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“宮沢賢治さんがたどった道”を訪ねて
2013 しずくいし少年少女歴史教室 第7回 【 “宮沢賢治さんがたどった道”を訪ねて ☆日 ☆場 時 所 】 平成25年11月10日(日) (午前)小岩井農場 (午後)御明神経済農場跡ほか 9:30――中央公民館発 9:40 七ツ森一望の地(盛岡市繋・尾入野) 10:00 JR田沢湖線小岩井駅 10:10 小岩井農場の旧入口 (網張街道を歩く) 【盛岡高等農林時代の賢治さん】 (後列右側) 10:25 小岩井農場旧本部(現・管理部)事務所 11:40 木造の四階倉庫 11:10 賢治さんの「小岩井農場」詩碑 11:50 狼森遠望(小岩井乳業工場Pから) 12:10 昼 13:10 御明神経済農場 13:50 春木場の川原 14:10 作品「化物丁場」の舞台となった田沢湖線沿いの土砂崩壊地 14:40 雫石高等学校校地内の「賢治詩碑」 15:00 食 (御明神公民館)~13:00 跡 及び 中央公民館に帰着 1 第一拓殖訓練所「明真寮」跡 <賢治さんの歩いた道…> 立寄り・遠望場所等 ① 箱が森・南昌山ほか (遠望) ② 七ツ森(遠望) ③ 小岩井駅 ④ 巡り沢 ⑤ 小岩井農場本部 ⑥ 四階倉庫(木造) ⑦ 小岩井農場 賢治詩碑 ⑧ 姥屋敷 ⑨ 鞍掛山詩碑前 ⑩ 網張温泉 ⑪ 西根山(遠望) ⑫ 春木場の川原 ⑬ 高農経済農場跡 ⑭ 雫石高校詩碑 の見どころ 賢治さんとの関わり 等 少年時代の賢治が岩石採集のため好んで歩いた山並み。 賢治が“岩頸列”と表現した箱が森、南昌山、東根山は今、志波 三山としてハイカーの注目を浴びはじめている。 賢治作品に登場する頻度はトップクラスの場所。 「まんじゅう山」 のあだ名も。七つの森の内一つだけ岩石組成の異なる森に賢治さ んは歓喜!現在は町有林、町の公園。今回は「七つの森が一望の 場所」にご案内。賢治は「七つ森」と表記。 大正 10(1921)年国鉄橋場線開業当時そのままのたたずまい を残す貴重な建物である。賢治が小岩井訪問や岩手山登山の時に たびたび利用した。長篇詩「小岩井農場」はここから始まる。 大正 11 年まで小岩井農場の入り口だった所を流れる小川。 明治 36(1903)年建築。小岩井農場のシンボル的建物。 賢治さんそのモダンさから「気取った建物」と描写した。現在も 農場管理部事務所として活躍中。国登録有形文化財。 大正 5(1916)年建築。現在でも珍しい木造四階建て。収穫した 穀物を電動式昇降機で四階に上げ、作業別に階下に降ろしてい く。かつては朝日に輝くのが篠木峠方面からも見えたという。 2001(平成 13)年 11 月、新世紀にあたり小岩井農場初の賢治 詩碑として地元有志が建立。長篇詩「小岩井農場」の著名な四行 を刻んでいる。碑身は盆花小川牧場地内産出の安山岩。 小岩井乳業工場の北側の森に囲まれた集落。岩手山の伏流水の湧 水が多い。 「黒坂森の大きな岩」が話して聞かせたと設定される 童話「狼森と笊森、盗森」の舞台である。 雄大な岩手山の裾にたたずむ小さな鞍掛(くらかけ)山に賢治 は格別の思いを抱いていた。ふもとの駐車場の詩碑は山の形に似 せてある。放牧牛が草地に群れる光景に心が安らぐ。 青春時代の賢治が岩手山登山の帰りに何度か立ち寄った温泉。 通常は柳沢の馬返し口から登り、下山のときによくここを利用し た。賢治は岩手山に三十数回登ったと言われている。 賢治作品に「山男」の住む所(森)としてたびたび登場する。賢 治が好んだ化石の採れる沢がある。雫石盆地の東の方向には賢治 が歩いた沼森や燧掘山、さらには七ツ森も望める。 盛岡高等農林学校附属の御明神演習林、経済農場に通う道の途中 にあり学生たちの休憩地となっていた。現在は追体験行事「秋田 街道青春夜行」の終点となっている。 賢治が在学した盛岡高等農林高校(岩手大学農学部の前身)の実 習農場。学生たちは徒歩でここまで来て一泊して実習した。演習 林も併設されていた。戦前、一隅に第一拓殖訓練学校があった。 昭和 55 年、岩手国体 10 周年記念にあたり当時在職していた登 山愛好の教師が発案して設置した詩碑。碑文はかつての本校であ る盛岡一高の校地にあるものと同じ「生徒諸君に寄せる」である。 碑の場所から見える岩手山連峰に似合いの碑文である。 2 2013 賢治さんが歩いた道をたどって… <見どころ>の場所 ⑩ ⑨ ⑧ ⑦ ⑪ ⑥ ③ ④⑤ ⑭ ⑫ ② ① ⑬ ① ① ① 箱ヶ森、毒ヶ森、南昌山、東根山(岩頸列) ④ 巡り沢 ⑤ ⑧ 姥屋敷 ⑨「くらかけの雪」詩碑 ⑫ 春木場の川原 小岩井農場本部 ⑬ 経済農場 ② ⑥ 四階倉庫 ⑩ ③ 小岩井駅 ⑦「小岩井農場」詩碑 網張温泉 ⑭ 雫石高校 3 七ツ森 ⑪ 西根山 賢治さんって、どんな人? 1)裕福な家庭に育った。 ……あだ名は“石っこ賢さん”。 ☆明治 29 年、花巻市鍛冶町の母イチの生家で誕生。父政次郎は花巻町(現在の花巻 市豊沢町)で質、古着屋を営む商人。家柄も家族の人柄もたいそう 良い家庭。 ☆小学校時代から好奇心の強い子。「石っこ賢さん」のあだ名。 ☆中学校は盛岡中学。寄宿舎に入る。休みの日は山野行。学校で のいたずらや登山での欠席、正義感から舎監追放運動に加担する。 学業不振。中以下の成績で中学(5 年)を卒業。進学できず生家 に戻り店番。このころ「法華経」と出会う。 ☆1年“浪人” 。19 歳、盛岡高等農林農学科(のちに農芸科学科)第二部に首席入学。 ☆4人兄妹〔賢治、妹トシ、妹シゲ、弟清六、妹クニ〕 2)父は熱心な仏教信者であった。 …賢治は他宗派を信仰しあつれきも…。 ☆政次郎は若い時から仏典を好み、浄土真宗の地域リーダー。毎年 1 回大沢温泉で中 央から講師を招いて講習会を開催。賢治も同伴していた。後年賢治は法華経に傾倒し、 父との宗教的な対立で家出する。 3)時代を先取りした変わり者(?) ……多趣味、多才な人であった。 ☆キリスト教、クラシック音楽、作曲(芝居も)、セロの演奏、エスペラント語、 映画、花壇設計、ダリア、チュウリップの栽培(図鑑を原書で読んでいた。) ☆小岩井農場、軽便鉄道、橋場線などに心ひかれた“新しいもの好き”だった。 ☆これらの知見を作品に投影。環境問題の予見などシャーマン?を思わせる。 ☆花巻農学校の教諭になり、ユニークな授業や演劇活動などを展開した。 4)農業に賭けたいのち ……理想は高く、しかし現実は厳しかった……。 ☆花巻農学校教諭を辞め、 「羅須地人協会」を設立。農民 運動の実践を進める。 ☆「農民芸術概論」を起稿して講義。音楽も採り入れた。 〔世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は あり得ない〕 〔われらは世界のまことの幸福を索ねよう。〕 ☆農民向けの「相談所」を設けて肥料設計に奔走。その内 容を詩にも詠んでいる。 ☆土壌改良のために中和剤「石灰岩」の普及に努めた。旧東山町長坂にある「東北砕石 工場」の技師となって東奔西走。これらに対する熱心さのあまり、病を得てしまう。 ☆昭和8年9月20日、死の前日まで農民の相談にのっていた。 4 37 年の生涯の 3 分の1は 「盛岡・雫石圏」 で過ごした。 1)雫石方面へのアプローチは岩手山登山から ☆明治 43 年 盛中二年生 80 人とともに植物採集のため登山。 同年 9 月、盛中青柳亮教諭、生徒希望者 11 名とともに岩手山へ登山。 〔柳沢~頂上~網張(1 泊)~小岩井農場経由で盛岡へ〕 ☆翌 44 年 5 月、盛中三年生全員が小岩井農場へ遠足。 〔当時の短歌に「小岩井の育牛長の一人子とこの一冬は机ならぶる。」がある。〕 2)小岩井農場への憧憬(?) ☆明治 24(1891)年 小岩井農場が創立される。 ☆賢治は上記明治 44 年の遠足以降にも、山野行で小岩井農場をたびたび訪れている。 ☆創立後 20~30 年を経た小岩井農場で事業の中核として展開されていた酪農業に「西 洋のにおい」を感じ取っていたのかもしれない。広い牧草地に近代的な農業機械が往 来する様は賢治にとって一種の憧れだったようだ。 ☆また、当時のハイカラな建築「農場本部」 「木造四階倉庫」に好奇の目をむけている。 ☆国鉄橋場線小岩井駅が開業した大正 10(1922)年(賢治 24 歳)頃から足繁く通っ たようである。その記録をもとにパート1から9まで591行にも及ぶ長編詩「小岩 井農場」を書いた。 〔長編詩「小岩井農場」は、詩集「春と修羅」に収められている。〕 この中で、 もっとも知られている「四行」は次のとおり。 すみやかな すみやかな 万法流転のなかに 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が いかにも確かに継起するということが どんなに新鮮な奇蹟だらう ☆賢治は悩んだ時に小岩井農場に来た(?)。そしていつ も励まされていたようだ。 ☆詩「小岩井農場」の最後「けっしてさびしくはない。」 と言い切って「 (私は)かっきりみちをまがる」のであった。 ☆また、処女詩集「春と修羅」の冒頭に掲げられている「屈折率」でも、七ツ森や小岩 井農場から“励まし”を受けている。 5 3)七ツ森 ……岩石採取、経済農場への往来で目にした「坊主山」に同情 ☆中学時代から「七ツ森」には岩石採集の場所として関心を持っていたと思われる。 ☆大正 4(1915)年に盛岡高等農林入学以降、御明神 の経済農場での実習に通うため「秋田街道」を歩くよ うになり、当然七ツ森下を何度も通った。 ☆その当時、七ツ森は、明治 42 年に森の全ての樹を 伐採したため、坊主山だった。 伐採7~8 年後の大正 5 年頃から植林開始。まだ苗 木の状況だった。 <現在の七ツ森の生森山> ☆この姿に賢治は大変同情して短編「秋田街道」では 「七ツ森は“機嫌が悪い”」 表現している。 また、短歌でも次のように詠んでいる。 七つ森 いまは坊主のなゝつもり ひかりのそこに しんと沈めり おきなぐさ とりてかざせど 七つ森 雲のこなたに ひねくれし顔 七つ森 白雲あびて巫戯けたる けものの皮のごとくひろがる 水色の そらのこなたによこたわり まんぢうやまのくらき かれくさ 七つ森 青鉛筆を さゝぐれば にはかに 機嫌を直しわらえり をちやまに 雪かゞやくを雲脚の 七つ森には をきな草咲く ☆賢治の処女詩集「春と修羅」の冒頭を飾るのは、七ツ森を詠んだ「屈折率」 である。 ☆賢治作品に登場する山としては、 「岩手山」 「早池峰山」 「種山」などと伍し て、その頻度数からもトップクラスである。 現在、七ツ森は、雫石町民の憩いの場であり、これまでに明治 42 年の官有地からの払い 下げ、昭和26年の雫石大火の時に町の窮状を救ったことは多くの人に知られており、 町民はこの七ツ森に特別の感情をもって接している。まるで、雫石の町と人々を見守る 「七地蔵」のようだと……。 多分賢治さんも、そんな気持ちで七つ森を見ていてくれたのではないだろうか。 4)この他に賢治作品に出てくる雫石の地名 ☆ 化物丁場 ☆ 西根山 ☆ 網張温泉 ☆ 旧橋場駅 ☆ 西根山 ☆ 春木場 ☆ 狼森と笊森、盗森 6 ☆ 経済農場 5)賢治と関わった雫石の人 母木 光(ははき ひかる) 旧御所村天沼出身 本名 高橋 吉四郎、男助に養子 に行って藤本吉四郎。童話作家 儀府成一、詩人 母木 光。 生前(晩年)の賢治と親交があり、たびたび往復書簡を交わしていた。 賢治さんの葬儀の際の友人一同の弔辞を起草した。 参考 賢治さんを世に出した人々 1・草野心平と高村光太郎、森荘已池らの友人たち ☆ 早くから才能を見出し、交友していた。 2・慈愛の両親、父政次郎と母イチ ☆ 厳しさと優しさで“家出の息子”を見守り、そして臨終を看取った。 賢治の遺言は「国訳妙法蓮華経 1 千部作って、配ってほしい」だった。 3・弟の清六 兄思いでかつ“最大の理解者”であった。 “売れない作品”を大切に保管し、丹念に整理して日の目をあてた。 賢治さんの絶筆二首 ・方十里 いたつき ・ 病 の 稗貫のみかも 稲熟れて ゆゑにもくちんいのちなり み祭三日 そらはれわたる みのりに棄てば うれしからまし 経埋ムベキ山 賢治は晩年「雨ニモ負ケズ」を書いた手帳に「経埋ムベキ山」(経を埋めるべ き山)として次の32の山を記した。写経を経筒に入れて埋めるという習慣は、 日本では平安時代から行われていたとされている。経を埋めるということは、仏 法が滅んだ後の世に経文を伝えるためだといわれている。賢治も法華経を埋めた いという念願から「経埋ムベキ山」を選んだと思われる。 賢治は具体的に山名を示し「此ノ筒法滅ノ后ニ至心求法ノ人ノ手ニ開カ レンコトヲ翼(コイネガ)フ」と書いている。 旧天王山・胡四王山・観音山・飯豊森・物見崎・早池峰山・鶏頭山・権現堂山・ 種山・岩手山・駒ヶ岳・姫神山・六角牛山・仙人峠・束稲山・駒形山・江釣子森・ 堂ガ沢山・大森山・八方山・松倉山・黒森山・上ン平・東根山・南昌山・毒ガ 森・鬼古里山・岩山・愛宕山・蝶ヶ森山・篠木坂峠・沼森 7 宮沢賢治の生涯と雫石(♠♠♠七ツ森)との関わり 〔H25・9 作成〕 西 暦 年号・月 年齢 賢治さんの身の回りのできごと 0 花巻町(現花巻市)に生まれる。 雫石ゆかりの作品等 1896 明 29 年 8 月 1909 明 42 年 4 月 12 県立盛岡中学(現盛岡一高)に入学する。 ♠♠♠七ツ森~ 藩政時代は「内林」と呼ばれ地元民の出入りが認められ、保護の責任 を負わされる中、採草地として小柴、枯枝を無償でとることが許されていた。 しかし明治維新で官有となり立ち入り禁止に。住民は困窮、払下げ運動起こす。 明治 41 年村長に就任した生内瑑造氏が村財政を憂慮し村の基本財産確保の ために七ツ森の国からの払い下げを計画、国政などへの働きかけを行った。 曲折を経て、この年 3 月 29 日 37,000 円で国から雫石村へ払い下げ決定。代金 支払いのため立木を東京等の業者に 38,560 円で売却して皆伐した。約 10 万本の 木は現地で製材され陸路馬車で盛岡へ、盛岡からは鉄道で東京深川に運ばれた。 1910 明 43 年9月 14 盛中 2 年。 岩手山に初登山、中学時代だけで 8 *山野行・岩石の記録をノ ートにびっしり記録。のち 回登頂。この頃から鉱物採集で周辺探索。 の作品題材となる。 1911 明 44 年5月 14 盛中 3 年全員で小岩井農場に遠足をする。 1915 大 4年 4 月 18 盛岡高等農林学校(現岩手大学)に入学。この *をちやまに雪…〔短〕 *農場二首…〔短〕 頃から御明神経済農場・演習林へ通う。 1916 大 5年4月 19 化石採集のため西山村に 1 泊した。 *小岩井の育牛長の…〔短〕 *新網張二首…〔短〕 ♠♠♠七ツ森~明治 42 年の立木皆伐により大正 5 年から7カ年計画で第1期植林計 画(50 年後の輪伐)を開始(村民延べ 1 万人が奉仕)。しかし杉の植林は生 育が思わしくなく途中から赤松、そして落葉松へと変更されていった。 *七つ森いまは…〔短〕 *おきなぐさ…〔童話〕 *秋田街道…〔短編〕 1917 大 6年7月 1921 大 10 年 1 月 24 1922 大 11 年 8 月 26 教え子たちと岩手山に登山する。(9 月にも) 1926 大 15 年 3 月 4月 29 1931 昭 6年9月 35 花巻農学校(現花巻農業高校)教諭を退職。 花巻下根子桜の家で自炊生活を始める。 肥料設計・稲作指導に東奔西走。 東北砕石工場の技師となる。その営業活動の最 *昭和 5 年 9 月から岩手郡 中に東京神田の八幡館で発熱。父母あて遺書を 御所村岩手詩集刊行会母木 光(本名藤本吉四郎または 書く。花巻に帰る。 20 *童話…「山男の四月」、 「お きなぐさ」、「紫根染につ いて」、「祭の晩」、「化物 6月 丁場」、「西根山」、「十月 12 月 25 家に戻り稗貫農学校(花巻農学校)教諭となる。 の末」、「耕耘部の時計」、 「狼森と笊森、盗森」 この頃、 “近代的な”小岩井農場に惹かれ、たびたび汽車で訪れる。 *詩「屈折率」 *長編詩「小岩井農場」 11 月 1933 高農の短歌同人誌「アザリア」を発刊。7 月 7 日の真夜中、その祝宴から友人 3 人と夕顔瀬か ら春木場まで徹夜で歩いた。(大正 9 年卒業) 父と宗教上の対立で家出し上京。宗教の師の勧 めで数多くの童話を書き溜めた。 国鉄橋場線雫石駅まで開業。 *野ばらの木 …〔短〕 *第四梯形 …〔詩〕 昭 8年9月 病床で手帳に「雨ニモ負ケズ」を書く。 37 19 日花巻祭りの神輿を自宅前で拝む。 21 日午後 1 時 30 分永眠。 葬儀において友人代表の森荘已池が弔辞を読 む。この草稿は母木 光が書いた。 8 光孝・童話作家名儀府成一) とひんぱんに往復書簡を交 わす。母木は賢治の自宅に もたびたび見舞った。 1・ 箱が森、毒が森、南昌山、東根山の“岩頸列” 「石っ子賢さん」と呼ばれるほど、子どもの頃から岩石採集が好きだった賢治さ んは、盛岡中学時代も休みの日は地図と砕石ハンマー、手帳を携えて盛岡近郊の山 を跋渉(ばっしょう)していました。特にも矢巾町(時には石鳥谷町)方面から、 岩手山をめざして、南昌山、毒が森、箱が森といった大小の山や森を縦断しては楽 しんでいました。それは「岩手の山の岩で、賢治さんに頭を叩かれないものはなか った。」と喩(たと)えられるほどでした。 これらの山々は、現在、 「志波三山」として、ハイカーや登山者から人気です。 毒ヶ森 南昌山の一つらは ふとをどりたちて わがぬかにくる 賢治(大正4年4月歌稿) <雫石バイパスから見た志波三山…左から箱ヶ森、毒ヶ森(すぐ陰に南昌山)東根山と続く。> ①箱ヶ森〈志波三山〉 盛岡の西南約10キロの地点にある山。標高866m。雫石では“繋山”と呼ばれて いる。 (歌稿に… 箱ヶ森 あまりにしずむながこゝろ いまだにうみに のぞめるごとく) ②毒ヶ森 盛岡の西南 11 キロの地点にある山。標高 782m。この真下が「南昌第一トンネル」だ。 (作品「鳥をとるやなぎ」にこの森の名が出てくる。) ③南昌山〈志波三山〉 盛岡の西南約12キロの地点にあるトロイデ型(鐘状)の山。標高848m。 (友人の藤原慶次郎や高橋秀松らと何度も登り、ノロギ石などを採集している。 ) ④東根山〈志波三山〉 盛岡の南南西約15キロの地点にある。標高928m。ドーム状の山容なので、袴腰と も称される。 ✿ 岩頸(がんけい・ネック)は、賢治さんお気に入りの表現。マグマなどの火山噴出物が地 上へ出る途中で冷え固まって生じた火成岩が、長い間に 回りの表土が風や水、光による侵食で削られ、流されて、 棒状あるいは釣鐘状の火成岩だけがとり残されて、それ が“山”として残ったものをいいます。 「楢ノ木大学士の野宿」では、賢治自身が「岩頸といふ のは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である」と 解説している。 〔右の写真の中央は南昌山、後方が毒が森〕 9 2・七ツ森 (賢治が愛した「短歌創作と岩石採集の山」 ) 1909(明治 42)年 4 月、花巻の花城小学校から盛岡中学に入学。 休みの日には盛岡郊外の山野を駆け巡って岩石採集にいそしんでいた。中でも七ツ森(賢 治さんは「七つ森」と書いた)は、その形状から「まんじゅう山」と呼んで特に親しみを覚えて いたようである。 (写真は繋温泉病院側から写したもの) 左から生(おお)森、石倉森、 鉢森、 勘十郎森、三角森、見立(みての)森 (大きな鉢森の前に)稗糠(ひえぬか)森 大正4(1915)年、賢治さんは盛岡高等農林学校(岩手大学農学部の前身)に進学する。 同校附属の「経済農場」が雫石の御明神村にあったことから、たびたび実習に向かう賢治 さんたちはこの七ツ森の下を通る「秋田街道」を歩いていたので、この森のことはよく知っ ていた。 中学校あたりまでは岩石を採取してひとり悦に入っていた賢治さんだったが、高農で関 豊 太郎教授の研究室に出入りしてからは岩石や鉱石を出現させる地質鉱学への関心を深めてい た。そんな賢治さんが、七つの森を構成する岩石を調べていたときに、他の六つの森が輝石 安山岩だったのに、一つの森(作品では「第六梯形」)だけは自分が大好きだったリバライト (流紋岩)だったことが分かり興奮。これ以来彼は七つ森がさらに好きになるのである。 また賢治さんは、この森の歴史にも深く思いを寄せている。明治42(1909)年に国からの 払い下げ代金捻出のために藩政時代以来の松の美林を伐採したあと「坊主山」になっていた この森の姿に同情して ≪七つ森 いまは坊主の七つ森 光の底にしんと沈めり≫ ≪七 つ森 青鉛筆を投げやれば にはかに機嫌を直しわらへり≫ などの短歌を残している。 このように最初はその形状に愛着を感じ、続いて岩石への興味から近づいた七つ森であっ たが、大正10(1921)年、花巻農学校教諭時代、学校での苦悩を抱えていた時に小岩井農場 への道すがら七つ森と向き合い、明るく巨きく、そそり立って迎えるその姿に勇気づけられる こともあった。 (この時詠んだ詩が、処女詩集「春と修羅」の巻頭を飾る「屈折率」である。 ) ✿ 好奇心からの岩石採集に始まり、青春時代には彼の気持ちを和ませ、 苦境の時には励ましながら賢治さんの成長とともに歩んできた七ツ森。 「七つ森」の名が出てくる作品は短歌13首、自由詩3篇、文語詩1 篇、短篇1作、童話4作品と多数に上る。これだけでも賢治さんが七ツ 森をいかに愛していたか想像がつくでありましょう。 <左;童話「おきなぐさ」で、おきな草は七ツ森に咲いています。> 10 青春時代の賢治さんにとって 「七つ森」 とはどんな存在? 宮沢賢治の雫石方面へのアプローチは岩手山登山を介してであり、小岩井農場の風光を経 由してのものでしたが、その道すがら眺める「七つ森」は、いつも彼の好奇心をくすぐって いました。 (※公的な地名では「七ツ森」であるが、賢治さんは「七つ森」と表記していた。 ) 実際賢治さんは岩石採集のため、矢巾方面から岩手山を目指して山麓のさまざまな小さな山 や森を縦断する体験を通して「七つ森」に近づいていきます。そして盛岡高等農林学校に入 学した大正 4 年以降、 「七つ森」下を横断する秋田街道を通って同校附属の御明神経済農場、 演習林へ通う賢治さんと「七つ森」との出合いが決定的となります。 彼のこれまでの「岩手山麓縦断」体験と新たな「横断」体験が交差する所(クロスポイン ト)、そこが「七つ森」だったのです。 彼の青春時代を 3 つの時期にわけて、それぞれの時期における七つ森との関わり方を見て みると賢治さんの心の在り様も見えてきます。 少 年 期 七つの森はその面白い形と岩石への好奇心から一番のお気に入りだった。 賢治は幼少の頃から「石っこ賢さん」とあだ名されるほど岩石採集に興味を持 盛岡中学時代 【12~16 歳】 旺盛な好奇心 っていた。盛中時代も休みの日は地図と採石ハンマー、手帳等を携えて郊外の山 々を歩き「岩手の山の岩で、賢治に頭を叩かれないものはなかった」とまで喩え られるほどだった。岩石や土質に関する知識も相当なもので「あの山とこの丘は 甥か孫の関係だ」といっては悦に入っていたようであるが、特に「七つの森の 6 つは輝石安山岩だが一つだけリバライトでできている」ことを発見して以来、七 つ森は賢治一番のお気に入りの山だったようである。南昌山~箱ヶ森~七つ森~ 小岩井~燧堀山~狼森~沼森~盗森~鞍掛山~春子谷地~柳沢~一本木野~焼走 り熔岩流地帯といった山野を駆け回る賢治の姿が目に浮かぶ。 賢治はまた、親しみを込めて七つの森を“まんじゅう山”と呼んでいた。 青年期 Ⅰ 七つ森は ―― 夢と現実の境目 ――であった。 御明神経済農場への往来で、七つ森を越えると眼前に雫石盆地が広がり、正面 盛岡高等農林 学校時代 【17~20 歳】 文学的爛熟期 に駒ケ岳や西根の山々が連なる雄大な光景に魅せられた賢治は、持ち前の豊かな イマジネーションで、いつしか「岩手山や西根の山に抱かれた雫石盆地」を作品 上で「別世界」と考えるようになったとしても不思議ではない。 「山男の四月」を はじめとするいくつかの童話の中で西根に住む山男は、町(盛岡)に行く時、帰る 時のいずれもここ七つ森で〔普通の人 ⇔ 山男〕への変身をする。地理的にもこ こは「町(都市)」と「山(農山村)」の境目である。賢治にとって、多くの作品に登 場させた「七つ森」はまさしく――夢と現実の境界――であったのだ。 青年期 Ⅱ 七つ森は、苦悩する自分を励ましてくれる「巨(おお)きな存在」だった。 大正 10 年稗貫農学校(のちの花巻農学校)の教諭となった賢治は新米教師として 花巻農学校 教諭時代 【25~26 歳】 挫折と苦悩、そ して自信へ の苦悩を背負い「――学校で煙たがられ、笑われ、生徒に嫌がられております…。」 と自信をなくしていた。翌 11 年 1 月気持ちを鎮めようと小岩井農場を訪れた賢 治を「懐かしい坊主頭の七つ森」が、あたかも水中で屈折した時のように明るく 巨きく、そそり立って迎え、自分を励ましているかのように感じた。 〔詩;屈折率〕 その後賢治は教え子たちと再び岩手山登山をするなど自信を取り戻していく。 11 心象スケッチ (メンタル・スケッチ・モディファイド・ Mental Sketch Modified) 賢治さんが処女詩集「春と修羅」を刊行したのは大正 13 年 4 月、27 歳の時でした。しか し、賢治さんは自作の詩を「詩」と規定していませんでした。翌年 2 月に、友人の森 佐一 (後の 森荘已池)に宛てた手紙に賢治さんは次のように綴っています。 ―― 前に自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、 これらはみんな到底詩ではありません。―― それは、詩作上の上手、下手の問題ではなく、もともと賢治さんは上手に詩を書くことを めざしていたわけではなく、書く目的を別なところにおいていたのです。 ―― 私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります。ある心理学的な仕事の仕 度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の 下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象スケッチでしかありません。―― 賢治さんは、いつも首から手帳と鉛筆をぶら下げて野山を歩き、何か感じたり思いついた りしたことがあると、すぐさまそれに書きつけたといいます。 こうした結果、 「心象スケッチ」は賢治さんも思いがけないような形で、独特の新しい詩の 誕生をもたらし、賢治さんの文学的主題であった自然との交感による作品に結びついていっ たのです。 賢治さんの童話集「注文の多い料理店」の広告文には≪この童話集の一列は実に 作者の心象スケッチの一部である。≫と書き、序文には<これらの私のおはなしは、 みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。>と 綴っています。豊かな自然や周囲との交感から賢治さんの心が動き、それがそのま ま詩や童話へと紡がれていく、そうした実感が賢治さんにはあったのでしょう。 作品の完成度を高める推敲は、また別な話だったのです。 詩・屈折率 七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく そしてたいへん巨きいのに わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向こうの縮れた亜鉛の雲へ 陰気な郵便脚夫のやうに (またアラツディン、洋燈とり) 急がなければならないのか 「詩集春と修羅」 宮沢賢治が生前刊行した唯一の詩集。 1924 年(大正 13)4 月,関根書店刊。序詩に続いて《屈折率》(1922 年 1 月 6 日)から《冬と銀河 ステーション》(1923 年 12 月 10 日)まで 64 編が日付(発想または第 1 稿成立の)順に収められて いる。前半の中心は、 自らを憂悶する修羅と規定するパセティックな詩編《春と修羅》であり, 後半は妹とし子の病死を素材として,詩の成立の根源にせまった痛切澄明な《永訣(えいけつ) の朝》をはじめとする《無声慟哭(むせいどうこく) 》詩群と,長大な挽歌詩群を中心としている。 12 3・ 国鉄橋場線(現在はJR田沢湖線 )小岩井駅 大正 10(1921)年国鉄橋場軽便線開業時そのままのたたずまいを残す貴重な建物である。 この橋場(軽便)線の開通により、花巻から小岩井への日帰りの旅が身近なものになった ことから、賢治が岩手山登山を含めてたびたび利用した。 1921(大正 10)年 6 月 25 日 国有鉄道「橋場軽便線」として 雫石まで開業 1922(大正 11)年 7 月 15 日 同線が橋場駅まで延伸開業 この年「国鉄橋場線」と改称 今から 88 年前の 1922(大正 11)年 5 月 21 日(日)午前 10 時 54 分、宮澤賢治は橋場軽便 線小岩井駅に降り立った。これから小岩井農場を抜け、くらかけ山から柳沢を経由して、東 北本線滝沢駅に至る 20km 余りのハイキングをしようというのである。 途中雨に降られて引き返すことになるのだが、この時の体験から一つの作品が生まれた。 591 行に及ぶ長篇詩「小岩井農場」(『春と修羅』所収、大正 13 年刊行)である。 “心象スケッチ”という賢治さん独特の作風によるものだ。 この日賢治さんは、柳沢を経て、東北本線滝沢駅発午後8時 41 分、午後 10 時に花巻に帰 る予定であったことが下書稿からうかがわれる。盛岡駅を午前 10 時 30 分に出発した賢治さ んは 24 分後の 10 時 54 分に小岩井駅に着いたと思われる。 ✿ 現在、小岩井駅前の広場には、この詩の一部を刻んだ石碑が建っている。 碑には、―― 汽車からおりたひとたちは さっきたくさんあったのだが みんな丘かげの茶褐部落や 繋あたりへ往くらしい 西にまがって見えなくなった 宮澤賢治「春と修羅」より と刻まれていて、隣の説明板には―― 『碑の由来』 大正十年六月二十五日(土)盛岡・雫石間の橋場線開通とともに、小岩井駅(小岩井農場に 因んで小岩井駅と命名)が開業した。「つつましく肩をすぼめた停車場」と宮澤賢治は表現し た。賢治の心象スケッチ『春と修羅』の中の長編詩「小岩井農場」には「わたくしはずゐぶん すばやく汽車からおりた」という一節で始まるように、この駅が起点となっている。 と書いてある。 13 ✿ この長編詩「小岩井農場」の”パート一”を以下に示せば、次のようだ。 小岩井農場 パート一 わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ けれどももつとはやいひとはある 化学の並川さんによく肖たひとだ あのオリーブのせびろなどは そつくりをとなしい農学士だ さつき盛岡のていしやばでも たしかにわたくしはさうおもつてゐた このひとが砂糖水のなかの つめたくあかるい待合室から ひとあしでるとき……わたくしもでる 馬車がいちだいたつてゐる 馭者がひとことなにかいふ 黒塗りのすてきな馬車だ 光沢消しだ 馬も上等のハツクニー このひとはかすかにうなづき それからじぶんといふ小さな荷物を 載つけるといふ気軽なふうで 馬車にのぼつてこしかける ✿ 賢治さんが小岩井駅に降り立ったこの時、花巻農学校同僚の並川さんに似た農学士風の人 がいたり、駅前には馬車が止まっていたりした。「馬車がいちだいたつている/黒塗りのす てきな馬車だ/光沢消しだ/馭者がひとことなにかいふ/馬も上等のハツクニー」(パート1) と詳しく観察している。また、賢治さんは「くらかけ山の下あたりで/ゆつくり時間もほし いのだ/あすこなら空気もひどく明瞭で/樹でも艸でもみんな幻燈だ」(パート1)などと楽 しいこと考えながらも馬車に気を引かれている。駅前を歩きだすと、停車場や当時あった新 開地風の建物をうしろに田園風景へと変わってゆく。 ✿ 駅前の新開地風の家並をすぎ、視点は鳥たち動物、あるいは植物へも移動してゆく。 「黒馬が二ひき汗でぬれ」「嫩葉がさまざまにひるがへる」「鶯もごろごろ啼いてゐる」(パ ート1)といった具合だ。 5月に歩きながら、1月に来た時のことを回想している場面もあ る。 ――「冬にきたときとはまるでべつだ/みんなすっかり変わつてゐる/変わった とはいへそれは雪が往き/雲が展けてつちが呼吸し/幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ/ あをじろい春になつただけだ」(パート1)や「ほんとうにこのみちをこの前行くときは/空 気がひどく稠密で/つめたくそしてあかる過ぎた」(パート 1)の部分である。 14 旧網張街道に入るとーー、あとは眺めのよい道をまっすぐ北西に歩けば農場への入り口 (旧)となる。賢治さんはこの道を歩きながら、空高く舞うひばりを細かく描写したりする。 「ひばり ひばり/銀の微塵のちらばるそらへ」(パート2)で始まり、「黒くて素早く金色」 とか「空でやるブラウン運動」など、賢治流の観察が続く。 続いて、「うしろから五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た/医者らしいものがや つてくるたびたびこつちをみてゐるやうだ/それは一本みちを行くときに/ごくありふれた ことなのだ」(パート2終わり)と人物を登場させている。 この道の見通しの良さは、ぜひ実際に歩いて確かめて見てほしい。ちょっと戻るが、パー ト1の最後にも七ツ森は、「今日は七つ森はいちめんの枯草/松木がをかしな緑褐に/丘の うしろとふもとに生えて/大変陰鬱にふるびて見える」(パート1)と描かれている。1月の 風景にも「くろいイムバネス(=外套)」を着た人が通りかかる。言葉を交してみたいような気 持ちになる。 4・巡り沢(めぐりさわ) この網張街道が篠木坂方面へ行く道と交差した後、小川に架かっている橋を渡る。ここが 昭和に入って現在のように県道網張温泉線が開通するまで、小岩井農場の入り口だった。 詩はここからが、パート3となる。 その冒頭の部分で、「もう入口だ〔小岩井農場〕/(いつものとほりだ)/混んだ野ばら やあけびのやぶ/〔もの売りきのことりお断り申し候〕/(いつものとほりだ ぢき医院も ある)/〔禁猟区〕ふん いつものとほりだ」(パート3)としています。もちろん、当時あ ったとされる入り口の看板類や医院も今はない。 小岩井農場の入口 明治 44 年ごろの 農場社内報 「小岩井週報」より 旧農場入り口付近の描写が続く。 「小さな沢と青い木だち/沢では水が暗くそして鈍つて ゐる/また鉄ゼルの fluorescence/向ふの畑には白樺もある/白樺は好摩から向ふですと /いつかおれは羽田県〔属〕に言ってゐた」(パート3)とあるのは、巡り沢と呼ばれる小さ な川(沢)とその周辺の様子である。 この小川は小岩井農場の東端を北から南に流れる川で、この後すぐ越前堰と合流し、仁沢 瀬経由で雫石川へと続いている。 フルーアレッセンス ( 注)fluorescence……蛍光) 15 16 5・小岩井農場・旧本部事務所(きゅうほんぶじむしょ) 我が国初の大規模農場として知られる小岩井農場のシンボル的な施設。 農場全体を見渡す位置に建つ望楼付の二階建,下 見板張りの洋風建築。他の建築群とともに明治期の 農場を彷彿とさせる形態をよく保つ。玄関ポーチの 鼻隠や大きな窓枠に意匠的特徴がある。 かつては柾(まさ)葺きであった。 賢治さんは「気取った建物」と描写した。現在も 小岩井農場の管理部事務所として活躍中。 【国指定の有形登録文化財】 旧網張街道 (通称;賢治ロードのうち紫陽花ロード) 賢治ロードは小岩井農場の中にある道で昔の街道跡にチップを撒いて整備している。本部事務所近 くの旧道で中に立ち入ることは残念ながら出来 ないが農場のプレミアムツアーでは公開されて いる。ここ旧網張街道には現在、紫陽花が植え られ通称「紫陽花ロード」と呼ばれているよう である。 賢治さんの作品「虔十公園林」に出てく る杉林の<東京街道><ロシア街道>を彷 17 彿(ほうふつ)とさせる。 賢治さんとベートーベン 賢治さんはタゴールの詩やベートーベンの音楽を愛し、ドイツ語やエスペラント語を学ぶ など世界にまなざしを向けていた人でした。 特に「ベト狂」と言われたほどの「ベートーベン信者」で、弟の清六氏(故人)によると 「蓄音機」のラッパに耳をくっつけて「田園」を聞いていたそうです。こうしたこともあっ て、賢治愛好家の中では、賢治さんは「田園」を下敷きにして、 「小岩井農場」を作詩したの ではないか、ともいわれています。 ✿ 賢治さんは、当時としては、とりわけ地方在住の人としては異例なほどのSPレコード収 集家でした。 花巻農学校の教師をしていた1922(大正11)年頃から始まったとされているレコー ド収集は、 「ポリドール(イギリスに本部があった)の東京支社長から、花巻でレコードがよ く売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名をあげた ところ、支社長から賢治あてに感謝状がきた」 (原子朗『新 宮澤賢治語彙辞典【第2版】 』の 「レコード」項による)ほどの入れ込みようだったようです。教師としての給料のほとんど をレコード購入につぎ込むこともあったと言われています。 <賢治研究家・渡辺芳紀(中央大)さんの考察から> (略)…「小岩井農場」の原型が歩行しながら書き留められていった点に注意したい。従 って、作品の展開は、小岩井の駅に降りてから歩き始め、小岩井農場入方口、同本部を経て、 さらに耕転部、育牛部と北へ進み、狼森の近くまで行き、引 き返して来るといった歩行 の順序によって構成され る。その時々のまわりの 風景、自分の思いを書き 写しているわけである (ただし、決定稿では 「パート五」「パート六」 および「パート八」が省 略され、引き返す部分の 叙述は無い)。 ところで、作品の構成に 関して、そうした歩行の 進展にともなう構成とと もに、ベートーベンの第 六交響曲「田園」との類 悪天候の中を行くベートーベン 似性が指摘されている。 (1823 年・ペン画) 境忠一は『評伝宮沢賢治』 (桜楓社、昭 43・4)の第四章「詩歌」の章で、〈作品全体は、 賢治が愛好していたベートーベンの第六交響曲「田園」の構成を下敷きにしている〉とし、 「パート一」から「バート三」までは、〈 「田園」第一楽章「田舎についたときの愉快な感情 の目覚め」を思わせるし、 〉 「パート四」から「六」までは、 〈必ずしも第二楽章の「小川のほとりの光景」(中略)で 18 はないが〉 、第二楽章の〈フルートのナイチンゲール、オーボーの鶉、クラリネットの郭公〉 などが、「小岩井農場」のひばりや雉子ほかの鳥などとして登場するとしている。 さらに「パート七」には、 「田園」第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」を暗示する農夫た ちの登場、 「田園」第四楽章「雷雨と嵐」と、「パート七」後半の天候の異変との対応、第五 楽章「牧人の歌――嵐の後の喜びと感謝の感情」は、 「パート九」での〈恋愛への訣別〉とい う〈主題〉として展開されているとする。さらに、 「パート五」の「清書後手入稿」の第五綴 には、〈ベートーフエン〉が登場することも指摘し、第六交響曲の暗示を語っている。 また、恩田逸夫は、 「パート九」の〈わたくしはここらを/der heilige Punkt と/呼びた いやうな気がします〉に関して、 〈ベートーヴェンがハイリゲンシュタット(Heiligenstadt 神聖な町の意)で、散歩しながら「田園交響楽」の楽想を得たことが意識されているであろ う〉 (角川書店『目本近代文学大 36 高村光太郎・宮沢賢治集』昭 46・6)と推測している。 これらのことから、 「小岩井農場」に、何らかの形でベートーベンの「田園」交響曲が反映 していると考えられる。ただそれは、ある程度、それが意識されていたということであって、 初めから賢治が、 「田園」を頭におきながら「小岩井農場」を書いていったわけではない。む しろ、初めに、ある五月の日曜日に、小岩井農場に行った事実があり、その時の出来ごとを 素直に写して行ったところ、結果として、 「田園」交響曲という、ドイツの田園を反映させた 曲と類似する部分も出て来て、賢治も、ある程度、ベートーベンを意識して筆を進めて行っ たというところなのであろう。 6・四階倉庫 今から97年前の大正5(1916)年に建てられた木造の四階建ての倉庫です。 木造四階建ての洋風建築は今ではめずらしい建物です。(現行建築基準法では建築不可です。) もともとは穀物乾燥用の倉庫として建築されました。 昭和8年に1階部分が増築されました。外壁は土壁を挟んだ 板壁。小屋組は合掌を基本とする洋小屋組で、桁行方向にも揺 れ止めを設けています。内部は間仕切りのない機能的な造りと なっています。 内部には電気で動くエレベーターが設置されていました。 エレベーターで四階に上げた穀物を下の階へ降ろしながら、 分別をする効率的な作業が行われました。 建築当時の農場長がオランダを視察した際に目にした倉庫をモデルにしたと言われ、てい かつては、花見・月見の宴や物見櫓としても活躍した農場の象徴的な建物です。 国登録有形文化財に指定されています。 賢治さんは、たびたび小岩井農場をたずねて、農場の中を歩いていますが、この四階倉庫 の横を通ったときの、記憶をもとに、 「塔中秘事」という詩を書いています。 この「塔中秘事」は何度もの校正を繰り返しています。 ――あれは確か花巻(稗貫)農学校の教師になったばかりの大正11年の冬、教材の資料を求め耕 耘部を初めて訪れたその帰り道のこと。あまりにも光り輝く四階倉庫のアズライト(藍銅鉱石)の屋 根にみとれていたのでしょう。この屋根は大正8年に柾葺きから鉄板に改装されたのです。そのとき ふいに、四階の窓から笑いどよめく女性の声が漏れてきたのです。 耕耘部勤務の古老(蛯名啓四郎)が書いた「四階倉庫物語」(『小岩井会会報』第九号)によれば、 重労働に堪えない妊産婦の補女(従業員の妻女)たちは冬仕事として四階倉庫で大豆の種子の選種を したらしい。もしかしたら「女のわらひ」はその仕事中のできごとだったかもしれません。その「わ らひ」声は、胸のときめきを感じたものの手帳にメモするほどではなかったのでしょう。それを〈栗 19 鼠の秘めわらひ〉ととらえ「秘事」としたのは晩年のことで、 「塔中秘事」の元像とは風が吹き抜ける ような〈わらひ〉だったのでしょう。―― (盛岡タイムス連載・2010・3・6 付 〈賢治の置土産~ 七つ森から溶岩流まで〉150 岡澤敏男 「塔中秘事」の元像より) 7・ 賢治詩碑 (上丸牛舎裏手にある賢治さんの長篇詩「小岩井農場」詩碑) 賢治さんの代表的な詩「小岩井農場」。この詩碑にはその中の次の四行が刻まれています。 すみやかなすみやかな万法流転のなかに 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が いかにも確かに継起するといふことが どんなに新鮮な奇蹟だらう 宮沢賢治 2001 年 11 月に、宮沢賢治学会地方セミナーとして、雫石町と盛岡市の賢治愛好団体が主 催して、この小岩井農場で「牧場の光と風と星のまつり」が行われました。この時に、小岩 井農場内初となる、この詩碑の除幕式を行いました。宮沢清六さんのお孫さんの和樹さんご 一家をはじめ当日の参会者 250 人は、稀にみる秋晴 れの晴天の下で小岩井農場の牛乳で乾杯して、碑の 誕生を祝ったのでした。 上記の四行の碑文は、心象スケッチ「春と修羅」 のなかの詩「小岩井農場」(パート1)から撰んだ ものです。若き日の宮沢賢治は、小岩井農場が好き で何度も訪れ、農場を舞台に詩や童話を書きました。 なかでも「小岩井農場」の詩はパート九まであり、 591行という最長の作品で、賢治の思想がよく現 れています。季節の循環を踏まえ、万物の生命が明滅するなかで、小岩井農場の姿がつぎつ ぎと更新していくさまに力を得、賢治が「あたらしくまつすぐに起きて」と自らをはげます 契機となりました。 なお碑文に添えられた宮沢賢治の文字は、親友である森佐一(森荘己池)宛手紙の封筒に 書かれていた賢治の直筆です。 (碑の説明板から) それにしても、このすみやかな万法流転の世の中に、100 年もの時を隔てて彼の時代の「牧 場の標本」の畑が広がり、牛舎やサイロが今もちゃんと建っていて、しかも現役で使用され つづけているというのは、これこそまさに「新鮮な奇蹟」だと言えます。 この詩碑は、以前まで「展示資料館」となっていた昔の酪農部上丸詰所の裏手にあります。 詩碑の碑身(本体の石のこと)は、町内長山盆花平の<小川牧場>の敷地内の沢から掘り 出された安山岩(火山岩)です。上記の「牧場の光と風と星のまつり」実行委員会が、雫石や 盛岡の企業や市民、さらには全国の愛好家らの浄財で建立されました。 狼森 (乳業工場の北側の森) 2005年(平成 17 年)3月に国指定の名勝に指定され た「イーハトーブの風景地」の小岩井農場周辺の 4 つの小 さな森のひとつ。 「オイヌモリ」と読む。 20 童話『狼森と笊森、盗森』 (おいのもりとざるもり、ぬすともり)は、賢治さんが生前に出版 した唯一の作品集『注文の多い料理店』に収録されている。 12・高等農林附属経済農場 13・春木場の川原 〔高等農林附属 御明神演習林と経済農場に通った際の“休憩地” 〕 春木場の地名は、山で伐った木を雪解け水で増水した沢や川に流し、この地で陸に揚げて 集積したことからついた。 賢治さんたち盛岡高等農林の生徒は実習の行き 来に、ここで休憩したようである。いまは雫石と 盛岡の賢治の会の恒例行事「秋田街道青春夜行」 の最終到着地となっています。 ✿ 賢治さんの盛岡高等農林入学は、農学科第二部 で、大正4(1916)年4月のことである。当時は 滝沢村と御明神村(現雫石町)の2カ所に高農の演習林があった。そのうち、雫石町には当 時の御明神村赤沢に、高農附属の“御明神演習林”と“経済農場”があって、それは滝沢演 習林に比して、はるかに大規模なものであった。 この御明神演習林は、明治 38(1905)年 11 月に、広大な国有地を農商務省から移管されて 設置、また経済農場は翌明治 39 年 10 月に開設されたものである。主として、アカデミック な理論への偏重を避けて、果樹、畜産、林業への実習を基調とした農業分野の演習地として、 当時としては時代を魁けた教育研究施設であった。 したがって、高農での獣医学科・林学科はもちろんのこと、農学科第 1 部、第 2 部の科目 の中にも「実験及び実習」 、 「農場実習」その他、この御明神での附属施設利用の学科履習は 当然のことであった。ここへの往復は当時のことゆえ公共交通機関もなく、すべて徒歩によ るほかなかったのである。 だが、それは、そこへの道々をはじめ、経済農場や演習林の宿泊においても、自然の懐深 くに出入りする賢治さんの人なりや学業そのものをはじめ、往来で地元の人と交わす言葉さ えも、いつしか募る文学的感興を、一層豊かにするそれに違いなかった。 農場二首 風ふけば まるめろの枝ゆれひかり トマトさびしくみちに落ちたり そらしろく 温き堆肥はこほろぎの なける畑にはこばれにけり この歌も、はたして御明神の経済農場を詠んだものかどうか厳密には判断しがたいが、当 時の高農の施設としては“農園”とか“果樹園”というものが校地内にあったことから、 「農 場」と題されて創作されたその形は、どちらかといえば、やや日常風景から遠い地点のもの と言えなくもない。 いずれにせよ、経済農場における感興にも該当する作品には違いない。 賢治さんの「東京ノート」に「経済農場レッドチモシイ トップ」、「春木場の河原」のメ モが見え、 「文語詩篇ノート」には「四月 高農一年 実習」とか「農林第一年 第一学期 辻、 中丸、高橋、山村、橋本」とあるのに続けて、再び「経済農場レッド トップ」、「春木場の 21 河原」などのメモが見られる。それらはいずれも、なんらかの作品を心がけたメモに違いなかっ た。したがって、賢治さんたちは高農一年時に、すでにその地に出入りしていたわけである。 <参考> ✿ 春木場の地名が出てくる賢治作品 「化物丁場」 ✿ 歴史的には、藩政時代、その名のとおり、この地に集積した 「建築用材」となる材木を雫石川本流の流れを利用して、盛岡 城下まで筏(いかだ)に組んで流していた。 多くの筏師たちがここで生計をたてていたと思われる。 御明神経済農場内にあった「第一拓殖訓練所」について (この項、佐藤一也著「もう一つの学校史」日本の拓殖教育・光陽出版社刊 ~1140Pから抜粋・引用) 及び雫石町史Ⅰ 1137 ◆ 第一拓殖訓練所 昭和8(1933)年4月、文部省(文相・鳩山一郎)は「文部省告示第203号」により、盛 岡高等農林学校に第一拓殖訓練所、三重高等農林学校に第二拓殖訓練所、そして宮崎高等農 林学校に第三拓殖訓練所を、それぞれ開設することとした。拓殖訓練所は「拓訓」 、また個別 には「一拓」 「二拓」 「三拓」と呼ばれた。 告示では「移植民教育施設として本省に於て左記要領に依り拓殖訓練所を開設し生徒を募 集す詳細は各訓練所に就き承合すべし」としている。 そしてその募集要項によれば「拓訓」の設置目的は一拓と二拓が「満蒙に移住し農業に従 事セントする者に須要なる技能を授け心身の訓練を施す」ことにあり、三拓は「南米に移住」 する者を対象とするものであった。 この意義を、当時(昭和8年4月6日)の岩手日報は「移植民教育は我が国教育制度とし て初めて樹立された。 」と紹介している。 当時の「拓殖訓練所実施要項」の内容は次のとおりである。 ・教育方針 ・訓練内容 「心身の訓練」と「実習重視」 (1)訓練期間 1カ年 (2)入所資格 (イ)学歴 実業学校卒業程度以上 (ロ)年齢 満18歳以上30歳以下 (3)収容人員 1個所 30名 (4)学科目 移植民地事情(地理歴史・風俗習慣・経済及び制度) 植民史、移植民地農業(耕種、畜産、農産製造、機械、農具) 測量及び土木工学、移植民地衛生、貿易、保険、為替、外国語、 武道および教練、特別講義、実習作業 以上 (5)生活 起床(4~6月)午前五時、 (7・8月)午前四時 (9~11月)午前五時、(12~3月)午前六時 22 就寝は通年、午後八時半 「一拓」では昭和8年6月11日に、開所式と第1回生の入所式が行われた。場所は盛岡 高農附属農場( 「経済農場」という)であった。その一隅に一拓が設置されたからであるが、 そこは岩手県御明神村(現岩手県雫石町御明神)という所で、盛岡駅から橋場線(現田沢湖 線)春木場駅から南へ直線で3キロの地点である。 この年、盛岡高農は1902(明治 35)年3月28日に設立されて以来、「開校30周年記 念式典」が5月1日から3日まで開催されており、一拓の開所式並びに第1回生入所式はそ れに続く大きな行事であった。式は、質実剛健を実際に表現するかのように野外で行われた。 当日は快晴であった。設置母体である盛岡高農の上村勝彌校長は式辞の中で「約60名の志 望者中より最適当と認められる者30名を厳選し、これに仮入所を命じ…」と述べた。文相 代理の粟屋謙 次官が文部大臣告示、永井柳太郎拓相代理、岩手県知事石黒英彦、御明神村 長下川原金蔵らが祝辞を述べた。 <参考> 志願者数・入所者数・退所者数 一拓 58 30 7 二拓 117 38 1 三拓 70 28 4 1934年第一回生が出て行ったあと、各拓訓には清新な希望に燃えた第二回生が入所し て来た。一拓には35名、二拓には37名、三拓には24名の新入があった。 当時は、大きな希望のわりには、 「…訓練生は当分これを本校御明神演習林寄宿舎内に起臥 せしめ同寄宿舎を本科学生が使用する場合は、小屋掛けないしは天幕内に生活せしむること とし…」というのが実態であった。訓練生は「笹小屋」生活も“体験”した。 一拓で寄宿舎が建設され、新しい宿舎に入所したのは1935(昭和 10)年2月であった。 寄宿舎は経済農場内に建てられたが、建坪96坪の本屋と20坪の附属舎からなっていた。 「各部屋12畳、押入付の和室、南側半間の廊下と障子で仕切られ、職員室も同じ様式で並 び板敷の講堂兼武道場と食堂兼教室が続き…」という状況であった。 一拓では、この新寄宿舎に「明眞寮」と名付けた。 「明眞」とは、一拓の綱領の第5項「明 朗純真」から採った。この明眞寮は残っていない。跡地に岩手大学農学部附属御明神演習林 の管理事務、実習教育のための建物が一棟建っている。岩手大学における一拓の唯一の痕跡 は、その建物の前庭に建立されている「明眞寮跡」と刻まれた石碑だけである。 碑文にはこうある。 昭和八年より同二十年まで 盛岡高等農林学校に附置された 文部省第一拓殖訓練所の修了生二六五名 この地を巣立ち世界に飛び 北に南に 沃土を拓き気高く土に生きた 若き世代を偲ばん 麗しい青春を守る明日に糧に 揮毫者は関碑建立当時の岩手大学農学部長石川武男 である。日付は昭和53年6月15日。石川武男は 2002年9月9日逝去した。81歳であった。 雫石町在住者で、この一拓に学んだ者は次の三名である。 ① 太田原 清 光 氏 (昭和 10 修了・天戸 故人) ② 小田中 民 夫 氏 (昭和 17 修了・中町 故人) ③ 高 橋 重 夫 氏 (昭和 20 修了・極楽野 ) 23 化物丁場 (ばけものちょうば) 宮沢賢治さんの作品のひとつに「化物丁場」という短編があります。実はこの物語、雫石 (御明神の赤渕駅近く)が舞台となっています。 まずはその作品ついて紹介します。 この作品は――鉄道線路を舞台にした、童話というより随筆的な形をとって います。物語は、作品中の「私」つまり賢治自身が和賀仙人の鉱山に行く軽便 鉄道に乗り、そこで他の乗客から盛岡から雫石の橋場に至る軽便鉄道「橋場線」 の工事中の現場が何度となく原因不明の土砂崩れに見舞われ、その区間が『化 物丁場』と呼ばれ気味悪がられている、という話を聞く、というものです。作 品の中で賢治さんは土砂崩壊の原因を地質学的に分析して見せますが、一方で 「(盛られた砂利を)まだいたづらに押してゐるすきとほった手のようなものを 考えて…」という表現にみられるように、自然への畏怖の念も込められている といわれています。 大正12年頃に書かれた作品で生前には未発表でした。 この場所は田沢湖線の春木場駅と赤渕駅の間で、鉄道と国道が並行して走る区間です。秋 田に向かって右手に高い崖地があり、これまでも何度も土砂崩れが発生し、そのたびに土留 め工事や防災林の植栽などが行われてきた個所です。そこが今回また大きく崩れたのです。 右の写真がその崩壊現場(25・9 月撮影)です。 【県立大学米地教授が作品の制作背景に…】 2001 年 11 月に当町で開催した宮沢賢治イーハトーブ センターの地方セミナー「牧場の光と風と星のまつり」 の講演で講師の岩手県立大学の米地文夫(よねち ふみお) 教授が「化物丁場」を取り上げ、その作品背景に迫りま した。 ✿ 米地先生は講演で「 (現場)一帯は山津田層に属する 凝灰岩や凝灰質砂岩、シルト岩などの互層で、西南に 15 度の傾斜をなし、その山裾を切った、いわゆる流れ 盤の切り取り法面となったため安定を失い、地すべりが 生じたらしい。 」と述べ、作品中に出てくる『鉄道院の 検査官が分析した原因』をほぼ肯定しています。その上 で賢治さんが自然への畏怖感を抱いたのは、この年、 1923(大正12)年の9月に発生した関東大震災の恐ろ しさが身にしみていたからであろうと推察しています。 それを米地先生は賢治さんの詩連作作品「風景とオルゴ ール」をもとに検証しようとしたものでした。 ✿ それにしても、地球で起きる事件全般について、あれほどの関心を抱く賢治さんが15 万人と いう空前の死者行方不明者を生んでしまった関東大震災に直接言及していないのは不思議なこ とです。 (※1923 年 9 月 1 日は賢治 27 歳のとき。この地震の被害について幾分の言及があるほ か、 被災者への賢治さんの見舞い状の下書は残されている。)このことについては今後別な機会 を見て考えてみましょう。 24 14・県立雫石高等学校・賢治詩碑 県立雫石高等学校の校門を入る と直ぐ左側にきれいに刈り込まれ れた生垣があります。 そこの一番グラウンド寄りに賢 治さんの詩「生徒諸君に寄せる」 の碑が建っています。 〔詩〕 生徒諸君に寄せるから 諸君よ 紺いろの地平線が膨らみ高まるときに 諸君はその中に没することを欲するか じつに諸君は此の地平線に於けるあら ゆる形の山嶽でなければならぬ この碑は、昭和 55 年、岩手国体 10 周年記念にあたり当時在職していた登山愛好の教師が 発案して設置した詩碑。碑文はかつての本校である県立盛岡第一高等学校の校地にあるもの と同じ「生徒諸君に寄せる」である。 碑の場所から見える岩手山に連らなる山々に似合いの碑文である。 25