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水 脈 にみずなきとき へ

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水 脈 にみずなきとき へ
み お
水脈にみずなきときへ
大無人
新緑色の草むらから、黒ずんだ輝きの小片が浮き上がった。音もなく振れ揺れて、向き
が変わって左右対称の羽ばたきがゆっくり速度を増していく。
「チョウだ」
「チョウチョだ」
「あっち、あっち行った」
草の上にじかに座っていたジャージ姿の男子何人かが、歓声と共にいきなり画板を放り
捨てて立ち上がる。先んじた数人につられて、さらに二三人が要領悪く腰を浮かせる。陽
光の下に舞い上がると、蝶の羽は青緑色にますます輝きを増してはためく。大らかな羽ば
たきを追って、もうばたばたと少年たちの駆けっこが始まっている。
「ミヤマカラスアゲハ、かな」
日頃周りの騒ぎに加わることが少ない久堅くんも、珍しく独り言めいた声を上げた。
「珍しい蝶なの?」
「結構」
「よっしゃ」
博識の級友に確かめて、近くにいた永都くんも前を駆ける連中の後を追い始める。辺り
は画板やパレットなどが置き散らかされて、雑然とした芝生の上に残った男子は久堅くん
だけだ。
「落ち着きないんだから、男子たち」こちらの女子のグループで、鹿島さんが口を尖らせ
た。「まださっぱり描いていないくせにさ」
「ガキだよねえ、ほんと」受けて、桜木さんがけらけら笑う。
「ほんとにねえ」隣の三谷さんも笑いながら大きく相づちを打って、逆隣の草賀さんの顔
を窺う。「でも、綺麗なチョウチョだったねえ」
「そうだね」
あっさり肯いて、草賀さんは落ち着いた顔で離れたサイロを見続けている。赤茶色の煉
瓦で組み上げられた古びたサイロが、さっきからみんなの観察の対象になっている。
大きなサイロと、その傍の囲いの中には数頭の羊たち。謙光小学校から歩いて四十分の
自然公園に、六年一組と二組合同で写生会に来ている最中だ。積極的な鹿島さんを先頭に
一月前の修学旅行と同じ六人グループで、サイロ前の特等席に固まって座って一時間余り
経った、というところだろう。きっと間もなく弁当タイム開始の号令がかかるくらい、と
可奈はぼんやり見当をつける。
写生に与えられた時間は昼前の一時間余りと、昼食後の三十分程度の予定だ。あと学校
に戻って仕上げの自由時間はあるとはいえ、そろそろ形になっていなければならない。ま
だ鉛筆デッサンだけで色の乗らない自分の画用紙に向かい直って、可奈は焦りを覚え始め
ている。
少し離れて覗き見える希実ちゃんの画用紙は、もう一通り色づけがされているようだ。
草賀さんも白い空白をもうすぐ塗りつぶすところで、他の人たちもそれに遅れてはいない。
男子たちの歓声が、遠くぐるぐる回っている。あちらこちらでそれに呼応するように、
女子の高い笑い声が炸裂する。
「おおい男子たち、元の場所に戻れ」
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離れて歩き回っていた葛木先生が、声を張り上げた。かなり遠くから、それに応える数
人の声が聞こえる。
「グループごとに今の作業に区切りをつけて、お弁当にしなさあい」
散らばっている子どもたちに指示が届くように、さらに先生が声を上げる。これにも、
とりどりに返事が飛び交っている。
「じゃあこっちも、お昼にしようよ」
鹿島さんが言い出して、みんな画板を横の草の上に置いている。それぞれ自分のリュッ
クを開いて、昼食が始まる。きゃきゃ、といかにも楽しげな笑い声が弾け出す。
「葉山さんの絵、本当に上手だよねえ」
希実ちゃんの画用紙を覗いて、桜木さんが溜息をついている。
「本当に葉山さん、絵だけは得意なんだねえ」
鹿島さんが笑いかけ、希実ちゃんは、
「そうでも……」
消え入りそうな声で顔を俯ける。
「よくできてるよ」草賀さんがきっぱりと、「サイロを大きくして遠近のメリハリがつい
てるし、色のつけ方も煉瓦の感じが良く出ているわ」
滅多にない賛辞の集中に、希実ちゃんの顔はますます下を向く。
「そんな……」
可奈の目から見ても、草原は水彩絵具を伸ばした質感を活かし、サイロの煉瓦に点々と
少しずつ変えた色を乗せた画面は、飛び抜けて上手に見える。幼い頃から希実ちゃんの絵
の上手さは知っているが、最近はさらに磨きがかかったようだ。
「上手いよねえ、凄い凄い」
歌うように言いながら、三谷さんは牛乳パックの口を開いている。
「あ、え、わ --
」
一瞬その手がぎこちなく揺れ、白い液体が飛び散った。
「あ --
」
希実ちゃんの驚きの声。今し方みんなの目を集めた絵の上に、白い雫が点々と飛んでい
る。
「あ、ごめんごめん」
三谷さんがパックを下に置く。可奈がティッシュを開いて差し出すと、希実ちゃんは慌
てた手つきで受けとって、絵の上に押し当てた。
「染みになっちゃった、かな」
三谷さんが覗き込む。恐る恐るティッシュの手が上がり、
「大丈夫……」
静かに、希実ちゃんが安堵の息をつく。
「よかったじゃない」
鹿島さんが笑い、草賀さんも肯いている。
三谷さんと桜木さんも、同調したように。四人の視線が笑いを含んで交わり合う。
ばたばたと足音がして、隣のグループの男子たちが戻ってきた。一人残っていた久堅く
んに、永都くんが報告している。
「あっちの柵のところまで追っかけたけど、逃げられちゃったよ」
「残念だったね」
大きいアゲハだったよなあ、と弁当を広げながら他の男子も口々に声を上げている。本
2
当に、最高学年になって二ヶ月以上経つとは思えない子どもっぽい口調の言い合いだ。バ
ッカみたい、とそちらを横目で見て三谷さんが囁く。息を合わせて、桜木さんも肩をすく
めて笑い返す。
食事のあとの三十分で、六人とも何とか作品は形になった。ぞろぞろと列をなして学校
へ戻り、後は教室で仕上げということになる。一校時分時間をとってから、帰りの会。ま
だ制作時間が欲しい場合はグループ単位で三十分までよし、と葛木先生が告げた。
六人はほとんど完成していたが、草賀さんがもう少しじっくり仕上げたいと言って、残
ることになった。希実ちゃんも誰の目にもいい仕上がりの絵を見直して、ところどころさ
らに筆を入れている。
少しすると、六年一組の教室に残っているのはこの六人だけになっていた。やがて草賀
さんも満足の様子で筆を置く。可奈と希実ちゃんがパレットや筆を洗って戻ると間もなく、
廊下からポックラポックラとユーモラスな響きが聞こえてきた。特徴のあるサンダルの足
音は、一度職員室に行っていた葛木先生が戻ってきたのだ。クラス全員分の画用紙が積ま
れた教卓に六人も代わる代わる置き重ねると、先生は嬉しそうに肯く。
「ご苦労さん。ああ --
」草賀さんの顔を見て、先生は機嫌を伺う笑い顔になる。「ちょ
うどクラス代表がいるグループが残っているところで、この絵の掲示、手伝ってくれない
かな」
ええー、と即座に鹿島さんが不平の声を上げる。
「ご褒美に、君たちグループの掲示場所は選ばせてあげよう」
先生は澄まして笑っている。
「いいじゃない、恵奈」草賀さんが、鹿島さんの背を叩く。「先生の役に立ってあげよう
よ」
「さすがはクラス代表。感謝感謝」
ほくほくと、先生は重ねた画用紙を教室の後ろに運ぶ。
後ろの掲示板に貼られていた習字の半紙や修学旅行の記録を全部剥がし、代わりに一部
まだ湿りの残る画用紙を画鋲で留めていくのだ。
修学旅行の写真と、それにつけた説明を集めた模造紙。海岸の風景ともう見なくても覚
えてしまっている妙な文章も、ようやく掲示から外される。
『日本海へ向かうかざ向きのときわからないところまでしろねこのもようがみかたにより
見えてくるね。』
三十八枚の掲示作業を、可奈は率先して動いてこなしていった。やはり初夏の緑色が多
いさまざまな絵が、規則正しく並べられる。場所とりの特権をもらった六人の作品は、草
賀さんの発案で窓際近くに集められた。
「明るい場所の方が、絵が映えるでしょ」草賀さんが友だちに説明する。「特にできのい
い葉山さんの作品は、ここが目立っていいわ」
指摘された希実ちゃんの絵は、窓側から二列目、一番上に貼られて、明るく日に照らさ
れている。長期間だと日焼けが心配だが、確かに目立っているようだ。
妙にご機嫌な草賀さんの顔に、友だちも合わせて肯いていた。
先生の礼を背に、みんなで下校の途についた。
団地の三階の玄関は、今日も鍵がかかっている。可奈はデイパックからキーホルダーを
出して、鍵を開けた。
時間に余裕を持って夕食の支度に取りかかる。三十分ほど過ぎてから、まずお母さんが
帰ってきた。キッチンを覗いた、その両手に今日も大きな荷物を提げている。
3
「おお、ご飯の支度してくれてるね、感心感心。できた娘を持って、助かってるわ」
「もう少し、時間かかるから」
煮物の鍋に落とし蓋。とろ火の加減を調節して、可奈はリビングに戻る。お母さんはも
う荷物を抱えて自分の部屋に入っていた。
七時過ぎにお父さんも帰宅した。いつも通り団地のお父さんたちの中でも珍しいと言わ
れる、規則正しい帰りだ。後を追って可奈が部屋を覗くと、もう机のパソコンが起動を始
めている。
「もうすぐ、ご飯だよ」
声をかける娘に、背広を脱ぎながら後ろ姿で声が返る。
「おう分かった、すぐ行くよ」
両親と食卓を囲んで、可奈は写生会の報告話をした。希実ちゃんの絵がいつもながら見
事だったこと。男子がチョウチョを追って落ち着きなかったこと。可奈の背後の大型液晶
テレビでタレントが歓声を上げ、いつもの夕食風景だ。
食事が終わると、可奈は後片づけ。お父さんは自分の部屋に戻り、お母さんはリビング
でテレビを観ている。テレビの賑やかな音声を背に、可奈は手早く食器を布巾で拭う。
次の日は、授業の前から教室の後ろに人だかりができていた。もちろん、一斉に掲示さ
れた昨日の作品を鑑賞するためだ。わずか一日前のことを思い出話にして、それぞれの絵
の論評と一緒にボリューム調整の効かない笑いと喚声が飛び交う。昨日にも増して青空に
雲が少なく気温が上がりそうな天候の中、もう室内の熱気だけが異常に高まっている。
やはり、絵のできだけなら希実ちゃんの作品が飛び抜けていることでは、みんなの意見
は一致していた。
「上手いよねえ、あのサイロの色」
あちこちから上がる賛辞の声に、一番後ろの草賀さんの席の横で、鹿島さんが肩をすく
める。
「これがグループごとの団体戦だったら、うちが圧勝だね」
同意して、三谷さんと桜木さんがきゃははと笑い声を上げる。時間をかけた草賀さんの
絵もしっかり落ち着いたいいでき上がりだし、他のメンバーの作品も平均以上と言ってい
いだろう。
別の意味で、男子を中心に関心を集めている作品がある。他の人と変わらず草の緑に覆
われた画面に、遠近感を無視していると思われる大きさの青みがかった黒の羽ばたき。昨
日男子たちを大騒ぎさせたアゲハチョウが、驚くほど精細に描かれているのだ。
表に名前は書いていないが、久堅くんの作品らしい。いつものように人山から少し離れ
て、永都くんとだけ会話している。
「よくあんなに詳しく描けたよな。蝶を見たのなんか遠くから一瞬だったのに」
「写生ということでは、反則だよな」久堅くんは面白くもなさそうに掲示板に背を向けて
いる。「あの場で観察したというより、図鑑を見て知っていたというだけだもの」
「確かに写生としては評価が難しいけど」いつの間にか葛木先生が入ってきて、二人の傍
に立っている。「一番描きたいものを大きく強調した大胆な構図は、評価していいと思う
な」
褒められてあまり嬉しそうでもない久堅くんに軽く笑いかけて、先生は声を高める。
「ほおい、朝の会を始める」
ゆっくりと、黒板の前に歩いていく。えー、と大きな不平の声が弾け上がってから、ク
ラスのみんなもがやがや話を続けながら席に戻る。
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ふと、しゅっと音がして、後ろから何か果物のような甘い香りが流れてきた。振り返る
と、草賀さんの手に小さなボトルのようなもの。芳香剤か何からしい。近くに人が集まっ
た後だから、人いきれを消したいのだろう。
本来は勉強に関係ないものの持ち込みは禁止だが、葛木先生はあまりうるさく言わない。
今も気づかない様子で前に立っている。
「クラスメイトの作品は、後からもじっくり鑑賞してくれな。こうやって見るとみんなの
絵が教室に初夏の色を運んでくれたみたいで、実に爽快だ。いい成果のある写生会だった
と、先生は思う」
歯の浮くような大げさな言い回しはこの先生のいつものことだから、誰も茶々も入れな
い。可奈も、無感動に一時間目の準備を始める。
騒ぎが起きたのは、五時間目の後の休み時間だ。暑い暑いと窓に寄っていった男子が、
ふと掲示板を見上げて素っ頓狂な声を上げた。
「あれえ?
何だ、この気味悪いの」
何々、とクラスメイトたちがつられて後ろを向く。男子が指さしたのは、希実ちゃんの
絵だ。手が届かない高さに貼られた絵の、朝みんなが褒めていたサイロの赤茶色の上。
黒っぽい、妙な模様が見えている。
何人かの女子が先に立ち、続けてクラスの大部分が後ろに集まってきた。たちまち調整
の効かない音量の騒めきが巻き起こる。
「何これ、汚い感じ」
「こんなの、朝はなかったよねえ」
黒板を消していた葛木先生も、みんなの後から近づいてきた。
「何なんだい、一体」
群がり背伸びをして覗き上げる子どもたちの後ろから、首を伸ばす。
「確かに、何か汚れがついた感じだな」
「何か、文字みたいにも見えるんじゃない?」
一人の女子が、隣に問いかける。
「ほんとだ。カタカナで、キ、チ、かな。ムチャクチャ歪んでるけど」
嫌な、悪寒のようなものが背に走って、可奈は顔をしかめる。
「キチって?」先生が脳天気な調子の声を上げる。「秘密基地ってか?
あのサイロが?」
「あたし……」
少し離れた後ろで、消え入りそうな声が生まれた。希実ちゃんだ。
「あたし……そんなの、描いて、ない……」
両手を胸の前に握り合わせ、怯えた視線がクラスメイトの間を泳ぎ、沈み。可奈の顔を
かすめて、また俯く。
「いや、葉山のせいじゃないだろう」先生が、即座に首を振る。「朝にはなかったんだ。
後からついた、汚れか何かだろう」
「でも先生」鹿島さんが声を上げた。「あんな高いところ、汚そうったって手も届かない
よ」
掲示板の一番上で、長身の先生がやっと手が届くかどうかくらい。クラスの誰も、背伸
びをしても届かない高さだ。
「しかし、他に考えられないだろう」
先生の言葉を聞かず、がやがやとまた音量が上がって、そこかしこで声が飛び交う。
「何か気味悪い」
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「呪いか何かじゃないの、あれ」
みんなの後ろの辺りで、永都くんが腕組みして首を捻っている。
「椅子に乗るとか、長い棒でも使うとかなら届くだろうけどな」
席に座ったままの久堅くんを振り返って意見を求める。
「飛び上がって手を届かすことはできるだろうけど、一回であの文字みたいのを描くのは
無理だよな」
「だろうね」久堅くんは、素っ気ない応え。
「朝から今まで、あそこに椅子を持っていったり長い棒を持って近づいたりした人もいな
い、と」
「いたら、目立ったろうね」
「ダメじゃん」あっさり、永都くんは両手を上げた。「人の仕業じゃない、と。やっぱり
呪いかあ」
「ねえ、彩華」
一番後ろの席に座ったままだった草賀さんが、声を上げた。少し離れて立つ、三谷さん
に向けて。
みんなのがやがや声が、鎮まる。草賀さんが発言するとよくある現象だ。
「昨日のお昼、葉山さんの絵に牛乳の雫が飛んだってことあったよね」
「ああ、あったあった」
三谷さんが肯く。そうだそうだと、鹿島さんと桜木さんも、相づち。離れて、希実ちゃ
んも目を丸くして小さく肯いている。
「先生」草賀さんが、葛木先生を見る。「牛乳って、あぶり出しに使えるんじゃなかった
っけ」
ほう、と先生は小さく呟いた。
「あの絵のところ、一番日当たりがよくて今日の日射しで熱くなっているから、あぶり出
しになったんじゃないのかな」
今度は草賀さんは、みんなの顔を見回した。
へええ、と感心したような声があちこちから生まれる。
「あぶり出しかあ」
「ああ、あるある。昔やったことある」
「やったやった、俺、年賀状で」
「ほら、ミカンの汁とか使うんだよね」
「ふうむ」先生が、腕を組んで肯く。「牛乳であぶり出しなんて、草賀、よく知っていた
な」
「前に調べたこと、あったから。ナニナニ団の活動で」
「さすがはクラス代表、研究熱心だ」
なるほどね。さすがだねえ。先生の鸚鵡返しのように、賑やかに声が行き交う。さっき
までの気味悪がっていた声が影をひそめて、すっきりして面白がる調子に治まって。
「じゃあ、絵を綺麗に戻せるかは後で考えるとして、六時間目始めるぞ」
大きく一声上げて、先生は黒板の方へ戻っていく。みんなからもそれ以上発言はなく、
ぞろぞろと席に戻り出す。次の授業時間はとうに始まっているのだ。
溜息をついて、可奈は前へと向き直る。左手の窓の外に日射しの強さは最高潮で、むっ
とした熱気が教室内を移動する。
まだ続いていた陽気な騒めきは、授業開始の先生の声でしぼんでいった。
6
貮
履き慣れたスニーカーに力を込めて漕ぎ出すと、愛車はすぐにまだ人影の少ない通りに
滑走を始めた。数えるほどの千切れ雲がちりばめられた、六月の青い空。この一月あまり
で見事に緑の深みを増した、楡の街路樹。いつもより三十分早い朝の商店街。頭にはわず
かにまだ目覚めきらないぼんやり感が残るが、障害の少ない街路にペダルを踏んでいくと、
見る見るうちに霞が晴れていく実感が染みてきた。
祐里子の小柄な体躯に、確かな力が繋がり満ち通っていくようだった。ボブカットの黒
髪が風に流される爽快感。行く先に待つ楽しみを思い返して、小さな鼻歌まで胸の上から
湧いてきた。
十分弱のサイクリング。所要時間もいつもより短めに、会社の入るビルに到着した。裏
出入り口横のスペースに自転車を繋いで、祐里子は足どり軽くまだ薄暗いビルの中へと入
った。
「お早うございまあす」
顔見知りの清掃員を見つけて、大きな挨拶の声をかける。
「おや早川さん、お早う、今日も元気だね。いつもより早いんじゃないの、今朝は」
一階の廊下にモップをかけていた初老の女性は、手を止めず気さくに声を返した。
「はあい。ちょっと用事で」
ひらひら軽く手を振って、祐里子は階段を駆け上がった。勤務する幸幸商会は、このビ
ルの三階を占有している。このフロアにも清掃会社の職員がもう入っていて、前日預かっ
たセキュリティカードを使う必要はなかった。こちらの清掃員にも大声で挨拶して、祐里
子は廊下の端の更衣室に直行した。
会社の制服に着替えて、所属の第二営業部室に入る。見慣れた机の並ぶ中、そこだけ真
新しく異彩を放って積まれた数個の段ボール箱に自然と目が向き、思わず顔が緩むのが自
覚された。すぐに触れたい誘惑を振り切って、いつもの手順で窓際に干した雑巾を手に取
った。
最奥の部長席から始めて、順に机の雑巾掛けをしていく。九個の机を拭き終える直前、
入口のドアが元気よく開かれた。
「お早う」
「お早うございまあす」
細身の背広姿は、打ち合わせ通りこちらもいつもより早く出勤してきた、男性陣最若手
の杜山だ。
「早川さん、張り切ってるねえ。もう朝の日課は終了か」
「一通りいつもの拭き掃除はしましたけど」祐里子は明るく笑い返した。「すぐにまた汚
れてしまうかも知れませんね」
「だね」杜山も笑って、上着を脱いで自分の椅子の背にかけた。
「そう言えば、杜山さん」祐里子は笑顔で先輩の机を指さした。「美衣歌ちゃんの写真、
また新しくなったんですね」
机の上の写真立てに、ピンクの産着の笑顔が輝いている。結婚二年目の杜山は、生後半
年の愛娘にぞっこんの新米パパでもあるのだ。
「いいだろう、この一月で八百グラム増えたんだぞ」パパは、目を細くして笑った。「い
7
や、そんなこと話してる暇はない。さっさとやっちまうか」
ようやく解禁の号令を聞いて、祐里子は積まれた段ボールに駆け寄った。
「えーと、こちらが本体ですよね。開けるのはこっちからでいいんですか」
「そうだね」
逸る気持ちを抑えて、歩み寄ってきた杜山に開封は任せた。大きく口を開けた段ボール
から、ビニールに包まれたベージュ色の筐体が顔を出す。一応最新機種と聞いている、パ
ーソナルコンピュータの本体だ。この日は通常の始業前にこれの設置を済ませるのが、部
長から二人に与えられたミッションだった。
うん、と気合いを入れて両手で持ち上げ、杜山はその直方体を空き机に乗せた。手伝っ
て、祐里子はそのビニールの包装を取り除いた。真新しいベージュ色が、新鮮に開示され
る。
「もう一台は部長席だったね」
確認して、杜山はもう一つの箱から出した筐体を奥の机の上に運んだ。二つの箱に残っ
たキーボードを、祐里子はそれぞれの机に配置した。
初めて見る無機質な造形、だが、不思議と愛着が募り出す。二十歳で入社してから二年
目の祐里子にとって、業務上初めての提案が通って購入された備品なのだ。
「八人の部署に二台じゃ、まだ不十分だよな」
設置作業に手を動かしながら、杜山が数日前から何度もくり返していた言葉を口にした。
「あと四年で二十一世紀というこのご時世に、うちは遅れているよ、全く」
健康食品を中心に販売業務を行っている幸幸商会の第二営業部は、部長以下八人の部員
からなる所帯だ。部長の他、ほとんど三十代の男性職員五人、ベテランの女性職員岳沢に、
年が離れて祐里子が所属している。
四月に着任してきた虎島部長は、現在関東関西二箇所にある支店の長を歴任して実績を
上げ、七年ぶりに本社へ戻ってきた四十代半ばの男だ。将来の幹部候補として第一歩とな
るポストに意欲を燃やしていると、まだ新米の肩書きがとれない祐里子の耳にまで噂は届
いてきている。その新部長が席を定めた数日後早々に部員に発令したのが、将来に向けて
の業務改革の提案を出せ、というものだった。
「社長の発案で、有志の積極的な案を募る、とこないだ回覧が回っていたから、君たちも
承知しているだろう」朝礼の席で、部長はぎろりと一同を見回して言った。「あれでは任
意の募集というトーンだったが、この第二営業部はそんな消極的な姿勢でいて欲しくない。
どんなものでもいいから、全員最低一案提出してもらう」
第一営業部が法人対象の営業を担当しているのに対し、第二営業部は個人顧客の開拓業
務が中心になっている。男性職員五人はほぼ終日そのための外回り、女性職員二人はその
後方支援というべき業務が主だ。営業担当者への連絡電話の取り次ぎ、会計処理、営業に
使用する資料の作成などの業務スキルを、この一年あまりで祐里子は一通り習得していた。
電話応対で定番の質問や苦情に関しては、ほとんど先輩の助言を受けずに処理出来るよう
になっているくらいだ。
その業務の中で祐里子が煩雑さを感じていたのが、営業担当者の持ち歩くパンフレット
等の作成工程だった。中に盛り込む内容の案は、営業部から出す。実際の作成は広告部が
行う。数年前まではその版下作成の最終手順も外注していたとのことだが、現在は広告部
がパソコンを使って内部作成出来るようになっていた。それでも営業部が発案した内容が
実際の印刷物にどう反映されているか、レイアウトの可否、文面の校正チェック、などで
何度も両部署の間を往復することになる。営業部の内部事情に限っても、担当の男性職員
8
がほとんど席に落ち着く暇がないので、わずかな時間を利用してその確認を行わなければ
ならない。広告部からコピーが帰ってくるのと担当者が社内にいる時間のタイミングをと
るのが、間に立つ祐里子たちにはかなりの悩みの種になっていたのだ。
パソコンを使って入力する作業の多くの部分を営業部自前で出来ないか、と祐里子は考
えた。文面などの入力のほとんどをこちらで行ってチェックまで済ませて、最後のレイア
ウト等の仕上げを専門家に委ねる形にすれば、両部署間の往復もかなり減らせるのではな
いか。営業部内で済ませるチェックなら、外回りに出る職員にも朝夕の時間に固定して行
って、上手く回すことが出来るのではないか。そういう提案を、部長に提出した。
通常なら、通るはずのない種類の提案だったらしい。新米に毛が生えた女子職員の発案
というだけでなく、設備投資がかかり過ぎる。部署間での業務の移動を行う必要がある。
少し年季を積んだ職員から見るとタブーとも言える要素を含んでいる、とさえ後から先輩
に言われたものだ。
それが、通ってしまった。
何処まで事実かは分からないが、部長としても将来に向けてパソコンの新導入と活用法
は検討していたらしい。目に見える道具の上での新しもの好きに加えて、業務上の改革、
若手職員の発案を取り入れる度量の広さの誇示、などの点が新ポストに燃える野心家の琴
線に触れたのではないかとは、これも先輩の揶揄を込めた感想だった。
ちなみに、会社としてパソコンの導入自体は初めてという訳ではなかった。各部署に一
台ずつ、モノクロディスプレイのものが数年前から部屋の隅に設置されている。杜山の言
い分では「今どきウィンドウズも入っていない」という、ワープロと表計算のソフトしか
使えないものだが、使用頻度は低くなかった。各部署から経理などに提出する資料は、こ
の表計算ソフトのフォーマットが義務づけられていたから。ただ操作性は満足出来るもの
ではなく、男性社員は何かと理由をつけてこれに触ろうとはしない。ワープロに関しては、
自前の専用機を持ち込んで使っている人の方が多かった。女性職員が提出資料作成のため
に使うのと、ワープロ機を所持しない職員が時おり必要に迫られて覚束ない手つきで操作
しているのがせいぜいだった。
この現状で、第二営業部が先陣を切って近代化を図ろう、という感覚が新部長のお気に
召したらしいのだ。
祐里子はというと、高校卒業後二年間の専門学校で簿記とビジネスコンピューティング
の資格を習得していて、パソコン操作には多少なりとも慣れていた。提案レポートを読ん
だ部長に、
「広告部で使っているソフトをこっちに入れたとして、早川君は操作出来るかい」
確認されて、祐里子ははいと即答した。DTPというジャンルのソフトに触った経験は
なかったが、ワープロの延長で扱えるのではないかと思った。
「練習すれば何とかなると思います」
うむ、と部長は肯いた。
「広告の代田部長と相談してみるか」
あっさり提案が通ったらしいことを知って、逆に祐里子は途方に暮れる思いだった。
横で聞いていた男性陣でただ一人まだ二十代を標榜する杜山が、目を輝かせた。家でパ
ソコンを趣味としていると言うだけあって、この手の話題には敏感だ。
「いよいよパソコン新機種を導入ですか、部長」
「上手く話が通れば、だな」
部長は苦笑顔で、ここは慎重な言い回しをした。
9
しかし、話は予想以上にとんとん拍子に進んでいった。部長同士が打ち合わせをし、虎
島部長が機械の見積もりをとり、予算が通って、一月もしないうちにパソコン二台が納入
される運びになっていた。その間には新部長の強引な手腕が発揮されたという噂もあるが、
祐里子には詳しくは分からない。
「しかし、機械の価格は分かるが」一度だけ、部長が愚痴のように言っていた。「ソフト
だけで十万以上とはなあ」
「専用のDTPソフトってのは、値が張るようですね」杜山が同意して言った。「こりゃ、
早川さん責任重大だよ。十数万の予算、無駄にするわけにいかない」
「プレッシャーかけないでくださいよお」
杜山は冗談口調だが、すでに祐里子は十分責任を意識しているのだ。何しろ、ここまで
早急に事が進展するとは、夢にも思っていなかった。
ふと目が合った向かいの席の岳沢が、心なしか苦い顔で目を伏せた。それも、祐里子の
不安をいや増していた。
入社以来最も世話になってきたこの女性の先輩が、今回の成り行きを快く思っていない
気配は、ずっと節々に感じとられていた。
勤続十三年になるという岳沢は、入社年だけでいくとこの部の部長を除く男性職員の誰
よりも先輩に当たるという。入社時にそれを知ってそれこそドラマ等の「お局様」を想像
して初対面時にはかなりの緊張を覚えたものだが、そんな祐里子に岳沢は柔らかな応対を
返した。
「遠慮しないで、何でも訊いて頂戴。それこそ何でも構わず質問出来るのは、新人の特権
よ」
厚めの化粧の奥で、細い目を弓の形にたわませて、話しかけてくれた。
「はい」
持ち前の大きな声で祐里子が返事をすると、元気ねえ、と大先輩は微笑んだ。
実務について丁寧に教えてくれ、さらに社内の女性職員と交流出来るように仲を取り持
ってくれた。本社の十数名の女性職員は毎日昼休みに会議室に集まって、岳沢を中心に一
緒に昼食をとる。その最初の場で、
「さすがに若い人は違うよねえ。祐里ちゃんって、パソコン打つの凄い速いんだよお」
妹を自慢するような調子で、他の職員に紹介してくれた。いきなり親しげに下の名前で
呼ばれたことには戸惑いも覚えたが、その気さくさが祐里子にはありがたかった。
女性職員は全員短大か専門学校出身の一般職で、その点でも話が合う。世間の御多分に
洩れず昼食の場は女性たちの噂話と愚痴の坩堝で、仕切り役よろしく中央で岳沢が笑顔で
大きく肯き相槌を打っている。その隣に席を許された祐里子は、お陰で、年齢の近い第一
営業部や総務部、経理部などの先輩とすぐに親しく話すことが出来るようになった。
この集まりの中でも岳沢のキャリアは抜きんでていて、勤続十年越えは一人だけ、後は
経理部の二人が八~九年になる程度ということだ。これも、岳沢が結婚後も勤務を続けて
いて、二年前の長女出産時も数か月の休職の後復帰しているという、この会社では異例の
経緯によるらしい。ちなみに岳沢というのは旧姓だが、職場では変更の煩雑さを避けてそ
のままにしているという。
一年あまりを過ぎた現在に至って祐里子にとって残念なのは、広告部の二人の女性職員
とあまり親しめていないことだ。二人ともあまり社交的な性格ではなく、昼食時にも進ん
で話すことがない。もともと広告部の部屋が社内でも一番奥で、排他的な雰囲気を醸して
いるイメージがあることも関係しているかも知れない。仕事の上で印刷物のチェック等の
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やりとり、受け渡しをすることも多いのだが、彼女らとは必要最低限の会話にとどまって
いる。今回の状況になって、DTPソフトの操作などについて訊ければと思うのだが、な
かなか実現出来ずにいるのだった。
CRTディスプレイを接続し、マニュアルを手に他の接続も確認して、杜山は一台を設
置した空き机の前に座った。
「準備完了、かな」少年のような悪戯っぽい笑顔をちらと振り向ける。「ウィンドウズは
インストール済みらしいから、これですぐ使えるはずだ。じゃあ、スイッチオン」
前面下部のスイッチを押し込む。ディスプレイにひとしきりさまざまなアルファベット
や数字が表示された後、黒く落ち着いた。間もなく、
というロゴが大きく浮か
び上がった。
「よし、正常だ」
祐里子にとっては専門学校でも目にしたことのある画面だが、職場でこれに再会した新
鮮な感動のようなものが胸に衝き上げてきた。大げさに言うと、人生の新しいページが捲
られたというような、そんな感慨だ。
杜山の方はさほど感情も表さず、手際よく机上にマウスを滑らせていた。
「オフィスも使えるようになっているな。後はその、クォークだっけ、問題のDTPソフ
トをインストールすればオッケーだね」
「はい、お願いします」
部長の机に置いてあった、それまであえて目を向けないようにしていた大きなパッケー
ジを、ようやく祐里子は手に取った。ますます抑えきれない感情が込み上げて、手が震え
そうだ。
ソフトのインストールには杜山も経験したことのないという特殊な手順が必要で、何度
も難渋しながら、それでも二十分程度で終了した。祐里子は空いた段ボールを片付け、も
う一度周囲の机の雑巾掛けをした。
他の職員が次々と出勤してきて、新しい機械に口々に感嘆の声を上げていた。岳沢も少
し離れて両手を腰に当てて眺め、
「これだけで事務所が新しくなっちゃったみたいね」
冗談めかして笑顔でみんなを見回していた。部長の次に年長の布川は、
「こんな新しいの、私らは使いこなせんな」
と、苦笑いしている。
最後に入室してきた部長も、一見して満足そうに肯いた。
「よし、ご苦労さん。そいつはそれで、使えるようになったのかい」
はい、と杜山が応えた。
「こっちのは一通りオッケーです。部長席の方はまだ起動を試していません」
「なんだ。すぐやってくれよ」
はい、と急いで杜山は奥の席に移動した。
岳沢がこっそり祐里子の顔を見て、皮肉げな顔で小さく肩をすくめて見せた。
この日の最優先の目的は新しいソフトを入れた機械を使えるようにすることで、部長席
の方は二の次のはずなのだ。そもそもこのソフトを入れられるのは一台に限られるのだか
ら、部長席の一台の購入はどさくさ紛れのついでじゃないのか、と何日か前に陰で岳沢は
笑っていたものだ。
ほどなく、杜山は二台目の操作も終えた。
「オッケーです。これでとりあえずワープロと表計算は使えるはずです」立ち上がりなが
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ら、報告する。「後から総務の森さんが手配して、インターネットへの接続をしてくれる
予定です」
「分かった」
部長も傍目にもうきうきした表情で、替わって席に着いた。
「当面の問題は、そっちの古いマシンで使っていたデータをこっちで使えるように出来る
かですね」杜山がやや疲労の顔で首を振りながら言った。「多分結構試行錯誤が必要だと
思うんですが、僕もそうそう時間を使えないんで、ゆるゆるやらせてください。そっちの
DTPソフトについては早川さんに全面的に任せた、でいいんですね」
「承知しました」
元気な声を返して、祐里子は力強く肯いた。
とは言っても、初日からそちらに没頭して時間を費やすわけにはいかない。本来の業務
はそのまま進めながら、余裕のある時間を使ってその操作法に慣れていくようにという部
長の指示だった。何より、祐里子には岳沢の反応が気にかかっている。
あからさまに口にはしないが、祐里子がこの新しい業務にかまけて本来の仕事に支障を
生じさせることを、岳沢は案じているように感じられるのだ。
従来の業務量に余裕があったというわけではないのだから、祐里子はこの日新しいパソ
コンに触れる時間はほとんどとれなかった。男性陣が外回りに出た後で、ワープロソフト
を試し打ちし始めた部長に、操作法を訊ねられて教えたのがせいぜいだ。五時半に、岳沢
と祐里子の勤務時間は終了する。許可のない残業は禁じられているので、祐里子は未練気
に数分パソコンを起動してDTPソフトの外観を眺めるだけにした。部長に断ってマニュ
アルを持ち帰り、家で読むことにした。
愛車を漕いで、十分ほど。一人暮しのアパートに即行で帰宅した。高校を卒業してすぐ
から住んでいる、六畳一間にキッチン、バス、トイレがついた古い物件だ。
高校一年の時に、祐里子は両親を交通事故で失っていた。その後叔父の家に厄介になり、
卒業してすぐ一人暮しを始めた。すぐ就職のつもりだったが、叔父に勧められて専門学校
に通った。その際借りた学費を現在少しずつ返しているところで、当分はこの狭い部屋で
辛抱しなければならない境遇なのだ。
買い置きしていた食材で簡単に豚汁もどきを作って、その一品のおかずで夕食を済ませ
た。シャワーを浴びた後、早々に持ち帰ったマニュアルを読み出した。
分厚いマニュアルは、原稿作成の順序に沿った記述になっていないため、なかなか意味
がとりにくかった。自室には専門学校時代に必要に迫られて中古で購入した安物のノート
パソコンが転がっているので、これにソフトをインストールして操作を試せればいいのに
と思う。しかし杜山の説明によると、このソフトはパソコン本体にハードウェアキーなる
ものを接続していなければ使えない、要するに一台の機械でしか使えないようになってい
るらしい。諦めて、祐里子は必死に画面を想像しながらマニュアルのページを繰った。
読み進めながら時おりふと我に返って、自分は何だって帰宅してまでこんな事をしてい
るのだろう、と疑問を頭に昇らせた。会社で岳沢はあからさまに非難を口にしなかったが、
比較的仲良くしている第一営業部の黒瀬は、少し前にこの件を聞いて即座に言い放ったも
のだ。
「バッカじゃないの、あんた?」
二年先輩の職員の予想を超えた拒否反応に、祐里子は返答に詰まってしまった。
「何だって自分から仕事を増やすようなことすんのよ。あたしたち、言われた以上の仕事
をしたって誰も褒めてくれるわけもないし、給料が上がるわけでもないんだよ」
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「でも --
これで余計な仕事の分が減って、その分上手く回るかも知れないんですよ」
「そんな上手くいくわけないって。絶対都合がいいようになんか転ばないんだから、こう
いうことは。結局、あんたの仕事が増えるだけ。下手すりゃその皺寄せが一緒にいる岳沢
さんにまで行って、迷惑かけかねないよ。あの人、そういうこと凄い嫌がるよ」
「そう --
なの?」
この一年、多少の失敗は鷹揚に許してもらって、そんなきつい岳沢は想像出来なかった。
第一岳沢は、この顛末を最初から知っている。もちろん余計な皺寄せが行かないように配
慮しなければならないのは当然だが、ある程度は理解してもらっていると祐里子は思って
いた。
「まあどっちにしても、もう取り返しはつかないみたいです。部長がすっかり乗り気で動
き始めているようで」
「あらあら」これ見よがしに黒瀬は溜息をついた。「知ーらないっと。あたしはちゃんと
言ったからね」
結構仲良くなっていた先輩にあっさり突き放された思いで、祐里子は一気に心細くなっ
た。
周りの女性職員が退いていく感じなのに反比例して、部内では事が本決まりになるにつ
れて杜山が熱心に係わるようになってきた。元からパソコンへの関心が高いのに加えて、
触ったことのないDTPソフトというものに興味惹かれ始めたらしい。今日の早出でのセ
ッティング作業も、部長から言われなくても自分から手を挙げる気満々だった様子だ。
その辺りをよりどころにして、何とか頑張っていくしかない。
続けてマニュアルに目を走らせながら、結局この夜祐里子は布団の上でその冊子に顔を
埋めて眠りについていた。
次の日になっても、勤務時間内に余裕は作れなかった。このままでは、埒が明かないと
いうことになりそうだ。
「あの、部長」
仕方なく意を決して、退勤前に祐里子は相談に行った。
「勤務時間の後で、パソコン操作の練習をする時間をとらせてもらえないでしょうか。残
業扱いにしなくて構いませんから」
じろりと部下の顔を見上げて、部長は少しの間考え込んだ。
「愚図愚図してられない事情があるからな、特別に許可しよう。ただし、一日一時間、一
週間以内に目処をつけなさい」
「あ、はい。ありがとうございます」
業務に必要なことをするのに、条件をつけられ、下手に出て感謝しなければいけないの
も妙に不合理に思われたが。この時の祐里子は本心で感謝の気持ちになっていた。後方で
岳沢が気に入らない表情をしているのが感じとれたが、気を回す余裕もなかった。
他の男性職員は外から戻らず部長だけが席で仕事をしている部屋で、許可された一時間、
新しいパソコンに向かった。マニュアルと首っ引きで、すでに使用されているパンフレッ
トに出来るだけ似せたものを作る作業に挑戦する。何度も失敗しては、やり直す。知らな
い間に夢中になって、同室に部長だけがいる現状も忘れてしまうほどになっていた。一時
間はあっという間に過ぎて、
「そろそろ時間だよ、終わりにしなさい」
部長から声がかかった。慌てて、祐里子はファイル保存のクリックをした。
「はい済みません、終わります」
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パソコンを終了させて、急いで片付けに入った。試行錯誤していたレイアウトが何とか
形になってきたと思えた頃で、もう少しだったのに、と胸の中に呟きながら。
一週間という約束だが、土日は休みなので実質五日間ということになる。一日一時間と
いうことだから、わずか五時間だ。翌日の昼に黒瀬にその話をすると、
「新しいソフトを覚えるのに、五時間ぽっちなのお?」
あからさまな呆れ声を上げられた。
「あ、普段の仕事をもっと要領よく進めれば、まだ時間はとれると思うんですよ」
先輩の高声を鎮めるために、慌てて祐里子は手を振った。傍らには岳沢の耳もあるし、
事を荒立てたくない。
「でも、そういう新しいものを導入する時ってえ、もっと時間と手間をかけるものじゃな
い?
広告部で初めてソフトに触る時も、もっと練習の時間もらうよね?」
いきなり黒瀬は向かいに座っていた広告部の二人に話を振った。
「ああ、はい」
黒瀬と同期だという広告の高末が、慌てて口の中の食べかけを飲み込んで肯いた。
「入社して一週間近くは、一日中操作の練習ばっかりだったわ。広告部はあのソフト操作
が出来なきゃ何も始まらないから」
日頃は発言の少ない高末も、黒瀬とはいくらかは話をするようだ。
その隣に座っていた同じ広告部の岩代も、穏やかに肯いた。こちらは高末のさらに一年
先輩だった。
「初めて導入したの私の一年目の時だけど、最初は木崎係長がソフトメーカーの研修会に
何日か行って習ってきたの。他の部員はその係長から改めて教えてもらったって順番ね。
その時もやっぱりみんな、一日中練習ばかりで一週間近くかかったわ」
ほらあ、と黒瀬は祐里子に向き直った。
「一人でその、何?独学ってやつで五時間ぽっちでなんてえ、無理に決まってるわ。せめ
て経験者に教えてもらうとかしたらあ?」
広告部の二人の顔を窺うとさほど嫌そうな様子はないので、わずかに安心した。すぐに
その提案に縋りつきたくなりながら、祐里子は辛うじて思い出すことがあって隣の岳沢の
顔をちらりと見た。
「そうして頂けると、助かるんですけど」同部署の先輩の意向を確かめる。「こういうこ
とって、両方の部長に許可を頂かなくちゃいけないんですよね」
「当然ね」岳沢は箸を動かしながら軽く肯いた。「退勤後に会社の外でというのなら別だ
けど、パソコンを使うのなら会社の中じゃなきゃダメなわけでしょ」
「そうですね」
「どっちの部長もそういう形式的なことにはうるさいからあ、ちゃんと話を通しておくに
越したことはないわ」
「そうですよね、分かりました」
先輩に軽く礼をして、祐里子は広告部の二人の先輩に向き直った。
「そういうことで、上司を通してお願いするかも知れませんので、その時はお願いします」
「はいはい、お安いご用」
岩代が、弁当箱に目を落としたまま何度かあっさり肯き返した。日頃口数が多くないこ
の先輩は、周囲に対して執着が少ないのがその理由なのかも知れない。
しかしその後も、祐里子はその件を部長に切り出すことが出来なかった。上司を通して
他部署に依頼するという大袈裟な事態への躊躇い、そのことでやはり現在の勤務に支障を
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きたすかも知れない恐れ、そんな思いがどうしても二の足を踏ませるのだ。人を巻き込ま
ずとりあえず自分のできる限りを、と退勤後の操作練習に集中した。
三日目の金曜日、決められた時間が終わろうとする頃。ふと我に返って人の気配を感じ
て、顔を上げた。今外回りから帰ってきたらしい、杜山が斜め後ろから画面を覗いていた。
「凄い、かなりよく出来ているじゃない」
毎日杜山が持ち歩いているのと同じパンフレットが机に広げられ、作成途上のその複製
がCRTの画面に浮かび上がっている。
「写真とかはまだですけど」やや狼狽して、祐里子は説明した。「文字の部分は何とか近
いところまで再現することが出来ました」
「ふうん」画面に向けて長身を屈めて、杜山は肯いた。「大したもんだ。今さら感心する
のも何だけど、DTPソフトだとこんな文字効果が出来るんだな」
「どれどれ」
話を聞きつけて、奥の席に座っていた部長が寄ってきた。
「練習の成果が出てきたのかな」
「大したもんですよ」杜山が笑って、机の上のパンフレットを指す。「これと同じもの、
ゼロから作ったっていうんですから」
「ふうん」
画面を覗いて、しかし部長はやや微妙な表情だ。やはり写真をとり入れていないせいで、
見た目は今イチだから、と祐里子は思った。
「このタイトル文字の効果なんか、ワープロじゃ出来ないすよ」
杜山の説明に、そうか、と部長はようやく肯いた。
「ああしかし、早川君もう時間じゃないか」
「はい、終わりにします」
もっと見て感想をもらいたい気もあったが、促されて慌てて祐里子は片づけに入った。
それでも、この調子で練習を進めていけば週明けには何とかなりそうだ、と意を強くしな
がら。
王無棒
キチ --
キチーがいい --
そんなはずはない。偶然のわけはない。
黒板を見詰める草賀さんの落ち着いた横顔を窺い見ながら、可奈は思う。偶然にあの文
字が浮かぶ、わけがない。何故、先生もみんなもこの人の言うことを何でも信じるのだろ
う。
始まりは去年の四月、クラス替えでこの草賀さんと同級になったこと、だ。あの時可奈
はただ、幼稚園から一緒の希実ちゃんとまた同じクラスになったことを喜んでいただけだ
ったが。
一言でいうと草賀愛姫(あき)さんは、お嬢様で女王様だ。見た目から知的な美少女と
いう印象で、先生や大人たちに向かっては、徹底して優等生のお嬢様。クラスメイトに対
しては、絶対服従を強いる女王様。あるいは、魔女。とは言っても、決して表立って大勢
に命令することなどはない。傍にいる鹿島さんや三谷さんや桜木さんやを動かして、いつ
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の間にか他の人たちも思う通りに行動させる。逆らえば今の可奈のように、誰からも無視
され話しかけもされない存在にされる、のだ。それも全く草賀さん本人から命令が出たと
いう形跡もなく、いつの間にか、に。もしかすると、クラスの男子の一部辺りには、可奈
がそういう存在になっていることさえ気づかれていないかも知れない、ほどにだ。
一年前、最初は可奈と希実ちゃんにさりげないアプローチがあった。さりげなさ過ぎて
当時は意味も分からなかったが、要するに草賀さんの配下に入れという誘いだったらしい。
意味の分からないままに拒絶していると、夏休み過ぎ辺りから可奈と久堅くんがクラス内
でハジキ扱いになった。この二人が、勉強面で草賀さんを脅かす可能性があったというの
が理由だったらしい。
先生の見ている前以外では、誰も話しかけない。徹底的に、本人がそこにいないかのよ
うに、みんなで無視をする。それでも男子の一部まではその効力が及ばなかったようだし、
もとから社交性があまりなかったこともあって、久堅くんにはその仕打ちはたいして痛手
にならなかったようだ。しかし、女子の方はもっと徹底していた。可奈は完全に無視され、
傍を離れようとしなかった希実ちゃんは、もっとあからさまな仕打ちを受けた。
もともと希実ちゃんは勉強も運動も苦手な方で、からかいを受けやすい存在だ。そのか
らかいが徹底してワンランク上がったと言えばいいだろうか。何をしても笑われる。失敗
しても助ける者がいない。可奈を除いては。
五年生だった可奈から見て、それは信じられないほど巧妙で、統制がとれた集団行動だ
った。可奈への無視にしても、希実ちゃんへのからかいにしても、一つ一つをとってみる
と日常茶飯でとるに足らない行為にすぎない。それが徹底して、ずっと続くことで効力を
発揮するのだ。先生に助けを求めようにも、どの行為を指して言えばいいのかすぐには思
いつかない。告発するタイミングを逸しているうちに、どうにも身動きできないまでにそ
の包囲網が仕上がっていた。
秋も深まったある日の放課後、可奈の前に思い詰めた表情の希実ちゃんがやってきた。
「あたし、可奈ちゃんと絶交するから」
数秒間、言われた言葉が理解できずに可奈は幼なじみの顔を黙って眺めていた。やや間
を置いて、希実ちゃんの顔がくしゃりと歪んで、いきなり後ろを向いて走り去っていった。
去り際に「ごめん」と声がしたように思えたのは、可奈の勝手に希望的な空耳だったろう
か。
まちがいなく、強制的に言わされたのだ。みんなからのいじめ行為に、耐えきれなかっ
たのだろう。可奈一人の助けだけでは、力及ばなかったのだろう。加えて、希実ちゃんの
一年生の弟が草賀さんの妹と同級だということを、可奈は後から知った。そちらが人質の
ように使われれたという事情もあったのかも知れない。その後希実ちゃんとは落ち着いて
話すこともないので、真実のほどは聞いていない。それからずっと、希実ちゃんは鹿島さ
んたちと行動を共にするようになった。
それから少しして。昼休み、一人で席にいた可奈に、いつの間にか数人が近づいてきた。
先頭に立った鹿島さんが、歌うように言った。
「小杉可奈さんは、キチーがいい、だって」
誰からも話しかけられないことに慣れ始めていた耳に、それが自分に向けた言葉と気づ
くのに数秒かかった。気づいても、何を言われているのかしばらく理解できなかった。
「へえー、キチーがいい、か」
くり返す、三谷さんの声。その向こうに、希実ちゃんの泣きそうな顔。それを見ながら、
ぼんやり思い出した。
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確か、二年生の学年の終わり、クラスで作った文集というか、寄せ書きのような冊子だ。
「わたしのすきなもの」というタイトルのページに、可奈は「キチーがいい」と書いたの
だ。有名な可愛いキャラクターを、舌足らずの表記で。
この中に二年の時同じクラスだった人はいただろうか、と見回して、考えるまでもない
ことに気がついた。半泣き顔の、幼なじみの、表情を見て。
「キチーがいい、か」
「キチーがいい」
「キチがいい」
取り囲んだ四五人が、輪唱のようにくり返す。くり返すたびに、その言葉は本来の意味
と別の響きを奏で始める。
「やめてよ」
ようやく口にした拒絶に、鹿島さんが爽やかに笑い返した。
「どうして?
いけないこと言ってるわけじゃないよ。そもそも小杉さんが書いたことな
んでしょ。『私はキチーがいい』」
「可愛くていいじゃない。『私はキチーがいい』」
桜木さんも、続けて笑いかけた。
「キチーがいい」
「キチがいい」
「キチがいい」
続けて他からも囃し立て。
こんな時でも草賀さんは離れた席に座って見ているだけということに、可奈は頭の隅で
感心してしまった。とは言えそんな醒めているのはもちろんほんの一部分で、意識の大部
分は屈辱に震えていた。席を立つことも泣き出すことも屈辱の上塗りに思われて、上目で
包囲陣を睨みながら唇を噛みしめているしかなかった。
その後も、変わらず無視は続く。仕方なく呼びかける必要がある際には『キチーの小杉
さん』という呼称になった。先生に聞こえるかどうかぎりぎりの状況でさえ、その呼びか
けは使われることがあった。聞こえるかどうかのスリルを楽しみ、おそらくもし聞こえた
としても、可愛いニックネームなんだと言い抜けるつもりだったのだろう。
秋の社会見学遠足のグループ決めでは、可奈一人が最後まであぶれていた。ぎりぎり時
間切れ間近になって鹿島さんが手を挙げて、うちのグループに入れる、と申し出た。グル
ープに所属しないで行事に参加することはできないので、可奈にそれを拒む選択はなかっ
た。草賀さん一派の四人に希実ちゃん、可奈を加えた六人グループが、ここから始まった。
グループに入っても、完全無視は続く。それはむしろ、はっきり目の届く範囲に可奈を
囲い込んで、他の級友たちからの接触を遠ざけて、ハジキをもっと露骨に完成させるため
に仕組んだもののようにさえ思われた。さらに以前より近づくことで、四人の希実ちゃん
への犯罪ぎりぎり一歩手前のような侮蔑的な扱いをまざまざと見せつけられることになる。
可奈が逆らえばこれがエスカレートする可能性さえ、ほのめかされた。この状況に可奈は、
亀のように身を縮め隠すしかなかった。
当時担任の志田登喜子先生が草賀さんの裏の顔に気がついたのはいつ頃か、可奈は詳し
くは知らない。噂では、二学期の中頃には草賀さんのお母さんと会って話をしていたらし
い。その志田先生が、冬休み直前から学校に来なくなった。
娘にあらぬ疑いをかけたと、草賀さんの両親から学校や先生本人に厳しい糾弾があった
らしい。それは教頭先生や校長先生さえ途方に暮れさせる激しさで、志田先生はこのまま
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担任を続けることができなくなるまで追い詰められた、という噂だ。
冬休み前の数日間、五年一組の授業は教頭先生が担当した。三学期には、臨時の先生が
新しく来るようになった。本来なら六年に上がる際にはクラス替えも先生の交代もないの
が通例らしいが、この四月からはよそから転勤してきた葛木先生が担任になった。
志田先生は、いじめや小学生にあるまじき行為を察知したら絶対許さないというような、
厳しさを態度に表している担任だった。そのため、草賀さん一派の活動は完全に裏に潜ん
で、その片鱗も先生の目に触れないように細心の注意を払っているようだった。
比べて、葛木先生はかなり鷹揚に見える。新学期の最初に草賀さんを指名して、
「君はリーダーシップがあるようだから、クラス代表を務めてもらえないだろうか」
と懇願の口調で言った。
その後もあからさまなほどではないが、草賀さんのご機嫌をとるような、暗にその君臨
の実態を認めるような、贔屓とも感じられる扱いが続く。
教育者としてこの態度がどうなのかは分からない。しかしこのクラス全体の運営に限っ
て言えば、これはいい判断だったようだ。賢明な草賀さんは、こんな甘やかされていると
言えそうな待遇でも、増長して裏の顔をあからさまにするということはしない。自分たち
が気持ちよく過ごせる限りは、しっかりクラスの調和に協力する。結果、陰での可奈への
無視と希実ちゃんへの侮蔑が続くことを除いては、表向きクラス運営は平穏を保つことに
なった。
おそらく、他の先生辺りの目から見ても、現在の六年一組は上手くいっている状態とい
うことになるのだろう。
その日帰りの会の中で、鹿島さんが手を挙げた。
「うちのグループで放課後残って葉山さんの絵の修理をしたいと思うんですが、いいです
か?」
ほう、と先生は感心したような顔になった。
「提出締め切りが過ぎて絵を直すのは反則かも知れませんけど」草賀さんが補足して言う。
「グループで責任を持って、最低限の修理だけにしますから」
「いいだろう。葉山の絵はあのままでは可哀相だ」先生は嬉しそうに肯く。「君たちを信
用して、任せるよ」
はい、と草賀さんと鹿島さんが口を揃えた。三谷さんと桜木さんもそれぞれの席で大き
く肯いている。
掃除が終わり、先生も一度職員室へ戻っていった。三谷さんと桜木さんがグループ活動
用に机を寄せ集める。黙って、可奈は椅子を運んで掲示板から希実ちゃんの絵を剥がす。
言われなくても、このような雑用は進んでするようにしていた。
「ほら希実、ちゃっちゃと済ましてしまいなよ」
鹿島さんに言われて、希実ちゃんはわたわたとロッカーから絵の道具を取り出してくる。
これも声をかけずに、可奈はそこから水入れを受けとってトイレに水を汲みに出る。
戻ると、希実ちゃんはパレットに煉瓦用の色の調合をしていた。他の四人はそれに目を
向けずお喋りをしている。可奈が水入れを置くと、鹿島さんがひょいと振り返って希実ち
ゃんに言った。
「その黒いの、先に少しでも拭き落とさないと、新しく塗ってもダメなんじゃない?」
「あ……うん」
パレットで新しい色を混ぜていた筆を止めて、希実ちゃんは困惑の顔になる。
可奈がティッシュを取り出して水で濡らし、作者に無言で了解を確かめてから、絵に当
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てていった。数回擦ると、黒い汚れが周りの煉瓦と共にやや色を薄めてくる。
キチ、という二文字が、ようやく薄れ消えていく。
偶然でこの二文字が刻まれるなんて、あり得るはずがない。昨日牛乳の雫が飛んだ時、
文字にする余裕はなかったんだから、草賀さんの言う牛乳によるあぶり出しなんて偶然、
絶対あり得ない。何か別の仕掛けがあったはずだ。みんなに見えるところで、自分とは無
関係と装って、人をおとしめるものを見せつけるのが、この人の得意なやり口なのだから。
昨日絵を仕上げた最後に、希実ちゃんは自分のと他の四人に押しつけられた分とをまと
めて、パレット類を洗いに出た。可奈もつき合って、洗うのを手伝った。その間四人で残
っていた教室で、どんな仕掛けでもできたはずだ。
ひとしきり拭いて、いいかな、と顔を窺うと、希実ちゃんは小さく肯きを返した。新し
い絵の具の筆が、そっと画用紙に乗せられる。
色を塗り直す作業の間、四人はずっと別のお喋りに没頭し、可奈は手持ちぶさたのまま
絵の直る様子を眺めていた。
「これ、今日の指令」
草賀さんが二つに折った紙のようなものを取り出して、意味ありげにウインクしながら
三人に配っている。薄ピンク色の用紙にワープロで打ったらしいそれを、ちらと一目だけ
可奈は覗き見る。
『花を見たらすぐにずっとまえのときをみなおす。』
あまり人に自慢したことはないが、暗記力には自信がある。これくらいの文章は一瞬見
ただけで覚えてしまえるくらいだ。
こちらの二人には見えないように隠しながら読んで、三人はくすくすと笑い声を漏らし
ている。
気づいていることを知られないように無表情に努めて、可奈は人知れず不快感をこらえ
る。
『ぐずきみ』
『愚図希実』か。
自分たちのグループ名を「ナニナニ団」とする、と鹿島さんが葛木先生に告げたのは、
四月、新学期初めてのテーマ学習を理科の時間に行った時だ。
「いろいろな疑問を、グループ協力して解き明かすの」
「へえー、それはいいことだね」
これも先生は、嬉しそうに肯いた。
グループに名前をつけることを強制されたわけではない。こうやって積極的にやる気を
見せると先生に印象がよくなるから、と草賀さんがグループのみんなに説明してのことだ。
「でもなんかこの名前、子どもっぽくない?」
鹿島さんの疑問に、
「子どもっぽい名前の方が無邪気に見えて、大人には受けがいいんだよ。大人の書いた子
ども向けの小説に、よくこんなの出てくるでしょう」
秘肉っぽい笑いで、草賀さんは説明した。この頃には、存在は無視しながらも四人は、
可奈の前で本性を隠そうとすることはほとんどなくなっていた。
「それに、これには他の意味合いもあるんだ」
草賀さんがそこで言葉を切ったところを見ると、先を可奈には秘密にしたいらしかった。
その意味を可奈が知り当てたのは、修学旅行から帰ってきた後のことだった。前から四
人は、他の人には知られないよう暗号めかした文書のやりとりをしていた。これはその、
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一案に絡めてだったようだ。「ナニナニ」は「七二七二」だ。
暗号文書は、たいてい四人の間だけで回される。それでもごくたまに希実ちゃんにも回
っていることがあるので、その意味も伝えられているのだろう。可奈だけをハジキにする、
これはそのための道具としても機能しているらしい。
「まだなの、希実」
桜木さんがいきなりこちらに向き直って声をかける。
「あ……も、もう少し」
ほとんど塗り直しの終わった希実ちゃんの筆先が、狼狽して震える。
「ほんと、グズなんだから」
溜息混じりに、三谷さんが吐き捨てる。
暗号の意味ないじゃん、と可奈は思う。もちろん今日のはたいして秘密を重要視してい
ない、習慣のような暗号のやりとりなのだろうけど。
ポックラポックラと、廊下からユーモラスな響きが聞こえてきた。葛木先生のサンダル
の足音だ、と気づいて四人はこちらに向けて姿勢を直した。みんなで希実ちゃんの手元を
覗く格好を作る。
「どんな調子だい」
ドアを開けて、先生が声をかけてきた。
「もうすぐ終わりでえす」
代表して、鹿島さんが返事する。
「やっぱり葉山さん上手。前と変わらないくらい綺麗な色になったよ」
三谷さんが、明るく無邪気な声を上げる。
「おう、確かに」先生も覗き込んで、満足げに肯いた。「葉山の腕も大したものだし、グ
ループの協力の賜物だな」
はい、と希実ちゃんは小声で応えた。
それでも、家に帰ったのは前の日より早い時間だった。荷物を置いて、可奈は夕食に向
けてとりあえず米を量って潤かす。冷蔵庫の中を確かめて、料理の算段をしておく。
時間に余裕があると考えて、お父さんの部屋に入る。タワー型のパソコンの電源を入れ
ると、低くファンが唸り出す。
お父さんが使わない時間は可奈が使用してもいいぞ、と言われたのは、去年の秋頃だ。
パソコンの機種を新しく買い換えたのを機に、お父さんが可奈を部屋に招いて提案したも
のだ。
「可奈がパスワードを設定してログインできるようにしておくから、お父さんやお母さん
に見られずに、メールとか使えるようにできるぞ」
インターネットを見ることと電子メールの送受信ができるのがせいぜいだが、それでも
急に大人びた玩具を手に入れた物珍しさに、しばらく熱心に操作を練習した。それほど経
たないうちに熱が冷めていった理由の一つは、メールを使えるようにしてもやりとりする
相手がいなかったことだ。ちょうど学校の授業でインターネットを紹介することがあり、
「メールアドレスを持っている人がいたら、できれば教えてください」と言う志田先生と、
希実ちゃんにだけアドレスを教えた。この頃にはもう、儀礼的にも挨拶を交わす友だちが
他にいなくなっていた。希実ちゃんはパソコンも携帯も持っていなかったし、絶交を言い
渡されたのはこの直後で、結局メールは一度もなかった。志田先生とは、完全に儀礼的な
メールのやりとりを一往復だけ交わした。
落ち着いてパソコンに触りにくくなったもう一つの理由は、両親の言い合いを部屋の外
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から聞いてしまったことだった。
「勝手に相談もなく、こんなパソコンの買い換えなんかにお金かけるんだからね、この人
は」お母さんが、いつにない低い声で言っていた。「それで後ろめたいもんだから、可奈
にも使わせてやろうなんて言って」
「仕方ないだろう」ぶす、とさらに低い声をお父さんが返した。「仕事に使うんだから」
「嘘ばっかり。そう言うから最初買う時は仕方なく賛成したけど、あんた、家で使うのは
ゲームばっかりじゃない」
「あれは、たまの息抜きだ」
お母さんの知らないうちにRPGとかいうゲームのパッケージが増えているのを、可奈
も知っていた。
「これからますます子どもの教育にお金がかかるというのに、自分勝手なんだから」
「いいだろうが、これくらい」
「いいわ。そっちがその気なら、こっちも勝手にするから」
日中のお母さんの外出が増えたのは、その頃からだ。しばらく前から別にしているお母
さんの部屋の方には、新しい洋服や装身具が増えてきている。
軽快な音楽と共に液晶が青く点滅して、ログイン画面になる。古い機種より確実に速く
なったとお父さんが自慢する起動の知らせが、お母さんの恨み顔と重なって、そのたびに
可奈の胸を重くする。しかし今は、それに耐えても見てみたいものが、その先にある。
五分五分の確率のつもりでメールの受信箱を覗くと。
あった。二週間ぶりの便り。
写生会、いい天気でよかったね。
チョウチョ、きれいだったね。
カナちゃんの羊の絵、かわいくてよかったよ。
昨日の夜の受信になっていた。差出人の名前も件名もなし。相手のアドレスはいつもと
同じだが、誰のものか可奈には分からない。
両親の会話を聞いた後、去年の末頃からしばらくはパソコンには触れないという時期が
続いた。この五月になって、両親の留守中に退屈の気まぐれで立ち上げてみた。その時、
初めてこの差出人のメールを見たのだ。久しぶりの起動だったので、着信から一週間以上
経っていた。
カナちゃんは何も悪くないよ。
負けないで。がんばって。
その日も、前の日も、一週間前も、ずっとクラスの中で完全無視が続いていた。素っ気
ない二行だけの文面だったが、それは疲れていた可奈に、かすかな明かりが射す思いをも
たらしてくれた。
何も悪くない。
自分では信じているのに、誰も言ってくれる人はなかった、一言だった。しばらく可奈
は、夢か現実か分からない混乱のまま、液晶画面を見つめていた。この一言を、誰かに言
って欲しかったのだと、初めて自分の気持ちに気がついた。誰が書いたものだろう、とい
う疑問が頭に持ち上がってきたのは、ややしばらく経ってからだった。
21
このメールアドレスを知っているということでは、希実ちゃんしか考えられない。しか
し希実ちゃんは、パソコンも携帯も持っていないはずだ。しばらく考えて、震える指で返
信を打った。
あなたはだれですか?
希実ちゃんですか?
数日後に、返事が来た。
私が誰かは、言えません。
調べないでください。
あなたを、応援しています。
それ以降、一~二週間おきに、同じ差出人からのメールが届いている。内容は他愛のな
いものだが、クラスの中の出来事を知っている、クラスメイトに違いなかった。やはり、
希実ちゃんしか考えられない。万が一にもあの四人に知られることがないよう、秘密のメ
ールの中でも名乗らないようにしているのだと、可奈は思った。その気持ちを尊重して、
正体を調べようとはしないことにした。学校でも、誰にもこのメールの存在をほのめかす
さえしないようにしている。両親にさえ、全く知らせていない。それは、今の学校での可
奈の様子を知られることと同じだから。
今の状態を、両親に知られるわけには、いかないのだ。
この日のメールも、差出人は写生会の出来事を知っている。やっぱり希実ちゃんが一番
有力候補だ、との意を強くして、可奈はメールソフトを閉じる。
がたがたと、玄関の開く音がした。慌てて、可奈はお父さんの部屋から出た。今日も両
手に荷物を提げて、お母さんが帰宅したところだ。
「お、お米潤かしてくれてるね。いい子だね、うちの娘は」
ちらとキッチンを覗いて、丸い身体を揺すって、お母さんは上機嫌で自分の部屋へ向か
う。
いい子だ。
可奈は、いい子でいなければならない。いい子でなければ、きっとお父さんとお母さん
の心はこれ以上に離れていってしまう。いい子でいれば、きっと今のままでいられる。
お母さんは部屋で、きっとご機嫌で戦利品を見ている。
可奈は、予定通りの算段で料理を始める。
おい、可奈をこっちへ来させるな。仕事をしているんだ。お父さんの苛立った声に、信
頼しきって部屋に入った足が、強ばって止まった。お父さんの、仕事が忙しかった頃だ。
家にいる時くらい、子どもの相手してくれてもいいでしょ。同じくらい固い声を返して、
お母さんが可奈の手を邪険に引いた。
邪魔をしちゃいけない。手を煩わせちゃいけない。
いつもの時間通りに、お父さんが帰宅する。真っ直ぐ部屋に入って、きっとパソコンを
起動している。前はよく仕事で帰りが遅くなることがあったものだが、一年くらい前から
そういうことがほとんどなくなっている。代わりに増えたのが、部屋に籠もってパソコン
に向かう時間だ。
家族で食事をしながら、可奈は学校の出来事を話す。希実ちゃんの絵が素敵なんだよ。
22
昨日と同じ言い回しでも、お父さんもお母さんも、うんうんと肯いてくれる。
可奈の背中では、テレビの音。情報番組でビデオに感嘆するタレントのハモり声。お母
さんの視線は半分そちらを行き来する。
お父さんは肯きながら、何度も視線が部屋の方へ流れる。きっとゲームの続きを気にし
て、部屋に戻れる時間を心待ちにしている。
気づかない顔で、可奈は話を続ける。
いい子だ。時々だけれど、お母さんとお父さんの目が優しくそう言って、娘の顔に向け
られる。
肆
バスを降りると、タイミングを合わせたように雲間から日が射してきた。広げかけた傘
を閉じ直して、ショルダーバッグを揺すり上げて、祐里子は足どり軽く歩き出した。クリ
ーニング屋さんの隣、期待を込めて植え込みの上から覗くと、以前と同じく青々と紫陽花
がいくつも手鞠を形作っていた。期待の的中した嬉しさに、やりい、と小さく声が口をつ
いて出た。
懐かしい道を辿って月極駐車場の角を曲がると、もうガッチャンガッチャンと耳に馴染
んだ機械音が聞こえてきた。小走りに寄って、半開きの店の入口を覗き込む。大きな機械
の陰に、見間違えようのない青い作業服姿を見つけた。
「こんちわあ、叔父さあん」
印刷機の騒音に負けない声を張り上げる。元気のよさは子どもの頃から変わりないが、
祐里子の声の大きさはひとえにこの音への対抗で鍛えられたものだ。
「おう」
親の時代から続くこの印刷屋の主は、機械の陰から顔を覗かせて大きく肯いた。言葉は
ぶっきらぼうだが、姪の顔を見て目元が緩んでいる。
「おうい」
叔父が短く奥に声をかけ、すぐに叔母が顔を出した。
「祐里ちゃん、途中濡れなかったかい」
「うん」機械音に消えかかる叔母の声に、祐里子は張り上げ声を返した。「バス降りたら、
もう止んでたから」
「そりゃよかった」叔母は目尻の皺を深めて笑った。「お上がりよ。あんたの好きなどら
焼きあるから」
「わあ、嬉しい」
笑う叔父に軽く頭を下げて、祐里子は奥へ駆け込んだ。
両親の死後から二年あまり暮らした家の中は、いつ来てもほとんど変化を見せず、安心
させてくれる。
上がって、祖父母の仏壇に手を合わせて。茶の間のテーブルに向かうと、叔母が急須に
湯を注いでいる。
「叔母さん、これ今月の分。ありがとうね」
毎月のことで、あっさり封筒をテーブルに置く。
「はいはい、どうもね」
叔母の方も素っ気なく一瞥しただけで、湯飲みに茶を淹れていた。
23
高校卒業時に専門学校の学費として叔父に借りた金は、一人息子の将来の学費として叔
母が細々と貯めてきたものだとは祐里子も十分承知していて、出来るだけ早く返済したい
と月々持参してきていた。予定ではあと一年以内には返済が終わるはずで、今年中学三年
になる従弟の今後に迷惑をかけずにいけるはずだ。
お茶と菓子器に盛られたどら焼きを差し出されて、祐里子は「嬉しい」と笑顔で手を合
わせた。
「あんた、本当に好きだよね、これ」
叔母も笑って、湯飲みを持ち上げる。
直接血の繋がらないこの叔母とは、同居していた当時よりも家を出て以降の方が親しみ
を増している実感がある。向かい合って茶を飲みながら、祐里子は心底寛いで近況の話な
どをしていた。仕事に区切りをつけて上がってきた叔父も交えて、最近パソコンの仕事に
手応えを覚えていることを報告した。
「最近は、パソコンで作ったデータをそのまま印刷屋に持ち込む方式も増えてるみたいよ。
叔父さんも、これからはそういうのに対応出来た方がいいと思うよ」
「そういう話、聞いてはいるんだがなあ」難しい顔で、叔父は湯飲みを口に運んだ。「何
ぶんにも、設備投資に先立つものがな」
「ヒロがここの跡継ぐ気があるんなら、設備投資ってのも必要になるんだろうねえ」叔母
も、溜息混じりに言う。「今のところそんな様子もないようだから」
はは、と笑いながら祐里子は両手で持った焼き菓子を囓った。
「ヒロちゃんは、今日はいなかった?」
「いや、そこまで買い物に出てるだけ」ひょいと叔母は外に向けて首を伸ばした。「すぐ
に戻るはずだよ。期末テスト前で遊びに出るの禁止って言ってあるから」
「あらあら、大変」
嫌々机に向かう従弟の姿を思って、祐里子は苦笑いになった。叔母に倣って外に目を向
けると、がさがさとものの擦れる音がした。
「噂をすれば、帰ってきたよ」
叔母の言葉が終わらないうちに、戸口に少年の顔が覗いた。
「祐里ちゃん、来てたんだ」
「はいはい。今さっき来たとこ」
ふうん、とたいして関心なさそうに、従弟は二三度肯いた。
「お茶飲むかい」
母親の声に、あっさり首を振り返す。
「暑いんだもん、麦茶の方がいいや」
さっさと自分で冷蔵庫を開けて、コップに注いでいる。テーブルに寄ってきて無造作に
どら焼きを一つ掴んで、乱暴に壁際に腰を下ろした。いつの間にか長さを増した細い脚が、
祐里子のすぐ横まで投げ出されてきた。
「期末テストだって?」
祐里子の問いかけに、菓子を頬張ったまま黙って肯きが返った。
「勉強してるなら、見てあげようか?」
「 --
いいよ」
ごくりと口の中のものを飲み込んで、ぶっきらぼうな返事。しかしすぐに視線が天井を
向いて、少年はわずかに考える顔になった。
「あ、でも、理科をちょっと訊きたいかな」
24
「いいよ、お安いご用」
高校までは、祐里子は理数が結構得意な方だった。
「面倒かけるね」叔母が嬉しそうに言った。「でも来てくれるのは嬉しいけど、祐里ちゃ
んもこんな律儀にこっちに来てるより、もっと休みの日遊んだっていいのに。そんな、お
洒落も考えない格好していないで」
「ははは……」苦笑して、祐里子は短い黒髪の頭をかいた。「面目ないっす」
「若い子たちって決まって髪を茶色に染めたりしてるのに、あんたそんなで化粧っ気もな
いじゃない」
「あ、会社に行く時は最低限してるのよ、お化粧」
確かに髪の色をいじらず黒いままが社内でも一人だけなのは、自覚していたが。
「最低限ってね
」叔母は深々と溜息をついた。「祐里ちゃんあんた、年頃なんだから
--
もっと身の回りに気を遣っても --
」
「あー、ヒロちゃん」いきなり祐里子は、従弟を振り返った。「時間もったいないから、
しようよ、テスト勉強」
露骨な説教逃れの素振りに、叔母はこれ見よがしに溜息をついて、夫と苦笑の顔を見合
わせた。
こちらも涙が出るほど懐かしい古びた六畳間に、従弟の背を押して入った。今はすっか
り男の子一人の部屋に戻っているが、この奥半分に二年あまり、祐里子は居候していたの
だ。仕事場と隣接したもともと狭い家で、茶の間の他には二部屋しかなく、他に選択の余
地はなかった。小学校高学年になった男の子の部屋にいつまでも居ついているわけにはい
かないという配慮が、高校卒業と同時に一人暮しを始めた最大の理由だ。
天井にも襖にも変わらず浮かぶ染みまで、胸の奥が湿っぽくなりそうな思いを掘り起こ
す。努めてしみじみ見ないようにして、祐里子は従弟を座らせた勉強机に屈み込んだ。
叔父が仕事に戻ったらしく、遠く機械音がまた唸りを強めていた。
週明けの月曜の夜には、試験作成していたパンフレットがほとんど形になった。実物と
作成画面を見比べて祐里子が一人肯いていると、部長が立って横から覗き込んできた。
「一通り出来るようになったかな」
「まだまだいろいろな技術があるんですけど、必要最低限は確かめたというところですね」
やや控えめに、祐里子は応えた。部長は、無造作に肯き返した。
「結局は広告部の作成と連動して上手くいくか、だからな。ある程度目処がついたら、早
いうちに広告部と技術的な点の打ち合わせをしないといけないな」
「そう、ですね」
「明日にでも、あちらと話をしてくるといい。広告の代田部長に話を通しておこう」
「よろしくお願いします」
祐里子は、大きく頭を下げた。
いよいよ次の段階に進められる。そう思うと、心が浮き立つのを覚え出した。
翌日、朝の打ち合わせで、午後一で広告部に行ってきなさい、と祐里子は部長から言わ
れた。
「あちらで木崎係長が相手してくれるということだ」
「分かりました」
会議室での昼食時間に、祐里子は広告部の二人に挨拶を入れた。
「午後からそちらにお邪魔しますので」
話は聞いているようで、岩代が穏やかに笑い返した。
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「どうぞどうぞ」
儀礼の域を出ない笑顔という気もするが、祐里子はやや緊張が薄まる気がした。
この数日で作成した試作品のデータをフロッピーディスクに入れて、少し離れた広告部
の部屋を訪れた。六人の部員が机を向かい合わせてそれぞれパソコンを前に作業している。
自分のところの新機種より洒落たデザインの機械だ、と祐里子は感じた。
木崎係長が顔を上げて、そこに座って、と隣の空席を指さした。
「失礼します」
向かいに並ぶ岩代と高末にも笑顔で会釈して、祐里子は椅子に座った。
作業中のものを保存するらしいマウスの操作をして、木崎は溜息をつくように横を向い
た。これまであまり話したことはないが、いつも遠目に見ても、何につけ怠そうな動作を
見せる人だ。
「そちらでクォークを使えるようにして、こっちとデータのやりとりをしたいということ
だね」
単刀直入な問いに、はい、と祐里子は応えた。
「試しに作ってみたデータを、フロッピーで持ってきました」
「貸して」
無造作に差し出される手に、ディスクを渡す。黙って係長は自分のパソコンにそれを差
し込んだ。マウスを何度かクリックして、木崎の銀縁眼鏡の奥で眉がひそめられた。
「読めない」
「え?」祐里子は思わず腰を浮かせた。「あの、でも --
」
「ちょっと待て」
画面を睨んだままぶっきらぼうに制して、さらに何度かクリックが続く。そしてすぐに、
深々と溜息。
「マジかよ」軽く、舌打ちが聞こえた。「ウィンじゃねえか、これ」
「え?」
「第二営業で入れたマシンって、ウィンドウズかい」
「あ、え、そうですけど --
」
悪い予感がして、祐里子は背筋が強ばる気がしていた。木崎係長の前の機械のロゴに、
恐る恐る目を向ける。
「DTPといったら、マックに決まってるだろうに」
「え --
」
「部長」祐里子の困惑に頓着せず、木崎は窓の方へ首を上げた。「第二営業と、事前に打
ち合わせしたんですよねえ」
「ああ、したよ」
訳が分からない様子で、初老の代田部長が丸い顔を上げた。
「あっちのマシン、ウィンのようなんすが、そこ詰めてなかったんですか」
「どうだったかな」代田部長は首を捻った。「しかし当然こっちに合わせるだろう。同じ
クオークを使うのが目的なんだから」
「一般世間では何も言わずにパソコンっていったら、ウィンになっちまいますよ」
「そうなのか?」
ちらと上司を睨むようにしてすぐに画面に向き直り、木崎はまた深々と溜息をついてい
た。
「あの --
」おずおずと、祐里子は声をかけた。「データ、読むこと出来ないんですか?」
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「全く出来ないとは言っていない」
素っ気なく返し、木崎はディスプレイを睨んで手を動かしていた。何度かマウスが滑り、
キーボードが乱暴に叩かれて、やがて新しいウィンドウが浮かんだ。
「こんなもんかな」
マウスから手を離して。木崎は腕組みをして椅子に背をもたれた。画面と距離をとって、
じっと睨み続けている。
「ふうん」呟きが、漏れて出た。「文字化け --
レイアウトずれ --
ち、ここもかい」
手早くマウスを動かして画面の拡大、移動が続いた。
「曲がりなりにも同じソフトだから、全く読めないわけでもない」画面から目を離さない
ままだが、言葉は祐里子に向けたらしい。「しかしあちこちにずれが出来てるのは、作成
スキルのせいか、データ変換のせいか、これじゃ分からんな」
「え、じゃあ……どうすれば」
「多少いじれば使えるようになるかも知れん、が --
」またいきなり、木崎は窓の方へ首
を伸ばした。「部長、これから毎回こっちでデーター変換して、出来具合も調整するわけ
すか?」
「 --
そうなる、な」
たまんねえな、と木崎は呟いた。
「あの --
」まるっきり針の筵に座る心地で、祐里子は情けない声をかけた。「方法を教
えていただければ、こっちで --
」
「無理だ」
また、素っ気ない応えが返った。さらにしばらく画面を睨み、首を傾げ。
「まあ、こちらで作ったのに書き加えた程度なら、面倒は少ないかな」
独りごちて、一拍置いて、祐里子の顔を睨むように視線が向けられた。
「はい、あ --
どうしたら?」
いきなり、祐里子の前に置いたパンフレット見本が掴み上げられた。
「高末、これのデータ、フロッピーに落としてやって」
正面から命じられて、最若手の女子職員は、はい、と狼狽混じりの返事をした。あまり
待たされず差し出されたディスクを木崎は受け取り、ほい、と祐里子の前に突きつけた。
「これ適当にいじってまた持ってきて。明日、持ってこれる?」
「あ、はい」
「そっちで読めるか、工夫してみて。どうしても出来ないようなら、相談して」
「わ、かりました」
ほとんど追い払われるようにして、祐里子は自部署に戻った。
いきさつを部長に報告すると、ちょうど席に戻っていた杜山が素っ頓狂な声を上げた。
「マックなの?
広告部の機械って」
「何だいその、マックって?」
不快そうに、部長は首を傾げた。
「つまりその、もとになる機械の作りが違うわけです、こちらのと」杜山が困った顔で説
明する。「もとのもとが違うので、あちこちで共通のことが出来なくなる」
「しかし何だ、そのソフトは同じなんだろう」
「なので、何とか工夫すればデータのやりとりは可能だということです」祐里子が報告を
続けた。「ただ、データの変換に手間がかかるかも知れない。作ったものの出来上がりに
ずれが起きているかも知れない、と」
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「工夫次第で何とかなるということだな」
「どの程度上手くいくか、手間がかかるか、何度か試してみようということです」
「もう手をつけてしまったんだ」部長は肯きながら言った。「いろいろ工夫しながらでも
やっていくしかないだろう」
「それにしても、部長」恐る恐るの調子で、杜山が口を入れた。「あちらの代田部長との
打ち合わせで、その機械の話は出なかったんですか?」
「特に出ないぞ」ますます不愉快そうに、部長は口を曲げた。「業者に用途を話したら、
この機種を勧められたんだ」
それ以上追求は出来ずに、杜山はこっそり祐里子を見て肩をすくめた。
会話に加わっていない岳沢が、自分の席でやれやれと首を振っているのが見えた。
「とにかく、まずこの向こうで作ったデータをこっちでいじれるか試してみろということ
です」
慌てて取り繕うように、祐里子は預かってきたフロッピーディスクを持ち上げた。
「ああ、それなら試してみなさい」
部長の指示を受けて、新しいパソコンの前に座った。フロッピーを入れると、軽い振動
音と共に、読み込むことはすぐに出来た。しかし。
「あ --
え、と --
」
すぐに、祐里子は困惑の声を漏らしていた。
「どうしたの?」
机を回って、杜山が寄ってきた。
「ファイルは見えるんですが、立ち上げられないんです」
普通ならファイルをダブルクリックするとそれを読み込んでソフトが起動するのだが、
これは全く反応しない。画面でのファイル名の見た目も何かおかしい。
覗き込んで、杜山も首を捻った。
「先にソフトを立ち上げてファイルを開いてみたら?」
「それもやってみましたが、これではファイルが見つけられないんです」
「ふーん」杜山は腕組みをして、唸った。「ちょっとどいて」
祐里子と席を替わって、杜山がマウスを握る。ファイル名の上を、何度もカーソルが行
き来した。
「何か変だよな、これ。いかれてるんじゃないのか」
またしばらく何度かクリックが続き。やがて杜山は、ああ、と呟いた。
「そうか、拡張子がおかしいんだ」
クリック、キーボードを打つ音が続いた。
「よし、これで開けた」
画面に、ここのところ馴染み始めたソフトのウィンドウが広がっていた。
「わあ、ありがとうございます」
祐里子は、声を張り上げていた。
そこへ、岳沢が低い声をかけてきた。
「杜山君、もう時間なんじゃないの?」
「あ、いけね」慌てて杜山は立ち上がった。「出かけてきます」
部長の方へ頭を下げて、ばたばたと外へ出ていく。
替わって、祐里子はパソコンの前に座り直した。
「早川さん」岳沢がこちらを見ずに話しかけてきた。「先週分の伝票、こっちでやってお
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くから」
「あ、いえ --
」慌てて祐里子は顔を上げた。「あたし、この後すぐ、やりますから」
「いいわ、代わってやっておくから。今日はそれに集中しなさい。明日までに何とかしな
きゃいけないんでしょう」
「済みません、じゃあお言葉に甘えます」先輩に向けて、大きく頭を下げた。「どうもあ
りがとうございます」
画面に、パンフレットのレイアウトが展開されている。枠組みは印刷物と変わらないよ
うだが、よく見ると文章が収まりきっていない部分があった。目を凝らして一文字ずつを
辿り、祐里子は細かい修正を加えていった。
途中途中でいつものルーチン業務にも戻りながら、出来るだけ時間をとってファイルの
修正を進めた。あっという間に午後の時間が過ぎ、五時半になっていた。さらに一時間を
かけて、何とか見た目を整えた。
翌日の午後、再びフロッピーディスクを持って広告部を訪ねた。受けとったディスクを
機械に挿入して、木崎は溜息をつくように訊いた。
「やっぱりそっちでも、ファイル名をいじらなきゃこっちから持っていったの、読めない
か」
「あ、はい --
杜山さんが、拡張子がどうとか、と」
ふん、と木崎は鼻を鳴らした。
「余計なものつけて戻ってきた」
「あの --
」
話しかけた声を遮るように、音高くキーボードが鳴った。ディスプレイに色鮮やかな画
面が浮かんだ。身を乗り出して、木崎はそれを覗き込んだ。
「文字配置、いじったか?」
「あ、はい」
「これで、そっちの機械では見てくれがよくなるわけか」
じろ、と横目で顔を見られた。
「あの、まずかったでしょうか」
「サンプルで適当にいじれと言ったんだからまずくはないが」すぐに画面に目を戻してい
る。「こんな馬鹿丁寧に修正しても意味はないだろうが」
「え --
」
また、横目で見られる。そんなことも分からないのかと、蔑みの色だ。
「最終形は、こっちの機械で整えて印刷に出すことだろうが。こっちですでに整っている
ものを、そっちでおかしいからっていじっても無駄な手間って奴だろう」
「あ --
」理解して、反射的に頭が下がった。「済みません」
「まあ、これで少しは見えてきたか」溜息をついて、画面を睨んでいる。「そっちでいじ
ったものは、いちいちこっちでいじり直さなきゃいかん、と。ついでにファイル名もって
のは何とかならんのかな --
」
独り言のようになって、親の敵を見る目でディスプレイを睨み続けていた。
隣で見ていて、祐里子は泣きたい気になってきた。
「まあ、これでやっていくより仕方ないわな」
がちゃ、とマウスをパットに叩きつけて、木崎は手を離した。
「次のパンフの改訂、これで持ってきて。文面だけいじって、レイアウトは気にしなくて
いいから」
29
「はい、あの
」怯えながら、祐里子は応えた。「そうすると、レイアウトを整える手
--
間はこちらでやっていただくということで --
?」
「仕方ないわな」木崎は同じ言い回しをくり返した。「こっちは下請けだからね、営業さ
んの仰せのままに、ご期待に添うようにするさ」
そんな言い方しなくてもいいだろうと思いながら、祐里子は何も言葉を返せなかった。
また追い急かされるように、席を立たされていた。いとまを告げても、向かいの岩代も高
末も、こちらを見ようとしなかった。
自部署に戻って報告すると、部長はあっさり肯いた。
「つまり、何とかなるということだな。よかったじゃないか」
あの広告部の空気を肌で感じていないから気楽に言えるのだと、祐里子は情けなく思っ
た。
翌日からこれも試しに、新しい手順でパンフレットの改訂を始めた。営業担当の男性職
員から改訂原稿を出してもらう。それをもとに、祐里子が広告部から持ってきた元データ
を書き換える。それをプリンタで出力して、原稿を作った職員のチェックを受ける。オッ
ケーなら、ファイルを広告部に提出する。広告部でレイアウトを整えて、プリンタ出力し
たものをもう一度戻してもらう。それを再度チェックして大丈夫なら、校了ということに
なる。
この過程で、営業部の中でのチェックの部分が、従来は何度も広告部と往復していたと
ころだから、スムーズにいけば業務改善を果たしたことになる。後は、広告部に提出して
からの手間が増えさえしなければ、問題もないと言えそうだ、が。
慣れない作業なので、第二営業部の中だけでも最初はぎこちなさが先に立っていた。祐
里子の文章入力もまだソフトに慣れきらず、スムーズに運ばない。どうかするとソフトが
異常終了をして、それまでの入力が無駄になるということさえ起きた。原稿作成者のチェ
ックも今までと変わってレイアウトが完成しない出力をもとにしてとなるため、勝手が違
って無駄な見落としが起きたりした。そのやりとりの中で、祐里子にかかる負担が大きく
なっていた。その分、岳沢が従来の業務を代わって引き取って、助けてくれることになっ
た。
広告部の方はどうかと、昼食時に遠慮がちに訊ねてみると、高末は複雑そうな苦笑を浮
かべた。
「あたしたちの入力の手間は確かに減ったことになるよねえ。でもウィンからマックへの
変換作業は木崎係長しか出来なくて、面倒くさいって不機嫌で --
」
ちら、と視線を向けられて、岩代が後を引き取った。
「目に見える実害はその程度ね。気分的なことまで言えば、自分で入力するのに比べて、
もう入力されたもののレイアウト調整って、面白くないっていうかストレスを感じる部分
はあるけど、それは言っても仕方ないから」
日頃口数が少ない割に歯に衣を着せない先輩は、あっさりと言う。
「まあそれもこれも、慣れていけば大丈夫と思うよ」
はあ済みません、と、祐里子は力なく頭を下げた。
慣れていけばそのうち軌道に乗る、とは思いながら、パンフレット改訂は中心業務とい
うわけではなく月に一二度という頻度のものだから、一つ終わるとしばらくは片隅に追い
やられることになった。
次の作業が始まったのは、二週間あまり後のことだった。外回り担当の中では最年長の
布川から原稿をもらい、改訂を打ち込む。チェックをもらい、広告部へ回す。広告部から
30
最終チェック用の版下コピーが戻ってきたのは作業を開始して三日目の夕方で、次の日の
朝一にはもう一度布川にチェックしてもらうことが出来た。問題なしオッケーの返事を祐
里子に託して、布川はその後すぐに外回りに出ていった。内線で広告部にその報告をして、
祐里子は安堵の息をついた。
「ようやく軌道に乗ってきたみたいです、この作業」
別の仕事に移りながら、祐里子は笑顔で岳沢に言った。
「よかったね」岳沢も自分の仕事の手を休めず、笑顔を返した。「このまま上手くいけば
いいね」
「はい」
暦が七月に変わって、この日も好天が続いていた。平年を超える気温の日が多くなり、
事務所内はエアコンが唸りを上げていた。たいてい日中残っているのは部長と岳沢、祐里
子の三人だけだが、部長が暑がりでどうしても設定温度を低めに固定したがる。冷え過ぎ
の自衛のため女性二人は膝掛けを用意して、部長に気づかれないように苦笑を見交わした。
五時近くなった頃、ハンカチで額を拭きながら布川が戻ってきた。
「やあ、暑い暑い。事務所は冷房が効いて天国だなあ」
これがもう少し冷え過ぎでなければそれも同意出来るけど、と思いながらそのまま口に
することも叶わず、祐里子は笑顔を返した。
「外で大変な皆さんには、申し訳ありません。麦茶、淹れてきましょうか」
「やあ、それはありがたい」
廊下を出てすぐの給湯室の冷蔵庫から、第二営業部用のピッチャーを出してコップに麦
茶を注いだ。座って部長と話している布川にコップを渡すと、サンキュ、と手で拝むポー
ズが返ってきた。年配の男同士、お決まりの地球温暖化への愚痴が交わされていた。
「ううー、生き返ったなあ」
麦茶を一気に飲み干して、布川が唸った。苦笑いで、部長は机の上の書類に目を戻して
いた。布川もつられたように自分の机の書類を手に取った。
勤務時間が残り少なく、祐里子は経理処理の電卓を打つ手を速めた。
「あれ」
妙な声に顔を上げると、布川が持ち上げた紙に向けて目を丸くしていた。
「早川さん、これ、広告に戻してしまったかな」
こちらに向けた書類は、今朝のパンフレットコピーだ。
「はい、オッケーということで、返事を」
「参ったなあ、誤字があったよ」
「ええ?」
「広告で、もう印刷に回しちまったかなあ」
「訊いてみます」
慌てて、祐里子は内線の受話器を取り上げた。向こうで出た高末に訊ねると、印刷に入
れてしまったがすぐ連絡をとれば間に合うかも知れないということだ。
布川が修正の赤ペンを入れたコピーを持って、祐里子は広告部の部屋へ急いだ。
「申し訳ありません」
入るなり、頭を下げていた。
「ちょうだい、修正」
にこりともせず、岩代が手を伸ばす。コピーを渡すと、かたかたと高速でキーボードに
手が動いていた。
31
「印刷には間に合ったから」隣で、高末が説明してくれた。「印刷の人が、新しい版下を
すぐ取りに来てくれるって」
「どうも済みません」
「気をつけてくれよ」向かいで、木崎が無愛想な声を上げた。「また、印刷屋に借りを作
っちまった」
「済みません」
何度も、頭を下げるしかなかった。布川のチェックミスだと言い逃れしたいところだが、
同じ部署の人間を貶めるわけにもいかない。部署で、この業務の責任は祐里子にあるのだ。
全くいい加減に、と木崎が呟きかけて言葉を切るのがかすかに聞こえた。あからさまに
糾弾の発言するのは、とりあえず抑えたらしい。
済みませんでした、とさらに頭を下げて、祐里子は広告部を辞した。戻った部室では、
ごめんごめん、と布川が頭をかいていた。
「印刷、間に合ったのか?」
部長の問いに、はい、と応える。
「印刷の人が、また取りに来てくれるそうです」
「そうか」
肯いて、部長は渋い顔をしていた。部長の方からも向こうへ詫びを入れなければいけな
い事態、なのかもしれない。
祐里子が席に戻ると、岳沢が面白くなさそうに溜息をついていた。
深く椅子に座って、祐里子も長い息をついた。どうも、トラブルがついて離れない。何
かお祓いでもしなければならないかも知れない、と考えた。
二日後、月初め恒例の部会が行われた。その日が人生の分岐点になるとは、祐里子はこ
の時全く予想もしていなかった。
吾無口
くすくすと、笑い声。落ち着きのない女子の振るまい。先生が背を向けるなり、さっと
後ろの席に何かを回したりしている。かたかたとチョークの音の合間に、またくすくす笑
い声。
この日の一時間目、国語の授業の最中だ。
暦が七月に変わって、この日も好天が続いている。平年を超える気温の日が多くなり、
冷房のない教室は子どもたちの熱気でむせ返るほどだ。その中で、落ち着きのない動きが
続く。
真横の女子の手に開かれた紙を、ちらりと可奈は横目で捉えた。
『あまりにあつくてそとは熱地獄だからな。今日はみなかとんの術禁止。虫むなしく去れ。
』
少し長いけど、頭に刻み残せる。ちら見で内容が分かるとは思っていない隣の女子は、
ことさら隠そうとせず読んで、肯き笑って、紙を後ろの席に回した。もちろん、あの回覧
が可奈に回ることはない。渡された男子もわけ分からず読み流して、次に回している。お
そらく、意味が分かるのは女子だけのはずだ。
『くそかなかんむし』
『くそ可奈、完無視』
32
今日は、完無視の日ということらしい。
胸くそ悪い気分になりながら、妙に冷静に可奈は納得していた。
毎日がクラスで無視される生活の可奈だが、それでも普段の周りは、何かの物体か虫程
度には認識を見せて、すれ違う時には避けるし、席の順に配付物を回す時に顔を見る程度
のことはする。疑いなく草賀さん発のこの「完無視」指令の日は、それさえしなくなると
いうことだ。つまり、すれ違う時気がつかないふりで身体をぶつける。配付物などは先生
に気がつかれないように可奈のところをスルーする、等々。もちろん、みんなそれを楽し
そうにやる。
可奈にとっては、悲しい悔しいを通り越して笑えてきそうな仕打ちだ。何より、本人た
ちはいつもより扱いを酷くしているつもりらしいが、やられる当人にとってはたいしてい
つもと変わらないのが、おかしい。予期してさえいれば、すれ違いの時こちらがいつも以
上に避ければいい。ぶつかったとしても、たいしたダメージではない。そこで強くダメー
ジを与えようとする肝の据わった人は、それほどいない。
回覧は、久堅くんの席は上手くスルーして、教室を一巡り終えたようだ。久堅くんが相
変わらず一応形式上無視されていることと、彼に回したらそこで回覧が止まってしまうと
いう現実が大きな理由だ。気がついているのだろうが気にする素振りもなく、久堅くんは
腕を組んで眠そうに先生の話を聞いている。
今日は給食当番じゃなかったな、とぼんやり可奈は考えた。完無視の相手が当番だった
ら、あの人たちも困るだろう。以前希実ちゃんがあからさまにいじめられていた時は、当
番の希実ちゃんに「あの人が給仕する給食食べたくない」と騒ぎ立てるというやり口があ
ったものだが。完無視の相手にそう言い立てるのは相手を意識するということで、ルール
に合わないだろう。かといって給仕を受けるのもおかしいし。まあルールにこだわらない
人たちは関係なく騒ぎ立てるのかも知れないが。おそらく草賀さんはそこまで考えて、可
奈が当番でない日を選んでいるのだろう。
次の休み時間から、指令は実行された。机の間を可奈が通ろうとしても、友だちと話し
ながらそれを遮って立つ人がいる。「通して」と声をかけても、聞こえないふりをする。
その女子のお尻の後ろを、無理矢理身体を捻って可奈はすり抜けた。
四時間目の終わりに配られた宿題プリントは、前の席の女子が可奈を飛ばして後ろの席
に渡そうと手を伸ばす。素早く手を伸ばして、可奈はそれを途中で奪い取った。事を荒立
てたくはないが、プリントをもらわないというわけにもいかない。素早く一枚を取って後
ろに回して向き直ると、前の席の女子は一瞬憎々しげに睨み返して、すぐに前に戻った。
あんた完無視を忘れてるよ、と可奈は心の中で呼びかける。
昼休み、トイレから戻ると、椅子の上に引き裂かれた紙がくしゃくしゃにされて転がっ
ていた。さっきのプリントだ。それを拾い上げる可奈の動作を、周りは全く気づかないよ
うに見向きもしない。いや、その瞬間遠くでくすくす笑いが聞こえた気がしたのは、気の
せいか。
机の上に広げて、紙の皺を伸ばしてみる。四つに引き裂かれた紙片は、並べ合わせると
中身を読むことだけはできる。しかし、これは記入して明日提出しなければならない宿題
だ。まちがって破いてしまったと先生に新しい紙をもらいに行くか、家に帰ってから破い
てしまったとこのままセロテープでつないで提出するか、少しの間可奈は考える。昼休み
の残りに少し余裕があるので、前者にしようと決める。
先生は一度職員室に戻っているところだ。なるべく周りを刺激しないよう静かに、教室
を出る。階段の陰で、そっとプリントを踏んで足跡をつけた。
33
職員室で、まちがって床に落として踏んでしまったと先生に告げる。
「何だ、ドジだなあ」
笑って、すぐに葛木先生は新しい紙を取り出した。
「すみません」
頭を下げて、職員室を出る。まるで自分が悪いことをしたみたいだと、少し情けない気
持ちになりながら。
席に戻って、今度はバッグの一番奥のポケットにプリントをしまった。これでさらに破
いてしまったら、先生に変に思われるだろう。先生に気づかれる危険があるからこそ、草
賀さんの直接指示ならもう一度このプリントに手を出すということはしないと思うが、他
の考えなしさんの単独行動なら、ないとも言えない。深い溜息をつきたくなって、周りに
聞かれるのが癪で、可奈はそれを我慢した。
帰りの会で、また鹿島さんが手を挙げた。
「これから夏に向けて、ナニナニ団で自主研究の計画をしたいので、放課後教室に残って
いいですか」
先生は、顎に手を当てて考える顔になった。
「これから、毎日かい」
「当分、しばらくです」
「ふうん」難しい顔で、先生は唸る。「下校時間の決まりがあるからな。毎日なら、二十
分が限度かな」
「それで、いいです」草賀さんが応えた。
「先生はあまりついてられないと思うから、鹿島と草賀が中心になるのかな、もちろん危
ないこととかしないように責任を持って、帰りには報告に来なさい」
「分かりました」これも、草賀さんが応える。
可奈は気が進まないが、頭数には入っているはずで、勝手に帰ってしまうと何を言われ
るか分からないので、一緒に残った。机を向かい合わせにして、可奈が端に座ると、何も
言わず四人はそれと一番離れた端に固まった。その傍に、怯えた顔で希実ちゃんが座る。
「計画」と言っていた割に話題はそちらに向かず、四人は勝手な世間話を始めていた。
ただ放課後に残って教室を占有するのが楽しいということだったのだろうか。黙って離れ
て座って、可奈は一人考える。
十分ほどが過ぎて、ふと草賀さんが顔をこちらに向けた。
「小杉さん、用があるなら帰っていいよ」
この日初めて、直接可奈に向けられた言葉だ。やはり、草賀さんには指令を自由にでき
る権力があるということらしい。
「分かった」
自分に聞かせたくない内緒話がしたいということだなと解釈して、可奈は静かに立ち上
がる。希実ちゃんがますます心細そうな顔になっているけど、残り時間も多くないことだ
し大丈夫だろう。
まだ熱気の残る道を、一人で歩いて帰った。
帰宅すると、お母さんは出かけている。お父さんの部屋でパソコンを立ち上げてみる。
もう一週間、そして今日も新しいメールはなかった。
次の日の放課後も、四人はただお喋りをしていた。可奈は、それこそ用があると言って
帰った方がいいような気がしてきた。口を開こうとした時、草賀さんが三人に紙を配った。
「今日の指令」
34
いつものワープロで打ったらしい文字がちらりと見える。
草賀さんが希実ちゃんの前にも一枚置いて、希実ちゃんはきょとんとした顔になる。そ
の紙が、ようやく離れた可奈にもちらりと読むことができた。いつものと少し様子がちが
って、最初の一行が漢字ばかり、二行目はひらがなばかりだ。
『大無人王悪非買立貝後関北地度方吾東口日公
なんだかあたたかないろんなかおりがかすかにそばただようよる』
漢字の行はすぐに記憶できないが、ひらがなは暗記できる。目を離して窓の方を見なが
ら、頭の中でそっと字数を数えてみる。
『たなりかだう』
いつもの「七二七二」では、意味が通じない。困惑が顔に出たろうか、気がつくと、草
賀さんがにやにやこちらを見ている。
「何読むのに時間かかってるの」三谷さんが、希実ちゃんを睨む。「昨日、教えてもらっ
たでしょ、読み方」
「本当にグズだね、こいつ」
桜木さんが、希実ちゃんの後ろ髪を引っぱった。きゃ、と希実ちゃんの小さな悲鳴。一
瞬、可奈の目つきが険しくなったのだろう。じろりと桜木さんが睨み返してくる。
「何、あたしたちのスキンシップに文句あるの?」
「羨ましいんだよ、こいつ」
三谷さんが笑う。草賀さんと鹿島さんも、肩をすくめて笑い顔。
反抗的な気分になって、可奈はノートを取り出した。希実ちゃんの紙をもう一度ちらり
見て、おおっぴらにそれを書き写す。誰も、それをとがめる声はかけない。むしろ、四人
は顔を合わせてくすくす笑っている。
「時間だ、帰るよ」
間もなく、草賀さんがみんなに言った。
家に帰ると、やはりお母さんはいない。お父さんの部屋でパソコンを立ち上げると、一
週間ぶりにメールがあった。昨日の夜の着信だ。
プリント、ひどいよね。
負けないで。
あんなの、いつまでも続かないから。
負けない。可奈は口に出して呟いた。
居間のテーブルで、さっきのノートを開く。草賀さんの作った、新しい暗号、なのだろ
う。絶対今日のうちに解読してやる。と思う。
おそらく、難しくはないはずだ。何人もの人に読ませるのだから、そんなに複雑にはし
ていられない。今日の様子を見ていると、別の資料などを見る必要もないらしい。漢字の
行はともかく、ひらがなの方は前回までと同じような印象がある。意味がありそうななさ
そうな、詩のような文章。
前回までの「七二七二」が別の数に変わったのではないかという可能性から考えてみよ
う。今までの例でいけば、文字を拾っていけばたいてい可奈か希実ちゃんへの悪意を表す
言葉になっていた。今日のは気安く希実ちゃんにも渡していたから、可奈に関するものじ
ゃないか。ひらがなの行はそう思って見ると、妙に「か」と「な」の字が多い。試しに最
初の「か」と「な」の字を拾うと、四文字目と五文字目だ。「七二七二」が「四五四五」
35
に変わった?
だとして、どこで「四五四五」を決めたのか?
最初の漢字の行は何だろ
う?
漢字の行を眺めてみる。字の並びとしては、ひらがな以上に意味がなさそうだ。一文字
ずつなら、どこででも見るようにありふれている。しかし隣り合う二文字以上では、「無
人」以外は知っている熟語になりそうにない。ただ、ちょっとだけ妙な違和感。
似たような、ちがうような、字の集まり。共通点、ちがう点。一つだけ仲間外れを見つ
けなさい、というクイズを思い出す。
しばらく考えて思いつくものがあり、可奈は、バッグから国語の教科書を取り出した。
教科書の巻末に、小学校六学年で習う漢字の表が載っている。目を通して、やっぱり、と
呟く。
「吾」という漢字がそこにはなかった。他は、全部調べる気にもなれないが、見た目あ
りふれたものばかりだからおそらくありそうだ。つまり、「吾」という一文字だけが、小
学校で習う漢字ではないということだ。
ただの偶然かも知れないが、もしかするといつものように文字を拾っていくとしたら、
「吾」だけは絶対必要だからここにあるのではないか。他のほとんどの文字はダミーだと
しても。
数えてみると、「吾」は十六文字目だ。少し考えて、思い出す。ここしばらく何度かや
っていて、機械的に身についてしまっていた。「七二七二」で拾っていくと、三つめの文
字は最初から数えて十六文字目になる。
また試しに、漢字の行から「七二七二」で字を拾ってみる。
『買貝吾口』
意味は、なさそうだ。
逆さにしても、横書きにしても、並べ替えても、意味のあるものになりそうにない。
失望して、鉛筆を置く。
しかし、何か訴えるものがある。目に。
これもしばらく頭を悩ませて、ようやく気がついた。最初に「四五四五」に見当をつけ
ていなければ、もっと時間がかかったかも知れない。
「買」の字から「貝」を除くと「四」、「吾」の字から「口」を除くと「五」になる。
やっぱりこれで、「四五四五」だ。
つまり、漢字の行から「七二七二」で字を拾って今の要領で「四五四五」に気がつく。
そして今度は、ひらがなの行から「四五四五」で文字を拾うというルールだ。
改めて、ひらがなの行から文字を拾うと、
『かななかそう』
『可奈泣かそう』だ。
ソファに寝転がって、可奈は大きく溜息をついた。
苦労して解読に成功したのだから、達成感があってよさそうなものだが。
遠くに草賀さんの笑い声が聞こえる、気がした。
今日の指令 --
。
分かってはいたのだ。解読したからといって、気が晴れるものではないことは。絶対内
容は気分のいいものではないのだし。
今日は、果たされなかった指令だ。明日以降に達成を目指す気なのだろうか、あの人た
ちは。
少なくとも、解読できないよりはできた方がずっといい。これでまた明日からも気持ち
36
の備えができる、と可奈は無理に考える。
お母さんが帰る前には、可奈は見た目の元気を取り戻した。夕食の席ではいつものよう
に、明るく学校の話をした。
いい子だ。
お母さんとお父さんの目が、安心の色であちらこちらへ揺れた。
朝の教室で、窓際最後尾。草賀さんの机に、紙が一枚あった。通りすがりにちらと見る
と、昨日の放課後の指令書だ。顔を上げた草賀さんが、得意そうににやりと笑う。分から
ないでしょう、と言いたそうに。
無視してもよかったのだけれど。可奈の口に、思わず言葉がついて出た。
「どうやって、泣かすの?」
意外そうに、端正な顔に笑いが引っ込む。
「へええ。読めたんだ」
こちらも思わずのように、草賀さんが呟く。
「さあ」
あまり会話を続けてはよくないことになりそうだと思って、可奈はそのまま通り過ぎて
いった。溜飲が下がる、と言うのだったか。わずかに悔しそうな草賀さんの顔が、気分よ
く見えた。
二時間目、授業中にまた紙が回覧されていた。後ろから左隣に来たところで、可奈はそ
っと横目で盗み見る。
『もう暑の人いきれちがういろどりがいいらしい。楽しいのかあんな、うそなき』
珍しく、鉛筆の手書きだ。おそらく、草賀さんが一時間目の間に考えて書いたのだろう。
クラスに回す用だから、今まで通りの「七二七二」パターンに決まっている。
『きちがいいかな』
『キチがいい可奈』
しつこいな、というのが可奈の最初の感想だ。指令にさえなっていない。ただ冷やかし
悪口を教室に回して憂さ晴らしにしたいらしい。可奈に読まれるのも、想定内というやつ
なのだろう。ダミーの文章も心なしか、いつもよりこじつけで品がない感じだ。そうやっ
てあえてあら探しを考えながら、しかしもちろん可奈は気分がいいはずはない。
女子は少し時間をかけて読んで、やがてくすくす笑う。男子はわけが分からない様子で、
大半は読む気もないように、決められているらしい順で先へ送る。
何の気なしに可奈が目で追っていると。いつものように、久堅くんを迂回する。隣の男
子に回ったところで、不意に久堅くんが素早く手を伸ばして、その紙を奪い取った。
あ、と声を上げかけ、先生が振り向いたタイミングでその男子は慌てて口を押さえた。
どうするのだろうと見ていると、久堅くんは机の上で堂々と紙の文字を読んでいる。す
ぐにひょいと一度、手が紙の上を動く。そして意外なことに、またすぐにもとの隣の男子
に投げ返していた。慌てて受けとり、紙を見直して首を傾げ、その男子は元通り先へ回覧
で送る。
その先も。男子はわけが分からない様子で、先へ送る。女子は。くすくす笑いがなくな
り、首を傾げる様子があちこちに見える。どうしたのだろう。
右隣を通過する際に、可奈はまた横目で盗み見た。ちらと見て、その映像を頭に焼きつ
ける。
別に、さっきと変わりは見えない。何か書き換えられたようでもない。
『もう暑の人いきれちがういろどりがいいらしい。楽しい
かあんな、うそなき』
37
いや。気がついた。一文字、確か「の」だったのが消されている。その一字をなくすと、
暗号ではその先が変わることになる。
『きちがいいあき』
『キチがいい愛姫』
噴き出しかけて、慌てて可奈は口を押さえて俯いた。
ざわざわと妙な反応を残しながら、回覧は最後まで進んでいった。
「何よ、これ」
次の休み時間、教室の後ろから大きな声がした。草賀さんの、珍しい興奮の声だ。見る
と、取り巻きの三人が周りに集まっている。机の上に乗っているのは、もちろん回覧が終
わったあの紙だ。
「何だって、こんな。まさか、あいつ --
」
「いや、あいつのところには行ってないよ。あたし見てたもの」
興奮気味の草賀さんを、三谷さんが抑えている。「あいつ」というのは、きっと可奈の
ことだろう。そのまま四人で首を捻っているところを見ると、久堅くんの動きは見ていな
かったらしい。
それにしても、あんな書き換えができてしまう文章を作った、草賀さんの自業自得だ、
と可奈は思う。それを見てすぐに気がついた久堅くんの頭も、想像を超えているが。
わけが分からない様子のまま、四人の視線が憎々しげに可奈の方に向けられている。
給食の時間、鹿島さんが当番で、クリームシチューの給仕をしていた。列に並んで可奈
の番になると、プラスチックの皿に傾けたお玉から、シチューは数滴しか落ちてこない。
「 ---
」
当惑する可奈の顔を見て、にやりと鹿島さんが笑う。
他のおかずの担当もそれに倣って、可奈の盆には結局パンと牛乳しか乗らなかった。呆
れ諦めた心境で、グループで寄せた形態の席に戻る。
「いただきます」
先生には見えないように気をつけて、可奈はパンだけの食事をした。周りの人たちは明
らかに、気づいても気づかないふりをしている。
傍から見てはっきりおかしいと分かる、こんな露骨な真似をあの人たちは今まであまり
してこなかったのだが。いよいよあのお姫様がキレてきたということだろうか。身の危険
を考えるべきだろうか、と可奈は思った。
放課後、いつものように残る面子に、用事があるから今日は帰る、と告げた。面白くな
さそうな顔ながら、草賀さんも他の人も何も言わなかった。
帰りに買い物に行かなければならない用事があるのは本当で、可奈は一人急ぎ足で、ス
ーパーマーケットに寄った。
陸
月一回の部会では、部長が進行役となって会社の経営会議から降りてきた伝達事項を伝
える、それに基づいて今後の部の運営方針や重要行事を伝える、という内容が中心だった。
一通り部長からの説明が終わり、最後にみんなの方から質問や意見はないか、という問い
かけになった。
この問いかけに、通例ほとんど反応はない。特に女性職員から発言があった試しは、祐
38
里子の入社以来全くなかった。しかし、この日はわずかなみんなの沈黙の後。
静かに岳沢が手を挙げたのだ。
部長の指名を受けて、起立して。
「今回の新しいパソコンでのパンフレット作成の件、みんなで反省すべき点があると思い
ます」
ベテラン職員の低い声に、部長を含めて全員が顔を強ばらせた、ように見えた。
「まだ軌道に乗る前とはいえ、ここまでの過程で、部内にもかなり無理を生じていますし、
他部署にも迷惑をかけています。担当している早川さんだけの責任には出来ません。むし
ろ、早川さんのような経験の少ない人に全てを丸投げしている、上司の側の責任と言える
のではないでしょうか」
全身から血の気が引くような思いで、祐里子は身を硬直させた。言葉自体は自分を擁護
しているものだが、その喜びよりも申し訳なさで居たたまれなくなる思いの方が先に立っ
た。
「いや、早川さんはよくやっていると思いますよ」戸惑いの顔で、杜山が発言した。
「本人の努力と、結果で何処に迷惑を与えているかの現実は、別物でしょう」ぴしゃりと
岳沢が言った。「そもそも杜山君が、自分の気の向くところだけ口と手を出して、後は早
川さんに任せきりにしているのが一番の問題ですよ。若手に任せるならそれなりに指示を
与えて、的確に方針を示して、その後の経緯にも注意を払うのが先輩のあるべき姿でしょ
う」
「いや、この件は別に僕が担当になっているわけじゃないし --
こっちは時間の余裕がな
いし --
」
「布川さんにしても」間髪を容れず、岳沢さんはその隣に目を移した。「こないだのミス
は、布川さんの責任じゃないですか。それを、他部署に謝りに行くのも全部若手に任せき
りにして」
「いや、その
」年配の男は、相手の目を見ず俯いて、頭をかいた。「新しいシステム
--
の要領がまだ飲み込めてなかったから、ね --
」
「何度も言いたくはありませんが、早川さんはまだ二年目になったばかりの、新人といっ
ても間違いない若手なんですよ。みんな、どう考えているんですか」相手の話の終わりを
聞かず、岳沢は捲し立てた。「その、早川さんが持て余した分の仕事量が、全部私にかか
ってきているのも、皆さんご存じでしょうか」
あ、と男性陣の口が丸くなった。
「いえ、あの --
」ようやく、祐里子は口を開くことが出来た。「私が至らないせいです。
申し訳ありません」
「今言ったように、早川さんのせいにすることは出来ないと思います」岳沢がその言葉を
遮るように言った。「どうでしょう。一連の原因は何処にあるか、部長はどうお考えです
か」
みんなの目が、進行役の方を向いた。そもそもの予定外の発端が部長のパソコン選定に
あることは全員が承知していたが、岳沢も他の誰も、それを口にはしなかった。
「指示系統に問題があることは確かのようだね」仏頂面で、部長は言った。「その辺は見
直しをして、追って私から指示を出す。とりあえずこの件は、今後杜山君が見てやるよう
にしなさい」
「あ、え --
僕ですか」杜山が不満そうな顔を上げた。「あ、はい、分かりました」
上からの指示で一方的に仕事を増やされることに、一瞬でも不満を持たない者はない。
39
営業担当の職員のように、年中走り回って事務所に落ち着く時間に余裕のない者たちには、
なおさらだ。
「では、以上だ」
部長が話を打ち切り、岳沢もあっさり無表情に着席した。そのまま、打ち合わせは終了
となった。
男性陣は、一様に苦虫を噛み潰した顔。祐里子は困惑顔で、岳沢一人が何事もなかった
ような平静な様子だ。
日頃から男性陣には、年次の高い岳沢の挙動を軽視出来ない傾向があった。それが今回
のように全くの正論で的確に遺漏箇所を衝かれては、ぐうの音も出ない思いだろう。
表現の上では擁護された形の祐里子も、全くすっきりした気はしなかった。今し方のや
りとりの意味合いが容易に頭に落ち着かず、結局自分はどうすべきなのさえ分からない。
岳沢や部長にそれを質問してよいのかも、判然としないのだった。
その後はみんな口数少ないまま、男性陣はいつもの外回りに出ていった。残った部長と
岳沢、祐里子らも、いつもにも増して交わす会話は少なかった。
五時過ぎになって、忙しない様子で杜山が戻ってきた。ほとんどものも言わず自分の席
で営業の結果を整理しているらしい様子の後、顔を上げて祐里子に声をかけてきた。
「早川さん、少しいいかな」
「はい」
予想外の呼びかけに、びくりと祐里子も顔を上げた。
「ちょっと聞かせてくれ」立ってきて、杜山はパソコンの電源を入れた。「例のソフト絡
みで、一番の問題点は何だろう」
「えーと」考えながら、祐里子も立ってパソコン席に歩み寄った。「あちらのマックとこ
ちらで、ファイル名をいじらなければ読めないことと、読んだデータで特に枠の中の文字
部分にずれが出来ることですね」
ソフトを立ち上げ、広告部から持ってきたフロッピーディスクのファイルを読み込む。
画面に表示されたレイアウトの枠のいくつかを、杜山は指で辿っていった。
「ずれっていうのは、ここら辺り、かな」
「はい、そうです」
「ふうん」難しい顔で画面を睨んでいる。「分かった。もういいよ」
祐里子が席に戻った後も、杜山は日頃の陽気さが影をひそめた仏頂面で、ディスプレイ
と睨めっこを続けていた。勤務時間が終わって岳沢と祐里子が席を立つ際も、その姿勢は
ほとんど変化していなかった。
「ああ、早川さん」部屋を出ようとした祐里子に、杜山が声をかけた。「このソフトのマ
ニュアルは何処にある?」
「その机の一番下の引き出しです」
「分かった。サンキュ」
画面から目を離さず、杜山は小さく片手を振った。
翌朝、祐里子が出勤すると、前日と変わらない姿勢で同じ場所に杜山が座っているのを
見つけて、驚いた。毎日机の拭き掃除等をするために、他の人より三十分以上早い出勤を
心がけているのだが。
「まさか杜山さん、昨日からずっとこうしていたんじゃないですよね」
「まさか」面白くもなさそうに、杜山は応えた。「家でマニュアルを読んで、一時間前か
ら来ているだけだ」
40
「そのソフトをいじるために、ですか?」
「ああ」ぐりぐりと首を回して、大きな欠伸をした。振り向く目の下に、薄黒い隈が見え
ていた。「文字のずれの件、多分これで直ったと思う」
「本当ですか?」
「広告部の機械で見る形の方が正解じゃなきゃいけないんだから、それがこちらでいじら
ずに綺麗に見えるようになればいいんだよな」
言われて画面を覗くと、昨日はずれていた文字が綺麗に揃っていた。
「凄い。何をしたんですか?」
「ソフトの上でフォントの設定を調整しただけだ。マニュアルに書いてある」
重ねて欠伸をしながら、杜山は席を立っていった。一つ事を成し遂げたというのにやは
りいつもの陽気さはなく、むしろ木崎係長に近い素っ気なさだ。こんな簡単なことにお前
は気がつかなかったのかと言われているようで、祐里子は悄然とした思いになっていた。
その後始業前に杜山は部屋を出ていって、間もなく戻ってきた。
「ファイル名の件も、解決したよ」
事もなげに告げられて、祐里子は目を丸くした。
「解決したって?」
「木崎係長と話して、インターネットをちょっと探したら、見つかった。ファイル名を自
動的に変えて読み込んでくれるフリーソフトがある」
「えーと」祐里子は首を傾げた。「よく分からないけど、それを使えば簡単にファイルを
読めるわけですね」
「そういうことだ」
「じゃあ、全部解決なんですね」
何週間も何を悩んでいたのかと、現実が信じられなくなりそうな呆気なさだ。
祐里子が呆然としていると、向かいで岳沢が、やれやれと言わんばかりに小さく首を振
っていた。
「ああ、それと」杜山が続けて言った。「早川さんは今まで通り広告部とのやりとりだけ
やってくれればいい。基本的に、ファイルの中身はいじらなくていいから」
「どういうこと、ですか?」
「原稿作って渡して打ってもらうという手間考えたら、僕が原稿考えながら直接打った方
が早い。よほど切羽詰まらない限り、その形で行こうと思う」
「え、でも --
。杜山さんそんな、このソフトで入力出来るんですか?」
「今朝、少しやってみた。文字入力だけなら、簡単に要領は掴めるさ」
言われてみれば。レイアウトや飾りや全てを出来るようにしようとしたから、祐里子は
何日も練習にかかったのだ。しかしそうすると、自分のあの日々は何だったんだろう、と
祐里子は情けなくなってきた。
結局、杜山が少し動いただけで大方の問題は解決してしまった。しかも自分が張り切っ
て始めようとしていた新しい業務は、ほとんど先を閉ざされてしまったことになるのだ。
さらに呆然と、祐里子は机の上に視線を落としていた。
向かいでまた、岳沢が溜息をついたようだ。
「杜山君。ご苦労様だけどお、そうやって全部自分でやってしまったら、後輩の育成にな
らないよ」
「分かってますけどね」自分の席に着きながら、青年は口を尖らせた。「悠長に指示を出
して途中を検討して、なんて時間の余裕、現実にないすよ」
41
「まあ、分かるけどお。この忙しい時期だものね」
「全く、すよ。何だってこんな思いつきにこっちがつき合わされ --
」
慌てて言葉を切ったのは、出勤した部長が入ってきたからだった。跳ね上がるように席
を立って、杜山は部長席に寄っていった。さっきまでとは打って変わった愛想笑いで、一
応の問題は解決したことを、手短に報告している。
祐里子は目を閉じて、指先で眉間を擦った。勤務開始前から、もうどんよりと疲労が募
ってきているように思われた。
そもそもこんなに簡単に解決するということは、最初から杜山なり木崎なりが真剣に問
題を考えてくれていれば、もっと早く何とかなっていたということではないか。祐里子の
持ち込んだ件を、どうでもいいもの程度にしか受け止めていなかったということだ。
気に病んでも仕方ない、頭を切り換えてこの先を見ていこう、と首を振って考えた。
しかしその後数日が過ぎて、祐里子はどうにも妙な違和感につきまとわれていた。気の
せいだろうか。周りからの祐里子への接し方が、時間を巻き戻したもののように感じられ
る。一年程度前の、ド新人に対する、危なっかしさを案ずる感覚だ。仕事の指示の際に、
最近はかなり省かれるようになっていた、細かな注意が添えられる。そもそも、重要な意
味を持つ仕事がそのまま与えられなくなってきた。そればかりか、男性職員からの指示が、
一年前には新人に向けた温かい丁寧さを帯びていたのが、今は同じ内容でも億劫そうな表
情で持ちかけられている、気がした。自分の気の回しすぎだろうか、と祐里子は戸惑いを
堪えて考えた。
少し前までは新しい業務を加えて慌ただしさの中に充実するものも覚えていたのだが、
ここに来てすっかり空虚に時間が空いてしまった感覚に捕われていた。
昼休みの会議室に、その日祐里子は忘れ物をして少し遅れて入った。開け放したドアを
入ってすぐにロッカーが置かれて、中は直視出来ない。その辺りで岳沢の声が聞こえて、
妙な予感に足どりが止まった。
「広告の方にもさんざん迷惑をかけて、ごめんなさいね」
「いえそんな、あたしたちはたいしたことなかったですよ」静かに応えているのは、岩代
だろう。「係長はすっかり御機嫌斜めですけど、さんざん振り回された格好で」
「自分の都合のためなら周りの迷惑気にしない人って、いるからねえ」岳沢の、笑いを帯
びた声。「特に若い子ってえ、ほんとに周りのことお構いなしなんだから」
「そこまで言ったら可哀相、すよお」黒瀬の陽気な声が加わった。「若い子はそうやって、
身の程ってのを知っていくんですからあ」
「事の次第によっちゃあ堪ったものじゃないけどねえ、周りは」同調して声を上げたのは、
誰だろう。「それに、いつまで経っても身の程って分からない人、いるよお」
「いるねえ、そういうの」また、別の人の声。「周りで思い知らせてやんないと駄目かも
知れないの」
「お手柔らかにお願いしたいわ」岳沢のくすくす笑い。
きゃきゃ、と女たちの笑い声が協和した。
足がすくみ強ばって、ロッカーの陰でしばらく祐里子は指の一本も動かせなくなってい
た。いつの間に、こんな言われ方をするようになっていた?
私の、何が悪かったの?
疑問が頭を渦巻き、身体が痺れ縮み上がってきた。貧血を起こしたように、目の前が一瞬
霞んで見えた。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
少し間を置いて、祐里子の手がドアノブを掴んで、ガチャリと音を立てた。途端、室内
42
の笑い声が一段低くなった。
「済みません、遅くなりました」
笑って顔を覗かせると、一斉に愛想のいい笑顔が向けられた。
「もうみんな食べ始めちゃってたよお」
黒瀬が、いつもの親しげな顔で応えた。はいはい済みません、と祐里子はその隣の指定
席に足を運んだ。
和やかに、常と変わらない雑談が再開されていた。
笑顔で弁当箱を広げて。舌の上に、何も味が感じられなかった。
それからは、祐里子が後になって思い出しても整理がつかない、むしろ思い出したくも
ない、日々が続いた。
突然会社の中に、味方は一人もいないという感覚に包まれた。
何をやっても、後ろから批判の目を向けられている気がした。
少しでも仕事に自分の考えを加えると、勝手なことをされると迷惑だという反応が返る。
指示のままにだけ進めると、もっと自分で考えて工夫しろと言われる。
何よりも、常に身近にいる同性の先輩が、一貫して冷ややかに皮肉な観察の目を向けて
いるような感触が一日中つきまとっていた。
他の部署の年の近い同僚たちも、常に冷笑の目で見ているように思われた。実際に背後
に笑い声が聞こえ、当て擦りの言葉を投げられることが何度もあった。
いろいろ意識するほどに、仕事の失敗が重なった。
ある日、顧客からの電話の応対を誤って、烈火のように怒らせることになってしまった。
営業担当の職員に伴って客の家を訪問し、平謝りに謝った。
その週明けから、出勤の足が重く動かなくなった。体調不良を理由に、何度か欠勤を申
し出た。
秋の深まる頃、部長に退職を申し出た。通り一遍の言葉だけで、強い慰留はなかった。
切無刀
*
がたんと、学童机の裏の鉄板を、膝が蹴り上げた。
「面白くない」
美少女の整った顔が、不満げに歪む。
「あんたたちも、考えなさい。あいつ、可奈、一度泣かせてやんなきゃ気が済まないわ」
「だけどさあ」鹿島が口を尖らせてそれに応えた。「かなりしぶといよねえ、あいつ」
うんうんと、周囲で残り二人の顔が肯く。
「こんなまどろっこしいやり方じゃ駄目なんだよ」三谷が眉をひそめて言った。「もっと
直接に痛めつけるみたいな感じじゃなきゃ」
「ダメだよ」鹿島が首を振る。「前に愛姫が言ったでしょ。賢いやり方をしなきゃ。人に
見られて何か言われるようなのは、ダメなの」
「いらいらするなあ」
桜木が吐き捨てて、すぐ傍の短い髪を引っぱった。きゃ、とすぐに抑えた悲鳴が上がる。
「ほら希実、あんたも考えなさい。どうしたらあいつに泣きを見せられるか」
43
「そんな……」
「何か思いつかなきゃ、まずあんたが泣きを見るんだよ」
さらに髪を引っぱる手に力が籠もって、やあ、と泣き声が高くなる。
「そうよ、あんたが一番あいつのこと知ってるんでしょ」
逆側から三谷も手を伸ばして、短い後ろ髪を引っぱった。
「ほら思い出しなさい、何が一番あいつ、応えるか」
「そんな……分かんない……の」
「使えねえなあ」
ぐいぐいと髪を引っぱる。やああ、とさらに泣き声が高まる。
「この子を泣かせたくらいじゃ、何の気晴らしにもならない」草賀が唇を突き出して呻き、
後ろの掲示板の方を睨みつけている。「絶対、可奈の奴を泣かせてやるんだから。一回や
ってやんなきゃ、ほんっと、気が済まない」
また、机の裏に衝突音が弾ける。
小さな少女を挟んだ二人は、それが気に入ったように交互に髪の毛を引っぱっては、高
い悲鳴を上げさせ続けていた。
*
草賀さんの姿が、席に見えない。不審に思いながらも、朝の会に先生が入ってきたので、
可奈は前を向く。不思議と、取り巻きたちにそれを気にする様子は見られない。
理由は、すぐに先生の口から語られた。
「草賀は今日は欠席だな。お母さんと出かけると、連絡があった」
一応疑問は解消したが。ただ「出かける」で欠席の理由になるんだろうか、と可奈は新
たに首を捻った。先生が納得しているのだから、問題がないのだろうけど。もしかして、
いつもの草賀さんへの甘い対応の一つではないのか。あそこのお母さんの機嫌を損ねると
大変なことになるというのは、有名な噂だし。
やはり、リーダーがいないと取り巻きの動きも元気がない。昨日の今日で露骨な攻撃が
さらに増すのではないかと身構えてきた可奈には、やや拍子抜けの気もした。もちろんク
ラス全体からの無視はいつも通りだが、とりわけ大きなダメージもなく、一日が過ぎた。
金曜だから、変わらない憂鬱な一週間が、もう少しで終わる。
午後の二時間は体育で、気怠い雰囲気のまま帰りの会が終わっていた。今日は居残りは
ないんだろうな、と可奈はいつもの面子を見回す。と、妙な印象があった。鹿島さんも三
谷さんも桜木さんも、希実ちゃんまで、まるで同じ姿勢。他の人たちが立ち上がっている
中、座って手元に見入っている。何か、読んでいるようだ。
掃除のために机を下げなければいけないから、やがてすぐに四人とも立ち上がった。机
を下げ終わるや、目配せしながら連れ立って教室を出ていく。可奈は掃除当番なので、ロ
ッカーからほうきを取り出しながらその後ろ姿を見送った。
普段通りに掃除を終わって、解散。ふと気がついて、可奈は希実ちゃんの机の中を覗い
てみた。さっきの慌ただしい出ていき方をみてもしやと思ったのだが、案の定、あった。
小さな紙が一枚だけ、無造作に置かれて。他の人に気づかれないようにそっと取り出して
みる。
『秋感風乗音他罪行非高約角葉羽小天花人色先
きたのほううえからかさごろごろためいきつくいまくらいなかえんばんまうそらへ』
44
いつもの薄ピンク色の用紙にワープロの文字。グループメンバー用の暗号だ。思って、
可奈は首を傾げる。
*
玄関を出た外は、夏日の熱気が立ち籠めていた。人のいないグラウンドの方は、ゆらゆ
ら空気と光が揺れて見えている。強い日が照りつけている体育館の外壁の近くには、いつ
も走り回っている男の子たちの姿も今日は見えない。
帰り支度で校門へ向かう流れから離れて、四人は日陰を辿りながらそちらを目指した。
「暑いねえ、ほんとに」桜木が首をすくめて呻く。
「そっちにいるのかな、愛姫」三谷が首を傾げて、鹿島を振り返る。「ねえ、愛姫今日休
みなんでしょう?
いつの間にあの指令持ってきたのかな」
「知らない」鹿島は首を振る。「午後の体育の間に、ちょっと来たのかも」
「何があるのかな」目の上に掌をかざして、三谷は行く先を見る。
体育館の外壁沿いに回って、裏の方へ。さっきまでとは逆に日陰になって、やや薄暗く
感じられる、子どもたちは滅多に来ない裏手だ。妙に気味悪く焼却炉が据えられて、ずっ
と先の給食室の搬入口の方まで見通せるが、人影は全くない。
「いないね、誰も」
桜木が辺りを見回して言った。
三谷は、焼却炉の裏まで覗き込んでいる。
葉山は一人所在なく立ち尽くしている。
「体育館裏、だよね」
鹿島は体育館の外壁に近づいた。
「あ、何だろ、これ」
「何なに?」
屈み込む鹿島に、桜木が近寄った。
外壁の低いところに、扉がある。幅一メートル半ほどの観音開きの扉が閉じ合って、大
きな掛け金で固定されている形だ。
「物置か何かでしょ」桜木が簡単に答えた。「これがどうしたの?」
「普通こういうの、南京錠って言うの?あんなのをつけて開けれないようにしてるもので
しょ?
これ、開いちゃうよ」
鹿島が金具を捻ると、掛け金は容易に外れた。
「ほんとだ、開いちゃうね」
「中どうなってるの?
見たい見たい」
好奇心に目を輝かせて、三谷が寄ってくる。
*
『秋感風乗音他罪行非高約角葉羽小天花人色先
きたのほううえからかさごろごろためいきつくいまくらいなかえんばんまうそらへ』
漢字の行を「七二七二」で拾うと、『罪非天人』。
この間の要領で考えると、「罪」の字から「非」を除くと「四」、「天」の字から「人」
を除くと「二」になる。「四二」ということか。
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それを受けて、ひらがなの行を、「四二四二」で拾ってみる。
『ほうかごたいいくかんうら』
『放課後、体育館裏』ということだろう。
そこまで考えて、可奈はもう一度首を傾げる。
確かに、草賀さんからあの四人への指令と考えて、まちがいないのだろう。
でも、草賀さんはいつこの紙をあの人たちに渡したのか。
学校に来ていて、体育館裏に現れるのなら、なぜ直接顔を見せないのか。
芝居がかったことをして、一人満足しているんだろうか。
何か、変だ。
妙に不吉な予感を覚えて、少しためらってから、可奈はバッグを持って教室を出た。
*
ぎいい、と重い音を立てて、それでも扉は簡単に開いた。むわあ、と奥から熱気が立ち
上がって、思わず顔を背ける。中は、かなり暗い。暗がりに目を凝らすと、地下に向かっ
て数段分降りた先に、体育のいろいろな用具が置かれているようだ。
「やっぱり、ただの物置だよ」
覗き込んで、桜木が報告する。
後ろに立って、鹿島は腕を組んで考え込んでいる。
「何考えてるの?
恵奈」
三谷が顔を覗き込む。
「愛姫の指令って、ここのことかな」
「ここって?」
「この物置で、何かしろってことじゃない?」
「何かって」桜木が首を傾げて笑う。「こんな古いただの物置、使えるものもありそうに
ないよ」
数歩離れて、葉山がわけが分からない顔で立っている。考えながら、鹿島の視線がそち
らに流れる。
「希実」鹿島が手を振って招く。「こっち来て」
「あ、え……」条件反射のようにふらふらと、葉山は足を運ぶ。「何?」
「あんた、中に入って探してきなさい」
「探すって……何を?」
「決まってるでしょ。昨日からあたしたち、可奈を泣かせる方法探してるんだよ。それに
使える道具がないか、探すの」
「そんな……」
「嫌なの?」
「中、暗いし……」
「ああ、いちいちうざいし」声を上げて、桜木が相手の腕を掴む。「グズグズ言ってない
で、早く入りなさい」
「あ、や……」
力ずくで腕を引かれてたたらを踏む、その背中をタイミングよく三谷が押した。
「きゃ、あ --
」
階段を踏み外して、葉山の小さな身体が中に転げ込んだ。床に転んで膝をつく。上に残
46
った三人は一瞬しまったという顔になったが、
「え、え……何……」
よろよろすぐに立ち上がり、葉山は暗い中を見回している。わずか数段の落下なので怪
我もないようだ。
安心して、鹿島が傍の二人に肯きかける。
「何……?
えと……どうしたら……」
見回して、情けない顔が出口を見上げる。その視線の先で、ぎいい、と扉が閉じられた。
「え --
や、やあ --
閉めちゃ --
」
慌てて階段にとりつく。その外で、がちゃりと掛け金がかけられた。
「ちゃんと探し物見つけなきゃ、出てきちゃダメだよ」
鹿島が、含み笑いの声をかけた。
「やだやだ、開けて --
」
どんどんと中から拳で叩く音。しかし厚い鉄扉と頑丈な掛け金はびくともせず、その叩
く音もほとんど耳を澄まさなければ聞こえないくらいだ。
「限界は三十分ってところかな」
鹿島は、二人に囁いた。にやにや笑いで、二人の友人はそれに肯く。
*
玄関を出た外は、夏日の熱気が立ち籠めていた。人のいないグラウンドの方は、ゆらゆ
ら空気と光が揺れて見えている。強い日が照りつけている体育館の外壁の近くには、いつ
も走り回っている男の子たちの姿も今日は見えない。
帰り支度で校門へ向かう流れから離れて、可奈は急ぎ足でそちらを目指した。
体育館の外壁沿いに回って、足音高く、裏の方へ。さっきまでとは逆に日陰になって、
やや薄暗く感じられる。咄嗟に何か動く影が見えた気がして、炎天下の眩しさに慣れてい
た目を凝らす。けれど、妙に気味悪く焼却炉が据えられて、ずっと先の給食室の搬入口の
方まで見通せるが、人影は全く見えない。
耳を澄ませても。遠く、校門の外の自動車の音。帰り道の子どもの声。給食室の方に、
何か機械の音。近くには --
聞きとれないが、人の息遣いがするような気がしてならない。
耳たぶの後ろに手をかざして、さらに可奈は耳を澄ます。
忍び笑いのような、すすり泣きのような。でも、空耳のような。
首を傾げながら一回りした視線が、体育館の外壁に留まった。
外壁の低いところに、扉。幅一メートル半ほどの観音開きの扉が閉じ合って、大きな掛
け金で固定されている。何の変哲もない、物置か何かの扉だ。けれど、何か、奇妙に感じ
られる、のは。
少し考えて、気がつく。普通なら南京錠か何かでしっかり施錠されていそうなものなの
に、ここは掛け金がかけられているだけだ。金具を捻れば容易に開けてしまえそうに。
近寄って、可奈は土の上に膝をつく。耳を近づけると、人の息遣い?
すすり泣き?
気のせいかと、さらに鉄の扉に耳を寄せる。
いや、確かに聞こえる。
「誰か、いるの?」
呼びかけて、急いで掛け金を外す。
ぎいい、と重い音を立てて、それでも扉は簡単に開く。むわあ、と奥から熱気が立ち上
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がって、思わず顔を背ける。中は、かなり暗い。暗がりに目を凝らすと、地下に向かって
数段分降りた先に --
。
小柄な女の子が、驚きの顔を上げた。
「希実ちゃん?」
「可奈ちゃん --
」
くしゃりと泣き顔が歪み、唇が震えた。
「可奈ちゃあ --
ん」
「どうしたの、一体?」
慌てて可奈は階段に足を下ろした。
「 --
あ、可奈ちゃん、ダメ」
「え?」
いきなり目を丸くして口調の変わった希実ちゃんに、戸惑って足が止まった。
途端、背後に、ぎいい、と鈍い音がした。
「え?」
振り返ると。ばたんと扉が閉まり、続いてかちゃりと金具の合わさる音がした。
え?
え?
さらに続けて、くすくすと笑い声が聞こえて。ようやく可奈は理解する。罠にはまった、
ことを。
可奈のすぐ脇を、希実ちゃんが四つん這いの格好で扉に縋りついていった。小さな手で、
どんどん鉄扉を叩く。
「やだ --
開けて、ねえ、開けて --
」
きゃはははは、と外に数人の笑い声が弾けた。
「ダメ、やだ --
可奈ちゃんまでまきぞえ、ダメえ --
」
どんどん叩いても、頑丈な扉はまるで震えもしない。外にはほとんど音も伝わらないの
じゃないか、と可奈は考える。
「やめよう、希実ちゃん。そんな泣き声聞かせても、あの人たち喜ぶだけだよ」
「でも……」
「まさか、こっちが飢え死にするまで放っとかないと思うよ。しばらく待ってみようよ」
「……うん」
外を、笑い声が遠ざかっていく。
暗い物置の中を、一巡り、可奈は見回す。古い体育道具。厚く積もった埃。滅多に使わ
れていないらしい、様子だ。
誰かが異状に気づいて探しに来てくれる、希望はあるだろうか。
難しいかも知れない。可奈は暗澹とした思いで考える。
*
きゃはははは。
物置の扉から離れながら、口々に笑い声が弾け出た。
「やりい」
「いい気味」
「いいタイミングだったねえ」
肩や背中を叩き合いながら、焼却炉前の日陰ではしゃぎ笑う。
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「こんないいタイミングであいつ現れるなんて、思っても見なかったねえ」三谷が得意げ
に言う。「扉閉めたのも、最高のタイミング。ね、愛姫はここまで予想してあたしたちを
呼んだのかな」
「知らない」鹿島も笑いの止まらない口を押さえて、「そうだとしても、こんなに上手く
いくなんて思っていなかったと思うよ。きっと愛姫、ここに居れなくて残念がってるだろ
うねえ」
「さっきのあいつの間抜け顔、見せたかったねえ」
「ほんとほんと」
ちら、と三人が振り返る扉は、もうすっかり静まっている。
「やっぱり三十分ってところかな、あいつが泣きを入れてくるまで」鹿島が考えながら言
う。「きっと希実の奴が先に我慢できなくなって泣き出すに決まってる。そうしたら可奈
の奴も、そのまま我慢していられなくなるよ」
うんうん、と三谷が肯く。
「三十分かあ」桜木が、腕時計を覗く。「でも、その前に下校時間だよ、最終の。あの鐘、
鳴り出すよ」
「そっか。どうしよう」
鹿島が、腕を組む。
「やば、あれ」
突然桜木が叫んで、二人の腕を引いた。
焼却炉の陰に隠れながら見ると、遠く給食室の通用口よりさらに先に、作業服姿の男が
見える。左右を見回しながら、こちらに向かって歩いているようだ。
「そうだ、下校時間頃に、警備員の人が回るんだよ」
鹿島が二人の顔を見る。
「やばい。このままじゃ見つかっちゃう」
「あの物置に鍵がかかってないのも見つかるね」
悔しそうに、桜木が呻く。
「でも、そんなこと言ってられないよ」三谷が二人の腕を掴む。「早く、逃げなきゃ」
そっと覗くと、警備員は順路を曲がって通用門の外を覗いている。
「今だ」鹿島が小声で囁く。「逃げよう」
「うん」
「うん」
一斉に、三人はグラウンドの方へ駆け出す。
わずか五十メートルくらいだが、全力疾走で体育館の角を曲がると、息を切らしてもつ
れ合うように倒れ込んでいた。
「や、わ --
きつ」
「あぶね 」
-
ぜいぜい息を弾ませ、顔を見合わす。
「見られなかったかな」
「たぶん」
「物置のあいつら、見つかるよね」
「そしたら、どうなるの?」
三谷と桜木が、一斉に鹿島の顔を見る。
「大丈夫、よ、きっと」自信なさげに、鹿島は応えた。「あいつら、喋ったりしない、よ。
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今までだって、そうだったもの」
「だ、よ --
」
「ねえ --
」
心もとなく、三人は顔を見合わせる。
その時。
いきなり、近くの鉄柱の上で鐘が鳴り響き出した。
びくり、と三人は身を震わせた。
顔を見合わせ、しかしすぐに安堵の息をつく。
スピーカーから流れるのは、いつもの下校の鐘の音。「夕焼小焼」のメロディだ。
「帰ろ」
肯き合って、三人足並みを揃えて、校門へ向かって駆け出した。
*
狭い部屋の中は夏の熱気が立ち籠めて、じっとしているだけでも汗が流れてくる。右の
肘を掴んで希実ちゃんがさっきからひっついているから、なおさらだ。コンクリートの床
の奥には、跳び箱やマットなどの体育道具が山積み。部屋の広さは正確に分からないが、
教室の半分くらいか。
何処かに照明のスイッチがあると思うのだが、ひっついた希実ちゃんがしゃがんで動こ
うとしないので、探索もできない。諦めて、ただあの人たちが飽きて開けに来るか、誰か
が見つけてくれることを待つことにする。
可奈も希実ちゃんも時計や携帯電話を持っていないので、助けを呼ぶこともできず、今
が何時なのかも分からない。少し前に遠くに「夕焼小焼」のメロディが流れたので、五時
は過ぎていると思うだけだ。
ぐすぐすと、希実ちゃんは泣きべそをかくばかり。
「ねえ可奈ちゃん、どうなるの?
あたしたち、どうなっちゃうの?」
「きっと誰か、見つけてくれるよ」
あの人たちにしたって、そんなに気長に様子を見ているとは思えないのだが。まさか本
気で放置を決め込んで、家に帰ってしまったんだろうか。
最悪の最悪にしたって、明日の朝には誰かが巡回点検に来るはずだ。
明日の朝?
考えて、可奈は気が遠くなる。そんなの、永遠の彼方と同じに思える。それまでに飢え
死にするということはないだろうが、きっと希実ちゃんと二人、ここでおかしくなってし
まう。
何か、扉を破るために使える道具などないのだろうか。首を伸ばして、奥を見回す。途
端に、右腕を掴む希実ちゃんの手に力が加わった。
「ダメ、奥を見ちゃ」今にも狂い出しそうな、泣き声だ。「きっと何か、怖いもの、いる
の」
「いないよ、何も。落ち着いて」
努めて穏やかに声をかけて、密かに可奈は溜息をつく。
希実ちゃんと二人、ということを喜ぶべきか、悲しむべきか。
きっと一人でここに閉じ込められたとしたら、今のように冷静でいられなかっただろう。
隣で希実ちゃんがあまりに大げさなくらいに怖がっているので、その反動というか、不思
50
議なくらい落ち着いていられる、気がする。一人だったら、今の希実ちゃん以上に怖がり、
泣き叫んでいたかも知れない。
しかし代わりに、希実ちゃんが怖がって離れないために、行動がままならなくなってい
る事実もある。付き合い始めて六年あまり、時々感じていたいらだたしさのようなものを、
どうしても思い出してしまう。
暗がりに目が慣れると何とか分かる程度に、扉の隙間に外の光が漏れ込んでいる。気の
せいか、それが少しずつ弱くなってきているようだ。夏の長い日も、もう暮れる。このま
まだとここは、真っ暗闇だ。
「ねえ、希実ちゃん」右肩に、そっと囁きかけた。「きっと何処かに電気のスイッチある
よ。探してみようよ」
少し間を置いて言葉の意味を理解したように、希実ちゃんはこくりと肯いた。
恐る恐る、立ち上がる。ぶら下がるような希実ちゃんの手が重たい。がんとして動かな
い扉の下の階段。その脇。暗い中に目を凝らす。手分けして探せば早いのは分かりきって
いるが、希実ちゃんは必死に離れようとしないのだ。
何度か左右を行き来して、ようやく見つけた。わざと意地悪をしているのではないかと
思われるほどに小さい、一つだけのスイッチが、階段脇の壁に。
「あったよ、きっとこれだ」
囁き声を高めると、ほっと希実ちゃんも安心の溜息をついている。
かすかな喜びを持って手を伸ばし、スイッチ、オン。
瞬きながら、天井に一本だけの蛍光灯が輝き出した。
振り返ると、狭い部屋の中の眺めが一変していた。得体の知れないモンスターが潜んで
いるように思えた魔界が、ありふれたつまらない道具置き場に。それでも日常に戻った安
心を伝える、ありふれた眺め。まだ瞬きの治まらない輝きに、広がり、狭まり。明るくな
り、暗くなり。
「あ」
声を上げたのは、二人同時だ。
一瞬明るさを増した照明が、ぱち、と情けない音を立てて、いきなり消えていた。蛍光
灯が、寿命を迎えたのだ。たちまち二人は、さっきにも増して暗く思える闇の中に取り残
されていた。
「やだあ --
」
泣き声を上げて、希実ちゃんが抱きついてくる。
こんなのありか。可奈は、ただ呆然と立ちすくむ。
*
ぼつぼつと、周りの何人かは帰り始めている。夏休みが近づいて、とりたてて大きな行
事もないこの時期の職員室は、のどかな空気になっている。窓際の席で、教頭が大きな欠
伸をして肩と首を回したところだ。
つられたように欠伸をして、西条は向かいの席の葛木に囁いた。
「ファイターズ、勝ってます?」
片耳にイヤホンを挿している葛木が、苦笑いのような顔になる。
「二回を終わって、0 0
-です」
「そっか」
51
葛木まで伝染したように、欠伸の口元を抑えて。手元は小テストの答案に機械的のよう
に赤鉛筆を動かしている。
不思議なほど平和だ、と西条は思う。向かいの席のこの、隣のクラスの担任など、赴任
前のクラス状況からするととうてい考えられないほど、今は暢気な様子で毎日を過ごして
いる。あの異常な状況をどう鎮めたのか、一度じっくり聞いてみたいほどだ。
前の担任の志田がぴりぴりし始めたのは、昨年の秋頃になってからだった。どうもおか
しい、不穏なことが起きている、と折に触れて西条に向けても漏らすようになっていた。
「いじめとかいう兆候ならもっと何処かで目に見えるはずなんだけどね、どうにも不穏な
気配ばかりではっきり見えてこないのよ」
西条より二歳先輩の女教師は、溜息をつきながらこぼした。
「そんなことがあるとしたら、おそらく中心になるのは草賀愛姫とその周りの数人だと思
うし、一番ターゲットになりそうなのは葉山希実って子なの。でも、一時期葉山へのから
かいみたいなのが目立ってたんだけど、最近はむしろ仲よく見えるのよね、あの一派とは」
「それは」西条は首を捻って言った。「一時期不穏な状態だったのがもう治まってきてい
る、ということじゃないんですか?」
「それならいいんだけど。いや、やっぱり絶対何処かおかしいと思う」
志田は腕を組んで考え込んでいた。
わかったわ、と志田が改めて話してきたのは、それから数週間後だった。
「周りからほぼ無視の扱いを受けてるの、小杉可奈だわ。何であんなしっかりした子が、
と思うし、周りも異様に統率がとれていてなかなか実態が見えないんだけど、まちがいな
い」
「中心になるのは、やっぱりその、草賀って子ですか」
「それ以外考えられないんだけどねえ。そこがまだはっきり見えないのよ」
それから後、志田は草賀が他の子どもにいじめの指示となる発言をしているのを聞いて、
本人に注意した。また直後の父母懇談でその件について触れると、母親は神妙な顔で聞い
ていたという。
その数日後授業の行われている時間帯に、草賀の母が前触れなく校長との面会を求めて
きた。
「担任の志田という教師に、娘がいわれのない非難を受けました。学校としての見解を聞
かせて下さい」
校長室に通るなり、母親は開口一番言い放ったという。
娘が友だちをいじめていると決めつけられた。娘本人は否定している。先生に強い口調
で決めつけられたので抗弁できなかったと言っている。そんな証拠があるのなら見せても
らいたい。本人同士の言った言わないというのは何の意味もないと思うが、まさか学校は
一方的に教師の言い分を尊重する方針か。証拠もなしに罪を問うということがありうるの
か。
校長はようやく、証拠もなく決めつけることはしないと答えたらしい。
「それを聞いて安心しました」
言って、母親は持参したノートを取り出した。
「こんなことをいちいち言いたくはなかったんですが、あの先生、以前から父母の間でも
評判が悪くて。高圧的だとか、授業でまちがいを教えるとか噂になっています」
娘の証言と授業のノートを根拠として、次々並べ立てた。
黒板に誤字を書く。六月某日の授業では「武」という漢字の書き順がちがっていた。
52
メダカのオスメスの見分け方をまちがって口にした。また体の色について娘が「透明も
いる」と答えたら、「そんなのいない、ふざけるな」と言われた。先生は勉強していない
のか。調べずになぜ頭から否定できるのか。
算数で合同な三角形のかき方の、二つの角がなぜ一つの辺の両端でなければならないの
か、理由を説明できないまま、とにかくそうでなければいけないと断言した。等々。
「この教え方で問題がないのなら、根拠を述べて説明を要求します」
重ねて最初の件も説明と謝罪を要求して、意気揚々と帰っていった。
他の母親仲間とも示し合わせたのだろう、その直後から何件も電話で志田に対する苦情
が続いて寄せられた。草賀を初め数名の女子が、先生が嫌なので学校へ行きたくないと言
い出したと、欠席を始めた。
志田が子どもと母親に面会を求めても、何処でも門前払いになった。校長宛に、志田を
担任から外すように要求が殺到した。
その要求にあからさまに従うこともできず、志田が自ら体調不良を理由に休職を言い出
すしかなかった。
今から思うと悪夢のような、嵐のような数日間だった。かなり近くにいたはずの西条で
さえ何が何だか分からないうちに、志田の姿は学校から消えていたのだ。しかもその後も
自宅に脅迫まがいの匿名電話が続き、志田は心労で入院に追い込まれたという。
その後は代理の教師が腫れ物に触るような調子であのクラスを担当して、学年を終えた。
新学年になって担任になったのが、新しく転任してきた葛木だ。
そんなクラス状況を、どんなマジックを使って鎮めたのか。
暢気そうにしか見えない向かいの男の俯き顔に、西条は改めて視線を向ける。
*
元の場所に腰を下ろして。可奈の肩に顔を押しつけて、希実ちゃんはすすり泣きを続け
ている。数秒間だけの明るさに慣れかけた目がまた闇に沈められて、室内はさっきよりも
暗さを増して感じられる。奥の闇から今にも何かが立ち上がりそうで、怖いよう怖いよう
と、すすり泣きが続く。
友だちの泣き声を聞きながら、かえって可奈は心が醒めてくるようだ。もうずいぶん長
いこと、希実ちゃんのように泣いたことはない。去年、草賀さんたちからの仕打ちを受け
始めてからは、なおさらだ。泣いてしまっては負けだと、何処かから声が聞こえる、気が
する。
泣いたら、自分の居場所がなくなる。学校にも、家の中にも。
子どもを泣かせるな、仕事ができない。遠く、お父さんの声がした。
いい子だね、可奈は泣かないね。お母さんの、囁き声がした。
人前で泣いたのなんて、一体何年前のことだろう。
希実ちゃんはいい。子どもらしくいられる。女の子らしくいられる。人前で泣くことが
できる。
*
目の前の電話が鳴って、すかさず西条が受話器を取った。
「はい、謙光小学校職員室です。ああ、はい、はい」
53
片手で保留ボタンを押して、向かいに受話器を差し出した。
「葛木先生、一組の小杉さんのお母さん」
「はい」
気楽な手つきで、受けとる。
しかしその応対をする葛木の声が、すぐに緊張に固くなっていた。
受話器を置いた葛木に、教頭が声をかける。
「何か、あったのかい」
「うちのクラスの小杉可奈が、まだ家に帰っていないということです」
「ふうん」
職員室に緊張は走ったが、教師たちはまだそれほど深刻ではなく、状況を確かめ合った。
時計を見ると、六時半。日頃指導している帰宅時間は過ぎているが、外で遊んでいて時間
を忘れたという例はよくある程度の遅さだ。
「一応校内を点検してみます」
葛木が言って、職員室を出る。周りの数人が協力を申し出て、散っていく。二十分ほど
の点検で、異状は見つからなかった。
もう一度小杉の家に電話を入れても、まだ帰宅しないという返事だった。それから間も
なく、もう一人葉山希実の家からも帰宅しないという電話が入った。
「二人は、仲がいいのかね」
教頭の問いに、葛木が肯く。
「小学校に入る前からの友だちと聞いています」
「それじゃあ、大方何処かで一緒に遊んで遅くなっているんだろう」
誰かが言い、周りもほとんど同意の様子だ。
それも七時を回ってしばらく経つと、緊張が高まってきた。何人かの教師が手分けをし
て、通学路の捜索に出ていった。葛木と他の数人が、もう一度学校の内外を点検に回った。
*
そう言えば --
「いつだっけ」
思わず呟くと、ひく、と可奈ちゃんが身を震わせる。
「う……すん……え?」
「希実ちゃんと二人で、泣いて帰ったこと、あったね、昔」
「あ……あ」
すん、と鼻をすすって、希実ちゃんが囁き応える。
「あの……あっちのショッピングセンターまで行って、帰り……分からなくなったの」
「ああ、そうだ」
あの時は、可奈のせいだ。小学二年生、だったと思う。近所の文具店に探していたキャ
ラクター消しゴムがなくて、希実ちゃんを誘って離れたショッピングセンターまで二人で
歩いていったのだ。今思えばたいした距離ではないのだが、それまで子どもだけで行った
ことはない遠さで、目的は果たしたが帰りの道に迷ってしまった。さんざん道を探して、
終いには二人ともべそをかきながら歩いていたところを、大人の人に呼び止められた。学
校までの道を教えてもらって、ようやく知っている景色を見つけて、帰ることができた。
家に帰るのが遅くなって、さんざん親に叱られた。
54
あの時は、可奈も人目を気にせず泣いていた、はずだ。
「一緒に泣いたね、あの時」
「うん」
闇を透かして、希実ちゃんの瞳が持ち上がった。
「可奈ちゃんも、泣いてもいいのに」
「え?」
「悲しい時は、泣いてもいいんだよ」
「 ---
」
「子どもは、泣いたって、いいんだよ」
希実ちゃんは狡い、と思う。子どもらしく、いられる。闇の奥にお化けがいる、と信じ
られる。
今、後ろには何もいない。可奈は、そう思わなくてはならない。
*
八時を回っても、二人の行方は分からなかった。小杉可奈と葉山希実のそれぞれ父親が、
学校まで来た。どちらも母親は、家で帰りを待っている。
行く先に心当たりは、という問いには、どちらの父親も首を振った。
「いつも遅くても五時過ぎには家に帰って、夕食の支度を手伝っているようです」
小杉の父が真剣な表情で言った。
「このところ二人とも、グループ研究で放課後二十分程度残っていることが続いていまし
たが」
葛木が説明した。
「今日はその活動もなく、掃除の後は全員下校したはずです」
通学路の捜索に協力を求めて、PTAの安全委員を中心に何人かの親が、学校に出入り
していた。警察に届けるか、真剣に職員室で協議され始めた。
「学校にいないことがまちがいないのなら、捜索をお願いするべきでしょうね」
校長が、溜息をつくように言った。
「もう一度だけ、校内を探してみます」手を挙げて、葛木が言った。「もう十分、待って
ください」
「一緒に行きます」
すぐに並んで、西条も駆け出した。
「何か思い当たるところでも?」
玄関の方へ向かいながら、西条が同僚の顔を覗く。
「場所に心当たりがあるわけじゃないんですが」葛木が先を急きながら応える。「あの二
人に対して、何処かに閉じ込めるとか、そんな悪戯を仕掛ける可能性はある気がするので」
「ああ」西条が肯く。「去年からのことが、ありますからね」
「校内で鍵のかかる場所は一通り見たはずですが、外の方には何かなかったでしょうか」
葛木の問いに、西条は首を捻った。
事務室から懐中電灯を借り出して、二人は校舎の外壁沿いに回り始めた。
*
55
希実ちゃんはいい。女の子らしくいられる。
思い始めると、羨ましいような感情が膨れ上がって。
羨ましくて
羨ましくて
でも、真似はできない。
いい子でいなくてはいけない。
しっかりしてなくてはいけない。
決して、泣いてはいけない。
後ろの暗がりは、何がいるか分からないけど、怖くない。
怖くない。
怖くない。
しがみついている希実ちゃんの小さな温かな身体を、ぎゅっと抱き返す。
不意に、
何処かで、がちゃりと音がした。
抱き合って、二人に一緒に震えが走った。
*
「あれ」
「何ですか」
「ここ、錠がかかっていない」
「あ、本当だ」
「捻れば、開きますね」
がちゃりと掛け金が外れ、
扉を開くと、暗闇。
むわあ、と奥から熱気が立ち上がる。
*
いきなり、眩しい光が降ってきた。
「誰かいるかあ」
わ、と身体を離して、二人は入口を見上げた。
「小杉と葉山か?」
葛木先生、だ。
「はい」
「はい」
「どうしたんだ、一体。早く出てこい」
大きな手が差し下ろされる。
希実ちゃんの腰を押して、その手に掴まらせた。たちまち二人続けて、外へ引き上げら
れた。土の上に膝をつき、物置の中の熱気に比べるとかなり涼しい空気に包まれて、思わ
ず大きく呼吸する。
「よかった、無事だな。怪我もないか。何処か具合悪くないか」
葛木先生が、二人の肩を撫でる。
56
その向こうで、西条先生が携帯電話と話している。
「はい、いました。体育館裏の、倉庫です」
こんなに息苦しかったんだと、外に出て初めて気づいた。可奈も希実ちゃんも、何度も
大きく息をして、すぐに言葉が出てこない。
ほどなく、大勢のけたたましい足音が聞こえてきた。
顔を上げると、
先頭を必死に走るのは、
「可奈 --
!」
ワイシャツ姿の、お父さん、だ。
「心配 --
させやがって、この --
」
足がもつれて、可奈の目の前、崩れるように、膝をつく。
一瞬頭が真っ白になって、可奈はどうしていいか分からなくなった。
すぐ横で希実ちゃんが、お父さん、と泣きながら男の人に抱きついていった。
ああ --
ああすればいいんだ。
見直すと、お父さんの、怒ったような、泣いたような、笑ったような、顔。
鼻の奥から頭の全部が熱くなって。
両目に涙があふれ出た。
「わあ ----
」
両手を前に伸ばすと、乱暴に引き寄せ、抱きしめられた。
力任せ。もうすっかり忘れるところだった、お父さんの腕の力、汗の匂い。
「大丈夫だったか、大丈夫だったか、よかった --
」
ぐしゃぐしゃと頭を撫で、痛いほどに。
何度も何度も、抱きしめ、力を入れ直された。
その果てに、お父さんはわずかに顔を持ち上げた。
「あ、お母さんも家で心配してるんだ」
抱いた手を緩めずに、片手で携帯を操作している。
「ああ、いたぞ、今見つけた。無事だ」
機械音のような、叫び声が返る。
「ああ、ああ。ほら可奈、お母さんに」
携帯を前に突きつけられて、
「お母さん、お母さん --
」
泣き声を上げるしかできなかった。スピーカーの向こうでも、ただ涙声だけが続いてい
る。
しばらくして、興奮が収まった頃に、遠慮するような声で葛木先生が話しかけてきた。
「な、お前ら、これだけ教えてくれ。何であんなところに閉じ込められていたんだ?」
顔を上げて、可奈はちらと希実ちゃんを見た。お父さんに抱かれてすすり泣きながら、
希実ちゃんもちらとだけ視線を返す。
「あの --
」考えながら、可奈が応えた。「あそこ、鍵かかってなかったから --
」
「うん」
「何だろうって、希実ちゃんと覗いてみたら、後ろで戸が閉められて --
」
「誰が閉めたんだ?」
少し考えて、可奈は黙って首を振った。
57
「分からないのか」
「 --
はい」
溜息をつきながら、葛木先生は横を見る。隣に立っていた教頭先生も、困った顔になる。
「まちがいなく、外から掛け金はかかっていましたから」葛木先生が説明した。「この二
人だけの悪戯などではないことは確かです」
「そういうことになるね」
教頭先生も、重々しく肯く。
それから首を振って、二人の父親や集まっていた他の人たちの方を見た。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした。もう遅いですから、詳しく調べるのは明日以
降にして、今日はお帰りいただきたいと思います」
がやがやと話が行き交いながら、それに反対の声はなかった。
お父さんの腕が、可奈を強く抱き直した。
捌
「本当に懐かしい名前を聞いたわあ」その母親は、沈痛な表情の中で目を輝かせた。「お
気の毒なことをしたわ、あの早川さん。周りの私たちがもっと気遣ってあげられればよか
ったんだけど、あの時はそうもいかなくて。あの人のやり口が、どうにも巧妙すぎたのね」
その辺り、詳しくお聞かせいただけますか。
「ええ、いいですよ。早川さん、言ってみればあの人の最初の犠牲者なの。あの人、その
前まではそこまで露骨じゃなかったって言うか。もちろん、人に取り入るのが上手いとか、
会話を自分のペースにするのが得意とか、大げさに言えば、人心掌握に長けているって言
うのかな、そんな感じは前からあったんだけどね。例えば、私が入社した時はちょうど妙
に女子社員の入れ替わりみたいになって、前年の退職が多かったらしくて、代わりの採用
が多かったのね。だから、私の一年目の時は、すっかり女子社員が若返りになったって言
われてたの。本当ならあの人辺りは十歳も年上なんだからそのギャップに悩む年代なんで
しょうに、ところがね、あの人、信じられる?
何ヶ月もしないうちに私たちと同じ喋り
方になっていたの。ほら、今も昔も若い人特有の喋り方ってあるでしょう。それをあっと
いう間に身に着けて、私たちと合わせて喋るようになっていたのね。その喋り方で先輩ら
しいアドバイスなんかしてくれるから、すっかり私たちの代の信用を得てしまったわけ。
後から考えるとあの人、ちょうど結婚して少し仕事が落ち着かなくなってたり、その前ま
での子分格だった人が退職してしまったり、不安定な時期だったみたいなのね。それを、
私たちと話を合わせることで乗り切ったって感じなんじゃないのかな」
分かります。
「早川さんの入社は、その二年後ね。私たちの代の反動でその後は採用が減って、この年
は一人だったな。彼女は直接あの人の下につく形になって、しばらく、一年くらいは良好
な関係に見えたわ。あたしたち以上に年が離れてるわけだし、直接面倒を見る関係だから、
まるで親子みたいって言ったら気の毒だけど、そんな微笑ましい感じにね。でも後から考
えると、そのあたりからもう、あの人の計画のうちだったみたいなの。懐かせて、油断さ
せてって感じね。それが二年目になって早々、早川さんが新しい仕事を覚えようとし始め
たところで、発動したみたい。私たちが見てても、最初は何が起きているか分からなかっ
たわ。初めは、早川さんの新しい仕事も上手くいきそうに見えたのね。それがあっという
58
間に失敗を重ね出して、上司の信頼も失って、私たちの間にもいつの間にか彼女はおかし
い、生意気だ、みたいな話が広がっていた」
それが全部、その人の手際だと?
「聞いただけじゃ信じられないでしょうけどね。もちろん早川さんのした失敗全部があの
人のせいとは言わないわ。でも、その後で周りが感じ始めた印象は、確実にあの人が作っ
たものなの。あの人の得意技なのよ。直接の言い方をしないで、いつの間にかその場の雰
囲気を思う通りに作ってしまう。例えばね、って、例えになるかな。あの人みたいな先輩
に、よく相談したり、愚痴をこぼしたりするでしょ、後輩としては。部署の中でどうも上
手くいかないとか、あの上司のこういうところに馴染めない、とか。あの人、そういうこ
とをにこにこ聞いてね、そうね大変ね、とか、まあそれはあなた気の毒、とか、相槌打つ
の。それ自体は不思議なことはない、普通そうやって愚痴を言って気が晴れたりするもの
なんでしょうけど、あの人の凄いのはね」
一瞬言葉を切って、さらに目を輝かせた。
「あの人と話した後には、何故か打ち明けた不満がいっそう強くなっているの。まるであ
の人が不満を認めてくれた、不満を持つので正しいんだって気になったみたいに。実際あ
の人に愚痴を相談しながら上司への不満を募らせて、とうとう上司と衝突したって人もい
たくらい。さすがにこの時はあの人のせいってことにはならなかったけどね。それこそ後
からみんなで考えると、そういう例がいくつも思い当たるの」
へええ、と感心の相槌を打つ、しかない。
「私たちの間で早川さんの話題を出す時にもね、それと同じでいつの間にか、彼女は周り
に迷惑をかけている、生意気だ、みたいな調子の話になってるの。彼女らの部署の中では、
もっと露骨だったみたいよ。もの凄い、ぎりぎりのタイミングを見計らって発言して、彼
女の失敗は上司のせいだ、みんなでこの失敗を背負わなくちゃいけないっていう気にさせ
て、すっかり早川さんの立場をなくさせたみたいなのね」
言葉も、出ない。
「そんな企みが行われているなんて、最初は誰も分からなかったの。その後すっかり早川
さんは信用を失って、退職することになってもほとんど気にする人もいなくなったくらい
で。あの人もそれでやめておけばよかったのにね。それが、次に入社してあの人の下につ
いた人も、また次の人も、早川さんと同じように失敗して退社する雰囲気にまでなってい
くんだもの、さすがにそこまでくり返されれば上の人も妙だと気がつくわ」
そんな、何だってそんなこと、くり返すんですか。
「後からだと、想像するしかないんだけどね。早川さんの入社は、あの人が長女を出産し
て休暇から復帰した、少し後なの。それまで長年自分の仕事と会社内での立ち位置にある
程度自信を持ってきた人が、出産休暇を期に不安を持つようになった。自分のしていた仕
事は他の人にも代替可能と思われているんじゃないか、少し仕事が出来ると評価される若
い人が現れたらすぐに取って代わられるんじゃないかって、気になり始めた。っていうの
が、あの人がやめた後で私の上司だった人が話してくれた想像なんだけど。その、早川さ
んの後も二人ばかり続けてまた若い女の子が退職するのが続いて、さすがに妙に見られる
ようになって、あの人も二人目を妊娠してまた出産休暇をとることになって、その後間も
なくしていよいよ居づらくなって退職していったんだけど」
はあ。
「今から思えば、その中でも早川さんは一番よくやっていたわ。彼女の手がけたパソコン
の導入だって、当時はまだ珍しかったけど、今となってはどの事務室でも一人一台机に置
59
いていて当たり前だものね。あの最初の苦労があったからその後の本格的導入が上手くい
ったって、後からよく話題になっていたくらい」
それを聞けば、彼女も少しは慰められると思います。
「それにしてもねえ」その母親は、しみじみと溜息をついた。「もう、十三回忌ですか?」
今年の年末に、そうなります。
「転職して、配送運転していた車で事故なんてねえ。まるっきりあの人に殺されたみたい
なものじゃない。あの人の方は旦那がずいぶん出世して、今じゃ娘三人と楽しくやってい
るって話なのに。つくづく神様って、不公平ねえ」
旧姓黒瀬と名乗った、一年生の男の子の母親は、もう一度深々と溜息をついた。
鳩無鳥
*
がたんと、学童机の裏の鉄板を、膝が蹴り上げた。
「面白くない」
美少女の整った顔が、不満げに歪む。
「あんたたちも、考えなさい。あいつ、カナ、一度泣かせてやんなきゃ気が済まないわ」
いじめ女王
草賀愛姫 ××市立謙光小学校六年一組
住所
××市××町×条×丁目× ×
-××
電話
××× ×
-×× ×
-×××
「だけどさあ」二人目の少女が口を尖らせてそれに応えた。「かなりしぶといよねえ、あ
いつ」
うんうんと、周囲で残り二人の顔が肯く。
「こんなまどろっこしいやり方じゃ駄目なんだよ」三人目の少女が眉をひそめて言った。
「もっと直接に痛めつけるみたいな感じじゃなきゃ」
「ダメだよ」二人目の少女が首を振る。「前に愛姫が言ったでしょ。賢いやり方をしなき
ゃ。人に見られて何か言われるようなのは、ダメなの」
「いらいらするなあ」
四人目の少女が吐き捨てて、すぐ傍の短い髪を引っぱった。きゃ、とすぐに顔の見えな
い五人目の少女が抑えた悲鳴を上げる。
「ほらキミ、あんたも考えなさい。どうしたらあいつに泣きを見せられるか」
「そんな……」
「何か思いつかなきゃ、まずあんたが泣きを見るんだよ」
さらに髪を引っぱる手に力が籠もって、やあ、と泣き声が高くなる。
「そうよ、あんたが一番あいつのこと知ってるんでしょ」
逆側から三人目の少女も手を伸ばして、短い後ろ髪を引っぱった。
「ほら思い出しなさい、何が一番あいつ、応えるか」
「そんな……分かんない……の」
「使えねえなあ」
ぐいぐいと髪を引っぱる。やああ、とさらに泣き声が高まる。
「この子を泣かせたくらいじゃ、何の気晴らしにもならない」一人目の少女が唇を突き出
)
2
1
(
60
して呻き、後ろの掲示板の方を睨みつけている。「絶対、カナの奴を泣かせてやるんだか
ら。一回やってやんなきゃ、ほんっと、気が済まない」
また、机の裏に衝突音が弾ける。
小さな少女を挟んだ二人は、それが気に入ったように交互に髪の毛を引っぱっては、高
い悲鳴を上げさせ続けていた。
現場
××市立謙光小学校六年一組教室
学校住所
××市××町×条×丁目
電話
××× ×
-×× ×
-×××
六年一組担任
葛木弘樹
学校長
常滑範人
)
7
5
(
)
8
2
(
*
夏のすがすがしい朝日の下。さまざまな色の服装の小学生たちが、次々と校門をくぐっ
ていく。
校門脇に二人の教員が立って、子どもたち一人一人に「お早う」と快活に声をかける。
その度、それに倍加した元気な声が返っている。正面玄関上の時計が八時を回って、そろ
そろ登校のピークを迎える頃だ。
騒ぎは、校舎を囲む塀の曲がり角の辺りで起こった。
「いた」
列を作って歩く小学生の一群に向けて、若い男が駆け寄っていた。
「え、何?」
数人の女子が身を寄せて声を上げる。そちらに向かってカメラが構えられ、続けざまに
シャッター音が響いた。
「きゃあ --
」
「わあ --
」
周りの子どもたちが、悲鳴を上げて校門の方へ走り出す。カメラを向けられた一群も、
もつれ合うように駆け出した。
そこへ、別の若い男が今度は二人、それぞれ別方向から現れてカメラを構えた。かしゃ、
かしゃ、とデジタルカメラのシャッター音が交錯する。
「こらそこ、何をしている」
校門前の教員が騒ぎに気づいて走ってきた。
カメラを向けられた子どもたちが、必死の形相で教員の後ろまで逃げ込んだ。
「よし、ゲット」
満足の笑顔で、三人の男たちはとりどりの方角へ逃げ去っていった。後を追おうとしか
けて、教員はすぐ諦めて足を止めた。
もう一人の教員が駆け寄り、しかし二人ともわけの分からない表情で首を振る。
「早く学校に入りなさい」
まだまだ続く登校の列に、気を取り直して声がかけられた。
「カメラを向けられたのは、六年一組の草賀愛姫のようです」
*
61
職員室に報告が入り、たちまち大騒ぎになっていた。
つい三日前の夜に二人の女子が倉庫に閉じ込められる騒ぎがあり、その調査と子どもへ
の指導をどうするか頭を悩ませていた矢先の月曜の朝だ。
また六年一組か、と担任の葛木が机の上で頭を抱えていた。
「若い男三人とも、最初から草賀を探していたような動きに見えました」
「何だって、そんなこと」
居合わせた全教員が、首を傾げて顔を見合わせる。
「あの --
」
恐る恐るのように、新任一年目の高貫が手を挙げた。
「今朝、先生方に見てもらおうと、これ、持ってきたんですが --
」
「何だい、今の話に関係あるの?」
西条の問いに、自信なさげに首を傾げる。
「とにかく、その、重大でして
。今朝その、大学時代の友人に電話で起こされて、お
--
前の学校の変な動画がインターネットで出回ってるぞって --
それで、教えてもらったと
ころでダウンロードして --
」
しどろもどろに話しながら鞄を探って、ようやく小さなフラッシュメモリのスティック
を取り出した。
「その、あの、教頭先生のパソコン、使わせてもらっていいですか?」
職員室で個人所有のものは他にも何台かはあるが、正規に配置されているパソコンは教
頭席の一台だけだ。許可をもらって、高貫はUSB端子にスティックを挿し込んだ。マウ
スを操作して、モニターを教員たちの方へ向ける。
プレーヤーソフトが立ち上がって、動画の再生が始まった。
がたんと、学童机の裏の鉄板を、膝が蹴り上げた。
「面白くない」
美少女の整った顔が、不満げに歪む。
「あんたたちも、考えなさい。あいつ、カナ、一度泣かせてやんなきゃ気が済まないわ」
いじめ女王
草賀愛姫 ××市立謙光小学校六年一組
住所
××市××町×条×丁目× ×
-××
電話
××× ×
-×× ×
-×××
)
2
1
(
「え?」
「何?」
教師たち、特に葛木の目が、大きく丸く見開かれる。
教室らしい場所に、女子が数人。やや荒い、しかし子どもの顔ははっきり見える妙に臨
場感のある画像に、いきなりテロップが挿入された。女子の実名、本物らしい具体的な住
所と電話番号だ。
明らかに他の子どもへの害をなす相談が続き、さらに実際そこにいる、ただ一人モザイ
クで顔を隠された女子の髪を引っぱる乱暴行為が展開される。最後に、学校名、担任名。
校長名のテロップ。
その場にいた全員が、言葉を失っていた。
動画が終了しても数秒の沈黙が続き、やがてようやく、西条が口を開いた。
「これ --
この動画が、出回ってるって?」
62
「はい」高貫が肯く。「有名な、動画サイトに」
高貫が口にしたサイト名は、全員に聞き覚えがあった。少し前に、政府の極秘映像が流
出したという騒ぎで話題になったばかりだ。
「これ --
」西条が、葛木を見た。「六年一組の子どもたちで、まちがいないですね」
強ばった顔で、葛木はがくりと肯いた。それからふらふらと、近くの椅子に崩れ落ちて
いた。
「そんな --
何で --
」
「つまり、えーと、どういうことになるんだ、これは?」
教頭が呆然とした顔で、職員たちを見回した。
「つまり」ためらいながら、西条が言った。「うちの学校の疑う余地のないいじめの実態
を示す動画が、全国、あるいは全世界へ向けて流れているわけです。それも、子どもと先
生の実名つきで」
「そんな馬鹿な」教頭が叫んだ。「何だその --
個人情報 --
そう、名誉毀損じゃないの
か、これは」
「ですから」西条が続けた。「サイトの方に削除依頼を出す必要がありますね、早急に」
「そうか、そうだな」教頭が肯く。「すぐに校長に報告しなければ」
高貫がパソコンに屈み込んで、何度かマウスとキーボードの操作をしている。
「その --
すでに、一部の掲示板でも話題になっているようで --
ああ、これだ」
指さすモニターに、また全員が注目する。
「いじめ女王」見た?
許せない。一方的な、いじめ。いじめる側の弁解の余地なし
あんな程度のいじめ、珍しくもない。
かわいい。いじめ女王は俺の嫁
「最後の、言ってる意味分からない」
女教師の一人が呟く。
「これが昨夜の書き込みで、先に進むとこうなります」
高貫が画面を進める。
「今日の早朝ですね」
××市および近郊に住む人、集合!
××市立謙光小学校
××市××町×条×丁目
いじめ女王はいつも八時頃登校
今朝が、顔を拝める貴重なチャンスだ!
きっと明日以降は警戒厳重になるぞ
「何と」誰かが呻き声を漏らした。
「じゃあ、今朝の騒ぎはこのせいか?」
「おそらく、そういうことです」
63
応えて、高貫はさらに先に進める。
「あ。最新の書き込み、ありました」
いじめ女王のナマ顔、ゲット。
さっそくUPするよ。
「画像専用の掲示板に、リンクが張ってあります」
クリックして、現れた写真は、紛れもなく今朝の登校時の騒ぎで草賀が驚く顔だった。
その場の全員が、頭を抱えた。
「どうなってるんだ、今の世の中は」
腰が砕けるように椅子に座って、教頭が呻いた。
誰からも、応えはなかった。
*
下校時も騒ぎが懸念されるという判断で、その日はそのまま全校生を集団下校させた。
詳しい説明は後日行うと、全保護者に連絡をとった。
校長が弁護士に相談し、動画サイトに例の動画の削除を依頼したところ、すでに削除し
たという返答があった。明らかに不穏当な内容と、サイト側でも自主的に判断したようだ。
一安心の空気が、続けてネットを検索していた高貫の一言ですぐに打ち破られた。
「どうも例の動画、すでにファイル共有のルートに流れているようです」
意味の分かった教員は顔を強ばらせ、意味の分からないものはぽかんとした表情になる。
「何だね、そのファイル共有ってのは」
教頭の問いに、高貫は難しい顔で考え込んだ。
「つまり、その
専用のソフトを持っているユーザーは自由にそのファイルを手に入れ
--
られる仕組みで、その --
」
「決定的なのは、追跡、削除がほぼ不可能ということですね」西条が補足した。「確か、
警察の極秘資料がそうやって流れて、未だに流通を止められずにいるという話だったと思
います」
「それも、全世界に、ほぼ半永久的に、ということです」遠慮がちに、高貫が付け加える。
「な……んと……」
教頭が、絶句した。
六年一組の教室を調べると、動画の撮影角度から推側できる後ろの棚の陰に、何かを貼
り付けた粘着テープの跡らしい痕跡が見つかった。大きな機械は無理だが、ワイヤレスで
データを飛ばす極小のビデオカメラなら設置可能と思われる。実行犯としては、当然この
教室に日常出入りする者が一番疑わしいが、
「特定できませんよ」西条が眉をひそめて言った。「六 一
-の教室は週二回一般公開して
いる図書室にも近いですし、先週はあの教室ではありませんがPTAの安全委員会の集ま
りがあったり、極端に言えば誰でもその気になれば侵入できます。機械の回収だけなら金
曜夜の例の騒ぎで大勢出入りしていますから、そのどさくさで可能だったかも知れません」
「動機としては、いじめられ側の小杉や葉山の関係者が一番強いだろうが」別の教師が言
った。「草賀に反感を持つ者なら全て怪しいとも言えるな」
「目撃者でもいれば、絞れるんでしょうが。六 一
-の子どもたちに事情聴取しますか?」
64
問われて、教頭は頭を抱えたまま応えない。
担任の葛木も、自分の席で頭を抱えて亀のようになっていた。
その後開かれた職員会議では、金曜夜の件の調査結果も報告された。
倉庫の扉の錠が外れていたのは、少なくとも週の初めからだったらしい。先週から新し
く来ていた警備員が問われて、「ここには初めから錠がないものと思っていた」と答えた。
そのため当日も全く不審に思わなかったということだ。
小杉と葉山の二人を閉じ込めた犯人は、同じクラスの鹿島、三谷、桜木の三人が疑わし
い。本日その旨を訊ねる予定にしていたが、今朝の騒ぎで流れてしまった。
この事件だけでも追及すべき点は多々あるのだが、今は動画流出の件の対処が優先で、
報告もそのままになってしまった。
しかし、本日の件については、さらに分からないことだらけで討議のしようもない。盗
撮と流出の犯人については、警察に捜査でもしてもらわなければ突き止められないだろう。
「盗撮、流出って、警察が捜査するような犯罪になるんですか?」
「罪状として考えられるのは、名誉毀損罪ってやつくらいじゃないかな。ちなみにそれ、
親告罪だ」
「つまり、どういうこと?」
「今回の場合、草賀の親か、校長か、葛木先生が告訴しない限り、警察は動かないってこ
とだな」
教員たちは、互いに顔を見合わせるしかなかった。
葛木は俯いたきり。
校長は難しい顔で沈黙している。
草賀の親については、葛木が力ない声で報告した。
今朝の登校時の騒ぎを聞くなり、母親がすさまじい剣幕で電話してきた。しかし動画の
件を聞くとたちまち絶句して、自ら電話を切ってしまった。その後はこちらから電話して
も誰も出ない。
「動画に自宅の住所と電話番号が出ていたわけですから」西条が言った。「こういう件の
常として、自宅に嫌がらせ電話が殺到しているのかも知れませんね」
実際学校の方にも「お前のところではどういう教育をしているんだ」「いじめを放置し
ているのか」などと電話が続いていて、現在も事務で対応に追われているのだ。
職員会議としては、このいじめの件を解明することが最も重要なのだが。
この日の騒ぎで、中心人物たる草賀が、加害者とも被害者ともつかない妙な立場になっ
てしまった。
当事者たちを集団下校させてしまっているので、すぐには話を確かめることもできない。
そちらの親たちと連絡をとって話をするのが、最優先だ。
結局、現状認識を統一確認するだけで、この日の会議は終了した。
昼過ぎには、新聞社やテレビ局などから問い合わせの電話が学校に入ってきた。動画の
件も明るみに出て、話題を呼び始めているようだ。学校としてはまだ当事者から話も聞け
ない状態で、問い合わせに応えようもない。
問題の子どもたちと親と、連絡をつけるべく担任の葛木が電話を試みたが、加害者と目
される四人の家は、日中はどれも繋がらなかった。
職員室で気になって午後からのテレビのワイドショーを流していると、今回の件が全国
ニュースで放映されていた。各テレビ局とも、例の動画は手に入れているようだ。もちろ
んそのまま放映はできず、今観ている番組では、ほとんど雰囲気だけしか伝えないほどに
65
画像も音声もぼかしたものを流していた。「ここは実際には、女子の顔が判別できるほど
鮮明に映っています」「ここは実名が分かるように映っています」と、キャスターが説明
を加える。ただここだけは強調しどころと判断したらしく、最後の方で髪を引っぱられて
泣く女子の声は、ほぼ聞きとれるようになっていた。「ひどい」「聞くに堪えませんね」
と、コメンテーターが口々に目を輝かせて発言する。
画面が変わって、小学校はもちろん、明瞭にはならないようにしながら草賀の家らしい
ところに報道陣と野次馬が集まっているのが続けて映された。
「こちらが、問題の動画で名指しされた児童の家になります」レポーターらしい男の、芝
居がかって沈痛めかした声が聞こえてくる。「もちろん、正確な住所も名前もお伝えでき
ませんが、動画に出ていた名前と表札が一致することは、我々の方で確認できました。そ
の動画を見たらしい人が、こうして遠巻きに集まっています。今のところ中に人がいるの
かどうか不明で、さっきから何の動きもありません」
音声を聞いて、職員室の中で教員が何人も、泥水を飲んだような顔になっていた。
家は全て窓のカーテンも下ろされ、静まっている。変化のなさに飽きたようにスタジオ
にカメラが切り替わった直後、
「あ、問題の家に動きがありました」
レポーターの叫び声が響いた。
切り替わった画面に、大きな家の半地下の車庫から乗用車が出ていく様子が映された。
「母親の運転で、子どもが数人乗っているようです。あ、猛スピードで走り去っていきま
す」
大げさな言い回しで、レポーターが絶叫する。
草賀の家は三人姉妹だったはずで、全員を連れて母親が家を出たということになるのだ
ろう。このままこの家に戻らないということではないか、と職員の間で憶測が交わされた。
やはり朝から今まで電話が通じなかったのは、発信元を見ての居留守だったのだろう。今
後は、学校としてもどう連絡をつけていいか分からなくなったことになる。
草賀と同様に動画に映っていた鹿島、三谷、桜木の身元は、まだマスコミにも知られて
いないはずだ。もう一度電話をかけても繋がらず、教頭と相談して葛木が家を訪ねること
にした。しかし、結果は空振りだった。三件とも、インターホンの呼び出しにも全く反応
がない。
結局、三人の家と電話が繋がったのは夜になってからだった。おそらく父親が帰宅する
のを待っていたのだろう。また、少なくともこの三家庭の間で連絡は取り合ったらしく、
得られた反応はほとんど同じだった。
問題の動画は見た。
うちの娘は草賀さんに脅されてああいうことになっただけで、個人的に小杉さんや葉山
さんに対して悪意はないと言っている。
あの動画が何故公開されているのか、学校側の見解を糺したい。
今日のテレビで見た草賀さんの家のような扱いが、自分たちの方に及ばないように配慮
してもらいたい。
騒ぎが鎮まるまで、子どもは登校させない。
こういったことを一方的に告げ、担任が親御さんや本人と会って話したい、という申し
出は、頑なに拒否された。
「自分たちの権利の主張ばかりじゃないですか」教員の一人が憤慨して叫ぶ。「自分たち
は保身ばかりで、学校からの調査や指導は全て拒絶って、一体学校にどうしろと言うんだ?
66
」
誰も、その問いに応えを持たない。
その間にも、他の在校生の親からの問い合わせや抗議も跡を絶たない。
理由にならない休校は迷惑だ。
いじめ問題を早急に全面解明せよ。落ち着くまでは、子どもを安心して通わせられない。
あの動画は何だ。学校はプライバシーをどう考えている。防止対策を講じろ。
六年一組はもちろん、他の学年やクラスの親からも、同様の電話が殺到している。特に
六年一組については、担任がいちいち電話に出ていられない勢いだ。
どれもこれも、学校側で善処します、調査の上後日皆さんにお伝えします、と答える以
外ない。結局、全職員が夜遅くまで残って応対することになった。
次の日は、一日休校の措置をとることになった。
昼近くになって、大手の薬品会社の専務取締役をしているという草賀の父親の勤務先と
連絡が繋がった。
「娘二人を、転校させます」
電話に出た父親は、一方的に宣言した。
「近日中に代理の者を手続きに行かせるので、よろしく願いたい」
担任からの質問も一切聞かず、自分の側の言い分だけを言い立てて電話を切っていた。
「邪魔立てするようなら法的に戦う用意がある」という意味の言葉を最後に残して。
何も言うことができなかった葛木は「申し訳ありません」と報告するが、力なく首を振
って教頭に応えはない。
午後からは今年一番の暑さの中、葛木は残り三人の家をもう一度回って、面会を求めた。
どの家も全く在宅の気配も見られず、成果はなかった。
「どうしたの、葛木先生」
歩き回って戻った同僚を見て、周りの職員が驚愕の声を上げた。顔が真っ白で生気が見
られないのだ。
「いえ、大丈夫です。ちょっと疲れて」
薄く苦笑いのような表情を浮かべて、葛木は自分の席に向かう。片手で腹を押さえて、
椅子に崩れるように座り込む。誰の目にも、大丈夫には見えない。
「誰か、車を出してやってくれ」
教頭の指示で急ぎ病院に連れていくと、寝不足、疲労、心労による急性胃炎という診断
で、自宅での安静を勧められた。
夜には、父母を招いて現時点での一連の経緯の説明会を開いた。再発防止に全力を尽く
す、と校長が頭を下げる。
不満の声は多々あった。が、かと言って、特に動画の件はあまりに前代未聞で、どう対
処したら満足になるのか、父母の方にも統一の意識の方向性さえない。不名誉な事態であ
ることはまちがいないが、あの流出があったから隠れていたいじめ問題が日の目を見たと
いう好意的な見方さえある。いじめの件はもちろん学校糾弾の対象だが、その動画の件の
立ち位置が不明瞭なために、追求のピントが定まらない印象にもなってしまう。
妙に消化不良を残したまま説明会は終了し、翌日から授業を再開すると告げられた。諸
問題は解決しないままだが、中心になった子どもが登校しない状態で、この先他に障害が
出る恐れは考えられず、休校を続ける理由はないのだ。
翌日、普通通りに学校は再開された。六年一組には手の空いていた教員が代理で行った
が、問題の四人が欠席している以外クラスは落ち着いていると、戻って報告した。親の混
67
乱とは裏腹に、少し早い夏休みのような二日間を過ごした子どもたちは、おおむね元気い
っぱいの様子だ。
その日、草賀の父親の秘書という女性が学校を訪れて転校の手続きをしていった。母子
で、隣県の県庁所在の市へ転居するという。
葛木は欠勤を続けて、夏休み明けに退職した。六年一組の担任はまた、別の学校から転
勤してきた教員が新しく担当した。鹿島、三谷、桜木の三人は九月から登校を始め、クラ
スはほぼ平穏な状態に戻った。
*
玄関を出ると、すっかり明るい青空が広がっていた。式の間に舞うのが見えた粉雪も、
もう地面に跡形もない。きゃあきゃあとはしゃぎ飛び交う歓声に、全くお似合いの好天だ。
外に待っていた両親に手を振って、可奈は駆け寄っていく。
「本当に見違えるなあ」背広姿のお父さんが眩しそうに笑う。「制服を着ると、もうすっ
かり中学生だ」
「そのセリフ、もう今日三回目だよ」
卒業証書の筒を振って、可奈は笑い返す。空いた片手を、珍しいスーツを着たお母さん
の腕に絡める。
「卒業、おめでとう」お母さんがしんみりした口調で言う。「いろいろあったけど、本当
によかったね」
「うん」
肯き返して、本当に、と可奈は考える。いろいろあったけど、最後の半年はまあまあと
いうか、普通に穏やかな小学校生活だった。
まるで、草賀さんと葛木先生がいなくなって、それまでの約一年が全くなかったことに
なってしまったかのように。あの残った三人とはあれ以来ほとんど口を利いていないが、
他のクラスメイトはまるっきり掌を返したように、可奈と希実ちゃんに親しく接してくる
ようになった。残った先生たちも新しい担任の先生も、腫れ物に触るみたいにあの件に触
れようとしない。そんな変化が腹立たしいものに思えなくもなかったが、可奈は事を荒立
てる行動はやめにした。平和になったのなら、それでいい、と考えた。
一番安心したのは、家の中が穏やかに落ち着いたことだ。あの閉じ込められ事件の後、
可奈は詳細を語らなかったが、大まかなところを察してお父さんがいきり立った。可奈が
妙な目に合っているようなら、お父さんは断固学校と戦う、と宣言した。ほとんどためら
いもなく、お母さんもそれに同意した。結局後に続いた騒ぎに紛れてその宣言も意味はな
くなったが、家の中で両親の会話は復活して、良好な状態が続いている。きっと、可奈の
聞いていないところでもかなりの話し合いがあったのだろう。
両親に挟まれて、笑いながら校門を出た。校舎の塀を離れて横断歩道を渡る。そのすぐ
角のコンビニの前に立っていた背広の男の人が、ふっと視線を向けてきて、可奈は足を止
めた。
「葛木先生……?」
「卒業、おめでとう」
一歩前に出て、真剣な表情で葛木先生は頭を下げた。可奈と、お父さんと、お母さんへ。
「どうもいろいろ、申し訳ありませんでした」
「いや……」
68
「もう、お気になさらないでください」
いきなり思いがけない丁寧な応対をされると、大人たちは儀礼的な返事しかできなくな
るようだ。
やや緊張を和らげたように、葛木先生は口の端だけ笑いの形にする。改めて、可奈の顔
を真っ直ぐ見て、
「本当に、ごめんな」
もう一度くり返すと、両親に会釈して足早に過ぎていった。
親子は、少しの間呆然とその背中を見送った。
「どうしても、謝罪しないでいられなかったみたいね」
「あの先生だって、ある意味被害者みたいなものだろうにな」
お母さんとお父さんは、やれやれという顔で言葉を交わす。
周囲には、同じような卒業生の親子連れが弾むような足どりで過ぎていく。
「さ、帰ろ」晴れ晴れと、お母さんが言う。「今夜は可奈の好きな、ちらし寿司だよ」
「わあ」
歓声を上げて、可奈はお母さんの腕に絡め直す。
拾
別に、とっくに終わりにしてよかったのだろう。
それを、先を知りたいと思ったのは。
よく言えば、知的好奇心。
悪く言えば、弥次馬根性?
弥次馬を、出歯亀と言い換えてもいいのかも知れない。
ここまで来て、迷いを覚えて。
しかしやはり、好奇心はもぞもぞと頭をもたげて、いた。
*
*
午前中から続けていた作業に、ようやくけりをつけて。
暑い。
奥の部屋へ駆け込んで、早々に汗まみれのTシャツを脱ぎ捨てた。
またこの季節。今年初めての真夏日が予報されているこの昼過ぎは、おそらく最高気温
を記録している。冷房の効きの悪い作業場は、控えめに見積もっても外の気温に五度プラ
スにはなっているはずだ。
冷蔵庫から出した麦茶を一気飲みしていると、茶の間の車椅子で、父親が笑っていた。
声を出すのも億劫で、それに肩をすくめだれた顔を作って応える。
と、事務スペースから、母親の呼ぶ声がした。
「お客さんだよお」
客の応対は母の役目になっているのだが、名指しの客だろうか。新しいTシャツを頭か
ら被って、灼熱の作業場へ戻った。
69
息子の顔を見て、母は戸惑い半分で声をひそめた。
「昔の教え子さんみたいよ」
戸口で頭を下げる、制服姿。数秒間、誰か分からなかった。
長めの黒髪の下、そこだけ妙に大人びた瞳。それを見て、記憶が繋がる。
「ああ --
」
思い出してもらったことを知って、その瞳がわずかに幼げに緩んだ。
「お久しぶりです、先生」
「お前か」
息子の笑顔を見て、ようやく母親もいつもの世話焼きの表情を取り戻した。
「入ってもらうかい。それともお前、お昼の休憩だろ」
「ああ」肯いて、元の教え子に笑いかけた。「これから昼飯に出るところだったんだ。そ
の辺、ファミレスでもつき合わないか」
「はい」
外はいかにも真夏日の日射しだが、やはり作業場よりは涼しく、弱い風も感じられた。
それでも自然と日陰を辿って、並んで歩き出す。
「あれから --
四年か。高校に入ったのか?」
「はい、お陰様で」
口にした高校名は、地区一番の進学校だ。こいつらしい、と納得して思う。
「葛木先生は、あの後、家業を継いでらしたんですね」
「ああ」応えて、苦笑いを浮かべる。「こんな時の返しの常套になるが、もう先生じゃな
いぞ、俺は」
「でも、他に呼びようが思いつきませんから」
「それもそうか。仕方ないな」
商店街を抜けると、途端に日陰が少なくなる。強い日射しを直接浴びて、目の上に掌を
かざした。一つ先の交差点の角に、馴染みのファミリーレストランの青い看板が見えてき
ている。
隣の連れは、日射しも気にならないらしい涼しい表情だ。
「正直、訪ねてくる教え子がお前とは思わなかったよ。担任したのは三ヶ月くらいだし」
言葉を選びながら、話しかける。「どうしたって、あの事件のことを思い出して話題にせ
ざるを得ない」
「そうですね」前を向いたまま、無表情な肯きが返る。「ご想像の通り、あの件でお話し
したくて来ました」
「だろうな」
他に考えられない。今さら、こんな隠遁した元教師を訪ねてくる用件など。
店内に入ると、ようやく冷房の効いた空気に包まれて、生き返った心地になった。土曜
の二時近く、ランチタイムの混雑が過ぎた辺りのようで、空席はいくつかできていた。
「せっかく訪ねてきてくれた教え子だ、こんなところで申し訳ないが、何でもごちそうす
るぞ」
「昼食は済ませましたから」首を振って、やや遅れて笑いを浮かべる。「でもせっかくだ
から、パフェでもごちそうになっていいですか」
「おう」
元担任の面子を少しは尊重した選択のようだ。こいつも相応に大人びてきているらしい、
と当然のような感傷を覚えながら、葛木は時間切れ間近のランチセットを注文した。
70
「で、何の話だい?
あの件でとは」
「今さら、と思ってずいぶん迷ったんですが」あまり似つかわしくないためらいの顔で、
頭をかく。「どうしても、疑問を解消したいというか、確かめたいというか、好奇心みた
いなのが勝ってきまして」
「ほう」
「まあ、きっかけなんですが、あの小杉さんと同じ高校になりました」
「なるほど」
小杉可奈と進学校。これも、イメージとして違和感はない。
「クラスは違うんですが、同じ図書委員で同じ日の当番になって、自然と会話する機会が
増えまして」
「図書委員か」葛木は肯いた。「小杉も久堅も、似合っている印象だな」
「まあ、本は好きですからね」少年は、頭をかく手を下ろした。「小杉さんとはまあ、中
学も同じだったんですが、三年間クラスも違って、特に話す機会もありませんでした。も
し話したとしたらどうしてもあの時の話題が出るでしょうし、お互いにとってあまり愉快
なものではないですから、もしかすると無意識に避けていたということもあるのかも知れ
ませんね」
「肯けるな」
注文の品が届いて、葛木は早速和風ハンバーグに箸を入れた。向かいで、久堅が妙に幼
い表情になってチョコレートパフェに長いスプーンを刺している。
一口アイスクリームを嘗めて、笑顔を見せる。こんな表情もできるようになったんだ、
と葛木はわずかに安心を覚えた。あの当時の久堅は、小学生とは思えない大人びた表情を
ほとんど崩そうとしなかった。置かれた状況を思えば、無理もないことだが。
「でも、ですね」アイスを嘗めながら、少年は続けた。「今年になって小杉さんと再会み
たいなことになって、自然とあの時の話題になって、思ったよりこだわりなく話せること
が分かりました。まあもしかすると、この二人の間限定ということなのかも知れませんね。
特に、小杉さんにとってあの話題をこだわりなく話せる相手なんていないはずで、ぎりぎ
り辛うじて僕がそれに引っかかる程度なんじゃないかと」
「言ってみれば、二人とも数少ない完全に純粋な被害者だからな、あの件では」
葛木は肯いた。
久堅が、ふと言葉を切っていた。
箸を置いて、葛木はふっと溜息をついた。
「本当はもっと早くお前にも謝らなければならなかったんだろうがな。謝りようもなくて、
そのままにしていた。済まない」
「いえ --
」笑いを消して、久堅は呟いた。「こうして話につき合っていただければ、十
分です」
「そう言ってくれると、助かる」
「でも、やっぱり先生も、あの時の僕の状況は分かってらしたんですね」
「クラスでハジキ扱いをされている点はな。気がついていて、しかし実際には何の対処も
下せないでいた。申し訳ない。言い訳をさせてもらえば、他に優先すべきことがたくさん
あった」
「分かりますよ」少年は口元に笑いを戻した。「僕がもし先生の立場だったとしても、久
堅問題は優先順位的にずっと下です。他にやるべきことはいくらでもあるし、こちらに緊
急性はない。第一、本人が全く問題性を露わにしていない。それよりも、小杉さんや葉山
71
さんの問題の方が遙かに緊急性がある」
「そういうことだな」
「それでも、当時先生に不満を覚えなかったと言うと嘘になります」
「だろうな」
「でもですね、何故なのかな、他の前後の担任の先生や、学校の他の先生と比べると、葛
木先生への不満は、少ないんですよ。どう言うのかな、他の人は全く気づいてもいないけ
ど、先生は少なくとも気づいてだけはくれていたというか」
「無茶苦茶低いレベルでの評価争いだな」
「そうですね」久堅も苦笑した。「そう --
ああ、そういうこと、かも --
」
「どうした?」
「いえ」首を振って応える。「話していて、少し自分の感情に整理がついたというか。い
や、まだまだなんですが」
「どういうことだろう」
「先生はところで」わずかに、久堅は口調を改めた。「あの時、先生が辞められてからの
後のこと、どうなったかお聞きになってますか」
「申し訳ないが、ほとんどさっぱりだな。九月から新しい担任が来て、一組も見た目上は
落ち着いて、卒業まで大きな問題はなかったということか」
「そういうことになりますね、表面上」小さく、肯く。「最近になって、小杉さんと話す
ようになって、実は意外とその九月以降のことの方が話題になるんですよ。二人の一致し
た意見としては、世の中ってこんなものかっていうような。変な意味、達観してしまった
というか」
「どういうことだ」
「新しい担任、酒井先生って、少し年配の女の先生でしたが。九月最初に教室に来た時の
第一声、もちろん先生はご存じありませんよね」
「そうだな」
「その日から例の三人、鹿島さん、三谷さん、桜木さん、ですね、彼女らも学校に出てき
て、草賀さん以外全員が元通り揃ったわけです。そこで酒井先生が新しく担任になる挨拶
をした後の第一声です。『これまでこのクラスはいろいろあったと聞いていますが、喧嘩
両成敗という言葉もあります、誰が悪いでもなく過ぎたことは忘れて、未来を見て進んで
いってもらいたいと思います』と」
「 ---
」
「あまりに素晴らしいお言葉だったので、一字一句そのまま記憶してしまいました」久堅
は、薄く笑った。「先生たちの認識の上で、小杉さんや僕は、両成敗される位置づけだっ
たのかと。いや酒井先生の頭に久堅は入っていなかったかも知れませんが、小杉さんと葉
山さんは、でもいい。彼女らとあの加害者と目される人たちと、同等の責任を負うと判断
されているのかと」
次の担任への引き継ぎの文書に、葛木は久堅の件も書いた記憶があった。しかしそれは
今言い出すべきではないだろう。
「ちなみに、後で小杉さんに聞いたところでは、あの三人からも、学校側からも、その他
からも、いじめの件について特別謝罪のようなものは一切なかったということです。それ
を承知で酒井先生はその後、あの三人をクラスに溶け込ませることに必死に努力したんで
すよ」
顔をしかめて、葛木は頭をかいた。
72
73
「今考えれば、酒井先生の判断も一面無理はないとも思えるんですけどね。草賀さんがい
なくなってあの三人が復帰するまでの数日間で、驚くくらいにクラスの状況は変わってい
ました。特に女子の間では、それまでの贖罪とか、反動とかの気持ちがあったんでしょう
かね、あっという間に小杉さんの人気が高まっていました。だからあの三人が復帰した時、
下手をすると逆にいじめの矛先が彼女らに向く可能性だってあったと思います。おそらく
小杉さんがタイミングよくそういう意向を示せば、クラス全体がそちらに流れることは確
実にあったでしょう。もし小杉さんが望めば、ということですけど。だから、担任として
はそれを未然に防ぐ必要がある」
「あり --
得るだろうな」
「しかしさすがに、当時は僕もそこまで考えられませんからね。真剣に悩みましたよ。僕
の感覚はまちがっているのか。彼女たち三人は誰にも謝る必要はなく、何も悪いことをし
た覚えのない僕たちは一緒に責任を負わなければならないのか」
「それで --
」
「かなりしばらく悩んで、無理矢理結論をつけました。自分の感覚を信じようと。程度は
どうかは分かりませんが、小杉さんも同じように悩んで同じように結論づけたということ
です。だから、今になって少し笑い話風にできるんですけどね。当時の僕たちがそこで学
んだのは、学校の先生を盲信することはできないという、まあ大人にとっては当たり前に
過ぎないかも知れない真理なんです」
「耳が痛いな」
「小杉さんはきっと、僕よりも悩みが深かったと思いますよ。何しろ、それからしばらく
後のことですけれどね、あの三人がなかなかクラスに溶け込めないでいるのを見た先生に、
小杉さん、あなたがもっと心を広く持って欲しい、というようなことを言われたらしいで
す。本気で、自分が悪いのか、と悩んだそうですよ」
「 ---
」
「それと」少し言葉を切った後、久堅は口調を変えた。「これは葛木先生もご存じだと思
うんですけど、あの臨時休校になった二日間に、父母からずいぶん抗議があったそうです
ね。いじめの実態を解明しろ、と。特に六年一組の父母からが多かったと」
「そうだったな」
「先生も気づいてらしたと思いますけど、正確なところを断言しますよ。草賀さんが君臨
していた時期、小杉さんへの積極的な無視行動に参加していたのは、女子の全員、男子の
ほぼ六割。クラス三十八人のうち、少なくとも三十人にはなると思います。草賀さん得意
の怪文書回覧に荷担したのは、僕を除く全員です。文書が読めない者は多数いたでしょう
が、その内容が小杉さんの悪口であることを知らない人はいなかったはずです。まあ僕が
荷担しなかったのは僕自身を無視する周りの行動の結果で、もしそれがなくて文書が回っ
てきたら嫌々でも協力してたかも知れませんけど」
「いや、それでもお前はしないな」葛木はわずかに苦笑した。「そんな周りに合わせる協
調性は持っていない。というか、今の時代に珍しいくらい自分の判断で行動する性格だ」
「かも知れません」久堅もかすかに笑った。「まあとにかく、そういう実態でした」
「つまり、そんな自分の子どももいじめ行為に荷担しているという実態を、親たちは想像
もしていなかったということだな。子どもたちも、親に話さない。もしかすると、自分が
そんな荷担をしていた自覚さえないのもいたかも知れない」
「九月以降のクラスのみんなを見ていると、そんな意見さえ信じたくなりましたよ。みん
な、全くこだわりなく小杉さんや葉山さんと接している。全員揃って、当時の記憶をなく
しているんじゃないのかと思ったくらいです」
「これも言い訳に聞こえるがな」葛木は吐き捨てるように言った。「あの抗議の電話が殺
到した時、クラスの実態を話してしまいたい誘惑には駆られたが、それが得策でないこと
は明らかだった」
「当然、でしょうね」
微笑して、久堅はパフェを一さじ口に運んだ。続いて、コップの水を一口。
「ところで、勝手な話を長々してきましたが」少し寂しそうな、笑いを浮かべた。「済み
ません。ここまで、まだ前置きなんです」
「何?」
「先生にとって楽しい記憶でないことは重々承知していますが、もう少しつき合っていた
だけますか。さっきおっしゃってた、僕に少しでも引け目があるという気が本当なら、ど
うか」
葛木は静かに溜息をついた。
「断れないな、そう言われると」
「いくつか、疑問を晴らしたいことがあるんです。ずっと考えてきて、自分で勝手に解釈
を下して、このままにしておこうかと思った部分もかなりあるんですが。最近小杉さんと
話して、いくつか当時知らなかった情報も得て、疑問点というか、増えてしまったもので。
この際すっきり解消したいなと」
「俺が相手で、解消することなのか」
「たぶん」
真剣な教え子の目を、しばらく葛木は見返した。
「言ってみてくれ」
言ってから、パフェの容器が空になっていることに気づく。自分の方も、ハンバーグデ
ィッシュは一通り片付いている。
「いやその前に、何か飲み物でも頼まないか」
「あ、じゃあ、アイスコーヒーを」
注文して、久堅は小さく息をついた。
「何から、にしましょうか」半分独り言のように。「ああ、小杉さんから聞いた、今まで
全く知らなかった情報なんですけどね」
「うん」
「あの当時、小六の五月から七月にかけて、彼女、差出人不明のメールを受けとっていた
と言うんです。一~二週間に一度という頻度で。その時小杉さんはあの、いじめ行為を受
けている最中だったわけですが、メールの内容はそれを慰め励ますものだったようです。
それも、その日学校で起きたことについて当日の夜のメールで触れている。だから、差出
人は同じクラスの誰かと考えるのが自然ですね」
「そういうことになりそうだな」
「ところが、小杉さんがメールアドレスを教えた相手は、五年の時の担任の志田先生と、
葉山さんだけ。志田先生はもちろん転勤していなくなっていますし、葉山さんは携帯もP
Cも持っていない。事実、後になって訊いてみても、葉山さんは知らなかったそうです。
これ、どう思いますか」
「どうって。他のクラスメイトと考えるしかないんじゃないか。謙光小では五年の時にパ
ソコンとメールについて授業で扱っている。小杉以外にも、パソコンでメールを使うのは
いただろう」
74
75
「いないんです」
「何故、分かる?」
「あの年、修学旅行の前に僕ら、調べたんです。永都がレクリエーションの係になってい
て、僕もその手伝いで。事前にいろいろアンケートを採ったんですが、その中に、パソコ
ンでメールを使える人、というのがあって、正確には小杉さんと僕の二人だけだったんで
す。広げて、ワープロを使う人、ということになると、草賀さんを入れて三人」
「ほう」
「僕自身はそのメールに心当たりはありませんから、そのアンケートの回答を信じる限り、
事実上クラスに該当者はいないことになります」
「そういうことになるな。しかしメールの内容は、クラスの中の人じゃないと絶対分から
ないことになっているのか」
「そのようです」
「すると、あとは幽霊しかいないということになるな、該当者は」
「そうでもないと思います」
「何だ?」
「一つお訊きしたいんですが」久堅はやや複雑な苦笑を浮かべた。「今のやりとりで先生
は、問題のメールをパソコンのものという前提で考えてらっしゃいましたよね。何故です
か」
「何故って?
そうじゃないのか?」
「普通、というか十代の少年少女を相手にしている仕事の人ならなおさら、メールと聞く
と、携帯メールを先に連想しませんか?」
「え?
しかし、話の中でパソコンメールと言ってなかったか?」
「言ってません。小杉さんがメールを受けとっていた、としか。葉山さんが携帯もPCも
持っていない、とは言いましたが、パソコンでメールと初めに言い出したのは、先生の方
です」
「お前 --
もしかして最初からその言い方、意識してたのか?」
「はい」
「 --
じゃあ、俺の勘違いか」
「実際、小杉さんが受けとっていたのもパソコン、それから差出人は名前は分かりません
が、メールアドレスは有名なプロバイダのものでしたから、そっちもまちがいなくパソコ
ンですね」
「そうか」
「でも」久堅が生真面目な目で見返してきた。「それでも何故、先生は初めからパソコン
だと思ったんですか」
「分からない、が」
「以前からこのことを知ってらしたからじゃないですか。小杉さんがパソコンでメールを
受けとっていることを」
「………」
「クラスメイト以外で、クラスの出来事を知っている人がいます」
「………」
「もちろん、担任の先生です。前の担任の先生からの引き継ぎに、小杉さんのメールアド
レスが載っていても不思議はありませんね」
「……そうだな」
軽く、葛木は両手を持ち上げた。降参。
「目的は、小杉さんがいじめにくじけないように励ますため、ですね」
「そうだ」
苦笑いで、葛木は肯いた。
「何とも厄介な教え子を持ってしまったな」天井を仰いで、溜息をつく。「久堅、頼みが
ある」
「何でしょう」
「このこと、小杉には秘密にしてくれないか。彼女の夢を壊したくない。まだ将来に向け
て、幻のクラスメイトがいたと思っている方がいい」
「分かりました」真面目な顔で、久堅は肯いた。「お陰で、僕は一番の疑問が納得できて、
満足です」
「これが一番なのか?」
「はい」
「あの事件についてだったら、もっと気になる疑問があるだろうに」
「ええ。でも、たいがいは無理矢理納得をつけてしまったので。問題は、僕の頭の働きが
どうなっているやらの部分で」
「何だ?」
「でも、せっかく先生が相手ですから、聞いていただけますか。僕の頭のおかしさを」
「どういうことだ」
少し考えて、久堅は思い出し笑いのような顔になっていた。
「実は、あの当時僕が真っ先に思った疑問はですね」
「うん」
「あの動画の盗撮、流出の犯人ですが、何故みんなは葛木先生だと疑わないんだろう、と
いうことなんです」
数秒、葛木は絶句した。
「何、だって?」
「何故みんなは葛木先生が犯人だと疑わないんだろう、と」
律儀に、久堅はくり返した。
「そりゃ、お前」早口に応えていた。「あの件では俺は、草賀親子に次ぐくらいの被害者
だぞ。あのお陰で、職も失った」
「はい。でも、あの結果でいじめを治めることができた。これは、先生の希望するところ
ですよね」
「その目的のために、あそこまでやる必要はない」慌てて考えを巡らせて、当時の考察を
思い出した。「そう、もし仮に盗撮までを俺がやったとしても、一般公開する必要はない
んだ。もしあの動画を秘密のうちに手に入れたとしたら、教師の立場としては、いじめを
治める指導での活用を考える。せいぜい他に知られる前に親たちにだけ見せて、指導の協
力を請うというところだ、使い道は」
「そうなんでしょうね。それが正解なんでしょう」
「分かったか?」
苦笑半分の教え子の顔を覗く。
「先生ですから、羞ずかしいことを打ち明けますけどね。今おっしゃられたようなことを
僕が理解するのに、三年かかりました」
「何 --
?」
76
「小六の当時はですね、ずっと不思議でしょうがなかったんです。盗撮の機会を一番持っ
ているのは葛木先生だ。何故誰も先生を疑わないんだろう。先生を誰も疑わないことに、
何故みんな納得しているんだろう、と。もちろん四六時中考えていたわけじゃありません
が、折に触れて思い出しては疑問に思って、それで三年。今先生がおっしゃったような、
教師ならこうする、という点に思い至ったのが去年です」
「なんと、まあ --
」
気が長い、と言うべきか。葛木は言葉に詰まった。
「まあ、たいていの人の考えは最初の点、先生は被害者である、ということですよね、疑
わない理由は」
「まあ、そうだろうな」
「そこまで納得して、ですね。今度は別のことが疑問になりました。何故僕は当時、葛木
先生を疑ったんだろう」
「何?」
「みんなが納得しているのに、何故僕だけ納得していなかったんだろう」
「そりゃあ --
」
小学生だから、と言いかけて、葛木はまた言葉を切った。相手が小学生らしからぬ小学
生だったことは、自分が一番よく知っている。
「小学生だから、という理由ではない気がします。他の小学生、つまりクラスメイトたち
も疑問を持たず納得している。この間小杉さんに確かめてみても、葛木先生は被害者だか
ら、という答えがすぐに返ってきました。威張るように聞こえたら申し訳ありませんが、
あの当時の僕は、大人ぶった判断ができるという点では絶対他のクラスメイトに負けてい
なかったと思います。では、何故?」
「 --
分からん、な」
「分かりません。とりあえず想像がつくのは、当時の僕に、何か葛木先生を疑う理由があ
ったのではないだろうか、ということです。何か直感的な、説明がつかないことであった
としても。しかしこうなると、記憶を辿ってもなかなか思い当たるものはありません」
「何だ、そりゃ」
「冷静に、理性的に考えれば、まちがいないですよね。先生が教師である限り、あんなこ
とはしない。もし近いところまでしたとしても、別の方法を選択する」
「……そうだ」
「教師らしい教師である限り、絶対先生はあの犯人じゃない、と」
「何かしつこいな。しかし、確かにそうだ」
「まあそれで、納得しました。それでその、教師らしい、という言葉を考えていて、ちょ
っと話が逸れますが、別に思い出すことがありました」
「何だ?」
「教師らしい、という観点で評価するのは誰が相応しいということになっているか僕は知
りませんが、一つ言えることがあります。少なくとも生徒という人種は、教師らしい教師
を見抜くという点ではプロです。何しろ小六の時点で六年、義務教育全体では九年、生活
時間の大半を教師との丁々発止の中で生き抜いてきているわけで」
「何だか大げさだな」
「そういうプロの立場で、当時僕は、葛木先生が教師らしいという感想を持った記憶があ
ります。それが何か、必死に思い出してみたんですが」
「何なんだ」
77
「授業が、信用がおけたんです」
「な?」
「説明すれば分かっていただけると思うんですが。学校の先生の授業って、必ずしもいつ
も自信に溢れて確信を持って教えているとは限りませんね。特に小学校の先生は一人で全
教科を教えるわけですが、その辺得意不得意があるらしくて、時によって自信のなさが覗
く場合があります。例えば、悪い例に挙げて申し訳ないんですが、五年の担任の志田先生
は、どうも算数は苦手の方だったらしくて、他の教科は自信に溢れているのに算数だけ説
明の口調が弱い感じがありました。小数の割り算の位取りを教えるのにも理由を説明しな
いで、こうだからこうなるの質問は却下、みたいな調子に聞こえて」
思わず、葛木は苦笑いになっていた。
「こんなことを、生徒は直感で感じることがあります」
「それ、お前だけかも知れないぞ」
「どうか分かりませんけどね。中学だったらもっと専門の先生だからそういうこともない
だろうと思っていたら、意外とあるんですよね、時々。それはともかく、葛木先生にはほ
とんどそういうことを感じなかったんですよ。特に算数と理科の説明が、自信に溢れてい
る」
「それは、どうも。まあ、大学では理科の方が専門だったからな」
「そうなんでしょうね」久堅は笑った。「そんな風に、僕は葛木先生を基本教師らしいと
考えていた記憶があるんですよね」
そこまでで言葉を切って、やや考え込む表情になる。視線をテーブルに落とさないまま、
氷の溶け始めたコップを手で探る。
「済みません、話が変わりますが」アイスコーヒーを一口飲んで、久堅が続けた。「小杉
さんと葉山さんが倉庫に閉じ込められた事件」
「おう」
「結局、閉じ込めた実行犯が誰かは分かっていないんですね?」
「ああ。俺が関与している間は、例の三人じゃないかと推測だけはされていたが。九月以
降も結局続きの調査は進まなかったみたいだな」
「そのまままるでなかったことのようにされたみたいで、僕ら辺りにはほとんど噂程度に
しか話は入ってこなかったものですが。これも、最近になって小杉さんに詳しい話を聞き
ました」
「ほう」
「その事件が起きた当時は、彼女も先生たちに正直に話さなかった部分があるということ
で。実際には、当時草賀さん一派が使っていた暗号の手紙でみんな体育館裏に呼び出され
て、ああいう結果になったんだそうですね。最初にあの三人と葉山さんがあそこへ行って、
葉山さんが三人に倉庫に閉じ込められた。小杉さんが後から気づいてそこへ行って、倉庫
に気づいて開けたところでまた閉じ込められた、という順だと」
「ほおー」
「結局みんな草賀さんに呼び出された、しかしその意図はその後草賀さんに会えないから
分からない、ということになっていますが」一息置いて、久堅は軽く首を傾げた。「僕は、
その呼び出し、草賀さんではない気がします」
「ほう、何故だ」
「草賀さんだとしたら、指示が具体的にないのがまずおかしいと思うんですが、それ以上
に、本人がそこに現れなかったのが最も納得いかないんですね。もし小杉さんたちを倉庫
78
に閉じ込めるのが草賀さんの意図するところだとしたら、絶対彼女はそこに現れます。閉
じ込める行為自体は三人に任せるとしても、閉じ込められて驚いたり泣いたりする顔は絶
対自分の目で見なければ満足しない、草賀さんはそういう性格ですよ」
「なるほどな」
「しかしそうなると、暗号の手紙は誰が書いたのか、という問題になるんですが。先生は、
彼女らが回していた暗号、見たことがありますか?」
わずかに考えて、葛木は応えた。
「担任には見せないように細心の注意を払っていたはずだから、見た訳ないだろう、と言
いたいところだが、実はある。放課後の机の中に一枚入っていた紙が妙な文面だったんで
考えてみたんだがな。七二七二で文字を拾っていくんだったな、確か」
「それは、いつ頃ですか」
「結構遅い --
あの事件の直前くらいじゃないかな」
目を細くして、教え子の顔を真っ直ぐ見返す。少年は上目遣いで、相手の表情を窺うよ
うに。
「あの、写生会よりは後になってからだ」
「そうですか」
わずかに、久堅は苦笑いのような顔になった。
「お前また、引っかけようとしていないか?」
「いえいえ、別に」
「あの、修学旅行の写真の添え文がその暗号だってのは、掲示中は気づいてなかったぞ、
俺は。その後で気づいて、まだ捨ててなかった掲示物を広げて知ったんだ」
久堅はもっとはっきり苦笑いになった。
「もし仮にそうだったとしても、僕は先生を責められませんよ。僕は掲示中から気づいて
いました。ひと月弱の掲示で、最初のうちは仲間内しか分からないようにしていたのが、
最後の頃は少なくとも女子のほとんどには読み方が伝わっていたようで、あれを見てくす
くす笑っているのがいました。暗号の中身は、小杉さんの悪口でしたね。僕は最初の頃に
気づいて、でも何も言わなかった。ほとんど関心を持つ気がなかったんです」
「よくそんな早い時期に、自力で気がついたものだな」
「ナニナニ団という名前から、露骨でしょう」
口を尖らせて、久堅は横に目を流した。元教師の目に、わずかに子どもっぽさが浮き出
て見える。
「あの当時は僕も感覚が麻痺していたというか、気にしないようにしていたせいであまり
感じなかったんですけどね。後から思い起こして、あの掲示の件は草賀さんの行為の中で
も最上級の悪質さですよ。そう思いませんか?
小杉さんも掲示の途中で自力であれを解
読していたようです。つまり彼女は、日常生活の場の教室で、露骨に自分の悪口が掲示さ
れている前で、何週間も過ごしていたんです。三十七人のクラスメイトが普通に楽しそう
に過ごしていて、その中の誰がその悪口に気づいているのかいないのか曖昧でわけが分か
らないままに、ですよ。小杉さんはずっとあのいじめの実態を先生や外の人に言う気はな
かったようですが、もし言ったとしてもあの掲示は、そんなつもりはない悪口が読めるの
は偶然だ、と言い抜けられてしまう。草賀さんの行為はほとんどがそんな風に、実態を見
せないようにしながらいかに効果を高めるか、ゲーム感覚みたいになっていますが、その
中でも最上級に悪質です、小杉さんの心情を考えると」
「なるほど、な」
79
珍しく冷静さを薄めて熱に浮かされたような口調になっている教え子の横顔を見ながら、
葛木は呟いた。ちらと視線を戻して、久堅は小さく咳をした。
「話が逸れました。とにかくその暗号、そういった掲示や教室の中での回覧文書に使われ
ていました。回覧については、その掲示が終わってから、加速度的に増えていきましたね」
「そうか」
ふと小さく溜息をついて、久堅は苦笑の顔に戻った。
「それであの、閉じ込め事件の話に戻りますが」くいと、少年は顔を覗いてきた。「その
日使われた暗号は、実はそれまで教室内で回覧していたものより難解さを増したものだっ
たということです」
「そうなのか」
「その数日前に草賀さんが考案したらしくて、たぶんほんの数人、仲間内にしかその存在
も読み方も知られてなかったはず、と。数日前に放課後のグループ活動の場で見せられて、
読めるかと挑戦されたように思って小杉さんが解読してみて、解読法を見つけるのに一時
間以上かかったらしいです」
「小杉で、一時間、か」
「他のクラスメイトなら、一晩かかっても無理かも知れませんね」
「お前を除いて、だろう?」
「僕も、自信はないですよ。詳細は分からないんですが、何も手がかりなしでは難しいら
しい。それまでの経緯やグループ内での会話などがどうにか手がかりになってようやく見
当がついた、ということです」
「そんな暗号が、当日の呼び出しに使われた、というんだな」
「ええ。だから、小杉さんたちは手紙の主は草賀さんだと信じて疑わなかった、と」
「しかしお前は、それでも草賀ではないと考える訳か」
「はい」
「あり得るのか、草賀以外でその暗号文を作るというのは」
「一応容疑者となるのは、草賀さん以外のグループ員五人ですね。この中で被害者二人の
自演はなさそうです。残り三人の共謀、あるいは誰か一人の抜け駆け、どちらも可能性は
ありますが、どうでしょうね。小杉さんの話を聞いただけで細かいシチュエーションが分
からないので、何とも言えないんですが。何となく、この三人の誰かの思いつきだとした
ら、わざわざ難解な暗号文を作る理由はない気がしませんか。葉山さんや小杉さんをあの
場所に連れていくのが目的として、他にいくらでも方法はある」
ちら、とまた久堅は相手に向けて視線を上げた。
「そもそも、誰がやったにせよ、その一番難解な暗号文を使った目的は何でしょう」
「 --
分からんな」
「結果的に見えるのは、その通信が他の人に分からないことと、当事者たちに発信者が草
賀さんだと疑いなく信じさせること、ですね」
「それは --
そうだな」
「本当に草賀さんが発信者なら、まちがいなく自分から出た指示だと。草賀さん以外なら、
書いたのが草賀さんだと騙して信じ込ませること。このどちらにも、最新で最難解な暗号
が最適です」
「それで、話は戻るが、草賀以外で可能なのか?
その暗号の存在自体を知っていて、さ
らにあのグループ内の会話をある程度聞いているというのが条件なんだろう。それじゃグ
ループのメンバー以外考えられない」
80
「他に、あり得ます」
「誰だ」
「盗撮の犯人、です」
即座に応えがあり、葛木はその返答に詰まった。
「これも小杉さんの話では、あの公開された動画の撮影日は、どうも閉じ込め事件の前日
が怪しいようですね。動画には、小杉さんは映っていないですよね。その日は用事があっ
て、小杉さんは居残りにつき合わなかったということですから。そのまた前日は小杉さん
は最後までつき合っていて、さっきの新しい暗号を初めて見たということです。さらにま
た前日は小杉さんは途中で帰って、どうもその後で仲間内に新しい暗号のお披露目があっ
たらしい。盗撮の犯人がビデオカメラを仕掛けた当日にちょうど偶然あの見事な映像が撮
影されたとは考えにくいですから、少なくとも二三日前からカメラは仕掛けられていたん
じゃないか。そうすると、この暗号のお披露目の過程を犯人は見ることができたという可
能性は高いと思います」
「なるほど --
な」
「盗撮犯とこちらの暗号の発信者が同一人物なら、動機も明らかですね。いじめ行為を広
く知らせることでしょう。もちろんこの体育館裏への呼び出しだけで、それが上手くいく
という確信はなかったと思います。人気のない場所と錠の外れた倉庫という餌をぶら下げ
て、食いついてくれれば儲けものという感覚じゃなかったのかと。上手くいけば先生たち
や父母まで巻き込んだ大騒ぎでいじめの事実を広く知らせることができる。一方で上手く
いかなかったとしても、別に犯人に損は全くない。用意するものに手間はかかっています
が、行為自体はその程度ですよね。その後の動画の公開にしても、考えてみればことが前
代未聞過ぎて、その結果がどの程度の騒ぎになるか、犯人に予想はつかなかったはずです。
その点でこの二つの事件、似通っていると思いませんか」
「うーん」
「この考え、同意していただけますか?」
「かなり説得力があることは、認めるしかないな」
「それでは一応、この二つが同一人物によるものという仮定で話を進めさせていただきま
す。すると、犯人の条件はかなり絞られると思うんです」
「………」
「第一に、教室にビデオカメラを仕掛け、回収する機会を持っていた人。暗号の手紙を当
日の午後、対象の四人の机に入れることができた人。次からはやや条件とするには曖昧さ
もありますが一応挙げると、倉庫の錠を事前に外すことができた、あるいは当日外れてい
ることを確信できた人。さらにあの暗号文はビデオでちらりと見たり言葉で説明を聞いた
りした程度で理解できるものじゃありませんし、ワープロや紙質の見た目も揃える必要が
あったはずだからおそらく、暗号文の現物サンプルを手に入れることができる人。他にも
あると思いますが、大きなところはこれくらいでしょうか」
「………」
「どうでしょう?」
「……言いたいことは、分かってきた気がするが」
「ええ」相手と目を合わさずに、少年は肯いた。「どう見ても、最有力容疑者は、担任の
先生なんです。と言うより、今の条件を認める限り、他にあり得ないと言いきってもよさ
そうなほどです」
「参ったな」葛木は、頭をかいた。「犯人は教師ではあり得ないと、さっき話したはずな
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んだが」
「ええ。それでさっきの話の続きに戻るんです。僕は何故当時、葛木先生を疑ったんだっ
たか。授業の中では、僕は先生をかなり教師らしいと感じていました。それなのに、別の
場面の何処かで教師らしくないと直感的に思ったことがあった」
「おい、さっき煽てておいて今度は落とすのか?」
「それが何だったかまた必死に記憶の中に求めて、ようやく思い出しました、こないだ」
「何だ?」
「あぶり出しです」
「何?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。何のことか、にわかには思い当たらない。
「覚えていませんか?
あの、葉山さんの絵が汚れていた事件」
「ああ --
」
思い出し、た。
「あの時、何故先生はあれで話を収めてしまったんでしょう」
「どういうこと、だ?」
はあ、と小さく溜息をついて。それから久堅は一気に言葉を連ねた。
「正確には、あぶり出しを言い出したのは、草賀さんでした。前の日に絵に牛乳がかかっ
たところが日に当たってあぶり出しになったんじゃないかと。しかし、あぶり出しという
のは紙が焦げる直前まで火にあぶられて先に焦げるものが発色するわけで、あの程度日光
に当たったくらいで起こる現象ではありません。理科が専門の先生がそれを知らなかった
はずはありません。では何故あの時、草賀さんの発言を否定しなかったのか。日常のつま
らない程度の知識だったら、まちがっていようが放っておいてもいいかもしれません。し
かしことは、授業でも扱うことのある小学生にとって結構興味を引かれる知識で、まちが
ったまま覚えさせていいものではない。いわゆる教師らしい教師なら、絶対あそこでまち
がいを正すはずなんです」
言葉を切って、久堅が真っ直ぐ目を覗き込んできた。
「何故、正さなかったんでしょう」
真っ直ぐ見返して、葛木は応えなかった。
「今思えば、あの時の草賀さんが葉山さんの絵に悪意のある悪戯を仕掛けていたのは明ら
かです。あぶり出しということを言い出したのも、実際の悪戯の仕掛けを隠すためでしょ
う。先生はそれを感じとっていたはずです。あの頃の先生の立場は草賀さんを過剰に刺激
しないという感じだったのだと思いますが、あそこでまちがいを正すことは過剰な刺激に
はなりません。むしろ、密かに先生は気づいているよという程度のメッセージを伝えるこ
とになって、その後の彼女らの行動の牽制をするいい機会でさえあったはずです。先生が
気づいていないはずがない。教科指導的にも訂正しないことはおかしい。生活指導的にも
訂正を伝えることが望ましい。どの方向から考えても、教師としてあそこで訂正しないは
ずはない。僕の解釈はまちがっていますか?」
その問いにも、葛木は応えない。
「何故、正さなかったんでしょう?」
返事を待たず、久堅は深く息をついた。
「解釈は、一つしかありません。あの時の先生は、教師ではなかった」
ふっと葛木は小さく笑った。
「面白いことを言う」じろ、ときつい視線が直視する。「俺は、正式な教師だったよ。教
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員免許は今でも持っている。あの時点では正式な公務員で、謙光小へ赴任する辞令ももら
っている」
「そういう点を問題にしているのではないことは分かっているんでしょう?」久堅は疲れ
たように視線を落とした。「あそこで草賀さんの行動を牽制しなかった結果、どうなった
でしょう。小杉さんと葉山さんへのいじめ行為はますますエスカレートしていった。考え
られる結果はこれだけですね。さっきの話と考え合わせると、当時の先生は、一方で草賀
さんの行為のエスカレートを煽って、一方で小杉さんがくじけないように励ましていた、
というわけです」
「それは、言い切りが過ぎるんじゃないか」
「公正のために、今の僕の立場を明確にしますと」久堅は、元担任の目を見ず言った。「先
生が教師である限りあの盗撮、流出という行為はあり得ないと納得していますが、先生が
教師ではなかったという直感を思い出して、先の仮定はその限りではないと考えています」
「侮辱するな、と怒っていいか?」
「もう少し聞いていただければ、と」
久堅は、肩をすくめた。
「どういう話をだ?」
「草賀さんの行為を煽って、一方で小杉さんを励ましていた、その結果どうなったか。起
きた事実だけを辿ると、まず、なかなか本音を表さなかった草賀さんが、仲間内にせよ苛
立っていじめ行為を指示する発言をして、それを盗撮された。小杉さんと葉山さんが倉庫
に閉じ込められる事件が起きた。動画が流出公開された。その結果、草賀さんは転校、葛
木先生は退職、六年一組は担任が替わって一応いじめが治まった。ということになります
ね」
「それが?」
「結果として出たことが最初からの目的だとしたら、一貫していることになりますね。草
賀さんに打撃を与えていじめを治める、そのための手段が動画の公開。その動画の盗撮を
成功させるために、一方では彼女らの行動を野放しにして、一方では小杉さんが音を上げ
ないように調整して草賀さんの苛立ちを募らせる」
「退職も最初からの目的だと?」
「目的でなくても、覚悟の上、ということはあります」
「退職を覚悟の上で、そんなことやるか?
自分の一生の問題だぞ」
「高校で同級になった、木庭という男がいます」
「何だ、いきなり?」
「小学校は、桑開小だと。先生の前任校ですよね」
「ああ --
いたな。担任していた五年のクラスに」
「葛木先生って知ってるかと話が合ってしまったんですけどね。そいつが、五年の冬、悪
戯して怪我をして保健室に行った時保健の先生に、葛木先生はもうすぐ辞めるんだから最
後くらい大人しくしてなさい、と言われたと」
「な --
?」
ずる、と葛木は腰を前に滑らせた。
「何だと?」
「後になって考えると、辞めるじゃなくて転勤するのまちがいだったのかなあ、と言って
ましたが。辞めるなんて重い言葉、言いまちがえたり聞きまちがえたりはしないと思いま
す」
83
どう思いますか、と久堅が言葉を切る。
しばらく絶句して、やがて葛木の口元に苦笑いが浮かんだ。続いて、長々と溜息。
「お前にここで話すことじゃないがな」くくく、と低い笑いが止まらない。「教師という
人種の口に戸は立てられない。教え子に気の効いたことを言いたいという欲求の前には、
秘密もプライバシーもあったもんじゃなくなる」
大きく息を吐いて、上体を立て直した。
「同年代の同僚二三人にしか、打ち明けてなかったんだけどな。まさか子どもにばらして
る奴がいたとは」
「つまり」静かに、久堅が問いを重ねた。「うちの学校に来る前に一度退職の決心をされ
ていたんですね。それが結果として三ヶ月半延びたと」
「そういうことになる」
「退職の理由は、失礼ですが、お父さんのご病気ですか。さっき、車椅子にいらっしゃる
のを見かけましたが」
「ああ、脳卒中でね。半身不自由になって印刷屋を続けられなくなった。教師を続けてい
た方が収入はいいくらいなんだが、親父の思い入れのある店で、まあ一言では言えない事
情があってな」
「もっと失礼な言い方ですが」さらに声を低めて。「特に公務員の場合、担任クラスでい
じめが発覚した程度の不祥事で、懲戒免職なんてことはもちろん、給料や退職金を減らさ
れるなんてことさえないはずですね」
「そうだな」
「これで、さっきの話の流れで、葛木先生であり得ないという理由はほぼなくなったと思
います」
「だが、積極的にそうだという理由もないな」
「ええ」久堅は肯いた。「退職を延期した理由は、と訊いても教えていただけないでしょ
うね」
「当然、黙秘だな」
「そもそもその理由が、草賀さん一家に打撃を与えたいということだ、ということはない
ですか」
「何故そう思う?」
「この件の最終結果ですが。さっき話に出た教師らしくいじめ根絶に動いた場合と、動画
流出された場合で、一番のちがいは草賀さん一家への打撃ということになるのではないで
しょうか」
「ふうん」
視線を逸らして、葛木は窓の外へ目を向けた。外には、相変わらず灼熱を思わせる、日
の光が満ちている。
「そもそも、草賀さん一家に打撃を与えたい目的があった。調べてみると、そこの次女は
明らかに小学校でいじめの首謀者になっている。そこで、退職を延期して前任者退職の後
担任希望者のいない学校、クラスへ転勤を願い出る。目的は、上手くいじめの証拠を掴ん
で効果的に広く公開すること。このための担任ですから、先生は本当の意味の教師である
必要がなかったんです。教科指導はそれまで通り普通にやるけれど、生活指導では何より
優先されるのが草賀さんがボロを出すように導くことだった。どうでしょう?」
口をへの字にして、葛木はただ横目で教え子の顔を見た。
「実は、小杉さんと話してもう一つ、今まで知らなかった情報がありました」穏やかな口
84
調のまま、久堅は続けた。「小学校の卒業の日、先生は小杉さんだけの前へ現れて謝罪さ
れたそうですね」
「担任の無力のせいで一番辛い目に合わせたことは、まちがいないからな」
「当然そうなんでしょうが。最初から分かっていて目的のために手段を選べず辛い目に合
わせたから、ともとれますね」
「受け取り方は自由だがな」
「あとは完全な想像なんですが、先生がこの計画を進める中で一番気になっていたのは、
小杉さんと葉山さんが取り返しのつかない状態にならないようにする、ということだった
と思います。かなり早いうちから、それを常時確認できる方法を考えていたはずです」
ちらと教え子の視線が覗いたが、葛木は応えなかった。
「これはあの当時見聞きしたことを思い出したんですが。葛木先生は、職員室でしょっち
ゅうイヤホンでラジオを聴いていた」
軽く、葛木の目が丸くなった。
「ビデオカメラが教室に仕掛けられたのがいつからかは分かりませんが、そのずっと前か
ら少なくとも隠しマイクだけは仕掛けていたのではないか。特に草賀さんグループが放課
後残っている時は、そうやって気をつけていたのではないか。もちろん必要な情報収集と、
二人の安全確認、両方の目的ですね。それを受信機で聞いていたのが、あのラジオを聴く
姿だったんじゃないですか?」
返事を待たず、久堅は続けた。
「あの閉じ込め事件の時も、倉庫を使うように誘導してそのままでは危険すぎます。もし
かしてこれも、倉庫に隠しマイクを仕掛けておいてずっと状況は確認していたんじゃない
ですか?」
少年が言葉を切ると、やはり葛木も声を返さず、少しの間沈黙が漂った。やがて、小さ
な溜息。
「想像は、他にはないのか?」
「おおかたは。ああ、小さいことを言えば、先生が特徴的な音のするサンダルをずっと履
いていたのも、教室への接近を知らせて草賀さんたちに安心して活動させるためじゃない
かと」
くく、と葛木は鼻で笑った。
「次々と。ずいぶん細かいことまで、覚えているもんだな」
「どうも、記憶力は人一倍あるみたいで」
氷だけが残ったコップを、葛木は指先で揺らしてみる。からからと、わずかに涼しさを
呼ぶ音。
「これ以上は続けても、会話のすれ違いって奴にしかならないぞ。何かもっと、会話が成
立する話題はないのか」
うーん、と小さく久堅は唸った。
「何かありますかね」
思わず、葛木も苦笑する。
「そう言えば、あのあぶり出しの件。あぶり出しでなければ何なのか、お前は分かったの
か」
ああ、と久堅は肯いた。
「草賀さんがあの時しきりに果物の香りのスプレーを使ってたから、何か酸性に反応して
発色する薬品で文字を書いておいて、酸性の液体を吹きかけるという感じじゃないですか」
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「同じ意見だ」苦笑して、葛木も肯く。「別に実験して上手くいくか確かめたわけじゃな
いが、例えばコンゴレッドという薬品の水溶液は酸性に触れると赤から青紫に変色する。
あの絵の汚れた部分はもともと赤っぽい基調だったから、これなら目立たなかったものが
目立って浮かび上がるな。あるいは、スプレーは関係なく、温度が高くなると発色する薬
品を使ったかも知れない」
「単純なところでは、重曹水で字を書いてグレープジュースを吹きつけると色がつくそう
です」久堅が、気乗りしない調子で続けた。「草賀さんのお父さんは薬品会社の人だそう
だから、こちらが想像もつかない薬品を使った可能性もあると思って、深く考えるのはや
めにしていましたが」
「確かにな」葛木は、また苦笑する。「一度草賀に訊いてみたいとは思っていたんだが、
どうもそれも叶わないようだからな」
「そう言えば、草賀さんのその後ですが」ちら、と久堅が視線を上げた。「こないだ、い
じめ女王のその後の情報はないかネットを検索してみたんですが、さすがにもう最近はな
いようです。ただ、ファイル共有のルートには伝説の動画としてあれはまだ残っているら
しいですよ。それからあの後しばらくしての掲示板の書き込みで、動画のファイル名に新
しく転校先の学校名が加えられたのが出回っているとか、そちらの小学校の父母に注意を
喚起する情報が回って当人もまた居づらくなって再度転校したらしい、とか噂が載ってい
ましたね」
「ふうん」
「動画の犯人はそこまでやるかな、と疑問にも思ったんですが。考えてみると、僕の想像
のように草賀さん一家に打撃を与えたいというのが目的なら、やるかも知れませんね。一
回転校してそれで終わりなら、せいぜいが小杉さんの気が少しは晴れるかなという程度で、
犯人が以前からもっと深い恨みのようなものを持っていたとしたら、それじゃまだ不足か
も知れない。せめて一度は転校先まで追いかけて、逃げても無駄だぞと恐怖を持たせるく
らいはしないと」
言って、久堅は軽く肩をすくめた。
「ああ、これはすれ違いになる話題だったかも知れませんね」
「想像は、自由だな」
葛木はほとんど残りのない水のコップをとって、一口含んだ。
少しの沈黙の後、久堅は上体の姿勢を正した。
「話したかったのは、以上です。ごちそうになった上に気分の悪くなる話をして、申し訳
ありませんでした」
「なんであれ、元教え子の話を聞くのは悪いものではないがな」葛木は腕を組んで正面を
見つめ直す。「しかしこういう言い方も何だが --
。お前結局は、何をしたくて来たんだ」
「ああ --
そうですよね。あまり意味分かりませんよね」
「もしあの件の犯人を暴いて告発したいと考えたのなら、意味はないぞ。あの件は全く刑
事事件になっていない」
「そうなんですよね」少年は鼻の頭をかいて苦笑した。「仮に何処かの雑誌辺りに情報を
売り込もうったって、今さら買ってももらえないでしょうね」
「だろうな」
「最初にも言ったように、実は自分でも分からなかったんです、何がしたいのか。ただ疑
問を解消したい、好奇心みたいなものだけなのか」言いながら、妙に複雑な笑いになって
いく。「ただ、今日こうして先生と話していて、少し分かった気がします」
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「何だ」
「ただ、こういう話を先生としてみたかっただけなのかも知れない」
「何だ?」
「全く失礼な言い方で申し訳ないんですが、自分の担任だった人が、ただのぼんくらでは
なかったということを確かめたかったというか」
「な --
」
「さっき話に出た、木庭という奴が言うんですよ。葛木先生は、生徒の気持ちを分かって
くれるいい先生だったって。それに比べて、僕の記憶の方は妙にちぐはぐなものがあった。
それが、今日ここでお話しさせてもらって解消されました」
「そう --
か」
「乱暴な言い方ですが、僕にとって、自分の先生が何かを欺いていたとしてもちゃんと考
えていたという方が、ただのぼんくらだったというよりずっと満足がいくんです」
「バカか」
憮然と呟いて、腕組みのまま葛木は天井を仰いだ。
「全く失礼言って、申し訳ありません」
上を向いたまま、目を閉じる。向かいで、少年も恐縮したように口を閉じていた。
「それと、お気づきでしょうか。今日の話、このままでは全く根拠がありません」
「ん?」
「ほとんど全部伝聞による情報に基づくもので、その情報が正しいかどうかは全く確かめ
られていませんね。仮にもし小杉さんの話に嘘が混じっていたとしたら、それで全部崩壊
です」
「それはそう、だな」
「それからさらに、全て事実だとして、担任の先生が最有力容疑者としましたがね、それ
も確定できる決め手はなく」言って、少年は軽く肩をすくめた。「公平な目で見て、実は
次点の容疑者として怪しいのは久堅という生徒ですよね」
「何?」
「動機も十分、暗号の解読はできている、教師ほどではないがそれぞれの場面で犯行機会
は持っている。これは先生が自分で認めてしまいましたが、匿名メールの件だって、その
ままだと最有力容疑者ですよ、普通に見て。さっきの考察では、自分が否認したというだ
けです。最終的に弱いのは、倉庫の鍵をどうにかするのは困難だというだけですね。何故
当時から疑われなかったのか、不思議なくらいです」
「いや --
世間一般には犯罪視されているのは動画の件だけだからな。あれだけで、そん
なに容疑者を絞る条件は揃わない。しかも動画流出など、小学生がそんなことをするとは
誰も思わんだろう」
言って、葛木は悪戯めかした含み笑いの教え子を見た。
「しかし --
お前ならその気になればできたかも知れないな」
「ええ。あの動画流出であれほどの効果があると気がついていたら、あるいは」軽く、首
を振っている。「気がつかなかったのが、残念な気もします」
言葉を切って、かすかな溜息。
葛木が黙していると、かさ、と久堅が手提げ鞄を持ち直していた。帰る気になったか。
思い、安堵しながら。
不意に自分でも理解できない衝動で、葛木は声を出していた。
「久堅」
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「はい」
「お前 --
大無人って、何か知っていたか?」
ポケットからボールペンを出して、目の前のナプキンにその文字を書く。
数秒、少年は目を見張って正面を見返していた。
「大の字から人の字をなくして、数字の一を表す、んですよね?」
「そうだ」
続けて、ボールペンを動かした。
「同じように、天無人で二、王無棒で三を表す」とそこで、顔を上げてわずかに笑いを浮
かべた。「もともとは、寺の坊さんが使う隠語だそうだ。露骨に数字を口にするのは卑し
いとされる場面で、使うんだろうな」
「それは知りませんでした」久堅は愉快そうに目を丸くした。「つまり言ってみれば、謙
譲の美徳とかそんな感じですか」
「少しちがうのかも知れんがな。しかし少なくとも、人の悪口を目立たなくするために使
うものでないことは確かだ」
「品のない暗号に使うには相応しくないということですか」
「まあ、そういうことだ、が」わざとめかして、葛木は眉をひそめた。「さっきは詳しく
知らないといっていたが、やっぱり知っていたな、新しい方の暗号も」
「まあ、そうですね」
「何処かでまた引っかけてやろうと、とっておいたんだろう」
「ご想像にお任せ、しますが」
くく、と葛木は掠れた笑いを漏らした。
「しかし」少年は小さく首を傾げた。「こんなゲームオーバーになってから白状というか、
認めていただけるとは、思いませんでした」
「教え子に誇示できる知識があるとさ、黙って腹に納めていられないのが教師の性って奴
でね」
きょとんとして、やがて久堅は笑みを俯けた。
「確かに、知らない知識で、ためになりました」
「それはよかった」
「ではもう一つ、お返しに。言うべきか言うまいか、迷っていたんですが」
「何だ」
「と言うより、癪なので言わないでおこうと思っていたんですがね」久堅はさらに苦笑を
強めた。「もう一つ小杉さんの話ですが、あの閉じ込め事件、少なくとも家庭円満の役に
立ったと。一連の件で、それだけはわずかに感謝していると言っていました。それ以上詳
しくは訊いていないんですが」
「………」
真顔に戻って、葛木はただ教え子の顔を見詰めていた。
妙にばつが悪そうに少し下を向いていて、久堅はふと顔を上げた。
「そうだ、もう一つ、思い出しました」
「ん?」
「あの、動画が撮影されたと思われる日、ですね。何故草賀さんがあんなに苛立ちを露わ
にしてしまったかなんですが、これは盗撮の犯人も知らないんじゃないかと思うんですよ」
「お前は分かっているのか?」
「これも小杉さんと話していてですね、妙な巡り合わせというか、感心してしまったんで
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すが。まず初めにその日の朝、前の日に出題された暗号を解読したことを、小杉さんが草
賀さんに伝えました。これが草賀さんには思いがけず、腹立たしかったようです」
「なるほど」
「その腹いせもあったんでしょうね、授業中に草賀さんが急ごしらえの暗号文を回覧しま
した。あの、易しい方の暗号です。内容はもちろん小杉さんの悪口で、確か『きちがいカ
ナ』って感じですね。当然僕のところには回ってこないんですが、ひょんな悪戯心を出し
て、僕がその回覧途中で奪いとってしまったんです」
「ほう --
」
「それだけなら大したことでもないんですが、その文面を見て気がついてしまいまして。
暗号を一字いじったら『きちがいアキ』になってしまう。気がついたら、どうにもいじら
ないでいられない、誘惑に勝てなくなりまして。そうやって手を入れて続きに回してやっ
たら、回覧終わった後で見て、草賀さんが激怒し始めたらしいんですね」
「なる --
ほど」
葛木は、わずかに目を丸くして肯いた。久堅もそれにやや戯けた表情で肯き返す。
「後から考えると、その日の放課後があの動画の撮影日らしい。つまりあのいじめ告発の
動画撮影の成功は、小杉さんと僕と盗撮犯の連係プレーの賜物らしいんですね、期せずし
て」
もう一度、元教師と教え子の視線が合った。数瞬。
肩をすくめて、ひょいと、久堅は腰を上げた。
「長々と失礼しました。どうもごちそう様でした」
「おう --
いや、どういたしまして、だな」
つられたように腰を上げて、葛木は苦笑を戻した。
冷房の店内から出ると、やはりまだ焦げつく日射しが続いていた。すぐに熱を持ち出す
髪を手で押さえて、葛木は少年の横顔を見下ろした。
「つくづくろくでもなくとんでもない教え子を持っちまったもんだが、これからも頑張っ
てくれ。自分の指導で優秀に育ったとはまちがっても言えないのが残念だが」
「いえ、先生のご指導に感謝しています」
さらっと言って、笑う。
「最後にもう一つだけ、返事はいりませんので、質問だけさせてもらっていいですか」
「 --
何だ?」
「動機は、誰かのための復讐ですか?」
思わず、片眉だけがひくと動いた、感触があった。
一瞬置いて、久堅は深々と頭を下げた。そのまま、振り返らず炎天の下を歩き去ってい
く。
陽炎に揺れる白ワイシャツの背中が小さくなる前に、葛木もきびすを返した。昼食休憩
だけのはずが、もう母親がいつもお茶にしようと騒ぎ出す時間になろうとしている。
何となく、母親が麦茶とどら焼きを並べて待っている、光景が目に浮かんだ。
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