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聖人伝J (1)
「 聖 人 伝J ( 1 ) 木版挿絵入り西洋初期印刷本零葉コレクション 1 1 F i l eN o . 2 2 0 0 4 1 3 1 5 5aJb--3168 aJb 吉田正彦* 明治大学図書館蔵「木版挿絵入り西洋初期印刷本零葉コレクション」に はラテン語版 1 、ドイツ語版 6、オランダ語版 1の、合わせて 8点の刊行 本「聖人伝」から採られた 9 5葉の零葉が収められている。早くから口承で、 あるいは書きとめられて伝えられた個々の聖人にまつわる奇跡や殉教の物 語が、中世盛期を過ぎようとする十三世紀のヨーロッパで、何故に一例え ばヤコブス・デ・ヴォラギネ『黄金伝説』のように一大部の書にまとめら れ、人々に好まれたのか。しかも物語が聖人の祝日に従い、キリストの降 誕に始る一年の暦の順に配列されて、あたかも聖職者のための「聖務日課書」 と見紛うばかりである。その一方で、従来教会堂の中でのみ目にすること ができた聖人像が木版画像として家庭の居間に掲げられ、否応なく人々の 目に触れるのもこの頃だった。今や聖人は庶民にとってもより身近な信伸 の対象となる。そしてグーテンベルクの時代一聖人たちは印刷工房主の懐 を潤すことになる。活版印刷機が登場し、書物の複製が容易になった時代に、 聖人伝は改めて人々の信仰心と印刷工房主の商魂とを刺激する。両者の競 い合いはどのような結果を生んだのだろうか。ここに収められた 9 5の零葉 本よしだ・まさひこ/前明治大学文学部教授/ドイツ文学、ドイツ文化史 67 は、中世末から近世初頭のヨーロッパの出版事情と庶民の信仰の状況とを 垣間見る手助けになるかもしれない。 「聖人伝 J 8点の刊本については、書名、印刷工房、刊行年等、今後の調 査を待たなければならないものもあるが、当面は鈴木秀子氏の論考 1に依る こととし、ここでは刊本に Iから V I I Iの番号を付し、夫々に書名、印刷工 房主名、工房所在地、そして刊行年の順に記す。また各零葉にファイル・ ナンバーが付されており、今回取り上げる「聖人伝」は N o . 2 2 0 0 4 1 -3 1 5 5 -a J b " '3 1 6 8 -a/bの 1 4葉である。末尾に付されたアルフアベットは、原則として 挿絵のある面を a 、他の面を bとし、頁順を表すものではない。時には両面 に挿絵がある場合、 一葉が 4頁から成るケースもある。そこで各葉につい ては 1 4までの通し番号の後に、ファイル・ナンバーの下四桁の数字とアル ファベットとを記すこととする。ただし各零葉には複数の聖人が扱われる ことが多いこと、また各聖人の事績は頁を追って略述する必要があるとこ ろから、このアルファベットが各葉の表裏、即ちページ順を著すことにな る。例えば N o . 3 1 5 5は以下に例示するように、一葉に三人の聖人が紹介され、 最初の聖人の事績は b面途中まで、第 2の聖人は b面途中から a面にかけて、 第 3の聖人については a面に記載されている。また聖人名の後、括弧内に は聖人の祝日を挙げた。 例 :1 .I l 'L egendaa u r e a/黄金伝説.lI (ラテン語版) ギュンター・ツァイナー(アウクスブルク)刊行年不明 1 -① ( 3 1 5 5 ) b …聖アマンドゥス ( 2月 6日) 1 蜘② ( 3 1 5 5 ) b / a …聖ウァレンティヌス ( 2月 1 4日) 1 -③ ( 3 1 5 5 ) a …聖女ユリアナ ( 2月 1 6日) 鈴木秀子 l 明治大学図書館所蔵「木版拷絵入西洋初期印刷本零葉コレクション Jf図書の譜』 第 1 1号 1 9 2 2 0 3頁 6 8 また文面に関しては、各章の表題、本文冒頭の装飾大文字を指摘した。 その際後者は頭文字のみでなく、それに続く綴りや文章は、 V [ A l e n t i n " ' ] のように[]内に補った。各聖人の事績については、零葉の内容の紺介に努 めた。また零葉以外に参照した文献については、各聖人の事績紹介の後に「参 考」欄および本稿末尾の「参考文献」表をご覧いただきたい。 │ラテン語版│ 1 .i 'L egendaa u r e a/ 1黄金伝説』 ギュンター・ツァイナー(アウクスプルク)刊行年不明 1 ・① ( 3 1 5 5 ) b マーストリヒトの聖アマンドゥス ( 2月 6日) アマンドゥス a madusはブルージュ近郊の隠修士、司教。ローマに詣で、 サン・ピエトロ大聖堂で寝ずの番をした際に、聖堂の主聖ぺテロが夢 47年にマーストリ に現れ、ガリアで宣教するよう彼に命じたという。 6 ヒト司教。チロルやザルツプルクでも布教活動を行い、またフランド ルおよび、ベルギーに多くの教会や修道院を創建してぺテロに捧げ、ベ 7 9 (または 6 8 4 ) 年没。 ルギーの使徒と讃えられる。 6 2 9 6 3 9 ) の懇願により、 本零葉では、ガリアでドダゴベルト一世(在位 6 生後間もない王子に洗礼を授けると、赤子が自ら「アーメン」と応え たこと、アマンドゥスが手を洗った水で盲人が目を洗うと、たちどこ ろに目が見えるようになった事績等が記され、末尾には彼が主の 6 5 3 年頃、へラクリウス帝(東ローマ皇帝、在位 610-640 の時代 c i r c a annumd o m i n id c l i i jt e m p o r ee r a c 1 i jまで生きていたとする。 参考:伝説 4 1章/LC IV1 I O f f ./LNH1 2 8f . 1 / 6 9 1 ・② ( 3 1 5 5 ) b / a ローマの聖ウァレンティヌス ( 2月 1 4日) 、 , " 村 e . ¥ 1 ミ f e ( 3 1 5 5 ) a ( 3 1 5 5 ) b [ A l e n t in-..]に始り、『黄金伝説』定番の Denomineの項、装飾大文字 V a n c t ov a l e n t i n o I聖ウァレンティヌス 聖 人の「名前の由来」。続く Des {云」も同じ装飾大文字。ローマの司祭ウアレンティヌスは時の 皇帝ク u d i u sによりキリスト教を棄てるよう迫 ラウディウス・ゴティクスc1a られ、ローマの都長官に身柄を預けられる。そこで長官の娘が盲目な のを知ってキリストに祈り、見えるようにしてやる。だが本零葉末尾 i r c aannud n ic c . l x x .と記されるように、「主の 270年頃」斬首され、 にc ローマのフラミニア街道沿いの 墓地に埋葬されたとし寸。 挿絵 ( a面上)は 二人の刑吏により、司教ウァレンティヌスが拷聞を受 ける場面。 参考 ・伝説 42挙 / L C IVl l I530 f . / LNH8 1 7f . / / 1・③ ( 3 1 5 5 ) a ニコメディアの型女ユリアナ ( 2月 1 6日) a面下、装飾大文字 J [ V l i a n a. . . ]。 その上に表題 Des a n c t a i u l i a n a I聖女 0 5年頃のイタリアの都 ユリアナ伝」 。ディオクレティアヌス帝治下、 3 市ニコメディア n i c h o m e d i e。ユリアナは婚約者エウロギオス e u l e g i oに 、 自らが信仰するキリスト教への改宗を迫る O 父はこれに怒り、彼女を 裁判官でもある婚約者に引き渡す。婚約者もまた禁じられた神への信 70 仰を恐れ、逆にユリアナに棄教を求める。だが如何なる拷問も彼女を 傷つけることができない。そこでエウロギオスはユリアナを斬首刑に 処した後に航海に出るが、嵐に遭って部下たちと共に溺死し、亡骸は 獣禽の餌となったという。 挿絵 ( a面下)はユリアナの処刑の場面。 参考:伝説 4 3章 I L C IV I I2 2 8 f f . I L N H4 6 7 / / ・① ( 3 1 5 6 ) ・ a ラヴエンナの聖ウィタリス 2 ( 4月 2 8日) 冒頭 3行は聖人の名前の由来、 r (ウィタリスは…神の獣のように)四 l a sを備えており…」。続く装飾大文字 V [ I t a l i s…]以下で つの翼鼠ia ローマの騎士ウィタリスと妻ウァレリア v a l e r i a 、二人の息子ゲ、ルアシ e r u a s i uとプロタシウス p t a s i uを紹介。ウィタリスは裁判官ノ 4ウ ウス g a u l i nに従ってラヴェンナ r a u e n n 互に赴き、医師ウルシキヌス リヌス p v r s i c i n uに出会う。皇帝ネロ(在位 5 4 6 8 ) の治世、医師はキリスト教 徒として斬首刑を宣告され、恐れ懐いている。ウィタリスは彼を励まし、 処刑後は遺体を埋葬する。そして自分もキリスト教徒であると公言し たので、パウリヌスは彼を捕え、立ったまま生き埋めにする。なお、ウィ タリスの息子たちもミラノで殉教したとされ、事績は『黄金伝説.!I 8 0 章で紹介される。 挿絵は生き埋めにされるウィタリスを、両腕に土塊を抱えて見守る裁 判官ノ号ウリヌス。 9牽 I L C IV I I I5 7 6f . / / 参考:伝説 5 7 1 2・② ( 3 1 5 6 ) -a/b アンティオケイアの乙女 畑 一 ゎ … ' 1 溜 ( 4月 28日または 29日) 一;r ウア F 司 。 7 N' . ・ 4 8 さ 芦 E ( 31 5 6 ) a ( 3 1 5 6 ) b f、装飾大文字 V[Irgo"'athiochie] rアンティオケイアの乙女」 。 、 a面 ' 3 9 7 ) の『童貞論』第 2巻で紹介さ ラノの型アンプ ロジ ウス(340頃 れる乙女の殉教の 生涯。 乙女は男の目に触れることを避けて日々を過 してい たが、このこ とが却 って男たちの 心の 炎を掻き立てる。そこで 乙女は禁じられたキ リスト 教信仰 を守り、かっ生涯純血 を貫く誓いを 立て る。彼女の決意 を知 った男たちの心は欲情 から恨みに変わる 。彼 らは乙女を裁判に委ね、法廷は彼女を娼家に引き渡す。 乙女は旧約聖 書 に登場する遊女ラハブ r a a bや、夜を共に過し た敵将の寝首 をかいた ユー ディ トi u d i t h oを先例として 勇気を奮 い起す。本零葉はここで途切 れる 。D is ci t em a r t i r um i r a c u l as a n c t ev i r g i n e sr 聖なる乙女の殉教の奇 跡をお聞きなさい」という 言葉 とともに 。 0挙 / / 参考 :伝説 6 72 │ドイツ語版 1I 1 1 .I 'L egendaaurea1 1黄金伝説』 アントン・コーベルガー(ニュルンベルク) 1 488年 ? 3 -①.( 3 1 5 7 ) a マインツの聖アルバヌス ( 6月 21日) 伝承によれば、古代マケドニアの都市フィリポの司教テオネストゥス Th e o n e s t u sはこの町を追われ、アルパヌス a l b a n u sや他の者たちを伴っ て各地を遍歴しながらキリストの福音を伝えたとされる。北イタリア では彼らはアンプロジウスに会うことができたが、同地の他の町で同 行のウルススが殉教、残った者たちは更にプルグントからドイツのト リーアやマインツ mentzを巡っている。マインツではアルパヌスが異 端 dyk e t z e rアリウス派により殺害されるが、彼は斬り落とされた自分 の首を抱えて走り、倒れた場所に埋葬されたという。 406年のことであっ た。テオネストゥスたちも北イタリアに戻った時に、アルティヌムの 町で同様にアリウス派の信者によって殺害されたという。 参考 : L C IV 6 8 f f . / / v g l .: L C IV I I I459 f . < T h e o n e s t u sm i tT a b r aundT a b r a t h a vonA l t i n u m>/L NH785<Th e o n e s t o svonP h i l i p p i >及び〈官l e o n e s t e svon Mainz> 1 I 73 3 -② ( 3 1 5 7 ) -a ! b / c / d アカツイウス(あるいは アカキウス、 あるいは アガトウス) とアルメニアの一万人の殉教者 ( 6月 22日) ( 3 1 5 7 ) a ( 3 1 5 7 ) b ( 3 1 5 7 ) c ( 3 1 5 7 ) d 『黄金伝説.lI 135章「聖マウ リティウスとその部下たち」を手本に、十 字軍の騎士を鼓舞する目的で 12世紀に創られた伝承。 a面挿絵上 l こ表題 Vode . x .t a us etma rt r e r n. r一万人の殉教者伝」 。挿絵下、 d r i a n u sundA n t o n i u s.. ]r ハドリアヌスとアントニウ 装飾j大文字 D[Aa スが帝国を治めていた頃ー ・」、領主ア カツイウス A c h a c i u sは両皇帝に 74 雇われ、九千の兵を引き連れて小アジアに遠征する。強力な敵軍に劣 勢を余儀なくされた時天使が現れ、キリストに祈願すれば勝利が得ら れるであろうと告げる。勝利を収めると、再度天使が現れて彼らをア ララト山に導き、天が開く。一方二人の皇帝はオリエントの玉七人を 招集し、アカツイウス達を背教の徒として拷問にかけさせるが、その 際に皇帝塵下の一千名もキリスト教に改宗する。その結果アカツイウ スと一万人全員が殉教する。彼らは投石や鞭打ちの刑に処され、茨の 冠をかぶせられ、十字架につけられ、またアララト山から茨の茂みに 突き落とされた。 挿絵は茨の茂みに突き落とされる殉教者たちと、それを見守る天使。 左には皇帝と高臣たち。 参考 :LCIV1 6任/LNH1 0 9 / / 4・① ( 3 1 5 8 ) a トレンティーノの聖ニコラウス ( 9月 10日) ニコラウス Ni c 1a u sは 1 2 4 5年頃、中部イタリアのポンターノで生まれ、 1 2歳でアウグスティノ隠修士会修道院に入札説教師として名を挙げ、 また数多くの奇跡を行ったとされる。後半生をトレンティーノで過し、 1 3 0 5年没。トレンティーノ T o l e n t i nに住む婦人がニコラウスの奇跡を 信じようとせず、彼がどんなに沢山の奇跡をなさったとしても、私の 息子のほうが多くの奇跡を行ったとまで言った。その途端、息子の目 が飛び出し、血管が付いたまま胸まで垂れ下った。婦人の夫は聖人に 対する妻の悪口が原因であると倍り、妻と共に聖人の墓に詣でて罪の 許しを乞うたところ、息子の目はたちどころに、治ったので、両親は誓 願に従って息子を修道僧にしたという。 参考 : L C IV I I I5 9 f f ./LNH609f . 1 / 7 5 4・② ( 3 1 5 8 ) -a/b 型プロトゥスと型ヒュアキントゥス ( 9月 11日) ( 3 1 5 8 ) b ( 3 1 5 8 ) a a l 可挿絵上市段に表題 Vons a n tP r o t h u sunJ a c i n c t u s Iプロトゥスとヒュ [ R o t h u sundJ a c i n c t u s . . . ]Iプ アキントゥス伝」。挿絵下左段、装飾大文字 P ロトゥスとヒュアキントゥスはキリスト教徒で…」。ローマの貴族ピリ プス P h i l i p p u sは委および二人の息子アウイトゥス a u i t u sとセルギウス s e r g i u s、娘のエウゲニア Eugeniaを伴い、総督としてアレクサンドリ アに赴く。その地の習慣としてエウゲニアは諸学問を習得するために、 近習プロトゥスとヒュアキントゥスとを従えて学校に通う。 1 5歳にな るとエウゲニアがキリストの教えに心を寄せるようになり、男になり 済まして修道院に入札プロトゥス達も彼女に従う。ピリプスには何 も告 げずに 。 押絵(右)は、エウゲニアならぬ修道僧エウゲニウス E u g e n i u sの 看 護 により熱病を癒されたアレクサンドリアの貴婦人メランティア M e l a n t i aがこの若い修道僧に心を奪われ、彼をベッドに引き込もうと する場面。エウゲニウスが恨むと、メランティアは逆恨みをし、修道 僧が自分を手篭めにしようとしたと、総督に訴える。メランティアは あくまでも l 鹿を 貫 き通す魂胆である。挿絵(左)は、それを覚った修 道僧が総督ピリプスの前で修道服を脱ぎ、自分は娘のエウゲニアであ り、メランテイアを手篭めにするはずのないことを証す場面。その瞬 7 6 間天から火が降り注ぎ、メランティアを焼き殺す。エウゲニアとの再 会を果たしたピリプスは、妻や息子たちと共にキリスト教に改宗する が、やがて宗教弾圧が始まり、一家は殉教する。プロトゥスとヒュア キントゥスも棄教を拒んで、斬首により殉教。 2 5 6年頃のことだという。 2 8章 I L C IV I I I232ILNH6 8 8 / / v g l .: L C IV I1 7 7 f . I L N H2 6 0 / / 参考:伝説 1 5 ・① ( 3 1 5 9 )・ a シュトケラウ(あるいはメルク)の聖コロマン ( 1 0月 13日) コロマン Colomanoはアイルランド人の巡礼。 1 0 1 2年、ウィーン近郊 のシュトケラウで逮捕。オリエント風の服装からハンガリーのスパイ と疑われ、樹に吊るされた。だがその亡骸が 2年後にも腐敗しなかっ たため、ドナウ河畔の町メルクに移され、辺境伯ハインリヒ二世によ り墓標が建てられた。オーストリアの八守護聖人のひとり。 零葉では、彼の亡骸から切り取った肉片によって病の癒えた少年と父 親が、肉片を送り届けてくれた人々と共に亡骸を見に行しすると亡 骸には、神の恩寵により、肉片を切り取った傷跡もない。これを信じ ようとしないものが亡骸にナイフを突き刺した途端、温かい血がほと ばしり、人々は奇跡を目の当たりにする。彼らは聖遺骸を樹から降ろ して埋葬した。 参考 : L C IV I I3 2 8 f . ILNH4 9 0f . / / 7 7 ( 10月 18日) 5・② ( 3 1 5 9 ) -a/b福音史家型ルカ ( 31 5 9 ) a ( 3 1 5 9 ) b an tLucas I聖ルカ伝」 。帰絵下左段、装飾 a而挿絵上右段に表題 Vons i e bh巴r rs an tLucasi s t . . . ] I聖 ルカはアンティオケイアの 大文字 D[Erl と tれで、身体 と心の 医者であった Jo Ii'黄金伝説』では各章の冒頭に置 かれる聖人の名の由来解説はここでは省かれ、伝記も要点を挙げるに sbuchA c t u sApostolorumの著者 儲まる 。即ちルカが 「使徒言行録 J da r o p h e t e nE z e c h i e lが見た四動物 v i e rt y e r e n であり、預言者エゼ、キエル p 一人間、 獅 子、 雌 牛、鷲 によ って表象さ れ る 四 福 音 史 家 の ひ と り で、ルカは t 1 1牛によって表わされる等、と。また聖ヒエロニムス San t J e r onymusの著述によると、ルカは画家であり、 聖母 マリアの肖像を 描いた、とも。 挿絵はこうし た伝承に従い、聖母子像を 描くルカと、彼を 表象する雄牛。 参考.伝説 1 4 9章 /LcrV I I448仔.ILNH529f . J / 5・③ ( 3 1 5 9 )・ b 大修道院長型ガルス ( 10月 16日) 右段末尾 に表題 Vons an tGa le ndemh e y l i g e nAbbt . I修道院長聖ガルス 伝 」 。スイス、ボーデン湖畔のザンク ト・ガレ ン修道院の創設者ガルス ( 5 5 0頃 6 4 0 ) の事績。 参考 : LCI345仔 /LNH3 0 3 / / 78 6・① ( 3 1 6 0 ) b / a 皇帝聖ノ、インリヒ ( 3 1 6 0 ) ー b ドイツ 国民の神聖 ローマ 干 j ;国皇帝ノ、イン リヒ 二世 ( 9 7 3-L 02 4 ) は教会 改革の積極的な推進者だった 。妃クニグンデの助力を得て、南ドイツの パンベルクに司教区を新設、世俗的にも ここ を帝国の 主要都市にする 。 995年にバイ エ ル ン 公、 1014年に 皇 帝に 。 Unwasv i e r u n d z w巴y n tZlg j a rdase rk u n i gwardundwase y l f fj a rd ze rk e ys e rward r 24歳で国王 に なり、・・・ 1 1年間皇帝だった」 。妻との聞 に子供がなかった こと 、また 後年結婚生活での禁欲を 誓 い合ったとされるところから、夫婦は 貞潔 な生涯を送ったとの伝説が生まれた 。『黄金伝説』では 皇帝夫妻につい てはラウレンティウス 伝、教皇 ぺラギウス伝などに逸話が挿入される に留まる 。 そのひとつがここにも援用される 。ハイン リヒが妃の不 貞 を疑ったために、死後彼の魂が悪魔の手に渡りかける 。 だが聖母マリ アと 聖ラウ レンティウ ス との執成しにより、魂は救済された 。ハイン ne y n s i d巴1i nd ew a l dが、ハイン リヒが亡くなった夜、森に 住 む隠者巴i i nh e rd e rbosenge ys tから聞 リヒ の魂を手に入れそこなった悪魔たち e いたとし寸 。『黄金伝説』に漏れた伝承も紹介される 。皇帝の死後、弟 raun司教が、姉妹でありハンガ リ一 国王シュテファン 一世 ブラウン B ( 9 5 7 ?1 0 3 8 ) の妃でもあ るギ ゼラ G e y s e lに、パンベルクの 町は 自分に 遺贈されたと偽って争った時、クニグンデが夫ノ 、 イ ン リヒ の墓前で神 79 に訴えて解決した奇跡譜などである。 参考・ LCIVI478 任 ILNH3 5 1f . 1 / v gl.:伝説 1 1 1章、l75章 1 1 6・② ( 3 1 6 0 ) a 皇妃聖クニグンデ ( 3月 3日) ( 3 1 6 0 ) a 挿絵上右段に表題 Vons a n tKungund r 聖 クニグンデ?伝」。挿絵下左段 に装飾大文字 S [ A n tKungundh e t tg o tl i e bvoni u g e n ta u 町「クニグン デ ( ? 1 0 3 3 ) は早くから信心深く」、昼夜を問わず、熱心に神に祈り、喜 捨を行ったこと、神に誓った純潔を守るために一神聖ローマ皇帝ノ¥イ ンリヒ 二世と結婚はしたもののー「天使のように暮した e i ne n g l i s c h s t e rz us a n ts t e f f a n l e b e n J ことなどに続き、聖シュテファン修道院c10 の創建に関わったことについても言及される。右段末尾の 3行では、 夫 に続いてコンラート C o n r a tが皇帝の座に就くと、クニグンデは自ら が創立した中部ドイツの町カウフンゲンの修道院で修道女として晩年 を過ごしたことを伝える。 挿絵は聖シュテファン修道院の建設に当って、クニグンデが労働者に 不思議な鉢から賃金を支払う場面。 L C IV I I3 5 7 f f . / LNH4 9 9 / / 参考 : 8 0 7・① ( 3 1 6 1 )・ b/ a アッシジの型フランチェスコ ( 10月 4日) v ψ""'~ 叩明市噌や叩命.".闘精棚 :"'~" "'~ " .cO円、tlX. で . 白 ' - き Jを ( 3 1 6 1 ) b フランチェスコ(11 8 1 1 8 2 1 2 2 6 ) はイタリアのアツシジの裕福な商 家 に生まれる 。信仰に目覚めてからは清貧 と労働を日常生活の 基本とし た。彼の説教に感銘を受けた人々から生れたのがフランチェスコ修道 会。修道僧たちは托鉢による無所有と無定住の生活と、世間への奉仕 に努めた 。 フランチェスコについては多くの逸話、奇跡調が残され、 『 黄 金伝説』 等 に収められているが、本零葉ではその 一部が紹介される 。 第 1 8 9葉」の表示に注意。各葉両面に 頁 なお b面欄外、 CLXXXIX r が打たれる以前は、右頁のみにこのように 表示 し 、 左頁(裏面) には 表示がなかった 。掲載内容のみならず、こうした表示からも、この 零 葉では b面が a面の前の頁であることが分る 。 4 3章 ILCIVI260 任 ILNH2 86仔.// 参考 :伝説 1 8 1 7・② ( 3 1 6 1 ) a アレクサンドリアの遊女型タイシス ( 1 0月 8日) ( 3 1 61 )a 挿絵 l 二 右段に 表題 vons a n tT h a y s i s I型 タイシス伝」 。挿絵下左段に装 飾大文字 T[h a y s i swze i ns c h o n ef r a w . . . ]Iタイシス(タイス T h a i sとも) は美 しい女性で、」あり、四世紀のエジプトの都市アレクサンドリアの 伝説上の遊女とされる 。 同様に伝説上の大修道院長ノ号プヌテイオス巴m g u t e rm u n i c h . . . P a f u n c i u s (パフンキウスという名の 善良な修道僧)の 説諭によって回心し、修道院の庵室 に幽閉されたまま、 三年 間悔俊の 言葉を繰り返し続けた後、 安 らかに亡くなったという 。 J 市絵は、タイシスが│ 国心してすぐに、パプヌティオス始め大勢が見守 る前で、遊女時代に得た財宝 をすべて燃やす場面。 参考.伝説 1 4 6章 / L C IV I I I427f .I LNH774// 8・① ( 3 1 6 2 ) a 塑ウルスラと 一万一千人の童貞殉教女 ( 10月 2 1日) 聖都ローマ巡礼の 帰途、ライン河畔のケルンでフン族に襲われて殉教 したブリタニアの 王女ウルスラと、彼女に同行した 一万一千の乙女た ちd i ee y l f t a u s巴n tmaydの物語。特に 1 1 0 6年、中世ヨーロッパの信仰 とi 商業の中心都市ケルンで市域が拡張された際に、 墓地から大量の遺 骨'が発掘されると、この伝説に結び付けられて、広くヨーロッパの民 衆の信仰心を煽った 。 8 2 本零葉は 『黄金伝説』末尾 と同じ 二 つのエピソ ー ドを収載している 。 ひとつは、ある修道院長 が殉教女の遺骨をもらい、銀の函に保管する と約束したにも拘らず、木の函に入れ、あるいは祭壇に安置したまま にしたところ、ミサの最中に乙女が生前の 姿で現われ、修道院を立ち 去ってしまう話。最後の物語は 、殉教女たちを熱烈に 崇拝す る修道僧 が病床に伏していると、乙女たちが現れて、主の祈りを 一万一千四唱 えるようにと 言 う。 そうすれば、臨終の時に乙女たちの加護が得られ ょうから、と 。すると終 7 1 1 1の秘跡を受けた修道僧の前に乙女たちが現れ、 慰めと加護とを与えてくれたという 。 5 1挙 / LCIV I I I5 2 1仔./LNH8 1 3仔// 参考:伝説 1 8・② ( 3 1 6 2 )開 a ! b 型 クリスピヌスと型クリスビニアヌス ( 10月 25日) ( 3 1 6 2 )a a面 挿 絵 上 右 段 に 表 題 Vons a ntC r is p i n usundC r i s p i n i a n usl e b e n i聖 クリスピヌスとクリスピニアヌス伝」。 挿 絵 下 左 段 に 装 飾 大 文 字 C[Ris p i n usundC r i s p i n i a n u sd i ewarenzwen巴delmann -" j rクリスピヌ スとクリスピニアヌスは共に 貴族で…」あったが、四世紀初頭、皇帝 デイ ci a n u sとマク シミアヌス Ma xi m ian u sによ る オクレ ティアヌス Dyocle si oで靴職人 キリスト 教弾圧下の ロー マを 逃れ、ガリ アのソワソン Sues に身を やっしつつ、人々に信仰を説いた 。 このことがローマに伝えら 8 3 れると、 皇 1 1 ; ;は裁判官リクティオナリウス R i c t i o n a r i u sをソワソンに送 り、容理が行われる O 二人はローマの神々に生費を捧げることを拒み、 拷問に耐え、終には斬首により殉教する。 挿絵 ( a面)は 二人が拷聞を受ける場面。刑吏によってこん棒で打た れるひげ面のクリスピヌス。クリスピニアヌスは背中の皮膚を待状に 切り取られる 。傍らの鍋では鉛が煮えたぎって、次の拷聞を暗示する。 だが溶けた鉛の滴が跳ねてリクティオナリウスを襲い、これによって 彼は失明し、しゃがみ込む。 参考 : LCIVI3 f 1 ¥ / L N H201f . ! / 8・③ ( 3 1 6 2 ) b 使徒 塑 シモンと 型ユダ ( 10月 28日) ( 3 1 6 2 ) b シモンについては新約聖書 では、 トニ使徒のリストに「熱心党と呼ば れたシモン J(マルコ 3, 1 8他)として、ユダは 「ヤコブの子 J(ルカ 6, 1 6他) または「タダイ J (マルコ 3, 1 8他)として 登場する。だが彼らの事績 については、最後の晩餐の際に「イスカリオテでない方のユダ J (ヨハ ネ 1 4, 2 2 ) がイエスに向けた間いが聖書 に記されるのみである。その結 果この 二聖人について語られる事績はほとんどが後世につくら れた伝 承、または他の聖人のそれと混同して伝えられることが多い。挿絵上 右段の表題が、 Vons a n tSymonundJ u d a sl e b e ns a g td i el e g e n dr 聖シ 8 4 モンとユダ伝、伝説は 語る」 とあるのもそのためか。挿絵下左段、装 enz e y t e ndau n s e rh巴11'・ J e s u sc r i s t u sa u f f巴r d t r i c hg i e n g・..] 飾大文字 Z[Ud 「我らの主 イエス・キリストが地 t . の国 においでになり、 多 くの証しを d i s s aの町にアブガロス Abagarusと呼ばれる なさった頃」、エディサ E 王があった…と、 l 深刑前のイエスの約束 にもとずいてユダ=タダイが エデイサを訪れ、 王の病を癒した物語が語ら れる 。 挿絵に描かれるのは、シモンとユ夕、、が協力してぺルシアで宣教した際 に、かつて聖マタイによ ってエジプトを追われた 二人の魔術師に遭遇 し、彼らの神が偽神であることを、そ の神 殿 で 証 明 し て み せ る 場 面。 聖人たちの力により偽神像に潜んでいた 悪魔が像を践して逃げ(右)、 これを見た魔術師たちがシモンとユダを刺し殺すと、 空 に稲妻が走っ て魔術師どもを焼き殺し、偽神の神殿を破駿した(左)という 。 5 2章 /(Simon)LCIV I I I367f f .; LNH7 5 2 /( Ju das)LCIVI l I 参考・伝説 1 423f f .;LNH4 6 4 f f . / / 3 1 6 3 )・ b / a ポワティエの聖ヒラリウス 9・① ( ( 1月 14日) ( 3 1 6 3 ) b ヒラリウス H y ! a r i u sは 310年頃、アキタニア(今日のフランス南西部) のポワティエに生まれ、この町で司教に 。特に、アレクサンドリアの 司教アリウスによる、 三位-体説を否定 する異端教義と闘ったことで 8 5 知られる O また、それを理由に小アジアのプリュギアに追放されたこ 6 7年没。本零葉 は『黄金伝説」とほぼ同じ事績を伝える。 とがある。 3 ガリアを中心に勢力を振うアリウス派への対処を巡ってローマ 皇帝が 全司教を招集した会議からの帰途、ガルマリア島 i n s e l nG a l m a r i aの住 百に十字を描いて 民が蛇 wurmの害 に困っていることを知り、杖で地 l 退治する。その後ピクタニアの町 s t a tP i c t a n i a (ポワティエ)に戻る と、洗礼を受けずに亡くなった子供の母親が、 聖 マルティン様は受洗 しないまま死んだ子供を生き返らせて 下 さいました、同じように私の 子を助けてくださいと願うと、これに応えてヒラリウスはイエスに祈 り、子どもを蘇生 させる 。 そして再度アリウス派と対決。異端擁護派 の皇帝コンスタンティウス 二世に招集された司教会議に出席し、ヒラ リウスは教 皇 と口論になる O その 直後に教皇 は急死 し、会議で)市を 与 えられなかったヒラリウスの座る床が他の司教たちの椅子より 高 く盛 り上っ て、彼は正 当な信仰について説教したという。ヒラリウスは家 族への配l 怠も万全でsあった。彼は、娘が清らかなまま生き、早々に天 に召さ れるよう神に祈り、それが叶えられると、妻も娘の後に従った 。 参考 :伝説 1 7章 /LCIVI533任/LNH3 6 8 f f . ! / 9 -② ( 3 1 6 3 ) a ピンキスの聖フェリクス ( 3 1 6 3 ) a 8 6 ( 1月 1 4日) 挿絵上右段に表題 Vons a n tF e l i xr 聖フェリクス伝」。挿絵下左段、装 [ A n tF e l i xwze i ng u t t e rc h r i s t e n " ' ]r 聖フェリクスは善良な 飾大文字 S キリスト教徒で、神を愛した」。学識豊かな教師でもあって、子どもた ちを、賢く徳のある子に育つよう教育した。キリスト教徒だったため に、教え子たちによりローマのピンチオ丘で、蝋板用の鉄筆(筆記用具) で刺殺されたと伝えられるところから、ピンキスの証型者と呼ばれる。 だがピンチオ丘に建つ聖フェリクス教会はもうひとつのイタリアの都 市、ノラの同名の聖人に捧げられているところからも察せられるよう に、両者の事績が混同されているらしい。 本零葉では、キリスト教禁教の時代にフェリクスがローマの神々に生 費をささげることを拒み、真の神の力により偽神像をひと息で吹き飛 ばしたことや、町の司教が迫害者から逃れる途中、病で倒れていると ころをフェリクスが見つけ、偶々そこに生っていた南萄を絞って飲ま せ、背負って自宅に連れて帰ったが、司教は亡くなり、その後任にフエ リクスが選ばれたこと、その後フェリクス自身が迫害を逃れて狭い隙 聞に隠れていると、大きな蜘妹がその前に巣を張り巡らしたので、フェ リクスが助かったことが報告される。 挿絵はフェリクスが生徒たちにより蝋板と鉄筆で殴られ、刺殺される 場面(右)と、道端で倒れた町の司教に葡萄の汁を飲ませる場面(左)。 ここでは両場面とも、フェリクスは司教帽を付けたままに描かれる。 参考:伝説 1 9章 I L C IV I2 3 0 f . I L N H2 7 7 / / 1 0 ・① ( 3 1 6 4 ) ・ a 聖女シノフロドーサ (祝日不明) 冒頭に装飾大文字 S [ I n o f r o d o s ad i ewze i nc r i s t i ndyeh e ts i b e nk i n ddy シノフロドーサ夫人には七人の子供があり、親 warena l lc r i s t e n…] r d r i a n u s (在位 1 1 7 子共にキリスト教徒だった」。アドリアヌス帝 A 1 3 8 ) 治下のローマ。皇帝は自らが信仰する神々の為にティプルキア T y b u r c i aの町に神殿を造らせた。ところでタシー由a s i eの町で偽神が 人々に、シノフロドーサ夫人と子供たちを生費として捧げよ、さもな くば我らは汝らの願いに応えることはしない、と言う。そこで皇帝は 夫人と子供たちを連れて来させ、偽神に生費をささげよと命じた。拒 8 7 めば命はないぞ、と 。 すると夫人は、夫セクルス S e c u l u sと彼の兄弟 アマンティウス a m a n t i u sは神 の錠に従っ て暮していたが、車I T 首 され、 今は 天 国にいる 。 それ故自分も 夫 同様、殉教して 夫 の許に行きたい、 と答 えるのだった 。皇帝は怒り、改めて夫人に、我らの神へルクレス h e r c u le sに生賞、を捧げよと 命じ る。家来 には、従 わぬ時 は叩 きのめし、 髪の 毛で i 司るし あげ、71<攻めにせよと指示した 。皇帝3は子どもたちに も母親を説得するように 言 い、従 わぬ場合は槍で突き通すぞと脅す。 だが夫人も子ども 遥 もキ リスト の教えを守って殉教 した 。 参道 き ・ ~ -・ 1 0 ・ ②( 3 1 6 4 ) -a/b ヴュルツブ、 ルクの司教塑キリアンと随伴者たち ( 31 6 4 ) a ( 7月8日) ( 3 1 6 4 ) b a面挿絵上右段に 表題 Vons a n tK i l i a nunds e y n e rg e s e l s c h a f f tr 聖キ リ i e bheηsant アンとその随伴者たち 。 」 挿絵下左段に装飾大文字 D[Erl K il i a nwasg a re d e lunnd…] r 型キリアンはスコットランドの高貴な、 異教徒の家 に生まれてキ リスト 教徒になり 、神を 愛し て修道院 に 入 札 聖職者になった 」 。 南 ドイツの都市ヴュ ルツブル ク Wurtzburgに滞在 中、後の聖人コルンバヌス Columbanus ( 5 4 3頃 6 1 5 ) がガル ス G a l l ( 5 -③ 参照 )を伴 って彼の もと を訪れたのを機に、そろっ てローマに 巡礼に行き、キリアンが教皇によりヴュルツブルク司教に任ぜ、られる 。 8 8 任地ではゴツベルト公 h e r t z o g e nG o s p e r t uと彼の領民をキリスト教に 改宗させている。だが公と義妹との結婚を神に背く行為として禁じた ため、義妹の策謀により、公の留守中に随伴者と共に斬首、埋葬され る。義妹としては結婚の障害を取り除いたつもりだったが、この策謀 に加担した者は悪霊に取り付かれ、キリアンに救いを求めて叫びなが ら走り回って死に、義妹も地獄に落ちる。その結果キリアンの埋葬場 所は分らぬままになってしまうが、ある時盲目の聖職者アハロングス A c h a l o n g u sがキリアンが不相応な場所に埋葬されていることを知り、 またこれを証すように天から声が聞こえたこともあって、キリアンの 名を呼ぶと、目が見えるようになった。その後アハロングスはマイン ツの司教ボニファツィウス B o n i f a c i oのもとを訪れ、キリアンの亡骸を 相応しい場所に移した。 挿絵は司教帽を被ったキリアンと二人の随伴者が斬首される場面。不 在のゴツベルト公に代って城代が立ち会う。公の義妹は、策謀の報い として、悪魔に連れ去られる。 参考 : L C Iv n3 0 9 f f ./LNH4 8 7 / / 1 0 ・③ ( 3 1 6 4 ) ゐ聖フェリキタスと七人の息子 ( 7月 1 0日) b面最終行に表題 V o ns a n tF e l i c i t a sm i ti r e ns i b e ns u n e nr 聖フェリキタ スと七人の息子たち」。 参考 : L C I V I 2 2 1任/LNH2 7 5f . 1 / v g l.:伝説 8 6章// │ドイツ語版 2 1 1 1 1 .f 'L e g e n d aa u r e a//黄金伝説』 ギュンター・ツァイナー(アウクスブルク) 1 4 7 1年 1 1・① ( 3 1 6 5 ) a テューリンゲンの聖女エリザベト ( 1 1月 1 9日) 冒頭に S a n tE I s p e t e nr 聖エルスペーテン」、零葉の内容から中部ドイツ、 テューリンゲン方伯ルートヴィヒの妃、エリザベトと思われる。 1 2 0 7 年ハンガリー王アンドレアス二世の娘として生まれ、 1 2 1 1年にドイツ 8 9 のワルトブ?ルクに移住。1 2 2 7年に夫が十字軍遠征先で死去した後はマー ルフ、、ルクに移り、聖フランシスコ修道会在俗第三会員 として、傷病者 2 3 1年死去。 こうした経歴から、本零葉では彼女が様々 の介護に 専念。 1 な病を癒した 事績が語られる 。両手足が 5年間も萎えたままの女性、 水腫症 w a s s e r s u c h tを病む修道女、繍痢に 8年苦 しんだ女性、狂気故に 監禁生活 を強いられた 男、失明したルドルフ R u d o l f f (エリザベト以外 に唯一挙 げられる人名) 等 々 、 聖女の名を呼び、あるいは彼女の 墓前 で祈って救われた数々の例が報告される 。 6 2挙 / L C IV I1 3 3 f f . I L N H2 4 2f . / / 参考 :伝説 1 1 1聞② ( 3 1 6 5 )圃aJb マリアの事' l 殿奉献 一 ( 3 1 6 5 ) a ( 1 1月 2 1日) ( 3 1 6 5 ) b a面 右 段 挿 絵 上 に 表 題 Hien a c hs a g te sv o ndeml e b e nv n s e rl i e b e n f r o w e nm a r i巴 a l ss yg e b o r e nward Iここから我らが聖母マリアの生涯に ついて、お 生 まれになった時のことが語られる 」 とあるが、「マリアの 祝 日 9月 8日)ではない 。挿絵下に装飾大文字 D[av n s e rl i e b e 誕生 J ( f r o wm a r i ag o t t e sm u t t e rs i b e ni a ra l twas' ・ ・1 I我らが聖母、神の母マリ ア様が七歳(W'黄金伝説』では 三歳)の時… J と、挿絵に沿ってマリア の奉献と神殿での生活を伝える 。「ダヴィデの一族出身の十二人の乙女」 のひとりとして神に仕えるため、マリアは母アンナに付き添われてエ 90 ルサレムの神殿の階段を上る。乙女たちの中で最も信仰心が篤く、他 の乙女たちに対し、どのように神に仕えるべきか、わが身が罪を犯さ ぬようにするには知何にすべきか等を教えたとする。また、聖母に帰 依した聖職者がキリストの五つの聖痕のことでマリアの苦しみを癒そ うと、日々祈り続けた。すると臨終の時に聖母が現れ、彼を天に導い た物語や、リトゥルヒ L i t t u r c hの町で 1 0 2 7年(1'黄金伝説 l d1 1 3章で geで 527年頃)の復活祭のミサの際に、キリスト教 はブソレージュ BfUg r i s t u mを拝領したために父によって暖炉に 徒の子供たちと一緒に聖体 c 投げ込まれたユダヤ人の子供が、聖母マリアに救われて、火傷ひとつ 負わず、に助かった奇跡謹も報告される。 L C II I I1 5 4 f f .( 19 7 1年刊) ILNH5 4 7 / / v g l.:伝説 1 1 3章 、 1 2 5章// 参考 : 1 2 ・① ( 3 1 6 6 ) b エペソスの眠っていた七人の聖人 ( 7月 27日、他) テオドシウス帝(在位 4 0 8 4 5 0 ) 治下の東ローマ、エペソスの町で、マル alchusと名乗る男が捕えられ、裁判官アンティパーター r i c h t e r クス M a n t i p a t e rと司教マクシムス b i s c h o fMaximusの前に連れて来られた。 r 3 2 7 (正しくは約 1 8 0 ) 年も前」の、皇帝デキウス K e y s e rd e c i u s( 在 4 9 2 5 1 ) 時代の年号が刻印された貨幣でパンを買おうとして不審に 位2 思われたのだ、った。双方のやり取りの中で事実が次第に明らかになる。 マルクスはデキウス帝による迫害を恐れて、ケレオン山 b e r gC e l e o nの 洞窟に身を隠した七人のキリスト教徒のひとりだ、ったのである。その 時町で買ったパンを分け合って食べたまま、七人は洞窟でこれほど永 く眠ってしまい、キリスト教が公認された今になって目を覚したのだ、っ た 。 この聖人伝の特徴を明確に残す最古の物語は、五世紀のシリアに遡る という。その後各地に伝わり、それに応じて七聖人の名も変化する。 5 3 8 / 5 3 9 西欧キリスト教圏ではフランスのトウール司教グレゴリウス ( 5 9 4 ) が残した伝承に従い、マクシミアン、マルクス、マルティニアン、 ディオニュス、ヨハネス、セラピオン、コンスタンティンである。 LCIV I I I3 4 4 f f . I L N H7 4 4 f . 1 / 参考・伝説 96章 I 9 1 12 ・② (3166) b / a 型 フェリ クス、型 フォルト ウナトゥス 、聖アレクシウス ( 31 66 )a ( 31 66 ) -b T f i末尾に表題 VonSantFel ixvndFor t u n a t ovndAlexi oo a面左段挿絵 bI 1 大文字 F [日 i xFor t u na t usvndA l e x i u sdi e. . . 1rフェ リクス、フォ 下に装部I ル トウナ トゥス、アレクシウスは共にキ リスト教徒として熱心に 神 に 本仕しー 」 。本零葉によって 三人の事績を辿ると、彼らは司教ク レメン is chof fCr emensおよび助祭の教えに従い 、天の永遠の歓びを得ょ スB ugd r i nの町ーに送り、多くの人々 うと努めた。司教は彼をルグドリン l を 改 宗 さ せ た の だ っ た 。 これを聞き 付 けた コル ネ リ ウ ス 公 Hercz og Cor nel i usは三人を捕えて投獄 し、飲食を一切させず、縛り付けたまま にした 。そ して 拷問と投獄を繰り返した後で公 は彼らを引きださせ、 「 お 前たちの救い主はいつ助けに来るのか。我が神々に生輩、を俸げよ、さも なくば処刑する」と申し渡した 。 だが彼らはこれを拒み、 「そのような ことをなされば悪霊があなたを地獄に連れていくでしょう」と答える。 コルネ リウス公は怒って 三人がキ リス ト教の神を否定するまで 叩 き続 けるなど、数々の拷聞を加えさせるにも拘らず、 三人はますます天の神 を讃えるので、公は終に彼らの首を釧ねさせた 。聖人の祝日は不明。 a面左段挿絵は 、 コルネリウス公が 三人を 処刑 させる場面。 la ttCXXV裏面に、アプ リア A p u l i a なお、シェ ーデル『世界年代記.Jl B の司教フェ リクス 、 フォル トウナ トゥス 、 セプトゥヌス Se p t u n us 、あ 92 るいはこれとは別に、アクィレイア A q l li Je i aのフェリクスとフォルトウ ナトゥスが拷問の末斬首 されたとの記事。 参考 : ! / v gl .:LNH2 7 8 / S c h e d e lCXXV// 1 2・③ ( 3 1 6 6 ) a 教皇 聖 レオ ( 4月 1 1日) 教 皇 レオ 一 世(在位 4 4 0 4 6 1)の 事 績。 右段挿絵卜ーに 表 題 Vond巴m l i e b e nh e r r e nS a n tL巴od巴m B a b s t I教皇聖レオ伝」 。 挿絵下に装飾大文 字 S[ A n tl eowase i ns a l i g e rc h r i s t e nmens ch・"jI塑レオは神に祝福さ れたキリスト教徒で …」。本零葉で語られる 事績は、復活祭のミサで 女性信徒から手に口付をされたレオが、その女性に 「 惑 い欲望 J em 巴n bりs e nI l l s tt Z l ld e rfrouwenを抱き、その手を切り落としたという逸話。 挿絵はもうひとつの逸話。452年にフン族の 王アッティラがイタリアに 侵出したが、レオの説得に応じて箪を撤退させる場面。馬上の教皇 レ オとその足下にひざまづくアッティラとその臣下。 参考伝説8 3章 ILCIV I I387仔. ILNH51Of.// 1 3・① ( 3 1 6 7 )ゐ/ a アレクサンドリアの遊女 型タ イシス ( 10月 8日) 理除 ( 3 1 6 7 ) b 『黄金伝説』に沿い 、タイシスの 事績が詳細!に語られる 。7 -② 参 照 の こと 。 ただし、タイシスを改心させる人物はここでは名は挙げられず、 9 3 d e rmunch '修道僧」とされるのみ。彼に代って修道院長アントニウス d eh e i l i g ea n t o n i u sと弟子パウルス p a u l sが幻視によって、タイシスに 神の許しが与えら れたことを知る 1 3・② ( 3 1 6 7 ) a 教皇 型マルクス O ( 1 0月 7日) ( 3 1 6 7 ) a a面左段挿絵上に 表題 Vons a n tMarcusdemb a p s t '教皇聖 マルクス伝」。 同挿絵下に装飾大文字 M[Arcusd e rb a p s ti s tvond e rs t a tz uromg e b o r e n …] , 教皇マルクスはローマの町で、生れ…」。第 3 4代教皇マルクス s a n t 8日から亡くなる 1 0月 7日ま Marcusd e rb a p s tの在位は 336年 1月 1 での 1年足らずであった。だが本零葉によると彼は、コンスタンティ o n s t a n t i nd e rK e y s e r (在位 3 0 6 3 3 7 ) の時代に s a szweyj a ru f f ン大帝 c d eb a p s t l i c h es t u lvna c h tmonatvnz e h e nt a g' 2年 8カ月と 1 0日間教 34 皇の座にあった」とする。因みにシェーデル『世界年代記』の西暦 3 年の項には、 2年 8カ月と 20日間教皇だったと記す。また聖人の祝日 は1 0月 7日とされるが、同名の 福音史家 (祝日は通常は 4月 2 5日だ が1 0月 8日とされることがある)と混同されて、祝日の前後する聖タ イシスの次に置かれたか。 挿絵は教皇の三重冠 と杖に身を固め、教皇座 に座るマルクス。 参考 :LNH5 4 2 / / v gl .: S c h e d e lCXXVIII裏// 9 4 1 3・③ ( 3 1 6 7 )a パリの型ディオニュシウス ( 10月 9R) a市i 右段挿絵 │ 二l こ表題 Vons an tdyon is i usl e be n' 聖ディオニュシ ウス伝 Jo 居住したアテネの地名アレオパギタ Areopagi t aを付して H予ばれること 旦l 心し、アテネの司教に 。後にはガリアに派 もある 。聖ノ fウロによ り│ 遣され、パ リで宣教。 ドミティアヌス帝(在位 8ト96) 治下 の迫害によ り拷問の後斬首されるが、押絵に描かれるように、斬り務とされた首 を抱えて 3マイル歩き、そこに出葬されたとされる 。 参考 :伝説 1 47章 I L C IV I61ff./LNH216// 1 4 .( 3 1 6 8 ) -a ! b 型 トマス・アクイナス ( 3月 7日あるいは 1) = . 128: ! D ・ ・ w 3午吋ー判官四 司 . 〆 d i t J4 J 4歌 手 -・" 創 ・-411" 耐宮M l 阿 ( 3 1 6 8 ) a a面上欄外に ( 31 68 )b CCXX 。即 ち第 220葉は両面をこの聖人の事績に充てる 。 a面冒頭、に表題 Vons a n tThoma svonAquino' 聖 卜マ ス・アクイナス伝」 。 挿絵は聖人の説教の場面。挿絵下に装飾大文字 S [AntThomasv at t e rd e r h i e sl a n d o l f u svndwase i nG r a u f fvndwasg e b o r e nvond巴m Kunigr e yc h S i c i l i e" ' ], 聖 トマスの父はランドルフスと 言 い、伯爵でシチリア王国 の」アクィノの町の生まれ、母テオドラ The od o r aは…と、両親ともに 高貴 な出で、あることから記述が始る 。母 が トマスを 身能った時に、 近 くに住む隠者 ボヌス Bonusが訪れ、 男児が生 まれるので卜マスと命名 するよう告げ、聖書の教えを説いて、将来トマスのや' l 盟さと 知識とは 95 この世にまたとないものになるはずであるから、修道院で修業させよ、 と予言する。後に母は幼い娘を嵐で、失ったことを機に、隠者の言葉に 2 5 ?・ 1 2 7 4 ) を神に捧げることにし、モンテ・カシー 従ってトマス(12 l o s t e r…b e ydemb e r gC a s s i n eでのトマスの修道生活が始ま ノ修道院 C る。トマスはここで、キリスト教の教義に基づく蟻を学ぶ高貴な家の 子弟と交わることを避け、ドナートゥス d o n a tの文法書を学ぶなど、勉 学に励み、常に敬度さをもって神に祈った。修道院長はこれを知って、 ランドルフス伯に、「神が御子息に大いなる奇跡をお示しになるであろ r a m a t i c a う」と説き、トマスをナポリに送り、文法と論理学、哲学 G h y l o s o p h y aを学ばせる。聖人の修行時代までが本零葉の undLoyca…P 内容である。 参考:LCIV I I I4 7 6 f f ./LNH7 9 4 f f . ! / 参考文献 [略語[参考文献] 伝説 ヤコブス・デ・ウォラギネ/前田敬作他訳『黄金伝説』全 4巻 7 9 1 9 8 7 人文書院/19 DieLegendaa u r e ad e sJ a c o b u sd eV o r a g i n e AusdemL a t e i n i s c h e nu b e r s e t z tvonR i c h a r dBenz G e r l i n g e n ( L a m b e r tS c h n e i d e rimB l e i c h e rV l g .) l1 9 9 7 LCI B e g r u n d e tv o nE .K i r s c h b a u m : L e x i k o nd e rc h r i s t l i c h e nI k o n o g r a p h i 巴 LNH O t t oWimmer/HartmannM e l z e r : L e x i k o nd e rNamenundH e i l i g e n Bd.5-8 F r e i b u r gi .B r .( H e r d e r ) / 19 7 3 1 9 7 6 I n n s b r u c k, W i e n ( T y r o l 1 a V e r l a g ) / 19 88 LThK L e x i k o nf u rT h e o l o g i eundK i r c h ei n1 0Banden S c h e d e l Hぽ 出l a n nS c h e d e l : W e l t c h r o n i k1 4 9 3 F r e i b u r gi .B r . ( H e r d e r )/ 1 9 5 7 1 9 6 5 ( 2 . A u f l . ) Kりl n, NewYork , London, T o k i o ( T a s c h e n ) / 2 0 0 1 ( N a c h d r u c k ) 96