...

シカゴ・プロジェクト報告書【pdf】

by user

on
Category: Documents
14

views

Report

Comments

Transcript

シカゴ・プロジェクト報告書【pdf】
科学研究費(基盤研究A)
「多文化横断ナラティヴ・フィールドワークによる臨床支援と対話教育法の開発」
2011 年度企画
シカゴ・プロジェクト報告書
シカゴ・プロジェクト概要
1.参加者
(日本からの参加者8名)
やまだようこ(京都大学大学院教育学研究科
家島明彦(島根大学キャリアセンター
教授)
准教授)
川島大輔(北海道教育大学大学院教育学研究科
浦田
企画者(先発隊)
講師)
悠(京都大学大学院教育学研究科
黒田真由美(京都大学大学院教育学研究科
研究員)
西山直子(京都大学大学院教育学研究科
教務補佐)
高橋菜穗子(京都大学大学院教育学研究科
大学院生)
竹内一真(京都大学大学院教育学研究科
大学院生)
大学院生)
(現地の研究協力者1名)
高橋正実(ノースイースタン・イリノイ大学
准教授)
2.旅程(スケジュール)
期間:2011 年 7 月 9 日(土)~2011 年 7 月 17 日(日)
場所:アメリカ合衆国イリノイ州(シカゴ,エバンストン)
7 月 19 日(土) 企画者,東京・成田空港発
企画者,シカゴ・オヘア空港着
企画者と現地の研究協力者,ナラティヴ論に関する研究打合わせ
7 月 10 日(日)
企画者と現地の研究協力者,ノースイースタン・イリノイ大学にて下見と打合せ
7 月 11 日(月)
企画者,ノースウェスタン大学にて下見と打合せ
(日本時間 7 月 12 日,企画者以外の参加者,東京・成田空港発)
7 月 12 日(火)
企画者以外の参加者,シカゴ・オヘア空港着
1
(以降は全員)
7 月 13 日(水)
ノースウェスタン大学にて国際コロキアム
7 月 14 日(木)
高齢者施設 Heiwa Terrace のフィールドワーク
7 月 12 日(火)
シカゴ大学附属青少年情緒障害施設 Orthogenic School のフィールドワーク
7 月 15 日(金)
ノースイースタン・イリノイ大学にて国際シンポジウム
7 月 16 日(土)
シカゴ・オヘア空港発
7 月 17 日(日)
東京・成田空港着
シカゴ・プロジェクト企画内容
1.ノースウェスタン大学(NU)での国際コロキアム
企画名:International Colloquium on The Life Story
日時:2011 年 7 月 13 日(水)
9:30〜17:00
場所:ノースウェスタン大学(NU)
(日本側の発表者)
やまだようこ(京都大学大学院教育学研究科
家島明彦(島根大学キャリアセンター
浦田
教授)
講師)
悠(京都大学大学院教育学研究科
研究員)
(NU 側の発表者)
Dan P. McAdams(ノースウェスタン大学
Keith S. Cox(ノースウェスタン大学
大学院生)
Jennifer Sumner(ノースウェスタン大学
Miriam Klevan(ノースウェスタン大学
Josh Wilt(ノースウェスタン大学
教授)
大学院生)
大学院生)
大学院生)
(プログラム概要) ※発表タイトルなど詳細は別紙プログラム参照
9:30 - 10:00 導入・自己紹介
10:00 - 10:30 発表①(Dan P. McAdams)
10:30 - 11:00 発表②(やまだようこ)
(小休憩)
11:15 - 11:45 発表③(家島明彦)
2
11:45 - 12:15 発表④(Keith S. Cox)
(昼食会,キャンパスツアー)
14:30 - 15:00 発表⑤(Jennifer Sumner)
15:00 - 15:30 発表⑥(Miriam Klevan)
(小休憩)
15:45 - 16:15 発表⑦(浦田 悠)
16:15 - 16:45 発表⑧(Josh Wilt)
16:45 - 17:00 総括(Dan P. McAdams)
(懇親会)
2.ノースイースタン・イリノイ大学(NEIU)での国際シンポジウム
企画名:International Symposium of Life-span Developmental Psychology
日時:7 月 15 日(金)
9:00〜17:00
場所:ノースイースタン・イリノイ大学(NEIU)
(日本側の発表者)
川島大輔(北海道教育大学大学院教育学研究科
西山直子(日本学術振興会
准教授)
特別研究員/京都大学大学院教育学研究科
(シカゴ側の発表者)
Saba Ayman-Nolley (ノースイースタン・イリノイ大学
教授)
Christopher Merchant (ノースイースタン・イリノイ大学
David Poveda (マドリッド・オートノマ大学
教授)
(プログラム概要) ※発表タイトルなど詳細は別紙プログラム参照
9:00 朝食会
9:45 導入・開会挨拶
10:00 発表①(Christopher Merchant)
11:00 発表②(川島大輔)
(昼食会)
14:00 発表③(Saba Ayman-Nolley)
14:50 発表④(西山直子)
15:40 発表⑤(David Poveda)
16:45 総括・閉会挨拶
3
助教授)
大学院生)
3.フィールドワーク
(1)高齢者施設
訪問先:平和テラス(Heiwa Terrace)
http://heiwaterrace.org/home
日時:2011 年 7 月 14 日(木)午前
所在地:920 W Lawrence Avenue Chicago, IL 60640 (+1 773-989-7333)
(2)青少年情緒障害施設
訪問先:シカゴ大学附属 オーソジェニック・スクール(Orthogenic School)
http://orthogenicschool.uchicago.edu/
日時:2011 年 7 月 14 日(木)午後
所在地:1365 East 60th Street Chicago, IL 60637 (+1 773-702-1203)
4
シカゴ・プロジェクトのまとめ:体験と学びのリフレクション
1.ライフストーリーに関する国際コロキアム
(ノースウェスタン大学 2011.7.13)
International Colloquium on The Life Story
July 13th, 2011 at Northwestern University
概要
2011 年 7 月 13 日(水),ノースウェスタン大学のアネンバーグ・ホール 3 階 301 教室にて,ラ
イフストーリーに関する国際コロキアム(International Colloquium on The Life Story)が開催
された。日米双方から合計 8 名が登壇し,ナラティヴやライフストーリーに関する研究発表をおこ
なった。総勢 22 名を超える多国籍の参加者が,ライフストーリーに関する活発な議論を展開した。
ランチやディナーを含めて朝から晩まで,多様な研究者が親睦を深めた。
参加者 8 人の声を重ねる
ズレのある多声的語りによる報告書
その1:多様なライフストーリー研究を味わう仕合わせ
(やまだようこ)
シ
カゴ・プロジェクトのハイライトのひとつ,International Colloquium on the Life Story は,ノース
ウエスタン大学の教育学部棟 Annenberg Hall で開催された。
すべての発表が,生涯発達心理学にかかわるナラティヴ研究にかかわるもので,専門がぴったり同じで焦点
がきちんとあい,理論的・方法論的な前提が共有された上で,テーマや具体的な方法の多様性がよく理解でき
る,活発な議論が展開された。
ダン・マクアダムス教授と彼が指導している大学院生たちも,みなさん親切で大歓迎していただいた。参加
者の方々の積極的な協力で,とても中身の濃い,すばらしく充実した会になった。
午前中は,9 時半前からコーヒー,ジュース,果物,ベーグル,お菓子などを食べながら,各自の自己紹介
からはじまった。マクアダムスの「ライフストーリーの心理学」につづいて,私の「ライフサイクルと死のヴ
ィジュアル・ナラティヴ」の発表をした。コーヒーブレイクをはさんで,家島さんの「ナラティヴ・アイデン
ティティと文化」,Keith Cox の「Redemption の縦断的パワー,何が説明でき,何ができないか?」という発
表があった。
昼食は,ミシガン湖がみえる美しい景色の部屋で特別料理をいただいた。そのあとは,湖がはるかに広がる
5
緑に包まれた大学のキャンパスを歩きながら,ダンに案内していただいた。
午後は,Jennifer Sumner の「自伝的記憶と抑鬱」
,Miriam Klevan の「養子縁組した夫婦の不妊と養子縁
組の語り」,浦田さんの「人生の意味の語り」
,Josh Wilt の「ライフストーリーを語る機能」の発表がつづい
た。
ここではマクアダムスと私の発表を中心に報告する。マクアダムスによれば,「Redemptive narrative は,
個人の語りというだけではなく,アメリカン・ストーリーやアメリカン・ドリームでもある」が,それは,ネ
ガティヴな位置からポジティヴな位置へと向かうさまざまな語りを包括した用語である。そのなかには回復の
語りや上昇志向の語りなど,さまざまなヴァリエーションが含まれる。また,ウェルビーイングと深く関連し,
generativity の高い人は,redemptive な語りをするという相関も高いということである。保守や革新の政治
家の人生物語など,興味深い具体例が多々あげられた。
Redemptive narrative という用語を,私たちは「救済の語り」と訳していたが,それは間違いだとわかっ
た。もともと宗教的なことばで,「罪のあがない」などの意味を含むから,日本語にすれば「救済」かと考え
たのである。しかし,個人的にマクアダムスに聞いたところでは,宗教的な意味はあまりなく,運動選手でも
ふつうにつかう大衆的で日常的なことばだということである。また,日本語で「救う,救われる」という意味
は,個人の努力で上昇するというよりも,他力本願的な意味が強いので,ますます誤解を生むと思われる。
「取
り返しの語り」と訳すか,あるいは意訳して「上昇の語り」としたほうがよいのではないかと思った。私は,
「なぜサクセス・ストーリーとか overcoming story」といわないで,redemptive というのか?」という質問
もしてみた。ダンによれば,「両方とも redemptive と非常に近い,特に overcoming は redemptive そのもの
だ。redemptive は,マイナスからプラスへ向かうことを強調している包括的な用語である」という答えであ
った。
Redemptive の概念は,あとで発表した Keith Cox などの研究方法の手続きをみると,よりよくわかった。
インタヴューで,まずその人のライフを章立てするというライフストーリー研究の手法で,Key moments を
あげてもらい,Low
points を設定する。たとえば「妻が亡くなくなった」という最低のポイントから,数年
後に”I can overcome”と言うなど。大学生のデータと56-58歳のデータを両方とって比較し,どちらでも
言えることをとりだすという手法も興味深いものであった。
私の発表も,みなさんに大変興味をもっていただいた。ダンとは10年以上前に京都で generativity に関す
る研究会で知り合い,その後,彼らが編集しアメリカ心理学会から出版した”Generative Society”にも執筆し
たことがある。今回も私の研究の意図も内容も,非常に的確に理解してくれた。特に「Being Story」はイメ
ージできない考えられない絵だと何度も言及し,とてもおもしろがってくれた。
また,
多くの人々が visual turn
という,私が語った用語を覚えてくれて,あとでそれを話題にした。国際発表で,ヴィジュアルな媒体を用い
て発表すると,印象的に伝えやすくて効果が高いと思う。
今までほかの場所で発表したときと異なる質問で,特に印象に残ったのは,
「Choice Story」の invisible gate
とは何かという質問で,choice ということばの意味の文化差に気づいた。日本人にとっての「選択」は,必ず
しも自分の意志で主体的に選びとる必要はなく,目に見えない門から入れるかどうかは,自分ではわからない。
日本では選択は「救済」なので,「救われるか」どうかを決めるもの,それは自分の意志ではないのだろう。
それに対して,
「狭き門を入れ」と教えるキリスト教の文化では,選択は主体的に選びとるものだから,
「みえ
ない門」という表現は不思議に思われたのだろう。この質問をした大学院生の Michelle は,このイメージ地
図の研究に非常に興味を持ってくれ,日本に帰ったあとでも個人的にメールをくれた。
6
また,
「りんごのライフサイクル」の絵の「現在」のところで,
「つみとられない」という説明がついている
が,それはどういうことかと聞かれた。
「つみとられない」という現在の自己の表現は,消極的にみえるが,
りんごの立場から見れば,人間の手で「つみとられない」で木に残ることは天命をまっとうできることで良い
ことなのだと気づいた。このりんごのライフサイクルの絵は,人間中心コンテクストではなく,リンゴの生態
系コンテクトで一貫して描かれていることがわかった。
また,夕方のレセプションのとき,マクアダムスも奥さんも,ピザを食べながら,紙のテーブルクロスに彼
らのライフストーリーを絵に描いてくれた。マクアダムスは,
「20 代前半まではたいくつでうだつがあがらな
かった,大学で奥さんと出会ってから登り調子になった」という絵を描いた。奥さんは,「幼いときは外で遊
ぶ子どもらに背を向けて本を読みふける少女」,「現在は,家庭の絵と裁判官としての仕事の絵の2つ」,未来
は「孫を抱いているおばあさんの絵」を描いてくれた。貴重な資料なので,切り取ってもらってきたが,彼ら
のサービス精神には頭がさがる思いがした。(やまだようこ)
その 2:ライフストーリーに立ち現れる主体性とその文化的意味づけ
(川島大輔)
ノ
ースウェスタン大学では,日本とアメリカの研究者双方から研究発表が行われ,それに基づく議論が
展開された。ノースウェスタン大学側からは,McAdams 教授および博士課程在学中の大学院生の発
表が行われた。
いずれの発表も関心を惹く内容であったが,とくに Klevan 氏による,養子縁組を経験した親への調査結果
は大変興味深かった。主体性(agency)
(養子は自分の「選択」である,など)と,運命(destiny)
・宿命(fate)
が,混交的に語られるという報告であった。というのも私がこれまでお話を聞いてきた自死によるご遺族の語
りにおいても,本人の主体性と運命が混交して語られていたからであり,昨年度の日本心理学会ワークショッ
プにおいて「受動と能動のあいだ」として発表していた内容とも共鳴するからである。一方,懇親会における
議論の中で,日本のご遺族の語りにおいて散見される「周囲の人たちへの感謝」という物語は,彼女のこれま
での調査では聞いたことがないとのことであった。神や大きな運命的存在に言及することはあっても,自分の
周辺の人々への感謝の語りとともに,養子縁組についての自己物語を構成する対象者はいないとのことであっ
た。もちろん米国の養子縁組の語りでは「周囲の人への感謝」が語られないと結論付けるのは早計であるが,
仮にそうであるとして,この差異がテーマによるものなのか,それとも文化的なものなのかについて,研究関
心の幅が広がった議論であった。
そのほか,とくに印象的だったのは,発表を行ったすべての大学院生がパーソナリティあるいは物語的アイ
デンティティと精神的健康との関連を念頭において研究を展開していたことである。発表者のほぼ全員が
Clinical Psychology のコースにも所属し臨床実践を行っていること,あるいは Foley Center の設立精神と密
接に関連しているのかもしれない。ただし研究と臨床の関心は明確に切り離されているようであった。実際,
抑うつの研究を行っていた Sumner 氏のみ臨床,研究面で同じ関心を寄せていた。また研究アプローチについ
ては,ケース報告をしていた Klevan 氏一人を除いて,質問紙調査の統計解析結果を報告しており,また語り
は明確な基準によってコード化され,他の変数との関連について分析されていた。ナラティヴ,ライフストー
リーに関心は寄せていても,その分析手法は極めて量的である印象を得た。今回のセッションでは日本側,ア
7
メリカ側ともにナラティヴ,質的研究に焦点化した発表は少なかったため,語りを質的に分析する方法につい
てはあまり議論の俎上にのらなかった。次の展開として,方法論に関する議論を行うセッションを設けること
も興味深いと考える。(川島大輔)
その3:ライフストーリー研究の裏にドラマあり
(家島明彦)
8 時にホテルのロビーに集合した我々は,2 台の車でノースウェスタン大学の会場へと向かった。ノー
朝
スウェスタン大学のメイン・キャンパスは,シカゴ市の北に位置するエバンストン市にある。ダウンタ
ウンのホテルからエバンストンの会場まで,車で 25 分くらいかかったが,到着するとダン・マクアダムス教
授が駐車許可証を持って会場の入口まで出迎えてくれた。会場は,収容人数が 20 名くらいの丁度良い広さの
教室で,入り口の傍には果物や飲み物が準備されていた。教室内のテーブルには,当日のスケジュール表や発
表者のハンドアウト,関係資料などが並べられており,日本からの参加者にはお土産としてマクアダムス教授
の最近の著書『George W. Bush and the Redemptive Dream: A Psychological Portrait』と『The Redemptive
Self: Stories Americans Live By』まで用意されていた。マクアダムス教授の細やかな気配りと準備が垣間見
える一面であった。
9 時半頃,発表者全員分の発表スライドを USB メモリでプレゼン用ノートパソコンにコピーする作業が終
わり,国際コロキアムは幕を上げた。参加者全員による簡単な自己紹介が一通り終わった後,各自の発表へと
移った。発表時間は 1 人 30 分(発表 20 分,質疑応答 10 分)であった。国際コロキアムはアット・ホームな
雰囲気で終始なごやかに進められた。そのおかげか,初対面同士でも率直な意見や刺激的な議論が飛び交い,
質疑応答は大いに盛り上がった。
午前中,まずはノースウェスタン大学のダン・マクアダムス教授と京都大学のやまだようこ教授の発表がお
こなわれた。その後,コーヒーブレイクを挟んで私(島根大学講師の家島明彦)とノースウェスタン大学博士
課程大学院生のキース・コックス氏の発表がおこなわれた。(個々の発表および質疑応答はどれも興味深く,
日米双方の参加者にとって気づきの多いものであったが,まずは全体の流れについて述べる。
)
12 時過ぎにランチブレイクに入り,会場を移動してビュッフェ形式の昼食懇談会をおこなった。その後,
マクアダムス教授によるノースウェスタン大学のキャンパス・ツアーが開催され,我々はミシガン湖に面する
美しいキャンパス内を散歩した。大学の世界ランキングでも上位に入る米国の有名私立大学の施設だけでなく,
数日前にエバンストンとシカゴを襲ったサンダーストームのせいで大木が根こそぎ倒れている様子など,珍し
い光景も見ることができた。途中,ノースウェスタン大学のシンボルマークを発見したが,そこに記された校
訓”Quaecumque sunt vera”(ラテン語で「真なるものすべて」)の意味に気づいたのは,会場に戻ってからで
あった。
午後は,ノースウェスタン大学の博士課程大学院生 3 名(ジェニファー・サムナー氏,ミリアム・クレヴァ
ン氏,ジョシュ・ウィルト氏)と,京都大学の浦田悠研究員の合計 4 名が,間にコーヒーブレイクを挟んで 2
名ずつ研究発表をおこない,最後にマクアダムス教授が総括(ラップアップ)をおこなった。コロキアム終了
後,ピザ屋(レストラン)に移動し,夕方から夜まで親睦会をおこなった。私が座った卓では,若手研究者同
士,就職の話や博士課程大学院生のキャリアの話など身近なテーマから,研究方法のトレンドに至るまで多岐
8
にわたる話題が飛び交い,非常に楽しく有意義な時間を過ごすことができた。
今回のコロキアムにおいて興味深く感じたのは,ノースウェスタン大学の発表者(大学院生)の多くがイン
タビュー・データとともに統計分析や有意差を持ちだして発表していたことである。統計分析の細かい点につ
いては疑問を抱いたりツッコミを入れたりしたくなるところも少なくなかったが,いずれにせよ方法論に関す
る日米差が顕著に現れていて興味深かった。次回があるなら,是非データに寄り添った分析手法セミナー,あ
るいは,語りと文化をテーマにしたセッションにしたい。また,発表テーマに関しては,日米それぞれの特徴
的なテーマが選ばれており,互いの国・文化ならではの研究テーマが少なくなかったので双方とも興味深く聞
くことができたように思う。大人もマンガを読むことが珍しくない日本社会,養子が決して珍しくない米国社
会,など異文化理解にもつながったのではないだろうか。また,発表テーマは発表者個人の関心やライフスト
ーリーとも密接に関係するように感じられた。ライフストーリーの裏にドラマあり,そして,ライフストーリ
ー研究の裏にも(国・文化・研究者自身の)ドラマがありそうだなと感じた。なお,2011 年 9 月 16 日(金)
の午前,日本大学文理学部で開催される日本心理学会第 75 回大会において,ナラティヴ・アイデンティティ
(Redemptive Self)と文化に関するワークショップを企画している。今後もライフストーリーやナラティヴ・
アイデンティティと文化の関連には着目していきたいと思う。また,今回交流を深めたノースウェスタン大学
の博士課程大学院生とは,帰国後も Facebook やメールを通じてコンタクトを取り続けていきたい。京都大学
とノースウェスタン大学の博士課程大学院生同士が今後どのようなコラボレーションをすることになるのか,
将来が楽しみである。(家島明彦)
その4:研究発表における文化的背景への留意
(浦田
悠)
ノ
ースウェスタン大学では,日本側の発表者とノースウェスタン大学(以下 NU とする)側の発表者の
双方から発表がなされ,日本側の発表者は,やまだようこ先生と家島明彦さん,および筆者であった。
双方の発表はいずれも,ライフストーリーやナラティヴといったテーマに焦点を当てたものであり,筆者にと
って,どれも興味深いものであった。また,すでにその内容によく触れている日本側の先生の発表も,文化的
な背景が浮き彫りにされた本コロキアムでの発表という位置づけによって,改めてそれらの研究の特徴が新鮮
に受け止められた。やまだ先生の人生サイクルについてのご発表も,ヴィジュアルなものが,言語以前の,あ
るいは言語を超えた共通理解をもたらす力を改めて感じ,15 日のシンポジウムにおけるヴィジュアル・ナラ
ティヴの議論とともに,関心を深めることができた。
筆者の発表については,質疑応答の際に文化的な背景についての議論がなされ,そこからデータの提示の仕
方に課題が見出された。発表では,人生の意味の深さについて 3 つのデータを提示した。すなわち,①意味が
多次元にわたっており,かつ深いと評定された西洋の著名人の例,②意味は多岐にわたっていないが,一貫性
や統合性の高い西洋での調査例,および,③意味が浅いと評定された日本人の例である。筆者の意図としては,
これらの例によって,意味の深さは,単に意味の源泉の種類が異なるものとして捉えるのではなく,意味シス
テムとしての一貫性・統合性も捉える必要があることを指摘しようとしていた。しかし,その場での質問や,
後の先生方からの指摘によって,これが一種の文化差として捉えられかねないことに気付かされた。すなわち,
意味が浅いと評定された日本人のデータが,日本文化を表象するものとして受け止められる可能性があった。
9
この点については,今後は,より多様なデータを探索しつつ,文化差についても検討すべきであり,またデー
タの提示の仕方に留意すべきであるという反省点が見出された。
発表の中での 1 つの収穫は,かつてから筆者が行ってきた「人生の意味(meaning of life)」と「生活の意
味(meaning in life)」という区別が,英語のニュアンスでも確かに区別されることが改めて確認されたこと
である。すなわち,英語においても,meaning of life は meaning in life よりも包括的な意味を持っており,
究極的な問いまで含むものであること,meaning in life は,日常生活で見出す意味が中心であるという意味合
いを持っているとのことであった。
本コロキアムの最後には,McAdams 先生によって,①Narrative identity(意味や目的,関係性を提供す
るもの),②Kinds, Types(Redemptive Story やヴィジュアル・ナラティヴ等の種類や形式)
,③Contribution
(ストーリーがもたらすもの),④Good story(ストーリーが持つ価値,ウェルビーイングや意味への影響),
⑤Agency(個人的あるいは集合的な自律性),⑥Culture(文化的差異や類同性)というキーワードが挙げら
れ,それぞれの発表がそれらのキーワードのもとでまとめられた。
(浦田 悠)
その5:Redemptive story を通して見たライフストーリー研究
(黒田真由美)
ノ
ースウェスタン大学では,多くの発表が,理論的な話に終始するのではなく,データを示しながら,
量的な分析や質的分析を取り入れた発表がなされた。
McAdams 教授の発表では,救済の語りとして,一つの方向性があることが示された。いくつかの語りの例
を挙げながらネガティヴなものから,ポジティヴな方向への語りが提示された。私は,このような救済の語り
に対して,救済の語りがどのような示唆によってなされるのかに興味をもった。漠然としたテーマについて語
る中から方向性のある話を見出すことは難しく,一つの方向性を持った話を話すよう示唆しているのではない
かと思ったからである。ネガティヴな語りからポジティヴな語りへと語ってもらい,そこから何らかの定型を
示してそうとしているのであろうか?これについて,質問をしたところ,単純に一つの方向性を示す語りを求
めているのではなく。ターニングポイントを重点的に聞いているとのことであった。人生の良い時,悪い時,
ターニングポイントなど 8 つの点を中心に,人生についてのインタヴューをしている。これにより,ポジティ
ヴとネガティヴな話を聞くことができ,救済の語りが形成されていくことのことであった。そのため,ネガテ
ィヴからポジティヴへの単純な方向性を持つ語りを話すよう導くのではなく,ネガティヴからポジティヴへの
移行のヴァリエーションがあり,そこからモデルを見出すとのことであった。
やまだ先生の発表では,8 つの人生のイメージに関する紹介がなされた。円環的なライフサイクルモデルに
対して,リンゴが摘み取られる可能性は検討されていないのかとの質問がなされた。これに対して,リンゴが
食べられるのは違うライフサイクルに入ることであり,リンゴにとってネガティヴなことは検討されていない
との答えがなされた。リンゴにとってのライフサイクルという観点から絵が描かれていて,リンゴにとって地
面に落ち,次の栄養となることが自然な流れであるとのことであった。自然の流れを円環的なイメージとして
受け取るのではなく,そこに人を介入させることによって生じる可能性について考えるところに考えの違いを
感じた。リンゴに対して人がいかに介入するのかについて考えている点が興味深かった。民族に関することに
ついても質問があった。イギリスで収集された絵を示す際にルーツが併記されており,私もそれは民族の違い
10
を示すためであろうかとの疑問を持っており,この質問は興味深かった。ルーツが示されていることについて,
モデルは民族による違いを示すのではなく,民族を超えた共通性を示すものとして提示されているとの答えが
あった。民族の提示は,どの民俗かということは描かれている絵に与える影響を示すため(たとえば,海があ
る民族は,海の絵を用いる)であり,民族の違いを示しているのは民族を超えた共通性を示すためであった。
民族間で見られる絵がどのように異なるのかを明らかにするのではなく,民族が異なっても共通してみられる
絵のヴァリエーションに注目しているとのことであった。
Cox 氏は,救済の語りの縦断的変化について,大学生の例などを取り上げながらの話であった。幸せなこと
を多く経験している人は,不幸な語りをしていても,不幸な語りに長くとどまれない,大学生を対象とした研
究では,3 か月経つとネガティヴな語りは減少するというような話であった。この発表を聞いていて,
redemptive story とは一体何かという疑問がわいた,この話を聞く前には,redemptive story には宗教的な意
味が根底にあり,救済の語りと理解していた。しかし,この発表を聞くと,ネガティヴからポジティヴな語り
へと移行することを救済といえるのであろうか。low point redemption とは何を意味するのであろうか?この
点について質問したところ,redemptive story において,救済の語りは一部であり,キリスト教徒の影響を受
けている側面もある。ただ,アメリカ人には仏教徒などもあり,多くの語りの一つであるとのことであった。
Redemptive は一般的な用語として通用しており,ネガティヴからポジティヴへの移行としても使われている
とのことであった。McAdams 教授の研究に見られるように,人生の意味について考える際には,redemptive
story を取り上げることによって,単純なネガティヴからポジティヴへの移行や,宗教的な意味も踏まえた移
行など,多様なものが見いだされ,意義深いと思う。ただ redemptive story を単にネガティヴからポジティ
ヴへと移行するという意味で捉えると,特に数か月の変化を見ただけでは,redemptive story を単純化しすぎ
ているように思った。よい話とは何だろうか。Cox 氏の救済の語りでは明確に良いとは何かということが示さ
れていなかったが,一つの側面をみてよくなったという語りを引き出すことはできるように思うが,そのよう
に単純化してよいのであろうか。
ネガティヴからポジティヴへという一つの方向を志向する redemptive story と,やまだ先生の発表に見られ
るライフストーリーの多様性に,ライフストーリー研究の方向性の違いが如実に見られ,興味深かった。
Redemptive story は本来多様な意味を持つ物であり,事例を通して redemptive story についてもう一度考え
てみたい。(黒田真由美)
その6:ライフストーリー研究について思索を深めた一日
(西山直子)
ノ
ースウェスタン大学では,時おり休憩をはさみながら一日がかりで研究発表と質疑応答,議論が行わ
れた。こぢんまりとした部屋で,参加者の顔が全員見渡せるなかでの議論は白熱したものだった。
私が特に興味を惹かれたのは,Miriam Klevan 氏による報告であった。彼女は,不妊治療を経た後に養子
縁組をした夫婦に対するインタビューを基に,その語りのなかに fate(運命)と agency(主体性)が入り混
じる模様を,事例を引き合いに出しつつ報告した。これまで,McAdams 先生の研究グループによるライフス
トーリー研究を学んできた私は,アメリカ社会の中核的な Narrative Identity として‘Redemptive Story’
をとらえ,ひとが何らかの困難に立ち向かい,克服し,乗り越えて,幸福や成功を勝ち取るのがその基本的な
11
ストーリーラインだと考えていた。そして,何もかも自分の(個人の)努力や行動によって主体的に人生を作
り上げていく,選び取っていくことに多少の違和感を覚えていた。自分ではどうにもならないこと,さまざま
な状況や要因が重なってそう選ばざるをえないこと,苦難や喪失を身に引き受けるしかないことも,人生には
多いのではないか,そんな気がしていた。そこで,
「その子を養子として迎え入れるように運命づけられてい
た」とする agency(主体性)によらない語りが‘Redemptive Story’の一種として受け入れられていること
を知り,関心を抱いたのである。宗教的な背景もあろうか,Klevan 氏が示してくれた事例の語りを聞くと,
fate(運命)というのは,神の思し召し(God’s plan)あるいは宇宙の摂理(universe’s plan)という意味で
使われているようであった。いま,9 月に東京で行われる日本心理学会でのワークショップに向けて,アメリ
カの‘Redemptive Self’に匹敵する日本版の Narrative Identity を打ち出そうと準備を進めているのだが,
この fate(運命)に関する考え方は非常に参考になるように思う。日本の場合,「神」という意志を示す存在
は明確には意識されにくいと思うが,見えない大きな力,抗いがたい運命の波,めぐり合わせの妙は,人生の
物語を語るうえで欠かせないもののように感じている。これについては,Klevan 氏とも連絡を取り合いなが
ら,日本における fate(運命)のとらえ方・語られ方を考えていきたい。
また,やまだようこ先生の「人生のイメージ地図」や「あの世とこの世のイメージ」研究報告に対する NU
側の参加者の反応も興味深かった。上の議論とも関連するが,特に「人生のイメージ地図」研究の報告で,人
生における choice(選択)の考え方の違いが浮き彫りになったように思う。アメリカでは人生の岐路に立った
とき,主体性をもっていずれかの道を自ら選択し切り開くという意識が高いように思うが,日本では周りから
の期待や社会通念を暗黙のうちに自らのなかに取り入れて自分で選んでいるようで選んでいないのではない
か,と考えさせられる議論の内容であった。
余談であるが,国際コロキアム後に場所を移して行われた懇親会の場で,McAdams 先生が「人生のイメー
ジ地図」に関連して,こんな研究も行われているよ,と紹介がてらご自身のこれまでの人生をグラフに描いて
くださった。縦軸に幸福度,横軸に時間をとり,生まれてから現在までの人生を一本の線でグラフに描くとい
うものだった。なるほどと思いつつ,過去から現在へと時間が直線的に流れていること,ひとつのグラフの上
には一人の人の生涯しか描けないこと(まわりの人との関係性を組み込んだものとはならないこと)などが,
やまだ先生が研究しておられる「人生のイメージ地図」とは違う点だと思った。しかし,McAdams 先生のラ
イフストーリーを手短にでも伺えたのは幸いなことであった。(西山直子)
その7:ライフストーリーと文化
(高橋菜穂子)
本
コロキアムでは,ライフストーリーをテーマに,それぞれの大学から興味深い発表と活発な議論が行わ
れた。アメリカと日本という文化横断的な視点に立つことで,アメリカと日本のライフストーリーにつ
いて,いくつかの差異や共通点について知ることが出来た。ライフストーリーやライフイメージは,文化や社
会の影響を多分に受けているため,このような視点は自分自身の研究を見直し,新たな問いや問題意識を膨ら
ませることにつながった。
やまだ先生の発表の中ではライフイメージについての文化間の差異,あるいは文化を超えて共通するものに
ついて興味深い議論があった。ここでは,「人生のイメージ地図」や「この世とあの世のイメージ画」がいく
12
つか紹介され,文化間のライフイメージについての議論が交わされた。特に,やまだ先生が紹介された “Being
Model”についての議論が興味深かった。このイメージ画は,丘の上に立って,自分が歩んできた人生を眺める
というものや,砂浜に座って海を眺めているというものである。人生を上昇するイメージでとらえたり,時の
流れになぞらえてとらえるようなものとは異なり,
「ただそこに居る」ということが描かれているものである。
絵の主人公は一見すると,歩みを止めてしまったかのようにも見える。しかし,ここで示されているのは,た
だ止まっているという人生に対する受動的で消極的なあり方ではなく,自分の人生の流れから一旦距離をとる,
「離れる」というプロセスである。このプロセスを経ることで,自分の人生を相対化し,再解釈し,新たな意
味を付与することが可能になるのではないだろうか。 “Being Model”については,NU 側の参加者から,それ
まで抱いていたライフイメージと違うという驚きが感想として聞かれた。一概に述べることはできないが,
McAdams 教授の Redemptive Self についての研究や,後の Klevan 氏の発表を聞いても,アメリカでは,自
らの主体性によって運命を切り開き,救済を得るというというライフイメージが強いのではないかと推測した。
このようなライフイメージに対して,やまだ先生が紹介された “Being Model”がどのように受けとめられるの
だろうか。いくつかの感想を通してその様子を知ることが出来,そこから文化間の違いについても多く学ぶこ
とが出来た。
Klevan 氏の発表は,養子縁組を行った人のライフストーリーを扱っていた。ここで紹介されていたのは,
不妊という,過酷な運命に直面した時,Agency(主体性)を発揮し,望む選択を行うことによって,自らの
Fate(運命)をつかむ,という語りである。2 人の男女の語りの事例が挙がっていたが,そのどちらも,「子
どもを授かる」という望みに向かって Agency を発揮し,最終的には
“She(He) made this happen” という
ように,運命を望む形に切り拓いていくというストーリーであった。望む運命とは,“Personal Manifest”であ
り,家族を,血縁関係を越えて,養子縁組にまで拡大することも,ここでは,マニフェストの一部なのである。
また,望む運命を切り開く過程では, “Belief to God” が重要な観点であるという。
“God Intervened My Life”
というように,神がインタビュイーの運命を調停し,神を信じることによって,運命を切り開く正当性を確保
しているという宗教観が垣間見られたように思う。
発表前に Klevan 氏と,日本とアメリカの,里親や養子縁組をめぐる社会体制の違いについて議論すること
ができた。里親委託率は国によって大きく異なる。日本では,里親委託率は自治体によってばらつきがあるも
のの,社会的養護を要する子どものうち,おおむね 10%未満である(多くの子どもは施設入所となる)。それ
に対してアメリカでは里親委託率が 7 割を超えており,養子縁組を行うことに対する肯定的な意識も強いので
はないかと思った。Klevan 氏は,社会的養護全体への関心も高く,さまざまなデータについて話すことが出
来た。このあたりの社会的背景について議論が出来たことも,自身の研究にとって大きな収穫であった。
Klevan 氏の発表では,事例に上がっていたインタビュイーが,自己の主体性によって行動を起こし,運命を
切り開いたと考察されていたが,その文脈にも,文化・社会的な意識が色濃く反映されているのではないかと
感じた。日本では,子どもは血縁関係のもとで育てられるべきという規範が強く残っており,里親や養子縁組
に対して抵抗感が強いが,アメリカでは里親や養子縁組がひとつの家族の形として定着している。そのため,
社会的な障壁に対する意識よりも,より自らの選択に対する意識が高いのではないかということを感じた。
コロキアムを通して印象的だったのは,NU の発表者が全体的に,個々の語りや事例を越えて,Life Story
の共通項を見出し,構造化していこうとする意識が高いということである。また,語りの事例報告にとどまる
のではなく,その先にある「支援」や「臨床」を見据え,研究成果を心理適応プログラムや臨床支援のプログ
ラムへと応用していく意識が高いという点も印象的である。例えば,Wilt 氏の発表では,量的な手続きによっ
13
て,Life Story の構造を決定するための 3 つの要因( Self-directive, Social, Coping with Negative Events )が
見出されていた。社会的・心理的要因の相互作用という観点から,統合されたライフストーリーが人々のウェ
ルビーイングに及ぼす影響を見据えた研究が報告された。また,臨床心理士として,カウンセリングに携わり
つつ,鬱の研究を行っているという Sumner 氏の研究では,AMT( Autobiographical Memory Test )というテ
ストを用いて学生にテストを行った研究について,また自伝記憶の特異性と鬱との関連が報告された。その研
究成果は鬱への対処法として臨床支援への示唆も大きいと思われる。(高橋菜穂子)
その8:アメリカと日本におけるライフストーリー研究の相違
(竹内一真)
本
シンポジウムはノースウェスタン大学で行われた。大学に車で到着すると,マクアダムス先生の暖かい
笑顔でもてなしていただいた。大学構内(教育学部)は極めて近代的な建物で,一部のフロアには
モ
ニタがあり,PC を接続することで画面を共有できるようになっていた。
シンポジウムの会場は30人ほどが入れるもので,それほど大きい部屋ではなかったが,コーヒーや軽食が用
意されており,非常に整っていた。このようなコーヒーや軽食だけでなく,マクアダムス先生の気配りはいた
るところに感じられ,我々がコーヒーなどを飲んでいると積極的に声をかけるなど温かい心配りがあった。シ
ンポジウムの参加者は最終的に20人ほどになった。参加者はマクアダム先生のドクターコースに在籍中の学
生もいれば,ノースウェスタン大学の研究者などもおり,非常にバラエティに富んだものであった。
発表は9:30からはじまり,初めはマクアダムス先生による「The Psychology of Life Stories」であった。
マクアダムス先生の発表ではライフストーリーを心理学的に扱う諸問題や研究課題についての説明があり,さ
らに,そこから近年マクアダムス先生の問題関心である generativity について話しが及ぶという形で論が展開
していった。質疑応答では特にマクアダムス先生の主張されている「Redemptive Self」に関することが議論
された。Redemptive Self とはどのようなナラティヴ・アイデンティティを指すのかということに関してマク
アダムス先生は基本的にはネガティヴな状態から,ポジティヴな状態に自分を意味づけるという意味付け方を
Redemptive Self と指すということであった。
続いて発表されたのがやまだ先生で,
「Visual Narratives of Life Cycle and Death」というテーマであった。
発表ではやまだ先生のイメージ画に関する生と死に関するテーマのものを中心にしながら行われた。会場から
は特に様々なイメージ画に関する質問が行われ,特に,絵の中に門が書かれたものなどに関してどのような意
味なのかということを聞く方がいた。他にも描かれた絵を中心としながら多様な意見が交わされた。今回の発
表を聞いて非常に印象に残ったのはイメージ画ということの持つ訴求力である。本コロキアムでも「このイメ
ージはアメリカ人は書かないのではないか」という意見や「個々のゲートのようなものはどういう意味を持つ
のか」という意見など,イメージ画を中心にしながら豊かな議論が交わされた。このようなイメージ画の訴求
力という面以外にも,やまだ先生の発表自体にも改めて研究法としてのイメージ画の面白さを感じた。特に「人
生」に関するイメージ画の研究ではこれまで発達心理学で目指してきた,直線的,不可逆的な発達とは異なる
ような発達のモデル図が人々のもつイメージ画として浮かび上がってきており,ヨーロッパやアメリカなど西
洋で発展してきた発達のイメージを相対化するような様々なイメージ画が示されていた。
続いては家島さんによる「Narrative Identity and Culture: What Kinds of Narrative do Japanese Comics
14
Provide for Youth? 」という発表であった。家島さんの発表では漫画に関する丁寧な説明から始まり,日本に
おける漫画の位置づけや歴史などに触れ,最終的に日本の漫画を青年期の若者にどのように語るのかという観
点から,当事者のアイデンティティに迫るものであった。漫画がどのように青年期の自己形成に影響を与えて
いるのかという興味深い視点であると感じたとともに,フロアの方々にとっても漫画のキャラクターをベース
にしたアイデンティティ形成に対して積極的に質問が交わされていた。
続いてはノースウエスタン大学ドクターコース在籍中の Keith Cox 氏による「Redemption’s Longitudinal
Power and What Does or Does Not Explain It」という発表であった。この研究では Redemptive Self の観点
からローポイントとハイポイントを語りのスクリプトにおいて特定し,その数と Big Five などの尺度との相
関をみるというものであった。個人的にはこの Cox 氏による語りの数量化の手法はとてもユニークな手法だ
と感じられた。これまでのナラティヴに関する研究では当事者の「語り」を質的に分析するという研究が主流
で,インタビューで得た質的データを量的に処理するとしたら,非常に限られたものとしかなかったからであ
る。
Cox 氏の発表の後は昼食という運びになった。昼食ではノースウエスタン大学の学食の上にある部屋を貸し
切って料理が用意されていた。とても暖かな雰囲気の中で食事を行うことができた。このとき,マクアダムス
先生と色々と話すことができた。特に印象的だったのはマクアダムス先生が「なぜ grenerativity を研究する
ことにしたのか」ということに対する質問への返答であった。先生によれば,
「私は福祉や教育などへ人間の
行動を駆り立てる generativity の力にひかれた」というのがその答えであったが,改めて,generativity の有
する力強さについて考えさせられた。
もう一点,非常に印象的だったのが,マクアダムス先生をはじめ,学生たちが日本の震災の件をとても心配
して下さっているということである。ノースウエスタン大学内にも千羽鶴がかざってあったり,日本を応援す
るメッセージが我々の来校とは関係なく飾られていたりした。改めて今回の東日本大震災という災害のインパ
クトが世界に与えた影響の強さを感じさせるものとなった。
次に発表されたのが,ノースウエスタン大学ドクターコース在籍中の Miriam Klevan 氏による「Narratives
of Infertility and Adoption among Adoptive Parents」という発表であった。内容としては不妊の女性の養子
縁組に関する語りをケース報告するという形であった。Klevan 氏の発表では養子縁組をする両親に対してイ
ンタビューを実施しており,意味づけを分析するものであったが,
「運命」という言葉や「神」という言葉な
ど非常にキリスト教に根差した意味づけ方をすると感じた。
日本側の最後の発表者であったのが,次の浦田さんによる「Narrative and the Meaning of life: A New
Approach to Assessing Meaning Systems」という発表である。浦田さんの発表も Cox 氏の発表と同様,語り
を数量的に捉えようとするアプローチであった。この発表ではマクアダムス先生も非常に関心を持ったようで,
「われわれとは違うアプローチではあるが,とても示唆的な研究だと思う」とおっしゃっていたのが印象的で
あった。
発表全体から考えると,今回のコロキアムはノースウエスタン大学,あるいは現在のマクアダムス先生の関
心や動向を知る上で,非常に有意義なものであった。最も強く感じたのは,マクアダムス先生の関心あるいは
現在のマクアダムス先生が関与しているプロジェクトが Redemptive Self を質的分析によって深めていくと
いうよりは,むしろ,これまでマクアダムス先生が関与してきた Big Five との関連や精神的な強さとの関係
など,generativity のもつ「力」を明らかにしようとする点にあるのではないかと感じた。そのための数々の
数量的手法はとてもユニークで興味深いものであった一方,Redemptive Self の語りから一部のシークエンス
15
を抜き出して数量的に処理するため,個々のデータにおける質的側面などに関してはより深く突っ込める部分
もあるのではないかと感じた。(竹内一真)
参加者 8 人の見た景色を重ねる
写真によるヴィジュアルな報告書
16
17
18
2.生涯発達心理学に関する国際シンポジウム
(ノースイースタン・イリノイ大学 2011.7.15)
International Symposium of Life-Span Developmental Psychology
July 15th, 2011 at Northeastern Illinois University
概要
2011 年 7 月 15 日(金),ノースイースタン・イリノイ大学のスチューデント・ユニオン 2 階 SU-214
教室にて,生涯発達心理学に関する国際シンポジウム(International Symposium of Life-Span
Developmental Psychology)が開催された。日本,アメリカ,スペインの 3 カ国から合計 5 名が
登壇し,生涯発達心理学に関する研究発表をおこなった。約 30 名の参加者が,率直な意見・感想
をぶつけ合い,多文化横断的な議論を展開した。
参加者 8 人の声を重ねる
ズレのある多声的語りによる報告書
その1:入念な準備が生きた共鳴のよろこび
(やまだようこ)
シ
カゴ・プロジェクトの 2 つめのハイライトは,ノースイースタン・イリノイ大学で開催された
International Symposium of Life-span Developmental Psychology と題する国際シンポジウムであ
った。
ここでも,プログラムなどの用意はもちろん,朝食,昼食(インド料理),お茶とお菓子など多くの準備を
していただき,大歓迎していただいた。おみやげに大学グッズまでいただいた。なお日本では海外の客を招い
て接待しても,すべて教授の個人負担になるが,アメリカの大学では,これらの接待費は公費で出すことがで
きるとのことであった。国際会議などを開催するときのアメリカと日本の体制の違いなど,細かいことまで聞
けたのは,高橋正実先生が現地の大学のスタッフであり,この科研プロジェクトの研究協力者でもあり,両方
の立場で参与してくださったおかげである。
高橋先生は,最初のあいさつで「京都」の美しい四季の風景を選りすぐった発表をしてくださった。私達は
まだまだ自己アピールが不足しているが,日本を海外にどのように紹介するかというお手本になった。
この国際シンポジウムでは,時間をゆっくりとって,討論に力を入れようという計画にした。また,日本と
アメリカの研究者をどのようにマッチングさせるか,事前に準備を重ねて,両方の研究のテーマや方法論がう
まくかみあうように企画した。この企画は大成功で,初対面と思えないほど,互いの研究に関心をもち討論を
することができた。
午前中は,「死と文化」と題するセッションで,日米二人の新進若手研究者が自殺に関する発表をした。ク
リストファーは,
「若者の自殺の社会的文脈」について発表し,白人と黒人の比較研究を行った。川島さんは,
19
「自殺後に残された人々の意味の再構築」について発表した。両方とも大変興味深い発表であった。
午後は「ヴィジュアル・イメージとナラティヴ」のセッションであった。NEIU のサバの発表は,子どもが
描いた「老人の絵」を分析したものであった。西山さんは,「中年期の世代から見た母,娘,祖母三代の関係
性」のイメージ画について発表した。従来の描画研究は,能力やパーソナリティの個人差に興味をもつか,臨
床研究が大部分であった。その代表的な問いは「このような絵を描いた人はどのようなパーソナリティか」と
問うもので,絵を特定の個人の資質とむすびつけて問題にするものである。それに対して,サバの研究は「リ
ーダーシップ」や「老人観」などに焦点をあて,西山さんの研究は,
「三代の関係性」に焦点をあてるもので,
どちらも社会的・集合的に描画を扱っているところが従来の研究の観点を大きく超えるもので,大きな共通点
が見出された。あとで加わったシカゴ大学に滞在中のスペインの研究者,デイビッドの発表も社会的視点から
子どもをとらえるもので,特に写真を使ってポスターをつくる研究は興味深かった。(やまだようこ)
その 2:対話を通じた「文化的」トライアンギュレーション
(川島大輔)
午
前の部で行われた「Death and Culture」のセクションでは,Merchant 助教授が自殺企図や自殺念慮
への関連因子を検討した報告を行った。アフリカ系アメリカ人と白人では,社会や他者とのかかわり方
が自殺念慮に与える影響が異なるとの発表は大変興味深かった。自殺予防の観点から,これらの知見を生かし
た青少年への自殺予防教育の構築を期待したい。また私自身は,自死遺族の意味再構成についての発表,議論
を行った。自らのプレゼンテーションの拙さ,とくに英語力については今後の課題が多く残ったが,フロアか
ら意義深いコメントや指摘をいただけたことは大きな収穫であった。
午後の部で行われた「Visual Image and Narrative」のセッションでは,アメリカ,日本,スペインの研究
発表が行われた。各発表者の研究アプローチはヴァリエーションに富んでいたが,子ども(ただし西山氏の研
究対象者は大学生とその親)の描出するイメージから見出されたモデルには多くの共通点があることが発表後
の議論から示唆された。まさに質的研究におけるトライアンギュレーションの成果といえるだろう。また
Poveda 教授の発表中,写真をもとに語りを得る手法がとられていたことに関して,家族や自分の過去を写す
写真を数枚子ども自らが選ぶことは,その中に自らのアイデンティティを構成しようとしている様子を迫るこ
とであり,当該アプローチの可能性を感じる発表であった。写真,絵,語り,ジェスチャーなど多様なソース
から生きられた経験にアプローチすることの有用性を再確認したセッションであった。
(川島大輔)
その3:ヴィジュアルの後に対話あり
(家島明彦)
8 時にホテルのロビーに集合した我々は,車でダウンタウンの北西に位置するノースイースタン・イリ
朝
ノイ大学(NEIU)へと向かった。私にとっては 2007 年 11 月から 2008 年 2 月末までの 3 ヶ月半を過
ごした留学先(在外研究先)であり,キャンパスも心理学部スタッフも会場の教室も,全て久しぶりで懐かし
かった。会場である教室の後ろにはドーナツ,フルーツ,ドリンクが揃っており,日本からの参加者には当日
20
のプログラムと一緒に NEIU グッズが用意されていた。心理学部長のエイマン=ノリー・サバ教授と高橋正
実准教授のホスピタリティには,ただただ感謝するばかりであった。当日の様子はビデオで撮影され,収録
DVD は図書館にアーカイブ化されたようである。
NEIU の国際交流室長代理による開会挨拶で幕を開けた国際シンポジウムは,高橋准教授の京都紹介を経て,
午前のセッションへと入っていった。発表時間は質疑応答を含めて 1 人 50~60 分であり,多くの質疑応答や
議論がおこなわれた。午前のセッションのテーマは「死と文化」(Death and Culture)であり,NEIU のク
リストファー・マーチャント助教授と北海道教育大学の川島大輔准教授が発表した。朝から「死」という割と
重いテーマであったにもかかわらず,日米双方から似たテーマの発表があったため,フロアからの質疑応答や
全体討論は非常に活発であった。
ランチブレイクでは,大学の近くのレストランに移動し,ビュッフェ形式のインド料理を食べながら親睦を
深めた。研究のことだけでなく,東日本大震災後の日本の状況やプライベートの近況についても意見や情報を
交換した。
午後のセッションのテーマは「ヴィジュアル・イメージと文化」(Visual Image and Narrative)であり,
NEIU のエイマン=ノリー・サバ教授,日本学術振興会(京都大学)の西山直子特別研究員,スペインのマド
リッド・オートノマ大学からシカゴ大学に在学研究中のデイビッド・ポヴェダ教授の 3 名が発表した。3 者 3
様の研究の中に共通点と相違点があり,特に言語(ナラティヴ)と非言語(ヴィジュアル・イメージ,ジェス
チャー)を扱う研究手法およびその分析方法の文化差・個人差は興味深かった。
今回の国際シンポジウムは,セッションのテーマを設定したことによって質疑応答や全体討論が盛り上がっ
たように感じた。事前に綿密な打合せを重ねて研究テーマが近い登壇者を選定し,同じセッションにまとめて
いたことが功を奏したようだ。高橋准教授に感謝したい。また,研究の積み重ねによって理論的・方法論的・
応用的(実践的)可能性を磨いていこうというエイマン=ノリー教授の最後の締め括りに関しても,当たり前
のことであるが,改めてその大切さを学んだ気がした。特に,海外文献を読むだけではなく,実際に海外の研
究者と対話を重ねることの重要性を実感した。国や文化に固有の文脈は,論文を読むときに捨象されてしまい
がち,あるいは,なかなか気づきにくいものであるが,対面のやりとりだと気軽に質問や確認ができるため,
結果の背後にある海外固有の文脈にも気づきやすい。論文との対話も重要であるが,実際にその論文を書いた
研究者との直接的な対話はその何倍も重要であるという認識を改めて強めた。そして,異なる世代や文化の人
との対話において,ヴィジュアル・イメージが非常に有用であることを,体験的に学び直すことができた。
(家
島明彦)
その4:ヴィジュアル・イメージの文化を越えるインパクト
(浦田
ノ
悠)
ースイースタン・イリノイ大学(以下 NEIU とする)では,2 つの大テーマを設定してシンポジウム
が企画されたが,当初の企画意図を超えて,シンポジウムは成功したといえる。それぞれの発表から
は,文化や方法論の問題,研究上の倫理の問題などを軸としたつながりが浮き彫りにされ,それをもとに活発
な討議がなされた。
前半のトピックは,「死と文化」であった。NEIU の Merchant 先生と科研メンバーの川島大輔先生は,と
21
もに自殺予防へ向けた研究についての発表であったが,前者は,自殺企図を巡る社会文化的文脈の影響につい
て,後者は自死遺族における意味の問題に焦点化したところが特徴であり,共に従来の自殺に関する理論や方
法論を含みつつ超える視点を持った興味深い発表であった。
後半のトピックは,「ヴィジュアル・イメージとナラティヴ」であり,科研メンバーの西山直子さんと
Ayman-Nolley 先生による発表は,いずれも描画を用いた研究の紹介であった。筆者自身は,ヴィジュアルデ
ータを用いた研究を本格的に行った経験がないが,モデル構成を通じて,図像で示すことの有効性を感じてい
ることもあり,ヴィジュアルデータの可能性について,改めて関心が深まった。Ayman-Nolley 先生の発表で
は,子どもの描画というヴィジュアルデータを用いる利点として,①emic なアプローチが可能であり,大人
のバイアスが入りにくいこと,②画を描くことは,子どもにとって一般的な方法であり,モチベーションも高
まること,③子どもの意見やフィーリングを研究者に開示することが容易になること,④プライベートな部分
を抑圧せずに伝えることができること,等が示されていた。これは異なる言語圏・文化圏にまたがった研究を
行う際にもそのまま当てはまるであろう。
少し話がずれるが(またコロキアムでのやまだ先生の発表にもつながるが)
,これに関連して筆者が思い起
こしたのは,禅のテキストである「十牛図」を巡る話である。哲学者の上田閑照(上田・柳田,1992)は,ド
イツのマールブルク大学で仏教や日本の哲学に関する講義を行った際,日本語・漢語をいかにドイツ語で表す
ことができるかに苦労したという。それは,ドイツ語での準備が大変であるということ以上に,ドイツ語に訳
された言葉は,ドイツ語として持っている西洋思想史上の含意をこめたままで聞きとられざるを得ないという
ことによる困難であった。しかし,その際,文字通り図としての十牛図を基礎的な手がかりとして,聴講者と
の「対話的共働」(上田・柳田,1992,p.21)を行ってみたという。すると,図は図そのものとしては漢語で
も日本語でもなく,ドイツ語に訳す必要もなく,また訳され得ない次元のものが含まれているため,問題が問
題として双方にとって非常にはっきりとし,結果として大きな意味を持つに至ったそうである。このように,
それ自体は文化的な背景を豊かに含みながらも,同時に,言葉以前のところでの共通の手がかりをも含むヴィ
ジュアルなものの特質は,まさにヴィジュアル・ナラティヴを用いた研究の強みであり,やまだ先生が先鞭を
着けられてきた人生サイクルや他界イメージ研究や,西山さんの研究の視点にもつながるのであろう。(浦田
悠)
その5:対話に見られる文化差
(黒田真由美)
ノ
ースイースタン・イリノイ大学では,アメリカと日本の背景や調査のあり方の違いが明確な発表や議
論がなされた。
午前中の自殺に関する発表では,アフリカ系アメリカ人に焦点をあてた研究がなされており,白人との違い
が見られることが印象的であった。黒人と白人の自殺の要因の違いや,他者との関係性が注目されていた。そ
して,黒人の青年のコミュニティの中で自殺の観念に関する要因が明らかにされており,アフリカ系アメリカ
人と白人の相違は非常に興味深かった。
また,午後の発表では,イメージに関する研究発表がなされた。日本の子どもは比較的上手な絵を描くが,
アメリカでは絵の描き方の指導は系統だっておらず,みんなが上手な絵を描く訳ではないので,絵を描くこと
の意義が大きいとのことだった。絵に関する教育という点でも違いがあるようだったが,それだけではなく,
22
絵を描くよう指示する際の注意点も印象的だった。アメリカでは,課題を提示する際に起こりうる問題を十分
に検討するとのことであった。西山氏の発表は,三世代の関係を絵で表現するよう求める研究についてであり,
この場合に虐待が疑われたらどうするのかというような問いも発せられた。目的のためにどのような調査をす
るのかというだけではなく,その調査をする過程で生じる問題に対して非常に繊細であった。以前,アメリカ
と日本の調査に対する意識の違いについて聞いたことがあったが,実際に調査に対する意識についての議論か
ら調査をする際の意識を高める必要があると感じた。
(黒田真由美)
その6:対話を通して得た気づき
(西山直子)
午
前の部で行われた“Death and Culture”のセッションでは,まず,Christopher Merchant 先生が青少
年の自殺企図や自殺念慮に与える社会・文化的な影響を検討した報告を行った。一方で,川島大輔先生
は自死遺族の方が喪失を受け入れ人生の意味を再構成する語りを扱った発表を行った。「自殺」をめぐって,
自らの命を絶とうとする当事者の側,また,その当事者に関わりの深いまわりの人々,そして,大切な存在を
失い遺された家族,その語りを聞き思いを受けとめる研究者の側など,様々な状況や立場から議論が行われて,
テーマの深まりを感じた。
午後の部は,“Visual Image and Narrative”というテーマを掲げて,私自身を含めた3人の発表者が研究
報告を行った。印象的であったのは,Saba Ayman-Nolley 先生のイメージや絵に対する考え方が驚くほど私
ややまだようこ先生の考え方と似通っていたことだった。描かれた絵に対して,そのなかに個人の特性や能力
やパーソナリティを見出そうとするのではなく,また,幼少経験や過去のトラウマや抑圧された感情などを見
出そうとすることなく,描かれた絵そのものを尊重し,それをひとつの Visual Narrative として扱うという
姿勢は,お互いに共通するところだった。この根本的な研究姿勢が一致していたことで,方法論の細かい違い
などにとらわれることなく本質的な議論を深めることができたように思う。
私の発表に対して寄せられた疑問や意見は,どれも鋭く的確で,目を開かれる思いがした。たとえば,David
Poveda 先生からは,実際の家族構成や居住形態が「祖母―母―娘」三代の関係性イメージの絵に表れる可能
性について指摘された。もちろん,これまでにもそういった家族構成や居住形態などは考慮に入れていたが,
いわゆる‘一般的な’家族というものを暗黙のうちに想定していたことに気づかされた。血のつながった家族
だけでなく,養子縁組によって結成された家族,シングルペアレントとその子ども,再婚者同士の夫婦とその
連れ子たち,同性のパートナーと子どもたち…など,多種多様な家族の姿・形態が浮かび上がってきた。三代
ともなれば,その関係性はより複雑になる。そのなかで,そういった現実の家族構成や居住形態などを考慮に
入れながら,母方の「祖母―母―娘」三代の女性に絞って関係性を問うことの意義について,改めて考えさせ
られる指摘であった。
また,Saba Ayman-Nolley 先生からは,研究調査を行ううえでの倫理的な問題や調査協力者に対するアフ
ターケアに関してご意見をいただいた。
「祖母―母―娘」三代の関係性というパーソナルな事柄について尋ね
た場合に,たとえば幼いころに母親から虐待を受けていたり,現在の母娘の関係が良好ではなかったりしたと
き,絵を描くという調査に協力することによって,そのネガティヴな記憶や感情が喚起され,調査協力者に悪
影響を与えてしまうのではないか,そうした場合の配慮やアフターケアはどのようになされているのか,とい
23
う質問を受けた。もっともである。やめたくなったらいつでも調査協力をやめてもよいし,描きたくなければ
そもそも調査に参加しないだろうとは思うのだが,私の研究関心のために調査を呼びかけたことによって嫌な
思いをする人がいたり,昔の傷がうずくような人がいたりしては申し訳ない。配慮が足りなかったと反省する
ばかりであった。もうひとつ,これに関連することとして,たとえば青年期娘世代のイメージ画のなかに,幼
いころ母親から虐待や暴力を受けていた,あるいは,現在の絵で母親が祖母を邪険に扱っているような,問題
を告発する絵が提出されたときに,それを引き受けた者としてどう対応するのか,という質問を受けた。いま
までに,厳しい母親の姿や怖い母親の姿が描かれたことはあっても,虐待を疑うような事例には出会ったこと
がなく,ましてや,高齢者虐待を窺わせるような事例は見たことがなく,答えに窮してしまった。私の調査の
場合,匿名での参加のため,たとえそういった問題を告発する絵が提出されたとしても,その後,その協力者
にアクセスする術がない。研究調査を実施するうえでの倫理的な問題や,調査実施後のアフターケアについて,
たくさんの課題が見えてきた。
発表はなんとか拙い英語で行ったものの,質疑応答は高橋正実先生の通訳に頼ってしまった。しかし,その
おかげで,議論の中身は非常に濃いものとなったように思う。通訳だけでなく,この国際シンポジウムの様々
な場面でさりげなく細やかな気配りをしてくださった高橋正実先生に,心から感謝申し上げたい。
(西山直子)
その7:文化を横断するナラティヴ
(高橋菜穂子)
午
前中は,自殺予防の観点から日本とアメリカの興味深い研究が報告され,午後は絵画や子どもの語りに
ついての多彩な研究が報告された。Ayman-Nolley 教授の発表では,子どもの絵を用いた研究が紹介さ
れた。興味深かったのは,子どもたちの絵画を,個人の内面に対する診断的なツールや心理療法のツールとし
て用いるのではなく,私たちの文化的な価値や好みを反映するもの,スキーマを映し出すものとしてとらえる
という点である。このアプローチは,やまだ先生や西山氏のイメージ画研究と通じるものが非常に多いのでは
ないかと思う。また,絵画を描いてもらう際のテーマも印象的で,
「Leaders and leadership」や「Old person
and aging」というテーマを教示し,絵を描いてもらうのだという。これらは非常に社会的なテーマで,ジェ
ンダーや規範意識が反映されており,紹介されていた絵はどれも興味深いものであった。アフリカ系アメリカ
人の子どもの 28%が,リーダーとしてキング牧師を描いたことからも,これらのテーマが社会的・文化的な
意識を反映していることが分かる。
Poveda 教授の発表では,主にスペインの研究についてのレビューが報告された。私は特に,Poveda 教授が
現在取り組んでおられる片親家庭の子どもの語りを扱った研究について詳しく聞きたいと思い,質問したとこ
ろ,現在進行中の研究について話してくださった。子どものナラティヴについては,インタビュー手法だけで
なく,ジェスチャーや,絵画,写真を使った手法が取り入れられており,このような設定は子どもを対象とし
て研究を進める際に参考になる。スペインの片親家庭の子どもの語りには,多様な家族の定義がみられ,特に
以下の 3 つのパターンがみられるという。1 つ目は,柔軟な家族構成を特徴とするもので,ここでは,母親と
友達,母親と親戚のおじさん,といったように,血縁関係にとらわれない多様な組み合わせが家族として定義
される。2 つ目が一対のカップル(親)を基盤とする家族である。3 つ目は,二対のカップルを含む家族であ
る。これは,養子縁組の子どもに特徴的なもので,生物学的な親と,養親といったように二対の親が語られる
24
のだそうだ。
Poveda 教授の研究は,さまざまな場で子どものナラティヴを収集しており,特にビデオを使ったデータ収
集やネガティヴなイベントに焦点を当てるような研究についての倫理的配慮について Ayman-Nolley 教授か
ら鋭い指摘があった。
この倫理的配慮についての議論は,西山氏の発表でも同様の指摘がなされていた。西山氏のイメージ画調査
は,初めに協力者に研究手続きを説明し,了承を得ることのできた協力者にイメージ画を描いてもらうもので
あり,またネガティヴな出来事や関係性に焦点を当てるものではない。しかし,現在,母親や祖母との関係に
苦しんでいるような協力者への配慮や,実際にイメージ画にそのようなネガティヴなイメージが表現されてい
た場合,どのように対応するのか,などについて Ayman-Nolley 教授が質問され,その点について,研究者の
自覚的な配慮の必要性や,倫理面についての議論の必要性が指摘されていた。まとめの議論で,日本の研究に
おける倫理規定について質問があったが,私はこの質問に返答することができず,これまで,自身の研究では
倫理規定について,あまり自覚的でなかったことが反省された。(高橋菜穂子)
その8:対話を通じた研究の交流と生成
(竹内一真)
ノ
ースイースタン・イリノイ大学はシカゴより車で20分ほど行ったところにある。周りは非常に閑静
な住宅街にあった。大学の雰囲気も非常に落ち着いた雰囲気で,特に夏休み期間中ということもある
が,キャンパス全体がゆったりした感じがあった。シンポジウムの場所は大学内の 2F の一室であった。コー
ヒーや軽食などが用意されており,ノースイースタン・イリノイ大学の教員から積極的に声をかけてくださる
など非常に暖かくもてなしてもらった。
シンポジウムはノースイースタン・イリノイ大学の助教授 Christopher Merchant の発表「Social Context
and Adolescent Suicidality」から始まった。Merchant 先生による発表の前半部分では特に自殺予防の観点
からの発表をされており,発表の中では自殺に関する社会学,心理学などの様々な理論やアメリカでの自殺の
状況などがコンパクトにまとまっていた。また,後半部分では地震の研究に関しての説明があり,自殺や自殺
予防に関する男女間,そして,人種間の比較などがなされており非常に興味深い内容であった。
続いては川島大輔先生による「Meaning reconstruction and the aftermath of suicide」という発表であっ
た。川島先生による発表では家族などの近親者を喪失することによる意味の再構築に関する研究を発表されて
いた。
お昼を挟んで行われたのが Ayman-Nolley 先生による「How Do Children's Drawings Measure Their
Implicit Theories of Social Roles?」という発表である。サバ先生はイメージ画を使った研究をされていて,
前日発表されたやまだ先生,そして続いて発表された西山さんと同じ研究手法であった。Ayman-Nolley 先生
の発表ではイメージ画を使う際の方法論に関して言及されており,非常に興味深いものがあった。研究内容と
してはイメージ画を使って子どもの持つリーダーシップに関するイメージを明らかにするというものなどに
関するものであったが,発表後の議論においても得意に方法論に関して議論がなされ,イメージ画の解釈に関
して活発な質疑応答が行われた。
Ayman-Nolley 先生の発表と非常に近い研究を発表されたのが,次の登壇者の西山直子さんで,発表は
25
「Visual Narrative of Intergenerational Relationship」というタイトルであった。西山さんの発表では娘-
母-祖母という三世代を対象として,娘世代と母世代に対して過去,現在,未来という三つの軸からイメージ
画を書かせるというものであった。この西山さんの発表でやまだ先生,Ayman-Nolley 先生,西山さんという
三人からイメージ画の発表があったわけであるが,改めてイメージ画の奥深さと面白さを感じた。やまだ先生
の手法は「死」や「人生」などに関する人々の持っている素朴なイメージを,Ayman-Nolley 先生は子どもの
「リーダーシップ」に関するイメージを,そして,西山さんは娘と母の過去・現在・未来という三つの軸にお
けるイメージを分析していた。どれも,
(もちろん,インタビューと合わせることは可能であったとしても)
インタビューという手法では十分に明らかにできないものを多分に含んでおり,イメージ画という手法を使う
ことで質的研究に大きな広がりを与えることができるのだな,と強く感じることができた。
ノースイースタン・イリノイ大学では相互に類似する研究を持ってくるというスタンスを取っていたためか,
非常にわかりやすく,そして議論もノースウェスタン大学同様,とても盛り上がった。シンポジウムやコロキ
アムというのは専門が違ったり,分野が異なったりで,すれ違いになることも多いが,今回はそのようなこと
がなく,自殺(予防)・イメージ画とテーマと互いの研究発表が非常に絡み合っていた。(竹内一真)
参加者 8 人の見た景色を重ねる
写真によるヴィジュアルな報告書
26
27
3.高齢者施設と青少年情緒障害施設のフィールドワーク
(平和テラス,オーソジェニック・スクール
2011.7.14)
Fieldwork of Chicago
July 14 , 2011 at Heiwa Terrace / The Sonia Shankman Orthogenic School
th
概要
2011 年 7 月 14 日(木)
,シカゴにある 2 つの施設を訪問した。1 つは,地元日系団体によって
設立された高齢者施設(Heiwa Terrace)であり,もう 1 つは,シカゴ大学附属の青少年情緒障害
施設(The Sonia Shankman Orthogenic School)である。それぞれの施設において,施設内を見
学すると同時に担当者から施設の歴史や概要に関する説明を受けた。また,シカゴ大学のキャンパ
スも見学した。
参加者 8 人の声を重ねる
ズレのある多声的語りによる報告書
その1:異文化に脈づく伝統を見る
(やまだようこ)
高
齢者施設「Heiwa Terrace」は,日本人によって建設され,絵画や書など日本的なインテリアや日本庭
園があり,ボランティアとして日本の方々が大勢かかわっている。しかし,現在は低所得者用の住居に
なっており,韓国人の入居者が大半をしめているということである。私達は特別にお部屋に訪問し,昔は政府
関係の仕事をしていた夫をもち,ドイツに住んでいたこともあるという女性のライフストーリーを,短時間な
がら伺うことができた。綺麗に整頓された部屋に飾ってある家族の写真を見ながら,その方が海外で歩いてこ
られた人生に思いをはせて感慨深いものがあった。
シカゴ大学構内にある,青少年情緒障害施設(Orthogenic School)では,施設を丁寧に見せていただいた
後,そこで子どもや青年たちが治療のために作っている美しい絵画や物語や詩でつくられているアート雑誌
「Orthogenique」や,彼らがデザインしてつくった T シャツをいただいた。どれも非常にセンスが良いもの
で,ハイレベルの教育が伝わってきた。
Orthogenic とは,”grow straight and tall”(まっすぐに高く成長せよ)という意味だそうである。設立にかか
わったブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)の名が繰り返し出され,1915 年の創立以来変わらな
いという伝統が誇らしげに語られていたのは意外であった。彼の著書『自閉症・うつろな砦』は日本でも良く
読まれたが,
「自閉症」の親は冷たいという親子関係起因説をとなえ,親子分離を促進した人として,現在で
は完全に過去の人として批判的に語られることが多いからである。現在も,ここは全寮制で運営されていた。
ベッテルハイムは,ユダヤ系ドイツ人でウィーンからアメリカへ亡命した。彼は『フロイトのウィーン』と
いう本も書いている。改めて本棚から取り出して読んでみると,
「ウィーン文化の最大の開花期と,帝国の崩
28
壊期が同時に到来した」ことがウィーン独自の文化をつくったこと,「この奇妙な同時性が,両価性(アンビ
ヴァレンス)
,ヒステリー,神経症の理解にもとづく精神分析が,なぜウィーンに発祥したのか」を説明でき
ると書いている。
初めから意図していたわけではなかったが,この科研プロジェクトのフィールドワークが,フロイトが活躍
した「ウィーン」からはじまり,フロイトが亡命した「ロンドン」でアンナ・フロイトやメラニークラインの
治療が今もそのまま息づいているのを知り,そしてアメリカの「シカゴ」で,ベッテルハイムの学校の継承を
見たことは,さまざまな連関を考えることができて,とても有意義であった。
ベッテルハイムも,そして似た境遇のエリクソンも,複雑で矛盾し両価的で,過去を偽ったり,告発された
り,社会的栄光と盛衰の一筋縄ではいかなかった人生だった。しかし,彼らがつくった伝統は,アメリカの地
で根づよく生きているのかもしれない。さまざまな用語が簡単に切り花のようにもてはやされて一世を風靡し,
批判されると一刀両断,流行とともに簡単に捨てられてしまって知の蓄積ができない日本の現状が逆に思いや
られる。海外フィールドワークの良さは,書物による一片の知識では得られない根っこの連関が見いだせると
ころにある。
下記は「Orthogenique
vol.9」の最初の頁に掲載されていた入所者の詩の一部である。彼らの痛みがつづ
られた印象深い詩である。この詩が,個人の体験や心情をうたいながら,見事にアメリカ文化,アメリカン・
ストーリーの伝統をふまえた redemptive narrative になっているところも興味深い。
(やまだようこ)
“Pain, pain, go away, We will find a better way” Poem by Casey
My knees have crashed through the floor,
From falling, the downfall, the pour.
Hardship and sorrow’s domain.
The government, my family, everything, cause of my pain.
(中略)
All the time you’ve spent worrying about your sorrow,
You forgot that the day has brought us tomorrow.
And that day brings new opportunities,
And that the flowers still bloom,
And that life goes on, you’re still alive
And that the things that you hold dear are still here
And now is your chance
And now you must seize the day
And now your mind is clear
And now you can wipe your tear
And that this is your chance to make things right
Bring your life to where you want it
29
Sure it takes a lot of work, but I know you want it.
(後略)
その 2:シカゴに息づく歴史と文化の探訪
(川島大輔)
齢者施設「Heiwa Terrace」を訪問した。当該施設は低所得者向けの高齢者賃貸マンションのようなも
高
のであり,介護福祉施設ではない。また手入れが行き届いており,低所得者向けであることを感じさせ
ない内観であった。介護度が上がり自立生活が困難になると養護施設に入居することになるという。もとは日
系アメリカ人の福祉向上が目的であったが,現在では入居者の2割程度にとどまり,韓国系アメリカ人,アフ
リカ系アメリカ人などの入居者が大半を占めているという。施設に関する説明の中で,英語がわかない台湾出
身の入居者と朝鮮出身の入居者が,日本語で会話することもあるという話を聞いて,歴史のもたらす妙を感じ
た。
青少年情緒障害施設(Orthogenic School)は情緒障害をもつ子ども・青少年のための全寮制の支援施設で
ある。設立にはブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)らが関わっており,その教育理念は約 100
年経過した現在でも色濃く残っているという。寮では,家庭的な雰囲気を大変重視していて,食事のとり方か
ら皿の柄にいたるまで,通常の家庭とできる限り同じように配慮しているとのことであった。また同じ建物内
に教室も併設しているのだが,寮と教室のあいだに廊下を設けてあり,移行のためのスペースを用意すること
で,家庭と教育の場を区別しているとのことだった。当該施設では,家庭的な関わり,教育,セラピー,
(精
神)医学的治療等が並行して受けられる仕組みになっており,一定のプログラムを終えると実家あるいは社会
に戻っていくことを目的としている。驚くべきことは子ども一人に対して二人の支援者がつくという恵まれた
人員配置である。子ども一人あたりの費用はかなり高額であり,多額の援助・支援を受けているからこそ実施
可能な部分もあるだろうと考える。なおベッテルハイムの思想や活動については後年厳しい批判がなされ,現
在ではもっぱら懐疑的に受け止められている部分も多いと思われるのだが,この点について訪問時に記憶が曖
昧だったこともあり,議論することができなかった。隣には学習障害に特化した施設もあり,米国でも先進的
な取り組みを目の当たりにすることができ,有意義であった。
シカゴ大学のフィールドワークでは,ノースイースタン・イリノイ大学の Ayman-Nolley 教授から大学の各
建造物の歴史や由来などについての説明をいただいた。広大な敷地内に歴史を感じさせる建物が随所にあり,
一つひとつをじっくり眺めようとするととても時間が足りないほどであった。(川島大輔)
その3:異文化において自文化・歴史・伝統に触れる
(家島明彦)
午
前は,高齢者施設「平和テラス」を訪問した。ダウンタウンのホテルから車で 10 分ほど北に走ると,
平和テラスに到着した。
まず 1 階の共用スペース(図書室,作業室,食堂,医務室,理髪室,運動室など)を案内していただいた。
30
もともとはシカゴの日系団体によって設立されたそうだが,今では日系人以外の居住者も増えてきているとい
うことで,施設内の壁には「お知らせ」が日本語・韓国語・中国語など多言語で掲示されていた。施設内には
日本的な写真や絵画が多く飾られており,多国籍化しつつある高齢者施設とは言え,日本的な雰囲気を感じ取
ることができた。障子風の扉などもあったが,同時に,中国や韓国の置物や装飾物もあったような気がする。
いずれにせよ,建物内にはアジアの雰囲気が漂っていた。
次にエレベーターで居住フロアにあがり,実際の部屋の中を見せていただいた。廊下は絨毯が敷いてあり,
両サイドに扉が並ぶ光景は,まるでホテルのようであった。しかし部屋は日本のホテルのような狭さを感じさ
せないつくりであった。2 部屋に台所・バス・トイレがついており,高齢者が一人で暮らすには丁度よい広さ
であると居住者の方もおっしゃっていた。たまたま見せていただいた方の部屋の内装が素敵だったからかもし
れないが,コンパクトにまとまっており,このような部屋になら老後に一人で住みたいなとも思った。
また,エレベーターの扉が開くと階ごとに異なる写真と壁の色が出迎えてくれるといった工夫も随所になさ
れていた。NEIU の高橋准教授が平和テラスの理事でもあるため,現地担当者の説明に加えて様々な裏話・苦
労話も聴くことができた。平和テラスのアピールポイントの1つでもあるという日本庭園についても見せてい
ただいたが,花見用の桜があったり石燈籠があったり,シカゴにおいて独特な空間が創り出されていた。石燈
籠のせいなのか,植物のせいなのか,背景に広がる高層ビルのせいなのか,原因はよく分からないが,日本庭
園については若干の違和感を覚えた。純日本というよりは,アジア的なもの,海外の空気を含んだものを感じ
たのである。悪い意味ではない。純日本的なものがそこにあるというより,アジア各国やシカゴと融和した日
本庭園の空気がそこにあるというふうに感じた。日本の文化がその地でどのように根付き,融和しているのか
を瞬間的に(感覚的に)垣間見たような気がした。シカゴのダウンタウン南にあるという,大阪庭園という名
の日本庭園にも行ってみたいと思ったが,それは次回にとっておくことにした。説明してくれた関係者スタッ
フの方々,室内見学を許可してくださった U さん,平和テラスの理事でもある NEIU 高橋准教授に改めて感
謝の意を表したい。
午後は,青少年情緒障害施設「ソニア・シャンクマン・オーソジェニック・スクール」
(The Sonia Shankman
Orthogenic School)を訪問した。この施設は,ダウンタウンの南,ハイドパークと呼ばれるエリアに位置し
ており,シカゴ大学の附属施設である。パンフレットによれば,この施設は寮と治療と教育という 3 つのサー
ビスを提供している。美術のプログラムや全寮制ではない通学制のプログラムもある。また,“Orthogenic”
の意味については「健康的発達を通して成長する」
(to grow through healthy development)と説明がされて
いる。
まず和柄のネクタイを締めた親日のブルック・ウィテッド校長が歴史や概要について簡単に説明し,その後,
2 班に別れて施設内を見学した。防犯と脱走防止(?)のため個々の扉にはカギがついており,移動のたびに
いちいちカギで扉を開けていたのが印象に残った。また,基本的に寮生だけで私語をすることは禁止されてい
るということであった。プライベートがないようで,年頃の青少年にとっては随分と厳しいようにも感じたが,
スタッフは皆とても明るく,感じの良い人たちであったし,施設内も明るい雰囲気に満ちていた。もしかした
ら,明確なルールの存在はトレーニング目的であったり,それ自体が情緒の安定に関連していたりするのかも
しれないと後になって気づいた。1900 年代初頭に設立されてからずっと残っているものもあるようで,数十
年前の寮生が残した個人ロッカーの自作レリーフなど,現代の寮生にはハリーポッターを想起させるようで,
子どもたち自身も楽しんでいるということであった。壁面に寮生の作品や課題のリマインダーのような張り紙
31
が多数あったのが印象に残っている。
Adobe Creative Suite といったグラフィックデザイン系ソフトウェアの教育もおこなっているそうで,美術
品を出展したり T シャツを作ったりしているという話も聞いた。帰り際に,施設のパンフレットに加えて,オ
リジナルの文学マガジンと T シャツをプレゼントしていただいた。利用料も高額だが,その分,子ども一人あ
たりのスタッフ数が多いなど,手厚いサポートが用意されているようである。パンフレットには,75%が計画
通りに卒業していると書かれていた。日本で同様の施設をインターネットで検索してみたところ,「情緒障害
児施設」「情緒障害児短期治療施設」
「適応指導教室」「特別支援学校」などの言葉が見つかったが,正直なと
ころ,どの言葉が“Orthogenic School”の訳語として相応しいのか,一番実態として近いのか,判断に迷っ
ている。今後も検討を重ねていきたい。
オーソジェニック・スクールの見学後,同じ敷地内にあるシカゴ大学のキャンパスを NEIU のエイマン=
ノリー・サバ教授の案内のもと見学した。彼女はシカゴ大学の大学院出身で,現在もシカゴ大学の近くに住ん
でいるため,わざわざ案内役を買ってでてくれたのである。そのおかげでシカゴ大学の歴史的建造物や新しく
できたばかりの図書館内を見学することができた。途中立ち寄ったシカゴ大学のブックストアにおいても日本
のマンガが並んでいたのには驚かされた。シカゴ大学のキャンパスは伝統的な大学のイメージでアカデミック
な雰囲気に溢れていた。いつかシカゴ大学で在外研究ができるように頑張ろうと思った。(家島明彦)
その4:ケアに裏打ちされる文化的・理論的視座
(浦田
主
悠)
に 55 歳以上の低所得者のための施設である「Heiwa Terrace」は,科研メンバーの高橋正実先生他,
多数の日本人がボランティアとして関わっているという。屋内のロビーや通路には,日系人の歴史を描
いた絵画や居住者の作も含む美術作品が並べられ,外には手入れされた日本庭園もあり,清潔で機能的な印象
を受けた。また,ボランティアの活動によって,例えば,各階のテーマカラーが異なっており,区別が付きや
すくしているなど,高齢者でも暮らしやすい環境が整えられていることが伺えた。筆者は,知人を訪ねて日本
の同様の住宅もいくつか伺ったことがあるが,それらのどのアパートよりも整備されている印象を受けた。こ
のような好条件の施設であるため,空室が出ると先着順で募集するが,すぐに募集枠が埋まるということであ
った。
シカゴ大学では,ブルーノ・ベッテルハイムが創始したことで著名な Orthogenic School での施設の視察と
聴き取りを行った。ベッテルハイムといえば,「夜と霧」のヴィクトール・フランクルと同じくユダヤ人で収
容所体験をした心理学者として,筆者も以前から関心を持っていた。周知のように,彼は,現代では死後に明
らかになった学歴詐称や施設の子どもへの暴行疑惑といったスキャンダルから,
「自閉症の神話」を提唱した
という理論への徹底的な批判に至るまで,ことごとくネガティヴに取り上げられることが多い(e.g., Pollak,
1997; Sutton, 1995)。ついでに言えば,彼の人生をとりわけ批判的に論じた Pollak(1997)の「B 博士の創
造——ブルーノ・ベッテルハイム伝(The creation of Dr. B: A biography of Bruno Bettelheim)
」に寄せられた
ニューヨークタイムズの書評では,「ベッテルハイムは,過去を偽り,ほらをでっち上げ,戯言でそれを売り
さばいて,典型的なアメリカン・ドリームを書き直した」と評されているが,まさに生前は redemptive な人
32
生を歩んだ彼への評価が,とりわけその死後に再びマイナスに転じてしまった例としては,興味深いストーリ
ーなのかもしれない。
それはさておき,Orthogenic School は,そのように,
「悪名高き」ベッテルハイムの理論と実践を引き継ぎ
ながら現在も独特な施設運営を行っているわけであるが,施設関係者の説明からは,(様々な批判や議論があ
ったことを認めるという留保付きではあったが)ベッテルハイムの理論を受け継いで実践を行っていることへ
の確かな自負が感じられた。また,全寮制ながら,食堂などは家庭と同じ雰囲気を作ることに力が注がれてお
り,子どもより多くのスタッフがおり,情緒的な問題を持った子どもへの手厚いケアがなされていることがう
かがわれた。ちなみに,実際の Orthogenic School でのベッテルハイムは,世間で騒がれてきたような,児童
虐待者,剽窃者,詐欺師という評価はそぐわず,誰にでも尊厳を持って接し,子ども達をとても大切にしてい
た(Jacobsen, 2000),という世間の酷評とは逆の証言も付け加えておかなければならない。
施設内の庭園には,
「悪い母親の像」
(正確な名称は定かではない)と
いうものがあり,その像に対し,入所中の子どもが,自分の母親に見立
てて,怒りなどの感情をぶつけたりするという説明があった(右写真)。
そのような役割のためか,像の一部にひびや欠けが見られた。これもベ
ッテルハイムのいわゆる「冷蔵庫のマザー(refrigerator mother)」を
具現化したものであろうか。勿論,このような母親像が当時の自閉症の
子どもを持つ母親を苦しめたことは確かであろうし,自らのネガティヴ
な感情をそのまま表現し吐露することが,心理的適応につながるのかについては,現在でも様々な見方があり,
微妙な問題であると思われるが,ケアに裏打ちされる学問的視座のあり方を改めて考えさせられた。(浦田
悠)
その5:文化が根付く施設をたずね歩く
(黒田真由美)
高
齢者施設「Heiwa Terrace」では,日系 2 世の Inouye さんにご案内いただいた。もともと日本人の施
設であったが,政府の資金の投入によって,日本人以外も住むようになった。所得に応じて補助金が変
わるため,厳しいチェックがあるらしい。さらに,入居に際して人種差別にならないよう公平を期すため,公
示を出して先着順で決まっている。現在はアフリカ系アメリカ人が多く,日本人,韓国人,中国人など,多様
な人が住んでいる。日本人がもともと運営していた施設であり,行き届いていて快適であるため,入居希望者
は多いらしい。また,ちょうちんが飾られていたり,和風のパッチワークが飾ってあったり,日本文化が色濃
く残っていた。また日本庭園もあり,庭師の方が少しのお金で手入れしているそうで,整っていた。
居住者に向けた活動が用意されており,パソコンや,ビデオを見てする運動が行われていた。居住者は日本
人だけではなく多岐にわたるので,複数の言語で案内がなされていた。ただ,このような活動は,以前よりも
居住者の平均年齢が下がったため,自分で活動する人も多く,減少傾向にあるそうだ。
フロアによって壁の色が変えられ,高齢者が認識しやすいようにされていた。ここに住んでいらっしゃる方
のお部屋を見せていいただいた。居住スペースも点検に入るよう決められており,居住者にとって快適な空間
が用意されていた。部屋はリビングとベッドルームがあり,ミニキッチン,バスルームも完備されていた。以
33
前は 9 部屋もあるおうちに住んでいらしたが,処分してこちらに来られたとのことであった。年をとると小さ
いほうが住みやすいとのことであった。窓際には観葉植物をおき,茶道の道具があったり,大きな置時計があ
ったりと,コンパクトにまとまった居心地のよさそうな部屋であった。低所得者層用とのことであったが,整
然としていて,快適そうな印象をもった。
青少年情緒障害施設(Orthogenic School)は,家庭的な雰囲気を重視していることが印象的であった。食
事をとる習慣であったり,壁を明るく装飾していたりと工夫がなされていた。寮は,一部屋に複数の机とベッ
ドがおかれ,個人のスペースとされているようだったが,特に仕切り等は設けられておらず,共用の大きな机
もおかれオープンな雰囲気だった。学校と生活空間の間には空間が設けてあり,そこにロッカーが設置されて
いた。日本の学校ではロッカーに鍵をかけないのは普通であるが,アメリカでは異例であるとのことだった。
学校では,教科教育を行うだけではなく,T シャツの作成等の活動が導入され,個人で良い作品を作ることよ
りも,協同することが重視されているのが印象的だった。施設は子どもが通るところは明るく装飾されている
一方で,鍵がかけられている箇所が多くあり,鍵を開けてドアを通るたびに子どもに与えている自由と子ども
への束縛という二つの側面が意識された。ただ,子どもへの配慮は手厚くなされており,人員という面でも金
銭的な面でも非常に恵まれていた。日本にも情緒障害施設はあるがここまでの手厚さはないように思う。この
ような特殊な施設を見学することができ,非常に貴重な経験であった。
シカゴ大学は Ayman-Nolley 教授にご案内いただいた。複数の充実した図書館が整備されており,学ぶ環境
が整っているのが印象に残った。また,敷地内には,趣のある建物があったり,学長のポートレイトが飾られ
ている部屋があったりと,そこで積み上げられてきたものが様々な点に感じられた。案内していただいた所だ
けでも非常に広く,またその中に興味深い物が多々あり,いつかじっくり見学したいと思った。
(黒田真由美)
その6:ふたつの施設を訪問して
(西山直子)
も
ともとは日系アメリカ人のために創られたという高齢者施設(平和テラス)は,内装や庭園など至ると
ころに日本的な香りが漂っていた。お茶を飲んだりおしゃべりをしたりしてくつろぐホール,日本・韓
国・中国・アメリカ各国の雑誌や新聞・書籍が置かれた図書室,オーディオ資料を視聴できるお部屋,やさし
いヨガなどのエクササイズを行えるトレーニングルームなどを見せてもらった。また,実際に入居しておられ
る方の一室にもお邪魔した。台所・居間・寝室・風呂場で構成される部屋は,こぢんまりとはしているものの
高齢者の方が一人で生活するには十分な設備と広さで,写真を飾ったり装飾を施したりしてインテリアを楽し
み,快適に生活されているご様子がうかがえた。ただし,ここは自立して生活できる人のための施設で,病気
や老衰により他者の援助が必要になった際には,別のところに移らなければいけないというお話であった。そ
うした場合に他にどのような施設があるのか,どのようなサポート体制が敷かれているのか,もっと詳しく知
りたいと思った。
シカゴ大学構内にある青少年情緒障害施設(Orthogenic School)を見学して印象に残ったのは,鍵の多さ
と職員数の多さ,そして厳格な管理体制であった。まず,鍵の多さに関しては,全寮制であるため食堂や寝室
などの居住空間と教室や図書室などの学習空間を明確に区別する目的があるのだと推察される。職員数の多さ
34
に関しては,子ども 60 人に対して職員 120 人という充実した人員数を誇る。驚いたのは,プライバシーのほ
とんどない管理体制の厳しさである。案内してくださった女の方の話では,子ども同士が個人的に言葉を交わ
すことは禁止されていて,常にスタッフがそばにいて子どもたちだけになることはないそうである。就寝時も,
交代で常にスタッフが寝室にいて子どもたちを見守っている。手厚い保護管理体制と言えばそうなのだが,同
世代の仲間と他愛ない会話を楽しむこともなく,友達ともならず,今後社会に出たときに適切な人間関係を結
べるようになるのだろうかと少し危惧してしまった。
(西山直子)
その7:シカゴの施設のフィールドワークから自国の文化を振り返る
(高橋菜穂子)
高
齢者施設である平和テラスは,日本庭園を備えた美しい施設で,館内も,日本画や折鶴が飾られ,整然
として落ち着いた雰囲気であった。玄関の横のロビーのような場所には,手芸や体操などのさまざまな
プログラムの案内が掲示してあり,これらの案内や施設内の掲示は,日本語,韓国語,中国語に翻訳されてい
た。1階には英語,日本,韓国,中国のビデオテープがそろえられたビデオ室や,それぞれの国の雑誌や書籍
が並べられた読書室などがあり,多彩なルーツをもつ入居者への配慮がなされていた。また広々とした食堂や
エクササイズのための広い部屋があり,見学中にも入居者の方が数名 DVD を見ながらエクササイズに取り組
まれていた。実際エクササイズなどのプログラムに参加する方は少ないということだったが,共同スペースで
このようなプログラムが行われており,いつでも気軽に参加できるということが,入居者にとって,人とのつ
ながりを感じるうえで重要なのではないかと感じた。ここでは実際の入所しておられる方のお部屋も見学する
ことが出来た。小物やインテリアにも趣向が凝らされたお部屋であり,入居者の個性や趣味が存分に反映され
ていた。また,各階ごとに壁の色が塗り分けられており,エレベーターを降りる際,お年寄りが自分の部屋の
階を間違えてしまわないための工夫がなされていた。このように,共同スペースにおける工夫やコミュニティ
としての配慮と,それぞれの入居者の個性や希望,自由を尊重する柔軟さが非常にうまく両立されているよう
に感じた。
見学前,私はこの施設を,非行少年の適応指導を行う更生施設と想像していた。しかし,実際は日本の情緒
障害児短期治療施設に近い形態で,発達障害や学習障害を抱えた子どもに構造化したプログラムを提供し,そ
の症状の改善を目指す施設だった。ここでは発達障害をもつ子どもへの体系化された療育プログラムが紹介さ
れており,このような最新の実践から学ぶことは非常に多かった。
何よりも驚いたのは,職員の多さである。この施設では,子ども 60 人に対して,職員が 120 人いるという。
実際は調理職員や事務職員を含んでいるため,直接的に子どものケアにあたっている職員がどれくらいいるの
かは分からないが,日本の場合,児童養護施設では学童期の子どもの場合,職員 1 人につき 6 人ほどの子ども
を担当していることが多く,日本の入所施設とくらべると,子どもへのケアの手厚さに圧倒的な差があると思
われる。また,24 時間の子どものスケジュールはすべて構造化されており,毎日同じスケジュールをこなす
そうである。毎日同じスケジュールをこなすことは,子どもの生活を安定させるためには重要だと思われるが,
一方で自由を奪ってしまうことにもなりかねないだろう。この点について質問したところ,施設を案内してく
ださった職員の方は,構造化されたスケジュールであることが重要だと強調されていた。さらに,24 時間ケ
35
アワーカーが子どもを見守っており,寝るときも付き添っているそうである。実際の子どもの生活を見学する
ことはできなかったため,どのようなものなのかイメージがつかみにくいが,プライバシーが守られているの
か,子どもはそのような生活をどうとらえているのかなど,もっと知りたいと思った。毎日決まったスケジュ
ールをこなすことや,居住スペースと教育機関が密接につながっている教育的な雰囲気に抵抗を感じる子ども
も多いだろう。情緒的な問題や,発達障害を抱える子どもが多く入所しているだけに,子ども同士のトラブル
や暴力,子どものパニック症状などにどのように対応されているのかが気になり,質問したところ,職員が常
に子どもを見守っており,即座に対応できるそうである。しかし,職員が子どもの監視役のような役割になっ
てしまうと,子どもと職員が家庭的なかかわりを維持することは難しくなるだろう。本施設では,子どもと職
員の関係は家庭的であるということを強調していたが,実際の子どもとのかかわりのなかでどのように家庭的
な暖かいかかわりを維持しているのだろうか。職員のチームワークで,役割分担がなされているのだろうか。
また,今回見学した施設は,家庭的であることを重視しながらも,60 人近くの子どもを大規模型の施設で
見守るという,日本の大舎制に近い施設形態をとっていた。職員は子どもとともに施設に居住するのではなく,
三パターンのシフト制をとっているそうで,おそらく日本の施設の三勤交代制と似たような形態であると思わ
れる。日本の入所施設で「家庭的」な面を強調する形態というと,グループホームのような小規模な入所施設
や,夫婦小舎制のように,一夫婦が指導員として少人数の子どもにかかわる形態を指すことが多い。大舎制の
施設は,家庭的でないことや,子どもへの細やかなケアが難しいことなどから現在多くの批判にさらされ,小
規模施設への移行が推進されている。日本の大舎制施設が長く批判されているように,このような大規模な施
設で子どもにどれだけ家庭的な場を提供できるのかについては,おそらく本施設に対しても批判があるのでは
ないかと思われる。特に,今回見学した施設は,居住空間と子ども達が通う学校が地続きで,施設のスペース
としてはそこまで広くはなかったと思われる。このような空間で,60 人の子どもと,その倍の人数の職員が
ともに生活することは,息苦しさや閉鎖的な雰囲気にもつながりかねないだろう。そのあたりについて,本施
設の工夫等をもっと議論が出来ればよかったと反省している。(高橋菜穂子)
その8:シカゴの歴史と文化を巡って
(竹内一真)
フ
ィールドワークでは最初に高齢者の住居施設の平和テラス(Heiwa Terrace Chicago)へと向かった。
平和テラスでは政府の援助を受けて極めて安価な値段で低所得の高齢者に対して食事や住居を提供
している施設である。平和テラスは当初,日本人向けに作られたようであったが,その後,財政的に厳しくな
ったようで,政府の支援を受けるようになる。その結果,日本人だけでなく,韓国人や中国人などが入ってき
た。このような結果,現在の平和テラスは日本庭園があったりするなど日本的である一方で,シカゴに住む多
くのアジアの高齢者を受け入れている施設なっている。中を案内して下さったのは日系二世(三世?)のイノ
ウエさんとおっしゃる方で,きめ細やかに各施設を紹介して下さった。施設は全体的に非常にきれいで掃除が
行き届いていることを感じさせた。ところどころに,掛け軸があったり,折り紙があったり,三木前首相の書
が飾られていたりと日本的な雰囲気がある一方で,図書室には韓国語の本や雑誌,ビデオなどがあったり,案
内やスケジュールなどが韓国語,中国語のものがあったりするなどしており,極めて多国籍の住人がいること
をうかがわせるものであった。また,実際に住まわれている方もとてもフレンドリーでこちらがあいさつをす
36
るとその挨拶に笑顔で応じてくださっていた。
特に興味深かったのが,居住者のお住まいを実際に拝見させていただけたことが挙げられよう。お部屋はと
ても片付いていた。また,部屋に入って向かいのダイニングルームには大きな机が一つあり,その机には読み
かけの本が置いてあったり,周囲には舞妓の人形が置いてあったり,日本の絵が飾ってあったりと日本を感じ
させるものがあちらこちらにおいてあった。それほど大きな部屋ではなかったが,本人の話ではむしろこれく
らいの方が住みやすくて良いとのことであった。このお宅を見せていただいた居住者のような部屋をはじめ,
障害者用の部屋があったりと各自ニーズに合った,また,各自の独立性がとても高い施設であると感じさせる
ものとなっていた。
最後に案内していただいたイノウエさんとそのほかの職員の方々とお話をする機会があったが,現在のボラ
ンティアの人数についてであったり,どのようなアクティビティがおこなわれているのかということなど関し
て詳細に答えてくださった。
シカゴ大学はシカゴでも南の方に位置しており,南の地区でも際立って美しい建物が立ち並ぶ建物があると
ころにある。情緒障害施設(Orthogenic School)につくと,最初に施設がどのようなところであるのか,あ
るいはどのような経緯で施設が設置されてきたのかということが説明された。特に重要なポイントとして,情
緒障害施設では感情的にサポートが必要な生徒に対して居住をともにすることで改善に当たるという点,そし
て,もうひとつが,アカデミックな知見に基づき治療環境を整えるという点にあるという説明があった。実際
にどのようにしてこの情緒障害施設が運営されているのかは,百聞は一見にしかずということで実際に見てい
こうということになった。
見学では二つのグループに分かれて内部の各施設について説明が行われた。個々の施設は家族というものが
とても強く意識されたものであった。例えば,食堂ではグループごとに食事が行えるように工夫されており,
さらに,壁画は以前いた学生や教師によって書かれたものであるという。さらに,食事の時に出される皿など
の調度品もきれいに整ったものが出されているとのことであった。この点について,案内をしてくださった方
がいうには,以前はプラスティックものを使っていたとのことであったが,より家庭に近い状況を作り出すと
いう方針のもの,プラスティックではなく,きちんとしたガラス製の立派な皿などを使うようになったとのこ
とであった。また,地下にある食堂から上に上がる際の会談にも見事な装飾が施されており,話によると,あ
る先生が何年もかけて壁に様々な絵を書いていったとのことであった。このほかにも食堂や住居スペースをつ
なぐ間には遊び場的な広場があったり,個人用のロッカーが置いてあったりするなど非常に整備されている感
じが出ていた。
教室側の棟では最初に学生が英語や算数などを勉強する教室に案内された。教室にはプロジェクターが設置
されていて,そこから,パソコンの映像が出力できるように工夫はされていたが,それほど,他の施設と大き
く変わるようなところはなかった。特に驚かされたのは絵を書いたりする作業場であった。非常に広いスペー
スが確保されており,協働で作業ができるように様々な工夫がされていた。一つ一つの机は非常に広くとられ
ており,そこでグループで作業ができるように作られていた。また,授業もグループ単位で行われるとのこと
であった。周囲には絵具など作業をするための様々な機材が置かれているばかりでなく,T シャツを作るため
のプリンタなども置いてあった。年に一回,自作した T シャツの販売も行っており,その T シャツのデザイ
ンを何にするかのコンテストも開いているとのことであった。このあと,カウンセリングルームにも案内して
いただいたが,非常に開放的でピアノなどもあるきれいな部屋になっていた。外には中庭のようなものがあり,
37
そこで,学生と話したりすることがあるとのことであった。
最後に訪れたのが,ベッドスペースで,男の子の部屋と女の子に分かれてそれぞれ生徒が入っていた。部屋
には色が塗られていて,生徒の話し合いのもと,色がきめられたのだという。個々のベッドスペースはそれほ
ど広くはなく,敷居もあるわけではない。また,年齢層も下は小学高低学年からうえは高校生になるくらいの
子どもがいるが,部屋は非常にわきあいあいとしており,明るい雰囲気であった。男の部屋も女の子の部屋も
どちらもともに孤立している子どもはおらず,みなが一つのテーブルに集まり話し合っている姿はとても印象
的であった。
(竹内一真)
参加者 8 人の見た景色を重ねる
写真によるヴィジュアルな報告書
平和テラス
シカゴ大学
Orthogenic School
38
39
4.その他,全体の感想
リ フ レ ク シ ョ ン
参加者の省察的感想
参加者 8 人の声を重ねる
ズレのある多声的語りによる報告書
その1:多声がひびく饗宴(シンポジウム)の渦
(やまだようこ)
多
くの関係者のおかげで,シカゴ・プロジェクトを成功のうちに終えることができた。ノースウエスタン
大学のライフストーリーに関する国際コロキアムと,ノースイースタン・イリノイ大学での国際シンポ
ジウムは,テーマや方法論や内容において関連性が深い興味深い発表が重なり,感激の連続であった。また,
両方の大学から,私たちの想像を超える大歓迎を受けた。シカゴ高齢者施設の平和テラス,シカゴ大学の青少
年情緒障害者施設のフィールドワークも含めて,ほかでは得難い,この科研企画だからこそ可能になった,充
実したプロジェクトになった。
メンバーが積み重ねてきた友好のむすびつきが,いろいろな局面で,活性化して,スムーズに運んだと思う。
今回の参加者は,年長者が少なく若い研究者や院生がおもな構成員だったので,私は正直なところ,出発まで
かなり不安であった。しかし,現地で若いメンバーが自覚をもって,たくましく成長していくのを見て,大変
うれしかった。
ウィーン,ロンドン,ハノイと重ねてきて,今回のシカゴがこの科研の最後のプロジェクトになる。どれも
手づくりの企画で,準備やうち合わせなど苦労も多かったが,それだけに得た実りも大きいものであった。
現地に行かなければわからないことがあり,その場所(トポス)
,そのテーマ(トポス)でなければ,生まれ
ない対話や国際交流がある。毎年,異なる場所に出かけて,そこで毎回異なるテーマでシンポジウムを開催す
るという,例のない新しい企画の科研プロジェクトを重ねてきた。
シンポジウムは,文字通り異文化と異領域の多声が響く「饗宴」になった。ここで得た記憶は,これからも
さまざまな局面で,参加者の胸のなかで幾重もの「鐘の音」のように繰り返し鳴り響くだろう。また,そこか
ら波紋が広がる「一滴の水」になったり,新しい芽が生まれる「一粒の種」になったり,いろいろな形に変形
しながら「生成の渦」をつくっていくだろう。
(やまだようこ)
その2:シカゴ・プロジェクトに参画して
40
(川島大輔)
回は 4 日間と短い日程の中でのシカゴ訪問であったが,ライフストーリーに関する国際コロキアム,生
今
涯発達心理学に関する国際シンポジウム,高齢者施設と青少年情緒障害施設のフィールドワークのいず
れにおいても,予想以上に得るものが大きかった今回のプロジェクトであった。とくに生涯発達心理学に関す
る国際シンポジウムでは,一人の発表に対する議論の時間にゆとりがあったこともあってか,双方向のやりと
りの中で新しい発見をえることもできた。他方で,自分のプレゼンテーションや議論については,多くの改善
すべき点が見いだされた。今後の課題としたい。また既述のとおり,ライフストーリーに関する国際コロキア
ムでは日本側,語りを分析する方法論についてはあまり議論の対象とはならなかった。今後,継続する企画を
展開できれば一層深みのある議論が期待できる。(川島大輔)
その3:多文化横断的フィールドワークの重要性
(家島明彦)
今
回のシカゴ・プロジェクトには企画者の一人として参画し,長期に渡って準備を進めてきた。その過程
で実に多くのことを学ばせていただいた。今回のシカゴ・プロジェクト全体を通して改めて感じたこと
のひとつは,
「多文化横断的であること」の重要性である。シカゴは移民の街でもあり,多様な人種構成で多
様な文化が混在している。国際コロキアム,国際シンポジウムの参加者も多文化横断的であった。今回の議論
が盛り上がったのも,様々な視点から意見が出されたからであり,その背景には多様な文化・エスニシティが
あったように思われる。十人十色とは言いながら,我々は国や文化の慣習に少なからぬ影響を受けているため,
知らず知らずのうちに“日本的”な考え方をしてしまっているのかもしれない。それは「強み」にもなるし,
「弱み」にもなる。日本の中で議論するときよりも日本の外に飛び出して議論したときのほうが改めて自分の
研究の特徴が見えるということを再認識することができた。常に自らの研究を多文化横断的に検討することは
難しいかもしれないが,折にふれて多文化横断的に省察していきたいと感じた。現在,
「キャリア・ドリフト」
という考え方があるが,これは簡単に言ってしまうと,常に振り返るのは難しいので節目だけ注意して後は流
れに身をまかせる(計画を立て過ぎず,やりたいことだけを明確にした上で,漂流(ドリフト)しながら実力
を蓄積しておき,来たチャンスをしっかりと捕まえる)という考え方である。自らの研究においても,普段は
やりたいことを明確にして掘り進め,節目ごとに多文化横断的な視点で確認していきたいと思う。
もうひとつ,今回のシカゴ・プロジェクト全体を通して改めて感じたことがある。それは「縁・絆」である。
2007 年 11 月から 2008 年 2 月末までの 3 ヶ月半をノースイースタン・イリノイ大学(NEIU)で過ごし,そ
の間にノースウェスタン大学(NU)を訪れていた縁が,数年後にこのような形で実を結ぶとは思ってもいな
かった。これは,縁を大事にして絆を育ててきた成果だと思う。実際,NEIU の高橋正実准教授や NU のダン・
マクアダムス教授など,多くの現地協力者のおかげで,今回のシカゴ・プロジェクトは実現し,内容も非常に
充実したものとなった。このような縁と絆を多文化横断的に拡充していくことが,研究の質を高め,研究者と
しての自分を豊かにしていくことにつながるように感じた。これまでの縁を大事にするとともに,今回新たに
得た絆を大切に育み,将来へと活かしていきたい。
シカゴは今回で 7 回目となるが,まだまだ街も大学も充分にフィールドワークしきれていないことを改めて
41
痛感した。今後もシカゴを拠点として国際研究・交流を深めていきたい。
(家島明彦)
その4:フィールドに身を置いて体感(痛感)したこと
(浦田
悠)
筆
者は今回のシカゴ・プロジェクトが,本科研での国際プロジェクトへの初参加となった。4 日間に亘る
スケジュールはタイトであったが,今後の反省や課題も含め,実り多いものとなった。
反省すべき点,今後の課題となった点は多いが,英語でのコミュニケーションの難しさを改めて痛感したこ
とが,今回の最大の反省点であった。これまで参加してきた国際学会での発表と異なり,研究分野の点でも発
表形式の点でも,研究者との距離が近く,より詳細な議論ができる反面,ニュアンスを英語でしっかりと伝え
ることが難しかった。シンポジウムやコロキアムの後には,個人的に先方の研究者と議論することはできたが,
リアルタイムでの意見交換の難しさを改めて感じた。研究者として語学力を身につけることは必須なので,今
後このような機会も活かしつつ,国際的なコミュニケーション力を磨きたいと切に思った次第である。
しかしながら,今回の研究者との交流やフィールドワークを通して,実際に現場(フィールド)に身を置く
によって,改めて見えてくるものがあり,またその経験を元にこれまで知っているつもりでいた理論や知見を
見直す機会が生まれ,さらにそれが新たなものの見方を獲得することにつながるということも少しながら体感
することができた。たとえば,Orthogenic School のフィールドワークでも,実際にその場に行くことで,改
めてベッテルハイムに対して持っていた(悪評に基づく)イメージを見直すことができ,その理論的背景や歴
史的状況も含めてとらえ直すきっかけになった。また,すでによく親しんでいるつもりでいた日本側の先生方
の発表についても,改めてそのオリジナリティやインパクトを感じることができ,これまでの理解をさらに深
めることができた。今後の研究では,本プロジェクトで得られた知識を活かすのみならず,積極的に多声的な
現場に身を置く姿勢も磨いていきたい。
(浦田 悠)
その5:シカゴ・プロジェクトで学んだこと
(黒田真由美)
シ
カゴで過ごした日々は実質 4 日であったが,コロキアム,フィールドワーク,シンポジウムと,毎日
が非常に充実しており,あっという間にすぎていった。コロキアムでは,語義を基に redemptive story
を理解していたので,宗教的な意味に限定されず多様な意味を持つ概念として McAdams 教授が用いていると
知ったことは収穫であった。また,フィールドワークでは興味深い施設を見学でき,日本との違いについてさ
らに考えてみたいと思った。シンポジウムでは,アメリカと日本の社会的背景とそれが研究に与える影響の違
いを様々な面で感じた。知識として知っている文化差を,フィールドワークや議論を通して実感し,理解を深
められたのは貴重な経験であった。非常に意義深い議論が行われ,密度の濃い時間であった。今回のプロジェ
クトで学んだことについてさらに理解を深めるとともに,英語で議論する力を養うことを今後の課題としたい。
(黒田真由美)
42
その6:シカゴ・プロジェクトを通して深まった絆
(西山直子)
ノ
ースウェスタン大学でも,シカゴ大学でも,McAdams 先生や Saba Ayman-Nolley 先生は,自ら足を
運んで広大なキャンパスを案内してくれた。学部棟,研究棟,図書館,文書館,博物館,教会など様々
な施設・建物があり,とてもすべてを見て回ることはできなかった。自分が勤務している大学,あるいは学生
時代を過ごした母校に対する深い思い入れと愛着があるのを感じた。果たして自分が案内役となったときに,
自分が所属する大学の歴史や経緯や最近の動向なども踏まえて,他者に説明し魅力をアピールすることができ
るだろうか。外の世界に飛び出し新しいものに触れたときに振り返るのはいつも我が身である。
今回,特に感じたのは,人との交流の大切さ,ネットワークづくりの大切さであった。家島さんがシカゴに
留学されている間に,高橋先生や McAdams 先生やご友人の方々と信頼関係を築き,親交を保ち,ネットワー
クを広げておられたことが,今回のシカゴ・プロジェクトの企画・実施につながったように思う。プロジェク
ト中にも,積極的に話しかけ,交流を持とうとする姿勢は,私たちのお手本にもなった。私も,ここで生まれ
た出会いや人間関係をこれからも大切にし,交流を続けていければと願っている。
また,私にとって,今回の参加メンバーは学部時代からお世話になっている先輩方といま大学院で共に学ぶ
仲間たちで,とても居心地のいいものであった。ひとりひとりがプロジェクトの成功のために準備・企画段階
から主体的に行動してきたし,話し合い協力して取り組むことで絆も深まったように思う。プロジェクトの円
滑な実施や成功に,私も少しでも貢献できていたなら,このうえない喜びである。(西山直子)
その7:シカゴ・プロジェクトを通して
(高橋菜穂子)
ノ
ースウェスタン大学,ノースイースタン・イリノイ大学でのコロキアムとシンポジウムは,参加する
前は自分の英語力の乏しさから不安を感じていたが,実際に参加してみると,英語ですべてを聞き取
ることは難しくても,研究の問題意識や方法論について,関心事は驚くほど共通しており,多くのことを学ぶ
ことが出来た。また,こちらが完成された英語で話すことはできなくても,鍵となる単語や研究にかかわるタ
ームを通して焦点化した議論が出来たということも,大きな収穫である。国や文化を超えて,ライフストーリ
ーや生涯発達心理学についてさまざまな議論が出来たことは何よりの喜びであった。
コロキアムとシンポジウムでは,特に Klevan 氏の発表と Poveda 教授の発表から,自身の研究にもさまざ
まな示唆を得た。両氏の発表から,改めて「家族」という関係を見直し,自身が研究している社会的養護,特
に児童養護施設の子どもと職員の関係性について考えることが出来たからである。里親や養子縁組について人
がどのように語るのか。またそのような出来事について,どのようにライフストーリーを再構成するのか。さ
らに,多様な家族関係の中で,子どもは家族をどのように語るのか。これらの報告は,文化や研究手法を超え
てむすびつくものであった。
フィールドワークでは,自身の研究領域に近い,Orthogenic school を見学できたことが一番の収穫であ
る。生活の中で治療的なケアを行う環境療法的アプローチは,早くからアメリカの実践報告のなかで紹介され
43
てきた。心理療法や療育といった治療的なかかわりを,生活空間と切り離された中で行うのではなく,子ども
の生活に根差した中で行っていくという視点からは学ぶことが多く,日本の実践への示唆も多いだろう。児童
養護施設,児童自立支援施設,情緒障害児短期治療施設など,日本の関連施設の実践との比較も今後行ってみ
たい。
(高橋菜穂子)
その8:シカゴ・プロジェクトで感じたこと
(竹内一真)
今
回の「多文化横断ナラティヴ・フィールドワークによる臨床支援と対話教育法の開発」におけるシカゴ・
プロジェクトでは短い期間ながら,非常に中身の濃いものとなった。個人的に,特に印象に残っている
のが,ノースウェスタン大学でのマクアダムス先生や院生らの発表であった。シカゴに訪問するまでに京都大
学の院生らとともに「Redemptive Self」に関する読書会を開催したが,その際に感じたのは「マクアダムス
先生はアメリカ人特有の generativity の語り方に興味があり,もしそうであれば,日本人の generativity の
語り方というのはアメリカ人の語り方を相対化する意味でとても面白いものとなるのではないか」というもの
であった。その後,日本人はどのような generativity の語り方をするのかということに関して自分自身のフィ
ールドである京舞篠塚流の師匠とインタビューなどを重ねていた。しかし,シカゴに来て,実際にマクアダム
ス先生やその院生と話してみると,彼らの研究はアメリカ人特有の generativity をより深く見ているというよ
り,generativity と人間の性格や気質などとの関連をより深く見ており,そのための一里塚として Redemptive
Self というものを明らかにしなければならなかったのだろうということを感じることができた。
また,フィールドワークではシカゴ大学の青少年情緒障害施設が最も印象に強く残っている。私の勝手なイ
メージでシカゴ大学ではどちらかといえば,理論的な研究を主としおり,実践面に関してはそれほど行われて
いないのかなと思っていた。しかし,今回の青少年情緒障害施設訪問は私の持っていた先のイメージとは抜本
的に異なるものであった。むしろ,理論と実践を丁寧に結び,それを教育につなげていこうとする意気込みや
子どもたちのために何ができるのかという研究者としての真摯なひたむきさを感じることができ,改めて,自
分の研究者としての未熟さを痛感させられた。
(竹内一真)
44
(別紙資料)
国際コロキアムのプログラム(当日配布資料)
国際シンポジウムのプログラム(当日配布資料)
Fly UP