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タイトル レッセフェール金融市場システム

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タイトル レッセフェール金融市場システム
 タイトル
レッセフェール金融市場システム : 1850∼1914 年
著者
河西, 勝; KASAI, Masaru
引用
AN0040845X, 63(3): 1-26
発行日
2015-12-30
―1―
《論説》
レッセフェール金融市場システム
1850~1914 年
河
西
( 1 )専門化銀行とユニバーサル銀行
{預金バンキングと決済システム}
勝
金の増大,である。株式銀行は,支店の全国
的ネットワークを発展させ,個人の預金を初
期資本の少なくとも数倍獲得した。預金バン
19 世紀ヨーロッパでは最初,個人預金の
キングは,銀行が適切な流動性を維持するた
市場は,決済システムから分離していた。決
めに為替手形の再割引に依存する必要性を低
済システムは,金兌換銀行券に加えて,為替
下させたので,為替手形市場に積極的に進出
手形(引受け済み手形と国内の為替手形)市場と
して行った。預金バンキングを非常に魅力あ
当座銀行勘定に基づいて機能した。商品と
るものにした理由は,特にそれが,それまで
サービスの交換にかかわる職業者は,自分の
は除外されていた経済の三つの領域 ― 辺境
当座勘定を開設したが,そこでは為替手形の
地域,産業,中流階層 ― を決済システムの
割引(短期ローンの売却)は貸方記入され,商
なかに編入したことにある(Verdier 2003)。
品購入にともなう負債の決済(短期ローンの購
預金バンキングによって,それまで貨幣市
入)は借方記入された。それと対照的に個人
場の外に置かれていた地方が,ようやく決済
の預金市場は,非営利的な貯蓄銀行によって
システムに編入された。また預金バンキング
管理された。最初,貯蓄銀行は非営利組織で
は商業だけでなく産業を決済システムの中に
あり,1800 年代初頭に博愛主義者や市町村
編入した。製造業では,生産期間に拘束され
自治体によって創設されたもので,町の貧者
るため,資産の流動性が商業よりも小さいか
の間に預金の習慣をしみこませることが狙い
ら,当座貸越(取引銀行に対して当座預金残高以
であった。貯蓄銀行は,かれらの顧客の預金
上の金額の小切手を振り出すこと)つまり立替・
を抵当証券と安全金庫,政府の有価証券に投
前貸しといった金融方式が必要とされる。銀
資した。こうして個人の預金は,19 世紀半
行は,産業に対して,為替手形の再割引に頼
ばまで決済システムの外に置かれていた
らずに,預金を立替て繰り返し融通した。さ
(Verdier 2003)。
らに預金バンキングは,中流階層の貯金も決
当座勘定(決済システム)と預金市場との以
済システムのなかに編入した。産業化の恩恵
上の分離は,決済システムにおける変化に
が中流階層により深く浸透し始めると,長期
よって,徐々に克服された。その変化は急速
と短期の両方で預金勘定に対する需要が成長
であり,イギリスを始めとして,ヨーロッパ
した(Verdier 2003)。
のいたるところで起こったが,三つの互いに
こうしてヨーロッパ全域にわたり,株式商
関連した革新に基づいていた。つまり株式銀
業バンキングによる貨幣市場が発展するとと
行の普及,支店ネットワークの拡大,個人預
もに,それを基礎として,国債や株式をあつ
―2―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
かう投資バンキングおよび証券市場により資
人銀行に対してより強力に競争することがで
本市場が発展した。さらに,投資バンキング
きた(Michie 2003)。
と商業バンキングは,それぞれ互いに専門化
18 世紀末と 19 世紀初頭を通じてロンドン
するにしても(イギリスの場合),同一機関が
の外でバンキングを支配してきた中小の私的
それらを統合してユニバーサル化するにして
⽛地方銀行⽜は,運河,船渠,ターンパイク
も(ドイツの場合に),証券取引所とともに,
など公共事業にかかわる大企業の社債や株式
貨幣市場と資本市場とを世界的に統合する
をしばしば保有したが,ますます増大する預
レッセフェール金融システムを発展させて
金が突然引き出されかねないことに対する懸
いった。
念から,潜在的に非流動的な株式証券に資本
を投入することを思いとどまるようになった。
{イギリスの専門化商業銀行}
1847 年,1857 年,1866 年,1878 年において
イギリスでは,18 世紀初頭,早期の中央
銀行破綻をもたらした流動性危機は,株式銀
集権化の過程で中央銀行(イングランド銀行)
行家を覚醒させた。高度に流動的な資産ポー
の創立をはじめとする金融革命に成功した。
トフォリオを保有することによって公衆の信
洗練された証券市場が金融システムの中枢と
頼を維持することがいかに重要であるか,と
して機能する一方で,自由な預金・貸付市場
いう考え方が定着した(Cheffins p 234)。こう
が十分に成長した。イギリスでは,地方政府
して,個人の預金を妨害されずにつかむこと
には地方の金融市場に介入する権限がなく,
を許され,また投資に対する保守的な態度が
株式銀行と個人銀行との競争は市場ベースで
醸成されるとともに,株式銀行は,投資バン
行われた。地方の個人銀行の多くが,1815
キングの事業をその目的のために特に作られ
年のナポレオン戦争に続く通貨の不安定のな
た機関 ― 投資信託,投資銀行 ― と株式証
かで破綻した。また,株式銀行に対するイン
券市場にまかせて,預金・商業バンキングに
グランド銀行の独占は,1825 年に終わった。
専門化した。株式銀行は,支店ネットワーク
この二つにより,銀行創立に対する新しい制
と手形交換協会の会員資格により,顧客に,
限が 1844 年に導入される前に,夥しい数の
全国のあらゆる場所で効率的な決済サービス
株式銀行が設立された。一方,イングランド
を提供した。株式銀行は,辺境をカバーする
銀行は,政府およびロンドンの貨幣市場のた
支店をもうけ,貯蓄銀行や相互信用協会から
めの銀行として,その中央銀行機能にますま
預金者を引き抜く一方で,地方の商業銀行を
す焦点を合わせるようになった。その結果,
合併して支店にしたり淘汰したりした。ここ
これらの新しい株式銀行と既設の個人銀行と
に,全国的に運営を管理しロンドンで短期貨
の間で激しい競争が発生した(Michie 2003)。
幣市場(コールマネー)を利用する本店のもと
個人銀行に対して成功裏に競争するために,
に,預金を集め,貸し付け(為替手形の割引)
株式銀行は莫大な預金を獲得した。個人銀行
をする夥しい数の支店を有する伝統的なイギ
は,伝統的に,少数のパートナーによって提
リスの株式商業銀行が出現することになる。
供される多額の個人資本により運営されたが,
(Michie 2003)
預金を基礎とする株式銀行の貸付力に対して
競争することがますます困難になった。株式
銀行は,かれらの資産と負債の構成について,
{ドイツのユニバーサル信用銀行}
伝統的に地方分権化していたドイツでは,
突然の預金引出しや債務不履行をもたらす金
非営利銀行(貯蓄銀行)と地方の商業銀行は,
融危機を切り抜ける方策を学習したので,個
政治的保護(非営利バンキングへの補助金,支店
レッセフェール金融市場システム(河西)
設置の地域的な制限など)などいろいろな手段
―3―
2003)。
を使って,中央の私的商業銀行の預金市場へ
ドイツのユニバーサル銀行は,1871 年に
の侵入を妨害し,急速に成長する個人預金の
ドイツ帝国が形成される時までに,株式会社
市場を全国的に分断させた。地方政府は,自
規制の大きな緩和と工業化の強力な波動とと
身の財政上の窮状を克服するためにも,貯蓄
もに,株式会社形態の下に組織化されはじめ
銀行をその危機から救出した。危機を脱した
た。ドイツの株式会社に適用される一般法以
貯蓄銀行は,その利益を地方政府の事業に投
外には,株式ユニバーサル銀行を規制するも
資し,また個人の預金からなる財源を,抵当
のは何もなかった。株式銀行は,企業が日々
証券や自治体債券に投入した。また政府は,
の経営のために必要とする短期信用を提供し
イギリスとは対照的に,郵便貯金をつうじて
たのみならず,工場の増設といった項目にも
地方の資本と競争することにはほとんど成功
金融するために長期貸付を拡大した。さらに,
しなかった。多くの場合において地方の条例
銀行はまた,企業の株式会社への転換を手配
は,中央の調停者の政策的欲求と衝突したが,
し,そして結果として生じる証券の一般投資
地方分権化した体制の性格が,貯蓄銀行の長
家への発行・売却を,その顧客企業との契約
期利害のよりよい守護者たることを保証した。
を通じて取り扱かった(Viedier 2003)。
要するに貯蓄銀行は貧者を救済する地方の努
しかしドイツの株式銀行は,強力な投資志
力として出発したが,1850 年までにプロシ
向をもつ一方で,19 世紀の第二半期を通じ
アでは,地方のロジックが階級のロジックを
て,商業バンキングを著しく偏重するように
王座から退けてしまった(Viedier 2003)。
なっていった。国家の統一により,通貨と金
地方の私的商業銀行または貯蓄銀行は,よ
融の統合が進み,工業が大規模化し躍進的な
り小口の預金者のために近隣の市場を独占す
発展を遂げる可能性が生まれた。ユニバーサ
る権利を与えられた。そのため,1850 年代
ルバンキングでも,特に不況期には,短期負
以降株式会社化した銀行は,若干の当座勘定
債(預金)と資産の流動性(貸付の回収,投資証
預金を受け入れたが,一般的にほとんど全く
券の売却)との間において,バランスシート
株式資本を基礎にして営業をおこなった。ベ
上のミスマッチがいっそう悪化する場合が
ルリンの大株式銀行は,大口の工業預金者な
あった。1875 年に創設されたライヒスバン
どより広い範囲の顧客との取引によって,
ク(中央銀行)が,イングランド銀行と同様
もっとも利益の上がる貸付機会と,そして貸
に最後の資金貸し手としての役割を引き受け,
付は預金を生み出すから,そのもっとも豊富
ユニバーサルバンキングの破産リスクを緩和
な預金の財源との両方を見出すことにむかっ
した。同時にユニバーサル銀行は,証券投資
た。また株式銀行は,預金バンキングの分野
から手を引き初め,その資産(借り方)とラ
を十分につかむことができないので,より大
イアビリテー(貸し方)とのバランスをます
きな程度で自己資本に依存することを余儀な
くされた。自己資本は,コストはより高い,
ます保守的に組み立てるようになった
(Verdier 2003, Fohlin 2007)。
つまり株式配当は,預金に対する利子支払い
ドイツのユニバーサル銀行は,イギリスの
よりも大きい。それゆえ,ドイツの株式銀行
商業銀行と同様に,少なくとも 1880 年代の
はイギリスの場合のように,リスクがより高
初頭までに,その資産ポートフォリオの中に,
くリターンのより大きい投資バンキングの分
一般的な工業株券をほとんど持たないほどに
野を完全に引き払って専門化することはでき
なった。ユニバーサル銀行は,預金ベースの
ず,けっきょくユニバーサル化した(Viedier
増大に対応させて,ますますバランスシート
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北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
上,支店化による預金バンキングを拡大させ
額の割合は,1890 年の 21% ― イングラン
た。預金の使用が増大したことによって,銀
ドとウェールズでは 27% ― から,1910 年
行のビジネスの重心は,高い準備率を保持す
36% ― 同 43% ― へと増大した。
るために,リスクの高い株式・社債の発行引
スコットランドでは,銀行は,主に合併に
受から短期的な商業貸付へと移動した。多く
よるよりも内部的な拡張 ― 主に新支店の開
のユニバーサル銀行が,株式と社債の発行引
設 ― により成長したが,イングランドでは
き受け,あるいは証券の売買を行うブロー
合併の方がより有利な賭けとみなされていた。
カーとしても,投資バンキング上ほとんどビ
というのは,買収される銀行は,既存の建物,
ジネスを行わないほどにまで商業ビジネスに
ビジネス,人事を新たに提供したからである。
集中した。
また 1879 年法が,銀行合併傾向のための快
一方で,1875 年のライヒスバンクの創設
適なプラットフォームを提供した。有限責任
以降,ベルリン証券取引所を中心としてドイ
に転換することを選択した銀行は,自らのバ
ツの証券市場の急速な発展が見られた。それ
ランスシートを公表しなければならなかった
とともに株式などの発行を従来にもまして積
が,このことは,買収の手法によって成長す
極的に引き受ける投資バンキング ― これは
ることを追求する銀行にとっては,合併のた
証券投資とは全く異なることに注意 ― も発
めの潜在的標的に関して相対的な強さや重要
展していった。世紀交替期以降,ユニバーサ
性を評価することがより容易になることを意
ル銀行は,一連の金融サービスを総合的に提
味した。無限責任の留保を選択しバランス
供する⽛法人金融のスーパーマーケット⽜の
シートを秘密のままにする銀行は,合併され
呼称をえた。典型的にベルリンの大銀行(株
式信用銀行)は,同一機関において,イギリ
たり売却する際に影響力や人気を失った
(Cheffins 2008. 233)。
スと同様の商業バンキング機能(預金獲得,当
19 世紀末と 20 世紀初頭における合併によ
座預金・当座貸越,為替手形割引,商業手形引き受
る全国的支店ネットワークの急成長は,バン
け,商品・サービスの掛買掛売信用)を,ベルリ
キング産業における大銀行への集中を劇的に
ン証券取引所における証券の発行引き受けお
促進した。ロンドンに本店を置く最大 5 銀行
よびブローカーによる売買取引き(投資バン
― バークレー,ロイド,ミッドランド,ナ
キング)に結びつけた。さらに大銀行は,通
ショナル・プロビンツ,ウエミンスター ―
常は支店のカウンターを通じて,個人の預金
により保有される総預金額の割合は,1890
を受け入れると共に直接,株式証券,保険証
年の 21%(イングランドとウェールズでは 27%)
券,抵当証券,そして投資ファンドなどを個
か ら,1910 年 36%(同 43%)に 増 大 し た
人投資家に売却した(Fohlin 2007, 81)。
(Cheffins 2007. 234-235)。
相当に遅くれたとはいえ,ドイツのユニー
{全国的な支店ネットワークの形成}
バサル銀行でも,ドイチェバンクやドレス
イギリスのバンキング部門は,19 世紀末
ナーバンクなどベルリンに本店をおく大株式
と 20 世紀初頭を通じて,株式銀行間の合併
銀行を中心にして,特に世紀交代期以降,株
および株式銀行による個人銀行の買収によっ
式資本の集中にもまして,預金(負債)受け
て支配され,熱狂的な合併活動を経験した。
入れ急増による資産保有の集中化が進んだ。
銀行合併の波は地方の私的銀行を国民的広が
イギリス(イングランド)と同様に,多くのユ
りをもつバンキング・オペレーションに置き
ニバーサル銀行が,以前は独立していたより
換えた。最大 5 銀行により保有される総預金
小さな銀行(しばしば個人銀行)を買収し,望
レッセフェール金融市場システム(河西)
まれる場所で支店化した。こうして全国的支
―5―
{大銀行への資産集中}
店ネットワークの形成と預金バンキングの増
ドイツの商業・預金バンキング部門は,世
進とともに,ベルリンの大銀行への資産の集
紀交代期に,遂にイギリスの株式商業銀行に
中が極めて急速に発展した。
追いついた。システム設計における明らかな
(注1)
以上の事実は,ユニバーサル銀行のユニ
相違にもかかわらず,商業バンキングにおい
バーサリテー(広汎性)が,大銀行への集中
て,イギリスとドイツとは,1884 年と 1913
を促進したのではないことを証明している。
年の間に同様に集中化された。1890 年にお
特に支店設置が制限規定により妨げられない
いては,推定上の 5 企業率と 10 企業率は,
場合には,銀行集中の十分条件は,商業バン
二つの国において非常に類似していた。それ
キングシステムにおいてこそ生じえた。実際
ぞれ,ドイツでは 17,19%,イギリスでは
に 1883 年から 1913 年にわたり,ドイツのユ
21,31%であった。イギリスでは,1910 年
ニバーサル銀行は,相当に集中化されたとは
までに,トップ 5 と 10 の商業銀行がそれぞ
いえ,イングランドの預金バンキングセク
れ,資産の 36%,56%を保有した ― イン
ターの集中化には及ばなかった。つまり両国
グ ラ ン ド と ウ エ ー ル ズ の み で は,43% と
において,商業部門あるいはユニバーサルバ
65% ― が,ドイツのトップ 5 と 10 のユニ
ンキング部門における最大の銀行が,商業バ
バ ー サ ル 銀 行 は,そ れ ぞ れ 資 産 の 31%,
ンキングのために重要な全国規模の支店ネッ
44%を保有した。だが両国で,バンキング集
トワークを築き上げた。そのことによって,
中における最大級の急成長は,一次大戦中と
結果的に両国において大銀行の資産集中が実
その後に現れた。両国は,1920 年までに,
現したのである。
60%以上の 5 企業率を有したが,イギリスと
ウェルズは,65.5%対 62%でドイツにわず
かに優っていた。(Fohlin 2007, 253-4),ただし
(注1)
ドイチェバンクが支店ネットワークを打ち立
てる活動を始めた 1870 年代までは,ほとんどい
かなる支店も存在しなかった。ドイチェバンクは,
支店開設において例外的存在であり,ほとんどが
20 世紀の交代期まで単一銀行として存在してい
た。オフイスの数は,ベルリンの銀行の全部につ
いて,1885 年に総計で 10 件を数えるに過ぎず,
そして,1890 年にはベルリンに登録する銀行の
うち,支店を保持するものは, 4 分の 1 以下に過
ぎなかった。支店を設置する銀行でさえ,それぞ
れ平均で単に 2 つの子会社オフイスをもっていた
にすぎない。さらに大銀行の新オフィスは,国の
一定地域に密集していた。たとえば,シャウフハ
ウゼン(BV)の支店のほとんど(22 中の 20),
ドイチェバンクの国内支店の半分近く(54 中の
26)が,重工業が発展したライン州に位置してい
た。同時に,4 つのベルリンの銀行うち 4 つが南
部諸州にはオフィスをまったくもたなかったし,
そしてベルリンの銀行の 1 つが,アルサス・ロ
レーンに単一支店をもっていたにすぎない。
1894 年までに,大銀行は全部一緒にして 73 件
の預金オフィスを開設していた。しかし 1900 年
でさえ,株式銀行は,平均でそれぞれ一つの支店
を有していたにすぎず,支店を設置する株式銀行
についてみても,平均で 4 つの支店を有していた
だけである。支店の総数は,次の十年にわたり,
四倍になり,特に急成長が,WW Ⅰ以前の 8 年
間で生じた。1913 年までに大銀行の支店は依然
として 252 件だけ存在していたが,その 22 件は
外国にあった。1870 年代に支店設置を開始した
ドイチェバンクが支店設置(48 支店)をリード
したが,ドレスナーバンクとコメルツ・ウント・
デイスコントバンクが,それぞれ 47 件と 44 件の
預金オフィスを設置した。1913 年には,まった
く預金オフィスをもたないベルリン・ハンデルズ
ゲゼルシャフトを例外として,他の大銀行は,16
件から 31 件の間で支店を保持していた。一次大
戦以前の二三十年を通じて人口が増加した。しか
し人口に対するバンキングオフィスの勢力伸長は
劇的であった。ドイツにおける 1 支店当たり人口
は,1900 年の 4 万 5 千人から 1910 年の 1 万 5 千
人へと 3 分の 1 にまでに減少したのである
(Fohlin 2007, 75-76)。
―6―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
一次大戦以後の大銀行の集中は,それ以前の
一般的に工業の集中と銀行の集中の間に直
集中傾向とは,その意義をまったく異にする
接的な関連がある場合でも,銀行業は自然的
であろう。
な寡占ビジネスであり,またはそうなりつつ
イギリスでもドイツでも同様に,特に,大
あった。だが,だからといってバンキングお
銀行が強力なベースを有する地域の外で競争
よび一般の産業部門に反競争的行動をもたら
者を買収し支店化しようとする場合には,そ
すような過度の集中化が進んだわけではない。
れを正当化するいくつかの経済的理由が存在
全国的な支店ネットワークを有する大銀行は,
していた。全国的支店ネットワークは,ある
広告やマーヶテングにおける⽛規模の経済⽜
,
地域の資金余剰と他地域の資金不足との調整
資金の供給と需要をマッチさせるより大きな
を促進するし,銀行がその短期リアビリテー
機会,そして分散的投資および安定性の増大
(負債)・信用リスクをより広範囲に分散させ
から,多くの恩恵をうることができた。それ
ることによって,システムの不安定性に対す
ゆえ逆に,支店ネットワークの発展を伴う大
る防御を可能にさせる。またその地域間にお
銀行の資産集中は,ますます銀行間の商業バ
ける大きな多様性は,預金引き上げに対する
ンキング上の競争を強めた。地方の独占的な
より低い準備資産率を可能にさせ,さらによ
中小銀行が買収され,より大きな銀行の支店
り大きな資金を生産的利用に動員することを
に入るかもしれないし,多くの全国規模の銀
可能にする。主要銀行の本店は顧客に,地方
行が同じ地域で中小の預金オフィスを開設す
銀行ではなしえないような高度に専門的な
ることになるかもしれない。こうして激しい
サービスを支店を通じて提供できる。大法人
競争をつうじて生き残る大銀行は,その効率
企業の借り手は,より効率的にサービスを受
性や安定性の度合いを,ますます高めること
けることができる。というのは,大資本ベー
になる。(Fohlin 2007, 75-76)。銀行による資産
スを有する銀行は,中小企業にとっては,簡
(=資本+負債)所有の集中・独占化は,商業
単には受け入れることができない大金額のラ
バンキングの機能上の自由競争と相容れない
イアビリテイー(⽛負債および資本⽜)を融通で
わけでは決してない。
(注2)
きるからである。また銀行が広範囲にわたる
支店ネットワークを作り上げるやいなや,よ
り多大な送金ビジネス ― つまり,現金,為
替手形,そして公文書の移転 ― がひとつの
組織内で運営されるから,顧客のために取引
費用が引き下げられる。支店は,小貯蓄者か
らの預金の直接的収集を助け,銀行による証
券の小売を容易にする。これはドイツのユニ
バーサル銀行に限ってのプラスアルファ的な
支店ネットワークのメリットである。さらに,
19 世紀のほとんどを通じて破産に悩まされ
た銀行業においては,規模の程度は,信頼性
と威信の重要なシグナルとなったのであるが,
合併は,その慎重さと安定性によって,合併
志向の銀行の評価を強化したのである
(Cheffins 2008. 234。Fohlin 2007, 75-76)。
(注2)
資産(=資本+負債)所有の独占と自由競争
とが矛盾するというより調和的であるという点は,
一般に非金融企業において,固定資本所有の独占
化が企業の循環資本機能上の自由競争と決して矛
盾しないことと同様である。それぞれの産業部門
でより高い労働生産力を提供しうる固定資本所有
は限られたものでしかなく,それを独占したとし
ても,それによる商品の生産・供給だけでは社会
的需要を満たすことができないので,より劣る労
働生産力を提供する固定資本所有に対しても,そ
の商品生産上の利用が社会的需要を満たす限りで,
少なくとも平均利潤=絶対地代は与えられるとい
うことになる。要するに異業種間の企業間競争で
は平均原理が作用するのに対して,同一部門にお
ける企業間競争では常に限界原理が作用し差額地
代に転化する超過利潤が発生する。
―7―
レッセフェール金融市場システム(河西)
図表 1
株式銀行業;イギリスとドイツの比較
1913 年
A.預金
総額
商業バンキング
B.資産
貯蓄銀行
現金,コールマネー
ローン,前払い,割引
投資
イギリス
$6728.9 百万
81.5%
18.5%
24.5%
60.7%
12.6%
ドイツ
$7212.6 百万
35.0%
65.0%
4.4%
81.9%
11.9%
C.ライアビリティー
イギリス
ドイツ
D.ギアリング(てこ比)
E.流動性
資本金,準備金
預金
資本金/預金
現金/ローンと投資
預金/現金
ローンと投資/資本金
8.5%
91.0%
10.7%
3.0%
3.7%
8.6%
23.6%
74.7%
31.5%
21.3%
17.0%
4.0%
(Michie 2003 年から引用)
( 2 )銀行のバランスシート
第一次大戦勃発までに,ドイツの株式信用
能になる(Fohlin 2007, 81)。
{借方;銀行資産の構成}
銀行は,通常の商業銀行サービス(預金獲得,
ドイツの銀行の金融資産は,六つの流動性
当座勘定,為替割引,商業手形引き受け,取引信用)
クラスつまり満期クラスに分類される。現金,
を証券の引受業務および仲買業務に結びつけ
為替手形,政府証券,他の証券,当座勘定上
る成熟したユニーバーサル銀行になっていた。
のローンないし当座貸越,そして非常に短期
銀行,特に発展の第一波において設立された
のローンである。加えて,銀行は,相対的に
銀行は,かなり狭い範囲に焦点を絞って活動
少額かつ安定した額の固定資産を保有した
を開始した。国民経済が発展するとともに,
(大体 2 %)。現金は資産のうち最も流動性が
金融手段が進化し,金融の顧客ベースが成長
高いが,当然になんらの所得も銀行にもたら
し変化したが,企業家は彼らの要求を金融
さない。ドイツのユニバーサル銀行は,最低
サービスにむけて調整させていった。
準備金上の必須要件がほとんどなかったので,
したがって,銀行は数十年にわたって自行
即時の準備金不足をよく理解した上で,現金
のサービス構成を変えていったのであり,本
保有をできる限り低位に維持していた。実際
当の総合性は,初期産業化の後になって初め
問題としては,銀行は一つのグループとして,
て銀行の規範となった。以下では,集合バラ
自行の資産のうち 4.5-5%ほどを,現金およ
ンスシート(株式信用銀行の平均値)によって,
びコールマネーの形態で,完全に流動的に維
銀行による商業及び投資サービス提供のいか
持した(Fohlin 2007, 81)。
んを分析しながら,後期産業化時代にわたる
ユニバーサル銀行は,短期の資金貸付を為
銀行ビジネス路線の進化の跡を突き止める。
替手形と短期満期貸付を通じて提供した。為
株式バンキング部門のバランスシートおよび
替手形は本質的に政府が裏打ちをする IOU
所得データによって,ビジネスのいろいろ路
(借用証書)であった。これらの為替手形は,
線の相対的程度についての推論を引きだし,
ユニバーサル銀行の始まる以前から長期にわ
そのことによってドイツのユニバーサル銀行
たり使用されていたが,この時代を通じて,
の金融上のポートレートを描き出すことが可
短期流動性の欠乏に対して資金を融通した。
―8―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
為替手形は,株式市場の景気のよい年には下
構成要素をなしていた。その全期間を通じて
端で,不景気の(1890,1900,1915)年には上
平均でほとんど総資産の半分 50%を占め,
端で,ユニバーサル銀行資産の約 20-25%相
数年についてはゆうに半分以上を占めた。借
当を占めていた。短期ローンすなわちコール
り手は,そのほとんどが為替手形またはロン
マネーは,一般的に⽛ロンバート&レポー
バード・ローンによってカバーされる期間よ
ト⽜に分類された。通常は,数日または数週
りもより長期にわたる融通を必要とするその
間の内に満期になるが,ロンバード・ローン
一連の金融需要のために当座貸越を利用した。
は主として,証券取引のために,あるいは商
この当座預金の立替は,利子と手数料により
品売買上の商品納入と支払との間の時間差を
即刻のリターンを提供したが,しかし,(顧
カバーするために人的信用を提供した。銀行
客企業と銀行との)長期的なリレイションシッ
は一般的に,これらの短期ローンを若干は無
プ ― それは,株式発行引受業務およびその
担保で,しかしたいてい為替手形と証券を担
手数料と,そして銀行から株式を買った個人
保にして行った。これらのローンは,商業ビ
顧客が保有する委任状ならび委任投票権を銀
ジネスの一構成要素をなすとみなされるが,
行にもたらす ― がスタートする可能性を意
しかし,それらは明らかに,同様にビジネス
味していた。ともあれユニバーサル銀行が,
の投資サイドにも関連していた(Fohlin 2007,
投資バンキングを分離独立させる一方で,当
82)。ロンバード・ローンのレベルは,銀行
座貸越を他のタイプの貸付に加えながら,極
の為替手形ストックの場合よりも,その比率
めて著しく商業路線ビジネスに収れんして
がより大幅に年々変動した。たとえばユニ
いったことは明らかである。この時代を通じ
バーサル銀行は 1900 年には全体として,資
て,この銀行部門の大量資産のうち 80%以
産の約 8 %をロンバード・ローンで保有した
上が商業上の貸付けに向けられた(F o h l i n
が,10 年後にはその二倍近くを保有してい
2007, 83)。
た(Fohlin 2007, 83)。
ユニバーサル銀行の投資サイドのほとんど
この時代を通じて当座勘定サービスは,ド
は,バランスシートに記載されずに行われる。
イツの信用銀行ビジネスにとってほぼ間違い
たとえば,株式の発行引き受けや仲買業務の
なくもっとも重要な路線を形成していた。
活動はしばしば,あまりにも一過的にすぎて
当座(勘定)貸越は,銀行資産の最大の単独
年次バランスシートには記載できないポート
(注3)
フォリオとしての資産保有形態をもたらす。
(注3)
信用銀行の当座勘定は企業に多くのサービス
を提供した。支払い授受の利便性,コマーシャ
ル・ペイパー(無担保の短期的約束手形)の署名,
為替手形の引き受け,振り替え勘定(一つの銀行
の顧客間で授受される支払い),外国為替手形,
当座勘定信用または為替手形の割引および傑出し
たビジネス会計,そしてビジネス関連上(個人,
企業,外国市場を含む)の情報といったサービス
である。当座勘定ビジネスは,銀行に主要な手数
料収入をもたらしただけではない。それはまたし
ばしば同一企業のために他のサービスを提供し,
さらにいっそう多くの手数料をもたらすように
なった。銀行は自行の当座勘定顧客をめぐって互
いに活発に競争した。当座勘定を通じてビジネス
の安定した流れを確立することは,銀行にとって
能力と収益への一本の道が切り開かれることを意
味したからである。これらの追加的な手数料と
⽛能力⽜は,主として銀行の仲買業務と投資ビジ
ネスによるものであった。実に銀行は,そのよう
な手数料によって,銀行総収益の 4 分の 1 を稼い
だ。この活動の多くは,第三者のための製品や証
券の少額購入を伴っていたが,そのために所得の
かなりの部分が仲買業務サイドによるものであっ
た。手数料はまた,(特に大銀行にとっては)投
資サービスから流れ込んできた。信用銀行は,全
てのタイプの有価証券の引受業務において重要な
役割を演じた(Fohlin 2007. 26)。
レッセフェール金融市場システム(河西)
―9―
これらのサービスがより長期の保有をもたら
資産よりも株式資産の方がより扱いにくい面
すその範囲で,それらの資産は銀行のバラン
がある。取引所で大量に発行される株式はリ
スシート上,証券の形態をとる。証券は非政
スク分散の可能性と(株価変動など分散されな
府証券と政府証券との二つのタイプに分類し
い)不確定性要素との両方をもたらすし,ま
うる。前者の部類は,公開企業つまり子会社
た普通の預金者が望む預金総額よりもより大
など他銀行の株式と社債からなる。後者は,
きい額面金額で売りに出されるからである。
主として国債または政府所有の企業の証券か
さらに普通の貯金者または実業家は,預金契
らなる。国債のほとんどが第二準備金をなす
約が有するより大きな安全性および流動性を
一方で,非政府証券は,銀行が普段は収納し
選り好むであろう。そして銀行は,コント
ないがたまたま適切な価格で売却できなかっ
ロールの希釈化を制限するために,株式資本
たために保有を余儀なくされる株式,あるい
発行による拡張に対して抵抗する傾向がある。
は銀行が所得を得るために,もしくは直接的
しかしながら同時に銀行は,集めた資金を長
なコントロールを保持するために保有する投
期的に使用する必要がある場合には,あるい
資に相当する。
は初期産業化時代のユニバーサル銀行のよう
非政府株券は,銀行の証券保有の最大部分
に預金者を十分に確保できず,かわりに株式
を占めたが,しかしその時代を通じて証券総
発行を必要とする場合には,新株発行による
額は,銀行資産の 11%に達したに過ぎない。
自己資本の調達(転換社債をふくむ)を選り好
全体として,19 世紀末から 20 世紀初頭にお
みするであろう。このように,預金は,銀行
いて,ユニバーサル銀行は資産ポートフォリ
と投資家の両方に好まれるが,しかしユニ
オにおいて,純粋な投資銀行によりも,イン
バーサル銀行が,リスキーなベンチャに資金
グランドやウエイルズの正統派商業銀行によ
を提供するとか,または単純に預金者を引き
り多く類似していた。イギリスの銀行は,よ
付けることができない場合には,株式発行に
り多くの現金と政府が裏付けをする証券を保
よる資金調達が必要となる(Fohlin 2007, 84)。
有したが,為替手形の保有ははるかに少な
ドイツのユニバーサル銀行は,投資バンキ
かった。しかし三つの最も流動的なクラス
ングを分離して商業バンキングを自立化させ
(現金,コールマネー,為替手形)は,二つの国
る政策変更のもとに,1883 から 1914 年にわ
の銀行資産において同様な割合に達していた。
たりライアビリテーに占める預金の割合を
他の 4 クラス(ローン,当座貸越,証券投資,固
徐々にではあるが大幅に増大させていった。
定資産保有)の資産も,ほとんど同じであり,
ユニバーサル銀行自身はその開始期において
個別的に見てさえもそうであった(F o h l i n
は,ほとんどまったく株式によって金融し,
2007, 84)。
当座勘定で受け入れた預金も少額にとどまっ
ていた。事態は確実に進化し,やがて預金が
{貸方;ライアビリティ(資本+負債)の構成}
株式銀行であれは当然に,一定量の株式発
短 期 ― 3 , 6 ,12 ケ 月 ― か つ 低 率 ―
1906 年まで平均で 1-2 %の間 ― で引受ら
行によって調達する資金によって自行の固定
れるようになった。預金獲得は,1894 年ま
資本の形成や他銀行の買収・支店化を行う。
では貧弱のままであったが,その後急速に増
そのことを前提にして銀行は,自行のビジネ
加した。ユニバーサル銀行が,ドイツ経済に
スのために,株式発行または預金をつうじて
おける大幅な回復基調ととともに,広範で同
資金を調達する。ただし銀行にとっては,い
時的な預金獲得のための機関 ― 支店ネット
ずれかの資産を公衆に売却する場合に,預金
ワークの拡張 ― を築いたからである。
― 10 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
1880 年代までと,そして 20 世紀の交代期
移に加えて,ライアビィリテーに占める両タ
までにおいて,預金勘定は,ライアビィリ
イプの拡張と共に,預金だけで,ライアビィ
テーの 40 から 45%に達した。ユニバーサル
リテーに占める割合としては,1900(10%)
銀行は,預金を 1894 年以後はるかにより積
と 1919(38%)との間で,ほとんど四倍も増
極的に追い求めたが,しかしレベルは,世紀
大した。ドイツでも,イギリスやフランス,
交 代 期 後 ま で,銀 行 ラ イ ア ビ ィ リ テ ー の
アメリカと同様に,預金ビジネスが一次大戦
50%以下にとどまった。預金は少なくとも
前の十数年間にわたり急激に発展したことが
1913 年にライアビィリテーの 60%に,一次
明らかになる(Fohlin 2007, 86)。
大 戦 中 は 75% に 到 達 し た。ラ イ ア ビ ィ リ
テーに対する預金の割合は, 5 %以内で大銀
{株式銀行の所得報告書}
行の方が地方銀行よりも高かったが,両者は
集合データーでなく個々の銀行レベルのレ
資金の調達において,その時代を通じて,ほ
ポートによって,1884-1889 年において,
とんど同じコースを歩んだ。かくして第一次
投資に関連する所得源(収益)を商業活動か
大戦までの十数年にわたり,株式銀行の資金
ら生まれる所得源(収益)から区別すること
調達における株式のより大量の利用も,もは
が可能である。特に収支報告書は通常は,一
やドイツのユニバーサル銀行をイギリスの純
方における株式または他の証券から生まれる
粋な商業銀行から区別するものではなくなっ
収益を,他方における手数料とローンおよび
ていた(図表 1 参照 Fohlin 2007, 85)。
当座勘定バランス上の利子とを区別している。
商業バンキングと投資バンキングとがそれ
前者は,投資バンキング所得からなり,その
ぞれ自立化した上で統合するという意味にお
所得を銀行の総収益で割れば,投資所得の百
けるユニバーサリテー(広汎性)を測定する
分率が得られる。1913 年までには,収支報
場合には,預金の利用の度合い(ライアビィリ
告書は大抵,ビジネスの異なる路線を問わず
テーにしめる預金の割合)と同様に,また当座
手数料と委託手数料を集計したので,所得源
預金に関する数字がユニバーサル銀行の預金
を区別したり,商業バンキング所得に対する
動員の程度に関する評価をもたらす。預金は,
投資バンキング所得の割合を正確に測定する
個々の預金者によって提供される資金と並ん
ことは不可能になった。
で,銀行がその当座勘定上の貸付活動(為替
公表された所得に関する数字は推定値であ
手形の割引)を通じて創造する当座預金の両
るが,銀行ビジネス分析の大雑把な指針とし
方を含んでいる。それゆえ,預金だけ(つま
て利用しうるものとなっている。それによれ
り当座勘定を含まない)の方が,銀行の預金動
ば,全体的に,ベルリンの株式市場に上場す
員寄与に関してより正確の映像を提供するこ
る 50 から 60 件の国内銀行について,投資バ
とになる。ドイツでは,1900 年以前におい
ンキング機能から生まれる所得の割合は,
ては,公表された当座勘定信用(当座預金)
1880 年代と 1890 年代を通じて 17-21%の範
は,預金の 4 倍から 5 倍に及び,したがって
囲でほとんど変わらなかった。投資バンキン
純 粋 の 預 金 は,銀 行 ラ イ ア ビ ィ リ テ ー の
グへの関与の程度は,時間とともに変化する
10%未満を構成していた。支店ネットワーク
というよりも,それぞれの銀行の間でより大
の拡張と合いまって,当座勘定信用は,1907
きな多様性があった。投資バンキングからの
年に続く 5 年間において,純粋預金額の 2 倍
収入の平均百分率は,標本年を超えて極めて
にまで低下し,1911 年以後ほぼ同レベルに
安定していたが,それぞれの銀行の間では各
なった。当座勘定信用から預金への漸次的推
年ごとに相当な開きがあった。投資バンキン
レッセフェール金融市場システム(河西)
― 11 ―
グ所得は平均で,例えば 1884 年で 17.5%,
バーサル銀行の大部分が主として商業ビジネ
1897 年で 18.6%であったが,両年で約 12%
スに焦点を絞ったことが,個々の銀行の収支
の標準偏差があった。それらの全年にわたり,
報告書から明らかになる。ドイツとイギリス
投資バンキング所得は,いくつかの銀行につ
の商業バンキングの比較 ― 資産保有の類似
いては総所得のおおむね 0 パーセント,他の
性,一次大戦に向かうその時代の預金利用の
いくつかの銀行については,総所得の 60%
同等性,証券から生じるドイツ銀行所得の低
を超える,というように大きな開きがった。
率性 ― は,ユニバーサル機関と専門化機関
銀行は年々,投資バンキング所得率の分布の
との間にあらわれると予期される強い対照性
両端にわたり,高率の端よりも低率の端の方
を裏付けるよりも,バンキングにおける二つ
に偏って存在していた。銀行の半分が,総収
のタイプの重要な類似性を浮かび上がらせる。
益の 15%以下の投資バンキング所得を得た
が,銀行の 60%が 5 から 25%の間で儲けた。
このように大銀行は,投資バンキング事業に
比較的により大きく関与するというその通念
( 3 )銀行の流動性リスク管理
{ライアビリティに対する各資産の割合}
と一致して,つねにその分布範囲のトップ半
銀行は,流動的資産の支払準備としての保
分 ― 通常約 25% ― を占めていた。しか
有を通じて,ライアビリテイをそして同時に
しながら投資バンキングサービスは,その規
自行の流動性および満期リスクをいつ,どれ
模によって決められたわけではない。いくつ
だけ拡大するかを決定する。それゆえライア
かの最小規模の銀行が,投資バンキングに基
ビリテイに対する各資産の比率は,銀行の秩
づいて所得の最大百分率を獲得した。それで
序と実績に対して詳細な洞察を提供する。一
もなお,一握りの最大銀行はつねに,投資バ
方での銀行の支払準備率と,他方での銀行預
ンキング所得の全銀行平均を上回るレベルで
金ベースの多重拡大との間における逆相関関
変動していた(Fohlin 2007, 87-8)。
係は,銀行マネージャーが,投資家(預金者
{商業バンキングとしての同一性}
銀行の安定性を守ることとの間で紙一重のと
と株主)に確かなリターンを提供することと
ドイツのユニバーサル・バンキングは,19
ころを進むことを強制する。銀行の支払準備
世紀の第二半期を通じて,強力な投資志向か
政策の変更は,商業バンキングの組織化 ―
ら比較的に力強い商業偏向へと移動しつつ,
支店化,合併,資本構成 ― における発展と
相当大幅に進化したのであった。ドイツにお
密接に関係し合う。同時に個々の銀行レベル
ける株式ユニバーサルバンキングの発端にお
の政策と慣行は,バンキングシステムの全体
いては,銀行は他の何よりもまして大きく投
的な安定性,競争力,採算性ならびに金融資
資銀行のように見えた。1850 年代には,い
産の国民経済的な動員に対して影響を与え続
くつかの銀行が原則的に全く預金をまったく
ける。銀行家は確かに,彼らの決定がもたら
受け入れなかったし,その資産の大部分を少
すこれらのより重大な結果について考慮はす
量の株式形態で保有した。これらのケースで
るが,しかし主として,かれら自身の銀行に
は,所得は主に商業バンキング活動からより
対する一次的影響にもとづいて行動する。こ
も投資から流入した。また投資と商業とのバ
うして,たとえ個別的な出来事または選択が
ンキングビジネスの混合形態は,それぞれの
大した結果を生まない場合でさえ,しばしば
銀行の間で相当に異なっていた。そして 20
これらの活動の集合的な影響が際立つことに
世紀への世紀交代期までに,いわゆるユニ
なる(Hohlin 2007. 89-90)。
― 12 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
ドイツの場合においては,ほとんどのバン
を提供することや短期ローンを繰り返し延期
キングシステムと同様に,支払準備は,現金,
することは,延期されることのない,抵当で
コールマネー,為替手形,またはしばしば政
保証されるローンの提供よりもリスクの度合
府が発行する低リスク証券の形をとった。こ
いはより高いといえる。ただドイツの銀行は
れらの短期的つまり流動的資産の総ストック
ふつう考えられているほどには,担保のない
は,後期産業化時代を通じて,ユニバーサル
信用を提供しなかった。つまり,入手できる
銀行の総資産に対する比率において著しく安
わずかな数値によれば,無担保のローンはふ
定していた(36-42%)が,そのいくつかの
だんは,全体の 5 分の 1 か 3 分の 1 に達して
下位部類の比率は,時間とともに上下に変動
いた。しかし担保物件の品質を査定すること
した。また為替手形と政府証券とは,ドイツ
の困難さを考えてみれば,担保付きの貸付の
の銀行のポートフォリオのなかで重要性は全
利用だけにもとづいて,ドイツの貸付ビジネ
く異なっており,つねに前者が後者に大幅に
スの相対的な品質やリスクに関して直接的な
勝っていた。1883 年から 1913 年の間におい
結論を引き出すことはかなり難しい(Hohlin
て,ユニバーサル銀行は,総資産の約 20%
2007. 91)。
を為替手形の部類に, 2 %を政府証券に計上
為替手形や証券の品質を比較する場合にも,
していた。イギリスの場合と異なり政府証券
基本的に同じ問題がある。為替手形の場合に
の保有が限られていた理由は,少なくとも一
は銀行間の比較がさらに複雑になるが,銀行
部は,保守的な投資を必要とする貯蓄銀行や
自身の顧客に対して直接的に割引されるか,
その他の金融機関がより多く政府証券を利用
もしくは公開市場で買われるか,リスク上,
したことにある。ドイツ政府は相当な金額に
かなりの相違をもたらす可能性がある。にも
達するそしてますます増大する負債総額を流
かかわらず銀行の会計上はなんら区別されな
通させたが,しかしその負債額の増大も,銀
い。注目すべき相違が為替手形の場合にあら
行の政府証券資産の急拡張には立ち遅れてい
われる。そこでは,ある銀行は為替手形の再
た。ただし 1913 年に戦争の準備が始まった
割引や担保抜きでの為替手形の発行にあまり
時に,帝国債務は急上昇し,銀行資産のなか
気乗りしないのに,一方で他の銀行は自由に
で極端に大きな割合を占めるようになった
それらを行うように見えるということ。ドイ
(Hohlin 2007. 90-1)。
ツの銀行が保有する為替手形の品質は,特に
ローン,当座貸越,非政府証券といった比
高品質の為替手形ポートフォリを保有してい
較的流動性の劣る資産が,銀行資産の一定部
ると一般的に考えられるイギリスの銀行の為
分を構成していた。全株式銀行にわたる集合
替保有と比べて見劣りするものとされている。
(平均)は,いうまでもなく,これら資産のな
しかしこのような評価はおそらくイギリスの
かのばらつきをほとんど消してしまう。表面
銀行は厳格に⽛真正為替手形ドクトリン⽜
上は同じ満期を有する債権であってもリスク
― 貨幣は適正な価値を有する真正の為替手
の程度に差異が生じることを考えてみれば,
形と交換に発行されなければならないという
資産の品質は,銀行間でもそして一つの銀行
教義 ― に忠実であるという見方に基づいて
内においてさえも,組織的に異なったものに
いる。多くの会計上の潜在的問題にもかかわ
なる可能性がある。例えばドイツの銀行が
らず,資産分析結果によれば,ユニバーサル
行ったと見なされる担保物件をほとんどある
銀行による全般的な,長期的保有のパターン
いはまったく有しないで ― つまり,顧客企
に関して正確な描写が提供される。また同時
業が発行する株式証券にもとづいて ― 信用
代的説明ならびに歴史的説明の両方によって,
レッセフェール金融市場システム(河西)
銀行は全体的な金融実態を可能な限り保守的
― 13 ―
は,一般的にはライアビリティに占める預金の割合
に発現させたことが明瞭に示される。にもか
がドイツの場合にイギリスよりも相当に低いことに
かわらず,銀行が自行のバランスを特に長期
よる ― 図表 1 参照)。このギャップは,ドイ
間にわたってどれほど操作できるかに関して
ツの銀行のライアビリティから引受済み手形
は,最大限度が存在しており,そのような最
を除外すればもっと大きいものとなる。ロン
大限度はいずれの銀行にとっても同様であっ
ドンの株式銀行(大銀行)は,一つのグルー
た(Hohlin 2007. 91-2)。
プ と し て は,現 金 バ ラ ン ス を 預 金 の 10~
銀行が,相当な金額の株式ならびに預金に
15%で維持していた。それと対照的に,ベル
よって資金を調達する場合には,現金/ライ
リ ン の 株 式 銀 行(大 銀 行)は,高 く て 22%
アビリテイ(資本+預金=資産)の比率は,現
(1891 年ごろ),低くて 7 %(1907 年以後)の集
金/預金の比率と同様に,実際的な重要性を
合(株式銀行の平均)率を維持していた(Hohlin
もつ。ドイツの株式ユニバーサル銀行の中で
2007. 92-4)。
は,現金/ライアビリテイ(現金/資産と同じ)
の比率は,(全株式銀行の平均で)1880 年代末
{株式銀行の支払準備率}
と 1890 年代初頭では 5-6 %の範囲にとど
ヨーロッパでは,プチブル層が個人として
まっていたが,しかし 1893 年以後,いささ
預金市場および資本市場に参入するのは,19
か低下した。この比率低下は,これらの同じ
世紀半ば以降である。家計から生まれる資金
銀行(全株式銀行)の拡張と同時に起こった。
の保有者は,それで預金資産を買うか,国債
銀行の現金保有は完全に外生的であるとはい
や株式証券に投資するか,両者のリスクとリ
えないし,そしてドイツの銀行に共通した株
ターンの程度を勘案しながら,自由に選択で
式金融の多用は,特にそれらの現金/預金の
きる状態にある。それゆえ預金は,当座預金
比率に対比して,現金/ライアビリテイの相
と異なって,しばしば通知なしに,預金者に
当の低比率を説明する助けになる(H o h l i n
よって引き出されうる。預金は,常に払い戻
2007. 92)。
されるべき状態におかれなければならない。
現金/預金の比率は,短期ライアビリティ
銀行によるいかなる預金引き出しの拒絶も,
をより長期の資産に変換させる(資金を借りる
銀行の安定に対する一般の不信を呼び起こし,
期間よりもより長い期間にわたり貸付けること,満
銀行は取り付けの危険に直面する。あまり事
期変換という)上での銀行参加に関して大きな
情を知らないでパニックに陥る傾向のある預
洞察力を提供する。ドイツのユニバーサル銀
金者は,すべてを失うリスクを犯してまで,
行では,現金/預金の比率はより極端ではあ
預金資産をなるべき早く,それに対して罰金
るが,現金/ライアビリティの比率と同様な
が科せられるというような場合でさえ引き出
パターンをたどった。つまり 1880 年代末を
して現金化しようとする。
通じて上昇し,1893 年後は 1896 年 16%,
こうして金融危機が発生し,銀行は破綻す
1913 年 7 %と相当急激な低下傾向にあった
る。金融危機を避けるためには,預金により
(つまりより長期の満期資産変換の割合が増加し流動
得られる銀行の資金は,その相当の部分が,
性リスクがより高まる)。イングランドとウエー
預金引き出しの突然のいかなる増大に対して
ルズは,比較的により少量の現金準備金を示
も ― 支払準備として ― 応じることのでき
したが,現金/預金の比率についてドイツと
るように,現金またはそれに近い形態(コー
イギリスを比較すると,1891 年ごろでは,
ル市場資金,あるいは損失なくいつでも売却できる
前者が後者を 6 %以上引き離していた(これ
国債などの優良証券など)を保証する方法で用
― 14 ―
北海学園大学経済論集
いられなければならない(Verdier 2003)。
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
歴史家は,中央銀行によって提供されるそ
支払準備率は,銀行の機構と活動に左右さ
の保障によって,ユニバーサル銀行はときど
れる。たとえば,要求払い預金は定期預金よ
き大規模な繰り越し信用を産業に提供し,ほ
りもより高い現金率を必要とするし,リスク
とんどの場合により大きなリスク・テイキン
の度合いが高い無担保ローンは,保守的で十
グを容認することが可能になったと主張して
分な担保を有するローンよりも,より大きな
きた。しかし金融上の記録によれば,銀行は,
支払準備を必要とさせる。ドイツのユニバー
資産のうち適度な部分をローンと当座貸越に
サル銀行は,たいてい 3 ケ月, 6 ケ月もしく
結びつけたのであって,それはイギリスの専
は 12 ケ月期限の預金を受け入れたので,こ
門化銀行がなしたことを著しく上回るような
れらの資金を投資することにおいて,当座勘
ものではなかった。確かに,以上のような数
定信用つまり一覧で払い戻しを認める預金勘
字を使う場合には,多くの定性的な差異が綿
定によってそうする場合よりも,より大きな
密には明らかにされない,という問題がある。
余裕を享受した。現金/預金の比率の変化は
たとえば,ドイツの為替手形は,イングラン
大部分,世紀交替期におけるユニバーサル銀
ドで使われるものよりも大きなリスクを伴っ
行の預金使用の際立った増大から結果した。
ていたかもしれない。その上,もしドイツの
銀行は,確かに株式の新発行を通じてそのラ
銀行の当座貸越が,イングランドやウエール
イアビリティを拡張したが,1890 年代から
ズの同等のローンよりもより容易に繰り越さ
はほとんどの場合に,はるかにより大きな規
れ,こうしてローンを比較的により長期化さ
模で預金を利用した。銀行は,この時代を通
せるというようなことがあったとすれば,そ
じて,特に自行の個人預金を拡大し,した
の場合には,銀行はおそらく簡単に融解する
がって要求払い預金に対する定期預金の比率
ライアビリティ(預金)に対する真の短期資
を高め,そしてより低い現金/預金比率を余
儀なくさせた。預金を増大させる一方で,同
産(現金とコールマネー)の割合をより高率に
保持する必要があったであろう(Hohlin 2007.
時的に現金を一定レベルで保持することに
95)。
よって,当然に現金/預金比率は,急激に低
下したのである(Hohlin 2007. 94)。
ドイツのユニバーサルバンキング部門の内
部でさえも,それぞれの銀行が政策を実施す
銀行が,その短期ライアビリティを短期的
る場合には格差が現れる。最も注目に値する
ないし流動的資産でカバーするその程度を測
のは,ユニバーサル銀行の地方ネットワーク
定する短期カバリッジ率は,満期変換の発生
― 主として首都の外に所在する中小規模の
についてより明確な目安を提供し,そして現
銀行によって構成される ― とベルリンに本
金比率(対預金もしくは対ライアビリティ)に対
社を置く大銀行との間のギャップである。前
して興味深いコントラストを提供する。ドイ
者は第一次大戦前夜まで,後者よりも,著し
ツの株式銀行では,ライアビリティに対する
く低い現金率(対預金あるいは対ライアビリティ)
短期資産の割合は,1892 年には 71%に達し
を維持した。両者が,1890 年後絶えず現金
たが,その後の 15 年間で,約 50%にまで低
率を引き下げたのであるが,大銀行は,それ
下した。このカバリッジ政策は,ライヒスバ
をより急速に成したのであり,1910 年ごろ
ンクによって提供される最後の貸し手機関を
には,その現金率は地方銀行のそれに収斂し
容易に利用できることに照らしてみれば,万
ていった。現金率における大銀行のより急な
事がより保守的なものであったようにみえる
低下は,地方銀行や私的銀行の支店化や吸
(Hohlin 2007. 94)。
収・合併による大銀行の国内他地域への拡張
レッセフェール金融市場システム(河西)
と相まっており,それゆえ,バンキングにお
― 15 ―
して,長期生存企業に立ち遅れていた(36%
ける大銀行集中と一致していた。合併は順順
対 50%)が,その後短期で後れを取り戻した。
と単に絶えずより大きくなる規模と範囲の経
預金獲得と支店化がすでに進んでいた 1895
済からのみ結果したのではなく,ますます領
年以降についてみると,企業の流動資産ス
域を重複して争われる銀行間の競争増大から
トックは,その他の資産に比較して成長しつ
も結果した。合併した時,大銀行は,活動分
つあり,キャッシュフローは,投資よりもよ
野を広げ,おそらく自行の資本(預金負債)
り急速に増大しつつあった(Hohlin 2007. 96)。
のうちより大きな部分を貸しつけることがで
ドイツの銀行について浮かび上がる映像が
きるようになった。さらに,競争の環境が利
示すものは,(イギリスとイタリアの銀行に比較し
潤率を維持するためにより保守的でない政策
て)ほどほどのそして時々は高い支払準備率
を必要にさせたのである(Hohlin 2007. 95)。
であり,そして満期変換(短期ライアビリティ
これらの,現金率及びより幅のあるカバ
の長期的資産への変換)における保守的関与で
リッジ率(同様に支店化と預金獲得)のパターン
ある。現金/預金の比率と全体のバンキン
は,1894 年ごろに始まり一次大戦の直前に
グ・システム資産との間の関係が,ドイツの
急成長した経済発展に伴って形成された。そ
場合にははっきりとしている。銀行政策に外
れゆえ,このデータは 19 世紀末葉まで,産
的な他の要因がまた役割を演じるに違いない
業企業の利用のために預金を発展させること
が,現金/預金の比率は,ユニバーサル・バ
において,ドイツの信用銀行の側に不可解な
ンキングシステムによって動員される総資産
努力不足があったことを示しているように見
に対する強い否定的な影響をはっきり示して
える。仮に銀行の預金政策が,外部金融に向
いる。これらの結果は,ドイツ国民経済の成
けた産業上の必須要件に対する対応であった
長と変動に対するユニバーサルバンキング部
とすれば,銀行貸付けに対する需要は,1890
門の潜在的影響を証明している。しかし,バ
年代中までは低いレベルにとどまり,そして
ランスシート事業上の構成は,単に,バンキ
その後第一次大戦までの 20 年間を通じて絶
ングの側でのリスクテイキングの一様相を示
え間なく増大したはずである。しかしながら
すに過ぎないので,以上の計測からだけで全
会社のバランスシートによれば,ドイツの産
体的な銀行リスクについて多くを言うことは
業企業は世紀交替期以後より多く流動的に
困難である。次に銀行のリターン率の検証に
なった。
ドイツの企業は,固定資産の比率からみて,
よって,この点についてさらに明らかにする
(Hohlin 2007. 97)。
1900-13 年 の 時 代 に お い て は,1882 年-
1900 年の間においてよりも,より高率の流
動資産ストックを有していた。ドイツの長期
{株式銀行のリターン}
銀行の利益率は,これらベンチヤア(銀行)
に生存した 50 法人のサンプルによれは,固
のリスク・テイキングについて若干の目安を
定資本の比率からみた平均的な流動性ストッ
提供する。投資家はより大きなリスクでの投
ク比率は,1880 年のほぼ 20%から 1912 年の
資にはより大きなリターンを要求するからで
60%まで上昇し, 2 %の年平均成長率を示し
ある。もちろん独占地代といったような他の
ていた。ドイツの新規株式公開(IPO)企業
要因がより高いリターンをもたらすというこ
の内部資金は,より大きく根付いていた企業
とはあるが,ドイツのユニバーサル銀行は,
のそれよりも,相当に急速に成長した(年平
少なくとも自行の商業バンキングサービスに
均で 8 %)。IPO 企業は,1900 年には依然と
ついて極めて競争的に価格付けしたようであ
― 16 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
る。その競争にもかかわらず,ドイツのユニ
ついて,合衆国の銀行よりも高かった。全体
バーサル銀行は,概して,自行のビジネス範
の平均でドイツ 2.4%,合衆国 1.7%で,平
囲からかなりの利益をえた。
均的な年間の相違は,0.7%余りだった。こ
株主資本利益率(ROE,当期純利益/株主資本)
の差異は統計上は非常に意義深いとしても,
は,1882 年 か ら 1888 の 間 に 8 % 未 満 か ら
その開きの重要性は小さい。このような小さ
12%超に増大し,その後,1890 年代後半に
なギャップは,ドイツの銀行の側でのリスク
は中断したが,1901-1 年の株式市場危機に
テイキングに対する効率性もしくはリターン
い た る ま で,著 し く 低 下 し た。そ れ か ら
に関する仮説上の優位性によって,ほとんど
ROE は,1907 年株式市場危機に至るまで回
全て説明できる。さらにこのような差異は,
復し,その後一次大戦までまで横ばい状態で
アメリカの銀行帳簿に貸付における多額の貸
あった。
倒損失が計上されない場合には消滅してしま
ドイツのリターン(ROE)をイングランド
う。
の専門化商業銀行のリターンと比較すること
それぞれの国民経済のうち銀行以外の部門
は,ドイツのユニバーサル銀行がよりリス
における発展レベル,経済成長率,ならびに
キーかもしれない投資ポートフォリオにたい
支配的なリターン比率は,諸国間で相当に異
して,特別に大きなリターンを得ていたかど
なるであろうし,それゆえそれぞれの銀行部
うかを明らかにするために有益である。イギ
門間におけるリターンに相違をもたらしうる。
リスのリターンは,1880 年代末から 1890 年
ドイツはイギリスには立ち遅れていたが,合
代初頭まで,相当に上下に変動したが,はっ
衆国のそれと同様の方向に進んだ。これらの
きりした傾向は全く示さなかった。1888 年
構造的相違は支配的なリターンおよび利子の
と 1913 年の間で,平均的年間リターンにつ
比率においてあらわれると予測して良いが,
い て は,イ ギ リ ス(5.8%)は,ド イ ツ
明らかに合衆国とドイツのリターン数値は,
(7.7%)よりもかなり低くかった。それゆえ
イギリスのそれに対してよりも,互いに類似
ユニバーサル銀行のリターンは全体に堅調と
いえるが,しかしドイツの ROE がより高
していた(Hohlin 2007. 99)。
連邦政府債務証券は,限界はあるが最良の
かったのは,ユニバーサルシステムによるも
無リスク比率基準とされる。この無リスク比
のであったとは必ずしもいえない(H o h l i n
率の超過分によって調整される ROE を見る
2007. 98)。
と,合衆国の銀行はドイツの銀行を先導した
資産に対するリターン(総資産利益率 ROA)
が,一方イングランドとウエイルズは,ドイ
については,ROE の場合よりも,より安定
ツにかなりおくれていた。1890 年代の比較
しよりはっきりした傾向が結果として生じて
的に穏やかな 10 年を通じて,調整 ROE は,
いた。この相違は主として,ドイツの銀行が,
三国すべてで事実上非常に近接していたが,
イギリスの預金指向銀行に比較して自己資本
その十年間の前後において,大きな相違が
に大きく依存していた一方で,より多額の預
はっきり見られる。両方の時代において大き
金獲得へと移行したことによるものであった。
なスイングが,合衆国とドイツに特にはっき
この点は,支店化も預金獲得もそれほど大き
りと見られるが,証券市場の上昇と下降との
くはすすまなかった合衆国と比較してみると
相関関係は特にドイツで顕著である。このこ
わかる。つまり,ROA は,この時代にわた
とによって,またしてもユニバーサル銀行と
り,合衆国とドイツの両方で下がったが,ド
国内証券市場との結びつきが際立たされる。
イツの銀行の平均 ROA は,ほとんどの年に
最後に,ROE から推定ローン率をひけば,
レッセフェール金融市場システム(河西)
― 17 ―
1888-1913 の 平 均 で,そ れ ぞ れ 合 衆 国
の投資バンキングを含む全体的成長との両方
1.51%とドイツ 1.58%と,ほぼ同率の調整
を直接的な条件にしていたとはいえない。ド
ROE 数 値 が 得 ら れ る。イ ン グ ラ ン ド と
イツのユニバーサルバンキング産業の進路は,
ウェールズについて,ローン率調整 ROE の
いくつかの点で印象的な面はあったが,多く
数値は平均でドイツと合衆国よりもより高い
の重要な測定値が示すように,イギリスの専
が,その開きは統計的重要性を除けば,すべ
門化商業バンキング部門の発展とほとんど全
てのデータが重複する時期について減少する
く異ならなかった。両国の銀行が,互いに類
(Hohlin 2007. 100)。
似する産業上の集中度や金融機関上の構造に
オリジナルなそしてその調整的形態におい
おいて,銀行間の厳しい市場競争を通じて,
て,採算性をはかるいろいろな尺度があるこ
商業バンキング上の困難な道を切り開いて
とを考えると,ドイツのリターンが,後期産
いった(国家のいわゆる非直接的影響の事例)。銀
業化の時代を通じて,アメリカとイギリスの
行株式証券がもたらすリターンさえも,後期
両方のリターンに対して著しくかつ一貫して
産業化の時代の多くの年々にわたり両国で
より高かったわけではないことは明らかであ
きっちりと一致していたほどである。各種資
る。アメリカの銀行に比較してドイツユニ
産保有の類似性,相互に匹敵する預金の利用,
バーサル銀行はほんのわずかな絶対的 ROA
ドイツの銀行の証券取引・投資バンキングか
優位性を持っていたが,特にイギリスに対し
ら生じる銀行所得の低い割合(すなわち商業バ
てみても,ドイツのシステムには,なんら
ンキングから生じる銀行所得の高い割合)など重
はっきりした性能優位性は存在していなかっ
大な類似性が浮かび上がってくる(H o h l i n
た。そしてプレミアムが存在するその程度に
2007. 100)。商業バンキングに伴う流動性リ
関しても,それを優勢な効率性やより大きな
スクの対応において,
⽛ドイツの銀行は,相
リスクテイキングに帰すことは必ずしもでき
対的に非流動的であり,イギリスの銀行は,
ない。
高い流動性の状態を維持していた。バンキン
要するに,リターンのパターン変化,特に
グシステムにおける諸国間の相違は,典型的
1890 年代初頭のリターンの際立った下落に
に は イ ギ リ ス と ド イ ツ の 間 に み ら れ た⽜
よって,ドイツのユニバーサル銀行はより大
(Miche 2003)とは必ずしも言えない事態が世
きな競争に直面し,そのために国民的な支店
紀末以降,第一次大戦勃発まで発展した。
化の取り組みが拡大した。この時にユニバー
もし預金負債によって得られる資金のうち
サル銀行は,投資バンキングによるハイリス
長期貸付けに使われる割合が高すぎる場合に
クに対するハイリターンを得るものとしてで
は,銀行は,預金者による突然の引き出しに
はなく,大きくイギリス並みの低リスク商業
対して非常に傷つきやすくなる。流動性の問
バンキング構造へと移行したのである
題はまた,当座貸越の人気とも混ぜ合わされ
(Hohlin 2007. 100)。
る。当座貸越は為替手形の割引よりもよいリ
ターンをもたらすが,容易に繰り越されるし,
{商業バンキングの流動性と証券市場}
また中央銀行での再割引を通じて簡単にリサ
以上では,ドイツのユニバーサル銀行が商
イクルできない。流動性のより小さい当座貸
業バンキングとして自立化する側面が明らか
越資産が流動性のより高い預金負債に依存す
にされた。ここでは一次大戦以前におけるド
ることになり,銀行はバランスシート上,流
イツの高度産業化は,通説の言うように,明
動性の強いミスマッチ(不適合度合い)にとら
確に意図された制度設計とユニバーサル銀行
われることになる(Verdier 2003)。
― 18 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
表面上ほとんど長期貸付をしないイギリス
行は商業バンキングの流動性リスク管理にお
の銀行家も,要請される場合には,商品取引
いて,ベルリン証券取引所と密接な相互補完
上で発生する顧客への短期貸付(ローンと当座
の関係にあった。その一方でイギリスの大銀
貸越)をひんぱんに行い,みずからの原則を
行は他国の大銀行とともに,直接的間接的に
曲げて,さらにそれを繰り越しすることが常
ロンドン証券取引所の証券売買に介入し,商
であった。そうでもしないかぎり,銀行は,
業バンキングによる貨幣市場と証券売買によ
競争銀行に顧客を奪われてしまう。総資産に
る資本市場と間に世界的な相互補完関係を作
しめるその長期貸付の割合はドイツと同様,
り出した。
(注4)
ほぼ 50%に達していたと推定される。一般
に相当な長期貸付けが行なわれていた
1875-1914 の時期に,工業会社への貸付け
の 59%は一年以下,79%が 2 年以下であっ
( 4 )イギリスとドイツの証券取引所
{ロンドン証券取引所}
たが, 3 年以上も 13%に達していた。ドイ
1789~1815 年間のフランス革命とナポレ
ツの銀行は,ローンや当座貸越の繰越で長期
オン戦争を通じて,証券市場は交戦状態やイ
化する貸付けの担保として,その顧客に証券
ンフレーションによって深刻に妨害され,証
(それは危機の際には売却された)の提供を熱心
券の国際的取引は,ほとんど存在しないほど
に求めた。証券市場は,その長期貸付からの
であった。この時期に,パリとアムステルダ
脱出の機会を銀行に提供したからである。
ム の 首 位 が ほ と ん ど 失 わ れ る 一 方,特 に
1913 年にドイツの商業銀行では,その貸付
1800 年のその創立以来,ロンドン証券取引
のうち推定 11%が,証券を担保とする貸付
所が浮かび上がってきた。以来ロンドン証券
の形態をとっていた(Miche 2003)。
取引所は,この種のものとしては世界のなか
イギリスの専門化商業銀行は,現金とコー
ルマネーを高い割合(24.5%,1913 年)で保有
し,
⽛投資⽜における低リスク証券の保有と
ともに,高い流動性を保持したが,そのこと
によって,為替手形保有の割合を著しく低下
させた。その一方で,より流動性の低い当座
貸越の割合をドイツと同様にほぼ総資産の
50%に維持することが可能になった。ドイツ
のユニバーサル銀行は,イギリスの銀行と比
較して現金の保有割合を著しく低くする分,
現金よりも流動性の劣る為替手形(20%)と
必ずしも低リスクとはいえない非政府証券と
をより高い割合で保有した(その意味でイギリ
スの銀行よりも貸付資産の⽛より長期の保有パター
ン⽜を示した)が,ユニバーサルバンキングに
特有な債権の証券化システムあるいは株式証
券を担保とする貸付によって,当座貸越の増
大による⽛流動性の圧搾(ミス・マッチ)⽜を
大きく緩和していた。その上でドイツの大銀
(注4)
流動性のリスク管理の方法を提供することが
金融システムの核心的機能となる(Viedier 2003)。
この問題は,原理論上では扱われない。プチブル
層や実業家など個人の預金や投資が,貨幣市場と
資本市場の発展および両者の相互補完的関係の成
立を可能にさせるので,原理論を基準にして段階
論上で解明されるべき課題となる。資本家的企業
は原理的に循環資本(その循環は商業信用によっ
て促進される)と固定資本所有(その固定資本形
成,労働生産力の増進は一般的に想定されてよい
が,原理論ではそのための資金調達の形態は論じ
られない)とからなる資本二元的存在(利潤=地
代=固定資本利子,貨幣利子率=資本利子率)で
ある。段階論上のレッセフェール金融システムは,
この資本家的ミクロ企業存在を世界的な貨幣市場
と資本市場との相互補完的な流動性リスク最小化
のメカニズム(ミクロ市場競争)のうちに実現す
る(貨幣利子率≒資本利子率,右辺は産業部門間
および企業間にそのリスク・プレミアムよってば
らつきが生じる)。ここに,プチブル層の預金と
投資といった⽛非資本主義的要因によって,その原
理の展開は…多かれ少なかれ阻害され⽜ながらも,
レッセフェール金融市場システム(河西)
― 19 ―
で最大かつ最も重要なものとして存在したが,
ドン証券取引所で値付けされる証券の内,外
同時に地方の株式企業の活力を反映して多数
国資産の割合は,1853 年の 10%未満に対し
の地方証券取引所が存在していた。地方の取
て,1903 年の少なくとも 50%へと増大した。
引所の活動は,単に販売と購買をめぐる地方
この国際的な総投資額の 40%ほどがイギリ
市場の産物とはもはや言えなかった。それぞ
スの投資家によるものであったが,そのこと
れ地方の取引所は,ますます全国的な投資
が,ロンドン証券取引所を世界で最も国際的
― これは,電報網そして 1880 年代からは
なものにさせた。会員に対して,人数に関し
電話を利用するブローカーとデーラーのネッ
てあれ経費に関してであれ,ほとんどなんの
トワークを通じて伝達される ― によって駆
制限も課さないこと,事実上いかなるタイプ
動されるようになった。投資家は次第に全国
の証券に対しても市場を提供しようとする取
いたるところでそれぞれの取引所の得意分野
引所の意欲,会員が採用するビジネス手法に
を活かすことができるようになり,市場間に
対するほとんど完全な無制限,そして手数料
わたる活動により証券売買高の増大がもたら
が固定されたものではないことなど,ロンド
された。このネットワークの中で,ロンドン
ン証券取引所は低コストかつ最小限度規制に
証券取引所は,国内向けであれ外国向けであ
よって秩序正しい市場を提供した。結果は,
れ,イギリスでもっとも活発に取引される証
事実上間断なき拡張であり,会員が 1850 年
券のための支配的市場として浮上した
における 864 から 1905 年における 5567 に 6
(Michie 2006, 98-9)。
倍以上に増大した(Michie 2006, 99.)。
しかしながら 1850 年と 1900 年の間におけ
1914 年まで,ロンドン証券取引所は,世
るロンドン証券取引所の主要な特徴は,外国
界で最大かつ最も国際的なものとして重要で
の証券,主に外国国債や外国鉄道の株式およ
あったが,すべての領域で最上位にあったわ
び社債の重要性が増大したことである。ロン
けではない。国内的には,それはたくさんの
地方市場(その中でグラスゴーとリバプールにお
しかしその一般均衡的自立性を世界市場をつじて
貫徹させるものとして,原理論と段階論の関連が
明らかにされる(宇野 1962. 41)。
なおミクロないしマクロの経済学分立は,原理
論・段階論(つまり一次大戦以前を対象)におい
ては存在の余地がない。マクロ経済学の市場は,
レッセフェール金融システムと共にミクロの市場
世界が崩壊し経営と所有が分離し,通貨・貨幣や
資本の管理,貿易政策や労働政策など国家が経済
過程に積極的に介入する(経済原則の制度設計的
実現)過程で初めて生まれる経済学である。この
意味で,一次大戦以後の現代経済を論じるマク
ロ・ミクロ経済学体系(ミクロとマクロは,教科
書上は一応区別されるものの,実際の現状分析で
は分離の仕様がない)は,宇野三段階論体系の矮
小化された形態(経済法則と経済原則との混同)
を意味するものに他ならないということができる。
その点を踏まえれば,たとへば産業連関表は現状
分析レベルでは,国民経済における経済原則的均
衡の国家財政に媒介された一般的実現を示すもの
として,普遍的な意義をもつことになる。
ける証券取引所が最も重要であったが)からの競
争に直面していた。地方の証券取引所は,地
方の投資家を引き付ける地方の会社の株式や
社債の両方および証券の要求を,たとえそれ
らがロンドン証券取引所で相場付けされる場
合でさえ,満たし続けていた。グラスゴー証
券取引所は,スコットランド公債証券のため
の市場と地方で広範囲に保有されていた海外
鉱山株を扱う活発な市場との両方を提供した
(Michie 2006, p 145)。
ロンドン証券取引所は,国債のための市場
としては,オーストラリアやカナダの国債と
いった帝国内で発行されるものは依然として
重要であったが,しかし国際的には,その重
要性を減らしていた。多くのヨーロッパ国債
の本国帰還,そしてロシア,日本,ラテンア
メリカ共和国といった諸国が発行する国債を
― 20 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
めぐるパリとの競争が,ロンドンの重要性を
取引所は,その設立以来最小限の委託ルール
大きく低下させた。パリ証券取引所の地位は,
を維持したが,一方ロンドン証券取引所は,
1870- 1 年のフランス ― ドイツ戦争によっ
一次大戦ちょっと前までそれらを導入しな
て損傷をうけたが,対独賠償資金の調達に成
かった。最低手数料の導入後でさえも,頻繁
功したことが,その国際的地位を回復させた。
な手数料の値引き,免除,忌避の存在が,こ
パリは,主要な世界的金融センターとしての
の地位を比較的に変化のないまままであるこ
ロンドンに対して決して再び挑戦することは
とを保証した。その結果,銀行は,証券を売
できなかったが,にもかかわらず,ヨーロッ
り買いするビジネスをロンドンに集中するこ
パ大陸における,とくに地中海に接している
とになった。銀行は特定のブローカーと特別
すべての国にとって最も重要な金融センター
な条件で交渉することによって,かれらの取
であり続けた。このことは,重要な国際的規
引をわずかなコストで処理することができた
模をもってドイツの最も重要な金融センター
ので,ロンドン証券取引所は非常に魅力ある
として浮上したベルリン証券取引所からの競
市場になった。こうして,商業バンキング,
争が増大したにもかかわらずそうであった
投資バンキング,そして証券仲買業の間の区
(Michie 2006, 115)。
分 ― イギリス金融システム内の専門化の過
国債をめぐるパリとの競争に代わってロン
程 ― が促進された。一つにはロンドン証券
ドン証券取引所は,世界中で活動する鉄道に
取引所によって課されたルールの産物であっ
よって発行される株式と債券のために,特に
た(Michie 2006, 139)。
合衆国,カナダ,アルゼンチン,インドから
ロンドン証券取引所の役割は,巨額な長期
のもののために,巨大な市場を提供した。ロ
金融の資金を調達する手段を提供するといっ
ンドン証券取引所におけるアメリカ人市場は,
た資本市場におけるものに限られない。証券
すべての売り場のうち常にもっとも活発な市
は,必要な場合にはいつでも,売り買いでき
場であったが,ロンドンと合衆国の両方で発
るというまさにその事実が,それらを貨幣市
行される合衆国鉄道証券の要求のみならず,
場証書にするのである。銀行は,特に国債や
カナデイアン・パシフィックといった重要な
社債など固定利子証券への投資やそれらの売
カナダ鉄道証券の要求をも満たした。1914
買を証券取引所のブローカーに委託して頻繁
年までにカナダの鉄道によって調達された
に行う一方で,短期予告で払い戻される短期
374 百万ドルのうち,277 百万ドルがイギリ
貸付を,預金に払うよりも決して高くないあ
ス,51 百万ドルが合衆国,41 百ポンドがカ
るいはそれより低い利子率で,ブローカーに
ナダ国内からのものであった。ロンドンはま
提供した(コールマネー)。直接的な証券売買
た,鉱石と石油の探査・生産・配分を世界中
にせよあるいはそのための貸付によるせよ,
で行う会社によって発行される証券のために
証券流通のための銀行からの資金の流入は,
国際的市場として機能した。1914 年までに
証券の流通を促すことになり,証券市場を活
ロンドンは,ロシアならびに東欧・中欧,中
性化させて,証券自身の流動性リスクを相当
東,極東にわたって油田を経営する 24 件の
会社のために市場を提供した(Michie 2006,
に低下させる(Miche 2003)。
145)。
の銀行も,ロンドン証券取引所を必要とした
商業バンキングを徹底的に追求したドイツ
イギリスの証券取引所は,株式会社を会員
のであり,事実,ロンドンのコールマネー市
資格のあるものとしたが,株式銀行を会員と
場を広範囲にわたり利用した。この市場がド
して受け入れることを拒否した。地方の証券
イツでは,発展を制限されていたからである
レッセフェール金融市場システム(河西)
(制限が撤廃されるとベルリンのコールマネー市場に
― 21 ―
それにもかかわらず,証券取引所は,地方
も向かった)。ロンドンのコールマネー市場は,
の投資家の数の増大に対応し,地方の会社の
ドイツのみならず,ドイツ,フランス,日本,
必要性に応ずるものとして,ドイツの主要な
合衆国などから短期資金を受け入れ,世界中
都市に急増し続けた。フランクフルトは,地
の銀行の流動性を維持するとともに,多くの
方の株式と債券のための市場を提供しただけ
政府と企業がロンドン証券市場で証券を発行
でなく,その伝統的な経済的結びつきのゆえ
することを魅力あるものにした。発行証券が,
に,オーストリア・ハンガリー帝国の株式や
コールマネーによって,より容易に吸収され
債券のための市場をも提供した。一方,ハン
たからである(Miche 2003)。
ブルグは,主要港たることとその所在地のお
かげで,ドイツの船舶輸送と商業会社が発行
{ベルリン証券取引所}
する証券のための重要な市場になった。商業
1850 年以後,ドイツの証券市場は,国債
為替手形への初期の関与を反映して,銀行は
と特に鉄道の株や債券とによって駆り立てら
すべてこれらの証券取引所の会員であったの
れて,1850 年以後,拡大するとともに,ま
で,このような統合市場の創立は,大きく銀
たイギリスに比べはるかにより組織化された
行が互いに維持していた相互関係に起因して
形態をとった。証券取引所は,1857 年のド
いた。加えて,ドイツの証券市場の発展は,
レ ス デ ン,1860 年 の シ ュ ト ッ ト ガ ル ト,
政府による課税と立法の様々な側面によって
1874 年のデユッセルドルフなど,主要な都
著しく影響された。ドイツの証券市場は,地
市センターに出現して,既存のものに加わっ
方自治体レベルか州レベルかのいずれかで,
た。ドイツの証券市場には,パリがフランス
長くにわたり規制と制限に直面してきた。ド
で,ロンドンがイギリスでそうであったよう
イツ統一と共に,このコントロールは,ます
な仕方においては,明確なセンターが存在し
ます全国的なものになった。はやくも 1881
なかった。この点は,1871 年のドイツ統一
年に取引高課税が導入されたが,それは,
後も変わらなかったが,しかしそれから特に,
1894 年 に 倍 に 引 き 上 げ ら れ た。そ れ か ら
1873 年の通貨統一そして 1875 年におけるベ
1896 年法は,すべての証券取引所に対して
ルリンをベースとする帝国銀行の創立後,ド
帝国政府の監督を生じさせたが,一方で,先
イツにおける金融統合が発展するとともに,
物の売りと買いは投機と同然なものとして
ベルリン証券取引所が,特に鉄道の株式と債
1897 年に禁止された。(Michie 2006, p 97)投
券をふくむ法人証券のための市場として発展
機を禁じるその法律は,1908 年まで改訂さ
し,ドイツの証券市場において支配的な影響
れなかったが,その時までに,多くのドイツ
力をもつものとして浮上した(Michie 2006,
の証券取引が,外国,特にロンドンに移動し
96-7)。フランクフルトは,オーストラリア・
て行われた。ロンドンは,1870-1 年のフラ
ハンガリーのビジネスを引きうけるウイーそ
ンス・ドイツ戦争時に,多くのドイツの国際
してドイツ諸州の公債を引き受けるベルリン
的ビジネスをパリから全く切り離して引き付
によって,次第にその国債市場たる地位を
けていたのである。外国に向かわせることの
失った。1880-93 年の期間に,ベルリンが,
できない証券ビジネスのうち,一部が大銀行
国内と国際的取引の両方で最大のドイツ市場
内または大銀行間に内在化された。こうして
に成長したので,フランクフルト証券取引所
国際的証券というよりもドイツ国内の証券を
の取引高は,ドイツ総額の 10%にまで下が
主に取り扱うものとして,商業バンキングと
り,そして下がり続けた。(Michie 2006, p 97)
投資バンキングとの統合(ユニバーサル化)が
― 22 ―
北海学園大学経済論集
発展していった。というのはその統合は,課
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
の直接的参加(ドイツでは銀行は証券取引所の会
税と外部的監視の両方から,銀行による証券
員であった),そして鉄道網の国有化が,ドイ
取引活動を保護したからである。
ツの証券市場の発展を遅らせらせた。その代
ドイツの証券市場の国際的地位は,イギリ
わりに,ドイツの銀行は,ビジネス顧客に対
スやフランスとばかりではなく,またベル
して長期ローンを拡張することをつうじて国
ギーやスイス,オランダのような近隣諸国と
民経済の金融要求を満たすことにおいてより
もまた異なっていた。1913 年までにドイツ
大きな役割を演じることを余儀なくされた
のいたる所に普及した 24 件の証券取引所が
(Michie 2006, 98)。しかし特に 1880 年代以降,
あったが,しかし多くはそれら自身の地域性
銀行は,預金者が金融危機の最中に彼らの貯
を超える重要性をほとんどもたなかった。最
金を引き上げるために殺到する場合に伴うリ
大の地域的証券市場の一つであるフランクフ
スクを回避するために,長期ローンに代えて,
ルトの国民的な取引高に占める割合は,1901
証券の発行と取引を投資バンキングに任せた。
年と 1913 年間で 5 %に過ぎなかった。この
けっきょくはドイツでもイギリスと同様に
ことがベルリンをドイツ内の支配的な証券市
― 国家の非直接的無意識的影響のもとに
場にさせた。1900 年と 1913 年の間に 355.1
― 預金・商業バンキングおよび投資バンキ
億マルクの価値をもつ証券がベルリン証券取
ングの両方が同時的に発展していった
引所で発行されたが,これはドイツの証券市
(Michie 2006, 98)。ドイツでも,工業化のより
場におけるベルリンの重要性を示すものであ
後の段階においてであるが,ユニバーサルバ
る。しかしながら,これらの内 83%は,国
ンキングと証券取引所との共存共栄の関係が
内的なものであり,18%が外国のものであっ
発展した。結果としてベルリンの大銀行と証
た。このことは,国際的市場としてはドイツ
券取引所がドイツ国内にもたらす貨幣市場と
をして,ロンドンあるいはパリ,あるいはア
資本市場との相乗効果は,ロンドン,パリ,
ムステルダムに対してさえ,重要性を非常に
ニューヨークなどの大銀行(貨幣市場)と証
引き下げることになる。実際にベルリンは,
券取引所(資本市場)とによる世界的なレッ
取引所法が施行される 1897 年以降,国際市
セフェール金融システムを補完するものとし
場としては,下り坂にあった。発行総額にし
て,国際的に機能することになる。
め る 外 国 証 券・株 券 の 割 合 は,1883 年 と
1897 年の間では,35%であったが,それは,
1897 年と 1913 年の間では,絶対額では幾分
増大したが,10%にまで下がった。ベルリン
( 5 )貨幣市場と資本市場の統合
{世界証券市場の発展}
は,オーストラリア政府の負債を取引する主
真に国際的重要性を有する証券取引所は,
要な外国用センターとしては,フランクフル
ロンドン,ニューヨーク,パリ,ベルリン,
トを追い抜いたが,ロシア証券のために持っ
ウイーン,フランクフルト・オン・マイン,
ていた地位を 1890 年代にロシアに譲った。
ブリュッセル,アムステルダムのものであっ
それに代わって,ベルリンはますますドイツ
た。ロンドン証券取引所がこれらすべてを超
企業の株式証券のための市場になっていった
えていた。これらの取引所の間で取引される
(Michie 2006, p 145?)。
証券,国債,合衆国の鉄道株そして南アフリ
証券市場の発展にいかなる類の政府介入も
カ鉱山株は特に国際的性格が強かった。これ
なかったイギリスと対照的に,工業化の初期
らの証券取引所は国際的に重要であったとい
では課税と立法の結合,証券取引所への銀行
うのは,西ヨーロッパの場合のように,資本
レッセフェール金融市場システム(河西)
― 23 ―
の輸出のために利用されるのであれ,あるい
フラ・プロジェクトや地中の鉱物と石油の開
は合衆国の場合のように資本の輸入のために
発のために融資する世界中に広がった資金の
利用されるのであれ,世界中の投資家が興味
運動の手段となった。貨幣および資本の両市
を引く,特に政府や鉄道によって発行される
場の働き,そしてバンキングシステムのス
証券のための市場を提供したからである。そ
ムーズな機能が証券市場が提供する流動性に
れぞれの証券取引所において取引値段がつけ
著しく依存するようになった。一般的なバラ
られる証券が外国の投資家の関心事となり,
ンスが,ますます複雑になる世界市場経済で
対外的な売り買いのまととなった。ますます
発生する無数の取引において達成されたが,
増大するさまざまな証券取引所間の買いと売
それは唯一,世界中の証券市場で行われる不
り,または鞘取り売買(同じ証券を異なる市場
断の売りと買いを通じてであった。最終的に,
において同時に売買し,市場間の価格差を利用して
証券市場は,証券取引所の形態を通じて,世
利益をうること)が,同じ証券はそれが取引さ
界のすべての主要な金融センターのすべてと
れるどんな市場であれ,同等の価格が強制さ
マイナーな金融センターのほとんどにおいて
れることを保証した。
自らの存在を確立した。これらの証券取引所
証券取引所が最大のまた最も広範囲に保有
を通じて,世界証券市場は,世界中で株券と
される証券に与える市場性と流動性は,これ
債券の取引を早く,安く,容易にし,信用し
らの証券を資本市場についてと同じほど大き
うるものにする安定性,組織性を有し,そし
く貨幣市場の媒介手段とさせる。政府や会社
て日常的な経験を通じて知識を集積するもの
は,買い戻せないかまたは将来の明確な日付
となった。証券の売りと買いに付属して,ほ
において満期になるか,いずれかの証券を発
かの資産が持ちえないような即時性と確実性
行するが,証券取引所を通じてのその移転の
が存在したが,このことが証券に貨幣自身に
容易さは,発行され流通するそれら証券がま
類似する能力を与えた(Michie 2006, 119)。
た,魅力的な短期投資(物)であることを意
味する。結果的に,銀行や保険会社のような
{レッセフェール金融市場の三条件}
金融仲介者は,一時的に遊休資金を,このよ
最終的に世界証券市場それゆえまたレッセ
うな証券の購入のために ― 現金が必要な時
フェール世界金融システムを可能にした条件
には即座に売却しうるという確信において
は次の三つであった。第一に,貨幣と資本の
― 用いる。このように証券取引所の国際的
ための市場は,世界的な電信ネットワークの
重要性は,中心的な取引所および手形交換所
能力と範囲が,特に多数の海底ケーブルをつ
を提供すると同時に,貨幣市場と資本市場と
うじて拡大し続け,サービスの提供がより安
を相互作用させる点において活動するという
くかつよりスピードを増したので,ますます
事実に基づいている(Michie 2006, 149)。
世界的に統合されるようになった。ロンド
1914 年まで証券市場は最先進国経済の金
ン・ニューヨーク間のコミニケーションは,
融システムで重要な役割を演じ,そして発展
1911 年までに,片道で 30 秒にまで引き下げ
途上国内に鉱山業など得意分野を確立させた。
られ,費用も,1866 年レベルの 0.5%に低下
万能手段というには程遠いが,証券市場を通
した。加えて,1906 年の熱電子管の発明に
じて,政府とビジネスは資金を調達し,人々
よって,電話が遠距離コミュニケーションに
は貯蓄を運用し,証券は最も洗練された借り
とってますます便利になった。その結果,世
手と投資家の間への高レベルの市場浸透を成
界は地方から全国的へさらに国際的へと広が
し遂げた。国際的には証券市場は重要なイン
る,途切れのない急速で即時のコミュニケー
― 24 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
ション手段を有することになった。ロンド
で広範囲にわたって用いられた。このことが
ン・パリ間あるいはニューヨーク・モントリ
国際的な金融(資本と貨幣)の流れに高度な安
オール間では,公開電話線によって,途切れ
定性をもたらし,世界的ベースで行われる証
なく送受信できるコミュニケーションが可能
券の買いと売りに伴う多くのリスクを除去し
になり,電信の利用の際に生じる僅かな遅延
た。投資家は,株式や債券を,その価格は不
時間も除去されるようになった。1909 年に
利な為替動向によって破壊されることはない
は,マドリッド・バルセロナ間,そしてマド
という確実な知識のもとに売買することがで
リッド・パリ間に電話連結が確立した。1909
きた。このことは,合衆国ドル建ての株式や
年までにロンドン証券取引所の会員は,就業
債券のように,投資家の自国通貨以外の通貨
日には刻々と,大陸ヨーロッパの主要な伝達
建ての証券の場合にも,あるいは,イギリ
者であるアムステルダム,ベルリン,ブルッ
ス・ポンドのような国際通貨を用いるが,利
セル,フランクフルト,そしてパリの証券取
子や配当の支払い,ローンの返済に当てられ
引所の会員に対して電報を送信しあるいは受
る外国からの資金の受領に依存する証券の場
信した。ロンドン・ニューヨーク間では,電
合にも当てはまった。投資家は,基本的な投
報のやりとりは,たいていは特に両センター
資に伴うリスクだけをじっくり考えるだけで
で同時に取引が行われる時間帯に集中したが,
よかった。同様に,借り手も,為替レートの
就業日を通じて 6 秒毎に一回の割合で行われ
不利な動向によって,外部に保有される証券
た。
に対して債務返済を行ったり,あるいは払い
このようなコミュニケーションは,世界的
戻しをする上で,困難に陥ることは決してな
な証券市場の働きにとっては,基本的な要因
いことを当然にも確信していた。このような
であり,情報と注文が取引市場間を絶え間な
環境の下では,外国での証券発行は,より低
く流通して,絶えず続く調整過程を可能にし
い利子率で,より大きな資金プールを利用す
た。絶え間なく続く売りと買いは,それぞれ
ることを可能にする一方で,国内でそうする
の市場が常に他の市場で何が起こっているか
よりも大きなリスクをもたらすことはなかっ
を知り,それに対応するよう余儀なくされる
た(Miche 2006. 132-3)。
ことを保証した。しかしコミュニケーション
第三に,以上の状況に大きく貢献するもの
および売りと買いの調整のスピードは,たし
として,政府の ― なしたこととなさなかっ
かに一つの要因であったが,もし他の二つの
たことの両方で(国家のいわゆる非直接的無意識
条件が存在しなければ,ほとんど無価値なも
的影響)― 大きな役割があった。1900 年か
のになったであろう(Miche 2006. 131)。
ら 1914 年の一次大戦勃発までの時代は,国
第二に,1900 年から 1914 年まで,世界的
内的と国際的の両方にわたる無類の経済的リ
な規模で通貨の安定が存在していた。銀によ
ベラリズムの時代であった。このことは,為
るアジア通貨の価値下落は,ラテンアメリカ
替管理が存在せず,そして貨幣の自由移動に
の為替レートの不安定度と同じく問題であっ
対するその他の障害がほとんどななかったこ
たが,この時までに世界のほとんどは,金本
とによって証明される。投資家や貯蓄者は資
位制を採用していた。結果として,ドル,ポ
金をどこであろうと望むところに提供する比
ンド,フラン,そしてマルクといった主要な
較的に自由な手綱を与えられた。さらに積極
通貨間においては,為替レートはほとんど変
的には,金本位制の適用と固定為替レートの
動しなかったし,これらの通貨,特にポンド
維持は,特に外国の投資家の権利が配慮され
はどんな国であれ世界中で交易と投資の目的
たので,一般的に国際的な金融の流れを後押
レッセフェール金融市場システム(河西)
― 25 ―
しした。また広大なヨーロッパ人帝国の存在
適度に自由に機能することを可能にした。同
― そこではしばしば本国と同じ通貨と法律
時に,証券取引所の形で公式的な組織が存在
が普及していた ― によって,貨幣が,国内
することは,取引が秩序だった環境の中で行
でと同じように容易に海外で流通する状況が
われるので,投資家が投資し,借り手が証券
作り出された。しかしながら帝国は,この状
を発行するために必要な信頼を生み出すこと
況における本質的な構成要因ではなかった。
を意味した。結果として,1900 年と 1914 年
政治上,経済上,そして金融上の安定性が重
の間において,世界的証券市場は,国民的国
要な要因であったからである。国際的な金融
際的の両レベルで貨幣と資本の市場間にきわ
の流れについて単一で最大の行き先は合衆国
めて重要な共通領域をもたらし,最終的に資
でありロシアであったが,いずれも帝国の一
本主義的世界の中央機関のひとつになった。
部ではなく,またそれぞれが自国の通貨を有
その過程で,この世界的市場は,世界の鉄道
していた。大英帝国の中であってさえ資金の
システムの金融のために必要とされる巨額な
最大の流れは,カナダ向けであったし,そこ
貨幣の動員を促進し,そして世界通貨システ
ではポンドでなくドルで取引が行われた。一
ムの安定のために著しく寄与した。
方,オーストラリアは,アルジェンチンのよ
この世界証券市場の存在は,国民的金融シ
うななんらかの非メンバー国以上の有利性が
ステム間の多様性にもかかわらず,それぞれ
あったわけではない。明らかに政治的調整は
が適度に安定することを保証した。合衆国で
世界証券市場の創設に寄与したが,それは,
はじまった 1907 年金融危機でさえ,その極
金融上,通貨上の安定性からくる信頼以上に
端な結果を消散させるその世界的市場の存在
証券市場にとって重要なものであるとは決し
を通じて比較的容易に克服された。このこと
ていえなかった。たとへば,合衆国は 1890
は,合衆国当局に,それ自身連邦と州への過
年代までは,銀の採掘可能性による通貨の価
去の介入の産物であるそれらの独自の金融構
値に関する疑いや,また鉄道の金融スキャン
造における改善を計画する時間を残した。そ
ダルによるコーポレートガバナンスに関する
の結果は,1913 年における連邦準備制度の
懸念の故に,外国からの投資を惹きつけるこ
創設であった。一般的にはそれぞれの国にお
とができなかった。1900 年以後これらの問
いて,銀行家やブローカーが,安全性と有益
題が解決されて初めて外国からの投資が回復
性の両方で何がなされうるかを学び,それに
した(Miche 2006. 132-3)。
したがって彼らの戦略を考案した。個々の失
敗は,特定な銀行家やブローカーがリスクを
{資本主義世界の中心機構とその後}
とり,予期しない出来事によって引き起こさ
1914 年までにひとつの世界が存在してい
れたが,いずれかの金融市場システムが突然
た。その世界内で,個々の証券取引所は,政
の崩壊の傾向にあるような兆候はほとんど存
府,金融機関または国際的機関から発する中
在しなかった。それぞれのシステムは,実務
央集権的な方向づけやコントロールの必要性
家の蓄積された経験と,彼らがその一定の周
もないまま十分に機能する世界証券市場を生
知のパラメーター内での活動するその結果を
み出すものとして,互いに競争し,協同し,
予想する上での確信にもとづいていた
補い合いあった。政府の介入は存在しひずみ
(Michie 2006. 154)。しかしながら,第一次大戦
をもたらしたとはいえ,その干渉のレベルは
をもって以上の資本主義世界の中心機関は,
低かったので,ほとんど障害をもたらすこと
それを支えた金本位制や経済的リベラリズム
もなく,市場が国民的国際的の両レベルで,
とともに,永久に崩壊した。
― 26 ―
北海学園大学経済論集
第 63 巻第 3 号(2015 年 12 月)
21 世紀の始まりまでに,世界的証券市場
あったように,基幹的な構成要素ではない。
は,その重要な国民的および国際的地位を再
現在では,証券市場のみならずまた貨幣,資
生させた。しかしその内部において世界的証
本,外国為替のための市場の機能の多くを内
券市場が活動するその諸条件は,現在では,
部化できる活動の世界的ネットワークをもつ
一次大戦前とは根本的に異なっている。情報
銀行やブローカーが存在している。このこと
および算術技術の継続的な発展は,世界中で
が,国民的証券取引所と国民的政府の両方の
参加者をリンクする電子的商品売買の創設を
権力に対して重大な脅威を引き起こす。それ
可能にした。もやは物理的なトレーデングフ
に対する証券市場の対応は,その活動を国際
ロアは必要ないが,このことが世界の証券取
化し,証券取引所の制度的構造を国際化する
引所の多くによって占有されている重要な地
ことであった。それと対照的に,諸政府は,
位を危険にさらし,そして多数の地方の証券
国際的規制を促進したのであって,国民的コ
取引所の閉鎖をもたらしている。電子革命は
ントロールの放棄はますます考えられなく
また,これらの設立されて久しい取引所の
なった(Michie 2006. 15)
。
ルールや規制を含むいかなる取引上の束縛を
も除去して,世界中における政府の積極的介
〈参 考 文 献〉
入と結びついた。1914 年以来,そして特に
1945 年以降,証券取引所は,金融システム
の規制において擬似的に公的地位を占有する
官僚的組織にますますなってきた。このこと
は 20 世紀末葉のよりオープンな経済とは両
立できないので,公式的に組織化された証券
取引所は,非公式市場や電子取引に敗北し,
その重要な地位を回復させるためばかりでな
く,それらがまだ持っているものを保持する
ためにも戦わなければならなかった。結果的
Brian R. CHEFFINS (2008) Corporate Ownership
and Control British Business Transformed.
Caroline Fohlin (2007) Finance Capitalism and
Germanyʟ
s Rise to Industrial CAMBRIDGE
Ranald C.. Michie 2006. The Global Securities
Market; A History
C., Michie, Ranald (2003) 2. Banks and Securities
1870-1914, Douglas J. Forsyth and Daniel Verdier
(editors), The Orogins of National Financial
Systems.
に,20 世紀の最後の二十年に,世界的証券
D. Verdier (2003) Explaning cross-national variation
市場は劇的に復活したが,それらは,既存の
in universal banking in nineteeth-century Europe,
証券取引所に対して重大な挑戦を生み出した。
結果として生じた事態は,世界的証券市場に
おける構成と構造における根本的な変化であ
る。もはや証券取引所は,一世紀前にそうで
North America And Australasia. Douglas J.
Forsyth and Daniel Verdier (editors), The Origins
of National Financial Systems.
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