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Smdies 。n the Japanese Phiーantm。py Since Meiji Era, ーThe Case

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Smdies 。n the Japanese Phiーantm。py Since Meiji Era, ーThe Case
愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
67
近代日本のフィランソロピーに関する研究
一松坂屋・伊藤次郎左衛門祐民を例に*一
竹本悟史*㌔皆川修吾
StUdies on the Japanese Philanthropy Since Meiji Era.
−The Case of MATSUZAKAYA and
Jirozaemon−Suketami ITO一
Satoshi TAKEMOTO, Shugo MrNAGAWA
はじめに.
伊藤次郎左衛門祐民(1878∼1940)は、日本が近代化の道を歩み始めた時期に生を受け、
名古屋の近代化と発展のために、いとう呉服店(後の松坂屋)を会社組織化し、名古屋で初
となるデパートメントストア、すなわち百貨店を開業させた。単に百貨店開業だけでなく、
明日の名古屋を夢見て名古屋の発展という、数々の公共のための役職に就いて尽力していっ
た。また、名古屋市郊外の覚王山の地に、 「揚輝荘」と名付けた別荘を造営し、内外名士と
の社交や交流活動の場となった。
この時期に、同時に、一人のビルマ人僧侶との出会いから始まった、アジア各国からの留
学生受け入れ事業があった。揚輝荘を舞台とし、名古屋とアジアとの国際交流・教育活動が
行われたことは見逃してはならない。この活動は、第2次世界大戦終戦の年まで続けられ、
祐民の理想の花開いた世界がそこにあったのである。
従来より、西洋から来日したキリスト教宣教師をはじめとする、キリスト教精神のフィラ
ンソロピーの研究はなされてきており、名の知れたものも数多くあるが、本稿では、揚輝荘
留学生事業を中心に、日本の伝統思想や、日本の古い商家によるフィランソロピーの一例を
見ていき、名古屋地域における近代化の時代によるフィランソロピーを再評価してみようと
するものである。
フィランソロピー.
従来より、日本では、「フィランソロピーはキリスト教特有のものなので、キリスト教の伝
統がない日本ではフィランソロピーはなじまない」という指摘が往々にしてなされているが、
実際に日本の「フィランソロピー」とその歴史を見てみると、西洋のキリスト教に劣らない、
* 本稿は、竹本悟史の修士学位論文「近代日本のフィランソロピーに関する研究一松坂屋・伊藤次郎左衛
門祐民を例に一]を、指導教員皆川修吾教授の監修のもとに、本論集向けに再編集したものである。
**
、知淑徳大学大学院文化創造研究科国際交流専攻
68 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
むしろ、西洋には見られない、日本独自のフィランソロピーやその思想・伝統があり、その
特徴としては、特筆に価するものも少なくないことに気づく。
本稿では、竹本は、「フィランソロピー」を、民間・民間人が、「世のため人のため」「公
共の利益(公益)」のために確固たる意志を持って尽力するもの(活動)と定義し、林雄二
郎・今田忠(1999)および林雄二郎・加藤秀俊(2000)に倣い、「フィランソロピー」とい
う語に統一して使用していく。
フィランソロピーは、もともとは「人類愛」というギリシャ語由来のものであり、キリス
ト教の「隣人愛」 「アガペー」、仏教の「慈悲」 「布施」、儒教の「仁愛」といった宗教的
精神に基づく活動が多いが、共通するのは、「世のため人のために」 「公益のために」とい
う意志が大切である。松坂屋・伊藤次郎左衛門祐民の場合では、法句経から採った「諸悪莫
作衆善奉行」という仏教精神による家憲が、世のため人のために・公益のために生かされて
きたのである。
その他、フィランソロピーでは、社会に横たわっているさまざまな課題の解決や克服・防
止を目指すといった、先駆的な役割を担うことへの期待もあるものである。
日本のフィランソロピー.
日本でも、古くは仏教の「慈悲」の精神による、貧民・窮民・ハンセン病患者救済活動や、
濱口梧陵の防災堤防建設・秋田感恩講・大坂商人八百八橋・含翠堂と懐快堂といった、商人
によるフィランソロピーが広く行われてきたが、その多くは、忘れ去られていたり、当事者
以外の一般市民にはほとんど知られていないことが多い。
日本のフィランソロピーの最大の特徴は、「陰徳陽報」である1。すなわち、隠れてこっそ
り行うことが美徳であり、資料もできるだけ残さないのが基本であり、商人が行う場合でも、
営業のPRや顧客獲得のための宣伝に用いることは激しく嫌われていたのである。こうする
ことで、初め℃「フィランソロピー」としての価値が生じると考えられてきたのである。
日本にもあまたのフィランソロピーが、古くから繰り広げられてきたが、結果として、多
くが忘れ去られていたり、歴史として総括されていないことが多いのである。・
松坂屋と伊藤次郎左衛門祐民.
尾張名古屋を代表する百貨店「松坂屋」は、織田信長の元小姓、伊藤蘭丸祐道が、本能寺
の変後主を失い浪人暮らしをしていたのを、1610年の清州越しによる名古屋開府に同行し、
1611年に、名古屋本町にささやかな呉服店「いとう呉服店」を開いたのが始まりである。祐
道は、大坂冬の陣で豊臣方につき戦死したが、彼の遺児である2代祐基から、代々当主は「伊
藤次郎左衛門」を襲名するようになり、代々続く篤い仏教信仰が始まったのである。
伊藤家は、公共への想いが厚く、度重なる飢鰹や災害の折に炊き出しや寄付を行ってきた
1 これを強く主張しているのは、社団法人メセナ協議会の福原義春(2004)である。
近代日本のフィランソロピーに関する研究 69
が、これは、5代祐寿の「掟書」や、13代祐良の家憲「諸悪莫作衆善奉行」といった仏教精
神によるものであり、いとう呉服店の経営精神にも生かされてきたのである。こうした寄付
は惜しまない一方で、14代祐昌に代表されるように、陰徳に務めることも徹底させていたの
である。
伊藤次郎左衛門祐民は、いとう呉服店および後の松坂屋の15代目当主であり、1878年5
月26日に、14代祐昌の四男として誕生し、 「守松」と名付けられた。元来跡継ぎではなか
ったため、自由に育てられ、大変やんちゃな少年であったが、17歳のときの兄(三男)の死
を受け2、ただ一人の跡継ぎとなった祐民は、いとう呉服店を引っ張っていくかなりの重責を
実感したのである。学歴は、当時の古い商家の習慣から、高等小学校卒業であり、それ以降
は、漢学・茶道・和歌・雅楽・謡曲・水墨画などを、家に専門家を招いて習い、徒然草や源
氏物語などの和書も通読していた。
家業に携わるようになると、祐民は、いとう呉服店のデパートメントストア化、すなわち、
百貨店化を、大都市名古屋の近代化・発展のためには必要であると覚り、志すようになった。
1909年に、渋沢栄一を団長とする渡米団に参加し、アメリカの百貨店と国際交流のあり方
を学び、帰国後の1910年に、いとう呉服店を会社組織化し、社長に就任、近代百貨店とし
て栄町に新築開店させたのである。このときに、ビルマ僧ウ・オッタマ(1880∼1939)と出
会い、この出会いが、後の揚輝荘留学生事業へとつながっていくのである。
祐民は、本町改修期成同盟会会長・市区改正調査会委員・興北会会長・名古屋商工会議所
副会頭(後に会頭)などのさまざまな公職に就き、近代都市としての名古屋のまちづくりに
多大な足跡を残した。また、歴代当主と同じく、災害時の炊き出しや寄付も惜しむことはな
く、名古屋ロータリークラブ設立にも中心となって携わり、国内外から多数表彰されている。
1918年から、揚輝荘の造営を開始し、1924年に、父から家督を相続し、15代伊藤次郎左
衛門祐民を襲名、1925年には、全店舗名を「松坂屋」に統一した3。
1933年、予てから公言していた満55歳定年制により、松坂屋社長・名古屋商工会議所会
頭をはじめとする一切の公職から退き、私財100万円を投じて「財団法人衆善会」を設立し、
理事長として、揚輝荘留学生事業や母子支援・隣保事業といったフィランソロピーに余生を
捧げた。
1934年、釈迦降誕2500年を記念し、シャム・ビルマ・インドの仏蹟を巡拝する旅に出た。
ビルマでは、かつてオッタマから引き受けて面倒を見た少年少女達と再会し、インドでは、
念願のオッタマとの再会と4、予てより熱望していた詩人、タゴールと面会することができた。
この旅の際、バンコクで、駐シャム全権公使から、民間でシャム人留学生事業の話を持ちか
2生まれたときは、すでに長男および次男は天折しており、跡継ぎとしてはひとっ年上の三男が健在であ
った。
3それまでは、名古屋の本店では「いとう呉服店」、1772年に買収した上野店では、買収前のままである
「松坂屋」を名乗っていた。
4オッタマは、ビルマ独立運動家としてイギリスからにらまれており、このときはインドの監視下に置か
れていた。
70 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
けられ、これは、帰国後に、シャム人留学生受け入れのための「名古屋日セン協会」5の設立
に至り、1936年からのシャム人留学生の揚輝荘受け入れへと至る。
1939年に体調を崩し、入院・手術をきっかけに、長男に家督を譲り、1940年1月25日
に、満61歳で死去した。法名は「瑞春覚翁道安大徳」、辞世に「世のつとめさはることな
くをへし身のみ親のもとにかへるうれしさ」とある。
松坂屋・伊藤次郎左衛門祐民とフィランソロピー思想.
歴代伊藤家を支えた仏教精神は、13代祐良家憲「諸悪莫作衆善奉行」に集約される。これ
は、法句経第183番「七仏通誠のゲ」6p>ら採られたものであり、正確には、「諸悪莫作 衆
善奉行 自浄其意 是諸仏教」とりあり、 「諸の悪を作る莫れ 衆の善を行い奉れ 自ら其
意を浄くせよ 是れ諸仏の教えなり」と読まれている。
衆善会の名も、この句から採っており、祐民自身も、衆善会は、祖先からの精神を汲んで
具体化したものであると述べ、これは、1933年12月6日に行われた衆善会の発会披露式で
の挨拶の席で、衆善会は、言い換えると「四恩」の中の「衆生恩」に対する報謝の一端とも
’考えていると述べている7。
仏教では、 「生きとし生けるもの」全てに「仏性」を有し、 「縁起」に代表される良好な
相互関係が重要視されるが、これには、悪しきことを捨て、縁起を大切にし、恩に報い、人
を大切にし、人のために善を行うことが求められる。この精神が、歴代伊藤家の商売を支え、
フィランソロピーの面でも生かされてきたのであり、揚輝荘留学生事業をはじめとする祐民
のフィランソロピーは、 「諸悪莫作衆善奉行」の実践である。祐民は、揚輝荘内で、留学生
達には分け隔てなく大切に接し、惜しみない援助と多大な愛情を注いだ。 「諸悪莫作衆善奉
行」は、人間の良好な相互関係である「縁起」により、善を実践することで恩に報い、恩を
高めていくものである。祐民は、恩に報い、人間を大切にし、人間の持っている縁起をフル
に生かし、恩を高めていき、自分の信ずる仏教に帰依する者としての本分を通していたので
ある。
祐民は、近代日本社会への深い憂慮を抱いており、名古屋商工会議所会頭として、 「名古
屋商工会議所月報」に、 「大衆経済時代」 「経済国難と国民の覚悟」 「前途の楽観と一応の
警戒」の3つの小論を寄せている。そこでは、昭和初期の不況の中、政府や各国の景気対策
のやり方を批判・牽制し、一般民衆の「正義は力なり」と「協調」の大切さを説いている。
また、同時に国民に早とちりしてはならないことも述べている。当時としては先見的な見方
であり、現代にも通じる内容として、一読に値するものである。揚輝荘内では、おいしい食
5執筆に用いた「Microsoft Office Word 2003Jでは、シャムを意味するfセンjの字の漢字表記ができな
いため、カタカナ表記で代用した。
6執筆に用いた「Microsoft Office Word 2003」では、
「ゲ」の字の漢字表記ができないため、カタカナ表
記で代用した。
7 「伊藤祐民伝」 1952年 p.339
近代日本のフィランソロピーに関する研究71
料や楽しい会話に溢れる、大変自由な環境をっくり、寮長三上孝基に全てを任せ、仏蹟巡拝
の旅で面会した、インドの詩人タゴールのような人になってほしいことを目指し、留学生達
の協調を図ったのである。
いとう呉服店・松坂屋は、名古屋を代表する老舗百貨店であるが、伊藤家には、 「堅実」
を旨とする「名古屋式経営」 「名古屋商法」とは異なる「いさぎよさ」が見られる。
これは、伊藤家の先祖が織田信長の小姓であったため、楽市楽座などに代表される信長の
りベラルな様を間近で見、その精神が受け継がれ、信長のように、合理的で古い慣習にとら
われず、思い切って迷わず信念に基づいて行動し突き進むものが見られる。そのため、祐民
は、オッタマから引き受けたビルマ人少年少女の受け入れから、シャム人をはじめとするア
ジアからの揚輝荘留学生事業も、自分でよかろうと思い、その厚意から、衆善会や名古屋日
セン協会を設立し、自分の別荘である揚輝荘で一手に面倒を見たのである。
揚輝荘.
揚輝荘は、祐民が、1918年から造営を開始した、名古屋市千種区田代町(現:法王町)の
日泰寺の東隣に築いた別荘である。中区茶屋町の伊藤家や、矢場町の土地などから既存の建
物の移築を皮切りに、近代数寄者としての祐民の好みや思想を反映した、和・洋・中・印・
東南アジアの建築様式を折衷させて取り入れた大小30棟あまりにおよぶ建物が、大正から
昭和初期の20年間にかけて造営された。これらの建物は、内外名士の来訪に備え、茶会・
観桜会・園遊会・観月会8や各種パーティーなどの接待に用いられたり、祐民の後半生の住居
や、留学生の宿舎として使われた。
1945年3月24日夜半から25日未明にかけての空襲で、建物の大半を焼失した他、戦後
は、一時期米軍に接収された後、松坂屋独身寮および常磐女学院の寮9として使われた。また、
高度経済成長期以降のマンション開発により、南北に分断されるなど敷地が著しく縮小した
が、揚輝荘を残したいという声が呼び寄せられる中、土地・建物の全てが名古屋市に寄贈さ
れ、市の有形文化財に指定された。現在は、NPO法人揚輝荘の会が、揚輝荘の維持管理およ
び北園の暫定開放や、揚輝荘と祐民の調査・顕彰事業に努めている。
上坂冬子(1998)は、揚輝荘を、「昭和初期のメセナ」10「セピア色のメセナ」11と呼ん
でいる。
8このあたりは、古くから月見の名所と知られており、「月見坂」との地名があり、現在も「月見坂町1∼
2丁目」「観月町1∼2丁目」「月ヶ丘1∼3丁目」として残っており、近隣マンションにおいても「月見
ヶ丘」の名が多数使われている。
嵓ユ女学院は、もともとは松坂屋の裁縫学校「常盤裁縫塾」であり、松坂屋の社史にはグループ企業の
ページに「常盤女学院」の名が記載されている。
lo上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 序章のタイトル
11上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p254
9「
72 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
ウ・オッタマとの出会いとビルマ人留学生受け入れ.
1910年3月5日、前月に会社組織化したいとう呉服店は、中区栄町の地に「デパートメ
ントストアいとう呉服店」を新築開店させ、近代百貨店としてのスタートを切った。この開
店セールの中、一人のビルマ僧がいとう呉服店の店内に立ち寄った。彼の名はウ・オッタマ
といい、ビルマ独立運動の士として、自身の見聞をもって日本そのものを理解し、日本を見
習いビルマ人を覚醒すべく東奔西走するために、浄土真宗本願寺派法主大谷光瑞の招待で来
日していたのである。
祐民は、店内を見渡しているオッタマを発見し、信仰から来るこの上ない仏縁を感じ取り、
彼を呼び寄せ、店の貴賓室や伊藤家本宅に案内し、ていねいにもてなした。オッタマをいた
く気に入った祐民であったが、最初は二人の間に政治上の会話はなかった。しかレ後にオ
ッタマとビルマ人の教育の問題について話すと、オッタマは、宗主国であるイギリスは、ビ
ルマ人には、数学や理科といった科学的な教育を受けさせないことから、科学的な知識を身
に付けさせるために日本で教育させることを思い立っと、祐民は、ふいと「私が引き受ける」
と返事をした。これは、その場限りの雑談のつもりであったが、1913年5.月に、神戸港に6
人のビルマ人少年少女が祐民を求めているという知らせを受けると、オッタマとの会話を思
い出し、最初は途方に暮れていた祐民であったが、今更帰すわけにはいかず、一手に引き受
けることとなった。この6人のビルマ人少年少女は、伊藤家本宅および中区老松町に設けた
「ビルマ園」と名付けた家庭教育施設で面倒を見ることとなり、小学校教師を招いた日本語
教育から、専門の教師による数学や英語などさまざまな教科を学ばせた。
この6人は、最大6年間日本に滞在し、新潟県へ石油の勉強へ行った少年や、京都の手芸
学校で学んだ少女もいた。ビルマ園・学校での勉強の他、祐民の子供達とは実のきょうだい
のように遊び、少女達には、伊藤家の来客の接待までさせていたという記録が残っている。
これは、祐民を杞i憂から胸をなでおろすこととなり、後の留学生事業につながる大きな自信
となっていった。このビルマ人少年少女とは、1934年の仏蹟巡拝の際に、地元住民の大歓迎
に包まれながら再会を果たし、そのうちの一人は、ラングーンにある日本語学校で日本語を
教えていたのである。
シャム人留学生事業.
1934年の仏蹟巡拝の折、バンコクで駐シャム全権公使から、民間でシャム人留学生事業の
話を持ちかけられ、帰国後、シャム人留学生受け入れ事業を開始した。名古屋には、シャム
から送られた、日本で唯一仏舎利を祀る覚王山日泰寺があり、揚輝荘も覚王山の地にあると
いう仏縁から、留学生招聰機関として、 「名古屋日セン協会」を設立し12、留学生の保護監
督などの実務は、祐民が設立した衆善会が担った。この留学生事業は、民間による事業であ
12名古屋日セン協会規則第4条第3項には、「日セン両国ノ仏教に関スル調査研究ヲ助成シ仏徳ノ宣揚に努
ムルコトJとある。「伊藤祐民伝」 1952年 p。366
近代日本のフィランソロピーに関する研究73
るが、名古屋市が協力しており、官民協力によって一都市が給付留学生を招くのは、祐民が
日本で最初のことであった・3。
留学生は、1936年の第1次(4名)、1937年の第2次(2名)、1939年の第3次(3名)
と、3次に渡って来日し、揚輝荘に設けられた「衆善寮」に入り、祐民と一緒に生活を送っ
た。
留学生の選抜方法については、第2次の一人、ソンポン・リトラクルが上坂冬子(1998)
の中で述べている・4。シャムの中学校課程を修了したソンポンは、担任から日本の留学生試
験があることを伝えられた。当時の条件として、年齢は13歳以下であり、初等・中等教育
を終えていることが条件であった・5。合格予定者は2人、費用は日本の「百万長者」が全額
負担すると伝えられたという。最初に算数とアジアの歴史についての筆記試験があり、これ
に合格した者は、次に駐シャム日本公使から英語での面接試験があった。500名ほどの受験
者のうち、ソンポンとエーク・サンカスバナの2名が最終的に合格し、第2次揚輝荘留学生
として名古屋にやってくるのである。なお、第2次では、祐民の教育方針から、13歳以下と
いう年齢資格カミ設けられ、18∼19歳で来日した第1次とは異なっている。
以上の9名は、名古屋日セン協会給費留学生として、学費や生活費は全て名古屋日セン協
会から支給されていたが、その他にも私費またはシャム国費留学生ながら、揚輝荘に寄宿し
ていた者もいる・6。
祐民は、留学生と一緒に揚輝荘の邸内で生活し、留学生達に自分の家族同様に分け隔てな
く接し、惜しみない援助をし、多大な愛情を注いだが、留学生のいる衆善寮の実務や運営に
はほとんど口出しをせず、全てのことは一切衆善寮寮長三上孝基に一任した。それどころか、
揚輝荘に、自分の干支と同じ戊寅年生まれの名士を集め、 「戊寅会」と名付けた洒脱三昧の
目々に明け暮れていた。名士との社交や、和歌・俳句を詠む日々の生活を送っていたのであ
る。さらに、家伝文書の整理や家史編纂にも力を注いでいる・7。三上は、寺に生まれ、東大
でインド哲学を修めた後は、愛知県社会事業主事や数々のセツルメントに携わってきたが、
祐民の信頼厚く、衆善会設立とともに祐民に抜擢されたのである。三上は、衆善会のマネジ
メント(人・モノ・金)の全てを任され、祐民はそれに口出ししないことを旨とした。三上
がプランを作成し祐民に見せると、祐民は、 「よかろう」の一言で通したのである。
13「伊藤祐民伝」 1952年 p.366
14上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年pp.144∼145
15シャムでは、1885年以来、ラーマ5世(チュラロンコン大王)による近代化改革「チャクリー改革」が
行われ、教育制度が整備されていった。ラ・・一一マ6世の時代には、義務教育制度が導入された。また、シ
ャムから現代のタイにかけて、海外留学は一種のステータスである。
16 「伊藤祐民伝」 1952年 p.369
17祐民の研究により、10代目として、唯一の女性当主宇多(喜代)が加えられた。中日新聞社編集「十五
代伊藤次郎左衛門祐民追想録」松坂屋 1977年 p.101
74 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
その他の留学生事業.
日中戦争の進展により、中国への文化活動が叫ばれ、新たに中国人留学生6名を揚輝荘に
受け入れることとなった。祐民の死後は、揚輝荘全体を留学生寮として開放しようとする議
が起こり、留学生達が学んでいた学校側においても、外国人留学生が時局柄、食住の生活に
困っている実情とその解決策を模索していた中、たちまちこの議がまとまり、揚輝荘全荘を
「衆善寮」として、国内外の学生を寄宿させることとなった。結局、揚輝荘には、公費・私
費併せて、シャム(タイ)18・中国の他、朝鮮・満州・内蒙古・マライ・インド・インドネ
シアからの留学生も集まり19、さらには日本人学生も寄宿するようになった。多いときには
最大40名を越す学生が揚輝荘に滞在し、上坂冬子(1998)の記述には、現存する名簿に記
載されているだけで、日本人21名、タイ人7名、内蒙古人2名、支那人15人、満州人8人
が寄宿していたとある20。また、男子学生のみならず、2名の朝鮮人女子学生もおり、桜花
高等女学校(現:桜花学園高等学校)に入学していたことも分かっている。日本人学生も寄
宿するようになったのは、日本人学生も同宿させて日常的に交流を深めたほうがいいと方針
が変わったためである21。揚輝荘内での日常用語は、唯一の共通言語として、日本語が用い
られた。
先のタイ人留学生を含めて、外国からの留学生は、来日後、揚輝荘内で日本語教育を受け、
日本語の習得後は、男子の若年学生の場合は、愛知県立第一中学校(一中 現:愛知県立旭
丘高等学校)・愛知県立明倫中学校(明倫 現:愛知県立明和高等学校)に入学し、中学卒
業後は第八高等学校(八高 現:名古屋大学)、そして名古屋帝国大学(名大 現:名古屋
大学)に入学した。中学校の成績が優秀だったため、飛び級で八高そして名大に進学した学
生も少なくない。高年留学生は、日本語習得後にそのまま八高に入学している。
1938年に国家総動員法が制定され、1941年には太平洋戦争も始まり、食糧事情は次第に
逼迫していき、主食はもとより肉類魚介類全ての食料が入手困難な中、揚輝荘専属の中国人
料理人易東生の献身的な努力により22、食欲旺盛な年齢にある学生達の食生活の責任の一切
を引き受け、さまざまな料理を振舞った。また、学生たちのそれぞれの国の料理をつくって
揚輝荘内で振舞い、タイ人留学生の場合は、夏休みに一時帰国したときに干しドリアンやコ
コナッツミルクを持ち帰り、ココナッツミルクはカレーの具材に使われ、中国人留学生の場
合は、牛の骨の髄のスープをつくり、皆揚輝荘ならではのエスニック料理に舌つづみを打っ
たという23。
18シャムは、1939年6月25日に、国名を「タイ王国」と変更した。
19「衆善会のあゆみ 1933−1960」社会福祉法人衆善会1960年 p.19の記述による。
20上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.91
21上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.81
22易東生は、戦後、第三国人としての治外法権にあった立場を活用し、名古屋市内に中国料理チェーン店
「平和園」を開業した。上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年
p.104
23上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.87
近代日本のフィランソロピーに関する研究75
戦時中にありながら、揚輝荘内では、極めて自由な雰囲気が漂っており、学生達は、日本
人も含めて、国籍や身分を問わず、食べ物やお菓子の話人生論や恋愛論について語り合って
いたという。また、食事の際は、箸とナイフ・フォークの両方が必ず並び、宮城遥拝も行っ
ていなかった。庭には、テニスコートも設けられていた。この自由な雰囲気と平静を保って
いたのは、祐民の精神が祐民亡き後もしっかりと受け継がれていた他、祐民自身が寮長に任
命し、一切のことを任せた三上孝基の人徳によるものであり、また、日本人学生の井上俊が
学生達の調整役となっていた24。三上は、揚輝荘内での宮城遥拝を強制する考えなど全くな
く、学生達に指導せず、また、それへの弊害というものも見られなかった25。祐民が三上を
信頼し三上に自由にやらせたように、三上は、学生達を信頼し、学生達の自由に任せていた
のである。三上も、祐民と同じように、学生達に分け隔てなく接し、多大な援助と愛情を注
いだ。
1944年になると、B29による空襲の被害を受けるようになり、地方への疎開や母国に帰
国する学生も増えてきた。
1945年3月24日夜半から25日未明までの空襲は、学生の宿舎である衆善寮をはじめ、
揚輝荘内にある建物の大半を焼失させた。しかし、揚輝荘内の住人は、わずかに残っていた
学生も含めて、一人の死傷者も出さずに全員無事であった。祐民は、揚輝荘の敷地の地下に
排水溝を利用したトンネルを張り巡らせていたので、このトンネルを防空壕とし、このトン
ネルの奥に仮住居をつくり、寝食の用具を持ち込んで穴居生活をしたためであった。
この空襲による被害で、衆善寮を失った揚輝荘は、これを契機として衆善寮もっいに解散
するに至り、1936年以来タイ人留学生を受け入れて以来、また、祐民がウ・オッタマとの出
会いから始まった留学生事業も、ついにここに終わりを告げたのである。
ウ・オッタマとの出会いから始まったビルマ人留学生受け入れ、信仰心とオッタマやビル
マ人留学生と再会すべく足を運んだ仏蹟巡拝の旅から始まったタイ人留学生招聰事業から、
国費・私費留学生を含む中国などアジア各国から多くの留学生が集まり、また日本人学生も
住み込むようになり、揚輝荘留学生事業は、祐民の当初の構想とはかかわりなくずれていっ
たとも見えるが、上坂冬子(1998)は、戦火が激しくなってから、戦時下に行き場を失った
留学生の救済の場となったことを考えると、むしろ当初の構想以上の大役を果たしたと見て
いる26。そして、戦争という困難で暗い時代にありながらも、人間一人ひとりが大切にされ、
国籍や身分に分け隔てなく学生達は揚輝荘で生活を送ることができた。戦争の中でも「縁起」
は生き続け、互いに助け合いながら、アジア各国との若き国際交流の場が、理想郷のように
なされたのは、祐民の精神が「縁起」となり、 「善」となって生かされ続いたのである。上
坂冬子(1998)の中には、上坂冬子が取材した、日本人・内蒙古人・タイ人・中国人元留学
24上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.94・p.98
25井上俊氏の話。竹本が委託したNPO法人揚輝荘の会佐藤允孝氏のヒアリング調査による。
26上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.135
76 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一’第10号 2010
生達の、揚輝荘での数々の忘れられない思い出が綴られている他、まとめ役であった日本人
学生井上俊も、揚輝荘内での、自由でお互いに生活を楽しむ雰囲気で、国際的コミュニティ
を構築し、おいしい食事を含めて、楽しく懐かしい思い出ばかりであると述べている27。
「伊藤祐民伝」 (1952)には、 「商工会議所やロータリー倶楽部関係を主とした欧米人士
には、華やかな儀礼的交際と思われるのに対して、東亜諸方の人々への交誼は、宗教教育等
に根ざした深い理想を持つ何か精神的なものが感じられる」とある28。祐民は、渋沢栄一に
随行した、1909年のアメリカ視察旅行以降、「名古屋の顔」として、積極的に国際交流を行
っており、揚輝荘にも多くの外国人が招待されている。祐民は、名古屋が外国の要人を歓迎
する施設も組織も持っていないことを痛感し、要人は皆、名古屋飛ばしにより東京や関西へ
行く者が多かったので、名古屋駅での外国要人への花束贈呈を何度も行っている。名古屋ロ
ータリークラブを設立したのもその一環であった。名古屋商工会議所会頭としても、数々の
国際交流パーティーを行っている。しかし、資料を見る限り、それらはほとんど、社交的で
儀礼的な第一印象を受けるが、揚輝荘留学生事業に関しては、外国人との交流の拠点である
他、もとからの信仰心およびオッタマとの出会いからの、「諸悪莫作衆善奉行」から来る「仏
縁」によるものが感じられる。
その他の活動.
揚輝荘留学生事業の実施機関として中心になった、祐民のフィランソロピー助成・実施機
関である財団法人衆善会の初期の事業は、各種社会事業団体に対する助成や1母子寮事業を
はじめとする困窮家庭の援助・災害救援・慰問を行うものであった。1936年9月に着工さ
れ、翌年4月に落成した、鉄筋コンクリート製3階建ての隣保館、「衆善館」は、現在の中
区新栄の、住宅が密集しており不衛生な地域の住宅改善の一環として、その中心となる隣保
事業のシンボルとして建設された。衆善館には、乳児院・保育園・学童クラブが設置され、
2階に設けられた仏間では、毎朝全職員と授産員が集い、館長の導師で勤行礼拝をするのが
ならわしであった29。
1943年から、衆善館は軍に接収されたが、戦後1949年に返還され、しばらく愛知県が一
部を借り上げた後、1951年に乳児院が、1953年に保育園が再開された。なお、1952年に、
財団法人から社会福祉法人へと改組している。
1960年から、隣保事業も本格的に復活し、長らく子ども会やクラブ活動・レクリエーショ
ンの場として親しまれてきたが、後に名古屋市内の小学校学区単位に「コミュニティーセン
ター」が設置・拡充されていったため、衆善館の隣保事業はその役目を終えた。
1986年3月3日、衆善館は解体され、旧王子小学校跡地に移転した新しい衆善会の建物
27井上俊氏の話。竹本が委託したNPO法人揚輝荘の会佐藤允孝氏のヒアリング調査による。
28「伊藤祐民伝」 1952年 p.295
29「衆善会のあゆみ 1933−1960」社会福祉法人衆善会 1960年 p.9・「衆善会のあゆみ60年」社会福祉
法人衆善会 1993年 p.30
近代日本のフィランソロピーに関する研究77
が竣工し、同年、夜間保育園の設置が認可された。
現在、社会福祉法人衆善会は、児童福祉法に基づき、乳児院・保育園・夜間保育園の3っ
の事業を行っている。
衆善会の事業も、祐民が当初目標としていたものとは、現代では幾分か異なっており30、
子供のための福祉事業に特化しているが、昔は捨て子が問題であったのが、親や経済的な事
情による数々の子育てへの障害や、児童虐待などの問題がメディアなどで頻繁に取り上げら
れている昨今の現状は、社会に対する憂慮が非常に大きいことの写しでもあり、このような
面から、乳児院・保育園・夜間保育園の意義は決して小さいものではなく、むしろ、 「諸悪
莫作衆善奉行」の精神に合致し、留学生事業と同じく、人を大切にする人を育て上げること
に、大きな期待があるものと思われる。
結論
以上、祐民の生涯と、祐民のフィランソロピーを支えた精神、そして、祐民のフィランソ
ロピーの例を見てきた。
祐民のフィランソロピー、ことに、揚輝荘留学生事業は、分け隔てなくあまねく、名古屋
に滞在する・揚輝荘に暮らす留学生達のためというものであり、次第に日本人学生も対象と
するようになった。それは、 「諸悪莫作衆善奉行」の精神をもって、人と縁起を大切にする
ことで、恩に報いるものである。衆善会・名古屋日セン協会という民間組織による事業であ
ったが、それは、祐民個人の厚意・信仰心・仏縁から来るものであり、松坂屋の経営・営業
とは切り離されており、松坂屋に直接的に利益をもたらすようなものではなかった。留学生
達は、日本で勉学を終えた後は、そのまま日本で松坂屋に就職するというものではなかった。
日本での勉学の後は、母国に帰って母国で働き、母国のために役立つ人間になってほしいと
いうものであった。折りしも、戦争という時代の真っ最中にあって、祐民の当初のイメージ
とは異なる社会状況に陥ってしまったが、「諸悪莫作衆善奉行」の精神をもって、人と縁起
を大切にすることを厭わず、最後まで留学生のためにと自分の別荘を宿舎として提供し、留
学生達の自由に任せたことは、三上寮長も含めて、大いに再評価するべきものである。
「伊藤様はビジネスマンとしての印象よりジェントルマンの印象が強い人でした」 (ソン
ポン・リトラクル)31「日本とタイの関係を考えれば、あの時代に日本人がタイの子供を世
話する気になったのは、日本としても利益があったからだという見方をした人も私の周辺に
はいました。しかしあのプログラムは公私ともに利益など眼中になかったと私は思います。
第一次留学生として日中戦争前に揚輝荘衆善寮にたどり着いた私の生活経験を振り返るにつ
けても、スポンサーは純粋にタイに親しみを感じてくださったとしか考えられません。それ
302009年10月9日 NPO法人揚輝荘の会 佐藤允孝氏の話。
31上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.150
78 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
に三上寮長は利害など全く無関心な人でした」 (チャムノン・パフーラット)32と、タイ人
留学生達は、後年にその思い出を語っている。
近代数寄者として、国際情緒溢れる自分の好みをあしらった、内外名士社交の場である揚
輝荘を留学生宿舎として開放したが、空襲による建物の焼失・戦後.O米軍接収や松坂屋独身
寮・常盤女学院の寮としての利用があり、戦後の混乱の中、衆善会もすんなりと元の活動に
戻ることができず、戦後復興・高度経済成長へと進み、マンション開発により、揚輝荘その
ものも当初の姿を大きく変えてしまった。急激な時代の変化の中で、衆善会は、乳児院・保
育園事業に勤しむ一方で、先代理事長の理想をそのまま継承することは、困難であったとい
える。さらに、財団法人から社会福祉法人へ改組したことも、戦前までの公益法人による助
成・救援・慰問と学生の育英という総合的な事業から、乳児院・保育園という福祉事業に特
化することへの大きな転機となったといえよう。従って、常盤女学院という一企業設立の専
門学校の寮という用途もあるが、戦前のように、国際交流の拠点として、国内外の学生を×
勢呼び寄せて寄宿させ、学生達の自由に任せる環境づくりということは、よほどの数寄者か
理念の高い者でなければ、再開させることはほぼ不可能である。
松坂屋の方も、戦後の経営は、実務を握っていたのは、社業を知り抜いた生え抜きの「番
頭」であり、創業家の社長は象徴的な存在であった33。16代祐弦の死去直後の1985年4月
11日の臨時取締役会で、伊藤家直系社長洋太郎(祐弦の長男・後の17代祐洋)が突如解任
され、経営と資本の分離が図られ、松坂屋イコール伊藤次郎左衛門の時代は終わりを告げた。
また、1997年の総会屋利益供与事件での信用失墜や、2005年から翌年にかけての村上ファ
ンド騒動・2007年の大丸との経営統合(共同持株会社「J.フロントリテイリング」設立)
など、めまぐるしい動きの中、かつての「いとうさん」と親しみを込めて呼ばれていた頃の
面影は、かなり小さくなってしまった。その中で、祐民のようないさぎのよいフィランソロ
ピtができるという余地というと、祐民そのまま行うことは困難であり、また別のあり方が
求められる。
衆善会の理事の一人は、衆善会設立後の運営の参考にするため、実際に欧米に足を運び、
各国のフィランソロピーを学び取ったが、その中で、パリの百貨店サマルチン(サマリテー
ヌ 現在は閉店)の店主が、利益の大半を自社経営の社会事業施設に投じ、顧客である市民
に、社会施設を通じで還元していくことに深い興味を感じている34。サマリテーヌの創業者
は、苦しい少年時代を送ったが、行商人から百貨店へと成長し、彼の築いた莫大な富で、美
術品を多数集め、そのコレクションは、「コニャック・ジェイ美術館」として市民に公開し
たのである。サマリテーヌは、全ての人と美を分かち合うことを願っていたのである35。松
32上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.180
33安保邦彦「中部の産業 構造変化と起業家たち」清文堂出版 2008年 pp.262∼263
34
@「衆善会のあゆみ 1933−1960」社会福祉法人衆善会 1960年 p.16
35マダム・ド・モンタランベールのミュゼ訪問(21)「コニャック・ジェイ美術館」より
http:〃www.museesdefrance.org’museum/serializelmont−back/0804/montalembertO2.html
近代日本のフィランソロピーに関する研究79
坂屋では、1991年に本店声館が完成し、.7階に「松坂屋美術館」が開設された。当時、日本
では、企業メセナが盛んな時代であり、松坂屋・伊藤家の古い文物を展示するものではない
が36、名古屋を代表する美術展展示会場のひとつとして、一種のフィランソロピーとして見
る趣もできる。
祐民が、フィランソロピーをはじめ、家風による「いさぎよさ」が見られるこのようなこ
とを大胆に行うことができた背景には、祐民が、多大な蓄積のある松坂屋のオーナー経営者
であったからこそできたという指摘が見られる37。確かに、清州越し翌年からの創業以来、
名実ともに長い伝統を有する呉服店・百貨店であり、歴代からの蓄積の重みがあるのは事実
である。しかし、そのすぐ後には、蓄積のあるオーナー経営者であっても他でもできるか・
自分の在任期間中に時間的視野が限定されるサラリーマン重役あがりのトップには無理か、
という問いかけにも、やはりノーであると銘打っている38。やはり、そう早合点するのは無
理である。
祐民が、なぜ、この時代に、国際情緒溢れる自分の広大な別荘を留学生寮として開放し、
自由にまかせて寄宿させていたのか、自身では直接多くのことは語っていない。しかし、三
上は、祐民が、フィランソロピーに大いなる希望を持ち余生を捧げるつもりであったことを
述べており39、 「諸悪莫作衆善奉行」の精神をべ一スに、社会憂慮や家風からよかれと思い
遂行していったものであった。内蒙古人留学生の一人、医師であるウチリラトは、 「個人と
して大陸やアジアの留学生を招いて育てようと思い立った伊藤さんの真意は何だったのか。
いまでも、いやいまだから私は知りたいと思います」と述べている40。
そこで、竹本は、まず、祐民を支えた「諸悪莫作衆善奉行」とは何かということを読み解
いてみた。その結果、単に「諸の悪を作る莫れ 衆の善を行い奉れ」という書き下し文のみ
には現れない、悪しきことを捨て、縁起を大切にし、恩に報い、人を大切にし、人のために
善を行うことが明らかになった。そこに、社会憂慮から「協調による正義」の必要性を加え、
信長以来のりベラルな「いさぎよさ」からよかれと思ったことを加え、祐民のフィランソロ
ピー精神が形成され、その実践行動が伴われたのである。そこには、跡継ぎを自覚してから、
改めて身につけた伊藤家歴代の信仰心を、祖父・父の行動の様から学び取ったことや、揚輝
荘の隣が覚王山日泰寺であることも、 「仏縁」として加味できるものである。また、近代都
市としての名古屋の国際交流という視点もあった。
祐民のフィランソロピーには、 「諸悪莫作衆善奉行」という仏教精神が、世のため人のた
めという公益のための精神がべ一スにあり、フィランソロピスト・ジェントルマンとしての
36伊藤家・松坂屋の文物展示は、2003年に名古屋市博物館で開催された。「名古屋市博物館企画展展示図録
名古屋の商人 伊藤次郎左衛門 呉服屋からデパートへ」名古屋市博物館 2003年 に詳しい。
37中日新聞社編集「十五代伊藤次郎左衛門祐民追想録」松坂屋 1977年 pp.22∼23
38中日新聞社編集「十五代伊藤次郎左衛門祐民追想録」松坂屋 1977年 pp22∼23
39NPO法人揚輝荘の会編著「東海風の道文庫 揚輝荘と祐民 よみがえる松坂屋創業者の理想郷」風媒社
2008年p.158
40上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年 p.80
80 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
祐民を形成させ、近代日本のフィランソロピーのうち、宗教、そして仏教が果たしたものの
中でも、特筆に値する活動を実践することができたのである。
近年、百貨店業界は大変厳しい状況に置かれている。名古屋でも、在名の百貨店は全て、
2009年10月の売上高は大幅なマイナスである41。松坂屋も例外ではなく、全国規模で不採
算店舗の閉店が続いている。この厳しい中、フィランソロピーに資金を投じるということも、
そう容易くできるものではないことは、念頭に入れざるを得ない。
オーナー経営者だからできる・経営状況が厳しいからできない、で、企業のフィランソロ
ピーは片付けられるものではない。昨今、CSR(企業の社会的責任)が声高に叫ばれている。
そこには、日本社会の急激な少子高齢化・世界規模の環境問題と経済金融危機はもちろんの
こと、コンプライアンス(法令遵守)やコーポレートガバナンス(企業統治)・行政やNPO
との協働という、企業の置かれている責任が求められている。企業も社会の一員であり、「企
業の社会性」「企業市民」という言葉がそれを表している。それに伴い、企業もフィランソ
ロピーを行い、社会とのよりよい関わりを図らなければ、21世紀の企業社会は成立できない。
しかし、企業にとって、 「よいこと」 「イメージアップ」 「見返りがある」だけでは、単に
一過性のものに終わってしまう。そこには、やはり、「精神」「思想」「理念」「ビジョン」
が求められる。それには、かつては美徳とされてきた「陰徳陽報」も、「清貧」 「いさぎよ
い」をイメージさせるにはいいものもあるが、アカウンタビリティー(説明責任)が強く求
められている現代社会では、「陰徳陽報」に終始するには、活動にもファンドレイジング(資
金調達)にもおのずと限界が見えてくる他、「意図的に隠す」「隠れてこそこそやっている」
との、マイナスイメージで捉えられることもあると思われる。もちろん、企業単独で行うに
しても、社会システムが高度に専門化している以上、一企業のみではやはり限界がある。従
って、行政や、ことにNPOとの協働がひとつのキーワードとなってくる。企業財団による
NPO助成の充実はもちろんのことだが、企業とNPO・消費者が「顔の見える関係」でつな
がらなければならない。その中で、インターネットでのクリック募金もが盛んに行われてお
り、寄付者である企業と募金者である消費者・実施機関であるNPOとをマッチングさせる
サイトを運営する企業や、社会起業家として活躍する例もあり、CSR・フィランソロピーを
仲介・コーディネートする体制づくりも現れてくる。
祐民の場合でも、祐民・松坂屋の直接的な行動ではなく、衆善会・名古屋日セン協会とい
う、広義でいう「NPO」を設立してフィランソロピーを実践していたが、従って、祐民の死
後も続けられたと見ることができ、名古屋市の協力があったことからも、当時としては先進
的と見る運びもできる。
いずれにしても、企業がフィランソロピーを行う意義と責任は、決して今に新しく始まっ
たものではなく、日本でも古くから行われてきたものであるが、現代社会において、企業は
どのようにしてフィランソロピーを行い、消費者とのつながりや行政・NPOとの協働はもち
41中日新聞 2009年11月3日
近代日本のフィランソロピーに関する研究81
うんのこと、世のため人のため・公益のために、フィランソロピーの「精神」 「思想」 「理
念」 「ビジョン」を醸成していくためには、先人達の偉業を学び取り、評価できるものは積
極的に評価し、反面教師となるものは、いかにして現代に改良させていくかが求められる。
その上で、人と縁起を大切にする「諸悪莫作衆善奉行」による松坂屋・伊藤次郎左衛門祐民
のフィランソロピーを見ていくことは、日本のフィランソロピーを考えていく上で、決して
外すことのできないことである。
参考資料.
・安保邦彦「中部の産業 構造変化と起業家たち」清文堂出版 2008年
・伊藤次郎左衛門「大衆経済時代」名古屋商工会議所月報昭和5年1月号 1930年
・伊藤次郎左衛門「経済国難と国民の覚悟」名古屋商工会議所月報昭和7年1月号 1932年
・伊藤次郎左衛門「前途の楽観と一応の警戒」名古屋商工会議所月報昭和8年1月号 1933年
・伊藤祐民「戊寅年契」 1938年(非売品)
・上田實{江戸期・明治期における伊藤次郎左衛門家の企業者活動」名古屋文理短期大学紀要第20号 1995
年
・NPO法人揚輝荘の会「揚輝荘」 2008年(揚輝荘内販売資料)
・NPO法人揚輝荘の会 編著「東海風の道文庫 揚輝荘と祐民 よみがえる松坂屋創業者の理想郷」風媒
社 2008年
・上坂冬子「揚輝荘、アジアに開いた窓 選ばれた留学生の館」講談社 1998年
・澤田天瑞 調査「中部庭園同好会創立四十周年記念 日本庭園学会現地研究会(庭園の鑑賞と研究) 揚
輝荘庭園)中部庭園同好会 2000年
・高木傭太郎「伊藤次郎左衛門祐民の社会活動と大都市名古屋づくり(東邦学園大学地域ビジネス研究所「地
域ビジネス研究叢書 近代産業勃興気の中部経済」)」唯学書房 2004年
・高島博「地域づくりの文化創造カー日本型フィランソロピーの活用・」JDC 1999年
・丹下博文「企業経営の社会性研究一社会貢献・地球環境・高齢化への対応一」中央経済社 2001年
・中日新聞社 編集「十五代伊藤次郎左衛門祐民追想録」松坂屋 1977年(非売品)
・林雄二郎・今田忠「改訂 フィランソロピーの思想 NPOとボランティア」日本経済評論社 1999年
・林雄二郎・加藤秀俊「フィランソロピーの橋一こころ豊かな社会を築くためt『一」TBSブリタニカ 2000年
・福原義春「講演録 企業メセナがめざすもの 社団法人企業メセナ協議会第28回通常総会」 社団法人企
業メセナ協議会 2004年
・仏教思想研究会 編「仏教思想2 悪」平楽寺書店 1976年
・仏教思想研究会 編「仏教思想4 恩」平楽寺:書店 1979年
・松坂屋50年史編集委員会「松坂屋50年史」松坂屋 1960年(非売品)
・松坂屋60年史編集委員会「松坂屋60年史」松坂屋 1971年(非売品)
・松坂屋70年史編集委員会「松坂屋70年史」松坂屋 1981年(非売品)
82 愛知淑徳大学論集一文化創造学部・文化創造研究科篇一 第10号 2010
・松原泰道「仏教を読む⑥迷いを超える 法句経」集英社 1984年
・森哲郎「マンガ 松坂屋物語 江戸時代から四百年」鳥影社 2006年
・吉田久一「社会福祉と日本の宗教思想 仏教・儒教・キリスト教の福祉思想」ケイ草書房 2003年
・「名古屋市博物館企画展展示図録 名古屋の商人 伊藤次郎左衛門 呉服屋からデパートへ」名古屋市博
物館 2003年
i「伊藤祐民伝」 1952年(非売品)
・「衆善会のあゆみ 1933−1960」社会福祉法人衆善会 1960年(非売品)
・「衆善会のあゆみ60年」社会福祉法人衆善会 1993年(非売品)
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