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KK AJIY 1 4 - DSpace at Waseda University

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KK AJIY 1 4 - DSpace at Waseda University
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。−周回口
八六
それがほら
巻毛の騎兵たちはあんな風に纏れあった隊列を組んで戦ってる
石まじりのタヴリlダの地のヘラスの技芸
黄金の土地の高貴な錆色の畦だ﹂
一方白い部屋には紡車のように静けさが立ちつくし
﹁憶えている?
酢と絵具と地下倉の新しい葡萄酒の匂いが漂う
金の蜜がゆっくりと瓶から
ヘレネーではない
金羊毛よ
別の女||彼女がどんなに長いこと刺繍を続
ひと
ギリシアの館で誰からも愛される女||
流れ続ける聞に女主人は言った1|
けたか﹂
おまえはどこに
重い海浪は潮路をざわめきとおしていた
金羊毛よ
﹁この哀しい夕、ヴリlダに私たちが辿り着いたのも運命
まるで番人と犬だけが
ここで私たちは退屈なんでしてないわ﹂そう言って振返った
見渡すばかりのパッコスの祭儀
そしてあまたの海で帆をたわめた船をあとに残し
歩いても誰も見当たらない
この世の住人のよう
オデユツセウスは還ってきたのだ
時間と空間に満ち溢れて
平安な日々は重い樽のように転がりゆき
ナ・スデイキナ︵一八八八一九七九︶と彼女の ︵当時の︶夫であ
聞き取れず答えられない
お茶のあと僕らは広大な褐色の庭に出た
るセルゲイ・ユ lリエヴィチ・スデイキン夫妻に献呈しているのだ
遠い小屋で響く声は
暗い窓には簾が臆毛のようにおりている
が、前者のヴェラ・スデイキナは、後に作曲家イ lゴリ・ストラヴイ
ところでこの詩をマンデリシユタlムはヴェラ・アルトゥ 1 ロヴ
白い円柱の傍らを過ぎ僕らは葡萄園を見にでた
ンスキー ︵ 一 八 八 二 一 九 七 二 の妻となる女性であり、 マンデリ
彼女にこの作品を献呈することになるのである。
シユタlムと彼女はロシア草命の直前クリミアで知り合い、詩人が
まどろむ正々には透明な大気が降り注いで
僕は言った||﹁生い茂る葡萄は往時の合戦のよう
そこから国外に亡命している n
[F江田江山口呂、司一
戸ω一クラl ク・
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ホルクイスト
一九七九年にニューヨークで
九一才で亡くなるのだが、亡命と流刑の二十世紀前半のロシア文化
月十一日、 マンデリシユタl ムがスデイキン夫妻のアルシタの別荘
その後ヴェラは数奇な人生を送り、
史を生き抜きながら、 ロシアと西欧の二つの世界でさまざまなジヤ
と葡萄園を訪れた際に書かれたもので、作者はその原稿をヴェラに
一九九 O 一三六]。前節に訳出した詩は一九一七年八
ンルのロシアの芸術家と交わり、自らもその運動にかかわった二十
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クリミアは中世から近世にかけてはクリミア汗固として知られた
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贈っている [
本稿の目的はこのヴェラ・ストラヴィンスカヤの生涯を軸にして、
半島地域だが、古代にはギリシャの植民地として知られ、当時はギ
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世紀ロシア文化史の生き証人ともいうべき人物である。
二十世紀ロシア文化史の死角とも言うべき領域を素描してみること
リシャ語でタウリケと呼ばれていた[ロストウツエフ
一九四四]。
にある。
想像力を刺激してきたのである。トポスそのものから導かれるギリ
このような経緯からこの地域は豊富な古代遺跡によって詩人たちの
クリミアのマンデリシュタlムと
シャ古代への追憶は、この詩では彼女をオデユツセウスを待つベ l
ところで実際のギリシャ神話ではオデユツセウスを待つペ lネロ
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せ る 五 脚 の ア ナl ベ ス ト と い う 韻 律 に よ っ て さ ら に 古 典 古 代 の 文 学
ネロベ l に擬した物語設定や、オウイデイウスのエレゲイアを思わ
スデイキン夫妻
この詩の中で言及されている﹁女主人﹂がヴェラだが、彼女はこ
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司ロ
クリミアの保養地アルシタに滞在していた。 一 八 一 九 年 に は ヤ ル
ベーは織機でラl エルテ l スの経雌子を織ることになっているが、
[回円
タで何回か展覧会が聞かれており、そこに彼女とスデイキンは作品
この詩でベ lネロベ l に擬せられたヴエラが刺繍をしているのはこ
的レミニツセンスへと導かれている
を 出 品 し て い る [。485RSE吋∞一回目15∞]。スデイキン夫妻は
の時の実際の情景に由来するものだという。この時の刺繍はコロン
の詩が書かれた一九一七年から一九年まで、彼女の当時の夫でデイ
こ こ で 、 ク リ ミ ア の コ ク テ ベ リ に ヴ ォ ロ 1 シンをしばしば訪ねてい
ピl ヌとピエロを描いたもので晩年まで彼女の手元にあった。また
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。
たマンデリシユタ1 ムと知り合うことになる。ちなみにやはりこの
彼女が絵を描き始めたのもこの頃であり、翌一八年のヤルタの展覧
アギレフ・パレ l の美術家だった夫セルゲイ・スデイキンと共に東
頃ヴォロ l シンのもとに出入りしていたミハイル・パフチンの兄ニ
会に彼女は自分の最初の作品である何点かのガラス絵を出品してい
八七
コライ・パフチンも一九一八年の春に同じアルシタに滞在しており、
ストラヴィンスキlとマンデリシユタiム
る[印可ω
︿百回答喝の同仰向門店吋∞一
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旦。第五連で言及されている﹁絵具の
匂い﹂は明らかに画家としてのステイキン夫妻を暗示している。
一九六六年にエフトゥシェンコがアメリカを訪問した際、彼女は
一九九八二一 O八
]
。
ストラヴインスキi夫妻に会ってヴェラからこの頃のマンデリシユ
タームの思い出を聞いている [クラフト
配した夫は私にイスラム教徒の女の変装をさせたものです
VA
﹂[印可ω
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叶
伝説的なマンデリシユタ lムの姿を訪併とさせる回想と言えよう。
すから、むしろ他の人たちより飢えていた、と言うべきでしょ
いました。でもその頃はだれもがひもじい思いをしていたので
リシユタ lムとストラヴインスキーが交差するロシア文化史の一側
送った女性だったのだろうか。その軌跡を追ってみることはマンデ
それではこのヴェラ・ストラヴインスカヤとはどのような生涯を
ヴエラ・ストラヴィンスカヤの生涯
ぅ。ほとんど着るものがないくせに、彼は一番見苦しくない着
面を照らしだすことになるだろう。
バケツのヘルメットをかぶっていました。私はマンデリシユ
て押し通ろうとする人たちに間違って押し潰されないようにと
ていたので、床に寝ていた乳飲み子たちは、人ごみをかきわけ
行ったのを憶えています。列車は兵士と難民でひどく混み合つ
いたんです。私はまた彼と一緒の列車でシンフエロ lポリに
派の哲学者のように鼻をならして嘆ぎまわりながら||探して
なく、家の食糧倉庫になにか食べものがないかと||プラトン
前を行ったり来たりしていましたが、それは暖をとるためでは
がありました。彼は遺遥学派の哲人さながら私たちの食器棚の
コiトのほかにはなにひとつまとわずに私たちを訪問したこと
オペラ、演劇に熱中し、なけなしの金をはたいて劇場に通った。
チュ lドは評判になったという。 モスクワ時代にヴェラはバレーや
強 は そ の ま ま 続 け 、 リ サ イ タ ル で 演 奏 し た ス ク リ ャ lピンのエ
彼女はモスクワの寄宿学校に入学し、四年間を過ごす。ピアノの勉
過ごし、家庭教師のもとでドイツ語とピアノを学んだ。 一三才の時
けられたものだった。彼女は幼年時代をノヴゴロド近郊のゴルキで
ヴエラはゴンチャロ l フの小説﹃断崖﹄のヒロインの名をとってつ
アルテュ l ル・ド・ボツセはフランス人だったのである。彼女の名
ンリエツテ・マルムグレーンはスウェーデン人だったし、彼女の父
彼女には実際にはロシア人の血は混じっていなかった。彼女の母へ
ト1 マス・マンは彼女を﹁きわめてロシア的な美人﹂と評したが、
彼女は一八八八年のクリスマスにペテルブルグで生まれた。後に
タームとスデイキンの聞にすわっていましたが、兵士たちを心
靴を使い惜しみしていたものです。 いつだったか彼がレイン
物、彼の言うところの非常服と一足の完壁に近い底皮のついた
﹁マンデリシユタ1ムはいつも心を熱く燃やし、いつも飢えて
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父親はベルリン大学に入学させた。彼女はここで一年目には哲学と
の教師の資格を得たが、パリで勉強を続けることを希望した彼女を
寄宿学校を金メダルの成績で卒業したヴェラはフランス語と数学
な別荘﹂と同じプロットを用いた﹁電話口のドラマ﹂[﹀宮B88
5auωlR]、喜劇﹁もしも女がその気になれば悪魔もかつぐ﹂
それは﹁復讐の舞台﹂、グリフィスがその五年前に映固化した﹁孤独
ザlノフは一九一四年に彼女を出演させて一一一本の映画を撮っている。
自然科学、すなわち解剖学、物理学、化学などを学んだが、翌年に
二年後の一九一四年に第一次世界大戦が勃発すると、彼女はロシ
門田町二巧∞一民叶]。この作品は当時のロ
においてだった[印可当百停可 wh
デインと共に監督したトルストイ原作﹃戦争の平和﹂ のエレンの役
三本だったが、彼女が映画スタ!として知られるようになるのは、
アに戻り、 モスクワのネリドワ・パレ l学校に入学する。それはパ
シア映画界に現われはじめた一連の文芸劇映画の一つであって、そ
は芸術学に転じ、聴講した美術史家ヴェルプリンの講義に﹁目を開
レリlナになりたかったからではなく、女優となるための身体的な
のフィルムは残されていないが、おそらく原作の名場面のみを断片
一九一五年の二月から四月にかけてやはりプロタザ1 ノフがガル
表現力を高めたかったからだったという。﹁私はバレリーナとなるた
的に再現した一時間弱の作品だったようである[ジダン
かされた﹂と語っている。
めには背が高すぎたし、勉強を始めたのも遅すぎました﹂と彼女は
の
一O︶、﹁ベトル lシカ﹄︵一九一二、﹁春の祭典﹄︵ロシア語題名は
にデイアギレフのロシア・バレ l団のために書いた﹃火の鳥﹄︵一九
になるのもこの頃である。 ストラヴィンスキlは既にこのころまで
フと後に最後の夫となるストラヴインスキi のことを聞き知るよう
探しにこの学校を訪れたこともあった[日ESSE−
のE沖巴吋∞一民ω
。
]
彼女がイサドラ・ダンカンの踊りをはじめて見るのも、 デイアギレ
の﹃フイガロの結婚﹂ の稽古中だった。ちょうどこの頃舞台美術と
なる。彼女がカ1メルヌィ劇場に加わった頃、劇場はボ l マルシェ
創立したカ lメルヌィ劇場に招かれ、舞踏家として出演することに
け暮れることになる。そのうちに彼女はタイ1 ロフが一九一四年に
するが、夫はおそろしいギャンブル好きで新婚夫婦は質屋通いに明
﹃聖なる春﹄、
タイ l ロフと相談して彼女のために原作にはないスパニツ
シュ・ダンスの場面を付け加えた。スデイキンはパリのロシア絵画
なっていた。
一方当時草創期にあったロシア映画界はヴェラに注目し、彼女は
、
九 Uれ
Fソ
衣装を担当していたセルゲイ・スデイキンはたちまち彼女に夢中に
日
唱 NEiNJU
五二、五四一﹀宮BO吉田巴吋ω一
。
]
ネリドワ・パレ l学校在学中に彼女はロベルト・シリングと結婚
九
で新進気鋭の作曲家として知られるように
一語っている。彼女の在学中にデイアギレフとフォ 1キンが踊り手を
七
展の開催のために奔走していた一九 O六年頃にはディアギレフとホ
ストラヴィンスキーとマンデリシュタ lム
九
映画俳優という新しい芸術家の道へ進む。当時の新進監督プロタ
九
八
0
一九八一一一一一 O 一、三三九]、ヴェラと知りあう頃彼はオリ
モセクシユアルな関係にあった、とヴェラは後に語っているが[パツ
家アイザィア・パ lリンと親しく会見し、ヴェラの消息を尋ねてい
またアフマ lトワは一九四五年に当時モスクワに駐在していた歴史
九
彼女がインクで描いたヴェラの肖像をパ lリンのもとに携えていき、
るが、後に同じ﹃ヒーローのいない叙事詩﹄ の﹁第三の、最後の献
最初にスデイキン夫妻が落ち着いたのはキャバレー﹁コメディア
ヴエラに渡してくれるようにと託している。ヴエラは後にニュー
ガ・グレ lボワと結婚していた。夫シリングに愛想を尽かしていた
ンの甜叫い﹂ のすぐ上のアパートだった。このアパートに出入りして
ヨークでその肖像画を彼から受け取った。そこには﹁いけない娘に﹂
詩﹂をパ lリンに捧げている。アフマ lトワはその死の前年の一九
いた詩人のクズミ l ンは彼女からこのロマンスのいきさつを聞き、
と書いであったそうである。おそらくオリガ・グレ lボワからスデ
ヴエラがスデイキンと恋に落ちるのは一九一五年の秋のことで、
これを題材にした﹃見知らぬ人の叙事詩﹄を一九一六年に書いてい
イキンを奪ったことを皮肉ったのだろう[印可恒三
55・門店内ニミ∞一
の中でヴエラはドンナ・アンナに、 セルゲイはフイガロに擬せられ
を彼女に贈り、ヴェラはそれを晩年まで手元に持っていた。その詩
付き合いが続いた。
の関係はその後も損なわれることなく、後にパリで再会してからも
N
献詩﹂が捧げられた女性で、この作品において重要な役割を演じて
から六二年にかけて書いた﹃ヒーローのいない叙事詩﹄の﹁第二の
グきつての美女と言われていた。彼女はアフマ Iトワが一九四 O年
のもこの頃である。女優だったオリガは一九一 0年代のベテルプル
[
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。
]
ヴェラがアンナ・アフマ lトワ ︵一八八九l 一九六六︶と出会う
は自分をフイガロ、ヴェラをドンナ・アンナと呼んでいたという
の結婚﹄ の公演を暗示している。実際にこの芝居の稽古中セルゲイ
トワの詩集﹃数珠﹄に作曲しており、 ロパ lト・クラフトが一九四
540一
A山]。ルリエは一九一九年にアフマ l
日
∞
・5 日開回出回出国 NCOQ−∞・5
が亡命する一九一一一年まで一種の三角関係にあったらしい [国営
トの同じ住居に住んでいたことがあり、しかも後者の三人はルリエ
ヴエラ、ルリエとオリガ、アフマ lトワはペテルブルグで一時アパ l
ガはスデイキンと別れた後ルリエの愛人となるが、 スデイキンと
クズミ l ンばかりでなく、後にパリで再会する作曲家アルトゥ l
ベテルブルグ時代のヴェラはアフマ lトワやオリガ・グレ lボワ、
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ル・ルリエ ︵一八九二 1 一九六六︶とも親しい関係にあった。オリ
いる。またクズミ l ンはヴェラとアフマ lトワの共通の友人だった。
一九八一一一二一一一|二三四]。しかしオリガとヴエラ
ているが、これはこの二人が知り合うきっかけとなった﹃フイガロ
∞
。
一
パ lリン
る。この詩はスデイキン夫妻に献呈され、詩人はその手書きの原稿
六五年にオックスフォードを訪れているが、その時一九一六年頃に
ク
九二ハ年にとうとう二人はペテルブルグに駆け落ちする。
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レ
が完成し、発表された一九六二年の翌六三年に彼女に﹃ヒーローの
E
U
1∞一昆∞]。ルリエはアフマ lトワの﹃ヒーローのいない叙事詩﹄
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マ1トワの詩の朗読の録音を持っていたという[印
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−
六年に初めてルリエとタングルウッドで会ったときルリエはアフ
フランスへと向かう。夫妻はパリに居を定め、 スデイキンはここで
チユアを描きヴェラに贈っている[印可当5∞
訂
− nE町二混円 UEZE
。
]
スデイキン夫妻は一九二 O年五月にマルセイユ行きの汽船に乗り、
O年の二月にゴロデッキ lはロシアの象徴主義詩人たちのカリカ
市街戦に遭遇して十字砲火を目の当たりにしたこともあった。心労
する。凍結したネワ川を渡ってゴ lリキイの演説を聞きに行ったり、
さてヴェラはペテルブルグで年を越し、 一九一七年の革命を目撃
装デザイナーとして働くかたわら、ピカソ、コクトi、ツアラ、シヤ
残ったヴエラはデイアギレフのロシア・バレ l団の公演のための衣
置家として契約を結ぶと、すぐにアメリカに向かった。 一方パリに
に生活費に窮迫し、 スデイキンはメトロポリタン・オペラの舞台装
デイアギレフ・パレ l団の仲間たちと再会する。しかし二人はすぐ
でまもなく病に倒れた彼女はモスクワに戻る。そこで夫と再会した
ネルといった芸術家たちと交際を結ぶことになる。そして後にヴエ
︶
彼女は一九一七年の春に国外脱出のためにクリミアのヤルタに向か
ラの三番目の夫となるストラヴインスキーもこの頃同じパリに住ん
︵
4
ぅ。既に述べたように彼女がマンデリシユタ1 ムと知り合うのはこ
でいた。この頃のストラヴィンスキーは﹁春の祭典﹄に代表される
いない叙事詩﹂を引用した手紙を書き送っている。
こクリミアにおいてである。 一九一九年に赤軍がクリミアに迫ると、
初期の民族主義的プリミテイヴイズムから新古典主義への移行期に
︵
︶
スデイキン夫妻は船でイスタンプ1ルをめざす。ヴエラはこの時同
あった。 一九一一一年にデイアギレフはストラヴインスキ!とヴェラ
5
じヤルタの桟橋にウラディ lミル・ナボコフの父の姿を見ている。
をパクストとヌヴェールと共に晩餐に招待し、引き合わせる。
ヴエラのデザイナーとしての最初の仕事がストラヴィンスキl の
一九一九年三月に
ナボコフ一家はギリシャの貨物船に乗りスデイキン夫妻と同じよう
パレ l ﹃鷲の歌﹂ で主役を踊ったマルコワのための衣装だったこと
ウラディ lミル・ナボコフ自身の回想によれば、
一九七九一二 O四
]
。
もあって、二人は急速に接近し、それぞれ夫と妻のある身であった
にイスタンプiルに向かっている ︷ナボコフ
しかしスデイキン夫妻の乗った船は嵐に襲われ、予定を変更し、グ
にもかかわらず恋に落ちる [バックル
描いている。
八]。ちなみにこの当時のヴェラの肖像画をパクストは一九二二年に
一九八四
ルジアのパトゥ lミに入港せざるをえなくなる。そこから二人はト
ビリシとパクlに旅行している。
トピリシで年を越した二人は、ここで詩人のゴロデッキ l に出
七
一九二五年にストラヴインスキlはアメリカに最初の演奏旅行に
九
会った百円555SES一∞
ω]0
NpgigsQ
− 島巴∞同一∞ N∞
ストラヴィンスキーとマンデリシユターム
九
を担当したスデイキンと気まずい出会いをしている。 一方同じ年の
qsg一口。]参照︶
義に移行したルリエは最初彼を高く評価し、その秘書として仕事を
にパリに移る。二 0年代にストラヴィンスキ!と平行的に新古典主
。
]
結局ルリエは一九一一一年にベルリンに亡命し、次いで一九二二年
∞
Nω
一一月にヴェラは彼女自身とストラヴインスキ lの希望で、当時ニ l
助け、思想的にも影響を与えたと言われているが、最終的に一九三
向かうが、 メトロポリタン・オペラで彼の﹃ベトル iシカ﹄ の公演
スに住んでいたストラヴインスキ l夫人エカテリlナに会う。クラ
九年頃にストラヴインスキ!と決別することになる。イリlナ・グ
が行なわれたとき、公演の衣装と舞台装置︵[同色
フトによればエカテリlナとヴェラはそれ以後一九三九年にエカテ
レムによれば、その原因はルリエがストラヴインスキ!とヴェラを
はマンデリシユタ lムと一つ違いの同世代の友人の一人であり、彼
リlナが死去するまで親しい友人となったという。 スデイキンはそ
パリ時代のストラヴインスキ lはソ連から亡命してきたルリエと
についての回想﹁網の中の鱗﹂を一九六一年に、﹁幼子の楽園﹂を一
別れさせようとしたことにあるという[閃官同 ENCOQ−ミ]。ルリエ
知りあい親交を結ぶようになるが、ヴェラにスデイキンを奪われた
8]。彼は一九六六年に
九 六 三 年 に 書 き 残 し て い る 戸 石ZEE5
−
の後アメリカの歌手ジ i ン・パーマ!と再婚し一九四六年にニュ i
オリガ・グレ1ボワはその後このルリエと再婚して、 やはりパリに
プリンストンで没したが、 ストラヴインスキーはその知らせを聞い
はその後一九四 O年にニューヨークに渡りそこに定住している。彼
亡命した。ルリエは無調や四分音などを用いた前衛的な作風で一九
ても何も言わなかったという[クラフト
にはマヤコフスキーによる﹁朗読とピアノのための﹃我らの行進
ホリド、絵画部門のそれはカンデインスキーだった︶。この頃の作品
委員部の音楽部門の責任者となった ︵演劇部門の責任者はメイエル
るようになる。 一九一八年にはルナチヤルスキーを助けて教育人民
んだ後、独学で作曲を勉強し、革命後未来派の作曲家として知られ
されている。そして一旦釈放の後再逮捕され収容所で三八年に死去
後、翌三四年にスターリンへのあてこすりの詩を書いたことで逮捕
三三年に生前最後の発表作品となった﹃アルメニアの旅﹄を書いた
時期でもあった。ヴェラに詩を献呈したマンデリシユタ lムは一九
恐怖政治が始まり、ヴェラの友人・知人がそれに巻き込まれてゆく
ストラヴインスキ lのパリ時代はソビエト本国ではスターリンの
一九三九年にストラヴインスキーは母と最初の妻エカテリlナを
曲﹄﹂︵一九一八︶がある。ストラヴインスキlは自分の母親のフラ
同汁 HC
豆一
することになる。
の手紙を一九二 O年に彼に書き送ったことがあった [のE
ンスへの出国ヴィザの発給のために力を貸して欲しい、という内容
一九九八二一 O八
]
。
一0年代から知られていた作曲家である。ペテルブルグ音楽院で学
ヨークで死去している。
九
婚している。夫と共にハリウッドに居を定めたヴェラは作家ウラ
と共にアメリカに渡った。二人は翌一九四O年にロシア正教会で結
失い、さらに第二次世界大戦の勃発に直面し、戦火を逃れてヴェラ
に鏡を置いてはいけない、とされていたからである。そして純ロシ
て彼に別れを告げた。それは伝統的なロシアの慣習では死者の部屋
四月六日である。この日ヴエラはその部屋に鏡がないことを確かめ
がそこで初演されたヴエネツイアのサン・ミケ1レ島墓地のディア
ア式の葬儀によってストラヴインスキiは、彼が愛し、多くの作品
︶
ディ lミル・ナボコフの弟セルゲイ・ナボコフについて英語の勉強
︵
7
を始める。彼女はヤルタ以来絵筆をとったことがなかったが、
ギレフの墓の隣にロシア正教徒として葬られた。
リスコで聞かれている。彼女が好んで描いたのは自然で、気の葉や
一九五五年には、彼女の最初の個展がロ l マのガツレリア・オベ
墓碑の装飾を思わせるものであった。それをきっかけにヴエラはま
き写している。それはヴエネツイアのロシア人墓地に葬られた夫の
かつてクズミ l ンが彼女に献呈した詩を装飾を施した飾り文字で書
夫の死後、 ヴェラは絵を描くのをやめた。何ヶ月かたって彼女は、
花、貝殻や雲、といったものがしばしばテl マとなっていた。彼女
一九七九年九月
ストラヴィンスキ!とマンデリシュタlム
一七日にニューヨークの自宅で亡くなった。九三才の生涯だった。
ヴェラ・ストラヴインスカヤは夫の死の八年後、
た絵を描き始めた。
たのである。
ストラヴインスキl夫妻の晩年にとって一つの大きな事件となっ
たのは、 スターリン死後の﹁雪解け﹂ の文化政策によって実現した
一九六二年のソビエト訪問であろう。二人は実に半世紀ぶりに祖国
マンデリシユタ lムが音楽に強い関心を抱いていたことは、
エの回想や彼の作品そのものからも知ることができるが
の地を踏んだのだった。これは彼が八 O才を迎えたことを祝つての
招待だったが、 ストラヴインスキーはソビエトにおける彼の評価が
[
ロ
自
国
画
。
回
国v
E32]、同時代のロシアの作曲家について
n同出勘右足一関
リ
ついての言及は彼の著作には見られないし、逆にストラヴインス
とキリスト教﹂が唯一のもののようである。ストラヴィンスキlに
一九一五年の未完のエッセイ﹁スクリャ lピン
急に変わるはずがない、とこの招待には最初あまり乗り気ではな
︶
の直接的な言及は、
︵
人、知人と旧交を暖めた。
ストラヴインスキーが死去したのはそれから九年後の一九七一年
ストラヴィンスキ lとマンデリシユタ lム
九
8
かったようである。この旅行にはヴエラも同行し、まだ存命中の友
l
レ
四
共にしなければならなかった彼女にとって油絵は実際的ではなかっ
の絵はもっぱらグワッシユで描かれたが、しばしば夫と演奏旅行を
を再開した。
ウッドに自分の画廊﹁一フ・ブティック﹂を聞き、画家としても活動
ノ
、
キl の側からのマンデリシユタlムについての直接の言及も見られ
かっただろう。
事実上閉ざされていたといえよう。実際一九一一一 0年代以降になると、
創作活動を行なってきたストラヴインスキ lの音楽に触れる機会は
に一八八 O年生︶等の後期シンボリストと、 フレ lブニコフ
持ってくる。 つまりストラヴインスキlはベlルイ、ブロlク
キーは一八八二年に生まれているが、この世代の差は大きな意味を
そもそもマンデリシユタ 1ムは一八九一年に、 ストラヴインス
一九六二年にストラヴインスキーがソビエトに半世紀ぶりの里帰り
八五年生︶等の未来主義者やアクメイストをつなぐ世代に属してい
マンデリシユタ lムの側からすれば、 一九一四年以降外国で
をするまで彼の作品はほとんど演奏されなくなる。
V
?
、‘コ
争匂ト
四
作原理の形成を見るとそこにはある共通性を見てとることができよ
このように事実関係としては交流のなかった二人だが、しかし創
一つであったことを忘れてはならない。
クl ストヴア︵芸術世界︶﹄とそのサークルがシンボリズムの拠点の
るのである。若きストラヴインスキーを育んだ雑誌﹃ミ lル・イス
たい。﹁石﹂に収められた﹁バッハ﹂︵一九一三︶ はこの志向の音楽
はむしろ反ロマン主義を根拠とした古典への回帰にあると私は考え
しているが[口回忌一呂田口問邑ニミ N一戸己、この二人の芸術家の共通性
オスの中に世界を更新し、文明を建設するエロスを求めていた、と
ヴィンスキーにとって、 ロシア文学は事実上シンボリズムで終わっ
である [伊東
ヴィンスキ lの声楽曲はシンボリズムの影響を色濃く示しているの
に作曲されたカンタータ﹁星のかんばせ﹂などロシア時代のストラ
一一年の﹁パ lリモントの詩によるつの歌曲﹂、同年に同じ詩人の詩
実際に一九 O八年の﹁ゴロデッキ lの詩による二つの歌曲﹂、
的象徴のように思える。それは詩集﹃トリステイア﹄における新古
ていたようである。
登場した初期のストラヴィンスキ 1は同時にシンボリズムの洗礼を
しかしフォークロリスティックなフォ lピズムの意匠をまとって
トヮ、ブロ l ク な ど の 作 品 を 再 読 す る よ う に な っ た と い う
学に関心を向けさせ、 アメリカ帰国後の彼はプ 1シキン、 アフマ l
一九六二年のソビエト訪問はストラヴインスキ lに再びロシア丈
られない。ただしソビエトでは長く発禁だったマンデリシユタ lム
引
EmSEJNUS]。しかしそこにはマンデリシユタlムの名は見
ラヴインスキ l の新古典主義期は一九二八年頃にロシア国外で始
のまとまった作品集は実は最初にアメリカのニューヨークで一九六
百円門出︿
まっており、 マンデリシユタ l ムはその活動を追うことはできな
デリシユタ lムの関心を引かなかったのかもしれない。そしてスト
受けており、最初から古典主義的アクメイストとして出発したマン
一九七六]。そして革命前にロシアを離れたストラ
典主義的秩序を既に予感させるものである。
と﹁春の祭典﹂︵一九一一一一︶のストラヴインスキ1は共に原初的なカ
ぅ。プシブイルスキは詩集﹁石﹄︵一九 O九︶のマンデリシユタ lム
}
¥ 共
九
九
れを読んでいたと思われるし、 一九七一年に亡くなる前のストラ
四年から七一年にかけて出版されているので、ヴエラはおそらくそ
義をも飛び越えて一八世紀に回帰するものであった。
かれた﹃プルチネルラ﹄︵一九一九︶は印象主義、さらにはロマン主
となるが、それより早くベルゴレ lジの様式のパロディーとして書
一八世紀後半のベテルブ
だったことである。ガルツピ ︵一七 O六 八 五 ︶ やサルテイ
ルグの音楽文化を形成したのは同時代のヴェネツイア楽派の音楽
ところでここで注意しておきたいのは、
ヴィンスキーもその晩年に彼の作品を読んでいたかもしれない。
父スタ lリ
ストラヴインスキl夫妻は、 アメリカに一九六七年に亡命し、回
想記﹃友へのこ Oの手紙﹄︵邦訳﹃スベトラlナ回想記
一九六七︶を出版したス
二 九 一 八 O一一︶といったヴェネツイアの作曲家たちは次々にエカ
新潮社
タlリンの娘スヴェトラlナ・アリル l エワと一九六九年頃に会つ
テリ lナ二世時代︵一七六二一七九二︶ のベテルブルグの宮廷を
ンの国を逃れて﹂江川
ているが、その会見の際ヴエラはマンデリシユタlムの粛正のきっ
訪れ、 ロシア語あるいは教会スラヴ語による声楽曲さえ書き残して
。
トリイ・ボルトニヤンスキー ︵一七五一 l 一八二五︶ やエフステイ
いる。 マクシム・ベレゾフスキ l ︵一七四五一七七七︶、デイミ l
二一一三四九|三五一二]参照︶を朗読して聞かせている。﹁しかしス
はこのような環境のもとで生まれ、 ペテルブルグ Hヴェネツイア楽
むしろ未来派やフォルマリストのアプローチに近いものだった[伊
音も身振りとして捉えようとするもので、既にシンポリストよりも
ラヴインスキ l のフォークロアに対する態度は、テクストを純粋な
﹃クレオンテ﹄は一七七八年にヴェネツイアで初演されている。この
モフォンテ﹄は一七七三年にリヴオルノで、ボルトニャンスキ lの
リアで作曲を学び、 ベレゾフスキ lのイタリア語によるオペラ﹁デ
実際にベレゾフスキ l、ボルトニヤンスキ l、 フォミ l ンはイタ
クメイズムに対応するものということができよう。 一九二三年の
これはマンデリシユタ lムの反ロマン主義・反象徴主義としてのア
はロシアからの誰離ではなく、逆に彼の生まれたベテルブルグの音
ことを考えるなら、 ストラヴインスキ lのイタリアへの回帰とは実
ストラヴィンスキーとマンデリシュターム
九
楽文化の根源への遡行であったともいえよう。反ロマン主義の旗手
︵
日
︶
一九七六]。そしてこの後に彼の新古典主義の時代が始まるが、
ケlヴィチ ︵一七四一一|九七頃︶といったロシア最初の作曲家たち
印
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門
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一
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︸ QHφロ
キlは書いている [
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さでロシアを離れた直後のストラヴィンスキ l の創作はロシア民
派と呼ばれたのであった。
グニエイ・フォミ l ン ︵一七六一|一八 O O ワシ lリイ・パシ
、
︶
2HVEE−−﹁僕らは足もとに国を感じずに生きている﹂︵[武藤
七
謡詩と民話への接近によって特徴づけられる。しかしこの頃のスト
ヴェトラ lナはその詩を知らなかったようだ﹂とストラヴインス
九
九
かけとなった一九三三年作の彼の詩 d吉岡田忠戸ロ280554出
卓
訳
﹁バッハに帰れ﹂というスローガンはこの新しい思潮を象徴するもの
東
五
ネツイアのサン・ミケ|レ寺院の墓地にロシア正教徒として葬られ
九六
であった彼がグリンカ、ダルゴムイジスキ l、 チヤイコフスキ!と
さらに付け加えておくなら、ヴエネツィアはペテルブルグの音楽
たことは象徴的である。彼はその晩年を送ったアメリカではなく、
この点で新古典主義時代のストラヴインスキーが作曲した﹃ベル
文化の直接の根であっただけではない。この町は一一世紀にはビザ
いったロシア・ロマン主義の作曲家を終生高く評価していたのは故
セフォ l ヌ﹂︵一九三四︶は興味深い作品である。この作品はホメ l
ンツ文化が西ヨーロッパに普及してゆく窓口であった。 ストラヴィ
古きベテルブルグ音楽文化の精神史的な故郷であったヴエネツイア
ロスの﹁デ l メl テl ル賛歌﹂を素材にジイドが書いたフランス語
ンスキl の作品の多くがそこで初演されているサン・マルコ寺院は
ないことではない。ストラヴインスキーはそこにむしろ西欧に通底
の台本によっている。 メロドラマと題されたこの作品では主人公ベ
コンスタンテイノ lプルの聖使徒教会をモデルに作られた西欧には
を自分の安息の地に選んだのである。
ルセポネl の台詞は歌われず、朗読される。このような手法は同時
数少ないピザンツ様式の建築で、その装飾もギリシャから連れてこ
するベテルブルグ音楽文化の伝統を見ていたのである。
代のフランスの作曲家、たとえばオネゲルやミヨーにも共通して見
一九七九一五九]。つまりヴェネツィアの文化はその根源においてキ
られたモザイク職人によって始められたものだった [
マクニ lル
た音楽劇のジャンルとして知られていたものだった。同じくメロド
エフ・ロシア時代のピザンツ文化とも通底しているのである。晩年
一八世紀ロシアにもフランスから移入され
ラマと題されたフォミ l ンの﹃オルフエイ﹂︵一七九二︶は一七六二
のストラヴインスキーが接近してゆくストイツクなピザンツ的神秘
られたものではあるが、
年にクニヤジニ l ンの台調に作曲され、同時代に成功をおさめた作
主義も、あるいは彼の愛したヴエネツィアの文化と結びついている
のかもしれない。
一九世紀以降は全く忘れられていた。この作品はその神話
品だが、
的題材の使用や、主人公オルフエイの台詞と取り扱いなどによって
的な一つの象徴、
一方マンデリシユタ l ムにとってのベテルブルグはむしろ時空間
を用いたパレ l ﹁オルフエウス﹂︵一九四八︶がある︶。もっとも一
ベテルブルグの建築がラストレッリに代表される同時代のイタリア
﹁ベルセポ、ネ l﹂を訪併とさせる︵ストラヴインスキーには同じ題材
八世紀ロシア音楽の発掘・研究が本国で進展を見せるのはここ二 O
のバロック様式によるものであることを考えるならば、彼がストラ
ロック期のイタリアにも偏愛を見せたことはうなずけるところであ
一つのコスモスであった。音楽と同様、 一八世紀
年ぐらいのことなので、 ストラヴインスキーはこの作品を実際に聞
ヴインスキ!と同様古典古代ばかりでなく、 ルネサンスあるいはパ
︵
日
︶
いたことはなかったであろう。
こうして見るとストラヴインスキーがヴエネツイアを愛し、ヴエ
る。彼のペトラルカへの傾倒はストラヴインスキlのモンテヴエル
ディへの高い評価に対応するものと言えるかもしれない。しかしマ
]
0
彼にとつ
ンデリシユタ l ムにとっての回帰すべきイタリアの中心はヴエネ
l
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ツィアではなくロ l マであった[
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てのイタリアは音楽よりも建築のそれであったし、彼のキリスト教
はロシア正教ではなく、 メソディスト派であった。
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rho国﹃凶hwO出回凶由同安UF国由回。口、司師同国・
タリアさらには古典古代の文化に回帰する姿勢を見せたことは興味
前の歴史を持たないペテルブルグの文化を遡源することによってイ
友人の群れと暑気から、
鎧戸の陰に冷気と安らぎを求め
我が愛しのベルセポネーが
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w民同国叩口
J﹁同
深い一致である ︵この二人の芸術家が共にベテルブルグ出身であっ
逃れられない電話のベルから離れ
円リ山﹃
たことは偶然ではない︶。彼らはチャアダ l エフ以来のロシア文化史
朝から終日ベッドに隠れていた
このような違いはあれ、この二人の西欧主義者が共に一七世紀以
の根源的問題にそれぞれ自らの創作を通じて解答を与えようとした
あの息苦しい炎熱の夏の思い出に
EH円Hゆ吋∞一回︶EHOωH
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o国︶と﹁ベルセポネl ︵ロシア語口88,
[印可担当ロ印︸内一ア︵リ
ということができるだろう。
ペlネロペ!とペルセポネl
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デリシユタ lムの﹃エジプトのスタンプ﹄︵一九二七︶を思わせ、
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ストラヴインスキ lは結婚する以前ヴエラを﹁我が最愛のベルセ
この二人が共に古典神話のイメージから新しいテクノロジーの観
︵
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eg白︶﹂を押韻させたこの詩は、同じ言葉の連想が見られるマン
ポネl﹂と呼んでいたという。 一九三三年に彼は次のようなロシア
念を連想している点で興味深い||
贈っている。
ストラヴィンスキーとマンデリシユターム
語の献辞を﹁ベルセポネ lの子守歌﹂ の歌詞として作曲しヴエラに
||マiジナリアとしてーー
五
七
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目
白 4QF口。富田昌司タ﹄↓。阿国間︾
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す、受話器は皮がめくれて、声が精彩を失うのですから。プロセ
﹁読者よ、ベテルブルグの薬局などからは電話をかけないことで
ヴェラ・ストラヴインスカヤのイメージは、はからずもこの両者の
しに成立した芸術様式である。しかしそれにもかかわらず若き日の
長くトルコの支配下にあったクリミア汗国のイメージは一九世紀のロシ
ア・東欧にとっては、ロマン主義的オリエンタリズムの対象であった。ロ
キンの﹃パフチサライの泉﹄︵一八二四︶やミツキエヴイチの﹃クリミア・
シア・ポーランド文学においてそのようなクリミアのイメージは、プiシ
が実はヴェラに献呈されていたことを示している。ストラヴインス
しかしそれに先行する古典古代の文学的トポスとしてのクリミア Hタウ
リケのイメージはエウリピデスの﹁タウリケのイピゲネイア﹄︵前回一四|
四ご一頃︶に始まり、古典主義時代のゲ lテの﹃タウリスのイフイゲ 1 ニ
エ﹄︵一七八七︶に継承される。同じ題材によるグルック作の古典主義オペ
︶
ラ﹃タウリスのイフイゲ l ニア﹄︵一七七九︶も同じ系列に属する。更にフ
︵
M
邦訳は江川卓訳アンナ・アンドレ lヴナ・アフマ lトワ﹃ヒーローのい
本章の記述は特に注記のないかぎり[口出﹃ニヨ品]によっている。
特徴的である。
エントではなく、もっぱら古典古代のタウリケ Hクリミアであったことは
マンデリシユタ lムについて言えば、彼がクリミアに見ていたのがオリ
このような古典︵主義︶的クリミア・テクストをもよく知っていた。
も古典主義的なクリミア・テクストの一つに数えられよう。プ lシキンは
ランス古典主義演劇を代表するラシ l ヌ作の﹃ミトリダ lト﹄︵一六七三︶
として描かれているが、そのイメージがロシアのアポクリフ﹁聖母
ベルセボネlは地獄に降り、亡霊たちを慰め、再び蘇る復活の女神
である﹃印R25mSHC∞
N
ω∞﹄。ジイドの書いたこの作品の台調では
ソネット﹄︵一八二六︶などに見られる。
一九三三年に作曲された﹁ベルセフォ l ヌ
﹄
一九七一一二五 0 1二 五 ニ
のだということを記憶していただきたい﹂︵工藤正広訳︶[川端
接点となっているのである。
志向、二つの古典主義は、平行的であっても相互に直接的な関係な
れたヴェラを思い起こそう。この二人の芸術家のギリシア神話への
ここでマンデリシユタ l ムの詩においてベ lネロベーとして描か
八
ルピナあるいはベルセポネーにはいまだに電話がひかれていない
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口
町
田u
九
キーは実際にこの子守歌を﹃ペルセフォ l ヌ﹄の中に用いているの
そしてこの献詩は、
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主
。5、岡田富︶を想起させるもの
EE口
の地獄巡り﹂︵以。M
2
0
5
0一目。﹃。官同
であることは興味深い。 つまりこの作品は新古典主義の意匠をまと
いつつ、同時にその底にピザンツ的なロシア文化の根源へ遡行しょ
うとする身振りをも見せているのだ。そしてこの曲に作曲者がロシ
アの復活祭の音楽を重ね合わせていることを考えるなら
ω∞]、作曲者は明らかにこの作品の主人公に自己の
[
印
汁
店
︿5mZ5∞N一
復活の女神としてのヴエラを重ね合わせていたことがわかる。
3 2
︵
8︶この一九六二年のストラヴインスキ l夫妻のソビエト訪問については、
[︵リ ﹃司自冨剛山口問恒国一︼由叶∞一−クラフト一九九八一四六|八一己が詳しい。なお
一九七九
クラフトはこの旅行の際にストラヴインスキ l夫妻が会った人々の中にア
ない叙事詩﹄︵篠田一士編﹃現代詩集﹄世界の文学三七集英社
い叙事詩﹂︶参照。この作品で主人公はオリガ・グレ lボワへの失恋が原因
所収︶。この作品については[安井一九八九]第十六章︵﹁ヒーローのな
フマ lトワの名はあげていない。
キーはゴロデッキ!とは直接面識があったが、バ lリモントとは個人的に
デッキ lについて短い回想を残している。それによるとストラヴインス
9︶ストラヴインスキ lは彼の声楽作品に素材を与えたバ!リモントとゴロ
︵
1
で自殺する。なおこの作品にはストラヴインスキlの﹁ベトル lシカ﹂へ
の暗示が何筒所かある。
4︶ 注 ︵6︶最後に挙げたC Dの解説より。なおアフマ lトワとルリエの関
︵
係については[閃℃ E E N S O]がくわしい︵[梶一九九一一]参照︶。
会ったことはなかったという[W555WMLS円時毘]。
︵叩︶未来派の言語実験との交流の中で形成されたヤコブソンの詩学はストラ
ヴインスキ lの音楽論と多くの共通性を持つ。[Z2
己
巾 Nw回
E
C
F叶包寸印]参照。
仕事については[バックル一九八四]を参照。
︵
5︶デイアギレフのロシア・パレ l団でのヴエラの衣装デザイナーとしての
ただしストラヴインスキーが直接交流を持ったのはイタリアの未来派であ
ペテルブルグ出身のマンデリシユタlムとストラヴインスキーを同時代
タリアとの関係については[伊東一九八七一コワリヨフ一九九六]参照。
かったと思われる[2355ZS芯一念]。なおこの時代のロシア音楽とイ
タリア語のオペラや世俗的な器楽曲については具体的にはおそらく知らな
ア教会音楽を知っていたことは明らかだが、当時のロシア作曲家によるイ
ストラヴインスキーがボルトニヤンスキ lに代表される一八世紀のロシ
楽劇場は積極的に一八世紀のロシアオペラを復活上演している。
またモスクワで演出家、ポリス・ボクロフスキーが主催するモスクワ室内音
れ、現在ではC Dでもかなりの数の一八世紀ロシア作曲家の作品が聞ける。
キlの﹁臨時﹂、フォミlンのオペラ﹁馬替え場の叡者﹄などの楽譜が出版さ
りで評判が決まる、あるいはペテルブルグのアーケード﹄、ボルトニヤンス
産﹂のシリーズでパシケlヴイチのオペラ﹃けちんほう﹂及び﹃暮らしぶ
からソビエト国立音楽出版所から刊行が開始された﹁ロシア音楽芸術の遺
ドが発売されている︵宮の
E民合冨吉円山町一口︶Mお
a
H︶。また一九七二年
ミー合唱団とエシポフ指揮ソビエト・ラジオ交響楽団の演奏でL Pレコー
フォミ lンのメロドラマ﹃オルフエイ﹄はユルロフ指揮ロシア・アカデ
る
。
︵
6︶ルリエについては[ω5訂忌宏一句口。]を参照。最近彼の作品の再評
NCHO
叶N︶ を 参 照 。 歌 曲 は
価とC D録 音 が 盛 ん で あ る 。 ピ ア ノ 曲 は ﹀HAFRF22久0 2
ミSHuc
ミ
u
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a−・司同富田コ中︵リ丘町巾ユ目白円。ι ︵﹀のめO河口
同
﹁ヴエルレ lヌによる二つの歌曲﹂と﹁サッフォ lの詩による一一一の歌曲﹂
が、回同
ESSEさ臼久門吉﹄ U句。師︵﹃の冨口付EzoE ω﹀窃OZ河口ω白
一
巾
﹁
り
のNgS印︶で聞ける。また交響的散文﹁ピョ lトル大帝の黒奴﹂と﹁ク
ロノスを称える葬礼競技﹂が﹃ロシアを離れて||魂の音楽一ギドン・ク
レiメル、フィルハ lモニア管弦楽団、指揮クリストフ・エッシエンバッ
ハ﹄︵吋回b開。ぎω司のふ80︶で聞ける。
んど接触はなかったようである。ナボコフは一九六七年に、ストラヴイン
︵
7︶ストラヴィンスキl夫妻は作家ウラディ lミル・ナボコフ自身とはほと
スキlにインタビューしてはどうかという﹃ロンドン・テレグラフ﹄紙の
いる[ナボコフ二 0 0 0二二九O]。ただしウラディ lミルの従兄弟にあ
提案に対して﹁私はほとんど全く彼を知りません﹂と拒否の返信を送って
たる作曲家のニコライ・ナボコフ︵一九o=一一九七八︶は晩年までスト
ラヴインスキ lの親友であった。ニコライ・ナボコフは一九O三年にペテ
ルブルグで生まれ、そこでレピコフに作曲を学ぶ。ヤルタでも一九二O年
までレピコフに師事。一九二 O年に亡命、シユトゥットガルトで勉強を続
九
九
け、一九三三年にアメリカに渡っている。
ストラヴィンスキーとマンデリシュタ lム
1
1
1
2
のモスクワ出身の詩人、作曲家とその西欧とアジアに対する態度において
比較してみることは興味深い作業となるだろう。
︵日︶マンデリシユタl ムの作品にベルセポネ1 のイメージはたびたび登場す
一九九O ﹃ミハイl ル・バフチl ンの世界﹄川端香男里・鈴木品訳 せりか
。
門
田
仲
間
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世
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一九八七
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坦
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﹃ストラヴインスキl 友情の日今﹂下
K
﹁ロシアのストラヴィ l ンスキイ﹂﹁ロシア手帖﹄
﹁イタリアのベレゾフスキl﹂﹃えうゐ﹄一六
NhHhh
青土社
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。
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ω間同且雪国富岡冨口。﹄ HE
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J﹃。− uJ 旬開国冨田・
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川崎隆司
梶重樹
同
町
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﹁アフマ lトヴア研究の第二世代﹂﹃ソビエト研究所ピュレテイ
﹃ロシア詩の歴史|古代からプl シキンに至る﹄恒文社
方
ン﹄二 O 口
一九九二
﹃現代ロシア幻想小説﹄白水社
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川端w
香男里︵編︶
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Rvsn﹂百三・回目出呂田﹃唱曲一且・
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E・\\同﹁呂田一凶由一毛﹃・。門至。、。
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小藤隆志訳
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F門司一司同EZ円・\\の門出昨日出・可喝、ミga帆門司臼SHUShM立お司﹀]同門巾円山﹀・
同由叶品︿巾吋白ω可
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ト
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る︵例えば一九二 O年に警かれた﹁私の手のひらから喜ばしく取るがいい﹂
doωE55司
3︶。彼の作品の中でペルセポ、不lは死
。E 同豊富S
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一九九八
せ
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,
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宮
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由
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﹃
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デリシユクl ムの作品を含むロシア詩における電話のイメージについては
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と復活、愛と詩的創造の象徴である[
E53司﹃巴∞
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泊
目Q
。
。
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一九七八]がある。
∞RZ5・。ミσせ門出
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