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三月前期のプロイセンにおける「社会問題」と

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三月前期のプロイセンにおける「社会問題」と
三月前期のプロイセンにおける﹁社会問題﹂
社会政策および中間層政策の展開臼
ノ
− 三月前期における﹁杜会問題﹂
問題の所在
1 ﹁杜会問題﹂の性格−第二六巻第五号
︺
1 ﹁杜会間題﹂発生の原因と﹁大衆貧窮﹂1第二六巻第六号
■
1 三月前期におげる政策の展開
︹
1 児童労働を招来した要因
︺
1 国家的杜会政策の開始11一八三九年の児童保護規定
︹
○O 機械の導入11技術的要因
Cヵ 両親の貧困11杜会的要因
の 工場主の利潤追及欲11経済的要因
2 児童労働者の状態
○o 児童労働老の地域別および部門別分布
の 児童労働老の状態−以上本号
3 立法過程
三月前期のプロィセンにおける﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶
と
本
和
ゴニ ︵一九九︶
良
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
皿 中間層政策の開始11一八四五年の営業令
︺
皿 三月前期におげる政策展開の特徴と意義
−
皿 ﹁三月革命﹂と政策の展開
︹
1 ﹁三月革命﹂と﹁杜会問題﹂
︺
u 中問層政策の展開11一八四九年の営業令
x
皿 国家的杜会政策の展開11一八五三年法
︺
M ﹁反動期﹂におげる政策展開の特徴と意義
x
︹
皿 三月前期におげる政策の展開
︺
に 国家的杜会政策の開始11一八三九年の児童保護規定
三二︵二〇〇︶
﹁ドィツにおいて妻た、労働者の保護は、イギリスの模範にしたがって児童の保護でもって始まっ草す
童
労
働
の
第
二
の
局
面
が
始
ま
︵り
2﹂
︶、 ﹁杜会立法の本来の歴
な わ ち 、 ﹁ ド ィ ツ で は 、 一 八 世 紀 末 に 、 工 業 化 と と も に 児
史は、前世紀の中葉頃、袈するドィツの工業化とと乏初めて開始され筥のであるが・その具体的農開は・
﹁プロィセソがまず、イギリスの労働者保護立法を模範として、とくに牢火却の保護のための杜会立法でもって
︵4︶
開始し、それに他のドイツ諸邦が直ちに従﹂うという経過を辿った。
こうしてプロィセソにおける国家的杜会政策は、一八三九年三月九日の工場におげる年少労働者の雇傭にっい
ての規定︵内晶巳註くま胃2¢団霧oブ以︷息;二馬彗畠︸撃ト︸go二目霊巨斤雪く旨o・竃ぎH・◎・。o・1以下、児童保護
︵5︶
規定と略す︶でもって開始された。この規定は、ドィツにおげる最初の杜会政策立法であったのみでたく、後段
で考察するように一八五三年五月ニハ日の工場における年少労働者の雇傭にっいての一八三九年三月九日の観定
の若干の変更に関する法律︵O−霧¢貝訂幕豪己旺箏富ト9己o昌お90霧寿。q巨註易く§o・く腎二・。。。o¢げ賢2¢
吋$O豪︷房旨。・盲。・彗昌一︸胃>︸Oま二箏︷彗い霊げユ斤彗く◎昌H0.呂巴畠鼻−以下、一八五三年法と略す︶によって修正
された後、一八六九年六月二一日の北ドイツ連邦営業令︵鶉秦ま8&昌お肇Hq彗オ冒竃0募争彗雲己くO昌NH・
︵6︶
H昌二・。奉︶に引き継がれ、さらに、ドィツ帝国が建設された後、全ドィッに適用されるという意義をも担ってい
た。
そこで、まず、立法過程の考察に入るに先立って、 ﹁児童労働の第二の局面﹂を招来した諸要因および児童労
働者の状態について検討を試みることにしよう。
︵1︶ 目.零竃PPP○二・。o蜆.イギリスにおげる児童労働者の最初の保護法は一八〇二年に発布され、っいで一八一九
年の法律で九歳未満の児童の就業禁止、 一六歳未満の年少老の労働時間が一二時間以内に制限され、さらに一八三三
とくに重要な意義をもっていた︵○胃罫a卑O昌彗P冒¢向箏芽−O巨冒0qq胃︷彗誌Oぎ箏000N巨帽霧O訂鷺巨お一団¢昌■
年法で工場監督官制度の導入等の改善がなされた後、一八四七年の法律で集大成された。このうち、一八三三年法が
巨お胃射彗婁一里目零葦P四N膏O霧O巨O軍¢まH葦hけ。。Oぎ穿−昌q○つ◎註与ぎ∼帽◎。・昇冒夢冒胴畠鼻蜆.キ
H漫・。一甲H◎.■O箒ぎO盲︸。。二己易三90ら己胃P︸0岸ぎ曇守∼巨己撃↓昌奪思昌O委︸濤§帽︷窃冒7
O・−邑oPp.申○二H・。ド邦語文献としては、カール・マルクス﹃資本論﹄長谷都文雄訳、青木書店、第一部、第三篇、
戸塚秀夫、前掲書、とくに第三篇。および吉岡昭彦、前掲論文、を参照せよ︶。
第八章、第六節、四七七∼四七八ぺ−ジ。B・L・ハチソズ、A・ハリソソ、前掲書。小川喜一、前掲書、第二章。
三月前期のプロィセソにおげる﹁杜会問題﹂員︵川本︶ 三三︵二〇一︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
︵2︶ 内.−︸一■■qミ尉一PP○.一〇岬一■.声︷◎−oプo〇一串串O二 Hべ一 ・
︵3︶ 9向a昌︸箏P串”.Oニベ一
三四︵二〇二︶
︵4︶ 向竃・一り・プロィセソ以外のドイツ諸邦におげる児童労働者の保護は、バィニルソで一八四〇年一月一五目の法律、
バーデソでは一八四〇年三月四目の命令、ザクセソで一八六一年一〇月一五目の営業法、ヴユルテムベルクでは一八
ヨ己胃胃げO岸巨09誌O︸冒己H富O−H竃P霊己一〇霧O巨Oま9雰昌箏H爵C。一旨0.宗易二宴O○易O巨O︸討ま﹃
六二年二月一二目の営業法、にょり開始された︵9向a昌彗P串串○二HH・言hOq彗穴;貞易罫○易O巨O︸け¢︷胃
■品¢q胃ト︸ま胃旨↓9︷¢昌穴君雪豪昌易一吋彗OH〇一C09畠旨N膏○易O巨O軍¢︷胃■晶¢︷霧胃げ等彗宗目
0っ◎N邑君;汀芦べ・声.○H邑彗︸中O二 畠ド︶。なお、大陸最初の児童労働者の保護法は、一八一五年に。スイスで発
匿己霧ぎ宗募O巨彗︷く◎■HざO募N膏○晶9§ユ一困邑巨お貫りべ.事.嚢−昌彗P艮¢声邑音鷺ま二訂P巨2彗
布された工場一般、とくに紡績機械における年少者のための法律︵く胃o邑昌轟き。q彗︷胃昌−邑g警﹃釘彗−烏彗︷
巨■箏0q■目q句巴冒寿OOO︸巨¢■巨︷胃司昌巨0岸q霧∼︷■O・R庁−¢■内P官試豪冒■己・一匝胃−ぎH雷O。一畠.︶。 また、わが国
巨q竃句昌﹃岸彗夢¢き彗O叶旨︷彗O彗0つ胃昌昌易O巨目彗ず易◎己O易︶である︵内◎ぎま≧↓︸易0q.一嚢己O量■己。ぎ−
に−おいてプロイセソエ場法の成立過程を取り扱った業績とLては、杜会政策本質論争の視点からの業績、犬陽寺順一
﹁プロイセソ初期工場法成立史論﹂、﹃杜会政策の基本間題−井藤半弥博士退官記念論文集1﹄千倉書房、一九六〇年、
がある。立法過程の概要は、藤瀬浩司﹃近代ドイツ農業の彩成﹄御茶の水書房、一九六七年、四三〇∼四三ニページ、
︵5︶ 事.穴警昌彗P9¢声ま岬馬¢︷9。。け§繧o︸竃oっ富−p号◎罧昇芦べ・なお、児童保護規定の全文は、く県○塁卑甲
により知ることができる。
o︸す■︷Hべ蜆oIH@◎o芦 団︸■︷ド U◎吋自昌¢箏け9 団o﹃−目H0mo〇一〇〇〇Io閉. −ドトq◎−り︸o〇一串串O.一]IHo◎1]1H卜 Oo庁胴申庁︷O目︸■oけ
C。彗昌巨潟H・。。。P旨甲旨・。.9穴.ト9◎貝申串○二蟹−睾肉■亭豪冒90・易O巨O軍¢q睾5邑胃胃ま岸巨U彗叶乙。−
H彗o〇一畠1ま一
︵︸お。・・︶一匿己胃胃亨岸■目︷室己¢暮巨ぎ巨U彗誌O巨彗qH轟・。−H彗9曾O−O■昌P声■暮鼻旨囚章霊宗苔O﹃■
︵6︶9卑q竃昌P中○二甲HH.−◎乙・o︷彗豪99≧冨暮一目¢婁芽oぎ穿胴馨巨o睾¢︷塁竃箒茎婁旨︷箒H
茅冨¢芦N毒まH霊邑一〇示豪冒0芦く旨9竃岩m・。一ト・。0.■穴9ミ易昇$。。O巨O罧¢q胃室己胃胃訂−戸H睾
仁ミ一ト.○巨q¢ppp○二Hooド
︸婁二昌¢O塞O巨O巨¢︷0H9潟︷雲ぎ匡奪しべ.オ.嚢目量;一90トまぎぴ・Oま二訂昌邑一彗C.O註一りO婁ぎ
一八五三年法臥全文は、く。・H.o霧o甲c○彗⋮一旨。・H・。鼻 §甲§べ.甲串○署〇一⋮;.○二■H−HHm.−.トqo与茅一
六巻二号、一九七一年、三〇一∼三三三ぺ−ジ、を参照せよ。
pp○二H崖山Hべ.また、北ドイツ連邦営業令については、田山輝明﹁資料、北ドイツ連邦営業令試訳﹂、比較法学、
一八五三年法は、螢かの変更を加えられて北ドィツ連邦営業令に引き継がれ、ドィツ帝国の建設に伴たい、一八七
一年一月一目に南ヘッセソにその適用が拡大され、さらに一八七二年一月一目にヴユルテムベルクとバーデソに、
一八七三年一月一日にはバィェルソヘと拡張され、最後に、 一八七八年の奮業令に対する修正法令︵岩◎くg0N冒
に適用が拡大された︵−昌易U彗蓉戸目0ら箏︷胃胃訂岸旨︷冒岩零嚢昌O︷昌牽暮まプ昌︷■9寝一囎H胃トH9
○撃胃げ8ま昌轟ぎ守∼¢Ho。べ・。.︶によって若干の修正を経た後、一八八九年一月一目にエルザス・ロートリソゲソ
曇Cつけ.霊篶■ぎげ等9。つ〇一旨冨霧0冨多昌。・二目一自彗寒葦胃巨︸q胃Cつけ§委<家0易O罫芦仁ト岸デHじOq二ざ量
Hsc。一おm.戸穴睾釘op∼.p.○二HOHH・︶。
1 兄童労働を招来した要因
まず、A・トゥーソは児童労働の新しい局面を招来した要因をっぎのように述べている。 ﹁国家の産業の欄密
な地方における工業の発展が、とくにライソにおける紡績業の拡張が、工場におげる広範な児童の使用を結果し
た。いなかんずく、児童の協力を願わしいものにしたのは工業の技術であった。というのは、特定の機械による
仕事が、身体が小さく、かつ非常に機敏で、手先が器用たために、児童にユって、少なくとも成人によってより
もヨリ良くではないにしても、同じようにうまくなされるがゆえにである。oさらに、低廉な労働とそれに由来
︵1︶
するヨリ大量の販売によって利益を増大させた企業家の利欲があった。ゆ最後に、子供の収入が重要な副収入に
たっていた両親自身の利害が存在していた﹂と。
三月前期のプロイセソにおける﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 三五︵二〇三︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 三六︵二〇四︶
いうまでもなく、児童労働そのものは古くから存在していたのであるが、この叙述から児童労働の新しい局面
を招来した要因として、○D機械の導入という技術的要因、o企業家の利潤追及欲という経済的要因、ゆ子供の家
計補助を不可欠とする貧困家庭の存在という杜会的要因、の三点が浮かび上ってくる。このうち、これまでの検
討と、これから考察する杜会政策との関連において、第三の要因がとりわけ重要な意味をもつことはいうまでも
ない。
つぎに、R・アルトは、工場におげる児童労働の原因として、い畜力と水力、後には蒸気力を動力とする機械
ゲマイソデ
の導入、の児童の低賃銀、ゆ工場におげる児童労働に適した工程の存在、↑り児童のばあい反抗の少たいこと、旬
市町村と福祉施設が工場児童の扶養支出を節約できた点、ゆ水カによる工場は辺部な地方に建設されたため、労
働力の調達が困難であったことが児童の使用に拍車をかげたこと、の六点を挙げ、児童労働に−対する反対の少な
︵2︶
かった理由として、○D両親の貧困との児童労働は以前よりの慣習であったこと、の二点を付げ加えている。
最後に、L・アドルフスは、一九世紀前半に児童労働が当然であるとされた理由として、○○児童労働は古くよ
り行なわれていたこと、〇一九世紀にはすべての国で児童労働が存在していた点、ゆ児童の保護は一七九四年の
一般国法の規定のみで十分であると考えられていたこと、ゆ工業建設の過渡斯における大衆貧窮︵竃萎g胃−
アルゲマイネラソトレヒト
冒暮己買霊君oま昌易︶が児童労働を自明のことにした点、向機械が小さた筋肉の労働を可能にしたこと、ゆ工
業の競争の激化が低廉な労働力の使用を必要とした点、ぐつ児童労働が教育的に有益であるとみなされていたこと、
働国家の主要た努力が国民的自立の達成に向げられたため、いわゆる杜会間題への国家の干渉がたお為されてい
なかった点、の八点を挙げている。
︵3︶
以上のうち、L・アドルフスが、○つにおいて、児童労働を招来した要因として教育的要因を新たに指摘してい
るのであるが、この点にっいてはここで差し当り、一八世紀初頭から一九世紀中葉まで、貧乏を克服するもっと
それを背景に児童労働が賞揚されていたところへ、労働と教育の結合を説く、ペスタロヅチの貧民教育の理論
も本質的な手段は勤勉︵>︸0豪彗ぎ岸Oq二一H己易まO。。︶を身に付げさせるための教育である、との見解が普及し、
︵4︶
︵5︶
︵勺翌きN法Oぎ冒8︷¢く90胃>§彗胃崇ぎお︶が強い影響を与えたことを指摘するに留めたい。そこで、いま、
この要因を除外すれぼ、R・アルトの挙げている要因も、L・アドルフスのぼあいも、さきにA・トゥーソの指
摘した三つの要因︹○D機械の導入という技術的要因、の工場主の利潤追及欲という経済的要因、ゆ両親の貧困という杜会的
要因︺に整理し、収敷させ得るであろう。
以下、三っの要因を順を追って検討することにしよう。
≧冨o畠皇;霊葦緒¢N膏○霧o巨o軍¢︷90易9N需ぎお;︷く¢暑算昌。・昌O・旨乙・け9q9霊茎ぎまo−雪
,卑¢易。。9二PN¢豪OプH事宗。・斥旨包一︸肩彗己。。。ぎ︸彗乙り§軍ぎ︸彗団旨$婁H胴.与雰﹃旨H・。鼻8.
︵1︶
射.≧け目易胴二PP0、.一旨−Ho。.
︵2︶
■.トら◎与茅一pp○二弓IHり.
︵3︶
オ・︸オ︸9Cっ富巨¢q巨O易O巨O睾彗一違卜枢密参事官ケラー︵○︸.肉晶一胃§暢S一穴9一雪︶は、一八三四年に
︵4︶
に,っいてっぎのように1書いている。 ﹁すべての仕事において、子供の手ぎわのよさ、手早さ、器用さは驚くべきもの
ライソラソトの児童労働にっいての族行報告において、ほぼ一〇〇人の児童を使用しているアーヘソの針工場の状況
にたり、ある時に,は後にそり、しかもすべての者が拍子に合わせたかのように同じ運動をし、同じ物音を立てる子供
がある。かれらの操作する道具と機械はよく考えられている。整列して坐って仕事をしながら、ある時には前かがみ
達自身が、観察者に対して機械と同じように注意を促がす。しかも、かれらは健康で強健、明朗で活気があり、わん
三月前期のプロィセンにおげる﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶ 三七︵二〇五︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
三八︵二〇六︶
ぱくでふざげ廻ってすらいる﹂と︵F声3与茅一P串O二H0.なお、ヶラーの旅行報告の全文にっいては、く県肉.
︵5︶■ト︷◎与茅一P串o二∼9J・皿・ペスタロヅチ︵H◎罫昌曽9冒︷︸勺霧邑0N早Hミ甲Ho◎N“︶は、ノイホーフ時
声岸曽Hoo09一一P串O.一H0べ1∼Hド︶。
代︵一七七一−一七九八年︶に貧児を集めて労働学校を開き、﹃人類の友に訴える書﹄や﹃リーソハルトとゲルトル
ート﹄において、教育と労働の結合を説き、実践した︵田中寛﹃ベスタロッチ﹄新潮杜、一九四〇年、八二−八三ぺ
ージ、柳久雄﹃生活と労働の教育思想史﹄お茶の水書房、一九六二年、とくに九八−九九ぺージ、玖村敏雄﹃ベスタ
ロッチの生涯﹄玉川大学出版部、一九六九年、五四−五五ぺージ、を参照せよ︶。かれの下層階級を基盤とする民衆
教育思想は全ヨーロヅバの注目するところとたったが、とりわげ同じ言集を語るドィツに強い影響を与え、プロィセ
ソにおいては、一八一七年から一八四〇年まで新設の文相の地位にあったK・アルテソシュタイソ︵宍胃−卑o岸胃﹃
く◎昌oo至■§昌≧a易童箏︶により推進された︵梅根悟﹃近代国家と民衆教育ープロイセソ民衆教育政策史1﹄誠文
堂新光杜、一九六七年、一七二、二〇六−二〇八ぺ−ジ︶。
宣言﹄におげる﹁教育と物質的生産との結合﹂ ︵マルクス、ニソゲルス﹃共産党宣言﹄大内兵衛、向坂逸郎訳、岩波
なお、K・吋ルクスも、ペスタロッチの教育思想やその他を継承して、生産労働と教育の結合を説いた。 ﹃共産党
文庫、六九べージ︶の主張や、﹃資本論﹄におげる﹁教育条項は概して貧弱に見えるとはいえ、・⋮:はじめて、教育
および体育と筋肉労働との結合の可能性を証明した﹂ ︵カール・マルクス﹃資本論﹄長谷都文雄訳、青木書店、七六
九べージ︶との指摘を経て、﹃ゴータ綱領批判﹄においてっぎのように説いている。﹁児童労働の一般的禁止は大工業
の存在と適合せず、従って空虚な無邪気た願望である。このことの実現は1もし可能であるとしても1反動的であろ
う、というのは、種々の年齢段階に応じて労働時問が厳密に規律され且っ児童の保護のためのその他の予防方策が行
である﹂︵マルクス﹃ゴータ綱領批判﹄西雅雄訳、岩波文庫、四四−四五ぺージ。たお、マルクスの教育思想につい
はれる場合には、生産的労働と教育との少年時代からの結合は、今目の杜会の最も有力な変革手段の一つであるから
ては、浅野研真訳編﹃マルクス主義と教育問題﹄自由杜、一九三〇年、および柳久雄、前掲書、第五章、を参照せ
よ︶。
○ 機械の導入1−技術的要因
機械の導入は、総じて筋力の未熟な労働者の使用を可能にする。 ﹁機械が筋力を不用ならしめる限りでは、機
械は、筋力なき労働者 または肉体的発達は未熟だが四肢の柔軟性の大きい労働者 を使用するための手段
︵1︶
となる。だから婦人Hおよび児童労働というのが機械の資本制充用の最初の言葉であった!﹂。 一九世紀初頭の
ブロイセソにおげる児童労働者の地域別、部門別分布の考察は後段に譲り、ここでは差し当り、機械の導入と児
童労働との関連を、A・トゥーソの指摘する、児童が広範に使用されていたラィソ地方の綿紡績業を取り上げて
考察を加えておこう。結論を先に言えば、 ﹁児童労働の第二の局面﹂の招来には、作業機の導入︹アークライト紡
績機と、・・ユール紡績機︺と結合した水力の利用がとりわげ重要な意義をもっていた。
まず、既に述べたように大陸最初のアークラィト水力紡績工場は、一七八四年にデュソセルドルフ近辺のラー
ティソゲソにおいて、J・G・ブレッゲルマソによって設立されるのであるが、そのさい、すでに児童労働者が使
用されていた。J・G・ブレヅゲルマソは、一七八三年一一月二四日附げのベルク公Kニァォドール︵内邑掌¢−
O︷3宛ての手紙において特権の授与を申請したさい、申請理由の一つとして次のように書いている。 ﹁この設
備によって陛下の都市ラエァィソゲソと全管轄区域がとても大きな利益を得ます。あまりにもしばしば怠惰に陥
り、物乞いをする多数の貧乏な住民や六才から一〇才までの児童が、日々の糊口を得ることができ、そのことに
︵2︶
よって年少の頃から労働と勤勉へと督励されることになるからです﹂と。このように、﹁イギリスの模範に従っ
てクロムフォードと名付げられた⋮・−大陸最初の紡績工場の設立を企図するにさいし、一七八三年に既に請願者
は、六才から一〇才までの児童を働かせることを予示した。児童の活動分野は、問もなく全紡績経営へと拡がっ
三月前期のブロィセソにおげる﹁杜会問題﹂臼︵川本︶ 三九︵二〇七︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 四〇︵二〇八︶
︵3︶
ていった。混綿、開綿と清掃、硫綿の工程において児童が使用されたのである﹂。
ついで、ナポレオン支配のもとで、大陸封鎖によるイギリスの競争の遮断等の好条件に恵まれて、水力紡績業
が、とりわげ二−ルス河流域に設立され、興隆したのであるが、大陸封鎖が解除された後、既述のようにメソヘ
ソグラートバッハを除いて、ライソ地方の綿紡績業は停滞に陥った。綿紡績業におげる蒸気機関の使用は、一八
二七年にラィトのレソセソ・ベッヶソバッハ商会︵ヨ﹃§5易。。彗印雰OぎきP︸巨雲睾eにおげる使用を晴
数
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力
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水
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B
ては、メソヘソグラートバヅハ市の有力た綿紡績工場主であるJ・P・ベリソグ︵−o罫旨
績業が五つ存在していた点が注目を惹く。児童の使用数は不明であるが、個別事例とし
あった。この表から、綿紡績業がグラートバヅハ郡に集中している点、ならびに水力紡
ラィソ地方におげる最も重要な綿紡績業地域であるグラートバッハニフィト・ノィス
︵6︶
商工会議所地域の一八三六年におげる使用動力別の綿紡績業の分布は第二二表の如くで
童労働の充用を増大させたのは、水力紡績業においてであった。
蒸気力紡績業が普及し始めるのが一八四五年であり、しかも、後段で考察するように、
︵5︶
それが児童の使用の減少を技術的に可能にした点を考慮する時、当面の時期において児
ライソ地方の綿紡績業におげる機械化の進展は以上のような経過を辿るのであるが、
立されたのに端を発している。
一八四五年にメソヘングラートバッハで﹁機械紡績工場︵豪9彗ぎ訂C。豆昌05一︶﹂が設
︵4︶
矢
と
す
る
が
、 その普及は、一八四二年にイギリスが紡績機械の輸出の禁止を解除した後、
B
u
Ne態
ト状
対の
肥綿
比業
︷績
h紡
此る
1aけ
G
お
のに
,区
後域
の所
年議
36会
18工
商
表
13
第
一四才から一六才までを六九名も雇傭していた。この工場では水力紡績業が主力であったと推定される。 ﹁工場
宗雪団8旨烏︶が、一八三七年に一〇才から一二才までの児童を六五名、 二一才から一四才までの児童四〇名、
︵7︶
経営は、最初は水流のある地方を有利としたのであるが、後に蒸気力が水力に1とって代るに従って全国土へと拡
大していった﹂のであったが、この時期の工場は最初の段階にあったからである。
︵8︶
児童の労働者中での比率については、この時期に繊維工業諸部門中で、綿紡績業のみが成年男子労働者よりも
多数の児童と掃人を使用しており、通常三者の比率は各々三分の一であった。 ﹁工業プロレタリアートのモデル
を提供した繊維工業の労働者群も、出自が一様ではたかった。:⋮毛、麻、綿は、機械化の初期においては、非
常に異なった技術的諸条件のもとにおかれていた。⋮⋮綿業においてすら、機械紡績業においてのみ婦人と児童
が優位を占めていた。平均して、ここでは婦人と児童がそれぞれ労働力の三分の一を占めており、成年男子も同
じく三分の一をともかくも占めていた。そして、技術の進歩とともに、紡績業における児童労働は減少していっ
︵9︶
たのである﹂。
以上のように、一九世紀前半に児童労働が広範に採用されていたラィソ地方の綿紡績業において、機械の導入
と児童労働力との関係を検討するならぼ、水力紡績業の設立が技術的に﹁児童労働の第二の局面﹂を招来するこ
とを可能にしたのであった。
︵1︶ カール・マルクス、前掲書、第一都第四篇第一三章第三節︵a︶、六四三ぺージ。
一2一司§二秦竃聲昌貴9・塁麦・彗お琴警巽・目斤8葦彗邑彗・。冒畠・・一・里罵げ葦菱奏募・ま葦2.
︵3︶穴.占.巨穿鼻・.P○.二・。−竈・たお、く。・−︸・H・○彗・昌算P申○・しガ§・
募膏ぎま¢昌¢易昌︸■潟一■9亘。・畠き崖H.C。.曾竃鼻︸易四二申P・○二Hべ・
三月前期のプロイセソにおける﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 四一︵二〇九︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 四二︵二一〇︶
︵4︶ 前掲拙著、一〇四∼一〇七べ−ジ。く。q−H己易巨干冒q曽竃箒−。。ぎ昌昌胃9註907肉︸昌q→オo易。。︸お。q二P串
〇一一H“NドOOトお一〇◎甲O◎OO.
︵5︶ 差し当り、く・q−﹃1甲−巨⋮。q・中串〇一声−司また、イギリスにおいて、紡績機械が水カ紡績機から蒸気力紡
績機、とくに自動ミュール紡績機︵。。O干曽け冒︶へと移行することによって、児童労働者数が減少した点にっいては、
小川喜一、前掲書、七四∼七八、八二∼八三べ−ジ、戸塚秀夫、前掲書、一二八、一四九、一五二、二二三∼二二四
︵6︶ H邑一。。ヨ¢.■目q︸彗宗赤ぎ昌昌實9邑罫o干射ぎ首7オo易。。串易?PPO二仁・◎.なお、この会議所は一八三七年四
べージを参照せよ。
月二二目に設立された︵向げ汗ベト︶。この表のなかでグラートバヅハ郡の数字は、一八三六年六月二八目に郡会︵■彗−
︷、昌が調査した数字を掲げているG・アーデルマソの数字と一部喰い違っている︵く。q−9トま−昌彗■︸易?
機械一八、九四六錘︵合計二九、七七六錘︶、労働者数一、一五一名、となっており、紡錘数の合計は一致しているが、
串申○二軍︶。 G.アーデルマソの数字は、綿紡績工場数一四、ミュール九、二六〇錘、たて糸一、五七〇錘、手動
一7一甲ミ・向、葦露9窒宇ぎ霊げ・豪浸彗向幕二・婁一竃;彗ミ曇§琴・二導。ぎ。・二PN毫
綿紡績工場数 に お い て 二 ほ ど 少 な い 。
○馨巨ま二己勺8寿昌・薫琴O§・菱麦雰一。・ま琴霊易患昌壁P霊・一巨嚢。・、§.なお、J.P.
ベリソグは一七九八年にエルバーフェルトから移住し、メソヘソグラートバツハにおげる最初の綿工業の設立者とた
た︵H邑易巨¢.■。q︸P箏q穿ぎ昌昌胃9邑$9由︸O首→岩O易。。︸易四二PP○・一員虐−司︶。後にみるように、か
った。そして、一八三七年四月二二日に創設されたグラートバヅハニフィト・ノィス商工会議所の初代会頭に選ぱれ
れはまた、メソヘソグラートバツハ選出の議員として一八三七年に第五回ラィソ州議会において児童保護に反対する
︵8︶ 9穴一声鼻◎P串寧O二〇◎一
弁論を展開した。
︵9︶ 考一皇ooo︸胃一H箏箏胃げ9ユ¢げ−−o︸實■目qoo◎N旺−胃cつ↓9岸o〇一N竃.
︶
2 工場主の利潤追及欲11経済的要因
︵
以上のように、機械の導入により﹁初期工業主義は、とくに繊維工業において、大規模に男子労働力を排除し、
その代りに婦人と六∼七才までの児童を働かせた﹂のであるが、これが工場主の利潤追及欲と合致したことはい
︵ユ︶
うまでもない。
すなわち、児童の使用は、第一に、掃人の使用のぼあいと同様に、成年男子労働者の賃銀を引き下げることに
よって、利潤を増大させたからである。 ﹁機械は、労働者家族の全成員を労働市場に投ずることによって、夫の
労働力の価値をその全家族のうえに分割する。だから機械は、かれの労働力の価値を減少させる﹂。そして﹁一
家族が生活するためには、︵たとえぱ1引用者︶いまや四人が、資本のために労働ぼかりでなく、剰余労働を提供
︵2︶
しなげれぼならない﹂。
︵3︶
J・G・ブレツゲルマソの大陸最古の紡績工場においても、紡績業の賃銀は児童の大量使用によって大巾に引
き下げられたといわれている。そして、 一九世紀前半に、多くの労働者家族は、家父の賃銀のみでは生活し得
︵4︶
ず、婦人、児童労働にょる家族賃銀全体によって初めて生存最低限の生活を維持し得たのであった。
︵5︶
もとより、ここで留意すべきことは、機械は決して機械操作のための熟練労働力を排除しなかったという点で
クナツ。フシヤフト ︵6︶
ある。したがって、すべての労働者が生存最低限の生活へと押し下げられたのではたく、一九世紀前半に工場の
︵7︶
専門労働者は、坑夫共済組合所属の坑夫とともにもっとも安定した杜会層を移成していた。この専門労働者の高
賃銀が、一方において機械化促進の一要因となると同時に、他方において、すぐ後にみるように、イギリスの競
争にー対抗するために低賃銀児童労働力の雇傭を不可避にしたのである。初期の工場において、こうした熟練労働
︵8︶
者と不熟練労働者の問での極端た賃銀較差が生じたのは、大衆貧窮と機械のための熟練労働カの陶冶制度の不備
三月前期のプロイセンにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 四三︵二一一︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 四四︵二二一︶
といった事情のもとで、労働市場において不熟練労働力の大量供給と熟練労働力の過少供給が生じたことによっ
ている。
︵9︶
児童の使用は、第二に、労働者の反抗を困難にし、労働日の延長や労働の強度を高めること等を容易にするこ
とによって、工場主の利潤追及欲を満たす役割りを果した。 ﹁機械は、結合労働員のうえに児童および婦人の圧
倒的追加をなすことによって、成年男子労働者がマニュファクチュァにおいて資本の専制支配になお向げていた
反抗を、ついに打破する﹂。このことが、後に考察するように、児童の労働時問や労働条件等の極端な悪化の一
︵10︶
原因となったのである。
ところで、一九世紀前半のブロイセソにあっては、児童労働力の使用は、単に工場主の利潤追及欲一般からの
みでなく、っぎの二要因によってさらに拍車をかけられることになった。
︵11︶
第一は、一八一〇∼一八一一年および一八二〇年のハルデソベルクによる﹁営業の自由﹂の実施が、ツソフト
制度を除去し、その結果、工場主間の経済競争を激化させたことによってである。しかし、いま一っの、先進イ
ギリス資本主義の経済的側圧という要因がヨリ重要な意義をもっていた。
大陸封鎖の解除後、低廉たイギリスの機械製品がドイツ市場に流入し、ドイツの工業、とくに繊維と鉄が破局
の危機に曝された。この事態に対処するため、一八一八年五月二六日にプロィセソ関税法が発布されたのである
︵12︶
が、L.ブレラーは、プロィセソ官僚がA・スミスの自由主義の影響を強く受げていたため、 ﹁それは名前が推
測させるのと異なって、内外に対する自由取引法となった。もとより、その必然的結果として、すたわち外国の
競争商品と外国の新しい機械との氾濫のもとで、プ回イセソ・ドイツにおいて家内工業から工業経営への転化が
︵13︶
開始された。この結果、工場におけるドィソの児童の悲惨が始まったのである﹂と述べている。このように、工
場におげる児童の使用の原因を、一八一八年の関税法が自由貿易を基調としていた点にのみ帰することはできな
いにせよ、先進イギリス資本主義の経済的側圧が児童の使用に抽車をかげたことは否めないであろう。
一八一八年のブロィセソ関税法によって設定された関税率は、そのまま一八三四年に成立したドィツ関税同盟
に引き継がれていくのであるが、W・コソツェは、関税同盟の保護が不十分であったため、当時小規模であった
︵14︶
工業企業家は賃銀の引き下げを余儀なくされたと述べている。また、一八三七年の第五回ライソ州議会において、
︵15︶
児童の労働時問を短縮する提案がなされた時、メソヘソグラートバヅハ、ライト地区選出の議員J・P・ベリソ
− ︵16︶
グは、 ﹁イギリスと競争せんがために﹂との理由でもってこれに反対し、レソネップ、ロソスドルフ地区選出の
議員H・フォソ・バゥアー︵甲く昌霊亮H︶もこれに同調している。
以上のように、一九世紀前半のプロイセソでは、とくに綿紡績業において、工場主の利潤追及欲一般からのみ
でなく、内外の競争、とりわけ先進イギリス資本主義の経済的側圧に対抗するために、児童労働の使用に向げて
一層抽車がかげられたのであった。
︵1︶オ.︸雪ま■H昌胃茎︷¢婁9賢昌︷乙。◎N邑胃c。けp募一畠・。・
︵2︶カール・マルクス﹃資本論﹄長谷部文雄訳、第一部、六四四ぺージ。
︵4︶ くぴq−.オ一〇〇箏N9くo冒v勺ひげo欠N目昌v巾H◎−o$ユ9︽HNOolHN卜
︵3︶く。・一.﹃H.O・彗竃鼻︸・申○二H睾
︵5︶ く。q−・オ・句オoぎ■H⋮胃まけユo巨︸胃昌︷。。0N邑¢Hco薫易一N・。Hい心・。ド前掲拙著、一四五べ−ジ。
︵6︶オ.嚢一一量員窒・巨彗ら■己ミ置壁9しHべ−N鼻︷婁二≦募o事︷;己O・o・。o豪・ぎ津穿o巨彗干考置雪婁一
三月前期のプロイセンにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 四五︵二二二︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
四六︵二一四︶
N◎・ また、 くoq− ∼く¢﹃目0H O◎箏Ng U¢H 団¢胴︷箏目 ︷¢H ︷o■け0Do︸¢目 トユUo岸¢ユU¢ミ¢胴目箏囚一−P オ︸H︷¢員曇﹃ 団¢oooo◎箏 ■目︷
卑庁まO︸耳ヲ目自胃チ○器まお彗︸易。・.一〇霧9一〇軍¢旨q○晶O婁胃葦婁目。・券9P籟卑冒ぎ訂団¢暮O葦旨−
。・彗冒︷冒け婁冨ぎ潟賃向置。・O臣津琴霊易雰亭壁⋮曇ぎ.O争員葬晶$おOげ§軍<冒内◎一夏彗一
ジ、を参照せよ。
卑窒己彗旨︷C0︸昌胃POqまお彗宕竃一〇。睾なお、坑夫共済組合については、前掲拙著、二九九∼三〇〇ぺー
︵7︶曽¢旨∼昌豪ま員昌¢キぎま暑胃豪ま雰¢︷目︷睾巨&9︸9箏ぎぎ目吋弩冒き旨己易三¢昌岸び鶉o邑胃9
︵8︶ 高橋秀行﹁弓8ぎぎ訂O召暮註◎■︷旨○¢ミo︸oとプロイセソエ業技術の近代化−一九世紀プロイセソエ業育成
じO胃序訂−O茎。・冒囚q胃昌叫昌ぎ︸9ぎげ等9患巨0−ぎおH胃9HH.
振興政策研究一1﹂、﹃経済論集﹄、二四巻二・三・四合併号、一九七二年、九九∼一〇〇ぺージ。く県■P易Oき9
旨︷彗︷胃内亭H︵H・◎旨−H・。べ・◎︶一gまお竃畠鼻H0・ドイツでは熟練労働者の不足に対処するため、国家の技術養
C.O巨一二轟O邑豊5巨qOh厚¢巨己邑ま麦9■轟一〇。3P葦Oぎ旨︷旦<四a弓8∼豪O二昌嚢目好5一〇︸霊昌◎く亀
成政策を中心に種六の技術学校やその他の陶冶機関が生み出されていったのであるが、この結果、一八二〇年代以降
用されるようになった︵向区二8−胃.︶。
﹁技術者︵弓8事寿9︶﹂という呼称が拡まっていき、 一八五〇年代以降﹁ユソジニア︵Hお9庁膏︶﹂という乎称が使
︵9︶ オ・司ぎざ■H昌9ぎけ︷o巨o︸9旨︷8N邑ohcっ§易一N0.H・なお、ここで、工業化の初期には、企業家と労働者、
ておきたいと思う。W・フィッシャーはっぎのように述べている。 ﹁初期の労働世界は、それ自体上向と下向の可能
労働者の上層と下層の問に、なお上向と下向の可能性が開かれており、杜会的対流現象の存在していたことに注意し
自身が企業家にたるとすれぱたしかにー異常な特殊たぽあいに1属するのであるが、しかし、労働世界内部においては、か
性をもっており、ヨリ大きな杜会的声望および個人的満足の領域とヨリ小さたそれらの領域とをもっていた。労働者
生き生きと伝えている﹂︵向茎・しc.o−N0.H・︶。そして、その良い例として、オ・空。qoq彗$o戸卑巨昆H目長竃¢巨霧算彗
れは自身の給料や地位を上げる多様た可能性をもっており、労働者や手工業者や杜会主義者の回顧録が、そのことを
なお存在していた︵く県オ◎拝彗帽内警昌彗目一勺◎罧げOぎ昌︷8N邑¢向鼻まO匡冒0q︷實P竃試争い■トま9a易O罫津
く8罫邑ぎ景団旨茅−幸¢箏まま胃讐冨・。べ.を挙げている︵向巨二胃岬.︶。こうした可能性は一八五〇年代においても
H・。蜆○山胃戸貝胃易→幸o拝彗。・雲鼻彗奪3串易帽二買◎ま昌O註募Oぎく9︸婁昌。・。。。・轟O巨O睾¢︵おH甲岩H・。︶一
穴呂目H彗ドおド前掲拙著、一四九、一五八、二三四ぺ−ジをも参照せよ︶。
カール・マルクス﹃資本論﹄長谷部文雄訳、第一部、六五三ぺiジ。
︵10︶
︵u ︶ ミ.嚢−竃昌二U庁ぎ︷ぎぴ・¢宗二冨註巨一彗Cつ艮叫冨;斤肯H−昌ド09己・二9¢ま募〇一5霊く薫¢昌お一。。べ.
巨婁ポ∼99く昌q彗けH晶彗宇二3彗ら胃婁けO箏q窒冨プ彗・つOき冨−け号ぎ≧︷・&患員§昌︸易胴ニ
︵12 ︶ く、. O◎目N9 く◎昌v勺2UoH︿N岸Bv勺H0庁け︸︷∼一小 HHOo.
ト易O・$o巨o葦o昌︷勺○⋮汀字。・薄∼事昌Bべ○.O・争毒葬晶く旨−巨奉一。・雰お。。暮霧。。9b豪竃一qR二竃ト乙S.
︵13︶
なお、く囚−.p宙葦o易一申甲○.一・。.また、一八一八年のプロイセソ関税法の性格については、諸田実﹃ドイツ関税
同盟の成立﹄有斐閣、一九七四年、二一、五四∼五五、七七∼七八ぺ−ジ、を参照せよ。
前掲拙著、二二六ぺージ。
︵14︶
︸.幸.卑夢昌0q.qgP.P○二おO。一お〒お・。.ミOH持竃0q穴9H昌彗P艮O−邑易巨竺O射睾◎巨旨OPP罵一一9占箏O
︵15 ︶ ミ. O◎目N9 く◎8vH。ひげ¢尺N目Bv勺﹃◎H¢けp︷︸け小 HN卜
ぎ訂豪茅まN員O霧9一〇巨¢旨qOO昌9易O罫穿〆冒貧0つ巨看胃“。。甲昌.
︵16︶
ゆ 両親の貧困11杜会的要因
﹁児童労働の第二の局面﹂を招来した第三の要因は、生存最低限の生活を維持するために子供の家計補助を不
可欠とした貧困家庭の存在にあった。
一八二四年一月中旬にデュッセルドルフ政府は、文相アルテソシュタィソに対する報告において、児童雇傭の
原因を両親のエゴィズムと困窮以外には求め得ないと述べ、その理由を、大人が一〇グロッシェソ得るのと同じ
仕事を児童がニグロッシェソ三プフェニッヒで行なうこと、および両親の困窮が、工場が遠方にあるぱあいには、
子供を工場近辺に住む貧乏人のもとに預け、食費や養育費を差し引いた後、六∼七プフェニッヒを子供から得な
三月前期のプロィセソにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 四七︵二一五︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 四八︵二ニハ︶
︵1︶
げればならない程に達していたこと、にあると説明している。
こうした貧窮は、ここで報告されているように、児童労働者が低賃銀であったがゆえに大人の労働にとって代
ったことからのみ生じたのではなく、すでに考察したように、ヨリ広い杜会的背景のなかで、すなわち大衆貧窮
という杜会間題の発生を背景として理解しなげれぼならないことはいうまでもたい。したがって、児童労働を招
来した両親の貧困という杜会的要因は、これまでの考察との関連においては、技術的要因と経済的要因よりもヨ
リ重要な意義をもっているといえよう。
以上のように﹁児童労働の第二の局面﹂を招来した要因として、0D機械の導入という技術的要因、の企業家の
利潤追及欲という経済的要因、倒子供の家計補助を不可欠とする貧困家庭の存在という杜会的要因、を指摘し得
る。そこでつぎに、第二局面におげる児童労働者が・いかなる状態におかれていたのか、の考察にすすむことにし
よう。
︵1︶ ○.穴.ト目ざ■.P串〇一.0ーべ一
2 児童労働者の状態
児童労働者の状態にっいては、まず児童労働者の地域別および部門別分布を検討した後、児童労働者の状況へ
と考察をすすめたいと思う。
0D 児童労働者の地域別および部門別分布
一八二四年六月二六日に文相アルテソシュタイソは、各県庁︵アーヘソ、トリァー、ヶルソ、コブレソツ、デュッ
セルドルフ、アルソスベルク、、ミュソスター、、・・ソデソ、ブレスラウ、リーグニヅツ︶に対して、工場で働いている児童
の年令、健康、風紀、学校教育、労働の種類、労働時問等について一〇の質問を設定し、報告書を作成して回答
ラソトラート コムナールベヘルデソ
することを命じた。各県庁は、報告書の作成を郡会と市町村役所に委任した。郡、市町村では、工場主、校長、
地区の牧師、地方庁の医師、商業身分所属者に対して、かれらの経験にもとづく報告と意見を求め、これを集約
して報告を作成した。このようにして、一八二四年八月から一八二五年八月までに一〇の報告が文相のもとに届
い鴛
そこで、まず、この報告を手がかりにして児童労働者の地域別および部門別分布の考察をすすめていきたいと
思う。そのさい、差当り、ここで、報告が工場主等の意見にもとづいて作成されたことから、G一K.アソトソ
が、たとえぼ児童の健康状態が良好であるとの報告がよせられているばあいにおいても、労働時問や労働環境に
っいての報告を勘案する時、良好であったとは信じ難い等の批判をしぱしば述べているように、報告の信愚性に
一定の限界があったことに注意しておきたいと思う。
G.K.アソトソは、この報告の結果を要約して、工場児童の状態が最悪であった地域がライソラソトとヴェ
ストファーレソ州であり、ザクセン州が比較的好ましい状況にあり、シュレージェソ州とブラソデソブルク州が
︵2︶
両者の中問に位置しているが、総じて弊害が顕著であったと述べている。この報告から、各州において児童を雇
︵3︶
傭していた産業部門および工程を纏めたのが第一四表である。
まず、この表からは各州における児童労働者数が不明であるので、列挙されている産業部門から児童労働者を
多数雇傭していた地域を推定するならぼ、ラィソ、ヴェストファーレソの西部二州にっいで、ブラソデソブルク、
シュレージェソ、ザクセソの諾州をあげることができょう。R・アルトは、一九世紀前半のドィッにおいて、工
三月前期のプロィセンにおげる﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶ 四九︵二一七︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
五〇︵二一八︶
醤崖淋 H◎・違舟万苗陳浅繭轟脈ざ︵ピ・汁茜蔦一 喪﹁﹄箭片9,H融
トH易訂おg申品庁昌お。・げ竃−寿︹〆6咋〆識竃洋難昧︺
H一 勺8弐■Nオooo津邑o■
寄募宕邑oま︹伊6∼〆弗嚇洋洋爵︺11議ラ陣H蛸︵陣e冴浄斗イイ6∼︹◎癌奇推◎難奮洋露威叶薄ぺ片“洋誌呼浸
蝿∼叫か芹掛︶一坤篭鰹罰H蜻︵溝蒔串◎令叫◎単踊一映映吠映洋鮮警◎辻<7一甘舜串eqいメ勝q∼直癖礁︶・陣
紛耀事H蛸︵塵寧9︿叱灌蒔∼陣e浮∼苓ヲ ︷ざヴe藻﹀◎議ぐ・d耳一諦e曹◎埣イ﹀吋凡\嚇e耀餅︶・凡\H
鱗︵温◎茸げOラ欝﹀◎凡\e∼o6q︶一×べ\e伽汁H雛︵Xべ\eト汁◎欝蒔∼串踊︶一欝曹H蛸︵楽勝岬令
登昧H蛸︵醇睦e曹じ昏一壮−斗\e欝◎灘曹隷サワ◎ヰ轟一謙吟婁ヰeヰ轟一串ヰ斗嚇ふ︶◎
ホ◎禽e樽速轡︶一浮法首◎鄭H鹸︵中繁薄de芹ト耳︶一淳6昧H離︵浮6昧潜争﹀e紛商片ぴ‘ノサ紅弗∼踊昧︶・
歯さ紛H鹸︵晒さ紛◎簡歩討︵︶一灌欝H蛸︵登ざ汁怜欝e卦田重サワ◎膏◎圧﹁欝◎串串9一覇e芭o埜歩︶・誌
︿e詳裁一写民時︵繁苓淋礁︶一箪H鹸︵÷箪e寺灌︶。
h5オU9ぎ旨︷H出群瀞H蛸︵薄出藩﹀◎ポ出e昂勲端︶一譜曹瀞H蛸︵譜讃∼尊灘︶一品欝鳶H鏑︵薄出咋隷岬、“
内至。・曽品彗11出欝曹H鮪∼議群灘H鮪︵券6箏券勝竺ポ出尊ぺo∼由す写一薄出一品講鳶e詳事︶一灌欝H蜻︵ベ
穴5オ乙o庁。q彗11講H鮪︵茸講一薄蕾一舞楽一宙すq一楽蝶昧︶一熟欝鮪一群欝ヨ∼円濡H舶︵光、丘∼蝿︷事靱de辞
ヰー眉−\浅∼回−芹掛︶一聴価H蛸︵淋e闘完∼側粛濡煎ぺ︶◎
内5あ≧a量H寧紛H鹸︵ホ跡ラ︶一議ラ陣H鹸∼講群瀞H蛸︵ベヰー司−\警∼こマテト\7警∼回−ヰ掛︶◎
剖e詳華∼鹿淫︶。
内5オ団◎oぎ昌H﹂品欝瀞H蜻e歩づ苗昧寓由◎
穴屋オ9潟11出議曹H蛸︵券勝竺↓璽昧︶一聴栂H鏑︵﹀−、\警∼画弓芹掛︶◎
内邑の団昌811凡\H蛸︵欝﹀◎∼\e∼o6耳︶。
内昌オ穿一◎亭u品薄爾H蛸︵譜群藩苓辮一券蝶昧︶一撃欝鹿欝尋︵ホ蘭一欝燕静ぐ、︶◎
く−己竃胃霊。qぎ昌お。。訂N−宍H−譜尊瀞H蛸一垣斗“メH蛸一L﹂、隠揖H鹸d寓記。
内おオco◎霧戸■甘湯試睾一︸︸昌員オ葦電易置目亘沖由蹄渕轟◎H舶洋ぺ◎
竃︷易叶胃雰。・ざ昌お。。ず9−寿Hい譜群瀞H聾−廿亭H鮪づ涛記◎
U萎・巨冒雪カ曇R;。・。。茅・薫←しoo>e声蹄亨溝と∼讃萎藻H縞d痔逼。
内ぎ巨冒◎く一§
ド
カo阻¢ユお。。げ雷一寿穴ひ巨いい壽書驚H蟻一這曲書驚H縞一︸書H蟻一い↓河とH蜂・い︶光\講H演・−キキ“上叢
声8プ竃胃穴昌庁;お。。訂N一寿1−軍H蛙一斗“×H鹸一書薄H転一議菖H蟻d淳ヨ。
藁きH蟻一−洋すH歯一−マーメH蟻一1、導昧繁H醇一−糞簿H離一−軍H柘・−葦十H藻一−藪兼H蛙・端い“ド◎騒
肉邑警曇げ導=︵・一・一§−い命婁P華よ萎鳶H串い出驚さH聾−灌祭H夢−警十毒紛拶−潜繋罫
揖H鹸。
尾晶一9旨ぴ・。・げ邑鼻箏庁HH繋警辮一斗“×H蟻一−糞ぺ\斗\資磯資ヨ・出・器撃議H鮪・出藁書H潮・−蚕調H蛸・
−温蟻H鎮一購音H鎮一斗︺に−H蜂一寿董料藁藁鳶H鹸。
−塞哨鼻蚕兼H転一菌柾H縞一−灌欝H齢一禽商一湘鴻黙・騎望昧、︶キH麟。
∼◎ま冨COO巨霧−9︹“べ二÷責O旨陣寓曽e糠繭一溝満叶5︹﹂、︺
■晶庄訂胃内晶−胃昌霊げ9︷鼻H尉曲薄藻H鹸一肖斗“メH鹸◎
oo.
零窃一竃胃宋品庁昌烏。。げ0N甘斤H嵩勇卦H鹸一出薫書H蜻一繁薫薄溝H鏑一脈四脈潜亭H鹸一鰹繋ヨ一樽栂H蛸◎
卜
∼oま旨co8雰彗n禽揖H鯖一斗︺︶IH蜻一出驚き一胃尋詩一に光メ斗キ“上×︶\品講鳶H鱗一嘩董灌宙H
巾8く巨N団§目︷o目一U■﹃oq
館一碕潜庫H鹸 。
雰牡R旨。・。。げ置寿胃竃庁巨ユ史○・H曲欝鳶H蜻一斗“メH串卦欝鳶ヰトqH鮪・讃H錬・隠揖H嚇一藩薄H鮪・
蜆.
欝H鏑一沸韻H館。
雰。・−o昌お。・げ置鼻勺◎蒜〇四Bll出講薄H鏑一詣繁鳶H麟一吠ワ脈潜きH蛸一鱈揖H鹸・斗“メH鏑・斗︺o−H離・灌
︸彗り尋邑け雰昌目H出藁書H鹸一吠ワ脈潜啓H鮪一養糸詳滋H鹸一讃H鮪・潜嘩H蛸・洋すH鮪・如脈警◎6昧輝曹
汁汀昧灌庸H蜻一嵌詩H鹸一・九ベペe如汀H蟻一汁、、H串w小ぺH舶一蚕鶉H聾光、\H革糠調灌奇H蜻。
場におげる児童労働力の搾取が大規模に行なわれた三っの地域として、ヴェストファーレソ、ラィソラソト、ザ
クセソ王国をあげている。A・グラーデソによれぽ、報告作成時から二〇数年後の一八四六年におげるプロィセ
︵4︶
三月前期のプロィセソにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 五一︵二一九︶
数
者
働
労
童
児
た
み
に
u
口刀
門
部
業
産
る
げ
お
に
ソ
ロ
セ
イ
プ
の
年
18
46
表
15
第
71
18
13,
9
10
7一
39,
3
73
,
2
,
10
,
156
24
3一
68,
23,
7
76■
一
417
44
6一
1
2拠
O
1,7
57
,
,
,
,
11
995
一
14
29
8,2
■
13
93,
,
合
計
1
87
03,
71
53,
3ユ
86,
393
31,
5
41
7 3
1,2
一47
612
1
一
88,
,
931
i
27
2
O,
−
9 9
0660
,
,
12
7‘ ’O
1484 27238430
33
98
,
871
Fo 3 14
←
7o,U
>31721
6,2
30
1← 0 1
,
F0 1・一
05
11一 〇︶
,
4 1’4
90
1115834 1
2 01 78 02
20,
20651
1
1−一 〇︶
,
7. 8
97F
7o
4 62
74,
8 0558 7
1・0・1← 1←
一
ように一九世紀中葉までは家内工業形態が主であり、五〇年代に力織機が
械紡績の比重が高い点である。そのさい、い織布部門においては、既述の
いては織布部門が圧倒的多数を占めているが、労働者総数との比率では機
働者数が量的にぬきんでている点と、第二に繊維工業のうちで絶対数にお
る。この表において止目すべき点は、第一に繊維工業部門における児童労
門である。この報告からは部門別の児童労働者数が不明なので、一八四六
︵6︶
年におげるプロィセソの児童労働者数を部門別に示したのが第一五表であ
目を惹く産業部門は、繊維工業、金属加工業、煙草、製紙、ガラス等の部
っぎに、児童労働者の部門別分布の考察に移るならば、第一四表から注
る。
ェソ等の諸州もまた看過し得ない状況にあったことを理解し得るのであ
部二州、とりわげラィソ州が重要であり、ブラソデソブルク、シュレージ
を大巾に凌駕していた。以上より、児童労働者数の多い地域としては、西
︵5︶
労働者総数の一四・八勿に当り、プロイセソ全体のばあいの比率六・六%
におげる児童労働者総数の六六%を占めており、これはまた、ラィソ州の
名の六.六%に当り、このうち、ライソ州の児童労働者数は全プロイセソ
ソの児童労働者総数は三一、〇六四人であり、労働者総数四六六、〇三三
立命館経済学︵第二十八巻・第二 号︶
五二︵二二〇︶
%
回
計
.
A
B/
数
1
以1
員才4
1男
業
岬女
満
従未1
才
14男
営
数
経
績布げ粉山業場
3・4.5.6.7.
一織ガ蒲
ユ.2.
導入された後に工場制に移行する点と、の紡績部門と仕上げ部門を比較する時、後者が健康的にははるかに良好
︵7︶
な状態にあり、空気の汚れや熱気も少なく、ただ騒音のみが激しかった点、ゆしたがって、後段で考察するよう
に紡績部門でとりわけ児童労働者の状態が劣悪であった点、を考慮するならぼ、機械紡績部門がとくに問題とな
ってくる。
紡績部門において児童が使用された工程を、一七八四年に設立されたブレッゲルマソのアークラィトエ場を例
として考察するならば、児童は混綿、清掃、流綿の工程で使用されており、一八五三年には一粗紡機︵くO畠旦昌−
昌馨巨亮︶当り一人の大人に五人の児童が必要とされたといわれ、少女の働いた工程としては紡績場での手伝い
︵︸彗昌彗鷺ユ昌彗巨○っo−箏易邑︶、糸っぎ︵ト己鳥プ竃。・o寸家彗胃霊︷彗︶およびごみ掃除︵トまぎ∼彗︷窃声睾p房︶が
︵8︶
挙げられる。
以上、児童労働者の地域別および部門別分布の考察から、児童労働者がもっとも多数雇傭されていたのが、ラ
ィソ州におげる綿紡績工場であること、および児童の雇傭が西部二州のみでなく、ブラソデソブルク、シュレー
ジェソ等の諸州におげる多彩な産業部門に及んでいたこと、の二点が注目される。この点から、後段で考察する
ように、一八三九年の児童保護規定の制定の要望が、綿紡績工場に1おいて多数の児童労働者を使用していたラィ
ソ州の第五回州議会で問題とされ、可決された後、規定の制定に当り、その適用地域が、ラィソ州以外の諸州に1
おいても多彩な産業部門において児童が雇傭されていたがゆえに、全プロイセソを対象として発布されるに至っ
た事情を理解し得るであろう。ではっぎに、児童労働者の状態にっいての考察にすすむことにしよう。
︵1︶ 9内・声鼻◎P2串○ニベよ・たお、回状指令の全文は、く県向げaH雪.宗・◎一
三月前期のブロィセソにおける﹁杜会間題﹂目︵川木︶ 五三︵二二一︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
︵2︶向茎.一睾
五四︵二二二︶
︵3︶ 票3o。.§より作成。たお、既述のように、ここで使用されている工場という言葉の概念は暖味であることに注
︵4︶ 甲ト岸曽易閑二申四一〇二崖一
意せよ。
︵5︶ キ9邑竃一P中○二き一H偉.なお、この数字は、○o考oまo−弓き邑¢︷9墨げH寿き◎易.声易邑け竃■箏︷ヨ事寿・
■90昌争昌彗。・彗当實声﹃二目。・琴艘︸彗O。↓葦彗︷易N◎〒く99易墨9宗昌声■才註昌彗ぎく◎量二︶SO昌げ胃
︵6︶司︸■塞・宇書旨・く旨射&・P睾毒ま−冒︷く導浄。・−c・茎。・寿象嚢呉。・叶凹義串9雷P巨嚢祭ざ︸章
Ho◎豪・にもとづいている。
ま二U︸曇9旨讐U胃昌。。冨鼻H・。革ミo・および5−甲−邑ミ昇串串O二さ・より作成。なお、く県肉・内8o−
︵7︶ 穴一1︸.■■︷ミ厨一串PO二8.
自9打串O忌彗署ぎざ■零雪昌暮q雰き一ま◎P窒◎・−30.
︵8︶ 向げ3竈・なお、織布業と仕上げ業、および第一五表において多数の児童が就業している鉱山業において児童が使
用された工程はっぎの如くであった。
用され、他の手織機のぱあいには、織布親方に一人の児童が手助げするのが原則であり、世紀の中葉にはこのグルー
綿織物業のぱあい、柄織り手織機のぱあいには、織布の問に柄軸を上へ引っぱるいわゆる﹁N庁亘旨鷺﹂として使
糸っぎに従事した。ただし、一八〇五年に発明されたジャヵード織機のぱあいには、﹁簑oど旨。qo﹂は不必要であった。
プで通常二台の手織機を操作したといわれる。少女のぱあいには、靴下やレース編み業で多数が働かされ、手伝いと
仕上げ業のぱあい、漂白は、一九世紀初頭より屋外の布さらし場から屋内の塩素漂白に移行したため、児童労働者
﹁画工︵8胴・COO巨崖Oユ昌彗昌岸︷¢昌ト易昌当彗旨︷ト易訂窪0H箏q胃︸竃争&昌O奪彗Oり一◎蔚︶﹂として使用され、
数が減少し、主として捺染において使用された。すなわち、少女は手プリソト布地に染料をぬって修理するいわゆる
少年は模様捺染のさい着色された皮をなでるいわゆる﹁なでつげ児童︵。。◎oq・oo芹9o寿−己胃一票¢げoぎく◎宗冒昌鼻
亀¢句胃巨&胃豊げ窃吋O︷9彗罫箒目︶﹂および染色場での手伝い︵曽彗昌彗ぴq胃︶として使用された︵向巨二8−べP︶。
鉱山業では、工業化以前より児童が使用されており、坑外労働としては選別︵匿竃訂盲轟¢︶、破砕︵勺OO亘旨。qO︶、
掃除︵○。竃まユ昌0q¢︶、選鉱︵000ぎ己且昌0q¢︶、洗鉱︵事註Oぎ旨お0︶に従事し、一九世紀に入ってもなお坑内労働も
存続していたが、 一八五四年八月一二日の回状指令︵9畠N庁ぎ−胃−く胃昏oq旨。q︸易団邑ぎ︸昌鼻声お易けHo。算︶
によりニハ歳未満の坑内労働が禁止された︵望q二事︶。
の 児童労働者の状態
一九世紀に入ってドィッにおいて﹁児童労働の第二の局面﹂を招来したのは、っぎのような事清であった。す
なわち、一方において伝統的身分杜会の束縛からの解放と他方におげる初期の工場の雇傭能カの小から生じた大
衆貧窮、それと初期の工業化が必要とした新しい熟練労働力の不足から、労働市場において不熟練労働力の大量
供給と熟練労働力の過少供給が生じた。こうして初期の工場の労働者は、高賃銀を得る一部熟練労働者と低賃銀
不熟練労働者群に大きく二分され、これをとりまいて尤大な産業予備軍が形成された。
こうした事情のもとで﹁児童労働の第二の局面﹂を招来したのは、児童の活動分野が機械の導入により新たに
開かれたところへ、工場主の側からする、熟練労働者の高賃銀のもとで、イギリスの経済的側圧に対抗しなげれ
ぼならないという至上命令にもとづく、成人不熟練労働者よりもさらに低賃銀の児童労働力の雇傭の必要と、両
親の側からする、大衆貧窮のもとで、家計補助収入が不可欠であったという事情であった。これまでの考察の以
上の要約からも、たとえぼ大衆貧窮という杜会的背景や不熟練労働力の大量供給という労働市場のあり方、さら
にはイギリスの経済的側圧への対抗という工場主の至上命令といった点からも、児童労働者が悲惨た状態におか
︵1︶
れたであろうことは容易に推察し得るところである。
第ニハ表は、一八二四年の回状指令に対する各県庁の報告書から児童労働者の状態︵年齢、労働時問、労働環境、
三月前期のプロィセンにおける﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 五五︵二二三︶
●
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 五六︵二二四︶
健康状態、風紀等︶を纏めたものである。既述のように、この報告書は工場主等の意見にもとづいて作成されたの
で、児童労働者の状態が事実よりもはるかに美化されて報告されていると思われるのであるが、それでもヴェス
トファーレソ州アルソスベルク県イザー回ーソ郡やラィソ州のデュヅセルドルフ県の状態を一瞥しただげで、悲
惨な状況の一端を知ることができよう。っぎに、児童労働者がもっとも多数使用されていたラィン州の綿紡績工
場を中心に、児童労働者の状態をヨリ立ち入って考察することにしよう。
︵2︶
措畠鮒 易農争戸断耳小苗蹄峡璽昧e洋爵
H一 巾8ま自N事¢ooけ敏−¢箏
寄¢オ家まま11﹁担︹弗、瞬洋*蜘︵o巨、§∼易−彗塞ま匡、︶﹂
声旨。・訂お實宛晶︷胃旨暢げ竃−津
舟嚢11婁﹁害︹片◎瀬洋ぴ渋一熱弁号芦o勲◎
峡璽轟国1−怜チ閥ふ涛南く映づ。覇智叶ぺべ蟄o塀サヴ涛o・塀艸づ一哨請再︵芦涛囲峡璽◎
峡璽崩灘∼轟鶏11繭欧◎怜ぐ!溝ラ婁脚戸解癖吠ざ一陰6べ璽竺津∼枇行芦∼︿行嫡栖浅9∼ぐ韓rラ砥蕪︵尋
沖︵津璽。坤篭H蛸d芦雌嘩H簡づ∼︿戸ぴくぺ片w呼玲と冷イ叫◎e潜戸片デ議ラ卑H蜻d芦一陣◎諾如◎呼
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ま簑簿溝齋占H溺含ぎ串鳶睡斗べ婁,涛eさ墨−簸琶暮e叫昧簑轟塗£ヲ露澤
品講書H鹸d再水装戸菖o◎尋サワ涛べ尋映d一海崔声¢尋dソヴベ尋映d。
妥〒漕爵﹁汁芦イ簿費。薄婁詞澤口涛蚕。箪H鯖d奪鴬薄訪一羊言雷、ツ・。烹亀、巾奮まソ
蟹婁叶口。
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ワ碗尋斜d。崖爵ロト戸十罫○。︵“︶尋サワHH尋叫づ。
舟蓼Hco爵片c ◎
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翼誰11鯛︿弄洋ピノ。
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舟奪糞垂→叢H誓誓爵阜彗。・章ミ奮尋貸。琴愉一H津蕃弩鯖貧﹁よ鼻琴一璽
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蜜〒埣紛H鮪︵戸イさサqe吠ラ奮薄雪e卦映苓曽呼ご、マ、、呼薄言ユ繭芦
濤轟11準紛繕 庸 e 吠 ラ 濠 覇 法 怜 ピ 、 。
舟奪塗薫干壽H蛸糞Ho聾・婁灘一、妻慕苫三昇令警雪、ミ亜基グ索賛夢誰質津円高
内8オoつ庁oqo目
H蟻d再o勲サヴ崇難。載口co∼H◎犀国昧蓮。
詳嚢印11蒔∼﹁画弓片ごい弱三。蝉雪e斗×7一︹昨諜﹁蔓室、江畢映deH扉国e如賄嚇呼漁9さ比竺、苗
塗婁腎溝齋←百鮪づ墨奪訴室茸奪洋暗津商轡◎ケ蔓一毒貰・一嚢踊◎享葎番雲昨黙・蒲賢鏑d
一荘O汁瞭漢臭慕﹁資訓呼爵皐叫び尋警呼§◎d二纂サま暴d芹鍛プ酷堂い簑二婁∼ヨ婁峠
穴お〆団◎9■冒H−品曹瀞H鯖◎舟d歯康商由。
隣◎舟呼熟由。
肯肇∼塗轡事葭←○勲サ讐m灘一醤閉扉十サワ涛・。扉映dグ煎済辱理什潔と∼洋﹁
三月前期のプロイセソにおげる﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶ 五七︵二二五︶
立命館経済学︵第二十八巻.第二号︶ 五八︵二二六︶
霧HH護蓋癬軍薄蟹ま夢−ま箒巽算;!撃∼蟹剛募ダ
峡璽崩蹄11向卦暑瞬請◎か︶︹−壁︹蔑蛋映き−四丑時げO←9づ暗欺法蝋二
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蝉坤11込斗茸洋すざび9爵峡サヴ轡湘テ。
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舟肇H出難鳶H蛸d粛畠勲。萬揖H飾づ声o∼畠爵。
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塑誼11禽e南蹄∼牒ワ叫一蝉功戸声﹁十ヰ洋﹂彊融◎
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H︵﹃o−oo団ユー◎■
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射ooqげ﹃目■胴ooげ0N弍斥く饒目o〇一〇﹃
舟嚢11い譜群瀞H蛸∼−却亭H蛸づo∼畠熱。
璽◎
嚢纂蓑苧よ繋腎警募籔海津譲◎裏幕呂。・鴛裏璽◎禽・いH警嚢奪映裏
ド肉ざ,写Oま冨
内品庁;馬。。訂N庁斥一U豪。。odoユー1coし○◎>e帝謀︾欝諜H辮一叶く戸事菖瀞H鮪づ婁︿。
舟蓼1−o∼H。。爵。穴5庁Ood¢昌de舟ト勲サヴ痔誼。
喬杭淋H潮冊一洋魯一“庁身、︶洋‘!漆当↓川呼筐“一﹁汁コ一“汁さ−汀﹂へ畠灯一い︶︿←■﹃6汁や岬訂一h︶︿ざぺいく“・9“叶︹“比洋一一叫
曝璽尋雪Ho∼H○尋覇e国。穴毒オoo巳¢昌づ声H覇>さ”、日、尋き︵涛冨導婁。
eびラざ咋涛轟◎。﹁舟一向トホ︿一弁3畿寺。 ﹁卓く片c蝋粛肝諦サワgc撃吠ざ一球嚇回印声呼労ピ如∼弗嚇◎w
雰阻胃旨。・。・訂N薫ぎO︸彗
げづ巌ピ汁↓共洋“菜﹂。
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﹁0勲サヴ半、彗︹怜欝e苗酔き轡誉O∼畠回叫彗公艸。。∼HO尋壁轡く。洋聾片き“藷玲◎
球璽尋理11、亭\頬づ冨HH.蜆∼崖尋雪。︺、マ\、掴HH∼崖尋理。7︶\−吊・。∼崖華理◎︺、マ\、荊咋7に\−
舟奪1ーご・\碧ま欝サヴ。・、マ\、碧汁べ灘一ニベー碧片・。勲サヴ一
叛づ再涛国◎ H O 扉 雷 塗 轡 か 渉 小 。
轟融11、亭\詞e欝議H鏑∼︺、マ\、涌オ彗三&eH館d◎舟粥ラ。、、\詞e讃H漣d芦轟旨∼罫謙薄︵鰯脈
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ざび。時6汁映映eヰ娯e汁浮一砲蔓汁斗ゴ砲羅萬戸ササび◎涼∼出d葛ざ汁暗域呼黒w︹∼サ“栗潟轟映。禽弄
O◎. 勺H◎く−■N 000ブー000︷¢一P
員諮1ーオ彗三&き図e如粥ラ叶碧オ。さ一片憩功か吊.尋∼嵩玲。
肯蓼1Io勲サ“峡魯。
射o阻g旨暢げ竃斥斤巨晶目ぎ
昧璽尋理H譜尊繭H鹸d冨蟄c◎尋サワ涛o◎昂鼎d。斗“メH鹸d口兼覇戸8耳萬一灌事苓舜戸HN尋理呼糊叫び◎グ
涛覇峡璽汝洋吠ざび。
溝融11斗“ヌH鹸e舟づ身謹e升∼づ煎涛昧薄サ饒洋︸oざびed砕叱昌汁愚嘩一掛濁ぺ汁茸ビ。舜>ポ詰d磁鍛一妻
内¢阻¢昌潟。・一U竃マ斥零¢。。H警
繭掛蝉仙砲尋鴇∼洋O;O爵汗﹃◎帝討芦魯宰◎汁前﹁弟暮薬菖プ良糧∼神用玲一
三月前期のプロイセ三﹂おげる﹁杜会問題﹂員︵川本︶ 五九︵二二七︶
卜
切.
立命館経済 学 ︵ 第 二 十 八 巻 ・ 第 二 号 ︶
峡璽華理1IHo∼崖再国。
舟薮11。。勲営ワ峡璽。
勺H◎ま■Ncつpo︸coo■
溝瓢一勇誼∼ゲ唐萄づ一爵書蹄酋づ良糊∼麹甫。
○勲d、ワり∼崖事理球璽。雰。・−胃昌。・。。げ竃一宍卑︷膏けd誉o勲サ巨◎∼HH塀囲昧璽。
六〇︵二二八︶
舟薮∼峡璽堺理11雰阻¢昌お・。ぎN薫竃婁o巨おd弄o勲サヴo∼S揖理峡璽。雰。・︷o昌謁。・ぎN薫睾晶︷oぎおづ声
癬親11Hミ︼ミ7堀◎碑潜蒔H鹸d節粥。撞涛一煎跨一冷跨◎弁彊轟理酎>ざ︵一督ト華サヴ、斗o昂映d嚢凍輿◎
翼諮11×ミ氏、ミ、洞e−キキ“uH潮帥罪昧府雫。
脚峡璽◎
卑Oま冨卑彗︷彗巨お
射畳§壱蓮薫巾・房O§d二〇◎O言壷竺申岱。・勲片◎撞蜆∼0翌子涛0∼◎。珊鼎dN畢囲◎丑繁d璽
舟臨沙∼峡土轡堺理11内ooq︷¢H目目oqoりげoN寸斤句H四箏斤︷■ユ︸\O・d“汁べNo>◎︸巾︺鮒“1轡岬一 〇∼Hべ餓d峡趣一轟国甲片べ∼Ho珊理o
釦d警>︶法璽竺べ∼H姦d汁婁ヰ菩?お勢峨璽揖璽鮪H軍国一伸べ華国一魯享聲・糊︸球警・謙掛叫
︿。﹄⋮欝薄H蛸づ声涛o◎罪サヴ哲蜆塀沖d。曽彗o葬&け吋邑9づ芦Ho◎轟舟行一H8>︵ひヅ脈ワ脈潜浮H鹸e
小映浄o◎
溝溺11︼“\、、ミニ\>斗Hメ斗−斗亭叛づ艸涛国峡璽雌渋坤吠浮汁癌嘩。光、、ト掴d芦曲欝魯H鮪◎舟
蝿ぐ、∼難昨◎疎婁ム亭︶\d芦溝鶏洋麓粛粥︿洋7∼難甫◎
輿誼11、“\、ご;・\>斗Hメ斗1さマ頬d艸蝸︿一慨薄蝉埜汁↓十ヰ。光、、ト師d戸拭d↓騎智洋肝
Ns>法皿爾∼涛蚕◎如薄功一3>む一灘酎呼怜く浄9︵ラ洋ラ∼難酔。
諦呼叫小片oデ駕紺洋H鹸冊e調講↓戸浄か斗法藩怜d一慨薄蝉坤声↓十ヰ。坤嶺ムミ︶\d弄一劃誰∼蹴域蹄
︵酋揮e溝蝉峡璽黙嫡叶酋糊洋寓罧曽﹀◎愈亘e潜健呼ぎ俳薄灘埜汁。。$>“〃議砲洋洋舜ミ。・>凶斗十ジ
まず、年齢では、第一六表のラィソ州デュヅセルドルフ県ゲルデルソ郡におげる四才からの使用が例外として
注目されるが、A.トゥーソは、一八三九年以前において、また一八五〇年代に至ってもなお、この県では六∼
︵3︶
九才の児童の使用が普通であ一たと述べている。この点は、第ニハ表から、シユレージ一ソ、ザクセソ、ブラソ
デソブルクの諸州にーおいても同じであったといえよう。
こうした年令の児童は、両親の貧困を考察したさいの例が示すように、工場近辺の貧乏人の家庭から通勤した
ばあいもあったが、多くのぼあいは、白宅通勤であったと思われる。本格的な工業化の進行が開始していた一八
五三年において差お、一八五三年法の草案を審議するために形成された下院の委員会は、イギリスの工場が通
纂気力を使用しているため、ある地域に密集して存在しているのに対し、プロイセソの工場が水力に依存共
いるので・農村に分散して存在しており、その結果、年少労働力の不足の恐れは非常に稀であったと述べている。
他方・二〇世紀初頭におげる二ーダーライソ綿工業の労働者の居住地にっいて、H.ヘルタースは、綿工場が
鉄工業や鉱山業におげるようにー急速に成長して、ある中心地に集中しないで、農村に分散していたため、労働者
︵5︶
の大部分は土着民であり、小土地を所有して農業を兼営しており、住宅問題は発生しなかったと述べている。以
上に加えて、第ニハ表のブラソデソブルク州ポツダム県やベルリソの報告に・おいて、自宅で不規則な生活を送り、
両親の粗野な行動を見習うよりも、工場で働いた方がよいと述べている点をも勘案するならば、児童の多くが自
宅通勤者であったと推定してほぼ問違いないであろう。しかし、同時に、一九世紀前半のライソ地方では、さき
にみたバルメソの例が示すように、繊維工業の工業化の進展に伴ない、近辺移動を中心とする人口移動が生じ、
ナーヴアソ、テルソク
都市への人口集中も進行していたことを看過してはならない。
労働時間は・アー一ソの毛織物業のぼあい、家内工業経営の時代には朝七時かを七時までであつたのが、機
械が導入されて以後、朝六時から夜八時までに延長され、同じことが紡績業と霧立て業においても生じたといわ
三月前期のプロイセソにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 六一︵二二九︶
一篶命館経済学一第二十八巻.第二号一 六二一二三・一
れている。。.W.一ルドブリユヅガ、も、機械の使用が人問を生産の道具と化し・児童と婦人が一〇時問から
一四時問鹿かされたと述べている。一八七〇年代においても、繊維工業におげる労働時問は最少三時問・通
︵7︶
∼∼時∼∼∼∼一∼
1416問14121 4 1 4 1 2 1 2
間間で問問間問間間
時時ま時時時時時時
︵9︶
時問は、第一七表の如くであった。
し得るところである。ちなみに、一八二五年のドィツ各地におげる児童の労働
常一四上五時間、しぼしば二一上七時問に及んでいたのである噂同じ状況が・第二一表から壷白に看取
間
なわれるのが常であったからである。すなわち、 二人の労働者が多数の機械
というのは、初期の工場においては、機械の操作は労働者のグルーブにより行
こうした労働時問は成年男子労働者の労働時問と密接な関連をもっていた。
t g g
吐
乱
時
1071510691378
働
労 0一
の
土里
・血屹 肋肋m
BFLEMMPBS
問問問で間問間間間間
鵬塒鵬叢鵬鵬鵬塒鵬
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ゲソコルプ︵U、胴。鼻◎写がこれに反対し、六時問に制限することを主張した時・
働時問を七時問に制限することが提案されたさい、下院の審議において・デー
したがって、たとえば一八五三年法の草案において二一∼一四才の児止里の労
まま工場に移されたのである﹂。
︵ユo︶
場合によっては他人の子供が自分の子供の代りにたるとしても、しばしばその
揮する。繊維工業、とくに織布工場の初期には、家内織布業の家族的性格が・
機能に対して責任をもち、かれに付属する補助労働者、つまり婦人と児童を指
まさに、、労働グループ的性格が支配的である。ある一人が労働グループの
を操作するのではたく、多数の労働者が一台の機械を操作する初期にあっては
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その理由の一っとして成年労働者の労働時問が一般的に一二時間であるので、七時問としたぼあい、年少労働者
︵11︶
の一四時問二交代制︵Oo暑穿o巨o葦︶と矛盾することを挙げており、K・lH・ルートヴィッヒもまた、﹁一八五
三年の法律によって一二∼二二才の労働時問が短縮されたことが、繊維工業の多くの企業家にかなりの期問の過
渡期を設けることを懇願させた根拠であった。そのさい、二倍の︵?︶数の年少労働力を、圧倒的に農業を営ん
でいる杜会において調達してくることの困難が指摘されたのみでなく、年少者と成人との問で必要であった技術
的に制約された協力関係が指摘された。人は労働時問の最近の制限を、それに、より工場経営が高度に阻害される
︵12︶
であろうがゆえに、一般的禁止と同一視したのである﹂と述べている。
以上より、初期の工場においては機械の操作が労働者グループによって行なわれるのが常であったため、成年
労働者と年少労働者の労働時間の問に密接な関係があったことが明白であろう。紡績工場では、一八五二年のグ
︵13︶
ラートバッハ郡において、手紡績機のぼあい、通常大人一人に年少労働者一名が付いたといわれ、また、一八五
︵14︶
三年に粗紡機の操作には一人の大人に五名の児童が必要であり、古い紡績機のばあい大人一人に子供三名、新式
︵15︶
のイギリス機械のぼあい一名の子供が必要であったといわれている。
織布業では、柄織り機のぼあい、織布工以外に二名のいわゆるセN宥旦暮電、、と呼ばれる補助を必要とし、そ
︵16︶
の他の手織機のばあい、織布親方に一名の児童が必要とされた。ただし、織布業のぼあい、一八四六年に六、六
︵17︶
○○名の児童は工場においてではなく、織布工の家で働いていた。
児童の雇傭にっいては、W・フィッシャーがっぎのように述べている。 ﹁マニュファクチュァと初期の工場が
労働者契約制度︵ぎぎま鼻昌蔓芽ゑ¢昌︶を利用したことは、しぼしぼ観察されているところであるが、そのさ
三月前期のプロイセソにおげる﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶ 六三︵二三一︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 六四︵二三二︶
いには特定の労働過程がある個人︵親方、下級親方自津g豪ゑ胃、等︶に委託され、 かれが労働者を雇傭し、労働
者に賃銀を支払った。この制度が行なわれたと思われるのは、常にある生産過程がなお完全に完成されていない
か、または徹底した変容に服していない時においてである。それゆえに、この制度は、一八世紀と一九世紀初頭
に、ある生産過程、たとえぼ織物捺染の、手工業から集中経営への移行にさいして現われた﹂と。
︵18︶
︵20︶
一九世紀前半における労働者契約制度は、捺染業における熟練労働者によるいわゆる﹁なでっげ児童﹂の雇傭
や、ヵラスエ場におけるガラス吹き人︵g易雪器胃︶による自分の子供や他人の子供の雇傭において認められ、同
“ ︵20︶
︵21︶
様のことが小鉄工業や製紙工場においても行なわれたといわれている。
紡績工場のばあい、一八四四年のクロムフォードエ場の工場規則によると、紡績工程においては、紡績工が児
童を雇傭したが、認可権が工場主にあり、かれらの使用も紡績工によって工場規則に従ってなされた。工場規則
の第一〇条と第一一条にはつぎのように観定されている。
︵22︶
一八四四年のクロムフォードにおけるJ・G・ブリュッゲルマンの工場に対する工場規則︵句きユぎま昌お︷言皇¢司凹−
巨吋・旨−・︸・○・奉・団昌。・9§昌巨9・昌気=・。拝一
第一〇条。紡績工は木管配当工︵ト■埣8ぎ﹃︶と取りっげ工︵声■昌胃︸胃︶を自分で調達したげればならない。しかし、
権利を行使する権限をもっ。
工場主が認可の権利と必要なばあいにはかれらを解雇する権利を留保し、通常は紡績親方が工場主の名前においてこれらの
第二条。紡績工は木管配当工と取りっげ工に課せられた仕事を勤勉に、時間を厳守して行たうようにさせねぱたらず、
かれらが許可なく機械を離れることを認めてはならない。紡績工は木管配当工と取りっげ工を厳しく厳格に、しかも上手に
取り扱わねぱならず、かれらの万一の怠慢または不従順のさいには直ちに紡績親方にそのことを報告したけれぱならたい。
この規定から、熟練労働者によって自分の子供か他人の子供が雇傭されたが、認可権は工場主にあり、児童労
働者の状態についても、工場主が一切の責任をもっていたことが明白である。
賃銀は非常に低かった。さきの例では、大人が一〇グロツシェソでする同じ仕事を児童はニグロッシェソ三プ
フェニッ.ヒで行なった。デュッセルドルフ県の他の紡績工場の例では、一八二三年に小さい子はニグロッシェソ、
︵23︶
大きい子が三グロッシェソを支払われ、六才の子供が昼夜交替の労働に従事していた。一八四四年に二−ダーラ
イソのある紡績工場では、一二名の労働者のうち、五四名が年少労働者であり、一日の賃銀の総支出額が七〇
マルクであった。労働老のうちで、最高給与所得者は粗紡工︵雰まお−己9く◎易旦旨¢H︶であって、 一目の平均賃
︵24︶
銀は一.九〇マルクであり、年少労働者の最低賃銀は二一ニプフェニッヒであった。以上の例から、年少労働者が
甚だしい低賃銀で働いていたことが明白であろう。
ところで、賃銀の支払い形態としては、繊維工業のぼあい、通常ある生産過程が労働者グループの請負労働
︵声寿◎a胃げo6に委ねられていたため、﹁熟練労働者の賃銀は、しばしば総賃銀︵串葦o婁星︶であり、そのうち
︵25︶
から手伝いの賃銀と、ほとんどのぼあい、原料費もまた引かれたのである﹂。この総賃銀額は、紡績工場のぼあ
ゲヒル7エソ ︵26︶
い、生産された紡糸の一定量に対する統一的な率で計算され、織布工場のぼあい、織られた出来高によるか、ま
たは横糸の数により 決 め ら れ た 。
︵27︶
一九世紀前半の具体的事例は不明であるので、一八七二年のク回ムフォードの紡績工場の例を示すならば、一
台の自動、、、ユール紡機を昼夜四名づつ、計八名で操作し、請負給は、八名の団体請負︵9君潟畠葬◎a︶の形で、
すなわち昼夜の作業方に分離しないで、総生産高に対して計算された。いま、グループAとBが、一四日ごとの
シ ヒ ︸
三月前期のプロイセンにおげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 六五︵二三三︶
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計算は一四日ごとで、週末にではたく、週の中問のある目に支払われた。
︵29︶
の準備作業には目賃銀が支払われ、織布工には出来高賃銀が支払われている。賃銀の
布工場のぱあい、繰返し機械や撚糸機械︵o。り巨−昌︷寒ぎ昌馨崖■︶におげる年少少女
の日給で働く補助少女が片附げた。硫綿と打綿の補助少女も日賃銀を支給された。織
た糸わくを取り外す作業を行ない、出来高賃銀を得た。取り外された糸わくは、年少
二人で請負給を得た。精紡機では、婦人精紡工が空の糸わくを取りっげ、一杯になっ
婦人労働者と一名の見習い︵5∼昌ぎ︸彗︶としての年少女子労働者により操作され、
二〇世紀初頭の二ーダーライン綿工業では、紡績工場のばあい、粗紡機は、一名の
いる。
︵28︶
に自動ミュール紡機からリソグ紡機︵雲箏暢旦;昌馨巨目︶へと移行するまで保たれて
弊害を防ぐため、会杜の会計︵■◎ま蓄8︶によりなされた。この関係は、一八九四年
る。また、補助労働者への賃銀の支私いは、紡績工によってなされることから生じる
に分かれ、後者の労働時間の方が長いこともあって、賃銀の分配額が高くたってい
間労働が禁止されていたため、昼問労働専用の年少労働者と夜間労働専用の年長若者
ルクを得て、第一八表のように分配した。このさい、木管配当工は、年少労働者の夜
二週は夜問労働を行たい、Bはその逆とたる。グループAとBの紡績工は各一〇〇マ
支払いで、二〇〇マルクの請負給を得たとする。グループAは第一週は昼間労働、第
二
号
︶ 六六︵二三四︶
立命館経済学︵第二十 八 巻 ・第
●
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工工つ木木
績紡り間間
紡問取昼夜
一九世紀前半の繊維工業において、児童労働者に具体的にどのように賃銀が支払われたのか、についての資料
がないので・一八七〇年以降の事例を示したのであるが、以上の例から、一九世紀前半に、多くのばあい、児童
労働者は、ある生産過程を請負った労働者のグループの一員として、団体請負給のなかから、熟練労働者により
時間賃銀の彩態で支払いを受けたのではないかと推定される。
最後に・作業環境にーっいては、まず、初期の工場の作業空問は非常に狭かった。クロムフオードの工場は、
﹁六階建てで、低い天井をもった広問に狭い窓がっき、機械が並んでいた。水車場は狭く、やせた若者でも水車
と壁の問を注意深く通らなげれぼならなかった﹂。こうした狭い空問の壕と騒音のなかで作業が行なわれた。ア
︵30︶
ーヘソのある工場では、﹁天井の低い空問に、戸を通して挨っぽく熱い空気が流れ込んでくる。⋮綿紡績では
もっともひどく壕が立っ。綿花を急速に1かきまぜ、流きほぐし、清掃する時、物凄い挨がのどに入る。騒音は、
言葉が全然聞きとれないほど喧しい﹂といった状況であった。
︵31︶
こうした空問で、 ﹁工場制度の始めには、⋮⋮すべての人が区別なしに1並んで仕事をした。子供、一〇代半ば
の若者と少女、男子と婦人が過熱した都屋のたかで、一枚のシヤツとスカートを着たのみである。各人の養恥心
が消え失せ、語調が服装に照応して際限なく粗野にたっていき、神経の興奮する薄暮と、背中と背中、または体
︵32︶
の側面と側面が触れ合って働く夜問には、粗野塗言葉がたお粗野な行動へと移行したのである﹂。
このような環境のもとでの児童労働の結果はっぎの如くであった。 ﹁児童はいっも成人と整列して働いた。全
労働時問の間、児童はぶっ通しで工場にいた。しぱしばただ一片のパソのみであった昼食すらも、かれらは紡績
場の挨とともに自分自身のたかへのみ込んだ。自由な空気のなかでの運動は間題外であった。悪天侯や寒い時に
三月前期のブロイセソに,おげる﹁杜会間題﹂嘗︵川本︶ 六七︵二三五︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶ 六八︵二三六︶
露出部分の多いみすぼらしい衣服を着ていて、どこへかれらは行くことができようか。結果はっぎの如くであっ
た。虚弱児で、疲労困燈し、頭はかさぶただらげで、目はただれ、胸は肺病を病み、胃は痛み、かれらは丘ハ役義
務の役に立たず、学校にも行かない。このような者は、いったんはどうしようかと迷うが、それにもかかわらず、
少くとも、いつもは職工長︵事¢津暮家3の恐ろしい声が奪い去る、しばしの眠りと憩いを手に入れる。学校教
育は問題外であり、多くの者はかれらの年令を知らず、またかなりの者は自分の名前もまったく知らなかっ楡“
少女のばあい、通常工場は自宅から数時問離れた急流の辺りにあったため、雪や寒い時、または風雨の時、他
の労働者とともに、綿くずとごみを部屋の隅に集め、自宅の固い寝床よりも暖く、かっ柔かくして寝た。 ﹁明か
りが消された。集っぽく、悪臭の満ちた広問のなかには、まどろみの平和は始まらなかった。いな、子供が野蛮
な享楽の観客者を演じる驚くべき放縦が始まった。仕事が真夜中、または朝の三時頃終る時には、少女は一目中
休養をとり、⋮⋮床のうえに転がっていたのである﹂。
︵34︶
れたこと、工場主にとってイギリスの競争に対抗するために低賃銀児童労働者を雇傭することが至上命令になっ
以上のように、プ回イセンにおいては、一九世紀に入って、機械の導入によって児童労働の新しい分野が開か
たこと、および大衆貧窮という杜会的背景のもとで両親にもまた子供の家計補助収入が必要となったこと、等の
要因が重なり合って、 ﹁児童労働の第二の局面﹂が始まった。こうして、児童労働は、工業化の進展したプ肩イ
センの各地において、新たな展開を遂げるに至ったのであるが、とりわげラィソ州の綿紡績業に集中していた・
児童は、熟練労働者の監督のもとで、集と悪臭に満ちた狭い空問と非道徳的な環境のなかで、長時問の低賃銀労
働を強いられた結果、就学義務を果さず、兵役義務の役にも立たない、精神的にも肉体的にも虚弱児となってい
ったのである。このような児童労働者の状態を背景として、プロィセソにおげる児童労働者保護の立法過程が進
行するのである。っぎに、立法過程の考察にすすむことにしょう。
︵1︶ ○.穴.声まoPPP○二〇。、睾より作成。
ある︵オ.内警昌彗員目o巨︷易巨¢忌内雲o巨饒◎Pooべ−ooo◎・9P§己け︸易讐申申O・・o◎H・︶。
ラソトラート
︵2︶ なお、一八二四年八月二二目に、児童労働にっいてのデュヅセルドルフ郡会の質問に対し、ラーテイソゲソ市長
が、かれの管轄区域にあるクロムフォード紡績工場の状態にっいて回答した点を表示しておくと、第一八表の如くで
一3一≧菅易宗葺暴巨易一亭彗寿宥ま9旨=プ・。声、げ。奪工、。。一。、畠、一一二喜、ポ尋ぎ景.ミ・
われている︵戸−○o昌昌9戸申PO二おべ・︶。
︵4︶ P穴.声卑◎PP20・一竃・ただし、クロムフ大ードの工場は辺都な場所にあったため、労働老の徴募が困難で牽
ったが、このために同時に、労働者の他部門への流出が稀であり、労働の平和を維持するのにも都合がよかったとい
︵5︶ P︸睾¢景申申○二旨−H9量。。o山・。・たお、二〇∼二五歳の未婚女性がグラートバツハ等の都市へ大量に移動
し始めるのは、一八六〇年代においてであった。この移動は、一八五〇年代に新らしい綿工場が建設された結果とし
て生じた。 一八五五年八月にーグラートバツハで一五、○○○錘の大株式紡績会杜が操業を開始し、 一八五九年には
一、○○○人の労働老を雇傭していた。そのさい、五〇〇人以上の少女が一挙に・都市に流入した。彼女達は、最初は
会杜の大広問を寝室として提供され、そこで起居した。一八六八年には宿泊所も建設されたのであるが、観律が厳格
じている︵牢↓プ目PU庁冒︸易芽宥P昌宕庁宗冒︸9P向易訂H弓︸¢−−Hお、ミト︶。
であ1ったため、白由を求めて下宿を探し、そこから通勤した。この自由から風紀上好ましくたいもろもろの間題が生
︵7︶目.考.宰き碁。・9PP○二紅。。。。・
︵6︶豊3H芦
︵8︶ 声一↓︸弓PO庁H目ら厚oo旨庁p冒≠庁︷¢昌︸9箏一同易試H↓︸¢戸Hベベ・牢・︸9試易・串串O二H9
一9一−套竃冒§易貫暴○・。。・巨ま二9夏二胃青ず箒二箏9募・巨彗=・目§二三二一二曇、一轟鼻
異HしC・OO募嚢ド︸胃一,H彗二〇.事.嚢一一§旨一目Oま邑ま自・雰く・一目けぎニベ・
三月前期のプロィセソに1おげる﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶ 六九︵二三七︶
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立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
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つ場法 ててが 童。◎よ だてた
に工る いい童 児ははの れしい
点のな 働働児 の間態ど ど鎖て
の童か。でがの ら時状は は閉し
え児いか場童人 れ働康童。場在在
う,,る工児何 こ労健児か工現存
果てれ る に
︵10︶≠穿・ぎ■H;竃至ユ・匡婁胃旨︷。。9邑胃0。↓・↓鼻嚢・
︵u︶ 目9目︷O︸く◎寿昌P箏PU庁トま¢岸胃印9帽O−昌O吋O■曾OOO︸¢■声げぴqO冒︷箏O試■−︸目OOHO◎トO◎.HO◎0P団胃−ぎ宕00◎・害・ な
お、一八五三年法の草案をめぐる議論のたかで、交代制にかかわる問題については、く腎O・.﹃声津◎P凹.9・O・一
︵12︶ 穴.−甲■■︷三讐PP○ニベト・
◎◎O010◎トOOべーO◎O〇一
︵13︶ 甲目津 ¢ 曇 P 9 . ○ 二 〇 ・
︵15︶ 向9二S.
︵14︶ 穴.−甲■■qま讐與.P○二〇〇・
︵17︶ 向巨.一胃 .
︵16︶ 向げ3竃.
︵18︶ ミ・司〆oぎいH昌睾訂まo;9實旨︷。。◎N邑胃o〇一pけ易一閉崖−胃閉.なお、W・フィヅシャーは、この文章につづげ
てっぎのように述べている。﹁労働者契約制度は、しかも一九世紀にアメリヵにおいてもまた、とくにティラrシス
テムがこの制度を駆逐するまでの互換性部品の大量生産方法としてのミシソ製造とライフル銃製造においても現われ、
︵19︶ 向げら二N竃.
今目では、オiトメイシヨソ化への移行にさいして部分的に再び前面化している﹂と。
︵20︶ キ↓︸■P団¢芽箒¢N膏○¢。。o巨o睾9震・
︵22︶ 句.−○¢昌8胃“P9.○二H閉o。.
︵21︶奉穿99H昌雪童ユ¢巨事胃旨︷。。◎註一9乙つ一p募し軍
︵23︶9内.声暮oPPP○‘o.たお、一八二三年に、ある紡績工場では、六歳の児童のうち、昼問労働に従事した者
七一︵二三九︶
九六名、夜間労働に従事した者六五名であり、いま一つの紡績工場では、それぞれ九五名と八○名であった︵向g二
︵24︶ 声︸賢¢量串甲○二〇・
閉.︶。
︵25︶ 向巨二墨・
三月前期のプロイセソにーおける﹁杜会問題﹂嘗︵川本︶
立命館経済学︵第二十八巻・第二号︶
︵26︶奉.雲8亭■H昌胃訂巨¢昌︸胃昌︷。。◎N邑弩c。一凹け易一塞。・.
︵鵬︶ 句.]■.○o昌昌o﹃戸 四一串O.. −N00−Hいト
︵27︶甲︸筆¢員四.中○二軍
︵29︶︸.︸津¢員四.∼.○二轟−Nト§
七二︵二四〇︶
︵30︶キ皇昌一昌¢H己易まo彗昌&¢H︸9P向易雪宗昌ミo. たお、この工場の外観については、
目易。q二PPO二〇◎◎・の写真を参照せよ。
︵32︶向区二Hミーミ岬.
︵31︶声・弓ぎP畠¢H邑易ま¢凹昌;&胃︸9P内易雪豪¢芦H奉
︵33︶向茎二一ミー岩・。.
︵34︶向巨二H暮
co.◎§目鼻
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