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次世代に伝え継ぐ 日本の家庭料理
一般社団法人日本調理科学会 平成 26 年度 『次世代に伝え継ぐ 日本の家庭料理』 聞き書き調査報告 1.調査者支部:東海・北陸支部 き な さ 調査地域名:長野県長野市鬼無里(西山) 調査者名:中澤弥子、小川晶子、高崎禎子、小木曽加奈、吉岡由美 聞き書き調査対象者:T.K. 男性 1938 年生 出身地:鬼無里 居住年数:75 年 他8名 男性2名・女性6名(78 歳~90 歳)、 全員鬼無里出身、鬼無里内で結婚、居住年数 30 年以上 調査協力者名:小林貞美・有澤玲子・戸谷けさ子・原山君代 2.調査対象地域の暮らしと食生活の特徴と概要 <地勢・気候> 調査対象地域である長野市鬼無里(旧上水内郡鬼無里村、2005 年に長野市 へ編入合併)は、長野県の北部、長野市の北西端、長野市中心部より西方へ約 20kmに位置 する総面積 135.64km2、標高は最低地で 649m、最高地で 2,044m(旧村役場・現長野市鬼無里 支所が 693m) 、山林面積が 85%を越え、犀川の支流・裾花川の源流に沿う渓谷型の盆地であ る。人口 1,686 人(2013 年3月1日現在)、年間平均気温が 8.3℃(1991 年~1996 年の平均)、 冬期に積雪が多く、かつ内陸性気候で寒暖の差が大きい、平均すると冷涼な気候である。 <生業> 第二次世界大戦前までの主な現金収入源は、麻、炭焼き、養蚕で、鬼無里では江 戸時代から麻の栽培が盛んに行われ、麻と畳糸による現金収入が村の経済を支えてきた。戦 後、麻価格が暴落し、栽培も規制され、麻栽培は 1955 年末には行われなくなった。麻に代わ ってタバコの栽培が始まったが、その影響で養蚕を止めることになった。その他、蔬菜栽培 や酪農が行われたが、1960 年頃から兼業農家が増え、都市部に若年世代が流出した。多くの 中山間地域と同様、人口減少、少子高齢化が課題となっている(資料:国勢調査、世界農林 業センサス:1950 年人口 6209 人、農家総数 839 戸、専業農家 545 戸;2010 年人口 1,241 人、 販売農家数 133 戸、専業農家 50 戸) 。さらに、近年、サル、イノシシなどによる鳥獣被害や 遊休荒廃地の増加が深刻化している。一方、鬼無里は、奥裾花の水芭蕉群落などの豊かな自 然や、紅葉伝説、由緒ある寺社など、観光資源に恵まれている。自然・歴史・食文化を活か した観光イベントである食の文化祭やおやき作り、箱膳体験や農業・林業体験、農家民泊に よる修学旅行生の受け入れなど、人と人、都市と農村が交流してコミュニケーションできる 取り組みや長期滞在型観光のための試みが、地元NPOや各種団体、地域の人々の協力によ り行われている。 <食料の生産> 1955 年頃までは、品種もよくなく肥料も草を入れる程度で十分でなかった ため、米があまりとれなかった。条件の悪い田には稗を植え、畑では粟、ソバ、小麦、大麦、 豆類、野菜類を麻や桑の栽培の合間に自給用に栽培した。現在では、品種改良や有機肥料の 使用により、おいしい米が収穫できるようになり、自家用や販売用に米を栽培している。芋 類、豆類、野菜類を自家用や販売用に栽培している。鬼無里の特産物であるイクサ(エゴマ) や野菜、山野草、乾燥野菜、手作り味噌などを、鬼無里地区にある農林産物直売場「ちょっ くら」で販売する農家が多い。 こなもの <日常の食> 日常の食事では、一日一食以上は、粉物(麦、ソバ、モロコシなどの粉で作 ったオヤキ、スイトン、ウドン、ウスヤキなど)を食べていた。粉物は、朝晩に食べ、昼食 めし には力仕事を行うので、ご飯を食べた。大麦の入ったご飯(バク飯・ワリ飯)か、カテ飯(ヒ キワリ[挽割麦]とカボチャ、カブ、粟、稗などを混ぜて炊いたもの)が主だった。米と麦を コメント [NH1]: 日本の家庭料理の定義は、 各地域の自然環境の中から育まれた食材を 中心とした(用いた)日常食または行事食など で、1960~1970(昭和35~45)年頃までに定 着していた地域の郷土料理とする(調査ガイド ライン参照)。 コメント [NH2]: *聞き書き調査の対象者 は、原則として、その地域で生まれ育ち、その 地で30年以上居住した60代(できれば70代以 上の方で、家庭の食事作りに携わってきた人 とする。聞き書き調査は、一地域においてでき れば複数(2~3人)の話し手に対しておこなう ことが望ましい(調査ガイドライン参照)。本報 告(案)では、当地域で「食の風土記」を編纂 する調査と同時並行して行っているため、調 査人数が多いが、本調査を理想的に行うには、 2~3人の聞き書き調査対象者が望ましいと思 います(中澤)。 コメント [NH3]: 国勢調査、都道府県・市 町村史(特に民俗編) 、村勢要覧、世界農林 業センサスなどが参考になります。 混ぜる割合は、家によって一様ではなかった。魚や肉は盆や正月、行事で食べる位だった。 味噌汁、漬物、野菜(マナ、大根、白菜、野沢菜など)のいりつけ(油炒め)や煮物が主だ った。山野草の和え物、キノコ、ハチノコ、イナゴなど、野山の四季のめぐみも有効利用し た。 現在では、白米のご飯に、自作の畑作物に加え、野菜も購入し、魚や肉、卵など購入して 食べるため、保存食の必要性が低くなり、おかずの種類は豊かになった。味噌汁、漬物は、 減塩に留意しながらも食べ続けている。囲炉裏がなくなり、以前の作り方(灰焼き)ではオ ヤキを作ることができなくなった。現在は、蒸し器やホットプレートで作っている。また、 スイトンなどの粉物は昔を懐かしんで一部の農家で地粉を購入して手作りされている。 <食料の保存と加工> 冬場から春先の食料を確保するため、ジャガイモや大根は、室や外 の畑に穴を掘って埋けて保存した。また、野菜や山菜などを漬物や乾燥野菜に保存・加工し た。漬物は、味噌漬、大根漬、塩漬(キュウリ・野沢菜など)、奈良漬(客用)、梅漬などを 作った。現在も、自作の野菜を漬物や乾燥野菜に加工しているが、直売場などでの販売のた め、おいしく作るため、より手間がかかる方法で行う(予備乾燥させたカボチャを蒸して再 乾燥する) 、天日干しだけでなく機械乾燥を行う、減塩など、加工方法は一部変化している。 <調味料> 味噌は自家製、味噌のおすましを布で絞って醤油の代用とした。現在は、共同 の加工場を利用して、味噌を自家用および直売場で販売するため加工している。 お か <間食> 間食のことをオコビレといった。麻の皮剝ぎ(麻搔き)を夜遅くまで行ったので、 仕事の合間や仕事の後にオコビレを食べた。オコビレには、お茶と漬物、いり豆、煮豆、カ ボチャの煮物、キナコムスビ、コネツケ、センベイやウスヤキなどを食べた。お茶を飲んで 眠気を覚ました。子どものころは、オヤツのような決まった時間はなく、遊びながら季節の 野山の草や花、実を食べた。現在も、漬物などと一緒にお茶を飲む習慣は続いており、本聞 き書き調査においても、毎回工夫を凝らした各種漬物、煮豆など季節のおいしいオコビレが 持ち寄られ、お茶と一緒に調査の始まりや合間においしくいただいた。 <ハレの食事・行事食> ハレの食事としては、赤飯、おはぎ、餅、白米、雑煮、魚、天ぷ ら、団子、粥などが、行事のしきたりや言い伝えにより定められ、作り続けられ、食べられ てきたが、現在は、やらなくなった行事や食事も多くなっているようである。 3.伝え継ぎたい日本の家庭料理 鬼無里の自然環境の中から育まれた食材を用いた日常食または行事食で、1960~1970年頃ま でに定着していた地域の郷土料理の中で、伝え継ぎたい家庭料理は、 お た う え ひ ば ・乾燥野菜とその料理:凍み大根の煮物(御田植煮物)、干葉のおこがけ、干カボチャの イクサ和え、干しナスの油炒めなど ・オヤキ、大根引き、浸し豆、各種漬物、山菜の天ぷら、醤油豆、ニシンの昆布巻き ・行事食:エゴ、雑煮(ゼンマイ、エゴマダレ) 、ヤショウマ ・オコビレ:コネツケ、味噌漬入りセンベイ、ウスヤキ、カボチャネリ 4.その他(食の思い出、伝え継ぎたい食に関することなど) 鬼無里では、数多くの行事や祭りが執り行われ、ハレ食が準備されてきたが、その意味や 由来を理解してというより、自然の恵みに感謝し祖先を敬う中で伝統に従って当然として準 お か お か 備し食べ継いできた(「昔からそういうものさい」)。麻搔きは女性の仕事であったので、麻搔 お か きのときは男性がお勝手をやった。麻搔きが終わった家では、お返しをしないでいいように カボチャの葉に天ぷらを包んで近所に配った。おかのえ講をはじめ、地域で飲食する講の種 類も数も多く、「嫁の首を楽にしてあげたい」と、新夫婦が嫁の実家に呼ばれて泊まりに行 く機会(みそかだんごなど)や、嫁が里帰りする機会(秋ゴ、春ゴなど)も数多くしきたり となっており、行事食とともに楽しみにされていた。 コメント [NH4]: 「3.聞き書き調査対象 者が語った伝え継ぎたい日本の家庭料理」 から「3.伝え継ぎたい日本の家庭料理」 に訂正します。聞き書き調査対象者が語っ た話をもとに、最終的には調査者が料理を 選択することになりますので、 訂正します。 *2,3,4の記入分量は、自由に増減する。原則としてA4版2頁でまとめる。 書体 MS 明朝 文字の大きさ 10.5 ポイント