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その1

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その1
2008.07.28
青山東男
キューバ蒸機撮影日記
はじめに
キューバ行きは今回で2回目だが、また新鮮な驚きと感銘を持って帰国した。初め
てこのレポートに接する方のために、キューバ行きの目的をお知らせしたい。私が鉄道
ファンであること、更にもっと間口を狭めて、蒸気機関車(蒸機)ファンであることを
先ずご認識願う。その私がキューバに行くのは、蒸機に会えるからで、それ以外の目的
はないに等しい。私が鉄道写真を撮るようになったのは高校生からで、最盛期は大学時
代であった。その頃から既に国鉄の蒸機より専用線の蒸機を追いかけていたのだが、由
緒ある外国製の蒸機が忽然と姿を消してゆく時代でもあった。とにかく朽ち果てた姿で
も良いから写真に残そうと考えて国内の色々なところを回ったものである。それから5
0年近い歳月が過ぎ去っているが、キューバの CENTRAL*1における蒸気機関車の歴
史的な地位は丁度50年前の日本の状況かもしれない。世界的な砂糖の需要減退によっ
て、閉鎖に追い込まれる CENTRAL が続出し、蒸機の性能には問題がないのに工場閉
鎖のために職場を失った蒸機たち。これらの蒸機を記録に残そうとキューバに出かけた
のであるから、まったく50年前の自分たちの姿である。
今回も高校鉄研(鉄道研究会)時代からの友、杉行夫と一緒に旅をしたが、当時から
彼のほうが情熱、腕ともに優れていて、現在に至るまでその差は狭められないでいる。
ところでキューバの CENTRAL に私が拘るのは、アメリカ型の蒸機でしかもナローゲ
ージだからだ。特に形態的に優れた反圧ポンプ*2が装着され、今も生きて機能してい
るのは驚きだ。
アメリカ型というのは、世界の蒸気機関車を形態的な特徴から分類する時の言い方で、
その他にイギリス型、ドイツ型をあげることが出来よう。イギリス型は燕尾服、ドイツ
型はナチス時代の軍服、アメリカ型はジーンズと言ったところだ。
ナローゲージとはレールの幅が狭い鉄道のことで、車両を小さく出来るのだがそれを
利用する人間の大きさは変わらないことから、蒸機も含めて車両の形態的な面白さが生
まれる。その点をこの報告書でどこまで分かりやすく説明できるか、私の能力が試され
るところだ。それにしても米国の UNION PACIFIC 鉄道 の CHALLENGER という馬
鹿でかいロコにぞっこんの杉行夫がキューバに同行してくれたのは、彼の BROAD
MINDED によるもの。本当に感謝である。今回は RASS の高橋卓郎氏が製作してくれ
た RASS の活動を紹介するDVDを持参し、各所で公開した。皆一様に納得してくれ
たのが嬉しかった。次回は『鉄道讃歌』 *3 も持参し、我々の歴史を示すことによって
我々の現在の意思を明確に伝えたいと思っている。
今回の旅では素晴らしい方々に出会えた。最終日ではあったが、
砂糖省の鉄道担当 マヌエル チャベス サエス技官
鉄道博物館 館長 インダレシオ ゴンザレス グスマン氏 の両氏に会えたことは
望外の喜びであった。
それに3月7日から17日までの11日間3700km を運転して、
なおかつガイド役までこなしてくれた Eddy Gago Salazer 氏。
彼がいなければ我々の旅はお粗末なものになっていたに違いない。
キューバ人に共通なものかは不明だが、彼の楽天的で女好きな性格
は、暗くなり勝ちな自動車の旅を明るくしてくれた。感謝!
1
3月3日 無事トロントに着く
羽田の出発が3日の 19:25 でトロント着が同日の 17:10。どうもピンとこない。
空港には雪が残っている。東京から来るので寒さは何とかなるが逆は辛いかな。
去年の経験があるので、難なく空港からホテルのシャトルバスでホリデイインへ。
今年のキューバ行きは、杉行夫と同室で旅するのが特徴。費用の節減という意味
で大きな効果だし、体に不安がある私としては有難いことである。杉行夫に負担
が掛からないように気を付けるとしよう。下のラウンジでビール、ワイン、ピッ
ツァの夕食をとる。
3月4日 トロントからハバナへ
ホテルを出ると凄い寒さ。でも
白人はTシャツでいたりする。
空港で朝食。ハバナでの入国書
類を作る。うまく行くかしら?
ハバナに着いてからの問題は
レンタル携帯電話の申し込みが
担当者不在で出来なかったこと。
ホテル VEDADO には15時に
入る。先ず伊藤勝さん*4の教えて
くれた博物館に、タクシーで行
ってみたが閉館とのこと。そこでハバナ中央駅に行き、去年見た機関車たちをも
う一度見る*5。近くにいたお兄さんが柵を開けてくれて、中に入れてくれた。
30インチの0−6−0は思いのほか程度が悪く、ボイラーの鉄板が所々切取ら
れている状況で、生還させるのは不可能だろう。もう少しマシな状態だと思って
いた私の記憶が甘かったと言うことだが、余りにも残念な姿ではあった。そのシ
ョックのせいか主要寸法を当たることもしなかった。そして写真を撮って満足し
てホテルに戻ることにしたが、例のお兄さんは一人1ドルだと言う。まぁ良いか。
ホテルではダイニングで夕食をとる事にした。たいした食事ではなかった。一度
寝るのだが12時頃に目覚めてしまい、6時30分の飛行機に乗るには「これは
マズイ」となって、杉行夫ともう一度下に下りて飲むことにする。ヴェネゼラの
若者二人がいて彼らと一緒に飲んだが、チャべス大統領に心酔している若者の姿
に久し振りに共感する自分がいた。
3月5、6日
余り寝ることなく飛行機に乗りオルギンに着いた。先ずオルギンでやることは、
ドライバーを探すことである。今回の旅の特徴は、①通訳を使わない ②移動は
自動車にする であるため、ドライバーの選択が重要事項となった。そこで我々
は、自分たちの行動を良く知っているこの前世話になったドライバー氏に白羽の
矢を立て、彼を探すことになったのである。しかし彼は今日遠くに行っていると
のことで、この日は日産のカルロスゴーンに似た Andres 氏の車をチャターする
ことになった。
参考書: 1 INDUSTRIAL STEAM LOCOMOTIVE OF CUBA
BY
G.A.P.LEACH
I ndustrial Railway Society
2 . TRAINS OF CUBA
BY
ADOLF HUNGRY WOLF
Canadian Caboose Press
2
1
CENTRAL RAFAEL FREYRE
(30 インチ)
Rafael Freyre に着いてみると何と1388が満員の客車を3両も連結して蒸気
を上げているではないか。心ここにあらずの状態で2階に上り、予定通りA3の
写真を出しながら名刺も出し、Locos de las Locas(機関車気違い)は大うけだった
し、DVDの評判も上々だったが、
そこに新顔のマネージャー氏が現れて
「写真を取るなら許可をとって来い」
となって話は暗転した。結局5,6日
両日とも、機関区敷地に入ることを
許されず、仕舞にはポリスが来て駄目
と念を押す始末。現場の人たちは皆
私たちを知っていて、親しくして
くれていたが、次第にマネージャー氏の締め付けが厳しくなったのか、私たちに
対する表情も険しくなってきた。なぜ機関庫での写真撮影を観光局の判断に頼る
のか良く分からないが、今回はこれ以上事態をこじらせることは避けるべきと判
断せざるを得なかった。何とも言い難い気分で2階の事務所からの階段を降りて
いる時、観光列車の仕業を終え庫に戻る1388が目の前のレールを通過した。
真にアウトサイドフレームだからこそのロッドの太さや、バランスウェイトの大
きさが、躍動感となって目に飛び込んできた。デンバーやブラジルのペルス、サ
ンジョアンデルレイを見ていない私にとっては初めての経験で『こんなに大きな
機関車だったのだ』と気づかされ『何はともあれ来てよかった』と大感激したの
であった。
翌日のこと、実はキューバに来る前から、Pepito Tey の1357については、
磨いて綺麗にしてから写真を撮りたいと思って、その準備をしてきた。ところが
3
まったく予想外のことに1388が動いているのだが、これがあまり綺麗ではな
い。まずこれを磨こうと考え、清掃の準備をして庫に向かった。しかし1388
はすでに清掃され、美しい姿で客車の付け替えなどをしていた。私たちの呟きが
聞こえたのかもしれない。今日はお客が少ないらしく、最初は前半分がバンドの
スペースの客車1両。バンドはギター2本ボンゴ、マラカスで電子装置一切無し。
でもその素晴らしいコーラスとバンド演奏の小気味よさにお客は拍手喝采だ。
その頃別のツアーが到着して、増結した客車に乗り込んでゆく。ようやく出発の
時が来た。長い汽笛を鳴らして、機関士はぐぃとレギュレターを引いたが、すぐ
逆転機をリバースに入れほんの少しバックさせて、何事もなかったように前進さ
せた。この客車は、サトウキビ輸送用貨車の転用であるから当然メタル軸受けで
抵抗が大きいのだ。そして快調な
ブラスト音となり、駅構内を出る
頃には、去り行く列車からバンド
演奏の軽快なリズムが時々聞こえ
てきたがやがてブラスト音も聞こ
えなくなった。
今年の Rafael Freyre は様子が
違う。1号機がいなくて1388
が動いている。最初はテンダーに
1387と書かれてあるので、
ロコもそうだと思っていたが、1388のテンダーが側線に留置されていたこと
と、BLWの銘板の製造番号 31375 から1388であることを確認した。去年1
388のテンダーは、事務所の向かいの破壊された工場建物の中の側線に、甦生
不可と思われるロコ2両と共にあった。逆向のあのテンダーをあそこから引っ張
り出し、デルタ線で方向を変えて、機関庫に運んだのだ。相当の苦労をしても元
通りの組み合わせを選んだのだが、致命的な欠陥が見つかり断念したのだろう。
本来ならば私たちは Rafael Freyre では1号機の長命の秘密や、一般的な整備
のノウハウを聞き出す予定で
あったが、叶わなくなって
しまったことは残念の極みで
あった。気を取り直してオル
ギンの北西にある港町 GIBARA
(ヒバラ)に行くことにした。
参考書には Rafael Freyre の
レールが Holguin-Gibara 鉄
道のレールと接続していたよ
うに書かれてあり、その光景を
想いうかべるためにそのジャン
クションを探したかった。
Andres 氏に頼むと『60年も前のことなので何も残っていない。ただしトンネ
ルは残っている』とのこと。早速出かけた。そのトンネルは(レールを歩いてい
たならば)GIBARA の町に入る手前に、大きな川を渡る鉄橋があり、これを、
4
わたって直ぐのところにトンネルは掘られていた。それは素掘
りで一切の補強、表面の保護もなかった。トンネルを出ると広
々とした平地があって、そこが操車ヤード、そして駅に続いて
いたのだろう。駅のあった所も海岸と丘陵に挟まれた狭い場所
で、この鉄道のレールシステムが明らかに軽便であったことを
思わせる。駅の先に、港に向かうレール敷きの跡があるが、港
湾と言えるほどの施設は何も無く勿論昔はあったということで
もなく、この鉄道が短命であったとすればそれも頷ける光景だ。
去年 BANES*6で小さなポーターを見たが、あれを見た時『こんな
ものが使えるの』と思ったものだが、ここもそのレベルであったのかもしれない。
この街を一望できる展望台から見た風景も、私の思いを裏付ける結果にしかなら
なかった。この町の産業は何であったのか不思議である。ここにも漁船がいない。
3月7日
この日からハバナまでの約束で新しい運転手 Eddy 氏に変わり、車両もワゴン
になった。前任者同様模範的な運転振りである。「これは無料で高校か大学を卒
業した人間の、社会に対する恩返し思想ではないか」と杉行夫は言う。なるほど!
FRANK PAIS までの道程は平坦で、遠くの山裾まで遮るものは何もない。
フィリピンでも見た一面の砂糖キビ畑の光景だが嬉しくなる。フィリピンがどう
であったか記憶にないが、キューバの畑は沖縄に似ていて、石灰石のような石こ
ろだらけで、土を耕して植物を栽培すると言う営みには不向きだ。砂糖キビは背
が高いから、石ころがあっても収穫には問題がないということなのだろう。
5
2
CENTRAL FRANK PAIS
(36 インチ)
工場の設備は殆ど何も残っておらず、Eddy 氏はためらうことなく正門から車を
入れた。私は気になったので「OKか」と尋ねると『ノープロブレム』と言う
ので行動開始とした。早速機関
庫へ向かう。ここは3フィート
ゲージで、参考書によれば2両
のコンソリと4−6−0(テン
ホイラー)が3両在籍した。こ
のテンホイラーは米国では人気
のあった通称 TWEETSIE(テネ
シー州とノースカロライナ州を
跨ぐ3フィートの地方鉄道)の
ものと同型のロコとされており、
一度見たいと思っていたが、
やはり遅かった。汚れたコンソリが1台だけ機関庫の端にいる。
何と単式エアーコンプレッサーをダブルにしている。キャブに入ってみるとボイ
ラーが太いせいか、キャブの天井とのクリアランスが少なく、リュブリケーター
等の機器が目一杯に詰まっている。この機関車は大きい。Rafaer Freyre のコ
ンソリも大きく感じたが、これは一回りも大きいのではないだろうか。ゲージは
たった6インチだがその差は何倍も大きいように思う。
ところでこの機関庫の主役はレールバスに移っていた。Rafael Freyre でもそ
うだったように、セントラルが閉鎖になっても、住民の足を確保するのが使命に
なっているのであろう。レールバスは数台かいるが、大きいのも小さいのも現役
だ。小さいものの一つが修理中であったが、エンジンはベンツだった。私が機関
庫のはずれ、道路の踏み切り近くまで行って写真をとった帰り道、おじさんが現
れ「許可は取ったのか、警察に電話する」らしいことを喚いている。返事の仕様
が無いので、黙って車に戻るとポリスが着いており、警察に連れて行かれた。
3
CENTRAL EL SALVADOR
(昔 30 インチがあった)
FRANK PAIS を 出 て ま も な く 山 道 と な る 。 相 当 な 時 間 を 費 や し て
GUANTANAMO に入った。EL SALVADOR の工場は完全にスクラップされて
いた。スタンダードゲージのヤードはがらんとしていて、30インチの何かが残
る雰囲気も全くない。スタンダード
ゲージの砂糖キビ輸送用貨車が脱線
させられてあったりして、なんか
寂しい光景だ。詰所風な建物にいた
従業員オジサン、オバサンが「ここ
には何も無い。蒸機なら CENTRAL
COSTA RICA に持って行った」と言
っていた。
6
4 CENTRAL MANUEL TAMES (36 インチ)*7
煙突から煙を吐いている初めてのセントラルで、3フィートゲージのヤードに
は砂糖キビを満載した専用貨車が荷下しを待っている。
蒸機は倉庫にしまっているとのことで、倉庫に行ってみたが鍵が掛かっていて、
ロコの詳細はよく判らない。杉行夫が発見した倉庫の裏の穴から撮った正面の写
真が唯一のものだが、これではロコの概要もつかめない。金網越しに従業員と話
していたら、「ロコモトーラがもう直ぐ来る。音が聞こえるだろ?」確かに汽笛
が聞こえる。私は煙を吐く仕草と蒸機の音を出して「デバポール?」と聞くと「Si
Si」と言う。びっくりして工場入り口の方に行くとDLが来て、それでも「もし
かしたら」と思い少し待って見たが、結局私の勘違いであった。このDLの警笛
は汽笛であった。紛らわしい!
また運転手 Eddy 氏が言った「倉庫の鍵を開けて
くれる」話も空振りだった。しかし待っている間
に、近所の子供たちの写真を沢山撮れたし、通り
かかったお嬢さん二人が「私たちの写真も撮って
よ」と言ってくるし、下校途中の女子高校生を子供
たちが「撮ってあげて」とひっぱて来るなど、楽し
い時間だった。
ところが又もやポリス登場となる。
誰かが通報しているのだ。
この日以降ポリスの登場は皆無だ。
3月8日
7 時出発と決めたが、Eddy 氏も一緒に朝食を取ろうということになって、スタ
ートは 30 分遅れとなった。途中 BAYAMO で GRANMA 県の撮影許可を貰い
(Eddy 氏の才覚、紙にはなっていない)今日の目的地 629 LA DENAJAGUA
,624 ROBERTO RAMIREZ EDELGADO に向かう。Manzanillo に入る手前辺
りだったろうか、4ft8.5in のレールが突然現れ、砂糖キビ畑の真ん中でDLが
貨車を押して積込作業をしている光景に出会った。
本当はサンティアゴデクーバからの道は、海沿いにしたかった・・・。
7
5
CENTRAL LA DENAJAGUA
(36 インチ)
工場は完全にスクラップとなっていて、
昔を偲ぶ手がかりさえないと言う状況
だ。工場の正面の道路脇に2号機(B
LW 52257 1919)2−6−2 (MINA
Z 1261)が展示されている。面白い
ことに銘板が付け直されていて、BLW
36408 1912 年となっているが、こ
れは MINAZ 制式番号以前の 4 号機 BL
W 2-6-0 の銘板で、展示するなら古い方が良いと考えたのか真相は不明だ。3 フ
ィートの蒸機だが FRANK PAIS に比べるとひと回り小振りで、大きさとすれば
30 インチ Rafel Freyre のコンソリに近い。終わりに、レールの跡を見たいと
Eddy 氏に言うと、近くの人に話をしてくれて道路下に残る線路跡に案内された。
工場から伸びる直線のレールに、3 フィートの砂糖キビ輸送用の貨車が数台放置
されてあった。工場は海に面しているが海送を行った形跡はない。どうもこの国
民は海を利用したがらないように思える。と言うよりも植民地時代に海に親しむ
ことを遠ざける政策を取ってきたのではないか。漁業が進んでいないのも、同じ
背景があるのかもしれない。
6
CENTRAL ROBERTO RAMIREZ EDELGADO
(36 インチ)
この半島?の一番奥にある製糖工場である。近づくに連れ煙突からは盛大な煙が
上がっており、期待は膨らむ。正門脇のスタンダードゲージ入口付近の空き地に
目当ての機関車はあった。機関車の案内板が機関車の正面に倒れ掛かっていて余
り美しい状態ではない。
またキャブが鉄板の張
り合わせ細工のように
見えるのと窓にRがつ
いているのは、オリジ
ナルではないように見
えるが、それ以外の状
況を総括すれば、この
機関車は素晴らしい出
来栄えだ。参考書によ
れば、BLWの 製番
54321、1921 年製で、比較的新しい。特徴を幾つか挙げれば①ボイラーとケーシ
ングの間に成形された断熱材が入っている。 ②火室が焚き口に向かって絞られ
て、半ワゴントップになっている。 ③アウトサイドフレームにもかかわらず、
先輪は内側軸箱方式である。・・・などである。
3月9日
今回の旅で一番の長距離走行となる日だ。しかも日曜日。今日の予定は LAS
8
TUNAS 県にある611の0−4−0ST、ロコの状況が不明の622、これら
はむしろ HOLGUIN に近い位置だ。そして CAMAGUEY 県の513と520
である。そして Ciego de Avila まで走る(実績約570km)。Las Tunas のホ
テルのいい加減さから朝食スタートが 30 分も遅れる。
7
CENTRAL ANTONIO GUITARES
(36 インチ)
煙突から盛大に煙が出ており、元気そうな工場である。4ft8.5in のレールが工
場に向かって延びており、それに沿って道を行くとセメントバラ貨車と同じよう
な構造の貨車が数台側線に留置されているのだった。粗糖ならばこの構造の貨車
は利用できかないから、精糖後のいわゆる砂糖を輸送しているのだろう。コスト
の安い工場は生き残れる見本なのかもしれない。
さてBLW の0−4 −0STは工
場入り口付近の公園に展示されて
いた。水タンクが増設されて形態的
によろしいと言えないが,BLWの
銘板が着いたサドルタンクを見る
のは初めてであり、悔いの残らない
ように写真を撮りまくった。
8
CENTRAL
ARGELIA LIBRE
(36 インチ)
途中で何本ものスタンダードゲージのレールを渡ったが、参考書には8台のBL
Wが記載され、そのすべてに gone の記載がある。果たしてどうか?しかし相当
昔しに 3 フィートから標準軌に改軌されていたようである。そしてセントラルに
近づくと工場はスクラップされていることが判った。側線数の多い踏切を渡って
奥に行くと、何と木造の扇形庫があるではないか。そこにはDLとレールバスが
いて、それらは現役のようだ。
どうやら、このセントラルが
閉鎖されてからも、この付近
の住民の足として鉄道が使わ
れているらしい。この魅力あ
る扇形庫に入れて貰えなかった
のは残念だったが、FRANK
PAIS もそうだったように機
関庫の鉄工場(てっこうば)は、
地域の重要な『何でも屋』に
なっているはずだ。日本はハイ
テクの世界に入ってしまいローテクの世界を忘れてしまったが、自動車を 50km
時で走らせるならばローテクで十分なはずだ。キューバでは経済規模が小さく、
そのために国民全体に貧しいから、ローテクが国を救っているところもあるはず
9
で、そのようなローテクの現場を見せたくないのも判る気がする。踏切に残る
4ft8.5in と 3ft のデュアルゲージは、私たちの見果てぬ夢を更に広げたのだった。
CENTRAL NOEL FERNANDEZ
(30 インチ)
このセントラルは基本的に標準軌の
レールで、MINAZ 制式番号を得た
30 インチ蒸機は 1 両在籍した。
しかし保存されているのは 4 号機
である。その場所は SENADO と
言う多分 30 インチレールがあった
ところだろうと想像している。
去年 BANES で見たポーターより大
きく煙室扉はポーター独特の鋳物製
で、全体的にしっかりとした出来栄えである。この公園の近くにカトリックの
教会があった。時間が遅かったのか信者たちの姿は見かけなかった。
9
10
CENTRAL SIERRA DE CUBITAS
(30 インチ)
このセントラルも設備はスクラップ
同様で、守衛は「設備を撮影しては
ならない」としつこく言ってきた。
私には初めてのフォーニー*8だから、
腐った設備を撮っている暇はない。
資料によればBLW1890 年製
No11471 である。例の道路わきレ
ストランのBLW0-6-0 は 1884 年製
No7472 であるから,逆算するとBL
Wは、6年間で4千台の機関車を製
造したことになる。太平洋戦争の頃になるともっともっと大きな数字になるはず
だ。これから調べてみよう。フォーニーに戻るが、従輪を 1 軸増やして台車にす
るくらいなら、テンダー機でも良かったとも思うが、レールの有効長に問題があ
るとすれば、議論の余地はない。それにしてもこのフォーニーは木曽森に比べる
と相当大きい。何とか図面を入手出来ぬものか。
3 月 10 日
ようやくキューバの中心部にやってきた。今日は SANCTI SPIRITUS 県の 27.5
インチ 3 鉄道を見る予定である。去年は SIMON BORIVAR を見るのが精一杯で
あったが、今年は去年に比べれば時間的な余裕がある。
ところで参考書を見ていたら、ARACELIO IGLESIAS は以前 3 フィートだっ
たそうで、なぜ 27.5 インチに改軌したのかその理由を突き止めることが出来る
だろうか。本当に興味津々な出来事だ。キューバ独立以前の CENTRAL の鉄道
は、砂糖キビ集荷が主目的で、製品出荷には利用されていなかったのであるから、
10
36 インチから 27.5 インチにダウンサイズする意味がどれほどあったのだろうか。
しかし隣同士同じゲージで車両や用品の貸し借りを行うメリットのほうが更に
大きかったということなのだろう。ぜひ事実を調べたいものだ。この線路図を見
るたびに胸が躍る。どのように列車を走らせていたのだろうか?列車の運行管理
はどうやってい
たのか?平面クロ
ス の 光 景 は ?
OBDULIO
MORALES の 先
のオメガカーブは
どうなっていた
の?
そして今回もレ
ールを歩かなか
ったことを最早
後悔している。
参考書
11
INDUSTRIAL STEAMLOCOMOTIVE OF CUBA より転載
CENTRAL ARACELIO IGLESIAS
(27.5 インチ)
Ciego de Avila からの道は順調で、昼前に到着した。
参考書にはこの CENTRAL に 96 年 2 月まで無名のモーガルが使用されていた
とあるが筆者は見ていないのだろう。また MINAZ 制式番号のロコが記載されて
いなので、実際は相当早い時期に閉鎖されてしまったのかもしれない。工場設備
は煙突だけで、あとは殆ど残っていない。
To
と Mayajigua
TO
想像図
・機関庫跡
3線式で一番
右にピットが
ある。一番左は
レールがない。
11
12
CENTRAL SIMON BORIVAL
(27.5 インチ)
去年来たのに咄嗟に機関庫の位置が思い出せない。突当りを左に行くと倉庫然と
した建物が現れ、「あっこれだ」と判った。丁度近所の人(多分 SIMON BORIVAL
の人)が現れ、裏の木戸を開けてくれた。中に入ると去年は狭く感じていたのに、
相当広いことがわかった。裏木戸から入ると、左側に大型の旋盤などの機械が並
び、右は広い作業スペースが確保されている。機関車たちは去年と全く変わらな
い状態であった。キューバは地方によって差があるのかも知れないが、月間の降
雨日数は2,3日だそうであるから、余り錆びないらしい。これほど海に近いの
に、自動車もそれほど傷んでない。沖縄と比較したら夢のようだ。この機関庫の
屋根も3割ほどトタンが飛んでいて雨が振り込んでいるはずだが、機関車がそれ
程ダメージを受けていないのが嬉しい。
この機関庫にあるロコは8両。このうち3両がとなりの OBDULIO MORALES か
ら借受けているものであるが、それも含めてここのロコは全て弁装置をワルシャ
ート式にしており、保守作業はずいぶん楽だったはずだ。
右の図は機関庫の中のロコ達
を記録したもの。黄色の蛍光ペ
ンは OBDULIO MORALES からのも
ので何時でも走らせられるほど
状態が良い。真ん中の1138
はモーガル。その下の1360、
1363は状態が悪い。機関車
の下に製番を記したものは、実
際に銘板があるもの。ところで
1360
は MINAZ の
蒸気機関車 NOW ON SALE に載っているが、これは詐欺行為
と見做されても仕方ない。それ以前に誰も買わないか。
写真撮影を終える頃、機関庫に入れてくれた人のお嬢
さんがやってきた。お父さんと一緒に写真を撮ろうかと
思ったのだが、お父さんは「彼女の写真を撮ってくれ」
と言う。彼女が大人になっても、この機関車はここにあ
るだろうか。こんなに貴重な機関車のそばで育ったこと
を思い出すだろうか。そんな下らないことを考えながら
シャッターを切った。
去年は暗くて気が付かなかったが
1334がひときわ綺麗だ。テンダーには
EMPRESA MIELERA キャブの窓下には
DON ALVARO と書かれてある。
12
13
CENTRAL OBDULIO MORALES
(27.5 インチ)
このセントラルへは、SIMON BORIVAL の機関庫を出て目の前の道つまり昔の線路
敷きを走りたかった。前頁の路線図で見ての通り、多分すぐにつけたと思う。し
かし公園に保存されているこのセントラルの1333号機を見るために、国道経
由で行くことにした。
去年も見たのだが、このロコの保存状態は
は抜群と言って良い。そして NOW ON SALE
のリストに載っているのだがこれなら文句
はあるまい。SIMON BOLIVAR に移った3両
も状態は良かったが、それらの上を行って
いる。改めて最も腐食の激しい火室付近の
リベット等の状態を観察したが、未だ形が
崩れておらず、特に問題があるようには見え
なかった。石炭を燃料とする機関車では必ず排出される石炭灰の強いアルカリと
水による腐食が問題となるが、重油焚きはその点においてもメリットがあるのだ
ろうか。
ずいぶん時間がかかってここまでやってきた。機関庫を覗くとDLがあるだけ
で何もない。杉行夫が「裏に蒸機が見える」と言うので裏に回ると、最初に目に
入ったのがこの光景であった。良くぞ残っていてくれたと言うべきなのか。
この CENTRAL には、このロコ(BLW53847 1920 年製)、と公園にあるロ コ
(BLW52414 1919 年製)そして SIMON BOLIVAR に預けた 3 両と、全部で 5 両、
13
形が残っている(全部銘板付き)。参考書によれば1997年当時、廃車体も含
めて11両が記録されているから、約半分が残ったことになる。
ホテルに帰るにはちょっと早いので、「どこか一箇所見て行こう、401にし
ようか」と杉行夫と話していると、街道沿いにきれいなサドルタンクが飾ってあ
るのを発見。即、車を止めて写真を撮り、401に向かう。401に着くと「こ
こには何もない。CAIBARIEN の手前の CENTRAL MARCELO SALADO に博物館がある
から是非そこに行って見なさい」と言われ、もう一度Uターン。去年見た博物館
はそこだったのだと気が付いた。
14
CENTRAL MARCELO SALADO 鉄道博物館
(4ft8.5in)
このモーガルの大修繕を見て、キューバ蒸機の長命を悟った。
下はこの博物館の千両役者。毎日客車を牽いて4∼5km走っているようだ。
この日から SANTA CLARA のホテルに5連泊となる。ホテルのレベルも一挙にアッ
プした。これまで洗濯出来ずにいたのも解消だ。ホテルはヨーロッパからのツア
ー客が多く、食事が良くなった。私は飲むヨーグルトとクロワッサンに二重丸。
14
3月11日
15
CENTRAL HERMANOS AMEIJEIRAS (36 インチ)
私たちの車が工場近づくと工場の中に蒸機が見えた。それを頼りに車を進める
と工場の入口に近いところに機関車が展示されていた。近くによって見ると、何
とインサイドフレーム、ワゴントップのモーガルで、第2、第3動輪が離れ、そ
こに火室が入っているガニ股タイプ。日本ならば形式7270のスタイルで3フ
ィートながら美しいロコであった。あえて難点を言えば、サンドドームが高すぎ
ることだ。参考書によればBLW製番 8956,1897 年製である。
この金網を外して更に植物も一時移植して
写真を撮りたい。とにかく前方が三角に
詰まっているので、撮影が難しかった。
ワゴントップのボイラーだから、サイド
ビューを美しく撮りたかった。
火室の焚口を見ると、やはり重油焚き
だったことが判る。私は、産まれた時から
重油焚きという機関車があったということを、キューバに来て初めて知った。
この日はこの後、昨日の鉄道博物館のアルコの走りを撮るか、運転手の Eddy 氏
の情報「412JUAN PEDRO CARBO SERVIA の蒸機が、シエンフエゴスか
らサンタクララまでツアー列車を牽引する」のを撮るか、2案あるが Eddy 氏が
熱心なので412の蒸機案にする。昼飯をサンタクララ駅
近くで取り、少し離れた場所に移動しカメラを構えた。
2時間近く待った挙句のご登場は、乳母に手を引かれる
稚児ならぬDLのぶら下りでの回送の姿だった。
15
3月12日
16
CENTRAL PEPITO TEY
(30 インチ)
待ちに待った PEPITO TEY だ。日本にいる時から、1357の美しい写真を撮
りたくて、「先ず磨こう」とか「どうすればあの鉄条網を外してもらえるか」な
どと杉行夫と話していた。そしてこの日を迎え、現場にやってくると、どう言う
訳か鉄条網はなくなっていたが、カウキャッチャーの前に土砂が捨てられていて、
ゴミ捨て場の様相。残念ながらこの対策はしてこなかった。ちょうどクッキーの
缶の蓋のようなものが捨てられてあり、これを使って少しずつ土砂を削り取って
低い方に流す作業を始めた。杉行夫は車輪、動輪を隠している雑草をむしり取っ
ている。そのうちに、通りかかった老人が、「俺は蒸機を運転していたんだ」そ
して「ピックを持ってきてやる」と言っている。やがてその老人は、日本で言え
ば雑草取りに使う鍬を持って来てくれた。グラシアスと答えて使い始めたが、こ
れが結構難しい。老人は私のへっぴり腰を見て直ぐにピックを取り戻し、作業を
始めた。そのスピードの速いこと。これで私たちは「磨き」を始める。日本から
持ってきたタワシで積もった埃を取り、セントラルの人にオイルをお願いして磨
き始めた。高いところ、面積の広いところは杉行夫の世界。写真に写る側しか磨
いていないが、午前中いっぱいを要した。
さすがに綺麗になった。心行くまでじっくり写真を撮った。角度を変えたり、後
悔しないように色々やってみた。しかし今編集してみて、結局最初の一枚に戻っ
てしまうのはなぜだろうか。これが私の審美眼といおうか、美しさを拾い上げる
フィルターの限界なのだろう。井上一郎*9ならどういう写真を撮るだろうか。
何とかしてこの1357の写真を撮ってもらいたい。
今年は機関庫跡に放置されているロコの写真を撮ることにする。と言うのは
去年は雑草、雑木が蓋い茂っていて機関車に近づくことさえ困難であったが、
16
今年は1ヶ月早かったからか、その条件が好転している。確かに簡単に近づけ
はしたが、ロコ達の荒廃は目を覆うばかりである。あれほど美しい機関車群を
管理運転していたこのセントラルが、何故このようになってしまうのだろうか。
右の写真は一度走ってい
るところを見たかった、
インサイドフレームのモー
ガル1164である。その
昔、基隆炭鉱の内側スティ
ーブンソン弁装置のロコは
大人では手が入らないので
子供たちが弁の調整を行っ
ていたということを杉行夫
に聞いたことがある。
610mmのフレームの中
はさもあらん。しかし762mmの棒台枠の中はそれ以上だったかもしれない。
さて Pepito Tey の機関車たちは夫々個性豊かであるが、私が描いた夢と現実
は相当の開きがあった。私の夢は「1357以降の自社購入分については、
1357同様の美しさが保たれているに違いない」というものであった。しか
し残念ながらその後の自社購入1358,1164,1165の3両は1357
の美しき姉妹といえるほどでもないようだ。さて1357については夜間にも
う一度訪問して、仕上げの写真を撮ることにしよう。それまでに ESPARTACO
に行こうと言うことになった。
17
CENTRAL ESPARTACO (30 インチ)
とれいん増刊「蒸機の時代」NO.5
松尾彦孝氏の機関庫から顔を出す4両の重量級BLWの写真は ESPARTACO
を語る秀逸の一枚であろう。車で向かいながら、どのくらい残っているのだろ
うかと考えていた。まもなくセントラルに着き車は廃屋となった工場の中に入
ってゆくが、咎める者もいない。機関庫の前に着いた。これはひどい。水害が
あったようだ。機関庫に入るカーブしたレールも既になく庫の中は雑然として
いる。未調査であるので確定的なことはいえないが、ここのBLWは大きい。
特にテンダーにイコライザー
付きの 台車 を履いて いる も
のは、テンダーそのものが大
きく立派である。またここの
ロコ達の形態上の特徴は
PEPITO TEY 同様、細くて
背の高 い3 つのドー ムに あ
る。残念ながら、5体満足の
ロコがいなかったので、それ
をこの 目で 確認でき なか っ
たのが 心残 りとなっ てし ま
った。
17
3月13日 今日は忙しい1日となりそうだ
18 国道脇の機関車 ( 30 インチ)
Aguada de Pasajeros インター近くのBLWを見る。参考書では
この機関車は MINAZ の1163で BLW7691 であった。動機は
不明だが同じ BLW の銘板 7472
に付け直されているというのだ。
友人の須賀健一郎*10がぜひ
調べて来いと言うのでやって来
たが、確かに銘板が浮いている。
これは 7691 のボイラー径が
7472 より細かったと言うことか。須賀の領域。
CENTRAL GUILLERMO MONCADA (30 インチ)
参考書では前項 18 のBLWもこのセントラルの FORMER LOCOMOTIVES
に記載され、また別に保存機関車があると書かれてあるので訪問することにし
た。工場に近づくと「閉鎖されてから
余り時間がたっていない」感じがした。
そして放置された蒸機の姿がチラリ
と見えた。工場に向かうと、正門に入
る道路の角、教会の向かいに機関車が
展示されていた。18 のロコより一回
り大きい。軸配置はモーガルだ。後悔
せぬよう、細部についても出来る限り
写真を撮った。一通り撮影を終えたの
で工場に向かう。
工場正門で Eddy 氏が来意を告げ
入門の許可を得ている。少々時間を
要したがOKが出た。工場設備の撮影は一切ダメと言われた。勿論判っている。この
ような時に Eddy 氏は、我々の実績を語ってくれるから、説得しやすいのだと思う。
有難い人物だ。我々が工場に入ると、4,5名の工場の人が案内役で付いた。まだ使
える工場設備の間を抜けてゆくと、先ほど外から見えたロコが現れた。何と Pepito
Tey の1236ではないか。
未だ調査中だが、この地コン
スタンシアに CONSTANCIA
と言うセントラルがあって、資
本
本は PEPITO TEY に受け継が
れたとの記録があった。何かの
因縁だろうか。
ー
左の1236も3ドームだが、
後ろのサンドドームが極端に
小さい
小さいのが残念だ。
③CENTRAL APARQUE ALTO (30inch)
19
18
20 CENTRAL PARQUE ALTO (30 インチ)
参考書にヘンシェルと書いて
あったばっかりにセントラル
跡を探しに探してやっと辿り
着いた。そして機関車の場所
も、地元の人が「ここから行
くのだ」と言ってくれたから
分かったものの、我々だけで
は決して分からない草薮の中
だった。セントラルの煙突も
見えず、何故このような場所で朽果てることになったのか、興味は尽きない。
帰り際に「水を飲んでゆきなさい」と近くの家の主婦から声がかかった。
有難く頂戴していると、私たちの作業を見ていた近くの家の女の子もペットボ
トルに入れた水とカップを持って現れ、「うちにも寄ってゆけ」と言う。3杯
は飲めないので有難くお断りしたがサマリヤびとに会った思いがした。*11
21 CENTRAL CATORCE DE JULIO (30 インチ)
ヘンシェルを見た後このセントラルに近づくと、煙突から盛大に煙が上がって
いるではないか。30インチの鉄道で生きているセントラルは初めてだった。
特にチェックもないまま機関庫に来てしまった。DLだけで蒸機の姿はない。
Eddy 氏が例によって話をしてくれて「機関庫だけなら OK」となった。カメ
ラを持って車を降りて庫に入ると、2両のDL(B+B)が分解整備中であっ
た。奥のほうには同じ外見のソ連製 DL があったが、廃車になっていたのかも
しれない。右の写真は帰る時
に車の窓から撮ったものだが、
10年前ならばBLWのコン
ソリ数台でせわしなく働いて
いたのだろう。実はこの時、
もう1台のDLが左の側線に
いて、都合3両のDLが唸り
をあげていた。この時の私の
気分「十分に幸せ」であった。
この鉄道の機関車は、ここに
3両、修理中2両、現場に
2∼3両とすると合計7∼8両ということになる。このセントラルの鉄道輸送
を、蒸機でしかもこの両数でこなすことは無理であろう。スティームエンジン
は愛すべき機械だが、ディーゼルエンジンに比べてその非力さは覆うべくもな
い。2005 年9月末にフィリピンの LA CARLOTA というセントラルに蒸機を
見に行った時のこと、107 というモーガルを逆機運転中にテンダーを脱線させ
てしまった。ロコは生きているのでテンダーを牽いてリレイラーに乗せようと
するのだが、ビクともしない。やがてDLがやってきてロコもろとも引きずり
出した。あっという間の作業であった。ディーゼルエンジンは大した物だと
その時感心したのだった。
19
22 CENTRAL
MAL TIEMPO (30in)
機関庫の様子は 1 年
経った今も変わりない。
あえて言うなら、一番
左の側線にあった番号
不詳のロコが更に裸に
近づいたことだろうか。
ここのロコ達も、元気
なのに突然休養を命ず
と言われたようなもの
だから、「いつでも走
れます」と私たちに語りかけている気がする。今年はスタンダードゲージのレー
ルに案内されびっくりした。去年、その存在さえ気が付かなかったのだから。
4ft8.5in の蒸機は 1621(グラウンドの向こうにある廃車)とこの 1848 であるが、
1848 は「2 度と動かない」と決意した様子だった。
スタンダードゲージのレールを歩いて30インチの機関
庫に戻る途中、4ft8.5in と 30in の平面クロスを見つけ
た。OBDULIO MORALES にも 27.5in 同士の平面クロス
があったのだが、レール配置にぞくぞくする私としては、
もう一度こなくてはならない理由が見つかったというも
のだ。愈々影が伸びてきたので、そろそろホテルに帰ろ
うと言うことになった。1621 をグラウンド側から撮ろう
と思ったら、野球試合の真っ最中。3角ベースだが真剣
そのもので全員裸足ながら硬球を使っている。キューバでは野球が国技だ。*12
20
3月14日
23
今日も何箇所かをまわるつもりだ。
CENTRAL ANTONIO FINALET (30 インチ)
SAGUA LA GRANDE の町外れを流れる大きな川を渡
ると、左に立派なカトリック教会が現れる。そこに大
きな十字路があり、真ん中辺りの舗装が剥げている部
分に30インチのレールが顔を出しているところが
ある。我々もこれに沿って右折し、セントラルに向か
う。途中道路の右手に線路敷きが残るところもあり、
思わず想像をめぐらせてしまう。やがてセントラルの
あった場所に到着したが、工場設備は何もなく、手前
の空き地に MINAZ 1151 の無火機が展示されていた。
メジャーで
測って見る
確かに30
インチだ
CENTRAL JOSE R RIQUELME (30 インチがあった)
参考書からは希望的観測が見出せないが、何があるか分からないのがキューバ
の鉄道だ、と言い聞かせてやって
きたが、やはり駄目らしい。30 イン
チがいそうな気がしたが4ft8.5in で
さえ怪しい状況だ。とにかく設備の
荒れ方がひどい。右の写真を解説す
ると、「合いそうなメタルを外して
持って行った。ただ 2 度と走らない
から、メインロッドは元に戻さなく
ても良いのだ」と言うことならば余りにも悲しい。
24
25
CENTRAL
QUINTIN BANDERAS
(30 インチ)
右は途中で見かけたロコだが, 杉行夫
によれば貝島の COOK に近いと言う。
参考書を良く見ると RAMONA は
現在の QUINTIN BANDERAS で、
このロコは DAV.1919 年製との
こと。由緒正しい出であった。
21
26 CENTRAL ESTEBAN HERNANDEZ (30 インチ)
全く期待しないで行ったのだが、驚くべきことが起こっていた。ESPARTACO
の1327号機がここに来ていて、観光客を乗せた客車を牽いている。全く何が
あるか分からないのだ。このサイドビューを見ていただきたい。PEPITTO TEY
の 1357 と同じよ
うに、背が高く
細目の三つのド
ームが美しさを
誇っている。
この部分だけを
見ていると、小型
機関車に見えて
し
しまうが、決して
小型ではないは
ずだ
ずだ。これからの
調査に期待しよ
う
う。蒸機が好きで
堪らぬと言った
風
風情の老機関士
が「明日は走るかも知れない」と言った一言に突き動かされて、翌15日も来て
しまったのだが、期待外れであった。そこでその機関士に「お金の問題ならば・・・」
と水を向けると「観光局との約束は、お金ではなく子供たちのために走らせると
いうものです」との答えであった。機関士はこうも言った。
「列車の走るルートは、
ここから約1500m先のトンネルの手前までです。」そこで、帰りの車の中か
らレールの行く手を見ていると、確かに左にカーブした先に GIBARA で見たよ
うな背の高い素掘りのトンネルが見えた。
この鉄道と1327を撮るには、事前に観光局と摺り合わせ
る必要があるのかもしれない。少なくともセントラルだけで
は力不足と思われる。色々考えて見たい。
4ft8.5in と2ft6in の 3 線式のポイント。ここを1327が
ゴトゴト渡ってゆくのだ。堪らな∼い!
このセントラルの古強者1523(BLW42479)
22
27 CENTRAL JOSE SMITH COMAS 鉄道博物館(4ft8.5in)
前項の ESTEBAN HERNANDEZ から遠くないところにこの博物館があった。
中身はまだまだであるが、こうやって朽ち果てる機関車を少しでも救うこと
が出来れば、それはそれで意義のあることではないか。
上の写真は博物館の入り口に展示されている
SIERRA DE CUBITAS(P10)の 1249 である。
左は博物館の中で陳列されているロコ達。
レールを切ってしまうのは、見る人間の夢を壊
しているようでちょっと残念だ。
ここが MARCELO SALADO 鉄道博物館のようになるには、少々時間がかかるかもし
れない。しかし基本的にキューバ国営であるから、質の高いものを選んで進めれ
ば必ずや良い博物館になるであろう。スタンダードゲージはこれら二つの博物館
でよいし、3フィートはハバナのレーニン公園がある。何もないのが30インチ
なので、なにかきっかけを作れれば思っている。
3 月 15 日
この日は ESPARTACO の機関車が走るかも知れないので、勇んでホテルを出た。
なのに私たちの車は高速道に入って間もなく前輪の左タイヤがパンクし、立ち往
生となった。約3時間を要して出発となったが、前のページに記した通り、残念
ながら1327は走らなかったのである。
CENTRAL OSVALDO SANCHEZ
(36 インチ)
このセントラルは閉鎖されているが、何か活動があるようで、人の出入りもあ
る。また参考書にはスタンダード
ゲージと30インチの機関車たち
が記載されているが、廃車体を見
てもどうも大きいのでゲージを実
測すると36インチであった。
自分の影が長くなっている。小学
校の頃、市谷に住んでいて、高台
の野原では遮る物がなく、自分達
の影で鬼ごっこをしたことを想い
23
出した。 さあ帰ろう。
3 月 16 日(日曜日)
29 PL EL PARQUE LENIN
(レーニン公園
36 インチ)*13
ハバナ市の山手に広大な面積のレーニン公園がある。そこに延長4∼5kmの
エンドレスだが 3 フィートゲージの本格的な鉄道が運営されている。去年は余り
良い写真が撮れなかった。と言うよりは、パソコンへの入力ミスで撮影した写真
データを失ってしまった苦い経験がある。(今年はこれまでのところパソコンと
の関係は順調だ)と言う訳で再挑戦と言うことになった。
何と言っても今年の快挙は、これも Sr.Eddy のお陰だが、機関庫に入れて貰
えた事だ。蒸気機関車を愛する人間にとって、「機関庫」は鉄道施設の中でも特
別に重要な存在である。そこに行けば、その鉄道の機関車たちのラインアップが
分かり、同時に機関車たちがどのように愛されているかも直ぐに分かるからであ
る。
1350↑と2号↓(インサイドフレーム)
↑機関庫全景:左から 1431,1373,赤シャツの
後に 1350,その後に 2 号機,そのず∼と後に
←機番不詳機。
この機関庫には大型の工作機械類はない。
従って小修繕程度の工事までしか行えないので
はないか。右のエアーコンプレッサーは中国製
24
であった。発電機も中国製が目立つ。
3 月 17 日
30
CENTRAL AUGUST CESAR SANDINO
(36 インチ)
MINAZ の機関車セール一覧 表に は、 こ の鉄 道か ら 1404 ,1405 、1350 と
Hermanos Ameijeiras から転入した 1667 の計 4 両がリストアップされており、
(1350 はレーニン公園に転出)積極的な動きが見えるので「もしかしたら生き
ているかもしれない。少なくも MALTIEMPO 程度に残っているだろう」と期待
して出かけた。しかし現実には荒れきった廃車体が野晒になっていたのであった。
一番手前の 1404(ALC58746,1919 年製)は、テンダーフレームが裏返しに捨てら
れ、テンダー本体のオイルタンク部分は離れたところに転がっていて、その先に
ロコ本体があった。しかし身ぐるみ剥ぎ取られ脱線させられている。この痛々し
いロコは上芦別の9200のような膨らみのある煙室扉と太くて大きいボイラ
ーのアウトサイドフレームのコンソリであった。火室のケーシングはなくなり
お釈迦様の頭のようなコブコブの控えが並んでいる。はじめて見る控えの形式で
あった。全体的に老朽化が進んでいるとは思えないのに、ボイラーの両側の鏡板
がぎりぎりまでガスで切り取られ、絶対に復旧出来ないようにしてあった。
杉行夫は「国が決めた閉鎖に納得できない現場の連中がやったのだ」と言ってい
たが、そうかもしれない。
1404 以外に形が残っているロコは、1405 と OSVALDO SANCHZ から転入した
インサイドフレームの
モ ー ガ ル 1364 、 そ れ に
HERMANOS
AMEIJEIRAS
から転入した 1667 の 3 両で
ある。
この後ハバナに戻り、再度
レーニン公園を訪れ車両の
た。
状況などを確認した。
25
3 月 18 日
今日は素晴らしい一日だった。第一に、伊藤勝さんから教えて頂いた Sr.Viralino
さんとコンタクトがとれず、また時間的な余裕がないので我々の旅行社トラベル
ボデギータの佐々木さんにお願いして、とにかく MINAZU(Ministerio del
Azucar = 砂糖省)に行こうということになった。MINAZU の実に親切な受付
で、Sr.Viralino について訊ねたところ、彼は関係会社の営業担当と言うことが
分かった。多分彼では我々の質問に答えられぬであろうから、MINAZU の鉄道
の担当者を紹介して欲しいとお願いしたところ、「ちょうどその人が別件で受付
に来るから紹介しよう」と言ってくれた。
やがてその人がやって来て、名刺を交換することになった。その人の名刺には
Ing. MANUEL
Especialiste
Direccion
CHAVEZ
SAEZ
Transporte
Ferroviario
Mantenimiento
Integral
*14
このように書いてあり、正に私たちの求める人であった。早速 RASS の DVD
見てもらいながら、須賀健一郎から貰った Santa Lucia #8 の図面と、「これが
叶わなければせめて」との意味で、臼井茂信氏の「日本蒸気機関車形式図集成」
から形式7000のコピーを渡し、
RAFAEL FREYRE
1180
SIERRA DE CUBITAS
5・・・フォーニー
PEPITO TEY
1357 , 1164:インサイドフレーム モーガル
ESPARTACO
1327
MAL TIEMPO
1345
これらの機関車の図面を頂けないか、或いは写真を撮らせて欲しいとお願いした。
彼は「もっと早く来てくれれば」と言いつつ「探して見よう」と言ってくれた。
私が「実は明日午後の便でキューバを発つのでせめてPEPITO TEY の1357
だけでも明日戴けないか」とお願いすると「明朝 8:30 ここに来てくれ」との
返事だった。もうひとつ「鉄道博物館に行きたいのでご紹介願いたい」申し出る
と「館長に連絡した。彼が出迎えるそうだ」との返事。本当に有難いことだ。
という訳で、鉄道博物館に出かけた。
約束通り館長 Indalecio Gonzales Guzuman さんが出迎えてくださり、別
室で博物館の概略の説明を聞いた。その後博物館の展示品を写真に撮り、別室に
戻ったとき、佐々木さんが「館長に RAFAEL FREYRE の 1 号機が 130 歳にな
っても元気な秘訣は何か聞いたのよ、そしたら素晴らしいことを仰るのよ!」と
言 う。 そこ で質疑応 答の 時間 に、 もう一度 その 質問 を したと こ ろ、館長 は
「それは愛です。現場の人間はみな機関車を愛しています。セントラルが閉鎖に
なるとき、現場の男たちが泣いたのを何度も見てきました。」と言ったのだった。
私の「機関車への愛に憧れる心」は久し振りに打ち震えた。ここキューバに来て
さらに叶えられたのだ。このような精神面の話題は、日本の中でさえ難しい問題
なのに、海の向こうのキューバで話が出来たとは!
本当にうれしい時間だった。
26
まとめ
1.蒸機の美しさ再発見
私はこれまで蒸気機関車の美しさは、下回りの車輪(先輪、動輪、従輪)配置
とボイラー上の煙突やドームとの関係が大いにあると思っていた。しかしキュ
ーバの CENTRAL に来て感じることは、ロコ達が殆どアウトサイドフレーム
で、かつ動輪径が小さいことから、下回り・車輪配置は擂りガラス越しに見て
いるような、個性のない平板な印象になっていて、上回りとの明確な関係を設
定できないのだ。けれども美しいロコがいる。それは PEPITO TEY の135
7と ESPARTACO の1327に代表されるのだが、特徴的な細身の3ドーム
の存在感とドーム夫々の太さと高さの絶妙なバランスの美しさが、いわば没個
性的な下回りを引き立て役に使っているとさえ思えるほどだ。つまり上回りの
美しさだけで十分美しいと言える機関車があるということが分かった。今回下
島啓亨が『鉄道讃歌』のために製作した9200の図面のコピーを持参したが、
改めて見直して9200の3ドームもこの範疇なのだと確信した。
2.図面の問題
19日朝 MANUEL CHAVEZ SAEZ 氏が下さった資料は図面ではなく、
ロコの下回りの主要寸法が入った資料であった。機関車の美しさは上回りにも
あるので、改めて図面集めについて考えよう。
① 上芦別の9200の図面は、大夕張から上芦別に BLW の原図が回送され、
機関庫にあった。キューバでも同じように現場に原図がある(あった)の
ではないか。その点を MANUEL CHAVEZ SAEZ 氏に尋ね、本省に原
図があれば良し、無い場合は現場への問合せも含めて入手お願いする。
② 須賀健一郎に BLW ロコの図面再発見をお願いする。
3.キューバにおける蒸気機関車運転の状況
① 4ft8.5in
1)MARCELO SALADO 鉄道博物館は毎日運転している。
2)JUAN PEDRO CARBO SERVIA の蒸機が不定期だがツアー列車を
牽引している。
② 3feet
レーニン公園・・・土曜、日曜日に運転している。
③ 2ft6in
1)RAFAEL FREYRE ツアー客のために蒸機運転を行っている。
2)ESTEBAN HERNANDEZ 子供たちが集まれば運転する。
以上は私たちが実際確認した状況である。
これを我々鉄道ファン、蒸機ファンの喜ぶ企画にするには MINAZ だけでは
なく、まだ我々が十分に分かっていない観光局部門ともコンタクトする必要
があると思う。
4.資料
① SANTA LUCIA#8 の図面
③ 1357の MINAZ 資料
② MINAZ の蒸機セールス一覧表
④ 地図:我々の訪問先
27
5.注記の解説
*1 CENTRAL
キューバの旧宗主国スペインが、植民地での砂糖生産のために取入れたまさに
中世の荘園制度であった。革命以前の資本家は殆ど米国であり、それがアメロ
コの導入につながったと言う側面はあるものの、労働者たちは砂糖キビの収穫
期 1∼4 月の 3,4 ヶ月だけしか賃金を貰えず、悲惨な生活であったと言う。女性
はハバナに流れ結果的に体を売ることになった。また働きの悪いインディオを
一人残らず虐殺した暗い歴史も。今いるインディオは近隣スペイン語圏から移
住させられた人々である。そしてCENTRALの呼称は革命後も存続してい
るが、企業体の名称は全て変更された。例えば CENTRAL SANTA LUCIA は CENTRAL
RAFAEL FREYRE のように。これに従って地名も変更されているが、旧称の方が
通じやすいらしい。
*2
反圧ポンプ
ボイラーで作られる高圧蒸気はどんどん消費されるので、ボイラーには注水
が欠かせない。この注水の方法としてピストンのクロスヘッドから動力を得
るレシプロポンプが反圧ポンプである。私はこの形態が好きだ。日本では輸
入機関車に装着されていた写真があるが、その後外されてしまったようだ。
去年の RAFAEL FREYRE では1882年製の1号機(BLW4566)が走ってお
り、機関庫に入れて貰らえたので、機関士や整備士と話す機会があった。そ
こでこの反圧ポンプとインゼクターのどちらを主に使用するのか訊ねたとこ
ろ、答えはこのポンプであった。溜飲の下が
る思いであった。しかし「半圧ポンプ」という
名称を知っているものが私の周囲にいないの
はどういうことだろう。決して私の造語では
ないのだ。
去年の Rafael Freyre では
1 号機が稼動していたのです!
右の機関車は、今年稼動した1388の
同型機1387です。
*3
鉄道讃歌
1971 年 2 月 けむりプロ製作編集、交友社発行の写真集単行本。
けむりプロは慶應義塾大学卒業の蒸気機関車大好き人間 7 名(下島啓亨、故・
倉持尚弘、青山東男、井上一郎、杉行夫、梅村正明、内田眞一)が1965
年に結成したグループのこと。
「鉄道や蒸気機関車の美しさとは何か」につい
て侃々諤々議論をして鉄道讃歌を編集した。私の場合、鉄道趣味に関しては
この時以来あまり成長していない。
*4
伊藤勝さん
私の慶応義塾中等部時代のクラスメート伊藤治代(旧姓大倉)さんのご主人。
氏が外務省出身で中南米に強いことが分かり、今回のキューバ行きに色々ご指
導を頂いた。
28
*5
ハバナ中央駅前の機関車たち
どのような構想の下に機関車を集めたのか定かではないのだが、数両の機関車が乱雑
に放置されている。殆どはスタンダードゲージで、本文に写真挿入した0−6−0は
30インチ Rafael Freyre の 1 号機の姉妹機、MINAZ 制番 1181 である。
ROGERS1892 年製番 4647
BLW1878 年製番 4502
O.KOPPEL?
H.K.PORTER(0-4-4)1905 年製番 3356
COOKE
1891 年
製番 2114
30 インチ
BLW 1900 年 製番 18371
ハバナに近い CENTRAL
GREGORIO ARLEE MANALICH
出身だ。
29
*6
BANES
RAFAEL FREYRE のある SANTA LUCIA からほぼ東へ32km走ると BANES と言う
町に入る。ここには 36 インチのレールを持つ CENTRAL NICARAGUA があったが、
かなり昔に閉鎖したらしい。が、街中の小さな公園に、おもちゃのような H.
K.PORTER の 0−4−0 テンダー機(製番 964,1888 年製)保存されている。こ
れが実際働いたとはとは思えないほどのちゃちな作りであった。
*7
MANUEL TAMES の機関車
参考書によれば MINAZ ナンバー1259、BLW39006,1913 年製である。
*8
フォーニー
蒸機にはテンダー式機関車とタンク式機関車がある。テンダー式は水と燃料を
テンダーと呼ばれる車両に積込み機関車本体と固定的に連結される。タンク式
は 機 関 車 本体 に 水 と 燃 料 を 積 込 む 方 式で 、 水 タ ン ク の 設置 場 所 に よ っ て
①サイドタンク(p21) ②サドルタンク(p9)③リアータンク(p10)
④ボトムタンク と呼び方も変わる。フォーニーはリアータンク式であるが、
従輪を2軸の台車にしたものの呼称となっている。
*9
井上一郎
けむりプロのメンバーである。機関車だけを撮ったものを形式写真と呼ぶが、
彼の形式写真は素晴らしい。女性を撮るプロのカメラマンがいるが、多分一瞬
でその女性の美しさを解明し、その通りに写真にするのであろう。井上一郎も
蒸気機関車に対して同様のセンスがあるのだと思う。私には残念ながらない。
*10
須賀健一郎
高校鉄道研究会同学年の仲間。キューバ行きが決まる以前から、色々資料を探
し て く れ て 応 援 し て く れ て い る 。 MINAZ の 蒸 機 大 売 出 し 一 覧 表 や SANTA
LUCIA#8(現 RAFAEL FREYRE1390)の図面は本当に大助かりである。
忘れてはならぬこと:現RASS3 号機を台湾から移入した際、我々はボイラ
ーの免許を受けるために通産省を訪れた。色々なやり取りがあって、ボイラー
チューブの交換を命ぜられた。私は汽車会社に在職中の須賀に本件の応援を依
頼した。彼はチューブ径を上げて蒸気発生量を増大させる設計を行い、見事承
認を得て現在に至っている。(工事は国鉄小倉工場である)
*11
良きサマリヤ人のたとえ
新約聖書ルカによる福音書 10 章33∼37節
*12
キューバでは野球が国技だ
ちょっとした都市には必ず野球場があった。この日はウィークデイだからなの
か人数集めに苦労しているのかよく判らないが、三角ベース方式で小さな子供
まで一人前に扱って試合をしていた。裸足だが硬球なのでグラブは使う。
*13
レーニン公園
レーニン公園の汽車はうらやましい環境の中で走っている。ただ難を言えば
客車が 2 軸なのでアメロコには似合わない。出来ることなら、草軽や小坂の
客車が使っていた日本式イコライザー付き台車を履かせたい。
*14
役所の高官
キューバでは地位が上がるほど清貧主義と公僕の概念が徹底してくるように
思えた。翌日の面会時間について最初に彼が私に提案したのは午前 8 時であ
った。日本の役所では難しいことだ。
完
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