Comments
Description
Transcript
教育臨床および心理臨床における「ことば」について
千葉大学教育学部研究紀要 第5 9巻 3 5∼4 1頁(2 0 1 1) 教育臨床および心理臨床における「ことば」について ―父性的言語と母性的言語― 磯 邉 聡 千葉大学大学院・教育学研究科 On the Words in Clinical Education and Psychotherapy ―Paternal Words and Maternal Words― ISOBE Satoshi Graduate School of Education, Chiba University, Japan 教育臨床においてことばは重要な媒介物である。本稿ではことばをシニフィアン―シニフィエの明瞭度・強度とい う観点から検討を加え,ことばには4つの領域が仮定できることを指摘した。またこのモデルにしたがって教育臨床 および心理臨床のことばを検討した結果,教師は教師モードのことば,そして心理臨床家は臨床家モードのことばと いう機能の異なることばを主として使用し,前者は「父性的言語」,後者は「母性的言語」としての諸特徴を持って いることを指摘した。さらに考察では,自らのことばを知り幅を広げる工夫をすることの大切さ,現場に応じたこと ばを使用することの重要性を論じた。 キーワード:ことば(word) 心理臨床(psychotherapy) 教育臨床(clinical education) ソシュール(Saussure) が大きく異なることに改めて気づかされた。 心理臨床において,あることばがいかに聞き届けられ るかという問題は,)セラピストとクライエントの状態 や関係性,*語られる文言や文章の形式,+そこに込め られた意味内容,,語りの様態(ありよう)という4点 に大きく規定される。つまり,)両者がどのような関係 で,*どんな文言や文法で,+どんな内容を,,どんな 様態でいかに伝えようとしたか,によって受け取り側の 体験が大きく変わってくる。同じことばを用いたとして も両者の関係が異なれば伝わり方はまったく違うし,同 じ関係性であってもどのような形式で語られるかによっ て受け取り側の体験は異なる。 もちろん,これらの4者はクリアに分離できるような ものではなく,それぞれが関連し合って心理臨床という 「場」を構築しているのだが,ことばに関してこのよう な観点と関心を持ち続けることは臨床の質を高めること につながる。 ところで筆者は病院臨床を起点として臨床活動を続け てきたが,スクールカウンセラーとして教育現場,とり わけ学校場面に足を踏み入れたとき,教師が用いること ばがわれわれ心理臨床家が慣れ親しんでいたことばとど こか異なる印象を抱いたことを覚えている。同じように 「あなたはそう思ったんだね」と明確化を行うにしても, 心理臨床家と教師のそれでは些細ではあるが何か質的な 違いがあるように感じられたのだ。その時抱いた,「心 理臨床のことばと教育臨床のことばには何か違いがある のかもしれない」 ,という素朴な着想が本稿の出発点で ある。すなわち本稿では,臨床場面のことばのありよう について考えてみたい。 ¿.はじめに すべての心理臨床あるいは教育臨床の実践には,援助 者とクライエント(児童生徒等)をつなぐものとして言 語を主たる媒介としたメッセージのやりとりが存在して いる。その意味でもことばの諸相に関心を持ち,自らの ことばを研く工夫を積み重ねることは臨床そのものを省 みる営みといえるだろう。 筆者はかつて,精神科医の神田橋條治氏がある研究会 の席で,「境界例の患者さんたちは,否定形の文章を浴 びて育ってきた過去を持つ人が多いから,援助者はなる べく肯定型で語りかけるのが大事だと思うんだ。例えば ・・ 『あなたにはきちんと管理できないから,この薬は出せ ・・ ない』と言うと否定形が二つもあるでしょ。それに対し て『あなたがある程度お薬を管理できるなら,これを処 方することができるよ』と言えば,同じ内容を肯定型だ けで伝えられるよね」 ,「不安に耐えられないほど自我が 脆弱な患者さんに語るときはなるべく不安を喚起しない 形がいいよ。例えば『あなたはきっと社会に出なくても いいかもしれないと思っているんじゃないかと,ボクは 思うんだよね』と言うと,前半の意味内容を誰が思って いるのかと不安を抱えながら聞き続け,最後に,あぁこ れは先生が思っていることなんだとわかるけど,これを 『あのね,ボク思うんだけど,あなたは社会に出なくて もいいと思ってるんじゃないかな』と,I think that…… という形式で言うと,ここから先は先生が思っているこ とがらなんだ,と安心して聞くことができるよね」 ,な どとコメントするのを聞き,同じ意味内容でもそれがど のように表現されるかによってクライエントの心的体験 著者連絡先:磯邉 聡 3 5 千葉大学教育学部研究紀要 第5 9巻 ¿:教育科学系 り具合,などの変化に関心を向けながら面接を行ってい る。これによって同じ「あぁ,そうかぁ」ということば もグラデーションに富んだものとなる。 このようなヴォーカル,あるいは鳴き声としてのこと ばは,臨床家の身体と十分響き合い,臨床家の内側から 自然に発せられた生き生きとしたものでなくてはならな い。このことを精神科医の成田や神田橋は次のように述 べている。 À.心理臨床における「ことば」 心理臨床におけることばの重要性に関しては,すでに 数多くの議論が交わされているが,村瀬はいずれの立場 においてもこの問題に関心を寄せることの大切さを以下 のように指摘している。 さまざまな非言語的接近や行動療法を行う場合でも,言語的関 わりは多かれ少なかれ含まれており,かつクライエントの心的体 験を言語化へ導いていくことは重要な課題である。さて,このよ ひとりひとりの患者のそのときそのときのさまざまな感情とそ うに言語表現が心理治療において中核的役割を担うものでありな の重みをわからなくてはならない。それがわかるためには,治療 がら,ことばが時としておろそかに扱われ,治療者の発すること 者の研ぎ澄まされた感受性と豊かな共感能力が必要である。そし ばがクライエントの心に届いていないという事態を散見すること て,治療者がどうわかったかを患者に伝えうるためには,感情と がある。(村瀬,1996) その微妙なひだを的確に描写しうる豊かで生き生きしたことばを 持っていなくてはならない。 (成田,1 9 8 1) 村瀬が指摘する通り,すべての心理療法的接近,換言 すれば対人コミュニケーションを基礎とする援助的関わ りには,程度の差こそあれ,ことばを媒介としたやりと りが必ず内包されており,すべての臨床家は自らの(あ るいはクライエントの)ことばについて丁寧な吟味を行 う必要がある。 では臨床場面におけることばはどのような観点から捉 えることができるだろうか。アメリカの精神分析医であ るサリバンは言語活動の諸側面に関して次のように論じ た。 体験から遠い記述と体験に近い記述……,できるだけ体験に近 いことばを使うようにしていくと,だんだんとことばが上手にな る。 (神田橋,1 9 92) いっぽう,具体的にどのような文言や文法を使用する のかという実際的な問題も重要であり,これを単に技法 上の問題であると切り捨てることはできない。なぜなら そこにこそ心理臨床家の姿勢が端的に表出されるからで ある。事実,このようなことばの使用法を主たるテーマ とした著作も多くあり,例えば妙木(2 0 0 5)は精神分析 の立場から関係性の諸相とことばの関係について論じ, 統合的な心理療法を標榜するワクテル(2 0 0 4)もさまざ まな心理臨床の場面におけることばの効力について綿密 な検討を行っている。 また,上述の村瀬や成田もことばの選び方について次 のように記している。 精神医学的面接についての私の定義はまず,「精神医学的面接と はすぐれて音声的(ヴォーカル)なコミュニケーションの場であ る」と述べる。「もっぱら言語的(ヴァーバル)なコミュニケーショ ンの場だ」と述べていないのに注目して欲しい。……イントネー ション,話す早さ,あることばに来るとつかえることなどには話 し手(の意図)を裏切って,(そのこころの)秘密を明かすという 面がある。(サリバン,19 86) 治療者が「不思議がる」ときに,患者を外から見て「そこが矛 いっぱんに,ことばによるコミュニケーションはバー バル(言語的)およびノンバーバル(非言語的)の二側 面から捉えられることが多いが,サリバンは第3の視点, すなわち音声的(ヴォーカル)コミュニケーションの存 在とその重要性を指摘している。そこでは「何が」語ら れたかではなく,「いかに」語られたかという発声行為 の様態がセラピストおよびクライエントの内的世界を色 濃く映し出すという。 神田橋はこのような発声行為の様態を「鳴き声」と呼 び,次のように述べている。 盾している」 「そこがおかしい」と批判あるいは断罪するのではな 人を動物界の種,ヒトとして考えるときは,語られることばを このように心理臨床におけることばは多面的な理解と 錬磨を積み重ねることで治療的な特性を備え,深みを増 してゆく。 鳴き声の一種として取り扱うのが正しい。鳴き声が伝えてくるも のは,現在の状態であり,その内容は,生体機能と,情動の状態 く,本来患者のなかに存在しているはずの観察自我(内省能力, 自己批判能力)に治療者が身を寄せて, 「不思議だね,どうなって いるのだろうね?」とつぶやくのである。 (成田,1 9 9 0) 「お話をきいていると,私には○○○○○のように思われるので すがいかがでしょう。 」と語りかけるのは,これは治療者の推測な のだがという控えめな印象を相手に与え,一方的にわかられてし まう,評価されるというより,何か分かちあえる,通じ合えると いう気持ちになってもらえるだろう。 (村瀬,1 9 9 6) と,ごく単純な意志決定とである。(神田橋,198 4) 語られることばにはプレ・バーバルな鳴き声部分と,人間がイ メージ伝達に使う言語内容とがある,ということである。(神田橋, Á.ソシュールの記号論 では,本稿の関心事である臨床場面におけることばに ついてどのように考えればよいのだろうか。ここではこ の問題をスイスの言語学者であるフェルディナン・ド・ ソシュールFerdinand de Saussure(18 5 7―1 9 1 3)の記号 1990) 実際,筆者も臨床場面において,声のトーン,重心, 抑揚,語る速度,どこに向かって語るか,響き具合,曇 3 6 教育臨床および心理臨床における「ことば」について 論を手がかりに考えてみたい。ソシュールはジュネーブ 生まれの言語学者で早熟の天才といわれた人物である。 当時の言語学界が歴史言語学や比較言語学といったこと ばの相似性や系譜などの形式的あるいは表面的なことが らを扱っていたのに対し,ソシュールはさらに高次の観 点から言語をひとつの記号と捉え,記号学そして構造主 義という思想的潮流を作り出した。この記号学および構 造主義は,われわれが無自覚に用いている言語に「構造」 が潜在し,われわれの諸活動はその「構造」によって大 きく支配されているということを発見した点で,フロイ トによって成し遂げられた無意識の発見と並んで近代の 主知主義哲学を根本的に覆し,きわめて強いインパクト を与えた思想である。 ソシュールが主張した論点をごく簡単に紹介すると次 のとおりである(ソシュール,1 9 4 9;丸山,1 9 8 5) 。 )言語(ランガージュ)は多種多様な国語体(ラング) と,具体的音声の連続(パロール)からなる。ラング に従ってパロールが発せられるが,それは同時にラン グを変更する力を持つ。スタティックなラングとダイ ナミックなパロールは別々に研究される必要がある。 *ことばは否定性を持つ価値(関係性)の体系である。 あることばは,それを指すのではなく,それ以外のも のではないということを指し,結果的にそれは関係性 の中でのみ意味を持ちうる。例えば,「赤ボールペン」 ということばは「青ボールペン」や「黒ボールペン」 ではないという意味において初めて価値を持ちうる。 +記号は恣意性を持つ。あることばと意味は本来なんの 関係もない。しかしひとたびそれらが結びつくとこと ばと意味は実態となり表裏一体の関係となる。 これらはどれも重要な指摘であるが,本稿では+「記 号は恣意性を持つ」という点に着目して考察を進めたい。 記号が恣意性を持つということは,例えば,「ペン」と いうことば(文字・音声等)とまさにそこに存在する「ペ ンそのもの」とは,始めはなんの関連も持っていなかっ たということを意味している。つまり「ペンそのもの」 を指すことばは例えば「イヌ」「ブランコ」など別のも のでもよかった。しかしひとたび「ペン」ということば がその「ペンそのもの」に名伏されると「ペン」という 音声や文字はまさに「ペンそのもの」を指すようになり, 「ペン」ということばによってはじめて「ペンそのもの」 が同定されるようになる。このようにことば(すなわち 指し示すもの)は意味(すなわち指し示される内容)と 分かちがたく結びついており,どちらかのみが単独で成 立することはない。 ソシュールはこのような言語の構造を明らかにし,こ とばを二つの要素から構成される「記号」として捉えた (図1) 。つまり,言語記号(signeシーニュ)は,意味 するもの(signifiantシニフィアン:能記)と意味され るもの(signifiéシニフィエ:所記)からなっており, それは紙の表裏のように切り離すことが出来ない構造を 図1 言語記号の構造 3 7 していると指摘した。 Â.ことばをめぐる4領域 前節ではソシュールの記号論について触れ,言語記号 (シーニュ)が意味するもの(シニフィアン)と意味さ れるもの(シニフィエ) から構成されていることを論じた。 次にこのモデルを臨床場面と照合しながら考えてみた い。 例1) 虐待傾向のある家庭で育った小学5年生女児。外部機関 でのプレイセラピーでセラピストにこうつぶやいた「 (セラピスト の)先生から『いい子ね』と言われると嬉しくなるけど,お母さ んから『いい子ね』と言われても,それがどういう意味なのか全 然わからないの……」 。 この事例では,母親とセラピストによって同じシニ フィアン(いい子ね)が用いられているが,クライエン トの体験は大きく異なっている。女児はセラピストのこ とばから明確な意味を読み取ったが,母親のことばから はそれができなかった。つまり,この事例では,セラピ ストから女児に発せられた(A)というシニフィアンが, (A′ )というシニフィエを生みだしたのに対し,母親 が発した(A) というシニフィアンからは明確なシニフィ エが生みだされなかった(O / )ことを意味している。 このように,臨床場面においては同じシニフィアンを 用いたとしても,明確なシニフィエが伴う場合もあれば, そうではない場合もあり得る。つまり,臨床で用いられ ることばには,シニフィエとしての明瞭度の高さ(低さ) や強さ(弱さ)という軸が存在する。 もう一つ例を挙げたい。 例2) 進路に悩む不登校傾向の中学3年生男子。スクールカウ ンセラーとの面接で次のように語った。 「担任の先生は, 『今のキ ミにはサポート校が一番よい選択肢だと思うぞ』とはっきり言っ てくれるけど, (カウンセラーの)先生ははっきり言ってくれない ですよね。でも,具体的なことばはよく思い出せないけれども, 先生は,ボクの行きたいところが一番だよ,と後押ししてくれて いるようで心強いです」 。 この例では教師とカウンセラーの伝えたい内容は生徒 にはっきりと伝わっていた。つまり,双方とも明瞭なシ ニフィエが伴っていたといえる。一方で両者が用いたこ とばは対照的である。教師ははっきりとしたことばで意 見を伝え,それが「先生は,あのときあのことばで,あ の表情でボクに語った」とシンボルやアイコンとして生 徒の記憶像に強く残っていたのに対し,カウンセラーの ことばは,いつどのように語られたのかはっきり思い出 せないという。 このように,あるシニフィエを伴ったことばが,明瞭 なシニフィアンとして体験されることもあれば,不明瞭 な場合もある。つまり,臨床で用いられることばには, シニフィアンとしての明瞭度の高さ(低さ)や強さ(弱 さ)という軸が存在する。 これらのことをまとめると,シニフィアン,シニフィ 千葉大学教育学部研究紀要 第5 9巻 ¿:教育科学系 エにはそれぞれ明瞭度あるいは強度という属性があり, 臨床におけることばを検討する際にはこれらの強さやバ ランスを考慮する必要があるといえるだろう。つまり, 臨床におけることばは次の観点から検討することができ る。 )シニフィアンとしての強さ,明瞭度はどうか あることばが,音声的・文字的にはっきりと明示的に 提示されるかどうか。例えば,大きな声ではっきりと明 瞭に「それはいけない」と語る場合,そのことばは高い シンボル性を持ちアイコンとして記憶像に残りやすく, シニフィアンとしての明瞭度が高い,つまり「言語明瞭」 なことばといえる。逆に,聞き取れないような小さい声 で,もごもごと「それは……いけ……ない……」と語る ような場合,そのことばはシンボルやアイコンとして記 憶像に残りにくく,シニフィアンとしての明瞭度が低い, つまり「言語不明瞭」なことばといえる。 *シニフィエとしての強さ,明瞭度はどうか ことばに載せられた意味内容が,明確に看取されるか どうか。あるいは,ことばに意味内容がはっきりと伴っ ているかどうか。例えば,聴き手が「あぁ,この人は『あ なたの決断でいいんだよ』と私に伝えようとしているん だなぁ」と,込められたメッセージをはっきりと感じ取 ることができたとき,語られたことばはシニフィエとし ての明瞭度が高い,換言すれば「意味明瞭」なことばと いえるだろう。逆に,聴き手が「ことばはたくさん継い でいるけれども,語り手は一体何を伝えたい ん だ ろ う……」とメッセージを感じ取ることができないとき, そのことばはシニフィエとしての明瞭度が低い,つまり 「意味不明瞭」なことばということができる。 このように,シニフィアンの明瞭度とシニフィエの明 瞭度をそれぞれ組み合わせると,次の4領域が仮定でき る。 図2 ことばの4領域 第¿領域:シニフィアン強度・明瞭度が大きく,シニ フィエ強度・明瞭度が小さいことば これはことばのシンボル的な明瞭度が高い一方で意味 性が弱いことばである。「言語明瞭,意味不明瞭」 。こと ば自体ははっきりしているのにその意味が伝わってこな い,あるいは意味が分かりにくいことば。お題目ばかり で,伝わってこないことば。こころや気持ちが込められ ていないことば。ことばは存在するが意味が伴わないこ 3 8 とば。表面的なことば。 極端な例として,強迫神経症者の強迫観念などをあげ ることができる。なぜだかわからないけれどもある特定 のことばや観念・イメージばかりが思い出されてしまう。 意味を失ったことば。フラッシュバックのときの強烈な イメージ。 第À領域:シニフィアン強度・明瞭度が小さく,シニ フィエ強度・明瞭度も小さいことば これは,ことばのシンボル的な明瞭度と意味性の両方 が乏しいことばである。「言語不明瞭,意味不明瞭」 。も ごもごしていて意味もよくわからないことば。曖昧なこ とば。語っている姿や文言がシンボルとして記憶像に残 りづらいだけでなく,それがいかなる意味を伝えようと していたのかさえ判然としないことば。暗騒音のことば。 極端な例としては雑踏での人々の会話の音や,ホール や教室でざわざわしている音などがあげられる。確かに そこにことばとしての音はあるがその輪郭はふやけ,切 り取られ,明確なことばとして記憶像に残らない。そし てそのことがどのような意味を持っているのかも分から ないことばである。 第Á領域:シニフィアン強度・明瞭度が大きく,シニ フィエ強度・明瞭度も大きいことば これは,ことばのシンボル的な明瞭度が高く,かつそ の意味性もはっきりとしていることばである。「言語明 瞭,意味明瞭」 。日常的なことばは大抵ここに入るだろ う。ニュースを読むアナウンサーのことばもはっきりと そして意味を違うことのないように発信されている点で ここに入る。シンボルとして記憶像にはっきりと残る明 確な発音や文字,イントネーション,姿などによって, 明瞭な意味やメッセージを伝えることば。 極端な例としては,「マンション建設反対!」といっ たスローガンのように,きわめて強く印象に残ることば や発音で,単純で明確なメッセージを伝える演説や,強 烈なシンボルを用いてマインドコントロールを行おうと する洗脳メッセージなどがあげられる。 一方,臨床場面でテクニックとして用いる一例として, 自殺念慮のあるクライエントに,はっきりした表情や口 調で「何があっても死なないでね」と自殺禁止の約束を 行うケースなどをあげることができる(これは,敢えて きわめて明確なシニフィアンを用いることで援助者像を シンボルとして記憶に刻み込むという,ある意味で力ず くで援助者を内在化させる方法といってもよい) 。 第Â領域:シニフィアン強度・明瞭度が小さく,シニ フィエ強度・明瞭度が大きいことば これはことばのシンボル的な明瞭度が乏しいものの, はっきりと意味内容が伝わることばである。「言語不明 瞭,意味明瞭」 。音声や言語性は曖昧で,ことばではな んといっていたのか思い出せず,シンボルやアイコンと して記憶像に明確に残っているわけではないが,相手の メッセージはじわじわとそして確かに伝わってくること ばである。このとき聴き手には,雰囲気や包まれている 感じ(一体感) ,そして意味性が強く体験される。 極端な例として,漠然とした不安,妄想や幻聴などを あげることができる。そこでは現実のはっきりした音声 的メッセージが存在しないにも関わらず,受け取り手は 教育臨床および心理臨床における「ことば」について 実に明瞭な意味(被害感であったり悪意 など) を読み取る。 Ã.教育臨床におけることば では,この4領域に基づいて教育臨床 のことばを検討してみたい。教師の使う ことばと心理臨床家が使うことばはそれ ぞれどこに位置づけられるのだろうか。 教師は,ある一定の内容(教科や指導, 的確な指示や禁止など)をある一定の構 造(授業時間,授業期間など)のなかで, 一定の集団(児童生徒)にできるだけ正 確に伝達するという機能が求められてい る。効率的で円滑な教育活動を実施する ためには,一斉指導や統制といったある種の非対称的な 権威関係が多少なりとも必要になる。このときに求めら れるのは,シンボルとして記憶に残りやすい表現で,明 瞭なメッセージ内容を伝達することばの使用である。つ まり,教師という職務の遂行にもっとも適していること ばは主として図2における第Á領域のことばであると考 えられる。記憶像に残りやすいシンボル性の高いはっき りしたことばや表現そして態度で明瞭な意味内容を伝え る。例えば,「1 6 0 0年に関ヶ原の戦いがあった。そこで 徳川家康率いる東軍が勝利した。ここ大事だよ」 ,「今の ままだと卒業は難しいですね」 ,「食事のときはみんなで, いただきますを言いましょう」などと明確なことばやハ イライトされた板書の文字などで明確な内容を伝えるこ とが重要である。そのときに,シンボル性の低いはっき りしないことばを用いたり,あるいは何を伝えたいのか 意味内容が不明瞭なことばを使用すると児童生徒は戸惑 い混乱する。場合によっては,クラス集団全体が悪性の 退行を示したり,学級崩壊に陥る危険性も生じる。 このように,教師はシニフィアン,シニフィエともに 高い明瞭度を持つことばを主として使用しているといえ る。ここではこれを「教師モードのことば」と名付ける ことにする。 一方,心理臨床家の用いることばはどうであろうか。 先の,成田,村瀬,神田橋,サリバンなどの言説も踏ま えて考えると,必ずしも明瞭度は高くないものの(すな わちシンボル性は低いものの) ,しかし意味は伝わるよ うなことばを工夫しながら用いているといえるだろう。 つまり,心理臨床家が主として使用しているのはシニ フィアンの明瞭度が低く,シニフィエの明瞭度が高いこ とばである。「あぁ,なるほどねぇ……」 「ふーん。あな たはそう感じたんだねぇ」 「そうかぁ。それがイヤだっ たんだぁ」 。発音はいくぶんくぐもり,落ち着いたトー ンと少し低い声で,頭や耳ではなく心や身体にしっとり としみ込むような語り方(鳴き方)をする。そこにはで きるだけ特定のシンボルとして記憶像に残らないように シニフィアンの明瞭度を下げようという努力の痕跡さえ 認められることがある。いっぽう伝えたい意味は面接空 間に漂い,充満するような話し方をする。このときクラ イエントは,ホールディングされている感覚や間主観的 な体験を覚える。ここではこれを「臨床家モードのこと 3 9 図3 さまざまなことばと4領域 ば」と名付けたい。 これらの考察を図2に重ね合わせると図3のような位 置関係になる。 図3に示したように,教師が常に第Á領域のことばし か使用しない,あるいは心理臨床家だからといって第Â 領域ことばしか使用しないということではなく,それぞ れは一定の幅やふくらみを持っている。子ども達との関 係を良好に保ち,細やかな感性を持つ教員にはÂ領域の ことばを我がものとして用いている人もいるし,授業で は第Á領域を巧みに用い,いっぽう教育相談や個別対応 では第Â領域のことばを丁寧に用いる教員もいる。 同様に,心理臨床家も治療契約の際や,明確な意思表 示(例えば限界設定の伝達など)を行う際には第Á領域 のことばを意識的に用いることがある。さらに,そもそ もセラピーの立場として第Á領域のことばをもっぱら使 用する心理療法も存在する(例えば,行動療法や認知療 法などはどちらかといえば第Á領域のことばに親和性が 高いだろう) 。 では,「教師モードのことば」 「臨床家モードのことば」 , それぞれの特徴はどこにあるだろうか。この点について 対比的に考えてみたい。 ○教師モードのことばの特徴 事実や情報を伝達するのに長けている。 論理性や客観的な観点が強く体験される。 伝え手と受け取り手の境界線をはっきり引く(切断す る)機能を持っている。自他分化。 語る姿やありようが明瞭なシンボルやアイコンとして 記憶像に残りやすい。 上記の特徴から,「大丈夫だよ,と先生はあのとき笑 みを浮かべてボクに語りかけてくれた」といったシンボ ルやアイコンの内在化が生じる。このことで受け取り手 はいつでも記憶像を想起し,語り手と再会することがで きる。しかしながら一方で,「あのとき母が目を見開い て『おまえなんか生むんじゃなかった』と吐き捨てるよ うに言った姿がいまだに忘れられない」とトラウマの再 生産やフラッシュバックの源泉にもなりうる。すなわち, 治療的にも病因的にも作用しうる。 主に健康な自我に語りかける。自我進展機能(pro- 千葉大学教育学部研究紀要 第5 9巻 ¿:教育科学系 gression) 。二次過程を賦活。 このように教師モードのことばは,客観性や論理性が 優勢で,切断機能を持つことばであり,「父性的言語」 と呼べるだろう。 ○臨床家モードのことばの特徴 感情や感覚を伝達するのに長けている。 主に間主観性が強く体験される。 伝え手と受け取り手の境界線を曖昧にする機能を持っ ている。一体感。自他融合。 語り手のことばや姿が明瞭なシンボルやアイコンとし て記憶像に残りにくい。むしろ意味性が強く体験される。 上記の特徴から,「全体的に受容されている感じ」 「と もに同じ感覚や気持ちになっている感じ」といった雰囲 気や意味性が体験され,治療促進的な作用を生みだす。 しかしながら一方で,依存感情や欲動がかき立てられる 体験に無自覚に開かれてゆく可能性があり,悪性の退行 を引き起こすこともあり得る。すなわち治療的にも病因 的にも作用しうる。 主に無意識に語りかける。退行促進的(regression)。 一次過程を賦活。 このように臨床家モードのことばは,感情や感覚が優 勢で,自他境界を弱化させ包み込む機能を持つことばで ある。これはクライエントの主体性を回復し,成長を促 進させるという心理臨床の目標を達成する上で非常に有 効なモードのことばであり,「母性的言語」と呼べるだ ろう。 以上,教師モードのことばは父性的言語であり,臨床 家モードのことばは母性的言語であることを対比的に論 じ,それぞれの特徴を示した(表1) 。かつて筆者が感 じた教師のことばと心理臨床家のことばに微妙な違いは, 「父性的言語」と「母性的言語」の違いを感じ取ったも のだったといえるだろう。 表1 父性的言語と母性的言語の対比 父性的言語 教師モード 教師の職能に親和性 事実・知識・指示の伝達に 長ける 自他境界の明確化 シンボルとして記憶像に残 りやすい ときにトラウマをうむ病因 性を持つ 自我の進展を促進する 相対的に聴き手の主体性が 後退する 指導・助言・ガイダンスに 適する 母性的言語 臨床家モード カウンセラーの職能に親和 性 感情・感覚・意味の伝達に 長ける 自他境界の弱化,融合 シンボルとして記憶像に残 りにくい ときに悪性の退行を惹起す る 自我の退行を促進する 相対的に聴き手の主体性が せり出す 内省的心理療法に適する 的言語に親和性がある人が心理臨床家となった,という ケースも多くあるだろう。しかしいっぽうで,教師(あ るいはカウンセラー)という職業に就いた後,その職能 をより十全に発揮させるためにも,教師は父性的言語を, 心理臨床家は母性的言語を修得し研いていったプロセス もまたあるのではないだろうか。つまり,必要だからこ そそのことばが心身にしみこんでゆくのである。このこ とは逆にいえば,元来母性的言語に親和性がある人が教 師に就いたとき,あるいは父性的言語に親和性がある人 が心理臨床家となったときに,ある種の葛藤や苦悩,そ して困難さを生みだす可能性があることをも示唆してい る。 Ä.臨床とことば 本稿の最後として,ことばの4領域および「父性的言 語」 「母性的言語」という観点から臨床上のポイントを いくつか指摘したい。 ○自らのことばはどこに定位しているか 臨床におけることばは,シニフィアンとシニフィエの 明瞭度の組み合わせから4つの領域を仮定することがで き,それぞれの独自の機能と特徴を持っていることが示 された。教師のことばは主に第Á領域に広がっており 「父性的言語」と呼べるものであった。また,心理臨床 家のことばは主に第Â領域を中心に広がっており「母性 的言語」と呼びうるものであった。そして「父性的言語」 「母性的言語」はそれぞれ臨床上の特質を備えていた。 これらのことを認識した上で,自分が用いることばが この4領域のどのあたりに定位しているのかについて自 覚的になることはきわめて重要である。われわれには, 本来的に親和性を持っていることばがある。第Á領域の 右上のことば,すなわち洗脳的な調べを持ったことばを 得意とする人もいることだろう。あるいは第Â領域の右 下,すなわち自他未分化で不安を喚起するようなことば を知らず知らずに用いている人もいるだろう。自らの 「普段使いのことば」を内省し,その特質について精通 しておくことは,自らの臨床の姿勢の点検にもつながる。 ○ことばの幅を広げ,使い分ける工夫をする そして次に大切だと思われるのは,自らのことばの幅 を広げる工夫をすることであろう。自らの体験に問い合 わせ,その時にもっともふさわしいことばをくみ上げる。 そのすくい上げられたことばのシニフィアン明瞭度を上 げるには(あるいは下げるには)どうしたらよいか,ま たシニフィエ明瞭度を上げるには(あるいは下げるには) するにはどうしたらよいか。このようなことについて日 頃から振り返りと試行錯誤を繰り返すことによってこと ばに広がりが生まれ,臨床的コミュニケーションが豊か なものになってゆく。 そうすると,広がりを持ったことばからその時に合っ たことばを選び取ることができるようになり,よりきめ 細かい臨床活動が可能になる。健康な自我に働きかける ことば,無意識に語りかけることば,シンボルとしての 内在化を目指したことば,基本的信頼感の体験を目論ん これらの言葉はどのように獲得あるいは修得されて いったのであろうか? もちろんもともと父性的言語を 常用する人が教師という職に就いた,あるいは元来母性 4 0 教育臨床および心理臨床における「ことば」について だことば,といったように,クライエント(児童生徒) の見立てに基づいた治療目標に合わせて,その瞬間にお けることばを用いることでより丁寧な関わりが可能にな る。しかし繰り返しになるが,これらは頭で考えた人工 的なことばではなく,あくまでも援助者の体験に近いこ とばで語られなくてはならない。 ○臨床現場にあったことばを用いる 幼稚園で用いられることばと高等学校で用いられるこ とばは,いずれも同じ教師モードの「父性的言語」 といっ てよいだろうか? もちろんいうまでもなく両者は重な りを持ちつつも異なっていると考えられる。つまり,職 場ごとに求められることばが異なるという点についても 認識しておくことが大切である。 校種の違いは子どもの発達段階の違いを意味しており, 必然的に求められることばも変えなくてはならない。 いっぱんにより年齢が低くなるほど,母性的言語をより 多く織り交ぜた関わりが有効であろう(しかしそれはあ くまでも教師という立場の範囲内でなされることが肝要 である) 。逆に高等学校ではより父性的言語を主とした 関わりが自然である(もちろん,母性的言語がまったく 必要ないということではない) 。また,教育臨床のバリ エーションを考えるとき,学校という場での関わりと教 育センターの個別相談などのようなクリニックモデルを 基本とした場での関わりを比べると,そこにも求められ ることばに違いがあるだろう。学校臨床では集団指導を 基本とした教育活動を展開するためにより父性的言語が 用いられ,外部機関の個別相談などではより母性的言語 を用いた関わりが用いられる。 筆者もスクールカウンセリングの現場とクリニックモ デルの心理臨床現場では,前者においてより父性的言語 の色合いを増やした関わりを展開している。 このように,自らが活動している臨床現場の特性に合 わせて用いることばを敏感に使い分けられるようになれ ると臨床がより豊かになるだろう。 ○ことばから見た「教師・カウンセラー問題」 教師は主に「父性的言語」を用いることでその職能を より十全に果たすことができ,心理臨床家は主に「母性 的言語」を用いることで心理臨床活動をより有効に展開 することができる。このことは職種(あるいは職能)と ことばが一定の結びつきを持っていること示している。 つまり,教師が「父性的言語」に親和性を持っているの はある意味必然であり,教師がもっぱら「母性的言語」 のみを使用すると職能を十分に果たせないばかりか子ど もたちに思わぬ悪影響や危険(それは悪性の退行だった り,指導上の問題だったりする)が生じる可能性が予想 される。 教育臨床をめぐるテーマの一つとして「教師カウンセ ラー」あるいは「教師はカウンセラーになれるか」とい う問題があるが,ここでの議論を踏まえると,教師とカ ウンセラーは職能が異なるがゆえに用いることばに違い 4 1 があり,同時に双方を満たすこと(つまり教師であると 同時にカウンセラーであるということ)はきわめて難し い課題であるといわざるを得ない。つまり,教師はあく までも教師,カウンセラーはあくまでもカウンセラーな のであり,教師が同時にカウンセラーになる,あるはカ ウンセラーが同時に教師になる,ということは大変な困 難を伴うこととなる。それは,教師がカウンセリングの 知識や技法を学ぶことが不要だといいたいのではない。 そうではなくて,教師がカウンセリングを学んでカウン セラーになるのではなく,あくまでも教師という立場を 自覚し,その範囲の中で教師としてカウンセリングの知 見を援用するという姿勢がより理にかなっているのでは ないかということである。教師にはカウンセラーとして の適性がないということではなく,教師の職に就いてい る以上,原理的にカウンセラーの職能を果たすことに困 難さが内包されているということに過ぎない。例えば, ある教師が定年により教職を離れ,スクールカウンセ ラーとして母性的言語をふんだんに使用した豊かな臨床 を展開したり,学校から教育センターへの異動を機に, 母性的言語を主とした暖かい関わりを実践している教師 の例などは枚挙にいとまがない。 Å.おわりに 本小論では臨床におけることばについて検討し,教師 の職能に親和性のある教師モードのことばが父性的言語 としての特徴を,そして心理臨床家の職能に親和性のあ る臨床家モードの言葉が母性的言語としての特徴を持っ ていることを指摘し対比的な論考を試みた。これらの分 類も論考もまだ十分ではないが,日頃の臨床上のことば を考える一つの視点を提供できたとしたら幸いである。 Æ.文 献 神田橋條治 1 9 8 4 精神科診断面接のコツ.岩崎学術出 版社 神田橋條治 1 9 9 0 精神療法面接のコツ.岩崎学術出版 社 神田橋條治 1 9 9 2 治療のこころ 巻一.花クリニック 丸山圭三郎(編) 1 9 8 5 ソシュール小事典.大修館書 店 村瀬嘉代子 1 9 9 6 子どもの心に出会うとき.金剛出版 妙木浩之 2 0 0 5 精神分析における言葉の活用.金剛出 版 成田善弘 1 9 8 1 精神療法の第一歩.診療新社 成田善弘 1 9 9 0 精神療法の実際.新興医学出版社 サリバン(中井ら訳) 1 9 8 6 精神医学的面接.みすず 書房 ソシュール(小林訳) 1 9 4 9 一般言語学講義.岩波書 店 ワクテル(杉原訳) 20 0 4 心理療法家の言葉の技術. 金剛出版