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日本語指示詞の使用を中心に

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日本語指示詞の使用を中心に
『三言語併用環境における日本語の発達に関する研究』2004 年
平成 14∼15 年度科研(萌芽研究 課題番号 14658077)研究成果報告書
あるトライリンガルの言語使用についての調査
−日本語指示詞の使用を中心に−
単
要
娜
旨
本調査は、ある日本人トライリンガル(英語、スペイン語、日本語)の 2 種類の発話データを用い、その指示
詞の使用を中心に調べた。まず、被調査者の 3 言語によるモノローグ的な発話において日本語指示詞の使用を
調べた。その結果、照応用法のソ系の適切な使用が確認され、談話の展開に結束性が保たれた面において、日
本語母語話者と同様の使用傾向が見られた。次に、被調査者の日本語による自然発話における指示詞コソアの
使用を調べた。その結果、ソ系の使用がコ系、ア系より圧倒的に多いことが確認され、日本語学習者によく観
察される誤用は見られなかった。一方、ア系の使用は少なく、相手(聞き手)と共感できる情報が乏しいこと
が見られた。全体的に、被調査者の会話能力における指示詞コソアの使用は、日本語学習者より、日本語母語
話者のものに近いことが示唆された。
【キーワード】指示詞コソア、モノローグ、自然発話、結束性、照応
1.
はじめに
今日の日本語は、第 2 言語としてではなく、第 3 言語もしくはそれ以上のものとして習
得される場合のほうが多い。そこで多言語習得・マルチリンガリズム環境での日本語教育
のあり方についての検討が必要になってくる(長友 2003)。
マルチリンガリズム環境での日本語教育を検討するのに、一つ重要な手がかりとなるの
が、多言語環境で日本語を習得している話者の言語使用の実態を究明することであろう。
それは、日本国内における多言語環境に限らず、海外の多言語環境における日本語習得に
ついての調査も必要だと考えられる。
本調査は、海外での多言語環境における日本語習得 1 がどこまで可能なのかを調べるこ
とを主な目的とする。多言語環境で言語を同時に習得したトライリンガル 2 の日本語習得
の実態を明らかにするための一つの試みである。
その試みとして、第二言語(外国語)として日本語を習得する学習者の言語使用に誤用
が多く、習得が難しいと指摘されている指示詞コソアについて調べることにする。
1
研究者によって、「習得」、「学習」、「獲得」を使い分けていることもあるが、本論においては、「習得」、「学
習」、「獲得」の区別をせず、「習得」という用語に統一する。
2
本研究でいう「トライリンガル」は、3 言語をほぼ同時に習得するもののことを意味する。各言語の言語能力
は均等であるとは限らない。
87
『三言語併用環境における日本語の発達に関する研究』2004 年
平成 14∼15 年度科研(萌芽研究 課題番号 14658077)研究成果報告書
2.
先行研究
指示詞は殆どの言語に存在している。吉田(1980)は、世界の 479 種の言語の指示詞を
分類し、類型的にまとめた。それによると、大きく分けた場合、遠近対立の 2 分型指示体
系を成す言語が世界中に一番広く見られており、例えば英語などが挙げられる。その次に
多く見られるのは、日本語やスペイン語のような、指示詞に 3 つの基本パターンがある 3
分型指示体系を成す言語である、ということが分かった。
指示詞は、「一旦学習されるとかなり根強くその人の中に定着」(吉田 1980:836)され
る言語項目である。例えば、ある人がまず英語を習得した場合、その人の中には英語の指
示体系における認識の仕方が形成されることになる。すると次に日本語を習得しようとす
る際に、英語の指示体系に基づいた認識の仕方にとらわれてしまうことがあると考えられ
る。2 分型指示体系を母語として持つものは、日本語のような 3 分型指示体系の言語を習
得する際に、困難であろうということは森田(1982)などでも指摘されている。
日本語指示詞コソアは、学習者の初期段階から導入されているにもかかわらず、上級レ
ベルの学習者の言語使用においても誤用が多く見られ、日本語学習者にとって習得が難し
い言語項目のひとつであることが指示詞の習得における先行研究によって指摘されている
(迫田 1993 など)。指示詞コソアの中で特に難しいと指摘されているのは、ソ系とア系
の使い分けであり、ソ系を使うべきところにア系を使ってしまうという誤用が挙げられる。
例えば次のような誤用例が見られる。
例 1 きのう学校から帰る途中、外国人に道を聞かれました。あの(正解はそ
の)人は日本ははじめてなのに日本語がとてもじょうずでした。
(新村 1992:50,下線及び誤用提示は筆者)
聞き手が指示対象をよく知っていないだろうと想定された場合は、日本語では指示対象
をソ系で指すことが一般的である(久野 1973)が、例1の場合は、聞き手に分からない
「外国人」のことをもう一度照応するときにア系が用いられている。このような誤用は、
日本語学習者の母語が 2 分型指示体系なのか 3 分型指示体系なのかといった違いにかかわ
らず、指示詞コソアの習得過程に共通して見られている。しかし、今までの指示詞の習得
研究では、被調査者の殆どが大人になってから日本語を習得した学習者である。つまり、
指示詞の使い分けにおいては、既に一種の認識概念が形成されてから日本語指示詞コソア
の習得をしている学習者である。それでは、日本語が多言語環境において他言語と同時に
習得される場合、指示詞コソアの使い分けはどのようになるのであろうか。例 1 のような
学習者に共通する誤用が見られるのか。多言語を同時に習得する者を対象にした指示詞の
習得に関する研究は、管見の限りまだ殆どなされていない。
談話レベルで指示詞の働きを考える場合、指示詞は談話の結束性を保つ重要な手段であ
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『三言語併用環境における日本語の発達に関する研究』2004 年
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り(佐々木 1997)、文連続に意味的まとまりを与える中で最も重要なものの一つである
(庵 1997)
。まとまった長さの独話をするには、文章に結束性を持たせることが必要であ
り、指示詞の役割は重要である。日本語の場合、談話展開で日本語話者が使う主な指示詞
はソ系であり、モノローグ的な発話作業においては、「照応有」1という文脈指示用法が主
となることが渡邉(1996)によって明らかにされている。渡邉(1996)では、モノローグ
的な発話において、学習者の談話展開スタイルが日本語母語話者と異なることが観察され、
その現れの一つとして、指示詞コソアの使用に問題点があることが指摘されている。その
問題点としては、指示詞ア系の誤用(例 2)、照応無のソ系の誤用(例 3)が挙げられてい
る。
例 2 あるのおくさんはしゅじんににわをきれいにするようにいってました
でも
しゅじんはあのようなはたらきがきらいで…(渡邉 1996:77)
例 3 いぬはきで…とりはそのえさをほしい (渡邉 1996:76)
例 2 は、照応有のソ系を使うべきものにア系を用いた誤用である。例 3 は、ソ系を用い
たが、「えさ」という言葉は初めて出たので、照応無のソ系の誤用である。
しかし、多言語環境で日本語を習得した場合は、モノローグにおける発話が、日本語母
語話者と日本語学習者に比べるとどのような類似点もしくは相違点があるのか、まだ研究
がなされていない。
以上のような点を踏まえ、本研究はひとつの試みとして、ある日本人トライリンガル
(英語、スペイン語、日本語)の発話に見られる指示詞コソアの使用に注目し、次の 2 点
を中心に調べることにする。
1) モノローグ発話において、日本語指示詞コソアがどのように使用されているのか。
2) 日本語による自然会話において、指示詞コソアがどのように使用されているのか。
内容
3.
3.1.
調査対象
被調査者は 20 代半ばの日本人女性(以下「クニコ」
)である。メキシコで出生した後、
現地スペイン語環境の中で幼稚園から高校まで英語使用の学校教育を受けた。その間、家
庭内、日本語学童通信教育、2 年に 1 度一ヶ月の日本の小学校への体験入学を通して日本
語を習得した2。成人後に日本での就職も経験した。メキシコで出生した 2 歳年上の兄が
1
渡邉(1996)は、モノローグ発話における指示詞コソアの使用は、「照応有」(既に出てきている言葉を指し
示す指示詞)と「照応無」(初めて出てきた言葉につく指示詞)に分けて分析をした。
2
被調査者クニコの日本語保持の詳細については、杉浦・単の報告書を参照されたい。
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1 人ある。父親は日本で出生し、中学校時代から家族と共にメキシコに移り住み、中学校、
高等学校、大学教育をスペイン語で受けた。母親は日本で出生し、結婚までに留学等の海
外経験はなく、結婚を機にメキシコに移り住んだ。母親にスペイン語の知識が全くなかっ
たということもあり、家庭では日本語のみが使用された。つまり、クニコの初等、中等教
育期の使用言語は基本的に、母語である日本語、メキシコ社会の主要言語であるスペイン
語、そして現地の学校教育で用いられる英語の 3 言語である。クニコの日本語の習得につ
いては、養育者があらゆる機会を捉えてクニコに日本語との接触機会を与えることに心が
けた。家庭では日本語の絵本の読み聞かせ等で日本語を使用し、日本語の通信教材による
学校教科学習を日常的活動に組み入れた。つまり、クニコの日本語は、家庭言語としての
習得が中心であった。3 つの言語能力に対しては、クニコの自己評価によると、英語>ス
ペイン語>日本語の順になっている。なお、データ収集時(2002 年 12 月)、クニコはアメ
リカの大学院に在学していた。
3.2.
データ収集
本調査において、分析に使用された発話データは 2 種類ある。一つはコントロールされ
た発話資料であり、タスクによる発話データである。もう一つはコントロールされていな
い発話資料であり、自然会話による発話データである。
分析資料1:タスクによる発話データ(英語、スペイン語、日本語の3言語)
被調査者クニコに馴染みのある漫画シリーズの 2 種類のもの(題目はそれぞれ「パン
屋」と「洗濯機」であり、漫画の主人公は以下<G>とする)を用いて、漫画の内容につ
いて口頭による説明を求めた。<G>の行動を中心に、漫画の内容をそれぞれ英語、スペ
イン語、日本語で語ってもらった。発話内容を文字化し、指示詞コソアのある部分と、そ
の部分に対応する英語、スペイン語の部分を抽出して分析する。
分析資料2:自然発話データ(日本語)
クニコが友人(日本語母語話者、以下 JNS)とレストランで行った日本語による自由会
話(約 30 分)のなかから、指示詞コソアが使用されている部分を文字化し分析する。
分析結果
3.
4.1.
分析資料 1
クニコの日本語によるモノローグ発話においては、指示詞コ系及びソ系の使用が見られ
たが、ア系の使用は見られなかった。
コ系
クニコの日本語によるモノローグ発話に見られた指示詞コ系は、現場指示に属する用法
であり、例 4 に示されているようなものである。
例 4
これは、<G>が、なんか、うーん、お菓子屋さんの前を通っていて、
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(漫画「パン屋」)
例 4 は発話の冒頭部分に使われている用例である。このようなコ系用法は、日本語母語
話者のモノローグ発話に見られていることが渡邉(1996)で明らかにされており、「話者
が絵を見ながら話しているというナレイティブ的要素に加え、話者の前に聞き手がいると
いう状況から生まれたものと考えられる」(同:47)と解釈されている。
また、例 4 と同様な内容の英語発話(例 5)、スペイン語(例 6)発話を見てみると、や
はりコ系と同様な類に属する現場指示用法の this、aquí が使われていることが分かる。
例 5
this is <G> and he's going into a bakery
(漫画「パン屋」)
例 6
aquí está <G>, eh, pasando por una panadería y el dueño
(漫画「パン屋」)
つまり、クニコは聞き手(調査者)と同じ漫画を見ていて、漫画の内容を聞き手に伝え
ようという行動から、現場指示用法のコ系を用いたと考えられる。また、このコ系用法と
同様な指示用法は英語とスペイン語のモノローグ発話にも見られる。これらの指示用法は
これから語ろうとするものに焦点化し、聞き手に注目させるという機能がもたらされてい
ると考えられる。
ソ系
クニコの日本語によるモノローグ発話に見られたソ系指示詞の使用は、一度言及した人
物を再度言及する、即ち照応用法のソ系であり、例 7 に示されているようなものである
(二重線は先行詞を意味する)。
例 7
子どもが通ってるのを見まして、で、あのー、ま、この格好をしたらはいれ
るのかと思って、その子どもの洋服全部、取っちゃって
(漫画「パン屋」)
一度述べた「子ども」のことをもう一度指し示すときに、照応用法のソ系が用いられて
いる。同様な箇所においては、英語の発話の場合、例 8 に示されているように、「子ど
も」のことは、指示詞の代わりに、定冠詞の the で照応されている。
例 8
<G> sees this boy with his mum, walking by, and so he talks the boy and that's
(漫画「パン屋」)
ah, takes all his clothes
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また、スペイン語の発話においても、例 9 に示されているように、指示詞が用いられず、
定冠詞にあたるal1で照応されている。
例 9
<G> a un niño(一人の男の子) pasando con su madre adentro de la panadería,
(中略),<G> le quitá la ropa al niño(その男の子) y así
panadería, eh, coge
se mete a la
(漫画「パン屋」)
日本語の場合、典型的な照応用法の指示詞はソ系であり(田中 1981)、談話展開で使う
主な指示詞はソ系であると言われる(渡邉 1996)。英語の照応表現では、this、that のほ
かに、it、she、he などの人称代名詞や the+Noun Phrase 等、単なる照応機能のみで指示機
能をもたない表現が使われ(新村 1992)
、it と the+NP が一番多く用いられていると指摘
されている(三浦・Christensen 1991)。また、スペイン語でも、談話において新規に導入さ
れた情報を指し示すときに、代名詞や定冠詞が使われることが多い(田中 1992)。
被調査者クニコの日本語によるモノローグ発話においては、照応のソ系を用いることに
よって、談話の結束性が保たれている。一方、英語やスペイン語の場合は、指示詞の代わ
りに、代名詞や定冠詞を用いて照応を果たしている。つまり、クニコは、モノローグ発話
においては、言語に応じた使い分けをしていると言える。
まとめ
渡邉(1996)においては、「日本語母語話者のモノローグの指示詞で不適切なア系とソ
系の
照応無
はまったく使われていない」(同:47)と提示されている。一方、日本語学
習者のモノローグの指示詞使用については、学習者の母語によって使用傾向にばらつきが
見られたが、概してア系使用の誤用が見られ、照応無のソ系の誤用も確認された。
クニコのモノローグ発話には、例 2 に示されたようなア系指示詞誤用が全く見られなか
った。また、例 3 に示された照応無のソ系誤用も確認されなかった。少なくともモノロー
グ発話においては、クニコの談話展開のスタイルが、日本語学習者より、日本語母語話者
のものに近いことが示唆される。
また、クニコの英語及びスペイン語によるモノローグ発話においては、日本語の指示詞
が用いられている箇所と同様の指示詞が用いられることもあれば、日本語と異なって指示
詞が用いられていないこともあり、言語の違いに応じ、バリエーションのある使い分けが
見られた。モノローグ発話に限って言えば、クニコの 3 言語の習得がかなりのレベルに達
している可能性が窺われる。
4.2.
分析資料 2
クニコの日本語による自然発話においては、指示詞コ系、ソ系及びア系の 3 種類の使用
1
「al」は前置詞aと定冠詞elの縮約形である(『小学館西和中辞典』1990 版p.74 より)。
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が全て見られた。
分析の枠組み
被調査者クニコの日本語による自然発話の分析は、森塚(2002)の「ダイクシスと照応
を統合した分析のための枠組」に基づいて行うことにする。この分析の枠組みは、「もと
もとは学習者のインタビュー発話を縦断的に調査するのに設定されたものである」(森塚
2003:72)ため、分析資料 2 のクニコの日本語による自然発話の分析に適していると考え
られる。
森塚(2002)の「ダイクシスと照応を統合した分析のための枠組」は、「ダイクシスと照応
という対立する概念をそれぞれの円で示し、ダイクシスの円を直接状況的コンテクストと間
接状況的コンテクストに 2 分し」(森塚 2003:69)、
「2 つの円を一部重ねることで、5 つの領
域を設定した」(同:69)ものである。各指示領域についての定義及び文例を表形式にまとめ
ると表 1(森塚 2002:119 より筆者作成)になる。
表 1
指示
領域
①
②
③
④
⑤
森塚(2002:119)「ダイクシスと照応を統合した分析のための枠組」
使える
定義
例文
指示詞
現場指示用法に当たり、話し手が指
示する指示対象は物理的に存在し、
現在知覚可能なもの。
話し手が指示する指示対象は、直接
言語化されて(先行詞となって)い
るか、意味特性の強い言語的文脈か
ら間接的に推論されるもの。
指示対象が物理的に存在し、知覚可
能であると同時に、直接あるいは間
接的に言及され、言語的文脈の一部
に含まれているもの。
指示対象が、話し手の記憶、イメー
ジのみに存在するもの(指示によっ
て聴者との共有が可能か否かはそれ
までの記憶、イメージの共有度に依
存する)。
指示対象が、話し手の記憶、イメー
ジに存在すると同時に、直接あるい
は間接的に言及され、言語的文脈の
一部に含まれているもの。
(落ちていたペンを拾って)
これ、誰のですか。
A:今晩、皆既に月食があるらし
いよ。
B:何時ですか、それ?
(おみくじを音読しながら)
「願望、叶うでしょう」、こう/そ
うなればいいけど。
コ・ソ・ア
ソ
コ・ソ1
博多で食べたあのラーメンは本当
においしかったなあ。
ア
A:夕べのサヨナラ満塁逆転ホー
ムラン優勝は、劇的だった
ね。
B:確かに。あんな優勝の仕方、
めったにないよね。
コ・ソ・ア
クニコが友人 JNS とレストランでの日本語による自然会話について調べたところ、表 2
のような指示詞の使用が観察された(合計欄を除き、カッコの中の数字は使用頻度を示
1
この指示領域③に使用可能な指示詞は、森塚(2002)では、コ系とソ系のみが提示されているが、単
(2003)では、ア系の使用も可能であると指摘されている。本論においては、指示領域別の詳細な分析を行
わないため、この辺りの議論は別な機会に譲りたい。
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す)。
指示
コ系
ソ系
ア系
合計
表 2 日本語による自由会話に見られた指示詞の使用(指示領域別)
領域①
領域②
領域③
領域④
領域⑤
合計
ここ(3)
5
こっち(1)
こっち(1)
(14%)
その(10)
そういう(4)
それ(4)
そういう(2)
27
そんな(1)
そこ(1)
(75%)
そこ(4)
そっち(1)
あれ(2)
4
ああいう(2)
(11%)
4
24
1
0
7
36
(11%)
(67%)
(3%)
(0%)
(19%)
(100%)
コソア別にみると、ソ系の使用が圧倒的に多く、指示詞使用数全体の 75%を占めてい
る。指示領域別においては、指示領域②に属する指示詞が一番多く用いられており、67%
の使用率である。とりわけ指示領域②に属する「その」が一番多く使われている。全体的
に、コ系およびア系の使用がソ系に比べて少ないが、コ系は指示領域①に属する用法、ア
系は指示領域⑤に属する用法に集中している。
コ系
指示領域①に属するもの
会話資料Ⅰ
JNS
このあとさー、じゃ、オーストラリアに帰るってこと?
クニコ
いや、えーと、だから、ここ終わって、またメキシコに戻って…
「ここ」を用いて今の居場所(日本)を直接に指し示している用法である。
指示領域③に属するもの
会話資料Ⅱ
JNS
日本に帰ってきて何してんの?なにしてたっていうか、毎日、
クニコ えっ、いま、こっち帰ってきて?
JNS
うーん。
クニコ うーん、なにやってるのかな?朝起きて、朝の 5 時に起きて、
JNS
早いよね
JNS が言う「日本」を「こっち」を用いてもう一度指し示している。
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なお、今回の日本語による自然発話においては、指示領域⑤におけるコ系指示詞の用法
は見られなかった。
ソ系
指示領域②に属するもの
会話資料Ⅲ
(JNS が見たことのない映画についての語り)
クニコ
船で、1900 年のときに、船のなかで生まれたあかちゃん、が、その、
nineteen hundredsって言う名前付けられて、ずっとその船のなかで生活す
るのね、その子は。
会話資料Ⅳ
(アメリカの大学で PC プログラミングを勉強したときの話題)
クニコ
友達がITがまえ習ったんだけど、今、もうソフトフェアだったかな、なん
か会社に働いてるんだけど、その子は、殆ど手伝ってくれてて、
JNSに分からない情報(映画の内容やクニコの友達のこと)をもう一度言及する際に、
クニコはソ系を用いている。三枝(1998)によると、日本語では、照応指示1ソ系のうち、
「その」が一番多く使われる。被調査者クニコの発話にもそのような特徴が見られること
がわかる。
指示領域⑤に属するもの
会話資料Ⅴ
(IT 化のことについての話題)
JNS
メキシコでだいぶ IT 化しましたか。
クニコ してるようだけど、かなりやっぱり遅れてる。
(中略)
JNS
家は、家はどう、自宅自宅、メキシコの、
クニコ あるある
JNS
あら、いちおう IT 化した
クニコ IT 化した、やっとね。やっぱブロードバンドがきたらね、もっとよくな
る
(中略)
(以下は日本の IT 技術について、アメリカ、オーストラリア、イギリスの 3 カ国
を比較している話題)
クニコ 日本は、なんか、中間っていうか、ちょっとやっぱり遅れ気味、
1
三枝(1998)では、「代行指示」と称しているが、「照応指示」に当てると考えられる。
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JNS
遅れ気味なんだ。なんか最近すごい進んだなって、最初に思ったけど
クニコ だから、そういうブロードバンドとか、ああいう点ではたぶん進んでると
思う。
指示対象となっている「ブロードバンド」という言葉は、クニコによって会話に導入さ
れたものである。また、「ブロードバンド」がどういうものであるかクニコの記憶・イメ
ージに存在しているということが発話内容から推測されることから、ここで用いられた
「そういう」は、指示領域⑤に属する用法になる。
ア系
指示領域⑤に属するもの
会話資料Ⅵ
買い物ができるウェブサイトの話題
クニコ 飛行機の切符とか、買うっていうときあるね
JNS
ヤフーとか?
クニコ いえ、あのー
JNS
ある?そういう、
クニコ そういうサイトが、わたしはまだ買ったことないかな。いまでも、JAL
とか、
JNS
JAL、
クニコ
JALだったかな?けっこうああいう航空会社でも、自分たちのウェブサイ
トに行って買ったら、なんか何パーセントか安いとか、ということもあ
ると思う。
JAL という航空会社は一般的によく知られているものである。ここで用いられたア系は、
指示領域⑤に属する用法である。
まとめ
クニコの日本語による自然発話の指示詞コソアの使用を見てみると、表 2 にも示されて
いるように、全体的にソ系の使用が多く見られ、とりわけ指示領域②に属する照応用法の
ソ系が多く用いられていることが分かった。
例えば、会話資料Ⅲに提示されている JNS が知らない映画についての語りは、性質的
に分析資料 1 で扱ったモノローグ発話に近い部分があると考えられる。被調査者クニコは、
映画内容についての説明でも、やはりソ系を一番多く用いており、先述した例 1 のような
誤用は、クニコの発話に観察されなかった。これらのことから、談話の結束性を保つ指示
詞の使用に限ってみれば、クニコの発話は日本語母語話者並みのレベルに達している可能
性が示唆される。
談話機能を考える場合、日本語指示詞には、「指示対象の曖昧なアレを用いても聞き手
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は理解してくれるだろうとの考えを前提に会話を続けていく。聞き手もその前提を共有し
ているので会話はそのまま進行していく」(菅沼 2000:14)という特徴をもっている。例
えば、「だからもう本当にアレじゃない」(同:14)の「アレ」には、わかってくれると期
待されているのに指示対象がわからない聞き手に「なんだったっけ」と考えさせようとする
機能がある(菅沼 2000)。しかし、クニコと JNS との自然会話においては、ア系を用い
た指示使用が少なかった。それは、被調査者クニコが日本に長期的に滞在していないため、
JNS との共有情報が限られていたことが原因のひとつと考えられる。対話相手の JNS か
らのコメントにもあるように、「クニコは、日本語は流暢ではあるが、ツーカーという反
応は期待できない」という結果になった。
5.
まとめ及び今後の課題
指示詞コソアの使い分けは日本語学習者にとって習得困難な文法項目の一つであり、そ
の使い分けにインプットに関わる言語環境の重要性が指摘されている(迫田 1998)。今回
の被調査者のクニコは、外国語環境で日本語を習得した。モノローグ発話においても、自
然発話においても、トライリンガルであるクニコの発話に、例 1 のような日本語学習者に
一般的に観察される誤用は確認されなかった。また、話をわかりにくくしている例 2 と例
3 のような日本語学習者によく見られる誤用も、クニコの発話には見られなかった。少な
くとも今回の調査結果では、話す能力において、クニコの指示詞コソアの使用は、日本語
学習者より日本語母語話者のそれに近いに同様であることが示唆される。言語習得に影響
を及ぼす大きな要因の一つである言語環境という視点からみると、今回の被調査者クニコ
の発話データを見る限りでは、外国語環境においても、日本語指示詞の習得が十分に可能
であることが示唆される。
指示詞コソア別の使用状況をみると、被調査者クニコの発話におけるソ系の使用が豊か
であるが、コ系とア系の使用頻度は低く、特にア系の場合、現れる指示領域が単一である
ことが観察された。ア系使用が少ないことは、長期的に日本にいなかったため、対話相手
との共通話題が少ないことが原因の一つとして考えられるが、ア系やコ系の習得状況につ
いての把握は、今回のタスクや自然会話による調査では方法論としての限界があることが
示唆された。
また、今回は、トライリンガルであるクニコの話し言葉における指示詞コソアの使用を
調べることが中心であった。クニコ自身は日本語の読み書き能力に自信がないので、日本
語能力を 3 言語のなかで一番低いと評価しているが、今後、読み書きを通してクニコの指
示詞コソアの習得状況を調べる必要があると思われる。
本調査は、トライリンガルの日本語指示詞の習得状況を調べた基礎的な事例研究である。
本調査で明らかにされていることは、トライリンガルの指示詞コソアの習得状況の一角で
しかなく、そのため、結果を一般化することはできないと思われる。今後、調査に用いら
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『三言語併用環境における日本語の発達に関する研究』2004 年
平成 14∼15 年度科研(萌芽研究 課題番号 14658077)研究成果報告書
れるタスクの工夫が必要と同時に、縦断的に調べることも必要であろう。また、トライリ
ンガルがもつ 3 言語の各々の言語使用についても調べる必要があり、各言語の指示詞の習
得を統合的に分析する必要がある。それによって、第二言語(外国語)の習得における指
示詞の研究に新たな示唆が与えられるものと思われる。
(本調査書の執筆にあたって、吉松恵美子さんには具体的なデータを提供していただいた。
杉浦まそみ子さん、森塚千絵さん、そして、岡崎眸先生、小田珠生さんには貴重な助言を
いただいた。また、伊東あゆみさんにはスペイン語に関して助言をいただいた。改めて深
甚の謝意を表したい。)
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