にあ る「錦竜水」の湧き口。右: 徳島名物「滝の焼餅」。料金 は、滝の焼餅と抹茶のセット で 650 円。 実は、モラエスが福本ヨネと結婚した経緯は今になっては全く不明である。彼の 死後、彼の借家にあった日記やメモなどの膨大な資料は、徳島県立図書館に「モラ エス文庫」として保存されていた。1945 年7月3日の夕方から4日の未明にかけて、 7 米軍は徳島を空襲した。その結果、徳島市街の殆どは焼失した。モラエスの旧宅、 徳島県立図書館、モラエス文庫も総て焼失した。それ以後、彼の膨大な資料を研究 することは出来なくなった。(ここに、徳島大空襲/lのサイトがあります。) 本Ⅰ(p.255-280)で新田は想像をたくましくして、モラエスが福本ヨネと結婚し た経緯を次ぎのように描いている。福本ヨネが脚気にかかったのは、松島遊郭に芸者と して勤務し出して二年目であった。彼女は芸者を辞めて徳島へ帰って、しばらく静養した 後、芸ごとを女の子に教えながら、昼は焼餅屋に勤めていた。そのことを知ったモラエス は、コートと竹林を連れて明治 32 年(1899 年)3月末に初めて徳島を訪れた。(中略) 徳島に着いた朝、三人は旅館の番頭の勧めで、眉山の三重の塔まで散策に行った。春日神 社の前まで来ると、三重の塔は山の中腹に高々と見えていた。石段の両側にある桜の花は ほとんど満開に近かった。石段を登り出してすぐ左側に滝があった。7メートルほどの滝 を背にして立っている不動明王の祠があった。その前には花や菓子が供えてあった。朝、 三人は徳島に着いたまま、未だ食事をしていなかった。焼餅屋の米善は不動の滝の直ぐ下 にあった。 本Ⅰでは、この焼餅屋に入ったモラエスはそこで働いていたヨネに偶然であい、 初めて近くからヨネの美しさに接して、「どうしても結婚したい」と決意したこと になっている。今回、私は不動の滝とその真下にある焼餅屋「和田の屋」の写真を 撮ってきたので、図8に示す。私にとっても、昔なつかしい風景である。 図8.左:石段の傍にある焼餅屋「和田の屋」。店の右側の石段の奥(矢印の先)に、不 動明王の祠と不動の滝がある。右:石段の上にある不動明王の祠と不動の滝。不動の滝の 動画は、https://www.youtube.com/watch?v=zAy6JNvTB-oにある。大雨の時の水量は驚くほ ど凄い。 不動の滝の奥には、さらに急峻な石段が続いている。右側が白壁で、戦前に三重 の塔があった所である。更に石段を登って行くと、山腹の広場(図5の⑦)に着く。 今回の登りはここまでである。11 月の冷え込みにかかわらず、私は汗びっしょりに なってしまった。ここに神武天皇の銅像が戦前からある。桜の季節には、この広場 に花見の桟敷が作られる。(図9左) 徳島大学の板東さんと真田さんが「眉山の変遷に関する研究」という題で講演を している。彼等の講演集から、大滝山に関する事項を以下に抜粋する。 1895 年:日清戦争戦勝記念として、出軍者が神武天皇像(図9右)を建立した。 1903 年:徳島市議会に対し「大滝山風致保存の議に付建議書」が提出された。 8 1906 年:神武天皇像が現在の地に移された。 1907 年:大滝山公園造園に着手。 1911 年:天野亀吉が,眉山公園の拡張と山道開発を提唱した。 1913 年:天野亀吉が会長となり「眉山公園保勝会」が設立された。 1915 年:眉山公園保勝会は新道(大瀧山公園から瑞巌寺山間)を完成。 出典:板東ゆかり・真田 純子、「眉山の変遷に関する研究」、2010 年 12 月、景観・デザ イン研究講演集 No.6。 図9.左:花見時の神武天皇像前の広場。右:大滝山の神武天皇像。 板東さんらの講演によれば、眉山の大滝山公園は、モラエスが来徳した頃から整 備され始めたことになる。彼は新しい公園を満喫できたわけである。本章(p.133) で、モラエスが書いている「眉山の散歩道を作った一老人」とは、板東さんらの講 演によれば「天野亀吉」氏のことである。天野亀吉は徳島市西新町の豪商で、私が 第 26 回:モラエスの足跡「鳴門」/fで紹介した「撫養航路」も経営しており、1921 年 71 歳で亡くなられている。 眉山公園保勝会が開削した新道(図5の⑧)は、神武天皇銅像前の広場から始ま って、眉山の中腹を回っている。私の子供時代にはこの道は山腹の小径であったが、 昭和 30 年台に自動車道に拡張され、徳島市内から自動車が乗り入れ可能になった。 しかし、現在でも車の通行は稀で、モラエス時代と同様に徳島市民に快適な散歩道 を提供している。今回、私はこの道を歩み、多くの老若男女が散歩やジョギングを 楽しんでいることに出会った。次ページの図 10 には、戦前の徳島市街の写真と、今 回の散策でこの道から撮影した徳島市街の写真を示す。 本章で(p.132)、モラエスは次ぎのように書いている。道は、丘の斜面につけら れていた。従って、片側は粘土質の赤味がかった土をえぐった崖で、木々の葉叢がかぶさ っている。もう一方は、すきとおった青空のもと広大な眺望が広がっている。近くには、 山腹を覆い絶壁を隠す枝葉。下方には、黒ずんだ木の小さな家々が大きなかたまりをなし ている平坦、単調な町の風景。続いて、いくつかの耕地、塩田。それから、日本最大河川 のひとつである吉野川の灰色がかった線、海岸のぼんやりとした輪郭、そしてついに海…。 あたりはほぼ完全な静寂。町の車の走る音、物売りの呼び声、おんどりの声はめったに届 かない。近くの山中では、数羽の鴉が鳴きながら空をよぎるが、それはさらに稀である。 9 図 10.左:戦前の徳島市街(左上の山が眉山)。右:眉山中腹から見た徳島市街(現在)。 街の向こうに、吉野川、紀伊水道、および淡路島が見える。 また、この道には、四国 88 ケ所の寺院の名前を書いた祠が、神武天皇銅像前の第 1番「霊山寺」から忌部神社前の第 88 番「大窪寺」までの約2km の山道に順番に 置かれている。(図 11 参照)それ故、この道は「新四国 88 ケ所」とも呼ばれてい る。(図5参照)「新四国 88 ケ所を数時間かけてお参りすれば、本当の四国 88 ケ 所を巡礼したのと同じご利益が得られる」と言われている。私の少年時代には、こ のような「ミニ四国 88 ケ所」が全国にあり、これらを本気で巡礼する人々が多かっ た。最近は、そのような信仰は無くなっている。 本章で(p.134)、モラエスは次ぎのように書いている。私は相変わらず、こきざ みにゆっくり歩いて行く。こんどは、往時の幼稚なやり方で石くれに荒々しく刻んだ、さ まざまな仏教の神々の小さなレリーフ像にところどころでふと出会い、注意を引かれる。 私の歩いている道は、無数の聖人像が崖のくぼみに安置されているため、参詣地ともなっ ているからだ。それぞれのくぼみの前の木の小箱が、信者が投げ入れる施物(ひとつかみ の米)を受ける。このような場所は日本には、山中に開かれた道に沿って実にたくさん見 られる。主として信心深い老婆たちが、それらの地をよく訪れる。彼女たちは供物用に米 をいっぱい入れた袋を用意し、連祷を唱えながら数多くの群れをなして巡礼して歩く。 図 11.左:眉山新四国・西国霊場案内板。右:比較的に保存の良い、四国第六番「安楽 寺」の祠。 10 「新四国 88 ケ所」の道は、神武天皇銅像から約 1.5km の間、徳島市街を東に見て 続いている。その先に、道は直角に曲がって、徳島市街を南に見るようになる。曲 がり角付近に、大関「吉の川」の石像(図 12 左)がある。本章で(p.135)、モラ エスは次ぎのように書いている。もっとも、私にはこの風景ははじめてというわけでは ない。私は、すでにずっと以前からそれらをことごとく知っている。目の前に開かれてい るのは、きわめて深い小さな渓谷である。下方には野菜畑や今や実った黄金色の穂を地面 にたれた稲が栽培されているのが見える。(中略)一団の家々の間から、下半分までは赤 煉瓦で、上の方は鉄で造られた高い煙突が一本立っているのに気付き、驚く。工場なのか しら?奇妙な工場だ。あれは火葬場、徳島の火葬場なのだ…。 当時の西欧の埋葬は、土葬が普通であった。本章で、モラエスは「日本では火葬 である」と書いて、日本の葬儀の様子を詳しく説明している。図 12 右は、モラエス が徳島火葬場を見た方向を撮影した写真である。(現在は、この地区には火葬場は なく、徳島市川内町に移転している。)私は、この石像までは来たことがあるが、 その先は初めてである。自動車道はこの付近で大きく曲がって、眉山山頂方向と徳 島市街方向に分かれている。今回、私はここから自動車の通れない旧道に入って行 った。そこには 80 番台の四国 88 ケ所の祠があり、忌部神社の手前には、終点の第 88 番「大窪寺」の仏像があった(図 13 左)。 図 12.左:新四国 88 ケ所の曲がり角にある、大正時代に活躍した大関「吉の川」の 石像と阿波力士供養塔。石像は 1957 年に建立された。右:石像付近から見た、眉山 の南方。一番奥の山は、徳島市の最高峰の中津峰山(標高 773m)。 図 13.左:第 88 番「大窪寺」の仏像。右:忌部神社の本殿。 11 今回、私は徳島市の出身でありながら、忌部神社に生まれて初めて参拝した。 (図 13 右)さすがに徳島県の名族・忌部氏の神社だけあって、大変立派である。忌 部神社はモラエスの著作にも登場するが、1945 年の徳島空襲で全焼し、1953 年に再 建されている。忌部神社から二軒屋駅方向に降りる広い石段が続いている。 (6)モラエスの二軒屋における足跡(補足) 私は、第 20 回:文豪モラエスの徳島における足跡を辿る(2)二軒屋/fで、モラ エスの二軒屋における足跡を紹介した。今回、私は二軒屋駅付近にも訪れたので、 第 20 回の紹介文の補足をしたい。第 20 回では、モラエスが「日の出楼」の「和布 羊羹」を愛用したことを紹介した。今回、私は日の出楼を実地に訪れ、和布羊羹 (1本 822 円)を購入してきたので、日の出楼の写真を図 14 に掲載する。 正直に言えば、私は伊賀町にある「モラエス旧宅跡」に行ったことがなかった。 今回、私は初めて彼の旧宅跡を訪問した。所が、私が第8回:新田・藤原の「孤 愁」/fの写真 8.8 で紹介したような旧宅跡が見つからなかった。よく探すと、図 15 左のような貧相な案内所が住宅街の片隅にあるだけであった。1998 年に徳島日本ポ ルトガル協会などがモラエスの胸像を旧居跡に建立したが、旧居跡を所有していた 金融機関が土地を売却したため、2011 年に胸像を新町小学校に移設したそうである。 なお、今回、二軒屋駅付近で、私は林芙美子の記念碑を発見した。(図 15 右) 図 14.左:二軒屋駅付近にある「日の出楼」の店舗。右:日の出楼の店内。 図 15.左:モラエス通りとモラエス旧宅跡。右:二軒屋駅付近にあった林芙美子の碑。 (記載:2014 年 11 月 26 日) 12