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Workshop「ジャック・デリダ『獣と主権者 II』を読む」 Workshop ジャック・デリダ『獣と主権者 II』を読む 2016 年 7 月 30 日於東京大学駒場キャンパス 佐藤朋子 1
デリダによる応用精神分析 の実践──第 5、6、7 回講義についてのコメント * Jacques Derrida, La bête et le souverain II, Paris, Galilée, 2010.(ジャック・デリダ『獣と主権者 II』西山雄二、亀井大
輔、荒金直人、佐藤嘉幸訳、白水社、2016年) 以下では参照頁数を[原著/邦訳]の順に示す。 ..
「幻像という語のこのような使用が、ファンタスマや空想や空想的想像力のいかなる哲学的概念に適しているのか、適合するのか、またそれが
幻像についての精神分析的な概念に適しているのか、適合するのか、私にはわかりません。ただしこれは、そうした概念がありそれがひとつし
かなく、それが明快で一義的に位置づけられうると仮定しての話ですが、しかし私はそうは思いません。
」
[218/194.下線は引用者。以下同様。
] 「それは、幻像とは何か、という問いです。幻像、ファンタスマ、幽霊、空想、想像、空想的想像とは何を意味するのでしょうか。私たちがこ
こまで粗描したすべてのことが、何よりもまず、私たちの欲望と私たちの恐怖を方向づけ、生きたまま死ぬことや死体処理、死体の本質ないし
非本質、すなわち死体の無(分解という Unwezen〔非本質的・非存在的な状態〕
)についての私たちの(いわばロビンソン的な)経験を方向づ
けるものの幻像的な性質に関係していたのだとすれば、私たちはここで、幻像の自己-­‐触発的〔auto-­‐affective〕かつ異他-­‐触発的な〔hétéro-­‐affective〕
構造に触れていることになります。この自己-­‐異他-­‐触発の次元なくしては、幻像について考えることはできないのです。
」
[244/217] ファンタスム
第 5 回から第 7 回までの講義でデリダは「生き埋め」や「生きている死者」の幻 像 を方々に探索する。本コメ
ントでは、その探索を一種の応用精神分析の実践として読みながら、
『獣と主権者』を貫く大きな問題系(この 3
回の講義では、動物一般をめぐるハイデガーの思考の検討においてとりわけ顕著に現れている問題系)に通じると
ころまでその道のりにいくつかの里標を立てることを試みたい。 1 ︎精神分析における「幻像」概念 フロイトがいう「die Phantasie」の意味内容をめぐっては長い議論の歴史があり、さまざまな分析家や学派(よく
知られた例としてアイザックス2、ラカン3、ラプランシュとポンタリス4など)がそれをより洗練させようと試みてきた。し
かし数々の洗練化は必ずしもみな同じ方向性にはなく、
「幻像」概念の一義的な定義を示すことは現在でもきわめて
困難である。 2 デリダによる「幻像〔fantasme, phantasme〕
」の語の使用とその妥当性 デリダは厳密な定義を示さずに「幻像」の語を用いるが、その際にフロイト(
「無意識について」
)を引き合いに出
して申し開きをする。つまりフロイトにおいて、
「幻像」は、
(前)意識系と無意識系のどちらか一方ではなくその
両方をもちだすことでようやく説明されうるほどに位置づけがたいものなのである[218sq./194sq. 5]
。 1
本コメントでは、自らの分析を求める者(たとえば患者)による自由連想に基づいて行われる精神分析実践を「本来の
意味での精神分析」とし、他方、その種の自由連想が欠けているところでもっぱら分析家の作業(自由連想や解釈など)
によって成立する精神分析実践を「応用精神分析」と呼ぶ。フロイトのテクストから後者の例を引くならば、文学作品論
や造形美術論、集団心理学、文化論、宗教論などがある。 2
Cf. Susan Isaacs, “The Nature and Function of Phantasy”, The International Journal of Psychoanalysis, vol. 29 (1948), p.73-­‐97.(
「空想の
性質と機能」一木仁美訳、松木邦裕編『対象関係論の基礎』
、新曜社、2003 年、95-­‐172 頁)アイザックスはクライン派の
分析家。
「phantasy」と「fantasy」の綴りの違いを利用した無意識的幻像と意識的幻像の峻別を提案した(cf. ibid., p. 80)
。 3
たとえば、1966-­‐67 年のセミネール La logique du fantasme〔
『幻像の論理』ないし『幻想の論理』
〕
(未刊)参照。 Jean Laplanche, Jean-­‐Bertrand Pontalis, « Fantasme originaire, fantasme des origines, origines du fantasme », Les temps modernes, t. 19, nº 215 (1964), p. 1833-­‐1868.(
『幻想の起源』福本修訳、法政大学出版局、1996 年) 原論文は 1985 年に Hachette 社か
ら単行本として刊行された(2007 年に再版)
。 5
この箇所では「幻像」と同時に「欲動」概念も問題にされている。デリダがここで展開しているフロイト読解は、この
同じ 2 つの概念についてのニコラ・アブラハムの考察(cf.「表皮と核」
、ニコラ・アブラハム、マリア・トローク『表皮
と核』大西雅一郎、山崎冬太監訳、松籟社、235 頁以下)と多くの点で類似を示すように思われる。 4
1 Workshop「ジャック・デリダ『獣と主権者 II』を読む」 さらに、精神分析の実践から理論の構築へという手続きを重視する観点からも、デリダによる利用の仕方を正当
化することができる。精神分析では、まず自由連想と解釈を通じて幻像が明るみに出され、ついで実践の成果(た
とえばある症状とある幻像の関係の発見)についての反省ないし思弁により、諸事象の背後に働くメカニズムを表象す
.....
る理論としてのメタ心理学(「心的装置」
)が構築される。つまりそうした手続きからして、幻像は「心的装置」内の
一体系に回収可能ではなく、むしろ、場合により「心的装置」の表象を改変することを要請しうるのだ。 3 デリダの葬儀文化論 A 死や死体のさまざまな取り扱い デリダは死や死体の取り扱いについて、歴史上に現れた事例に関心を向け、
「ヨーロッパやギリシア・ラテン世界
の諸宗教、前キリスト教的な諸宗教、さらにはアブラハム的ないしユダヤ・キリスト・イスラム的な諸宗教におい
ては土葬を命じ、他方で、インドや日本では逆に火葬を命じ[…]
」
[236/209]ることを確認し、また近代ヨーロッ
パの例を中心にさまざまな対象に言及する。雑多ともいうべきその言及の対象は、たとえば、ミラボー橋からの身
投げのケースにおいてパリ市および国家や家族が負う義務[211/187]からアルジェリアのユダヤ人共同体における
埋葬儀式[212/188]まで、ペール・ラシェーズ墓地における土葬と火葬の共存[236/210]
、
「私たちのところで」
土葬が多く選択されるという統計[205]
、アメリカ合衆国において州ごとに異なる死亡状態の判断基準[234/208]
から、生き埋めの恐怖を語るポーのテクスト[260/233]あるいは「どの墓にも蓄音機を入れる」という『ユリシー
ズ』の一節[237/210-­‐211]まで、ファラオとその親族あるいはレーニンやスターリンの死体の保存処理(と後者に
関してはその展示)
[240-­‐241/214]
からデフォーやハイデガーの土葬
[255/229]
やブランショの火葬
[250-­‐251, 255/224, 229]あるいはロビンソン・クルーソーの土葬[255/229]までに及ぶ。 デリダがそのなかでとりわけ詳細に検討する事象のひとつが土葬と火葬のあいだでの選択である。
もし誰かが
「主
権的に」土葬あるいは火葬を選ぶとして、それは「なぜ」なのか、
「何のため」なのか、
「どのような欲望と動機に
応えようとしているの」か、
「誰の欲望と動機に応ようとしている」のか[213/188-­‐189;cf. 231/205]と彼は問う。
その上で彼曰く、その選択における決断を分析するにあたっては、
「生き延びた生者たち、すなわち後継者たちの視
...
..
点」もしくは「自分が死んで埋葬されるのを見るのに十分なだけ生きている死者[…]の視点」
、すなわち「生き延
びる死者という幻像の視点」
[ibid.]をとるより他なく6、土葬と火葬の各々について「計算可能な利点ないし利益や、
なおも期待される享受」と、他方で「危惧される損害」や「苦しみ」
[ibid., cf. 232/206]とを問うべきなのである。
さて、ある分析家の簡潔な整理を借用するならば、
「ある制度が創設され存続するのは、制度によって〔、
〕個人
間に生起したなんらかの問題が解決されるから」であり、
「原理的に言って、制度による解決は、係争中の当事者に
対してそれ以前の状況と比較してなんらかの利点をもたらす」7という前提に立つのが精神分析的観点である。それ
を考慮するならば、土葬や火葬の選択がひとつの制度として存続しているところにおいてデリダが個々の事例につ
いて行う「生き延びる死者〔mort survivant〕
」あるいは「生きている死者〔mort-­‐vivant〕
」
[232/206]の幻像の探究に
は、より一般的な射程、すなわち(葬儀)文化8についての応用精神分析という意味を認めることができよう。 B 土葬派における幻像と火葬派における幻像 デリダは「生き延びた生者」と「生きている死者」の観点から土葬と火葬のそれぞれのメリットとデメリットを
見積もり、
また、
その計算とともに両方のケースについて
「自己免疫的ダブルバインド」
[209/185 ; cf. 205, 239, 241-­‐242, /181, 212, 214-­‐215]を見いだす。彼にとって、フロイトを始めとする分析家がいう「喪の作業」
[239 et passim/212 et 6
次の文言も参照。
「フロイトも、私たちは自らの死をその傍観者となることでしか体験できないと強調していました。
」
[232/206] 7
マリア・トローク「女性における「ペニス羨望」の意味」
、前掲『表皮と核』189 頁. 8
デリダはさらに葬儀の場面を越えた広がりを念頭に置いているように思われる。たとえば次の文言を参照。
「ヨーロッパ
的な舞台の背景に、西洋の歴史的、政治的な劇場に、意識的であれ無意識的であれ、記憶の劇場に死体焼却炉と共同墓地
があるのです。
」
[236/210] 2 Workshop「ジャック・デリダ『獣と主権者 II』を読む」 passim]の観点は、そのダブルバインドをさらに詳細に検分するための可能性を与えてくれるものである。
(以下の
引用の①、②は土葬のメリット、③はそのデメリット、④は火葬のメリット、⑤はそのデメリットの例) ①「土葬は[…]一定の時間と一定の空間を与えることを約束します。
[…]私たちが話題にしている幻像は、火葬の
場合ほど瞬時に私を消失させないと思われる土葬のほうへ急き立てられることがあり、自らの存在に固執して生き延
びるという欲望を土葬のほうへ急き立てることがあります。
」
[232-­‐233/206-­‐207] ②「
[…]土葬のもうひとつの報い、もうひとつの経済性は、土葬は、生き延びる者たちにとって、したがって、あら
かじめ自分を彼らと同一視する死にゆく者にとって、いわゆる通常の喪の作業を望ましい状態にし、容易にするとい
うことです。
」
[238/212] ③土葬は「同時に自己免疫的で危険であり、したがって土葬へ向う幻像自体にとっても恐ろしいものなのです。
[…]
土葬によって促進されるように見える喪の作業は、死者の位置を確定し、固定し、その場所に静的な状態で死者を不
動化することで、
[…]私的でない公的な場所に死者を留め置き、その死者が家にーー自分の所〔chez soi〕や自分の内
〔en soi〕にーー実際にも、幽霊という形でも、戻ってこないことを確証する[…]
。
」
[239-­‐240/212-­‐213] ④「火葬は生きている死者の苦悶を回避し、土葬の時点では必ずしも完遂していない死体化の苦悶を回避するとされ
ます。火葬はまた、死者の幻像的な身体を むことになる緩慢な分解という残虐さを回避するとされます。
」
[241/214] ⑤「自己免疫的ないしアポリア的な矛盾は、火葬派の人々の幻像を責め立てるべく回帰してきます。
[…]
[火葬で]
死者はまさに自らが消え去る際に一瞬で消え去っていきます。時間さえ持たないまま、葬儀や埋葬や墓地の土地が律
動を与え、
[…]延長させてきた喪の悲しみのなかで同居する時間を死者と生き延びる者たちに残さないまま。火葬は
もはや時間を取ることも時間を与えることもしません。また、空間を取ることも与えることもしません。
」
[242/215]
同様にデリダは、生き埋めになる、あるいは、食人種に食べられて死ぬというロビンソンの「幻像」とそれが引
き起こす嫌悪や恐怖についても分析と計算を試みている[cf. 189sq., 195/166sq., 171]
。 C 「葬儀文化の無意識」と「無意識の野蛮性」についての仮説 デリダは幻像の探究を踏まえて、土葬派と火葬派が互いに「人道に反する罪とまでは言いませんが、非人間的で
あるという批判」
[235/209]を向け合っているという見方を示し、また探究が開いた問いを次のように提示する。 「私たちに残された問題、私たちの問いのひとつとなる問題は、その儀式がどのようなものであれ、葬儀文化の無意
識の背後またはその内部で、実は無意識の野蛮性が、ロビンソンが獣のように生きたまま死ぬことを恐れているとき
に危惧しているようにみえるある残酷さを伴って、作用しているのかどうかという問題でしょう。
」
[212/188] 「葬儀文化の無意識」が、土葬か火葬かを決断する契機において働いている幻像とともに探究されてきたとして、
他方、その「背後またはその内部」で作用しているかもしれない「無意識の野蛮性」とは、土葬派と火葬派の批判
の応酬において問題になる「非人間性」やロビンソンが食人種に見出す「非人間性」
[205/182]が示唆していた問
いであるだろう。この問いの開拓には、デリダの応用精神分析的な試みがもたらした成果のひとつを認めることが
できると考えられる。 4 死に関する哲学的テーゼの再考 今回みてきた 3 回の講義のうちで、以上の問いの視座とのあいだで一貫性を示すと思われる議論展開の方向性を
3 つ指摘してみたい。なお、
『獣と主権者』を貫く問題系にほぼ直接的に接続するのは最初の方向性である。 ひとつは、哲学者の主張、とくに(
「獣の可死性の欠如[…]に対する現存在の可死性」
[180/158]のテーゼと連
絡する?)
「動物は世界貧乏的である」というハイデガーのテーゼの再検討である。そのテーゼは、デリダがもろも
ろの幻像を見出した「文化」と同じ「文化」において錬成されたもの、つまり文化的な産物であり、そのかぎりで、
今やデリダは、それについてまわる 2 つの「不安〔le malaise〕
」の規定を試みることができる。すなわち、
「動物一
3 Workshop「ジャック・デリダ『獣と主権者 II』を読む」 ....
般」
[277/249]という前提と、動物一般が「人間現存在に対して共通の差異をもっている」
[278/250]とする人間
中心主義的前提である。上に見た引用の文言を借りるならば、デリダの議論が示している方向性はこう敷衍できる
のではないか。すなわち、そのようにして行われている線引き、およびそれと同時になされるある種の忌避(もろ
もろの動物を考えることの忌避)が、テーゼの内部または背後で作用しているかもしれない「無意識」の性格を知らせ
ており、その性格を考慮に入れることによってテーゼを再考しうるという方向性である。 もうひとつは、土葬よりも火葬あるいは火葬よりも土葬といった選択において実効的に働いている「幻像」を主
題(thèmes)とすることにおいて、
「哲学的言説の意識」ほどには「虚構、文学的虚構、幻想文学」が「不適切で
はな」い[262/235]という見通しである。同じ見通しのもとで、デリダはブランショのうちに、不可能性の可能性
としての死というハイデガーのテーゼに対する批判の契機を認めようとしているように思われる[cf. 253sq./ 226sq.]
最後に、精神分析の、いうなれば「哲学化」に対する批判の糸口もまた記されていることを指摘したい。これに関して、
ラカンのセミネール(1966-­‐67 年)を彷彿させる言い回し「幻像の論理」を使いながら提示されたデリダの主張を最後に
引用しよう。 「幻像の論理ーー(生きている死であれ、亡霊であれ、再来霊であれ、火葬であれ、死後のものであれ)私たちがこ
こで気にかけているような論理は、本来の意味での論理ではありません。それはロゴスに逆らい、ロコスのレゲイン
.....
〔語ること集めること〕に逆らいます。
[…]本来の意味での幻像の論理はかくして存在しません。フロイトが私たち
に指摘しているように、幻像も欲動も、ブランシヨがとくに『彼方への歩み』
(すぐにとり上げます)で〈中性的なも
の〉と名づけているものと同じく、対立する概念の境界の両側に見出されるからです。したがって、幻像、幽霊、あ
....
るいは亡霊的なものの論理またはロゴスなどありません。ロゴス自体がまさしく幻像そのものでなく、幻像自体の境
位、起源、資源でなく、幻像の、いや再来霊の形態や形成物でないとすればですが」
[262/235] 4 
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