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うきたむ第32号 1336KB - 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館

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うきたむ第32号 1336KB - 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館
山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館館報
TEL 0238-52-2585
FAX 0238-52-4665
吐]裸 東置i男 郡高畠町大学安久津 2117
安久津 二号墳 の調査
館長 佐 藤 鎮 雄
考古 資 料 館
平成 二 〇年 度 第 十 六 回 企 画 展 ﹃
出 羽 国 が でき る
こ ろ 一が 大 変 な好 評 を いた だき 盛 況 のう ち に開 展
しま し た 。 他 館 の特 別 展 に匹敵 す る大 が か り な 展
示を す る に当 た って大 変 苦 労 し た のは 、考 古 資 料
の年 代 的 位 置 づ け です 。 資 料 が少 な い上 に多 く が
科 学 的 な 発 掘 調査 資 料 でな いた め 、資 料 の編 年 研
究 が 遅 れ て いた た め です 。
そ のよう な 中 で大 き な 役 割 を 果 た し た のが 、高
畠 町安 久 津 二号 墳 の資 料 です 。 発 掘 調査 が し っか
り し ており 、 十 器資 料 のセ ットと 層位 的 違 いを 見
逃 さ な か った か ら です 。 そ し て、発 掘 調査 報 告 書
が 頁数 が少 な いな が らも 、 有 効 な 比較 資 料 を 探 し
出 し 対 比 考 察 を 行 う など 人 事 な 点 を き ち んと ふま
え て いた か ら です 。 言う は 易 く 行 い難 いこと です 。
でも 、 そう あ り た いも の です 。
近年 、 埋 蔵 文 化 財 の発 掘 調 査 を 担 当 す る職 員 を
育 成 す る た め 、 大 学 で学 ぶ学 生 に資 格 を 与 え る資
格 制 にし よう と す る動 き が 活 発 です 。危 惧 し て い
る こと は 、資 格 制 により 充 実 し た 発掘 調 査 にな る
か と いう こと です 。 たと え 調 査 であ っても 発 掘 自
体 は貴重 な文化 財 ︵
造 跡 ︶ の破 壊 であ り 、 そ の意
義 を ふま え た 真 剣 な気 持 と そ れ に応 じ た 力 量 が 必
要 だ か ら です 。 そ し て発 掘 調 査 の質 は 学 問的 水 準
の最 前 線 を 行 く 気 概 が 必 要 な の です 。 学 歴 や資 格
も 大事 では あ る が 、 そ れ 以 上 に必 要 な も のが あ る
こと を 忘 れ ては な り ま せ ん。 そ れ を 有 し て いた 担
当 者 が発 掘 調 査 し た か ら こそ 、 今 回 のよう な 場 面
で大 き な 役 割 を 果 た
し た のです 。 緊 急 発掘 調 査 であ っても 担 当 者 は科
学 者 でな け れ ば な い な いの です 。
第 一六 回企 画 展
出 羽 国が でき る ころ
︵
平成 二0年 一0月 一日∼ 一一月 二0日︶
第 一六 回 企 画 展 は 、 ﹁
出羽
国 が でき る こ ろ﹂ を テー マに、 出 羽 国 は い つか ら
北 進 し て いき ま した 。 出 羽 国
製 の馬 具 な ど 多 様 な資 料 が 展
■具 の鉄 釘 と い った 鉄 製 品 、
ギ ャラ リ ー ト ー ク
し た。
示 さ れ 、多 く の方 を 魅 了 し ま
お 瑠 や水 品 で でき た勾 王 や切
子 工 な ど の石製 品 、他 にも 木
の二 つの郡 、 置 場 部 最 上 郡
、
︱
︱
六四
︱羽部 は 大 化 の改 新 ︵
五︶ 以 後 、 七 世紀 の後 半 に柵
が 置 か れ て最前 線 防 備 を 日 め
な が﹄ 開拓 さ れ て いき ま し た。
重 要な考古資料
毎 年 好 評 のギ ャラリ ー ト ー
要 な 古 文 献 ﹃日 本 書 紀 ﹂ や
﹃
続 日本 紀 ﹂ は、 出 羽 国 が ど
出 羽 国 の建 国を ひも と く 重
︲
﹃
続 日本 紀 ﹄によ ると ︱
︱羽 回
が 建 国 さ れ た のは 和 銅 五 年
のよう な様 子 だ った のか詳 し
比較 的 考 古 資 料 の多 い置 場 地
域 を 中 心 に、県 内 の考 古 資 料
を 展 示 し ま し た。 文 献 資 料 も
︵
七 一二︶ の こと です 。 そ れ
>貴 重 な資 料
り 理 解 が 深 ま った よう に思 い
き ま した 。 展 示 で難 し いと こ
ク、 今 年 は期 間 中 三回 行 わ れ
人 勢 の皆 様 に参 加 し て いた だ
考 古 資 料 も 乏 しく 謎 の時 期 、
ろを わ か り やす く 解 説 し 、 よ
並ぶ
く は書 か れ て いま せ んが 、 こ
,
ま で陸奥 国 だ った 置 賜 郡 と 最
と 言 わ れ て いる 七 世紀 後 半 か
上 部を 、 和 銅 元年 ︵
t 〇 八︶
ト ギ ャラ リ ー ト ー ク
'きt
﹄ 八 世紀 前 半 にか け て のやま
ま した。
一堂に集う考古資料
比 較 的 考 古 資 料 の多 い置 賜
ま り ま し た。 県 内 では これま
で こ の時 期 を 扱 つた 展 示 は ほ
■
に でき た 出 羽 部 に組 み入 れ て
と 秋 田県 域 を 国 域 と し て いま
り ま す 。 そ こ で文 献 資 料 か ら
は わ か らな い歴史 を 明 ら か に
す る の に重 要 と な る のが考 占
と んど な く 、 これ ほど多 く の
地域 を 中 心 に県内 の資 料 が集
出羽国の設置
資 料 です .
こ の時 期 の考 古 資 料 は 、 発
︱羽国と な る前 の出 羽郡 は、 見 さ れ て いる遣 跡 や出 十資 料
︱
︱
日本海沿岸を管 轄す る越 ︵
こ が少 な いた め 、他 の時 代 に比
貴 重 な資 料 が そ ろう のは 今 回
集 落 や古 墳 窯 跡 か ら 出 十
し た赤 褐 色 の十 師 器 や、 灰 色
が初 め て です 。
でも 多 いも の です 。 ま た 、 そ
を し た 須恵 器 な ど の上 器 や、
し︶ 国 の北部 、最前線 に置 か
れた部 です。 そ のころ倭 王権
︵
ヤ マト政権 ︶は越国北部を
開拓す るた め、淳 足柵 ︵
ぬた
れ ら が 一生 に集 ま る こと によ
族 手 刀 太 刀 な ど の鉄 刀 、農
︵
り 、 さ ら に多 く の情 報 を 読 み
た 。 し か し こ の限 ら れ た資 料
か ら でも 読 み取 れ る情 報 は と
べ研 究 が 進 ん で いま せ ん でし
,.
,
台 は七 世紀 半 ば か ら 八世紀 半
ば ま で の約 百年 間 が 課 題と な
れ に よ ると 企 画 展 の テ ー マ
﹁
出 羽 国 が でき る こ ろ﹂ の舞 取 る こと が でき ま し た。
感 暉
占
り のさく︶ や磐舟 柵 ︵いわ ふ
︱を 設置 し て
ね のさく など︱
︱
,
J・ .
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■.
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出 羽 国と し 、 現 在 の山 形 県域
︺
い
つ
一
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]
ヽ
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一
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一
“
ヽ そ ′■
力 た に スポ ツトを 当 て て いま
す。
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‐
■
レ企 画 展 示 の様 子
_
│
]'1,ill
,'i:ヽ
ヽ
穀 者 の角 屋耕 吉 さ ん より 寄 贈
さ れま し た 。
とら の
こ の栗 は ﹁
虎 の尾 ︵
て いま す。 テ ー マ展 で は、
上 品 に輝 く 上質 の栗 です 。 二
ループ﹂ が 、九 月 二 二 日 ヽ 二
九 日 に ベネ チ ア ミヽラ ノ フィ
と 有 志 で作 る旅 行 会 ﹁
川崎 グ
生 を 中 心 に考 古 の会 メ ンバ ー
当 館 名 誉 館 長 の川崎 利 夫 先
昌
議
︵
呼
勝
∞
語
一
韓
摯
義
報
正
”
一
て み て下 さ い。
﹁
竹栗 ︵
た けあ わ こ と 比較 し
各地
﹁
古墳 時代 のく らし﹂、 ﹁
に広が る須恵 器生産L 中世 の
ひとびとと信 仰﹂ の三部構成
で、県内 から出土した考古資
腱暉
料を パネ ルや模型とあわ せ て
暦は上中 下三段 に分か れ、
上段 は 日付 干支 納音
︵
な っち んγ 十 二直 、中 段
メー ト ル余 り にも 成 長 し た茎
と 穂 も 展 示 し てお り ま す。
古 お こ と いう 品種 で、そ の名 の
約半年 ぶり に テー マ展 ﹁
、
代 中世 の考古資 料﹂を行 っ と お り 虎 の尻 尾 のよう に長 く
,
9載機慮驚
久々
考士資料館
注目 のミ ニ晨示各種
軍賊
手一馨訴顧
﹂
∞
れ て います。 これら の組合 せ
展示 し て いま す。
四月 五月 に米沢市教育委 員
会とま んぎ り会 のご協力 によ
か ふく︶
により吉 兆 禍福 ︵
を 見 いだ し、 こ の 日 は 沐 浴
︵
もく よく ︶を す る、 しな い、
と い つたよう に行動 に結び つ
け て いま した。
展示し てあ る漆紙文書 は米
沢市 北部 にあ る大浦 B遺 跡か
具注 暦は、奈良 平安時代
元した巻 物も あわ せ て展示 し
こ の年 の具注暦を 一年 分復
。● 〓 〓 〓 ■ 〓 〓 〓 〓 肇 肇 “
平成 二〇年度 の新嘗 祭 に山
形県か ら献上 された粟 が、献
′〓 〓
コる 目 摯
姜一
麟
●テー マ展示の様子
に 納 め た 素 晴 ら し い写 真 の
数 々を 是 非 ご覧 下さ い。
>写真 展示 の様子
車イ スが寄贈
さ れま し た
日本 博 物 館 協 会 が 行 う
の芸 術 家 や、 水 の都 ベネ チ ア
で名 高 いフ ィ レ ン ツ エの路 上
ルネ ッサ ン ス の中 心 地 と し
内 見 学 際 、 ご 利 用を 希 望
スが 寄 贈 さ れま し た。 館
助 成 によ り 、 当 館 に車 イ
環 と し て、 宝 く じ協 会 の
博 物 館 利 用推 進事 業 の 一
の大 運 河 、 そ し て悲 劇 の都 市
の方 は受 付 ま でお 気 軽 に
お申 し つけ 下さ い。
各 地 の様 子を 美 し く フレ ー ム
ポ ン ペイ と そ の悲 劇 を も た ら
し た ヴ ェスヴ ィオ 火 山 な ど 、
おります。
レ ン ツ ェ ロー マ ナポ リ の
各 地 を 巡 り ま した 。 こ の ﹁
イ
の律令 政府 ︵
朝廷︶ が用 いた
て います。他 にも大浦 B遺 跡
ら発見さ れたも ので、 これ に
八 〇四︶十
は、延暦 二三年 ︵
暦 で、易 によ って日に意 味づ
から出土 した資料 を多 数展 示
タ リ ア世 界遣 産 の旅 ﹂ の参 加
者 が撮 影 した 写真 展 を 行 って
けを行 い、吉 凶 や禍福 などを
し て います。
二月十 八 日から 二八 日 の部 分
が書 かれ て いま した。
示 したも のです 。中央 や地方
︵
閉展 日に ついては資料館ま
でお問 い合 わ せ下さ い。︶
利なも のでした。
の役所 で行事 や仕事 を行う 上
で使わ れた、役人 にと って便
で見逃 したと いう 方も 、ぜ ひ
こ の機会 に足を お運び くだ さ
い。
す が、展 示期間 が短 か った の
前 回大変好 評だ った展示 で
示 し て います 。
具注暦﹂ を要望 に応え 再び展
り 展示を 行 って いた ミ ニ企画
展 ﹁
平安 時代 のカレ ンダ ー
は 二十 四節気 と七十 二候 、 下
注意事 項︶が書か
段 は暦注 ︵
ヽ
近 世 米 沢 の原
拡 張 が行わ れ
さ れ、城 下 の
り水 害 が軽 減
こ の堤 防 に よ
け替 え 工事 の際 、 堤 防 の 一部
ま れ て いま す 。 近 年 、橋 の架
と し て整 備 さ れ 、市 民 に親 し
河 川敷 公 園 ﹁
直 江 石 堤 公 回﹂
市 指 定 の史 跡 と なり 、 現在 は
を 取 り 除 いたと こ ろ、核 と な
を 超 え る よう な 、 いく つも の
巨 石 が 出 てき ま し た 。 工作 機
る部 分 か ら直 径 が 一メ ート ル
穆 昭和六一
年
“ に、残存する
械 の無 い時 代 に巨 大 な 石 を い
鋤
執
型
い
い
れ
峙
。
長 さ 一 二 キ
く つも 運 び 築 いた 堤 防 に、兼
の堤防 です 。
慶 長 六年 ︵一六 〇 一︶ 上 杉
ロメート ル
二 〇 〇九 年 N H K
大 河 ド ラ マの主 人公、
景 勝 の米 沢移 封 直 後 に、 城 下
続 の熱意 と 工事 に従 事 し た 先
直江兼続 にちな んだ史 跡を ご
︵
御 入水 堰 か
ら 海 老 が 沢橋
兼 続 は 城 下を 拡 張 す
城 下 に入 り き ら な
移 り 住 みま した が 、
勢 の家 臣 団 が 城 下 に
と い い、 堤防 の長さはも っと
崩山 に合り 、地形 や松 川 の流
れを み て堤防 の位 置を決 めた
と ﹁
蛇 土手﹂ が作 ら れま した。
こ の工事 では兼続 みず から赤
を防ぐ ため に﹁
谷 地河 原川徐﹂
し て いるため、
一度氾濫す る
と洪水 が起き 城 下に被害を 及
ぼす状態 にありま した。 それ
有名 で、上杉 景勝が最上義
つ です 。長 谷 堂 城 の戦 い
●長谷堂城跡 ●中 世山城跡
人 の苦 労 が し のば れま す 。
続 によ って治 水 事 業 が行 わ れ 、
下流 ま で︶ が
江 石 堤と も 呼 ば れ て いま す 。
関 ヶ原 の戦 いで豊
巨 方 に加 担 し た 上杉
ると 共 に こ の藩 士 ら
も 決壊 し やす い赤 崩か ら石垣
氏 は 、領 地 を 大 幅 に
を 開 拓 にあ た ら せ 、
削 ら れ会津 から米 沢
治 水 に力 を 入 れま し
町東裏 にかけ て約 ニキ ロメー
ト ルにわ たりま した。 そ の後 、
大 雨 により破損 し ては幾度 か
か った 藩 士 は 郊 外 へ
と配 置 されま した。
た。
見られます。
策 道 や駐車場 の整備 が進 め
られ、散 策を楽 しむ人 々が
光 を侵攻 した合 戦 です。現
在 は公園と な っており、散
︵
出羽合 戦︶ の舞台 と し て
長谷堂 城は山形 に拠点を
置く最上 氏 の重 要な城 の 一
紹介 します 。
置賜 から少 し離れ て、山
形市 にあ る長谷 堂城跡をご
現在 堤防 が築 かれ
の修復、改修 が行 われま した。
に本 城 を 移 さ れ 、大
て いる こ の辺 り は古
直江兼続関連史跡
そ の時 整 備 さ れ た こと か ら直
の町作 り のた め執 政 の直 江兼
くから谷地 河原と いわ れ、川
底が浅 いうえ 地盤 が西 に傾斜
紹介 します 。
谷 地 河 原 堤 防 は、最 上 川
︵
松 川︶ の上流、 現在 の米 沢
市大字赤 崩 に築 かれた石積 み
>直 江 石堤
︵
Fly UP