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スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド
――ロマンティック・エコロジーを巡って
金 津 和 美
1.はじめに――スコットランドと環境文学
シエラ・ネヴァダ山脈の原生自然保護に生涯を捧げた環境保護運動の祖の
一人、ジョン・ミューア(John Muir 1838-1914)はスコットランドに生まれ
た。十一歳でアメリカのウィスコンシン州に入植し、その後もスコットラン
ド的なカルヴィニズムを厳格に守る家庭環境の中で、農場開拓に勤しむ日々
を送った。
『山の博物誌 (The Mountains of California)』や『はじめてのシエラ
の夏(My First Summer in the Sierra)
』といったミューアの著作はアメリカ環
境思想において枢要なウィルダネス(原生自然)という考えを理解する上で
欠かすことができない。ミューアの自然描写を掛替えのないものにしている
のは、科学的知見を重んじる観察者としての彼の精緻な視線とともに、自然
の神秘の啓示的瞬間を捉える鋭い直感と詩的表現を生み出す豊かな想像力で
ある。ヨセミテ山中を始めとするシエラの原生自然を旅する時、ミューアは
身を整えるわずかな日用品とともに、新約聖書とミルトンの『失楽園』、そ
してバーンズの詩集を携えていったという(Gairn 68)。ミューアがシエラの
自然に抱いた賛嘆や畏敬の念の原点を辿れば、彼の少年時代を育んだスコッ
トランドの風土に繋がると考えて間違いはない。
イギリス・ロマン派研究において環境への注目が高まったのは、ジョ
ナサン・ベイト(Jonathan Bate)の『ロマンティック・エコロジー (Romantic
Ecology) 』の出版によってであった。しかし、ベイトの研究の中心を占める
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のはウイリアム・ワーズワス (William Wordsworth) やジョン・ラスキン (John
Ruskin)といった湖水地方を舞台に活躍したイングランドの詩人・思想家た
ちであり、国境を接して北に広がる広大な自然に触れられることはほとんど
ない。そもそもイギリス・ロマン主義そのものがイングランドを中心とした
文芸運動で、イギリス・ロマン派六大詩人と言われる詩人たちの中で、生粋
にスコットランド人と言える人物はいない(かろうじてバイロンが数えられ
るが、彼が自身をスコットランド詩人と見なしていたかは疑わしい)。19世
紀初頭、エディンバラは文学都市として活況を呈し、ロンドンと並んでイギ
リス・ロマン主義の隆盛に一翼を担ったにも関わらず、スコットランドの文
学は常にイギリス文学の周縁に位置付けられた。スコットランド・ロマン主
義というものがあるとすれば、それはイギリス・ロマン主義と土壌を同じく
しながらも、しかし、また独自の文学史を辿ることによって見出されるもの
であろう。
そして、同じことがスコットランドの環境文学にもいえるかもしれない。
例えば、スコットランド詩人ケネス・ホワイト(Kenneth White)は、あらゆる
文化の原点として“Earth”を捉える思考の試みとして“geo-poetics”という
理念をベイトの“eco-poetics”に先駆けて提唱し(Dósa 274)、1989年にはthe
International Institute of Geopoeticsを設立している。自らを“a Celtic intellectual
nomad”(Dósa 267)と定義するホワイトは、イギリスのみならずアメリカの
ロマン派文学、20世紀ヨーロッパ思想・文学、アジアの禅思想にいたるま
で幅広く吸収しながらも、その根幹にスコットランド人としての原点を据え
ることを忘れない。「グローバルに考え、ローカルに行動する」という環境
運動の基本綱領の実践として、ホワイトの活動は興味深い実例を提供してく
れている。
本論では、現代のスコットランド環境文学におけるロマンティック・エコ
ロジーの受容の軌跡を追うことを目的として、その最前線で活躍する現代詩
人ジョン・バーンサイド(John Burnside, 1955-)に注目したい。スコットラン
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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ド東部ファイフ州のダンファームリンに生まれたバーンサイドは、ケンブ
リッジで文学を学び、ソフトウェア・エンジニアとしての職歴を経た後、再
びスコットランドに戻り、詩の執筆を始めた。Whitbread Poetry Awardを獲得
したThe Asylum Dance (2000) を始めとする数多くの詩集や小説を出版すると
ともに、
環境主義の立場から、
新聞・雑誌にも精力的に発言を行っている。バー
ンサイドの詩は、科学技術の進歩によってあらゆる境界――国境、自然と人
工、生物と非生物など――が曖昧になっていく21世紀において、この地球に
「住まう」(dwelling)ということが何を意味するのか、どのような限界と可能
性を秘めているのかを問うことを主題としている。スコットランド詩壇にお
いて“the New Generation Poets”の一人に数えられるバーンサイドが、いかに
ロマン派の環境思想を受容し、またそこに新たな表現を見出し、深化しよう
としていったのか。バーンサイドの環境詩の中に、ロマン派の環境思想の現
在を読み解いてみたい。
2. 現代環境思想における「自然」
スコットランドに拠点を据えるバーンサイドの環境詩の取り組みを理解す
るため、現代環境思想における彼の自然観の位置づけを確認しておこう。
現代思想が環境哲学に与えた影響を検証すると、四つの自然観に分類す
ることができる。例えばSteven Vogelは、ドイツ観念論から脱構築主義に
いたるまでの現代思想にみられる自然観を「起源としての自然 “Nature
(
as
Origin”)」
「自然の批判 “the
、
(
Critique of Nature”
)」
「差異としての自然 “Nature
、
(
as Difference”
)」
、
「自然と営み “Nature
(
and Practice”
)」と四つに大別して論じ
ている (Vogel 296-310)。まず、最初の二つ、「起源としての自然」はロマン
主義以降の伝統的自然観であり、また「自然の批判」は脱構築主義の視点か
ら伝統的自然観の読み直しを求めている。後者は前者を批判する立場から「起
源」あるいは「自然」といったものを言語的・社会的構築物に過ぎないと定
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義する。こういった脱構築主義的批判は、やがて「自然は存在しない」とい
う言説を導き、イギリス・ロマン派研究において、ロマン派の自然観を文化
研究の対象として考察するジェローム・マガン (Jerome J. McGann)やアラン・
リウ (Alan Liu) などの研究を生んだ。一方、ロマン主義に伝統的な自然観は、
自然を有機的統一体と考え、全ての秩序の「起源」と捉えるという点で、現
代の有力な環境思想の一つであるディープ・エコロジーの自然観と軌を一に
している。それゆえに、ベイトは『ロマンティック・エコロジー』において、
マガンやリウによる新歴史主義批評への反省に立ち、イギリス・ロマン派の
自然観の再評価を試み、その重要性を訴えた。
“I’m happy to call myself a green poet or an environmental poet or an ecological
poet, but not a nature poet”(Dósa 126)と述べ、バーンサイドはエコロジカルな
視点の重要性を強調する。しかし、自らを“a nature poet”と呼ぶことを許さ
ないように、バーンサイドが模索したのは必ずしもイギリス・ロマン派に見
られるような「起源としての自然」ではないことに注目すべきだろう。「起
源」としての自然観は、基本的に「自然」と「人間によって作られたもの」
を区別し、自然と文化の二元論を前提としている(Vogel 297)。バーンサイ
ドが違和感を覚えるのは、こういった人間を文化に属すものとして自然と区
別する考えだ “I
( have an argument with separating human beings from the natural
world, as if we were somehow not natural. Some people say that human beings are
not part of nature because they
‘have’
culture”
: Dósa 117)。バーンサイドは、伝統
的な自然詩(
“nature poems”
)が人間よりも動物や花や木々といった自然につい
て書かれたものであることを批判して、自らの詩は生態系や生息地に関わる
詩であり、地球における人間生活 “human
(
life on Earth”: Dósa 118)を主な関
心事としていると主張する。つまり、バーンサイドの詩は、人間の営みを自
然と文化の二元論から解放し、転変する地球環境の中に晒し出された存在と
して描き、人が自然の一部としてこの地上に「住まう」ことの意味を問い直
すことを目的としている。
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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「起源としての自然」、
「自然の批評」のいずれにもよらないバーンサイド
の自然観は、ディープ・エコロジーが提供する自然観の読み直しを求める21
世紀以降の環境批評の動向に繋がるものである。例えば、ティモシー・モー
トン (Timothy Morton) は脱構築主義的な「自然の批判」の姿勢を受け入れ、
“I claim that there is no such‘thing’as nature, if by nature we mean something that
is single, independent and lasting”(Ecology without Nature 19-20)と「起源として
の自然」の存在を疑問視する。しかし一方で、「自然」を社会的構築物とし
てのみ見なす新歴史主義批評とは一線を画し、むしろ「自然」を中心とし
て生み出された“deluded ideas and ideological fixation”(Ecology without Nature,
20)が存在すること、言い換えれば「自然」が“a focal point that compels us to
assume certain attitudes”(Ecology without Nature 20)として機能してきたことを
こそ、環境批評の立場から問い直す必要があると論じている。それゆえに、
モートンは“Ecology without Nature”という批評態度を提唱することで、我々
の外にあるのではなく、捉え難いが、しかし、我々の存在と分ち難く、共
に在るものとして「自然」を思考するよう呼びかけている “Nature
(
is already
us, in mixed, uncomfortable and sometimes even disgusting ways, not something‘out
there’
”: Clark 70)。
人間を文化に属するものとするが故に自然から区別することに批判を向け
ているという点で、モートンとバーンサイドは等しい。
「起源としての自然」、
「自然の批評」のいずれにも距離を置く彼等の批評的態度は、「差異としての
自然」(
“Nature as Difference”
: Vogel 301)という三つ目の自然観に通じるもの
と言えるだろう。いわばそれは、
“the name we might give to the otherness of the
world, to that which is always left out of any attempt to grasp the world as a whole
and bring it entirely into the light”(Vogel 301)として説明される自然観である。
自然の不可知性について言及するこの第三の立場は、ただ単に自然が人間の
知的理解や技術的支配の限界を超えることを警告するに止まるのではない。
むしろ人間的世界、あるいは人間存在そのものが、常に非人間的なる他者
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をその内に秘めているという認識に基づく自然観である(
“so every humanized
world we inhabit will always also already have something of the non-human within
it”
: Vogel 301)。
だとすれば、世界の他者性と言い換えられるこの三つ目の自然観が対象と
するのは、原生自然や田園自然といった特定の地域環境にのみ限定されるも
のではないことは明らかであろう。世界の他者性という問題は都会の生活
空間においても存在する。アシュトン・ニコルズ (Ashton Nichols) によれば、
自然と文化との乖離とともに、田園と都会との分離をもたらしたことにロマ
ン派の自然観の問題点がある。それゆえにニコルズはロマン派の環境思想の
問題点を乗り越える新たな視点として、都会文化と原生自然を同じものと見
なす“urbanature”という自然観を提唱している(xiv)。田園と都会の区別を越
えて、
「鳥が巣を作る(“roosting”
)」ように人が周囲の環境との関係性の中に「住
まう」というあり方について、ニコルズは“urbanatural roosting”という表現
を与えて、人間も人間以外の生命も、また生物や非生物も互いに依存し合い、
関わり合いながら、網目のように結びついているという共生の理念を実現す
る、新たな批評理論の模索と実践を試みている(xiii) 。
3.バーンサイドの自然観
――“the uncommonness of the commonplace”
現代環境批評において頻繁に論じられる「住まう」(dwelling)という言葉に
ついて、ベイトはギリシャ語のoikosに語源を見出し、同じギリシャ語のpolis
“the
(
city-state”
) と対置することで、理想とする自然環境をイギリス・ロマン
派が描く農村社会と結びつけた(The Song of the Earth 76)。一方、モートンや
ニコルズの“urbanatural”な自然観は、現代のより複雑化し、深刻化する環境
問題に対して、もはやロマン派の環境思想が万能な処方箋とはなり得ないの
ではないかという問題意識を出発点としている。バーンサイドもまた、ロマ
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ン派の環境思想を原点にしながら、モートンやニコルズと同じ問題意識を共
有しているといえよう。
“What matters now is the poetry of‘we’
: preserving the
environment and studying how we, human beings, should dwell on the Earth without
destroying it”(Dósa 117-18) と述べるように、彼の詩は、ただ単に自然の事物
を描くのでなく、この地球上に人として「住まう」ことの脆さと危うさを、
またその掛替えのなさと愛おしさを主題にしている。
「住まう」ことを主題とするバーンサイドの詩作品の一例として、ここで
1
は“Steinar Undir Steinahlithum”
を挙げたい。この詩は、消滅したアイスラ
ンドの農村集落の写真について、北極海の気候変動と生態系を研究する生
物学者R. M. M. Crawfordとの対話から生まれた詩である。“Nature offers no
home”というエピグラフが示すように、この詩は地球上に人が「住まう」
ことの可能性そのものを疑問視している。一千年程前にアイスランドに渡っ
た人々によって開かれたこの集落跡には、一時期、作物が実り、牧畜が芽生
え、人々が営んだ暮らしの跡が残されている。しかし、極寒での生活は過酷
を極め、不安定な天候や土壌の貧しさに阻まれて、人々は集落を捨てざるを
得なくなる。“Each day the evening was smaller”(l.1)と集落に残っている者の
数は日々少なくなっていき、集落を去った者たちも新たな居住地を見出す
まで、幾日も幾週も霧の中を彷徨うよう強いられる “they
(
trailed out through
the mist / to try their luck elsewhere”
: ll.7-8)。極寒の地に「住まう」ことを求め
た人々は“God’
s intent”(l. 13) を疑うことなく、
“another Eden”(l. 29) を夢見
て、自らの労苦が自然の恵みによって報われ、人と自然との調和が図られる
日が来ることを信じ続けた “They
(
should have guessed / how earnestly the land
conducts itself / and how it longs for stories to contain”: ll. 9-11)。しかし、こう
いった人々の思いに対して、
“Nature offers no home”というように、自然は
徹頭徹尾、無関心なままであり、止むことのない悪天候と人の無力という厳
しい現実をつきつけるばかりだ “surrender
(
to new mire, / a failure in the science
of belonging”: ll. 32-33)。最終的に詩は、この無関心な自然が、集落を捨てた
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人々がそこに積み上げてきた苦しくも愛おしい過去、また彼等が夢見た輝か
しい未来をも、茫漠とした時間という無のなかに葬り去ってしまうという絶
対的な他者であることを示して次のように結ばれる。
their loves and fears, their registries of blood,
abandoned to the depths, time without end,
with all they might have been, could they have stayed,
prosperous cities, scribbles in the mud,
unnumbered children, tarnish on a blade. (ll. 38-41)
“Steinar Undir Steinahlithum”において描かれる消滅したアイスランドの集
落跡に対するバーンサイドの共感は、単に考古学的興味にのみ基づくもの
ではない。さらに、この地上に「住まう」ことの儚さ、脆さに怯える瞬間
は、古代人だけのものではなく、詩人自身を取り巻く現在の居住空間のどこ
2
にでもありうることを、初期の散文詩“Suburbs”
は伝えている。郊外の住
宅地の家々 “the
(
houses of people we imagined were rich”
: 3)には、伊万里の鉢
やグランド・ピアノ、鏡や風景画など、端正な調度品が設えられ、完璧な平
静と整然さが保たれている。“the suburb always has an abstracted quality, like a
sentence learned by heart and repeated till the words are finally magical”(2) という
ように、この居住空間は一種の抽象性をまとい、予定調和を思わせる秩序だっ
た世界として存在している。しかし、夜になると、この均衡のとれた空間は
様相を一変させる。
At night the suburb alters. The day-long, low-level action beneath the surface
intensifies, like bad wood warping under veneer: the garden is stolen by foxes
rooting in turned dustbins, emptiness takes form and approaches from the
centre of the lawn, a white devil, smiling out of the dark, and the realization
dawns that I live in an invented place whose only purpose is avoidance, and
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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what I would avoid, I carry with me, always. (2)
ベニア板の下の生木がたわむように、夜の住宅地には無関心な自然が姿を現
す。庭には狐たちが徘徊してゴミ箱を漁り、人気のなさが形をまとって“a
white devil”となって跋扈する。夜の住宅地はここが“an invented place”に
他ならないことを露呈するのだ。昼間の均整のとれた住空間そのものが、夜
の不可解な空間性、つまり無関心な自然が立ち上がるのを避けるために作り
出された抽象的世界であり、人がこの地に「住まう」ということは、常にこ
ういった不可解なるものを遠ざけ、退け、かつその中に身を置くということ
であると、この詩は示している(
“what I would avoid, I carry with me, always”)。
慣 れ 親 し ん だ 日 常 の 非 日 常 性 を 露 に す る こ と。 バ ー ン サ イ ド 自 身 の
言葉によれば、
“the mystery in the commonplace—the uncommonness of the
commonplace”(Gairn 160)は、彼が初期作品からずっと追求してきた詩的主
題である。地球上の万物とともにあるものとして人間存在を捉えようとする
この視点は、ティモシー・モートンが“the strangeness of the stranger”と表現
する環境思想の視点と共通するものがある。
The ecological thought realizes that all beings are interconnected. This is the
mesh. The ecological thought realizes that the boundaries between, and the
identities of, beings are affected by this interconnection. This is the strange
stranger. The ecological thought finds itself next to other beings, neither me
nor not-me. These other beings exist, but they don’t really exist. They are
strange, all the way down. The more intimately we know them, the stranger
they become. The ecological thought is intimacy with the strangeness of the
stranger. (Ecological Thought, 94)
万物が相互に依存しつつ共生する環境主義の世界観にたてば、人間と動物、
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生物と非生物の境界は相互依存の関係性ゆえに限りなく曖昧に、複雑なも
のとなる。自己と異なる存在、即ち、自然は自分自身ではないが、自己の
存在と結びついている。“stranger”としての自然は、自己と切り離された
存在ではなく、むしろ自己と密接に関わるものであるが故に、その他者性
そのものが奇異 (strange) に感じられる存在なのだ。“the strangeness of the
stranger”というような自然の不可解さ、不気味さへの違和感を出発点とする
環境思想をモートンが“dark ecology”と名付けたように、
“the uncommonness
of the commonplace”を求めるバーンサイドにとって、夜の暗闇は人と自然が
出会う原点を開示する場として重要となる “Place
(
is not important; even if the
details are beguiling, the night is what matters”:“Suburbs,”6)。
夜の暗闇で見知らぬものとして出会う自然、そして、人間存在の不確かさ
3
を描いた作品として“Animals”
が挙げられる。この詩では、夜道を運転す
る詩人の車の前を動物たちが横切った時の驚きが表現されている “There
(
are
nights when we cannot name / the animals that flit across our headlights”
: ll. 1-2)。
兎か狐と思うものの、詩人はその動物の姿を捉えて特定することができない。
ただ“unnamable”(l.7)なものとして、その気配を感じるのみである。気配の
みで姿を捉えることができない動物の存在は、数ヶ月の間、家を不在にした
まま死んだ隣人の記憶に結びつけられていく。誰もいなくなったその家屋は
闇に包まれ、鼠のものと思われる糞が空っぽの部屋に散乱していた。人気の
ない家には野生が蔓延るだけでなく、そこに住んでいた人の気配さえも動物
と等しいものへと転化される。
In time, we came to think that house contained
a presence: we could see it from the yard
shifting from room to room in the autumn rain
and we thought it was watching us: a kindred shape
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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more animal than ghost.
….
though what I sense in this, and cannot tell
is not the continuity we understand
as self, but life, beyond the life we live
on purpose: one broad presence that proceeds
by craft and guesswork,
shadowing our love. (ll.21-38)
詩人は幽霊というより動物に近い形をした「存在(“a presence”)」が部屋から
部屋へ移動し、こちらをじっと見つめているように想像する。ロマン派の
自然観は、例えばS. T. コールリッジの“One Life”の思想に見られるように、
絶対的自我“Eternal
(
I am”
) を基点として自然への一体感を超越論的に求める
ものであった。しかし、ここではもはや野生と人間生活との境界は認められ
ることはなく、それゆえに人間の「自我 “self
(
”
)」も立ち上がる場を見出す
ことができない。ただ、人と自然を取り巻く「生命 “life”
(
)」があるのみだ。
人は「技術や知識 “craft
(
and guesswork”
)」によって「生命」を「住む “live”
(
)」
ことのできる場としようとする。しかし、
「生命」それ自体は、夜の車窓を
横切った動物たちと同様に感じることはできても、捉えることのできない
“what
(
I sense in this, and cannot tell”)ものなのだ。
4. バーンサイドと「歩くこと」――“a science of belonging”
「差異としての自然」という三つ目の自然観において、人知を超えた自然
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の不可解さ、捉え難さが強調される。しかし、自然はもはや対象ではなく、
自然の存在自体を語ることはできないとするこの立場は、究極的には自然に
ついて語りうることは「無」のみという帰結を生み、環境思想の可能性を
大きく制限しかねない問題性を孕んでいる(Vogel 303)。したがって、この
第三の自然観が提起する問題点を修正するものとして「自然と営み “Nature
(
and Practice”
: Vogel 304)」という新たな環境主義的姿勢が提案される。この
四つ目の自然観は、今、ここにある人間が住まう場所、私たち人間の営みの
跡が残る世界そのものに目を向け、自らの「営み」を通して世界の生成に関
わり、その世界の中に自らを見出すものとして人と自然との関係を捉えよう
とする立場である。
バーンサイドにとって重要なのは、自然の存在論ではなく、また自然に対
する不可知論に拘泥することでもなく、自然の捉え難さとどう向き合い、ど
う関わり、いかに「住まう」かという実践的な問題であったことはすでに述
べた通りである。それゆえにバーンサイドは今、ここにある世界とつながる
「営み」の一つとして、
「歩くこと “walking”
(
)」の意味深さを強調する。「歩
くこと」によって人は“the rhythm of the earth, the feel of a place, the presence
of other animals, the elements, sidereal time, the divine”“A
( Science of Belonging”
101) と呼応することができる。さらにまた、
“Dejection: An Ode”において、
「歩く」という行為を通じて失意からの回復を謳った コールリッジをはじめ
として、
「歩く」という営みの中に詩作の場を求めた詩人は数多いとバーン
サイドは指摘する。
“Wordsworth, Clare, Dante, Mandelstam, Whitman, Thoreau”
“A
(
Science of Belonging”100)など歩きながら詩作した詩人たちを数え上げ、
バーンサイドは「歩くこと」そのものに詩作の本質、
“a natural element in the
composition process”“A
( Science of Belonging”100)を見出している。
歩きながらの詩作の実例として、大地に立ち、世界に身を晒す詩人自身を
4
描いたバーンサイドの詩作品“History”を取り上げよう。“History”
と題さ
れているように、この作品は2001年9月11日に起こった同時多発テロという、
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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波乱に満ちた21世紀の幕開けを象徴する歴史的事件を主題としている。しか
し、同時多発テロを主題にしているとは言え、この詩にはテロリストも貿
易センタービルも登場しない。“St Andrews: West Sands; September 2001”と
添えられた副題が示すように、衝撃的な事件の動揺が治まらないなか “with
(
the news in my mind, and the muffled dread / of what may come”
: ll.13-14) 詩人
が幼い息子(Lucas)とともに地元の海岸に歩いて出かけ、凧を飛ばす光景が題
材となっている。
親子が凧を揚げて遊んでいるのと同じ頃、ルーカーズ(Lechars) の英国空軍
(RAF)基地では航空ショーが開催されていた。浜辺に漂うガソリンの異臭は、
貿易センタービルに激突したテロリストたちの破壊行為の連想を誘い、一
瞬にして崩れ去る平穏な日常の脆さを思い起こさせる。詩人は幼児とともに
砂浜に跪き、貝殻や小石など漂着したものを選り分けては“evidence of life”
(l.9) を探して楽しむ。しかし、そうやって戯れながらも、この世界を失って
しまうのではないかという目も眩む程の恐怖にとらわれる(
“Sometimes I am
dizzy with the fear / of losing everything”
: ll. 40-41)。詩人の視線は、
“the sea, the
sky, / all living creatures, forests, estuaries”(ll.41-42)といった自然の事物だけで
なく、公園の鯉、瓶詰めの魚卵や魚、市場で買ってきた金魚といった“the
quiet, local forms / of history”(ll. 49-50)にまで及んでいく。そして、そうする
ことで詩人は自らを襲った不安から、
“how to be alive / in all this gazed-upon
and cherished world / and do no harm”(ll.63-65)とこの「日々見つめられ、慈し
まれてきた世界」に破壊をもたらすことなく、いかに「住まう」かという環
境主義的な問いへと向かっていく。
ここでもう一度、この作品の題名である“History”の意味を振り返ってみ
て見る必要があるだろう。9.11という事件が世界の歴史的転換点となること
をこの作品が仄めかしていることは間違いない。しかし、それと同時にバー
ンサイドは、もう一つの歴史観、即ち、
「博物学(natural history)」という知の
あり方そのものの転換を促そうとしている。従来、博物学は人間以外の事物
40
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の生態を研究し、記述することに関心が払われてきた。しかし、環境主義の
立場において、科学者も詩人もともに“worthy participants in a natural history”
“A
( Science of Belonging”92)であると述べるように、バーンサイドは博物学の対
象として、人間の営みも含めるべきだと考える。バーンサイドの視線が、本
来博物学には含まれない公園の鯉や市場の金魚などの“the quiet, local forms /
of history”に向けられるのはそのためである。
アイスランドの集落跡を主題とした詩“Steinar Undir Steinahlithum”は
“History”とほぼ同時期に書かれた作品であり、興味深いのはその最終連と
共通するイメージがここでも繰り返されていることである。
At times I think what makes us who we are
is neither kinship nor our given states
but something lost between the world we own
and what we dream about behind the names (ll.23-26)
というように、
「今ある私たちを作り出すもの “what
(
makes us who we are”)」、
即ち、環境とは、私たちが手にした世界 “the
(
world we own”)と夢見る世界
“
( what we dream about behind the names”
)との間にあって姿が見えないものだ。
その間隙には、アイスランドの集落を消滅させたあの無関心な自然が、ただ
茫漠とした無の空間があるばかりである。その無の空間を人が「住まう」場
とするためには、人の「営み」が必要とされる。ここで「営み」という場合、
それは作用者と被作用者や主体と客体という二元論を前提とするものではな
く、こういった二元論に先んじてまず「営み」があり、それを通して世界や
主体といったものが立ち上がり、引き寄せられてくるという世界観を言う
(Vogel 304-305)。それゆえに“this gazed-upon and cherished world”(l.64)という
過去分詞が表現しているように、詩人が守るべき世界は「見つめ」「慈しむ」
という自らの行為によって初めて現れてくるものであり、またその行為の投
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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げかけがなければ容易に失われてしまうものなのだ。
自らの行為の投げかけとともに姿を現し、失われていく世界。このよ
うに二度と取り戻し得ないものを見守り続ける「営み」(
“attentive to the
irredeemable”
:l. 73) こそが、アイスランドの開拓者たちが試みた“ the
science of belonging”“Steinar
(
Undir Steinahlithum”l.33) であり、またバーンサ
イドにとっては歩くこと、凧を揚げること、そして詩作をすることであると
言えるだろう。
a toddler on a beach
sifting wood and dried weed from the sand
and puzzled by the pattern on a shell
his parents on the dune slacks with a kite
plugged into the sky
all nerve and line
patient; afraid, but still, through everything
attentive to the irredeemable. (ll. 66-73)
浜辺で遊びながら、貝の模様に驚く幼児の姿は、ともにこの地球に「住まう」
ものを発見した人の姿であり、その光景は人間を対象に含む「博物学」とい
う新たな知の象徴でもある。一方、詩人はその傍らで、砂浜に立って凧を
揚げる。
「全身を神経にして、一本の糸で繋がりながら “all
(
nerve and line”)」
という表現は、凧を挙げるという行為とともに、詩作という詩人の営みにも
通じる表現であろう。詩人は全身を神経にして地球と繋がり、新たな「博物
学」として語られるべき詩を紡ごうと努めている。その細やかな試みに直向
きに勤しむこと、それこそが自らの“a science of belonging”を追求すること
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金 津 和 美
であり、いつ壊れてもおかしくない脆く、儚い均衡を見守りながら「辛抱強
く、畏れつつ、ただじっと “patient;
(
afraid, but still”
)」、この地球に「住まう」
ための営みを続けることなのだ。
5.現代スコットランドにおけるロマンティック・エコロジー
バーンサイドはイギリス・ロマン主義の自然観が産出してしまう自然と文
化の二元論の克服を目指し、
「自然詩人」たることを意図的に拒否する立場
から、新たな環境詩の可能性を探った。その結果、バーンサイドの詩はロマ
ン主義的な超越論的自然観とは異なる、絶対的他者として立ち現れる自然の
相貌を捉え、それとともにその絶対的に無関心な自然に対して「住まう」と
いう人の営みの持つ意義と、
“a science of belonging”という環境主義的な知
のあり方を明らかにしようとした。
「歩くこと」を“the basic discipline of science of belonging”“A
(
Science of
Belonging”105)と見なす一方で、興味深いのは、バーンサイドがそこに政治
的意味を認めているということである。ネルソン・マンデラが国家反逆罪の
罪を解かれて27年ぶりに自由が許された時、刑務所の門までの道を車から
降りて、歩いて出た姿。天安門事件で戦車の前に歩み寄り、身一つで立ち
はだかる男の姿など、機械文明・技術文明が圧倒的な力を持つ現代社会に
おいて、歩くことは一つの抵抗を示す行為であり、また本質的に環境主義
的な行為であるとして、バーンサイドはその政治性に着目する “A
(
Science
of Belonging”98)。それはまた、自らの詩作をも政治的なものであると考え
るバーンサイドの姿勢にもつながっている “the
(
poetry that I’
ve been writing in
the last couple of books (also in the one I’
m working on) is political, but it’
s political
in a new, environmental sense”
: Dósa 123)。
政治性を強調するバーンサイドの詩学は、一見、
“eco-poetics”を政治的な
ものと切り離そうとするベイトの立場とは異なるように思われる。しかし、
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
43
ベイトの『ロマンティック・エコロジー』は、ソ連の崩壊、冷戦の終結後の
1991年に出版され、もはや右翼や左翼といった政治的イデオロギーが世界秩
序を語る有効な言説とはなりえない時代の到来を見据えて、「赤ではなく緑」
の世界観への転換を訴えることを目的としていた。さらにベイトは『地球の
歌 (The Song of the Earth)』において、
“eco-poetics”という自らの環境理念を
明らかにし、愛国心を世界的な“cosmopolitanism”に求めず、“localism”に
基点を据えたワーズワスに共鳴することによって、イギリス・ロマン派の
自然観を再評価しようと試みた。“I’
m not interested in Scottish nationalism. I
don’
t like nation. I’
d like to see no countries but region”(Dósa 125)と述べるとき、
バーンサイドもまたベイトと同じ“localism”に立脚した世界観を理想として
いることが確信される。それゆえにバーンサイドの詩が目指すのは、単にロ
マン派の自然観の否定ではなく、むしろロマン派の環境思想に21世紀の表現
を与えることであったと言えるだろう。
1999年にスコットランドは独立議会の復権を獲得したが、それはスコット
ランド国家主義の復興を意味するものでなく、もはや国家という概念そのも
のが重要でなくなったからこその帰結であると、スコットランド環境詩人の
一人キャサリン・ジェイミー (Katheleen Jamie) は述べている(Dósa 141)。9.11
の衝撃を越えて(そしてさらには3.11の悲劇の後で)これからの世界を思考
するとき、国や国家はもはや立脚点にはならない。バーンサイドの詩は地球
の今、ここに「住まう」ことの意味を問うことから始めるよう求めている。
そしてそれは日々の営みの中で「見つめられ、
慈しまれる世界」を守り育む“a
science of belonging”を試し続けることであり、
「辛抱強く、畏れつつ、ただじっ
と」全ての生命と呼応しつつ「地球の歌」を紡ぎ続けることなのである。
*本論は、科学研究費・基盤研究(B) 22320061「文学研究の持続可能性――
ロマン主義時代における『環境感受性』の動態と現代的意義」主催による
オープンセミナー「文学と環境――アメリカ、スコットランド、ロマン主
金 津 和 美
44
義」
(2013年9月22日 於 UNITY ユニバープラザ)
における発表原稿を加筆・
修正したものである。
注
1.“A Science of Belonging”108-109 より引用。訳文は拙訳による。
2. Common Knowledge 41-42より引用。訳文は拙訳による。
3. The Light Trap 18-19より引用。訳文は拙訳による。
4. The Light Trap 41-42より引用。訳文は拙訳による。
引用・参考文献
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スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
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ナンシー、ジャン=リュック 『フクシマの後で――破局・技術・民主主義』 渡名
喜庸哲 訳 東京:以文社, 2012年。
金 津 和 美
46
Synopsis
Romantic Ecology and Scottish Environmental
Literature: A Study of John Burnside
Kazumi Kanatsu
John Burnside (1955-) is a contemporary poet in Scotland. He was
selected for “the New Generation Poets” in 1994 and has won many literary
awards, including the Whitbread Poetry Award for The Asylum Dance
(2000). Burnside’s poetry is distinguished by its ecological theme, inquiring
into and illuminating the ways in which human beings “dwell” on Earth
without destroying its environment. Indeed, Burnside is particularly
interested in writing poems based on his personal and local experience of
living in Scotland. The examination of Burnside’s poetical works in this
paper illustrates a trajectory of Scottish environmental literature, which has
developed by uniquely adopting the idea of the Romantic Ecology into the
local history of Scotland.
Burnside has a doubt about the teleological idea of Nature, exemplified
by Deep Ecology, which sees Nature as an organic whole to be the origin of
the world. At the same time, Burnside does not agree with a deconstructive
critique of Nature, which reads in the idea of Nature an ideology, or
something socially and culturally constructed. What Burnside rejects in his
ecological poems is the way of thinking based on the binary opposition
between Nature and Culture. Burnside suggests seeing Nature not as
something outside ourselves, but as something closely related to our own
existence, though different from ourselves. Consequently, he refuses to be
スコットランド環境文学とジョン・バーンサイド――ロマンティック・エコロジーを巡って
47
called “a nature poet,” who writes about the natural world. Burnside’s
ecological poems attempt to reveal Nature as difference, or as the otherness
of the world: in his own words, “the mystery in the commonplace—the
uncommonness of the commonplace.”
An outstanding example of Burnside’s poems describing “the
uncommonness of the commonplace” is “Steinar Undir Steinahlithum.” The
poem is derived from a conversation with the biologist, R. M. M. Crawford,
on the picture of a village which was deserted about one thousand years ago
in Iceland. Nature in this poem is presented as utter nothingness. As the
epilogue of the poems shows, “Nature offers no home.” Nature is completely
indifferent to people’s struggle and fortitude to settle down in the severe
climate of the North Atlantic. Furthermore, an examination of two other
poems, “Suburbs” and “Animals,” also shows that Nature as the indifferent
other appears in our urban life. Burnside describes urbanity somehow as a
result of our daily attempt to avoid the otherness of the world.
More importantly, Burnside’s poems are concerned with human practice
to dwell on Earth, or what he calls “a science of belonging.” For instance,
“History” is a poem describing the poet’s walking to the local shore at St
Andrews with his son, Lucas, on a particular day just after the devastating
event on 9.11. The poem suggests an ecological view of the world that a
local history of human life can be a significant part of the Natural History.
Therefore, while dominated by the fear that he might lose everything, the
poet chooses to continue his poetic practice: walking to the shore to fly a
kite with his son and writing a poem about his local life. By so doing, the
poet follows and renews the practice of Romantic poets who composed
poems while walking in the natural world, such as Coleridge, Wordsworth,
Clare, and so on.
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