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日印 政教分離 - RINDAS

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日印 政教分離 - RINDAS
シンポジウムシリーズ 1
国家 と宗教
セキュラリズム
日印政教分離の歴史と現状
赤松徹眞・長崎暢子・志賀美和子編
龍谷大学現代インド研究センター第一回国内シンポジウム報告書
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RINDAS
The Center for the Study of Contemporary India, Ryukoku University
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
龍谷大学現代インド研究センター
龍谷大学人間・科学・宗教総合研究センター・現代インド研究センター
The Center for the Study of Contemporary India, Ryukoku University
研究テーマ:「現代政治に活きるインド思想の伝統」
The Living Tradition of Indian Philosophy in Contemporary India
現代インドのイメージは、かつての「停滞と貧困のインド」、「悠久のインド」から、「発展するインド」へと様
変わりした。激変する経済状況を支えたのは、
相対的に安定したインドの「民主主義」政治である。興味深いことに、
現代政治・経済を支える人々の行動規範や道徳観の根底には、
「民主主義」などと並んで、サティヤ(真実/真理)
、
ダルマ(道徳性/義務)
、アヒンサー(非暴力)など、長い歴史に培われてきたインドの思想やその世界観が横た
わっている。
本プロジェクトでは、龍谷大学が創立以来 370 年に渡って蓄積してきた仏教を中心としたインド思想研究に関
する知識と史資料を活かし、近年本学において活発化している現代インド研究を結合させる。
「現代政治に活きる
インド思想の伝統」というテーマにもとづき、下記のように二つの研究ユニットを設けて現代インド地域研究を
推進し、プロジェクト活動を通じて、次世代を担う若手研究者の育成を図っていく。
研究ユニット 1「現代インドの政治経済と思想」
研究ユニット 2「現代インドの社会運動における越境」
RINDAS シンポジウムシリーズ 1
国家と宗教
セキュラリズム
日印政教分離の歴史と現状
−龍谷大学現代インド研究センター 第一回国内シンポジウム報告書−
赤松徹眞・長崎暢子・志賀美和子編
2010
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
龍谷大学現代インド研究センター(RINDAS)
目 次
シンポジウムの目的……………………………………………………………………………………… 赤松 徹眞
1
趣旨説明…………………………………………………………………………………………………… 嵩 満也
2
セッション 1
インドにおける政教分離の歴史と現状
植民地期インドの宗教社会改革と政教分離論争 ………………………………………………… 志賀美和子
7
セキュラリズムと多文化主義:現代インドの課題と挑戦 ……………………………………… 池亀 彩
14
政党政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズム …………………………… 上田 知亮
19
セッション 2
日本における国家と宗教
現代日本の国家と宗教 ……………………………………………………………………………… 平野 武
27
近代日本における宗教と社会活動 ………………………………………………………………… ブリジ・タンカ 40
近代日本の政治と宗教及び仏教教団 ……………………………………………………………… 赤松 徹眞
43
ディスカッション
コメント ……………………………………………………………………………………………… 中島 岳志
55
コメント ……………………………………………………………………………………………… 菱木 政晴
58
質疑応答 ………………………………………………………………………………………………………………
60
付 録
シンポジスト一覧 ……………………………………………………………………………………………………
71
ポスター ………………………………………………………………………………………………………………
72
最終プログラム ………………………………………………………………………………………………………
74
シンポジウムの目的
赤松徹眞
現代の政治・社会は、政治と宗教の分離の諸課題がすでに自明のこととして定着しているとは言えない。グロー
バル化している 21 世紀の現実は、政治領域が肥大化し、政治参加のシステム化の整備で市民・国民の取り込みを
企図する一方で、宗教領域は私的世界に追いやられているかに見えるが、多様な歴史・文化・民族・宗教などの
相違性が交差し、優位性をめぐる確執・対立も激しくなっている。しかし、政治がその世俗の相対性を自覚化す
ることを怠り、宗教との結びつきを求めて政治の肥大化・絶対化を指向するとき、政治は全体主義に向かって疲
弊する。他方、宗教がその普遍的真理性の故に人間の根源的在りように目覚め、多様性の尊厳や政治の相対性の
自覚化を促し、宗教文化を醸成するものとして機能しないときに、宗教はその普遍的真理性を失う。
本シンポジウムは、日印からの政教分離をめぐる各報告を通して、その歴史的文化的経緯、問題の所在を比較し、
政教分離とその現代的可能性をさぐろうとするものである。
−1−
趣旨説明
嵩 満也
龍谷大学現代インドセンターのユニット2のユニットリーダーをしております、龍谷大学の嵩と申します。本
日のシンポジウムの趣旨と、この龍谷大学現代インド研究センターの取組みにつきまして、私から最初に簡単に
ご説明をさせていただきます。
まず、龍谷大学現代インド研究センターでは、「現代政治に活きるインド思想の伝統」をテーマに研究を進めて
おります。現代インドの政治と社会が有している多元的な動態の構造的、理論的な解明を基本課題とし、龍谷大
学が培ってきたインド学、仏教学等の古典的な知識についての研究の伝統を活かしつつ、歴史的な時間軸の中に
見られるインド思想の変化と発展が現代インド政治においていかなる位相を示しているか明らかにすることを研
究課題の中心に置いております。
そのことを具体的に進めるにあたり、本研究センターではユニットを二つ設けております。ユニット1は「現
代インドの政治経済と思想」というテーマで、現代インドの政治と伝統的な思想との関係を研究しております。
例えば、今日もなおインド社会において重要な概念となっているダルマという概念の古典的な知識として、それ
がどのように今日まで継承されてきたかといった研究や、或いは現代インド社会におけるエリートと下層民との
関係を、エリートの側からではなく、下層民の視点から明らかにするという取組みをしております。なおこの点は、
ユニット2で行っておりますインド現地でのフィールドワークや、そういったもののフィードバック等も併せて
研究を進めているところでございます。また、ユニット1では、そのような視点から、今回のシンポジウムのテー
マとも重なる、インドのセキュラリズム、政教分離も課題として研究を続けております。
ユニット2では、現代インドの民衆の動態に焦点を当てております。この場合の民衆とは、現実にはインド国
内の州、地域、或いは南アジア世界における国境、さらには宗教を、ある意味横断的に越えて繋がっている側面
があります。当ユニットは、この点に着目し、特にマイノリティーとしてコミュニティーが成立している人達の
動態を研究課題の一つの中心に置き、インドのみならず、バングラデシュ、スリランカといった、南アジア全体
の民衆の動態というものをインドと結び付ける形で研究を進めております。
本日のシンポジウムは「国家と宗教―日印政教分離の歴史と現状」というテーマで設定をさせていただきました。
これは龍谷大学現代インド研究センターの第1回目の国内シンポジウムでございます。ここでは、日本とインド
の政教分離(セキュラリズム)につきまして、その歴史的、文化的な経緯と、そこに見られる問題の所在を比較
することによって、現代インドにおいてセキュラリズムと呼ばれるものの持つ可能性を探ることを一つの目的と
しております。まず、第1セッションでは、3人の新進気鋭の若手インド研究者の先生方より、インドにおける
セキュラリズムの歴史、そしてその文化的な経緯と特色、さらにはそこに見られる問題点と可能性についてご報
告いただきます。
まず、人間文化機構より派遣していただき、龍谷大学現代インド研究センター研究員としてご協力いただいて
おります志賀美和子先生からは、
「植民地期のインドの社会改革と政教分離論争」というタイトルで、国家と宗教
との関係が公の場でインドの人達の間で議論された最初の事例である、1920 年代のヒンドゥー寺院運営・監督問
題と、1930 年代の不可触民への寺院開放問題を取り上げていただき、その時代背景と当時の政教分離概念の特徴
−2−
についてご報告いただきます。
次に、国立民族学博物館現代インド研究センター研究員の池亀彩先生より、「セキュラリズムと多文化主義:現
代インドの課題と挑戦」というタイトルで、インドにおいて互いに、ある意味では矛盾した二つのセキュラリズ
ムの在り方を、特に多文化主義的な観点から、インドの最近の事例を通してご紹介いただくことになっております。
3番目の名城大学法学部講師の上田知亮先生からは、
「政党政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュ
ラリズム」と題してご発表いただきます。ごく最近、2009 年の総選挙において、オリッサ州でビジュ・ジャナタ・
ダル(BJD)という政党が、セキュラリズムをそれまで党是としながら実際には宗教ナショナリズム政党とも呼
べるインド人民党(BJP)と連立関係にあったわけですが、この関係を総選挙直前に解消するという動きがありま
した。このような動向に見られる現代インドのセキュラリズムの問題ということをご報告いただきます。
このように、第1セッションでは、現代インドの様々な事例を通して、インドにおけるセキュラリズムの課題
と可能性をご指摘いただけることと思っております。
第2セッションでは、視点を日本に移しまして、
「日本における国家と宗教」についてご報告いただきます。ま
ず、龍谷大学法学部教授で、憲法と宗教法がご専門の平野武先生より、
「現代日本の国家と宗教」というタイトルで、
日本における政教分離の歴史についてご報告いただきます。
次に、本日遥々遠いインドからおいでいただいた、インドの研究者で日本のことを研究しておられる、ブリジ・
タンカ先生より、「近代日本における宗教と社会活動」というテーマで、二人の明治期の宗教家、一人は、実はこ
の龍谷大学と言いますか、本願寺とも縁のある北畠道龍、もう一人は木村卯之という、この二人の宗教家の活動
を通して、明治の近代化過程における日本のセキュラリズムの一つの在り方について紹介をいただきます。
最後に、本学文学部の赤松徹眞先生より、「近代日本の政治と宗教及び仏教教団」というテーマのもとに、日本
の近代化の中、明治以降の政教関係と仏教教団の在り方について取り上げていただくと同時に、仏教の政教分離
との関わり、その可能性についてご指摘いただくことになっております。
このような形で、今回のシンポジウムを設定させていただきましたが、日本とインドのセキュラリズムの比較
といった研究、或いはその視点というのは、日本でもあまり見られないことから、非常に先駆的な取組みになる
のではないかと思われます。その意味では、今回のシンポジウムは、まだ緒に就いたばかりということでもあり
まして、本日いろいろと議論をいただくことを今後に活かし、さらに研究を深めてまいりたいと思っております。
この点につきましては、特に第3部で討論の時間を設け、本研究センター長であります長崎暢子先生の司会のも
とに、お二人の先生からコメントをいただくことになっております。まず、北海道大学准教授の中島岳志先生で
すが、おそらくインド研究者や、インドに関心のある方々にとっては既にご紹介するまでもなく、いろいろご存
じだと思いますが、様々な著作を発表しておられ、インドのナショナリズムと宗教を中心に研究しておられます。
また、先ほどお話を伺っておりましたら、親鸞にも実は興味があるということで、我々現代インド研究センター
としても、龍谷大学としても、今後もご協力いただければと思っております。
もう一人の討論者は菱木政晴先生で、同朋大学大学院文学研究科教授をしておいでです。菱木先生は、古くか
ら私も知っておるのですが、靖国問題の様々な取組みについて、理論だけではなくて実践面でも様々な活動をさ
れてきた先生でいらっしゃいます。
このように、本日は、国家と宗教のありかたを、日印政教分離、セキュラリズムの歴史と現状という視点から
明らかにするというテーマで、シンポジウムを企画させていただきました。どうぞ、先生方やご出席の皆様のい
ろいろなご参加とご発言等をよろしくお願いいたしたいと思います。
−3−
セッション1
インドにおける
政教分離の歴史と現状
植民地期インドの宗教社会改革と政教分離論争
志賀美和子
はじめに
インドは、1947 年の独立以来、政教分離を暗黙の国是とし、1976 年の憲法改正以来、政教分離国家(Secular
State)であることを憲法に明記している 1)。これは、南アジアの他の国家が、制度的差異こそあれ、何らかの
形で国家が特定宗教と強い関係性を有していることと顕著な対照をなす 2)。インドにおいては、政教分離主義
(Secularism)の理念を否定する意見は、すくなくとも公式な政治の場では見られない。1980 年代以降昂揚しイン
ド政治の本流に入ってきたヒンドゥー・ナショナリストでさえ例外ではない。彼らは、政教分離主義を否定する
ことはないが、ただし、政教分離国家の在り方について、現状を批判し、
「真の政教分離国家の実現」を政策課題
に掲げているのである 3)。彼らが現在の政教分離のあり方を批判するのは、①宗教別属人法(personal law)が適
用され、憲法が目標に掲げる統一民法(Uniform Civil Code)の制定が未だ実現していないこと、②ヒンドゥーの
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属人法のみが、政府により、不当に改革を強いられてきたこと、③留保制度(Reservation, Quota system)などの
積極的差別是正措置の適用対象の選定基準がカースト・ベースになっていること、である。これらは、ヒンドゥー
教への国家の不公平/不均等な介入とヒンドゥーの分断を促している、と彼らは主張する。そこで、彼らは、ヒ
ンドゥットゥヴァ(Hindutva、ヒンドゥー性)を基盤とするヒンドゥー国家実現を訴える。彼らによると、ヒンドゥー
とは信仰ではなく国民の生活様式である、とされ、政教分離主義の理念とは矛盾しない、と説明されるのである。
この主張には、戦前日本の国家神道の位置づけと類似性が感じられる 4)。
現代インドでは、政教分離は確立された体制ではなく、国家と宗教のあるべき関係をめぐって模索が続いている
状態にあるといえる。これまでの争点は、以下の三点に集約されよう。第一に、宗教マイノリティの権利保障の方
法として、権利の主体を、上述の宗教別属人法に象徴されるようにコミュニティとするか、それとも個人とするか
という問題、換言すれば、宗教マイノリティのコミュニティとしての権利とされる属人法に規定された宗教的慣習
と、当該宗教の信者の個人としての権利が齟齬をきたした時、国家はいかに対処するべきか、という問題である。
すべてのインド人民には、個人として等しく、信仰の自由を含む基本的人権が保障されている。しかし同時に、宗
1 孝忠延夫「南アジアの憲法と国民統合−インド憲法を手がかりとして」堀本武功・広瀬崇子編『現代南アジア 3 民主主義へのと
りくみ』(東京大学出版会、2002 年)、孝忠延夫『インド憲法とマイノリティ』(法律文化社、2005 年)。
2 ネパールでは、ヒンドゥー教が王権と結びつき、国教としての地位を与えられてきたが、王制から共和制に移行する過程でその地
位を失った。パキスタンは、その正式名称(パキスタン・イスラム共和国)が示す通り、1956 年以来イスラームを国教とする。バン
グラデシュは、1971 年にパキスタンから独立した当初は非宗教主義を国家原則の一つに掲げていたが、政局の混乱と度重なるクーデ
ターの過程でイスラーム色が濃くなり、1988 年の憲法改正でイスラームが国教とされた。スリランカでは、1972 年制定の憲法で仏
教に第一の地位が与えられ、仏教を保護育成することが国家の義務であると定められた。
3 近藤光博「インド政治文化の展開−ヒンドゥー・ナショナリズムと中間層」堀本武功・広瀬崇子編『現代南アジア 3 民主主義へ
のとりくみ』(東京大学出版会、2002 年)、佐藤宏「コミュナリズムへの視点−アヨーディヤ事件とインド政治研究」
『アジア経済』
第 41 巻 10、11 号(アジア経済研究所、2000 年)、中島岳志『ナショナリズムと宗教−現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』
(春風社、2005 年)。
4 国家神道の性格については以下を参照した。平野武「明治憲法下の政教関係」
『公法研究』53、1991 年、同『政教分離裁判と国家神道』
(法
律文化社、1995 年)、村上重良『国家神道』(岩波書店、1970 年)、山口輝臣『明治国家と宗教』(東京大学出版会、1999 年)、洗建「国
家神道の形成」洗建・田中滋編『国家と宗教 宗教から見る近現代日本』上巻(法蔵館、2008 年)。
−7−
教マイノリティに対して、固有の宗教文化を保護・維持する権利が、コミュニティを単位として与えられている。
この緊張関係に、
国家がどのように介入するかが問題の要となっているのである。この問題点が鮮烈に浮かび上がっ
たのが、シャー・バーノー訴訟であった 5)。
第二は、積極的差別是正措置を受ける保護対象を選定する単位に、宗派やカーストを適用することの是非である。
カースト別、宗派別に優遇制度を適用することは、カーストや宗派への帰属意識を強化し、インド人民としての
統合を阻害するとして、根強い反対意見が存在する。また、カーストは克服され廃止されるべきものと憲法に明
記されているにもかかわらず国家がカーストの存在を追認するという行為に対するジレンマ、自己矛盾にも似た
感情が基底にある。
第三に、国家と各宗教との距離の不均等である。第一、第二の論点とも関連して、特にヒンドゥー教徒の間では、
他宗教に比してヒンドゥー・コミュニティのみが国家の積極的介入を受けてきたという不満が見られる。憲法学
では、政教分離主義とは、国家の非宗教性(世俗性)というよりは、国家の宗教的中立性と解釈されるのが一般
的になってきているが 6)、ヒンドゥーと、その他のムスリムやキリスト教徒、シク教徒、仏教徒などとの距離の上
での公平性が問われている。
なお、ここで留意されるべきは、政教分離国家のあるべき姿を議論し模索する過程は、時代毎の社会動向と政
治的思惑から自由ではないということである。さらに言えば、何が宗教であり何が宗教でない(非宗教/世俗)
かの定義でさえ、歴史的な過程を経て形成されてきており、その意味で、宗教とは、今もなお相対的な存在であ
るといえる。
本発表では、国家と宗教の関係が、インド人の間で、公式の場で議論された初めての事例といえる、1920 年代
のヒンドゥー寺院運営監督問題と 1930 年代の不可触民への寺院開放問題を取り上げる。これらの問題が浮上した
時代背景を考察し、および論争内容を整理することによって、国家−宗教関係の一つの型が形成され、並行して
ヒンドゥー教が再定義されていく過程を例示していきたい。また、この作業を通じて、当時の政教分離の言説が
現在のヒンドゥー・ナショナリズムの言説と親和性があることも指摘されよう。
1.イギリス植民地政府とインド社会
政教分離(Secularism)という概念は、植民地時代に西欧からインドにもたらされたが、その内容が厳格に定義
されたわけではなく、また制度化されたわけでもなかった。そもそも、植民地インドにおけるイギリスの宗教に
対する姿勢は一貫性に欠けていた。イギリスはまず、インド社会を、宗教やカーストなどの集団を単位として統
治した。この姿勢は、宗教別属人法を導入したこと 7)や、ムスリムを主とする宗教マイノリティに議会での代表権
を与える優遇措置をとったことに端的に表れている。なお、宗教別属人法の導入は、宗教的慣習の尊重、宗教へ
の不干渉、という基本方針を明示するものであったが、その一方で、イギリス人にとって「後進的で野蛮かつ非
人道的」に見えるヒンドゥー教の慣習 8)については、キリスト教宣教師の活動、その影響を受けたヒンドゥー知識
人層の改革要求に押されて、これを改革する法律が制定されていった。ただし、これらの法律は、慣習の抑圧か
ら自由で有りたいとする個人の意志と救済を目的とするものであり、ヒンドゥー教に干渉するものではないと位
5 シャー・バーノー訴訟については、杉山圭以子「80 年代インドにおける政治とセキュラリズム−シャー・バーノー訴訟と諸論争を
中心に」『国際関係学研究』第 20 号(津田塾大学、1993 年)が詳しい。
6 孝忠延夫『インド憲法とマイノリティ』(法律文化社、2005 年)、11 頁。
7 イギリスは、インドの植民地化に並行して、法と裁判組織の整備を推進したが、婚姻や相続などの分野を含む属人法の制定に際し
ては、これらの分野が宗教と不可分であるという認識のもとに、ヒンドゥー教徒にはシャーストラを、ムスリムにはシャリーアを適
用するという方針を採用した。この法体制が、独立インドにおいても、当座の方針として継承され、統一民法が制定されないまま今
日に至っている。
8 サティーや寡婦再婚禁止など、女性に関係する慣習が主な対象となった。
−8−
置づけられていた 9)。
なお、イギリスは、東インド会社としてインドにおける領土を序々に拡大していく過程で、伝統的王権が在地
社会における権威確立と経済社会統制という目的をもってヒンドゥー寺院を保護しかつ監督する役割を担ってい
たのをそのまま継承してきた。しかし、1857 年のインド大反乱を契機に、イギリスは「宗教への不干渉」原則を
改めて宣言し、ヒンドゥー寺院を保護・監督するという慣例も中止した。
2.ヒンドゥー寺院と政府−運営監督をめぐって−
政府による寺院監督が中止された後、寺院の管財人の間に汚職や腐敗が広がっているという批判の声があがり、
法律家を中心とするヒンドゥー知識人層から政府に対し、寺院監督を再開するよう要求する動きがでてきた。し
かし、イギリス植民地政府は「宗教への不干渉」を理由にこれを無視した。
インド担当大臣モンタギューとインド総督チェムスファドによる憲政改革の結果、インド人に部分的地方自
治権が与えられ、1920 年代には州のレベルでインド人が州自治に参画することが可能になった。その結果、マ
ドラス州では、1922 年、立法参事会(Madras Legislative Council)にヒンドゥー宗教寄進財法案(Hindu Religious
Endowment Bill)が提出され、25 年に法律として成立する。この法律により、寺院を監督する政府機関として、地
方自治局(Local Self-Government Department)の下にヒンドゥー宗教寄進財局(Hindu Religious Endowment Board)
および寺院委員会(Temple Committee、県ごとに設置)が設置され、その構成メンバーを州政府 10)が任命し、各寺
院の年度予算案審査と会計監査、および寺院の運営面でのアドヴァイスにあたらせるシステムが整備された。
この法案について州立法参事会で論議された時、州政府が寺院運営を監督することへの反対意見は起こらなかっ
た。しかしこのことは、「政教分離」がインド人議員の間で全く意識されなかったということを意味するわけでは
ない。むしろ反対に、議員たちは、自らが「宗教の領域」とみなすものへ政府が介入することには強い警戒心を
抱いていた。特に顕著なのは、州政府がイニシアティブをとって不可触民に寺院を開放するのではないか、とい
う懸念であった。このような危惧が示された原因は、州立法参事会で多数を占め、州大臣を多数輩出していた正
義党(Justice Party)が、非バラモン運動の推進母体であり、バラモンの権威の否定、カースト差別廃止などのヒ
ンドゥー教改革的方針を掲げていたことにあった。そこでこの懸念を払拭するために、「この法律のいかなる条項
も、寺院内に確立された慣習を侵害することはできない」という条文(第 75 項)が挿入されることになった。
このように、ヒンドゥー宗教寄進財法で示された「政教分離」の内容は、政府が寺院の「経済の領域」に関与
することは肯定しつつ、「宗教の領域」とされるものへの干渉は禁止する、という内容だったといえる。
3.寺院開放諸立法−民族統一と政教分離をめぐる葛藤
(1)「インド民族」統一の危機
しかし、1930 年代に入ると、ヒンドゥー宗教寄進財法で示された政教分離概念は、変更を迫られることになる。
30 年代のインドは、インド国民会議派が率いる民族運動が高揚する一方で、民族統一が危機状態に陥りつつあっ
た。なぜならば、ヒンドゥーとムスリムの乖離が進行したのみならず、ヒンドゥーの内部からカースト制度を批
判する声が高まっていたためである。例えば、不可触民出身の B. R. アンベードカルによる不可触民差別撤廃運動
も、20 年代末にボンベイ州で開始され、30 年代に入ると全インド・レベルの政治の場で闘われるようになった。
ヒンドゥー内部の分裂の危機は、非バラモン運動が高揚していたマドラス州において特に深刻であった。非バ
9 吉村玲子「ヒンドゥー寡婦の再婚と権利」小谷汪之編『西欧近代との出会い』(叢書カースト制度と被差別民第二巻)(明石書店、
1994 年)、253 頁。
10 法案原文では Local Government と表記されており、マドラス州政府を指す。
−9−
ラモン運動とは、バラモン以外のあらゆるカーストが「非バラモン」というアイデンティティのもとに団結して、
バラモンの宗教的・社会的権威に対抗することを基本方針する。この運動は、19 世紀末には文化運動として開始
されたものの、次第に急進化し、1920 年後半からは、カースト制度を正当化しているヒンドゥー教自体を否定す
るに至った。また、非バラモン運動は、政治的には、会議派はバラモンに牛耳られているとして、会議派との対
決姿勢を鮮明にしていました。したがって、会議派は、民族運動を推進しなくてはいけないその時に、ヒンドゥー
とムスリムの共闘はおろか、ヒンドゥー内部から挑戦を受けてヒンドゥー内部の団結さえ危うくなり、危機感を
募らせていたといえる。
この危機に対処したのは、マドラス州会議派の幹部でバラモン出身のラージャーゴーパーラーチャーリー(以下、
ラージャージー)であった。彼は、1937 年にマドラス州で実施された州議会選挙に勝利して州首相に就任すると、
「民族統一」を目指す法律を次々と導入していった。不可触民差別の廃止もその一部を構成していた。
会議派が、不可触民差別の廃止を目指して導入した法案は下記の 4 本である。
①「ヒンドゥー教徒の特定階級に対する世俗的制約廃止法」(1938 年 8 月)
②「いわゆる被抑圧階級のヒンドゥー寺院入場に関する制約廃止法案」(1938 年 8 月廃案)
③「マラバール寺院開放法」
(1938 年 12 月)
④「マドラス寺院開放委任免責法」
(1939 年 8 月)
このうち、①は、立法議会、立法参事会 11)のいずれにおいても反対意見はほとんどないまま成立した。同法は、
不可触民が道路や井戸などの公共設備を利用する権利を認めた法律であるが、対象となる施設が「世俗的 Secular」
で政教分離に反しないと認識されたために、スムーズに成立したと考えられる。しかし、これとは対照的に、寺
院を不可触民に開放することを目的とする②以降の法律については、両議会での議論が紛糾した。本発表では、
最も重要な③マラバール寺院開放法をみていく。なぜなら、この法律の導入は、マドラス州全体に寺院開放法を
実施する前段階の、実験的試みとしての意味が与えられていたためである。
(2)寺院開放法正当化の論理
マラバール寺院開放法は、マドラス州内の全ヒンドゥー寺院を無条件で不可触民に開放する、という内容では
なく、寺院を開放するべきか否かを、住民投票で決定する「諸手続」を定めた法律である。同法で規定された手
続を概略すると以下のようになる。
• 寺院開放は、寺院毎に、投票権保有者の投票によって決する。
• 投票権保有者とは、不可触民 12)を除くヒンドゥー教徒で、マドラス立法議会有権者で、かつ関連寺院が存在
する郡選挙区の有権者名簿に氏名が記載されているものを指す。
• 投票権保有者 50 名以上の署名を伴う寺院開放要求が出された場合、
→当該寺院が存在する郡を単位として投票権保有者による住民投票を行う。
→過半数の賛成があれば当該寺院は開放される。
→反対多数の場合は以後 2 年当該郡に存在する寺院の開放要求は禁止される。
11 1935 年の新インド統治法によって、マドラス州には、従来の立法参事会に加えて、下院に相当する立法議会(Legislative Assembly)
が設置された。
12 法律原本では、 Excluded Class と表記され、「ヒンドゥー・コミュニティのカーストあるいは階級で、固定化された慣習法・習慣
により寺院への入場から排除されている者、あるいは境内に入れても大多数の参詣者が許可されている場所に入れない者」と定義さ
れている。
−10−
このように、同法は、一般の要請があれば郡を単位として住民投票を行い、過半数の賛成があれば寺院を開放
するという内容になっているが、ここで重要なのは、投票に参加出来る有権者がカースト・ヒンドゥーであるこ
と、つまり不可触民が排除されていることである。不可触民には、開放を要求する権利すら与えられていなかった。
ここで、州議会における議論から、この法案を正当化する理論を見ていこう。
この法案を起草したラージャージーは、不可触民差別はヒンドゥー教の原理からの逸脱である、と主張した。
彼によると、
「不可触民差別制度は後代に成立した慣習であって、元来は不可触民も寺院に入場していた」のであっ
て、「不可触民制度はヒンドゥー教の原理とは関係がない」という。それでは、彼の言う「ヒンドゥー教の原理」
とは何を指すのか。それは、
「寛容と自己犠牲と奉仕」であって、不可触民制度は社会の変化に応じて生じた派生物、
すなわち「慣習」にすぎない、
と彼は繰り返し強調する。つまり、宗教の「原理」が不変の真理であるのに対し「慣
習」は時代に応じて変化するものと定義され、不可触民差別という慣習は今の時代には不適切になっているとい
うことが示唆されているのである。
それでは、今や時代遅れとなった不適切な慣習が、なぜ改革されずに残存しているのか。ラージャージーは、
イギリスが導入した法体系にこそ、その原因があると説明する。つまり、イギリスは「宗教不干渉」
、「宗教的慣
習の尊重」という名目で、宗教コミュニティの慣習を Personal Law という形で固定化してしまったために、慣習
が自然に変化するのを妨害してきた、というのである。彼は議会において次のように発言している。
イギリスの法制度は、慣習を成文化して固定強化し、ヒンドゥーの慣習が自然に成長し変化するのを妨害して
きた。たとえ慣習の改革を望む声が多数を占めるようになっても、
〔改革に反対して−引用者〕法廷に駆け込む
者が一人でもいれば、改革は違法と診断され、頓挫した 13)。
このように、マラバール寺院開放法は、改革を阻む法的障害を除去して、慣習の改革を望む声が高まってきた
ときに、それを可能にすることが目的だと位置づけられた。
なお、寺院開放という改革に不可触民が参加することが否定された理由は、不可触民を寺院から排除するとい
う慣習はカースト・ヒンドゥーの慣習だと見なされたためである。ラージャージーは、議会で、
「もし、カースト・
ヒンドゥーの多数が寺院開放に反対したら、不可触民は寺院入場を拒否される。入場を拒否されても文句を言わ
ない、というのが、寺院から排除されている人間〔不可触民〕がとるべき正しい態度である」と率直に語っている。
つまり、宗教的慣習の改革には、その慣習を持つコミュニティだけが関与するべきであって、他のコミュニティ
は干渉するべきではないという見解が、ここで明確に提示されたといえよう。
また、カースト・ヒンドゥーのみが寺院開放の是非を決定するという規定は、改革の主体はあくまでもカースト・
ヒンドゥーであって、政府ではないと顕示する意図もあったと考えられる。なぜなら、不可触民を寺院から排除
するという慣習を政府が改革しようとすれば、1925 年のヒンドゥー宗教寄進財法で構築された「宗教の領域への
不干渉」という原則に抵触することになるためである。そのため、
法案を起草したのはマドラス州首相のラージャー
ジーであったにもかかわらず、改革を実行する主体は政府ではないと説明する必要が生じたのである。
以上、政府による寺院開放法案導入を正当化する新たな政教分離の論理を説明してきたが、この論理の裏には、
当時の政治状況を反映した別の意図が潜んでいた。第一は、ヒンドゥー教の擁護である。この法案は、そもそも
ヒンドゥー教の差別性を批判した非バラモン運動や不可触民運動への対抗策として起草されたという経緯を有す
る。それゆえに、これらの批判に対してヒンドゥー教を擁護する必要があったわけである。ヒンドゥー教の原理
は「寛容性」であり、不可触民差別はこの原理とは無関係の慣習にすぎないとして、ヒンドゥー教から不可触民
13 Madras Legislative Assembly Debates, 1938, vol. 8, p. 367.
−11−
差別を切り離したことがその典型といえる。さらに、ヒンドゥー・コミュニティは時代遅れになった慣習を自ら
改革する能力を備えているとアピールしつつ、それを妨害してきたのはイギリスの法制度だと主張して、植民地
支配を批判しているが、これは、イギリスがインド社会の後進性を理由に植民地支配を正当化していることへの
アンチテーゼになっていると同時に、非バラモン運動や不可触民運動への反論にもなっているのである。
第二は、インド民族の統一、実質的にはヒンドゥー教徒を統一しようとする意図である。非バラモン運動と不
可触民運動がヒンドゥー・コミュニティの分裂を引き起こすことを恐れて寺院開放が法制化されたのであるから、
この法律は、不可触民をヒンドゥー・コミュニティに引きとめるための譲歩といえる。ところがその内容は、差
別されてきた不可触民よりもむしろ差別する側、つまりカースト・ヒンドゥーに譲歩する内容になっているとい
わざるをえない。これは、宗教社会改革を強制することによって反対にカースト・ヒンドゥー、特に保守的な正
統派ヒンドゥー教徒が離反してヒンドゥー・コミュニティが分裂することを恐れたためだといえる。つまり結局、
民族統一を志向するあまり、ヒンドゥー教徒内部のマジョリティであるカースト・ヒンドゥーのために「政教分離」
理論が構築されてしまったたといえる。
結論
このように、政教分離のあり方は、植民地支配下のインドにおいては、政治と宗教改革とナショナリズムが複
雑に絡み合うなかで、その時代ごとに再定義されてきた。ただし、その再定義作業は、インド社会のマジョリティ
であるヒンドゥー・コミュニティの内部の、更にマジョリティであるカースト・ヒンドゥーが中心となって進め
られ、ヒンドゥー教を擁護するために、結果として、ヒンドゥー教の「浄化」といっても過言ではない過程が進
行したことも看過されるべきではない。
この一連の過程には、政教分離を巡って現在争点になっている、国民統合とコミュニティの権利と個人の権利
の緊張関係や、マジョリティとマイノリティの関係性など、多くの共通項が見出される。特に、マジョリティが
議論を主導することの問題性と危険性について、この歴史的経験が警告を発しているのである。
主要資料
Debates
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Laws
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−13−
セキュラリズムと多文化主義:現代インドの課題と挑戦
池亀 彩
先ずフィールドでの体験から議論をはじめたい。ここ数年、宗教リーダー(グル)が居住するマタと呼ばれる
ヒンドゥー僧院を訪ねて、南インドの村落部をまわっている。そこで僧院で働く人々や信者たちから話を聞いて
いると、「われわれの僧院はセキュラーな僧院です」という表現に出くわすことがしばしばある。私としては宗教
施設を訪ねているつもりなのに、その内部にいる人たちに「自分たちはセキュラーです」といわれ、はじめはひ
どく戸惑ったものだ。彼らは、現地語のカンナダ語で会話していても、
「セキュラー」というところだけ英語で言う。
ただ、彼らのいう「セキュラー」とは英語圏でいわれるセキュラー(Secular)となにか違う。英語圏でいわれるセキュ
ラーとは、非宗教的な、とか世俗的な、ということである。世俗ということでは、南インドでは laukika という言
葉があるが、これは、在家的、出家していない(現世放棄していない)ことを指すのであって、英語圏で使われ
る非宗教的という意味ではセキュラーではない。実際、南インドの言語では、非宗教的ということに対応する言
葉がないのである。
では、南インドの人々がいう「セキュラー」とは、なんだろうか。これは世俗的あるいは非宗教的という意味
でのセキュラーではないし、日本語で理解されているような政教分離としてのセキュラーでもない。彼らが「わ
れわれの僧院はセキュラーな僧院です」という時の「セキュラー」は、実はカンナダ語では jātyatīta という言葉に
あたる。jāti というのは、普通はカーストと同義に使われるが、本来的には種類という意味である。jātyatīta とはカー
ストであったり、宗教であったり、或いはエスニシティーであったり、人種であったり、そういった人々を区別
する種類/カテゴリーを超えているという意味である。つまり、ある僧院を jātyatīta(セキュラー)だというのは、
カーストや宗派で人を差別せず、誰でも受け入れる僧院であるということなのである。
南インドのマタの信者たちが、なぜ jātyatīta としてのセキュラーという性格を強調するかというと、地域社会
に密着したマタのほとんどは、特定のカースト・コミュニティー、あるいはサブ・カースト・コミュニティーと
密接な関係を持っている。したがって「このマタは洗濯屋カーストのマタだ」とか、「あのマタはバラモン(司祭
階級)のマタ」だとかというふうに、カーストと結びつけて呼ばれることが多い。こうした特定のカーストとの
結びつきを否定して、自分たちにはそういった排他性もないし、党派性もないのだということを言うために、自
分たちはセキュラーだという言い方をするのである。つまり、党派性が実は根強くあるからこそ、開かれている
こと、差別をしないこととしての jātyatīta /セキュラーを強調するのである。 jātyatīta としてのセキュラーという
表現は、インドにおけるセキュラリズムを考える上で、非常に示唆的である。インドにおけるセキュラリズムの、
まさにインド的なる部分は、このセキュラーなマタ(僧院)という、一見矛盾した表現に現れているのである。
セキュラリズムの規範的な定義というのは、宗教と政治は分離されるべきであるということ。そして、宗教実
践は個人の私的領域に限定されて、政治などの公的な領域からは排除されること。つまり宗教と政治の分離は私
的領域と公的領域の厳格な分離でもある。同時に、私的領域で個人がどういう宗教を信じていようが、それは侵
−14−
害されない(信仰の自由)。これが一般的な定義であるとすると、しばしば福次的に定義されるのが、国家政府、
国家権威は全ての宗教を対等に扱わなければいけないというものである。つまり国家は特定の宗教に肩入れせず、
すべての宗教と同じ距離を保つべきだとされる。この副次的なセキュラリズムの機能、目的が多文化、多宗教な
社会においては、それぞれのコミュニティーの多様性・独自性を国家が保証するものとして現れてくる。これを
私は多文化主義、或いは多文化状態に置かれているセキュラリズムと呼びたい。
セキュラリズムのもつ一種の二重性(政教分離と国家による宗教の対等な扱い)はインド憲法内にも見られる。
一方で個人の平等が保証され、差別の撤廃がうたわれている(Article 14, 15)と同時に、信教の自由と、さらに
文化的多様性、多元性が保証されることが規定されている(Article 25-28)。つまり、前者の規定によれば、個人
は同等に扱われなければならない。しかし後者においては、場合によっては、個人は異なるものとして扱われる。
つまり個人が異なるコミュニティーに属しており、コミュニティーの多様性(差異)が保証されるとすれば、個
人は、同じものではなく、異なるものとならざるをえない。
志賀報告がまとめているように、インドにおいては、Personal Law という問題がある。これは、前述した憲法
の中に見られる二重性が典型的に表れている例と言える。インドの Personal Law
(家族法)は、個人がどの宗教コミュ
ニティーに属しているかによって、異なる法体系が用意されている。これは植民地時代のディバイド・アンド・ルー
ル(分割統治)に由来しているが、1947 年のインド独立後も維持されてきた。この宗教別 Personal Law に対して、
独立以前から、統一の Uniform Civil Code(UCC)を作ろうという動きはあった。この UCC を作ろうという運動
の初期においては、Hindu Personal Law(ヒンドゥー家族法)は、他のムスリム家族法やキリスト教家族法に比べ
て後進的であると指摘されることが多かった。それは、ヒンドゥー家族法においては結婚した女性の父親が死ん
だ時に、彼女に父親の遺産に対する相続権がないなどの規定のためである。女性にも同等の相続権が与えられて
いたムスリムやキリスト教徒の家族法の方が進歩的、近代的であると考えられていた。
他の家族法に比べ、ヒンドゥー家族法は後進的であるというイメージが覆されるのが、1985 年のシャー・バノ
というムスリム女性が起こした裁判である。この裁判は非常に有名で、シャー・バノ裁判と呼ばれるが、この裁
判によってムスリム家族法の後進性があらわになっていく。シャー・バノは当時 62 歳、中央インド・インドール
の出身で、裕福な法律家の妻であった。5 人の子どもをもうけたものの、一方的に夫から離婚を言い渡され、1978
年に離婚する。ムスリム家族法では、夫は妻の意志に関係なく、離婚を宣言できる。タラークという言葉を妻の
目前で 3 回言えば離婚が成立する。これは現在でもインドでは有効であるが、ムスリム人口の多い他の国では認
められてない(例えばパキスタンでは有効ではない)
。またムスリム家族法では、離婚した(された)女性に対す
る生活費の保証は、女性の家族あるいは政府のワクフ局(宗教寄進を管理する部局)によって担われると規定さ
れており、元の夫の義務ではない。これに不満をもったシャー・バノは、Criminal Procedure Code、いわゆる刑事
訴訟法の 125 条で保証されている離婚した女性が元の夫から受け取ることのできる月々の生活費 500 ルピーを夫
に要求したが受け入れられなかったため、最高裁に訴える。この裁判では、インドの法体系内部の矛盾が明らか
になったといえる。つまりシャリア法に基づいているムスリム家族法 Muslim Personal Law では、夫は元の妻の生
活を保証する義務はないとされる一方で、刑事訴訟法では、夫には一定の義務を規定している。結局、最高裁は、
刑事訴訟法はムスリム家族法の規定を無効にできると主張し(つまり刑事訴訟法は家族法よりも優先される)
、元
の夫は生活費を払う義務があるという判決を下した。この時の判決文には刑事訴訟法が家族法よりも優先される
理由を次のように説明している。「セキュラリズムという目的を達成するために、国家は、宗教別の家族法の執行
−15−
をやめるべきである」
( In pursuance of the goal of secularism, the state must stop administering religious-based personal
laws )
シャー・バノ裁判の判決に対して、保守的なムスリム層は非常に反発した。この最高裁の判決においては、最
高裁の判事がシャリア法やコーランの規定をさまざまに解釈したが、ムスリム保守層にとっては、そもそも解釈
するという行為そのものが宗教への冒涜であると主張した。また世俗権威である裁判所が宗教の領域に入って、
シャリア法の是非を問うべきではないとした。さらに、最高裁が支持した Uniform Civil Code への移行は、多数派(ヒ
ンドゥー)による少数派コミュニティー(イスラム教徒やキリスト教徒)の identity を傷付けるものだとして抗議
した 。
シャー・バノ裁判の判決は、政治的にも社会的にも大きな問題となったため、当時のインド首相であったラジヴ・
ガンディーは、この問題に介入せざるを得なかった。この介入のもっとも大きな理由のひとつは、彼の所属する
国民会議派にとっては、これまで国民会議派を支持してきたムスリム票を失いたくないことがあった。そのため、
翌年 1986 年に Muslim Women(Protection of Rights on Divorce)Act を発令する。これは名前からすると、あたかも
女性保護をうたっているようであるが、実はそうではなくて、ムスリム家族法における規定を裏書きするもので
あった。これによると、元の夫は、ムスリム家族法で規定されているように離婚した妻に生活費を払う義務はない。
ラジヴ・ガンディーはこの新しい法律を発令することによって、最高裁の判決を覆したのである。
すでに述べたように、ラジヴ・ガンディーの決断は、ムスリム票を失うことを恐れた、極めて場当たり的な政
治的判断であったのだが、ラジヴ・ガンディーはこの判断を、セキュラリズムを守るための行動だとして正当化
した。セキュラリズムを追従するためとした最高裁の判決と、セキュラリズムを守るためというラジヴ・ガンディー
の政治判断が、同じセキュラリズムという言葉を用いているにも関わらず、まったく異なる、相反する結論を引
き出したのである。
さて、シャー・バノ論争以降、セキュラリズムや家族法をめぐる環境はどう変化しただろうか。先ず The
Uniform Civil Code(UCC)へ向かうべきだという議論は、ヒンドゥーとムスリムの共同体間の争いとしてコミュ
ナル(communal)化してしまった。UCC(統一家族法)を主張することは、ヒンドゥー右派のヒンドゥー至上主
義者にとっては、ムスリムの後進性を主張する絶好のチャンスとなった。特にムスリム家族法の中にある一夫多
妻制の規定をとりあげて、だからムスリムは遅れていて、ヒンドゥーの方が進歩的だと主張する。ムスリムにとっ
ては、UCC に向かうことは、ヒンドゥー多数派によってムスリムのアイデンティティーが否定され、少数派の自
己決定権を奪うことと同じことだと捉えられるようになった。
この結果、ヒンドゥー家族法内部の後進性を指摘し、統一家族法を作ることで、女性差別問題やカースト差別の
問題を是正していこうという主張は、政治的に難しくなってしまった。特にフェミニズム運動は非常に難しい立場
に置かれることになった。またムスリム家族法を肯定することは、マイノリティーの権利を主張することと同義に
なり、
逆にムスリム家族法内部の規定を近代化しようという動きもまた困難になってしまった。シャー・バノ自身も、
自分は最高裁の判決で保証された生活費を主張するよりもムスリムの女性であることを選択するとして訴えを退け
ている。
−16−
シャー・バノ論争から学ぶことはなんだろうか。このインドの事例は、多文化・多宗教な社会における法制度
を考える上で重要な先例であるといえる。セキュラリズムの在り方は多様であり、地域性、歴史性に大きな影響
を受けている。志賀報告にもあるように、ある地域のセキュラリズムの現状を、西洋のモデル、こう在るべきと
いうモデルからの距離として見るのではなくて、むしろ多様なセキュラリズムの形があって、それが歴史的に、
また地域的にどう発展してきているのかを考えることが重要であろう。その意味においては、セキュラリズムを
人類学的に、そして歴史学的に研究していくことに意義があると思われる。
シャー・バノ論争で明らかになった多文化主義とセキュラリズムをめぐる問題をもう少し一般的な視野で整理
してみたい。先ず、多文化主義が主張される際には、宗教/文化/エスニシティーというものがはっきりとした
境界線で区切られた入れ物のように捉えられている。多文化主義が主張される時、こうした入れ物に入ることを
前提にされる個人のあり方と、すべての人々が同じ権利を持つことを前提とされたばらばらな(つまり入れ物が
問題とされない)個人という概念が対立する。その場合、つまりどこまでがある入れ物に固有の行為あるいは価
値観なのか(つまりある宗教やエスニシティーに共有されていることなのか)
、そしてどこまでがばらばらの一個
人の選択の問題なのかを区別することが問題になってくる。そうした線引き、つまりすべての個人は同様の権利
と義務を持つという法体系の中で、宗教や文化の差異(それぞれの入れ物の違い)というのが例外として認めら
れるとするならば、果して法体系として、そもそも例外を前提にしているような体系というのは、そもそも法体
系といえるのかという疑問も出てくる(例えば、イギリスなどでシク教徒にのみ、自動二輪車を運転する際にヘ
ルメットをかぶらなくてもいいという例外が認められている)。
多文化主義をめぐるもう一つの問題は、ある宗教やエスニックグループ(入れ物)の内部の格差、差別などが、
ある文化に固有の習慣だとして容認されてしまう可能性があるということである。例えば、ヒンドゥー教の内部
のカースト制度を差別として見るのか、或いは文化だと見るのか。文化として見た場合には、差別を無くしてい
こうという運動が無意味になってしまう。こうした見方は、宗教の在り方を内部から変容、或いは近代化させて
いくことを益々困難にしている。さらに付け加えれば、
(入れ物の)外から見て、一体何が差別的なのか、何が抑
圧的なのかと判断すること自体も、果たして普遍的にできることなのかということを考える必要があるだろう。
例えば、フランスやベルギーでは最近ヒジャーブと言われる、ムスリムの女性がベールを公共の場で被ること
を禁止する法律を発令した。イギリスでの多文化主義からみると、フランス型の Laïcité と言われるセキュラリズ
ムの在り方とイギリス型セキュラリズムの違いに驚かされる。イギリスでは多少の差異(例えば、シク教徒にヘ
ルメット着用の義務を免除することなど)はコミュニティーの独自性として許容されることが多い。ベールなど
も文化として認識されている。しかし、フランスやベルギーなどでは、公的な場に宗教(宗教シンボルや、衣装
を含める)を持ち込まないというセキュラリズムの理念をすべての人々が共有することを前提とする。ヨーロッ
パのセキュラリズムを我々は一枚岩的に捉えがちであるが、実は多様であることにも注意を払う必要があるだろ
う。
誰もが同じ権利と義務を持つことを前提としたセキュラリズムと、個々人はそれぞれが属する宗教やエスニシ
ティーなどの入れ物内部の権利と義務に従うことが認められるべきであるという多文化主義は、完全に対立して
いて、調停することは不可能なように見えるかもしれない。こうした対立を我々はどう乗り越えたらいいだろうか。
おそらく重要なことは、文化間、コミュニティー間の違いを絶対的なものと考えずに、違いを交渉したり、議論
−17−
したりするようなシステム、或いは場の構築、維持が必要であろう。つまり一方的にある特定のルールを押しつ
けたり、前提とするのではなく、もっとプラグマティックに違いを交渉できるシステムや、宗教リーダーやエスニッ
クグループ同士の話し合いの場などが作られなくてはならない。
もう一つ、我々が考えるべき問題は、宗教、文化、identity、或いはエスニシティーがはっきりとした境界をも
つ入れ物のように捉えられてしまっていることである。例えばシク教徒であれば、ターバンを被っていて当然で
あるとか、ムスリム女性だったら顔を隠さなければいけないという前提に対して、それがどう歴史的に、あるい
は地域的に構築されてきたのかを問い直したり、あるいは意味をずらしていくような文化社会行動を見つけて、
その意義を考えていくような学術的な取り組みが必要であろう。
−18−
政党政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズム
上田知亮
はじめに
本報告の検討対象は、実際の具体的な現実政治におけるヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズムの関係
である。権力闘争が繰り広げられる現実政治のなかで、宗教ナショナリズム政党が権力を握る、政権を獲得する
ということがセキュラリズムの危機に直結するのか否かということを検証する。つまり、本シンポジウムにおい
て志賀報告や池亀報告が歴史や理念、理論、思想の面からセキュラリズムについて問題を提起したのに対して、
本報告では現実政治、権力闘争のなかでヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズムの関係を問うことになる。
そして本報告の結論を先取りして述べるならば、宗教ナショナリズム政党の抬頭がセキュラリズムの危機に直結
するわけでは必ずしもない。
宗教ナショナリズム政党であるインド人民党(BJP)の場合、野党時代には責任がないため過激な言動が可能で
急進的な運動を行ったが、一旦与党になって政権を運営するようになると、様々な責任を負うとともに、権力と
政権を維持したいという政治的な欲望も出てきた結果、穏健化せざるを得なかった。こうした政治過程を踏まえ
ると、宗教ナショナリズムの政権奪取が必ずしもセキュラリズムの危機につながるわけではなく、むしろ政治権
力の獲得が穏健化につながる場合もあることが明確となる。重要な点は、セキュラリズムにとって危機的状況と
なるかどうかは、その時々の政治状況にかなり依存するということである。
さらにここで留意すべきなのは、国政レベルの動きだけをみていては不十分であり、州政治も個別具体的に検
証せねばならないということである。インドの州はそれぞれ独特の政治状況を抱えているため、宗教ナショナリ
ズムとセキュラリズムの関係も州ごとに大きく異なりうる。そこで本報告では、ビハール州とオリッサ州の二州
をとりあげて比較し、宗教ナショナリズム政党の興隆や政権獲得が即座にセキュラリズムの危機になるとは必ず
しも言えないということを示す。
1.BJP の躍進
まず国政レベルでの BJP の動向について検討する。周知の通り、
ヒンドゥー・ナショナリズム政党である BJP は、
コミュナリズム(宗派主義)、特にヒンドゥーとムスリムの間の暴力を先導してきた。その代表的な例が、1992 年
12 月のアヨーディヤー事件でのバーブリ・マスジドの破壊である 1)。BJP は 1980 年に結成され、その後着実に勢
力を伸ばし、1996 年の総選挙では念願の第一党に躍り出た。しかし組閣したものの議会の信任が得られず、わず
か 13 日間で BJP 政権は瓦解した。
この経験から BJP は、単独では議会の信任が得られない以上、様々な政党と選挙協力を行い、連立政権を組ま
なければいけないという教訓を得た。政権維持のためには多くの地域政党と組まねばならないということを痛感
したのである。他方、政権はわずか 13 日間で崩壊したとはいうものの、宗教ナショナリズム政党である BJP が第
一党に躍り出たということは、
多くのジャーナリストや研究者に強い危機感を抱かせることになった。というのも、
1 ヒンドゥー・ナショナリズムについては、中島岳志『ナショナリズムと宗教――現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』(春
風社、2005 年)参照。
−19−
宗教ナショナリズム政党が第一党に躍り出たことで、インドの独立以来の国是であるセキュラリズムが崩壊の危
機に立たされている、脅威にさらされているということが強く意識されるようになったからである。実際、ヒン
ドゥー・ナショナリズムとセキュラリズムに関する論文や研究書が 1990 年代後半に数多く刊行されることとなっ
た 2)。
2.BJP の政権獲得と挫折 3)
では実際に BJP の勢力拡大と政権奪取がセキュラリズムの危機に直接的に繋がったのかというと、必ずしもそ
うとは言えない。むしろ危機は後退したという方が正確であろう。
1996 年総選挙で成立した BJP 政権は短命に終わったが、1998 年総選挙で BJP は再び勝利を収めた。この選挙では、
同党は様々な地域政党と選挙協力を行い、アタル・ビハリ・ヴァジペーイー内閣は見事に議会の信任を確保する
ことに成功した。こうして BJP を中心とする連立政権が成立した。連立パートナーの離脱により少数内閣に陥っ
たため翌年には再び総選挙が実施されるが、BJP は再度勝利を収めた。その後 2004 年まで BJP は連立政権の中心
として政権運営をしていくこととなる 4)。
では政権を担ったこの 5 年間に BJP は宗教ナショナリズムという自らのイデオロギーに基づく政策を実行でき
たのか。結論からいうと、実行できず、むしろ政策は穏健化していったと考えられる。その大きな要因としては、様々
な地域政党と連立を組んだことが挙げられる。10 以上という極めて多くの政党と連立を組まねばならないという
状況下で、BJP は支持団体と連立パートナーの間で板挟みとなり、宗教問題から距離をとるようになったのである。
連立政権を維持することがいかに困難なことかは、日本の民主党の事例からも明白であろう。
政権を担当することとなった BJP に対して、支持母体である宗教ナショナリズム団体(「サング・パリワール」
と総称される)は強力な圧力を加えた。RSS(民族奉仕団)や世界ヒンドゥー協会(VHP)など様々なヒンドゥー・
ナショナリズム団体が、ラーム寺院の建設などヒンドゥー・ナショナリズムのイデオロギーに沿った宗教問題の
解決を、中央政府の政治権力を用いて実現するよう BJP に迫ったのである。
他方で連立パートナーは、懸案となっているアヨーディヤー問題などの宗教問題で性急な行動に出ないよう
BJP を牽制した。連立政党はヒンドゥー・ナショナリズムの推進に反対の立場を、あるいは少なくとも慎重な姿
勢をとったのである。なぜなら BJP と連立を組んでいる様々な地域政党は、ヒンドゥー・ナショナリズムに賛同
して連立を組んだわけでは全くなく、それぞれが地盤とする州において州政権を巡る競合相手である会議派に対
抗する必要から BJP と連携していることが多いからである。インドにおける政党の動向は極めて打算的であり、
BJP と提携する地域政党もその例外ではなかったのである。
BJP の連立パートナーである地域政党の支持基盤は多くが下位カースト、OBC(その他の後進諸階級)やムス
リムであった。したがって支持者の利害を考慮すると、連立友党は宗教問題で BJP が暴走することを絶対に阻止
せねばならなかったのである。あくまで政治権力に与るために BJP と連携しているにすぎず、同党と宗教イデオ
ロギーを共有していたわけではない友党は、宗教的に穏健化する圧力を加えたのである。
その結果、BJP はサング・パリワールと連立パートナーの板挟みになり、この隘路からの脱出策として、宗教
問題から距離を取って問題を棚上げするようになった。解決せざるをもって解決とするとでもいうべき立場に立っ
たのである。そして自らの宗教イデオロギー色を稀薄化して、新自由主義的な経済政策を前面に押し出し、経済
2 一例として、Rajeev Bhargava(ed.),Secularism and Its Critics, Oxford University Press, 1998.
3 詳細はさしあたり、上田知亮「インドにおける民主主義と連立政治――ヒンドゥー・ナショナリズムの内紛と BJP の苦境」
、玉田
芳史、木村幹(編)『民主化とナショナリズムの現地点』(ミネルヴァ書房、2006 年)第 7 章、149 − 168、330 − 332 頁および、同「イ
ンドにおける政治指導――BJP はなぜ成功し、そして挫折したのか」『日本比較政治学会年報第 10 号 リーダーシップの比較政治学』
2008 年、39 − 60 頁を参照。
4 Katharine Adeney and Lawrence Sáez(eds.),Coalition Politics and Hindu Nationalism, Routledge, 2005.
−20−
成長を政権の実績として強調するようになった。
しかしこうした BJP の路線は成功せず失敗に終わった。2004 年総選挙で BJP は敗退し、会議派が勝利を収めた。
BJP の敗因としては、競争と経済成長を重視した新自由主義路線が不発に終わったことに加えて、サング・パリワー
ルが選挙運動にあまり協力せず消極的な立場をとったことが挙げられる。後者に関していうと、露骨に BJP 批判
を行う団体も少なくなく、結果として BJP の集票力が弱体化したのである。2004 年総選挙での敗北後の BJP は新
たな路線を模索し、党としてのアイデンティティの再確立を図ったが、順調には行かなかった。2009 年総選挙で
も会議派が勝利を収め、BJP は政権奪還に失敗した。
以上のような国政レベルにおける BJP の動向を、宗教ナショナリズムとセキュラリズムの関係という観点から
整理すると、野党時代の BJP こそセキュラリズムに対する脅威であったが、政権獲得後は穏健化して危機は後退
したといえるであろう。そこには現実政治に働く政治力学、権力のメカニズム、とりわけ連立政治の圧力が大き
く作用したのである。
3.州政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズム
①ビハール州
次に州レベルに目を転じて、州政治におけるセキュラリズムと宗教ナショナリズムの関係の現状について検討
する。ここで取りあげる州はビハール州とオリッサ州である。まずビハール州は、地域政党と BJP の連立が首尾
よく機能して政権を維持している事例である。次に検証するオリッサ州は、地域政党と BJP が良好な関係を長期
間築いて連立政権を担ってきたが、最近になって連立解消した事例である 5)。
ビハール州の政党システムは、ニティシュ・クマールが率いるジャナタ・ダル(統一派)とラルー・プラサー
ド・ヤーダヴが率いる民族ジャナタ・ダルという、二つの地域政党の対立が基軸になっている。前者は、OBC の
うちクルミとコエリというカーストを主な支持基盤としており、党是として社会主義、民主主義、そしてセキュ
ラリズムを標榜している。そして神政国家(theocratic state)を批判している。これに該当する政治勢力として真っ
先に連想されるのは、ヒンドゥー・ナショナリズムと BJP である。
こうした点から判断すると、ジャナタ・ダル(統一派)は BJP と対立するのが自然なように思われる。しかし
実際には、その前身のサマター党時代の 1996 年から今に至るまで、ジャナタ・ダル(統一派)は一貫して BJP と
連立を組んでいるのである。これは、主な政敵である民族ジャナタ・ダルに対抗するには BJP と提携する方が有
利であるという政治的打算に基づく政党行動と捉えられる。
他方でその政敵である民族ジャナタ・ダルも OBC を支持基盤としており、そのなかでもヤーダヴが主要な支持
層である。同党もセキュラリズムを標榜し、明確に反 BJP 路線を打ち出している。
本報告では、セキュラリズムを標榜していることと、その活動や政策がセキュラリズムに合致しているかどう
かは問わない。それよりも、党是としてセキュラリズムを標榜している政党がどのような役割を現実の政党政治
において果たしているのかということの方が重要であると考えるからである。したがってここでは、両党が少な
くとも建前としてはセキュラリズムを標榜しているということを指摘するに留める。
ビハール州における近年の選挙結果からは、セキュラリズム政党と宗教ナショナリズム政党が緊密に連携して
いることが確認できる。2005 年 10 月の州議会議員選挙ではジャナタ・ダル(統一派)と BJP の政党連合が勝利
を収め、ニティシュ・クマールを首班とする内閣が成立した。2010 年の 10 月から 11 月にかけて 6 回に分けて行
われた州議会議員選挙でも、ジャナタ・ダル(統一派)と BJP で議席の 8 割を占めるという圧倒的勝利を収めた。
ビハール州においてセキュラリズム政党であるジャナタ・ダル(統一派)とヒンドゥー・ナショナリズム政党で
5 ビハール州とオリッサ州における近年の政治過程についてはさしあたり、広瀬崇子、三輪博樹、北川将之(編)
『インド民主主義
の発展と現実』(勁草書房、2011 年)の拙稿を参照。
−21−
ある BJP は、これまでのところ良好な関係の構築と、それに基づく政治的成果の確保に成功していると言える。
②オリッサ州
次にセキュラリズムを掲げる地域政党と BJP の関係が悪化して決裂した事例として、近年のオリッサ州政治に
ついて検討する。オリッサ州政治の政党システムは、現州首相のナヴィーン・パトナイク率いるビジュ・ジャナタ・
ダルとインド国民会議派との対立が基軸となっている。国政において競合している会議派と BJP はオリッサ州で
も対立しており、ビジュ・ジャナタ・ダルは BJP と提携することが会議派への対抗策として合理的であるという
思惑から、長年 BJP と連立を組んできた。ビジュ・ジャナタ・ダルの特徴としては、OBC を中心に幅広い支持を
得ていることと、党是としてセキュラリズム堅持の立場を鮮明にし、宗派主義に対して非常に警戒的な姿勢をとっ
ていることが挙げられる。党首のナヴィーン・パトナイク自身、そうした立場を度々口にしている。
しかし、それでは宗教ナショナリズム政党である BJP と敵対しているかというと、実態は正反対であった。ビ
ジュ・ジャナタ・ダルは 1998 年総選挙から 2009 年 3 月までの実に 11 年という長きに亘って BJP と連立を組み続
けたのである。新聞などマス・メディアにおいても、しばしばビジュ・ジャナタ・ダルは BJP の最も忠実な同盟
相手と呼ばれてきた。
しかし、その良好な関係も遂に崩れる時が来た。2007 年 12 月ならびに 2008 年 8 月にオリッサ州カンダマル県
で発生した宗派暴動をきっかけにして、BJP とビジュ・ジャナタ・ダルは連立を解消したのである。2007 年 12 月
の宗派暴動では、キリスト教徒であるダリト(指定カースト)が世界ヒンドゥー協会(VHP)の幹部を襲撃した
ことに対して、サング・パリワールが報復活動を行った。このとき与党ビジュ・ジャナタ・ダルと州首相ナヴィー
ン・パトナイクは、連立を組む BJP への配慮もあり、暴力行為に走るヒンドゥー・ナショナリストに厳格に対処
しなかった。結果として暴動に対する政府の対応は後手に回り、その消極的な対応が批判を浴びることとなった。
さらに 2008 年 8 月に再びカンダマル県で宗派暴動が勃発した。その発端は、反体制武装極左組織であるイン
ド共産党(マオイスト)が世界ヒンドゥー協会の幹部を殺害したことである。この殺害事件に対する報復として、
サング・パリワールが多くの教会や商店、家屋を焼き打ちにし、多数の被害者が出ることになった。オリッサ州
西部一帯で宗派暴動が吹き荒れたのである。事ここに至ってさすがに決断と対処を迫られたナヴィーン・パトナ
イクは、次第に BJP と距離を取り始めた。州首相として事態の沈静化に責任を負うパトナイクは、治安の回復こ
そ最優先課題であり、セキュラリズムを護持せねばならないと熱心に訴え掛けるようになった。
ナヴィーン・パトナイクが BJP との関係の再考を迫られていたところに、それに拍車を掛ける要因が生じた。
2008 年 12 月に州都であるブバネーシュワルの市議会議員選挙が、そして 2009 年 2 月にオリッサ州第 2 の都市で
あるカタクの市議会議員選挙が実施されたのである。この両市議会議員選挙でビジュ・ジャナタ・ダルは BJP と
選挙協力を行わず単独で選挙を戦った。その結果、ビジュ・ジャナタ・ダルが勝利を収め、BJP は大敗した。こ
の勝利からナヴィーン・パトナイクは、BJP と訣別して単独で州政権を維持することは可能であるという自信を
深めた。彼は 2009 年総選挙での選挙協力に関する協議で強気に出て、BJP が承服できない要求を突き付けた。結
局 BJP との話し合いは物別れに終わり、ビジュ・ジャナタ・ダルは単独で選挙戦を戦うことになった。こうして
遂にビジュ・ジャナタ・ダルと BJP の連立は解消されたのである。
オリッサ州では 2004 年総選挙の際と同じく 2009 年総選挙でも、州議会議員選挙が同日実施された。前回と異
なり単独で選挙戦を戦うこととなったが、ビジュ・ジャナタ・ダルは連邦下院と州議会の両選挙で大勝を収めた。
会議派と BJP は惨敗を喫したのである。それまで連立政権の一角を占めていた BJP は野に下ることとなった。地
域政党との選挙協力の重要性をオリッサ州の事例は示しているのである。
ただし BJP 幹部自身も、大敗を早々に覚悟していたようである。2009 年選挙には早くから見切りを付け、最悪
−22−
の結果を回避する努力をするのではなく、むしろ選挙戦をサング・パリワールとの関係の改善と強化、そしてそ
れを梃子とする党勢回復の機会にしようと考えたのである。ヒンドゥー・ナショナリズム政党として非常に強硬
な路線を打ち出した BJP の選挙戦はそれを鮮明に示している。同党は連邦下院選挙のカンダマル選挙区で宗教的
強硬派を擁立する一方、州議会選挙では宗派暴動の吹き荒れたカンダマル県内の選挙区に、その宗派暴動で殺人
を犯したとされる容疑者を擁立するという暴挙に出たのである(後者は当選)
。こうした事実から、ビジュ・ジャ
ナタ・ダルとの連立解消により政治的枷が外れたことで、ヒンドゥー・ナショナリズム政党として過激な路線に
復帰することに生存の活路を求めることを選択した BJP の姿を読み取るとしても、あながち不当ではないように
思われる。
おわりに
国政レベルにおける 1998 年から 2004 年までの与党 BJP の戦略と、近年のビハール州およびオリッサ州におけ
る地域政党と BJP の関係についての以上の検証から、現代インド政治において宗教ナショナリズムとセキュラリ
ズムが必ずしも二律背反とは限らないことが明らかとなった。とりわけオリッサ州の事例を見ると、連立を解消
して政権から外すことが、むしろ宗教ナショナリズム政党の急進化と強硬化を招いてしまう危険が高いことがわ
かる。換言すれば、連立政権に引き入れて政治権力をある程度与えておく方がセキュラリズムにとっては安全な
場合もあるのである。つまり、異教徒排斥を唱える宗教ナショナリズム政党の政権獲得は必ずしもセキュラリズ
ムの危機に直結するわけではなく、それを抑制するメカニズムが政治権力をめぐる現実政治には内蔵されている
のである。
ただし本報告で検討した事例は限られており、グジャラート州やウッタル・プラデーシュ州、マハーラーシュ
トラ州など大規模な宗派暴動の苦い記憶をもつ州についての考察は行っていない 6)。その点で、現代インドにおけ
るヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズムとの関係についての本報告の検証はまだまだ不十分であると言
わざるを得ない。だがそれは一人の研究者の能力をはるかに超えた作業であり、多くの州政治研究者による共同
研究が必要不可欠である 7)。この課題は、筆者も参加している龍谷大学拠点(現代インド研究センター)州政治研
究会において共同研究を進めるなかで今後より徹底して解明していく「宿題」としたい。この共同研究の強力な「連
立パートナー」として一人でも多くのインド研究者にご協力いただけるよう懇望して、本報告を終える。
参考文献
Adeney, Katharine, and Lawrence Sáez(eds.),Coalition Politics and Hindu Nationalism, Routledge, 2005.
Bhargava, Rajeev(ed.),Secularism and Its Critics, Oxford University Press, 1998.
Chatterji, Angana P., Violent Gods: Hindu Nationalism in India s Present; Narratives from Orissa, Three Essays Collective,
2009.
Kumar, Sanjay, and Rakesh Ranjan, Bihar: Development Matters, Economic & Political Weekly, Sep. 26, 2009(Vol. 44,
No. 39),pp. 141-144.
Misra, Surya Narayan, Naveen Patnaik Authors a New Chapter for Orissa, Economic & Political Weekly, Sep. 26, 2009(Vol.
44,No. 39),pp. 148-150.
6 スティーヴン・ウィルキンソンは、政党間競争のなかでムスリムなど少数派の支持を各党が追及するがゆえに、2002 年のグジャ
ラート州ゴードラーでの宗派暴動の影響はその他の州に波及しなかった点を強調している。Steven I. Wilkinson, Putting Gujarat in
Perspective , Economic and Political Weekly, Vol. 37, No. 17, April 27, 2002, pp. 1579-83.
7 20 を超える州と連邦直轄領の選挙結果を含めて、2004 年総選挙と 2009 年総選挙を総合的に分析した共同研究の成果として、広瀬
崇子、井上恭子、南埜猛(編)
『インド民主主義の変容』
(明石書店、2006 年)と、広瀬ほか(編)
『インド民主主義の発展と現実』
がある。
−23−
Shastri, Sandeep, Leadership at the State Level Mattered, Economic & Political Weekly, Sep. 26, 2009(Vol. 44, No. 39),
pp. 88-91.
Shastri, Sandeep, K. C. Suri, and Yogendra Yadav(eds.),Electoral Politics in Indian States: Lok Sabha Elections in 2004
and Beyond, Oxford University Press, 2009.
Wilkinson, Steven I., Putting Gujarat in Perspective , Economic and Political Weekly, April 27, 2002(Vol. 37, No. 17), pp.
1579-83.
上田知亮「インドにおける民主主義と連立政治―ヒンドゥー・ナショナリズムの内紛と BJP の苦境」、玉田芳史、
木村幹(編)『民主化とナショナリズムの現地点』(ミネルヴァ書房、2006 年)
―「インドにおける政治指導―BJP はなぜ成功し、
そして挫折したのか」
『日本比較政治学会年報第 10 号 リー
ダーシップの比較政治学』2008 年、39 − 60 頁。
中島岳志『ナショナリズムと宗教―現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』(春風社、2005 年)
広瀬崇子、井上恭子、南埜猛(編)『インド民主主義の変容』(明石書店、2006 年)
広瀬崇子、三輪博樹、北川将之(編)『インド民主主義の発展と現実』(勁草書房、2011 年)
−24−
セッション 2
日本における国家と宗教
現代日本の国家と宗教
平野 武
1 政教分離について
インド憲法も日本国憲法もいわゆる政教分離の原則を採用している。もちろん、インドの社会と日本の社会
では宗教の占める地位は大きく異なっており、単純な比較はできないであろう。私は、龍谷大学で憲法と宗教法
を担当している。インドのことについては無知であるが、日本の状況についてお話することがインドにおける
Secularism を考える際に参考になる視点を提供できるかもしれないと考え、
「現代日本の国家と宗教」について報
告をすることにした。
まず、政教分離という言葉であるが、実は日本国憲法には政教分離という言葉は法文上は存在しない。そのこ
ともあって、政教分離というのは一体何なのかということについて、定まった考え方が必ずしもあるわけではない。
政教分離とは、政治と宗教の分離なのか、国家と宗教の分離なのか、或いは国家と宗教団体すなわち教会の分離
なのか、論者によっていろいろな見解がある。これらの見解は、もちろん少しずつニュアンスが違っている。
例えばアメリカでは、政教分離を国家と教会すなわち State と Church の分離として理解している人が多いよう
である。その場合、国家が全ての宗教から分離するということが含意されているわけでなく、国家は宗教団体か
ら等距離を置くべきという意味合いが強い。そして、そのような下では周知のとおり、大統領の就任の宣誓の時
にはバイブルに手を置いて、新任者は大統領の職を受託し、裁判所での証言の際に証人は同様の宣誓行為をする
わけである。そのようなことについて、若干異を唱える人もいないわけではないが、少なくともユダヤ・キリス
ト教を基盤にして考えた場合には、それほど大きな問題はないと考えられてきた。そういうところから、いわゆ
る Civil Religion すなわち「市民宗教」というような主張もあるわけである。
そのことはさておいても、政教分離という言葉の意味合いは、広い意味で考える場合と狭い意味でとらえる場
合(狭義の場合これを政教分離制と呼ぶことにする)はやはり違ってくると思われる。近代国家は、宗教的な意
味合いをもたず、世俗的なものでなければならないという意味では、多くの近代国家は広い意味での政教分離を
採っているといってよいが、制度としてそれが確立しているかどうか、すなわち政教分離制が採用されているか
どうかは別問題である。
周知のとおり、イギリスにはアングリカン・チャーチが国教として存在しており、ノルウェーやデンマークに
もルター派が国教として存在している。国教制とは異なり、いわゆる公認教制度を採っている国もある。ドイツは、
憲法では国教は存しないと宣言しているが、プロテスタントとカトリック、それから戦後はナチスユダヤの経験
を踏まえて、ユダヤ教も含めて、三つの宗教が公認された宗教であって、その他の宗教とは区別されている。例
えば、公立学校において宗教教育がその三つの宗教に限っては実施されており、さらに、この三つの宗教につい
ては教会税が国家によって徴収されて、配分されている。それにも拘らず、広い意味では政教分離だといわれる
ことがあるが、ドイツの制度は、厳格な意味、狭い意味での政教分離制といえるものではない。狭い意味での政
教分離すなわち政教分離制を採っている国は、実は今日の世界でも決して多数ではなく、その意味で政教分離制
は普遍的ではないといえる。
国際人権条約のいわゆる自由権規約と呼ばれるものの中でも、信教の自由についてはうたわれているが、政教
−27−
分離制は言及されていない(国際人権 B 規約すなわち「市民的及び政治的権利に関する国際規約」18 条参照。世
界人権宣言 18 条も同様である。
)。それは、現在も国際的に見て、政教分離制を普遍的に求めることはやはりでき
ないからである。
先ほど触れた、一般に先進国といわれるイギリスや北欧諸国以外にも、ラテンアメリカの国やイスラームの国
では政教分離制がとられていないところが多い。また、政教分離制を採っている国でも、その実態は歴史的・文
化的背景を反映して、かなり違ったものとなっている。例えば、アメリカではヨーロッパから移民してきた諸宗
教団体の平和的共存という観点から、国教会樹立の禁止という形で逸早く政教分離制が憲法の中に採用された(正
確にいうと、最初に独立した東部 13 州の憲法の中に取り入れられた)
。ところが、このような政教分離制は長い
間孤立した制度であり、アメリカ以外には政教分離制をとる国は殆んど存在しなかったのである。フランスで
1905 年に政教分離法という法律が制定されるが、政教分離制は、それ以降、徐々に広がっていったというふうに
考えてよい。
フランスでは、ライシテ、或いはライックな国家であると自己規定をしているが、この内容はアメリカの政教
分離とはかなり違っており、公共空間から宗教を閉め出すという方向に展開しがちである。その元は第三共和制
の時代、1870 年代に王党派(ブルボン派、7 月王政のオルレアン派も含めて)と共和派の大変厳しい反目があり、
王党派がカトリックと結び付くという状況下、政教関係は極めて重大な政治問題となったことにある。そのよう
な政治状況下で、共和制の危機に対して共和制を守るという意味合いから、反教権的な形でライシテというもの
が導入されたという歴史的経緯がある。また、トルコではケマル・アタチュルクによる近代国家の樹立という観
点からの反イスラーム政策が展開される中で政教分離制が採用される。インドでの状況は周知のところである。
政教分離制と信教の自由の問題についても、一言しておきたい。一般的な言い方ではあるが、政教分離制とい
うのは信教の自由をもっともよく保障する制度とされている。政教分離制は、多数者によっても奪うことができ
ない信教の自由を制度的に保障するものとして位置付けられている。民主的な社会では多数派が権力をもつわけ
であるから、多数派が信じている宗教の制約というものは、有り得ないであろう。多数派によって、少数派の宗
教に対してある程度の寛容政策も取られるかもしれないが、マイノリティの宗教に対する保障は、やはり別の制
度で確立しておくべきである。その際に、憲法で政教分離というものを宣言しておくことの意味は極めて大きい
といえるのである。
政教分離制と民主主義との密接な関係もよく指摘されるところである。一言でいうならば、民主主義が機能す
るためには絶対的価値を標榜する宗教を政治の世界に持ち込まないことが重要である。民主主義が相対的な価値
を前提にして、討論の過程で政治的な目標を実現するものである以上、絶対的な価値を標榜する宗教がこれに介
入するのは認められないということである。
2 国家神道体制について
政教分離にも歴史的な背景があることは否定できない。日本ではやはり国家神道体制の問題を抜きにして、政
教分離について語れないであろう。そこで、明治維新からの政府の宗教政策について、概観しておきたい。
明治政府の初期の宗教政策はめまぐるしく変転している。明治維新当初の宗教政策は、通常、祭政一致・神道
国教化政策といわれている。周知のように、幕末から維新にかけては、討幕運動を導いた国学思想、神道思想の
隆盛とともに民間では新宗教運動(黒住教や天理教、金光教など)が広がり、また、開国とともにキリスト教の
布教が始まるという流動的な状況があった。それは、宗教的エネルギーが高まっていた時期であったといえる。
明治維新は、
「維新」であると同時に復古的な性格を有していた。王政復古の大号令とともに祭政一致の方針が
出されたことは周知のところであろう。その中で注目すべきは、神武創業の始めに基づき神祇官を再興すること
−28−
が明らかにされたことである。同時期には、また、神職の世襲制を廃止することが打ち出され、社格制度、神官
職制も整えられた。政策のイデオロギーを表すものとしては大教宣布の詔が出されている。
一方、この時期、切支丹邪宗門禁制、神仏分離令も出されている。切支丹邪宗門禁制については「切支丹邪宗
門ノ儀ハ堅ク御禁制タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事」との高札を掲げ、旧幕府と同
様、キリスト教を禁止する方針を示したこと(ただし、諸列強からの抗議を受け、切支丹と邪宗門を分けて掲げ
るように変更した)がよく知られている。神仏分離令は、仏教から神道を分離・純化させるための措置であったが、
民間ではこれが廃仏毀釈運動を呼び起こし、仏教側に大きな打撃を与えた。このような祭政一致・神道国教化政
策というべき政府の宗教政策は大きな混乱をもたらした。
以上のような混乱を収拾するため、政策転換が行われ、いわゆる国民教化政策がとられるようになる。その中
で神祇官の神祇省への格下げが行われ、さらに教部省が設置され、教導職が置かれる。その下で仏教僧侶も教導
職に任命されている。国民教化の「教義」として「三条教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を内容
とする)
、
「十一兼題」
「十七兼題」
(この二つは三条教則を具体化するものであったが、啓蒙的な政治道徳の内容
も含む)が策定され、僧侶も国民教化に動員された。国民教化については仏説を交えることも認められるように
なるが、神職優位の運動であったことは否めず、仏教側の不満は収まらなかった。とくに真宗からは批判の声が
出された。
結局、1875(明治 8)年には真宗各派が運動の拠点であった大教院を離脱し、教導職による国民教化運動は事
実上終息した。神道の側でも神道事務局を設立し、その結果、同年 5 月に大教院は解散している。同年 11 月の神
仏各管長宛の信教の自由保障の口達(教部省)は、各宗の独自性を容認し、「信教ノ自由ヲ保護シテ之ヲ暢達セシ
ム」こととした。それは、宗内の一定の「自治」を認めるとともに「人民ヲ善誘シ治化ヲ翼賛スル」義務を課し、
国家への協力を要求するものであった。結局のところ、神道国教化政策、国民教化政策の破綻を踏まえ、明治政
府の宗教政策は見直さざるをえなかったのである。
以上のように、明治政府の初期の宗教政策は、成功したものとはいえず、明治 10 年代中頃には政府の宗教政策
も大きな転換期を迎えている。政府は、神道を宗教活動から遠ざける方針を明らかにする。1882(明治 15)年に
出された内務省達乙第七号は次のようにいう。
自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関セサルモノトス此旨相達候事
但府県社以下神官ハ当分従前之通
これは神官を布教活動から退け、重要な宗教行為である葬儀に関与させないこと(但し、廃仏毀釈運動により
仏教寺院が壊滅的打撃を受け、仏式の葬儀を行いえない地域もあったので、「但府県社以下神官ハ当分従前之通」
とされた)によって、
神社の非宗教性(いわゆる「神社非宗教論」
)を表明しようとしたものである。神官は、官吏、
官吏待遇とされ公的身分を保持するが、布教にかかわる教導職を解かれたのである。
実は「神社非宗教論」の法的根拠といえるものは、この内務省達以外にはなかったのであり、「神社非宗教論」
を支えていたのは殆ど行政上の取り扱いであったといってよい。いわゆる国家神道体制の成立時期については種々
の議論があろうが、上記内務省達を根拠にすれば明治 10 年代半ばと考えることができよう。
神社神道以外の宗教について、1884(明治 17)年 8 月に出された太政官布達第 19 号は、神道(教派神道)
、仏
教についても教導職制を廃し、管長を置いた。このことは神社神道以外の宗教についての国家による位置づけを
示すものとして重要な意味をもつであろう。太政官布達第 19 号は「自今神仏教導職ヲ廃シ寺院ノ住職ヲ任免シ及
教師ノ等級ヲ進退スルコトハ総テ各管長ニ委任シ更ニ左ノ条件ヲ定ム」とし、宗教団体内の人事権を一応認めた。
この布達により、教導職制が全廃された(神社の神官については、前記のように明治 15 年に「兼補」を廃して
いた)。なお、ここで「神道」といわれているのは、神社神道ではなく、いわゆる教派神道すなわち宗教としての
−29−
神道(宗派神道ともいわれることがある)を指していることに注意しなければならない(なお、この時点ではキ
リスト教は念頭に置かれていない)。
この布達を受けてそれ以降は、行政上「神道」という場合は、教派神道を指し、神社神道は通常「神社」とい
われることとなった。神社神道は布教と葬儀に関与しないゆえに、宗教ではなく国家の「祭祀」とされた。この
布達は、そのことを前提にした内容となっているのである。神社は国家的施設であり、神官は官吏あるいは官吏
待遇とされた。
また、この布達は、
「宗教」とされたものの公的性格を除き(教導職制が廃止された結果、神道教師、僧侶は公
的地位からはずれた)、管長制のもとで各宗教団体の自治を一応認め(すでに見たように住職、教師の任免等は管
長の権限とされた)
、政府へ協力させる体制が成立したことを示している。すなわち「妄ニ分合ヲ唱ヘ或ハ宗派ノ
間ニ争論ヲ為ス」ことを禁止し、内務卿の認可のもとに置かれるが、教派神道、仏教に一定の教団自律権を認め
たのである。
国家神道体制は、神社非宗教論を基礎に成り立っていた。神社非宗教論では、神社は国家の祭祀であって宗教
ではないとされた。宗教ではないという説明も多様な形があったが、要するに神社神道は超宗教、通常の宗教の
概念を超える存在、あるいは習俗や国民道徳とされたのである。これとは別に、宗教として公認された神、仏、
基の三つの宗教が存在した。この「神」というのは宗教としての神道、すなわち教派神道あるいは宗派神道と呼
ばれるものを意味していることはいうまでもない。「神」すなわち教派神道は、最終的には 13 派(天理教、金光教、
哫桑教、御嶽教、黒住教等)あった。「仏」とは 56 宗の仏教、
「基」とは少し遅れて公認されたキリスト教を指す。
これらが公認された「宗教」であり、それ以外は、法制上は宗教ではなく「類似宗教」と呼ばれた(明治初期に
は雑教と呼ばれていた)。これらは正式には宗教とされなかったものであり、大本教、ひとのみち、ほんみち等が
これにあたる。これらはもっぱら警察取締りの対象であり、しばしば宗教的弾圧の対象になったことは周知のと
ころであろう。
明治憲法 28 条は、一応、信教の自由を保障していた。しかし、それは安寧秩序を妨げず臣民たる義務に背かな
い限りにおいて信教の自由を認めていたにすぎず、神社神道については「非宗教」として取り扱い、これへの崇
敬が国民に義務づけられた。信教の自由は、限られたものであったし、解釈により伸縮自在のものであった。
宗教に関する政府の行政組織について紹介すれば、1886(明治 19)年 1 月には社寺局に神祇・寺院の二課を置き、
神社と宗教を区別して取り扱う体制が整えられた(さらにその後、明治 33 年 4 月には社寺局が廃止され、内務省
に神社局と宗教局を分けて置き、大正 2 年には神社局を内務省に残し、宗教局を文部省に移管している)
。変遷は
あったが、管轄庁としては、神社―内務省(但し、靖国神社は陸・海軍省)
、宗教(神、仏、基の公認宗教)―文
部省、その他の宗教(類似宗教)―内務省(警保局)という体制が基本となった。
付言すれば、あまり知られていないことかもしれないが、国家神道体制の下では、政治や教育の世界から宗教
とされたものはむしろ排除されていたといえる。例えば 1889(明治 22)年に明治憲法が制定され、帝国議会が設
立されるが、そのための選挙に向けて衆議院議員選挙法が制定される。その衆議院議員選挙法の中では神職、僧侶、
その他の宗教家は被選挙権を与えられなかったのである。選挙権については、国税 15 円以上を要件としていたの
で、宗教家はやはり排除されていたといえる。宗教家は参政権(選挙権および被選挙権)を有さなかったのである。
政府は、何度も宗教家の政治活動を禁止する訓令を出している。例えば明治 27 年 2 月 6 日付の内務省訓令第六
号(神仏各宗派管長宛)は「布教伝道ニ従事スルモノハ超然政党以外ニ特立スルニ非ラサレハ政党ノ競争ヨリシ
テ終ニ檀信徒ノ円満寺院ノ鞏固宗派ノ安寧秩序ヲ傷クルニ至ルノ恐ナシトセス殊ニ信教ヲ利用シテ政党競争ノ器
具トナスカ如キハ不穏当ノ至ニシテ衆議院議員選挙法第十二条ノ精神ニモ違背スルノ嫌アルノミナラス万一信徒
ヲ誤ラシムルカ如キ事アラハ終ニ或ハ国家ノ安寧ヲ傷クルニ至ルノ虞ナシトセス依テ今回ノ衆議院議員改選ニ際
−30−
シテモ教師僧侶タルモノニ於テ心得違ナキ様厳重ニ訓諭シ置クヘシ」という。
治安警察法(明治 33 年)が制定されると、その中で神官・神職・僧侶・その他の諸宗の教師は政治上の結社に
加入することが禁止された。要するに、宗教家は政党その他に加入することが禁止されたのである。また、明治
32 年の文部省の訓令第 12 号では「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムル」とされている。正規の学校では宗
教教育を行うことが禁止されたのである(宗教でないとされた国家神道は別)
。このような形で、国家神道体制が
作られていったのである。
そのような国家神道体制を戦後の日本は廃棄をした。国家神道体制は、占領軍によるいわゆる「神道指令」に
より制度として廃棄された。
「神道指令」は、国家神道に対する国家の支援等を廃止するとともに、神社は私的な
一宗教として存在することが認められるとした。
「人権指令」
(自由指令ともいう)もまた、国家神道体制を否定
する点で大きな意味を有した。
すべての宗教を同一の土俵におき、国家との関係をもたない私的な存在とするという政教関係=政教分離制は、
日本国憲法に先立って成立し、日本国憲法の中に取り入れられた。問題はそのような国家神道体制が、現在、完
全になくなったのかどうかということである。これについてはいろいろな意見がありうるであろうが、私見によ
れば、国家神道は完全にはなくなっていないと思われる。それは、例えば大嘗祭の問題や皇室祭祀の問題、或い
は恒例化している伊勢神宮への首相の参拝(クリスチャンであった大平正芳総理も参拝した)
、忠魂碑をめぐる論
争そして靖国問題等にあらわれているといえる。確かに国家神道体制は、
制度としてはなくなったかもしれないが、
慣行の中に、また、一つのイデオロギーとしては残っていると言わざるを得ないと考えられる。
3 現在日本における信教の自由と政教分離
(1)憲法 20 条について
日本国憲法は、20 条で信教の自由を保障し、かつ政教分離について規定している(但し、政教分離という言葉
が使用されているわけではない)
。20 条 1 項は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教
団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とし、同条 2 項は、「何人も、宗教上の
行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」とし、同条 3 項は、
「国及びその機関は、宗教教育
その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
」とする。なお 89 条は財政面から宗教への国家の関わりを禁じて
いる。89 条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、
・・・こ
れを支出し、又はその利用に供してはならない。」としているのである。
日本では信教の自由という言葉が一般に使用されており、日本国憲法もこの言葉を採用しているが、これは明
治憲法に倣ったものであると考えられる。信教の自由とは、宗教の自由のことであり(事実、諸外国ではそのよ
うにいわれている)、信仰、宗教行為、宗教的集会・結社の自由を含み、これらについて国家ないし公権力から強
制や禁止(不利益な取扱いも含まれる)がなされないことを意味すると理解されている。今日、信教の自由(宗
教の自由)の内容としては、以下のものがあげられる。
①信仰の自由・・・信じる自由、転宗、信仰告白の自由、宗教教育に関する自由等
②宗教行為の自由・・・布教、礼拝、行事、儀式、典礼の自由等
③宗教的集会・結社の自由・・・主宰、加入、結成、離脱、転派の自由等
憲法 20 条は、戦後の日本の民主化の中で重要な意味をもっている。戦前の明治憲法体制のもとでは、信教の自
由は極めて限定されたものでしかなかった。すでに見たように、明治憲法 28 条は、安寧秩序を妨げず臣民たる義
務に背かない限りにおいて信教の自由を保障したものにすぎず、「非宗教」とされた神社神道=国家神道への崇敬
−31−
が国民に義務づけられた。現行憲法は、国家神道体制を否定し、信教の自由を政教分離と一体的に保障している。
信教の自由についての規定は入念なものになっている。
世界的に見れば、政教分離制は必ずしも普遍的とはいえないが、日本国憲法は政教分離を制度化している。憲
法 20 条が国及びその機関の宗教教育その他の宗教的活動を禁止していることを見れば、そこでは国家と宗教(宗
教団体すなわち教会ではなく)の分離がうたわれていると考えられる。そのような政教分離制のもとでは、宗教
は私事として尊重されるべきものと位置づけられる。そのことは重要な意味をもつと考えられるが、日本国憲法
の信教の自由と政教分離の意味を明らかにするためには、国家神道体制の経験を踏まえた歴史的な理解が必要で
ある(そのため、国家神道体制について言及した)。
日本国憲法における宗教団体の政治権力の行使の禁止の規定を見れば、そこでは宗教と政治の分離が要求され
ていると考えられるかもしれない。しかし、戦前の歴史(宗教なるものの政治分野からの排除)からすれば、宗
教の政治活動の禁止が求められていると解せられないであろう。憲法が予定しているのは、宗教が国家から独立
をし、基本的には政治権力を批判する立場から政治に発言することであろう。私見によれば、宗教に求められて
いるところはマスメディアのそれと似ているといえるであろう。
(2)多種多様の宗教の共存と多重信仰
日本は世俗的な国家であり、日本社会も世俗化が進んでいるように見える。多くの意識調査によれば、宗教を
信じていると答える人は 20%前後である(しかし、多くの人々が正月には初詣に出かけ、盆や彼岸には墓参りを
しているという現実がある)。日本における世俗化(Secularization―この言葉をどのように理解するかが大きな問
題であるが)は、複雑である。都市と田舎では様相がかなり異なるし、また、既成の宗教が衰退しても新しく「宗
教的」なものが生まれているという事実がある。
今日、日本で現存している宗教は数多く、その実数は正確には把握できないし、また、その実態が不明なもの
もある。宗教団体の数については 20 万を超えているという推計もあるが、そもそも宗教とは何かが明確になって
いない以上、正確な数字を求めることは不可能である。ただ、宗教法人の数については、認証制度のもと正確な
数字をえることができる。現在日本の宗教法人の数は 18 万 3 千近い。もっともこれらの宗教法人の多くは包括団
体に包括されている(いわゆる被包括団体=法人)。信者の数は 2 億人を超えているとの統計もあるが、これは重
複して数えられているからである。周知のとおり、日本社会にはいわゆる重層信仰、多重信仰が存在している。
日本には民族宗教である神社神道、伝来宗教・世界宗教である仏教という伝統的宗教があり、日本の開国から
伝道が始まったキリスト教(それ以前のキリシタンとは必ずしも連続しない)各派が存在する。それ以外にも幕
末・明治以降出現した宗教、さらには第二次大戦後あらわれた宗教が数多くあり、これに加えておよそこの 20 年
間に急成長した新しい宗教(新・新宗教)が混在している。日本の宗教事情は複雑であり、日本人の宗教意識も
とらえようのない一面が存する。そこには日本の歴史、文化が投影されている。多重信仰の存在は否定できないが、
そのことを理由に少数者の信教の自由が脅かされることになれば、問題であろう。
(3)政教分離裁判について
現在日本の政教分離は、地方自治法にいう住民訴訟として争われた津地鎮祭訴訟最高裁判決(昭 52・7・13)
で示された目的効果論(目的効果基準)によって判断されているが、その具体的な適用においては揺らぎもあり、
最高裁でも違憲判決が出されている。津地鎮祭訴訟では、第 1 審津地裁は習俗論をとり、津市の主催する神式の
地鎮祭は政教分離原則に反しないとしたが、控訴審である名古屋高裁(昭 46・5・14)は市の関与について違憲判
断を示した。しかし、最高裁は、目的効果論によって合憲との判断をした。目的効果論は、その後、中谷訴訟(自
−32−
衛官合祀訴訟)判決(昭 63・6・1)や神社参詣道路工事への公費支出事件判決(昭 63・12・16)において最高裁
自身が確認をしたことから、政教分離をめぐる裁判では下級審においてもこの理論にしたがって判断されていく
ことになる。
津地鎮祭訴訟最高裁判決が打ち出した目的効果論では、政教分離を緩和させる要素がもっぱら強調されている
といってよい。目的効果論は、それゆえ政教分離を危うくするものとして批判的にみられてきた。しかし、目的
効果論は、すでに判例の上で確立されたといってよい状態であり、これを無視して議論はできない状況である。
最高裁の目的効果論は、政教分離原則については相対分離の立場に立ち、政教分離規定についていわゆる制度
的保障の規定ととらえ、「信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教の分離を制度として保障
する」ものとする。最高裁は、宗教の社会的存在性を強調して、
「政教分離原則は、国家が宗教とのかかわり合い
をもつことを全く許されないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかん
がみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さな
いとするものであると解すべきである」とした。
その上で同判決は、憲法 20 条 3 項でいう宗教的活動とは、結局、そのかかわり合いが相当とされる限度を超え
るものに限られるというべきであって、
「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、
促進又は圧迫、干渉になるような行為をいうものと解すべきである」とする。そして、ある行為が右にいう宗教
的活動に該当するかどうかは「当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定
める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行わ
れる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教
的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観
的に判断しなければならない」とする。 本件最高裁判決には反対意見があり、多数意見は国家と宗教との結び付きを容易に許し、ひいては信教の自由
の保障そのものをゆるがすこととなりかねない、とし、憲法 20 条 3 項にいう宗教的活動には「宗教の教義の宣布、
信者の教化育成等の活動はもちろんのこと、宗教上の祝典、儀式、行事等を行うこともそれ自体で当然に含まれる」
とした。
津地鎮祭訴訟判決から 20 年後、最高裁は、愛媛玉串料訴訟判決(平 9・4・2)において目的効果論による初め
ての違憲判決を示した。最高裁判決は、目的効果論をとりながらも玉串料奉納は社会的儀礼に過ぎないものでは
なく、県のかかわりは、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるをえないとした。また、憲法制定の経
緯に照らせば、玉串料奉納は相当数の者がそれを望んでいるとしても、憲法上許されるものではないとも判示し
ていることも注目される。この判決の意義と射程を十分に検討する必要があろう。愛媛玉串料訴訟最高裁判決と
津地鎮祭訴訟最高裁判決の比較検討を深める作業が残されている。
最近、北海道砂川市の空知太神社にかかる住民訴訟について、最高裁は違憲判決を出している(平 22・1・
20)。この最高裁違憲判決は、従来の目的効果論とはやや異なる判断基準によったとされている。同事件では、宗
教的活動というより過去の積み重なった経緯と状況についての判断が求められたから、目的については、従来の
判断方法はとっていないが、効果に関しては判断しており、目的効果論が放棄されたとはいえないであろう。事実、
その後、白山神社の事件では最高裁は目的効果基準による判断を示している。
(4)靖国問題
いわゆる「靖国問題」は、今日でも日本の政教分離問題の最大のテーマであろう。
「靖国問題」といわれるの
は大きな広がりをもつものであり、それは例えば、現在も議論の的になっている A 級戦犯合祀やそれにまつわる
−33−
分祀論、首相の参拝問題、国立追悼施設問題や政教分離に関する規定の憲法改正問題等々からなる問題群である。
さらには靖国神社の「非宗教」化(それは「神社非宗教論」の考え方と繋がっている)をどう考えるかという問
題、護国神社、忠魂碑との関係や戦没軍人・軍属等を祭神(いわゆる「賊軍」や空襲等で死亡した一般市民は除外)
としていることとの関係で軍国主義と靖国神社の関係をどう考えるかという問題、ポツダム宣言、
「自由指令」と
宗教団体法の廃止、
「神道指令」との関係で靖国神社をどのようにとらえるかという問題等がある。それらに共通
しているのは、国家神道体制の中でも戦争に深く関わった神社に対する評価の問題であり、日本国憲法の基盤に
関わる根本問題としての政教関係のあり方への問である。
靖国問題は日本の過去の歴史が投影されている問題であるが、これからの日本のありかたに関わる問題でもあ
るといえよう。靖国神社は古くからの御霊信仰を基盤にしているといわれることがあるが、創建以来倒幕運動の
中で倒れた勤王の志士や官軍側の戦死者を祀ってきた点で、御霊信仰とは断絶している。靖国神社は、当初東京
招魂社といわれたが、1879(明治 12)年に「靖国神社」となった。その後、日清、日露の戦争を経て対外戦争で
の戦死者を祀る神社へとその性格を変えた。靖国神社は、国家の「英霊」を祀り顕彰することすなわち死者を国
家的観点から管理することによって国民の生き方を管理したのである。靖国問題はその意味でも「戦没者慰霊」
のあり方を超える問題である。また、死に関して個人と国家との関係をどう考えるかという問題である。靖国問
題は、近隣諸国との関係も含めて政治問題化しているが、信仰・信心の真の解放の問題でもあることに留意すべ
きであろう。
靖国問題にも歴史的経緯がある。日本遺族会等の支援のもと靖国神社の国家護持を目指した靖国神社国家護持
運動から靖国神社公式参拝運動への転換という経緯の中で靖国訴訟をとらえることが必要である。靖国神社国家
護持は政教分離原則に反するとの批判にさらされたので、いわゆる靖国神社法案は、そのような批判回避のため
に靖国神社の宗教性を「排除」しつつ靖国神社の国家護持を実現することを柱にしていた。
いわゆる靖国法案は数種ある。ここでは法案の内容について詳細に紹介することはできないが、それらは靖国
神社に宗教的教義の流布や信者の教化育成を禁止するかわりに国は靖国神社の経費の一部を負担・補助しうるも
のとする点では共通している。これらの靖国神社法案には政教分離原則に反するという批判以外に靖国神社の宗
教的自律性を否定することに反発する意見もあり、靖国神社法制定は、結局「挫折」せざるを得なかった。
靖国神社法の制定が挫折したあと、靖国神社国家護持をすすめる側では、靖国神社公式参拝を推進する運動へ
と戦術を転換し、まずは地方議会での公式参拝推進決議を実現することを目指した。中曽根内閣の時に靖国公式
参拝が実施されたが、このことについては、中国や韓国からの強い反発があり、また、国内でもその違憲性を争
う訴訟が提起された。これらの靖国訴訟についてもここでは立ち入れないが、この種の訴訟では、裁判所は政教
分離違反との判断(違憲判断)を避ける傾向にあることは否定できない。しかしながら、これらの裁判では合憲
判断が出されたことがないことに注意すべきである。
4 政教分離制と宗教への配慮
(1) 政教分離原則と信教の自由の「対抗」関係
一般に指摘されているところでは、政教分離制というのは信教の自由と密接な関係にあり、多数者によっても
奪うことができない信教の自由を制度的に保障するものとされる。要するに、民主的な社会では多数派が権力を
持てば、多数派にとって都合の良い宗教の制約というものはありえないであろうが、少数派のすなわちマイノリ
ティの宗教に対する保障というのは、やはり別の制度で確立しておかなければならない、とするのである。憲法
で政教分離というものを宣言しておくことの意味はそこにあると考えられている。
−34−
以上のように、政教分離制は、信教の自由を完全にするものと理解されてきた。しかし、現実には、両者が対
抗的な関係に立つこともある。周知のとおり、フランスではスカーフ(ヘジャブ)を公共の場で禁止する措置が
とられ、議論になった。フランスでは宗教的シンボルが公共空間に持ち込まれるのは、国家の世俗性を侵害する
と考え、ライシテの原則を貫徹するために、イスラーム教徒のスカーフを禁止したが、一方、それはモスレムの
信教の自由を侵害することになるのではないかという批判がなされた。政教分離を貫徹することが信教の自由を
狭めることになるのであれば、宗教への配慮のために、むしろ政教分離を緩和すべきではないかという主張がな
されたのである。
ところで、日本では政教分離制の下で宗教への理解、配慮は一切認められないのであろうか。日本国憲法は、
政教分離制を採用しているが、それは宗教を否定するものではなく、私事としての宗教を尊重するものと理解す
べきである。憲法は、個人の尊重を中心に人権保障をしており(13 条参照)、その個人を支えるものとして宗教が
重要な役割を果たすと考えられるのであれば、そのような宗教を憲法は尊重し、積極的に評価していると解され
るからである。このような問題に関するいくつかの事例を取り上げてみよう。
いわゆる「牧会権事件」判決(神戸簡裁昭和 50・2・20)は、キリスト教の牧師には迷える羊に対して「魂への
配慮」をする義務があり、その人が人間として成長していくようにその人を養い育てる(牧会)する宗教上の職
責があることを認めた。その上で判決は、本件被告人(牧師)の行為は、自己を頼ってきた迷える二人の少年の
魂の救済のためになされたもので、形式上犯人蔵匿の罪に当たるとしても宗教行為の自由が基本的人権として憲
法上保障されていることに配慮すれば国家権力は謙虚に自らを抑制し、寛容をもってこれに接しなければならな
い、とした。
判決は「具体的牧会活動が目的において相当な範囲にとどまったか否かは、それが専ら自己を頼って来た個人
への魂への配慮としてなされたものであるか否かによって決すべきあり、その手段方法の相当性は、右憲法の要
請を踏まえた上で、その行為の性質上必要と認められる学問上慣習上の諸条件を遵守し、かつ相当の範囲を超え
なかったか否か、それらのためには法益の均衡、行為の緊急性および補充性等の諸事情を比較検討することによっ
て具体的総合的に判断すべきである」といい、結局、牧師の行為を正当業務行為として違法性を阻却するものと
した。この判決は、宗教の社会的機能、宗教家の社会的役割を認めたものといえる。
信教の自由との関係で政教分離をどのように考えるかについて新しい問題を提示した神戸高専事件(エホバの
証人の信者である学生の剣道実技拒否事件)も注目されよう。同事件は、エホバの証人の信者である学生が信仰
上の理由から格闘技を拒否し、その結果、必修科目の単位がとれず、留年・退学となったものであり、当該学生
が裁判所にその救済を求めたものである。学校側は、公立学校の宗教的中立性(政教分離から要請されるところ
である)を根拠に留年・退学処分を正当化した。同事件では、「エホバの証人」の教義により剣道の実技に参加し
ない学生に参加したのと同様の評価をするならば信教の自由を理由として有利な取扱いをすることになり、公教
育に要求されている宗教的中立性を損ない、ひいては政教分離原則に反することにもなるのか、が争われたので
ある。
神戸高専事件については、仮処分の申請もなされたので、いくつかの決定、判決が出されているが、問題の中
心は公立学校の宗教的中立性と学生の信教の自由の保障の対立をどのように考えるかにあった。本件 1 審判決は、
学生側敗訴の判決を出したが、控訴審では逆転判決になった。最高裁は、控訴審判決を支持した。次に最高裁判
決(平 8・3・8)を紹介する。
最高裁判決は、本件各処分は、その内容それ自体において被上告人=学生に信仰上の教義に反する行動を命じ
たものではなく、その意味では、被上告人の信教の自由を直接的に制約するものとはいえないが、しかし、被上
告人がそれらによる重大な不利益を避けるためには剣道実技の履修という自己の信仰上の教義に反する行動をと
−35−
ることを余儀なくされるという性質を有する、といい、さらに「信仰上の真しな理由から剣道実技に参加するこ
とができない学生に対して、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、
その成果に応じた評価をすることがその目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効
果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないの
であって、・・・・学生が単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理
的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえない
ものと解される」とした。
同事件は、宗教への「理解」が問われた事件であり、マイノリティの信教の自由をどのように保障していくの
かという問題でもあったが、最高裁判決は、宗教的少数者の信教の自由を重視したものといえよう。
東大医科研病院輸血事件でも、宗教に対する理解・配慮が問われたといえる。同事件は、エホバの証人の信者
に対する無断輸血が争われたもの(損害賠償請求事件)である。周知のとおり、エホバの証人の信者は、聖書の
記述を根拠に輸血を拒否している。それは絶対的な拒否であり、輸血拒否の結果、生命を失っても拒否を貫くの
である。このような信仰に基づく輸血拒否は、医療に関する深刻な問題として議論されてきた事案である。同事
件ではこの問題についての司法判断がなされたのである。1 審判決は、医師の救命義務を優先させ、患者=エホバ
の信者敗訴の判決を出したが、控訴審(東京高判平 10・2・9)はエホバの信者側の主張を認めた。最高裁も控訴
審を支持した(平 12・2・29)。
ここでは最高裁判決のみを紹介する。最高裁判決は次のように判示した。「患者が、輸血をうけることは自己の
宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意
思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、患者が、宗教上の信念からい
かなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることがで
きると期待して医科研に入院したことを医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、上告人らは、手術の
際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、患者に対し、医科研と
してはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続
した上、上告人らの下で本件手術を受けるか否かを患者自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相
当である。・・・本件においては、上告人らは、右説明を怠ったことにより、患者が輸血を伴う可能性があった本
件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、その点において同人の人格
権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。」
この最高裁判決は、医師の説明義務違反を中心に組み立てられているが、信教上の自己決定権を認めた点で注
目されている。すなわち輸血以外には救命手段がないと判断されれば輸血するとの方針をもっているなら、その
ことを患者に説明し手術を受けるかどうかを患者の意思決定にゆだねるべきであり、承諾をえない輸血の強行は、
信仰に基づく自己決定の権利(それは人格権のひとつとして法的保護の対象とされる)を侵害し、不法行為が成
立するとしているのである。判決は、患者=エホバの信者側の損害賠償請求を認めたが、それは、政教分離原則
下であっても、国立の施設であった東大医科研病院において宗教的マイノリティの信仰を理解し、これに配慮す
べきとする立場を前提にしたものといえよう。
現実の問題としても、あらゆる場合に政教分離をただ厳格に適用すればよいともいいきれないであろう。宗教
も複雑な社会にある限り、問題は簡単でなく、様々のレベルで国家と一定の関係をもたざるをえない面があるこ
とも事実である。宗教立の学校に対する公費助成、宗教的価値をもつ文化財の補修への公費による援助、国公立
病院で宗教的な慰めを求める患者への配慮(いわゆるホスピスやビハーラの問題を含む)等を考えた場合、その
理由を吟味した上で政教分離について柔軟な解釈をすべきだとする主張も理解できる一面がある。
−36−
このような問題も含めて、
「グローバリゼーション」が進み、多様な宗教が存在する日本で、政教分離の問題は、
複雑化しており、単純に割り切れない問題が生じているといえよう。日本に住んでいる外国人の数は増えている。
カトリック教徒も外国人信者の数が日本人の信者数を超えている。イスラーム教の信者数は、10 万人を超えてい
ると推定されている。その中で食事や生活習慣をめぐるトラブルも生じている。日本の社会は、イスラーム教徒
への理解と配慮の問題に直面しつつある。信仰についてもマイノリティの権利の配慮が求められているのである
(現に、京都大学の学生食堂ではハラール食をメニューに加えたことが報道されている。また、入管の収容所でも
肉を用いない食事が提供されているが、これはイスラーム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、その他の宗教的理由
から肉食をしない人たちへの配慮からなされている)。
(2) 宗教の多元的存在と政教分離
今日の日本には、多様な宗教が存在しており、宗教をめぐって種々の問題が噴出している。それ故、それらに
ついて法的レベルで取り上げる場合も多様な問題が対象になる。周知のとおり、新しい宗教(新・新宗教)の中
にはトラブルをおこしているものも少なくない。また、最近では霊感商法等いわゆる「カルト」集団をめぐって
深刻な問題が噴出しており、いくつかは法廷で争われている。宗教法人法によるオウム真理教解散事件や破防法
適用問題も記憶に新しいところであろう。結局、破防法適用は不可能と判断され(破防法では行政機関が解散権
を有するが、宗教法人法は裁判所が解散命令を発する点が問題となった)、あらたに団体規制法が制定され、現在、
オウム真理教の後継団体であるアレフに適用されている。
統一教会等の寄付金問題をめぐっても法的な事件になっていることはよく知られているところである。統一教
会等による集団結婚の有効性を争った事件もある。家庭生活における信教の自由についても訴訟で争われている
(例えば信仰の違いを理由に婚約の破棄が認められるか、「過度」の宗教活動が離婚原因になりうるかの問題等)。
日本の政教分離は、日本国憲法が否定した国家神道の問題と信仰の多元化の中で生じている新しい問題に直面
しているのである。グローバル時代における文化多元主義を受け入れるとすれば、宗教に対する一定の配慮が必
要となる局面も存在しよう。複雑な社会にある限り、宗教の出世間性もそのまま維持できるわけではなく、宗教
も様々のレベルで国家と一定の関係をもたざるをえない面があることも事実である。すでに触れたように、宗教
立の学校に対する公費助成や社会生活の中で自己のアイデンティティとして宗教的文化や伝統を維持したいとい
うマイノリティへの配慮等を考えなければならないであろう。
このような点に配慮しながらも、憲法の政教分離の原点を維持していく方途が追求されるべきであろう。憲法
の成立の基礎となった事柄と現代国家が配慮の対象としなければならない事柄とはやはり区別されるべきであろ
う。自由指令や神道指令を踏まえて成立した憲法の政教分離が、国家神道を否定して成立したものであることは
周知のところであろう。そのことは、憲法の基底となっており、政教分離についての解釈を規定するものといえ
よう。
このことに関して、国家神道(体制)はすでに消滅をしたとし、政教分離を緩和させる見解があることに注目
したい。たとえば箕面遺族会補助金訴訟 1 審判決では、国家神道の歴史についてかなり立ち入った判断をしながら、
戦後において国家神道体制はすでに消滅をしたのであるから、靖国神社、忠魂碑の意味合いも変化し、とくに忠
魂碑は宗教的意味をもはやもたないとして、結果として政教分離を緩和する判断を導いている(大阪地判昭 63・
10・14、大阪高裁判決平 6・7・20 も結論を支持)
。大分抜穂の儀訴訟地裁判決も同様の判断を示している(大分
地判平 6・6・30)。しかし、このような見解については、慎重なアプローチが必要であろう。国家神道の理解があ
らためて問題になろう。なお、大嘗祭関連訴訟においては天皇の象徴的地位を強調する(そのような地位に敬意
を払うことを正当化する)ことによって違憲の主張を退ける判決も存在していることに注意しなければならない。
−37−
また、国家神道(体制)について従来の理解を見直す議論もある。国家神道についてのこれまでの理解には問
題がないわけではなく、実証的歴史研究に基づいて是正していくべきところを是正するのは当然のことといえる。
そのような研究はこれからも進めなければならない。しかし、そのような研究が、一つのイデオロギーとして機
能し、結果として政教分離を形骸化するようであれば話は別であろう。国家神道体制は、制度としては消滅したが、
国家神道が完全に消滅したかどうかは疑問があることはすでに触れたところである。
結局のところ、国家神道(体制)にかかわる問題と国家が国民の利益・人権の実現のため直面する問題とはや
はり質が異なるといわざるをえないであろう。そうだとすれば、政教分離について一種のダブルスタンダードが
存在しても必ずしも批判されるべきではなかろう。宗教的マイノリティへの配慮や宗教立の学校への公費助成、
国公立の病院におけるホスピス、ビハーラの問題と靖国神社問題等を同列に扱うわけにはいかない。前者は憲法
の政教分離原則の上に立って様々な自由や利益をどう調節するかの問題であるが、後者は、憲法の政教分離の根
底を危うくし、憲法そのものを否定することに繋がる問題である。政教分離に関する問題にも異なるレベルのも
のがあり、何が問われているのかを見極めなければならないといえよう。
主要参考文献
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瀧沢信彦『国家と宗教の分離―アメリカにおける政教分離の法理の形成』(早稲田大学出版、1985 年)
佐藤圭一『米国政教関係の諸相』(成文堂、2001 年)
塩津徹『ドイツにおける国家と宗教』(成文堂、2010 年)
小泉洋一『政教分離と宗教的自由―フランスのライシテ』(法律文化社、1998 年)
―『政教分離の法―フランスにおけるライシテと法律・憲法・条約』(法律文化社、2005 年)
孝忠延夫『インド憲法とマイノリティ』(法律文化社、2005 年)
百地章『憲法と政教分離』(成文堂、1991 年)
高橋和之編『新版・世界憲法集』(岩波書店、2007 年)
デイヴィッド・M・オブライエン(大越康夫 補著・訳)
『政教分離の憲法政治学』(晃洋書房、1999 年)
安丸良夫『神々の明治維新』(岩波書店、1979 年)
村上重良『国家神道』(岩波書店、1970 年)
―『天皇制国家と宗教』(日本評論社、1986 年)
―『慰霊と招魂―靖国の思想』(岩波書店、1974 年)
大江志乃夫『靖国神社』(岩波書店、1984 年)
葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』(神社新報、1987 年)
島薗進『国家神道と日本人』(岩波書店、2010 年)
文化庁文化部宗務課『明治以降宗教制度史』(原書房、1983 年)
梅田義彦『日本宗教制度史<近代編>』(百華苑、1962 年)
日本近代法制史研究会編『日本近代国家の法構造』(木鐸社、1983 年)
京都仏教会監修・洗建・田中滋編『国家と宗教』上・下(法藏館、2008 年)
福島寛隆編『神社問題と真宗』(永田文昌堂、1977 年)
二葉憲香編『続・国家と仏教』(永田文昌堂、1981 年)
赤澤史朗『近代日本の思想動員と宗教統制』(校倉書房、1985 年)
小池健治・西川重則・村上重良編『宗教弾圧を語る』(岩波書店、1978 年)
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平野武『西本願寺寺法と「立憲主義」』(法律文化社、1988 年)
―『宗教と法と裁判』(晃洋書房、1996 年)
―『政教分離裁判と国家神道』(法律文化社、1995 年)
平野武・斉藤稔『宗教法人の法律と会計』(晃洋書房、2001 年)
平野武・本多深諦『本願寺法と憲法』(晃洋書房、2011 年)
芦部信喜『宗教・人権・憲法学』(有斐閣、1999 年)
―『憲法』
(岩波書店、1993 年)
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近代日本における宗教と社会活動
ブリジ・タンカ
私の関心は、今までの報告と少し違って、国の政策より社会における活動、政治運動、或いは思想を中心にして、
宗教や世俗世界がどういう意味を持っているということにある。セキュラリズム(Secularism)という単語が日本
でもインドでも英語で使われているということが一つの窓口ではないか。つまり、対比が困難なインドと日本を、
そういう英語で表現された概念から比較できるのではないかと思われる。
大きく考えると、やはり 19 世紀の植民地化された世界の中の西洋といわゆる東洋との関係の中に、そういうセ
キュラリズムと宗教の問題を見なければいけない。この問題は、インドや中国、或いは日本にも当てはまる。そ
の中に多分、一つ注目することが必要ではないかと思われる。例えば、インドでも、いわゆる近代化の過程の中
から現われたサーヴァルカル(V. D. Savarkar)のような、自分でも無宗教で、神の存在を信頼しないような思想家が、
宗教的な議論を立てていた。このような議論が、宗教の形だけでなくその本質も大きく変化させる。
西洋の歴史にも、宗教とセキュラリズムの対立ではなく、より複雑な関係が見出せる。タラル・アサド(Talal
Asad)が集中していた議論がよく知られているが、彼は、このセキュラリズムという新しい概念にはいくつか問
題が隠されていると指摘する。特に儀式が私的なものとされるため人間の日常の宗教生活が無視される。また西
洋が非宗教的なのに対し東洋は宗教的という既成概念が形成される。この前提にたつと、非西洋の宗教が抽象的
にみられ彼らは少数派になる。したがってこの少数派の存在を容認するあるいは限定する見方しかない。タラル・
アサドは、イスラムの事情に則して著述しているが、彼の議論は他の宗教にも応用できる。
また、ヨーロッパの単純な宗教とセキュラリズムの分け方は現実的ではなく、歴史的には様々なパターンが形
成されてきた。例えば、プロテスタントの国とカトリックの国ではパターンが違う。アメリカは、イランと比較
すると、ある意味で同じような宗教の強さを持っており、今でも選挙には無宗教な人は出て来ない。立候補者は
かならず神と国の上に綱領を掲げる。
東アジアを考えると、東アジアの国々には共通性があり南アジアの事情とは相違があると指摘される。中国と
日本では、超越的な力にアクセスできる者が力をもつ。つまり、超越的なものに対してアクセスできるか否かが
重要となる。しかし、天皇や中国の皇室が持っているような力の例は、インドにはない。インドの王権とバラモ
ンとの関係については、様々な議論があるが、ここでは詳細は控えておく。
しかし、この点から考えると、日本とインドはあまりにも対照的で、比較にならないように見えるが、人の活
動から考えると、やはり共通点がある。例えば、ヴィヴェーカーナンダの思想とラーマクリシュナ・ミッション
の活動をみると、日本の明治以降の宗派の活動とかなり共通点があるのではないかと思われる。近代化の過程で
彼らが直面した問題が共通しているためである。
日本の場合、一般的に宗教の影響があまりにも薄いと言われているが、私は、神社合併の問題を研究した際に、
この見方の問題点を考えるようになった。神社合併の反応は地域によって異なった。和歌山・三重でかなり激し
い反発があったが、他の県ではあまり反応がなかったために、私は、興味深い問題だと考えていた。後に仏教が
弾圧された際に、何件かの護法一揆が起きたものの、その時も思ったほど反発がなかったように見える。しかし、
宗教家あるいは教団の活動とその影響を見ると、それらはやはり社会に相当強く現われている。宗教と社会の密
−40−
接な関係を無視すると、日本近代化の過程は把握できないのである。
例えば、よく知られていると思われるが、明治以降、教団または教団から出た人が、さまざまな社会の回復、
教育の普及、あるいは貧困の撲滅のため組織を作って活動していた。或いは新聞雑誌の活動を見ると、メディア
の世界にも宗教的な色彩が濃いように思う。いくつか例があるが、例えば、教団新聞『中外日報』
、或いは元真言
宗の僧侶が編集した和歌山田辺の地方新聞『牟婁新報』、また西本願寺の大谷光瑞の『反省雑誌(中央公論)』の
ような例が沢山あげられる。このような活動が歴史の一般常識から排除されているために、日本の近代化の過程
のあらゆる可能性が無視されている。
このような環境の中で私が取り上げたい事例としては、北畠道龍と木村卯之がいる。二人とも、同じ西本願寺
の枠から出発し、全く異なる道を辿っていった。
北畠道龍に対して私が関心を持ったのは、彼が釈尊の聖地を巡礼した初めての日本人として知られていたため
だったが、実はこれは彼の晩年の旅行であった。彼のより興味深い活動はその前に行われていた。なぜ本願寺の
僧侶が法律に興味を持って法律学校まで創立したのか?彼は和歌山県出身で、1820 年に生まれ、1850 年代に藩政
改革に加わり、藩の官僚、例えば 濱口梧陵のもとで藩の新政策を実施した。その諸政策の一つの目的は、武士の
みならず一般社会も統一するべく普通の農民にまで教育を普及させるというものであった。北畠道龍もその改革
に参加して、自分の資金で僧侶と農民からなる兵隊を作っていた。これは長州の奇兵隊に先行しており、長州征
伐にも参加していた。
この藩政改革は、上からの近代化政策と見られている。藩の官僚が、西洋への恐れとそれに対応するために、
進歩的な政策を作成していったのである。ただし、ここにはもう一つの側面がある。それは、社会的混乱の中で、
下から参加権を要求する人が現われつつあったということである。したがって、それをいかに歴史常識に入れ日
本の近代の本質を把握するかという課題がある。すなわち、藩政改革は、明治維新の先触れとなったのみならず、
近代からの挑戦に対処する試みであり、それだけに時に矛盾に満ちた過程でもあった。国のことを考えて政策を
作ったという現在の解釈は誤りであるように思われる。当時はやはり藩のことを考えて、藩を強くするために教
育を普及させなければならなかった。防衛のために、ただの武士だけではなく、土地を持っている農民が愛国心
を持っていた。ここには、国学の影響ももちろんある。和歌山辺りは本居宣長の強い影響が見られた。
藩の軍改革のために、ドイツの元軍人で横浜で貿易に従事していた人物が兵隊の訓練に雇われていた。これを
契機に北畠道龍はドイツ語を勉強しはじめ、明治維新後、京都で五年間ドイツ人に習ってドイツ法律に関する重
要な書籍を学び、東京で北畠講法舎を創立した。ちなみに、これは後に明治大学となるが、明治大学のウェブサ
イトにはそのような事実がないかのように書かれている。
北畠はまた、西本願寺の明治時代の改革に一時参加し失敗している。誰がその改革内容を作ったのかは明確
ではないが、少なくとも北畠道龍は重要な役割を果していた。改革の提案を見ると、それが後に明治政府の皇室
改革の模範になっている。本願寺の門主大谷家を象徴に置き、寺の経営は議会(集会)で経営する。そうなる
と、やはりある意味で、北畠道龍の政治思想にみられる皇室を中心にしたそれは、かならずしも後の天皇制と
一致していない。北畠の「天皇」についての思想は、私の考えでは、近代「天皇制」になる前の天皇(imperial
institution)に基礎を置いていた。近代「天皇制」とは、古代から続く歴史を有する組織からは区別される。その
新しい天皇制そのものが明治維新の主な成果であり、その後の改革が辿る経路を決定したのである。当時の天皇
について考察する時は、「天皇制」が成立する前の天皇と「天皇制」における天皇を区別しなければならない。当
時は、政治組織を考える時、皇室は一つの、すぐ目の前のモデルであった。その皇室の下で、平等な議会のよう
なものを作って、北畠道龍のような改革が行われていたと思う。
北畠は、本願寺で失敗した後、旅行に出された。そこから戻ったあとは、西本願寺との関係はあまりなかったが、
−41−
彼は東北地方を巡り、その時に自由民権運動家で、元学校教師の西巻開耶が、彼の演説を聞いて彼の弟子になり、
さらに後に妻になった。西巻開耶は馬場辰猪に評価されて初期自由民権運動の女性活動家として活動したが、教
師であるため政治参加は禁止されていた。彼女が逮捕されまた解放されてから、横浜のキリスト教系の学校で英
語を勉強し、キリスト教の影響を受けていった。北畠道龍の弟子になったのちには、二人でノンネン会という組
織を作っている。名前はカタカナで書いていたがドイツ語で尼という意味だという。尼という言葉を使いながら、
男女平等を中心に掲げて活動していたのである。それを考えると、北畠道龍は、ドイツの法律だけではなく、伝
統的な尼をカタカナで表記して新しい概念にしようとした。新しい政治的かつ社会的な平等について考えるとい
う、そういう活動をしていたのである。普通は、ドイツの法律は、明治の指導者、例えば伊藤博文が明治憲法の
原則として利用し天皇制を作っていった。一方、北畠の思想活動を見ると、天皇と尼に新しい革命的な色をつけ
て日本の近代を新たな方向に行かせようとしている。
このように、北畠を例として挙げてきたが、同様に他の例もある。例えば、大内青巒や田中智学のような活動が、
それぞれの政治思想の枠に宗教を基にして政綱をつくった。
同じく西本願寺の流れからでた思想家である木村卯之や三井甲之のような人物の活動は、人民の政治参加と男
女平等ではなく、国家のもとに新たな伝統をつくろうとしていた。原理日本出版社から出した著作に、その政治
思想が表われている。木村卯之は、近代的な思想家として西洋思想の影響をそのまま受け、近代の原則を「伝統」
に求めていた。基本的に、シュペングラーの影響で彼の思想が形成されている。シュペングラーの議論によると、
国々の文化はそれぞれの枠として機能している。文化の原則が歴史の初期に形成される。そのため共通点より国々
の原則の特徴が重要となる。木村卯之は、文化を中心として、近代をヨーロッパではなく仏教に求め、特に親鸞
に日本近代化の可能性を見出した。日本の文化を強化するためには、国家を強化しなければいけない。そこで三
井甲之が、宗教は神話に基づいているがその考えは言葉で表現されるからその思想を把握するため言葉が重要だ、
日本の文化を日本語と一緒に、或いは神話と一緒に守らなければいけない、と主張した。文化と言葉を国造りの
原則にする見方は、近代ナショナリズムの原則である。
このように、親鸞を基にした宗教を基礎として、二つの思惑が派生した。北畠と木村の例をみると、いくつか
注目すべき点がある。近代日本の歴史において宗教が無視されている理由は、明治近代政策を正当化する見方の
根本になる。その枠を壊すため、宗教を歴史過程に入れなければならない。また宗教と思想を考える時、同じ宗
教の原則の上に対比的な政治議論が形成されることを認めなければならない。同時に、異なる宗教を基に同じ政
治議論が支持されるのも事実だ。また注目点は、幕末以降の歴史における「西洋思想」と「伝統」の関係が複雑
なことである。政治と宗教の関係が抽象的な西洋模範により歴史事実として形成された複雑な関係を分析範疇に
いれなければならない。本発表で取り上げた北畠と木村の思想と活動は、その典型的な事例である。
−42−
近代日本の政治と宗教及び仏教教団
赤松徹眞
1.日本近代の政治と宗教
明治維新期の政治理念としての「祭政一致」は、近代日本の政治のありように大きな影響を及ぼすものであった。
具体的には神祇祭祀を取り扱う神祇官が行政組織の優位性を占め、国家・統治という世俗性に「宗教性」が覆い
をかける役割を果たしたのである。同時に、日本各地においては、
「廃仏毀釈」が激しく展開され、神仏分離政策
によって、奈良時代以降、本格的に展開してきました神仏習合というシステムが変容を余儀なくされた。神仏習
合というシステムを位置づけてきた教説が本地垂迹説であったが、その長きにわたる広くいえば日本における文
化、伝統を著しく強制的に変容を迫るものであったといえる。廃仏毀釈は、全国一律に惹起したのではないが、
とりわけ復古神道に影響を受けた地方行政官が指導した地域では、激しい「廃仏毀釈」が断行されていった。
親鸞に依って開かれた浄土真宗が地域社会に定着し、強固な信仰を継承していた真宗門徒の多い地域でも、地
方権限を握った行政官によって廃仏毀釈がおこなわれ、寺院の統合政策が一方的に断行されて多くの寺院がなく
なった。例えば、富山藩などでは「一宗一寺政策」が行われ、真宗として一ケ寺に統合するよう強権的に求められた。
その政策は実施過程において地域の寺院・僧侶・門徒にさまざまな混乱をもたらし、申すまでもなく宗門に大き
な衝撃をもたらすものであった。その政策は、その後に修正されていったが、真宗側にもたらした影響は甚大な
ものであった。
神道国教化政策を立案・実行する明治政府は、先の「祭政一致」という理念にも関わり、日本という国を「皇
国」として明示し、その一元的な認識を体現する存在として、天皇という人の神聖性、あるいは絶対性というも
のが強く押し出され、主張された。「現人神」としての天皇を奉じる国のもとで行われる政府の政策は、国内外に
対して「皇国」を全面に押し出すことによって、政治の「無謬性」
、政府が行う政治に過ちはないものとして、実
行される傾向をもたらすことになった。政府の、「皇国」の無謬性というものを保証するものとしての、
「現人神」
天皇観の社会的、国民的定着は、政府の政策・政治への批判的基盤の形成を著しく困難なものとしたといえる。「皇
国」を自明のもの、正しいもの、間違いのないものとして認識する皇国的国家主義は、神社神道を実質的な国是
として日本の近代、明治から敗戦にいたる歴史過程の中心的位置を占めつづけた。
皇国観、あるいは国家主義を相対化し、政治の無謬性という虚構を剥奪して、政治の選択肢、可変性を求め、
また政治のよりよきあり方・形態・システムを構想し、その実現をはかろうとした人たちは、明治後期の社会主
義者や一部の仏教徒、キリスト教徒の中には少数ではあるが存在したが、社会的な広がりをもつことは困難であっ
た。
例えば、社会主義という皇国とは異なった国家観を持ったグループは、1910 年の大逆事件で弾圧され、長きに
わたる「冬の時代」となった。
全体としては、国を神聖化し、絶対化し、国の無謬性を骨子とする、法制的には、「大日本帝国憲法」、それを
内容として形成するものには「教育勅語」が枠組みとして確立して、国体的な国家の優越性、自明性、伝統性、
民族性というものの優位性が展開してきたと認識して妥当であろう。
では、そのような国のもとでの国民という存在は、一般的には平民論や国民論という議論がマスコミ・論壇・
−43−
雑誌などでも盛んとなるが、内容としては実質的に臣民論に収斂するものであった。国民は、皇国に仕える、天
皇に仕える臣民として位置づけられた。
したがって、日本の近代においては、臣民論として展開する限り、戦後社会が保証してきたように基本的人権
論が内在しているわけではなく、さまざまな自由とか人権等は、国から与えられたもの、恩賜、賜ったものとい
う意味をもっており、国の許容範囲において保証されていた。国の権限行使を制限する権利として国民の側の自
由や人権が保証されてはいなかったのである。そういう意味では、
「恩賜的自由」という言い方をしてきた。恩賜
という言葉自体は、天皇・主君から賜ることという意味であるが、現在でも使用されており学術的には「恩賜賞」
などあって、受賞者は、天皇に進講することが行われている。
ところで、皇国という国家観をもとに日本の近代が展開するが、国際的な政治社会の中に日本が参加すると、
新たな問題に直面する。当時の国際関係を主導していた欧米では、いわゆる市民革命を通して近代国家、近代社
会を誕生、形成しており、欧米の近代国家との関係を築きあげていくために、日本は欧米のさまざまな制度、法
律、文物など、いわゆる欧米文明を日本に取り入れるという形での文明開化というものに取り組んでいくのである。
そうした文明開化をめざす路線は、政府が主導的立場に立っており、政府関係者が多く欧米に出かけて、その理
解と取り入れ方にもとづいて日本の社会に啓蒙、普及をはかっていくことがめざされた。
先にふれた多くの臣民・国民は、ただちに国際関係の中での主体ではなく、異文化との交流、あるいは接触・
対決ということにおいて直接的な関係性をもったのではない。いわば文明開化は、条件的にはただちに臣民・国
民には開かれていなかった。したがって、文明開化というのは、政府なり、それに連なる人びとを中心に推し進
められ、国民に啓蒙されたため、その性格は、「専制啓蒙」などと言われる。
専制啓蒙的に文明開化が進行するなか、当時の真宗本願寺派がどのようであったのかといえば、周知のように
改革派の島地黙雷、赤松連城らを西欧視察に派遣し、彼らが西欧を主導とする国際関係の動向や西欧社会の実情
をつぶさに視察し、帰国後に欧米を中心とする動向に対応する姿勢で西欧のさまざま事柄を取り入れた。例えば、
親鸞聖人の降誕会を始めたり、学校教育制度を導入するなど、教団指導層が摂取し、理解してきた文明開化路線が、
宗門内僧侶の人びとに共有する知識、教養、あるいは生活様式となり、さらに全国各地のそれぞれの地域の門徒
の人たちに対しても文明開化の諸属性が示され、知識、教養、あるいは生活様式となり、啓蒙的に伝えられてい
く方向をたどったのである。
このように日本が欧米の近代国家・社会との関係を築いて行くにあたって文明開化路線を政府なり、それに連
なる人びとが主導し、啓蒙しながら推進してきたこと、また本願寺教団においても改革派僧侶の主導のもとに文
明開化が推進してきたことに共通性を見出すことができる。
では、もう一つの事柄であるアジアとの国際関係においてはどうであったか。日本は、アジア諸国に対しては、
いち早く文明開化を達成した国である。それは、欧米列強のアジアの植民地化を免れて、日本は文明開化を実現し、
非文明的な、あるいは半文明的な国としてアジア諸国を見るという地位を確保していくことになる。そのことは、
日本をして、さらに国民においてもいびつなアジア観をもたらし、文明国として優位性・優越性を形成しつつ、
文明に至らない、劣った国々としてのアジア諸国という関係を形成することとなる。
したがって、国際関係において、欧米との関係とアジアとの関係では、内容として違いが生じる。特にアジア
との関係の違いが、その後の日本とアジアとの歴史を刻んでいくことになるのである。そこで、日本自身が世界
の中の日本ということを明確に意識していくのは、一八九四年から九五年の日清戦争の頃、つまり十九世紀の終
わりの段階である。世界の中の日本論がさかんに論じられ、日本及び日本人の優秀性、伝統性などが顕示され、
そのことを通して、その後の日露戦争へと向かう日本のアジアでの位置ということが、より一層意識されていく。
そのなかに、その後の歴史的潮流としては、戦中の大東亜共栄圏構想に連なるものがある。大東亜共栄圏という
−44−
のは、第二次近衛文麿内閣の松岡洋右外相の言葉が最初だといわれるが、その考え方自体から言えば、アジア諸国、
アジアの諸民族を欧米の植民地化に対して、抑圧・支配から解放して、アジアの共存共栄をはかる大東亜共栄圏
の樹立をめざす、正義の戦争であると言っているのである。その言葉は、松岡洋右外相によって語られたとしても、
歴史的な視点から考えれば、幕末維新期における日本の位置、国際関係と、日本の発展の方策を対外的にも膨張
していくことに求めていったわけである。
したがって、日本がアジアの文明国である、先進国として優越感、主導者意識、人種的には欧米の白人人種に
対する対抗意識、一方ではアジアの民族として同文同種的なアジア諸民族に対する同朋意識とが重なり合いなが
ら、日本がアジアの主導者であり、アジアの盟主であるという使命感を持ってアジア諸国に向かっていくことに
なる。そのアジアの盟主観の根幹には、皇国の優位性があった。
その際、欧米に対する批判としては、欧米諸国は二十世紀初頭から帝国主義的な対外関係をつくっており、理
念として自由主義や民主主義、個人主義、あるいは物質主義、利己主義、そうした欧米の考え方とは異なって、
日本は「八紘一宇の精神」というものによって建国されていると主張する。世界を一つの家として、家の中心と
して日本、皇国が主導的な秩序を形成する。これが基本的にアジア諸民族に対する理念、あるいは精神となって
いくのである。これは「八紘一宇」という考えの対外的関係への適用であるが、その家の中心には、言うまでも
なく天皇という存在があり、天皇を中心に皇国が据えられている。
そのような「八紘一宇の精神」という、欧米の理念とは異なった精神、原理があるのだと主張するわけであるが、
それが果たしてアジア諸国、諸民族との間にどういった関係をつくり上げるものだったのか、と問題を立ててみ
た場合に、それは平等である、対等である、公平である、さらに上下の人間関係、国際関係を改めていく理念だっ
たのかどうかについては言うまでもなく疑問をもたざるをえない。現実的には、上下関係を規律する、縦の秩序
原理として働いていったと認識することが妥当である。
文明国としての日本が、文明化を達成していないアジア諸国、諸民族に対して、身分的な上下の君臣とか兄弟
の関係を律する、下の者に対する指導とか愛護という理念にもとづいて関係を形成しようとすると、必然的に、
日本の主導的立場・位置を堅持しながらアジアとの関係を形成するというのが、日本の近代の主たる歴史的展開
だと認識することが妥当である。
しかしながら、こうした主たる潮流がすべてではないのであって、明治後半期から大正期にかけてリベラルな
考え方や社会主義の考え方が古典出版を通して多く紹介されはじめ、都市を中心にそうした考え方や動きが生じ
て来る。そのことは、縦の秩序原理というものを相対化する動きとしてあり、さらに記紀神話に基づく皇国観や
国家主義などを相対化していくのである。例えば、大正期の全国水平社の取り組みをあげることが出来る。それは、
すべてにわたって日本国内の伝統的な思想、考え方から内在的に生じてきた運動ではないが、社会主義の影響や
仏教の見直し、すなわち釈尊の原点に回帰するなど過去の歴史に対する認識のあり方の見直しを契機とするもの
である。
水平社の創立に参加し、その運動に取り組んだ多くの人々は、社会主義の影響を受け、また仏教、浄土真宗に
関しても、宗門の歴史に対する見直しを行い、長きにわたる差別と抑圧のなかで疎外されてきたこと、すなわち
過去の日本の、皇国の歴史には過ちが内在していることを見抜いていく。宗門においても同様である。ただ、全
体としては、多くの人びとにおいては国家の無謬性を前提にしており、日本の国というものを中心にして取り組
んでいる事柄について、一部に過ちを見いだしてみても、公の議論として、国家のあり方を含めた議論として、過っ
たものとして見直しを含む取り組みができなかったという制度的制約が生じていた。そういった画一的な日本の
近代化のプロセスにおいて、狭隘な日本論、民族的な日本人論の議論が生ずるため、それらは、排外的な排他的
な性格をもたざるを得ないものであった。
−45−
例えば、何をもって排外的な排他的な性格であるというのかという具体性として現実を直視していけば、明治
以降の日本人論の中においてアイヌ問題、琉球問題、そうした地域の人びとに対して極めて排外的な、民族論的
日本人論というものを構築し、差別的関係を形成した。同時にさまざまな価値観というものに対しては、均一的、
画一的に統一され、統合的に機能していくことになる。従って、価値というものの多様性が社会的にも個人的に
も保証されず、いわば多様性が保証されにくい社会の仕組み、制度的枠組みが日本の近代の潮流としてあったと
いえる。
その際、価値というものの均一性、画一性、あるいは一元性というものは、どこに収斂をしていくのかといえば、
皇国というところ、それを体現する現人神たる天皇に源泉があるものとして全体的に了解されていた。そうした
特徴を日本の近代は持っていた。
さて、一九四五(昭和二十)年の敗戦は、そうした近代日本の特徴を制度化していた大日本帝国憲法や教育勅
語を崩壊させた。そして、制度の崩壊とともにあった価値秩序の大きな揺らぎの中で戦後の新たな制度・社会形
成への移行がはじまり、日本国憲法に記された新たな理念を掲げた価値・社会形成への模索が、多様性の保証を
通じて取り組まれていくのである。
ところが、いわゆる歴史内での私たちの存在というものは、数年の間に急激な制度的枠組みの転換をしたから
といって、敗戦を境界とする時代を通底して生きてきた人びとにおいては、必ずしも自らをその制度的枠組み転
換に順応していくことを直ちに出来かねないところがある。私たちには、その時代に教育を通して育てられてき
たものを、自明のものとして内在化していく、という側面を持たざるを得ない。皇国観のもとで教育勅語で教え
育てられ、それらを相対化することなく戦後の新たな時代に直面をした多くの人びとにとって、主権者として自
己を確立し、国家・政治の世俗性を認識して、自らより良い政治・社会の形成者として大きく変容したという事
態を考えなければならなかった。
次に、
「欧米の近代」ということについて簡潔に概略しておきたい。近代を生み出す主体としての個の確立が欠
かせないことは言うまでもない。また、政治・国家というものに対する見方・考え方の転換がある。人類の歴史
というものを鳥瞰図的に言えば、さまざまな圧政や障害、残虐、抑圧との闘いの関係、その具体的取り組みを通
して、自らを解放し、自由と平等を実現してきた。近代の市民社会を形成するにあたっては、絶対主義の専制的
な君主との熾烈な闘いがあり、それに勝利して、つまり市民革命を通して、近代の市民社会を形成した。
実現した市民社会では、従来の宗教的権威の支配から解放され、あるいは政治権力の絶対性が否定され、世俗
的なものとして政治が、国家が理解されはじめた。例えば、絶対君主は、王権神授説によって「王権は神から授
けられたものである」と言われるように宗教的権威を背景にして王権が成立していたのである。市民革命を通し
て、政治や国家というものが世俗的なものとして理解され、相対的なものとして考えられたのである。したがっ
て、いわゆる市民の負託に、国民の負託にこたえるものとして政府があり、政府のあり方については、比較可能
なものであって、よりベターな政治のあり方を求めていく道を開く。従って、歴史的現実として政治・政府・国
家などは、市民の、国民の負託にこたえられないものであるならば、負託にこたえる政治・政府・国家を作り直
すことが出来る、これが近代という時代の意味にもなるのである。つまり、政治・政府などがさまざま人びとに
よって、また結成された政党などによって作りあげられ、運営されるのであれば、それはまさに人間の掲げる理
念やなす行為としての政治であり、さらに国の仕組みとなる。そうであれば、人間のなすこととして過ちがあり得、
過ちがあれば、それを修正、改めることを不可欠として、より良いあり方を模索し、形成していく、追求していく、
そうした方向に向かうことになる。したがって、そこでは、政治・政府・国家の無謬性という虚構は機能しない
のである。
国、国家というものは、幅広い国民・市民の生命や財産を確保することを国民・市民との契約関係のなかで執
−46−
行していくことを求められる存在であって、その契約の履行、約束を守らないものであるならば、交代していく
ということになる。国、国家が不動性・固定性をもつものとして存在するわけではない。そうした契約の主体は、
国民・市民であるから、個として存在の自覚・認識が核となる。個としての人間存在の諸権利の主張に応えてい
くのが近代の社会であり、個として自己実現を保証していくのが近代の社会であるという基本的方向性が欧米社
会で形成されていくことになる。
ところで、個としての存在の自覚・認識は、近代的な自我の確立というように捉えられる。そのことが資本主
義という生産システムと結びついて、資本主義の発展を支える精神ともなるわけであるが、自我というものの覚
醒は、さまざまな願望や欲望の拡大・充足の方向に新たな道を開き、さらにそれらの組織化に対応して生産シス
テムの拡大をもたらしながら、資本主義は発展していく。さらに分析的手法による科学の進展とともに技術の革
新がもたらされ、それらの技術がより大規模な生産システムを作りだし、飛躍的な大量生産をもたらしていく。
そうした歴史の根底には、歴史は進歩していく、人類は進歩してきた、時代とともに政治・社会は良くなってい
くものである、という進歩史観がある。歴史の時間的推移の展開過程で、万物の霊長たる人間の理性によって営
みは、善なる方向に進歩していくという楽観主義が、そういうものを突き動かしているのである。
進歩主義というものは、歴史的時間の延長上に、自己の、あるいは社会の希望が、夢が必ず実現し得るものだ
と言い、より良い社会に向かって歴史は向かっているという確信を前提にしている。それらをもたらすのが政治
であり、経済の仕組みであり、その仕組みは人為的な取り組みによって達成できるものとして、考えている。
この進歩主義というものは、自由、平等、博愛、人権などの理念、それらの理念は勿論普遍的な価値・意味を
持つものであるが、それゆえに、欧米社会・地域に限らず、欧米を超えたより広い地域においても、ひとしく妥
当するに違いなく、それらの理念の普及化、世界化をすべきものと考えられている。
言うならば、文明化を達成している欧米から、文明化を達成していない世界の各地、アジアやアフリカ、中近東へ、
それらの理念を背景に具体的な資源や市場の確保・独占という利害を追求しながら、実質的には植民地化を進め
てきた。欧米の近代的な価値の普遍性という、真実性への確信は、別のベクトルから見れば、近代的自我ゆえの「思
い込み」に裏付けられた非欧米社会への植民地化にともなう強制的行為をもたらすものとしてあった。
欧米諸国の近代主義や進歩主義とそれを基準にした普遍化、世界化ということが正しいものであるかのような、
これ以外に近代的な理念がないかのような、そのようなあり方を世界に結果的にもたらした。近代というものを
考えれば、イスラム世界なり、アジア世界なり、あるいはアフリカ・中南米世界などにも見られるように、それ
ぞれの地域の持つ多様な文化なり価値観というものに対して、関係性において欧米の近代的な価値、理念は、抑
圧的だったと言っていいだろう。
では、日本の場合は、先にも言ったように、日清戦争の頃から世界の中の日本、膨張的な日本論が台頭して、
アジア諸国とは異なった位置を占める議論が盛んになる。福沢諭吉のよく知られた脱亜論とともに、アジアに位
置しながらアジア諸国と異なり、欧米と同じ様な文明国としての日本論である。したがって、記紀神話に基づく
皇国論を標榜して、神道非宗教論により実質的に国家神道体制を樹立し、また儒教的な徳目を列挙した教育勅語
による教育を展開しながらも、西欧の理念的な語彙・言葉というものが翻訳されながら流入し、それを受容していっ
た。ことに都市部を中心に早く交流した世界で取り入れられていった。
とくに明治以降の西欧にかかわる学問の世界では、翻訳的、紹介的学問が中心で、哲学といい思想といっても、
それらがいかに西欧において具体的な現実との対決、その抽象化の営みとしての言語的表出であったとしても、
翻訳、紹介された哲学・思想は観念的で、具体性を内在しない哲学なり思想としてしか受容されなかったのである。
そこで、翻訳者・紹介者は、西欧の哲学、社会を理解しているが、自らは日本の社会においては特権的な、ハイ
クラスな生活様式を模倣し、取り入れており、内実としては、西欧で形成された哲学・思想のあり方と異なるあ
−47−
り方をしているのである。
なるほど近代は、分析的思考に貫かれて、その中で科学主義も成立し、分析的哲学も進展し、機械的な世界観
も形成されていったが、そのことにより個別具体的ないわば細分化の成果をもたらしたことは言うまでもない。
断片化し、部分化した精緻なことがら、それをもたらした専門家という存在が多く生まれてきた。しかしながら、
それらの専門家が、全体をどのように考えるのか、その認識なり、判断なり、決断なり、全体への取り組みとい
う問題は、細分化の営みだけでは、もたらされなかった。したがって、分析にたずさわっている専門家は、一定
の判断・決断を避けた、中立性を保つことを自らに課して、価値なり行為選択を避けたい、そのように言われる
ことがある。
数年前に読んだ本の中に、生命科学者である柳澤桂子さんの『生命の奇跡− DNA から私へ−』
(PHP 新書)が
印象深く記憶に留まっている。柳澤さんは、DNA、遺伝子分析などの研究に取り組んでこられた方で、ご自身が
病気をして苦しんでこられたが、その病気を転機に科学のあり方を凝視されて、柳澤さんは、次のように言って
いる。
科学は論理的であるという理由で、絶大な信頼を勝ちとっている。しかし、科学は、本質的に、答えられる
問題を探し出して、それに答えるだけのものである。答えられない問題は、はじめから切り捨てているのである。
私たちは、何が切り捨てられているかということも考えずに、あたかも、科学はすべての問いに答えられるか
のような錯覚に陥りがちである。また、科学によって問題が解けたといっても、それは人間の思考の範囲内で、
問題が矛盾なく説明できるということであって、ほんとうの真理とは何かということはわからない。
このような明確な科学に対する認識を持っておられる方は、きわめて少ないのではないかと思います。
多くの科学者は、優れた脳細胞を駆使して分析的な思考とそれに基づく仮説を立てつつ、具体的な科学的成果や、
技術としての応用によりさらなる進展をもたらしてきた。しかしながら、
柳澤さんが的確に指摘されているように、
何が真実なのかという根本的問いを置き去りにしている。例えば、科学はさまざまな物質を生みだし、その有用性・
利便性・効率性などにおいて大いに社会貢献をしてきたことは首肯できるが、例えば核物質というものも生みだ
して、その核物質は、人類の存亡にかかわる脅威的物質であり、人間の操作性のなかでいかなる事態をもたらす
かが危ぶまれている。
従って、
「欧米の近代」ということに対して、私たちがどのように向きあっていくのかが問われているのである。
近代という時代が欧米を中心にして世界化してきたけれども、二十一世紀においては、欧米を中心にして世界を
考えることができないのではないか、あるいは欧米の近代社会をつくり出した理念というものの普遍性を、あら
ためてどのように考えていくのかということになってきている。つまり、普遍的という理念を自分たちが、欧米
中心にして操作する理念として語られ、理解されているとするならば、正しく普遍的なものとして機能するもの
ではない。それは教条的に、あるいは恣意的に普遍的な理念を操作しているにすぎず、自らを正当化する虚構の
理念でしかない。自らが相対化され、そのあり方を見直す方法として普遍性というものが極めて重要となる。そ
うした視点から言えば、欧米の利害にもとづいてそのような理念をうたってきた。そのことが、アジアやアフリカ、
中近東などの地域に対しての植民地化にベールをかぶせる理念として機能したのではないか、と考えることがで
きる。
そうした意味では、日本の近代と欧米の近代とを突き合わせながら、なお日本の近代のさまざまな側面をきちっ
と見て、認識して、欧米一辺倒にも、また皇国論に彩られた閉鎖的で狭隘な国家主義にも陥らない議論と対話を
持続することが重要だと考える。
−48−
次に、
「文明国家と国民国家」という問題ですが、すでに「日本の近代」でふれたこととかさなりますが、明治
政府が主導していく文明国家としてのあり方は、欧米の資本主義への対応の中で国内的にも資本主義化を推進し、
そのもとでの発展を志向していくことになる。明治政府は、一八七一(明治四)年の廃藩置県を転機に、本格的
に富国強兵策、殖産興業策、文明開化策などに積極的に取り組み始めます。一八七一年には、「穢多・非人」の廃
称が打ち出され、田畑の勝手作り、宗門人別帳の廃止、斬髪の随意、勝手などが出され、翌年には土地永代売買
の解禁、学制の発布、職業移住の自由、人身売買の禁止、太陽暦の採用等があった。さらに翌年には徴兵令の公布、
地租改正条例の公布など、矢継ぎ早に文明開化策の具体的措置が行われていく。そうした経緯をたどって、日本
の近代化が進んできた。
日本の近代化は、上からの近代化ともいわれるが、受身的な国民ではなく、能動的な国民というものを求めて
もいく。指示待ちの静態的国民ではなく、能動的に社会形成に参加し、それを担っていく国民を期待し、育成し
ていくのである。それには、国民、民衆を教化、教育をしないといけないが、その際に、政府の正当性や優越性、
あるいは開明性を顕示するため新たな天皇像を核として浸透させていこうとした。
政府の正当性や優越性、あるいは開明性を国民に開示し、それを啓蒙し、浸透させていくにあたって主導的役
割を担ったのは、政府やそれに連なる地方の役所、あるいは殖産興業を担う工場の経営者などである。政府の庇
護のもとで払い下げられた産業などは、開明性を表していく場所であり、それらが身についていく職場環境とも
なった。一方では、多くの国民に対しては、ある種の愚民観、愚かな民であるという見方を、時の政権につなが
る人たちに、開明的な知識、教養を持った人たちに生じさせた。一般民衆という存在は、愚かな存在であり、啓
蒙すべき対象として、教化すべき対象として位置づけていた、と言っていいであろう。
とは言うものの、そのような臣民を啓蒙して、自発的能動的な国民として育てていくことが教育に求められて
いく。政府の開明性は、実質的にいかなる開明性なのかが問われるわけでもある。皇国論にもとづいて、神道的
なものを実質化している国家でもあるわけで、すべてにわたって国際的に開かれた、開明的なものではなかった。
例えば、祝日の体系が新たにつくられていく。祝日は、日常のサイクル、年間行事的なものとして重要な位置
を占め、人々に祝日の意味が儀式を伴いながら社会的に浸透することになる。明治以降の祝日は、天皇中心であり、
神道的な意味合いを伴っていく。神武天皇即位日が紀元節、神武天皇祭が四月三日。明治天皇の誕生日が天長節。
新嘗祭は十一月二十三日。これら皇国観に基づいた祝日が年間行事に組み込まれていく。一方では、明治以前か
ら一般民衆に広く定着していた節句などは廃止された。五節句を政府として公式には廃止した。しかし、政府が
廃止したから、直ちに国民の中で五節句が消滅したかというと、そうではない。
継承されてきた文化、伝承に対して明治政府は改変、変容を生じさせたのである。天皇という存在も従来の京
都の御所を中心にしたあり方から、姿が見える、動態的な天皇像が巡幸を通して形成されていく。それが、広く
民衆との接触、交流を通して、天皇像が変わっていくのである。例えば、多木浩二氏の『天皇の肖像』という岩
波新書がある。明治天皇の服装の変化を肖像を通して辿っている。文明開化に対応して、天皇自身の服装も変化
し、生活様式にしろ、食生活にしろ、日常生活にしろ、変化していく。政府が、国家が文明開化を主導することは、
それらを体現しているものとしての天皇が、本質的には記紀神話にもとづきながらも、一方では先進的な開明性
においての優越性を付与し、獲得して、民衆に対して啓蒙的位置を占める。明治天皇の肖像については、一般的
に普及している肖像があるが、それに至る間にはいくつかの肖像の描き方の模索がある。写真の撮り方や、服装、
軍服姿をとっても変化があり、そこに明治天皇のイメージ形成があり、背景には文明開化という時代潮流に対応
しようとする国家意思がはたらいている。
こうしたことは、国際関係とか対外関係が、国民、市民の自発的自主的な取り組み、貿易等の取引と交流が先
行して経済的社会的条件が形成、整備された背景のもとで近代を生みだしたものでなかったことに深く連関して
−49−
おり、政府やそれにつながりを持つ機関、関係者を主流にして欧米との交流がなされたことにほかならない。し
たがって、一般の国民、民衆レベルで国際関係、対外関係の中で自由に往来する、交流する、通交するという条
件が、直ちに成立してはいなかったのである。西欧文明との交流、西欧文明の受容ということで言えば、政府な
いしその関係者に連なるところが占有し、その優越性のもとで、民衆に対して西欧文明を啓蒙していくのである。
このことは、現代という時代と大きく異なる。欧米の生活習慣、衣服、肉食等の食生活にしても積極的に取り入れ、
在来の不合理と考えられるようになった習慣とか迷信が排除され、文明と国威という大義による生活改善が説か
れ、文明開化策への順応が求められていったのである。
なお、在来の不合理な習慣とか迷信の排除ということに関して、本願寺教団は文明開化の社会に相応しい宗門
であると、当時の宗門指導者は、強く社会にアピールしていたのである。浄土真宗の土着化の中で、占い、吉凶、
日の善し悪し、神祇などを外道としてきた歩みは、迷信的行為をしないことを伝統化してきたから、文明開化の
時代に相応しい宗教であり、宗門であると主張された。そして、宗門が僧侶の人びとが中心となって、一般民衆
への啓蒙的役割を担った。さらに、行政機関や学校や軍隊、工場などの制度的枠組みの形成を通して、国民の育
成がはかられ、組織的、統一的に国家を担い得る人材の育成が行われていった。
例えば、一八七二(明治五)年の学制発布以降、本格的に教育が国家主導で行われて、普及していく。教団に
おいても、全国各地の寺院などに小教校などを開設した。当初の教育の速やかな地域への普及ということでいえば、
宗門の果たした役割は大きいものがある。しかし、徐々に政府による公的施設が整備されるに従い、地域の多く
の人びとも公的学校施設で学ぶことになり、地域での宗門の学校運営が困難になっていった。とりわけ、国家の
優位性が確立するに伴って、私学への軽視があったのである。国家的な教育制度の整備とともにそのもとでの国
民への教育が本格化して、国を担う国民が育てられていくようになった。
文明開化というのは、明治以前のような、ある狭小な範囲のもとで自足的な共同体的世界に住んでいた民衆を、
あるいは明治以前の身分制という枠組みに縛られていた民衆を解き放つことによって、あらたに国家の民として、
臣民として再編していく。それは、国にとって有益とか無益、価値とか無価値、開化とか野蛮、そこに明確な分
割線を引いて峻別をし、それらを受容させる方向に歩んでいく。そうしたシステム、制度をつくり出して、民衆
が国にとって有益な存在になっていく。国の側に、公に民衆を取り込んでいく、そのような世界が進行していく
のである。一方では、国の側に、公の側に背を向ける、対抗する、対決する人びと、あるいは排除された人びとは、
社会的に峻別され、分割線を引かれていく。そのような社会的関係性が生じてくるのである。
国民国家というのは、もっともらしい一つの近代の国家のあり方ではあるが、同時に多くの人びとをその仕組
みの中に取り込み、参加を自発的、自主的な意思を誘導しながら求めていく。従って、国の公的世界の圧倒的な
優越性、優位性のもとで、日本の近代が進行し、翻って、私学的な、私立的な、私事にかかわる存在として宗教
団体、とりわけ仏教教団の独立性・自律性は著しく稀薄化することになった。
2.近代日本の仏教教団
次に、
「日本近代の仏教教団」についてふれておきたい。王法と仏法との関係は、中世への移行期に「王法仏法
相依論」、
「王法仏法相資論」としてあらわれる。すなわち、
「王法と仏法は身心のごとし」、
「翼の両翼のごとし」、
「車
の両輪のごとし」などという譬えで、密接な関係を位置づけている。それには歴史的背景、事情があり、古代か
ら中世への移行期にあたって、古代の律令体制が崩壊し、国家が中心となって寺院を創建し、僧侶になるにも国
家の許可が必要で、基本的に国家の管理・権限のもとで寺院が、仏教があった。法制的には、僧尼令によって統
制されていたのである。しかし、古代国家の崩壊に至る過程で、寺院の後ろ盾となる国家が崩壊していくと、新
たな政治勢力が、武家的な政治勢力が台頭して、寺院としては、広大な寺領をもち、荘園を持っている勢力とし
−50−
ては、寺院勢力の確保が優先することは言うまでもない。そこで、仏法が繁栄しなければ、王法である政治勢力
の繁栄はないと言う。寺院が、仏法が衰退すると、政治勢力、王法も衰退してしまう。そのような論理を突きつ
けると、政治勢力は、寺院を保護し、寺院の持っている荘園の安堵を保証する。寺院の持っている荘園を侵犯し
たり、奪ったりしない。むしろ、寺院を保護し、寄付・布施という善根功徳を重ねることによってこそ、仏さま
から自らの繁栄の成就がもたらされる、保証されると考えるのである。
そこには、寺院の側と政治勢力の側との共有する宗教理解が、宗教意識がある。仏教で言えば、呪術的な仏教
観を持っている。呪術的な仏教観というのは、仏を対象化して、私の、武家の、国家の自利的願いを善根功徳を
重ねて祈祷すれば、それらは成就し、私においても、武家においても、国家においても繁栄が、安泰がもたらさ
れる。そのために法会を修行し、経典を読誦し、さまざまな修法を行う。そのようなものとして仏法があった。
寺院も法会を修行することで武家の、国家の願いに応えようとしていた。このような王法仏法相依論は、中世以
降においても一貫した論理として伝統化していった。このことは、仏教・寺院と政治・国家の具体的な関係性を
端的に示すことになる。
真宗という宗門では、国家や武家の安泰・安穏を祈願・祈祷するということはしない。そうであるならば、真
宗は社会・国家に何をもって安泰をもたらすのかということであるが、それはひたすら民衆教化を通して社会・
身分秩序の保持・維持をはかっていくことになる。そこに、真宗の固有の側面がある。王法仏法相依論という論
理を共有しながらも、真宗の固有性がある。
日本の近代では、欧米の近代の歴史形成過程とは異なり、幕末維新期に新たな近代的な政治社会を構想し、そ
の実現の政治プロセスで広く市民が、国民が主体になったかといえば、かならずしもそうではない。従って、政
治的変革において、多くの民衆の旧幕藩制への政治・社会意識や歴史認識、さらに新たな政治・社会への参加、
主体意識、それらは同様に、政治的転換に伴う宗門の旧幕藩政下におけるあり方への全体的見直しが、宗門の構
成主体において自覚的営為として成立していたかどうかということにも連関してくる。
近代の王法と仏法との関係で、本願寺教団は先にも述べましたように文明開化に相応しい宗教として浄土真宗
を標榜して、積極的な伝道布教に取り組んでいく。その伝道布教には啓蒙的役割が含まれている。その時、政治・
現実というものにどのように向きあうのか、政治・現実をどのように考え、認識するかという問題は、教学・宗
学の問題でもあるが、伝統的な教学・宗学の継承が基本としてあった。端的に言えば、浄土真宗を真俗二諦の教
えとして理解・受容するあり方であった。世俗・現実、あるいは過去の歴史というものへの見方、考え方について、
なるほど、五濁・濁世・悪世界などと表現されているものの、それらの現実への向きあいが成立しなかったわけ
である。そこに浄土真宗・仏法に対する、あるいは浄土真宗・仏法の受容のあり方をめぐって、問題にしなくて
はならない課題がある。
人間が歴史内に存在し、その歴史に対してさまざまな思想・理念を掲げて働きかけをし、さまざまな利害が交
錯するなかで諸関係を形成し、あるいは政治的経済的仕組みを構想・形成しているが、そこでは必然的にさまざ
まな問題を生みだしている。したがって、単に理念によって現実を語り、美化していけば、現実を正当化するこ
とになり、また、理念を恣意的に操作して現実に覆い隠すようなことになれば、その理念がいかように普遍性を持っ
ているのだといっても、普遍性といわれる理念が教条化していくことになる。
今日、民主主義、自由主義、人権、平等、公平などという言葉がいわば普遍的に理念的に使用されながら、そ
れらが成立してきた歴史的文脈を踏まえて理解しておかなければ、恣意的に、操作言語として使用していくこと
となり、それらの言語の連関性の理解は適切にはならないのである。同時に、それらの言語を使う私たち自身が、
歴史内存在としての自らのあり方を内在的に問うということを持続しながら、それらの政治的社会的な言説の表
出について考えてみることが大切であろうと考えている。
−51−
政治と宗教との分離論は、近代の普遍的かつ形式的な指標であるかのような議論がある。しかしながら、その
内実はそれぞれに歴史過程の中でさまざまな関係性をもちながら具体的内実をもって形成されてきた。今日、私
たちは、それらを国内外に開いて議論・討議することが求められている。世界のグローバル化の進展によって、
多様な歴史、文化、伝統等の歩みをその歴史文脈に即して的確に分析検討して、その課題を明らかにし、広く議論・
研究することが、一層求められているのである。
−52−
ディスカッション
コメント
中島岳志
初めまして、北海道大学の中島です。今日はお招きいただきまして、どうもありがとうございます。
今日の議論の最初のポイントとして考えたいのは、シンポジウムのタイトルの「日印政教分離の歴史と現状」
です。この「政教分離」の横には、セキュラリズムというルビがふってあります。我々が、まず考えておかなけ
ればならないのは、セキュラリズム=政教分離なのかということです。
この問題を考える際にヒントになるのはホセ・カサノヴァの議論です。彼は世俗化という議論を三つの位相に
分類して議論しなければならないと主張します。まず一つ目は「宗教的な制度や規範から世俗的領域が分化して
いく」というもので、政教分離などはこの一例です。二つ目は宗教の私事化です。宗教はプライベートの領域に
限定されるべきであるという考え方です。三つ目は、宗教そのものが近代化の中において衰退・減退化していく
というものです。この三つの位相に世俗化論は分類して考えなければいけない。
そしてカサノヴァが言っていることは、1 番の領域については合理的な部分があるかもしれないが、2 番目、3
番目は「セオリーというよりはむしろテーゼ」だったんじゃないかと主張します。たしかにカサノヴァがいうよ
うに、世界各地では宗教が衰退するどころかむしろ活性化し、公共領域での役割が高まっています。カサノヴァ
は「宗教の脱私事化」こそが重要な現象で、これからの時代は「公共宗教」のあり方こそを議論しなければなら
ないと論じています。この点はタンカさんのご議論と非常に関わってくる問題があるんだろうと思います。
つまりセキュラリズムという問題は、
「政教分離」だけの問題ではないということを、我々は前提として考えて
おく必要があるだろうと思います。それと同時に、
「政教分離とは何なのか」ということについても突っ込んで考
えておく必要があるように思います。
「政教分離」と言いますが、このときの「政」と「教」が何を意味している
のかによって、解釈が大きく違ってくるという問題があります。
まず「政」ですが、これが政治全般を指し示しているのか、或いは政府・行政なのかによって「政教分離」の
内容は大きく異なってきます。これが政治全般ということになりますと、政治は何も政府だけが担っているわけ
ではなくて、市民社会の領域にも政治行為というものはあるわけです。市民的な公共圏からも、宗教を分離すべ
きなのか、或いは行政的公共圏に限定されるべきなのか、によって大きく議論が異なってきます。
更に、もっと厄介なのはこの「教」の方です。この「教」が何を意味するのか。例えば、これが宗教全般とい
うことになると、宗教性、スピリチュアリティのような問題をどう考えるのか、それまでもが「政治」と分離さ
れなければならないのか。そもそも宗教とは何なのか。近代日本やインドでは「レリジョン」という概念が西洋
から入ってきた時の「宗教」の定義が問題になってきます。「レリジョン」の非常に狭い解釈というものは、教義
があり、教団があり、教祖が存在するというのが条件になってくるわけですが、スピリチュアリティの問題は、
ここからはズレてきます。
近代レリジョンの問題は、やはりビリーフ中心主義にあります。どうしても伝統的慣習や儀礼、風土に根差し
た宗教的実践=プラクティスよりも、個人の内的「信」を宗教の本質と捉える傾向があります。真宗では清沢満
之の精神主義が典型です。そして、そこで問題になるのが、志賀さんがおっしゃられた、ヒンドゥー・ナショナ
リストによるヒンドゥーの定義です。彼らはヒンドゥーというものを狭い「レリジョン」という枠組みではなく、
−55−
Indian way of life、つまり「インド人の生活様式」であると規定します。ですから、彼らは「インドのムスリムは
ヒンドゥーである」という主張をしたりするわけです。つまり、ヒンドゥーというのは、インド人であれば皆が
共有している風土のようなものであり、生活様式である。だからインド人はみんなヒンドゥーである。しかし、
狭義の「レリジョン」の領域においては、ムスリムであっても、クリスチャンであっても構わないというわけです。
これも志賀さんがご指摘され、平野先生もご議論されましたが、日本の問題にスライドさせると、戦前の「神
社非宗教論」という問題に行き当たります。この議論も、やはり神社というものは「レリジョン」の枠外にある、
もっと広域な日本人としての文化領域であるという議論だったわけで、それが様々なコンフリクトを起こしてき
ます。例えば有名な例で言うと、戦前の創価学会の問題があります。創始者の牧口常三郎は、伊勢神宮の大麻を
受け取らないということで治安維持法違反になり、監獄の中で死にます。彼にとっては、神社のお札を受け取る
ことは「宗教的」に問題があったわけです。これは現代にもつながっている問題で、先ほどの平野先生の議論に
ありましたが、伊勢神宮の首相訪問に至るまで、きれいな形での解決はしていないという問題があります。
次に「教」をもう少し限定してみると、西洋では「教会」を意味してきたんだろうと思います。世界的に見れ
ば特定の「教団」や「教派」ということになるでしょう。このときに「政教分離」は、どのような要素として議
論されてきたかというと、二つのベクトルがありました。一つは政治権力が特定の宗教や教団を弾圧したり、逆
に優遇したりすることを禁止するというもので、もう一つは特定の宗教が政治権力を握り、他宗教を抑圧するこ
とを禁止するものです。
今日の議論では、上田さんが議論されたような、宗教ナショナリストの政権への参加の問題をどう考えるのか
ということにつながってきます。我々日本の現状においては、公明党の問題を考えなければなりません。
さらに公共圏と宗教を完全分離することが可能かというと、現代社会ではもはや不可能な状況が生まれている
ことは自明です。例えば脳死問題。
「人の死」の定義をめぐって、国会で採決が行われるわけです。もちろん生命
の根源にかかわってくる問題ですから、各人の宗教観が大きく反映される問題です。それが国会審議にかかる時
代です。他にも先ほどでてきた輸血の問題や、環境問題、医療、誕生などに関わる問題は、まさに政治問題とし
て議論されているわけで、公共圏と宗教を完全分離することなど不可能です。
その時に一つの参照点になるのが、池亀さんが議論された宗教多元主義です。個別的な宗教の価値観を尊重し
つつ、その違いを乗り越えて共存するには、宗教多元主義の考え方がやはり参考になると思います。
この宗教多元主義にも様々な立場があります。たとえば宗教を公共圏から排除せず、平等に扱うことを宗教多
元主義と呼ぶこともありますし、もう一歩踏み込んで、宗教の多様性とともに真理の唯一性を認め合う「多一論」
的な立場もあります。私は後者の宗教多元主義に大きな可能性を感じます。この思想は、西田幾多郎が論じた「絶
対矛盾的自己同一性」の問題にも通底すると共に、ガンディーやヴィヴェーカーナンダ、オーロビンドなどのイ
ンドの思想家にも共通するアジア的存在論だろうと思います。
そして、これはインドの生活世界の中にも息づく思想なんだろうと思います。そのとき重要なのは、池亀さん
がご紹介された「私達の僧院はセキュラーな僧院です」という在地のヒンドゥー聖職者の言葉です。私もインド
でこの言葉に何度も遭遇しましたが、彼らは「セキュラー」というタームに、どのような思いを仮託しているの
でしょうか。それは「ヒンドゥー教徒ではない異教徒がやってきた時に、異教徒であってもそこでお祈りをする
ことを我々は容認するし、歓迎する」という意味でしょう。そして、その背奥には真理の唯一性と、それに至る
道の多元性を認める観念があるのだと思います。「多即一、一即多」という観念が、生活世界の中で表出したものが、
彼らの「セキュラー」という語りなんだと思います。
しかし一方で、インドの政治においてもこのセキュラリズムというのは揺れ動いています。その典型が池亀さ
んの発表のシャーバーノ裁判です。ラジーブ・ガンディーのポピュリズムは、インドのセキュラリズムの観念を
−56−
混乱させ、
「政治による宗教介入」と「宗教による政治介入」の問題を巻き起こしました。インドでもセキュラリ
ズムに安定的な定義が与えられているとはいえない状況があります。
一方、この比較として日本を考えてみると、いろいろと奇妙なことが見えてきます。例えば 8 月 15 日の戦没者
慰霊祭。
「慰霊」という観念自体、非常に宗教的なものだと思いますが、日本では「政治」と「宗教」を厳密に分
離するということがテーゼになっているため、奇妙な現象が起こってきます。例えば、手を合せると宗教行為だ
けれども、しかし黙祷は宗教行為でないとか、線香を手向けると宗教行為だけれども、献花は宗教行為ではない
とか、極めて難しい苦肉の策に陥っているわけです。日本でもセキュラリズムをめぐっては、厳密な定義が確立
されているというわけではなく、さまざまな揺らぎと隙間が存在します。
更に、志賀さんが議論されたポイントで、ラージャーゴーパーラーチャリが不可触民制度を批判する際に、
「ヒ
ンドゥーの原理」というものを出してくるという問題があります。例えば、全く同じ理屈を使うのがヒンドゥー・
ナショナリストです。ヒンドゥー・ナショナリストは現実にあるジャーティを批判するために、
「それはヒンドゥー
の古典にはどこにも書いていないじゃないか。だからそれはヒンドゥーの本質ではない。それはインド国民を分
断する論理である。ネイションは一つである」という議論をするわけですね。つまり、「ヒンドゥーの原理」とい
うものを設定し、ある制度や儀礼、現象を批判するということは、ヒンドゥーの中にある多元性・多様性を抑圧
する可能性があるということです。そして、
「ヒンドゥーの原理」というものを設定すること自体のオリエンタリ
ズム性も考えなければなりません。
最後に僕が非常に重要だと思うのは、この議論が「この場所」で行われているということの意味です。タンカ
さんが議論に出された木村卯之という人物がいますが、彼は親鸞の思想に傾倒するがゆえに、強烈な日本主義者
になっていった人物です。木村を敬愛し、彼の書籍を出し続けた人物に井上右近という人がいますが、彼はまさ
にここ大宮の龍谷大学で勉強し、龍谷大学の教壇に立った人物です。彼の周辺の人々は『人生と表現』という雑
誌を愛読し、その関係で木村とつながっていきました。この『人生と表現』の編集人は三井甲之で、のちにこの
雑誌が基礎となって月刊誌『原理日本』が刊行されます。『原理日本』は徹底した帝大教授糾弾雑誌で、滝川事件
や天皇機関説事件などを引き起こした中心的存在です。この雑誌では、三井を師事し、木村や井上と同志関係にあっ
た蓑田胸喜が活躍しました。
『原理日本』の論理は、親鸞思想に依拠していました。彼らはあらゆる「自力の思想」を糾弾し、天皇を崇敬す
る「絶対他力」の思想を宣揚しました。この思想の重要な部分に、井上をはじめとする龍谷大学グループが深く
関与していたことが明らかになってきています。この問題を「セキュラリズム」という点から、どう考えるべきか。
赤松先生がおっしゃられたように、戦前の真宗教団は「真俗二諦」という概念を打ち出していました。これは
「真体」と「俗体」というものは別の次元のものであり、俗社会においては天皇制や軍国主義を受け入れ、国家体
制に組み込まれても、真理の領域というのは別の領域にあるんだから、自分たちの信仰の根源は守られるという
考え方です。近年の真宗教団は、この「真俗二諦」を相対化し、反省的に乗り越えることを通じて、戦争加担の
問題と向き合おうとしています。このような行為はとても誠実なことで、高く評価されるべきだと思います。
しかし、問題を「真俗二諦」に還元し、それを批判するだけでいいのでしょうか。
『原理日本』のメンバーは、
教団の教学に組み込まれていません。むしろ彼らは教学に対して批判的で「真俗二諦」も採用していません。彼
らは「自然法爾」を「中今」と解釈し、それを自力によって変革しようとするマルクス主義者や改造主義者を徹
底的に攻撃しました。
私は親鸞の「絶対他力」に大きな魅力と可能性を感じていますが、そうであるがゆえに「絶対他力」の危険性
についても、
『原理日本』グループの考察を通じて考究する必要があるのではないかと思います。その危険性は、
まさにここ大宮が一つの発信源だったのですから。
−57−
コメント
菱木政晴
このシンポジウムのテーマは、三つの概念をめぐって論じられているように思う。すなわち、国家、民族、人
権である。もちろん、セキュラライゼーション、あるいは、政教分離について話し合われているのだから、「世俗
ないし政治」と「宗教」の二分法をめぐって話し合われているというべきかも知れないが、少し概念の整理が必
要であると思われる。私が掲げた三つの概念は、世俗と宗教の二分法に従えば、いずれも世俗の方に分類されそ
うであるが、ことはそう単純ではない。
たとえば、政教分離というとき、政教の「政」が「国家(state あるいは government)」を指すのか、単に「政治
(politics)」を指すのかでは、話の前提がおおいにちがう。すなわち、これに対応して、「教」が、「教会あるいは
宗教団体(church)」を指すのか、単に「宗教(religion)」を指すのかでは、これも前提がおおいに異なる。その上、
この際の宗教がそもそも近代市民社会を念頭においた私事としての「(普遍)宗教」を指すのか、宗教学や宗教社
会学において主たる研究対象とされる共同体の宗教(いわゆる民族宗教、あるいは呪術的宗教)を指すのかでは
おおいに異なっている。
シンポジストの内、セッション 2 の近現代の日本の政教分離を論じた、平野武、赤松徹眞らにおいては、
「政」
は基本的に国家を意味していて、政教の分離は、信教の自由権という基本的人権の確保と一体のもの、少なくと
も、人権の制度的保障を意味する。この文脈においては、国家と切り離される「教」は、政治上の権力を行使 1)し
かねない教団・教会を指すのであって、内心に信教の自由を備えている個人の宗教を指すのではない。ところが、
赤松の発表を参照するまでもなく、近現代の日本において、政治上の権力を行使し特権を受け続けてきた宗教は、
国家神道である。国家神道とは、単なる神道の国教化ではなく、それによって、国民に戦争と戦死を納得させる
人為的な宗教である。神道は、もちろん、呪術的民族宗教のひとつであるが、呪術は、個人の内面に私事として
存在する宗教ではなく、共同体の祭祀にすぎない。そのため、それは、近代市民社会を前提した私事としての宗
教とは様相を異にし、いわゆる神道非宗教説という詭弁を生む基にもなっている。しかし、呪術は国家や民族共
同体を超える普遍性を持つことはありえないが、それだけになお一層、機能主義的な宗教社会学のいう「補償機能」
と「統合機能」を十分に備えている。したがって、もともと除災招福という以外には普遍的な価値を持たない祭
祀を戦争と戦死を納得させる方向に政治的に加工すれば、強力なイデオロギー性を発揮しうるのである。
ひるがえって、セッション 1 のインドにおけるセキュラライゼーション(政教分離)を論じた志賀美和子、池亀彩、
上田知亮らにおいては、政教分離の「政」は、国家を意味していても、その根底に、宗教的なるもの、すなわち、
聖なるものの対立概念としての世俗が強く含意されていた。これは、セキュラリズムを政教分離と翻訳した本シ
ンポジウムのタイトルに引っ張られたからだけではないように思われる。宗教哲学的な抽象や法律的な抽象を離
れて、宗教の実態を論じれば、宗教に対峙するのは世俗でしかない。このことは、セッション 2 で宗教者の社会
活動を論じた Brij Tankha にも同様のことがいえる。このコメントの冒頭に述べたように、世俗を構成するものには、
国家と個人だけでなく、「民族」や「共同体」があり、現実社会における宗教活動の主体は、抽象的観念的な個人
ではなく、
「民族」や「共同体」である。その点で、インド社会における宗教的、あるいは、民族的マイノリティー
1 日本国憲法第 20 条「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
−58−
の権利保障の主体が、個人なのかコミュニティーなのかという問題軸を明示した志賀の発表が興味深い。
筆者(菱木)は、インド社会の現実についてはまったくの素人であったが、このシンポジウムを通して、日本
社会における国家神道の位置と、インド社会におけるヒンドゥーナショナリズムの位置についてのある種の共通
性を学べてありがたい機会となった。筆者は、長く政教分離訴訟にかかわってきた。政教分離訴訟は、信教の自
由という「人権」をめぐる闘いでもあったが、それ以上に、宗教による戦死と戦争の納得装置の解除を求める闘
いであった。国家は、内側に対しては警察などの物理的強制装置を持つと同時に、外に対して国軍を持っている。
この外側の暴力装置の停止が、日本における政教分離訴訟の大きな動機であった。このなかで、民族や共同体は
どのような意義を果たすのか、あらためて考え直すきっかけとなった。
−59−
質疑応答
長崎(司会): どうもありがとうございました。コメンテーターのお話は素晴しいのですが、非常に難しい問題
が一層難しくなった感もあります。さて、講師の先生方へフロアから質問票が来ています。誠に申し訳ないので
すが、時間の関係で、お一人 5 分以内で、上田さんの方からご回答いただきたいと思います。
上田 : それではできるだけ手短に、あまり話すとボロが出てしまいますので、これ幸いと 5 分で終わらせたいと
思います。
まず、回答しやすい質問から答えていきたいと思います。龍谷大学の桂先生から、
「89 年以降 BJP が躍進でき
た理由は何か?」という質問を頂いております。これは討論者の中島先生の方がお詳しいですが、私から教科書
的な回答をいたしますと、BJP 躍進の要因としては、いわゆる三つの M というのが、よく指摘されます。マンディ
ル(Mandir)、マンダル(Mandal)、マーケット(Market)の三つで、マンディルとはラーム寺院建設運動のこと
です。次にマンダルは、その他の後進諸階級(OBC)に公務員採用と高等教育機関への入学に関して 27%の留保
枠を設定することを勧告したマンダル委員会報告のことです。この問題をめぐっては、上位カーストから猛烈な
反発が起こり BJP への支持が伸びるということがありました。それから、最後にマーケットですが、これは 1991
年に経済自由化が宣言されて、それに対する反感が BJP への支持に繋がったということです。時間もありません
ので、この三つが代表的な要因だということだけ申し上げておきます。
今のものと繋がるご質問だと思うのですけども、アジア経済研究所の近藤先生から、
「90 年代までヒンドゥー・
ナショナリズムが高まり、インド人民党が躍進したわけですが、そのプロセスのなかで、ヒンドゥーの間の一体
感が強まったり、ヒンドゥー国民というのが生まれることになったのか?」という質問を頂いております。先ほ
ど申しましたように、「三つの M」が作用してバラモンを中心とする上位カーストを票田として固めることに BJP
は成功したわけですけども、それと引き替えに、上位カーストを超えて支持を伸ばすことは却って難しくなり、
支持層が頭打ちになってしまったということは指摘できます。ですから、そういう状況に陥った BJP は連立に踏
み出さざるを得なかったということになります。そういう意味では、ヒンドゥー国民を生み出すことに成功した
のかというと、半分成功してもう半分は失敗したというところが妥当な判断ではないかと思います。
やや足早になりますが、次の質問にお答えいたします。この方からは絶対に厳しい質問が来るだろうと思って
いたのですが、やはり現代インド地域研究プロジェクト京都大学拠点の中溝先生から二つ質問をいただいており
ます。一つ目の質問の概要は、「BJP の単独政権か連立政権かで事情は変わるのではないか?」というものです。
これはおそらく変わると思います。ただこれについてはもっと緻密に分析していかなければいけませんので、今
後も中溝先生には共同研究へのご協力をお願いしたいと思います。二つ目の質問は、
「2002 年に起きたグジャラー
トのゴードラーでの暴動のことが一切無視されているが、あれは報告のテーゼの反証となるのではないか」とい
う内容です。もちろんゴードラーでの宗派暴動のことは存じておりますし、中溝先生のご指摘されるような見方
も十分可能とは思います。ですが私としましては、アヨーディヤーの場合ほど国政レベルに影響を及ぼしたかと
いうと、政党政治への影響という点からすると、グジャラート州の外にまで波及することはなく、また BJP もそ
れに勢いづいて国政レベルやその他の州で強硬な行動をとるということもあまりなかったようですので、やはり
2002 年のグジャラートでの暴動はアヨーディヤーのときとは状況がやや違い、影響は限定的であったということ
を重視したいと思います。私が報告の最後に、
他の州についても検討が必要であると述べた際に、筆頭にグジャラー
−60−
ト州を挙げましたのも、恐らくこうした指摘が質疑応答で来るだろうということを想定して申したわけですけれ
ども、報告時間もさることながら、やはり私一人で全ての州をカバーして詳細に比較検討するということはでき
ませんので、あらためて共同研究へのご協力をよろしくお願いしますと申し上げたいと思います。
そうしたことと繋げて言いますと、私の報告に対する最も大きな質問であり、なおかつ他の直接お答えする時
間がない質問などを凝縮すれば恐らくこうなるであろうという質問を、三輪先生から頂いております。中央大学
の三輪先生からは、
「個々の州における BJP の連立政権形成のパターンや穏健化、急進化の度合いなどは、BJP の
中央政界における行動パターンやイデオロギー的な主張などに、どのような影響を与えているのでしょうか?」
という非常に大きな質問をいただきました。この問いに対する答えの一端だけを今回報告させていただいたとい
うことになるかと思いますが、いまこの大きな問いに答えられるほど私の研究は進捗しておりませんので、十分
な回答はできません。ですが、こうした問いは、BJP だけではなく、いま連立政権を組んで中央政権を握ってい
る会議派の動きをみていく場合にも、こうした連立パートナーとの関係や州政治の動向などを緻密に分析しない
といけないということは確かだと思います。ですので、BJP に限らず会議派についても、様々な政党との連立政
治の与える影響をもっと体系的に分析せねばならないという宿題を、三輪先生から頂戴したと受けとめておりま
す。ただこれは現代インド政治を研究する者全員の宿題でもありますので、中溝先生、三輪先生はいずれも京都
大学拠点のメンバーでもいらっしゃいますから、是非とも龍大拠点と京大拠点で協力してこの課題に取り組みま
しょうと、最後にお願いしたいと思います。私からの回答は以上です。
池亀 : いろいろご質問をくださってありがとうございます。まず三輪先生からのご質問で、「まとめは説得力が
あったけど、具体性に欠けているんじゃないか。政教分離のために意味ある政策を行うことが、ほぼ不可能であ
るような印象を受けた」ということですが、発表の最後にまとめというか、私の考えで二つ出しましたけれども、
私もこれは具体的に考えていく必要があると思っています。ただ、それが 政策として、こういう政策をすれば、
こういう問題は解決しますということではなくて、むしろ政策まで向かうようなプロセスがいかに開かれている
かということだと思います。具体的には、特にインドではかなり実現されていることだと思うのですが、イギリ
スでも最近積極的に行われていますが、宗教リーダー達を招いて、そこで議論していくような場を作ることです
とか、或いは宗教学校というのを積極的に認めていく代りに、宗教学校の中身をオープンにするような形に持っ
ていくとか。つまり、いわゆる宗教分離の原則からは外れているかもしれないし、宗教リーダーがコミュニティリー
ダーとして認められてしまうことにも危険性はあるわけですけれども、そういった対話の場が、まず開かれてい
くことは必要だと思います。
それともう一つは、これは私がこれから参加するオープン・ユニバーシティで行われている研究プロジェクト
ですが、Citizenship after orientalism というプロジェクトで、今まで Citizenship と言うと、西洋のブルジョア階級が、
例えば新聞などの公共メディアを使ってディベートして、反対意見もあって、そこの中で何か決まっていくような、
そういった Citizenship の在り方、それがモデルになっていたわけですけど、そうじゃなくて、そういった形でな
い別の Citizenship、つまり普通の人達がどうやって自分達の政治的な主体性を実践する場があるのか、そういう
ところで私は、例えばインドの僧院であるとか、例えば日本の仏教教団の活動であるとか、そういうところをも
う一度、つまり宗教活動じゃなくて、社会活動・政治活動として見直していくようなことにも可能性はあると思
います。だから、必ずしもそれは政策としてどうなるかということではありませんが、政策に繋がっていくよう
な過程というのを、もう少しオープンにしていく必要があると思います。
それから発表の最後に、意味をずらしていくような文化行動とか社会行動のことを言いましたけれども、私が
最近注目しているのは、特にムスリム女性のブルカとかヒジャーブといわれるベールの問題は、特に西洋で言えば、
−61−
フェミニズムを完全に二分してしまっている問題で、要するにベールはムスリム女性にたいする抑圧なのか、そ
れとも個人の選択にすぎないなのかということで、完全にもう二分してしまっています。もし議論が二分してし
まって、話し合いの余地がなくなってしまっているとすれば、それはそもそも理屈が悪いのであって、別の理屈
を考えていかなければいけないと思います。
私が思うのは、現実に今、何が起こっているかということから考えるといいのではないかと思います。たとえ
ばイギリスの若いムスリムの女の子達が、どういうふうにやっているかと言うと、ベールを被れば外に出て大学
にも行けるという状況があります。だから、これはもう個人の選択でもあるし、押し付けられていることでもあ
るけれども、ある種の、要するにネゴシエイト(交渉)していかなければならない現実なわけです。少し見方を
変えると、ベールを被れば外に出られるということは、逆にいうとベールというのはある種の開放であるのかも
しれません。もう一つ、彼女達がやっていて、私が注目しているのは、例えばブランドもののベールを被ったり
することです。シャネルのマークがびっしり入っていたりして、とても面白いのです。それから全身覆い隠して
いるけど、体の線がでるようなピタピタなものを着ていたりするのですね。だから、ある意味、逆説的ですが、
セクシーなブルカと言うか、つまり女性のセクシャリティを無化するものとしてあるべきブルカやベールの本来
の意味がずらされているわけですね。そうすると、こういうことをしている人はまだいないけれども、
ムスリムじゃ
ないけど、でも格好良いからベールを被りたいみたいな子が出て来ると、このベールを被ることとムスリム女性
というのを結び付けている根拠みたいなものが揺らいでいくわけです。何かそういうことが、これからも起こっ
てくると思うし、研究する方としても、そういうことに着目していったらいいのではと思います。
それから、澤田さんからの質問で「インドの多文化主義が法制化される可能性があるかどうか?」というので
すけど、これも考え方によって、何をもって法制化というのかというのもありますし、そもそも Muslim personal
law というのがセキュラリズム、或いは多文化主義が法制化されている例であるとも言えるわけですから、それは
何をもって法制化、何をもって多文化主義と言うかによるのではないかというふうに思っています。
それから、アンベードカルの問題ですが、
「アンベードカルを私の報告の中で、どう位置付けされるか」という
ことで、龍谷大の佐藤先生からいただいていますけれども、あまりアンベードカル本人とは直接関係ないかもし
れませんが、私が最近関心を持っているのは、ダリットと言われる、いわゆるかつて不可触民とかアンタッチャ
ブルとか言われた人たちですが、そういう人たちが自分たちの独自の宗教を認識していこうという動きもあるの
ですね。例えば、ダリタットバ、ダリット主義と言うか、ダリット性、つまりダリットであること自体、その生
活様式そのものに、ヒンドゥー教とは別の宗教性を見るというような運動があります。それから自分たちの独自
の宗教リーダーを立てていくような、この場合、ヒンドゥー教の内部から独自性を主張していくような宗教運動
も出て来ています。それは、もちろん皆アンベードカルの影響を受けているのでこういう新しい動きを研究する
ことも非常に重要ではないかと思っています。
志賀 : まず、中島先生、それから菱木先生、貴重なご意見ありがとうございました。またフロアの方々、いろい
ろなご意見とご質問をありがとうございます。
まず、岡本幸治先生から、
「インドの憲法に記載されているセキュラリズムの規定というのは、インド内部の要
因のみではなく、隣国パキスタンとの差別化という要因があったのではないですか?」というご質問をいただき
ました。それは確かに、ないわけではないと思います。ただ、パキスタンとの差別化というよりも、どちらかと
言うと、インドとパキスタンが分裂していく過程とそのトラウマが、インドをセキュラリズムへと向かわせたの
ではないかと思います。具体的にいいますと、独立過程では、一応会議派も、パキスタンと何とか分離しないよ
うに様々な手段を尽くした。その時、マイノリティとしての宗教集団を保護する手段をどのようにするかという
−62−
集団としての権利の問題と、インド国民を宗教とは関係ない「市民」というアイデンティティのもとに宗教の枠
組みを超えて統合していきたいという、イギリスから独立して新しい国家を作っていこうとする時の国家の理想
像との齟齬があったと思います。この時、インド国民会議派のリーダーも、ムスリム連盟のジンナーも、相当悩
んだと思います。結局、インドとパキスタンは分離してしまったわけですが、それが、インドにおいては、パキ
スタン分離は宗教が要因の一つだったという一種のトラウマとなり、国家統合の場に宗教というものを入れると
分裂に繋がるのではないかという懸念が生じた。そこで、パキスタンを失ってしまったという傷を後々まで引き
ずらないために、政教分離というものを憲法に入れていったのではないかと考えます。したがいまして、
「パキス
タンとの差別化」というのは非常に対抗的な、敵対的なニュアンスが含まれているように思いますが、むしろ、
そういう反省に立った上での憲法規定であったのではないかと思います。
インド憲法には、宗教マイノリティに限らず様々なマイノリティの保護規定があります。例えば、ヒンドゥー
の中にも多様性があるということを中島先生がご指摘なさって、私も今回の発表の中で申し上げたつもりですが、
ヒンドゥーの中にもマイノリティはいて、その典型が、今、池亀さんもおっしゃった不可触民というヒンドゥー
の中で最も差別されてきた人々の存在なのですが、それ以外にシュードラの中にも様々な抑圧されてきたコミュ
ニティがいるわけで、彼らに基本的人権を保障しようとしても、そもそも彼らはスタート地点にたてない。その
彼らを基本的人権が得られるレベル、スタート地点にまで持ち上げるために、どのようなことをしなくてはいけ
ないかということも、憲法制定の際に非常に真剣に討論されました。それで一種の妥協案として、10 年という期
限を切って、カーストを単位とした差別解消手段(留保制度)が憲法内に規定されたわけです。ところが、一旦、
それが既得権益として決定されてしまうと、10 年経ったから、はい、止めますよ、といっても、やはり一旦保護
を受けてしまったカーストにとっては、それを手放すというのは難しい。しかも、実際問題として、現在も不可
触民の人々のかなりの部分が、まだ経済的にも、政治的にも、社会的にも、いろいろな意味で差別と言いますか、
不利な状況に置かれているという現状に鑑みますと、やはり何らかの形で保護規定を設けるのは仕方がないであ
ろうと。一種の必要悪と言っては問題かもしれませんが、何らかの積極的差別是正措置を採っていく必要がある
という認識が今も継続していると思います。このように、留保制度はヒンドゥー内部の要因もあって、セキュラ
リズムとの矛盾が指摘されつつも憲法に規定されたわけですが、インドの憲法は容易に改正が可能ですから、今後、
政治社会状況の変化に応じて、セキュラリズムやマイノリティ保護の規定は変わっていく可能性があると考えて
おります。
タンカ : 私への質問は一つ、広島大の吉田先生から、「日本の宗教は国家主義をどうして信じたか」というもの
です。私の発表では北畠道龍と木村卯之達の話はあまりできなかったのですが、両者共、親鸞の思想から出て来
た人物です。大内青巒は曹洞宗、田中智学は日蓮宗、こういうようなことを見ると、宗教と関係なく、いろいろ
な人が、例えば親鸞の思想を北畠道龍が、三井甲之とか木村卯之とは違うように使っていたんです。また、田中
智学は多分、三井甲之と同じように使っていたんですね、親鸞の思想を。或いはキリスト教が日本で台湾の植民
地政策を支持していたんです。だから、宗教の哲学から、その事情を理解するのは限定があると思います。もち
ろん、それを研究しなければいけない。で、特に日本の場合は、そういうナショナル・アイデンティティが、い
わゆる faith、belief のアイデンティティがある意味で一致していたんです。それが国家神道を基にして作られたも
のですけれど、それはどうして成功したのかという質問は、答えがかなり複雑だと思いますけれど、多分一つは、
やはりどうしても帝国主義、植民地の環境を考えなければいけない。それが一つだと思います。今のところはそ
のぐらいです。
−63−
平野 : 私には、同じく広島大学の吉田さんから来ている質問があります。「国家が宗教に或いは宗教団体に対し
て等距離を取るべきだという意見と、場合によっては配慮が必要だとする意見をどう統一的に把握すべきか」と
いうご質問ですが、これは大変難しい、悩ましい問題です。先ほど少しお話ししましたように、配慮をもし正当
化できるとするならば、それはやはり弱小な存在と言うか、マイノリティの宗教であるかどうかということにな
るだろうと思います。例として挙げました神戸高専の事件ですが、これは神戸市立、要するに公立学校で起きた
事件であります。公立学校で宗教的理由に基づいて特定の義務を免除するということは、学校側からは政教分離
に反するのだと、こういうことを言っていたわけであります。しかし、弱い立場にいる一個人が、まさしく全人
格的な関わりの中で長い間、ある信仰を維持する生活を送っており、その信仰を妨げることが、その人の存在そ
のものを否定してしまうというような場合には、やはり政教分離がある意味では緩和されて適用されても構わな
いと私は考えております。同様の問題はご存じかもしれませんが、徴兵制を採っている国では、CO の問題、いわ
ゆる Conscientious Objector という良心的兵役拒否の問題として議論されてきたところです。良心的兵役拒否の問
題は、もちろん、信教の自由だけでなく、平和主義の問題にも繋がっていく問題でもあります。
それからもう一つ、「政教分離では宗教権力がこれに加わって、要するに国家、個人、それと宗教権力が入る三
角関係になる、こういう場合、司法権はどうするのか?」という質問があります。これも一言ではなかなか答え
にくい、非常に難しい問題があります。ただ、前提になるのは、日本はインドだとか、或いはムスリムの国と違っ
て、部分的であれ、適用されるような宗教法というのはないということです。日本では、全て国家法です。そして、
宗教法、宗教的な法が適用されるような宗教裁判所ももちろんありません。ですから司法権を有するのは、すべ
て世俗裁判所です。そして、世俗裁判所の任務は、世俗法である国家の法律を解釈、適用して、法的紛争を解決
することです。これ以外のことをしてはいけないということになっていますので、例えば、親鸞と日蓮はどちら
が偉いかというような宗教上の問題、或いはピカソとマチスはどちらが優れているかというような芸術上の問題
を裁判所に求めても、裁判所は却下します。そんなことは、裁判所は判断できないし判断すべきでないからです。
科学上の問題についても同様です。例えば進化論は正しいとか、相対性理論は間違っているとかの確認を求める
裁判を起しても裁判所は却下します。
裁判所が宗教問題について判断しないということで、どういうことになるのかと言うと、例えば巨大な教団で、
教義問題で除名するという場合、除名された人がその救済を求めても、裁判所は門前払いすなわち却下します。
だから、そういう意味では個人が敗北をするということですが、これは仕方のない問題だと思っています。しかし、
例えば、霊感・霊視商法なんかで何百万もする多宝塔だとか壷を買わされているケースで、これは詐欺的商法だ
というような形で争う場合は、場合によっては救済をされています。それはなぜかと言うと、裁判所が、セキュラー
なアプローチをするわけです。教団の方は、これは経済活動ではなく、宗教活動だと必ず言うわけです。この壷
が 800 万、1,000 万するというのは、宗教的価値を見出したから買ってもらった、そういう主張をするわけですが、
その点については、裁判所は、やはり社会的手段の妥当性だとか、社会的相当性とかいうようなことで判断をし
ます。現実には、例えば壷を売るマニュアルみたいなのが教団の中であって、それに従って売っていて、どうし
ても宗教的活動の一環としては考えられないだろうといった判断をして救済をしているわけです。或いは、いわ
ゆる集団結婚がありますが、この場合も工夫して、結婚意思がないという判断をしています。詐欺だとか、或い
はマインドコントロールによって心神耗弱状態になっていたとかして、結婚する意思がなかったという形で救済
をしているのです。そういうふうに、いろんなレベルで個別的に判断をせざるを得ないということになるかと思
います。
それからもう一つ、これは私に来ているのではなくて、全体に来ているのですが、龍谷大学の藤原先生からの
質問で、
「神道の側で、政教分離と祭政一致は両立するという、天皇信仰をコスモロジーと言い換えてしまう云々」
−64−
というのがあります。宗教学レベルの研究については、私はあまり詳しくないので、コメントすることはありま
せんが、裁判の中で問題になった事例をお話します。例の大嘗祭に関する裁判の中で、知事が大嘗祭に参列した
ことについて争ったものがあります。最高裁の判断を紹介しますと、
憲法に天皇は日本国および日本国民統合の「象
徴」として位置付けられているから、それに敬意を払うというのは当然のことである、としているわけです。大
嘗祭というのは天皇の一世一代の代替わりの時に行われる極めて重要な公的行事であって、それに参列するとい
うのは、全国民を統合する天皇に対する儀礼的行為であって、当然、憲法違反にはならないと、こういう判決が
出ているのです。私の考え方から言うと、象徴というのは象徴でしかないという意味で、消極的に解釈すべきで
あると思いますが、象徴というものに積極的な意味を持たせ、国民全体の統合機能というものを重視するような
判決が出ているということをご紹介しておきたいと思います。以上です。
赤松 : 広島大学の吉田先生から、
「幕末期の日本の開国について、国際的な危機を認識したことが、仏教教団の
国家神道イデオロギー、教義を促した」と。確かにそのとおりだと思います。皇国論という形で、対外的な緊張
関係が起こると、仏教教団が、危機を共有していくという形で、教団自身は内在化すると言いますか、そういう
プロセスを辿って行きますので、ご指摘のとおりだと思います。
龍谷大学の佐藤先生から、
「現在の教団の自己改革の方向の要点について、ご意見を」と。私は、教団は開かれ
た参加型の教団であるというのが、現代的には求められていると思います。それを妨げていくような、或いはそ
れを阻害していくような組織の在り方というのは、自己改革を避けて通れないものではないかと。それから、教
団は多くの人々の様々な苦悩、悩みというものと接点を持つというのが、教団の一つの原点であります。そうす
るならば、悩み、苦悩というものの関係性と同時に、苦悩の具体的な内容について、どのように関わっていくの
か、ネットワークを作っていくのかと。それについては、かつては、苦悩というものの解決の仕方を、心の内側
のところで解決するような道筋を求めていくというのが、一つの線であったかもわかりません。しかし、それは
あまりにもシンプルに一元化したような言い方であって、悩みの具体性というのは、社会性であってみたり、或
いは悩み次第では極めて行政的なところに関わる、或いは学校教育のところで解決すべきようなところもあった
りして、いくつかの側面があるわけなので、悩みの多様性というものを、教団自身がどのように受け止めていって、
それを解決する道筋をネットとして繋げていくのかと、こういうふうなことが改革の一つの柱であると思います。
あと一つは、教団の構成員の組織、人員関係とか、或いはそれを構成している門徒、檀家の人達と、地域性とい
うようなものも十分考えていかないといけないのではないかと。これは中央の教団レベルで考えれば、直ちに教
団の改革というのが進むわけではありませんので、そういう点では、現在の地方分権とか、地域主義というよう
な形で言っておりますけども、その辺りをどのように考えていくのか、それを念頭に置かないと、教団自身の改
革というのは、基本的な方向としては見出し得ないのではないかと、このように私自身は考えております。
それから、先ほどの藤原先生のご質問の中に、
「教団は公的対応としては、靖国神社の参拝の批判とか反対とか、
先ほど総長さんがおっしゃったようなことは、ここ 40 年近く取り組んでおりますけども、いざ地元の、それぞれ
地方の寺院とか門徒の人達にとっての実態というものは、必ずしも公的対応がそのまま僧侶とか門徒の人達の実
態とは合わない面があるのではないか」。これは、そのとおりなんですね。というのは、かつての培われてきた教
学の伝統、或いは教えの、説明の仕方ということについての基本的な見直し、或いは歴史過程をどのように見て
いくのかということを、共有するものが幅広く成立していないというのが現状かなと思います。そういう点では、
やはりその教団の歩んできた道というのを共有化することなくしては、公的な対応を理解する、或いはそれを考
えてみるという層が、教団の組織の中には形成されないのではないか。この辺りの問題があります。
次に、藤原先生のご指摘で、「最近は神道なんかの神社・神道非宗教論の再登場という傾向が見られるのではな
−65−
いか」。これは確かに、数年前に、神仏霊場会というのが、かつての神仏集合の歴史というものを、もう一度日本
の文化伝統の中で再評価していくべきだと。逆に言うと、明治以降の国家神道下の日本人の精神文化の偏狭性と
いう歴史があって、もう一度これを見直す中で、日本人、或いは日本文化を再生していかないといけないと。そ
のメッセージの中で、神仏霊場会というような組織が今、様々な取組みをしているわけです。けれども、先ほど
の国家と宗教という問題とも関連しますけども、その辺りの問題についてもう少し議論と分析を、私自身はして
いかないといけないと思います。
あと、龍谷大学の高見さんの、「本願寺の戦争協力があったのではないか」。戦争協力は、実態としても精神的
にもあったということは、そのご指摘のとおりだと思います。
それから、
「仏教団体からの政治参加を許されるかどうか」
。これはどのような組織と、どういう代表が出てく
るのかによって、随分中身、内容が違っていきますので、一般論としては良いかどうかというような問題だけに
済まないものですから、その内容、もう少し具体的に何を考えられているのか、わかりませんので、保留にした
いと思います。
あと、五十嵐さんが、
「伝統文化としての宗教と生活文化としての道徳との共通点をどのように解釈するのか」と。
これもやはり、伝統文化としての宗教というものの何をどのような内容としてご理解されているのかで、随分違
うのではないかと思います。私は、伝統文化としての仏教とか、そのように言っても、自立性を持つ伝統文化と
いうものと、脱自立性、非自立性というものの伝統文化があって、宗教についても自立的な宗教もあるし、非自
立性、脱自立性というものを伝統化してきたものもあり、生活文化というものの内身も密接に絡んでいきますので、
その相違というものもあります。その辺りをどのように考えるのかというのが、一つのテーマではないかとも思
います。
時間の関係で、以上にさせていただきます。
長崎 : どうもありがとうございました。最後に私の方から一言。議論をまとめることはとてもできませんが、今
後の課題とあわせて簡単にお話しいたします。現在、龍谷大学にはこの現代インド研究センターと、アジア仏教
文化研究センターという二つのプロジェクトが走っておりまして、本日のシンポジウムは現代インド研究センター
が主催いたしましたけれども、この二つのプロジェクトはお互いに協力しながら進めていきたいと思っておりま
す。時にはこの二つが一緒に、或いは、時には単独でという形かもしれませんが、今後もこういう問題を、一層
深めて探求していきたいと考えております。本日はインドと日本の比較でしたけれども、このようなアジアの宗
教の比較―宗教と言って良いかどうかという問題がありますけれど―という試みは、おそらく日本でもほと
んど初めてではないかという気がいたします。そういう点でも、とても興味深い様々な問題が、相違点のみなら
ず共通の問題も含めて浮き彫りになったという印象を、皆様もお持ちになったのではないかと思います。
最後にちょっとお断りしておきたい点は、「セキュラリズム」という言葉をここでは「政教分離」というふうに
訳しました。これについて、
「政教分離」ではない方が良いのではないかという案もありました。私達はもちろん
「セキュラリズム」というものを「世俗主義」と訳す場合も、或いは「多文化主義」と訳す場合もあるということ
は存じております。ただ、やはり英語を日本語にする場合に、たった一つの訳で、それをずっと貫くということ
はなかなか難しく、私は時に応じて、いくつかの訳があっても良いだろうという立場を取っております。本日の
場合は、
「政教分離」が、日本とインドを比較する時には一番わかりやすい訳になるかと思いこれを採用しましたが、
だからといって「世俗主義」という意味を排除しているわけではありませんので、その点をお断りしておきたい
と思います。
フロアからの質問で、まだ完全にはお答えしていない質問がございます。例えば、井狩先生から、「現代インド
−66−
の語法では、宗教、Religion とダルマとは、ほぼ同一視されておりますが、インドの宗教の定義をどう考えておら
れますか」という、適切な、しかし大変難しい質問がありました。宗教の定義というのを答えようとすると、本
日のようなシンポジウムをもう 1 回、あるいはそれ以上やらなければいけないのではないかと私は思いました。
また、宗教というのものが、言葉においても、ヒンドゥーだったらダルマ Dharma でも良いけれども、ムスリムだっ
たらそうはならないなど、いろいろな場合があるので、多分短い時間では答えにくいだろうと思います。宗教と
いうものは何なのかという問題については、今後の課題にさせていただきたいと思い、お答えできないといいま
すか、敢えてお答えを皆さまに求めることを致しませんでした。申し訳ございません。
それでは、時間が 2 ∼ 3 分超過したところで、この討論の場を終りにいたしまして、
若原先生にお渡しいたします。
若原 : 長時間に亘り、熱心にご聴講いただきまして、ありがとうございます。最後に本学教授、赤松徹眞より閉
会の挨拶を申し上げます。
赤松 : 本日の国内シンポジウムは、
「国家と宗教―日印セキュラリズムの歴史と現状」というテーマを掲げました。
今日、ご報告していただいた先生方、ご参加いただいた皆さん、そして様々なご質問をいただいた皆さまには篤
く御礼申し上げます。
龍谷大学での研究は、この現代インド研究を中心にして、また先ほどもご紹介がありましたように、アジア仏
教文化研究センターも発足して、両方が展開しております。両方の研究センターが密接に関わっているという側
面もありますが、特にこの現代インドの研究につきましては、龍谷大学の長い歴史の中で仏教という古典仏教哲
学というものの伝統が培われてきましたが、現代インドの諸問題にどのように接合していけるのかという課題が
あると思います。龍谷大学には、仏教の思想だけではなくて、現代インドの様々な政治、経済、社会、或いは文化、
思想という領域について、議論と対話を広げていき、また研究を進展させて、その成果を本学の研究教育のとこ
ろに活かしていくという方向で歩ませていただければと思っております。
私は、この研究の一研究員でもありますけども、たまたま今、文学部長をさせていただいておりますので、最
後のご挨拶をさせていただきます。龍谷大学大宮学舎を活用していただき、またお集まりいただいて、盛大に初
めての国内シンポジウムが充実して終えることができ、誠にありがとうございます。篤く感謝を申し上げます。
今後とも、この研究が進展していきますよう、皆さま方のご協力をお願いいたしまして、ご挨拶に代えさせてい
ただきます。ありがとうございました。(会場から拍手)
若原 : それでは、本日の全日程を滞りなく終了いたしました。これでシンポジウムを閉会とさせていただきます。
ありがとうございました。(会場から拍手)
−67−
付 録
シンポジスト一覧
赤松 徹眞 龍谷大学文学部長・教授
池亀 彩 人間文化研究機構/国立民族学博物館現代インド研究センター研究員
上田 知亮 名城大学法学部兼任講師
志賀 美和子 人間文化研究機構/龍谷大学現代インド研究センター研究員
嵩 満也 龍谷大学国際文化学部教授
ブリジ・タンカ デリー大学東アジア研究科教授
長崎 暢子 龍谷大学現代インド研究センター長
中島 岳志 北海道大学法学部准教授
菱木 政晴 同朋大学大学院文学研究科教授
平野 武 龍谷大学法学部教授
若原 雄昭 龍谷大学理工学部教授
(50 音順)
−71−
月
日(土)
烏丸
七条通
烏丸通
清和館
地下鉄烏丸線
大宮キャンパス
堀川通
龍谷大学大宮学舎清和館 3階ホール
五条通
大宮通
会場
四条通
四条大宮
五条
13:00(12:30開場)∼17:10
阪急電鉄京都線
大宮
京福電鉄
四条
年
国家 と宗教
2010 12 11
龍谷大学現代インド研究センター
年度国内シンポジウム
セ キ ュ ラ リ ズ ム
日印
政教分離 の
歴史 と現状
日時
JR東海道本線
京都駅
JR新幹線
主催
龍谷大学現代インド研究センター
事前申込不要・参加無料
〒600-8268 京都市下京区七条大宮東入大工町125-1
JR「京都駅」から徒歩約10分
阪急電車「大宮駅」から市バス約5分「七条大宮」下車
※駐車場はございません。来場には公共交通機関
をご利用ください。
問い合わせ先 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」 龍谷大学現代インド研究センター(RINDAS)
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階 306 号室 電話:075-366-0622 email:[email protected] http://rindas.ryukoku.ac.jp
−72−
国家と宗教
セ キ ュ ラ リ ズ ム
―日印政教分離の歴史と現状
2010 年 12 月 11 日(土) 龍谷大学清和館 3 階ホール
現代の政治・社会は、政治と宗教の分離の諸課題がすでに自明のこととして定着しているとは言えない。グロー
バル化している 21 世紀の現実は、政治領域が肥大化し、政治参加のシステム化の整備で市民・国民の取り込みを
企図する一方で、宗教領域は私的世界に追いやられているかに見えるが、多様な歴史・文化・民族・宗教などの相
違性が交差し、優位性をめぐる確執・対立も激しくなっている。しかし、政治がその世俗の相対性を自覚化するこ
とを怠り、宗教との結びつきを求めて政治の肥大化・絶対化を指向するとき、政治は全体主義に向かって疲弊する。
他方、宗教がその普遍的真理性の故に人間の根源的在りように目覚め、多様性の尊厳や政治の相対性の自覚化を促
し、宗教文化を醸成するものとして機能しないときに、宗教はその普遍的真理性を失う。
本シンポジウムは、日印からの政教分離をめぐる各報告を通して、その歴史的文化的経緯、問題の所在を比較し、
政教分離とその現代的可能性をさぐろうとするものである。
12:30
13:00
開 場
開 会
開会挨拶:西垣 泰幸(龍谷大学副学長)
趣旨説明:嵩 満也(龍谷大学国際文化学部教授)
総合司会:若原 雄昭(龍谷大学理工学部教授)
13:30 ∼ 14:30
Session 1 インドにおける政教分離の歴史と現状 志賀美和子(龍谷大学現代インド研究センター研究員)
「植民地期インドの宗教社会改革と政教分離論争」
池亀 彩(国立民族学博物館研究員)
「セキュラリズムと多文化主義:現代インドの課題と挑戦」
上田 知亮(名城大学法学部講師)
「政党政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズム」
14:40 ∼ 15:40
Session 2 日本における国家と宗教 平野 武(龍谷大学法学部教授)
「現代日本の国家と宗教」
Brij Tankha(デリー大学教授)
Religion and Social Action in Modern Japan(近代日本における宗教と社会活動)
赤松 徹真(龍谷大学文学部教授)
「近代日本の政治と宗教及び仏教教団」
15:50 ∼ 17:00
討 論 司 会:長崎 暢子(龍谷大学現代インド研究センター・センター長)
コメンテーター:中島 岳志(北海道大学法学部准教授)
菱木 政晴(同朋大学大学院文学研究科教授)
17:00
閉会挨拶 赤松 徹真
−73−
NIHU プログラム 現代インド地域研究
龍谷大学拠点(RINDAS)2010 年度国内シンポジウム
国家と宗教―日印政教分離の歴史と現状
2010 年 12 月 11 日(土) 13:00 ∼ 17:10
龍谷大学大宮キャンパス清和館 3 階大ホール
12:30 受付開始
13:00 開 会
総合司会:若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)
開会挨拶:西垣泰幸(龍谷大学副学長)
祝辞:橘正信(浄土真宗本願寺派総長 学校法人龍谷大学理事長)
趣旨説明:嵩満也(龍谷大学国際文化学部教授)
Session 1 インドにおける政教分離の歴史と現状
13:30 − 13:50 志賀美和子(龍谷大学現代インド研究センター研究員)
「植民地期インドの宗教社会改革と政教分離論争」
13:50 − 14:10 池亀彩(国立民族学博物館現代インド研究センター研究員)
「セキュラリズムと多文化主義:現代インドの課題と挑戦」
14:10 − 14:30 上田知亮(名城大学法学部兼任講師)
「政党政治のなかのヒンドゥー・ナショナリズムとセキュラリズム」
14:30 − 14:40 休 憩
Session 2 日本における国家と宗教
14:40 − 15:00 平野武(龍谷大学法学部教授)
「現代日本の国家と宗教」
15:00 − 15:20 Brij Tankha(デリー大学教授)
Religion and Social Action in Modern Japan
(近代日本における宗教と社会活動)
15:20 − 15:40 赤松徹眞(龍谷大学文学部教授)
「近代日本の政治と宗教及び仏教教団」
15:40 − 15:50 休 憩
15:50 − 17:00 討 論
司 会:長崎暢子(龍谷大学現代インド研究センター長)
コメンテーター:中島岳志(北海道大学法学部准教授)
菱木政晴(同朋大学大学院文学研究科教授)
17:00 − 17:10 閉会挨拶 赤松徹眞
−74−
RINDAS シンポジウムシリーズは、人間文化研究機構現代インド地域研究推進事業の出版物です。
人間文化研究機構(NIHU)http://www.nihu.jp/sougou/areastudies/index.html
NIHU プログラム現代インド地域研究(INDAS)http://www.indas.asafas.kyoto-u.ac.jp/
龍谷大学現代インド研究センター(RINDAS)http://rindas.ryukoku.ac.jp/
国家と宗教 日印政教分離の歴史と現状
龍谷大学現代インド研究センター第一回国内シンポジウム報告書
2011 年 3 月 1 日発行 非売品
編集 赤松徹眞・長崎暢子・志賀美和子
発行 龍谷大学現代インド研究センター
〒 600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町 125-1
龍谷大学白亜館 3 階
TEL:075-343-3809 FAX:075-343-3810
http://rindas.ryukoku.ac.jp/
印刷 株式会社 田中プリント
〒 600-8047 京都市下京区松原通麸屋町東入石不動之町 677-2
TEL:075-343-0006
ISBN 978 4 903625 45 4
ISBN 978-4-903625-45-4
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