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第15回

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第15回
第15回
平成 25 年2月 19 日
作 品 解 説
浪曲『父帰る』 原作 菊地 寛
●三代天光軒満月(てんこうけん・まんげつ)
初代は佐賀県生まれ。吉川家小円の浪花節を聴いて、13歳で弟子入り。17歳で上阪、
天満国光席の支配人に認められ天光軒満月となった。「常陸丸」、
「乃木将軍」、「父帰る」な
どを得意にした。昭和11年没。本名西依幾蔵。
「父帰る」は、歴代の満月が得意の読み物で、その新派悲劇調の名調子は浪花節ファン
の心を捕らえて放さない。このテープは三代満月のもので、現代人の鑑賞に十分に耐える
ものであると思う。
物語は、わが妻を捨て、わが子を捨て、20余年の春秋を浮世の旅にさすらいし後、寄
る年波に肉は衰え骨は痩せ、わが故郷が懐かしく、帰り来ました昨日今日、軒の下から我
が家の様子を伺う父。果たして、妻は子供たちは、この父親を許すのか。文豪菊地寛が世
に問うた問題作。
浪曲『青竜刀権次』
●初代相模太郎(さがみ・たろう)
本名小森武治、明治31年東京生まれ。金物屋の息子だったが、近くの寄席の下足番の
世話で17歳の時、東家小楽燕の弟子になった。大正7年小楽燕門を飛び出し、東家愛楽
門になる。
兵隊検査後人営、シベリア勤務後除隊、オフセットの職人になったが、浪花節がやめら
れず、再度愛楽に入門(昭和2年)
、愛雀から昭和5年二代愛楽になる。レコード会社が名
前を募集して、相模太郎となり、「灰神楽の三太郎」で大ヒット。「灰神楽道中記」、
「青竜
刀権次」、「南京松」、「子はかすがい」、「麦と兵隊」、「上海の街角」などを得意にした。昭
和47年、73歳で没。
この「青竜刀権次」は、講談の先代神田山陽も得意にしたもの。明治の御一新で、世の
中騒然としている時代。ニセ札を掴まされた岡引が牢屋に入れられ、出てくる度に、また
騙される。一方、ニセ札をくれた人物は明治政府の高官として出世して行く。二人を対比
させながら、明治の激動する世相を描く。
話芸の豆知識
『浪曲の外題付け』について
浪曲がまだよしず張りの開きや箱店を主な稼ぎ場とし、ようやく寄席に進出した明治十
年代。浪曲は<御人来>と呼ばれ、ほかの先進芸能から軽視されていた。これは、
御人来なる皆々様に
弁じ述べます演目の儀は
という決まり文句で語り始めたことに由来する。さらにこれが、
事の子細は存じませぬが
昔、作者の先生が
晴い行燈のその陰で
書いて残した筆の跡
中にゃ狸の毛も交じる
などとつづく。この外題付・表題付は浪曲の冒頭の節(多くは一遍の主旨を述べる)で、
マクラとも呼び、関西ではナラビとも称した。明治初期の外題付は、客の呼び寄せもあっ
たろう、卑俗な、時に卑猥な言辞を長々と語り、それから本題に入った。関東では比較的
短い。
それを<不弁>とのみ前置きし、ただちに本題の節に入ったのが明治末期の桃中軒雲右
衛門である。この雲右衛門と当時の浪界の人気を二分した二代吉田奈良丸の演題から、「義
士伝」の白眉ともいうべき「南部坂雪の別れ」の外題付を、それぞれ紹介する。
卸納戸羅紗の長合羽
爪掛なしたる高足駄
二段はじきの渋蛇の目
後に続くは大石の
ふところ刀寺西弥太夫
来たるは名代の南部坂。
鳥が噂く
吾妻の空は晴れやらで
雪は卍巴と降りしきり
流石に広き百敷の
花のお江戸の甍さへ
皆一様の銀世界
ここは赤坂南部坂。
左が雲右衛門で右が奈良丸である。明治当初の外題付に比べ、いかに格調高く洗練され
たものか分かろう。
唯 二郎「実録・浪曲史』より
覚えたい名セリフ・名文句
浪曲『青竜刀権次』外題付け(相模太郎)
手のつけられぬは 女である
始末の悪いは 女である
憎むべきは 女である
女はしんでも 仏にゃなれぬ
騒動の裏に 女が潜む
そう一様には 言われはすまい
医者も学者も政治家も
今宵おつめの皆様も
もとは 女の腹から出た
さすりゃ 女は尊いものよ
ああ ありがたいは 女であるってねえ
あとの崇りが 恐ろしい
背中に彫った入れ墨が
あの有名な青竜刀
女のために 身を持ち崩して
後になったら市ケ谷の
人の嫌がる監獄へ
初手が七年 二度目が五年と
十と二年の苦役する
権次 若き その日のしかじか話を
お粗末ながらも 時間まで
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