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国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科 第17期生

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国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科 第17期生
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第17期生卒業研究発表会
2008年2月25日(月) 於:学院講堂
9:20~9:30
オリエンテーション
1.手話と聴力が視機能に与える影響
─ろう者・コーダ・手話学習者・聴者の比較─
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子
9:30~11:00
2.医療現場での手話通訳の課題
─リレー通訳から見えてくるもの─
波岡江里子
3.手話落語の研究 ─新たな芸能分野開拓への挑戦─
長田富美子
《休憩 15分間》
4.日本手話における性差 ─ろうの役者による表現から─
荻野貴子・長田真映美・西尾香月
11:15~12:20
5.不就学ろう者コミュニティの成立 ─川俣英一氏「めしたき族」の研究から─
古瀬真美
12:20~13:05
《昼食休憩 45分間》
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴 今泉江里子・小林美紀・松本美幸
13:05~14:15
7.日本手話におけるあいづち ─その形式と機能─
味澤俊介・越阪部正也・新津晶子
《休憩 10分間》
8.日本手話における文法化の一事例 ─/簡単/と/スムーズ/の比較─
木元一紗・山田ひろみ
14:25~15:25
9. 非手指副詞の諸相 ─様態、モダリティ、数量、程度─
大野和英
《休憩 10分間》
10.語彙的非手指要素<欺く>と手指要素の共起に関する研究
山本真弓
15:35~16:40
11.日本手話の引用構文における文法化
栗原巴・中村薫
16:40~17:00 おわりに
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
1.手話と聴力が視機能に与える影響
1.手話と聴力が視機能に与える影響
― ろう者・コーダ・手話学習者・聴者の比較 ―
唐木裕美 信田有美 弓木妙美子
1.はじめに
ろう者は聴覚の喪失により聴覚以外の四感、目で見る(視覚)
、鼻で嗅ぐ(嗅覚)
、舌で味わう(味
覚)
、皮膚で感じる(触覚)
、を情報源としている。また特に視覚によって得られる情報が多いと考え
られている。実際、ろう者は視覚言語である手話を第一言語としており、聴者が聴覚から得る情報も
視覚によって得ることが多い。過去の研究には、ろう者は聴者に比べ視覚的な能力に優れていること
を示唆するものもある。例えば、ろう者はものの動く方向の識別能が聴者よりも優れていることが知
られている(Bosworth and Dobkins, 2002)
。
スポーツと視覚に関する研究の分野では、動くものに眼を追従させる「動体視力」
、素早く視線を
切り換える「眼球運動」
、広い視野を確保する「周辺視野」
、瞬間的に状況を見極める「瞬間視」など
の能力が研究されている(石垣尚男、2001)
。
本研究ではこの分野で紹介されている「動体視力」と「周辺視野」の視機能を、ろう者・コーダ・
手話学習者・聴者で比較した。そして聴覚の有無、手話の使用、手話が第一言語か否かに着目し、研
究を行なった。
2.調査方法
2.1 被験者
総被験者 50 名(平均年齢 30.8 歳±8.9 歳)の視機能について調査を行った。被験者の内訳は、聴
力レベル 100 dB 以上のろう者 10 名(平均年齢 32.3 歳±9.7 歳)
、コーダ 5 名(平均年齢 36.4 歳±
9.4 歳)
、手話学習をしている聴者である国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学
科在学中の学生及び卒業生(以下手話学習者とする)14 名(平均年齢 26.9 歳±2.9 歳)
、手話学習経
験のない聴者(以下聴者とする)21 名(平均年齢 31.4 歳±10.6 歳)であった。
2.2 課題
課題には、スポーツビジョン1トレーニングソフトウェア“SPEESION2”を使用した。このソフト
ウェアには、スポーツビジョンにおける「動体視力」
、
「周辺視野」
、
「瞬間視」
、
「眼球運動」に対応し
た 4 つのトレーニングメニューがあり、本研究では「動体視力」
、
「周辺視野」のメニューを課題とし
て採用した。
1
スポーツビジョンSports Vision とはスポーツと視覚の関係を総合的に研究する科学分野であり、その内容は眼科や神経生理学など
の医学から心理学、体育学などさまざまな分野に関係している。
2
愛知工業大学石垣尚男教授の監修により、株式会社アシックス社より販売。スポーツビジョンにおける動体視力、眼球運動、周辺視
野、瞬間視を手軽に測定・トレーニングできるソフトウェア。
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子 1-1
1.手話と聴力が視機能に与える影響
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.2.1 動体視力
被験者には、コンピューターの画面上を左から右へ移動する
一桁の数字を読み取るよう指示した。課題の難易度(速度)は
10 段階あり、本研究はランク 3~8 を各 5 問、ランダムに 30
問出題した。難易度ランクと正答数の積の総和によって動体視
力スコアを算出し、動体視力に関わる視機能の指標とした。
図 1 SPEESION における動体視力測定課題の概念図
左から右へ素早く移動する一桁の数字を読み取る。数字
は途中 2 回変化する。その 3 つの数字を出現した順番に
解答する。
2.2.2 周辺視野
被験者には、
コンピューターの画面中央の数字を読みながら、
周辺に現れる記号の中で異なるものを見つけるよう指示した。
異なる記号の含まれるラインは 2 方向あり、その両方向と中央
の数字を正しく答えたときのみ正答とした。課題の難易度(中
心視野からの距離)は 10 段階あり、今回はランク 3~8 を各 5
問、ランダムに 30 問出題した。周辺視野に関わる視機能の指
標として、動体視力と同様に周辺視野のスコアを算出した。
図 2 SPEESION における周辺視野測定課題の概念図
三角の記号が中央から 8 方向に伸びるライン上に出現す
るが、白い丸が 2 ヵ所含まれている。初めに中央の数字
を次に白い丸の含まれていた 2 方向を解答する。
2.3 分析
動体視力と周辺視野のスコアを数値解析ソフトウェア3と統計処理ソフトウェア4を用いて分析した。
一般的に動体視力や周辺視野は 15~20 歳をピークに、その後は 40 歳代後半までは徐々に低下し、そ
れ以後は急カーブを描いて下降するといわれている(真下一策、2002)
。またスポーツ経験5と視覚能
力の向上における関連も指摘されている。そこでまず、有効被験者 50 名(平均年齢 30.8 歳±8.9 歳)
について年齢とスコアに相関があるかを調べた。次に、現在もスポーツをしている者、現在はスポー
ツをしていない者、スポーツ経験がない者、の 3 つの群に分けてスコアを比較した。これらの結果を
踏まえて、ろう者・コーダ・手話学習者・聴者の 4 つの群で比較した。
3
“MATLAB” アメリカ合衆国のMathWorks社が開発している数値解析ソフトウェア。行列計算、ベクトル演算、グラフ化や 3 次元素表
示などの豊富なプログラムを持つ。このソフトを用いることにより、短時間で簡単に科学技術計算を行うことができる。日本での販売
展開はサイバネットシステム株式会社。
4 “JSTAT”佐藤真人作のフリーソフト。CSV形式もしくはタブ区切り形式のデータを使って、統計処理を行うソフト。主な処理は検定
と相関に関するもので、平均や標準偏差などの比較的単純な統計計算もできる。
5 本研究におけるスポーツとは、
“SPEESION”と関連のある野球・サッカー・テニス・バスケットボール・卓球・バレーボール・ゴ
ルフ・ボクシング・空手の 9 種目とした。
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子 1-2
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
1.手話と聴力が視機能に与える影響
3.調査結果
3.1 年齢と視機能の関係
動体視力と周辺視野のスコアと年齢の関係を調べた。前述したように、年齢に比例してスコアは
徐々に下降する傾向にあると考えられるが、
今回の調査では、
統計的に有意な相関はみられなかった。
6
図 3 年齢と動体視力スコアの関係
縦軸は動体視力のスコアを表し、横軸は年齢を表
す。最小二乗法6によって直線で近似した。Rは相
関係数⁷をあらわす。
図 4 年齢と周辺視野スコアの関係
縦軸は周辺視野のスコアを表し、横軸は年齢を
表す。最小二乗法によって直線で近似した。R
は相関係数をあらわす。
3.2 スポーツ経験と視機能の関係7
被験者を現在もスポーツをしている者、現在はスポーツをしていない者、スポーツ経験がない者、
の 3 つの群に分けて比較し、一元配置の分散分析8を行った結果、動体視力について有意な差はなかっ
。また周辺視野についても有意な差はなかった(図 6, p = 0.40)
。9
た。
(図 5, p = 0.20)
図 5 動体視力スコアにおけるスポーツ経験との比較
エラーバーは標準誤差9をあらわす。
図 6 周辺視野スコアにおけるスポーツ経験との比較
エラーバーは標準誤差をあらわす。
6 想定する関数が測定値に対してよい近似となるように、残差の二乗和を最小とするような係数を決定する方法。
7 2 つの連続変量の間の関係を示す統計量で、散布図を描くと 2 つの連続変量が右上がりの傾向を示すときには正の相関、右下がりの
傾向を示すときには負の相関がある。
8 1 つの要因によって分類される独立した 3 群以上の集合の分散が等しいとみなせる場合、平均値が全て等しいかどうかを検定する方
法。
9 母集団からある数の標本を選ぶとき、選ぶ組み合わせによって平均値がどの程度ばらつくかを、全ての組み合わせについての標準偏
差であらわしたものをいう。
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子 1-3
1.手話と聴力が視機能に与える影響
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.3 被験者群における視機能の比較
ろう者、コーダ、手話学習者、そして聴者の 4 群に分けて動体視力と周辺視野のスコアを一元配置
の分散分析で比較した結果、動体視力では有意な差がみられなかった(図 7, p = 0.46)が、周辺視野
。そこで、周辺視野スコアにおいて 4 群、6 組の組み合わせ
では有意な差がみられた(図 8, p = 0.01)
で多重比較(シェッフェの方法)10を行なった結果、手話学習者と聴者の間で有意な差がみられた。
その他の群の比較では有意な差はみられなかった。
図 7 ろう者・コーダ・手話学習者・聴者における
動体視力スコアの比較 エラーバーは標準誤差を
あらわす。
図 8 ろう者・コーダ・手話学習者・聴者における周
辺視野スコアの比較 エラーバーは標準誤差をあらわ
す。アスタリスクは有意差あり( p < 0.05)
4.考察
被験者群間で視機能の違いがみられた周辺視野について考察する。
初めに、視機能と聴覚の有無との関連について調べるために、手話を第一言語としているろう者と
コーダで周辺視野スコアの比較を行ったところ、両群の間に有意な差はみられなかった。このことか
ら聴覚の有無が周辺視野の視機能に関連しているとはいえない。
手話学習経験のない聴者よりも手話学習者の周辺視野スコアが有意に高かった(図 8)
。仮に手話の
使用が関係するとすれば、ろう者と聴者およびコーダと聴者の間にも有意な差があるはずだと考えら
れるが、実際には差はみられなかった。これは、ろう者とコーダの被験者においては検定を行う上で
最低限の人数しか確保できなかったため、スコアにばらつきが生じ有意な差が出にくかったとも考え
られる。そこで、前述の聴覚の有無と視機能についての結果を踏まえ、ろう者とコーダを手話を第一
言語としている者の群としてまとめ、手話を使用していない聴者の群とt検定(片側)11の比較を行っ
たところ、有意な差がみられた(図 9)
。ろう者やコーダの被験者数を増やすことができれば、それぞ
れの群においても聴者との間に有意な差がみられるかもしれない。
最後に手話を第一言語とする者と、第二言語とする者の能力の違いをみるため、手話を第一言語と
する者の群と、手話学習者との間で t 検定(片側) による比較を行った。その結果、両群の間に有意
な差はみられなかった(図 10)
。
以上の結果から、第一言語か否かに関わらず、手話の使用によって周辺視野の能力が上昇する可能
性が示唆された。
103つ以上の群で、個々の群と群を検定する場合に、有意水準を上げずに行う検定法を多重比較といい、一組の平均値を複数回比較し
た場合に、より慎重に有意差を判定する方法をシェッフェの法則という。
11 2 つの標本について平均に有意差があるかどうかをみる検定。また片側とは検定する 2 群の有意差が、大小既知のときに用いるt検
定。
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子 1-4
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
図 9 手話話者と聴者における周辺視野スコアの
比較 エラーバーは標準誤差をあらわす。アスタ
リスクは有意差あり(p < 0.05)を示す。
1.手話と聴力が視機能に与える影響
図 10 手話話者と手話話者(手話学習者)にお
ける周辺視野スコアの比較 エラーバーは標準誤
差をあらわす。
5.結論と課題
本研究では、ろう者の視機能に着目し、聴覚の有無や手話の使用が「動体視力」と「周辺視野」の
視機能に与える影響について調べた。被験者群は、ろう者・コーダ・手話学習者・聴者とし、上記の
視機能を比較したところ、動体視力には有意な差はなかった。しかし、周辺視野においては、聴力や
手話が第一言語か否かに関わらず、手話によって周辺視野の視機能が高められる可能性が示された。
なお、動体視力における各群の比較では一つも有意差がなかったが、有意差のあった周辺視野とグ
ラフが類似していた(図 7,8)
。このことから、動体視力においても周辺視野と同様に、被験者を増や
すことで、有意な差が表れる可能性がある。今後ろう者とコーダの被験者を増やすことで、より明確
な議論が展開できるであろう。
謝辞
本研究を進めるにあたり、愛知工業大学の石垣尚男教授には課題について“SPEESION”使用につ
いてのアドバイスを頂きました。また、国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所視覚機能
障害研究室の岡崎俊太郎研究員からは、データの統計学的分析など多大なご協力を頂きました。深く
感謝いたします。
参考文献
Bosworth, R. G. and Dobkins, K. R (2002) Visual field asymmetries for motion processing in deaf
and hearing signers. Brain Cogn 49, 170-181.
石垣尚男 (2002)「SPEESION」スポーツビジョントレーニングソフトマニュアル,株式会社アシッ
クス
真下一策,石垣尚男,白山晰也 (2001) スポーツは眼だ,スポーツビジョン研究会監修
唐木裕美・信田有美・弓木妙美子 1-5
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.医療現場での手話通訳の課題
2.医療現場での手話通訳の課題
―リレー通訳から見えてくるもの―
波岡江里子
1.はじめに
手話通訳の依頼件数は全国ほとんどの地域で医療現場がトップだと言われている。しかし、通訳が
同行しても患者の訴えが医師に伝わらない、逆に医師の説明・指示が患者に伝わらないという問題が
起こっている。
本研究ではこの問題を考えるにあたり、多く場合、手話通訳者の母語が患者の母語と異なっている
ということに焦点をあて、ろう通訳者あるいはリレー通訳というものの可能性について検討する。
2.研究方法
2.1 インタビュー
ろうあ者相談員経験者(1 名)
下記セミナー、講演会参加者
ろう者(6 名)通訳士(2 名)
冬期実習先企業勤務者(実施期間 2008.1.8~1.29) ろう者(8名)
2.2 参加セミナーおよび講演会
・
「病気と聴覚障害者」
(2008.2.16)
・
「聴覚障害者が健聴者と同様に健康診断を受けるための工夫」
(2008.2.9)
・
「かながわ医療通訳セミナー・医療通訳の明日」
(2008.2.2)
・
「医療機関と情報バリアフリー」
(2007.10.16)
3.通訳
3.1 通訳者と母語の関係
本来通訳者というものは、通訳される二つの言語それぞれの母語話者から供給され、利用者はその
両方から選択することができるのが普通である。通訳場面によっては、必ずしも自分の母語の通訳者
ではなく、母語以外の通訳者を選ぶことが効果的である場合もある。
3.2 医療の場での通訳
医療の場においては患者と通訳者は同じ母語であることが望ましい。言語はもちろんのこと、習慣
や文化背景をも理解していることが極めて重要だからである。
日本在住の外国人で日本語が困難な患者が受診する場合、患者と通訳は母語が同じであることが望
ましいとされている。
(参考:
「特定非営利活動法人多言語社会リソースかながわ(ミックかながわ)
」
)
4.医療の場での手話通訳
波岡江里子 2-1
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.医療現場での手話通訳の課題
4.1 手話通訳
通訳者は異なる言語それぞれの母語話者から供給されるが、手話の場合、現状では聴者側からの通
訳者だけである。しかし、聴者側からだけの供給に対していままで双方どちらからも指摘されること
がなかった。しかし診療内容が正確に伝わってないことに双方不満もあり、更に問題を残すこともあ
る。それにもかかわらず医療の場での手話通訳方法について他の方法への議論をされることさえなか
った。
4.2 患者
患者は通訳者を通し、自分の病状が医師に正確に伝えられていると思っている。しかし医師からの
説明になると通訳者を介しても理解できない場合がある。
その場ではわかった振りをしてしまうため、
診療終了後に通訳者に不満を残すこともある。
4.2 医師の不安
医学用語が専門的なことから、必ずしも医師の会話が正しく通訳しきれないことに不安を感じてい
る。更に手話がわからない医師には自分の話した内容が患者にどのように伝えられたかを確認するこ
とができない。
4.3 通訳者
医師からの説明は専門用語が多いため、手話への翻訳の難しさを感じている。しかし、通訳者の通
訳だけで患者は理解をしているものと思い込んでしまうことが多い。患者が理解をしてないことに思
いも至らないのである。
5.医療の場でのリレー通訳
従来の通訳方法から脱却し患者と通訳者が母語を共有できる方法をとることで、従来から解決され
ていない医療の場での問題の解決に向けて可能性がある通訳方法である。
5.1 リレー通訳
患者と通訳が母語を共有した場合にも、聴者医師とのやりとりにはもう一人手話通訳が必要である。
患者と医師の間に入る二人の通訳を介してコミュニケーションを図ることとなる。この方法がリレー
通訳である。しかしこの場合通訳に時間がかかる、コストも考慮にいれなければならない、通訳がで
きるまでの人材の確保などの課題もあり、一般的ではない。
5.2 ろうあ者相談員
医療の場でリレー通訳として認識はされていないが、ろうあ者相談員がその役目を担っていること
が多い。医療の場においてろうあ者相談員が通訳に入った場合、母語を共有できていることがその存
在を大きいものにしている。
それにもかかわらず、
その通訳の方法や母語で話せる優位性を理解せず、
不当に低い評価をする通訳士もいる。
5.3「世界手話通訳者会議」報告
会議での、イギリスのプレゼンテーションの中に、
「ろう通訳者とはなにか?」という問いかけが
あった。
「ろう通訳者は活動としては地域や学校、行政、TVニュース等で行われており、今後は専門
波岡江里子 2-2
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.医療現場での手話通訳の課題
職として発展していくものと考える。 “Deaf Interpreter”が専門職として認められるためには、その
専門性が説明できなければならない。養成は大学で始まっている。今後はすべての大学でろう通訳の
トレーニングが行われるべきである。
」との報告があった。
6.ろうあ者相談員から学ぶこと
6.1 ろうあ相談員について
ろうあ者相談員は全国にいるが、その名称、担っている職務についても全国で統一されているわけ
ではなく、都道府県・地町村ごとにまちまちである。相談業務担当時間に関しても、いつでも相談可
能なところと月 1 回程度しか相談できないところがある。県によっては積極的に医療の場において通
訳を担う相談員もいる。
6.2 ろうあ者相談員から学ぶこと
ろうあ者相談員が医療の場で通訳することで得られるものは、患者と母語を共有しているため、患
者の訴えを漏らさず読みとれるところにある。このことは医師の説明を患者に伝えることはもちろん
だが、先ずは患者の訴えを医師に伝えられるということである。例えば「痛い」ということ一つ伝え
るにしても、その伝え方次第で今後の治療方針に大きくかかわることになる。聴者が日常的に使って
いる「痛い」の言い方だけでは本当の病状が伝わったことにならないのである。日本語にこだわった
言い方ではなく、患者から表出される手話や表情を読み落とすこと無く医師に伝えられること、この
ことがろうあ者相談員だからこそできることであり、患者と医師双方の内容を伝えられる通訳技術か
ら聴者通訳者も学ぶべきことは多いのである。
今回ある県のろうあ者相談員にインタビューを実施し、
実際に手話表現の方法を学び実感した。
7.まとめ
医療の場での通訳は患者の母語と通訳者の母語が共有していることが非常に有効である。医師との
母語が共有されていなくても、通訳者と医師の互いの努力により母語を共有していない不利益を埋め
ることができる。しかし、患者は自ら不利益を埋めることができない。何よりも重要な点、患者の訴
えが全て医師に伝わらなければならないということを考えると、患者と通訳者の母語の共有が第一優
先である。今まで、ろう通訳者やリレー通訳に関心も示されず、議論をされることもなかったが、今
回の研究を通し、その有効性を改めて検証できた。
【注】
「特定非営利活動法人多言語社会リソースかながわ(ミックかながわ)
」
神奈川県(国際課)と協働事業で医療通訳派遣を行っている団体。神奈川県内 17 の病院を対象に医
療通訳スタッフを派遣している。
【参考文献】
松本昌行(1997)
『ろうあ者 手話 手話通訳』図書出版文理
特集(1998.64)
「聴覚障害と医療」
『手話通訳問題研究』発行編集手話問題研究会
特集(2005.58)
「医療と手話」
『手話コミュニケーション研究』研修発行日本手話研究所
斉藤くるみ(2007)
『少数言語としての手話』財団法人東京大学出版会
波岡江里子 2-3
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.医療現場での手話通訳の課題
連利博(2007)
『医療通訳入門』株式会社松柏社
波岡江里子 2-4
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
3.手話落語の研究
-新たな芸能分野開拓への挑戦-
長 田 富 美 子
1.はじめに
1.1 研究目的
落語は本来、音声と身振り手振りによる話芸である。その基本的要素は、①声色や言葉遣い、②語
呂あわせ、③身振り、手振り、表情による仕草、④扇子、手ぬぐい等の小道具、⑤言葉と言葉の間の
取り方等が挙げられるが、これらを総合的に駆使して、登場人物の性格の表現、情景描写等を行う話
芸である。
現在までに語り継がれてきた日本の代表的な伝統話芸、古典落語をろう者も共に楽しめるように、
視覚言語である日本手話に翻訳する場合、どのように工夫して落語のエッセンスを伝えていくのか下
記の 2 点に焦点を当てて、手話落語の分析に取り組むこととした。
1) 話芸である落語の上記基本要素をどういう創意工夫によって、日本手話に翻訳して行くのか、
また各要素を日本手話ではどのように総合的に組み立てていくのか。また、一般的に回りくど
いえん曲な表現を排し、明確な意思伝達を行うろう者がどう落語を翻訳するのか。
2) 話芸である落語を、視覚芸といえる手話落語に翻訳していく場合、新たな芸能分野としての手
話落語独自の発展可能性、言い換えれば、どの様にろう文化に取り込み発展させるか、その可
能性の考察
1.2 研究方法
研究は、主に以下の4つに基づいて実施した。
z DVD、ビデオによる落語と手話落語の比較分析:同じ演目の表現方法の違い
z プロの手話落語家ヒヤリング(向山秀代)
z プロの手話落語家からの資料提供(向山秀代、喜楽舎馬次郎、デフ一福)
z 文献調査(桂福団治、デフ一福)
2.落語とは
2.1 歴史
落語とは噺家が一人で高座に座り、扇一本、手拭い一筋で行う話芸のことであるが、江戸期から明
治期頃までに原型が成立したと言われている。さらに落語の起源は、戦国末期から江戸時代初期まで
遡るというのが一般的な説である。おもしろみのある話の源流は『竹取物語』
、または『今昔物語』や
『宇治拾遺集』に収められた説話にまで遡る。滑稽な話を集めた本の元祖としては、誓願寺の安楽庵
長田富美子 3-1
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたという 1623 年の『醒睡笑』が挙げられる。
この本を元にして『子ほめ』
『牛ほめ』
『唐茄子屋政談』
『たらちね』など現在でも演じられるはなしが
生まれた。また、豊臣秀吉におとぎ話を聞かせる御伽衆の一人、曽呂利新左衛門も落語家の先祖であ
るといわれるが、架空の人物であるとも言われる。
17 世紀後半になると、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」
を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じるこ
ともあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、
『寿限無』の元に
なる話を作ったのが初代の彦八であると言われている。
18 世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)
」を集め始めた。こ
れが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では 1770 年代に、
江戸では 1786 年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて 1798 年に岡本万作と初代三笑亭
可楽がそれぞれ江戸で 2 軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた。
幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した
速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた。
1917 年 8 月には柳派と三遊派が合併し、4 代目橘家圓蔵、初代三遊亭圓右、3 代目柳家小さんらが
中心となって演芸会社「東京寄席演芸株式会社」や 5 代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)
」
設立。その後「東京寄席演芸株式会社」は翌年に「東京演芸合資会社」と名前を変える。1923 年に「睦
会」と「会社」が合併し「東京落語協会(落語協会の前身)
」が設立された。大学のサークルとしての
落語研究会、通称「落研(おちけん)
」が生まれたのは昭和 20 年代頃で、東京大学や早稲田大学のも
のが始まりだと言われている。
なお、江戸から明治期頃までに原型が成立した演目を古典落語と呼び、それ以降に成立した演目を
新作落語、もしくは創作落語と呼ぶ。新作落語には時事的な題材を用いたもの、風刺性の濃いものが
多い。
2.2 表現の様式
落語において用いられる表現の要素は、①言葉:音声として発せられる口頭語、②仕草:最小限の
ものに限られ、基本的に立上って歩くことはない、③仕草のための小道具:扇子、手ぬぐい、上方落
語における見台と拍子木、張扇の五種に限定される、④その他:落語の演ぜられる場を構成する要素
として、出囃子、噺家の衣装(着物)
、座布団、高座、めくりなどに分類することが出来る。
このうち特に重要なのは言葉と仕草であり、これが落語という芸の根幹を成しているといえる。落
語は、演劇や舞踏等とは異なり、噺家が演目に応じて扮装したり、舞台装置を用いたりすることなく、
言葉と仕草のみによって芸を見せる。これは落語の大きな特徴であるといえる。
一般的に古典落語には定められた口演台本があり、噺家はこれを記憶して高座で再現する(ただし
必ずしも筆記されたものとは限らない。多くの場合は口伝えである)
。すなわち落語のもっとも基礎的
構成要素は、これらの台本を含めた「言葉」であるといえる。
落語の「言葉」は、地の文と会話文(対話文)で構成されているが、噺の勘所にくると会話文によ
ってテンポよく話を進めてゆき、説明的な地の文が少なくなる。この点が話芸としての講談との相違
長田富美子 3-2
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
である。地の文の省略によって伝えきれないディテール(登場人物の細かい気持の変化や感情、会話
をとりまく情景)は仕草によって補われて表現される。
登場人物の多寡にかかわらずすべてを一人で演じ、役割わけをしない。このため声調、言葉づかい、
話しかたなどによって登場人物の個性を印象づける工夫がなされる。
会話文から地の文への移りやその逆の場面、あるいはその他大勢的な多人数の会話においては、誰
の視点から語られているのか判然としないナラティブが存在したり、気づかない間にナラティブが入
れ替わったりするが、それが聴衆には不自然に聞こえない。
仕草は、落語において言葉の欠を補うための存在である。すなわち演劇のように話のすべての部分
について仕草が伴っているわけではなく、言葉だけでは表現しきれない部分に補足的な意味を持って
仕草が付加されているのである。もっとも「言葉だけでは表現しきれない」内容については、言葉で
は端的に表現できない動作や前述の「地の文」の欠如を補うといったものから、素の芸において聴衆
のイマジネーションを刺激するために付加されるきわめて高度のものまで含まれる。
仕草においても言葉同様、一人全役が原則であり、噺家は必要に応じて次々に様々な役の様々な仕
草を仕分ける。仕草の主なものには以下のようなものがある。
z 表情:登場人物の表情を演じる。必要に応じてわざと強調した、おもしろい表情をつくること
もある。
z 視線:上位の人物が下位の人物に話しかける場合には舞台下手を向き、逆の場合には舞台上手
を向く。会話の部分において、こうして視線を切り替えることが、登場人物を仕分けて聴衆に
印象付ける効果的な手法となる。
z ものを食べる:閉じた扇子を箸に見立てて、あるいは手づかみで、様々なものを食べる仕草が
落語のなかにはある。食べものや食べる状況によって仕分けるコツがそれぞれにある。
z 歩く:正座したまま、あるいは軽く膝立ち位になって、手をぶらぶら動かしながら、両膝を交
互に動かす。立上って実際に歩くことは基本的にない。
z 書く:もっとも一般的には手ぬぐいを帳面や紙、扇子を筆に見立てて字を書く。上方落語の場
合は見台を机に見立てることもある。
z 舟を漕ぐ:落語にはめずらしい大きな動きで、扇子を竿や艪にして演じる。力仕事らしい感じ
を出さなければならない。
z 寝る:横になることが出来ないので、腕を添えて肘枕の感じを出す。演出上の工夫である。
z 指さす・目をつかう:落語の性質上、噺のなかに登場するモノを実際に高座に持出すことは不
可能であるために、虚空を指さしたり、見たりすることで、あたかもそれらがあるかのように
演じる工夫がある。
z 涙を流す:主に人情噺で多く用いられる。高座に持参した湯呑みの中の茶や湯に指をつけ、そ
の指で目の下を縦になぞる。
2.3 手話落語の誕生
手話落語の歴史はまだ 30 年余りで上方落語家、桂福団治によって考案された。そのきっかけは、
突然福団治の声が出なくなり、ポリープ手術後の声を出すことが出来ない闘病生活の中で思いつき、
長田富美子 3-3
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
考え出されたものである。それが始まりとなり、現在手話落語に携わる落語家はプロ、アマ含めて 50
人ほどに達している。その内、聴覚障害者は 30 人で、真打ちとしてプロの落語家で活躍しているろう
者もいる。
3.落語と手話落語の比較分析
落語と手話落語の基本的要素は以下に示すとおりである。
z
落 語:言葉が主、仕草は従
z
手話落語:手話と仕草が主、昔の言葉・分かりにくい用語を絵で示す工夫もある。
話芸である落語と視覚芸である手話落語を比較し、話芸を手話によってどの様に視覚芸にしている
のか分析し、手話落語の特徴と翻訳の難しさ、また手話落語が独自に持ち得る新たな芸能分野の可能
性の考察を試みた。
3.1 演目
比較分析に取り上げた演目は以下の三つである。
(1) 「代書屋」
z
落語:演者、桂枝雀(資料:枝雀落語大全第一集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002
年)
、上演時間:22 分 54 秒
z
手話落語:演者、喜楽舎馬次郎(資料:馬次郎氏個人所有 DVD(本人から借用)
)
、上演時間:
9分9秒
z
あらすじ:代書屋と客のやりとりの噺である。無筆の客が履歴書の代書を頼みにくる。代書
屋が生年月日、住所、職歴と尋ねていくが、とんちんかんな受け答えばかりで、抹消訂正だ
らけの履歴書が出来上がるというこっけい噺である。
(2) 「高津の富」
z
落語:演者、桂枝雀(資料:枝雀落語大全第六集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002
年)
、上演時間:42 分 13 秒
z
手話落語:演者、向山秀代(資料:
「手話通訳ビデオ演習シリーズ 1」
、全国手話通訳問題研
究会、上演時間:18 分 53 秒
z
あらすじ:ふところに一分しかない男、田舎の大金持ちを装い、宿屋に泊まる。ところが亭
主が来て富札を売りつけられ、なけなしの一分を取られてしまう。神社の前で、その男が当
たり番号と自分の札を比べ、まさしく一番の当たりくじ。宿屋に戻り、震えながら布団に潜
り込む。当たったら半分やるといわれていた宿屋の亭主も当たり番号を見て有頂天。下駄の
まま二階へ上がり寝ている男の布団をめくってみると、こっちも下駄をはいたまま寝ていた。
(3) 「饅頭こわい」
z
落語:演者、桂枝雀(資料:枝雀落語大全第四集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002
年、上演時間:26 分 20 秒)
z
手話落語:演者、デフ一福 (資料:デフ一福「 饅頭 こわい」
、
「手話寄席 Vol.1 」
、上演時
長田富美子 3-4
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
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3.手話落語の研究
間:9 分 47 秒
z
あらすじ:若い者が寄り集まって、世の中で何が一番怖いかという話になる。ヘビが怖い、
蜘蛛が怖いと言い合っているのを、横目で見て俺は怖い物なんぞないとせせら笑っていた奴。
にわかに震えだし、実は饅頭が怖くて、それを思い出さぬため強がりをいっていたと白状し
て寝こんでしまう。普段からおもしろくない奴だから怖がらせてやろうと、みんなで饅頭を
買ってくると、怖がるどころか片っ端から食べてしまう。お前が本当に怖い物は何だと問い
詰めると、今度は濃いお茶が一番怖い。代表的な落とし噺である。
3.2 比較のポイント
(1) 出囃子(でばやし)の有無
出囃子とは噺家が高座に上がる際のお囃子のことで、噺家ごとに特定の曲が決まっている。いわば
噺家のテーマ曲ともいえるもので、高座の雰囲気を盛り上げる役割を果たしている。枝雀の出囃子は
「昼まま」という曲を用いている。一方、手話落語の場合は、出囃子は無い。あったとしても聞こえ
ない。手話落語では出囃子に代替するものを生み出す工夫の余地はあるものと思われる。例えば、特
定の仕草で高座に登場するとか、照明(点滅、色等)を工夫する等が考えられる。
(2) 枕の有無
枕とは、
噺の本題に入る前の導入部のことを指すが、
枝雀は上記三つの演目において枕に約 45 秒(饅
頭こわい)から 3 分(代書屋、高津の富)を使ってから、本題に入っていくのに対して、手話落語では枕
を用いずに、直接本題に入っている。手話落語の場合、枕は殆ど用いられていない。
(3) 動(仕草)と静(仕草無し)の効果の違い
枝雀は、落語の基本的要素である「言葉」+「仕草」を同時に使うことが出来る。さらに、静(仕
草なし)を有効に活用している。例えば、
「代書屋」の演技時間 22 分 54 秒中、静(仕草なしの時間)
を約 7 分(30%)取っている。言い換えれば、枝雀は、言葉+仕草+静による相乗効果を巧みに活用
している。
一方、手話落語の場合、
「手話」と「仕草」を同時に行うことは出来ないので、交互に行うことにな
る。馬次郎は「代書屋」の演技時間 9 分 09 秒中、手話約 8 分(88%)、仕草約 1 分(11%)を使っている。
静(手話及び仕草無しの時間)は殆ど取っていない。
向山は、「高津の富」の演技時間 18 分 53 秒中、手話約 10 分 20 秒(55%)+仕草約 8 分 30 秒(45%)
を使っている。また、デフ一福は、「饅頭こわい」の演技時間 9 分 47 秒中、手話約 9 分(90%)+仕草約
1 分(10%)を使っている。比較に取り上げた手話落語の場合、何れも「手話」および「仕草」をしない
静の時間がないことを、一つの共通の特徴として挙げることが出来る。
(4) 手話落語の難しさ:動と静
枝雀は、仕草を殆ど使わない静を入れることにより、動(言葉+仕草)と静を程よく組み合わせて、
噺にメリハリを付けている。これによって、動と静の両者の相乗効果を十分に発揮して観客を引き付
けている。
一方、手話落語は、馬次郎を始め、向山、デフ一福は演技中、手話と仕草を交互に入れるため体が
絶えず動いており、動 100%で静が無い。したがって、動き一辺倒なので、印象が単調になり易い。
長田富美子 3-5
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
手話の比重が多くなりがちで、仕草、静を効果的に用いるのが難しい。
手話と仕草を同時並行で用いることが出来ないために、手話+仕草+静のメリハリを付け相乗効果
を如何に活用するかということは、手話落語の演者にとって難しい課題と思われる。
その様な「静の時間を取りにくいという」条件の下で、手話落語家はそれぞれ独自の芸を生み出す
努力が見られ、次のような工夫をしている。
z
喜楽舎馬次郎:古典落語を忠実に手話によってそのまま翻訳することに重点を置く。
z
向山秀代:表情、仕草を活用し、視覚芸としての手話落語を目指している。
z
デフ一福:登場人物をろう者に設定し、手話で会話させる工夫をし、古典落語を手話落語独
自の演目に置き換える試みをしている。
4.手話落語発展のための考察
聴者が 400 年かけて楽しみ、育ててきた伝統芸能である古典落語を、ろう者も共に楽しめるものに
しようとの試みが 30 年前から始められた。古典落語の 400 年の歴史に比べると手話落語はその 10 分
の1以下の歴史を持つに過ぎない。その点では、まだ試行錯誤を重ねる発展期にあると言える。
手話落語は、落語に起源を置いているが、落語は「話芸」であり、手話落語は落語とは異なる「視
覚芸」である。手話による翻訳芸の範囲に止まるものではなく、手話による独自の芸能ジャンルを開
拓するものと見る方が適切である。
比較分析を通して、明らかになった一つの点は、落語は「言葉」と「仕草」が主要要素であり、両者
を同時に用い、さらに「静」の効果も加えて、これらの相乗効果に立脚している芸である。これに対し、
手話落語は「手話」と「仕草」を交互に用いることから、落語には無い独自の難しさがあり、落語におけ
る基本要素「言葉」と「仕草」の相乗効果とは異なる要素によって演じ、独自の効果を生み出すことが
求められる。
落語の「言葉」は、手話落語では「手話」がその役割を担当するが、「手話」と「仕草」の相乗効果をどの
様に発揮するか、これはさらに試行錯誤が求められる課題ではないだろうか。例えば、落語の基本要
素「言葉」には無くて、
「手話」の持つ特徴、利点、例えばロールシフト、非手指動作(NMS:Non Manual
Signals)、CL(Classifier)等を積極的に活用した演出、手法の考案は、手話落語が独自の発展を遂げ
得る鍵にもなり得よう
手話落語では、音声言語を使わず、手話と仕草を交互に持ちいる必要があることから、静(手話、仕
草の無い時間)を効果的にとるのが難しいと思われるが、手話+仕草+静を効果的に組み合わせて、如
何に相乗効果を生み出すか、これも重要な課題と思われる。
また、落語家であり、手話落語も演ずる桂福団児は、現在民話の手話翻訳に取り組んでいるとのこ
とであるが、民話ばかりでなく、手話ならではの演目の発掘、手話のための落語演目の創作、人材の
育成等も、手話落語発展の重要な鍵と思われる。
【参考文献】
1)「枝雀落語大全」第一集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002 年
2)「枝雀落語大全」第四集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002 年
3)「枝雀落語大全」第六集、東芝 EMI ミュージック・ジャパン、2002 年
長田富美子 3-6
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.手話落語の研究
4) 喜楽舎馬次郎、「代書屋」、馬次郎氏個人所有 DVD(本人から借用)
5) 桂米朝、
「上方落語、桂米朝コレクション 4、商売繁盛」
、筑摩書房、2002 年
6) 古今亭志ん生、
「志ん生滑稽ばなし」
、志ん生文庫 4、立風書房、1993 年
7) 向山秀代、「富くじ」
、手話通訳ビデオ演習シリーズ1、
8) デフ一福 、
「饅頭こわい」
、手話寄席 Vol.1、
9) 山本進(編)
、
「落語ハンドブック第 3 版」、三省堂、2007 年
長田富美子 3-7
4.日本手話における性差
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
日本手話における性差
――ろうの役者による表現から――
荻野貴子・長田真映美・西尾香月
1.研究目的
言語には話し手が男性であるか女性であるかによって、発音、語彙、文法のさまざまな面に違いが
ある。日本語は「男ことば」と「女ことば」がはっきりとわかれていると考えられている言語である。
代名詞、終助詞、
「まあ」といった感嘆詞、漢語の少なさ、丁寧体の使い方など、
「女ことば」の特徴
といわれるものをすぐにいくつかあげることができる(川越 1994)
。
日本手話においては、かつては男女に特有の語彙が存在し、現在も男性形/女性形の両方の語形が
残っている語もあるがすでに使いわけの意識は失われている(米内山 2003)
。
しかし、ろう者はしばしば性別にそぐわない話し方をする話し手に対して、違和感を示すことがあ
る。そのような違和感が生じるということは、そこに何らかの性差を示す要素があることを示唆して
いる。だが、どのような要素が性差を判断する基準となっているのか、その実態は明らかではない。
そこで、本研究では、ろう者であれば誰でもある程度「男性っぽい手話」
、
「女性っぽい手話」とい
うことについて共通の認識を持っているのではないかという観点から、性差を示す要素とは何かを探
ることとした。
その際、
デフォルメによってより明確に性差が示されると考えられる演劇に着目した。
ろうの役者(男性 2 名、女性 2 名)を対象に、男女の演じわけをした語りを撮影し、性差を示すと思
われる要素を抽出し考察した。
2.研究方法
2.1 ろう者にインタビューを行なう。
(事前調査)
性差に影響を与えていると思われる要素について自由回答をしてもらう。
2.2 ろうの役者(男性 2 名、女性 2 名)に、下記のテーマを役者の性別に関係なく、
「男性として語
る」
、
「女性として語る」という 2 パターンで演じてもらう(以下、前者をM、後者をFとする)
。
「うさぎとかめ」 M:語り手・登場人物ともに男
F:語り手・登場人物ともに女
「4 コマ漫画(目覚まし)
」 M:語り手・男、登場人物(男 1 人女 1 人)の性別はそのまま
F:語り手・女、登場人物(男 1 人女 1 人)の性別はそのまま
2.3 M、Fを比較し、性差を示すと思われる要素を抽出する。抽出した要素を言語的な要素と非言
語的な要素に分類し考察する。
荻野貴子・長田真映美・西尾香月 4-1
4.日本手話における性差
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.結果・考察
3.1 言語的な要素
M
場面
機能
F
形式
m1
m2
f3
f4
m1
m2
f3
f4
①
かめを勝負に誘う
勧誘
/どう?/
○
○
○
○
×
○
○
×
②
誘いに対する返事(かめ)
承諾
あご上げ
○
○
○
○
○
×
×
×
③
テーマを説明
確認
眉上げ
○
-
×
×
○
○
○
○
④
昼寝を計画(うさぎ)
確認
眉上げ
×
×
×
×
○
○
○
○
⑤
かめの遅さに気付く
蔑み
笑い
○
○
○
○
×
×
○
×
M=男性版
F=女性版 m1・m2=男性役者 f1・f2=女性役者
誘いと承諾
①うさぎが、かめを競争に誘う場面
/勝負/どう?/
疑問形について
競争に誘う場面では、Mは、/どう?/という疑問の形式の中でも強い勧誘の表現で相手を勝負に誘
っている。F は、提案によく使われる形式として、/どう?/を使っている。また本来、勧誘や提案の機
能を持たない/どっち?/や、疑問の形式ではない直接的な勧誘の表現である/やろう/も使っている。
②うさぎからの競争の誘いに対して、かめが返事をする場面
/かめ/構わない/
あごの動き(上か下か)
Mは/構わない/と表出する際に、あごを上げていた。Fは同じ場面で、あごを下げていた。これは市
田(2005)の指摘する「無頓着さ」と「思慮深さ」の対立である1。Mは相手の誘いに対し安易に受
け入れることを表す、あごを上げた頭の位置を用いていた。一方、Fは相手がどんな意図であるのか
を慎重に判断しようとする表れである、あごを下げた頭の位置を用いていた。
1 話し手としての頭の位置は、文末や節末に現れ、基本的に話し相手との関係を表す。
「上/下」という対立軸が表しているのは、話し
相手の想定や意図に対する「無頓着さ/思慮深さ」である(市田 2005)
。
荻野貴子・長田真映美・西尾香月 4-2
4.日本手話における性差
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
眉上げ
③「うさぎとかめ」の物語を語り始めるときの導入の場面
/ある/場所/うさぎ/かめ/いた/
導入時に眉上げがあるか
④うさぎがスタート後、かめを引き離し昼寝をしようとしている場面
/昼寝/良い/
眉上げがあるか
有標な眉の位置には「相手や状況に対する関心の高さ」を表すという基本的な意味があり、中でも
[眉上げ]はその関心の契機が相手や状況の側にあることを表している(市田 2005)が、Fの全てで[眉
上げ]が表れていたのに対し、Mではm1の1例であった。
Fは相手の反応に対して関心があるということを表す[眉上げ]を、決断としての/良い/という語と共
起して使っている。
笑い
⑤うさぎが大きくかめを引き離し、かめの遅さを笑う場面
/遠い/笑い/本当/遅い/
笑いがあるか
笑いというのは、要素自体は言語的な要素とは言いがたいが、この場面では言語構造に深く組み込
まれているので、言語的要素として扱う。Mでは、相手をさげすむような笑い方、Fでは喜びがこみ
あげるような笑い方となっている。
語彙の選択の違い
かめがうさぎに遅いと言われたときにかめが反応する場面
/バカにされた/失礼な/(F-f1)
今回のデータにおいて、語彙の選択に違いが現れたのは、上記1種類のみであった。
荻野貴子・長田真映美・西尾香月 4-3
4.日本手話における性差
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3.2 非言語的な要素
部位
口
頭部
M
F
事前調査
今回の結果
マウジング
少ない
多い
○
○
舌
出る
出ない
-
○
口の開き具合
大きい
小さい
-
○
上げ気味
引き気味
○
○
あご
首
うなずき
少ない
多い
○
-
脇
開き
大きい
小さい
○
○
固定
揺れる
○
○
ひじから先
手首から先
を使う
を使う
○
○
硬い
柔らかい
○
○
動かし方
張りがある
緩やか
○
○
大きさ
大きい
小さい
○
○
力加減
強い
弱い
○
○
位置
低い
高い
○
-
少ない
多い
○
-
肩
体
腕
手指
手話
語内反復
形
反復の回転
事前調査で指摘されていた要素のうち、うなずきの多少、手話の位置の高低、語内反復の回数の多
少は、データとして得られなかったが、その他の要素についてはすべて現れていた(上表を参照)
。一
方、今回のデータには、事前調査で指摘されていない要素もあった。それは、どちらも口型に関する
特徴で、口の開き具合や舌の出具合であった。
4.まとめ
性差を示す言語的な要素からみて、男性的な表現は、自分に対する強い自信が表れており、女性的
な表現は相手に対しての関心が高く、控えめという特徴を持つことがわかった。
研究の結果、日本語と比べると、日本手話は言語的に性差を示す要素は少ないといえそうである。
しかし、非言語的な性差は日本語よりも日本手話のほうが多いという印象である。これは日本手話が
視覚言語であるということと関連があるのではないだろうか。
今回の研究はろうの役者の表現という限られた条件のもとで得られた結果ではあるが、自然発話で
も同じことが言えるものと思われる。
荻野貴子・長田真映美・西尾香月 4-4
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
4.日本手話における性差
【参考文献】
市田泰弘(2005)
「手話の言語学(9)頭の動き・位置と顔の表情-日本手話の文法(5)
「文タイプ
と従属節」
『月刊言語』第 34 巻第 9 号, pp. 94-101, 大修館書店.
川越いつえ(1994)
「ことばと性」
『言語学への招待』大修館書店
米内山明宏(2003)
「手話にも方言がある」
『月刊言語』第 32 巻第8号、pp.80-83、大修館書店
【参考資料】
デジタル絵本サイト「ウサギとカメ」http://www.e-hon.jp/usagit/usaj0.htm(閲覧日 2008/02/05)
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科教材 「4 コマ漫画(目覚まし)
」
荻野貴子・長田真映美・西尾香月 4-5
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
5.不就学ろう者コミュニティの成立
5.不就学ろう者コミュニティの成立
――川俣英一氏「めしたき族」の研究から――
古 瀬 真 美
1.はじめに
ろう者の多くは聞こえる親の元で生まれる。そのためろう学校に入って、初めて自分と同じろう者
に出会うという人が多く、ろう学校での集団生活を通して、手話言語の獲得やろう文化、ろう者社会
を確立していく。そしてろう学校卒業後もろう者達は、コミュニティを形成していくが、そもそもろ
う学校が設立されたのは明治 11 年 5 月 24 日(京都盲唖院)で、約 130 年ほどの歴史しかない。ろう
学校が設立されるまでの間や、設立後も何らかの事情でろう学校への就学の機会が与えられなかった
ろう者のコミュニティは存在しなかったのだろうか。
アメリカのマサチューセッツ州にあるヴィンヤード島では、
アメリカでろう学校が設立される 1817
年よりも前に、約 300 年以上にわたり、先天性のろう者の数が飛びぬけて高い比率を示し、健聴者も
島の手話を覚え、実生活の場でそれを用いていたことが明らかになっている(グロース 1991)
。一方
日本では、奄美大島の瀬戸内町古仁屋に暮らす不就学ろう者の兄弟と、彼らの健聴の家族や友人によ
って使用されるサインを調査した記録(大杉 2002)が残されているが、このろう者の兄弟を中心とし
た不就学ろう者コミュニティが存在していたことが確認されている(市田泰弘・私信)
。その他にも、
不就学ろう者コミュニティの存在を示唆する証言はいくつかあるが、何らかの形でその詳細を記録し
たものはほとんどない。数少ない記録として、川俣英一氏による栃木県烏山町(現:那須烏山市)の
不就学ろう者コミュニティに関する報告がある(川俣 1997、2001)
。このコミュニティは、不就学ろ
う夫婦の自宅を拠点にして、自転車で行き来できる距離に点在した約 30 名ほどの不就学ろう者によ
って形成されていたものである。川俣氏は彼らを「めしたき族」と命名したが、現在、そのコミュニ
ティは消滅し、接触のあった人物も川俣氏ただ 1 人になってしまった。そのような大規模な不就学ろ
う者コミュニティに関する記録は他になく、希少性の高いものと考えられるので、川俣氏へのインタ
ビューを実施することによって、記録として残っていないものも含め、記述しまとめることとする。
2.研究方法
「めしたき族」の研究に関する資料を収集するとともに、川俣氏による手話の語りをビデオに撮影
した。
記録収集は川俣氏の自宅で 3 度、計 12 時間行った。まず、1 度目は 2007 年 6 月中旬に行い、
「め
したき族」の研究に至った経緯などを語ってもらい、川俣氏の研究に関する資料を頂戴した。
2 度目の 2007 年 8 月下旬には、川俣氏の生い立ちから「めしたき族」との出会いや、当時の様子
などを自由に語っていただいた。
3 度目は、2008 年 2 月上旬に行い、筆者が理解した内容の確認及び、質問に答えてもらう形式で行
なった。
3.「めしたき族」
古瀬真美 5-1
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
5.不就学ろう者コミュニティの成立
3.1 中心人物である不就学のろう夫婦について(昭和 23 年~24 年、川俣氏当時 20 歳)
川俣氏と親交があった、A 氏夫妻(夫 60 歳すぎ、妻は夫より 2,3 歳上)は、コミュニティの中心
人物で、指導者的存在であった。夫である A 氏は、烏山劇場の下足番として月に 10~15 日ほど勤務
していたが、生活は決して楽ではなかった。鮎を囲炉裏で焼く時には、2 種類の墨を使い分け、また
急須も 30 年、15 年、5 年ものの 3 つあり、来客の身分に合わせて使い分けていた。当時、20 歳だっ
た川俣氏には、5 年ものの急須でお茶を出していたそうだ。このようにすべてにおいてこだわりを持
ち、几帳面な性格で、誇り高く人に弱みを見せない人であったと川俣氏は語る。
3.2 「めしたき族」のコミュニケーション手段
「めしたき族」のメンバーが使っていた言葉は、現在一般に話されている手話ではなく、コミュニ
ティの中で使われている共通の身振りであった。また、劇場で演じられているものや、劇団員から教
わったであろう言葉(相合傘、眉唾等)の身振りも、何度か見る機会があったという。
3.3 「めしを炊ける」という言葉について
「めしたき族」のメンバーは、自己紹介の時に必ず「私/めし/炊く/得意」と表す。これは「自
分はめしを炊くことができる」という意味である。この言葉は折に触れて何度も出る。A氏夫妻がメ
ンバー1人1人の話をする時にも、めしを炊ける人、めしの炊けない人など、3 つのランクにわけて
話すことがあった。内、20 名もがめしを炊けない人で、川俣氏はこのランクには属さず、
「字が書け
る人」と呼ばれていた。
警官の戸籍調査に川俣氏が立ち会い、川俣氏が警官と A 氏との通訳を行う機会があった。この時も
A 氏は「めしを炊ける」と何度も言い、これを通訳しなかった川俣氏に激怒したという。川俣氏によ
ると、この言葉は「私は弁護士です。
」
「公務員です。
」と資格を語るのと同じ性質を持つもので、単な
る自慢ではないと考えることができるほど、非常に大切な言葉であり、
「めしを炊けない」という言葉
は最大の侮辱的な言葉であるらしく、うかつに冗談にも言えない雰囲気があったそうだ。
また、飯を炊くということは、当時のろう者にとって親の教えと個人の努力をなしにして、習得で
きるような容易なものではなかったと川俣氏は語る。A 氏はめしの炊き方を教えてやって欲しいと頼
まれ、指導に行ったこともある。地域の聴者は“めしを炊ける”ろう者に仕事などを斡旋していた。
その際には、聴者も彼らのことを「めしを炊ける人」などと紹介していた。
3.4 “めしを炊ける”不就学ろう者たちの誇り
A氏によって集められた“めしを炊ける”不就学ろう者は、さまざまな仕事をしていたが、墓地に
学校を増設するため、土葬を移動する作業をしていた時のことだ。現在では火葬が義務づけられてい
るが、昭和初期まで火葬場が十分に整備されていなかったこともあり、土葬が頻繁に行われていた。
遺体を移す作業は、着用していた衣服を洗濯しても 1 週間も匂いが取れないほどの異臭であった。そ
のため地域の聴者はこの仕事を拒み、ろう者が行うことになった。しかし、ろう者達は不平不満では
なく、このことを誇らしげに話しており、そのようすから聴者ができないことを、自分達にはできる
という気持ちが感じとれたと川俣氏は語る。
3.5 「めしたき族」と「富山の薬売り」の意外な関係
当時富山の薬売りの売薬人と、A氏夫妻は友好的な関係にあった。そのため売薬期には、A氏宅を
古瀬真美 5-2
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5.不就学ろう者コミュニティの成立
定宿にし、そこから各家庭を回っていた。訪問先でろう者に出会うと、A氏の存在や飯を炊けること、
そして仕事をしていることなどを話していた。その結果、A氏と出会ったろう者も多く、彼らはA氏
から飯の炊き方を教わった。
4.考察
川俣氏から語られた「めしたき族」のコミュニティ形成の要因を考察する。めしを炊くということ
は、親の手伝いをするなどの日常生活の中から、自然に習得できるものである。しかし、ろう者にこ
の技術を習得できる機会が与えられることは極めて稀であったと考えられる。それは、聞こえる子供
たちが当然習得できるめし炊きも、ろう者には不可能であると決めつけ、周囲がさせようとしなかっ
たからであろう。そのため、当時“めしを炊ける”ろう者は、ごく少数しか存在せず、
“めしを炊ける”
A氏はろう者だけでなく、周囲の聴者にも評価されていたのだと考えられる。
次に土葬の移動作業についてだが、地域の聴者が行わなかったのには、日本人の持つ宗教観も関わ
っていると考えられる。平安時代には放置された死体の処理は、検非違使の仕事であり、江戸時代に
は村で牛や馬が死ぬと、村境に死体を捨てて、その処理も被差別民に任せていた。このようなことか
らもわかるように死体や遺体に触ることは、穢れとされていた。これは、仏教とは異なる日本人が持
つ宗教的な感覚だと言える。しかし、
「めしたき族」は、聞こえないということ、不就学であるという
ことから、周囲の聴者が持つ「死の穢れ」という宗教観を共有するに至らなかったため、土葬の移動
作業を行えたのではないかと考えられる。
そして、この不就学ろう者コミュニティの形成に大きな影響を及ぼしたのが、
「富山の薬売り」の
存在である。富山の薬売りは、自由に商売ができる農村地区を拠点としていた。売薬人たちは定宿を
決め、そこから各家庭に回り、得意先には土産物も持って出向くなど、売薬人達と住民の間には親密
な関係が築かれていた。ろう者コミュニティの形成には、ろう者自身が持つ求心力のほかに、行政や
ろうあ団体の関与が考えられるが、当時はこの行政やろうあ団体の役割を、世間の話題を話し、相手
の心を開かせ、信頼の通路を作っていた富山の薬売りが担っており、
「めしたき族」もこの富山の薬売
りによって 30 人もの大規模なコミュニティとなったのであろう。
5.まとめ
不就学ろう者コミュニティが、いついかなる形で始まったのかを特定するのは、今となっては不可
能であるが、彼らがコミュニティを形成することができたのは、3 つの要因が不可欠であったように
考えられる。
まず第 1 に、同じ部落に住んでいる相手や、家族や親戚が結婚相手を決めることが一般的で、不就
学のろう同士の結婚は極めて稀であった時代に存在したろう夫婦である。共にろう者ということで、
メンバーたちが気兼ねなく集まりやすい場となり、次第にコミュニティが形成されたのであろう。
第 2 の要因としてこのコミュニティが“めしを炊ける”ということを共通の理念として持っていた
ことだ。
“めしを炊ける”ろう夫婦は「めしたき族」の象徴でもあった。
第 3 の要因は、このコミュニティが、自転車で移動可能な距離の中に、A氏宅という拠点(集まれ
る場所)を持っていたことである。A氏のような特定の個人の存在を必要としないろう学校卒業のろ
う者コミュニティは、核となる場所を移すことが可能であるが、
「めし炊き族」はA氏夫妻が他界する
と共に、拠点となる場所も失ったと考えられる。
古瀬真美 5-3
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
5.不就学ろう者コミュニティの成立
【参考文献】
・大杉豊(2002)
「奄美大島に特有な身ぶりシステムの単語誘導出手法による検証」
『手話コミュニケ
ーション研究』No.44 日本手話研究所
・ノーラ・E・グロース(1991)
「みんなが手話で話した島」築地書館
・川俣英一(1997)
「ろうあ者の集団成立についての推考」
(
「めしたき族」というろうあ集団の構成
要素)
・川俣英一(2001)
「昔、ろうあ者の集団があった」-不就学ろうあ者達とその歴史についてー(愛
知聾史倶楽部第 1 弾企画にて発表)
市田泰弘氏は大杉豊氏と共に、奄美大島での初期の調査(1991 年 3 月)に参加している。
古瀬真美 5-4
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴
今泉江里子・小林美紀・松本美幸
1.研究目的
両親や養育者などの語りかけは乳幼児に安心感を与える。それは、乳幼児が本能的に好む、抑揚の
誇張、ゆっくりしたテンポ、声のトーンが高くなる、同じ言葉を繰り返すなどの特徴や(正高 2007)
、
特別な語彙の使用(2音節・3~4モーラ)が見られるためである(窪薗 2006)
。
余郷(2006)は、絵本の読み聞かせをする際にも、上記のような特徴が見られ、言語発達や社会性
の発達の基盤となると述べている。絵本の読み聞かせは音声言語だけでなく、手話言語においても重
要視されている。例えば、アメリカのギャローデット大学では、毎週ろう者が絵本を持ってろう児が
いる家庭を訪問し、読み聞かせを行なうプロジェクトがある。また、日本のいくつかのろう学校でも
手話での読み聞かせを行なっている。
しかし、音声言語と手話言語では絵本の読み聞かせにおいて重大な違いがある。絵本には、読み聞
かせるべき内容が書き言葉として提示されているもの(文字あり絵本)と、提示されていないもの(文
字なし絵本)がある。文字のある絵本に提示された文章は、子どもが好むような、一定のリズムや繰
り返し、韻を踏むなどの特徴や、特別な語彙の使用をあらかじめ含んだものであり、音声言語の場合、
その文章を元に読み聞かせを行うことで、理想的な読み聞かせが行える。それに対し、手話で読み聞
かせを行う場合は、手話に書き言葉が存在しないため、文字あり絵本を用いる場合でも、ろう者が絵
本の文章や挿絵をもとに手話に翻訳・再構成し聞き手に届けるという違いがある。
このように、日本手話による絵本の読み聞かせにおいては、文章構成や語り方、語彙の選択などは
基本的に語り手である養育者に委ねられ、その際に子どもが好むような表現が使用されると考えられ
る。そこで、本研究では絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴を明らかにする。
2.研究方法
2.1 研究方法
ろうの養育者が乳幼児(0~2 歳)に読み聞かせをしている映像を分析する。
必要に応じて母語話者に確認する。
2.2 研究データ
ろうの養育者の読み聞かせを提供していただいたもの、依頼し撮影したもの。
① 2005 年 2 月~2007 年 1 月の間に撮影されたもの 約5時間分
Aさん(保育者)
、Bさん(保育者)
、C さん(保育者)
② 2007 年 11 月 1 ヶ月~2008 年 1 月間の間に撮影されたもの 約2時間
D さん(母親)
、E さん(父親)
③ 2008 年 1 月に撮影されたもの 約10分
F さん(保育者)
④ 2008 年 2 月に撮影されたもの 約10分
G さん(父親)
今泉江里子・小林美紀・松本美幸 1-1
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.研究結果
正高(2005)は、手話言語においても、抑揚の誇張(大仰な表現)
、ゆっくりしたテンポ、同じ言
葉を繰り返すなどの特徴が見られることを指摘しているが、本研究でもそれは同様であった。一方、
今回の研究データで顕著に見られたのは、リズムの変化という現象である。そこで、本研究ではリズ
ムに着目し詳しく分析した。以下、語彙レベル、文レベル、文を超えたレベルに分けて述べる。
3.1 語彙レベルにおけるリズム(表1参照)
語彙レベルにおいては、リズムを変化させることにより、日本語の特徴と同様に、語のモーラ数
を増やし、音韻構造を変化させるという特徴があげられる。
日本語の場合、モーラ数の少ない語彙に関しては接辞の付加(お耳、ぞうくん)や、反復型形の
語形(ポンポン、マンマ、おてて)
、促音や撥音を付加すること(寝んね、抱っこ、くっく、おん
ぶ)により2音節・3~4モーラへと変化させている(窪薗 2006)
。一方日本手話の場合、語の運
動の変化や静止、頷きの挿入によりリズムを変化させ、語のモーラ数を増やしている。
モーラ数を増やす際、一定の規則が見られる。日本語の場合、促音や撥音の付加には、その後に
続く子音による音韻的制約がある。例えば、後に続く子音が[m][b][n]などの有声子音の場合、撥
音が選択され、[t][p][k]などの無声子音の場合、促音が選択される。一方日本手話の場合、語彙
の運動タイプに応じて、<表1>のように、張り化や静止、頷きの挿入などが選択される。この表
における運動のタイプは、市田(2005)を修正し、細分化したものである。
<表1>
運動タイプ
例
挿入される
大人同士の会話
もの
継続型
/待つ/、/寝る/
頷き
-
回転
/かわいい/
身体の動き
強調(程度)
長い距離を
/帰る/、/着く/、/久しぶり
曲線化
時間的経過
動くもの
/、/山/、/後/、/芋/、/外/
すぐに終わ
/注意/、/強い/、/行く/、
張り化+静
強調(決意の表れ)
るもの
/しくじる/、/難しい/
止
(程度)
手形が変わ
/終わり/、/ママ/、/好き/、
静止
-
るもの
/嫌い/、/芋/
/栗/、/誰(名詞)/、/無い
張り化+静
CL 構文
/、/同じ/、/探す/、/心地
止
強調(程度)
強調(程度)
/猫/、/ウサギ/、/カバ/、/
反復型
一方方向
への反復
絵本の読み聞かせでは、
モーラ数が増える
一回型
無運動
名前/、/犬/、/ネズミ/、
よい/、/危ない/
往復
/スイカ/、/ブランコ/
注)
「継続型」
(回転)とは、回転数が増えることで行為の回数が増えるのではなく、行動の状態が継続されるものを
3.2
文中におけるリズム
さす。
今泉江里子・小林美紀・松本美幸 1-2
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴
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3.2 文中におけるリズム
絵本の読み聞かせにおいて、語彙レベルでは、3.1 で述べたように、語彙の運動タイプによって
リズムが変化するが、それに対し文レベルでは、異なる運動タイプの語彙が連続したときに、一方
のリズムの影響を受けて、本来とは異なるリズムに変わり、文中で同一のリズムが維持される。
/準備/必要/
3.3 文を超えたレベルにおけるリズム
語彙レベル、文レベルにとどまらず、文を超えて表出されるリズムがある。これは、語彙の運動
タイプ、文中のリズムに関係なく、一貫したリズムが見られる。このリズムは、文章や内容の展開
による一連の行為や動作の並列など、文同士の関係が強い場面に起こるものである。
1)文を超えたリズムに起こる特徴
一連の行為に一貫したリズムがつく。
/レンガ/集める/運ぶ/山/登る/レンガ/セメント/レンガ/積む/太陽沈む/完成/
2 拍子
さらに、文の内容により文中のリズムが異なる。その際に、混成するリズムも見られるが、全
体的なリズムは崩れることなく表出される。
/ゾウ/力/強い/カバRS(ゾウの上にいる)/歩く/カバ/カバRS(ゾウの上にいる)/2 匹CL(歩く)/
4 拍子
2 拍子
4 拍子
2)文を超えたリズムにおける非手指要素
文を超えたレベルにおいて、一貫したリズムが生じている時、身体の動きや頷き、間が1拍
分のリズムをもつことがある。その際には、直前の語が 3 拍になることによって、4 拍子のリズ
ムが維持される。
/一緒/運ぶ/焼く/ 間 /食べる/一緒/食べる/カバ/食べる/サル/食べる/ネズミ/食べる/
2 拍子 間を含め 4 拍
2 拍子
/ウサギ/2 匹/抜く/無理/手伝う/ 頷き
2 拍子
間を含め 4 拍
3)並列文に見られるリズム
動作の並列においては、4 拍子の他に 3 拍子も見られる。
/気球/車/電車/バイク/自転車/ブタ/家/着く/ブタ/家/どうぞ/
3 拍子
なお、3 拍子で表出されたそれぞれの表現は、通常の文中では 2 拍子である。つまり、本来も
つリズムとは異なるリズムに変化しているということである。
今泉江里子・小林美紀・松本美幸 1-3
6.絵本の読み聞かせにおける日本手話の言語的特徴
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
/気球/積む/飛ぶ/
/車/乗る/運転/車 CL/運転/
/電車/乗る/電車RS/電車/
の部分は 2 拍子
/帽子/被る/バイク/運転/
/自転車/乗る/漕ぐ/
3.4 文末の疑問詞におけるリズムの変化
上記で説明したように、本来反復型の語彙の場合、文中において[+張り]が要求されるのに対し、
疑問文の文末に反復型の語(/誰/、/何/、/かまわない/など)が付く場合、頷きを伴って静止化する
ことがある。
4.考察
研究の結果、絵本の読み聞かせにおける言語的特徴として、語彙レベル、文レベル、文を超えた
レベルの各レベルにおいて、大人への語りかけとは異なるリズムが見られた。文レベルや文を超え
たレベルにおけるリズムは、絵本の文章や内容、展開との関係性が高く、自然発話ではあまり見ら
れないであろう。しかし、語彙レベルにおけるリズムは、文章や内容、展開とは関係なく表出され
るものであり、これらの音韻的制約は自然発話においても見られると考えられる。
【参考・引用文献】
市田泰弘(2005)
「手話の言語学(5) 時間・空間と手の運動─日本手話の文法(1)
「アスペクト」
ほか」
『月刊言語』第 34 巻第 5 号, pp. 92-99, 大修館書店.
市田泰弘『SLLing Net[手話文法研究室]』http://slling.net/(2008/02/25 現在)
荻野美佐子(2002)
「養育者の役割」
『言語発達とその支援』
小椋たみ子(2006)
「養育者の育児語と子どもの言語発達」
『月刊言語』第 35 巻第 9 号
窪薗晴夫(2006)
「幼児語の音韻構造」
『月刊言語』第 35 巻第 9 号
澤あや子(1998)
「日本手話における母親から幼児への語りかけについて」国立身体障害者リハビリ
テーションセンター学院第 8 期卒業研究発表会資料集
Masataka,N.(1996) Perception of motherese in a signed language by 6-month-old deaf
infants.Developmental Psychology 32,874-879
【読み聞かせに使用された絵本】
なかのひろたか/さく・え(1968)『ぞうくんのさんぽ』福音館書店
林明子/さく(1986)『おててがでたよ』福音館書店
エリック・ヒル(1984)『コロちゃんのクリスマス』評論社
山下明生/作(1984)『ねずみのいもほり』ひさかたメルヘン
わたなべゆうこ(2007)『しゅっぱつします』
「こどもちゃれんじぷち」7月号
今泉江里子・小林美紀・松本美幸 1-4
7.日本手話におけるあいづち
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
7.日本手話におけるあいづち
―その形式と機能―
味澤俊介・越阪部正也・新津晶子
1.はじめに
私たちは、人と話すとき、会話を円滑に進めるためにあいづちを用いる。
「あいづち」とは話し手
が発話権を行使している間に受け手が送る短い表現のことである(メイナード 1993)
。話し手は、聞
き手のあいづちを見て話し方や言い方の微調整を行う。しかし、異文化間では、自分が期待している
反応が得られないことで違和感を覚えることがある(八島 2004)
。
例えば、日米会話の対照分析によって、日本語は「うん、ふん」といったあいづち(音声のみ、ま
たは頭の動きを伴うもの)が多いことが指摘されている。日本語は相手との関係に敏感な言語である
ため、相手に「聞いていますよ」
「続けてください」ということを伝える手段としてあいづちを多用す
る。さらに日本人は、第二言語である英語でアメリカ人と会話するときにも、母語である日本語のあ
いづちの影響を受け、相手が話している間、頻繁に「Hum hum」というあいづちを送る。しかし英語の
あいづちは、その内容が意味的に切れるところ、その内容がわかったという時点で送るものである。
そのためアメリカ人は、日本人のむやみに送るあいづちに、
「なんでこう急がせるのか」
「真剣に聞い
てくれない」
「やたらと賛同している」などという悪い印象を持ってしまう(メイナード 1993)
。
こうしたことは、日本語と日本手話の間においても生じる可能性がある。例えば、ろう者と聴者の
会話分析によって、ろう者はあいづちにおける頭の動きの種類が多く、聴者は少なく単調であるとい
うことが指摘されている(興津・田口 2006)
。聴者は「しっかり聞いている」
「興味がある」というこ
とを相手に伝えるためにあいづちを送るのだが、ろう者はそれらの動きが自分たちの用いているあい
づちと異なることから、
「反応が足りない」
「適当に聞いている」といった印象を受ける。
しかし、従来の日本手話のあいづち研究は頭の動きの現れ方に焦点をあてており、頭の動きの詳細
な記述や機能の分析については市田(2005)が断片的に触れているのみである。そこで、本研究はあ
いづちにおける頭の動きを詳細に記述し、それらの持つ機能について分析しようとするものである。
2.研究方法
ろう者の手話が収められた手話資料はいくつかあるが、対談形式で、なおかつ話し手と聞き手が共
に画面に映っている動画は少ない。そこで、本研究のために対談形式の動画の収録を行い、研究対象
とした。また、本学科の過去の卒業研究資料のうち対談形式のもの、手話学習ビデオ『手話ジャーナ
ル』(1995-1998)の対談形式の未編集動画(提供:サインファクトリー)も対象として、それらの中
に現れたあいづちと思われるものを全て収集した。
2.1 あいづちの記述
文末に現れる頭の動きには、文が終わるまで特定の頭に位置を保持する〔固定〕
、首を左右に振る
〔首振り〕
、首を縦に振る〔うなずき〕
、あごをすぐ上げて戻す〔あご上げ〕
、特定の頭の位置にすばや
味澤俊介・越阪部正也・新津晶子 7-1
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
7.日本手話におけるあいづち
く移動してからゆっくり戻す〔移動〕がある。そして、それらの動きは出現するタイミングの違いと
合わせて、異なったタイプの文を作る(市田 2005)
。この「文末の頭の動きと文タイプ(一部改正)
」
を参考に、文末に現われている頭の動きと同様の動きがあいづちに現れるかどうか、収集したあいづ
ちをもとに詳細な記述を行った。
2.2 あいづちの機能の分析
日本手話には、あごをやや上げ気味にする〔上〕
、あごを下げ気味にする〔下〕
、前に突き出すよう
にする〔前〕
、後ろに引くようにする〔後〕という 4 つの異なるあごの位置がある(市田 2005)。日本
手話においては、この4つのあごの位置が言語的に区別され、様々な役割を果たしている。また、
〔上
/下〕
〔前/後〕のあごの位置にはそれぞれ、
「無頓着さ・無防備さ/思慮深さ」
「積極性/消極性(非
関与・敬意)」という意味的対立がある。それをもとに手話資料の中に現れたあいづちがどのような機
能を持つか、上記のあごの位置と 2.1 で述べた頭の動きとを組み合わせ、分析を行った。その後、自
然発話の中に見られなかったあいづちの有無、及び仮説の妥当性の検証のためにろう者へインタビュ
ーを行った。
3.分析結果
3.1 あいづちの記述
研究の結果、文末に現われている頭の動きと同様の動きがあいづちにも現れ、基本的な機能も対応
していることがわかった(表1)。しかし、中には文末では出現するがあいづちでは出現しないもの、
文末とあいづちでは機能が異なるものがある。以下に詳しく述べる。
3.1.1 出現のタイミングについて
文末の頭の動きには出現のタイミングという要素があり、それはあいづちにも存在する。頭の動
きには、一定の時間をかけて表現されるものと、一瞬のうちに終わってしまうものがある。そして、
その出現のタイミングの対立は両者で異なっている。前者は、手指単語が表現された後にすぐ戻す
〔戻し〕と、手指単語の表出が終わった後もしばらく保持される〔保持〕の対立をもち、後者は、
頭の動きが手指単語と同時に現れる〔同時〕
、遅れて現れる〔遅れ〕の対立を持つ。後者には動き
を反復する〔反復〕もあるが、
〔反復〕においては〔うなずき〕と〔あご上げ〕の対立が中和する
ので〔あご上げ〕には〔反復〕はない。
〔移動〕は後者に含まれるが、動き自体が大きいので、出
現のタイミングの対立が存在しない(市田 2005)。
3.1.2 手指単語共起の義務
〔固定〕は手指単語が伴わなければあいづちとして成り立たない。よって手指単語の出現の義務
があり、その手話単語には/何/、/なるほど/、/わかった/、/へぇ/、/同じ/、/本当/などがある。
3.1.3Yes/No 疑問について
「Yes/No 疑問」は問いかけであり、問いかけという行為をするときには発話権が必要である。あ
いづちの主体には発話権がないので、あいづちに「Yes/No」疑問は現れない。
味澤俊介・越阪部正也・新津晶子 7-2
7.日本手話におけるあいづち
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.1.4 同意要求、確認から同意への変換
〔うなずき〕が文末に現れた時にある「同意要求」と「確認」の機能は、あいづちでは異なる。文
末に現れた場合は日本語の「~だよね」、「~でしょう」というように、相手に発話権を譲る機能
をもつ。しかし、あいづちで現れる場合では、聞き手自身に発話権がないために投げかけができず、
相手の言っていることに対して「同意」の機能しか持たない。よって、文末では「同意要求」、「確
認」の機能をもっていたものが、あいづちでは「同意」の機能をもつ。
3.1.5 命令から継続要求への変換
〔あご上げ〕が文末に現れた場合にある「命令」の機能は、あいづちでは「継続要求」となる。
文末に現れた場合は日本語の「~して」「~しなさい」に相当する。一方、あいづちになった場合、
あいづちを行使する聞き手には発話権がないので、可能な「命令」は「話を続けて」のみとなる。
そこで、「命令」があいづちで現れた場合は「継続要求」という機能をもつ。
表1 あいづちの記述
頭の動き
出現のタイミング
文タイプ
手指単語の共起
あいづち
義務
戻し
伝達
Yes/No 疑問
×
説明要求
説明要求
無
/何/
否定
否定
無
/違う/
感嘆
感嘆
無
/素晴らしい/
説明要求
説明要求
無
/何/、/理由/
判断
判断
無
/わかった/、/同じ/
Yes/No 疑問
×
遅れ
同意要求
同意(相手指向)
無
/本当/、/同じ/
反復
確認
同意(自分指向)
無
/同じ/
断定
断定
無
/同じ/
命令
継続要求
無
/わかった/
Yes/No 疑問
×
感情の表出
感情の表出
無
/本当/、/なるほど/
保持
首振り
戻し
保持
同時
うなずき
あご上げ
移動
/なるほど/、/わかった/、/へぇ/、
伝達
固定
同時/遅れ
有
表出例
/同じ/、/本当/
(市田 2005 一部改正)
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7.日本手話におけるあいづち
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3.2 あいづちの機能の分析
それぞれの頭の動きがもつあいづちの機能を分析したものを表2に示す。斜線が引かれているもの
はろう者へのインタビュー結果、使用がないとされたものである。○で表記されている部分は、頭の
動きとあごの位置の組み合わせから機能の推測が可能なものである。
(推測が不可能なものには機能を
( )内に記入した)
。
3.2.1〔首振り〕否定
聞き手は、話し手の言うことを聞いて、理解したが賛成でない、あるいは納得できないというよ
うな信号を送ることがある(堀口 1997)。
〔首振り〕がもつ機能のうち「否定」がそれにあたり、日
本語の「いいえ」
「違います」に相当するものである。
「否定」の場合、あごの位置〔上〕は現れな
い。
〔上〕に現れるものは、あごの位置〔下〕がもつ「想定否定」に対立する「命題否定」である。
「命題否定」を行なう時には、
「Yes/No 疑問」と同様にそこには発話権が必要であり、発話権をも
たない聞き手が行使するあいづちにおいては、
「命題否定」は現れない。よって、あごの位置〔上〕
の「否定」は表出されない(なお、繰り返しとして現れる首振りについては後で記述する)。あごの
位置〔下〕が持つ「想定否定」は日本語の「違うのではないだろうか」に相当し、相手の話を慎重
に想定しながら否定する機能を表している。そして、
〔前〕が持つ訂正という機能は、日本語の「賛
成できない」
「違う」に相当する機能を表し、
〔後〕が持つ「関与否定」は、日本語の「私は真似を
したくない」
「関わりたくない」に近い意味を表している。
〔後〕がもつ消極性「敬意」を組み合わ
せた表出は見られなかった。あごの位置が〔後〕になることで相手にやや横柄な印象をもたせるた
め、
「敬意」を含める表現は表出されない。母語話者によると否定の敬意表現の場合は、肩を竦め
たり、眉を下げたりするなどを組み合わせるという証言が得られた。
3.2.2〔うなずき〕判断
あごの位置〔上/下〕の場合には日本語の「そう」に近い機能をもつ。
〔上〕は今まで意識して
いなかったことを相手に言われ、なんとなく納得しているということを表し、
〔下〕は相手が話し
たことを自身の中で考えながら理解していることを表している。一方、
〔前/後〕は日本語の「そ
うそうそう」に近い意味をもつ。
〔前〕は相手が話したことに対して自分も今まで考えをもってお
り、共感していることを表し、
〔後〕は自分があまり興味をもっていないことであるが言っている
ことはわかるといったことを表している。
3.2.3〔あご上げ〕断定
あごの位置〔後〕がもつ消極性「敬意」を組み合わせたあいづちの表出はなかった。これは〔首
振り〕
「否定」と同様に、あご上げがやや高慢な印象を持たせることがあるため、敬意を含める表
現の時にはあご上げは表出されないとされた。
3.2.4〔移動〕感情の表出
〔移動〕の機能については市田(2005)と同じ結果が得られた。あごの位置が〔上/下〕の場合に
は日本語の「そうなんですか(下降調)」によく似た機能を持つ。
〔上〕は相手が話したことをその
まま受け止め納得しているということを表し、
〔下〕は相手が話したことを疑いながらも納得して
いるという表現にほぼ相当している。一方、
〔前/後〕は/本当/に共起することが多くみられ、
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日本語の「本当ですか」に近い意味を持つ。
〔前〕は相手の話していることを積極的に聞き入れて
いることを表し、
〔後〕は相手の話していることに対して受け入れがたい気持ちがあることを表し
ている。また、〔後〕の持つ敬意の機能が組み合わさり、相手に対して敬意を持ちながら驚いてい
ることを表している。
表2 あいづちの機能の分析
あごの位置
上
無頓着さ
頭の動き
固定
首振り
うなずき
無防備さ
移動
前
思慮深さ
積極性
後
消極性
非関与
敬意
戻し
伝達
○
○
○
○
○
保持
説明要求
○
○
○
○
○
○(想定否定)
○(訂正)
○(関与否定)
戻し
否定
感嘆
○
保持
説明要求
○
同時
判断
○
遅れ
反復
あご上げ
下
同意
(相手指向)
同意
(自分指向)
○
○(理解)
○
○
○(共感)
○
○
○(無関心)
○
○
○
○
○
○
○
○
同時
断定
○
○
○
○
遅れ
継続要求
○
○
○
○
感情の表出
○(納得)
○(疑い)
○(積極的な
受け入れ)
○(共感)
○(受け入れ
がたさ)
○
○
○(驚き)
4.考察
田口・興津(2006)は、聴者とろう者の〔首振り〕には顕著な差が見られたと述べている。そこで本
研究では〔首振り〕についてさらに詳しい考察を行うことにした。以下に詳しくそれらを記述する。
4.1〔首振り〕繰り返しに関して
日本語話者は、否定の応答表現では〔首振り〕を行うことがあるが、自らが発話する時に〔首振り〕
を使うことはない。しかし、日本手話では自らが発話する時にも〔首振り〕を表出する。これは日本
手話特有のものであると考えられる。また、話し手が〔首振り〕を表出した時、聞き手は話し手の動
きに同調し〔首振り〕を表出する。これは相手の動きを繰り返しているものであると考えられる。相
手の発話を繰り返すということは、相手の話を聞いているということの表れであるからあいづちと考
えられる(堀口 1997)。このことにより日本手話では、日本語話者のような否定表現だけではなく、
「聞
いている」
「理解している」といった反応にも〔首振り〕を使っていることが考えられる。
この繰り返しは〔首振り〕だけではなく全てのあいづちに現れているのだが、
〔首振り〕に最も顕
著に現れる。母語話者によると、
「頭の中に日本手話の文法があるため、相手の発話によって自然と首
が動く」ものだそうだ。冒頭で田口・興津が述べている違和感は、こういった日本手話特有のあいづ
味澤俊介・越阪部正也・新津晶子 7-5
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7.日本手話におけるあいづち
ち習得の難しさにあるのではないだろうか。
4.2〔首振り〕感嘆に関して
もう一つ聴者にはみられない首振りに「感嘆」がある。通常の〔首振り〕が首を小さく動かすこと
に対し、
「感嘆」という機能をもつ〔首振り〕は大きく首を動かす。感嘆は話し手の言ったことに対し
強い感心を表し、そこには話し手に対しての敬意が含まれるためあごの位置〔後〕のみ現れる。この
とき、共起される手指単語は/素晴らしい/である。これもまた、日本手話特有の動きであると考えら
れる。
5.おわりに
今回の研究では、頭の動きとあごの位置に着目しあいづちの機能の分析を行なった。しかし、日本
手話のあいづちにおいて、眉の動き、目の見開き、口型なども重要な役割を果たしている。今後それ
らを含めた研究を行なうことで、より詳細な日本手話におけるあいづちを知ることができるのではな
いだろうか。
【参考文献】
市田泰弘(2001)
「日本手話の非手指動作の基本タイプについて」
『日本手話学会第 27 回大会予稿
集』, pp. 16-19, 日本手話学会
市田泰弘(2004)
「言語学から見た日本手話」
『ろう教育と言語権』明石書店
市田泰弘(2005)
「連載・手話の言語学 頭の動き・位置と顔の表情―日本手話の文法(5)「文タイ
プと従属節」
」
『月刊言語』第 34 巻第 9 号,大修館書店
興津美里・田口智恵子(2006)
「ろう者と聴者のあいづちの違い」国立身体障害者リハビリテーシ
ョンセンター学院手話通訳学科卒業研究発表会資料集
堀口純子(1997)
『日本語教育と会話分析』くろしお出版
松田陽子(1988)
「対話の日本語教育学―あいづちに関連して―」
『日本語学』明治書院
泉子・K・メイナード(1993)
『会話分析』くろしお出版
八島智子(2004)
『外国語コミュニケーションの情意と動機―研究と教育の視点―』関西大学出版
部
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国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
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8.日本手話における文法化の一事例
8.日本手話における文法化の一事例
─/簡単/と/スムーズ/の比較─
木元一紗・山田ひろみ
1.はじめに
日本手話の「簡単」は、物事を達成するための時間や手間がかからないということを意味している。
また、
「簡単」にはできごとが起きる頻度や可能性が高いということを言い表す例もある。一方、
「ス
ムーズ」は、物事が円滑に進むことを表す。そして「簡単」と同じように出来事が起きる頻度や可能
性が高いということを意味することがある。
日本語では、時間や手間がかからないこと、物事が円滑に進むことについて「~しやすい」という
言い方をする。また、出来事が起きる頻度や可能性が高いことについて「~しやすい」あるいは「~
しがちである」という言い方をする。そのため、手話学習者は「~しやすい」
「~しがちである」を含
む日本語を日本手話に翻訳する場合、動詞の次に来る語として「簡単」と「スムーズ」のどちらを選
択すればいいのかという点で、混乱しがちである。
本研究では、
「簡単」あるいは「スムーズ」という語が動詞に後続して用いられた文において、そ
れぞれがどのような意味をもち、どのような使い分けがあるのか、文法化という観点から明らかにす
る。
2.研究方法
日本手話の動詞に後続する「簡単」と「スムーズ」の意味と用法について、様々な例文をもとにイ
ンタビューを行った。インタビュー対象者は、国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話
通訳学科のろうの非常勤講師4名である。例文には以下のようなものがある。
<簡単:時間・手間がかからない>
・壊す/簡単:この箱は、固体のねじを外して左右に引っ張るだけで容易に分解できる。
・飲む/簡単:薬がひとつにまとまっているから、飲むのに手間がかからない。
・作る/簡単:カレーライスの作り方は手順が少なく、容易に作ることができる。
<簡単:頻度・可能性が高い>
・壊れる/簡単:A社の家電製品は壊れやすい。
・詰まる/簡単:脂っこいものを食べ過ぎると、コレステロールで血管が詰まりやすい。
・渋滞/簡単:あの交差点は、渋滞しやすいような作りをしている。
<スムーズ:物事が円滑に進む>
・壊す/スムーズ:短時間で手際よく壊すことができた。
・飲む/スムーズ:薬の粒が小さく、飲みやすい。
・作る/スムーズ:短時間で手際よく作ることができた。
<スムーズ:頻度・可能性が高い>
・壊れる/スムーズ:安物はすぐ壊れる。
・詰まる/スムーズ:私は血管が詰まりやすいから、脂っこいものを控えている。
・渋滞/スムーズ:向こうの道は渋滞しやすいから、こちらの道を行ったほうがいい。
木元一紗・山田ひろみ 8-1
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
8.日本手話における文法化の一事例
3.分析
3.1.
「簡単」と「スムーズ」の文法化
「簡単」と「スムーズ」はともに、本来の意味に加えて、頻度・可能性の高さを表す用法をもつ。
頻度・可能性の高さの表現は多くの言語で文法化した形式が担っていることから、この意味拡張は文
法化のプロセスであると考えることができる。
3.2.本来の用法における「簡単」と「スムーズ」の比較
「簡単」と「スムーズ」が類義表現となるのは、
「物事が円滑に進む」とたいていは「時間や手間が
かからない」という結果になるという意味の包摂関係があるからである。そのため、
「スムーズ」を使
用できる場合は、たいてい「簡単」で置き換えることができる。
それでは「スムーズ」のもつ特別な意味とは何であろうか。それは、
「みるみるうちに~できる」と
いった「体感」に焦点をあてているという点であると考えられる。前述した例文でいうなら、
「手際よ
く」とか「すんなりと」といったニュアンスである。
3.3.
「あっという間」という類義語の存在
ろう者へのインタビューの中で、浮かび上がってきた類義語がある。それは「あっという間」とい
う語である。この語は、
「体感」に焦点をあてているという点で「スムーズ」と対比される。そして、
「スムーズ」が「物事がみるみるうちに進んでいく」という意味をもち、出来事のプロセスに着目し
た表現であるのに対して、
「あっという間」は出来事の完了時点に焦点をあてていると考えることがで
きる。この両者の違いについては、
「乾く」という動詞を例にとると、うまく説明することができる。
・ 乾く/スムーズ:みるみるうちに乾いていく。
・ 乾く/あっという間:気づいたらもう乾いていた。
3.4.頻度・可能性の高さの表現における「簡単」と「スムーズ」の比較
それでは、頻度・可能性の高さの表現における「簡単」と「スムーズ」の違いは何であろうか。冒
頭にあげた例文で比較すると、
「簡単」が一般的な状況について言及しているのに対し、
「スムーズ」
は個別の状況に関する表現であるということがわかる。この「一般」と「個別」の対立は、本来の用
法における「無標」と「体感」の対立と平行しているといえよう。
4.まとめ
「簡単」と「スムーズ」の意味とその使い分けについては、次表のように整理することができる。
簡単
スムーズ
時間・手間がかからない
無標
体感
頻度・可能性が高い
一般
個別
木元一紗・山田ひろみ 8-2
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8.日本手話における文法化の一事例
【参考文献】
市田泰弘 (2005)
「手話の言語学(11)文法化-日本手話の文法(7)
「助動詞、否定語、構文レベル
の文法化」
」
『月刊言語』第 34 巻第 11 号,pp.88-96, 大修館書店
大堀壽夫 (2004)「文法化の広がりと問題点」
『月刊言語』第 33 巻第 4 号, pp.26-33, 大修館書店
P.J.ホッパー、E.C.トラウゴット(2003)
『文法化』
(日野資成訳)九州大学出版会
【参考 HP】
「手話文法研究室」http://www.slling.net/
木元一紗・山田ひろみ 8-3
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
9.非手指副詞の諸相
9.非手指副詞の諸相
――様態、モダリティ、数量、程度――
大 野 和 英
1.はじめに
手話言語における口型には、音声言語を借用したマウジングや、手話言語特有のマウスジェスチャ
ーと呼ばれるものがある。そして、マウスジェスチャーの中には動詞と共起することによって副詞と
して機能する特定の口型があり、
「非手指副詞」と呼ばれている(木村・市田 1993;市田 2005)
。
たとえば、
「
(relaxed)mm」と呼ばれる唇を軽くとがらせる口型は「問題なく、ふつうに」という
意味をもち、
「th」と呼ばれる口を軽く開いて舌を覗かせる口型は「考えもなしに、気づかずに」とい
う意味を持つ。また、
「oo」と呼ばれる唇の中央を丸く開く口型、
「tense mm」と呼ばれる口を真一
文字に結ぶ口型、
「ee」と呼ばれる歯を食いしばる口型がある。これらは、
「動作がどのように行われ
るか」という「様態」を表すので、
「様態副詞」と呼ばれる。
しかし、それらの非手指副詞には様態副詞以外の用法もある。たとえば、
「知らない」という動詞
に口型「th」が共起した場合、
(1)
「知らないことについて何も考えていない」という様態副詞とし
ての解釈のほかに、
(2)
「知らないことに対して申し訳ない」
、
(3)
「ただ知らないだけ」という解釈
がありうる。
これまでの日本手話の非手指副詞の研究では、様態副詞以外の用法についてはほとんどふれられて
いない。そこで、本研究では、様態副詞のほか、モダリティ副詞、数量副詞、程度副詞について取り
上げ、非手指副詞の諸相を明らかにしたい。
2.分析方法
様態副詞として用いられることが指摘されている 5 つの口型(mm,th,oo,tense mm,ee)について、
そのさまざまな意味・用法についてろう者にインタビューを行った。そのインタビューで得られた結
果をもとに作業仮説を作り、再度インタビューを行った。インタビュー対象人数は 14 人である。
3.分析
3.1 様態副詞
「はじめに」で述べたように非手指副詞には、少なくとも 3 つの異なる用法がある。前述(1)は
様態副詞であり、市田(2005)の分析がそのまま当てはまる。そこでまず、市田(2005)による様態
副詞の意味に関する記述を以下に紹介する(
「ee」に関しては動画配信サイト Deaf TV「インターネ
ット手話講座」による解説をもとに付け加えた)
。
大野和英 9-1
9.非手指副詞の諸相
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頭の位置
[上]
口型
(relaxed)mm
[下]
問題なく、
[前]
[後]
思い通りに
問題とせずに
反抗的に
いやいや
やる気はないが
うんざりしなが
普通に
th
考えなしに、
気づかずに
ら
oo
快適に
着実に
順調に
tense mm
それなりにうまく
しっかりと
意図的・計画的に なんとかうまく
ee
いやいや
がむしゃらに
それなりに
抑え気味に
やるしかない
必死に
表 1 非手指副詞の意味の多様性(市田(2005)を修正)
3.2 モダリティ副詞
では、あとの 2 つの例についてはどのように考えたらよいだろうか。まず(2)の「知らないこと
に対して申し訳ない」について考えてみよう。もしも、
「知らない」という動詞に他の 5 つの口型が
共起したとすると、その解釈は以下のようになる(議論を明確にするために、頭の位置を[後]に限
定する)
。下表を見ればわかるように、これらはすべて「話し手の態度(モダリティ)
」である。した
がって、
(2)は「モダリティ副詞」であるといえよう。
頭の位置
[後]
口型
(relaxed)mm
困惑
th
申し訳ない
oo
残念
tense mm
なんとかうまく
ee
謝罪
表 2 モダリティ副詞の意味
3.3 数量副詞
次に(3)はどのように考えるべきだろうか。
(3)の「ただ知らないだけ」の意味は、
「ない」とい
う不存在の形容詞や「少ない」という数量形容詞に口型「th」が共起した場合と同じ用法であると考
えられる。そこで、数量形容詞に 5 つの口型が共起した場合についてみたものが表 3 である。
この表から、5 つの口型のうち、数量の大小にかかわっていると思われるのは「th」
「oo」
「ee」だ
けで、
「mm」は「ちょうどいい」というモダリティを表し、
「t-mm」はある種の性質(
「充実」
)を表
していることがわかる。そして数量に関わる 3 つの口型は、それぞれそのもつ意味が共通している数
量形容詞としか共起しないので、
「程度副詞」ではなく「数量副詞」であると考えられる。
大野和英 9-2
9.非手指副詞の諸相
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口型
単語
意味
(relaxed)mm
ある大きさ
ちょうどいい
th
少ない
軽・小
oo
大きい
とても大きい
tense mm
ある大きさ
充実
ee
小さい
とても小さい
表 3 数量形容詞と共起した場合の意味
3.4 程度副詞
しかし、ここでひとつ問題がある。それは数量形容詞では程度副詞としての機能をもたない「ee」
が、その他の形容詞では程度副詞としての機能をもつようにみえることである。すなわち、
「ee」は「き
れい」
「汚い」という対義的な形容詞の双方に共起することができ、まさに「とてもきれい」
「とても
汚い」という意味を付加することができるのである。このことはどのように考えるべきだろうか。
ここでは「ee」は程度副詞であるという立場に立ちたい。そして、大きさの表現に際しては、
「と
ても大きい」ということを表す口型として、いわば専用の「oo」があるために、
「とても大きい」とい
う意味を表すために「ee」が用いられないのだと考える。
3.5 非手指副詞と手指単語の共起関係について
以上のように、日本手話の非手指副詞には、少なくとも様態、モダリティ、数量、程度の 4 種類の
副詞があると考えられる。しかし、口型と手指単語の共起関係は、きわめて複雑である。大きさの表
現に現れた「mm」が数量副詞や程度副詞ではなく、モダリティ副詞であったように、手指単語によ
って共起する副詞が決まるわけではない(冒頭にあげた「知らない」の例もまさにそうである)
。
たとえば、
「大きい」という数量形容詞に「oo」が共起する場合も、
「とても大きい」という数量副
詞(程度副詞ではないことに注意)としての用法だけでなく、
「意外に大きい」とか「困ったことに大
きい」というモダリティ副詞としての用法がある。こうしたことが非手指副詞の全体像をとらえるこ
とを困難にしている。
4.今後の課題
今回の研究では、眉との関係を充分に検討することができなかった。頭の位置と眉の位置の組み合
わせによっては、そこから副詞を判別する手がかりとなるかもしれない。そのため、眉も考慮したさ
らなる分析が今後の課題である。
【参考文献】
市田泰弘(2005)
「手話の言語学(8)頭の位置と口型-日本手話の文法(4)
「知覚動詞・思考動詞、
非手指副詞」
」
『月刊言語』第 34 巻第 8 号,pp.92-99,大修館書店
木村晴美・市田泰弘(1993)
「日本手話における非手指動作(2)-副詞的用法」
『日本手話学会第 19
回大会予稿集』16-17 頁,日本手話学会
西尾寅弥(1972)
『形容詞の意味・用法の記述的研究』
(国立国語研究所報告 44),秀英出版
Deaf TV(動画配信サイト)
「インターネット手話講座」
(http://www.deaftv.jp/)
大野和英 9-3
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第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
10.語彙的非手指要素<欺く>と手指要素の共起に関する研究
10.語彙的非手指要素 <欺く>と手指要素の共起に関する研究
山 本 真 弓
1.はじめに
手話言語には非手指要素と呼ばれる手指以外の要素があり、具体的には顔の表情(眉、まぶた、視
線、口型)
、頭の動きと位置、上体などがある。このうち口型と呼ばれる要素は、唇の開き方や合わせ
方、舌の位置などによって作られるパターンのことを指す。
日本手話の口型に関してはすでに多くの先行研究があるが、何らかの形で舌を用いる語彙的非手指
要素に焦点を当てた研究はほとんどなされていない。
舌を用いる語彙的非手指要素の中には、単独でも用いられる要素が存在する。
(ただし手指要素を
共起することもある。
)例えば頬の内側で舌を滑らせ、
「欺いて…する」という意味を持つもの(以下、
<欺く>)
、舌を下唇の裏に当て、不注意によって失敗するという意味を持つものである。その二つの
要素のうち、本研究では<欺く>を取り上げる。
<欺く>の用法でよく見られる例として以下のものがある。
<欺く>
(1)私/
/騙す/した
<欺く>
(2)私/騙す/した
<欺く>
(3)私/
/お札/作った
<欺く>
(4)私/お札/作った
上記の例に用いられている<欺く>は一見どれも同じように思えるが、
(1)
・
(2)では動詞/騙
す/を修飾する副詞として機能しており、
(3)
・
(4)では名詞/お札/を修飾する形容詞として機能
している。以下それぞれを便宜的に「副詞的<欺く>」
「形容詞的<欺く>」と呼ぶ。どちらの<欺く
>も、被修飾要素が共起している場合と、<欺く>の直後に並ぶ場合がある(形容詞的<欺く>は、
被修飾要素の直後に並ぶこともある)
。
そこで本研究では手指要素との共起にはどのような制約がある
のかを、副詞的<欺く>、形容詞的<欺く>それぞれについて論じていく。
2.分析方法
2.1 動画分析
『手話ジャーナル』
(サインファクトリー)や『手話資料』
(国立身体障害者リハビリテーションセン
ター学院)
、
『手話帖』
(JBS 日本福祉放送ガンバろう BOX)より、<欺く>が使用されている一文を
抽出し、以下の点を中心に<欺く>と修飾・被修飾関係にある手指単語の用法を分析。
・<欺く>との共起の有無
・<欺く>と共起する手指単語と共起しない手指単語の相違点
山本真弓 10-1
10.語彙的非手指要素<欺く>と手指要素の共起に関する研究
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
2.2 インタビュー
動画による分析結果から仮説を立て、それを基に日本手話の言語学的知識のあるろう者 4 名にイン
タビューを行い、その用法に関して意見を聞き、さらなる分析を行った。
3.分析・考察
3.1 副詞的<欺く>の共起に関する分析
副詞的<欺く>と動詞の共起に関する制約を、音韻や意味が異なるいくつかの動詞を用いて調べた
結果を表にまとめた。なお、下記の表における「音韻的制約」
「意味的制約」各項目の○は<欺く>と
共起できることを指し、×は共起できないことを指す。また、△は、個人差により回答にばらつきが
あったことを示す。
音韻的タイプ
例
音韻的制約
意味的制約
/騙す//表/*
○
○
/愛する//探す/
○
△
ひねり
/ふりをする/
○
○
起点運動
/言う//忘れる/
○
△
運動終点
/決める//支払う/
△
△
反復
/説明する//作る/
×
×
回転
*/表/は一般的に名詞だと認識されているが、動詞の機能を果たすことがあるため、本研究の分析対象としている。
意味的に副詞的<欺く>と共起することが許される手指要素は<欺く>の類義語である/騙す
/・/ふりをする/・/表/の三つだけだった。これにより、<欺く>に共起する手指単語には意味
の制約があることがわかる。
3.2 形容詞的<欺く>の共起に関する分析
形容詞的<欺く>と名詞の共起に関する制約を、音韻(拍数)と形態論的特徴(CL/フローズン)
の異なるいくつかの名詞を用いて調べた結果を表にまとめた。なお、下記の表における「音韻的制約」
「形態論的制約」各項目の○は<欺く>共起できることを指し、×は共起できないことを指す。また、
△は、個人差により回答にばらつきがあったことを示す。
形態論的特徴
例
CL
/学生/
音韻的タイプ
音韻的制約
1 動作
○
2 動作
○
3 動作
○
反復なし
○
フローズン
形態論的制約
○
△
/学校//先生/
反復あり
×
形態論的に形容詞的<欺く>に共起することが許される名詞はすべて CL であり、形容詞的<欺く
>に共起する手指要素には形態の制約があることがわかる。
山本真弓 10-2
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
10.語彙的非手指要素<欺く>と手指要素の共起に関する研究
3.3 考察
<欺く>との共起の制約には個人差が見られる手指要素もあったが、一般的に副詞的<欺く>には
意味的制約、形容詞的<欺く>には形態論的制約があることがわかった。
また、形容詞的<欺く>については、音韻的に長い拍数をもつ手指要素との共起のタイミングに個
人差が見られ、例えば手指要素と語頭を揃えて共起させる、手指要素の語末に揃うように共起させる
などの方法があった。
4.参考文献・HP
市田泰弘(2005)
『手話の言語学(5)時間・空間と手の運動―日本手話の文法(1)
「アスペクト」ほ
か』
『月刊言語』第 34 巻第 5 号、pp92-99,大修館書店
市田泰弘(2005)
『手話の言語学(8)頭の位置と口型―日本手話の文法(4)
「知覚動詞・思考動詞、
非手指副詞」
』
『月刊言語』第 34 巻第 8 号、pp91-99,大修館書店
市田泰弘『SLLing-Net[手話文法研究室]
』http://www.slling.net/(2007/11/26 現在)
5.参考ビデオ
『手話ジャーナル(No.1~No.11)
』サインファクトリー(1997~1998)
『手話資料』国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
『手話帖』JBS 日本福祉放送ガンバろう BOX(1998)
山本真弓 10-3
11.日本手話の引用構文における文法化
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
11. 日本手話の引用構文における文法化
栗原 巴・中村 薫
1.はじめに
引用構文とは、会話や独り言、思考内容などを再現するための構文である。木村・小薗江・市
田(2003)は、日本手話には引用表現をその本来の目的である会話や独り言、思考内容などの再
現のためでなく、特定の文法形式の一部(使役や受益)として用いる構文があるとしている。例え
ば、日本語の「私は後輩に弁当を作らせた」にあたる間接使役の典型的な表現は、日本手話では以
下のようになる。
■/私/後輩/弁当 作る/ わかる /弁当 作る 終わる/
この文には「弁当を作れ」という命令文と「わかる」という承諾を表す文という二つの直接引用
が含まれているが、後者の引用にはごく限られた/わかる/、/OK/、/かまわない/しか入ら
ない。このことは文法化の要件のひとつである範列の成立を意味する。木村ら(2003)は使役構
文や受益構文に現れるこれらの語を接続詞としている。しかしながら、通常の引用構文においても
/わかる/、/OK/、/かまわない/は頻出している。これらも、もはや単なる引用句でなく、
接続詞ではないだろうか。
そのような着眼点から日本手話の引用構文における文法化について研究
することにした。
2.使役構文
(2-1) /私/ 後輩 / 弁当 作る / わかる / 弁当作った /。
<引用句>
<接続詞>
<地文>
使役構文では/わかる/が接続詞化しているとみなされるが、
本来/わかる/が引用句であった
ことは明白である。しかし、/わかる/を明らかな引用句とみなし、引用動詞を後続させると、母
語話者の容認度は低くなる。
(2-2)?/私/後輩/ お弁当 作れ /言った/ わかる / 言われた /弁当作った/。
<引用句> <引用動詞> <引用句> <引用動詞> <地文>
ところが、興味深いことに引用動詞の後ろにさらに/わかる/と同じ接続詞である/OK/を
挿入すると、完全に文法的な文として容認される。
(2-3)/私/後輩/お弁当 作れ/言った/ わかる /言われた/ OK /弁当作った/。
<引用句><引用動詞><引用句><引用動詞><接続詞><地文>
このことからわかることは、引用動詞に続けて次の文に進むためには、接続詞が必要であるとい
うことである。そして、このことは通常の引用構文においても同様なのである。
栗原巴・中村薫 11-1
11.日本手話の引用構文における文法化
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
3.通常の引用構文
次の例では、/わかる/、/OK/、/かまわない/が引用句の中にも複数現れているが、最後
の/わかる/だけはただの引用句ではなく、接続詞である。
(3-1) 彼 /わかる かまわない ごめん わかる 来年来年 約束
<引用句>
わかる
/来年?約束?OK
<引用句>
/ 来年 また手作りあげた/。
<接続詞>
<地文>
4.引用標識
このように/わかる/、/OK/、/かまわない/が使役構文や受益構文のみならず、通常の引
用構文でも接続詞として用いられていることが明らかになると、実はこの 3 語が、後続文のない
文の末尾、すなわち文末に現れていることにも気づかざるをえない。
(4-1) /私/後輩/ 弁当 作る / 言った / わかる / 言われた / OK /。
<引用句>
<文末>
(4-1)は後続する文がないことから、最後の/OK/は接続詞ではない。つまり、これまで接
続詞とされてきた/わかる/、/OK/、/かまわない/の主たる役割は、文を接続することでは
なく、
その直前が引用句であることを示す
「引用標識」
としての役割であると考えるべきであろう。
5.文末の引用標識
このように/わかる/、/OK/、/かまわない/の本来の役割が引用標識としてのそれであり、
接続詞としての役割はあくまでも付加的なものであるとするならば、
接続詞としての機能をもたな
い引用標識があっても不思議ではない。そうであるとすると、これまで単なる引用句とみなされて
きた語彙の中にも、引用標識であるものが相当数存在する可能性がある。そこで、そのような語彙
を手話ビデオ教材『手話ジャーナル』
(1995~1998)から抽出し、分析を行った。その結果、以下
のような例があった。
(5-1) /彼/知らない 思って/説明/(反応)なんだ 知ってる/ほっとけ/。
(5-2) /友達 / 良い 高い / 私 頭からっぽ へぇ/。
<引用句>
<引用句>
(5-3) /生まれる 赤ちゃん 時 大変 色々 違う/大変? 本当は大変 でも 頭空っぽ/。
<引用句>
<引用句>
(5-4) /家 出る 時/全部 鍵 鍵 鍵 終わり/けれど 泥棒 盗む /得意/。
<引用句>
<引用句>
(5-5) /海 泳いでる時/トイレ つまらない 尿 終わり/一緒 泳ぐ 終わり むかつく/。
<引用句>
<引用句>
栗原巴・中村薫 11-2
11.日本手話の引用構文における文法化
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
(5-6) /私並ぶ 待つ 隣進む/理由 なんだ 前 おばあさん お金 待つ もう/あぜん/。
<引用句>
(5-7) /友達 2 人 離れて座る/たまたま 2席 席空く/座る かまわない OK ほっ/。
<引用句>
6.引用標識と接続詞
これらの語彙が接続詞としての機能をもたないことは、次のような例文をみることでわかる
(
(5-1)の/ほっとけ/のみ取り上げる)
。
(6-1)=(5-1’)
/私/後輩/弁当作る/言った/無理/言った/ほっとけ/かまわない/自分作った/。
<引用句>
<引用句> <引用句> <接続詞>
/ほっとけ/は接続詞の機能をもたないために、地文に進む前には接続詞(ここでは/かまわな
い/)が必要である。しかし、ここで必要とされる接続詞は、引用句が文法化したものに限定され
ない。
(6-2) /私/後輩/弁当 作る/言った/わかる/
後
/弁当作った/。
<引用句><引用句> <接続詞>
上の例は時間を表す接続詞であるが、ほかにも移動動詞による時間の進行の表現や、
「翌朝」の
ような時間に関する副詞が、同様の機能を果たすことができる。
7./あきる/の分析
/わかる/、/OK/、/かまわない/以外の引用標識をリストアップする過程で、3 語同様に
接続詞としての機能をもつと思われる語に行き当たった。それは/あきる/である。
(7-1) /説明/わからない/あきる/。
<引用句><引用標識>
(7-2) /雨/ちょうど/友達/傘ある?ない/あきる/帰る/。
<引用句><引用標識>
(7-2)では、/あきる/は、その後ろに/わかる/、/OK/、/かまわない/などの接続詞
を挿入することなく地文に進んでいる。これはすなわち、/あきる/自体に接続詞としての機能が
あるということである。
8./つまらない/、/同じ同じ/の分析
さらに、通常の引用構文の分析を進めると、これまで単なる副詞だと思われていた/つまらない
/と/同じ同じ/も、引用標識である可能性が出てきた。すなわち、これらの語も本来引用句であ
り、引用句に続いて現れ、次の文に接続しているのである。
栗原巴・中村薫 11-3
11.日本手話の引用構文における文法化
国立身体障害者リハビリテーションセンター学院手話通訳学科
第 17 期生卒業研究発表会(2008/02/25)
(8-1)/ズボン 60 ない? ブカブカ/つまらない/買った/。
<引用句>
<接続詞> <地文>
(8-2)/信号赤/同じ同じ/行く/。
<引用句><接続詞><地文>
9.まとめ
以上、見てきたように、引用標識にはその機能から 3 種類のタイプがあることがわかった。
■引用標識
/ほっとけ/、/へぇ/、/頭からっぽ/、/得意/、/むかつく/、/あぜん/、/ほっとす
る/
■接続詞の機能を併せ持つ引用標識
/わかる/、/OK/、/かまわない/、/あきる/
■接続専用の引用標識
/つまらない/、/同じ同じ/
【参考文献】
市田泰弘(2005)
「手話の言語学(7) 話し手の身体と視線─日本手話の文法(3)
「動詞の一致(再
考)と指示対象のシフト」
」
『月刊言語』第 34 巻第 7 号, pp. 92-99, 大修館書店.
市田泰弘(2005)
「手話の言語学(11) 文法化─日本手話の文法(7)
「助動詞、否定語、構文レベ
ルの文法化」
」
『月刊言語』第 34 巻第 11 号, pp. 88-96, 大修館書店.
大堀壽夫(2004)
「文法化の広がりと問題点」
『月刊言語』第 33 巻第 4 号 pp.26-33、大修館書店
木村晴美・小薗江聡・市田泰弘(2003)「日本手話における引用の文法化」
『日本手話学界第 29 回大
会』pp.20-22
『手話ジャーナル(№1~№10)
』サインファクトリー(1995~1998)
栗原巴・中村薫 11-4
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