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「チェルノブイリ」を見つめなおす‐20年後のメッセージ
はじめに 年後のメッセージ 2 8 6 4 ﹁チェルノブイリ﹂を見つめなおす 目 次 その前日 キロから 四月二六日未明、4号炉が爆発炎上した 周辺 万人が避難した 事故処理作業と石棺の建設 運転員に押しつけられた事故原因 チェルノブイリは北半球のほとんどを汚染した 数百キロも離れた高汚染地域の存在が暴露された 正のボイド反応度係数とポジティブスクラム 事故で放出された放射能の量 急性放射線障害死亡者二八名 事故被災者の分類 周辺住民の急性放射線障害 子どもたちの甲状腺がんが増加した 子どもたちの白血病やその他の健康悪化 汚染地域の食品汚染データ データ 事故処理作業者︵リクビダートル︶の健康調査 汚染地域住民の体内のセシウム 遺伝的影響と胎内被曝影響 チェルノブイリ・フォーラム報告 スウェーデンの放射能汚染地域でがん増加 チェルノブイリ原発事故が起きてからこの四月二六日で二〇年になります。私としてはこの二〇年 間、原子力研究者のひとりとして、二〇世紀の原子力開発が引き起こした不始末のひとつであるチェ ルノブイリとはどんな事故だったのか解明する作業に取り組んできたつもりです。 この機会に、チェル チェルノブイリ事故とIAEAの役割 総死者4000人 ノブイリを ﹁経験﹂ した人には改めて考えて頂き、﹁経験﹂ していない人には知ってもらいたいと思って、 どんな事故だったのか私の知っていることを原子力資料情報室のみなさんといっしょにブックレット 日本に飛んできた放射能 事故経過︵1986年4月 ヨーロッパへの放射能汚染の広がり 日本への輸入食品の汚染状況と市民による放射能測定 日本の原発で大事故が起きたら にまとめてみました。 チェルノブイリ事故が明らかにしたことは、原発で大事故が起きると、周辺の地域社会が丸ごと消 滅してしまうということでした。生活基盤の喪失は、失業や精神的ストレスなど被災者に二重三重の 苦難をもたらしています。チェルノブイリに関わりながら最近私が感じていることは、科学的なアプ 資料1 ローチで明らかにできることは、チェルノブイリという災厄全体のほんの一部にすぎないということ です。その意味で、このブックレットにまとめたこともチェルノブイリという災害全体からみればひ 資料4 資料3 資料2 二〇〇六年三月 とつの側面に過ぎませんが、チェルノブイリを考えるための材料になれば幸いです。 今中哲二 資料5 資料6 RBMK1000炉の仕様 旧ソ連のRBMK型原発 ∼ 旧ソ連の主な放射能汚染地域 日︶ 旧ソ連の原子力開発 原爆からチェルノブイリまで 第2石棺建設計画 参考文献 62 54 | | | | | | 40 | | | | | | | | | | | | 25 | | 26 | | | | | | 60 | 59| 61 | | | | | | | | 64 | : | | | | | | | 63 | | | | 58 30 : : : : : : 49 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 12| | | | | | | | | | | | | | | | 14 | 10 16 | | | | | | 12 | | | | | | | | | | | | | 20| | | | | | | | | | | 24 22 18 | | | | | | | | | | | 137 | : | | | | | | | | | | 44| | | | | 36 | 30| | | | | | | | | 47 | | | | | | | | | | | | | | 42| | | 28 32 | | 38 | 34 | | | 26 | 20 | | | | | | | | | | | | このブックレットは、トヨタ財団助成研究 ﹁チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプロー チ 二〇年を機会とする事故被害のまとめ﹂︵代表・今中哲二︶の一環として、原子力資料情報室との共 同作業としてまとめたものである。原子力資料情報室では、渡辺美紀子が執筆と編集を担当した。 : その前日 その日の前日、一九八六年四月二五日︵金︶、旧ソ連ウクライナ共和 国にある ﹁レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所﹂ の4号炉は、点 四月二六日未明、4号炉が爆発炎上した 炉心部に残っていた制御棒が順に引き抜かれた。午前一時すぎ、熱出力二〇万 でなんとか安定した 四月二六日、4号炉の制御室にいたのは運転班や電源テスト要員など一四人で、現場の責任者は、 発電所副技師長のジャトロフであった。ジャトロフの指令により、原子炉の出力を回復させるため、 ところで、予定以下の出力で電源テストを実施することになった 。 kW 作動をうながすような兆候は何もなかった。一時二三分四〇秒、原子炉を止めようと、制御棒をいっ 午前一時二三分四秒、タービンへの蒸気弁が閉鎖され、その慣性回転を利用した電源テストがはじ まった。ジャトロフによると、電源テスト中、原子炉の出力は安定しており、運転員の操作や警報の (1) 検補修のため、二年前の運転開始以来はじめての停止作業に入った。 ︶ が四基運転され、さらに5・6号炉が突貫工事で建設され 「チェルノブイリ」を見つめなおす 4月26日未明、4号炉が爆発炎上した 当時チェルノブイリ原発では、最新鋭のRBMK型原子炉 ︵電気出力 一〇〇万 ているところであった。 せいに挿入する緊急停止ボタンAZ 5 を押したことが事 析によると、AZ 5 ボタンを押してから六∼七秒後のこ らし、原子炉とその建屋が爆発炎上するに至った。後の解 のボイド反応度係数により、さらに強力な出力暴走をもた 大 量 の 蒸 気 が 発 生 し た。 炉 心 で の 蒸 気 発 生 は、 そ の プ ラ ス 昇し、一部の燃料棒さらには圧力チャンネル管が破壊され、 りポジティブスクラムが発生し、炉心下部での出力が急上 故の発端となった。すなわち、制御棒のいっせい挿入によ − RBMKとはロシア語で ﹁チャンネル型大出力炉﹂ のことであるが、 その構造からいえば ﹁ 黒 鉛 減 速・ 軽 水 沸 騰 冷 却・ チ ャ ン ネ ル 炉 ﹂と な る。もともとは、原爆用プルトニウム生産のために作られた原子炉を 発電用に発展させたものであった。RBMK炉の特徴は、運転中に燃 料を交換できること、チャンネルの数を増やして大出力化が容易なこ と、圧力容器のような大型重量物の輸送がないので内陸立地が容易な こと、などである。一方、弱点としては、チャンネル管が一六六一本 もあり制御が複雑になること、炉心部で蒸気の泡が増えると出力が増 加するように作用すること ︵プラスのボイド反応度係数︶ 、制御棒全数 を引き抜いたような極端な条件下のときに制御棒をいっせいに挿入す ると出力が上昇する場合があること ︵ポジティブスクラム︶ 、などであった。後の二つの欠点は、チェ 事故経過については、いまだ諸説がある。このストーリーは、ソ連政府が事故原因の見直しをおこ なった、一九九一年シテインベルグ報告 に従っている。 花火のような火柱が夜空に上がった。 とであった。事故の目撃者によると、何度かの爆発があり、 − に避難させることになった 。 の決断により、プリピャチ市民を翌二七日 と に な っ た。 ま た 議 論 の 末、 シ チ ェ ル ビ ナ か ら 砂、 鉛、 ホ ウ 素 を 投 下 し て 消 火 す る こ 原子炉の火災をどうやって消すか 住民の避難をどうするか を決めることだった。火災は、 ヘリコプター 開かれた政府委員会の最初の仕事は、 量 の 放 射 能 放 出 が 続 い て い た。 二 六 日 夜 に 破壊された炉心では黒鉛火災が発生し、大 事 故 委 員 会 が プ リ ピ ャ チ 市 に 設 置 さ れ た。 ルビナが到着し、彼を議長とするソ連政府 患者を選別した。さらに、ソ連副首相シチェ 員のなかから、モスクワの病院に送る重症 市の病院に収容されていた消防士や原発職 事故の第一報がモスクワの共産党中央に届いたのは午前三時だった。午前九時に専門家グループの 第一陣が出発し、昼過ぎに現場に到着した。被曝医療チームも到着し、急性放射線症状でプリピャチ (3) ルノブイリ事故に直接つながる原因となるが、そうした欠陥の存在は、運転員たちには周知されてい なかった 。 4号炉が停止する機会に合わせて、ある電源装置のテス トが予定されていた。すなわち、停電が起きて原子炉が停 止した際に、緊急用のディーゼル発電機が動き始めるまで の間の緊急ポンプ電源として、タービンの慣性回転を用い て発電する非常用電源のテストであった 。 2 3 4 5 四月二五日午前一時、4号炉では、予定に従って定格 ︵熱 からの出力降下作業がはじまった。 一三時 出力三二〇万 ︶ 五分、熱出力一六〇万 まで下がったときに、二台のター 続する予定であったが、ここでキエフの給電司令部からの 要請により、出力五〇%で運転を継続することになった。 二五日二三時一〇分、出力降下が再開された。二六日午 前〇時、運転当直がトレグブ班からアキモフ班に交代した ︵各班四名︶ 。その直後、出力制御系の切り替えの際、出力 が異常に低下し、ほとんどゼロになってしまった。電源テ ストは熱出力七〇∼一〇〇万 でおこなう予定だった。こ 写真2 破壊された4号炉 図2 炉心部の構造 (2) ビンのうちひとつが切り離された。そのまま出力降下を継 kW kW 写真1 建設中のチェルノブイリ原発1号炉 図1 RBMK 型原発のしくみ kW (1) の機会を逃がすと、次の機会は何年か先になってしまう。 (4) kW 「チェルノブイリ」を見つめなおす その前日 周辺 キロから 万人が避難した 四月二六日の天気は快晴だった。 プリピャチ市 ︵人口約五万人︶ の住民のほとんどは、 その日のうちに 原発で事故が起きたことを知ったが、多くの人はふだん通りの土曜日を過ごした 。店には買い物客 がいっぱいで、ホールでは結婚式がおこなわれ、なかには煙を吐く4号炉を眺めながらアパートの屋 上で日光浴を決め込んだ人もいた︵いつになく日焼 けしたらしい︶ 。被曝をおそれて、窓を閉めて家に 33 7 ∼ 10 km 4 9,000 460 10 ∼ 15 km 10 8,200 350 15 ∼ 20 km 16 11,600 52 20 ∼ 25 km 20 14,900 60 25 ∼ 30 km 16 39,200 46 事故処理作業と石棺の建設 ク隊はまず、延焼を防ぐため、タービン建屋屋上の消火にとりかかった。後からきたキベノク隊は、 火事発生の知らせをうけて、プラヴィク中尉率いる発電所消防隊が現場に到着したのは、4号炉が 爆発した五分後であった。五分ほど遅れてキベノク中尉のプリピャチ市消防隊が到着した。プラヴィ 原子炉中央ホールの消火作業にかかった。被曝をおそれて尻込みをする消防士はいなかった。という より、放射能の危険について知らされていなかったというべきであ ろう。消火活動の途中から、気分が悪くなったり嘔吐する者が続出 し、次つぎと病院へ運ばれた 。 年に作業に従事した。 のうち二〇万人が、汚染の強かった一九八六年、一九八七 クビダートルの総数は、六〇万とも八〇万とも言われ、そ が、多くの場合きちんとした測定はされていなかった。リ 限度は二五レントゲン︵約二五〇ミリシーベルト︶であった ﹁リクビダートル﹂と呼ばれている。リクビダートルの被曝 役が大規模に招集された。こうした事故処理作業従事者は 三〇キロ圏内の除染作業のため、三〇∼四〇歳代の軍予備 が集まって、献身的な作業に従事した。また、原発構内や 六月から、破壊された建屋を丸ごと覆ってしまおうとい う、石棺の建設がはじまった。ソ連各地から﹁愛国的労働者﹂ るようになった︵まだかなりの放射線量だったが︶。 た燃料や黒鉛がかたづけられて、﹁石棺﹂作りに取りかかれ ていた三週間ほどの間に、原子炉建屋周辺に飛び散ってい が、具体的な作業内容や被曝量のはっきりしたところは、いまだに明らかでない。この部隊が滞在し 核戦争での放射能汚染に備えて訓練されている、ソ連陸軍化学部隊が現場に着いたのは、四月二七 日であった。事故直後の現場のかたづけは、この部隊が中心になっておこなわれたことは確かなのだ 亡一人を加えて、合計三一人が死亡したとされている。 ソ連の公式見解によると、 約三〇〇人が病院に収容され、そのうち二八人が放射線障害で死亡した。 また、事故当日に現場のガレキに埋もれて行方不明になった一人、火傷で死亡した一人、その他の死 障害のきざしが表れた。 むだな作業やむちゃな指令により運転員らにも次つぎと急性放射線 されており、運転員や原発職員はすみやかに退避すべきであったが、 送り続けて炉心の冷却を確保することだった。すでに原子炉は破壊 とであり、そのため、制御棒を完全に挿入するとともに、冷却水を された。運転員が考えたことは、とにかく原子炉を破壊から守るこ 二四分、強い爆発。制御棒は原子炉の下端まで達せずに停止﹂と記 原子炉が爆発したとき、いったいなにが起きたのか、4号炉制御 室にいた人びとにもさっぱりわからなかった。運転日誌には﹁一時 (4) こもったのは一部の人だけだった。プリピャチ市民 に幸いだったのは、二六日未明の爆発にともなって 放出された膨大な ﹁熱い放射能﹂が町を直撃しなかっ たことである。その放射能雲は、原子炉からほぼ西 の方向に流され、風下約五キロにわたり松の木が数 日で枯れてしまうほどの被曝をもたらしていた。 二 七 日 に な っ て 風 が 北 向 き と な り、 プ リ ピ ャ チ 市の放射線量が上がりはじめた。午前七時の線量率 は一時間当り二∼六ミリシーベルトであった。昼ご 告されました。身分証明書を携帯し、必要なものと ろ、﹁皆さん、原発での事故に関連して、避難が布 三日分の食料を持参してください。避難は一四時に開始されます﹂というアナウンスがラジオから流 れた。キエフ市から動員された一二〇〇台のバスが、各アパートに横付けされ二時間ほどで四万五〇 〇〇人のプリピャチ市民が避難した。当局が恐れていたパニックは起きなかった。避難した人の多く 540 写真 3 建設中の石棺 写真4 事故処理作業に使われたヘリコプターや装甲車・トラック の保管場所(2000年、毎日新聞大島秀利記者撮影) は、三日で家にもどれるものと思ったが、プリピャチ市での生活が再開されることはなかった。 7,000 原発周辺は、プリピャチ市を除き、昔ながらの農村地帯である。原発労働者が住んでいたプリピャ チ市の避難がすばやくおこなわれたのに比べ、三〇キロ圏の住民は 5 しばらく、何も知らされず放ったらかしにされていた。三〇キロ圏 住民の強制的避難が決定されたのは、事故から一週間たった五月二 日のことだった。五月三日から避難がはじまり、ほぼ一週間かけて 「チェルノブイリ」を見つめなおす 事故処理作業と石棺の建設 (4) 3 ∼ 7 km 8 9 三〇キロ圏住民の避難が完了した。農村からの避難は、プリピャチ 市の場合に比べ、はるかにたいへんであった。何万という家畜が住 民といっしょに避難した。多くの人に、第二次大戦でのドイツ軍侵 攻のときの避難を思い出させたという。しかし、先の戦争とちがっ て、避難民が元の村に戻れることはなかった。表1は、一九八六年 八月にソ連政府が国際原子力機関 ︵ I A E A ︶に 提 出 し た 事 故 報 告 書 に も と づ く、 避 難 住 民 の 外 部 被 曝 量 で あ る。 プ リ ピ ャ チ 市 の 住 民に比べ、農村の避難が遅れたため、一五キロ以内の人々の被曝が かなり大きくなったことを示している。表1の避難民平均は一二〇 ″ の推定は二〇∼三〇ミリシーベルトである。 ミリシーベルト (人) 6 7 12 ミリシーベルトであるが、二〇〇五年九月に発表された″チェルノ 表 1 30km 圏避難住民の外部被曝量 図3 原発・プリピャチ市街図 注:1986 年のソ連政府事故報告書より.本文と合計人数が若干異なる. 30 ブイリ・フォーラム 45,000 プリピャチ市 平均外部被曝量 人数 居住区数 原発からの距離 (2) 「チェルノブイリ」を見つめなおす 周辺30 キロから12万人が避難した ″ 20 Bq m3 131 図 4 チェルノブイリからの放射能雲の流れ 図 5 京大原子炉(大阪府熊取町)で観測した 空気中放射能濃度 (8) 運転員に押しつけられた事故原因 一九八六年八月ソ連政府はIAEAに事故報告書 を提出し、それを受けて八月二五日から二九日ま でウィーンのIAEA本部で事故検討専門家会議が開かれた。会議で西側専門家は、ソ連代表団長レ ガソフの率直な報告を好意的に受けとめ、ソ連が提出した事故報告を全面的に了承した 。 反が重なった結果、電源テストの途中に原子炉が暴走をはじめ、運転員がそ ソ連報告書は事故の原因を﹁運転員による規則違反の数々のたぐいまれな 組み合わせ﹂とし、表3に示した六つの違反を具体的に指摘した。六つの違 れに気が付いて制御棒いっせい挿入ボタン ︵AZ 5︶を押したが、間に合わ なかった、というストーリーであった。電源テストを制御室で指揮していた副 技師長ジャトロフは、一九八七年の裁判で禁固一〇年の判決を受けた。一九九 〇年に早めに出所した彼は、事故についての論文を雑誌に発表し、AZ 5 ボタンを押すまで何も異常を示すものはなく平穏そのものであった、出力増 などの警報が出たのはボタンを押して三秒後のことである、反応度操作余裕 が低下していたことも運転員が非難されるいわれはない、それを直接示す計 器はなかった、低出力での運転は禁止されていたというがそんな規則は事故 後に作られたなどなど、事故の原因は原子炉の構造的な欠陥であり、その責 任はそれを知りながら対策を講じなかった人々にあると訴え、﹁一九八六年ソ ② 予定以下の出力で電源テストを行った. (9) ③ 循環ポンプを増やして運転し既定流量を越えた. 書いている 。 連報告はいつわりだらけであり、そうした報告をなぜIAEAがうのみにできたのか理解できない﹂と ④ タービン蒸気弁閉のスクラム信号を切り離した. (2) チェルノブイリは北半球のほとんどを汚染した 800 ① 制御棒「反応度操作余裕」が基準以下で運転した. の頃、 スウェーデン各地の気象台でも放射能値があがっていた。放射能はどうやら、 バルト海をわたっ 6,800 表3 ソ連報告書が指摘した運転員の6つの違反 一九八六年四月二八日早朝、スウェーデン南部にあるフォルスマルク原発で放射線監視モニターの 警報が鳴り響いた。原発から放射能漏れが起きたと思われ点検をおこなったが、異常はなかった。そ 「チェルノブイリ」を見つめなおす 運転員に押しつけられた事故原因 てソ連領から飛んできたものと考えられた。スウェーデン政府の問い合わせに対応して、タス通信が チェルノブイリ原発事故について短い発表をおこなったのは、二八日 20,000 − の午後九時だった 。 4 号炉からの大量の放射能放出は、事故から一〇日間続いて、五月 六日頃にようやく終息したと言われている。大量放出が止まった理由 もいまだに定かではないが、炉心部の黒鉛が燃え尽きて火災が終わっ 注:過去の核実験による汚染レベルは2∼3kBq/m2程度. − た た め で あ ろ う。 図4 は、 こ の 間 の 放 射 能 雲 の 流 れ で あ る 。 最 初 の 雲は、ベラルーシ、リトアニアを通って、バルト海からスカンジナビ ア半島へ向かった。次の雲は、ベラルーシからポーランドへ向かって いる。この雲は四月末にオーストリア、スイスに汚染をもたらした。 地域の汚染が大きい。放射能雲の通過と雨が重なったところの汚染が 表2は、ヨーロッパ諸国でのセシウム 汚染面積をまとめたもので あ る 。 北 欧 三 カ 国、 オ ー ス ト リ ア、 イ タ リ ア 北 部 と い っ た ア ル プ ス 23,000 19,000 4,800 11,000 7,200 1,200 320 1,200 610 1,400 − 730 520 160 − 210 事故の主な原因が、﹁正のボイド反応度係数﹂と﹁ポジティブスクラム﹂というRBMK炉の構造的な 欠陥にあったことは、事故のすぐあと五月の段階で判明していた。古今東西、まずいことの責任は弱 い者に押しつける、というのが権力者の常套手段であろう。RBMK炉に構造的欠陥があるとなると、 それを開発した、ソ連科学アカデミー総裁でクルチャトフ研究所長アレクサンドロフの責任を問う、と いうことになる。また、他に一四基あるRBMK炉の運転も困難になるだろう。ゴルバチョフも出席 した、七月はじめに開かれたソ連共産党政治局会議で、事故原因に関する公式見解が決定された 。 一 九 九 一 年、 ソ 連 最高会議の要請を受け て事故原因の見直しを おこなった特別委員会 は、﹁事故の原因は、運 転員の規則違反ではな く、設計の欠陥と責任 当 局 の 怠 慢 に あ り、 チェルノブイリのよう な事故はいずれ避けら れないものであった﹂ と結論している 。 12 13 大きかった。ヨーロッパの汚染を平均的に言えば、過去の核実験での汚染が一度に降ってきた程度で 33,000 59,000 40,400 25,000 23,000 13,000 14,000 8,300 8,700 7,000 1,900 2,300 3,500 1,700 280 3,500 ⑤ 気水分離タンクのスクラム信号を切り離した. (11) あった。 31,000 32,000 27,500 28,000 44,000 54,000 29,000 21,000 8,100 15,000 19,000 6,400 10,000 15,000 1,700 13,000 ⑥ ECCS 信号を切り離していた. 写真6 1号炉制御室の制御棒位置表示板 (7) 日本の新聞やテレビで″チェルノブイリ という聞き慣れないコトバが流れはじめたのは、当時の天 皇誕生日である四月二九日の朝からだった。日本に汚染が到達したのは、事故から一週間たった、五 / ︶ 写真5 4号炉制御室(2002年11月) (6) 月三日頃である。図5は、今中らが、大阪府で観測した空気中放射能濃度の変化である。ヨウ素 ︵半 450,000 337,000 111,000 84,000 324,000 238,000 366,000 132,000 20,000 301,000 34,000 41,000 313,000 240,000 45,000 79,000 103 37∼185 (10) (7) 表2 ヨーロッパ各国(旧ソ連を除く)の セシウム137汚染面積 (単位:km2) 減期八日︶ 、セシウム ︵三〇年︶ 、ルテニウム ︵三九日︶ など約二〇種類の放射能が検出された 。 空気中放射能濃度︵ (3) 137 20∼37 スロバキア 10 11 (5) 10∼20 137 (km2) スウェーデン フィンランド ブルガリア オーストリア ノルウェー ルーマニア ドイツ ギリシャ スロベニア イタリア モルドバ スイス ポーランド イギリス エストニア チェコ セシウム137汚染レベル,kBq/m2 国土面積 国名 「チェルノブイリ」を見つめなおす チェルノブイリは北半球のほとんどを汚染した 正のボイド反応度係数とポジティブスクラム 核分裂の際に発生する中性子は、エネルギーが大きく ︵平均2MeV︶光の一〇分の一くらいの速度 である。高速中性子は原子核につかまりにくく、つまり、そのままでは核分裂の連鎖反応を維持する 数百キロも離れた高汚染地域の存在が暴露された 場し、﹁ペレストロイカ︵再建︶﹂と﹁グラースノスチ︵公開︶﹂という二つのスローガンを打ち出していた。 チェルノブイリ事故が起きた一九八六年は、ソ連と米国が世界を二分して大量の核ミサイルを抱え 込んでにらみ合っていた東西冷戦の真っ只中だった。ソ連では、前年三月にゴルバチョフ書記長が登 表 5 汚染地域の住民数(単位:万人) しかし、七〇年間にわたる共産党支配の体質はおいそれと は変わらず、チェルノブイリ事故について語ることは、一 般市民はもちろん研究者にもタブーとされた。 める運動を背景に、ベラルーシの新聞にチェルノブイリ事 そうした状況に変化が現れたのは、事故から三年たった 一九八九年春のことだった。民主化と放射能汚染対策を求 故による放射能汚染地図が公開された。それまでのソ連の 政府や研究者の報告では、高汚染地域は原発周辺に限られ ていたが、公開された汚染地図は衝撃的だった。図8に示 すように原発から二〇〇キロ以上離れたところに、飛び地 のように広大な高汚染地域が拡がっていたのである 。 原発事故ではさまざまな種類の放射能が放出される。事 故直後に問題になるのは、半減期が比較的短く︵八日︶体内 各国のチェルノブイリ被災者救済法に基づくと、汚染地域とはセシウム 137 の土壌汚染が1キュリー /km2 以上のところと定義され、そのレベルによってつぎのように区分される. 40 キュリー /km2 以上 :強制避難ゾーン 15 ∼ 40 キュリー /km2:強制(義務的)移住ゾーン 5 ∼ 15 キュリー /km2 :希望すれば移住が認められるゾーン 1 ∼ 5 キュリー /km2 :放射能管理が必要なゾーン のがむずかしい。そこで、パチンコ玉の衝突のように、中性子を軽い元素の原子核と散乱させながら の場合、熱中性子になると、高速中性子にくらべ五〇〇倍ほど核分 「チェルノブイリ」を見つめなおす 数百キロも離れた高汚染地域の存在が暴露された 減速させてやる ︵エネルギーを下げる︶ 。減速されて、まわりの物質の熱振動と平衡状態になった中性 子が ﹁熱中性子﹂ である。ウラン 内での核分裂の数 ︵出力︶ が増えているか減っ に捕 裂を起こしやすくなる。と同時に、熱中性子はいろいろな物質にも吸収されやすい。原子炉で核分裂 連鎖反応を維持するには、中性子をうまく減速させ、他の物質に吸収されないうちに、ウラン 捉されて再び核分裂が起きるようにする。﹁減 速材﹂として優秀なのは重水と黒鉛である。 軽水 ︵普通の水︶ は、衝突した際の減速効果は いいのだが中性子吸収が大きく、減速材とし ては重水や黒鉛に劣る。 ■正のボイド反応度係数 ﹁反応度﹂ とは、炉 ているかを示す値である︵反応度=〇なら一 であるが、長期的 に入ると甲状腺が特異的に被曝を に問題になるのは、半減期三〇年 うけるヨウ素 で、遠くまで飛散し食物にも移行 で汚染された しやすいセシウム である。広大 な面積がセシウム ︵表4、 5 ︶。 放 射 能 汚 染 対 策 を め ぐ り、 モ スクワ連邦政府への批判を強め ていたベラルーシ共和国議会は 一九八九年七月、住民一一万人を 新たに移住させる決定をおこなっ た。この頃に、各共和国は汚染対 策と住民補償に関する法令を独自 に定めている。 図8 事故から3年たって明らかになった セシウム 137 汚染 ・1990 年の資料によると、15 ∼ 40 キュリー /km2 と 40 キュリー /km2 以上の汚染地域の住民数は、 それぞれ 23.4 万人と 3.38 万人、合計 26.8 万人であった.上記の数字と比較すると、それ以降に少 なくとも 11.5 万人が 15 キュリー以上の汚染地域から移住したことになる。 定、 プ ラ ス は 増 加、 マ イ ナ ス は 減 少 ︶ 。原子 炉の反応度は、制御棒位置、燃料濃縮度、燃料温度などいろいろな要因が合わさって決まる。﹁正のボ イド反応度係数﹂とは、冷却材密度の変化が反応度に与える効果を示している。つまり、炉心での沸 騰が増えて、中性子吸収役でもある水の量が減ると、原子炉の出力にプラスに働いてしまうことを示 している。チェルノブイリ事故の場合、低出力で運転されていたこと、ほとんどの制御棒が引き抜か れていたことが、﹁正のボイド反応度係数﹂ の効果を大きくしたと言われている。﹁最初の暴走﹂で何本か のチャンネル管が破損し、蒸気が発生してボイドが増えて ﹁また暴走﹂ 、炉容器内圧力が上昇し上部構 スクラムとは ﹁ 原 子 炉 緊 急 停 止 ﹂の こ と で あ る。﹁ ポ ジ テ ィ ブ ス ク ラ ム ﹂と は 造板が持ち上がり、ほとんどのチャンネルが一挙に破壊され ﹁さらに暴走﹂ したものと思われる 。 ■ポジティブスクラム チェルノブイリ事故後に作られた言葉で ﹁原子炉を緊急停止しようとボタンを押したら逆に出力が増 えた﹂というとんでもないことを示している。図6 は、RBMK炉制御棒チャンネルの構造である。 中性子を吸収する制御棒本体の下に ﹁黒鉛棒﹂ がぶら下がっている。左側のように、制御棒を完全に引 き抜くと、 黒鉛棒の下に水柱部が出来る。 図7のプロッ ト点は、電源テストが実施されたときの炉内出力分布 計算値である 。炉心下部での出力が大きいという特 徴があった。4号炉の運転員は、ほとんどの制御棒が 引き抜かれた状態で制御棒いっせい挿入ボタン ︵ AZ 一年末に消滅し、汚染対策と被災 しかし、事故に対し第一に責任 を負うべきソ連そのものが一九九 表4 チェルノブイリ事故被災3ヵ国のセシウム 137汚染面積(単位:km2) 235 5︶を押した。水柱部が黒鉛棒と置き替わって、原 14 15 16 17 (37 以上 ) (37 ∼ 185) (37 ∼ 185) (555 ∼ 1480) (1480 以上) 232.3 184.0 240.4 656.7 − 0.0283 − 0.0283 9.3 4.1 1.9 15.3 34.7 31.4 65.3 131.4 188.3 148.5 173.2 510.0 ロシア(1991.1.1) ベラルーシ(1995) ウクライナ(1995.1.1) 合 計 (15) 56,920 46,500 41,900 145,320 300 2,200 600 3,100 131 者補償の問題は、それぞれの政府 国 名 137 137 がになうことになった。 セシウム 137 の汚染レベル、キュリー /km2(Bq/km2) 1∼5 5 ∼ 15 15 ∼ 40 40 以上 1 以上合計 (データ集計時) (16) 235 (1,12) (37 以上 ) (1480 以上) 5,720 10,200 3,200 19,120 2,100 4,200 900 7,200 (37 ∼ 185) 48,800 29,900 37,200 115,900 (555 ∼ 1480) (37 ∼ 185) ロシア ベラルーシ ウクライナ 合計 図6 制御棒と黒鉛フォロワー 図 7 事故直前の炉内出力分布 : : が急上昇してチャンネル管がいくつか破損したものと 考えられている 。 (14) セシウム 137 の汚染レベル、キュリー /km2(ベクレル /km2) 1∼5 5 ∼ 15 15 ∼ 40 40 以上 1 以上合計 国名 (13) 子炉下部にプラスの反応度が入って暴走し、燃料温度 − 「チェルノブイリ」を見つめなおす 正のボイド反応度係数とポジティブスクラム 「チェルノブイリ」を見つめなおす 事故で放出された放射能の量 40億キュリー = 1.5×1020ベクレル Ci = キュリー 8.0日 4800万 55 % セシウム137 30年 230万 30 % ストロンチウム90 29年 27万 4.9 % プルトニウム239 24000年 400 1.5 % 〈その他を含む合計〉 3億7000万 約10 % 心の側面に孔を開けてテレビカメラを入れたところ、炉心部はガランドウであった 。五〇〇〇トン の資材も炉心に命中していなかった。 炉心の一部は最初の爆発で建屋周辺に飛び散り、残った燃料やチャンネル管は高温で融けて溶岩状に なり、床や配管を通って地下プールへ流れていった。一七〇〇トンの黒鉛の大部分は一〇日余り続いて 火事で燃えたものと思われる。図9のように、炉心には、建屋の壁に使われていたパネルが落ち込んで いた。これは二〇〇〇トンもあった上部構造板が爆発で空中に浮き上がっている間に入ったようだ。 放射線がいまだ に強いこと、石棺 建設時に注入され たコンクリートが 流れ込んでいるこ となどで、石棺内 に残っているウラ ンの量を推定する ことも難しいが、 元のウランの量の 事故被災者の分類 被災者﹂と言えなくもないが、チェルノブイリ周辺の汚染は圧倒的であった。チェ チェルノブイリ事故で放出された放射能は気流に乗って北半球のほぼ全域を汚 染した。日本の私たちを含めて、北半球にいた人びと全部が﹁チェルノブイリの ルノブイリの被災者は、以下のように分類しておく。下記の人数はだいたい合っ ているだろうが、被曝量は当局発表などをもとにした、とりあえずの説明のため のごく大ざっぱな値である。 かにする、ということになる。具体的な被害にテーマを移す前に、次の二点を確 ﹁チェルノブイリ事故による被害を科学的に解明する﹂とは、どんな放射能汚染 がおき、被災者がどれだけ被曝し、彼らにどのような健康被害が起きるかを明ら 認しておきたい。 その1 事故のドサクサで起きたことの多くがいまだに闇の中である。 事故当時のソ連では、共産党独裁のもとで厳重な情報管理がおこなわれていた。 事故の詳細が明るみに出はじめるのは、事故から三年たってからのことだった。 一九九一年末にソ連が崩壊してすでに一四年あまりたったものの、事故当時のド 事故処理に最初に投入されたのはソ連陸軍化学部隊だった。事故から三週間後 サクサの中でどんなことがあったのか、いまだによくわかっていない。 全身線量 1∼10Sv 平均10mSv 程度 その2 被曝にともなう健康被害は、事故による健康被害の一部に過ぎない。 事実がキチンと明らかにされないならば、﹁あったはずのことがなかったこと﹂になり、いずれ闇に消 えてしまうと危惧される。 いう、事故当時のソ連政府の公式見解が二〇年たった今でもまかり通っている。 てしまうほどの被曝を受けたが、﹁放射線の急性障害が現われたのは原発職員と消防士だけだった﹂と 原発に隣接するプリピャチ市住民は、事故の翌日に避難したが、その他の村々の住民は何も知らさ れず、 一週間余り放ったらかしにされていた。原発周辺の松林は、あっという間に﹁赤茶けた森﹂になっ 受けたはずだ。 するために、砂、鉛など五〇〇〇トンの物資がヘリコプターから投下され、操縦士はかなりの被曝を て、散乱していた燃料棒片や黒鉛ブロックをかたづけたのだろうか? また、炉心の黒鉛火災を消火 には4号炉建屋まわりのかたづけがだいたい終了していた。猛烈な放射線の中、彼らはどのようにし 100∼500mSv 事故処理作業従事者(軍隊、予備役、建設労働者ほか) 60万∼80万人 事故で放出された放射能の量 一〇〇万 の原発が運転されているときに炉心にたまっている放射能の量は、短い半減期のものを 除 く と 約 四 〇 億 キ ュ リ ー 程 度 で あ る。 建 屋 も ろ と も 原 子 炉 が 爆 発 炎 上 し て し ま っ た チ ェ ル ノ ブ イ リ 100 % ヨウ素131 事故の場合、どれだけの放射能が放出されたか推定することはけっこうむずかしく、結局、地表に沈 で 1億8000万 四割∼八割ぐらい 「チェルノブイリ」を見つめなおす 事故被災者の分類 着した量など間接的なデータを使って放出量を見積もることになる。表6 は、 二〇〇五年九月に出たチェルノブイリ・フォーラム報告書の値である 。 で五五%、長期的な汚染の主役となるセシウム のような希ガスは炉心から一〇〇%の放出である。短期的な汚 染で問題となるヨウ素 で二・八倍、セシウム 放出量 (Ci) 放出割合 5.3日 だろう。 約600万人 原子力推進の側は、﹁チェルノブイリ事故は最悪の事故であったが、実はその被害はたいしたことは なかった、一番悪いのは放射能を怖がる精神的ストレスだ﹂と言っている。チェルノブイリ事故とは、 放射能汚染といっしょに地域社会の崩壊、生活基盤の喪失といった諸々のことを周辺の人びとにもた らした災厄であった。健康被害の問題をわきにおいても、チェルノブイリ事故が歴史的﹁人災﹂であっ たことは確かである。放射線被曝にともなう被害だけをみていたのでは、健康被害の全体は見えな い。農村で暮らしていたお年寄りが都会に移って慣れない生活で病気になったり、移住によって仕事 を失って一家の主がアルコール中毒になり健康を害したといった例も、チェルノブイリ事故の影響と 考えるべきであろう。﹁放射能汚染と被曝にともなう健康被害﹂という科学的アプローチから明らかに できることは、チェルノブイリという災厄全体のごく一部でしかないことを承知しておきたい。 汚染地域(1キュリー /km 以上)住民 (?) 平均50mSv 程度 2 25万∼30万人 高汚染地域住民・移住者 約12万人 30km 圏からの事故直後避難民 人 数 1000∼2000人 チェルノブイリ事故被災者の分類 キセノン 一九八六年のソ連報告での値に比べ、ヨウ素 二・三倍となっている。 核燃料はどこに 程度とされていた。炉心部には、チャンネル管、燃料、黒鉛のガレキがぎっ しりと詰まっていて、その上に火事を消すためにヘリコプターから投下さ 半減期 れた砂や鉛︵約五〇〇〇トン投下された︶が山積みだろうと思われていた。事故から二年たって、炉 主な核種 キセノン133 (12) 事故現場に居合わせた原発職員・消防士たち (17) 137 137 放出割合は小さい。 全体では約一〇%の放射能が放出されたとされている。 で三〇%となっている。揮発性の小さいストロンチウムやプルトニウムの 131 チ ェ ル ノ ブ イ リ4 号 炉 の 炉 心 に は 一 九 〇 ト ン の ウ ラ ン 燃 料 が 入 っ て い た。一九八六年のソ連報告では、炉心から放出された燃料の量はその三% 131 20 21 表6 放出放射能量の推定値(1986.4.26日換算放射能量 ) 図9 空っぽだった炉心(上)と 溶岩状になって流れ落ちた核燃料(下) : : 18 19 kW 133 mSv =ミリシーベルト 「チェルノブイリ」を見つめなおす 急性放射線障害死亡者28名 5 月 11 日 5 月 14 日 5 月 14 日 5 月 17 日 6 月 13 日 5 月 12 日 4 月 26 日 5 月 19 日 5 月 20 日 7 月 21 日 5 月 14 日 7 月 26 日 5月7日 5 月 20 日 5 月 17 日 5 月 19 日 5 月 28 日 5 月 30 日 5 月 13 日 6 月 13 日 5 月 21 日 1500 ラド 45 4 月 26 日 事故当日に火傷で死亡 59 53 7 月 31 日 5 月 26 日 通用門 使用済み燃料プール建設現場 23 れていた患者から重傷者を選別しモスクワ第六病院へ送った。 その後の ﹁再検査﹂ を経て現在の公式見解では、 一三四名となっている 。 (18) 五月一四日にゴルバチョフ書記長は、約三〇〇人が入院したと演説し た。八六年一一月の発表によると、 急性放射線障害は二三七名であった。 表8は、二三七名の重症度の分類と骨髄被曝量推定値である。第六病院 では、米国からゲイル医師らがかけつけて一三名に骨髄移植をおこなっ たが、全員死亡した。死亡日は、被曝から二∼三週間後の五月の半ばに 集中している。骨髄造血機能の破壊にともなう死亡である。 の死亡となっている 。 急性障害で生き残った一〇六名のうち、一九九六年の段階で九名の死 亡が確認されている。二〇〇五年九月の報告では一〇名増えて、一九名 ちなみに、一九九九 年のJCO事故でなく なった二人の被曝量は 20 7 1 0 0 28 それぞれ、一六∼二五 死亡者数 (事故後の3カ月) 21 22 50 41 103 237 (19) ハリコフ市から出張中 グ レ イ、 六 ∼ 九 グ レ 人数 原子炉に閉じこめられ行方不明 1000 ラド以上 〃 〃 〃 2500 ラド,キエフで死亡 イ相当と推定されてい 急性障害 骨髄線量 (グレイ) 重症度 第Ⅳ度(重症) 6以上 第Ⅲ度 4∼6 第Ⅱ度 2∼4 第Ⅰ度(軽症) 1 ∼ 2 後に除外 1以下 合計 − 写真7 死者が葬られたモスクワ・ミチンスコエ 墓地(2000年9月) 22 「チェルノブイリ」を見つめなおす 周辺住民の急性放射線障害 5月11日 この1日で、495人を病院に収容し1017人が退院。8137人が 入院中で、放射線障害の診断はうち264人。37人が重症。この 1日で2人死亡。これまでの死亡者数は7人。 5月12日 ここ数日間で、病院収容2703人追加、これらは主にベラルーシ。 678人退院。入院治療中は1万198人、うち345人に放射線障害 の症状あり、子供は35人。事故発生以来8人が死亡。重症は35人。 5月13日 この1日で443人病院収容。908人が退院。入院中は9733人で、 うち子供4200人。放射線障害の診断は、子供37人を含む299人。 5月14日 この1日で、1059人を病院に追加収容し、1200人が退院。放 射線障害の診断は203人にまで減少。うち、32人が重症。この 1日に3人死亡。 5月16日 入院中は、子供3410人を含め7858人。放射線障害の診断は 201人。15日に2人死亡し、これまでの死亡者は15人。 5月20日 この4日間に病院に収容したのは716人。放射線障害は、子供 7人を含め、211人。重症は28人で、これまでに17人が死亡。 5月22日、5月26日 記載なし。 5月28日 入院中5172人で、放射線障害は182人 (うち幼児1人)。この1 週間で1人死亡。これまでの死亡者は22人。 (そのほか事故時の 死者2名)。 6月2日 入院中3669人で、放射線障害の診断171人。重症23人で、これ までの死亡者24人。23人がいまだに重症。 6月4日、6月9日 6月12日 記載なし。 (21) 入院中2494人で、放射線障害の診断189人。これまでの死亡者 24人。 6月20日、6月25日、7月2日、7月7日、7月10日、7月23日、 記載 7月31日、8月13日、8月22日、9月5日、9月19日、10月17日、 なし。 11月15日、1987年1月4日、3月16日、7月13日、1998年1月6日 25 24 (20) 周辺住民の急性放射線障害 この2日間で子供2630人を含む4019人を病院に収容。739人 退院。8695人が入院中で、うち放射線障害の診断は、子供26 人を含め238人。 たとしている。ところが、ソ連崩壊直後の一九九二年、ウクライナのジャーナリストで旧ソ連最高会 5月10日 一九八六年のソ連政府報告から二〇〇五年のチェルノブイリ・フォーラム報告まで、公的報告書は 一貫して、急性放射線障害が起きたのは原発職員・消防士だけで、周辺の一般住民には一件もなかっ この1日で、子供730人を含む2245人を追加収容。1131人が 退院。病院収容中は5415人、うち子供1928人。315人に対し 放射線障害の診断。 議議員をしていたヤロシンスカヤが、事故当時の共産党秘密議事録をすっぱ抜いた 。ソ連はとてつ 5月8日 もない中央集権国家であったが、その権力の頂点にあったのは共産党中央委員会政治局であった。 この1日で病院収容者1821人を追加。入院治療中は、7日10 時現在、幼児1351人を含め4301人。放射線障害と診断された もの520人、ただし内務省関係者を含む。重症は34人。 チェルノブイリ事故が起きると、事故対策の全般的な方針を決定するため、政治局に﹁事故対策班﹂ が設置され四月二九日に最初の会合が開かれた。ヤロシンスカヤが暴露したのは、その対策班の議事 5月7日 録だった。表9は、議事録から事故被災者に関する記述を抜粋したものである。対策班の会合は四〇 5月6日9時の段階で病院収容者は3454人に達する。うち入院 治療中は2609人で、幼児471人を含む。確かなデータによると、 放射線障害は367人で、うち子供19人。34人が重症。モスクワ 第6病院では、179人が入院治療中で、幼児2人が含まれる。 回開かれており日付はすべて表に示してある。 5月6日 避難作業がほぼ終了した五月一二日は﹁入院中一万一九八人、三四五人に放射線障害の症状、うち子 病院収容者は2757人に達し、うち子供569人。914人に放射線 障害の症状が認められ、18人がきわめて重症で、32人が重症。 死者や重症者の人数は、原発職員と消防士について知られている人数とほぼ一致しているものの、 周辺住民の間で多数の急性障害が認められていたことはまちがいない。たとえば、三〇キロ圏住民の 5月5日 ども三五人﹂となっている。 5月4日までに病院に収容された者1882人。検査した人数全体 は3万8000人。さまざまなレベルの放射線障害が現れた者204 人、うち幼児64人。18人重症。 五月六日にモスクワ第六病院に幼児二人が収容されていた、という記述も注目される。同じ日の議 事録には﹁モスクワ第六病院で治療を受けている患者の数と容体に関するデータを、この病院にアメリ 記載なし。 5月4日 カの専門家たちが働いている事実を考慮して公表するのが妥当とのソ連保健省の提言に同意する﹂と 5月3日 いう記述がある。つまり、ゲイル医師らがいなかったら、原発職員・消防士の急性患者についての情 5月1日 報も出てこなかった、ということだろう。 記載の内容 記載なし。 一方、ロシア社会学研究所のルパンディンは、一九九二年にベラルーシ・ゴメリ州ホイニキ地区の 地区中央病院に残されていた事故当時のカルテを調べ、急性放射線症八例、放射線被曝症二〇例が見 日付 ソ連保健省第1次官シチェーピン同志に対し、放射線障害や子供 を含め、入院者数に関するデータを作業グループに報告するよう 要請した。 つかったと報告し、全体では一〇〇〇件以上の急性放射線症があったろうと推定している 。 表9 共産党秘密議事録に記載されていた事故被災者に関する記述 1986年4月29日、4月30日 急性放射線障 害 死 亡 者 二 八 名 33 25 28 31 39 28 35 31 33 27 29 24 47 32 25 45 44 46 41 46 28 表8 急性障害患者の分類 備考 旧ソ連の公式発表によると、チェルノブイリ事故で死んだのは三一人で、その見解は現在も引き継 がれている。事故の当日、破壊された原子炉建屋に閉じこめられたのが一人、ひどい火傷でその日の 5 月 11 日 5 月 11 日 5 月 14 日 5 月 13 日 5 月 16 日 5 月 10 日 うちに亡くなった一人、病院に収容されたものの、手当のかいなく放射線障害でなくなったのが二八 死亡日 23 23 27 25 26 26 人、それから原因がよくわからないもう一人を合わせて三一人である。表7は、最後の一人を除いた 年齢 る。 名前 職場 消防士6名: プラビーク中尉 原発消防隊 キベノーク中尉 プリピャチ消防隊 バシチューク軍曹 〃 イグナチェンコ上級軍曹 〃 ティテノク上級軍曹 〃 ティシチュラ軍曹 〃 原発職員と出張者 24 名: アキーモフ 運転当直班長 トプトゥーノフ 運転班員 クドリャフツェフ 運転班研修中 プロスクリャコフ 〃 ペレボズチェンコ 原子炉係班長 クルグース 原子炉係 ホデムチウク 機械係 デグチャレンコ 〃 ペルチウク タービン係 ベルシーニン 〃 ブラジニク 〃 ノビク 〃 レレチェンコ 電気部次長 バラーノク 電気係 ロパチューク 〃 シャポバロフ 〃 コノバル 〃 シトシニコフ 1・2 号炉副技師長 オルロフ 1 号炉運転次長 ポポフ 調整技術者 サベンコフ 〃 チェルノブイリ起 シャシェノーク 動調整企業計器係 ルズガーノフ 女性警備員 イワニェンコ 〃 三〇人の一覧である。事故の日の夕方、モスクワから医師団が到着し、プリピャチ市の病院に収容さ 表7 チェルノブイリ原発事故による消防士と原発職員の死亡者 子どもたちの甲状腺がんが増加した 染対策をめぐって、 モスクワ中央と共和国側が対立し、 ソ連政府が国際原子力機関 ︵IAEA︶に助けを 子どもたちの白血病やその他の健康悪化 だった。一方、普通のがんは、一〇年くらいたってから徐々に増えはじめた。 チェルノブイリ事故後、汚染にともなう健康影響として注目されていたのは、甲状腺がんよりもむ しろ白血病の方だった。広島・長崎では、被爆二∼三年後から白血病が増加し、五∼一〇年がピーク の場合と比べて、はっきりしない理由はふたつある。まず、甲 万人当たり発生数 観察年 これまで、チェルノブイリの子どもたちに白血病が増えているという話は、断片的に出てきたが、 統 計 デ ー タ の よ う な 形 で は は っ き り し て い な い。 甲 状 腺 が ん は、小さな甲状腺︵幼児の場合二g 状腺と︵白血病を引き起こす︶骨髄の被曝量のちがいである。体 内に取り込まれたヨウ素 程度︶に大きな被曝をもたらした。一方、骨髄被曝に関係する セシウム は、全身にほぼ均等な被曝をもたらす。大ざっぱに 言って、甲状腺に一シーベルトの被曝があっても、骨髄は五〇 ミリシーベルト程度で、被曝量に二〇倍のちがいがあった。ベ ラルーシの子どもたちには、これまで約一二〇〇件の甲状腺が んがあったとされている 。甲状腺と骨髄で被曝量当りのリス クを同じと考えると、これまでに発生した小児白血病の数は六 〇件となる。これが、事故後五年から一〇年目に起きたとする ベラルーシ全体 図 は、ベラルーシの小児白血病の発生率を、事故前、 事故後七年間、八∼一五年の三つの期間に分けて調べたマ 生しても、それを観察することはなかなか困難である。 要因が関係して変動している。﹁被曝により年間一〇件﹂発 血病があることである。自然発生数は、ベラルーシでは年一〇〇件程度で、環境汚染などさまざまな と、年間一〇件程度となる。白血病がはっきりしないもう一つの理由は、もともと﹁自然発生﹂する白 10 今中らがはじめてチェルノブイリを訪れたのは、旧ソ連末期の一九九〇年夏だった。その際にウク ライナの医師から、子どもたちの間で甲状腺がんが増えていると初めて聞かされた。当時、放射能汚 「チェルノブイリ」を見つめなおす 子どもたちの白血病やその他の健康悪化 求めるかたちで、汚染の影響調査と対策の勧告のための、国際チェルノブイリプロジェクト︵ICP、 年間発生数 131 委員長・重松逸造︶ が実施されていた。 年間発生数 26 27 一 九 九 一 年 に 開 か れ た I C P 報 告 会 は、 共和国側専門家の主張を無視して﹁放射能汚 染にともなう健康影響はいっさい認められ な い ﹂と 結 論 し た 。 一 九 九 二 年、 英 国 の 科 学雑誌﹃ネイチャー﹄に、ベラルーシの汚染 地 域 で 小 児 甲 状 腺 が ん が 急 増 し て い る、 と いう論文が掲載された 。それに対し、重松 ら I C P の 専 門 家 は、 甲 状 腺 が ん の 増 加 が 被曝によるかどうかは疑わしいと反論した。 し か し、 デ ー タ が 増 え る と と も に、 小 児 甲 状腺がんが事故当時に放出された放射性ヨ ウ素による被曝に起因していることは明白となった。 図 は、ベラルーシでの甲状腺がん数の推移で、上の図は、手術時の年齢が一五歳未満であった小 児甲状腺がんで、下の図は全人口での甲状腺がんである 。小児甲状腺がんは一九九〇年ころから急 増している。事故直後、ヨウ素 の取り込みにより甲状腺の受けた被曝が、晩発的影響としてがんを もたらしたものだった。一九九五年をピークに小児甲状腺がんが減っているのは、﹁事故当時〇∼一四 歳だった子どもたちが青年・大人となった﹂ という見かけだけのことである。一九九六年以降、小児甲 137 リコの報告である 。マリコによると、一九八六∼九二年 の発生率は、事故前に比べて統計的に有意に増加し、ベラ ルーシ全体で八三件の小児白血病が増えた、と見積もって いる︵ただし、一九八六∼二〇〇〇年をひとまとめにする と、増加は有意でなくなる︶。 図 は、WHOがベラルーシで試験的におこなった、汚 染地域と非汚染地域の子どもたちの健康状態調査である 。 汚染地域では、健康な子どもの割合が少なく、慢性病の子 どもの割合が大きい。この調査は、﹁共通検査手順書﹂に もとづくしっかりしたものであった。汚染地域の子どもた ちの健康悪化には、放射線被曝だけでなく、事故にともな う医療・衛生インフラの崩壊や経済困難も関係しているで あろう。この調査が継続されていないのが残念である。 図13 WHO/IPHECA プロジェクト(1992−1994年)による ベラルーシの子どもの健康度調査結果 図10 ベラルーシの甲状腺がん発生数 (上) 子ども、 (下) 全人口 状腺がんが急激に減っているのは、がんの原因が ﹁事故当時の被曝﹂ だったことを間接的に示している。 40 甲状腺被曝量(グレイ) (25) 図11 小児甲状腺がんの甲状腺被曝量と 発生率の関係 図12 事故前後のベラルーシでの小児白血病 発生率 (診断時 0−14歳) ・健康度指標:第1度はすべての指標にてらし健康上問題ない子ども、第2度 は機能上の問題が認められ慢性病にかかりやすい子ども、第3∼5度は慢性病 が認められる子ども ・汚染地域はセシウム137が15キュリー /km2以上の移住区 全人口 ミンスク キエフ 図 は、ヤコブらによる、甲状腺被曝量小児甲状腺がん発生率との関係を示したデータである 。 直 線 の 傾 き か ら、 絶 対 リ ス ク と し て、 一 万 人・ 年・ グ レ イ当り二・三件という値を示している。仮に、このリスク 10×4 が 四 〇 年 間 続 く と し た ら、 一 グ レ イ の 甲 状 腺 被 曝 を 受 け た子どもが後々甲状腺がんになる確率は、 2.3 × がんがチェルノブイリ事故によって引き起こされたと報 告 し て い る。 今 後 発 生 す る 分、 ま た 事 故 当 時 に 大 人 だ っ た人々の分を加えると、その六∼一〇倍、結局二万∼四万 ゴメリ 万人・年当たりの過剰絶対リスク 1 28 29 131 (19) (23) 件の甲状腺がんがもたらされると考えておいてよいだろ う。 (27) (24) (22) = 0.01 、つまり一%となる。 二〇〇五年九月のチェルノブイリ・フォーラム報告 は、 被災三カ国合わせてこれまでに四〇〇〇件の小児甲状腺 − (26) 10 11 12 13 小児甲状腺がん (15歳未満) (19) 「チェルノブイリ」を見つめなおす 子どもたちの甲状腺がんが増加した 汚染地域住民の体内セシウム データ を主宰しているネステレンコ教授は、チェルノブイ ︶ ミンスクの民間研究所″ベルラド︵ Belrad リ事故が起きたとき、旧ソ連白ロシア共和国 ︵現ベラルーシ︶原子力研究所の所長であった。事故の数 ドは、ドイツやフランスのNGO からの援助を受けて﹁がんばっ 啓蒙活動をおこなってきた。近年、政府系研究機関での汚染調査が低調になっているなかで、ベルラ 自に開発しながら、ベラルーシの各汚染地域に放射能測定センターを設置し、専門家の教育や人々の 年後に彼は、放射能汚染や内部被曝を測定するための研究所ベルラドを設立した。放射線測定器を独 ″ 汚染地域の食品汚染データ 年 事故直後の放射能汚染の主役はヨウ素 ︵半減期八日︶であった。一九八六年ソ連報告 には、﹁ウク ライナ、ベラルーシ、ロシアの高汚染地域では基準の二〇から一〇〇倍、ときにはそれ以上の牛乳汚 染があった﹂と記されているが、チェルノブイリ周辺でのヨウ素 の基準は三・七キロベクレル/リットルで 「チェルノブイリ」を見つめなおす 汚染地域住民の体内セシウム137データ 汚染について系統的に測定されたデータは報告されていない。 当時の牛乳中ヨウ素 て﹂活動している。 量 の 計 測 を お こ な っ て い る。 写 真8 ベルラドは現在、八台の移動式の全身計測装置︵WBC ホー ルボディ・カウンター︶があり、主にゴメリ州の汚染地域を巡回 は、二〇〇四年一二月に今中がベルラドを訪問したときのWBC して住民の体内セシウム 測定で、いすの背もたれのところに放射線検出器がある。 二三・四%︶をおこなっている。ここでは、ゴメリ州ベトカ地区ハ ルチ村の測定結果を紹介しておく。 32 あったから、最高で一〇〇〇キロベクレル/リットルくらいの汚 30 31 染があったと考えていいだろう。そんな牛乳を一歳の赤ん坊が一 リットル飲んだとしたら、それだけで約四シーベルトの甲状腺被 曝となってしまう。 はすでになくなっているが、セシウム 汚染は現在も続いてい ベ ル ラ ド の 報 告 書 に よ る と、 二 〇 〇 三 年 に は ゴ メ リ 州 七 地 区 と ブ レ ス ト 州 一 地 区 の 住 民 二 万 三 四 四 人 の 測 定︵ 地 区 住 民 の (28) ヨウ素が物理的に崩壊してしまってからの汚染の主役はセシ ウム ︵半減期三〇年︶ とセシウム ︵同二年︶ であった。セシウム る。 農産物のセシウム汚染レベルは、もともとの土壌汚染レベルは もちろん、土壌の性質、作物の種類、汚染対策によって違ってく の作物へ (mSv =ミリシーベルト) る。チェルノブイリ原発のあるプリピャチ川流域の土壌は粘土鉱 物が少なく、事故前より、セシウム 一・四ミリシーベルト/年となる。先にみた食品汚染データによると、 外部被曝︵〇・六ミリシーベルト/年︶を合わせると、セシウム 汚染 にともなう被曝は、平均で〇・八ミリシーベルト/年、高位グループで 220.7 の移行の大きいことが知られていた。 事 故 後 数 年 は、 現 在 の 一 〇 ∼ 二 〇 倍 の 汚 染 レ ベ ル で あ っ た。 さ ら に、 224.2 1993 図 はウクライナ・ロブノ州の牛乳汚染デー タ︵一九八八∼一九九九年︶である 。汚染対策 134 と、内部被曝は現在の二〇∼四〇倍となり、一〇ミリシーベルト/年程 240.4 1962 (2) ウクライナ 137 当時の汚染にはセシウム ︵半減期二年︶が含まれていたことを考慮する 264.7 1939 がとられている集団農場に比べ、個人農場から ベラルーシ 137 度の内部被曝が数年続いたことになる。 281.1 1950 の牛乳の汚染が大きく、許容レベルを越える汚 315.5 1970 染が続いている。一九九三年くらいから汚染レ 報告によると、対策予算の削減とと 327.3 1995 ベルはほぼ一定であり、今後も長期にわたって ● ハルチ村:人口1306人、うち学校生徒140人 ● 1999年認定セシウム137汚染レベル:13.53キュリー /km2 ● 1999年認定被曝レベル:外部被曝 0.6mSv/ 年、内部被曝 0.2mSv/ 年、合計 0.8mSv/ 年 ● ベルラド・チーム測定日時:2003年10月8−9日 ● 測定実施数:207人 (住民の16%) うち子ども135人、大人72人 ● 平均体内汚染量:56.7±4.9 ベクレル /kg(図15に分布) ● 高位グループ10人平均:313.0±26.2 ベクレル /kg (表11) ● 内部被曝評価:住民平均 0.2 mSv/ 年、高位グループ平均 0.8 mSv/ 年 ベラルーシでは現在、汚染対策の見直しが進められており、汚染除去 材やカリ肥料投入といった農業対策予算も減らされつつある。ベルラド もに食品の汚染レベルが上がり、住 379.7 1954 民の体内被曝が再び増加しつつあ 420.8 1956 汚染が継続するであろう。 表10 被災3カ国の汚染地域における最近(2000-2003年)の 農産物セシウム137汚染レベル ベクレル/kg またはリットル( )内は数値の範囲 : 図15 ハルチ村の体内セシウム137量の 分布(ベクレル) る。 455.6 1995 表 は、 農 産 物 の 最 近 の 汚 染 レ ベ ル で あ る 。さらに、 森で採れる野生の食べものには、 人数分布 1976 写真8 ベルラドでの全身測定 体内セシウム137 ベクレル/ kg 33 137 生年 はるかに大きな汚染が認められている。ベルラ 図14 ウクライナ・ロブノ州の牛乳中セシウム137 8 90 200 (4−18) (15−240) (40−500) 14 (924) 37∼185キロベクレル /m2 (ジトーミル、ロブノ州) 集団農場(collectives) ロシア 131 137 ︶ 、乾燥キノコ ︵三万五〇〇 人 表11 高位10人のデータ 32 14 160 400 (12−75) (10−28) (45−350)(100−700) 185キロベクレル /m2以上 (ジトーミル、ロブノ州) 42 (12−78) 20 (4−40) 9 (5−14) 37∼185キロベクレル /m2 12 (カルーガ、ツーラ、オリョール州) (8−19) 肉 牛乳 ポテト 137 ︶ 、乾燥ベリー ︵二万五〇〇〇ベ 6 30 100 (3−12) (10−100) (40−300) 134 (17) TPL(許容レベル) 13 110 240 (9−19) (70−150)(110−300) 26 (11−45) 185キロベクレル /m2以上 (ブリャンスク州) (28) ︶という値があり、深刻な汚染が続 10 80 220 (6−20) (40−220) (80−550) 10 (4−30) 131 ドの二〇〇三年測定報告 では、野鳥肉︵五万二 〇〇〇ベクレル/ kg いていることを示している。 クレル/ kg 穀類 セシウム137土壌汚染レベル 10 個人農場(private) 30 (8−80) 37∼185キロベクレル /m2 (モギリョフ州) 137 14 べクレル/ リットル 185キロベクレル /m2以上 (ゴメリ州 ) 131 134 (17) 〇ベクレル/ kg 「チェルノブイリ」を見つめなおす 汚染地域の食品汚染データ 事故処理作業者︵リクビダートル︶ の健康調査 一九九一年八月に起きた共産党クーデターに与し、失敗して自殺したアフロメーエフ元帥は、彼が ソ連軍参謀総長であったチェルノブイリ事故当時について、 事故が起きてからの数カ月間は﹁おおげさ 三〇キロ圏から一二万人を避難させ、﹁石棺﹂作りや放射能の除染をおこなうという作 「チェルノブイリ」を見つめなおす 遺伝的影響と胎内被曝影響 でなく戦争のようだった﹂と語っている。原発の爆発・炎上という前代未聞の事態を終息させ、周辺 遺伝的影響と胎内被曝影響 遺伝的影響 一九二〇年代に米国のマラーがショウジョウバエにエックス線を照射し、人工的に突然変異を作り 出して以来、放射線被曝にともなう﹁遺伝的影響﹂が注目されてきた。遺伝的な影響とは、親の精子ま たは卵の細胞が被曝して遺伝子が損傷を受け、その影響が子どもに現われることである。 広島・長崎では、約四万人の被爆二世集団を対象として死亡率やがん死率を調べる疫学研究が続け られている。最近の報告では、一九九九年までに一四三九件の 突然変異率︵ %信頼区間︶ 95 業の中心となったのは軍隊だった。最初に投入されたのは、核戦争に備えていた陸軍 死亡︵うちがん死三一四件︶があったが、親の被爆との間に着目 二 世 に 遺 伝 的 影 響 が あ っ た と し て も︵ 死 亡 率 と が ん 死 率 に つ い す べ き よ う な 関 係 は 認 め ら れ て い な い 。 今 の 段 階 で は、 被 爆 て は ︶そ れ ほ ど 大 き な も の で は な い だ ろ う と 言 え る 程 度 で、 例 数が少なくはっきりしたことは言えない。広島・長崎のように 長年にわたる組織的な追跡調査でもその程度の結果しか得られ ていない。チェルノブイリの場合は、移住やソ連崩壊後の社会 的経済的混乱などで、被災者登録も不十分なままであり、大規 そ う し た 中 で、 ド ゥ ブ ロ バ ら に よ る D N A 親 子 鑑 定 の 手 法 を 模な疫学調査は困難な状況にある。 汚染地域 の方法で子どもに突然変異が起きている割合を調べたところ、図 に示すように、非汚染地域に暮ら 用いた研究結果が注目される。ベラルーシやウクライナの汚染地域に暮らす親子について、親子鑑定 非汚染地域 化学部隊であった。はじめの二週間ほどは ﹁若い正規軍﹂ が中心で、漸次予備役が招集 されて ﹁老年兵﹂ と入れ替わった。さらに、石棺建設がはじまってからは、ソ連各地か ら愛国的労働者が集まってきたという。事故処理作業者 ︵リクビダートル︶の総数は六 は、被災三カ国の国家登録に登録されている人数で 〇万∼八〇万人と言われている。その中で、一九八六∼八七年に作業にあたった二〇 万人が大きな被曝を受けた。表 ある 。三カ国合わせて三六万人で、かなりの数が登録されていない︵旧ソ連の他の 共和国からも動員があった︶ 。線量記録があるのは六〇% 程度で、記録の確かさにも 疑問が残っている。 リクビダートルの多くが早死している、というニュースがしばしば流れてくる。ロ シア非常事態相シャイグーは二〇〇〇年四月、﹁旧ソ連八六万人のリクビダートルのう ち五万五〇〇〇人以上が放射線障害などで過去一四年間に死亡した﹂ と発表している。 また二〇〇五年四月にウクライナのチェルノブイリ被災者同盟は、﹁過去一九年間に事故の影響で一五 〇万のウクライナ人が死亡した﹂と発表している。残念ながら、こうした数字の中身について確認で きるような資料は入手していない。 興 味 深 い 資 料 と し て、 ロ シ ア・ リ ャ ザ ン 州 の リ ク ビ ダ ー ト ル 一 八 八 六 人 に 関 す る 追 跡 調 査 が あ る 。そのデータによると、一九八六年に動員された八五六人︵平均年齢三四・三歳、平均被曝量二〇 三ミリシーベルト︶ のうち一九九三年までの七年間に五五人 ︵六・四%︶ が死亡した。これは直感的にも 図17 非汚染地域と汚染地域での 突然変異率の比較 す親子に比べ突然変異率が有意に増加していた 。長期的な汚染と被曝が継続していることを考える と、住民の疾病についても組織的な疫学調査が必要とされている。 胎内被曝影響 広島・長崎では、母親の胎内で被爆した子どもたちに小頭症が発生 したことが知られている。これは、母親のお腹の中で胎児本人がうけ た﹁胎内被曝﹂影響であって、遺伝的影響ではない。生まれてきた子ど もがもっている障害は﹁先天的障害﹂と総称され、胎内被曝影響も遺伝 的影響も先天的障害に含まれる。同時に、放射線被曝がなくても先天的 ノブイリ・フォーラム報告はチェルノブイリでは先天的影響は認めら れないとしているが、ウクライナ放射線医学研究所のニャーグらは、 プリピャチ市で母親が妊娠中に事故が起き、キエフに移住してきてか ら生まれた子どもたちに、脳神経系の発達障害が認められることを報 告している 。また、ベラルーシ先天性疾患研究所のザツェピンらは、 に示すように、事故翌年一九八七年一月にベラルーシでのダウン 症 が 増 加 し た と 報 告 し て い る 。 同 研 究 所 の ラ ジ ュ ー ク は、 一 九 八 七 図 図18 ベラルーシでのダウン症発症率(1981−1992年) ベラルーシ ウクライナ 英国 ウクライナ 36 37 かなり大きい。一方、一九八七年の八六五人︵三二・八歳、九五ミリシーベルト︶で一九九三年までに 年 17 障害は発生し、その頻度は新生児の六% 程度とされている 。チェル (33) 死亡したのは二八人 ︵三・二%︶である。とりあえず、両グループ八三名の死亡のうち半分が事故処理 図16 ロシアの男性リクビダートル 定期検診結果 作業に由来すると考えると四二人となる。 一九八六∼八七年のリクビダートル数二〇万人はリャザン・ グループの一〇〇倍余りなので、一九九三年までにざっと五〇〇〇人 の死亡としてよい。事故から二〇年では数万人の死亡があっても不思 議はない。 で あ る 。 一 九 九 三 年 か ら は 検 診 が 義 務 化 さ れ、 一 九 九 六 年 の 受 診 率 は六六・三%であった。 病気持ち ︵第3グループ︶ のリクビダートルの割 合が着実に増加している。リクビダートルに病気や自殺が多いのは、 第1グループ:健康 第2グループ:要精密検査 第3グループ:病気 (32) 12 表 の登録集団について、疫学的な追跡調査が比較的キチンとおこ なわれているのはロシアである。図 は、その定期検診での健康状態 16 (31) 年から八八年にかけて汚染地域で、多指症などの先天的発達障害が増 加していたことを明らかにしている 。 (36) (16) 将来を悲観したりアル中が多いからで、被曝が原因ではない、としば 人 (35) 表12 各国で登録されているリクビダートル集団 しば言われる。仮にそうだとしても、そのきっかけが事故処理作業で (34) (29) あるなら、そうした人々も事故の犠牲者と言うべきであろう。 18 (30) 34 35 ベラルーシ 45,674人 26% 25mSv ロシア 143,032 80% 107mSv ウクライナ 174,812人 59% 160mSv 基本調査集団 線量記録あり 平均線量記録 12 「チェルノブイリ」を見つめなおす 事故処理作業者 (リクビダートル) の健康調査 19人 1986−1987年の事故処理作業者20万人(平均被曝量100mSv) 2200件 140件 総死者4000人 28人 急性患者で回復した104人のうち後に死亡した人 チェルノブイリ・フォーラム報告 ラムが、事故二〇年に向けての国際会議をウィーンのIAEA本部で開 二 〇 〇 五 年 九 月、 I A E A や W H O な ど 国 連 八 機 関 と ウ ク ラ イ ナ、 ベラルーシ、ロシア政府の専門家で構成されるチェルノブイリ・フォー き、﹁放射線被曝にともなう死者は、これまでに確認された死者と予測さ れるガン死を合わせて最終的に四〇〇〇人となる﹂という報告を発表し が従来考えられていたものより小さかったと報じた。 た 。これを受けて、世界中のマスコミは、チェルノブイリの健康被害 URL フォーラム報告書は、五〇ページほどの本文、環境関係、社会・経済 関 係、 健 康 被 害 関 係 の 三 つ の 付 属 文 書︵ 合 計 約 五 〇 〇 ペ ー ジ ︶、 さ ら に 一一ページのプレス・リリースで構成されている︵ダウンロード ︶。死者 http://www.iaea.org/NewsCenter/Focus/Chernobyl/index.shtml 四〇〇〇人の内訳がキチンと説明されているわけではないが、報告書を 眺めて数字を解読してみると下のようになった。 ﹁ こ れ ま で に 確 認 さ れ た 死 者 ﹂と は、﹁ こ れ ま で に 確 認 さ れ て い な い 死 者﹂は入っていないことになる。たとえば、﹁事故処理作業者の健康調査﹂ で述べたように、リャザン州での事故処理作業者の調査にもとづくと、 56人 : 以上︶住民六八〇万人︵平均被曝量七ミリシーベルト︶を評価の対 今中らのグループは事故の翌年に、チェルノブイリ事故によって生じるがん死の数は、一三万∼ 四二万件と見積もった 。この数字は、旧ソ連やヨーロッパ各国の汚染データを集め、セシウム に れたという次第である。 象からはずし、彼らに予測されるがん死五〇〇〇件をさっぴいた結果、四〇〇〇件のがん死と結論さ ″ ″ なぜか 汚染地域︵一キュリー/ 数九〇〇〇件としたチェルノブイリ一〇周年IAEA会議での報告 と基本的に同じである。今回は、 れた﹂と思ったらしい。フォーラム報告を読み込めばすぐにわかることだが、上記の評価は、ガン死 新聞報道によると、新たなデータを用いて新たな解析をおこなってみたら﹁がん死が大幅に減った﹂ というのがフォーラムの結論とされている。日本から参加した政府専門家も﹁より確かな予測が得ら をおこない、これまで死亡したのは一五∼二〇人だったそうである。 ついて担当医師から直接話を聞く機会があった。そこの病院では約四〇〇件の小児甲状腺がんの手術 なかった。二〇〇五年一〇月末に今中は、たまたまキエフの内分泌研究所を訪問し小児甲状腺がんに 小児がんの死亡は、ベラルーシ八人、ロシア一人となっていて不思議なことにウクライナでの死亡が これまでに数万人規模の死亡があったとしても不思議はない、といったことは無視されている。また、 急性放射線障害で死亡した人 スウェーデンの放射能汚染地域でがん増加 に達した。リンコ 〇・二〇︶であった。がん増加の原因 1600件 高汚染地域(15キュリー/km2以上)住民27万人(同50mSv) チェルノブイリから一〇〇〇キロ余り離れたスウェーデンには、事故二日後の四月二八日から二九 日にかけて降った雨がかなりの放射能汚染をもたらした。被災三カ国の法令に従えば ﹁汚染地域﹂と指 〇・〇三 3940件 ガン死数(計算に基づく予測) 9人 小児甲状腺ガン患者(約4000人)のうち死亡した人 汚染面積は一万二〇〇〇平方 た。スウェーデンのがん登録データをもとに、一九八八年から一九九六年の九年間に調査集団で発生 したがんを調べると、全部で二万二四〇九件のがん発生が見つかった。 〇キロベクレル/ 当り〇・一一 ︵九五%信頼区間 が放射能汚染であったとすると、観察されたがんのうち八四九件がチェルノブイリからの汚染による ものと見積もられている。 汚染があったとして、はじめの二年間で受ける被曝量は一〇 ∼二〇ミリシーベルト程度であろう。一〇〇キロベクレル/ 当り〇・一一という過剰相対リスクをシーベルト当りに変換す ると、一シーベルト当り五∼一〇の過剰相対リスクになる。広 島・長崎被爆生存者の追跡調査データでは一シーベルト当り約 〇・五なので、トンデルらはその一〇∼二〇倍のリスクを観察 したことになる。このちがいについてトンデルは、 一〇ミリシー ベルトといった低レベル被曝では被曝量・効果関係が直線では 図20 スウェーデン汚染地域でのセシウム汚染レ ベルとガン発生率:1988̶1996年 これまでに確認された死者 定される、三七キロベクレル/ 以上のセシウム ピング大学のトンデルらのグループは、チェルノブイリからの放射能によって、スウェーデンの汚染 地域でがんが増加するかどうかを調べてみようという疫学研究を企画した 。スウェーデンには、そ のような疫学調査に取り組むための基本的な条件が整っていた。すなわち、詳細な汚染測定データ、 正確な住民登録、それに確かながん診断登録制度である。 汚染地 トンデルらはまず、スウェーデンの中北部で汚 染を受けた七つの州を調査対象に選び、スウェー デン放射線防護局が作成したセシウム ︶ 。次に、七州の住 図19 セシウム137による地表汚染区 分、括弧内の数字は地区の数 汚染レベルとがん発生率との関係をプロットしてみると、汚染レベルともに統計的に有意ながん増 加が認められた ︵図 ︶ 。がん発生の過剰相対リスク ︵図の直線の傾きに対応︶ は、セシウム 汚染一〇 137 セシウム137地表汚染レベル (キロベクレル/m2) (19) km 年齢、先行する二年間の居住地に関する情報を備えた、一一四万三一八二人の調査対象集団が得られ を対象集団として選び出した。その結果、性別、 三一日に同一住所に登録されていた住民すべて て、一九八五年一二月三一日と一九八七年一二月 民登録をもとに、一九八六年に六〇歳以下であっ の汚染レベルに区分した ︵図 図を用いて、行政の最小単位である ﹁地区﹂ を六つ 137 ト ン デ ル ら の 論 文 で は 被 曝 量 は 評 価 し て い な い が、 今 中 の 大ざっぱな見積もりでは、一〇〇キロベクレル/ のセシウム m2 : (38) (37) 相対リスク︵対照群=1︶ 「チェルノブイリ」を見つめなおす チェルノブイリ・フォーラム報告:総死者4000人 m2 なく、極低レベルで効果が大きくなるモデルで説明しようとし km2 19 よる地表汚染にもとづいて長期的な被曝量を評価しがん死数を算出したものだった。対象にしたのは、 低レベル汚染地域も含む旧ソ連ヨーロッパ地域七四五〇万人︵平均被曝量二〇ミリシーベルト︶とヨー ロッパ各国四億九〇〇〇万人︵同一・五ミリシーベルト︶だった。フォーラム報告と今中らとでがん死評 価の手法は同じようなものだが、チェルノブイリ事故を考えるときの想像力が違っているようだ。 40 41 38 39 137 : 20 m2 30km圏事故直後避難民11.6万人(同10mSv) 137 137 ている。 (39) − m2 「チェルノブイリ」を見つめなおす スウェーデンの放射能汚染地域でがん増加 チェルノブイリ事故とIAEAの役割 IAEA ︵国際原子力機関︶ は、原子力利用の推進と軍事転用の防止を目的として一九五七年に国連 の下に設置され、ウィーンに本部が置かれている。チェルノブイリ事故が起きて以来、この二〇年間 日本に飛んできた放射能 、ヨウ素 、セシウム 、セシウム 、セシ などの核分裂生成物がずらりと勢ぞろい していた 。一瞬、﹁こんな空気を吸っていてだいじょうぶだろう カウント/チャンネル から環境放射能測定をやっていた今中らは、半信半疑ながらも、放射能観測態勢に入った。放射能 一九八六年四月末チェルノブイリからの放射能汚染はヨーロッパに拡大していたが、日本までやっ てくるかどうか、当時テレビに出てきた気象専門家の意見はどちらかと言えば否定的だった。普段 を最初に検出したのは、五月三日の夕刻から降った雨だった。 は、大阪府熊取町で五月五日にサンプリ の特徴である三六一キロエレクトロンボルトのガンマ線 五月四日の朝、雨をゲルマニウム半導体検出器にかけると、ヨ ウ素 が現われてきた。図 、ルテニウム ングした空気フィルターのガンマ線測定スペクトルである。ヨ ウ素 、テルル ウム か?﹂と思い、あわてて許容濃度と比較して﹁生きていくために の空気中濃度は一 当たり はしゃーないか﹂と思ったのを覚えている。改めて被曝量を見積 もってみよう。このときのヨウ素 /日、被曝量換算係数 3.7 × 10ミ3 〇・八ベクレルだった。この空気をまる一日幼児が吸っていた ら、 甲状腺被曝は、呼吸量三 ガンマ線エネルギー(keV) IAEAがはたしてきた役割は、事故隠しへの加担と被害の過小評価の歴史であった。事故が起きた 「チェルノブイリ」を見つめなおす 日本に飛んできた放射能 直後の一九八六年五月八日、当時のIAEA事務局長ブリックスが事故現場をヘリコプターから視察 IAEA本部ではこの二〇年間に、チェルノブイリに関する大きな国際会議が四回開かれている。 した。彼は五月一二日にウィーンで記者会見し、﹁ソ連の報道は遅いがまちがいない﹂ と語った。 その1 一九八六年八月 チェルノブイリ事故検討専門家会議 会議の前にソ連政府が四〇〇ページもの事故報告書をIAEAに提出し、それまでの秘密主義に比 べ、 そ の 詳 細 さ は 西 側 専 門 家 を 驚 か せ た。 会 議 で ソ 連 代 表 の レ ガ ソ フ は、 事 故 の 原 因 は ﹁運転員によ る規則違反の類まれなる組み合わせ﹂であったとして、六つの規則違反を指摘した。RBMK炉の構 造的欠陥に関する質問は、ブリックス事務局長が間を取り持ち、米ソで握りつぶしてしまった 。石 棺の建設など事故処理は順調に進んでおり、停止している三つの原子炉ももうじき運転再開すると発 表した。西側専門家も結局、運転員の規則違反が事故の原因であったというソ連報告を受け入れた。 その2 一九九一年五月 国際チェルノブイリプロジェクト報告会 一九八九年春にチェルノブイリ周辺の詳細な汚染地図が公表された。ソ連末期の民主化運動の高揚と 図21 5月5日に京大原子炉実験所で採取した 空気フィルターのガンマ線スペクトル に示してある。 リシーベルト/ベクレルとして、〇・〇一ミリシーベルト︵ 0.8 × × × 10 3 0.01mSv ︶となる。 4 3.7 この量は個人的には﹁神経質になることもないが無視していい量でもない﹂といった感じである。空気 ページの図 についての最大値は、雨水から一リットル当 − 年 中濃度の変化は 二五ベクレルという値が報告されている。長期的に は、気象研究所 の沈着量は、日本の平均で二 程度だった。図 ≒ 図22 気象研でのセシウム137とストロンチウム90の沈着量 観察データ(1955∼2005) あいまって、汚染対策を求める住民の運動が広がり、ベラルーシ最高会議は 試料採取:1986年5月5日 7:53∼17:20 旧ソ連と米国に よる核実験 新たに一一万人を移住させることを決定した。汚染対策をめぐって、ベラルー − チェルノブイリ事故 日本中がほぼ同程度の放射能で汚染された。ヨウ素 た り 五 〇 〇 ベ ク レ ル、 牛 乳 か ら 一 リ ッ ト ル 当 た り 〇〇ベクレル/ の沈着量である 。一九八六 年間測定を続けている日本でのセシウム とストロンチウム シーベルト︶に比べ、全身線量は神経質になるほど 表13 チェルノブイリからの沈着放射能による 日本での1年間の平均被曝量 単位:mSv 問題となるセシウム がこの は、日本 には大気圏内核実験により世界中で猛烈な汚染が では過去の核実験全体の三%程度に相当した。ヨー あった。チェルノブイリからのセシウム ロッパでは核実験を全部合わせたくらいだった。 表 は、日本での一年間の平均被曝量を見積もっ た も の で あ る 。 自 然 放 射 線 レ ベ ル︵ 年 間 約 一 ミ リ つくば シやウクライナの共和国政府、専門家とモスクワ中央との対立が深まった。 132 m3 5 で は な い が、 乳 幼 児 の 甲 状 腺 被 曝 は ち ょ っ と 気 に 高円寺(東京) 困りはてたソ連政府は、救いをIAEAに求めた。汚染地域の実状を調査し 136 m3 131 ベクレル/m2 対策を勧告してくれるよう、異例な要請をおこなった。放射線影響研究所・重 131 137 131 年のピークがチェルノブイリである。一九六〇年代 (41) 松逸造を委員長とする ﹁国際チェルノブイリプロジェクト﹂ が作られ、一年間の 131 22 調査の後に報告会が開かれた。﹁汚染にともなう健康影響は住民には認められ 21 103 137 90 ない。もっとも悪いのは放射能を怖がる精神的ストレスである﹂ という結論が 出され、ベラルーシやウクライナの専門家からの抗議は無視された。 132 11 m2 (2) その3 一九九六年四月 チェルノブイリ事故一〇周年総括会議 一九九〇年頃からチェルノブイリ周辺で小児甲状腺がんが急増した。事故 一〇年のまとめのこの会議では、小児甲状腺がんのみがチェルノブイリ事故 42 43 44 45 (8) 50 (11) 「この大災害の被害者数の評価を最大限に減らすために、後日専門家たちの国際的企み がおこなわれるであろう…国際諸機関は、実際には大国の支配のままになっており、見 かけの客観性と中立性を装いながら、大国介入の先兵となろう。この事故はたいしたも のではなかったと彼らは結論するであろうが、そうなれば、いったい今までの大さわぎ は何だったということになる…ソ連の責任者は、キチュトム災害の時と同じように、完 全沈黙をおこない、すべての情報の凍結を謀ることもできたはずであるとして、西側の 専門家がソ連の専門家を責めることも後に起こるかも知れない」 134 137 乳児 0.003 0.006 0.5 大人 0.003 0.001 0.15 外部被曝:全身 内部被曝:全身 内部被曝:甲状腺 137 かかるレベルであった。 ストロンチウム90 中国による核実験 セシウム137 の影響として確認された。 ベラ・ベルベオーク(「エコロジー」誌371号、1986年5月1日) 〈国際的な企み〉 (22) コミに対し ﹁ チ ェ ル ノ ブ イ リ 事 故 は 史 上 最 悪 だ っ た が、 そ の 被 害 は、 以 前 に 言われていたほどではなかった﹂ という印象を与えている。 (42) (38) その4 二〇〇五年九月 チェルノブイリ・フォーラム報告 事故二〇年に先手を打つかのように、二〇〇五年九月にフォーラムの報告 会が開かれた。﹁事故の総死者四〇〇〇人﹂というその見解は、専門家、マス (19) フランスの物理学者ベルベオークがチェルノブイリ事故の5日後に発表し た、洞察に富んだ文章を紹介しておく 。 (40) 13 : : : : 「チェルノブイリ」を見つめなおす チェルノブイリ事故とIAEAの役割 日本の原発で大事故が起きたら ″ ″ ″ソ連の原発と日本の原発では構造がちがう ″ソ連の運転管理はずさんなので事故が起きた 、しか ″ と確信しようとしている人びとがいる。そうした人びとでも、﹁どんな原発であれ原子炉 し、日本の技術は優秀で運転管理もしっかりしているので、″日本ではチェルノブイリのような事故 の運転にともなって大量の放射能が炉心に蓄積される﹂ことは否定しない。要は、放射能の大量放出 5億キュリー 4億キュリー 540人 3300人 公称28人 急性障害 2900人 4万5000人 公称134人 約3万 km2 約1兆円 4.2兆円 約50兆円 約1.7兆円 21兆円 54兆円 図23 浜岡原発で大事故が起きたら 日本への輸入食品の汚染の状況と市民による放射能測定 厚生省 ︵当時︶は、専門家を集めてつくった﹁食品の放射能に関する検討会﹂が決定した、セシウム とセシウム の合計値で一 または一リットル当たり三七〇ベクレルという暫定基準値を輸入制限 値として採用した。そして、一九八六年一一月一日から、ヨーロッパ地域からの輸入食品の多い五ヵ 所の検疫所︵東京、横浜、大阪、神戸の各港と成田空港︶でシンチレーション・サーベイメーターを使 いチェックを始めた。 厚生省の検査体制にひっかかり、積み戻しを指示された輸入食品のリストを表 と表 に示した。 キノコ類、ナッツ類、ベリー類はセシウムを取り込みやすい植物であること、香辛料やハーブ類は放 射能を取り込みやすい性質に加えて乾燥重量当たりの濃度が高まることが、高い汚染値となる理由で ある。トナカイなど野生動物は汚染したコケ類などをえさとして食べることが影響している。ブラジ ル産と香港産のビーフ・エキストラクトは、原料肉がアイルランド、フランス産で、製品の原産国、 すなわち加工・出荷国が第三国である。こういった第三国経由の輸入のケースは他にもたくさんあっ て検査もれとなっている可能性が高い。 原子力資料情報室には、輸入食品の汚染の実態におどろいた市民たちの問い合わせが殺到した。そ して、市民グループとともに国の検査体制や三七〇ベクレル/ という暫定基準値が高すぎることに チェ 134 は起きない 原発事故の災害評価と実際のチェルノブイリ事故とを比較したものである。原子力産業会議の災害評 「チェルノブイリ」を見つめなおす 日本への輸入食品の汚染の状況と市民による放射能測定 に至るような事態が起きるかどうかである。 なっている。しかし、安全審査の実態は﹁著しい放射能災害をもたらすような事態は、想定不適当と 日本の原発はいずれも国の安全審査に合格しており、﹁技術的見地から起るとは考えられない事故 ︵仮想事故︶ の発生を仮想しても、 周辺の公衆に著しい放射能災害を与えないこと﹂ が確認されたことに して、最初から考慮しない﹂ だけのことである 。そして、もんじゅナトリウム火災事故︵一九九五年︶ や東海村JCO臨界事故︵一九九九年︶ のように、安全審査ではまったく想定されていないことが次々 と起きているというのが、日本の原子力の実状である。日本の原発でも放射能の大量放出という事態 が起こりうると考えるべきであろう。 原発で最悪の事態が起きたらその被害が破局的な規模になることは、そもそも原子力発電に本格的 に取り組むにあたって、原子力を進める側が検討ずみのことであった。表 は、日米でおこなわれた 急性死者 価 は、日本最初の商業発電炉である東海1号炉︵一九六六年運転開始、一九九八年閉鎖︶を建設する 100万 kW 1000万キュリー に あ た っ て、 事 故 が 起 き た ら ど れ く ら い の 被 害 が 出 る か を 試 算 し た も の で あ る。 試 算 の 目 的 は、 原 子 力 保 険 制 度 を 検 討 す る た め だ っ た が、 国 家 予 算 規 模 の 被 害 が 予 測 さ れ た。 そ ん な に 大 き な 被 害 が 出 る よ う で は、 電 力 会 社 は こ わ く て 原 子 力 発 電 に 取 り 組めない。そこで、﹁原子力損害賠償法﹂を制定し、原子力事業者 が保険で支払う賠償義務の上限を五〇億円 ︵現在は六〇〇億円︶ と し、 そ れ を 越 え る 被 害 分 は 国 が 面 倒 を み る、 と い う こ と で は 表14 原発事故の災害規模 48 49 じ ま っ た の が 日 本 の 原 子 力 発 電 で あ っ た。 米 国 で も 同 じ よ う な は、 チ ェ ル ノ ブ イ リ の 汚 染 地 図 を 浜 岡 17 災害評価 ︵ラスムッセン報告 ︶がおこなわれているが、試算結果 は似たようなものである。 ︵事故当 チ ェ ル ノ ブ イ リ の 場 合、 ベ ラ ル ー シ 政 府 は 二 八 兆 円 時の国家予算の三二年分︶ 、ウクライナ政府 は一八兆円という 数 字 を 出 し て い る。 図 原発と重ねたものである 。東京あたりも高汚染地域となって移 15 46 47 (43) 住 が 必 要 と な る。 国 家 予 算 で も と う て い 間 に 合 わ な い 規 模 の 被 100万 kW (44) 害となろう。 約40万人 約1万 km2 損害評価額 kg く検査で得たデータの開示などを求め、これらの情報をブックレット﹃食卓にあがった死の灰 − 750km2 8300km2 永久立退き人数 または面積 (46) (47) 137 対して、厚生省に対する申し入れや交渉を重ねた。検査体制の拡充、規制値を超えたものだけではな kg 3万人 農業制限面積 3万6000km2 日本の国家予算 14 ラスムッセン報告 (1975) 16万 kW 電気出力 (45) チェルノブイリ (1986) 原産会議報告 (1960) 放射能放出量 23 (48) 「チェルノブイリ」を見つめなおす 日本の原発で大事故が起きたら 「チェルノブイリ」を見つめなおす 日本への輸入食品の汚染の状況と市民による放射能測定 表15 日本で積み戻しとなった輸入食品 ルノブイリ事故による食品汚染﹄︵一九八七年︶﹃同パート2﹄︵八七年︶ 、﹃同パート3﹄︵八八年︶、高木仁 チェルノブイリ事故による食品汚染﹄︵講談社現代新 − 三郎・渡辺美紀子共著 ﹃食卓にあがった死の灰 書、九〇年︶ にまとめ、情報提供をしてきた。 市民による放射能測定 私たちは、毎日食べている食品の汚染傾向をつかむためには、自らが測定機関をもたなければなら ないことを厚生省交渉やヨーロッパでの市民活動などから学んだ。市民グループが資金を集めて測定 器を購入したり、自治体に測定器を購入させ市民がその運営に参加するなど各地でさまざまな活動が 展開し、測定活動がはじまった。その活動で、輸入食品だけでなく、日本産の干ししいたけや山に自 生するきのこなどにも六〇年代に実施された大気圏内核実験の影響が強く残っていること、飼料用の 脱脂粉乳の汚染などが明らかになった。そして、市民のきびしい監視活動こそが国や企業に対し、大 きな圧力となることを知った。 時間を経て、輸入食品の汚染がおさまってくると市民の関心もうすれ、 測定依頼なども少なくなり、 活動をどう維持するかの問題に直面するなど、 試練も経験している。﹁何のために測定し続けるのか?﹂ と根源的な議論もなされた。測定装置にも寿命がきて、買い換える経済的基盤がなかったり、自治体 から継続する予算がとれずにやむをえず閉鎖したところもある。 事故が起きた当時、日本で稼働していた原発は三二基だったのが、二〇年経ようとする現在、五五 基が稼働している。そして、六ヶ所再処理工場が試運転に突入しようとしている。再処理工場が本格 的に稼働するようになると、日常的に大気中や海に放射能が放出される。いま、市民による独立した 本格的な監視機関がますます必要不可欠な状況となっている。私たちの新しい課題である。 ●測定依頼を受け付けています。 (1検体7000円) 放射能汚染食品測定室 事務局:東京都千代田区三崎町2-6-2 ダイナミックビル5F たんぽぽ舎気付 TEL 03-3238-9035、FAX 03-3238-0797 発表日 食品 産国名 輸入港 30t 1.26t 14.5t 52t 0.2t 4t 4.02kg 8.5kg 3.77t 28t 32.4kg 37.5kg 9.21t 1.5t 99.8kg 18kg 5kg 110kg 6kg 3.02t 神戸・横浜 神戸 横浜 神戸・横浜 成田空港 神戸 東京 大阪空港 横浜 神戸・横浜 東京 東京 横浜 神戸 成田空港 大阪 大阪空港 成田空港 成田空港 横浜 横浜 622 ドライハーブ アイスクリームペースト セージ葉 第13回(87.12.22) ヘーゼルナッツペースト 第14回(88.1.20) きのこ(カノシタ) きのこ(くろらっぱたけ) 第15回(88.2.15) ハーブ茶(ローズヒップ) ドライハーブ(西洋オトギリソウ) ドライハーブ(スイカズラ) 第16回(88.6.2) ドライハーブ(ジュニバーベリー) 第17回(88.6.14) セージ葉 19.5kg 576kg 4t 72kg 17kg 9kg 2.52t 98kg 5kg 10kg 4kg 成田空港 東京 神戸 神戸 成田空港 小樽 大阪 神戸 大阪 大阪 大阪空港 536 417 417 411 636 755 467 385 776 423 411 216kg 大阪 379 セージ葉 きのこ(あんずたけ) 第20回(88.9.25) きのこ(あんずたけ) きのこ(カノシタ) 第21回(88.10.5) ハーブ(エストラゴン) 第22回(88.12.2) ハーブ茶(ダンデリオン) 第23回(88.12.28)月桂樹の葉 第24回(89.1.11) きのこ(くろらっぱたけ) 第25回(89.1.23) ゼンマイ(乾燥ゼンマイ) 第26回(89.4.10) ゼンマイ(乾燥ゼンマイ) 第27回(89.10.23)きのこ(あんずたけ) 第28回(90.2.28) ハーブ茶(ダンデリオン) 第29回(90.10.3) ハーブ茶(セイヨウノコギリ草) 第30回(91.2.14) 乾燥きのこ(ヤマドリタケ) 第31回(91.3.13) ミックススパイス 第32回(94.11.8) 燻製トナカイ肉 第33回(98.1.21) 乾燥きのこ(ポルチーニ) ユーゴスラビア イタリア アルバニア トルコ フランス フランス ルーマニア ユーゴスラビア フランス ユーゴスラビア フランス 香港製(アイルラ ンド原産) ギリシャ フランス フランス フランス フランス スイス(輸出国) スペイン フランス ソ連 ソ連 フランス スイス(輸出国) アルバニア ユーゴスラビア フランス(輸出国) フィンランド イタリア 28kg 5kg 34kg 6kg 60kg 51kg 10kg 10kg 180kg 158kg 3kg 2kg 9kg 25kg 8kg 42kg 21kg 横浜 成田空港 成田空港 成田空港 東京 大阪空港 横浜 大阪空港 新潟 横浜 成田空港 成田空港 成田空港 成田空港 神戸 関西空港 成田空港 第34回(01.11.8) 乾燥きのこ(ポルチーニ) イタリア 36.1kg 成田空港 418 厚生労働省発表より 第12回(87.10.28) 第18回(88.7.4) ビーフ・エキストラクト 第19回(88.9.5) 51 国 ヨーロッパ地域 kg 現在の検査体制(1998年12月2日付衛検第223号) 食品 国 きのこ及びきのこ乾製品 トナカイ肉 ハーブ及びハーブ乾製品 ビーフエキス 香辛料 はちみつ ヨーロッパ地域 100%検査 10%モニタリング検査 モニタリング解除 16 ︶。すべてキノコ をこえるものが二件あった。 ※野草はハーブ及びきのこ 野草加工品(水煮等を除く)は、ハーブ及びきのこ乾製品。 16 年後、現在の輸入食品の検査体制 野草及び野草加工品(水煮等を除く) 100%検査 トナカイ肉 香辛料 ビーフエキス 10%モニタリング検査 はちみつ 事故から 食品 厚 生 労 働 省 に、 二 〇 〇 一 年 一 一 月 以 降 の 積 み 戻 し と な っ た 輸 入 食 品 に つ い て 問 い 合 わ せ た と こ ろ、 一 三 表16 検査体制一覧表 旧検査体制(1993年1月11日付衛検第10号) 件あったことが明らかになった︵表 で、一〇〇〇ベクレル/ 検査体制は、一九九八年に大幅に縮小されている︵表 ︶。 検査対象は、ヨーロッパ地域。トルコおよび旧ソ連のウラル山脈以西︵アルメニア、アゼルバイジャ ン、ベラルーシ、エストニア、グルジア、モルドバ、ラトビア、リトアニア、ウクライナならびにカ ザフスタンおよびロシアのウラル山脈以西をいう︶を含む。 東 京 都 に 流 通 し て い る 輸 入 食 品 の 検 査 で、 国 の 検 査 を く ぐ り 抜 図24 50ベクレル/kgを超えた試料の検出率の年度推移 (都立衛研年報2003) 53 397 446 707 562∼458 432 579 1325 650 655 379 532 1167 814 556 1028 388 731 「チェルノブイリ」を見つめなおす けていた3件が判明 東 京 都 で は チ ェ ル ノ ブ イ リ 事 故 後、 市 場 に 流 通 し て い る ヨ ー ロ ッ パ か ら の 輸 入 食 品 に つ い て 検 査 を 実 施 し て い る。 香 辛 料、 食 肉、 ナ ッ ツ 類、 乳 製 品、 野 菜、 果 実、 は ち み つ、 穀 類 な ど 多 岐 に わ た る 品 目 で、 年 間 六 〇 〇 以 上 の 検 体 を 測 定 し て い る。 、二〇〇 これまでに一九八九年一二月にスウェーデン産トナカイ肉から kg 、九四 年 一二月 に フラン ス 産生鮮 き のこ、 kg 三八〇ベクレル/ ピエ・ド・ムトン ︵カノシタ︶から八一〇ベクレル/ の 三 件 が、 国 の 検 査 を く ぐ り 抜 け て 流 通 し て い た こ 一 年 に イ タ リ ア 産 乾 燥 ポ ル チ ー ニ︵ ヤ マ ド リ タ ケ ︶か ら 四 一 八 ベ クレル/ 24 とが判明した。 五 〇 ベ ク レ ル / を 超 え た 試 料 の 検 出 率 の 年 度 推 移︵ 図 ︶を 見 る と、 一 九 九 七 年 ま で 下 が っ て い た の が、 国 の 検 査 体 制 が 大 幅に縮小された一九九八年からグンと高くなっている。 kg 2.6t 50 日本への輸入食品の汚染の状況と市民による放射能測定 kg 放射能濃度 (ベクレル/kg) 520∼980 440 1000∼2000 490∼720 389 1198 1715 1425 1758 496∼551 8780 408 1895 425 497 673∼955 379 390 1072 1042 輸入数量 ヘーゼルナッツ トルコ 牛胃 フィンランド 第2回(87.2.6) セージ葉 トルコ 月桂樹葉 トルコ 第3回(87.2.13) トナカイ肉 スウェーデン セージ葉 トルコ 第4回(87.3.27) タイム フランス ヒースの花 フランス 第5回(87.5.8) セージ葉 ギリシャ 月桂樹葉 トルコ ハーブ茶(カモミール) スペイン 第6回 (87.5.28) アーモンド イタリア セージ葉 アルバニア 黒すぐりピューレ フランス 第7回(87.6.12) セージ葉 ユーゴスラビア ハーブ茶(ローズヒップ,リンデン) ユーゴスラビア ヘーゼルナッツペースト トルコ 第8回(87.5.24) ヘーゼルナッツ調整品 イタリア 第9回(87.8.20) ドライハーブ(ヒース) フランス 第10回(87.9.11) 月桂樹葉 トルコ ビーフ・エキストラクト (87.10.21) ブラジル 第11回 (原料:ブラジル,アイルランド,フランス) 第1回(87.1.9) 20 表17 日本で積み戻しとなった輸入食品(第35回以降) 違反確定日 生産国 第35回 2003年7月11日 ロシア 第36回 2003年9月25日 第37回 2003年12月2日 品名 検査値 (ベクレル/ kg) 担当 検疫所 違反重量 (kg) 90 乾燥カバノアナタケ 408 成田 イタリア 乾燥ヤマドリタケ粉末 594 関西空港 ウクライナ 乾燥カバノアナタケ 833 成田 200 第38回 2004年4月15日 ベラルーシ 乾燥カバノアナタケ 599 成田 105 第39回 2004年4月20日 フランス 乾燥カノシタタケ 525 成田 15 第40回 2004年5月24日 イタリア 冷凍ポルチーニ 1,140 東京 1,000 第41回 2004年6月8日 ロシア カバノアナタケ粉状 460 小樽 313 第42回 2004年8月4日 ロシア カバノアナタケ粉状 387 小樽 202 第43回 2004年12月22日 スロヴェニア 乾燥ポルチーニ 第44回 2004年12月28日 ベラルーシ 乾燥カバノアナタケ 1,003 378 成田 第45回 2005年2月28日 イタリア 第46回 2005年9月29日 第47回 2006年2月2日 成田 60 3 81 乾燥ポルチーニ 511 神戸二課 168 リトアニア アンズタケ 466 成田 241 イタリア 乾燥ポルチーニ 663 成田 144 (原子力資料情報室の問い合わせにたいする厚生労働省の回答による) 52 ヨーロッパへの放射能汚染の広がり チェルノブイリの放射能雲はヨーロッパの国々を直撃した。環境中の放射能値が急上昇するなか、 人びとは混乱と不安におそわれた。 西ドイツ ︵当時︶ では、四月三〇日ベルリンで放射能値がピークに達した。その後、放射能の雲はド イツ南部へと広がりバイエルン上空にさしかかったとき、夕立の雨が降って放射能が地上に落ちてき たため汚染はとくにひどく、ホットスポットとなった。 の会﹂ 、﹁親の会﹂ などが誕生した。 ミュンヘン市では子どもたちの健康と安全に不安を持つ親たちが、遊 園地の汚染度の測定を会社に依頼したところ四万ベクレル/平方メートルを超える数値が検出された。 放射能汚染に対する国々の対応は、それぞれの国の原子力に対する姿勢で決まる。地方分権が確立 したドイツでは、州によって食品汚染の規制値なども大きく異なった。原発大国のフランス政府は、 ﹁放射能の雲はフランスには来なかった﹂ と主張し続け、二〇〇五年にようやく放射能雲が通過したこ とを認めた。 ども販売禁止にし、子どもたちは砂場で遊ばないようにと具体的な対策を示した。さらに政府は、研 オーストリアは、一九七八年に完成したツベンテンドルフ原発の運転開始を国民投票により阻止し た国である。レタスやキャベツなど葉ものの野菜のほか、カリフラワー、トマト、グリーンピースな のように示すなど、 究機関が調査したデータをもとに、オーストリアに暮らす平均的な人が事故後さまざまな経路からう ける被曝の割合を図 さまざまな情報を国民に提供している。 チ ェ ル ノ ブ イ リ の 汚 染 を き っ か け に、 原発社会における子どもたちの将来を心 配 す る 市 民 た ち を 中 心 に、 専 門 家 と と も に環境や食品の放射能測定をはじめると い う 動 き が 国 際 的 に 拡 が っ た。 ニ ュ ー ス レ タ ー で 測 定 値 を 発 表 し、 市 民 に 向 け て 注 意 す べ き こ と な ど の 情 報 を 発 信 し た。 現在も、ベルリンから ﹃シュトラーレン テレックス﹄ 、ミュンヘンから ﹃ウンベル に 示 し た。 森 ト﹄の発行が続いている。二〇〇三∼〇五 年 の デ ー タ を ま と め、 表 汚染が持続している。 54 55 初期の行政現場では、比較的自由で柔軟な対応がとられていたという。市民からの問い合わせに対 して、﹁子どもを外に出さないように﹂とか ﹁外で仕事をしないように﹂といったアドバイスなどもあっ たようだ。ヘッセン州では、 五月二日に牛の放牧をひかえるよう農家に勧告するとともに、牛乳一リッ トル当たりのヨウ素 の許容量を二〇ベクレルと決めた。 ハーン・マイトナー物理学研究所では、 市民からの依頼による母乳を測定したところ一リットル中、 ﹁授乳中の母親 ヨウ素 が一五〇ベクレル、六五ベクレルなどという値が出た。各地に自然発生的に 131 25 平均値 0.4 表18 最近のヨーロッパの食品の放射能測定データ 測定値 0.2∼0.7 5.4∼15.9 10.6 4.1∼62 19.1 30∼460 198.6 2.1 2.9∼11 6.7 120 0.5 2.2 1.7 7.8∼103 36.2 36.2 71.6、11.4 41.5 43.2、22.1 32.7 1.1 0.3∼1.8 0.8 0.9 0.16 3.2 0.33 3.4 0.75 119.8 114 166.5 309 1444 436.5 2.4 14.4 45.3 67.7 904.5 151.5 52.1 132.5 857.5 51.7 654 0.31 0.26 0.17 0.18 0.13 0.087∼0.27 0.17 11 2.4 0.38 910と398 180 637 293 95.6 25.4 16.2 90 31.8 71.6 368 250 13.8 1563と152 1.9∼105 5.5 0.3 1.8 115と150 5.5 6.3∼95.2 850.3 203 67.1 55.1∼2639 86.6∼245 87.7 60.5 270と63 5.0∼1101 338∼3281 20.9∼1322 2.1、2.6 5.4、23.4 31∼73 2.5∼210 8.8 13∼300 190と38 5457 食品名と産地国 測定年 検体数 焼き菓子 2005 8 ベリー類 コケモモ(ドイツ) 2004 3 コケモモ(産地国不明) 2004 8 コケモモの濃縮液(産地国不明) 2004 5 ブルーベリー(産地国不明) 2004 1 クランベリー(産地国不明) 2004 3 クランベリーの濃縮液(産地国不明) 2004 1 スグリの実の濃縮液(産地国不明) 2004 1 野生のラズベリー(ドイツの森) 2004 1 ブルーベリー(ドイツ) 2004 1 コケモモ(ドイツ) 2005 4 コケモモ(オーストリア) 2005 クランベリー(スウェーデン) 2005 2 クランベリー(ドイツ) 2005 2 野生のベリー(ドイツ) 2005 1 野生のラズベリー(ドイツ) 2005 4 ブルーベリー(オーストリア) 2005 1 果物・薬草・茶など リンゴ(ドイツ) 2004 1 ニワトコの実(ドイツ) 2004 1 ザクロの実(トルコ) 2004 1 ヨーロッパブナ茶(産地国不明) 2004 1 ジャスミン茶(中国) 2004 1 野菜 カリフラワー(ドイツ・ベルリン) 2004 1 フダンソウ(ドイツ・ベルリン) 2004 1 ?(ドイツ・ベルリン) 2004 1 トマト(ドイツ・ベルリン) 2004 1 ネギ(ドイツ・ベルリン) 2004 1 ジャガイモ(ドイツ・ベルリン) 2004 3 ナッツ類 2003 1 2004 1 2004 1 キノコ類 2005 1 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 3 1 1 1 2 1 3 1 1 1 4 3 1 1 2 22 3 25 2 2 3 7 1 4 2 ヘーゼルナッツ(産地国不明) ヘーゼルナッツ(産地国不明) クルミ 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2004 2004 2004 2004 2004 2005 2005 2005 2005 2005 2005 2004 2004 2005 2005 2004 2004 2004 2004 2004 2004 2004 2004 キノコの粉末(ドイツ) ミックスきのこ(ドイツ) ミックスきのこ(チェコスロバキア) ゼンメルシュトッペル(ドイツ) ゼンメルシュトッペル(オーストリア) ナラタケ(オーストリア) ナラタケ(ドイツ) ナラタケ(ベラルーシ) チチタケ(ドイツ) トウヒ材のチチタケ ゾウゲヤシ(ドイツ) 茶アミタケ(ドイツ) 黒アミタケ 黄金アミタケ 赤足アミタケ(オーストリア) 赤足アミタケ(ドイツ) カサダケ(オーストリア) カサダケ(ドイツ) ヤマドリダケ(ブルガリア) ヤマドリダケ(ポーランド) ヤマドリダケ(チェコスロバキア) ヤマドリダケ(ドイツ) ヤマドリダケ(ドイツ全国郡連絡協議会) 干しヤマドリダケ(ドイツ) 干しヤマドリダケ(セルビア) ヤマドリダケ(オーストリア) ヤマドリダケ(ドイツ) ヤマドリダケ(ルーマニア) ヤマドリダケ(ポーランド) 栗アミタケ(ポーランド) 栗アミタケ(ドイツ) 栗アミタケ(オーストリア) 栗アミタケ(ドイツ) アンズダケ(ブルガリア) アンズダケ(セルビア) アンズダケ(ポーランド) アンズダケ(リトアニア) アンズダケ(ラトビア) アンズダケ(ベラルーシ) アンズダケ(ウクライナ) 1 3 1 2 1 1 1 1 7 1 7 1 1 2 1 1 1 1 1 4 2 2 1 25 1 4 2 9 3 14 1 4 1 3 2 1 5 0.056 25.2∼98 0.33 80、26.3 10.8 12.8 0.1 650 0.08∼3.0 4.2 0.097∼0.44 0.54 0.077 0.10、 0.13 0.9 0.7 0.6 0.6 0.2 2.3∼67 319と73.9 444と111 120 0.4∼814 355 5.2∼327 241と29.9 1.5∼194 19.4∼187 1.0∼155 78.7 1.4∼49 46.2 3.6∼23.7 95.3、16.2 14.8 0.6∼6.4 0.12 0.25 1.1 53.2 64.7 2.3 10.1 55.8 14.8 141.7 135.5 40.8 111.1 39.9 103.8 27.5 196.5 277.5 セシウム137(ベクレル/kg) アンズダケ(ロシア) 2004 アンズダケ(ドイツ) 2004 アンズダケ(オーストリア) 2005 干しアンズダケ (産出国不明) 2005 干しアンズダケ (リトアニア) 2005 干しアンズダケ (旧ユーゴスラビア) 2005 干しアンズダケ (イタリア) 2005 干しアンズダケ (ルーマニア) 2005 干しアンズダケ (ドイツ) 2005 干しアンズダケ (オーストリア) 2005 干しアンズダケ (ポーランド) 2005 干しアンズダケ (ノルウェー) 2005 干しアンズダケ (セルビア) 2005 干しアンズダケ (スロベニア) 2005 干しアンズダケ (チェコスロバキア) 2005 干しアンズダケ (ベラルーシ) 2005 干しアンズダケ (東ヨーロッパ) 2005 干しアンズダケ (ブルガリア) 2005 肉類と野生動物の肉 イノシシのもも肉(オーストリア) 2003 イノシシ肉(ドイツ・ベルリン) 2004 イノシシ1歳子のもも肉(ハンガリー) 2003 ノロジカ(ドイツ) 2004 ノロジカの子(ドイツ) 2004 シカ肉(ドイツ) 2004 ラムステーキ(ニュージーランド) 2003 トナカイのもも肉(産地国不明) 2003 牛肉(ドイツ・ベルリン) 2004 子牛の肉(ドイツ・ベルリン) 2004 豚肉(ドイツ・ベルリン) 2004 豚のレバー(ドイツ・ベルリン) 2004 野生のカモの肉(ポーランド) 2004 スープ用の鶏肉(ドイツ・ベルリン) 2004 シカ肉(ドイツ) 2005 イノシシ肉 (ドイツ) 2005 イノシシの後脚の上腿 (ドイツ) 2005 野ガモ(ドイツ) 2005 ノロシカ(ドイツ) 2005 0.29 0.17 0.16 0.31 0.5 0.3 1 1 1 1 1.4 0.3 0.83、0.94 0.23、0.99 0.22 2.9 2.8 1 1 1 1 2 2 1 1 1 13.9 10.8 2.6 0.2 0.3 294 0.89 0.61 0.035∼8.3 0.67 12 0.16 0.19 0.28 0.21 0.28∼1.6 0.84 0.1 0.2 0.3 0.2 1 1 1 1 1 24 1 1 1 1 1 5 1 1 1 1 シカのぶつ切り肉(ドイツ) 2005 キジ(ドイツ) 2005 乳製品 ミルク(ドイツ) 2004 やぎのミルク (ドイツ) 2004 やぎのチーズ (オランダ) 2004 野牛のモッツァレラ(イタリア) 2004 羊乳のチーズ (ブルガリア) 2004 羊乳のチーズ (フランス) 2004 ベビー用ミルク製品 (ドイツ) 2004 ミルク(ドイツ) 2005 ミルク(ベルギー) 2005 バター(ドイツ) 2005 バター(ドイツ) 2005 飼料 ヒマワリの種(ロシア) 2004 飼料用トウモロコシ(カナダ) 2003 飼料用トウモロコシ(ドイツ・ベルリン) 2004 トウモロコシ発酵飼料(ドイツ・ベルリン) 2004 魚類 ホタルジャコの切り身 (エストニア) 2003 ホタルジャコの切り身 (ロシア) 2004 ブリューム(コイ科) (ドイツ・ベルリン) 2004 コイ(ドイツ・ベルリン) 2004 マス(ドイツ・ベルリン) 2004 バーチ(スズキ科) (ドイツ・ベルリン) 2004 ラプシェン(コイの1種)(ドイツ・ベルリン) 2004 ハチミツ 2005 2005 2005 2005 2005 7.3 408と180 58.4 57.4 514 6月のハチミツ (ドイツ) 夏のハチミツ (ドイツ) ハチミツ (ドイツ) アブラナのハチミツ(ドイツ) 5月のハチミツ (ドイツ) 1 2 1 1 1 その他 2003 2005 2005 2005 2005 松葉(ドイツ・ベルリン) シダ類(ドイツ) シダ類(オーストリア・チロル) コケ類(ドイツ) 木灰(オーストリア・チロル) ・ベルリンとミュンヘンの民間の測定機関が測定したデータが掲載された機関紙 Strahlentelex Nr.434-435/2005と Umweltnachrichten 102/2005のデータにもとづく ( まとめ:渡辺美紀子) 56 57 131 林 に 自 生 す る キ ノ コ 類、 ベ リ ー 類 に 高 い 18 「チェルノブイリ」を見つめなおす ヨーロッパへの放射能汚染の広がり 図25 オーストリアにおけるチェルノブイリ事故による被曝 資料 資料 RBMK1000炉の仕様 項目 出力 タービン 炉心サイズ 黒鉛ブロック 炉心容器サイズ 圧力管チャンネル数 圧力管 制御棒チャンネル数 燃料 燃料集合体 冷却系 内容 電気出力100万 kW、熱出力320万 kW(発電効率31.3%) 50万 kW ×2台 (冷却系は2ループ) 直径11.8m、高さ7.0mの円筒形。 ・炉心の基本構造は、減速材である黒鉛ブロックを積み上げて作られる。 ・黒鉛ブロックには圧力管チャンネル用の孔があり、圧力管チャンネルは 炉心を上下に貫通する。 25cm ×25cm ×60cm の直方体、密度1.65g/cm2。 ・中心に直径11.4cm の上下方向貫通孔。 ・黒鉛ブロック総重量1700トン 直径14.52m、高さ9.75m の円筒形。 ・炉心の上下・円周には黒鉛反射体や鉄遮蔽体があり、それらを囲む炉心 容器 (シュラウド)が炉心スペースの気密バウンダリを構成。 ・炉心スペースの耐圧は1.8kg/cm3。 ・炉心容器の周辺は、環状の水タンク (厚さ2.4m)があり、さらに充填砂 層があってコンクリート壁に至る。 ・炉心容器の上下には、上部構造板(直径17m、高さ3m)と下部構造板(直 径14.5m、高さ2m)があり、それぞれチャンネル用の孔が貫通している。 1661本 外径88 mm、内径80mm。 ・材質:炉心部はジルコニウム合金で、その上下にステンレス管を溶接。 ・圧力管の中には、燃料集合体が1体ずつ挿入される。 ・冷却水は下部から入り、沸騰しながら上部出口から出る。 ・運転中に圧力管を1本ずつループから隔離して燃料交換する。 ・黒鉛ブロックとの隙間は、黒鉛リングを用いて密着させる。 211本 ・中性子吸収材:炭化ホウ素。 ・出力自動制御棒12本、局所出力自動制御棒12本、手動制御棒115本、 緊急保護棒24本、局所緊急保護棒24本、短尺制御棒24本。 2酸化ウラン (濃縮度2%) 燃料ペレット:直径11.5mm、長さ15mm。 燃料棒:外径13.6mm、長さ3.5m。被覆管はジルコニウム合金、 厚さ0.9mm。 ・炉心のウラン装荷量194トン・設計燃焼度:20MWD/kg 副燃料集合体:長さ3.5m、燃料棒18本を束ねて中心管で固定。 燃料集合体:長さ7m、副燃料集合体2つを上下に連結。 ・燃料集合体当りウラン量:114.7kg。 冷却材:軽水 ・圧力管入口温度:270℃ ・圧力管出口:温度284℃、圧力70kg/cm2、蒸気含有率14.5%。 ・主循環ポンプは各ループに4台(1台は予備) 、計8台。 ・炉心冷却材流量:3万7600トン/時。蒸気供給量:5800トン/時。 事故経過 (1986年4月25-26日) 1986年 4月25日 この日、チェルノブイリ4号炉は、点検修理のため、運転開始以来はじめての原 子炉停止作業に入った。原子炉停止に際して、いくつかの機器の作動テストや特 性試験が予定されていた。その1つに、事故時に非常用ディーゼル発電機が動き 出すまでの ECCS(緊急炉心冷却装置)ポンプ用電源として、タービンの慣性回転 を利用する電源のテストがあった。テストにあたっては、ECCS ポンプの模擬と して、その電源に主循環ポンプ4台が接続されることになっていた。 25日1時 定格出力(熱出力320万 kW)から出力降下を開始。 25日3時47分 熱出力160万 kW まで出力低下。 25日4時13分 ∼12時36分 熱出力150万 kW の状態で、No.7と No.8タービン発電機の調節システム特性と振 動特性の測定を順次実施。 25日13時5分 2台のタービンのうちの1つ(No.7) を切り離し。 25日14時 ECCS を解除。そのまま出力低下を続ける予定であったが、ここでキエフ給電指 令所の要請により、160万 kW での運転を継続。 25日23時10分 出力降下作業を再開。 4月26日 0時28分 熱出力約50万 kW で、出力制御系を切り替え (局所出力自動制御系から平均出力 制御系へ)。切り替え中に予定外の出力降下が生じ、出力0∼3万 kW まで低下。 0時41分 ∼1時16分 No.8タービンを切り離し、タービンの空回転時の振動特性を測定。 26日1時頃 出力再上昇の努力の結果、なんとか20万 kW で出力が安定するに至り、予定以下 の出力で電源テストを実施することになった。 26日1時 3分と7分 運転中の6台の主循環ポンプに加えて、2台のポンプが追加され、全8台のポン プが運転に入った。 26日1時 23分頃 この頃の炉の状況は、反応度操作余裕の低下と低出力にともなう正のボイド反応 度係数の増加などが相まって、一触即発の状態に陥っていたが、運転員がそのこ とを知る由はなかった。 1時23分4秒 運転員はもう No.8タービンへの蒸気弁を閉じ、慣性回転による電源テストが始 まった。テスト電源に接続されていた4台の主循環ポンプの流量が若干低下し、 炉心での蒸気発生がいくらか増えたが、その効果は、若干の圧力上昇と自動制御 棒の挿入で相殺された。テスト中、炉の出力は安定しており、運転員の操作や警 報の作動をうながすような兆候はなかった。 1時23分40秒 運転班長のアキーモフが、制御棒一斉挿入(AZ-5)ボタンを押した。 1時23分43秒 「出力急上昇」警報と 「出力大」警報が発生。 1時23分 46∼47秒 ポンプ電源停止、流量減。気水分離タンク圧力高、水位上昇。 「出力制御系不調」 信号。 「炉心容器内圧力上昇」信号(圧力管の破壊)。 「制御棒駆動電源喪失」信号。 1時23分49秒 「自動制御棒駆動部不調」信号。 運転日誌に、 「1時24分、強い爆発、制御棒は原子炉下端まで達せず停止。制御棒 電源停止」 1時24分 ・1986年ソ連政府チェルノブイリ事故報告書をもとに作成。 ・RBMK 炉の起源をたどると、原爆用プルトニウム生産のためにソ連で開発された黒鉛炉(F1) に至る。 ・世界最初の原発であるオブニンスク原発(5000kW、1954年)は、RBMK 炉のひな型である。 ・1958年にはシベリア1号炉(RBMK、10万 kW、1989年閉鎖) 、1967年にはベロヤルスク2号炉(RBMK、 16万 kW、1990年閉鎖)と出力増加し、1973年に最初の RBMK-1000であるレニングラード1号炉の運転が 始まった。 ・運転班長が AZ-5ボタンを押したことが、事故の発端となった(彼がなぜ AZ-5を押したかは不明) 。すなわち、 制御棒のいっせい挿入によりポジティブスクラムが発生し、停止するはずの原子炉が逆に暴走を始めた。急 激な出力上昇により、燃料棒、さらには圧力管が破壊され、大量の蒸気発生にともなう正のボイド係数の出 現により、さらなる暴走がもたらされた。炉容器内の圧力上昇は、原子炉上部構造物をもち上げ大量のチャ ンネルを破壊し制御棒を固着させ、万事休すとなった(1991年特別調査委員会報告の見解)。 ・目撃者によると、1時24分頃2回の爆発が続いて起き、 夜空に向けて花火のような吹き上げがあったという。 ・ソ連原子力産業安全監視国家委員会特別調査委員会報告(1991年1月)を中心にして作成。 59 58 資料 資料 旧ソ連の主な放射能汚染地域 旧ソ連のRBMK型原発 国 発電所名 ウクライナ チェルノブイリ ロシア ロシア ①チェルノブイリ原発事故 ②ウラルの核惨事 (マヤック核コンビナートの高レベル廃液タンクの爆発) ③テチャ川汚染(マヤック核コンビナートの高レベル廃液垂れ流し) ④核秘密都市クラスノヤルスク26からのエニセイ川汚染 ⑤核秘密都市トムスク7からの放射能汚染 ⑥セミパラチンスク核実験場 ⑦トツコエ核兵器演習場 ⑧セベルドゥビンスクでの原潜修理工場の火災 ⑨ニージニィ・ノブゴロドの原潜工場事故 ⑩ウラジオストック近郊の原潜基地での臨界事故(1985) ⑪ノバヤゼムリャ核実験場と北方艦隊の放射性廃棄物投棄場 ⑫∼⑳核爆発 「平和利用」 の地下核実験 ロシア レニングラード クルスク スモレンスク リトアニア イグナリーナ No 電気出力 (万 kW) 着工 営業運転 現状 1号炉 100 1971年 1978年5月 1996.11閉鎖 2号炉 100 1971年 1979年5月 1991.10火事停止 3号炉 100 1975年 1982年5月 2000.12閉鎖 4号炉 100 1975年 1984年3月 1986.4.26事故 5号炉 100 1981年 − 建設中止 6号炉 100 1982年 − 建設中止 1号炉 100 1970年 1974年11月 運転中 2号炉 100 1970年 1976年2月 運転中 3号炉 100 1970年 1980年6月 運転中 4号炉 100 1975年 1981年8月 1号炉 100 1972年 1977年10月 運転中 2号炉 100 1973年 1979年8月 運転中 3号炉 100 1978年 1984年3月 運転中 4号炉 100 1981年 1986年2月 運転中 5号炉 100 1985年 − (建設中運開未定) 6号炉 100 1986年 − 建設中止 1号炉 100 1975年 1983年9月 運転中 2号炉 100 1976年 1985年7月 運転中 3号炉 100 1984年 1990年6月 運転中 4号炉 100 1984年 − 建設中止 1号炉 150 1977年 1985年5月 2004.12閉鎖 2号炉 150 1978年 1987年8月 2009閉鎖予定 3号炉 150 1982年 − 建設中止 出典:エメリヤネンコフ『 機密 印なしの原子力』 (1992年) 61 運転中 60 資料 第2石棺建設計画 旧ソ連の原子力開発:原爆からチェルノブイリまで 〈ソ連での出来事〉 「第2石棺」の基本的設計は終了し, 現在国際入札がおこなわれている. 2011年完成予定で,費用は7億ドル (約800億円) .G7などが出資した シェルター基金でまかなう.アーチの総重量は約2万トン. 第2石棺アーチのフレームと大きさ 第2石棺完成予想図 上:アーチ完成後に横にスライドさせる 下:現在の石棺を覆ったアーチ 出典:クリュチニコフ 『シェルターの現状』 (2006年) 〈日本での出来事、世界での出来事〉 ・1895 X 線の発見(レントゲン) ・1896 ウラン放射能の発見(ベクレル) ・1932 中性子の発見(チャドウィック) ・1938 ウラン核分裂の発見(ハーン、ストラスマン) ・1940 サイクロトロンによるプルトニウムの生成(シーボーグ) ・1942 米国マンハッタン計画開始 ・1942 世界最初の原子炉臨界(米国シカゴ) ・1943 クルチャトフをリーダーとしてソ連の原爆製造計画はじまる ・1945 広島・長崎原爆投下 ・1946 ソ連最初の原子炉臨界(モスクワの現クルチャトフ研究所) ・1948 Pu 生産用原子炉運転開始(現マヤック核コンビナート) ・1949 ソ連最初の核実験(セミパラチンスク核実験場) ・1952 英国最初の原爆実験 ・1952 米国最初の水爆実験 ・1953 ソ連最初の水爆実験(セミパラチンスク核実験場) ・1953 米国大統領「アトムフォーピース」演説 ・1954 世界最初の原発運転開始(オブニンスク 5000kW) ・1954 日本最初の原子力予算 ・1954 ビキニ・ブラボー水爆実験 ・1954 米国最初の原子力潜水艦ノーチラス号就航 ・1956 ソ連最初の原子力砕氷船レーニン号就航 ・1957 日本最初の原子炉 (JRR-1)臨界 ・1957 南ウラルの核惨事(マヤック核コンビナート) ・1957 英国・ウィンズケール炉で火災事故 ・1958 ソ連最初の原潜レーニンスキー・コムソモール就航 ・1960 フランス最初の原爆実験 ・1961-62 米ソの大気圏内大規模核実験 ・1963 部分的核実験禁止条約 ・1963 動力試験炉 (JPDR、1.25万 kW)で日本初の原子力発電 ・1964 チェルノブイリ型の原型炉ベロヤルスク1号炉(10万 kW)運転開始 ・1964 ソ連最初の加圧水型原発ノボボロネジ1号炉(21万 kW)運転開始 ・1964 中国最初の核実験 ・1966 日本最初の商業用原発 (東海1号炉 16.6万 kW) ・1970 敦賀1号炉 (BWR36万 kW)、美浜1号炉(PWR34万 kW) ・1974 インド最初の核実験 ・1974 最初のチェルノブイリ型原発(レニングラード1号炉)運転開始 ・1978 チェルノブイリ原発1号炉(100万 kW)運転開始 ・1979 米国スリーマイル島原発2号炉 (PWR、100万 kW) 事故 ・1984 チェルノブイリ原発4号炉運転開始 ・1986.4 チェルノブイリ原発4号炉事故 ・1986.8 チェルノブイリ事故に関する IAEA 専門家会議(ウィーン) ・1989 福島第二3号炉で再循環ポンプ破損事故 ・1991 美浜2号炉で蒸気発生器細管破断事故 ・1991 IAEA チェルノブイリ国際プロジェクト会議 (ウィーン) ・1991 チェルノブイリ原発2号炉火災(以降運転停止) ・1995 もんじゅでナトリウム火災事故 ・1997 東海村再処理工場爆発事故 ・1998 パキスタン・インドの核実験 ・1996 チェルノブイリ原発1号炉運転停止 ・1996 チェルノブイリ事故10年国際会議(ウィーン) ・1999 東海村 JCO 臨界事故 ・2000 チェルノブイリ原発3号炉運転停止 ・2001 浜岡1号炉で ECCS 配管爆発事故 ・2002 東電のトラブル隠し発覚 ・2004 関電・美浜3号炉2次系破断事故 ・2005.9 チェルノブイリ・フォーラム事故20年国際会議(ウィーン) 63 ああ 62 「チェルノブイリ」を見つめなおす 参考文献 Programme on the Health Effects of the Chernobyl Accident, WHO, 1995. 28. V.B. Nesterenko, Radiation Monitoring of Inhabitants and Their Food Stuffs in the Chernobyl Zone of Belarus, Newsletter No.26 Minsk 2004. 29. L. A. Burdakov, Documents to the Government about the Assessment and Prognosis of the Medical Effects to Liquidators Living in the Ryazan Region", Institute of Biophysics, 1994 (in Russian). 30. V. Ivanov et.al. Medical Radiological Consequences of the Chernobyl Catastrophe in Russia" St. Peterburg NAUKA, 2004. 31. Izumi S., et.al, "Radiation-related Mortality Among Offspring of Atomic Bomb Survivors: A Half Century of Follow-yp", Int. J. Cancer, 107:292-297, 2003. 32. Dubtova, Y., "Long-term Genetic Effects of Radiation Exposure", Mutation Research, 544:433-439, 2003. 33. US National Research Council, "Health Risks from Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation", BEIR VII report, 2005. 34. Nyagu A., et.al, "Intelligence and Brain Damage in Children Acutely Irradiated in Utero As a Result of the Chernobyl Accident", KURRI-KR-79, 202-230, 2002. 35. Chernobyl Forum EGH, "Health Effects of the Chernobyl Accident and Special Health Care Programmes", IAEA, 2005 36. 信濃毎日新聞、2006 年 3 月 16 日 37. Tondel M., et.al, "Increase of Regional Total Cancer Incidence in North Sweden due to the Chernobyl Accident?", J. Epidemiol. Community Health, 58:1011-1016, 2004. 38. Proceedings of an International Conference, "ONE DECADE AFTER CHERNOBYL: Summing up the Consequences of the Accident", Vienna, 8-12 April 1996, IAEA STI/ PUB/1001. 39. 瀬尾健ほか「チェルノブィル原発事故における放射能放出量と環境汚染」『京都大学原 子炉実験所第 21 回学術講演会要旨集』pp27-38 (1987) 40. ベラ・ベルベオーク、ロジェ・ベルベオーク(桜井醇児訳) 『チェルノブイリの惨事』 緑風出版、1994 年 41. 気象研・地球化学研究部「環境における人工放射能の研究 2005」2005 年 42. 今 中 哲 二・ 小 出 裕 章「 放 射 線 ガ ン 死 の リ ス ク 係 数 と 日 本 の 汚 染 」『 別 冊 経 セ ミ 』 p77-86、1988 年 8 月 43. 瀬尾健『原発事故:その時、あなたは』風媒社、1995 年 44. 科学技術庁・日本原子力産業会議『大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害に 関する試算』1960 年 45. USNRC, Reactor Safety Study: An Assessment of Accident Risk in U.S. Commercial Nuclear Power Plants, WASH-1400, 1975. 46. E.F. Konoplya and I.V. Rolevich ed., "Ecological, Medico-biological and Socio-economic Consequences of the Catastrophe at the Chernobyl NPS in Belarus", Ministry of Emergency and Chernobyl Problems of Belarus, Institute of Radiobiology of Academy of Sciences of Belarus, 1996 (in Russian). 47. National report of Ukraine, 15 Years of Chernobyl Catastrophe: Experience for Overcoming, 2001 (in Russian). 48. 「原発震災を防ぐ全国署名連絡会リーフレット」http://www.geocities.jp/genpatusinsai/ 65 資料 1. 今中哲二「規則違反か設計欠陥か:チェルノブイリ原発事故の原因に関する最近の報 告から」『技術と人間』1992 年4月号 2. USSR State Committee on the Utilization of Atomic Energy, "The Accident at the Chernobyl Nuclear Power Plant and Its Consequences", August 1986. 3. Комиссия Госпроматомнадзора СССР, "О причинах и обстоятельствах аварии на 4 блоке чернобыльской АЭС 26 апреля 1986г", 17.01.1991. 4. 今中哲二 「 放射能汚染と被災者たち (1)-(4)」『技術と人間』1992 年5∼8月号 5. 松岡信夫『ドキュメント チェルノブイリ』緑風出版、1988 年 6. UNSCEAR 2000 Report, ANNEX J, United Nations, 2000. 7. M. De. Cort et.al, "Atlas of Caesium Deposition on Europe after the Chernobyl Accident, EUR16733, EC, 1998. 8. Imanaka T., Koide H., "Fallout in Japan from Chernobyl", J. Environ. Radioactivity, 4:149-153 1986. 9. 原子力安全委員会ソ連原子力発電所事故調査特別委員会「ソ連原子力発電所事故調査 報告書:第1次」1986 年9月 10. Dyatolov A. "How it was: an operator's perspective", Nuclear Engineering International, November 1991. 11. 七沢潔『原発事故を問う:チェルノブイリから、もんじゅへ』岩波新書、1996 年 12. 今中哲二「水素爆発か核爆発か? チェルノブイリ原発4号炉爆発の正体」『技術と人 間』2002 年7月号 13. Chan and Dastur, "The Sensitivity of Positive Scram Reactivity to Neutronic Decoupling in the RBMK-1000", Nuclear Science and Engineering, 103:289-293, 1989. 14. 今中哲二 「 運転員はなぜ AZ5 ボタンを押したか? チェルノブイリ原発事故の暴走プロ セス 」『技術と人間』2002 年5月号 15. 放射能汚染食品測定室「チェルノブイリ原発事故による放射能汚染地図」(1990 年 ) より作成 16. 今中哲二編『チェルノブイリ事故による放射能災害:国際共同研究報告書』技術と人間、 1998 年 17. Chernobyl Forum EGE, Environmental Consequences of the Chernobyl Accident and Their Remediation: Twenty Years of Experience, IAEA, 2005 18. 今中哲二「チェルノブイリ事故によるその後の事故影響」『技術と人間』1997 年5月 号 19. Chernobyl Forum, Chernobyl's Legacy: Health, Environmental and Socio-economic Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus, the Russian Federation and Ukraine. IAEA, 2005. 20. アラ・ヤロシンスカヤ(和田あき子訳)『チェルノブイリ:極秘』平凡社、1994 年. 21. ウラジーミル・ルパンディン(今中哲二訳)「隠れた犠牲者たち」『技術と人間』1993 年4月号 22. International Advisory Committee, The International Chernobyl Project: An Overview, IAEA, 1991. 23. Kazakov V.S., et.al, "Thyroid Cancer after Chernobyl", Nature 359:21 1992. 24. Malko M., "Assessment of Chernobyl Cancers in Belarus", 来日講演会資料 , 2003 年 25. P. Jacob et.al, "Thyroid Cancer Risk to Children Calculated", NATURE, 392:31-32, 1998. 26. Malko M., "Radiation Risk Assessment of Leukemia in Children of Belarus", Member report of the Chernobyl Collaboration Research Supported from the Toyota Foundation, 2006. 27. WHO, "Health Consequences of the Chernobyl Accident: Results of the IPHECA Pilot Projects and Related National Programmes", Scientific Report, International 64 関連書籍(ご注文は原子力資料情報室へ) ■書籍 原子力市民年鑑2005 原発のない未来へ 原子力資料情報室 編 七つ森書館 発行 4500円+税 2005年7月刊 ※『原子力市民年鑑2006』 (近刊予定) 原子力資料情報室について このブックレットをお読みいただきありがとうございました。 原子力資料情報室(Citizens' Nuclear Information Center) は、1975年に設立 された非営利の調査研究機関で、技術的にも社会的にも極めて問題の大きい 原子力の利用を終焉させ、持続可能な社会を実現するため活動をつづけてい ます。1999年に特定非営利活動法人となりました。 巨大な権益を伴う「原子力ムラ」からの介入を受けない独立の運営のもと、 原子力の開発利用の動向や安全性などに関する情報取得・調査研究に取りく み、成果を市民の関心に役立つ形で還元しています。市民生活と地球環境に 適合したエネルギーシステムの追求を通じて市民社会の発展に貢献します。 最新の情報は WEB サイト(http://cnic.jp) をご覧ください。 青い光の警告 −原子力は変わったか JCO 臨界事故総合評価会議 著 七つ森書館 発行 2800円+税 2005年9月刊 老朽化する原発−技術を問う 原発老朽化問題研究会 著 原子力資料情報室発行 1000円 2005年3月刊 ■ブックレット ほんとにだいじょうぶ? 身近な放射線 原子力資料情報室 編集発行 500円 2006年3月刊 Q &Aで知る プルサーマルの正体 西尾漠 著 原子力資料情報室・原水爆禁止日本国民会議 編集発行 600円 2004年12月刊 あなたの支えが大きな力に育ちます 止めよう! 再処理 やめよう! プルトニウム利用 澤井正子・西尾漠 著 原子力資料情報室・原水爆禁止日本国民会議 編集発行 600円 2004年4月刊 原子力資料情報室にご支援を 会員の方々ひとりひとりの支えが原子力資料情報室の運営の基盤です。 原子力行政・原子力産業に対して独立し、市民の関心と直結した活動を今 後も維持発展させていくため、ぜひ会員として活動の輪に加わってください。 正会費は年10000円、賛助会費は年6000円です。ご登録いただくと 『原子 力資料情報室通信』 (月刊)やブックレットなどをお送りいたします。他に定期 刊行物として、"NUKE INFO TOKYO" (英語・隔月刊) があります。 以下に会費とサービスの区分を示します。詳細につきましてはご遠慮なく お問い合わせください。 西尾漠が語る 放射性廃棄物のすべて 西尾漠 著 原子力資料情報室 編集発行 800円 2002年3月刊 温暖化防止に原発 !? 原子力資料情報室 編集発行 300円 2001年8月刊 考えてみようよ原発のこと[改訂版] 原子力資料情報室 編集発行 800円 2000年9月刊 チェルノブイリ10年 −大惨事がもたらしたもの 今中哲二ほか著 原子力資料情報室 編集発行 1000円 1996年4月刊 原子力資料情報室の会員区分 ご関心に適した区分をお選びください 「チェルノブイリ」を見つめなおす 区分 サービス 会費 正会員(運営に参加・総会での議決権 あり) ・原子力資料情報室通信、ブックレット、公開 研究会などの案内の送付・書籍の割引など 10,000円 / 年 賛助会員 (総会での議決権なし 他の サービスは基本的に賛助会員と同様) ・原子力資料情報室通信、ブックレット、公開 研究会などの案内の送付・書籍の割引など 6,000円 / 年 2006年4月16日 初版第1刷発行 ̶20年後のメッセージ ・原子力資料情報室通信のみの送付 3,500円 / 年 今中哲二・原子力資料情報室編著 NUKE INFO TOKYO 賛助購読(サービ スとしては購読のみと同一です) ・NUKE INFO TOKYO の送付 5,000円 / 年 発行 特定非営利活動法人 原子力資料情報室 NUKE INFO TOKYO 購読のみ(サービ スとしては賛助購読と同一です) ・NUKE INFO TOKYO の送付 3,000円 / 年 『通信』購読会員 〒164−0003 東京都中野区東中野1−58−15 寿ビル3階 TEL.03−5330−9520 FAX.03−5330−9530 (WEB)http : //cnic. jp (E-mail)cnic @ nifty. com (郵便振替)00140−3−63145 CNIC −06−004140 本書は再生紙を使用しています © Citizens' Nuclear Information Center 2006 ȁǧȫȎȖǤȪǛᙸƭNJƳƓƢ ദᛚᘙ ¾ x R ᘙᲮƷᇹᲫᘍ ⺋㧦 ࠪ࠙ࡓ 137 ߩᳪᨴࡌ࡞ࡘࠠޔ/km2㧔ࡌࠢ࡞/km2㧕 ᱜ㧦 x ᘙᲯƷᇹᲫᘍ ⺋㧦 ࠪ࠙ࡓ 137 ߩᳪᨴࡌ࡞ࡘࠠޔ/km2㧔Bq/km2㧕 ᱜ㧦 ¾ x ࠪ࠙ࡓ 137 ߩᳪᨴࡌ࡞ࡘࠠޔ/km2㧔ࠠࡠࡌࠢ࡞/m2㧕 ࠪ࠙ࡓ 137 ߩᳪᨴࡌ࡞ࡘࠠޔ/km2㧔ࠠࡠࡌࠢ࡞/m2㧕 R ƷǭȣȗǷȧȳƷҥˮ ⺋㧦㧔ࡌࠢ࡞㧕 ᱜ㧦㧔ࡌࠢ࡞/kg㧕 本体価格 600円